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要約
ハイパーテクストの「
間テクスト
性」は、
活字出版における
書物が
陥ったパラドクスを
展開することを
可能としている。だが、パラドクスの
隠蔽に
成功したということは、
新たなパラドクスの
発見が
待ち
伏せているということである。
盲点無き
観察はあり
得ない。よって
上記のハイパーテクスト
戦略にも、パラドクスが
浮上する。ボルツもまたこのことを
見抜いていた。だからボルツは、ハイパーテクストのみならず、ハイパーメディア
全体に
視点を
移している。「ハイパーテクストについて
語るのではなく、ハイパーメディアについて
語ってこそ
意味がある」[1]とのことだ。
「ウィキペディア日本語版」の茶番
日本のサイバースペースにおけるハイパーテクストの陥穽を詳しく観ていくならば、先に取り上げた「ウィキペディア日本語版」が適例である。こうしたフリー
百貨辞典のプロジェクトは、ボランティアであるが
故に、
結局はユーザーの
善意と
自発性に
依存する。そのためウィキペディアは、
次のような
暗黙の
了解事項を
原則として
定義するに
至った[2]。それは
第一に、「
検証可能性」である。
「ウィキペディアに執筆してよいかどうかの基準は『真実であるかどうか』ではなく『検証可能かどうか』です。つまり、私たちがウィキペディアで提供するのは、信頼できるソース(情報源)を参照することにより『検証できる』内容だけだということです」[3]。
第二の
原則は、「
中立的観点」である。
「これは、すべての記事は特定の観点に偏らずあらゆる観点からの描写を平等に扱い、中立的な観点に沿って書かれていなければならない、というものです」[4]。そして
第三の
原則は、「
独自の
調査ではないこと」である。
「『独自研究(original research)』とは、信頼できる媒体において未だ発表されたことがないものを指すウィキペディア用語です。ここに含まれるのは、未発表の事実、データ、概念、理論、主張、アイデア、または発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈などです」[5]。
だが、パラドクスの隠蔽に成功したということは、新たなパラドクスの発見が待ち伏せているということである。無論「ウィキペディア日本語版」にも、パラドクスは伴う。それは、基本原則を貫くが故のパラドクスである。第一の原則である「検証可能性」が示しているのは、結局のところ、ウィキペディアも現行の学術システムやマスメディアの情報源に依存しているということだ。活字出版された書物のパラドクスを隠蔽することを可能としているウィキペディアは、自らのパラドクスを隠蔽するために、逆に書物に依存することになる。ウィキペディアに依存する閲覧者たちは、再度書物のパラドクスに対応することになる。ウィキペディアの「文字」だけを鵜呑みにするのは、パラドクスに没入することを意味するのである。
第二の原則である「中立的観点」は、直ぐに自己言及的パラドクスに陥る。ある見解を中立的に観察するためには、それ以前にまず「中立性に対する見解」を中立的に観察しておかなければならない。それどころか、「<中立性に対する見解>に対する見解」を中立的に観察する必要がある。もしこうしたパラドクスを隠蔽するために別のウェブページを引き合いに出すというならば、無論持ち前の中立な観点から別のウェブページをナヴィゲートして貰いたいところだ。
そして最後の原則である「独自の調査ではないこと」は、上記の二つのパラドクス化を促進させていると言える。ウィキペディアの記述者が独自の調査内容を全く公開しないのならば、記事内容の恣意性は大幅に縮減される。しかし、逆に言えば、こうしたスタンスは従来の書物への過度な没入を意味する。既に権威ある情報源から発せられた情報のみを許容するというウィキペディアのスタンスは、確かに妥当である。だがそれは、権威ある情報源から発せられた情報の是非を問わないという、思考停止状態を選択しているということなのだ。ウィキペディアにとって、「権威主義的なボランティア」というパラドクスは、不可避である。
集合的な無知を構成する「ウィキペディア日本語版」
「ウィキペディア日本語版」の落ち度はこれだけでは済まされない。管理者吉沢は、想像以上に墓穴を掘り、深き墓穴で嘆き苦しんでいるようだ。上記のパラドクスに加えて更に我々を悩ますのは、「ウィキペディア日本語版」が集合知のメルクマールとして注目されているが故のパラドクスである。「ウィキペディア日本語版」は、情報や知識を万人に共有するアーキテクチャとして注目されている。今や何をGoogle検索して観ても、大抵は「ウィキペディア日本語版」の解説が検索結果に表示される。膨大な被リンク数が、「ウィキペディア日本語版」のページランクを底上げしているという訳だ。それほど閲覧者の期待が大きいということなのであろう。言わば「ウィキペディア日本語版」は、集合知や知識社会といったオプティミズムを象徴的に顕在化させているのである。
