足利あしかが家時いえとき

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足利あしかが家時いえとき
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ中期ちゅうき
生誕せいたん ぶんおう元年がんねん1260ねん
死没しぼつ 弘安ひろやす7ねん6月25にち1284ねん8がつ7にち
墓所はかしょ 鎌倉かまくら功臣こうしんやま報国ほうこくてら
幕府ばくふ 鎌倉かまくら幕府ばくふ
主君しゅくん 将軍しょうぐん宗尊親王むねかたしんのうおもんみかん親王しんのう
とくむね北条ほうじょう時宗じしゅう
氏族しぞく 河内かわうちはじめ義国よしくにりゅう足利あしかが
父母ちちはは ちち足利あしかがよりゆきはは上杉うえすぎ重房しげふさむすめ
つま 正室せいしつ北条ほうじょうしげるむすめ
側室そくしつ新田にった政氏まさうじむすめ
さだ
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足利あしかが 家時いえとき(あしかが いえとき)は、鎌倉かまくら時代ときよ中期ちゅうき鎌倉かまくら幕府ばくふ御家人ごけにんである。足利あしかが宗家そうけだい6だい当主とうしゅ室町むろまち幕府ばくふ初代しょだい将軍しょうぐん足利尊氏あしかがたかうじまごたる。

系譜けいふ[編集へんしゅう]

ちち足利あしかがよりゆきはは上杉うえすぎ重房しげふさむすめ[1]彼女かのじょよりゆき側室そくしつであったとかんがえられ、みなもと頼朝よりとも重臣じゅうしんであった足利あしかが義兼よしかね以来いらい北条ほうじょうむすめははとしない足利あしかが当主とうしゅとなった(ちちよりゆき正室せいしつについてはいままでは不明ふめいであったが、北条ほうじょう傍流ぼうりゅうかいもりむすめであるとする系譜けいふ発見はっけんされている)。

足利あしかが歴代れきだい当主とうしゅは、代々だいだい北条ほうじょう一門いちもん女性じょせい正室せいしつむかえ、そのあいだまれた嫡子ちゃくしとなり、たとえそのより年長ねんちょうあに)が何人なんにんあっても、かれらはみな庶子しょしとしてあつかわれぐことができないというまりがあったが[2]正室せいしつ北条ほうじょうもりむすめ)がまえ早世そうせいしたよりゆきあとは、その庶子しょしであったいえ家督かとくいだ。

これまでの足利あしかが嫡流ちゃくりゅういえ歴代れきだい当主とうしゅいみな足利あしかがよし以来いらいやすし北条ほうじょうやすしときからのへんいみな[2]よりゆき北条ほうじょうよりゆきからのへんいみな[2]つうの「」をけるといったように、「北条ほうじょうとく宗家そうけ当主とうしゅへんいみな+「」」で構成こうせいされていた[3]のにたいして家時いえときに「」がかないのはこのためであると主張しゅちょうするせつ[2]があるが、わりにもちいられた「」の北条ほうじょうつうであり、やはり北条ほうじょうからへんいみなけたものであるとも考察こうさつされている[4][注釈ちゅうしゃく 1]。ただし、通常つうじょう目上めうえひとからけたへんいみなは「○」のようにあたまってるべきものであり、時宗じしゅうからのへんいみなではいというせつもある。一方いっぽうの「いえ」のについては正確せいかくには不明ふめいであるが、よりゆき死後しご成長せいちょうまで当主とうしゅ代行だいこうつとめていた伯父おじよりゆきあに)・斯波しばからのへんいみな考察こうさつするせつ[5][注釈ちゅうしゃく 2]がある。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

なま没年ぼつねんおよび享年きょうねんかんする研究けんきゅう[編集へんしゅう]

