(Translated by https://www.hiragana.jp/ )
山口 真紀
「病名診断をめぐる問題とは何か――診断名を求め、語る声から考える」
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◆報告 ほうこく 要旨 ようし
◆報告 ほうこく 原稿 げんこう
■報告 ほうこく 要旨 ようし
心 しん の状態 じょうたい や在 あ り方 かた に診断 しんだん 名 めい を与 あた えること/得 え ることについて、これまでに多 おお く、医療 いりょう 社会 しゃかい 学 がく の分野 ぶんや から医療 いりょう 化 か との批判 ひはん がなされてきた。しかし一方 いっぽう で、診断 しんだん を求 もと め、肯定 こうてい 的 てき に語 かた る声 こえ がある。本 ほん 報告 ほうこく では、成人 せいじん してのちアスペルガー症候群 しょうこうぐん と診断 しんだん されたニキリンコの主張 しゅちょう に注目 ちゅうもく したい。近年 きんねん 、ドナ・ウィリアムズの『自閉症 じへいしょう だったわたしへ』(1993=2000,新潮社 しんちょうしゃ )をかわきりに、自閉症 じへいしょう やADHD(注意 ちゅうい 欠陥 けっかん ・多 た 動 どう 性 せい 障害 しょうがい )、アスペルガー症候群 しょうこうぐん と診断 しんだん された人々 ひとびと が、自 みずか らの世界 せかい 観 かん や体験 たいけん を書 か きした書籍 しょせき が発表 はっぴょう されはじめている。ニキリンコは日本 にっぽん におけるこうした動 うご きを牽引 けんいん してきた人物 じんぶつ でもある。ニキは、それまでに感 かん じてきた周囲 しゅうい とのズレの原因 げんいん に説明 せつめい を求 もと める気持 きも ちを抱 だ いてきたこと、二 ふた つの診断 しんだん 名 めい のあいだで揺 ゆ れ動 うご いたこと、それが得 え られたときの安堵 あんど や了解 りょうかい の気持 きも ちを記 しる している。そして当人 とうにん が病名 びょうめい を求 もと めることの正当 せいとう 性 せい を主張 しゅちょう する。
ニキの主張 しゅちょう からもたらされるのは、診断 しんだん 名 めい を得 え るという行 おこな いは生 い きづらさの承認 しょうにん 、治療 ちりょう や対処 たいしょ への機会 きかい としてもあり、病名 びょうめい によって得 え られる場所 ばしょ や位置 いち があるという認識 にんしき である。このことは重要 じゅうよう な問題 もんだい 提起 ていき を含 ふく んでいる。すなわち、これまでの医療 いりょう 化 か 批判 ひはん の議論 ぎろん においては、ときに行為 こうい の権力 けんりょく 構造 こうぞう やラベリングによってもたらされる負 まけ の側面 そくめん の指摘 してき に傾注 けいちゅう し、「誰 だれ にとって、何 なに が問題 もんだい なのか」という視角 しかく からの議論 ぎろん を取 と りこぼしてきたのではないかということ。さらにはニキが「制裁 せいさい だけを先取 さきど りしてきた歴史 れきし 」と批判 ひはん しているように、これらの議論 ぎろん の現在 げんざい 形 がた が、ニキにおいては病名 びょうめい を求 もと めるという気持 きも ち自体 じたい を否定 ひてい するものとして感受 かんじゅ されている側面 そくめん が考 かんが えられる。ニキの指摘 してき を受 う けるとき、診断 しんだん をめぐる問題 もんだい について今 いま 一 いち 度 ど 整理 せいり ・検討 けんとう される必要 ひつよう があるのではないか。報告 ほうこく では、ニキ自身 じしん も引用 いんよう している精神 せいしん 科 か 医 い ・香山 かやま リカの議論 ぎろん を取 と り上 あ げ、その「対立 たいりつ 」の様相 ようそう を考察 こうさつ する。
■報告 ほうこく 原稿 げんこう
「病名 びょうめい 診断 しんだん をめぐる問題 もんだい とは何 なに か――診断 しんだん 名 めい を求 もと め、語 かた る声 こえ から考 かんが える」
山口 やまぐち 真紀 まき
gr017063@ed.ritsumei.ac.jp(@→@)
1.関心 かんしん の所在 しょざい ――病名 びょうめい 診断 しんだん をめぐる議論 ぎろん の再 さい 検討 けんとう
