源義経みなもとのよしつね

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みなもと 義経よしつね
中尊寺ちゅうそんじ所蔵しょぞう義経よしつねぞう部分ぶぶん室町むろまち時代ときよ江戸えど時代じだいさく[注釈ちゅうしゃく 1]
時代じだい 平安へいあん時代じだい末期まっき- 鎌倉かまくら時代ときよ初期しょき
生誕せいたん 平治へいじ元年がんねん1159ねん[注釈ちゅうしゃく 2]
死没しぼつ 文治ぶんじ5ねんうるう4がつ30にち1189ねん6月15にち
享年きょうねん31(まん30さいぼつ
改名かいめい ぎゅうわかさえぎおう幼名ようみょう)→義經よしつね義行よしゆきあらわ
別名べつめい 九郎くろう判官ほうがん、廷尉、しゅう仮名かめい
戒名かいみょう 捐館どおりやまみなもとこうだい居士こじ[1]
墓所はかしょ 宮城みやぎけん栗原くりはら判官ほうがんもりつてどうづか
神奈川かながわけん藤沢ふじさわ白旗しらはた神社じんじゃつてくびづか
官位かんい したがえ左衛門さえもん少尉しょうい検非違使けびいし少尉しょういもり
氏族しぞく 清和せいわはじめためよしながれ河内かわうちはじめ
父母ちちはは ちち源義朝みなもとのよしとも はは常盤御前ときわごぜん
養父ようふ一条いちじょう長成ちょうせい
兄弟きょうだい 義平よしひら朝長ともなが頼朝よりとももんまれよしはんよりゆき阿野あのちょんしげる義円ぎえん義経よしつね坊門ぼうもんひめ女子じょしろう御方おかた?・一条いちじょう能成よしなり女子じょし一条いちじょう長成ちょうせいむすめ
つま 正室せいしつかわこし重頼しげよりむすめごう御前ごぜん
わらわ静御前しずかごぜん平時忠たいらのときただむすめわらびひめ
男児だんじ[2]女児じょじ[3]男児だんじ千歳ちとせまる[4][3]女子じょしみなもとゆうつなしつ?)[5]
花押かおう 源義経の花押
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徳島とくしまけん小松島こまつしまはたやまにある日本にっぽん最大さいだい騎馬きばぞう

みなもと 義経よしつね(みなもと の よしつね、きゅう字体じたいみなもと 義經よしつね)は、平安へいあん時代じだい末期まっきから鎌倉かまくら時代ときよ初期しょきにかけての日本にっぽん武将ぶしょう鎌倉かまくら幕府ばくふ初代しょだい将軍しょうぐんみなもと頼朝よりとも異母弟いぼてい仮名かめい九郎くろう実名じつめい義經よしつね義経よしつね)である。

河内かわうちはじめ源義朝みなもとのよしともきゅうおとことしてまれ、幼名ようみょうぎゅうわかまるうしわかまるった。平治へいじらんちちはいしたことにより鞍馬あんばてらあづけられるが、のち平泉ひらいずみくだり、奥州おうしゅう藤原ふじわら当主とうしゅ藤原秀衡ふじわらのひでひら庇護ひごける。

あに頼朝よりともたいら打倒だとうへいげる(うけたまわ寿ことぶきひさしらん)とそれにさんじ、一ノ谷いちのたに屋島やしま壇ノ浦だんのうら合戦かっせんたいらほろぼし、最大さいだい功労こうろうしゃとなった。

その頼朝よりとも許可きょかることなく官位かんいけたことや、たいらとのたたかいにおける独断どくだん専行せんこうによっていかりをい、このことにたい自立じりつうごきをせたため、頼朝よりとも対立たいりつ朝敵ちょうてきとされた。全国ぜんこく捕縛ほばくいのちつたわるとなんのがれ、ふたた藤原秀衡ふじわらのひでひらたよった。しかし、しゅう衡の死後しご頼朝よりとも追及ついきゅうけた当主とうしゅ藤原ふじわらやすしめられ、現在げんざい岩手いわてけん平泉ひらいずみまちにある衣川きぬがわかん自刃じじんした。

その最期さいご世上せじょうおおくのひと同情どうじょうき、判官贔屓はんがんびいき(ほうがんびいき[注釈ちゅうしゃく 3])という言葉ことばはじめ、おおくの伝説でんせつ物語ものがたりんだ[6]

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

義経よしつねたしかな歴史れきしあらわれるのは、黄瀬川おうせがわ頼朝よりとも対面たいめんした22さいから31さい自害じがいするわずか9年間ねんかんであり、そのぜん半生はんせい史料しりょうべる記録きろくはなく、不明ふめいてんおおい。今日きょうつたわっているうしわかまる物語ものがたりは、歴史れきししょである『吾妻あづまきょう』にみじかしるされた記録きろくと、『平治へいじ物語ものがたり[注釈ちゅうしゃく 4]や『源平げんぺい盛衰せいすい』の軍記物語ぐんきものがたり、それらの集大成しゅうたいせいとしてより虚構きょこうくわえた物語ものがたりである『義経よしつね』などによるものである。

誕生たんじょう[編集へんしゅう]

鞍馬あんばてら

清和せいわはじめながれを河内かわうちはじめ源義朝みなもとのよしともきゅうおとことしてまれ、ぎゅうわかまる名付なづけられる。はは常盤御前ときわごぜんきゅうじょういん雑仕ぞうしおんなであった。ちち平治へいじ元年がんねん1159ねん)の平治へいじらん謀反むほんひととなりはい。その係累けいるいなんけるため、かぞどし2さいぎゅうわかははうでいだかれて2人ふたり同母どうぼけいいまわかおつわかとも逃亡とうぼう大和やまとこく奈良ならけん)へのがれる。その常盤ときわもどり、こんわかおつわか出家しゅっけしてそうとしてきることになる[注釈ちゅうしゃく 5]

のち常盤ときわ公家くげ一条いちじょう長成ちょうせい再嫁さいかし、ぎゅうわかまるは11さいとき[7]鞍馬あんばてら京都きょうと左京さきょう)のさとし日和びよりなおあづけられ、稚児ちごめいさえぎおうしゃなおう名乗なのった[注釈ちゅうしゃく 6]

やがてさえぎおうそうになることを拒否きょひして鞍馬あんばてら出奔しゅっぽんし、うけたまわやす4ねん(1174ねん)3がつ3にちもも節句せっく上巳じょうし)にかがみ宿やどまってみずからの元服げんぷくおこな[8]奥州おうしゅう藤原ふじわら宗主そうしゅ鎮守ちんじゅ将軍しょうぐん藤原秀衡ふじわらのひでひらたよって平泉ひらいずみくだった。しゅう衡のしゅうと政治せいじ顧問こもんであった藤原ふじわらはじめなり一条いちじょう長成ちょうせい従兄弟いとこで、その伝手つてをたどった可能かのうせいたか[注釈ちゅうしゃく 7]

平治へいじ物語ものがたり』では近江おうみこく蒲生がもうぐんきょう宿やど元服げんぷくしたとする。『義経よしつね』ではちちあさ最期さいごでもある尾張おわりこくにて元服げんぷくし、源氏げんじゆかりのつうである「よし」のと、初代しょだいけいもとおうの「けい」のを以って実名じつめい義経よしつねとしたという。

うけたまわ寿ことぶきひさしらん[編集へんしゅう]

黄瀬川おうせがわ八幡やはた神社じんじゃにある頼朝よりとも義経よしつね対面たいめん平家へいけ打倒だとうちかったとされる対面たいめんせき

うけたまわ4ねん1180ねん8がつ17にちあにみなもと頼朝よりとも伊豆いずこく挙兵きょへいすると、その幕下まくしたはいることをのぞんだ義経よしつねは、あにのもとにさんじた。しゅう衡からけられた佐藤さとうつぎしん忠信ちゅうしん兄弟きょうだいとうおよそすうじゅう[注釈ちゅうしゃく 8]同行どうこうした。義経よしつね富士川ふじかわたたか勝利しょうりした頼朝よりとも黄瀬川おうせがわじん静岡しずおかけん駿東すんとうぐん清水しみずまち)でなみだ対面たいめんたす。頼朝よりともは、義経よしつねともう一人ひとりおとうとはんよりゆき遠征えんせいぐん指揮しきゆだねるようになり、本拠地ほんきょち鎌倉かまくらこし東国とうごく経営けいえい専念せんねんすることになる。

寿ことぶきひさし2ねん1183ねん)7がつ木曾きそ義仲よしなかたいら都落みやこおちに入京にゅうきょうする。こう白河しらかわ法皇ほうおうたいら追討ついとう功績こうせきについて、だいいち頼朝よりともだい義仲よしなかとするなど義仲よしなかひく評価ひょうか[9]頼朝よりとも上洛じょうらく期待きたいをかけていた。8月14にち義仲よしなか後継こうけい天皇てんのうみずからが擁立ようりつした北陸ほくりくみやえることを主張しゅちょうして、こう白河しらかわいんいかりを[9]。そしてこう白河しらかわいん義仲よしなかあたましに寿ことぶきひさしねんじゅうがつ宣旨せんじ頼朝よりともくだしたことで、両者りょうしゃ対立たいりつ決定的けっていてきとなった。頼朝よりともうるう10月5にち鎌倉かまくら出立しゅったつするが、平頼盛たいらのよりもりから京都きょうと深刻しんこく食糧しょくりょう不足ふそくくと自身じしん上洛じょうらく中止ちゅうしして、義経よしつね中原なかはらちかしのう代官だいかんとしておくった[10]。『たまうるう10がつ17にちじょうには「頼朝よりともおとうと九郎くろう実名じつめいらず)、大将軍だいしょうぐんとなりすうまん軍兵ぐんびょうそっし、上洛じょうらくくわだてつる」とあるが、これが貴族きぞく日記にっきにおける義経よしつねはつである。

義経よしつねおやのうは11月に近江おうみこくたっしたが、その軍勢ぐんぜいは500 - 600ぎず入京にゅうきょう困難こんなんだった[11]。そのようななかほうじゅうてら合戦かっせん勃発ぼっぱつし、義仲よしなかこう白河しらかわいん幽閉ゆうへいする。京都きょうと情勢じょうせいこう白河しらかわいんした北面ほくめん武士ぶし大江おおえこうあさらによって、伊勢いせこく移動いどうしていた義経よしつねおやのうつたえられた[12]義経よしつね飛脚ひきゃくして頼朝よりとも事態じたい急変きゅうへん報告ほうこくし、みずからは伊勢いせ国人くにびと和泉いずみまもる平信へいしんけん連携れんけいして兵力へいりょく増強ぞうきょうはかった。義経よしつね郎党ろうとうである伊勢いせ義盛よしもりも、出自しゅつじ伊勢いせ在地ざいち武士ぶしでこのとき義経よしつねしたがったと推測すいそくされる。よく寿ことぶきひさし3ねん1184ねん)、はんよりゆき東国とうごくから援軍えんぐんひきいて義経よしつね合流ごうりゅうし、正月しょうがつ20にちはんよりゆきぐん近江おうみ瀬田せたから、義経よしつねぐん山城やましろ田原たはらからそう攻撃こうげき開始かいしする。義経よしつね宇治川うじがわたたか志田しだ義広よしひろ軍勢ぐんぜいやぶって入京にゅうきょうし、敗走はいそうした義仲よしなか粟津あわづたたかられた。

このあいだたいら西国さいごく勢力せいりょく回復かいふくし、福原ふくはら兵庫ひょうごけん神戸こうべ)までせまっていた。義経よしつねは、はんよりゆきとともにたいら追討ついとうめいぜられ、2がつ4にち義経よしつね搦手からめてぐんひきいて播磨はりまこく迂回うかいし、三草山みくさやまたたか夜襲やしゅうによって平資盛たいらのすけもりらを撃破げきはし、はんよりゆき大手おおてぐんひきいて出征しゅっせいした。2がつ7にち一ノ谷いちのやたたか義経よしつね精兵せいびょう70ひきいて、鵯越ひよどりごえ峻険しゅんけんがけからぎゃくとしをしかけてたいら本陣ほんじん奇襲きしゅうする。たいらぐんだい混乱こんらんおちいり、鎌倉かまくらぐん大勝たいしょうとなった[注釈ちゅうしゃく 9]上洛じょうらくさい名前なまえられていなかった義経よしつねは、義仲よしなか追討ついとう一ノ谷いちのやたたかいの活躍かつやくによって歴史れきしじょうおもて舞台ぶたい登場とうじょうすることとなる。

壇ノ浦だんのうらみもすそがわ公園こうえんはちそうびの源義経みなもとのよしつねぞういかりかついだ平知盛たいらのとももりぞうとがたいになっている。(2004ねん12月製作せいさく