いえなま没年ぼつねんぼつ年齢ねんれい(=享年きょうねん)については諸説しょせつある。

  1. 尊卑そんぴぶん』のいえ傍注ぼうちゅうでは「早世そうせい廿にじゅうさい」(享年きょうねん25)とする(なま没年ぼつねんについては明記めいきなし)。
  2. ぞくぐんしょ類従るいじゅう所収しょしゅう足利あしかが系図けいず」では、ぶん元年がんねん1317ねん6月25にち切腹せっぷく享年きょうねん35=逆算ぎゃくさんすると弘安ひろやす6ねん1283ねんまれ)とする。
  3. 新田にった足利あしかが両家りょうけ系図けいず」や鑁阿てら位牌いはいでは命日めいにちのべけい2ねん1309ねん2がつ21にちとする。
  4. 『蠧簡しゅうざんへん ろく所収しょしゅう足利あしかが系図けいず」(東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさんしょ架蔵かぞう謄写とうしゃほん)では、「弘安ひろやすななねん廿にじゅうにち薨、廿にじゅうななさい原文げんぶんママとする(ぼつがつ不明ふめいだが、逆算ぎゃくさんするとせいよしみ2ねん1258ねんまれ)。
  5. 滝山たきやまてら縁起えんぎ温室おんしつばんちょうに「どうろくがつ廿にじゅうにち 足利あしかがもりみなもと家時いえとき弘安ひろやすななねん逝去せいきょ廿にじゅうさい、」とあり [7]逆算ぎゃくさんするとぶんおう元年がんねん(1260ねんまれ。

まず、臼井うすい信義のぶよしせつ1969ねん)にもとづいて記述きじゅつする。嫡男ちゃくなんさだについては、元弘もとひろ元年がんねん1331ねん9月5にちに59さいくなった[注釈ちゅうしゃく 3]とする『尊卑そんぴぶん脉』の記載きさいによりぶんひさし10ねん1273ねんまれとかる[注釈ちゅうしゃく 4]ので、2のせつった場合ばあいさだおやいえよりも10ねんはやまれたことになって矛盾むじゅんする。その、2のぼつ年月日ねんがっぴに1の享年きょうねん25を採用さいようした場合ばあいいええいひとし元年がんねん1293ねんまれ、3のせつ採用さいようした場合ばあい建治けんじ元年がんねん1275ねん享年きょうねん35の場合ばあい)または弘安ひろやす8ねん1285ねん享年きょうねん25の場合ばあいまれとなるので、いずれでも矛盾むじゅんする。また、現存げんそんする古文書こもんじょによって家時いえとき活動かつどう期間きかんをおおよそぶんなが6ねん1269ねん)~弘安ひろやす6ねん(1283ねん)と推定すいていできるので、このこともなま没年ぼつねんきた年代ねんだい特定とくていする根拠こんきょとなる。そして、当主とうしゅとしての文書ぶんしょ発行はっこう年齢ねんれいかんがえたときぶんなが6ねん段階だんかいで15さい仮定かていするとけんちょう7ねん1255ねんまれとなるので、享年きょうねん35とした場合ばあいせいおう2ねん1289ねん死去しきょとなる。せいおう2ねん将軍しょうぐんおもんみかん親王しんのうはいされてつぎ久明ひさあき親王しんのう鎌倉かまくらむかえられたとしであり、臼井うすいいえ自殺じさつ)をこれに関連かんれんしたものと推測すいそくされた。

その小谷おたに俊彦としひこせつ1977ねん)では、弘安ひろやす7ねん(1284ねん7がつ26にち広橋ひろはしけんなか日記にっきかんなか』による、後述こうじゅつ参照さんしょう)から史料しりょうじょうでのさだはつであるえいひとし2ねん1294ねん[9]までにいえおよびそれにともな当主とうしゅ交代こうたいがあったと推定すいていされた。そのあいだ弘安ひろやす9ねん1286ねん3月2にち足利あしかが執事しつじ高師たかしこう法名ほうみょうこころふつ)の奉書ほうしょ発給はっきゅうされており、その執事しつじ奉書ほうしょとはちがって足利あしかが当主とうしゅそでばんがないが、これは足利あしかが当主とうしゅ年少ねんしょうでまだ自身じしん花押かおうゆうしていなかったからであるとかんがえられる。したがって、家時いえときぼつ年月日ねんがっぴ弘安ひろやす7ねん7がつ26にちからどう9ねん3がつ2にちあいだ推定すいていすることができ、そのあいだ弘安ひろやす8ねん1285ねん)にきた霜月しもづき騒動そうどう連座れんざしてくなったと推測すいそくされる。

