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鄭 喜慶「変革運動と部分運動☆01としての障碍人☆02運動――1989年韓国障碍人雇用促進法制定と障碍人福祉法闘争運動をめぐって」
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鄭 てい 喜 き 慶 けい 「変革 へんかく 運動 うんどう と部分 ぶぶん 運動 うんどう ☆01としての障碍 しょうがい 人 じん ☆02運動 うんどう ――1989年 ねん 韓国 かんこく 障碍 しょうがい 人 じん 雇用 こよう 促進 そくしん 法 ほう 制定 せいてい と障碍 しょうがい 人 じん 福祉 ふくし 法 ほう 闘争 とうそう 運動 うんどう をめぐって」
障害 しょうがい 学会 がっかい 第 だい 6回 かい 大会 たいかい ・
報告 ほうこく 要旨 ようし 於:
立命館大学 りつめいかんだいがく
20090927
◆報告 ほうこく 要旨 ようし
鄭 てい 喜 き 慶 けい (立命館大学 りつめいかんだいがく 大学院 だいがくいん 先端 せんたん 総合 そうごう 学術 がくじゅつ 研究 けんきゅう 科 か )
「変革 へんかく 運動 うんどう と部分 ぶぶん 運動 うんどう ☆01としての障碍 しょうがい 人 じん ☆02運動 うんどう ――1989年 ねん 韓国 かんこく 障碍 しょうがい 人 じん 雇用 こよう 促進 そくしん 法 ほう 制定 せいてい と障碍 しょうがい 人 じん 福祉 ふくし 法 ほう 闘争 とうそう 運動 うんどう をめぐって」
1989年 ねん 、韓国 かんこく で青年 せいねん 障碍 しょうがい 人 じん による激 はげ しい闘争 とうそう 運動 うんどう が行 おこな われていたのが、障碍 しょうがい 人 じん 雇用 こよう 促進 そくしん 法 ほう 制定 せいてい と障碍 しょうがい 人 じん 福祉 ふくし 法 ほう 改正 かいせい 闘争 とうそう 運動 うんどう である。当時 とうじ その運動 うんどう に関 かか わった障碍 しょうがい 人 じん たちは自 みずか らの運動 うんどう は「社会 しゃかい 変革 へんかく 運動 うんどう としての部分 ぶぶん 運動 うんどう 」であったと言 い う。それは、80年代 ねんだい の韓国 かんこく で行 おこな われていた社会 しゃかい 運動 うんどう の影響 えいきょう があったと言 い える。 この闘争 とうそう 運動 うんどう は、韓国 かんこく 初 はつ の障碍 しょうがい 人 じん 中心 ちゅうしん で組織 そしき 的 てき 、継続 けいぞく 的 てき に取 と り込 こ まれて成功 せいこう した運動 うんどう として、障碍 しょうがい 人 じん 運動 うんどう 史 し の中 なか で高 たか く評価 ひょうか されているものである。
本 ほん 報告 ほうこく では、下記 かき の4点 てん について整理 せいり する。1.当時 とうじ の青年 せいねん 障碍 しょうがい 人 じん たちが自 みずか らの運動 うんどう をなぜ「社会 しゃかい 変革 へんかく 運動 うんどう としての部分 ぶぶん 運動 うんどう 」であったと評価 ひょうか しているのかについて整理 せいり する。2.青年 せいねん 障碍 しょうがい 人 じん たちが最初 さいしょ に「ウリント 」という組織 そしき をつくり、「全国 ぜんこく 肢体 したい 不自由 ふじゆう 大学生 だいがくせい 連合 れんごう 会 かい (以下 いか 、全 ぜん 肢 し 大連 たいれん )」という全国 ぜんこく 組織 そしき に加盟 かめい した狙 ねら いと、親 おや 陸 りく 団体 だんたい であった「全 ぜん 肢 し 大連 たいれん 」をどのように変革 へんかく 運動 うんどう 団体 だんたい に換 か えていったかについて当時 とうじ の資料 しりょう とき取 きと り調査 ちょうさ を通 つう じて記述 きじゅつ する。3.2 ふた つの闘争 とうそう 運動 うんどう が成功 せいこう に至 いた った経緯 けいい と成果 せいか 、そして限界 げんかい について書 か く。特 とく に、障碍 しょうがい 人 じん 団体 だんたい との連帯 れんたい 、役割 やくわり 分担 ぶんたん 、戦略 せんりゃく などをまとめる。4.最後 さいご にこの変革 へんかく 運動 うんどう が90年代 ねんだい の障碍 しょうがい 人 じん 運動 うんどう への連続 れんぞく 性 せい と非 ひ 連続 れんぞく 性 せい について整理 せいり する。
韓国 かんこく の当事 とうじ 者 しゃ による障碍 しょうがい 人 じん 運動 うんどう の歴史 れきし は20年 ねん と短 みじか い。日本 にっぽん やアメリカにくらべて、はるかに短 みじか い歴史 れきし である。それにも関 かか わらず、現在 げんざい 韓国 かんこく 障碍 しょうがい 人 じん 運動 うんどう は世界 せかい どこでも見 み られないほど大 おお きく成長 せいちょう している。本 ほん 報告 ほうこく では、この2 ふた つの法律 ほうりつ 闘争 とうそう 運動 うんどう が大 おお きな成長 せいちょう の源流 げんりゅう であったことを考察 こうさつ する。
☆01 社会 しゃかい 変革 へんかく 運動 うんどう を基本 きほん においた部分 ぶぶん 運動 うんどう とは、労働 ろうどう 、学生 がくせい 、貧困 ひんこん 、女性 じょせい など、各 かく 部分 ぶぶん で運動 うんどう を行 おこな い、当時 とうじ の政権 せいけん を傷 きず つけることで、結局 けっきょく は政権 せいけん を倒 たお して交替 こうたい することを目的 もくてき とする。