一ノ谷いちのやたたかいののちはんよりゆき鎌倉かまくらげ、義経よしつねきょうとどまって治安ちあん維持いじにあたり、畿内きない近国きんごく在地ざいち武士ぶし組織そしきなど地方ちほう軍政ぐんせいおこない、寺社じしゃ所領しょりょう関係かんけい裁断さいだんなど民政みんせいにも関与かんよしている。もとこよみ元年がんねん1184ねん)6がつ朝廷ちょうていしょう除目じもくおこなわれ、頼朝よりとも推挙すいきょによってはんたよ源氏げんじ3にん国司こくしにんぜられたが、義経よしつね国司こくしにはにんぜられなかった[注釈ちゅうしゃく 10]義経よしつねはそのたいら追討ついとうのために西国さいごく出陣しゅつじんすることが予定よていされていたが8がつ6にちさんにちたいららん勃発ぼっぱつしたために出陣しゅつじん不可能ふかのうとなる。そのため西国さいこくへの出陣しゅつじんはんよりゆきがあたることになる[注釈ちゅうしゃく 11]。 8月、はんよりゆき大軍たいぐんひきいて山陽さんようどう進軍しんぐんして九州きゅうしゅうわたる。どう時期じき義経よしつねさんにちたいららん後処理あとしょりわれており、この最中さいちゅうの8がつ6にちこう白河しらかわ法皇ほうおうより左衛門さえもん少尉しょうい検非違使けびいしにんじられた。9月義経よしつね頼朝よりとも周旋しゅうせんによりかわこし重頼しげよりむすめ正室せいしつむかえた。

一方いっぽうはんよりゆき遠征えんせいぐん兵糧ひょうろう兵船へいせん調達ちょうたつくるしみ、進軍しんぐん停滞ていたいしてしまう。この状況じょうきょうった義経よしつねこう白河しらかわいん西国さいこく出陣しゅつじんもうてその許可きょか[注釈ちゅうしゃく 12]もとこよみ2ねん1185ねん)2がつあらたなぐん編成へんせいした義経よしつねは、暴風雨ぼうふううなか少数しょうすうふね出撃しゅつげき通常つうじょう3にちかかる距離きょり数時間すうじかん到着とうちゃくし、讃岐さぬきこく瀬戸内海せとないかい沿いにあるたいら拠点きょてん屋島やしま奇襲きしゅうし、さん民家みんかはらい、大軍たいぐんせかける作戦さくせんたいら敗走はいそうさせた(屋島やしまたたか)。

はんたの九州きゅうしゅうわたることに成功せいこうし、最後さいご拠点きょてんである長門ながとこく彦島ひこしまたいら背後はいご遮断しゃだんした。義経よしつね水軍すいぐん編成へんせいして彦島ひこしまかい、3月24にち西暦せいれき4がつ)の壇ノ浦だんのうらたたか勝利しょうりして、ついにたいらほろぼした[注釈ちゅうしゃく 13]宿願しゅくがんたした義経よしつね法皇ほうおうから戦勝せんしょうたたえる勅使ちょくしけ、一ノ谷いちのや屋島やしま以上いじょう大功たいこうした立役者たてやくしゃとして、たいらからもどしたかがみほうじて4がつ24にち京都きょうと凱旋がいせんする。

頼朝よりともとの対立たいりつ[編集へんしゅう]

源義経みなもとのよしつね請文』義経よしつね自筆じひつ(1184ねん

たいらほろぼしたのち義経よしつねあに頼朝よりとも対立たいりつし、自立じりつ志向しこうしたがたせず朝敵ちょうてきとしてわれることになる。

もとこよみ2ねん(1185ねん4がつ15にち頼朝よりともうちきょずに朝廷ちょうていから任官にんかんけた関東かんとう武士ぶしらにたいし、任官にんかんののしり、きょうでのつとむつかまつめいじ、東国とうごくへの帰還きかんきんじた。また4がつ21にちたいら追討ついとうさむらいしょ所司しょしとして義経よしつね補佐ほさつとめた梶原かじはら景時かげときから、「義経よしつねはしきりに追討ついとうこう自身じしんいちにんものとしている」としるした書状しょじょう[注釈ちゅうしゃく 14]頼朝よりともとどいた。

一方いっぽう義経よしつねは、さき頼朝よりとも命令めいれい重視じゅうしせず、壇ノ浦だんのうららえた平宗盛たいらのむねもりせいはじめ父子ふし護送ごそうして、5月7にちきょうち、鎌倉かまくら凱旋がいせんしようとした。しかし義経よしつね不信ふしんいだ頼朝よりとも鎌倉かまくらりをゆるさず、そうもり父子ふしのみを鎌倉かまくられた。このとき、鎌倉かまくら郊外こうがい山内やまうちそう腰越こしごえげん神奈川かながわけん鎌倉かまくら)の満福寺まんふくじ義経よしつねかれた。5月24にち頼朝よりともたい自分じぶん叛意はんいのないことをしめ頼朝よりとも側近そっきん大江広元おおえのひろもとたくした書状しょじょう腰越こしごえじょうである。

義経よしつね頼朝よりともいかりをった原因げんいんは、『吾妻あづまきょう』によると許可きょかなく官位かんいけたことのほか、たいら追討ついとうにあたってぐんかんとして頼朝よりとも使つかわされていた梶原かじはら景時かげとき意見いけんかず、独断どくだん専行せんこうことすすめたこと、壇ノ浦だんのうら合戦かっせん義経よしつねはんよりゆき管轄かんかつである九州きゅうしゅう越権えっけん行為こういをして仕事しごとうばい、配下はいか東国とうごく武士ぶしたちたいしてもわずかなあやまちでも見逃みのがさずこれをとがてするばかりか、頼朝よりともとおさず勝手かって成敗せいばい武士ぶしたちうらみをうなど、せんいが目立めだったことによるとしている。おも西国さいこく武士ぶしひきいてたいら滅亡めつぼうさせた義経よしつね多大ただい戦功せんこうは、恩賞おんしょうもとめて頼朝よりともしたがっている東国とうごく武士ぶしたち戦功せんこう機会きかいうば結果けっかになり、鎌倉かまくら政権せいけん基盤きばんとなる東国とうごく御家人ごけにんたち不満ふまん噴出ふんしゅつさせた。

とく前者ぜんしゃ許可きょか官位かんいけたことは重大じゅうだいで、まだ官位かんいあたえることが出来でき地位ちいにない頼朝よりとも存在そんざい根本こんぽんからるがすものだった。また義経よしつね性急せいきゅう壇ノ浦だんのうらでの攻撃こうげきで、安徳天皇あんとくてんのうあま自害じがいみ、朝廷ちょうていとの取引とりひき材料ざいりょう宝剣ほうけん紛失ふんしつしたことは頼朝よりとも戦後せんご構想こうそう破壊はかいするものであった[注釈ちゅうしゃく 15]

そして義経よしつね兵略へいりゃく声望せいぼう法皇ほうおう信用しんようたかめ、武士ぶしたち人心じんしんあつめることは、武家ぶけ政権せいけん確立かくりつ目指めざ頼朝よりともにとって脅威きょういとなるものであった[18]義経よしつね壇ノ浦だんのうらからの凱旋がいせん、かつてたいら院政いんせい軍事ぐんじてき支柱しちゅうとして独占どくせんしてきたいん御厩みまや補任ほにんされ、たいら捕虜ほりょである平時忠たいらのときただむすめめとった。かつてのたいら伝統でんとうてき地位ちいを、義経よしつね継承けいしょうしようとした、あるいはこう白河しらかわいん継承けいしょうさせようとしたうごきは、頼朝よりとも容認ようにん出来できるものではなかったのである。

結局けっきょく義経よしつね鎌倉かまくらはいることをゆるされず、6月9にち頼朝よりとも義経よしつねたいそうもり父子ふし平重衡たいらのしげひらともなわせ帰洛きらくめいじると、義経よしつね頼朝よりともふかうらみ、「関東かんとういてうらみをやからは、義経よしつねぞくくべき」といいはなった。これをいた頼朝よりともは、義経よしつね所領しょりょうをことごとく没収ぼっしゅうした。義経よしつね近江おうみこくそうもり父子ふし斬首ざんしゅし、じゅう衡をじゅう自身じしんちにした東大寺とうだいじおくった。このような最中さいちゅう8がつ16にちには、しょう除目じもくがあり、いわゆる源氏げんじろくめい叙位じょい任官にんかん一人ひとりとして、伊予いよもり兼任けんにんする。9月2にち平時忠たいらのときただ5がつ20日はつか配流はいる決定けっていされていたにもかかわらず、義経よしつねしゅうととなったえんによっていまきょう滞在たいざいしていることにより、頼朝よりともいかりをっている。頼朝よりともきょうろくじょう堀川ほりかわ屋敷やしきにいる義経よしつね様子ようすさぐるべく梶原かじはら景時かげとき嫡男ちゃくなんけいつかわし、かつて義仲よしなかしたがった叔父おじみなもとこう追討ついとう要請ようせいした。義経よしつね憔悴しょうすいしたからだであらわれ、自身じしんやまいにあることとくだりおなげんであることを理由りゆうことわった。

ただしのべけいほん平家ひらか物語ものがたり』によれば義経よしつね一旦いったん鎌倉かまくらはいって頼朝よりとも対面たいめんしたのちきょうもどったとされており、『かんしょう』にも義経よしつね鎌倉かまくらかんおもむき、きょうもどってきたころから頼朝よりともそむしんいたとあることから、義経よしつね鎌倉かまくらりをゆるされなかったというのは『吾妻あづまきょう』の誤伝ごでんまたは曲筆きょくひつであり、実際じっさいには義経よしつね鎌倉かまくらりしているとのせつもある。「腰越こしごえじょう」も文体ぶんたいなどから後世こうせい偽作ぎさくであるとの見方みかた大勢おおぜいめている。また近年きんねん研究けんきゅうでは、義経よしつねたいら追討ついとうはずされたのは京都きょうと治安ちあん維持いじのためであり、『吾妻あづまきょう』が前年ぜんねん7がつ検非違使けびいし任官にんかん頼朝よりともとの対立たいりつ原因げんいんとしているのはあやまりであるとの見方みかたがされている[19][20]。『たま』はもとこよみ2ねん6がつ30にちじょうに「九郎くろうしょうきは如何いかさだめてふか由緒ゆいしょあるか」と恩賞おんしょう不平等ふびょうどういているが、頼朝よりともは8がつ除目じもく義経よしつね伊予いよもり推挙すいきょし、相応そうおう恩賞おんしょう用意よういしていた。受領じゅりょう就任しゅうにん同時どうじ検非違使けびいし離任りにんするのが当時とうじ原則げんそくであったが、義経よしつねこう白河しらかわいん慣例かんれい無視むしした人事じんじによりもり就任しゅうにん検非違使けびいし左衛門尉さえもんのじょう兼帯けんたいつづけ、けんじつは「大夫たいふじょう兼帯けんたいじょう未曾有みぞう未曾有みぞう」といている。元木もとき泰雄やすお義経よしつね鎌倉かまくら召還しょうかん不可能ふかのうになった文治ぶんじ元年がんねん8がつの「検非違使けびいし留任りゅうにん」が両者りょうしゃ決裂けつれつ決定的けっていてき要因よういんであるとしている[21]一方いっぽう本郷ほんごう和人かずとは、さだまった組織そしきではなかった幕府ばくふ創設そうせつ頼朝よりともにとって、御家人ごけにん朝廷ちょうてい接近せっきんする自由じゆう任官にんかんおおきな問題もんだいであり、従来じゅうらいせつどおり、任官にんかん問題もんだい頼朝よりとも義経よしつね決裂けつれつ義経よしつね没落ぼつらく発端ほったんであるとしている[22]

謀叛ぼうほん[編集へんしゅう]