以上いじょうのような小谷おたにせつはその足利あしかがじゅん菩提寺ぼだいじたき山寺やまでら三河みかわこく額田ぬかたぐん)にのこる「滝山たきやまてら縁起えんぎ[注釈ちゅうしゃく 5]の、正安まさやす3ねん1301ねん)にさだ亡父ぼうふの17ねん法要ほうようさいして滝山たきやまてら額田ぬかたぐん[注釈ちゅうしゃく 6]うち所領しょりょう寄進きしんして如法にょほうどう建立こんりゅうしたとする記録きろくによってその正確せいかくせい証明しょうめいされた。これが、「滝山たきやまてら縁起えんぎ」を信憑しんぴょうせいたかいものと認定にんていし、その記載きさいにより弘安ひろやす7ねん6がつ25にち(1284ねん8がつ7にち)に25さいくなったとする、5のせつしんぎょう紀一きいち[13][14]による)である。これについては、『かんなか同年どうねん7がつ26にちじょう段階だんかいたちばなともあきら[注釈ちゅうしゃく 7]伊予いよもり補任ほにんされていることが確認かくにんでき、これは前任ぜんにんしゃいえがこのときまでにくなったからであるとのことで、前述ぜんじゅつ臼井うすいによるせいおう2ねん(1289ねん死去しきょせつ否定ひていされた[15]しんくだり弘安ひろやす7ねん死去しきょせつは、のちに前田まえだ治幸はるゆきらにも採用さいようされて[16]最新さいしんせつとなっている[注釈ちゅうしゃく 8]

なお従来じゅうらいまでは2のぶん元年がんねん(1317ねん死去しきょせつ通説つうせつであった[17]が、2のぼつ年月日ねんがっぴは『蠧簡しゅうざんへん ろく所収しょしゅう足利あしかが系図けいず」(4とどう史料しりょう)における家時いえときまごさだ)・こうよしのそれ[注釈ちゅうしゃく 9]にほぼ一致いっちしており混同こんどうしたものとみられる。

当主とうしゅとしての活動かつどう[編集へんしゅう]

いえ活動かつどうはつぶんひさし3ねん1266ねん4がつ24にち被官ひかん倉持くらもち忠行ただゆきそでばんしもぶんあたえたことである[5]田中たなかせつしたがえばこのとき7さい程度ていどであったことになる)。

ぶんひさし6ねん1269ねんてらである足利あしかが鑁阿てらてらぶんまわしさだめるなどどうてら興隆こうりゅうちからそそいでいる[5]てらぶんまわしさだめるといった行為こうい家督かとく交替こうたい直後ちょくごおこなわれることがおおいことから、1266~1269ねんあいだ伯父おじいえくなり、それにともなっていえ名実めいじつともに足利あしかが当主とうしゅとなったとされる[5]

ぶんひさし10ねん1273ねん)、14さいとき常盤ときわしげるむすめとのあいだ嫡男ちゃくなん足利あしかがさだ)をもうける。同年どうねん高野山こうのやまきむつよし三昧ざんまいいんそうほうぜん所領しょりょうめぐって訴訟そしょうとなってあらそったが、弘安ひろやす2ねん1279ねん)に敗訴はいそしている。このためか、幕府ばくふたいして批判ひはんてきになっていったといわれる。その一方いっぽうで、この裁判さいばん過程かてい作成さくせいされた建治けんじ2ねん1276ねん)に幕府ばくふ作成さくせいした裁許さいきょじょうあん[19]文中ぶんちゅうに「足利あしかが式部しきぶ大夫たいふ」とあり、当時とうじ17さいであったいえすで式部しきぶ大夫たいふしたがえ式部しきぶすすむ)であったこと注目ちゅうもくされる。かりに17さい叙爵じょしゃくされたとしても、どう時期じき武家ぶけでは北条ほうじょう分家ぶんけ有力ゆうりょくしゃ赤橋あかばし義宗よしむねどう年齢ねんれい叙爵じょしゃくけていたことになる(これよりはやいのは北条ほうじょう時宗じしゅうそうまさし兄弟きょうだいのみ)。さら弘安ひろやす5ねん1282ねん11月25にちには23さい伊予いよもり補任ほにんされているが、武家ぶけ国守こくしゅ補任ほにんにおいては15さい相模さがみもりとなった時宗じしゅう例外れいがいとすればもっとわかかった。しかも、武家ぶけでの伊予いよもり補任ほにん源義経みなもとのよしつね以来いらいいえのち鎌倉かまくら時代じだいつうじて北条ほうじょう一門いちもんあまなわあらわのみで、当時とうじもとさいして有力ゆうりょく武家ぶけである足利あしかが協力きょうりょく必要ひつよう背景はいけいがあったとしても、幕府ばくふからは破格はかく厚遇こうぐうけていたとする指摘してきもある[20]

