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田中 みわ子「イギリスにおけるディスアビリティ・アートと障害文化の政治的共同性――パフォーマンスの身体に着目して」
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田中 たなか みわ子 こ 「イギリスにおけるディスアビリティ・アートと障害 しょうがい 文化 ぶんか の政治 せいじ 的 てき 共同 きょうどう 性 せい ――パフォーマンスの身体 しんたい に着目 ちゃくもく して」
障害 しょうがい 学会 がっかい 第 だい 6回 かい 大会 たいかい ・
報告 ほうこく 要旨 ようし 於:
立命館大学 りつめいかんだいがく
20090927
田中 たなか みわ子 こ (東京家政大学 とうきょうかせいだいがく )
「イギリスにおけるディスアビリティ・アートと障害 しょうがい 文化 ぶんか の政治 せいじ 的 てき 共同 きょうどう 性 せい ――パフォーマンスの身体 しんたい に着目 ちゃくもく して」
本 ほん 報告 ほうこく は、1970年代 ねんだい に生 う まれたイギリスのディスアビリティ・アートについて発行 はっこう されている二 ふた つの雑誌 ざっし Disability Arts Magazine (DAM, 1991-1995)及 およ びDisability Arts in London Magazine (DAIL, 1986-2008)を主 おも に分析 ぶんせき することによって、イギリスにおけるディスアビリティ・アートの特徴 とくちょう を明 あき らかにすることを目的 もくてき とする。そして、ディスアビリティ・アートを実践 じっせん する人々 ひとびと が、障害 しょうがい の文化 ぶんか 的 てき 表象 ひょうしょう をどのように捉 とら え、また変 か えようとしているのかを、パフォーマンスの身体 しんたい に追究 ついきゅう する。そこから、障害 しょうがい 文化 ぶんか の政治 せいじ 的 てき 共同 きょうどう 性 せい と呼 よ びうるものを描 えが き出 だ してみたい。
ディスアビリティ・アートは、絵画 かいが 、音楽 おんがく 、ダンス、演劇 えんげき 、詩 し などあらゆるジャンルにわたる総合 そうごう 的 てき な芸術 げいじゅつ であり、1970年代 ねんだい 以降 いこう の障害 しょうがい 者 しゃ 運動 うんどう の文脈 ぶんみゃく において、障害 しょうがい のある人々 ひとびと の「誇 ほこ りと怒 いか りと強 つよ さ」から生 う まれた芸術 げいじゅつ 運動 うんどう である。それは、障害 しょうがい の社会 しゃかい 的 てき 、文化 ぶんか 的 てき 意味 いみ に挑戦 ちょうせん し、文化 ぶんか 的 てき 表象 ひょうしょう の形態 けいたい を批判 ひはん する実践 じっせん であり、障害 しょうがい 文化 ぶんか の可能 かのう 性 せい として位置 いち づけられてきた。本 ほん 報告 ほうこく では、その実践 じっせん を、「障害 しょうがい のアファーマティヴ・モデル」、「アートセラピーからの断絶 だんぜつ 」、「障害 しょうがい 文化 ぶんか 」という三 みっ つの観点 かんてん からみていく。
ディスアビリティ・アートの実践 じっせん は、障害 しょうがい 者 しゃ 運動 うんどう の中 なか においても独自 どくじ の特徴 とくちょう をもち、多分 たぶん に政治 せいじ 的 てき 運動 うんどう であり、政治 せいじ 的 てき 闘争 とうそう の側面 そくめん をもつものである。本 ほん 報告 ほうこく では、パフォーマンスの身体 しんたい に着目 ちゃくもく することによって、そこにみられる共同 きょうどう 性 せい を「政治 せいじ 的 てき 共同 きょうどう 性 せい 」として捉 とら え、それがどのような問題 もんだい を孕 はら み、どのような可能 かのう 性 せい に開 ひら かれているのかを、イギリスの現代 げんだい アーティストであるマーク・クィン(Mark Quinn)の作品 さくひん を事例 じれい として考察 こうさつ する。
◆報告 ほうこく 原稿 げんこう 参考 さんこう 資料 しりょう ワード パワーポイント