近年 きんねん 、うつ病 びょう やパニック障害 しょうがい 、慢性 まんせい 疲労 ひろう 疾患 しっかん 、自閉症 じへいしょう やアスペルガー症候群 しょうこうぐん などの病名 びょうめい が広 ひろ く聞 き かれるようになった。これらの病名 びょうめい において示 しめ される症状 しょうじょう は個人 こじん や状況 じょうきょう によって多様 たよう に、あるいはなだらかにあらわれると理解 りかい されており、医学 いがく 上 じょう の診断 しんだん 基準 きじゅん は未 いま だ明確 めいかく ではない。こうしたあいまいで広範 こうはん な意味 いみ を含 ふく んだ病名 びょうめい の付与 ふよ については、当事 とうじ 者 しゃ や専門 せんもん 家 か の立場 たちば から様々 さまざま に議論 ぎろん がなされている。本 ほん 報告 ほうこく では、病名 びょうめい 診断 しんだん をめぐる議論 ぎろん に積極 せっきょく 的 てき な議論 ぎろん を展開 てんかい している精神 せいしん 科 か 医 い ・香山 かやま リカの議論 ぎろん を取 と り上 あ げ、考察 こうさつ する。そこからは、病名 びょうめい 診断 しんだん をめぐる議論 ぎろん の俯瞰 ふかん 的 てき な全体 ぜんたい 像 ぞう と、問題 もんだい 点 てん が明 あき らかとなる。
病名 びょうめい 診断 しんだん をめぐっては、様々 さまざま な生 い きづらさを抱 かか えた当人 とうにん から、自 みずか らの病名 びょうめい を認 みと め、求 もと める声 こえ が挙 あ がっている。報告 ほうこく 者 しゃ は、成人 せいじん してのちアスペルガー症候群 しょうこうぐん と診断 しんだん されたニキリンコの主張 しゅちょう に注目 ちゅうもく した。ニキは、自身 じしん の中途 ちゅうと 診断 しんだん の経験 けいけん を「所属 しょぞく 変更 へんこう 、あるいは汚名 おめい 返上 へんじょう 」であると記 しる した上 うえ で、当人 とうにん が診断 しんだん 名 めい を求 もと めることの正当 せいとう 性 せい を主張 しゅちょう している。報告 ほうこく 者 しゃ はこれまでに、ニキをはじめとした「自 じ 閉」者 しゃ の手記 しゅき を手 て がかりに、当人 とうにん らが診断 しんだん 名 めい を求 もと めるに至 いた るまでの思 おも いと、診断 しんだん 名 めい を得 え ることの効用 こうよう について考察 こうさつ した〔山口 やまぐち 2009〕(註1)。「自 じ 閉」者 しゃ の手記 しゅき には、診断 しんだん 名 めい を得 え たことによって安堵 あんど や了解 りょうかい の気持 きも ちがもたらされたこと、またカミングアウトの作法 さほう や生活 せいかつ 上 じょう の対処 たいしょ が可能 かのう となったことが記 しる されている。そこからは、病名 びょうめい 診断 しんだん が医療 いりょう の現場 げんば における権力 けんりょく 関係 かんけい の表出 ひょうしゅつ や、病名 びょうめい による経験 けいけん の囲 かこ い込 こ みといった指摘 してき とは異 こと なる水位 すいい において、病 やめ いを生 い きる人々 ひとびと の実践 じっせん の試 こころ みへとつながっていることが明 あき らかとなった(註2)。
本 ほん 報告 ほうこく ではさらに、病名 びょうめい 診断 しんだん をめぐる議論 ぎろん において重要 じゅうよう なアクターである専門 せんもん 家 か の言説 げんせつ に焦点 しょうてん を当 あ て、検討 けんとう をすすめる。具体 ぐたい 的 てき には先述 せんじゅつ したように、病名 びょうめい の普及 ふきゅう に危惧 きぐ を呈 てい する現代 げんだい の代表 だいひょう 的 てき 論者 ろんしゃ である香山 かやま リカの一連 いちれん の言説 げんせつ を取 と りあげる。病名 びょうめい 診断 しんだん をめぐるニキと香山 かやま の議論 ぎろん は「対立 たいりつ 」の様相 ようそう を示 しめ しており、香山 かやま の議論 ぎろん を追 お うことは、専門 せんもん 家 か と当事 とうじ 者 しゃ 、双方 そうほう の議論 ぎろん を検討 けんとう する上 じょう での重要 じゅうよう な作業 さぎょう と位置 いち づけられる。
2.ニキと香山 かやま の「対立 たいりつ 」と共振 きょうしん
はじめに、ニキと香山 かやま の議論 ぎろん の「対立 たいりつ 」を概観 がいかん しよう。ニキは香山 かやま の以下 いか の文章 ぶんしょう を引用 いんよう し、批判 ひはん している。