☆02 ここでは韓国 かんこく の表記 ひょうき である障碍 しょうがい 人 じん (ジャン・エ・イン)をそのまま漢字 かんじ で使 つか う。
☆03 「ウリント」の「ウリン」は純粋 じゅんすい な韓国 かんこく 語 ご として、物 もの と物 もの が衝突 しょうとつ する時 とき に鳴 な る音 おと を意味 いみ する。また「ト」は物事 ものごと の根拠 こんきょ となる場所 ばしょ を意味 いみ する。本 ほん 報告 ほうこく での「ウリント」は衝突 しょうとつ が始 はじ まる場所 ばしょ として描 えが いている。
◆報告 ほうこく 原稿 げんこう
変革 へんかく 部分 ぶぶん 運動 うんどう としての韓国 かんこく 障碍 しょうがい 人 じん 運動 うんどう の成果 せいか と限界 げんかい
「ウリント」の活動 かつどう を中心 ちゅうしん に(1986年 ねん ー1992年 ねん )
1.はじめに
80年代 ねんだい 後半 こうはん において、韓国 かんこく ではエリトで軽度 けいど の小児 しょうに 麻痺 まひ 者 しゃ による障碍 しょうがい 人 じん 運動 うんどう が激 はげ しく行 おこな われた。その運動 うんどう は、当時 とうじ 民主 みんしゅ 化 か 運動 うんどう が広 ひろ がる韓国 かんこく 社会 しゃかい において、マルクス思想 しそう を理念 りねん とした社会 しゃかい 変革 へんかく から影響 えいきょう をうけて展開 てんかい されていた。それは社会 しゃかい 変革 へんかく 運動 うんどう の複数 ふくすう の運動 うんどう の一翼 いちよく を担 にな う「部分 ぶぶん 運動 うんどう 」とされる。
この運動 うんどう は、障害 しょうがい 者 しゃ の労働 ろうどう 権 けん や生存 せいぞん 権 けん を要求 ようきゅう する法律 ほうりつ 闘争 とうそう が、革命 かくめい をおこし社会 しゃかい 体制 たいせい を完全 かんぜん に変化 へんか させる、社会 しゃかい 変革 へんかく の「部分 ぶぶん 運動 うんどう 」として展開 てんかい されたことにその特徴 とくちょう がある 。
本 ほん 報告 ほうこく では、80年代 ねんだい 後半 こうはん の「韓国 かんこく 障害 しょうがい 者 しゃ 運動 うんどう 」が、障害 しょうがい 者 しゃ だけの利害 りがい を要求 ようきゅう する運動 うんどう に留 と まらない、社会 しゃかい 体制 たいせい を変 か える変革 へんかく に向 む かう運動 うんどう であったと考 かんが え、「障碍 しょうがい 人 じん 問題 もんだい 研究 けんきゅう 会 かい ウリント(以下 いか 、ウリント)」という障害 しょうがい 者 しゃ 青年 せいねん 組織 そしき を事例 じれい としてあげ、ウリントの結成 けっせい と運動 うんどう への展開 てんかい そして解体 かいたい までを実証 じっしょう 的 てき に論 ろん じる。また、1990年 ねん に入 はい り、障碍 しょうがい 人 じん 運動 うんどう が縮小 しゅくしょう して行 い く中 なか で、ウリントの解体 かいたい を余儀 よぎ なくされたことに対 たい しての評価 ひょうか と考察 こうさつ を行 おこな う。
2.障碍 しょうがい 人 じん 運動 うんどう と社会 しゃかい 運動 うんどう (変革 へんかく 運動 うんどう )の接点 せってん
韓国 かんこく では、1950年 ねん から3年間 ねんかん 起 お きた戦争 せんそう で、多 おお くの死傷 ししょう 者 しゃ が発生 はっせい し、いち早 はや くから傷痍軍人 しょういぐんじん に対 たい する制度 せいど が整備 せいび された。また、1950年代 ねんだい 末 まつ から流行 はや っていた小児 しょうに 麻痺 まひ ウイルスによって、60年代 ねんだい まつまで10~12万 まん 人 にん の小児 しょうに 麻痺 まひ 障害 しょうがい 者 しゃ が発生 はっせい した。ウイルスの流行 りゅうこう と別 べつ にワクチンの不足 ふそく と管理 かんり 不注意 ふちゅうい によるものが多 おお かったと当時 とうじ の新聞 しんぶん は発表 はっぴょう している。主 おも に下半身 かはんしん の軽度 けいど 障害 しょうがい 者 しゃ になった小児 しょうに 麻痺 まひ 障害 しょうがい 者 しゃ たちは、福祉 ふくし がほとんどなかった70年代 ねんだい から80年代 ねんだい まで中 なか ・高校 こうこう そして、大学 だいがく まで入学 にゅうがく 拒否 きょひ されるケースが多 おお かった。戦争 せんそう から生活 せいかつ が貧 まず しかったが、子供 こども への教育 きょういく に熱心 ねっしん だった韓国 かんこく の中 なか で歩 ある ける軽度 けいど 障害 しょうがい 児 じ への入学 にゅうがく 拒否 きょひ 事件 じけん は大 おお きな社会 しゃかい 問題 もんだい になった。当時 とうじ の障害 しょうがい 者 しゃ 運動 うんどう は、専門 せんもん 家 か や親 おや が中心 ちゅうしん で、一回 いっかい 性 せい のキャンペーンや糾弾 きゅうだん 大会 たいかい が多 おお く、制度 せいど を作 つく るなど問題 もんだい の本質 ほんしつ を探 さぐ ることはできなかった。一方 いっぽう 、入学 にゅうがく 拒否 きょひ 事件 じけん が制度 せいど の整備 せいび で大学 だいがく に入 はい るのがそれほど厳 きび しくなかったことで、80年代 ねんだい には多 おお くの障害 しょうがい 学生 がくせい が大学 だいがく に入 はい るようになる。当時 とうじ 、小児 しょうに 麻痺 まひ 協会 きょうかい で「ミルアル(小麦 こむぎ の種 たね )」というグラブで活動 かつどう していた高校生 こうこうせい たちも、80年代 ねんだい に多 おお く大学 だいがく に入 はい るようになる。このひとたちは、80年代 ねんだい 後半 こうはん の変革 へんかく 運動 うんどう として障害 しょうがい 者 しゃ 運動 うんどう を展開 てんかい していく「ウリント」のメンバーたちである。