義経よしつねいちぎょうんだ吉野山よしのやま

10月、義経よしつねやまい仮病けびょうであり、すでにくだり同心どうしんしていると判断はんだんした頼朝よりとも義経よしつね討伐とうばつめ、家人かじん土佐とさぼう昌俊まさとしきょうおくった。11にち義経よしつねこう白河しらかわ法皇ほうおうに、くだり頼朝よりともたいして反乱はんらんこし、制止せいししようとしたができなかったがどうすべきかと奏聞そうもんし、法皇ほうおうはさらにくだり制止せいしくわえよとめいじた。13にち義経よしつねこう制止せいしくわえたが承知しょうちせず、自分じぶんくだり同心どうしんしたとべ、その理由りゆうとして頼朝よりともによる伊予いよこく国務こくむ妨害ぼうがいぼつかんりょう没収ぼっしゅう刺客しかく派遣はけんうわさげ、墨俣すのまたあたりいちせんまじ雌雄しゆうけっしたいとった。法皇ほうおうおどろき、かさねてくだり制止せいしせよとめいじる。だが16にちよる義経よしつねはやはりくだり同心どうしんしたとべ、頼朝よりとも追討ついとう宣旨せんじ要求ようきゅうした。さらに勅許ちょっきょがなければひま鎮西ちんぜい下向げこうするとべ、天皇てんのう法皇ほうおう公家くげをことごとく連行れんこうしていくことをほのめかしたため、法皇ほうおう周辺しゅうへん騒然そうぜんとなる。17にち土佐とさぼうら60きょう義経よしつねていおそった(堀川ほりかわ夜討ようち)が、みずか門戸もんこって応戦おうせんする義経よしつねくだりくわわり、合戦かっせん襲撃しゅうげきがわ敗北はいぼくわった。義経よしつねは、らえた昌俊まさとしからこの襲撃しゅうげき頼朝よりともいのちであることをききだすと、これを梟首きょうしゅくだりともきょう頼朝よりとも打倒だとうはたげた。かれらはこう白河しらかわ法皇ほうおうふたた奏上そうじょうして、18にち頼朝よりとも追討ついとう院宣いんぜんたが、頼朝よりともちちあさ供養くよう法要ほうようを24にちいとなみ、家臣かしんあつめたこともあり賛同さんどうする勢力せいりょくすくなかった。京都きょうと周辺しゅうへん武士ぶしたち義経よしつねらにくみせず、ぎゃく敵対てきたいするものてきた。さらに法皇ほうおう今度こんど義経よしつね追討ついとう院宣いんぜんしたことから一層いっそう窮地きゅうちおちいった。

なお土佐とさぼう昌俊まさとし派遣はけんおよび襲撃しゅうげきは『吾妻あづまきょう』『平家ひらか物語ものがたり』に記載きさいされているが、『たま』では17にち深夜しんや頼朝よりともろうしたがえ武蔵むさしこく住人じゅうにん児玉こだまとう30ちゅうじん報告ほうこくけて義経よしつね襲撃しゅうげきするがくだり救援きゅうえんけてこれを撃退げきたいしたとある。義経よしつね院宣いんぜん最初さいしょ申請しんせいしたのは、『吾妻あづまきょう』では10月13にち、『たま』では16にちとなっていて、17にち土佐とさぼうによる襲撃しゅうげきよりもまえのことになっている。これにかんして河内かわうちさち輔は義経よしつね事前じぜん土佐とさぼう襲撃しゅうげき情報じょうほう入手にゅうしゅして院宣いんぜん申請しんせいし、17にち襲撃しゅうげきでは最初さいしょから迎撃げいげき態勢たいせいっていたとする[23]一方いっぽう菱沼ひしぬま一憲かずのり土佐とさぼう頼朝よりとも派遣はけんした刺客しかくだとするのは義経よしつねによる朝廷ちょうていへの一方いっぽうてき主張しゅちょうのみで、『吾妻あづまきょう』『平家ひらか物語ものがたり』がしる頼朝よりとも土佐とさぼう派遣はけんした経緯けいい証明しょうめいするどう時代じだい史料しりょうはなく、創作そうさくされた可能かのうせいもあるとして、頼朝よりともとの対立たいりつふかめた義経よしつねさき院宣いんぜんようとしたところ、在京ざいきょう畿内きない周辺しゅうへん御家人ごけにん動揺どうようして頼朝よりとも支持しじする佐坊さぼうらが義経よしつね暗殺あんさつ計画けいかくしたもので、頼朝よりともすくなくともこの襲撃しゅうげき事件じけんには関与かんよしていなかったとする[24]

荒波あらなみ海路かいろつめる義経よしつねいちぎょうえがいた象牙ぞうげ彫刻ちょうこく石川いしかわ光明こうめいさく、1880ねんごろ明治めいじ時代じだいウォルターズ美術館びじゅつかんくら

29にち頼朝よりともぐんひきいて義経よしつね追討ついとうかうと、義経よしつね西国さいごく体制たいせいなおすため九州きゅうしゅうきをはかった。11月1にち頼朝よりとも駿河するがこく黄瀬川おうせがわたっすると、3にち義経よしつねらは西国さいこく九州きゅうしゅう緒方おがたたより、300ひきいてきょうちた。途中とちゅう摂津せっつ源氏げんじ多田ただこうつならの襲撃しゅうげきけ、これを撃退げきたいしている(かわしりたたか)。6にちいちぎょう摂津せっつこく大物おおものうら兵庫ひょうごけん尼崎あまがさき)から船団せんだんんで九州きゅうしゅう船出ふなでしようとしたが、途中とちゅう暴風ぼうふうのために難破なんぱし、主従しゅうじゅうりとなって摂津せっつもどされてしまった。これにより義経よしつね九州きゅうしゅうちは不可能ふかのうとなった。7にちには、検非違使けびいし伊予いよもりしたがえ兼行けんこう左衛門さえもん少尉しょうい解任かいにんされる。一方いっぽう、25にち義経よしつねくだりらえよとの院宣いんぜん諸国しょこくくだされた。12月、さらに頼朝よりともは、頼朝よりとも追討ついとう宣旨せんじ作成さくせいしゃ親義ちかよしけい公家くげかいかんさせ[注釈ちゅうしゃく 16]義経よしつねらのついのためとして、「守護しゅご地頭じとう設置せっち」をみとめさせた(文治ぶんじ勅許ちょっきょ)。

義経よしつね郎党ろうとう愛妾あいしょう白拍子しらびょうし静御前しずかごぜんれて吉野よしのかくしたが、ここでも追討ついとうけて静御前しずかごぜんらえられた。のがれた義経よしつねはん鎌倉かまくら貴族きぞく寺社じしゃ勢力せいりょく[注釈ちゅうしゃく 17]かくまわれ京都きょうと周辺しゅうへん潜伏せんぷくするが、翌年よくねん文治ぶんじ2ねん1186ねん)5がつ和泉いずみこく叔父おじぎょう鎌倉かまくらかたられ、同年どうねん6がつには、みなもとゆうつな大和やまとこくられた。また各地かくち潜伏せんぷくしていた義経よしつね郎党ろうとうたち佐藤さとう忠信ただのぶ伊勢いせ義盛よしもりひとし)も次々つぎつぎ発見はっけんされ殺害さつがいされた。さらに義経よしつねむすめとつがせていたかわこし重頼しげよりとその嫡男ちゃくなん重房しげふさも、頼朝よりとも命令めいれい所領しょりょう没収ぼっしゅうのち殺害さつがいされた。そうしたなかいみな義経よしつねから義行よしゆき改名かいめいさせられ[25]、さらにあらわ改名かいめいさせられた[26]いずれもみなもと頼朝よりとも意向いこうにより、朝廷ちょうていがわからの沙汰さたであり、とう義経よしつね本人ほんにんがこのことを認知にんちしていたかかは不明ふめいである。そしていん貴族きぞく義経よしつねがしていることをうたが頼朝よりともは、同年どうねん11がつに「京都きょうとがわ義経よしつね味方みかたするならば大軍たいぐんおくる」と恫喝どうかつしている。京都きょうとられなくなった義経よしつねは、藤原秀衡ふじわらのひでひらたよって奥州おうしゅうおもむく。『吾妻あづまきょう文治ぶんじ3ねん1187ねん2がつ10日とおか記録きろくによると、義経よしつねついあみをかいくぐり、伊勢いせ美濃みの奥州おうしゅうかい、正妻せいさいらをともなって平泉ひらいずみせた。いちぎょう山伏やまぶし稚児ちご姿すがたをやつしていたという。一方いっぽう、『たま』で義経よしつね奥州おうしゅう逃亡とうぼう確認かくにんされるのは文治ぶんじ4ねん1188ねん正月しょうがつ9にちじょうで、それによると実際じっさい到着とうちゃく文治ぶんじ3ねんの9がつから10がつごろだったという。

最期さいご[編集へんしゅう]

義経よしつね最期さいごとされる衣川きぬがわかんあとにあるこうたてよし経堂きょうどう

藤原秀衡ふじわらのひでひら関東かんとう以西いせい制覇せいはした頼朝よりとも勢力せいりょく奥州おうしゅうおよぶことを警戒けいかいし、義経よしつね将軍しょうぐんてて鎌倉かまくら対抗たいこうしようとしたが、文治ぶんじ3ねん1187ねん10月29にち病没びょうぼつした。頼朝よりともしゅう衡のけていだ藤原ふじわらやすしに、義経よしつね捕縛ほばくするよう朝廷ちょうていつうじてつよ圧力あつりょくをかけた。この要請ようせいには頼朝よりとも計略けいりゃくがあった。義経よしつね追討ついとう自身じしんけ、奥州おうしゅうめばたい衡と義経よしつねしゅう衡の遺言ゆいごんどおり、一体いったいとなって共闘きょうとうするこわれがある。朝廷ちょうてい宣旨せんじさせてたい衡に要請ようせいして義経よしつね追討ついとうさせることで2人ふたりあいだくさびち、険悪けんあく関係かんけい発生はっせいさせ、奥州おうしゅう弱体じゃくたいはかろうとしたのである。「ほろびははのため五重ごじゅうとう造営ぞうえいすること」「じゅうやくのため殺生せっしょう禁断きんだんすること」を理由りゆう年内ねんない軍事ぐんじ行動こうどうはしないことを表明ひょうめいしたのも、頼朝よりとも自身じしん義経よしつね追討ついとうすることができない表面ひょうめんてき理由りゆうとしたかったためである。一方いっぽう義経よしつね文治ぶんじ4ねん1188ねん)2がつ出羽でわこく出没しゅつぼつして鎌倉かまくらかた合戦かっせんをしているが、翌年よくねん衣川きぬがわたたか結果けっか当時とうじ義経よしつね状況じょうきょうまえると敗北はいぼくした可能かのうせいがある。また文治ぶんじ5ねん1189ねん)1がつには義経よしつね京都きょうともど意志いしいた手紙てがみった比叡山ひえいざんそうつかまるなど、再起さいきはかっている。この義経よしつね行動こうどうかんしては、度重たびかさなる追討ついとう要請ようせいによりたい衡との齟齬そごはげしくなったために、京都きょうと脱出だっしゅつ帰京ききょう)しようとしていたのではないかとの推測すいそくもある。

この時期じき義経よしつねたい衡のあいだにどのようなき、葛藤かっとうがあったのかはいまとなってはよしもない。しかし結果けっかとしてたい衡は再三さいさん鎌倉かまくら圧力あつりょくくっして、「義経よしつね指図さしずあおげ」というちち遺言ゆいごんやぶり、うるう4がつ30にち、500へいをもって10すう義経よしつね主従しゅうじゅう藤原ふじわらはじめなり衣川きぬがわかんおそった(衣川きぬがわたたか)。武蔵坊むさしぼう弁慶べんけいはじめとした義経よしつね郎党ろうとうたちは防戦ぼうせんしたが、ことごとく討死うちじに、もしくは切腹せっぷくした。かん平泉ひらいずみへいかこまれた義経よしつねは、一切いっさいたたかわず持仏堂じぶつどうこもり、正妻せいさいごう御前ごぜんと4さいむすめ殺害さつがいしたのち自害じがいしててた。享年きょうねん31(まん30さいぼつ)。

死後しご[編集へんしゅう]

義経よしつねくび美酒びしゅひたしてくろうるしりのひつおさめられ、新田にった冠者かんじゃ高平たかひら[注釈ちゅうしゃく 18]使者ししゃとして43日間にちかんかけて鎌倉かまくらおくられた。文治ぶんじ5ねん1189ねん6月13にち首実検くびじっけん和田わだ義盛よしもり梶原かじはら景時かげときらによって、腰越こしごえうらおこなわれた。たい衡は同月どうげつ義経よしつねつうじていたとして、さんおとうと藤原ふじわらただし殺害さつがいした[注釈ちゅうしゃく 19]が、結局けっきょく直後ちょくご奥州おうしゅう合戦かっせんで、みなもと頼朝よりともめられ滅亡めつぼうした。

伝承でんしょうではその義経よしつねくび藤沢ふじさわほうむられ祭神さいじんとして白旗しらはた神社じんじゃまつられたとされ位牌いはい荘厳寺しょうごんじにある、胴体どうたい栗原くりはら栗駒くりごま沼倉ぬまくら判官ほうがんもり埋葬まいそうされたとつたえられる。また、最期さいごである衣川きぬがわ雲際うんさいてらには、自害じがい直後ちょくご義経よしつね一家いっか遺体いたいはこまれたとされ、義経よしつね夫妻ふさい位牌いはい安置あんちされていたが、平成へいせい20ねん2008ねん)8がつ6にちどうてら火災かさいにより焼失しょうしつした。