障害 しょうがい 学会 がっかい 第 だい 6回 かい 大会 たいかい (於立命館大学 りつめいかんだいがく )報告 ほうこく 原稿 げんこう 2009/09/27
イギリスにおけるディスアビリティ・アートと障害 しょうがい 文化 ぶんか の政治 せいじ 的 てき 共同 きょうどう 性 せい
―パフォーマンスの身体 しんたい に着目 ちゃくもく して
田中 たなか みわ子 こ (東京家政大学 とうきょうかせいだいがく 助手 じょしゅ )
本 ほん 発表 はっぴょう では、1970年代 ねんだい に生 う まれたイギリスのディスアビリティ・アートについて発行 はっこう されている二 ふた つの雑誌 ざっし Disability Arts Magazine (DAM, 1991-1995)及 およ びDisability Arts in London Magazine(DAIL, 1986-2008)を主 おも に分析 ぶんせき することによって、イギリスにおけるディスアビリティ・アートの特徴 とくちょう を明 あき らかにすることを目的 もくてき とします。そして、ディスアビリティ・アートを実践 じっせん する人々 ひとびと が、障害 しょうがい の文化 ぶんか 的 てき 表象 ひょうしょう をどのように捉 とら え、また変 か えようとしているのかを、パフォーマンスの身体 しんたい に追究 ついきゅう します。そこから、障害 しょうがい 文化 ぶんか の「政治 せいじ 的 てき 共同 きょうどう 性 せい 」と呼 よ びうるものを描 えが き出 だ してみたいと思 おも います。
発表 はっぴょう は以下 いか の順 じゅん に進 すす めていきます。まず、ディスアビリティ・アートの実践 じっせん を三 みっ つの観点 かんてん から考察 こうさつ します。次 つぎ に、パフォーマンスの身体 しんたい に着目 ちゃくもく します。そして最後 さいご に、イギリスの現代 げんだい アーティストであるマーク・クィン(Mark Quinn)の作品 さくひん を事例 じれい として考察 こうさつ していきます。
1.ディスアビリティ・アートの実践 じっせん
ディスアビリティ・アートは、絵画 かいが 、音楽 おんがく 、ダンス、演劇 えんげき 、詩 し などあらゆるジャンルを含 ふく んだ総合 そうごう 的 てき な芸術 げいじゅつ であり、1970年代 ねんだい 以降 いこう の障害 しょうがい 者 しゃ 運動 うんどう の文脈 ぶんみゃく において、障害 しょうがい のある人々 ひとびと の「誇 ほこ りと怒 いか りと強 つよ さ」から生 う まれた芸術 げいじゅつ 運動 うんどう です。ここでは、「誇 ほこ りと怒 いか りと強 つよ さ」が、どのようにディスアビリティ・アートの実践 じっせん と結 むす びついてきたのかを、「障害 しょうがい のアファーマティヴ・モデル」、「アートセラピーからの断絶 だんぜつ 」、「障害 しょうがい 文化 ぶんか 」という三 みっ つの特徴 とくちょう にみていくことにします。
1−1.障害 しょうがい のアファーマティヴ・モデル
障害 しょうがい をもつ活動 かつどう 家 か であり障害 しょうがい 学 がく の研究 けんきゅう 者 しゃ であるJ・スウェインとS・フレンチは、イギリスにおける障害 しょうがい 学 がく や障害 しょうがい 者 しゃ 運動 うんどう の芽生 めば えと発展 はってん の流 なが れの中 なか で起 お こったディスアビリティ・アート・ムーブメントに見出 みいだ される考 かんが え方 かた を、障害 しょうがい のアファーマティヴ・モデルと呼 よ んでいます。アファーマティヴ・モデルは、障害 しょうがい を個人 こじん の悲劇 ひげき とみなす伝統 でんとう 的 てき な「悲劇 ひげき モデル」に対 たい する直接的 ちょくせつてき な挑戦 ちょうせん であり(Swain and French, 2000, p.574; 2008, p.91)、障害 しょうがい のアイデンティティを積極 せっきょく 的 てき に肯定 こうてい し、差異 さい を称賛 しょうさん するものです(Swain et al., 2003, p.71)。アファーマティヴ・モデルは、アイデンティティ・ポリティクスの文脈 ぶんみゃく に置 お き入 い れられ、複数 ふくすう のアイデンティティの中 なか の一 ひと つとして障害 しょうがい のアイデンティティを個人 こじん 的 てき にも集団 しゅうだん 的 てき にも強調 きょうちょう するものです(ibid.)。障害 しょうがい のある人々 ひとびと の「誇 ほこ りと怒 いか りと強 つよ さ」(Swain and French, 2000, p.569)の表現 ひょうげん として、アファーマティヴ・モデルはディスアビリティ・アートを推進 すいしん する力 ちから となってきたのだといえます。