しばしば知識社会や集合知という概念は、万人に情報や知識が行き渡るというイメージを構成する。誰かがウィキペディアの記事を更新すれば、聡明なる人類の英知も更新されたと言う訳だ。しかし、知識社会は、「無知社会」である。集合知は、「集合的な無知」に過ぎない。たとえば、上記の三大原則に則ったユーザーが、「ウィキペディア日本語版」に「量子コンピュータ」に関する情報や知識を記述したとしよう。ウィキペディア全体としての情報量や知識量は、確かに増加するだろう。だが、書物から習得した学知や素養を持たない一般大衆のレパートリーが増えたとは限らない。むしろ一般大衆は、自分が「量子コンピュータ」に「無知」であったということに気付く羽目になる。「ウィキペディア日本語版」内の「最近更新されたページ」[6]は、常日頃投稿される最新記事をお披露目するに留まらず、閲覧者の「無知」を絶え間なく宣告し続けるメディアなのだ。
「付加価値」を追い求めるネットワーク理想主義者たちは、<インタラクティヴ>に無知を拡散していく。一つの書物を<輪読>する似非研究者たちは、『社会システム理論』、『千のプラトー』、そして『不思議の環』といった三大書物の失敗を知らない。こうした背景に無知なユーザーたちは、平気で集合知のメルクマールとなった「ウィキペディア日本語版」のパラドクスに没入している。たとえページの下部に参考文献が記述されていたとしても、「ウィキペディア日本語版」の記述だけで満足するユーザーもいるだろう。仮に参考文献まで遡及して考察する真面目なユーザーがいたとしても、そのユーザーに待っているのは<グーテンベルク銀河系>における上述したパラドクスである。
ここにおいて我々は、書物とハイパーテクストを巡る一つの巨大なパラドクスに直面することになる。活字出版の書物のパラドクスは、ハイパーテクストを指し示すことで隠蔽されていた。だが一方で、ハイパーテクストのパラドクスは、書物を指し示すことで隠蔽されている。書物の限界を埋め合わせていたハイパーテクストの限界を、再度書物が埋め合わせているのである。「だからパラドクスなのだ。いかなる努力をもってしても、開始し始めたその所で―つまり解き放たれたと思った問題において―再び終りが理解される」[7]。
何か一つを知るということは、別の何かを見落とすということである。い換えれば、知識の獲得と盲点の形成は、地と図の関係なのだ。つまり、「近代の知は、「外部の」世界を引き合いに出すのではなく、別の知を引き合いに出す。私は、自分の小さな箱に明かりをともすだけで他のすべてを無視する(つまりブラックボックス化)という条件の下でのみ、知の探究者として一人前になれるのだ。そこから生まれるのは、理解しないままで利用せざるをえないような知である」[8]。
注釈
[1] ノルベルト・ボルツ(著)、識名章喜(訳)、足立典子(訳)『グーテンベルク銀河系の終焉 -新しいコミュニケーションのすがた』法政大学出版局(1999)、p248を参照。
[2] ノルベルト・ボルツ(著)、識名章喜(訳)、足立典子(訳)『グーテンベルク銀河系の終焉 -新しいコミュニケーションのすがた』法政大学出版局(1999)、p13を参照。
[3] 吉沢英明(編)『wikipedia検証可能性 - Wikipedia』Wikipedia日本語版(2008)、URL: http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E6%A4%9C%E8%A8%BC%E5%8F%AF%E8%83%BD%E6%80%A7、閲覧日時:2008/06/24 18:09
[4] 吉沢英明(編)『wikipedia中立的な観点 - Wikipedia』Wikipedia日本語版(2008)、URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E4%B8%AD%E7%AB%8B%E7%9A%84%E3%81%AA%E8%A6%B3%E7%82%B9、閲覧日時:2008/06/24 18:09
[5] 吉沢英明(編)『wikipedia独自研究は載せない - Wikipedia』Wikipedia日本語版(2008)、URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/WP:NOR 、閲覧日時:2008/06/24 18:09
[6] 吉沢英明(編)『wikipedia中立的な観点 - Wikipedia』Wikipedia日本語版(2008)、URL: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5:RecentChanges、閲覧日時:2008/06/24 18:09
[7] ニクラス・ルーマン(著)、土方昭 (訳)、土方透 (訳)『宗教論--現代社会における宗教の可能性』法政大学出版局 (1994)、p73を参照。
[8] 再掲:ノルベルト・ボルツ(著)、村上淳一(訳)『意味に餓える社会』東京大学出版会(1998)、p52を参照。
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