わらびひめ

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わらびひめ(わらびひめ、なま没年ぼつねんしょう)は、平安へいあん時代じだい末期まっき女性じょせい平家ひらか一門いちもん平時忠たいらのときただむすめ本名ほんみょう不明ふめい。『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』で源義経みなもとのよしつねわらわとされる。能登のとこくげん石川いしかわけん能登半島のとはんとう)の伝承でんしょうわらびひめばれる。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

寿ことぶきひさし4ねん1185ねん)3がつ24にち壇ノ浦だんのうらたたか平家へいけ一門いちもん滅亡めつぼうすると、ときちゅう源義経みなもとのよしつね軍勢ぐんぜいらえられて捕虜ほりょとしてもどった。『吾妻あづまきょう』によると、同年どうねん5がつ20日はつか配流はいる決定けっていされていたときちゅうが、義経よしつねしゅうととなったえんによっていま京都きょうと滞在たいざいし、義経よしつねあにみなもと頼朝よりともいかりをっている記録きろくがある(文治ぶんじ元年がんねん9がつ2にちじょう)。9月23にちときちゅう流刑りゅうけい能登のとこくおくられ、11月3にちには義経よしつねときちゅうであるどき本来ほんらいちちおなじく周防すおうこく配流はいるされる予定よていであった)をれて京都きょうと脱出だっしゅつ義経よしつね正室せいしつとされるかわこし重頼しげよりむすめごう御前ごぜん)ものち義経よしつね合流ごうりゅうするが、ときちゅうむすめである義経よしつねわらわのその消息しょうそく不明ふめい細川ほそかわ涼一りょういち義経よしつねときちゅうむすめ婚姻こんいん頼朝よりともから義経よしつねときちゅう(および平家へいけ残党ざんとう)の通謀つうぼううたがわれてその没落ぼつらくはやめた一方いっぽうで、義経よしつね頼朝よりとも対抗たいこうするためにときちゅう(および平家へいけ残党ざんとう)と連携れんけいしようとしたのではないかと推測すいそくするとともに、ときちゅうつまむすめ京都きょうとにいたことがられているため、義経よしつねわらわおっと没落ぼつらく京都きょうと生活せいかつしていたと推測すいそくしている[1]

平家ひらか物語ものがたり』「ぶん沙汰さた」によると、ときちゅう義経よしつね押収おうしゅうされた機密きみつ文書ぶんしょもどすためにむすめ義経よしつねことかんがえ、18さいげんつまむすめしいので、先妻せんさいむすめ婚期こんきのがしていた23さい(『源平げんぺい盛衰せいすい』では28さい)のむすめ義経よしつねめとらせた。彼女かのじょ懇願こんがんされた義経よしつねふうけずに文書ぶんしょときちゅう返却へんきゃくし、ったときちゅうはすぐさま焼却しょうきゃく処分しょぶんしたという。

能登半島のとはんとうには都落みやこお義経よしつねいちぎょうが、ときちゅう配流はいるおとずれたという伝承でんしょうおおくある。

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

人形浄瑠璃にんぎょうじょうるり歌舞伎かぶき
のべとおる4ねん1747ねん)の人形浄瑠璃にんぎょうじょうるりのち歌舞伎かぶきされた。どうさくにおける義経よしつね正妻せいさいときちゅう養女ようじょ川越かわごえ太郎たろうむすめきょうきみ」で、義経よしつね窮地きゅうちすくうためきょう堀川ほりかわ御所ごしょ自害じがいする。
映画えいが
テレビドラマ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 細川ほそかわ涼一りょういちだいじゅうしょうかわこし重頼しげよりむすめ」『日本にっぽん中世ちゅうせい社会しゃかい寺社じしゃ』、思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、2013ねん3がつISBN 978-4-7842-1670-3  - 初出しょしゅつ:『京都きょうとたちばな大学だいがく女性じょせい歴史れきし文化ぶんか研究所けんきゅうじょ紀要きよう』16ごう(2008ねん3がつ)。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]