1−2.「誇 ほこ りと怒 いか りと強 つよ さ」から―アートセラピーとの断絶 だんぜつ
イギリスにおけるディスアビリティ・アートは、アートセラピーとは明確 めいかく に区別 くべつ されている実践 じっせん です。障害 しょうがい のある人々 ひとびと の芸術 げいじゅつ がセラピーの場 ば に限 かぎ られているのは、障害 しょうがい のない人々 ひとびと の芸術 げいじゅつ と明 あき らかに異 こと なる事態 じたい であると、ディスアビリティ・アートを実践 じっせん する人々 ひとびと は論及 ろんきゅう してきました(Crow, 1992, p.4; Pick, 1992, p.18)。DAM誌上 しじょう には、セラピーに対 たい する批判 ひはん の声 こえ がしばしば取 と り上 あ げられており、例 たと えば、ディスアビリティ・アートを実践 じっせん するある画家 がか は、「アートはかつて誰 だれ も治 なお してなどおらず、またセラピーはアートではない」と痛烈 つうれつ に批判 ひはん を投 な げかけています(Kelly, 1993, p.5)。
C・バーンズやL・クロウは、セラピーは医学 いがく 的 てき な規定 きてい であり、医学 いがく 的 てき な規定 きてい は、セラピー的 てき な目標 もくひょう と繋 つな がり、そしてそれは社会 しゃかい 的 てき な排除 はいじょ であると指摘 してき しています(Barnes, et al., 1999, p.209 = 2004, p.273; Crow, 1992, p.4)。ディスアビリティ・アートがアートセラピーとの違 ちが いを訴 うった える背景 はいけい には、この社会 しゃかい 的 てき な排除 はいじょ に対 たい する「怒 いか り」があります。イギリスのナショナル・ディスアビリティ・アート・フォーラム(NDAF)の会長 かいちょう を務 つと め、ディスアビリティ・アート・ムーブメントに大 おお きく貢献 こうけん してきたSian Vaseyは、インタビューに答 こた えて、「自分 じぶん が障害 しょうがい の中 なか にいるという強 つよ い感覚 かんかく をもっている」と述 の べ、さらに「なぜなら私 わたし には選択肢 せんたくし などなかったし、それが障害 しょうがい 者 しゃ であるということ、つまり、それはメインストリームから排除 はいじょ されているということなのだ」(Davies, 1992, p.35)と述 の べています。障害 しょうがい 者 しゃ であるという強 つよ い感覚 かんかく から生 う み出 だ されるディスアビリティ・アートは、社会 しゃかい 的 てき な排除 はいじょ として捉 とら えられたアートセラピーの場 ば から離 はな れて、障害 しょうがい 文化 ぶんか を形 かたち づくることへと至 いた るのです。
1−3.障害 しょうがい 文化 ぶんか の可能 かのう 性 せい ―抑圧 よくあつ された経験 けいけん からアートへ
ディスアビリティ・アートは障害 しょうがい 文化 ぶんか の一 いち 形態 けいたい であり、その可能 かのう 性 せい として位置 いち づけられてきました。C・バーンズらは、障害 しょうがい 文化 ぶんか の領域 りょういき として、「抑圧 よくあつ の共有 きょうゆう された経験 けいけん 」「ろう文化 ぶんか 」「ディスアビリティ・アート」の三 みっ つがあると論 ろん じています(Barnes and Mercer, 2001, pp.522-524)。障害 しょうがい 文化 ぶんか は、抑圧 よくあつ された文化 ぶんか としてのサブカルチャーに位置 いち づけられ(ibid.)、無力 むりょく 化 か させる文化 ぶんか (disabling culture)、つまり、障害 しょうがい に対 たい する社会 しゃかい 的 てき 差別 さべつ 、排除 はいじょ 、隔離 かくり や、障害 しょうがい をもつ身体 しんたい を、逸脱 いつだつ した身体 しんたい とみなす価値 かち 観 かん を反映 はんえい する文化 ぶんか 、に対 たい する対抗 たいこう 的 てき な文化 ぶんか として形成 けいせい されてきたといえます。