80年代 ねんだい に入 はい り、多 おお くの小児 しょうに 麻痺 まひ 障碍 しょうがい 人 じん らが大学 だいがく に入 はい り、そこで韓国 かんこく 社会 しゃかい 全般 ぜんぱん に行 おこな われている民主 みんしゅ 化 か 運動 うんどう について学習 がくしゅう するようになる。特 とく に、20年間 ねんかん 続 つづ いてきた独裁 どくさい 政権 せいけん が幕 まく を閉 と じたと信 しん じていた国民 こくみん にとって、間 ま もなくすぐ誕生 たんじょう していた軍事 ぐんじ 政権 せいけん に対 たい しての反 はん 政府 せいふ 運動 うんどう は70年代 ねんだい の小 しょう 市民 しみん 的 てき で自由 じゆう 主義 しゅぎ 的 てき な社会 しゃかい 運動 うんどう とは違 ちが って、自然 しぜん 発生 はっせい 的 てき で孤立 こりつ 分散 ぶんさん 的 てき な運動 うんどう を根本 こんぽん 的 てき な変革 へんかく のために組織 そしき が必要 ひつよう であることなど社会 しゃかい 的 てき な合意 ごうい がなされたたからである。これは「運動 うんどう の科学 かがく 科 か 」ともいえた(キン, 1989)。 そして、80年代 ねんだい 韓国 かんこく 社会 しゃかい 全般 ぜんぱん における社会 しゃかい 運動 うんどう はマルクス主義 まるくすしゅぎ を基盤 きばん とした社会 しゃかい 主義 しゅぎ 運動 うんどう で、労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう を通 つう じた社会 しゃかい 変革 へんかく 運動 うんどう の部分 ぶぶん 運動 うんどう を目指 めざ していた。それは、労働 ろうどう 階級 かいきゅう が社会 しゃかい 変革 へんかく 運動 うんどう 主導 しゅどう する主導 しゅどう 群 ぐん になり、学生 がくせい 、農民 のうみん 、貧困 ひんこん 、女性 じょせい などは補助 ほじょ 群 ぐん として主導 しゅどう 群 ぐん を支 ささ え、主導 しゅどう 群 ぐん によって革命 かくめい を行 おこな うことを言 い う。このような雰囲気 ふんいき の中 なか で青年 せいねん 障碍 しょうがい 人 じん たちは学生 がくせい 運動 うんどう や労働 ろうどう 運動 うんどう など様々 さまざま な場 ば で、社会 しゃかい 変革 へんかく 運動 うんどう に参加 さんか し、自然 しぜん にマルクス主義 まるくすしゅぎ 、社会 しゃかい 主義 しゅぎ 、唯物 ゆいぶつ 論 ろん 、弁 べん 証 しょう 論 ろん 、金 きむ 一成 いっせい の主体 しゅたい 思想 しそう などに触 ふ れ、運動 うんどう の思想 しそう や理念 りねん 、組織 そしき 運営 うんえい と闘争 とうそう の方式 ほうしき を学 まな んでいた。
そして、青年 せいねん 障碍 しょうがい 人 じん たちも補助 ほじょ 群 ぐん (部分 ぶぶん 運動 うんどう )として障碍 しょうがい 人 じん 運動 うんどう を展開 てんかい していくことを決 き める「ウリント」という組織 そしき を作 つく るのである。
2.ウリントの展開 てんかい (1)――結成 けっせい と勢力 せいりょく 拡張 かくちょう
韓国 かんこく の初 はつ の障碍 しょうがい 人 じん 変革 へんかく 的 てき 運動 うんどう 団体 だんたい と言 い われている「ウリント」は1986年 ねん 9月 がつ 14日 にち に結成 けっせい された。小児 しょうに 麻痺 まひ 協会 きょうかい 正 せい 立会 たちあい 館 かん 1)を利用 りよう する高校 こうこう 部 ぶ クラブであった「ミルアル(小麦 こむぎ の芽 め )」出身 しゅっしん の青年 せいねん 障害 しょうがい 者 しゃ たちで、当時 とうじ 学生 がくせい 運動 うんどう が盛 もり かんだ大学 だいがく で学生 がくせい 運動 うんどう に関 かか わった者 もの と、労働 ろうどう 運動 うんどう に深 ふか く関 かか わっていた10人 にん が中心 ちゅうしん であった。85年 ねん 10月 がつ から毎週 まいしゅう 、社会 しゃかい 運動 うんどう 書籍 しょせき や障碍 しょうがい 人 じん 関連 かんれん 書籍 しょせき を読 よ みながら、先進 せんしん 国 こく では障碍 しょうがい 人 じん 問題 もんだい が権利 けんり として問題 もんだい を解決 かいけつ していくことや、責任 せきにん が国 くに にあることなどを勉強 べんきょう する 。そして、自分 じぶん たちが学生 がくせい 運動 うんどう や労働 ろうどう 運動 うんどう の場 ば で学 まな んだことをいかに障碍 しょうがい 人 じん 運動 うんどう の中 なか で活 かつ かせるかについて計画 けいかく 的 てき に取 と り組 く んだ。そして、ウリントは大学生 だいがくせい と一般人 いっぱんじん とがともに人権 じんけん 向上 こうじょう と障碍 しょうがい 人 じん の福祉 ふくし 増進 ぞうしん のために社会 しゃかい 変革 へんかく 的 てき な活動 かつどう ができることを目指 めざ して結成 けっせい した。そして、「障害 しょうがい 人 じん 福祉 ふくし の問題 もんだい の原因 げんいん は政府 せいふ 当局 とうきょく の無 む 関心 かんしん 、社会 しゃかい の無 む 関心 かんしん であったと考 かんが え、根本 こんぽん 的 てき な解決 かいけつ 策 さく のために研究 けんきゅう 作業 さぎょう と実践 じっせん 作業 さぎょう を行 おこな う」(障碍 しょうがい 問題 もんだい 研究 けんきゅう 会 かい ウリント, 1993, p. 33)ことを目的 もくてき とした。