「診断 しんだん 名 めい というのは本来 ほんらい 、「その人 ひと の属性 ぞくせい の一部 いちぶ 」でしかも「喜 よろこ ばしくないもの」であるはず なのですが、ここでも「境界 きょうかい 例 れい (境界 きょうかい 性 せい 人格 じんかく 障害 しょうがい と同義 どうぎ )」が「その人 ひと そのもの」と同 おな じように扱 あつか われているのです。「検査 けんさ の結果 けっか 、あなたは糖尿 とうにょう 病 びょう でした」と言 い われて「ほんとうの私 わたし とは、糖尿 とうにょう 病 びょう のことだったのだ」と「うれしく思 おも う」ひとはいない でしょうけれど、新 あたら しい心 しん の病 やまい や人格 じんかく 障害 しょうがい にかぎっては、その名称 めいしょう が「碇 いかり シンジはサード・チルドレンだった」というのと同 おな じように使 つか われてしまっているのです」〔香山 かやま 1999b:190〕(註3)
ニキは「香山 かやま のこの感想 かんそう は、「発病 はつびょう (事実 じじつ )に対 たい する反応 はんのう 」と「診断 しんだん (情報 じょうほう )に対 たい する反応 はんのう 」を区別 くべつ していない」〔ニキ 2002:195〕と反論 はんろん し、以下 いか のように述 の べている。
「「なぜ自分 じぶん から障害 しょうがい 者 しゃ になりたがるのか」という問 と いの陰 かげ には、「『障害 しょうがい 者 しゃ 』というレッテルは誰 だれ にとっても常 つね にマイナスのものであるはず」という素朴 そぼく な前提 ぜんてい がある。実際 じっさい には、社会 しゃかい 的 てき に「障害 しょうがい 者 しゃ 」としての承認 しょうにん を求 もと めることは、決 けっ して「障害 しょうがい 者 しゃ 」というレッテルに付随 ふずい する蔑視 べっし を自 みずか ら求 もと めることでもなければ、肯定 こうてい することでもない のに、先 さき の疑問 ぎもん はこの二 ふた つを区別 くべつ せず、あたかも診断 しんだん を求 もと める者 もの が自 みずか ら蔑視 べっし を求 もと めているような印象 いんしょう を作 つく り出 だ しており、無意識 むいしき なら不注意 ふちゅうい 、意図 いと 的 てき なら卑怯 ひきょう である。事実 じじつ のレベルでは障害 しょうがい 者 しゃ としての承認 しょうにん を求 もと めつつ、重度 じゅうど 障害 しょうがい も含 ふく めた「障害 しょうがい 」全体 ぜんたい に対 たい するスティグマは拒絶 きょぜつ するという姿勢 しせい もあるはずである 。身 み に合 あ わない「健常 けんじょう 者 しゃ 」というレッテルに苦 くる しみ続 つづ けるか、差別 さべつ もコミで障害 しょうがい 者 しゃ として認 みと めてもらうかという二者択一 にしゃたくいつ に追 お い込 こ まれる必要 ひつよう はなかろう」〔ニキ 同 どう :201-202〕
ニキは、香山 かやま の発言 はつげん から、診断 しんだん を求 もと める声 こえ に対 たい する否定 ひてい 的 てき な判断 はんだん を感 かん じとる。であるがゆえにニキは、障害 しょうがい そのものと、「障害 しょうがい 」に付随 ふずい する不当 ふとう なレッテルを分 わ けて考 かんが える必要 ひつよう 性 せい を主張 しゅちょう する。
両者 りょうしゃ は病名 びょうめい 診断 しんだん をめぐって「対立 たいりつ 」した見解 けんかい を表明 ひょうめい しているが、しかし問題 もんだい 意識 いしき を共有 きょうゆう しているようにも思 おも われる。なぜなら先 さき の香山 かやま の引用 いんよう は、「診断 しんだん 名 めい 」と「その人 ひと そのもの」を同一 どういつ 視 し することへの違和 いわ としても読 よ めるためだ。香山 かやま のこの指摘 してき は、ニキの上記 じょうき の主張 しゅちょう から導 みちび かれる視点 してん 、すなわち「医学 いがく 的 てき ・科学 かがく 的 てき な診断 しんだん と、自分 じぶん のアイデンティティや帰属 きぞく 意識 いしき のよりどころとなる実存 じつぞん 的 てき ・社会 しゃかい 的 てき 診断 しんだん は、区別 くべつ してしまった方 ほう がいい」〔岡野 おかの ・ニキ 2002:171〕という認識 にんしき と共振 きょうしん するものではないだろうか。以下 いか に香山 かやま の議論 ぎろん を検討 けんとう していく。
3.精神 せいしん 家 か 医 い ・香山 かやま リカの議論 ぎろん から読 よ みとられる論点 ろんてん
3−1.精神 せいしん 医学 いがく への反省 はんせい 的 てき まなざし