なお、頼朝よりとも義経よしつね奥州おうしゅう藤原ふじわら怨念おんねんしずめるために鎌倉かまくら永福寺えいふくじ建立こんりゅうしたが、現在げんざい廃寺はいじになっている。このてらめぐっては『吾妻あづまきょうたからおさむ2ねん2がつ5にちじょうに、ひだり親衛しんえい北条ほうじょうよりゆき)が「頼朝よりともみずからの宿意しゅくい義経よしつねたい衡をったものでかれらは朝敵ちょうてきではない」として永福寺えいふくじ修繕しゅうぜんかす霊夢れいむたことがしるされており、すくなくとも『吾妻あづまきょう』が編纂へんさんされたころには義経よしつね名誉めいよ回復かいふくされていたことをしめしている。

年譜ねんぷ[編集へんしゅう]

日付ひづけ旧暦きゅうれき年齢ねんれいかぞどし改元かいげんとし改元かいげん元号げんごうそく

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

系譜けいふ[編集へんしゅう]

義経よしつね九郎くろう通称つうしょうやからぎょうめい)からあきらかなように、源義朝みなもとのよしともきゅうなんにあたる。『義経よしつね』ではじつはちなんだったが武名ぶめいせた叔父おじ源為朝みなもとのためとも鎮西ちんぜい八郎はちろうという仮名かめいであったのに遠慮えんりょして「九郎くろう」としたとするせつがあるが、あさ末子まっしであることはたしかである。

みなもと義平よしひらみなもと頼朝よりとも源範頼みなもとののりよりらは異母いぼけいであり、同母どうぼけいとして阿野あのちょんしげるこんわか)、義円ぎえんおつわか)がいる。またはは再婚さいこんした一条いちじょう長成ちょうせいとのあいだもうけた異父いふおとうととして一条いちじょう能成よしなりがあり、また異父いふいもうとも1にんいた。

つまには頼朝よりとも媒酌ばいしゃくによる正室せいしつかわこし重頼しげよりむすめごう御前ごぜん)、鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐうまい有名ゆうめい愛妾あいしょう白拍子しらびょうし静御前しずかごぜんたいら滅亡めつぼう平時忠たいらのときただ保身ほしんのためにしたとされるときちゅうむすめわらびひめ)がある。には、都落みやこお逃避行とうひこうちゅう誕生たんじょう衣川きぬがわかん義経よしつねとも死亡しぼうした4さい女児じょじ静御前しずかごぜんははとしてまれ、頼朝よりともいのちにより出産しゅっさんもなく由比ヶ浜ゆいがはま遺棄いきされた男児だんじ確認かくにんされる。

にはみなもとゆうつな義経よしつね婿むこしょうしていることから、ゆうつなつま義経よしつねむすめとするせつもある[27][注釈ちゅうしゃく 21]。また『清和せいわはじめ系図けいず』に千歳ちとせまる(ちとせまる)という3さい男子だんし奥州おうしゅう衣川きぬがわで誅されたとしるされており、『吾妻あづまきょう文治ぶんじ3ねん2がつ10日とおかじょう義経よしつね奥州おうしゅうりしたさい、「妻室さいしつ男女だんじょあいす(正室せいしつ男子だんし女子じょし子供こどもれていた)」とあることから、この「おとこ」が千歳ちとせまる相当そうとうする可能かのうせいがあるが、『吾妻あづまきょう』で衣川きぬがわ死亡しぼうしたは4さい女児じょじのみとなっていることから、男児だんじ存在そんざいについての真偽しんぎ不明ふめいである[30]

人間像にんげんぞう[編集へんしゅう]

死後しごなんひゃくねんあいだにあらゆる伝説でんせつまれ、実像じつぞうはなれたおおくの物語ものがたりつくられた義経よしつねであるが、以下いかには史料しりょうのこされた義経よしつね自身じしん言動げんどうと、直接ちょくせつかかわった人物じんぶつ義経よしつねひょうげる。

芳年ほうねん武者むしゃ無類むるい』のうち九郎くろう判官ほうがん源義経みなもとのよしつね 武蔵坊むさしぼう弁慶べんけい」。源義経みなもとのよしつねおく)とその家来けらいである武蔵坊むさしぼう弁慶べんけい手前てまえ)。1885ねん明治めいじ18ねんかん月岡つきおか芳年よしとしさく
  • 吾妻あづまきょううけたまわ4ねん(1180ねん)10がつ21にちじょうによると、奥州おうしゅうにいた義経よしつね頼朝よりとも挙兵きょへいっていそ頼朝よりとも合流ごうりゅうしようとしたさい藤原秀衡ふじわらのひでひら義経よしつねつよめる。しかし義経よしつねひそかにかんのが旅立たびだったので、しゅう衡はしみながらもめることをあきらめ、って佐藤さとう兄弟きょうだい義経よしつねもとおくった。
  • おなじく『吾妻あづまきょう』によると、養和ようわ元年がんねん(1181ねん)7がつ20日はつか鶴岡つるおか若宮わかみや宝殿ほうでん上棟じょうとう式典しきてんで、頼朝よりとも義経よしつね大工だいくたまわうまくようめいじた。義経よしつねが「ちょうど下手へたものがいないから(自分じぶん身分みぶんものがいない)」とってことわると、頼朝よりともは「畠山はたけやま重忠しげただ佐貫さぬきひろつながいる。いやしいやくだとおもって色々いろいろ理由りゆうけてことわるのか」とはげしく叱責しっせき義経よしつねはすこぶる恐怖きょうふし、ぐにってうまいた。
  • たま』によると、寿ことぶきひさし3ねん(1184ねん)2がつ9にち一ノ谷いちのや合戦かっせん義経よしつねったたいら一門いちもんくび都大路みやこおおじわた獄門ごくもんにかけることを奏聞そうもんするため、少数しょうすうへいもどる。朝廷ちょうていがわたいら皇室こうしつ外戚がいせきであるため、獄門ごくもんにかけることを反対はんたいするが、義経よしつねはんよりゆきは、これは自分じぶんたち宿意しゅくいちちあさかたきち)であり「義仲よしなかくびわたされ、平家へいけくびわたさないのはまった理由りゆうい。何故なぜ平家へいけ味方みかたするのか。非常ひじょう不信ふしんである」と強硬きょうこう主張しゅちょう公卿くぎょうたち義経よしつねらのつよ態度たいどされ、結局けっきょく13にちたいらくび都大路みやこおおじわた獄門ごくもんにかけられた。
  • きちもとこよみ2ねん(1185ねん正月しょうがつ8にちじょうによると、たいら残党ざんとうおそれる貴族きぞくたちは、四国しこくたいら追討ついとうかう義経よしつねのこるよう要請ようせいするが、義経よしつねは「2,3月になると兵糧ひょうろうきてしまう。はんよりゆきがもしかえすことになれば、四国しこく武士ぶしたち平家へいけき、ますます重大じゅうだいなことになります」とめる貴族きぞくたちって出陣しゅつじんする。『吾妻あづまきょう』によると、2がつ16にち屋島やしま出陣しゅつじんする義経よしつね宿所しゅくしょおとずれた高階たかしなやすしけい白河しらかわいん使者ししゃ)が「自分じぶん兵法ひょうほうくわしくないが、大将たいしょうたるしゃ先陣せんじんきそうものではなく、まずしょうおくるべきではないか」といた。これにたい義経よしつねは「こと存念ぞんねんアリ、いちじんニオイテいのちヲ棄テントよく特別とくべつおもところがあって、先陣せんじんにおいていのちてたいとおもう)」とこたえて出陣しゅつじんした。『吾妻あづまきょう』の筆者ひっしゃはこれをひょうし、「もっと精兵せいびょううべきか(非常ひじょうつよ兵士へいしうべきか)」といている。また18にち義経よしつねふねうみわたろうとしたが、暴風雨ぼうふううこってふね多数たすう破損はそんした。へいたちふねいちそうそうとしなかったが、義経よしつねは「朝敵ちょうてき追討ついとうするのがとどこおるのはおそおおいことである。風雨ふううなんかえりみるべきではない」とって深夜しんや2暴風雨ぼうふううなか少数しょうすうふね出撃しゅつげきし、通常つうじょう3にちかかる距離きょりを4あいだ到着とうちゃくした。
  • 壇ノ浦だんのうら合戦かっせんとどいた義経よしつねせんよこ批判ひはんする梶原かじはら景時かげとき書状しょじょう[注釈ちゅうしゃく 14]けて、『吾妻あづまきょう』は「せんおもんばかヲサシハサミ、カツテむねもりラズ、ヒトヘニみやびニマカセ、自由じゆうちょうこうヲイタスノあいだ人々ひとびと恨ミヲナスコト、景時かげときげんラズ義経よしつねはその独断どくだん専行せんこうによって景時かげときかぎらず、人々ひとびと関東かんとう武士ぶしたち)のうらみをっている)」といている。その一方いっぽう義経よしつね自害じがいのち景時かげとき和田わだ義盛よしもりろうしたがえ20がそのくび検分けんぶんしたとき、「かんしゃミナそうなみだぬぐえヒ、りょう衫ヲ湿しめホスものみななみだながした)」とあり、義経よしつねへの批判ひはん哀惜あいせき両面りょうめんがうかがえる。
  • 壇ノ浦だんのうら合戦かっせん義経よしつねひそかにまねいて合戦かっせん様子ようすいた仁和寺にんなじ御室おむろまもりさとし法親王ほうしんのう記録きろく左記さき』に「かれみなもと廷尉は、ただの勇士ゆうしにあらざるなり。ちょうりょうさんりゃく陳平ちんぺいろく、そのげいたずさえ、そのみちるものか(義経よしつね尋常一様じんじょういちようでない勇士ゆうしで、武芸ぶげい兵法ひょうほう精通せいつうした人物じんぶつ)」とある。
  • たま』・『吾妻あづまきょう』によると、頼朝よりとも対立たいりつした義経よしつね文治ぶんじ元年がんねん(1185ねん)10がつ11にちと13にちこう白河しらかわいんもとおとずれ、「頼朝よりとも無実むじつ叔父おじちゅうしようとしたので、くだりもついに謀反むほんくわだてた。自分じぶんなにとか制止せいししようとしたが、どうしても承諾しょうだくせず、だから義経よしつね同意どういしてしまった。その理由りゆうは、自分じぶん頼朝よりとも代官だいかんとしていのちけて再三さいさん大功たいこうてたにもかかわらず、頼朝よりともとくしょうするどころか自分じぶん領地りょうち地頭じとうおくって国務こくむ妨害ぼうがいしたうえ領地りょうちをことごとく没収ぼっしゅうしてしまった。いまきるのぞみもない。しかも自分じぶんころそうとする確報かくほうがある。どうせなんのがれられないなら、墨俣すのまたあたりにかい一矢いっしむくいて生死せいしけっしたいとおもう。このうえ頼朝よりとも追討ついとう宣旨せんじいただきたい。それがかなわなければりょうとも自害じがいする」とべた。いんおどろいてかさねてくだり制止せいしするようめいじたが、16にち「やはりくだり同意どういした。理由りゆう先日せんじつべたとおり。いまいたっては頼朝よりとも追討ついとう宣旨せんじたまわりたい。それがかなわなければひまたまわって鎮西ちんぜいかいたい」とべ、天皇てんのう法皇ほうおう以下いか公卿くぎょうらをれて下向げこうしかねない様子ようすだったという。
  • いつめられた義経よしつねたいら木曾きそ義仲よしなかのように狼藉ろうぜきはたらくのではとちゅう大騒おおさわぎになったが、義経よしつねは11月2にち四国しこく九州きゅうしゅう荘園しょうえん支配しはい権限けんげんあたえる院宣いんぜんると、3にち早朝そうちょういん使者ししゃをたて「鎌倉かまくら譴責けんせきのがれるため、鎮西ちんぜいちます。最後さいごにご挨拶あいさつしたいとおもいますが、武装ぶそうしたなのでこのまま出発しゅっぱつします」と挨拶あいさつしてしずかにった。『たま』のぬしである九条くじょうけん頼朝よりとも人間にんげんであったが、義経よしつね平穏へいおん京都きょうと退去たいきょたいし「いんちゅうやめ諸家しょかことごともっ安穏あんのんなり。義経よしつね所行しょぎょうじつもっ義士ぎしいいきか。洛中らくちゅう尊卑そんぴ随喜ずいきせざるはなしちゅう尊卑そんぴこれを随喜ずいきしないものはない。義経よしつね所行しょぎょう、まことにもって義士ぎしというべきか)」「義経よしつね大功たいこうなりシ、ソノせんナシトイヘドモ、武勇ぶゆう仁義じんぎトニオイテハ、後代こうだいめいヲノコスモノカ、歎美たんびスベシ、歎美たんびスベシ義経よしつね大功たいこうし、その甲斐かいもなかったが、武勇ぶゆう仁義じんぎにおいては後代こうだいめいのこすものであろう。賞賛しょうさんすべきである)」ととなえている。