研究 けんきゅう 作業 さぎょう の一環 いっかん として、86年 ねん 11月15日 にち に『喚声 かんせい 』誌 し 一 いち 号 ごう を発行 はっこう し、解体 かいたい される92年 ねん までの間 あいだ で計 けい 13号 ごう が発行 はっこう された。彼 かれ らが韓国 かんこく の障碍 しょうがい 人 じん 問題 もんだい に正面 しょうめん から対峙 たいじ し、問題 もんだい の解決 かいけつ 方法 ほうほう と障碍 しょうがい 人 じん の権利 けんり を勝 か ち取 と るための闘争 とうそう の準備 じゅんび を行 おこな っていたことが伺 うかが える。
ウリントは全国 ぜんこく で社会 しゃかい 変革 へんかく 運動 うんどう を展開 てんかい するために、全国 ぜんこく 組織 そしき への加入 かにゅう の必要 ひつよう 性 せい を感 かん じ、1987年 ねん に親睦 しんぼく 組織 そしき であった「全国 ぜんこく 肢体 したい 不自由 ふじゆう 大学生 だいがくせい 連合 れんごう (以下 いか 、全 ぜん 肢 し 大連 たいれん )2」)に加入 かにゅう した。この加入 かにゅう は計画 けいかく 的 てき なもので、障碍 しょうがい 人 じん の問題 もんだい が社会 しゃかい 構造 こうぞう の矛盾 むじゅん から生 しょう じていると考 かんが え、この加入 かにゅう により障碍 しょうがい 人 じん の運動 うんどう を社会 しゃかい 運動 うんどう の一環 いっかん とする理論 りろん 的 てき な根拠 こんきょ を確立 かくりつ する目的 もくてき があった。そして、ウリントのメンバーたちは、全国 ぜんこく を回 まわ りながら会員 かいいん 一 いち 人 にん 一人 ひとり にあい、積極 せっきょく 的 てき に社会 しゃかい の矛盾 むじゅん とその解決 かいけつ 方案 ほうあん として部分 ぶぶん 運動 うんどう を勧 すす めた。そして、88年 ねん にウリントのメンバーであるの申 さる 氏 し が全 ぜん 肢 し 大連 たいれん の常任 じょうにん 委員 いいん 長 ちょう に選出 せんしゅつ されてから、その性格 せいかく は大 おお きく変 か わる。申 さる は内的 ないてき な条件 じょうけん として「全国 ぜんこく 障碍 しょうがい 大学生 だいがくせい の実態 じったい 調査 ちょうさ を通 つう じて会員 かいいん 確保 かくほ 、障碍 しょうがい 人 じん 主体 しゅたい の政治 せいじ 力 りょく 確保 かくほ の必要 ひつよう 性 せい を認識 にんしき 、全国 ぜんこく 次元 じげん の政治 せいじ 意識 いしき 高揚 こうよう のための合宿 がっしゅく 、進歩 しんぽ 的 てき な意識 いしき をもつ学生 がくせい が必要 ひつよう 」などをあげながら、合宿 がっしゅく を通 つう じて障碍 しょうがい 人 じん 問題 もんだい を社会 しゃかい 構造 こうぞう の問題 もんだい として取 と り上 あ げ、政治 せいじ 意識 いしき の高揚 こうよう を図 はか った((障碍 しょうがい 人 じん 問題 もんだい 研究 けんきゅう 会 かい ウリント, 1993, p. 387)。
それ以外 いがい にも手話 しゅわ クラブを発足 ほっそく し、手話 しゅわ 公演 こうえん を行 おこな うことで、そこのボランティアの青年 せいねん たちと障碍 しょうがい 人 じん たちとの交流 こうりゅう を図 はか った。また劇団 げきだん とバントを結成 けっせい し、集会 しゅうかい の直前 ちょくぜん には公演 こうえん を行 おこな い、他 た の大学生 だいがくせい との交流 こうりゅう 場 じょう を作 つく りあげていく運動 うんどう も行 おこな っていた。
3.ウリントの展開 てんかい (2)――部分 ぶぶん 運動 うんどう 3)と解体 かいたい
81年 ねん 9月 がつ 30日 にち にソウルオリンピックの誘致 ゆうち が決定 けってい し、88年 ねん 10月 がつ 15日 にち に障碍 しょうがい 人 じん オリンピックが開催 かいさい された。 韓国 かんこく の障碍 しょうがい 界 かい 4) はこのオリンピックを反対 はんたい 5)した。そして、本格 ほんかく 的 てき に「全 ぜん 肢 し 大連 たいれん 」の名前 なまえ でウリントが、オリンピック反対 はんたい の現場 げんば 闘争 とうそう の契機 けいき となったのは、88年 ねん 3月 がつ 28日 にち にソウル市 し にある江 こう 洞 ほら 区 く ハイル洞 ほら 「ボ−ラムの家 いえ 」障碍 しょうがい 人 じん 20人 にん が障碍 しょうがい 人 じん 生存 せいぞん 権 けん を要求 ようきゅう しながらヨンドン教会 きょうかい 6)を占拠 せんきょ しハンストを始 はじ めたことである。その動 うご きを知 し った「全 ぜん 肢 し 大連 たいれん 」は、4月 がつ 8日 にち の声明 せいめい 書出 かきだ しながら、デモに合流 ごうりゅう した。4月9日 にち には、より具体 ぐたい 的 てき な声明 せいめい を発表 はっぴょう し、障碍 しょうがい 人 じん 雇用 こよう 促進 そくしん 法 ほう の制定 せいてい と心身 しんしん 障害 しょうがい 者 しゃ 福祉 ふくし 法 ほう の改正 かいせい を要求 ようきゅう し、闘争 とうそう はオリンピック反対 はんたい と2つの法案 ほうあん 争 そう 取 と の方向 ほうこう で展開 てんかい されるようになる。