障害 しょうがい 文化 ぶんか の軸 じく となっているのは、共有 きょうゆう された社会 しゃかい 的 てき な障害 しょうがい の経験 けいけん と、アファーマティヴ・モデルに基 もと づく障害 しょうがい のアイデンティティです(ibid., p.517)。バーンズらの指摘 してき を引用 いんよう して言 い えば、「ディスアビリティ・アートは共有 きょうゆう された文化 ぶんか 的 てき 意味 いみ の発展 はってん と障害 しょうがい の経験 けいけん や闘争 とうそう の集団 しゅうだん 的 てき な表現 ひょうげん 」なのであり、「その結果 けっか 、障害 しょうがい 者 しゃ が直面 ちょくめん する差別 さべつ や偏見 へんけん を暴 あば きだし、集団 しゅうだん 意識 いしき や連帯 れんたい を生 う み出 だ すために芸術 げいじゅつ を用 もち いる」ことになり(Barnes, et al., 1999, pp.205-206 = 2004, p.267)、「文化 ぶんか 的 てき 表象 ひょうしょう や生産 せいさん の主 おも な形態 けいたい を批判 ひはん するもの」となります(ibid., p.210 = p.274)。それゆえ、ディスアビリティ・アートは、集団 しゅうだん 的 てき な運動 うんどう として最 もっと も顕著 けんちょ な障害 しょうがい 文化 ぶんか の可能 かのう 性 せい となるのだと考 かんが えられます。
2.表象 ひょうしょう される身体 しんたい からパフォーマンスの身体 しんたい へ
では、次 つぎ に進 すす みます。ディスアビリティ・アートを実践 じっせん する人々 ひとびと は、文化 ぶんか 的 てき 表象 ひょうしょう やその過程 かてい をどのように捉 とら え、また変 か えようとしているのかを、パフォーマンスの身体 しんたい に着目 ちゃくもく して考察 こうさつ します。
イギリスにおいては、メディアにおける障害 しょうがい の身体 しんたい の表象 ひょうしょう が、ディスアビリティ・アートの実践 じっせん の直接的 ちょくせつてき な問題 もんだい としても批判 ひはん の矛先 ほこさき としても取 と り上 あ げられてきました。伝統 でんとう 的 てき なステレオタイプやイメージの中 なか において診断 しんだん され、描 えが き出 だ され、表象 ひょうしょう されてきた身体 しんたい とは異 こと なり、パフォーマンスは、身体 しんたい それ自身 じしん の感覚 かんかく 、アイデンティティを表現 ひょうげん し、社会 しゃかい 的 てき 文化 ぶんか 的 てき 意味 いみ を映 うつ し出 だ しながら意味 いみ をもつ行為 こうい を生 う み出 だ すものです。それゆえ、障害 しょうがい のある人々 ひとびと のパフォーマンスは、自 みずか らに付与 ふよ される意味 いみ の変容 へんよう を求 もと めて、最 もっと もラディカルな効果 こうか を生 う み出 だ すものとなります。
図 ず 1をご覧 らん ください。1994年 ねん 、DAIL(vol.4, no.3)に掲載 けいさい されたGioya Steinkeによる“Viva”と題 だい されたこの一 いち 枚 まい の絵画 かいが に、「闘争 とうそう 、喜 よろこ び、探究 たんきゅう 、賛美 さんび 」の表現 ひょうげん であるとのコメントが述 の べられています(Silverwood, 1994, p.3)。この作品 さくひん を描 えが いたGioya Steinkeは、19歳 さい の時 とき から重度 じゅうど の視覚 しかく 障害 しょうがい をもち、実際 じっさい に見 み えないことにより、見 み えないものを見 み ることを主題 しゅだい として活動 かつどう したといいます。このVivaの図像 ずぞう は、見 み えないものとしての身体 しんたい を見 み ることによる自画像 じがぞう です。