容貌ようぼう体格たいかく[編集へんしゅう]

義経よしつね容貌ようぼうかんして、どう時代じだい人物じんぶつ客観きゃっかんてきしるした史料しりょうや、生前せいぜん義経よしつね自身じしんえがいたたしかな絵画かいが存在そんざいしない。これは歴史れきしじょう人物じんぶつにも共通きょうつうすることで、当時とうじ肖像しょうぞうおおくは神社じんじゃ仏閣ぶっかく奉納ほうのうする目的もくてきえがかれたもので、死後しごえがかれるのが通常つうじょうである。

身長しんちょうかんしては義経よしつね奉納ほうのうしたとされるだい山祇やまずみ神社じんじゃ甲冑かっちゅうもと推測すいそくすると147cm前後ぜんこうくらいではないかとわれている。しかし甲冑かっちゅう義経よしつね奉納ほうのうという根拠こんきょはなく、源平げんぺい時代じだいのものとするには特殊とくしゅ部分ぶぶんおおく、たしかなことは不明ふめいである[31]

義経よしつね死後しごまもない時代じだい成立せいりつしたとされる『平家ひらか物語ものがたり』では、たいら家人かじん越中えっちゅう次郎じろう兵衛ひょうえもりが「九郎くろう色白いろじろうせいちいさきが、むかばのことにさしいでてしるかんなるぞ」(九郎くろう色白いろじろひくおとこだが、前歯まえばがとくにていてはっきりわかるというぞ)と伝聞でんぶんかたちべている。これは「にわとりあい」のだんで、壇ノ浦だんのうら合戦かっせんまえたいら武士ぶしたちてきであるみなもと武士ぶしおとしめて、戦意せんい鼓舞こぶする場面ばめんてくるものである[注釈ちゅうしゃく 22]。 また「ゆみりゅう」のだんで、うみとした自分じぶんゆみひろった逸話いつわさいに「よわゆみ」とみずかべるなど、肉体にくたいてきには非力ひりきである描写びょうしゃがされている。

義経よしつね』では、楊貴妃ようきひ松浦まつうらたすくようひめにたとえられ、おんなまごうような美貌びぼうかれている。その一方いっぽうで『平家ひらか物語ものがたり』をそのまま引用いんようしたとおもわれる矛盾むじゅんした記述きじゅつもある。『源平げんぺい盛衰せいすい』では「色白いろじろひくく、容貌ようぼう優美ゆうび物腰ものごし優雅ゆうがである」という記述きじゅつのちに、『平家ひらか物語ものがたり』とおなじく「木曾きそ義仲よしなかよりなれしているが、平家へいけえらくずにもおよばない」とつづく。『平治へいじ物語ものがたり』の「ぎゅうわか奥州おうしゅうくだりのこと」のあきらだんでは、義経よしつね対面たいめんした藤原秀衡ふじわらのひでひら台詞せりふとして「みめよき冠者かんじゃどのなれば、ひめっているもの婿むこにもりましょう」とべている[注釈ちゅうしゃく 23]

江戸えど時代じだいには猿楽さるがくげんのう)や歌舞伎かぶき題材だいざいとして義経よしつね物語ものがたりが「義経よしつねぶつ」とばれる分野ぶんやにまで成長せいちょうし、人々ひとびと人気にんきはくしたが、そこでの義経よしつね容貌ようぼう美化びかされ、美男びなん御曹司おんぞうし義経よしつね印象いんしょう定着ていちゃくしていった。

子孫しそん伝承でんしょう[編集へんしゅう]

下野げやこく御家人ごけにん中村なかむらちょうじょう義経よしつね遺児いじであったという伝承でんしょうがある。「藤原秀衡ふじわらのひでひらいのちけた常陸ひたちぼううみみこと源義経みなもとのよしつねけいわか千歳ちとせまる)を常陸ひたち入道にゅうどうねん西にし伊達だて朝宗ともむね)にたくした。けいわか千歳ちとせまる)は、のちあさじょう名乗なのった」と、栃木とちぎけん真岡しんおか遍照寺へんしょうじ古寺ふるでら[32][33]や、青森あおもりけん弘前ひろさき新寺しんてらまち圓明寺えんみょうじ円明寺えんめいじ)の縁起えんぎ[34]のこされており、えん所縁しょえんもない遠隔えんかくいて同様どうよう伝承でんしょうがある。あさじょう一族いちぞく中村なかむら現在げんざいまで存続そんぞくしている。

郎党ろうとう従者じゅうしゃなど[編集へんしゅう]

歌川うたがわ国芳くによし義経よしつね主従しゅうじゅう江戸えど時代じだい

以下いか物語ものがたりのみにられる人物じんぶつ

講談こうだんなどでかたられるいわゆる「源義経みなもとのよしつね19しん」は、武蔵坊むさしぼう弁慶べんけい常陸ひたちぼううみみこと佐藤さとうつぎしんじ佐藤さとう忠信ただのぶ鎌田かまた藤太とうた鎌田かまたふじ伊勢いせ三郎さぶろう駿河するが次郎じろう亀井かめい六郎ろくろう片岡かたおか八郎はちろう鈴木すずき三郎さぶろう熊井くまい太郎たろう鷲尾わしお三郎さぶろう御厨みくりや喜三きぞうふとし江田えだはじめ江田えだはじめさんほり弥太郎やたろう赤井あかい十郎じゅうろう黒井くろい五郎ごろう[35]

史跡しせき祭祀さいし[編集へんしゅう]

神社じんじゃ銅像どうぞうさいなど。

伝説でんせつ[編集へんしゅう]

すぐれたぐんざいちながら非業ひごうわった義経よしつね生涯しょうがいは、人々ひとびと同情どうじょうび、このような心情しんじょうして判官贔屓はんがんびいきというようになった。また、義経よしつね生涯しょうがい英雄えいゆうされてかたられるようになった。

義経よしつね伝説でんせつなかでもとく有名ゆうめい武蔵坊むさしぼう弁慶べんけいとの堀川ほりかわ小路こうじから清水しみず観音かんのんでの出会であい。(後世こうせい作品さくひんでは五条ごじょう大橋おおはし)、陰陽いんようおにいち法眼ほうげんむすめつうじて伝家でんか兵書へいしょろく』『さんりゃく』をぬすしてまなんだはなし衣川きぬがわたたかいでの弁慶べんけい往生おうじょう伝説でんせつなどは、死後しご200ねん室町むろまち時代ときよ初期しょきころ成立せいりつしたといわれる『義経よしつね』をつうじて世上せじょうひろまった物語ものがたりである。とくに『ろく韜』のうち「とらまき」をまなんだことがこううけたまわ寿ことぶきひさしらんでの勝利しょうりつながったとわれ、ここから成功せいこうのための必読ひつどくしょを「とらまき」とぶようになった。

また義経よしつねかれ武術ぶじゅつ師匠ししょうとされるおにいち法眼ほうげんからつたわったとされる武術ぶじゅつ流派りゅうは存在そんざいする。

不死ふし伝説でんせつ[編集へんしゅう]

後世こうせい人々ひとびと判官贔屓はんがんびいき心情しんじょうは、義経よしつね衣川きぬがわんでおらず、奥州おうしゅうからさらにきたげたのだという不死ふし伝説でんせつした。さらに、この伝説でんせつもとづいて、実際じっさい義経よしつね北方ほっぽうすなわち蝦夷えぞのがれたとする主張しゅちょうを、「義経よしつね北方ほっぽうきたぎょう伝説でんせつ」とんでいる[36]。そして寛政かんせい11ねん1799ねん)に、この伝説でんせつもとづき、蝦夷えぞのピラトリ(げん北海道ほっかいどう沙流さるぐん平取びらとりまち)に義経よしつね神社じんじゃ創建そうけんされた。

義経よしつね北方ほっぽうきたぎょう伝説でんせつ」の原型げんけいとなったはなしは、室町むろまち時代ときよ御伽草子おとぎぞうしられる『御曹子おんぞうしとうわたし説話せつわであるとかんがえられている。これは、頼朝よりとも挙兵きょへい以前いぜん青年せいねん時代じだい義経よしつねが、当時とうじ渡島ととう(わたりしま)」とばれていた北海道ほっかいどうわたってさまざまな怪異かいい体験たいけんするという物語ものがたりである。未知みちなるへの冒険ぼうけんたんが、庶民しょみんゆめとして投影とうえいされているのである。このような説話せつわが、のちにかたたちの蝦夷えぞアイヌたいする知識ちしきふかまるにつれて、衣川きぬがわなんのがれた義経よしつね蝦夷えぞわたってアイヌのおうとなった、という伝説でんせつ転化てんかしたとかんがえられる。またアイヌの人文じんぶんしんであるオキクルミ義経よしつね従者じゅうしゃのサマイクルは弁慶べんけいであるとして、アイヌの同化どうか政策せいさくにも利用りようされた。またシャクシャイン義経よしつね後裔こうえいであるとする(荒唐無稽こうとうむけいの)せつもあった。これにもとづき、中川なかがわぐん本別ほんべつまちには義経よしつねさんや、弁慶べんけいほらばれる義経よしつね弁慶べんけいらがいちふゆごしたとされる洞窟どうくつ存在そんざいする。

またこれらの伝説でんせつ強化きょうかしたとおもわれる記述きじゅつとして、江戸えど幕府ばくふ儒家じゅかはやし羅山らざん(はやしらざん)の『ぞく本朝ほんちょうどおりかん』がある。記述きじゅつは「ある曰、ころもかわこれやく義経よしつね不死ふし、逃到蝦夷えぞとう其遺しゅそんいまげんわけ義経よしつね衣川きぬがわせんなず、のが蝦夷えぞとういたりその子孫しそんのこす)」とある。

義経よしつね=チンギス・ハーンせつ[編集へんしゅう]

このきたぎょう伝説でんせつ延長えんちょうとして幕末ばくまつ以降いこう近代きんだい登場とうじょうしたのが、義経よしつね蝦夷えぞからうみえて大陸たいりくわたり、成吉せいきちおもえあせ(チンギス・ハーン)になったとする「義経よしつね=チンギス・ハーンせつ」である。

この伝説でんせつ萌芽ほうがもやはり日本人にっぽんじん北方ほっぽうはじめた江戸えど時代じだいにある。きよしいぬいたかしみかどぶんなかに「ちん先祖せんぞせいみなもと義経よしつねという。その清和せいわからたので国号こくごうしんとしたのだ」といてあった、あるいは12世紀せいきさかえたきむ将軍しょうぐん源義経みなもとのよしつねというものがいたといううわさ流布るふしている。これらのうわさは、江戸えど時代じだい初期しょき沢田さわだ源内げんない発行はっこうした『かねべつほん』の日本語にほんごやく発端ほったんである[注釈ちゅうしゃく 24]

このように江戸えど時代じだいすで存在そんざいした義経よしつね大陸たいりく渡航とこうおんな真人しんじん満州まんしゅうじん)になったという風説ふうせつから、明治めいじになると義経よしつねがチンギス・カンになったというせつとなえられるようになった。明治めいじはいり、これをしるしたシーボルト著書ちょしょ日本にっぽん』を留学りゅうがくさきロンドンんだ末松すえまつ謙澄けんちょうケンブリッジ大学けんぶりっじだいがく卒業そつぎょう論文ろんぶんで「だい征服せいふくしゃ成吉せいきちおもえあせ日本にっぽん英雄えいゆう源義経みなもとのよしつねどう一人物いちじんぶつなり」という論文ろんぶんき、『義経よしつね再興さいこう』(明治めいじ学会がっかい雑誌ざっし)として日本にっぽん和訳わやく出版しゅっぱんされブームとなる。

大正たいしょうはいり、アメリカまな牧師ぼくしとなっていた小谷おたにちょん一郎いちろうは、北海道ほっかいどう移住いじゅうしてアイヌ問題もんだいんでいたが、アイヌの人々ひとびと信仰しんこうする文化ぶんかかみオキクルミ正体しょうたい義経よしつねであるというはなしき、義経よしつねきたぎょう伝説でんせつ真相しんそうかすために大陸たいりくわたって満州まんしゅうモンゴル旅行りょこうした。かれはこの調査ちょうさ義経よしつねがチンギス・カンであったことを確信かくしんし、大正たいしょう13ねん1924ねん)に著書ちょしょ成吉せいきちおもえあせ源義經みなもとのよしつね也』を出版しゅっぱんした。このほん判官贔屓はんがんびいき民衆みんしゅうしんつかんでだいベストセラーとなる。現代げんだい日本にっぽん義経よしつね=チンギス・ハーンせつられているのは、このほんがベストセラーになったことによるものである。