香山 かやま は、精神 せいしん 医学 いがく が抱 かか える問題 もんだい として、病名 びょうめい が医学 いがく 的 てき 明証 めいしょう さを離 はな れて無秩序 むちつじょ に濫用 らんよう されていることへの危惧 きぐ を記 しる している。まずひとつに、@SSRI薬 やく が心身 しんしん の状態 じょうたい に対 たい する医学 いがく 的 てき 解明 かいめい 以前 いぜん に「効 き いてしまう」ため、実際 じっさい の臨床 りんしょう においては、病名 びょうめい が後追 あとお いするかたちで付与 ふよ されているという実態 じったい を指摘 してき する。
「一 いち 九 きゅう 九 きゅう 五 ご 年 ねん に日本 にっぽん でも「SSRI(選択 せんたく 的 てき セロトニン再 さい 取 と り込 こ み阻害 そがい 薬 やく )」と呼 よ ばれる新 あたら しい抗 こう うつ薬 やく が認可 にんか され、うつ病 びょう 治療 ちりょう は画期的 かっきてき に進歩 しんぽ した。(…)しかし一方 いっぽう で、このSSRIがあまりに“使 つか いやすく安全 あんぜん な薬 くすり ”であることが、逆 ぎゃく にうつ病 びょう の概念 がいねん をぼんやりさせてしまったのも確 たし かだ 。副作用 ふくさよう が少 すく ないことに加 くわ えて、このSSRIには、「気分 きぶん の落 お ち込 こ みや意欲 いよく の減退 げんたい から不安 ふあん 、焦燥 しょうそう 感 かん 、さらには過食 かしょく などの衝動 しょうどう 行為 こうい まで」と非常 ひじょう に幅広 はばひろ い効用 こうよう がある、という大 おお きな特徴 とくちょう もある。そのため、その患者 かんじゃ が、原因 げんいん がなくても自然 しぜん に起 お きるからだの病気 びょうき に近 ちか い内因 ないいん 性 せい うつ病 びょう なのか、それともストレス状況 じょうきょう に反応 はんのう して一過 いっか 性 せい の抑 そもそも うつ状態 じょうたい を呈 てい しているだけなのか、といったことが十分 じゅうぶん に見 み きわめられないうちに、まずは薬 くすり だけが投与 とうよ されてしまう危険 きけん 性 せい がある のだ。(…)かくして、この“使 つか いやすくて何 なに にでも効 き くSSRI”が出現 しゅつげん してから、「とにかくSSRIが効 き いたケースはうつ病 びょう 」というように、これまでとは順序 じゅんじょ が後先 あとさき に「うつ病 びょう 」の診断 しんだん 名 めい がつけられるケースも増 ふ えてしまった 」〔香山 かやま 2007:136-138〕
さらに興味深 きょうみぶか いのは、以下 いか に見 み るようにA専門 せんもん 家 か である自身 じしん のうちにも、診断 しんだん を下 くだ すさいの基準 きじゅん が明確 めいかく に持 も ちえなくなっていることへの当惑 とうわく を吐露 とろ している点 てん である。
「これは大変 たいへん だな、本当 ほんとう に可哀想 かわいそう に、という自然 しぜん で自明 じめい な共感 きょうかん というか同情 どうじょう みたいなものが芽生 めば えます。それができるかできないか、というところをうつ病 びょう 診断 しんだん のときに自分 じぶん の中 なか のひとつのスタンダードにしたいようなところもあったのです。それが最近 さいきん 、もうその手 て が使 つか えない のです。」〔香山 かやま ・岡崎 おかざき 2007:62〕
また香山 かやま は、例 たと えば犯罪 はんざい 者 しゃ の性向 せいこう に病名 びょうめい を与 あた えようとする一般 いっぱん 的 てき な理解 りかい 傾向 けいこう に抗 あらが おうとするなど、B医学 いがく 的 てき 病名 びょうめい を同定 どうてい するさいに生 しょう じるラベリングに対 たい して慎重 しんちょう であろうとする。これらの記述 きじゅつ からは、香山 かやま が、精神 せいしん 医学 いがく における病名 びょうめい 診断 しんだん の不 ふ 確実 かくじつ な実態 じったい と、診断 しんだん された病名 びょうめい が「器質 きしつ 的 てき ・本質 ほんしつ 的 てき 異常 いじょう 」という負 まけ のラベリングを創出 そうしゅつ することに自覚 じかく 的 てき であることが伺 うかが われる。それは、自 みずか らの専門 せんもん 知 ち を問 と い直 なお すまなざしでもある。
3−2.病名 びょうめい を求 もと める人々 ひとびと の増大 ぞうだい =「社会 しゃかい のせい」という理解 りかい