Steinkeが彼女 かのじょ の視覚 しかく で捉 とら えている、とぎれとぎれですがはっきりとした鋭 するど い線 せん と、そのまわりを占 し める影 かげ によって、ぼやけた輪郭 りんかく であるにもかかわらず、そこに描 えが き出 だ された姿 すがた は、上体 じょうたい をそらして両 りょう 腕 うで を高 たか く天 てん に掲 かか げています(Collison, 1993, pp.42-43)。この作品 さくひん に見 み られるような力強 ちからづよ さと美 び のイメージが、ディスアビリティ・アートにおいて追求 ついきゅう されてきたといえるでしょう。パフォーマンスにおいて障害 しょうがい の身体 しんたい は、機能 きのう の制限 せいげん としてではなく、表現 ひょうげん の源 みなもと であり且 か つ経験 けいけん の媒体 ばいたい となります。ここではさらに、描 えが き出 だ された身体 しんたい が、そうしたパフォーマンスの身体 しんたい そのものとなって障害 しょうがい の身体 しんたい のイメージを生 う み出 だ していると捉 とら えられます。
3.障害 しょうがい 文化 ぶんか の政治 せいじ 的 てき 共同 きょうどう 性 せい とアンビヴァレントの身体 しんたい
それでは最後 さいご に、ディスアビリティ・アートの実践 じっせん にどのような共同 きょうどう 性 せい がみられるのかを探 さぐ り、その共同 きょうどう 性 せい が創出 そうしゅつ する場 ば を障害 しょうがい 文化 ぶんか や政治 せいじ 的 てき 運動 うんどう との関連 かんれん の中 なか に見出 みいだ していきたいと思 おも います。
3−1.ディスアビリティ・アートにみる政治 せいじ 的 てき 共同 きょうどう 性 せい
ディスアビリティ・アートが政治 せいじ 的 てき 運動 うんどう として発展 はってん する過程 かてい には、障害 しょうがい をめぐる国際 こくさい 的 てき な情勢 じょうせい や、イギリス政府 せいふ 及 およ びイングランド芸術 げいじゅつ 協会 きょうかい (Arts Council England)による取 と り組 く みが深 ふか く関 かか わっています(Sutherland, 2003, pp.0-1; Arts Council England, 2004)。ディスアビリティ・アート・ムーブメントが、障害 しょうがい 学 がく が提唱 ていしょう した社会 しゃかい モデルに基 もと づいた実践 じっせん であることもまた、イングランド芸術 げいじゅつ 協会 きょうかい の取 と り組 く みに明確 めいかく に位置 いち づけられてきました。
このような背景 はいけい に支 ささ えられて、ディスアビリティ・アートを実践 じっせん するアーティストは、「芸術 げいじゅつ に取 と り組 く む障害 しょうがい 者 しゃ 」ではなく、障害 しょうがい のあるアーティスト(disabled artist)として、ディスアビリティ・アート・ムーブメントを担 にな ってきました。そして本 ほん 発表 はっぴょう がこれまで辿 たど ってきたように、ディスアビリティ・アートは、障害 しょうがい をめぐる意味 いみ や表象 ひょうしょう やアイデンティティの政治 せいじ (Pick, 1992, p.20)としての特徴 とくちょう を示 しめ してきたのです。
こうした政治 せいじ 的 てき 運動 うんどう としてのディスアビリティ・アートが実現 じつげん する共同 きょうどう 性 せい をここに認 みと めることができます。それを<政治 せいじ 的 てき 共同 きょうどう 性 せい >と呼 よ ぶことにします。
この政治 せいじ 的 てき 共同 きょうどう 性 せい は、まさに障害 しょうがい のアイデンティティを軸 じく とする障害 しょうがい 文化 ぶんか を支 ささ え、立 た ち上 あ げるものです。そして、ディスアビリティ・アートの実践 じっせん にみられる政治 せいじ 的 てき な取 と り組 く みの意志 いし や目的 もくてき が共有 きょうゆう されうるところに見出 みいだ されるものです。これは、ディスアビリティ・アートや障害 しょうがい 者 しゃ 運動 うんどう 以前 いぜん には、医療 いりょう の場 ば や個々 ここ の経験 けいけん に「閉 と じられた」身体 しんたい においては、見出 みだ せなかった共同 きょうどう 性 せい であると捉 とら えられます。