ろう御方おかた (平家へいけ)

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ろう御方おかたぞう 赤間あかま神宮じんぐう所蔵しょぞう

ろう御方おかたろう御方おかた、ろうのおんかた おう元年がんねん1161ねん)? - 没年ぼつねんしょう)は平安へいあん時代じだい末期まっき女性じょせい平清盛たいらのきよもりはちじょはは常盤御前ときわごぜん源義経みなもとのよしつね異父いふいもうととされる。別名べつめい三条さんじょう殿どの

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

平治へいじらん源義朝みなもとのよしとも側室そくしつ常盤ときわ清盛きよもりわらわとなりまれた。天下てんかだいいち美女びじょひょうされ、左大臣さだいじん藤原ふじわらけんみやびつま清盛きよもりむすめ異母いぼ姉妹しまい)となかがよかったので上臈じょうろう女房にょうぼうとなり、のちけんみやびわらわになって一女いちじょむ。和琴わごんしょ名手めいしゅであった。

平家ひらか一門いちもんとして都落みやこおちから壇ノ浦だんのうらたたかいたるまで行動こうどうをともにし、建礼門院けんれいもんいんらとともにみなもと捕虜ほりょとなる。

異説いせつ[編集へんしゅう]

ただし、義経よしつね異父いふいもうととしてのろう御方おかた軍記物語ぐんきものがたりの『平家ひらか物語ものがたり』や『源平げんぺい盛衰せいすい』にのみ登場とうじょうしており、『たま』『吾妻あづまきょう』など史料しりょうにおいては確認かくにんされていない。

尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』の桓武かんむたいら系図けいず清盛きよもりむすめ一人ひとり常盤ときわははとするろう御方おかたしるされているが、この書物しょもつ成立せいりつ自体じたい南北なんぼくあさ末期まっきであり、室町むろまち時代ときよ以降いこうにもおおくの加筆かひつくわえられているので、後代こうだいひと物語ものがたりえるせつくわえた可能かのうせいがある。系図けいずにもう一人ひとり建礼門院けんれいもんいんあね左大臣さだいじん藤原ふじわらけんみやびしつとなった清盛きよもりむすめがあるが、この女子じょし常盤ときわむすめしたところ、のちに年代ねんだいわないことから、もう一人ひとり女子じょしあたらしく系図けいずくわえたうたがいもある。いずれにしても、常盤ときわ清盛きよもりむすめんだこと伝説でんせついきないのである(参考さんこう文献ぶんけん安田やすだ元久もとひさ源義経みなもとのよしつね新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ[ようページ番号ばんごう])。

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]