また、建治けんじ元年がんねん1275ねん)のろくじょう八幡やはた新宮しんぐう造営ぞうえい負担ふたんきん北条ほうじょう金額きんがくひゃくかん)をてられている[21]

自害じがい[編集へんしゅう]

後述こうじゅつするが、弘安ひろやす7ねん1284ねん)6がつ25にち死去しきょしたとされる[22]死因しいん自害じがい[23]

このころ鎌倉かまくら幕府ばくふないでは執権しっけん時宗じしゅう公文こうぶんしょ執事しつじうち管領かんりょう)であった平頼綱たいらのよりつな御家人ごけにん実力じつりょくしゃであり幕府ばくふ重臣じゅうしんであった安達あだち泰盛やすもりあらそいが激化げきかし、時宗じしゅうぼつ弘安ひろやす8ねん1285ねん)11月には霜月しもづき騒動そうどうばれる武力ぶりょく衝突しょうとつこり、泰盛やすもりはいし、以後いご頼綱よりつな専制せんせい政治せいじはじまる。足利あしかがはこの泰盛やすもり接近せっきんし、霜月しもづき騒動そうどうでは一族いちぞくよしりょう足利あしかが上総かずさ三郎さぶろう吉良きらみつるか)が泰盛やすもりあずかどうしている。家時いえときもこれに連座れんざして自害じがいしたとのせつもあったが、前年ぜんねん弘安ひろやす7ねん1284ねん)の7がつ26にちたちばなともあらわ伊予いよもり補任ほにんされている(『かんなか同日どうじつじょう)のは、それまでに前任ぜんにんしゃいえくなり闕官となっていたものがおぎなわれたものとみるべきであり、前掲ぜんけい滝山たきやまてら縁起えんぎ温室おんしつばんちょうによってその1ヶ月かげつまえとなる6がつ25にちくなったとかんがえられている[15]

いえ背景はいけいについて、後世こうせい歴史れきし学者がくしゃである本郷ほんごう和人かずと泰盛やすもり強力きょうりょく与党よとうであった北条ほうじょう一門いちもんかいこく義理ぎりそと叔父おじ)の失脚しっきゃく連座れんざ関連かんれんして自害じがいしたのではないかとするせつ提示ていじしている[24][注釈ちゅうしゃく 10]。これとはべつに、おなじく後世こうせい歴史れきし学者がくしゃである田中たなか大喜だいぎは、家時いえとき将軍しょうぐんおもんみかん親王しんのう近侍きんじして執権しっけん北条ほうじょう時宗じしゅうむすびつけた側近そっきんてき存在そんざいであり、もとけてつよまった「源氏げんじ将軍しょうぐん」を待望たいぼうする空気くうき高揚こうようきらい、北条ほうじょう時宗じしゅう殉死じゅんしすることでとく宗家そうけへの忠節ちゅうせつしめし、これにより鎌倉かまくら幕府ばくふさい末期まっきまで足利あしかがが(排除はいじょされることなく)北条ほうじょうとく宗家そうけ重用じゅうようされる一因いちいんになったとするせつ提示ていじしている[26]

墓所はかしょ鎌倉かまくら功臣こうしんやま報国ほうこくてらで、家時いえとき開基かいきとされるが、報国ほうこくてら開基かいき南北なんぼくあさ上杉うえすぎしげるけん宅間たくま上杉うえすぎ)である。家時いえとき関係かんけいふか上杉うえすぎ供養くようしたのであろう。

おけぶん伝説でんせつ[編集へんしゅう]

今川いまがわ貞世さだよ了俊りょうしゅん)の著作ちょさくである『なん太平たいへい』(おうひさし9ねん1402ねん))によれば、足利あしかがには、先祖せんぞたる平安へいあん時代じだい源義家みなもとのよしいえのこしたという、「自分じぶんななだい子孫しそんまれわって天下てんか」という内容ないようおけぶん存在そんざいし、ななだい子孫しそんにあたる家時いえときは、自分じぶんだいでは達成たっせいできないため、八幡はちまんだい菩薩ぼさつさんだい子孫しそん天下てんからせよと祈願きがんし、願文がんもんのこして自害じがいしたという[27]だい子孫しそんたる足利尊氏あしかがたかうじ直義ただよし兄弟きょうだいはこれを実見じっけんし、貞世さだよ自身じしんもそのおけぶんたことがあるとしるしている[27]