こうしたチンギス・ハーンせつ明治めいじ学界がっかいからにゅうえびす伝説でんせつふくめて徹底的てっていてき否定ひていされ、アカデミズムの世界せかいでまともにげられることはなかったが、学説がくせつえた伝説でんせつとして根強ねづよのこり、同書どうしょ昭和しょうわ初期しょきつうじて増刷ぞうさつかさねられ、また増補ぞうほ出版しゅっぱんされた。このほんれられた背景はいけいとして、日本人にっぽんじん判官贔屓はんがんびいき心情しんじょうだけではなく、かつてのにゅうえびす伝説でんせつ形成けいせい江戸えどにおける蝦夷えぞへの関心かんしん表裏ひょうりであったように、領土りょうど拡大かくだい大陸たいりく進出しんしゅつすすんでいた当時とうじ日本にっぽん社会しゃかい風潮ふうちょうがあった。

現在げんざいでは後年こうねん研究けんきゅう結果けっかや、チンギス・カンのおおよその生年せいねん父親ちちおや名前なまえも「元朝がんちょう秘史ひし」などからはっきりとわかっていることから、みなもと義経よしつね=チンギス・カンせつ学術がくじゅつてきには完全かんぜん否定ひていされたせつである

近年きんねん研究けんきゅう[編集へんしゅう]

佐藤さとう進一しんいち[編集へんしゅう]

鎌倉かまくらとの関係かんけい
佐藤さとう進一しんいち頼朝よりとも義経よしつね対立たいりつについて、鎌倉かまくら政権せいけん内部ないぶには関東かんとう有力ゆうりょく御家人ごけにん中心ちゅうしんとする「東国とうごく独立どくりつ」と、頼朝よりとも側近そっきんきょうくだ官僚かんりょうら「おや京都きょうと」が並立へいりつしていたことが原因げんいんであると主張しゅちょうしている。義経よしつね頼朝よりともおとうとであり、たいら追討ついとう搦手からめて大将たいしょう在京ざいきょう代官だいかんにんじられるなど、側近そっきんなかでももっと重用じゅうようされた。上洛じょうらく朝廷ちょうていとの良好りょうこう関係かんけい構築こうちくするため、武士ぶし狼藉ろうぜき停止ていし従事じゅうじしており、頼朝よりともおや京都きょうと政策せいさく中心ちゅうしん人物じんぶつであった。その関東かんとう有力ゆうりょく御家人ごけにん編成へんせいされたはんよりゆきぐん半年はんとしかかってもたいらたおせないなか義経よしつね西国さいこく水軍すいぐん味方みかたれることでやく2箇月かげつたいらほろぼした。この結果けっか政策せいさく決定けっていでも論功行賞ろんこうこうしょう配分はいぶんでもおや京都きょうと発言はつげんりょくつよまった。しかし、東国とうごく独立どくりつ反発はんぱつし、おや京都きょうと政策せいさく急先鋒きゅうせんぽうであった義経よしつね糾弾きゅうだんした。頼朝よりとも支持しじ基盤きばんである有力ゆうりょく御家人ごけにんつなめるため、義経よしつねあたえた所領しょりょう没収ぼっしゅうして御家人ごけにんたちにあたえた。合戦かっせん勝利しょうりみちびいたにもかかわらず失脚しっきゃくさせられた義経よしつねは、西国さいごく武士ぶし結集けっしゅうして鎌倉かまくら政権せいけん対抗たいこうしようとしたのである。

うえ横手よこてまさたかし[編集へんしゅう]

うえ横手よこてまさたかし鎌倉かまくら幕府ばくふ編纂へんさんである『吾妻あづまきょう』に疑問ぎもんていし、義経よしつね無断むだん任官にんかん問題もんだい老獪ろうかいのち白河しらかわ法皇ほうおう義経よしつね利用りようして頼朝よりともとの離反りはんはかり、義経よしつねがそれにせられた結果けっかであるとする通説つうせつ批判ひはんしている[37][38]

任官にんかん問題もんだい
頼朝よりとも義経よしつねたいら追討ついとう派遣はけんしなかったのは、無断むだん任官にんかんたいする制裁せいさいなどではなく、京都きょうと治安ちあん維持いじ義経よしつね必要ひつようであり公家くげがわつよ要望ようぼうがあったからである。こう白河しらかわいん義経よしつね治安ちあん維持いじ活動かつどう期待きたいして検非違使けびいし左衛門尉さえもんのじょうにんじた。しかしその結果けっか義経よしつねこう白河しらかわいん側近そっきん編成へんせいされたことになり、幕府ばくふへの奉仕ほうし不可能ふかのうになったため、それが頼朝よりともいかりをまねいたのである。さらに壇ノ浦だんのうら合戦かっせん義経よしつね鎌倉かまくら拘束こうそくせず京都きょうとかえしたのは、いん御厩みまやされいん側近そっきんとなった義経よしつね利用りようしてこう白河しらかわいん挑発ちょうはつするためであった。頼朝よりともこう白河しらかわいん頼朝よりとも追討ついとう宣旨せんじさざるをないようにんだ結果けっかおおくの政治せいじてき要求ようきゅうきつけることに成功せいこうしたのである。
判官贔屓はんがんびいき吾妻あづまきょう
また伝説でんせつ義経よしつねぞうには陰影いんえいがあり感傷かんしょうてきであるが、実像じつぞうちかいとおもわれる『平家ひらか物語ものがたり』の義経よしつねぞうあかるく闊達かったつ勇者ゆうしゃであり、なんかげりもない。ところが幕府ばくふ編纂へんさんの『吾妻あづまきょう』は、反逆はんぎゃくしゃであるはずの義経よしつねたいして非常ひじょう同情どうじょうてきであり、義経よしつね心情しんじょうっている記述きじゅつおおられ、「判官贔屓はんがんびいき」の度合どあいがつよい。頼朝よりともについてはおとうとたちへの冷酷れいこくさをかくそうとはせず、静御前しずかごぜんまい場面ばめんでは、凛然りんぜんたるせい政子まさこたいし、狭量きょうりょう頑迷がんめい頼朝よりともという描写びょうしゃ悪意あくいてきなものがある。また、義経よしつね讒言ざんげんした梶原かじはら景時かげとき悪人あくにんとしてだんじている。景時かげとき北条ほうじょうによって幕府ばくふから追放ついほうされた人物じんぶつである。『吾妻あづまきょう』は「判官贔屓はんがんびいき」の構図こうずつくり、みなもとから政権せいけんうばった北条ほうじょう立場たちば正当せいとうしているとられる。

菱沼ひしぬま一憲かずのり[編集へんしゅう]

菱沼ひしぬま一憲かずのり国立こくりつ歴史れきし民俗みんぞく博物館はくぶつかんけん協力きょうりょくいん)は著書ちょしょ以下いかせつべている[14]

任官にんかん問題もんだい
頼朝よりともとの対立たいりつ原因げんいんについては、たしかに、『吾妻あづまきょうもとこよみ元年がんねん(1184ねんはちがつじゅうななにちじょうには、同年どうねん8がつ6にちあに許可きょかることなく官位かんいけたことで頼朝よりともいかりをい、追討ついとう使猶予ゆうよされたとかれている。しかし、おなじく『吾妻あづまきょうはちがつさんにちじょうによると、8がつ3にち頼朝よりとも義経よしつね伊勢いせこく平信へいしんけん追討ついとう指示しじしているので、任官にんかん以前いぜん義経よしつね西海にしうみ遠征えんせいからはずれていたともかんがえられる。また、同月どうげつ26にち義経よしつねたいら追討ついとう使かんたまわっている。源範頼みなもとののりよりたいら追討ついとう使かんたまわったのがどう29にちなので、それよりはやい。つまり、義経よしつねたいら追討ついとう使猶予ゆうよされた記録きろくはないのである。よって、『吾妻あづまきょうじゅうななにちじょうは、義経よしつね失脚しっきゃく、その説明せつめいをするために創作そうさくされたものとおもわれる。
戦術せんじゅつとして
義経よしつねすぐれた戦略せんりゃくであり戦術せんじゅつであった。どの合戦かっせんでも、かみがかった勇気ゆうき行動こうどうりょくではなく、周到しゅうとう合理ごうりてき戦略せんりゃくとその実行じっこうによって勝利しょうりしたのである。
一ノ谷いちのやたたかいでは、義経よしつね夜襲やしゅうにより三草山みくさやま平家へいけぐんやぶったのちたいら地盤じばんであったひがし播磨はりま制圧せいあつしつつ進軍しんぐんしている。これは、たいらぐん丹波たんばルートからの上洛じょうらくふせぐためでもあった。また、義経よしつね自身じしん報告ほうこくによると、西にし一ノ谷いちのやこうからはいっているのであり、わずかな手勢てぜい断崖だんがいりるという無謀むぼう作戦さくせん実施じっししていない。
屋島やしまたたかいでは、水軍すいぐん味方みかたけて兵糧ひょうろう兵船へいせん確保かくほし、四国しこくはんたいら勢力せいりょく連絡れんらくうなど、1箇月かげつかけて周到しゅうとう準備じゅんびしている。そして、義経よしつねりくから、梶原かじはら景時かげときうみから屋島やしまめるという作戦さくせんてていたのであり、けいめるのもかずにあらしうみしたわけではない。
壇ノ浦だんのうらたたかいのまえにも、水軍すいぐん味方みかたれて瀬戸内海せとないかい制海権せいかいけんうばい、軍備ぐんびととのえるのに1箇月かげつようしている。また、義経よしつねみずしゅ梶取かんどり弓矢ゆみやねらえば、たいらかた応戦おうせんするはずである。当時とうじたいらかた内陸ないりく拠点きょてんうしない、弓箭きゅうせん補給ほきゅうもままならなかった。そのため序盤じょばんくし、のちかけられるままとなって防備ぼうびみずしゅ梶取かんどりから犠牲ぎせいになっていったのである。そもそも当時とうじ合戦かっせんにルールは存在そんざいせず(厳密げんみつうならば、武士ぶし私的してき理由りゆう所領しょりょう問題もんだい名誉めいよかかわる問題もんだいで、自力じりき当事とうじしゃあいだ解決かいけつしようとして合戦かっせんおよ場合ばあいにはいち合戦かっせんおこな場所ばしょ指定していなどがあったことが『今昔こんじゃく物語ものがたりしゅう』などで確認かくにんできる)、義経よしつね勝因しょういん当時とうじとしては卑怯ひきょう戦法せんぽうにある、と非難ひなんすることにたいする反論はんろんもある。
義経よしつね頼朝よりとも代官だいかんとして、たいら追討ついとうという軍務ぐんむ遂行すいこうしつつ、朝廷ちょうていとの良好りょうこう関係かんけい構築こうちくするという相反あいはんする任務にんむをこなし、軍事ぐんじ政治せいじ両面りょうめん成果せいかげた。また、無断むだん任官にんかん問題もんだいは『吾妻あづまきょう』の創作そうさくであり、「政治せいじセンスの欠如けつじょ」という評価ひょうかあたらないのである。

また、菱沼ひしぬまべつ著書ちょしょ以下いかせつべている[39]