それゆえ、政治 せいじ 的 てき 共同 きょうどう 性 せい は、医療 いりょう 化 か /個別 こべつ 化 か された身体 しんたい を解 と き放 はな ち、障害 しょうがい 文化 ぶんか を構成 こうせい する集団 しゅうだん として政治 せいじ 的 てき 団結 だんけつ へと導 みちび いていく共同 きょうどう 性 せい です。このことは同時 どうじ に、政治 せいじ 的 てき 共同 きょうどう 性 せい が、障害 しょうがい の抑圧 よくあつ 的 てき な経験 けいけん を共有 きょうゆう する者 もの たちの間 あいだ にしか共有 きょうゆう されないことも含意 がんい しています。
なぜなら、政治 せいじ 的 てき 共同 きょうどう 性 せい は、ディスアビリティ・アートを生 う み出 だ してきた「誇 ほこ りと怒 いか りと強 つよ さ」の共感 きょうかん 不可能 ふかのう 性 せい ―あくまでも個別 こべつ 化 か された感覚 かんかく ―にこそ基礎 きそ 付 つ けられているからです。この共感 きょうかん 不可能 ふかのう 性 せい は、障害 しょうがい 者 しゃ と非 ひ 障害 しょうがい 者 しゃ の間 あいだ の共感 きょうかん 不可能 ふかのう な感覚 かんかく を表 あらわ すと同時 どうじ に、その個別 こべつ 化 か された感覚 かんかく ゆえに、障害 しょうがい のある者 もの 同士 どうし においても見出 みいだ されるものです。ディスアビリティ・アートを実践 じっせん する人々 ひとびと の政治 せいじ 的 てき 共同 きょうどう 性 せい と、「誇 ほこ りと怒 いか りと強 つよ さ」の共感 きょうかん 不可能 ふかのう な感覚 かんかく とは一体 いったい をなすものであり、一方 いっぽう で障害 しょうがい 文化 ぶんか を立 た ち上 あ げてはいるのですが、同時 どうじ に障害 しょうがい 文化 ぶんか の境界 きょうかい をも出現 しゅつげん させています。
3−2.アンビヴァレントの身体 しんたい
政治 せいじ 的 てき 共同 きょうどう 性 せい は、ディスアビリティ・アートが政治 せいじ 的 てき 運動 うんどう として力 ちから を発揮 はっき し、障害 しょうがい 文化 ぶんか を創 つく り出 だ していく過程 かてい では不可欠 ふかけつ ですが、同時 どうじ に、身体 しんたい をアンビヴァレントな位置 いち に置 お くことになります。とりわけ、C・バーンズとG・マーサーが指摘 してき しているように (Barnes and Mercer, 2001, pp.530-531)、アファーマティヴ・モデルに対 たい する戸惑 とまど いの声 こえ は、身体 しんたい の損傷 そんしょう が、身体 しんたい の痛 いた みや疲 つか れなどをもたらす場合 ばあい に、称賛 しょうさん も否定 ひてい もできない身体 しんたい の位置 いち をよく示 しめ しています。
痛 いた みや疲 つか れといった身体 しんたい の脆弱 ぜいじゃく 性 せい は、あらゆる身体 しんたい の存在 そんざい が孕 はら んでいる、消 け し去 さ ることも否定 ひてい することもできない身体 しんたい のありようです(Shakespeare and Watson, 2002)。「誇 ほこ りと怒 いか りと強 つよ さ」の感覚 かんかく を身体 しんたい に帯 お びる政治 せいじ 的 てき 共同 きょうどう 性 せい から、そうした身体 しんたい の脆弱 ぜいじゃく 性 せい は零 こぼ れ落 お ちてしまいます。アンビヴァレントの身体 しんたい とは、一方 いっぽう で、ディスアビリティ・アートや障害 しょうがい 文化 ぶんか の政治 せいじ 的 てき 共同 きょうどう 性 せい を志向 しこう しながら、他方 たほう でそれが共感 きょうかん 不可能 ふかのう であるという感覚 かんかく の中 なか で脆弱 ぜいじゃく 性 せい を曝 さら しだしてしまう身体 しんたい なのです。
3−3.政治 せいじ 的 てき 共同 きょうどう 性 せい の共振 きょうしん する場 ば