たかし直義ただよし元弘もとひろらん鎌倉かまくら幕府ばくふほろぼして、後醍醐天皇ごだいごてんのうたてたけし政権せいけん樹立じゅりつ多大ただい貢献こうけんをしたものの、最後さいごとくむね北条ほうじょうだか北条ほうじょうぎょうちゅう先代せんだいらんこして鎌倉かまくら占拠せんきょしたが、その紆余曲折うよきょくせつから後醍醐ごだいごとの対決たいけつであるたてたけしらん発展はってんし、室町むろまち幕府ばくふ樹立じゅりつすることになった。そして、足利あしかがかた有力ゆうりょく武将ぶしょうである貞世さだよ証言しょうげんであることから、かつてはいえ願文がんもん幕府ばくふ樹立じゅりつ動機どうきともかんがえられていた[27]。しかし、20世紀せいきなか以降いこう、このせつはほとんど支持しじされていない[27][28]

いえ執事しつじ高師たかしつかわした書状しょじょうを、まごみこと執事しつじとなった高師直こうのもろなお従兄弟いとこである高師たかしあき所持しょじしており、直義ただよしがこれを感激かんげきし、あきには直義ただよし直筆じきひつ案文あんぶんおくって正文せいぶん自分じぶんしたいた、という直義ただよし書状しょじょうのこっているため、「家時いえときおけぶん」そのものの実在じつざい確実かくじつである[27]。しかし、直義ただよしがこのおけぶんたのはたてたけしらんから15ねんであるため、これが挙兵きょへい動機どうきであるとはかんがえにくい[27]

また、「家時いえときおけぶん」の内容ないよう自体じたいも、貞世さだよ主張しゅちょうする「天下てんかれ」というものとは別物べつものだったとかんがえられている[28]。「足利あしかが源氏げんじ嫡流ちゃくりゅうである」という認識にんしきは、室町むろまち幕府ばくふ成立せいりつに、幕府ばくふ正当せいとうせいたかめるためにった工作こうさくによってひろまったものであり、貞世さだよかた家時いえとき天下取てんかと伝説でんせつも、その源氏げんじ嫡流ちゃくりゅう工作こうさく一環いっかんであるとするのが有力ゆうりょくである[28]