そして、4月 がつ 19日 にち には「障碍 しょうがい 人権 じんけん 益 えき 促進 そくしん 範 はん 国民 こくみん 決議 けつぎ 大会 たいかい 」を、17日 にち からは三 さん 育 そだて 再 さい 活 かつ 園 えん (韓国 かんこく の代表 だいひょう 的 てき な障碍 しょうがい 人 じん 入所 にゅうしょ 施設 しせつ )を占拠 せんきょ し、10日間 にちかん の断髪 だんぱつ 闘争 とうそう と10回 かい のデモ集会 しゅうかい を開 ひら くなど15日間 にちかん の闘争 とうそう を行 おこな った。 以後 いご 、7月 がつ 2日 にち から3日 にち にかけて「障碍 しょうがい 人 じん オリンピック組織 そしき 委員 いいん 会 かい 」を占拠 せんきょ する。これは展示 てんじ 的 てき なオリンピックを準備 じゅんび している政府 せいふ に致命 ちめい 的 てき なインパクトを与 あた えった。そして、10月9日 にち には「欺瞞 ぎまん 的 てき な障碍 しょうがい 人 じん オリンピック暴露 ばくろ 及 およ び障碍 しょうがい 人 じん 人権 じんけん 争 そう 取 と 決議 けつぎ 大会 たいかい 」という大 おお きなデモが行 おこな われた。また、障碍 しょうがい 人 じん オリンピックが 開催 かいさい された10月15日 にち から10月 がつ 24日 にち の間 あいだ 、ウリントの5人 にん が明洞 みょんどん 聖堂 せいどう の路上 ろじょう で、障碍 しょうがい 人 じん オリンピックの開催 かいさい 拒否 きょひ と両 りょう 法案 ほうあん の制定 せいてい を要求 ようきゅう しながら徹夜 てつや ハンストを展開 てんかい した。しかし、障碍 しょうがい 人 じん オリンピックは250億 おく ウォンの予算 よさん を使 つか って開催 かいさい された。
障碍 しょうがい 人 じん オリンピック反対 はんたい 運動 うんどう と一緒 いっしょ に展開 てんかい してきた法案 ほうあん 闘争 とうそう は、社会 しゃかい 的 てき ・政治 せいじ 的 てき に関心 かんしん が高 たか くなった。当時 とうじ まで、法案 ほうあん 制定 せいてい に対 たい する障害 しょうがい 人 じん 運動 うんどう は組織 そしき 的 てき ではなく、連帯 れんたい することなくそれぞれ独自 どくじ に活動 かつどう していたので、この頃 ころ から、闘争 とうそう のために障碍 しょうがい 界 かい を代表 だいひょう するような運動 うんどう 組織 そしき を必要 ひつよう とし、8月 がつ 11日 にち に「障碍 しょうがい 人 じん 総 そう 連盟 れんめい 」が結成 けっせい された。
10月9日 にち に「開運 かいうん 寺 てら (韓国 かんこく で代表 だいひょう 的 てき な仏教 ぶっきょう 宗派 しゅうは の本部 ほんぶ )」で、大 だい 規模 きぼ な集会 しゅうかい を開 ひら いた。 以後 いご 、法律 ほうりつ や政策 せいさく への運動 うんどう をやってきた「障害 しょうがい 友 とも 権益 けんえき 問題 もんだい 研究所 けんきゅうじょ 」が具体 ぐたい 的 てき な法案 ほうあん の草案 そうあん 作 づく りの作業 さぎょう を始 はじ め、11月には法案 ほうあん の改正 かいせい 作業 さぎょう を行 おこな っている。
このように、各 かく 障碍 しょうがい 人 じん 団体 だんたい が、各自 かくじ の役割 やくわり をはっきり区分 くぶん していくようになった。まずは、ウリントが加入 かにゅう している「全 ぜん 肢 し 大連 たいれん 」はいつも闘争 とうそう の先頭 せんとう で、そして、各 かく 政党 せいとう (野党 やとう )の党 とう 事務 じむ 室 しつ の占拠 せんきょ に、「障碍 しょうがい 権益 けんえき 問題 もんだい 研究所 けんきゅうじょ 」は案 あん の作成 さくせい 、そして障碍 しょうがい 界 かい を代表 だいひょう する「障碍 しょうがい 人 じん 総 そう 連盟 れんめい 」が各自 かくじ の役割 やくわり を果 は たしながら闘争 とうそう はますます激 はげ しく展開 てんかい していた。以後 いご 、「心身 しんしん 障害 しょうがい 人 じん 福祉 ふくし 法 ほう 改正 かいせい と障碍 しょうがい 人 じん 雇用 こよう 促進 そくしん 法 ほう 制定 せいてい のための共同 きょうどう 対策 たいさく 委員 いいん 会 かい 以下 いか 、共 きょう 対 たい 委 い )が結成 けっせい され、すぐに31団体 だんたい が参加 さんか して、11月11日 にち には1000人 にん が集 あつ まり、共 きょう 対 たい 委 い の主催 しゅさい で「心身 しんしん 障害 しょうがい 者 しゃ 福祉 ふくし 法 ほう 改正 かいせい と障碍 しょうがい 人 じん 雇用 こよう 促進 そくしん 法 ほう 制定 せいてい のための40万 まん 障碍 しょうがい 人 じん 総 そう 決議 けつぎ 大会 たいかい 」が国会 こっかい 議事 ぎじ 等 とう の前 まえ で開催 かいさい された。これらの運動 うんどう の結果 けっか 、12月11日 にち 「障碍 しょうがい 人 じん 福祉 ふくし 法 ほう 」が国会 こっかい を通過 つうか し、16日 にち に「障碍 しょうがい 人 じん 雇用 こよう 促進 そくしん 法 ほう 」が通過 つうか した。
この2つの法案 ほうあん 闘争 とうそう は、障碍 しょうがい 人 じん に労働 ろうどう 権 けん を獲得 かくとく し、障碍 しょうがい 人 じん の問題 もんだい が社会 しゃかい にあることを認識 にんしき させたことで大 おお きな意義 いぎ がある。