また香山 かやま は、病名 びょうめい 診断 しんだん を求 もと める人々 ひとびと の増大 ぞうだい という認識 にんしき からも、病名 びょうめい の普及 ふきゅう を危惧 きぐ している。「自 じ 閉」に関 かか わる書籍 しょせき が発刊 はっかん されるようになってから、「自分 じぶん は自閉症 じへいしょう だと思 おも う」という“自己 じこ 診断 しんだん ”を持 も った人々 ひとびと が多 おお く香山 かやま のもとを訪 おとず れるようになった。そうした人々 ひとびと は「自閉症 じへいしょう ではない」と診断 しんだん されると、一様 いちよう にがっかりした表情 ひょうじょう を見 み せると香山 かやま は述 の べている。人々 ひとびと が病名 びょうめい を得 え られず落胆 らくたん する背景 はいけい について、香山 かやま は、病名 びょうめい がさまざまに生 い きづらさを抱 かか えた人々 ひとびと の不全 ふぜん 感 かん を補完 ほかん するものとして作用 さよう している側面 そくめん を指摘 してき する。以下 いか の文章 ぶんしょう に見 み るように、香山 かやま はいまや精神 せいしん 医学 いがく 上 じょう の正確 せいかく で慎重 しんちょう な診断 しんだん はクリニックに来 く る人々 ひとびと に求 もと められていないばかりか、眼前 がんぜん の人々 ひとびと の回復 かいふく に有効 ゆうこう ではないかもしれないと理解 りかい する。そこから香山 かやま は、専門 せんもん 家 か による分類 ぶんるい 論 ろん 争 そう から距離 きょり を置 お き、精神 せいしん 医学 いがく の現状 げんじょう を見直 みなお さなければならないとの思 おも いを抱 だ いているようだ。
「今 いま の多 おお くの人 ひと たちが抱 かか えているのは、「うつとかうつとかそういうもの」であり 、その本態 ほんたい がうつ病 びょう に近 ちか いか、それとも境界 きょうかい 例 れい なのか解離 かいり 性 せい 障害 しょうがい なのか、あるいはPTSDや摂食 せっしょく 障害 しょうがい なのか、診断 しんだん にこだわってもあまり意味 いみ がないのではないか。それよりも大切 たいせつ なのは、感覚 かんかく 的 てき には「うつ」と呼 よ ばれるような感情 かんじょう を彼 かれ らが抱 かか えており、そのさらに奥 おく には「自分 じぶん がない」「自分 じぶん がバラバラ」「心 しん に穴 あな があいている」という不全 ふぜん 感 かん がある、ということで、そこから派生 はせい した枝葉 えだは の問題 もんだい に目 め を向 む けて診断 しんだん したところで、それは彼 かれ らの回復 かいふく には結 むす びつかないのかもしれない 」〔香山 かやま 2007:140〕
以上 いじょう の理解 りかい から香山 かやま は、人々 ひとびと が病名 びょうめい を求 もと めるという事態 じたい の背後 はいご に、現代 げんだい 社会 しゃかい の「病理 びょうり 」を読 よ み拾 びろ おうとする。香山 かやま は、現代 げんだい 社会 しゃかい を「自己 じこ 責任 せきにん を求 もと める社会 しゃかい 」であり、「自分 じぶん 探 さが しを迫 せま られる社会 しゃかい 」として理解 りかい する。そして以下 いか に見 み るように、診断 しんだん 名 めい の希求 ききゅう とは、そうした社会 しゃかい の「病理 びょうり 」に誘導 ゆうどう されたものであると分析 ぶんせき するのである。
「精神 せいしん 科 か 医 い の前 まえ に現 あらわ れて、「わたしって自閉症 じへいしょう なんです」と語 かた る女性 じょせい たちも、本当 ほんとう は別 べつ のことばで自分 じぶん が名 な づけられ、違 ちが った物語 ものがたり が始 はじ まるのを待 ま っていたに違 ちが いない 。あるいは、自分 じぶん を中心 ちゅうしん に据 す えた目 め に見 み えるような物語 ものがたり が始 はじ まらない人生 じんせい など失敗 しっぱい だ、と信 しん じ込 こ んでいたとも考 かんが えられる。しかし、そんな物語 ものがたり は始 はじ まりそうにない。それどころか、仕事 しごと も恋愛 れんあい も自分 じぶん が望 のぞ んだのとは違 ちが う方向 ほうこう にどんどん転 ころ がりつつある。――、これじゃ、いけない。そう考 かんが えた彼女 かのじょ たちの起死回生 きしかいせい の一 いち 撃 げき が、「わたしは自閉症 じへいしょう 」というつぶやきだったのだろうか。そのマイナスの刻印 こくいん を中心 ちゅうしん に、新 あら たな物語 ものがたり が紡 つむ ぎだされ、そこでは彼女 かのじょ たちが願 ねが っていたドラマチックな展開 てんかい が起 お こる可能 かのう 性 せい もあるではないか。