登場とうじょうする作品さくひん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 年代ねんだい考慮こうりょすれば北条ほうじょう時宗じしゅうから下賜かしされたものとおもわれる。
  2. ^ なおいえとの関係かんけいは、『前田まえだ本源ほんげん系図けいず』でいえが「尾張おわりもり氏子うじこ云々うんぬん[6]とされるほどである。
  3. ^ 『蠧簡しゅうざんへん ろく所収しょしゅう足利あしかが系図けいず」(4におなじ)では同日どうじつ死去しきょ年齢ねんれい享年きょうねん)を60、『常楽じょうらく』では命日めいにちを9月6にちとする。
  4. ^ 小谷おたに俊彦としひこは、『北条ほうじょうきゅうだい』(『鎌倉かまくら年代ねんだい』)によりさだ外祖父がいそふ家時いえときしゅうと)である北条ほうじょうしげるぶんなが7ねん1270ねん)に30さいくなったことも考慮こうりょうえで、建治けんじ3ねん1277ねんまれとする見解けんかいしめしている[8]
  5. ^ この史料しりょうについては、小林こばやし吉光よしみつ紹介しょうかいしている[10]。また、本文ほんぶんについては田中たなか大喜だいぎ下野しもの足利あしかが関係かんけい史料しりょう[11]ることができる。
  6. ^ 倉持くらもち文書ぶんしょ』により足利あしかがどうぐん地頭じとうしょく保有ほゆうしていたことが確認かくにんされる[12]
  7. ^ 尊卑そんぴぶん脉』によれば、あつしあきら親王しんのうあつしさだ親王しんのうあつし輔王―つうしきおうけんしきおうけんおうけんやすしおうせんたちばなひろぼう・以実の養子ようし)―なかしげる嗣―あらわ刑部おさかべきょうせいよん昇殿しょうでん)。
  8. ^ 田中たなか 2013巻末かんまつ下野しもの足利あしかが関係かんけい年表ねんぴょう」でもこのせつ採用さいようされている。
  9. ^ どう系図けいず田中たなか大喜だいぎ下野しもの足利あしかが関係かんけい史料しりょう[18]掲載けいさいされている。それによると、高義たかよしぶん元年がんねん(1317ねん)6がつ24にちくなっている。これについては、1314ねんと1318ねんさだ、1315ねん高義たかよし当主とうしゅとしての活動かつどう確認かくにんされることにより正確せいかくなものとされる。詳細しょうさい足利あしかが高義たかよしこう参照さんしょう
  10. ^ おなじく後世こうせい歴史れきし学者がくしゃである田中たなか大喜だいぎ中世ちゅうせい前期ぜんき下野げや足利あしかがろん[25]でもこのせつ紹介しょうかいされている。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 上田うえだただしあきら津田つだ秀夫ひでお永原ながはらけい藤井ふじい松一しょういち藤原ふじわらあきら、『コンサイス日本人にっぽんじんめい辞典じてん だい5はん』、株式会社かぶしきがいしゃ三省堂さんせいどう、2009ねん 29ぺーじ
  2. ^ a b c d 臼井うすい 2013, p. 67.
  3. ^ 田中たなか 2013, p. 25, 「総論そうろん 中世ちゅうせい前期ぜんき下野げや足利あしかがろん」.
  4. ^ 小谷おたに 2013, p. 131.
  5. ^ a b c d 吉井よしい 2013, p. 167.
  6. ^ 前田まえだ 2013, p. 211.
  7. ^ 田中たなか 2013, p. 402, 「下野しもの足利あしかが関係かんけい史料しりょう」.
  8. ^ 小谷おたに 2013, p. 126.
  9. ^ 同年どうねん1がつ2にちづけ足利あしかがさだきちしょ」(『陸奥むつ倉持くらもち文書ぶんしょ』、『鎌倉かまくら遺文いぶんだい24かん・18446ごう)。
  10. ^ 小林こばやし吉光よしみつ史料しりょう紹介しょうかい~『たき山寺やまでら縁起えんぎ』」『岡崎おかざき研究けんきゅう創刊そうかんごう、1979ねん 
  11. ^ 田中たなか 2013, pp. 389–404.
  12. ^ 吉井よしい 2013, p. 169.
  13. ^ しんくだり 2013, pp. 276・286.
  14. ^ しんぎょう紀一きいち ちょ足利あしかが三河そうごこく」、千田せんだ孝明たかあき へん足利あしかが歴史れきしみことんだ世界せかい栃木とちぎ県立けんりつ博物館はくぶつかん、1985ねん 
  15. ^ a b しんくだり 2013, p. 286.
  16. ^ 前田まえだ 2013.
  17. ^ 臼井うすい 2013, p. 65.
  18. ^ 田中たなか 2013, pp. 382–388.
  19. ^ 建治けんじ2ねん8がつ2にちづけ関東かんとう下知げじじょうあん」(『紀伊きい金剛こんごう三昧ざんまいいん文書ぶんしょ』、『鎌倉かまくら遺文いぶんだい16かん・12437ごう)。
  20. ^ 前田まえだ 2013, pp. 189・202-204.
  21. ^ みやつころくじょう八幡やはた新宮しんぐう用途ようと支配しはいごと国立こくりつ歴史れきし民俗みんぞく博物館はくぶつかん所蔵しょぞう足利あしかがひだり馬頭めず入道にゅうどうあと
  22. ^ 前掲ぜんけい滝山たきやまてら縁起えんぎ温室おんしつばんちょう、『蠧簡しゅうざんへん ろく所収しょしゅう足利あしかが系図けいず」より。
  23. ^ 前掲ぜんけいつづけぐんしょ類従るいじゅう所収しょしゅう足利あしかが系図けいず」。