90年 ねん の初頭 しょとう からウリントの活動 かつどう は縮小 しゅくしょう していた。その原因 げんいん と言 い われるのは、まず、より運動 うんどう 性 せい が強 つよ い、新 あたら しい青年 せいねん 組織 そしき の設立 せつりつ の必要 ひつよう 性 せい 、他 た の運動 うんどう 団体 だんたい との連帯 れんたい の必要 ひつよう 性 せい を感 かん じたことがある。これは、大学生 だいがくせい 組織 そしき である全 ちょん 肢 し 大連 たいれん の名前 なまえ を持 も ちつつ、社会 しゃかい 変革 へんかく の運動 うんどう を展開 てんかい していくことに限界 げんかい を感 かん じたウリントの中心 ちゅうしん メンバーが、「ソウル青年 せいねん 障碍 しょうがい 者 しゃ 連合 れんごう (以下 いか 、ソ障 さわ 青 あお )」という新 あたら しい連合 れんごう 組織 そしき に移 うつ り活動 かつどう をしていたことである。
また、変革 へんかく 運動 うんどう として障碍 しょうがい 人 じん 運動 うんどう を展開 てんかい していくことに対 たい して内部 ないぶ で論争 ろんそう が生 しょう じたことである。これは、韓国 かんこく 全体 ぜんたい の社会 しゃかい 運動 うんどう が変革 へんかく 運動 うんどう から市民 しみん 社会 しゃかい 運動 うんどう へ変化 へんか 7)していく中 なか で、変革 へんかく 運動 うんどう の理念 りねん をもちつづけるウリント内部 ないぶ での論争 ろんそう と新人 しんじん メンバーを確保 かくほ することが困難 こんなん なこともその原因 げんいん であった。このように、既存 きそん メンバーの逸脱 いつだつ と新人 しんじん メンバーの確保 かくほ ができず、人 ひと が中心 ちゅうしん となるウリントは再建 さいけん のために内部 ないぶ で様々 さまざま な議論 ぎろん が行 おこな われるが、結局 けっきょく 92年 ねん 12月に解体 かいたい の道 みち を選 えら んだのである。「もしウリントが、それ以上 いじょう 変革 へんかく 運動 うんどう ができない時 とき がきたらその時 とき には、ただの組織 そしき の存続 そんぞく だけを考 かんが えずに解体 かいたい する8」」と考 かんが えていたので、ある意味 いみ でその時期 じき がきたとも言 い える。
4.「ウリント」の限界 げんかい とそれが残 のこ したもの
当時 とうじ 、変革 へんかく 運動 うんどう をやっていたウリントのメンバーたちに、89年 ねん の法 ほう 闘争 とうそう での勝利 しょうり 経験 けいけん が彼 かれ らに気付 きづ かせたのは、より強 つよ い運動 うんどう を全国 ぜんこく に展開 てんかい していくためには、質 しつ が高 たか い組織 そしき が必要 ひつよう であるということであった。全国 ぜんこく 組織 そしき の結成 けっせい と当時 とうじ 拡 ひろ がっていた施設 しせつ 横領 おうりょう 事件 じけん や他 た の運動 うんどう にも連帯 れんたい しながら変革 へんかく 運動 うんどう を展開 てんかい した。
このようにウリントの核心 かくしん メンバーは対外 たいがい 的 てき な活動 かつどう に傾 かたむ いたせいで、内部 ないぶ の活動 かつどう をほとんどできなくなっていた。 88年 ねん と89年 ねん の新規 しんき 会員 かいいん 加入 かにゅう が30人 にん 〜40人 にん 以上 いじょう と組織 そしき 的 てき に大 おお きくなっていたウリントは、91年 ねん からは新規 しんき 加入 かにゅう 者 しゃ の数 かず が激減 げきげん し、91年 ねん には6人 にん 、92年 ねん には8人 にん にまで落 お ちた。生計 せいけい 問題 もんだい で脱退 だったい していく会員 かいいん を含 ふく めると、実際 じっさい にウリント内 ない で活動 かつどう するメンバーは減 へ る一方 いっぽう であった。このように先進 せんしん グル―プが現 あらわ れなかったことによる指導 しどう 力 りょく の不在 ふざい と新人 しんじん 会員 かいいん の減少 げんしょう により、次 つぎ の世代 せだい の再 さい 生産 せいさん が困難 こんなん となった。(障碍 しょうがい 人 じん 問題 もんだい 研究 けんきゅう 会 かい ウリント, 1993, pp. 103-166)。
ウリントは次 つぎ の指導 しどう 部 ぶ への再 さい 生産 せいさん 、つまり、社会 しゃかい 意識 いしき が高 たか く、社会 しゃかい 主義 しゅぎ の思想 しそう や理念 りねん をもつ人材 じんざい を探 さが すことができなかったのである。それは、変革 へんかく 運動 うんどう 組織 そしき として継続 けいぞく 的 てき に維持 いじ しようとしていたウリントの危機 きき でもあった。
また、指導 しどう 力不足 ちからぶそく の批判 ひはん から、会員 かいいん 全体 ぜんたい の結束 けっそく 力 りょく の不在 ふざい 、メンバー同士 どうし の意見 いけん の不一致 ふいっち と、不信 ふしん 、そして会員 かいいん の主体 しゅたい 意識 いしき 低下 ていか による責任 せきにん の欠如 けつじょ をもたらし、ウリントが解体 かいたい していく大 おお きな原因 げんいん のひとつになったと言 い える。
