発達障害の「オフ会」に参加するなかで「障害者手帳」を意識するようになった冠地氏。取得するにあたって強い抵抗感や葛藤に苛(さいな)まれ、つらい思いをした経験を語ってくれたが、それにもかかわらず、なぜ申請に踏みきり今日に至るまで更新し続けているのか。青木聖久氏が当事者の本音に斬り込む特別記事をお贈りする。
【全8回の第6回】

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★対談者プロフィール★
青木聖久(あおき・きよひさ)
1965年生まれ。日本福祉大学教授、精神保健福祉士。ソーシャルワーカーとして精神科病院や小規模作業所(現・地域活動支援センター)で支援にあたった経験もある。
冠地情(かんち・じょう)
1972年生まれ。発達障害の当事者(精神障害者保健福祉手帳2級)であり、「イイトコサガシ」代表として全国各地でコミュニケーション力向上を目指すワークショップを行う
「ずっと私が息子に合わせなきゃいけないの?」
青木:冠地さんが手帳を取得したことで、いわば「生きづらさ」が可視化され、お母様に具体的に伝える手段ができた、という話をうかがいました。そしてその結果、お母様が「きつい」と感じるようになられた、とのことでした。ここでの「きつい」というのは、「受け入れる」ことが苦しいのだと理解していいでしょうか。
冠地:そうです。母からすると、「息子の言ってることはわかる。けど、全部受け入れられるわけでも、受け止められるわけでもない。それに、自分の言いたいことが言えない」という、そういう気持ちで、葛藤はものすごくあったみたいです。逆に言うと、手帳取得を機に、僕のつらかった部分が全部母に移動した感じです。
青木:なるほど。そのことをおうかがいして思ったのですが、お母様からすると、「障害を抱えた息子への関わり方を今日からすぐ変えろ」と急に言われたように感じて、戸惑うところがあったのではないでしょうか。
それがひとつで、もうひとつ葛藤の要因として、ジェネレーションギャップのようなものがあったかもしれませんね。つまり、冠地さんの親御さんくらいの世代は、「頑張れ、頑張れ」で叱咤激励して、子育てしてた方々ですから。
冠地:昭和の世代ですからね。
Photo by gettyimages青木:そうです。その昭和世代の人たちが、ある日急に「ほめてのばす」とか言われても、すぐには切り替えられない・受け入れられない、そんな面があったのかもしれませんね。
冠地:母は大学闘争をやってたぐらい先進的な人ではあったんですけど、それでもやっぱきつかったみたいですね。あと、うちは父が本当に“ダメンズ”だったので、母一人にしわ寄せが行っちゃって、それもあってきつかったんだと思います。
それから、
「何? 私は息子を前に『障害だから』と、ずっと我慢しなきゃいけないの?」
「ずっと私が息子に合わせなきゃいけないの?」
みたいな、そんな思いも加わって大変だったみたいですね。僕は母と一緒に講演活動もしていたんですが、そのとき折に触れてそんな話をしていたのを思い出します。ちなみにその講演動画はYouTubeにアップされています。
〈母(冠地俊子)の講演〉
〈冠地情の講演〉
〈親子講演(千葉県成田市社協主催)〉
青木:ご家族との関係についてのお話は、今回、初めて聞く内容ですね。冠地さんが精神的に変化を遂げていくなかで、家のなかにおける「母親」との関係性の変化は、きっと大きな意味を持っていたのでしょうね。
冠地:後ろ盾ですから。それがなくなったら僕、ホームレスになるしかなくなっちゃうので、生活基盤そのものだったんです。