  24. ^ 本郷ほんごう和人かずと霜月しもつき騒動そうどう再考さいこう」『史学しがく雑誌ざっしだい112かんだい12ごう、2003ねん 
  25. ^ 田中たなか 2013, p. 46, 「総論そうろん 中世ちゅうせい前期ぜんき下野げや足利あしかがろん」.
  26. ^ 田中たなか 2013, p. 23, 「総論そうろん 中世ちゅうせい前期ぜんき下野げや足利あしかがろん」.
  27. ^ a b c d e f 佐藤さとう進一しんいち日本にっぽん歴史れきし9 南北なんぼくあさ動乱どうらん』(あらため中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ中公ちゅうこう文庫ぶんこ〉、2005ねん、129–132ぺーじISBN 978-4122044814 
  28. ^ a b c 細川ほそかわ重男しげお ちょ「【後醍醐ごだいごたかし関係かんけい】4 足利尊氏あしかがたかうじは「たてたけし政権せいけん」に不満ふまんだったのか?」、日本にっぽん史料しりょう研究けんきゅうかい; 呉座ございさむいち へん南朝なんちょう研究けんきゅう最前線さいぜんせん : ここまでわかった「たてたけし政権せいけん」からのち南朝なんちょうまで』よういずみしゃ歴史れきし新書しんしょy〉、2016ねん、84–108ぺーじISBN 978-4800310071  pp. 131–132。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 田中たなか大喜だいぎ へん下野しもの足利あしかがえびすひかりさち出版しゅっぱん〈シリーズ・中世ちゅうせい関東かんとう武士ぶし研究けんきゅう だいきゅうかん〉、2013ねんISBN 978-4-86403-070-0 
    • p.6-51:田中たなか大喜だいぎ中世ちゅうせい前期ぜんき下野げや足利あしかがろん
    • p.54-73:臼井うすい信義のぶよしたかし父祖ふそよりゆき家時いえとき年代ねんだいこう―」。 /初出しょしゅつ:日本にっぽん歴史れきし』257ごう、1969ねん 
    • p.117-133:小谷おたに俊彦としひこ北条ほうじょう専制せんせい政治せいじ足利あしかが」。 /初出しょしゅつ:近代きんだい足利あしかがだいいち足利あしかが、1977ねん 
    • p.157-178:吉井よしい功兒こうじ鎌倉かまくら後期こうき足利あしかが家督かとく」。 /初出しょしゅつ:吉井よしい功兒こうじ中世ちゅうせい政治せいじざんへん』トーキ、2000ねん 
    • p.179-228:前田まえだ治幸はるゆき鎌倉かまくら幕府ばくふ家格かかく秩序ちつじょにおける足利あしかが」。 /初出しょしゅつ:阿部あべたけし へん中世ちゅうせい政治せいじ研究けんきゅう日本にっぽん史料しりょう研究けんきゅうかい、2010ねん 
    • p.273-298:しんぎょう紀一きいち足利あしかが三河そうご額田ぬかたぐん支配しはい鎌倉かまくら時代じだい中心ちゅうしんに―」。 /初出しょしゅつ:芳賀はが幸四郎こうしろう先生せんせい古希こき記念きねん 日本にっぽん社会しゃかい研究けんきゅう笠間かさま書院しょいん、1980ねん 
    • p.381-413:田中たなか大喜だいぎ下野しもの足利あしかが関係かんけい史料しりょう」・「下野しもの足利あしかが関係かんけい年表ねんぴょう
  • 鎌倉かまくら遺文いぶん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

足利尊氏あしかがたかうじ系譜けいふ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. 足利あしかがやすし
 
 
 
 
 
 
 
8. 足利あしかがよりゆき
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. 北条ほうじょうむすめ
 
 
 
 
 
 
 
4. 足利あしかが家時いえとき
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. 上杉うえすぎ重房しげふさ(=12)
 
 
 
 
 
 
 
9. 上杉うえすぎ重房しげふさむすめ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2. 足利あしかがさだ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20. 北条ほうじょうしげるとき
 
 
 
 
 
 
 
10. 北条ほうじょうしげる
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
21. たいらはじめおやむすめ
 
 
 
 
 
 
 
5. 北条きたじょうしげるむすめ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1. 室町むろまち幕府ばくふ初代しょだい将軍しょうぐん
足利尊氏あしかがたかうじ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. 藤原ふじわらきよしぼう
 
 
 
 
 
 
 
12. 上杉うえすぎ重房しげふさ(=18)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
6. 上杉うえすぎよりゆきじゅう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3. 上杉うえすぎ清子きよこ