また、このようなウリント内部 ないぶ の環境 かんきょう から、ウリントの正式 せいしき な名称 めいしょう である「障碍 しょうがい 人 じん 問題 もんだい 研究 けんきゅう 会 かい ウリント」から分 わ かるように、障碍 しょうがい 人 じん 問題 もんだい に関 かん する研究 けんきゅう 活動 かつどう を行 おこな おうのに十分 じゅうぶん ではない環境 かんきょう でもあった。結成 けっせい したその年 とし から機関 きかん 紙 し 『喚声 かんせい 』を発刊 はっかん したこと、ウリント研究 けんきゅう 部 ぶ があったことからも分 わ かる。ウリントは『喚声 かんせい 』発刊 はっかん に際 さい して、「障碍 しょうがい 人 じん 運動 うんどう の理論 りろん 的 てき な土台 どだい を作 つく り、既存 きそん の障碍 しょうがい 人 じん に対 たい する認識 にんしき を変 か えるために継続 けいぞく 的 てき に努力 どりょく し、研究 けんきゅう 作業 さぎょう を通 つう じて障碍 しょうがい 人 じん 問題 もんだい は南 みなみ 韓 かん (韓国 かんこく )がもっている資本 しほん 主義 しゅぎ の社会 しゃかい から生 う まれてものであることを社会 しゃかい に知 し らしめる」と宣言 せんげん している(障碍 しょうがい 人 じん 問題 もんだい 研究 けんきゅう 会 かい ウリント, 1993, p. 37)。しかし、社会 しゃかい 主義 しゅぎ の理念 りねん や思想 しそう をもって変革 へんかく 的 てき な運動 うんどう を行 おこな うのは十分 じゅうぶん であったことで89年 ねん までは、変革 へんかく 運動 うんどう を展開 てんかい していくにはそれほど問題 もんだい が生 しょう じなかった。しかしながら、90年 ねん 以後 いご ウリント内部 ないぶ の人材 じんざい 不足 ふそく と新 あたら しい社会 しゃかい 運動 うんどう へ応 おう じるような障碍 しょうがい 人 じん 運動 うんどう への理念 りねん を作 つく りあげる力 ちから の不足 ふそく でウリントは解体 かいたい の道 みち を選 えら んだのである。
これは、変革 へんかく 運動 うんどう の限界 げんかい である。そして、変革 へんかく 運動 うんどう から得 え た2つ法案 ほうあん 闘争 とうそう 味 あじ わった勝利 しょうり への経験 けいけん とその信頼 しんらい から、ウリントの運動 うんどう を展開 てんかい する確信 かくしん があったと考 かんが えられる。以後 いご にも、ウリントのメンバーたちは、社会 しゃかい 運動 うんどう の思想 しそう と理念 りねん を捨 す てることができず、戦闘 せんとう 的 てき な運動 うんどう を展開 てんかい しよう努力 どりょく するが、全国 ぜんこく 青年 せいねん 組織 そしき 結成 けっせい を失敗 しっぱい することで、彼 かれ らの運動 うんどう は縮小 しゅくしょう していく一方 いっぽう になる。さらに、新 あたら しい政府 せいふ の下 した で反 はん 政府 せいふ 闘争 とうそう の課題 かだい と新 あたら しい理念 りねん と思想 しそう を作 つく ることができず、彼 かれ らの運動 うんどう は限界 げんかい を迎 むか え、80年代 ねんだい 後半 こうはん のような運動 うんどう は再現 さいげん されることなく、活動 かつどう 家 か たちは90年代 ねんだい を生 い きることになる。そして、98年 ねん に韓国 かんこく DPIと統合 とうごう することによって、ようやく社会 しゃかい 変革 へんかく 的 てき な部分 ぶぶん 運動 うんどう という戦略 せんりゃく を手放 てばな すにいたったのである。
おわりに
これまで、ウリントを中心 ちゅうしん とした80年代 ねんだい 後半 こうはん の韓国 かんこく 障碍 しょうがい 人 じん 運動 うんどう について確認 かくにん してきた。
ウリントは80年代 ねんだい 後半 こうはん の体制 たいせい 変革 へんかく 的 てき な部分 ぶぶん 運動 うんどう であり、当事 とうじ 者 しゃ による韓国 かんこく 初 はつ の運動 うんどう として、障碍 しょうがい 人 じん 問題 もんだい を表面 ひょうめん 化 か したことと、その責任 せきにん が個人 こじん ではなく国 くに にあったことを明確 めいかく に提示 ていじ し、社会 しゃかい の認識 にんしき を転換 てんかん させるきっかけを作 つく ったのだと言 い える。
しかし、変革 へんかく 運動 うんどう を目指 めざ していたウリントの強 つよ い社会 しゃかい 運動 うんどう への意識 いしき は新 あたら しい時代 じだい への対応 たいおう できる運動 うんどう の思想 しそう と理念 りねん を作 つく ることができなかった。それは、自分 じぶん 独自 どくじ のものをつくれなかったとも言 い える。それは、後 ご の韓国 かんこく 障碍 しょうがい 人 じん 運動 うんどう の縮小 しゅくしょう への大 おお きな原因 げんいん であったと考 かんが えられる。
以後 いご 、運動 うんどう の経験 けいけん と法案 ほうあん 闘争 とうそう での成功 せいこう 体験 たいけん は、2000年 ねん 以後 いご 重度 じゅうど 障碍 しょうがい 人 じん の自立 じりつ 生活 せいかつ 運動 うんどう と障碍 しょうがい 人 じん 差別 さべつ 禁止 きんし 法制 ほうせい 正 せい 運動 うんどう に大 おお きく活 い かされた。当時 とうじ ウリントの核心 かくしん メンバーの一人 ひとり は韓国 かんこく に自立 じりつ 生活 せいかつ 運動 うんどう を広 ひろ めた。また、青年 せいねん 障碍 しょうがい 人 じん たちが変革 へんかく 運動 うんどう とは異 こと なる「韓国 かんこく DPI」に統合 とうごう されたときに、それに反対 はんたい して変革 へんかく 運動 うんどう を最後 さいご まで主張 しゅちょう し続 つづ けていた当事 とうじ 者 しゃ は、2000年 ねん 以後 いご 、移動 いどう 権 けん 運動 うんどう の中心 ちゅうしん 人物 じんぶつ になった。また、他 た の青年 せいねん 障碍 しょうがい 人 じん たちも各 かく 団体 だんたい の中心 ちゅうしん となって重度 じゅうど 障碍 しょうがい 人 じん 運動 うんどう が韓国 かんこく に定着 ていちゃく していく支 ささ えとなった。80年代 ねんだい 後半 こうはん の運動 うんどう は2000年 ねん 以降 いこう に続 つづ く現在 げんざい の重度 じゅうど 障碍 しょうがい 人 じん 運動 うんどう の源流 げんりゅう となったのである。