ディスアビリティ・アートの年譜 ねんぷ をまとめ、作家 さっか としてもパフォーマーとしても中心 ちゅうしん 的 てき な役割 やくわり を果 は たしてきたアラン・サザランドは2006年 ねん に次 つぎ のように述 の べています。
ディスアビリティ・アートがいまだかつて誰 だれ がその一員 いちいん であるのかを正確 せいかく に定義 ていぎ していないということを私 わたし は嬉 うれ しく思 おも う。なぜなら、そのことは新 あたら しい人々 ひとびと のグループが扉 とびら を開 あ けて押 お し進 すす めるよう開 ひら かれているということであり、今 いま のところ他 た のどんな運動 うんどう よりもディスアビリティ・アートにおいてよりうまくいっている。(Sutherland, 2006, p.8)
この言葉 ことば は、現在 げんざい のイギリスにおけるディスアビリティ・アートの実践 じっせん の拡 ひろ がりと多様 たよう 性 せい をい当 いあ てています。一方 いっぽう で、ディスアビリティ・アートが、障害 しょうがい 者 しゃ とごく少数 しょうすう の関係 かんけい する非 ひ 障害 しょうがい 者 しゃ からなる孤立 こりつ したゲットーを造 つく り出 だ してしまうのではないかという危惧 きぐ の声 こえ もあります(Hunter, 2002, p.10)。
図 ず 2をご覧 らん ください。これは、イギリスの現代 げんだい アートを代表 だいひょう すると評 ひょう されてきたマーク・クィンの作品 さくひん です。クィンは、しばしば障害 しょうがい のある人 ひと をモデルとしており、それらの芸術 げいじゅつ 作品 さくひん もまた、イギリスでは一般 いっぱん によく知 し られています。少 すく なくともイギリスのディスアビリティ・アートの文脈 ぶんみゃく において、クィンのような障害 しょうがい をもたないアーティストの作品 さくひん が、ディスアビリティ・アートの範疇 はんちゅう に取 と り入 い れられることは非常 ひじょう に例外 れいがい 的 てき なことです。2002年 ねん のDAILの記事 きじ には、2001年 ねん のクィンの作品 さくひん や続 つづ く2002年 ねん のテート・リバプールでのクィン展 てん での作品 さくひん についての批評 ひひょう が取 と り上 あ げられています。記事 きじ には、クィンの作品 さくひん は「〔ディスアビリティ・アートを実践 じっせん する〕我々 われわれ の美 び の理解 りかい に基 もと づく」ものであり、障害 しょうがい 者 しゃ の生 なま に共鳴 きょうめい するものであると述 の べられています(Shamash, 2002, p.10)。このことは、障害 しょうがい の経験 けいけん を探究 たんきゅう し、作品 さくひん としてきたディスアビリティ・アートとは別 べつ のかたちであるにも関 かか わらず、クィンの作品 さくひん そのものが、まさにパフォーマンスの身体 しんたい として政治 せいじ 的 てき 共同 きょうどう 性 せい を獲得 かくとく していることの証 あかし であると考 かんが えられます。
図 ず 2のモデルとなったアリソン・ラパーは、自 みずか らの身体 しんたい を絵画 かいが や写真 しゃしん において用 もち いることによって、障害 しょうがい のある女性 じょせい であり母親 ははおや である経験 けいけん や感情 かんじょう を作品 さくひん 化 か している人物 じんぶつ です。ディスアビリティ・アートを実践 じっせん する彼女 かのじょ 自身 じしん が、「身体 しんたい の概念 がいねん を再 さい 定義 ていぎ し再 さい 考察 こうさつ すること」(Hambrook, 2000,p.24)を通 とお して、「声高 こわだか に、誇 ほこ り高 たか い」身体 しんたい のイメージを作品 さくひん とすることによって、障害 しょうがい の身体 しんたい への認識 にんしき に挑 いど んできた経験 けいけん と(ibid., p.25)、このクィンの作品 さくひん のイメージとは重 かさ なり合 あ うものです(Lucas, 2002, p.9)。ラパーは、DAILのインタビューの中 なか で、クィンの試 こころ みに一方 いっぽう で敬意 けいい を表 あらわ しながらも、クィンではなくて、もし自分 じぶん や他 た の障害 しょうがい のあるアーティストが、クィンのように障害 しょうがい 者 しゃ をモデルとしたならば、それが真剣 しんけん に受 う け止 と められなかっただろうと吐露 とろ し、次 つぎ のように述 の べています。