頼朝よりとも代官だいかんとしての義経よしつね
まず、頼朝よりとも義経よしつね上洛じょうらくめいじた段階だんかいでは、あくまでも白河しらかわ法皇ほうおう供物くもつとどけることを目的もくてきとしており、『たま寿ことぶきひさし2ねん11月7にちじょうにも、頼朝よりとも代官だいかん義経よしつね)が近江おうみ到着とうちゃく時点じてん兵力へいりょくは5・600しかなく合戦かっせんそなえをしていなかったことがしるされている。また、おなじく10日とおかじょうには義仲よしなか義経よしつね入洛にゅうらくみとめる様子ようすせている。頼朝よりとも義経よしつね派遣はけんした当初とうしょ目的もくてき寿ことぶきひさし2ねん10がつ宣旨せんじけて東海道とうかいどう東山ひがしやまみち地域ちいき治安ちあん回復かいふくにあたるとともに朝廷ちょうていとの関係かんけい改善かいぜんすることが目的もくてきであり、義仲よしなかとの軍事ぐんじてき対決たいけつ意図いとしたものではなかった。それが、ほうじゅうてら合戦かっせんによって頼朝よりとも義仲よしなかとの対決たいけつ決意けついしてはんよりゆきひきいる義仲よしなか討伐とうばつぐん別途べっと派遣はけんし、先行せんこうしていた義経よしつね合流ごうりゅうめいじたとする。
こうした経緯けいいから、頼朝よりともから朝廷ちょうていとの政治せいじ交渉こうしょう権限けんげんみとめられていたのは義経よしつねのみであった。たい義仲よしなかせんつづたいたいらせんにおけるしゅたるしょうであったのははんよりゆきであったが、こう白河しらかわ法皇ほうおうへの戦勝せんしょう報告ほうこく義経よしつねおこない、その在京ざいきょう代官だいかんとして義仲よしなかわって京都きょうと治安ちあん維持いじたったのも義経よしつねであった(当時とうじ朝廷ちょうてい一番いちばん関心かんしん京都きょうと治安ちあん問題もんだいであった)。頼朝よりとも朝廷ちょうていとの連携れんけいつよめてたい義仲よしなかたいらせんへの軍事ぐんじ作戦さくせん東国とうごく支配しはい確立かくりつ円滑えんかつ推進すいしんするための「事務じむてき代官だいかん」として義経よしつねを、実際じっさい軍事ぐんじ作戦さくせんおこな大将たいしょう役割やくわりたす「軍事ぐんじてき代官だいかん」としてはんよりゆきくことでみずからの方針ほうしん推進すいしんしようとしたとみる。

元木もとき泰雄やすお[編集へんしゅう]

元木もとき泰雄やすお従来じゅうらいおおむねその記述きじゅつ信用しんようできるとかんがえられていた『吾妻あづまきょう』について近年きんねんいちじるしくすすんだ史料しりょう批判ひはんと、『たま』などどう時代じだい史料しりょう丹念たんねんわせる作業さぎょうによって、あたらしい義経よしつねぞう提示ていじしている[40]

頼朝よりともとの関係かんけい父子ふしよし
挙兵きょへい当時とうじ頼朝よりともみずからの所領しょりょう子飼こがいの武士ぶしだんもなく、独立どくりつしんつよ東国とうごく武士ぶしたちみずからの権益けんえきまもるためにかついだ存在そんざいであった。それだけに、わずかな郎党ろうとうともなったにぎないとはいえ、みずからの右腕うわんともなりおとうと義経よしつね到来とうらいおおきなよろこびであった。以後いご義経よしつねは「御曹司おんぞうし」とばれるが、これは『たま』に両者りょうしゃは「父子ふしよし」とあるように頼朝よりとも養子ようしとしてその保護ほごはいったことを意味いみし、場合ばあいによってはその後継こうけいしゃともなり存在そんざいになった(当時とうじ頼朝よりとも嫡子ちゃくしよりゆきはまだまれていなかった)とともに、「ちち頼朝よりとも従属じゅうぞくする立場たちばかれたとかんがえられる。
頼朝よりとも代官だいかんとして・京都きょうと守護しゅご
義仲よしなか追討ついとう出陣しゅつじん義経よしつねまわってきたのは、東国とうごく武士ぶしたちが所領しょりょう拡大かくだい関係かんけいのない出撃しゅつげき消極しょうきょくてきだったためである。義経よしつねはんよりゆきはいずれもしょう人数にんずう軍勢ぐんぜいひきいて鎌倉かまくら出立しゅったつし、途中とちゅう現地げんち武士ぶし組織そしきすることで義仲よしなかとの対決たいけつはかった。とく入京にゅうきょうにあたっては、ほうじゅうてら合戦かっせん義仲よしなか敵対てきたいしたきょう武者むしゃたちの役割やくわりおおきかった。一ノ谷いちのやたたかも、はんよりゆき義経よしつね一元いちげんてき統率とうそつされたかたちおこなわれたわけではなく、独立どくりつした各地かくち源氏げんじ一門いちもんきょう武者むしゃたちとの混成こんせいぐんという色彩しきさいつよかった。
合戦かっせん義経よしつね疲弊ひへいした治安ちあん回復かいふくつとめた。わりにたいら追討ついとうのために東国とうごく武士ぶしたちと遠征えんせいしたはんよりゆきは、長期ちょうきせん選択せんたくしたこととわせ進撃しんげき停滞ていたいし、士気しき低下ていか目立めだつようになった。これに危機ききかんいた頼朝よりともは、短期たんき決戦けっせんもやむなしと判断はんだん義経よしつね起用きよう義経よしつね見事みごとにこれにこたえ、西国さいごく武士ぶし組織そしきし、屋島やしま壇ノ浦だんのうら合戦かっせんたいら滅亡めつぼうんだ。これは従軍じゅうぐんしてきた東国とうごく武士ぶしたちにとって、戦功せんこうてる機会きかいうばわれたことを意味いみし、義経よしつねたいする憤懣ふんまん拡大かくだいする副産物ふくさんぶつみ、頼朝よりとも困惑こんわくさせた。
決裂けつれつ転落てんらく伝説でんせつはじまり
頼朝よりとも戦後せんご処理しょり過程かていで、義経よしつね伊予いよもり推挙すいきょという最高さいこう栄誉えいよあたえるわりに、鎌倉かまくら召喚しょうかんみずからの統制とうせいく、というかたち事態じたい収拾しゅうしゅうしようとかんがえた。だがその思惑おもわくはずれた。義経よしつねは、たいら滅亡めつぼう直後ちょくご法皇ほうおうからいん親衛隊しんえいたいちょうともうべきいん御厩みまや補任ほにんされ、検非違使けびいしひだり兵衛ひょうえじょう伊予いよもり兼務けんむつづけ、つづきょうとどまった。こう白河しらかわ独自どくじ軍事ぐんじ体制たいせい構築こうちくするために、義経よしつね活用かつようしたのである。てんきみ権威けんい背景はいけいに「ちち」にさからった義経よしつね両者りょうしゃ関係かんけいはここで決定的けっていてき破綻はたんむかえる。
義経よしつね頼朝よりとも追討ついとう院宣いんぜんたにもかかわらず、呼応こおうする武士ぶしだんはほとんどあらわれず、急速きゅうそく没落ぼつらくした。すで頼朝よりとも各地かくち武士ぶしたいする恩賞おんしょうあたえるなど果断かだん処置しょちこうじており、入京にゅうきょう以後いご義経よしつね協力きょうりょくしてきたきょう武者むしゃたちも、恩賞おんしょうあたえることが出来できない義経よしつねにはくみしなかった。復興ふっこう尽力じんりょくし「義士ぎし」ととなえられた義経よしつねがこうしたかたち劇的げきてき没落ぼつらくしたことがきょう人々ひとびとつよ印象いんしょうあたえ、伝説でんせついちとなった。
退去たいきょした義経よしつねらにわって頼朝よりとも代官だいかんとして入京にゅうきょうし、朝廷ちょうてい介入かいにゅうおこなったのは、かつてのおとうとたちではなく、頼朝よりとも岳父がくふである北条ほうじょう時政ときまさであった。いま幼年ようねんであるよりゆき外祖父がいそふであり、嫡男ちゃくなん戦功せんこう義経よしつねうばわれるなど、時政ときまさ義経よしつねつよ敵意てきいいていたとかんがえられる。その没落ぼつらくによって、時政ときまさ頼朝よりとも後継こうけいしゃ外戚がいせきとしての地位ちい決定けっていけ、勢力せいりょく拡大かくだい端緒たんしょひらくことができたのである。

フィクションにおける源義経みなもとのよしつね[編集へんしゅう]

義経よしつねたいする人気にんきたかく、代表だいひょうてき軍記物語ぐんきものがたりである『義経よしつね』が死後しご200ねんってから編纂へんさんされるほどであり、義経よしつねもしくは主従しゅうじゅう題材だいざいとした「義経よしつねぶつ」「判官ほうがんぶつ」とばれるいちジャンルをきずいた[6]謡曲ようきょくでは30きょくさいわいわかまいでは19きょくの「判官ほうがんぶつ」がある[41]。またあまりに人気にんきがあったために義経よしつね関係かんけいない演目えんもくでも「あらわたる義経よしつねおおやけ」というかたりとともに義経よしつね登場とうじょうし、「さしたるようもなかりせば」とのかたりとともにただむという演出えんしゅつおこなわれていた[6]

明治めいじ時代じだい浮世絵うきよえ中澤なかざわみのるあきら五條橋ごじょうばしこれがつ』1897

義経よしつねもしくは義経よしつね主従しゅうじゅう主題しゅだいにした作品さくひん[編集へんしゅう]

軍記ぐんき
  • 義経よしつね』(芸能げいのう軍記ぐんき作者さくしゃしょう 成立せいりつ - 室町むろまち初期しょき
御伽草子おとぎぞうし
のう
文楽ぶんらく浄瑠璃じょうるり歌舞伎かぶき
春本しゅんぽん
大衆たいしゅう文化ぶんか現代げんだいのドラマ、小説しょうせつ漫画まんがなど)