そう思 おも って、捨 す て身 み の覚悟 かくご で「自閉症 じへいしょう 」ということばを口 くち にするのか。もしそうだとしたら 、それは早期 そうき から始 はじ まるコミュニケーション障害 しょうがい である医学 いがく 的 てき な意味 いみ での「自閉症 じへいしょう 」と同 おな じくらい、深刻 しんこく な病 やめ いであると言 い える。いや、もしかしたら彼女 かのじょ たちは、「ぼくは自閉症 じへいしょう ですか」と病院 びょういん を訪 おとず れる“病 やまい 識ある医学 いがく 的 てき 自閉症 じへいしょう 者 しゃ ”よりももっとひどく、現代 げんだい という名 な の毒 どく を浴 あ びた人 ひと たちと考 かんが えられるのではないか。」〔香山 かやま 1999a:113〕
「モラトリアム、ピーターパン症候群 しょうこうぐん など、これまでも若者 わかもの を中心 ちゅうしん に彼 かれ らが漠然 ばくぜん と抱 かか えている“生 い きづらい感 かん じ”を社会 しゃかい にそして当人 とうにん に解説 かいせつ するような概念 がいねん が多数 たすう 、登場 とうじょう した。しかし、 それらはいずれも「要 よう は心 しん の問題 もんだい なんだから解決 かいけつ できる可能 かのう 性 せい もある」という救 すく いの余地 よち を残 のこ していた。それが、ADHDやアスペルガーの“流行 りゅうこう ”に至 いた って事情 じじょう は変 か わった。これらは器質 きしつ 的 てき な発達 はったつ 障害 しょうがい 、つまり“脳 のう の問題 もんだい ”であるにもかかわらず、「この際 さい 、その病気 びょうき だと言 い ってもらったほうがよほど得心 とくしん が行 い く」というところまで追 お い詰 つ められている人 ひと が増 ふ えている、ということかもしれない。あるいは、「あなたが悪 わる いんじゃない」と自己 じこ 責任 せきにん から解放 かいほう されたがっている人 ひと が多 おお い、ということか。 」〔香山 かやま 2008a:185〕
こうして香山 かやま は、診断 しんだん 名 めい を希求 ききゅう する人々 ひとびと に、「自己 じこ 責任 せきにん から逃 のが れようとする意識 いしき 」と「自己 じこ 愛 あい 的 てき な特権 とっけん 意識 いしき 」があることを指摘 してき する。加 くわ えて、この人々 ひとびと の振 ふ る舞 ま いについて「生理 せいり 的 てき に「鼻持 はなも ちならなさ」を感 かん じてしまう」、「彼 かれ らの自己 じこ 中心 ちゅうしん 性 せい にはこちらの陰性 いんせい 感情 かんじょう を掻 か き立 た てる何 なに かがある」と記 しる し〔香山 かやま 1999a:121〕、自身 じしん の苛立 いらだ ちをも表明 ひょうめい する。そしてまさにこの香山 かやま の反 はん 応 おう こそが、ニキが以下 いか に反論 はんろん するような「多 おお くの仲間 なかま たちが浴 あ びせられてきた<冷 つめ たい視線 しせん >そのもの」〔ニキ 2002:217〕なのである。すなわち香山 かやま はここで、医学 いがく 上 じょう のそれとは異 こと なる「逸脱 いつだつ 者 しゃ 」のラベリングを無自覚 むじかく 的 てき に創出 そうしゅつ し、彼女 かのじょ /彼 かれ らに付与 ふよ してしまっているのだ。
「たとえ本当 ほんとう に発達 はったつ 障害 しょうがい を抱 かか える人 ひと であっても、謎 なぞ を解 と こう、納得 なっとく しようとしているときの姿 すがた は、はた目 め には、自分 じぶん が特別 とくべつ だという「物語 ものがたり 」に陶酔 とうすい している姿 すがた と区別 くべつ がつかない。そして、たまたま外見 がいけん が似 に ている「自己 じこ 愛 あい 的 てき な人 ひと たち」に対 たい する「陰性 いんせい 感情 かんじょう 」(それ自体 じたい が正当 せいとう なものかどうかは別 べつ として)のいわばとばっちりを受 う けているのかもしれない。 」〔ニキ 同 どう :217〕
4.当人 とうにん にふりかかる「証明 しょうめい 義務 ぎむ 」――専門 せんもん 家 か の<冷 つめ たい視線 しせん >に抗 あらが うことの困難 こんなん