マークの意図 いと は充分 じゅうぶん なものだし、それを尊敬 そんけい しているけれども、それが私 わたし の身体 しんたい であるのに、私 わたし が自分 じぶん で大理石 だいりせき 像 ぞう を造 つく ることができないのは残念 ざんねん なことである。私 わたし は彼 かれ がする以前 いぜん にそのような彫像 ちょうぞう を造 つく ろうと考 かんが えたけれど、ティッシュペーパーやビニール袋 ぶくろ で作 つく らなければならない。でも、彼 かれ は有名 ゆうめい なアーティストだから、人々 ひとびと は彼 かれ を真剣 しんけん に取 と り上 あ げる。でも、彼 かれ は健常 けんじょう 者 しゃ だ。障害 しょうがい のあるアーティストとして私 わたし は、障害 しょうがい の問題 もんだい を扱 あつか う健常 けんじょう 者 しゃ のアーティストの裏口 うらぐち を通 とお って、自分 じぶん たちが演壇 えんだん を与 あた えられたことをもどかしく思 おも うのだ。(Lucus, 2002, p.9)
ラパーの言葉 ことば には、ディスアビリティ・アートの政治 せいじ 的 てき 共同 きょうどう 性 せい と、そこに生 しょう じるアンビヴァレンスが同時 どうじ にみられます。クィンの作品 さくひん の身体 しんたい は、ラパーの共感 きょうかん 不可能 ふかのう な感情 かんじょう や経験 けいけん をも作品 さくひん 化 か することによって、障害 しょうがい 文化 ぶんか の政治 せいじ 的 てき 共同 きょうどう 性 せい を立 た ち上 あ げ、他 た の人々 ひとびと にも共振 きょうしん する場 ば を開 ひら いているのです。
生 せい の多様 たよう 性 せい と脆 もろ さを讃 たた えるクィンの作品 さくひん には、政治 せいじ 的 てき 共同 きょうどう 性 せい として描 えが き出 だ したものがひっそりと「障害 しょうがい 文化 ぶんか との共通 きょうつう の縒 よ り糸 いと 」(Shamash, 2002, p.11)として孕 はら まれています。図 ず 2のラパーの大理石 だいりせき 像 ぞう に、力強 ちからづよ くて官能 かんのう 的 てき であるけれども、ナルシスティックでも窃視的 てき でもない、肉体 にくたい 的 てき な感覚 かんかく を認 みと めるとき(ibid., p.12)、本 ほん 発表 はっぴょう で描 えが き出 だ したアンビヴァレントの身体 しんたい が、作品 さくひん となってそこにあり、政治 せいじ 的 てき 共同 きょうどう 性 せい を共振 きょうしん する場 ば を出現 しゅつげん させているのです。
おわりに
本 ほん 発表 はっぴょう は、イギリスのディスアビリティ・アートの実践 じっせん の特徴 とくちょう について論 ろん じながら、そこにみられる政治 せいじ 的 てき 共同 きょうどう 性 せい を描 えが き出 だ してきました。この政治 せいじ 的 てき 共同 きょうどう 性 せい は、政治 せいじ 的 てき 運動 うんどう としてのディスアビリティ・アートや障害 しょうがい 文化 ぶんか にとって不可欠 ふかけつ なものであると同時 どうじ に、「誇 ほこ りと怒 いか りと強 つよ さ」の共感 きょうかん 不可能 ふかのう 性 せい の中 なか で、アンビヴァレントな身体 しんたい を生 う み出 だ してきたといえます。
イギリスにおけるディスアビリティ・アートの実践 じっせん は、その政治 せいじ 的 てき 闘争 とうそう の側面 そくめん からも、障害 しょうがい 者 しゃ 運動 うんどう や障害 しょうがい 学 がく との結 むす びつきにおいても、独自 どくじ の特徴 とくちょう をもつものです。本 ほん 発表 はっぴょう は、そうした側面 そくめん に光 ひかり を当 あ てて論 ろん じてきましたが、さらに具体 ぐたい 的 てき な事例 じれい から、パフォーマンスの身体 しんたい について追究 ついきゅう することを次 つぎ の課題 かだい として発表 はっぴょう を終 お わります。
*作成 さくせい :