今後 こんご の課題 かだい としては、ウリントの解体 かいたい 後 ご 、障碍 しょうがい 人 じん 運動 うんどう が変革 へんかく 運動 うんどう を維持 いじ するために行 い った全国 ぜんこく 組織 そしき の統合 とうごう と分離 ぶんり の経緯 けいい について、そして、変革 へんかく 運動 うんどう を断念 だんねん して新 あたら しい運動 うんどう 方式 ほうしき を選 えら んで、98年 ねん に韓国 かんこく DPIが成立 せいりつ するまでの経緯 けいい を障害 しょうがい 学 がく の視点 してん から引 ひ き続 つづ き調査 ちょうさ したい。
文献 ぶんけん リスト
(韓国 かんこく の文献 ぶんけん は韓国 かんこく 語 ご を報告 ほうこく 者 しゃ が日本語 にほんご で翻訳 ほんやく したものであり、日本語 にほんご でかかれたものではない)
鄭 てい 喜 き 慶 けい (ジョン・ヒギョン), 2009, 「大韓民国 だいかんみんこく における障碍 しょうがい 人 じん 運動 うんどう の歴史 れきし ―当事 とうじ 者 しゃ 主義 しゅぎ に至 いた るまでの歴歴 れきれき 史 し , 立命館大学 りつめいかんだいがく 先端 せんたん 総合 そうごう 学術 がくじゅつ 研究 けんきゅう 科 か 博士 はかせ 予備 よび 論文 ろんぶん
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注 ちゅう
1) 韓国 かんこく 初 はつ の障碍 しょうがい 人 じん 利用 りよう 施設 しせつ である。1966年 ねん に小児 しょうに 麻痺 まひ 障碍 しょうがい 人 じん でありながら専門 せんもん 家 か である6人 にん によって韓国 かんこく 小児 しょうに 麻痺 まひ 協会 きょうかい として設立 せつりつ された。以後 いご 、多 おお くの小児 しょうに 麻痺 まひ 障碍 しょうがい 児 じ たちの活動 かつどう 場 じょう となった。小児 しょうに 麻痺 まひ 障碍 しょうがい 人 じん たちからは「心 しん の故郷 こきょう 」とも言 い える場所 ばしょ である。
2)全国 ぜんこく 肢体 したい 不自由 ふじゆう 大学生 だいがくせい 連合 れんごう 会 かい は、78年 ねん に全国 ぜんこく 障碍 しょうがい 人 じん クラブ親睦 しんぼく 体育 たいいく 大会 たいかい で障碍 しょうがい 大学生 だいがくせい の全国 ぜんこく 組織 そしき の必要 ひつよう 性 せい が提起 ていき され、81年 ねん に正式 せいしき に5団体 だんたい が中心 ちゅうしん となり88年 ねん には済州 さいしゅう 島 とう を除 のぞ き、全国 ぜんこく 組織 そしき (全国 ぜんこく 10団体 だんたい )が結成 けっせい された。
3)障碍 しょうがい 人 じん オリンピック反対 はんたい 運動 うんどう と2つの法案 ほうあん 闘争 とうそう 運動 うんどう (障碍 しょうがい 人 じん 雇用 こよう 促進 そくしん 法 ほう 制定 せいてい と障碍 しょうがい 人 じん 福祉 ふくし 法 ほう 改正 かいせい )
4)障碍 しょうがい 人 じん 福祉 ふくし に関 かか わっているすべてのことや人 ひと
5)障碍 しょうがい 人 じん の数 かず すら把握 はあく してないのに、平等 びょうどう のオリンピックとか、参与 さんよ のオリンピックなどの美辞 びじ 句 く を使 つか うのは障碍 しょうがい 人 じん に傷 きず つけることだと反対 はんたい した。また、当時 とうじ の障碍 しょうがい 人 じん 福祉 ふくし の予算 よさん が50億 おく ウォンだったのに、オリンピックへの投資 とうし される金額 きんがく は250億 おく ウォンであった。これに対 たい して障碍 しょうがい 界 かい は猛 もう 反対 はんたい したのである。
6)韓国 かんこく で一番 いちばん 神 かみ 者 しゃ が多 おお いと言 い われている教会 きょうかい である純 じゅん 福音 ふくいん 教会 きょうかい が、献金 けんきん を障碍 しょうがい 人 じん オリンピック組織 そしき 委員 いいん 会 かい に寄付 きふ するという話 はなし を聞 き いてから、そのお金 かね を障碍 しょうがい 人 じん に直接 ちょくせつ 寄付 きふ することを要求 ようきゅう しながらデモを行 おこな った。
7)国外 こくがい では1989年 ねん から東欧 とうおう の社会 しゃかい 主義 しゅぎ 国家 こっか とソ連 それん の没落 ぼつらく と国内 こくない では1993年 ねん に軍事 ぐんじ 政権 せいけん が幕 まく を閉 と じ、民間 みんかん 人 じん による政権 せいけん 誕生 たんじょう を迎 むか え、韓国 かんこく 全般 ぜんぱん で行 おこな っていた反 はん 政府 せいふ 運動 うんどう や民主 みんしゅ 化 か 運動 うんどう などの変革 へんかく 運動 うんどう が市民 しみん 社会 しゃかい 運動 うんどう に変化 へんか していく時期 じき であった。
8)金 かね 漢 かん 培 つちかえ (キン・ハンべ)のインタビューによる発言 はつげん 、2009年 ねん 8月 がつ 16日 にち
*作成 さくせい :