ここに両者 りょうしゃ の議論 ぎろん が交錯 こうさく する。ニキが香山 かやま の<冷 つめ たい視線 しせん >に憤 いきどお り、批判 ひはん した背景 はいけい について、次 つぎ のことが考 かんが えられる。ひとつに香山 かやま の、個人 こじん の在 あ り様 さま を社会 しゃかい 背景 はいけい へと倒 たお していくような分析 ぶんせき 作法 さほう が、診断 しんだん 名 めい を契機 けいき にして生 い きづらさから脱却 だっきゃく しようとする「自 じ 閉」者 しゃ らの試 こころ みを、再 ふたた び「私 わたし 探 さが しへの陶酔 とうすい の姿 すがた 」や「怠 なま け者 もの 」といったイメージへ包摂 ほうせつ させてしまうということ。そして「自 じ 閉」者 しゃ らはこの<冷 つめ たい視線 しせん >に抗 あらが うために、「本当 ほんとう の病者 びょうしゃ 」であることを「証明 しょうめい しなければならない」という事態 じたい に直面 ちょくめん させられるということである。この事態 じたい は、ニキが、ADHDと「人格 じんかく 障害 しょうがい 」の差異 さい や類似 るいじ 点 てん 、反 はん 社会 しゃかい 的 てき な人々 ひとびと の生理 せいり 的 てき な根拠 こんきょ について、精神 せいしん 科 か 医 い ・岡野 おかの 高明 こうめい に幾度 いくど も質問 しつもん を投 な げかけるという行 おこな いからも読 よ み取 と れる。ニキは以下 いか のように質問 しつもん する。
「ADHDは人格 じんかく 障害 しょうがい に勢 いきお いをつける?」、「ADHDが境界 きょうかい 性 せい 人格 じんかく 障害 しょうがい を呼 よ ぶ?」、「ADHDの人 ひと は「人格 じんかく 障害 しょうがい 」への敷居 しきい が低 ひく い?」、「反 はん 社会 しゃかい 的 てき になりやすい子 こ どもには目印 めじるし がある?」、「反 はん 社会 しゃかい 的 てき な人々 ひとびと には生理 せいり 的 てき な特徴 とくちょう がある?」〔岡野 おかの ・ニキ 2002:274-278〕。
ニキが上記 じょうき のような疑問 ぎもん を抱 いだ き、幾度 いくど も確認 かくにん しなければならなかったのは、診断 しんだん 名 めい を得 え たにもかかわらず、なお終 お わらない問題 もんだい がニキ自身 じしん に降 ふ りかかっているためである。すなわちニキはここで、自身 じしん の行動 こうどう を脳 のう が規定 きてい していると了解 りょうかい すると同時 どうじ に、「自 じ 閉」者 しゃ と反 はん 社会 しゃかい 的 てき 行動 こうどう を引 ひ き起 おこ すような存在 そんざい との「違 ちが い」を意識 いしき せざるを得 え なくなっているのではないだろうか。
「証明 しょうめい 」のための弁明 べんめい は、当人 とうにん にとって決 けっ して快 こころよ いものではない。ニキは、生理学 せいりがく 的 てき ・解剖 かいぼう 医学 いがく 的 てき ・発達 はったつ 心理 しんり 学 がく 的 てき に明快 めいかい な根拠 こんきょ が見 み つかることを多 おお く期待 きたい しながら、しかし専門 せんもん 家 か 医 い の分類 ぶんるい 論 ろん 争 そう からは距離 きょり を置 お きたいと述 の べ、以下 いか のように記 しる す。
「この専門 せんもん 家 か の先生 せんせい は、私 わたし を診断 しんだん してくれた先生 せんせい とは違 ちが う人 ひと かもしれない。(…)――そう思 おも って、いつも「こう言 い ったら『その分類 ぶんるい は違 ちが う』って思 おも われないかなあ」と構 かま えてしまうのは疲 つか れてしまう 」〔岡野 おかの ・ニキ 2002:170〕
ここには、ニキ当人 とうにん が病名 びょうめい を認 みと め、語 かた ることの困難 こんなん が示 しめ されている。専門 せんもん 家 か の言説 げんせつ にさらされた当人 とうにん は、脱 だっ しようとしていた存在 そんざい 証明 しょうめい をめぐる困難 こんなん に再 ふたた び引 ひ き戻 もど されてしまうのである。
5.むすびにかえて
ニキと香山 かやま の議論 ぎろん はそれぞれ、その対象 たいしょう と立場 たちば を異 こと にしながら、病名 びょうめい 診断 しんだん をめぐる問題 もんだい 意識 いしき を共有 きょうゆう しているようにも思 おも われた。すなわちそれは、医学 いがく 上 じょう の病名 びょうめい が、付随 ふずい するレッテルを堅持 けんじ したまま「その人 ひと そのもの」として理解 りかい されることへの危惧 きぐ である。では両者 りょうしゃ の「対立 たいりつ 」とは、どのような問題 もんだい を示 しめ すものであったのか。