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 義経よしつね肖像しょうぞうとしてよくもちいられるこの巻物まきもの弁慶べんけいたいになっており、『義経よしつね』の藤原ふじわらやすし衡に襲撃しゅうげきされる場面ばめんえがいたものである(容姿ようしについては#容貌ようぼう体格たいかく参照さんしょう)。
  2. ^ 系図けいず纂要』では誕生たんじょう2がつ2にちとしている。
  3. ^ 判官ほうがんとは四等官しとうかんせいにおいてだいさんしょく言葉ことばであり、義経よしつねにんじられた左衛門さえもん少尉しょうい衛門えもんの、検非違使けびいし少尉しょうい検非違使けびいしだいさんしょくにあたるためこうばれる。通常つうじょうは「はんがん」だが、『義経よしつね』の伝説でんせつ歌舞伎かぶきなどでは「ほうがん」とむ。
  4. ^ 義経よしつね少年しょうねんしるした「ぎゅうわか奥州おうしゅうくだりのこと」の部分ぶぶん金刀比羅宮ことひらぐうほんにはなく、学習がくしゅう院本いんぽん京師けいしほんによる。
  5. ^ このとき常盤ときわ逃亡とうぼうやそのはなしは『平治へいじ物語ものがたり』や『義経よしつね』などの軍記ぐんきぶつくわしいが、軍記ぐんきぶつ性格せいかくじょうどこまでが事実じじつかたっているかの判定はんていむずかしい。
  6. ^ 軍記ぐんきぶつ伝説でんせつによると11さい(15さいせつも)のとき自分じぶん出生しゅっしょうると、そうになることを拒否きょひして鞍馬山くらまやままわり、武芸ぶげいはげんだ鞍馬山くらまやま天狗てんぐめんこうむった落人おちうど(=鞍馬あんば天狗てんぐ)から剣術けんじゅつ手解てほどきをけたとされている。
  7. ^ 藤原秀衡ふじわらのひでひら庇護ひごたことについて、伝承でんしょうによればさえぎおう16さいときに、金売かねうり吉次よしじというきむ商人しょうにん手配てはいによったというが、この人物じんぶつ当時とうじおおくいた奥州おうしゅうする商人しょうにんたちもとにした虚構きょこう人物じんぶつおもわれる。
  8. ^ 吾妻あづまきょう』では「弱冠じゃっかんいちにん」で宿所しゅくしょおとずれたとあり、『源平げんぺい盛衰せいすい』では20、『平治へいじ物語ものがたり』では100ひきいていたとする。
  9. ^ 平家ひらか物語ものがたり』『源平げんぺい盛衰せいすい』による。『吾妻あづまきょう寿ことぶきひさし3ねん2がつ7にちじょうでも、義経よしつね精兵せいびょう70ひきいて鵯越ひよどりごえから攻撃こうげきしたとあり、義経よしつねはこの合戦かっせんおおきなはたらきをしたとされている。ただし近年きんねん、この「たたかい」において義経よしつねたした役割やくわりや、「ぎゃくとし」が実際じっさいにあったかとうについては、様々さまざま異論いろん提示ていじされている。詳細しょうさい一ノ谷いちのやたたか参照さんしょう
  10. ^ 吾妻あづまきょう』6がつ21にちじょうには、義経よしつねつよ任官にんかんのぞんでいたが、頼朝よりともはあえてゆるさなかったむね記載きさいがある。この人事じんじ知行ちぎょう国主こくしゅ頼朝よりともしたにあって兵糧ひょうろう徴収ちょうしゅうおこなう任務にんむがあるはんたよらと、在京ざいきょうしてたいらとの最前線さいぜんせん位置いちする義経よしつねとの役割やくわりであったとみなすせつがある[13]
  11. ^ なお『吾妻あづまきょう』によると義経よしつね西国さいこく出陣しゅつじん停止ていしつぎのような理由りゆうになっている。頼朝よりとも推挙すいきょずにこう白河しらかわによって左衛門さえもん少尉しょうい検非違使けびいし少尉しょうい左衛門さえもん検非違使けびいしさんとうかん判官ほうがん)に任官にんかんし、したがえじょせられいんへの昇殿しょうでんゆるされた。鎌倉かまくらには「これは自分じぶんのぞんだものではないが、法皇ほうおう度々どど勲功くんこう無視むしできないとしていてにんじられたので固辞こじすることができなかった」と報告ほうこく頼朝よりともは「意志いしそむくことは今度こんどばかりではない」と激怒げきどして義経よしつねたいら追討ついとうからはずしてしまう。しかし、最近さいきん研究けんきゅうによると義経よしつね西国さいこく出陣しゅつじんしなかったのはさんにちたいららん影響えいきょうのためであって、任官にんかんはこの時期じきにはさほど問題もんだいとなっていなかったのではないかという見解けんかいがある[13][14]
  12. ^ 従来じゅうらいはこの出陣しゅつじんは『吾妻あづまきょうもとこよみ2ねん(1185ねん)4がつ21にちじょう、5月5にちじょう記載きさいもとづき頼朝よりとも命令めいれいによっておこなわれたとみなされていた。しかし下記かきのことからこれに疑義ぎぎしめ見解けんかいつよまっている。『吾妻あづまきょうもとこよみ2ねん正月しょうがつ6にちじょうには、はんよりゆきてた同日どうじつづけ頼朝よりとも書状しょじょう記載きさいされている。その内容ないよう性急せいきゅう攻撃こうげきひかえ、天皇てんのう神器じんぎ安全あんぜん確保かくほさい優先ゆうせんにするようねんしたものだった。一方いっぽう義経よしつね出陣しゅつじんしたのは頼朝よりとも書状しょじょう作成さくせいされた4にちであり(『きち』『百錬ひゃくれんしょう正月しょうがつ10日とおかじょう)、屋島やしま攻撃こうげきによる早期そうき決着けっちゃく頼朝よりとも書状しょじょうしるされた長期ちょうきせん構想こうそうあきらかに矛盾むじゅんする。吉田よしだけいぼうが「ろうしたがえ土肥どい実平さねひら梶原かじはら景時かげとき)が追討ついとうかっても成果せいかがらず、はんよりゆき投入とうにゅうしても情勢じょうせいわっていない」と追討ついとう長期ちょうき懸念けねんいだき「義経よしつね派遣はけんして雌雄しゆうけっするべきだ」と主張しゅちょうしていることからかんがえると、屋島やしま攻撃こうげき義経よしつねの「せん」であり、たいら反撃はんげきおそれたいん周辺しゅうへん後押あとおしした可能かのうせいたかい。『平家ひらか物語ものがたり』でも義経よしつねみずからを「一院いちいん使つかい」と名乗なのり、伊勢いせ義盛よしもりも「院宣いんぜんをうけきゅうはって」とべている。これらのことから、頼朝よりとも命令めいれい義経よしつね出陣しゅつじんしたとするのは、たいら滅亡めつぼうされた虚構きょこうであるとする見解けんかいもある[15]
  13. ^ 平家ひらか物語ものがたり』や『源平げんぺい盛衰せいすい』などの軍記物語ぐんきものがたりでは、うけたまわ寿ことぶきひさしらんにおいて義経よしつね参加さんかした合戦かっせんは、義経よしつね戦法せんぽう機転きてん戦況せんきょう左右さゆうしたようにえがかれている。義経よしつねせん作法さほう無視むしして、みずしゅ梶取かんどり射殺しゃさつしたはなしはドラマや小説しょうせつとうによくられ、安田やすだ元久もとひさは「このとき義経よしつねは、当時とうじとしては破天荒はてんこう戦術せんじゅつをとった。すなわちかれ部下ぶかめいじて、てき戦闘せんとういんにはもくれず、兵船へいせんをあやつるみずしゅ梶取かんどりのみを目標もくひょうかけさせたのである」[16]として、みずしゅ梶取かんどり射殺しゃさつ壇ノ浦だんのうら戦局せんきょく決定けっていづけた最大さいだい要因よういん推測すいそくしている。なお『平家ひらか物語ものがたり』では義経よしつねみずしゅ梶取かんどりるようめいじる場面ばめんはなく、大勢おおぜいけっした「先帝せんていとう」の段階だんかいみなもとへいたいらふねうつり、みずしゅ梶取かんどり射殺しゃさつし、ころしたとえがかれていて、戦闘せんとういん射殺しゃさつ義経よしつね命令めいれいによるものか、へい暴走ぼうそうによるものかはさだかでない。
  14. ^ a b 判官ほうがんどのはきみ頼朝よりとも)の代官だいかんとして、その威光いこうによってつかわされた御家人ごけにんしたがえ、大勢おおぜいちからによって合戦かっせん勝利しょうりしたのにもかかわらず、自分じぶんいちにん手柄てがらであるかのようにかんがえている。平家へいけ討伐とうばつしたのちつね日頃ひごろ様子ようすえて猛々たけだけしく、したがっているへいたちはどんなにあうかと薄氷はくひょうおもいであり、みな真実しんじつじゅんする気持きもちはありません。自分じぶんきみ厳命げんめいうけたまわっているものですから、判官ほうがん殿どの非違ひいるごとに関東かんとう気色けしきちがうのではないかと諫めようとすると、かえってかたきとなり、ややもすればけいけるほどであります。さいわ合戦かっせん勝利しょうりしたことなのではや関東かんとうかえりたいとおもいます」
  15. ^ 頼朝よりともはんよりゆきてた書状しょじょうたいら三条さんじょう高倉たかくらみや以仁王もちひとおう)、木曽きそ義仲よしなかが「やまのみや鳥羽とば四宮しのみや実際じっさいにはこう白河しらかわ法皇ほうおう皇子おうじまどかめぐみ法親王ほうしんのう)」を殺害さつがいしたこと(すなわちすめらぎおや殺害さつがい行為こうい)が没落ぼつらくにつながったととらえて安徳天皇あんとくてんのう保護ほご厳命げんめい(『吾妻あづまきょう所収しょしゅう文治ぶんじ元年がんねん正月しょうがつろくにちみなもと頼朝よりとも書状しょじょう」)し、けん璽の確保かくほについても同様どうよう命令めいれい(『吾妻あづまきょう文治ぶんじ元年がんねん3がつ14にちじょう)をしており、義経よしつねにも同様どうよう命令めいれいされたとみられている。にもかかわらず、義経よしつね安徳天皇あんとくてんのう保護ほごできず、さらに行方ゆくえ不明ふめい宝剣ほうけんかんしても宇佐うさ八幡宮はちまんぐう発見はっけん祈願きがんおこなった(『のべけいほん平家へいけ物語ものがたり』)だけで積極せっきょくてき捜索そうさくしなかった。なお、頼朝よりともおよび朝廷ちょうていはんよりゆき佐伯さえきけいひろらにめいじて以後いご2ねんちかくも海人あまもちいた宝剣ほうけん捜索そうさくおこなったこと(『吾妻あづまきょう文治ぶんじ元年がんねん5がつ5にちじょうおよび文治ぶんじ3ねん6がつ3にちじょう、『たま文治ぶんじ2ねん3がつ4にちじょうおよび文治ぶんじ3ねん9がつ27にちじょう)がられている[17]
  16. ^ 宣旨せんじ作成さくせいしゃ高階たかしなやすしけいどうけいなかどうりゅうけいひらおやむねしょうけやきたかししょく藤原ふじわらひかりみやび親義ちかよしけい腹心ふくしんとして難波なんばよりゆきけいたいらぎょうただしたいらともやすし結構けっこうしゅうくわだてたものたち)として一条いちじょう能成よしなり中原なかはら信康のぶやすたいらぎょうちゅう腹心ふくしん)、藤原ふじわらあきらつな藤原ふじわらはんつな)、たいらともかん腹心ふくしん)、藤原ふじわらしんもり藤原ふじわら信実しんじつ藤原ふじわら時成ときなり中原なかはらしんさだ
  17. ^ 藤原ふじわらはん藤原ふじわら朝方あさがた興福寺こうふくじひじりひろし鞍馬あんばてら東光とうこうぼうなど。
  18. ^ 義経よしつねたい衡によってたれ、その首級しゅきゅう鎌倉かまくらとどけられることになったさい使者ししゃを、『吾妻あづまきょう』では「新田にった冠者かんじゃ高平たかひら」とつたえているが、この人物じんぶつたい衡のよんおとうとしゅう衡のよんなん藤原ふじわらだかのことであった可能かのうせいたかい。「新田にった冠者かんじゃ」は文治ぶんじねん奥州おうしゅう合戦かっせん捕虜ほりょとなった樋爪ひづめ五郎ごろう衡のけい衡にかんされている名称めいしょうであるので、使者ししゃけい衡だった可能かのうせいもあるが、義経よしつね首級しゅきゅうとどけるという重要じゅうよう任務にんむ遂行すいこうを、たい衡がみずからのおとうとたくしたとかんがえるのはそう不自然ふしぜんなことではないとおもわれる。また、奥州おうしゅう合戦かっせんのち大河おおかわ兼任けんにんらんこした大河おおかわ兼任けんにん兄弟きょうだい新田にった三郎さぶろう入道にゅうどうとする研究けんきゅうもある。[よう出典しゅってん]
  19. ^ さらに『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』の記述きじゅつによれば、おとうとちゅう衡の同母どうぼおとうととされるつうとも誅殺ちゅうさつしている。また、ちゅう衡は義経よしつね誅殺ちゅうさつ反対はんたいしており、義経よしつね死後しごたい衡にたいして反乱はんらんこした(あるいは計画けいかくした)ために誅殺ちゅうさつされたとも推測すいそくされている。つう衡もちゅう衡と同様どうよう義経よしつねつうじていた、くわえて、反乱はんらんしくは反乱はんらん計画けいかく)にかかわっていたため、殺害さつがいされたとかんがえることもできる。このような状況じょうきょうから、つう衡もちゅう同様どうよう義経よしつね保護ほご主張しゅちょうしていたとかんがえることもできる。[よう出典しゅってん]
  20. ^ 義経よしつね元服げんぷくつたえるに資料しりょう伝承でんしょうには、『平治へいじ物語ものがたり』をはじめ、現行げんこうのう演目えんもくとしてられる『烏帽子えぼしおり』、竜王りゅうおうまち義経よしつね元服げんぷくいけ」、義経よしつね元服げんぷくの「たらい」、「烏帽子屋えぼうしや五郎太ごろたおっと屋敷やしきあと」、元服げんぷくおり参拝さんぱいした「かがみ神社じんじゃ」(くに重要じゅうよう文化財ぶんかざい)、その参道さんどうにある「烏帽子えぼしまつ」などがある。
  21. ^ いもうとおっとを「むこ」としょうする用法ようほうもあることから、義経よしつね京都きょうとはなれたのち文治ぶんじ2ねん6がつ6にち常盤ときわとともにらえられた義経よしつね異父いふいもうとちち一条いちじょう長成ちょうせい)をゆうつなつまとする保立ほたて道久みちひさ[28]細川ほそかわ涼一りょういち[29]せつもある。
  22. ^ もり嗣は屋島やしま合戦かっせんわせでも、義経よしつねを「みなしごの稚児ちごきむ商人しょうにん従者じゅうしゃになった小冠者こかんじゃ」とののしっている。
  23. ^ 同書どうしょでは母親ははおや常盤ときわ絶世ぜっせい美女びじょとされており(『平治へいじ物語ものがたり』『義経よしつね』)、容姿ようし重視じゅうしされて源義朝みなもとのよしとも側室そくしつとなった。父親ちちおやあさについては、面識めんしきのあった佐藤さとう兄弟きょうだいはは義経よしつね対面たいめんしたさい、「こかうの殿しんがりをおさなめによきおとこかなとおもひたてまつりしが、さうあしくこそおはすれども、その御子みこかとおぼゆる(ひだり馬頭ばとう殿どのあさ)は幼心おさなごころにもよいおとこだと拝見はいけんしましたが、あなたは父上ちちうえくらべて見劣みおとりするけれども、そのおかとおもわれます)」とべている(『平治へいじ物語ものがたり京師けいしほん)。
  24. ^ かねべつほん』はきむ王朝おうちょう正史せいしである『きむふみ』の外伝がいでんとされるが、実際じっさいにはそのような書物しょもつ中国ちゅうごくには存在そんざいしない。また沢田さわだ源内げんないにせ家系かけいづくりの名人めいじんであり、現代げんだいでは『かねべつほん』は偽書ぎしょであるとされる。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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  41. ^ 判官ほうがんぶつ(ほうがんもの)とは - コトバンク

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]