異色ともいえる「笑い」をテーマにした長谷川氏の授業が続く。後半ではいよいよ生徒たちが漫才の創作に挑戦するが、思春期の難しい時期にある子どもたちが、果たしてそんなものを共作・発表できるのか。現場からのレポートを続ける。【第2回】
第1回の記事はこちら
なぜ入試直前に「笑い」なのか
それにしても長谷川先生は、なぜ入試直前のこの時期に、「笑い」の授業を選んだのか。様々な文献を引きながら、授業のなかで生徒たちにこう説明していた。
そもそも、笑いは教育に必要なものである。
「ジョークで笑い、それを味わうことは、単にヒマつぶしなどではなく、人生に益するところが大いにあり、才徳の発達を促すという教育の目的にかなっている」(福沢諭吉『開口笑話』)
ところが、根本的に学校教育には笑いが足りていない。
「学校の国語の教科書には、ヒューマー(※註:ユーモア)とかウィットのある文章はまったく見当たらない。……(中略)……言葉のおもしろさ、笑いを味わわせて、喜劇の感覚を育てることを考えている教育はまずないと言ってよい」(外山滋比古『日本語の感覚』)
入試が間近に迫ったこの時期、笑いどころか、ともすれば生徒たちは、コミュニケーションの楽しすら見失いがちだ。
「(子どもたちはいま)受験勉強で、誰かが出した問いに対して、答え1つをいかに正確に・速く解くかみたいなことをやってるわけです。大事なことなんですけれども、それを何のために学んでいるのか。結局、コミュニケーションのためですよね。言葉でするコミュニケーションの楽しさを味わってほしい、というのはずっと思っていて、だからこの授業を創りました」(授業後に行われた長谷川先生のインタビューより)
記者の質問に応える長谷川博之教諭(撮影:村田克己)となると、生徒全員に「楽しさ」が伝わらなければ授業の意味がないが、そのためのこんな工夫を凝らしたと、先生は授業の指導案に記している。
全員を巻き込み。楽しさの中で価値ある学びを得る。そういう授業を目指す。
「全員」を実現するために、尋常小学校の国語読本や江戸時代の笑話集から、現代の落語、漫才、コントなどを広く取材し、題材を選択した。
授業の組み立てはこうである。
まずは笑いが生まれる構造を知らせる。
次に、読むことをとおして、あるいは映像を見せることをとおして笑いを生み出す構造を理解させる。
そして、ことわざのパロディや、漫才台本を創らせる。
最後に、パフォーマンスをさせる。そのうえで更なる課題を提示し、意欲を引っ張り出す。
私が取材した授業は、ここに書かれた「組み立て」どおりに進んだ。
まず『醒酔笑』(江戸時代の笑話集)、「剣道じまん」(国語読本所収の笑話)で、先生は笑いを生むズレ、すなわち「ボケ」の存在を生徒たちに示した。これは前回の記事で記したとおりである。