ここで、本 ほん 報告 ほうこく の要点 ようてん を整理 せいり する。@専門 せんもん 家 か 医 い ・香山 かやま リカの一連 いちれん の言説 げんせつ においては、精神 せいしん 医学 いがく による病名 びょうめい 診断 しんだん の有効 ゆうこう 性 せい への疑義 ぎぎ が呈 てい されていた。そして自 みずか らの専門 せんもん 知 ち に対 たい する反省 はんせい 的 てき まなざしから、病名 びょうめい というレッテルの付与 ふよ に慎重 しんちょう であろうとする姿勢 しせい が伺 うかが われた。しかし香山 かやま は、病名 びょうめい を求 もと める人々 ひとびと に現代 げんだい 社会 しゃかい の「病理 びょうり 」を読 よ み込 こ み、「自己 じこ 責任 せきにん から逃 のが れようとする意識 いしき 」と「自己 じこ 愛 あい 的 てき な特権 とっけん 意識 いしき 」を持 も つ人々 ひとびと を想定 そうてい するとき、医学 いがく 上 じょう のそれとは異 こと なる基準 きじゅん の「逸脱 いつだつ 者 しゃ 」という新 あら たなカテゴリーを実体 じったい 化 か させてしまうのだった。A一方 いっぽう ニキにおいても、「私 わたし たちのそれぞれが、誰 だれ を身近 みぢか に感 かん じ、誰 だれ を仲間 なかま に思 おも い、誰 だれ に親近 しんきん 感 かん を感 かん じるかというのは、私 わたし たちの内輪 うちわ の問題 もんだい 」〔岡野 おかの ・ニキ2002:171〕という思 おも いを抱 いだ きながら、しかし専門 せんもん 家 か である香山 かやま の視線 しせん に晒 さら されたとき、自 みずか らの正当 せいとう 性 せい を「証明 しょうめい 」しなければならなくなるという事態 じたい に引 ひ き込 こ まれていく。両者 りょうしゃ の議論 ぎろん の「対立 たいりつ 」は、両者 りょうしゃ が「病名 びょうめい 」のレッテルを回避 かいひ しようとした場所 ばしょ においてなお、新 あら たな存在 そんざい 証明 しょうめい をめぐる困難 こんなん が生 う み出 だ されているという問題 もんだい を示 しめ していたのではないだろうか。
(註1)ニキは、自身 じしん の論文 ろんぶん において、自閉症 じへいしょう やADHD、アスペルガー症候群 しょうこうぐん と呼 よ ばれる傾向 けいこう を持 も つ人々 ひとびと を総称 そうしょう して「自 じ 閉」と統一 とういつ すると断 ことわ り書 が きをしている。ニキは「自 じ 閉 とざ そのものは病気 びょうき ではない」という自 みずか らの立場 たちば を示 しめ し、また「スペクトラム」と呼 よ ばれるように症状 しょうじょう の度合 どあ いは人 ひと により様々 さまざま であるため、疾患 しっかん や、臨床 りんしょう 判断 はんだん を連想 れんそう させる「症 しょう 」という言葉 ことば を外 はず すことで広 ひろ く意味 いみ を持 も たせたい、とその含意 がんい を延 の べている〔ニキ 2002:180-181〕。本 ほん 報告 ほうこく は個別 こべつ の診断 しんだん 名 めい にまつわる問題 もんだい を掘 ほ り下 さ げるのではなく、まさにそうしたあいまいで広範 こうはん な意味 いみ を含 ふく む病名 びょうめい をめぐる問題 もんだい について考察 こうさつ するため、ニキの含意 がんい は親和 しんわ 性 せい を持 も つ。本 ほん 報告 ほうこく では以下 いか 、ニキの用法 ようほう にならう。
(註2) 報告 ほうこく 者 しゃ はニキリンコの手記 しゅき を主 おも に扱 あつか ったが、もちろん「自 じ 閉」者 しゃ は多様 たよう であり、個々 ここ の感覚 かんかく 、受 う け取 と り方 かた は様々 さまざま である。しかし報告 ほうこく 者 しゃ は、ニキの個性 こせい 的 てき な記述 きじゅつ や主張 しゅちょう の中 なか に、「自 じ 閉」者 しゃ を取 と り囲 かこ む問題 もんだい についての重要 じゅうよう な論点 ろんてん が含 ふく まれていると考 かんが える。そのため、ニキの主張 しゅちょう を手 て がかりとしながら考察 こうさつ した。
(註3) 碇 いかり シンジとは、95年 ねん 10月 がつ 〜96年 ねん 3月 がつ にかけてテレビ東京 てれびとうきょう 系 けい で放送 ほうそう されたアニメ「新 しん 世紀 せいき エヴァンゲリオン」の主人公 しゅじんこう である。碇 いかり シンジは、内向 ないこう 的 てき でコミュニケーションや自己 じこ 表現 ひょうげん が苦手 にがて な目立 めだ たない少年 しょうねん であるのだが、突然 とつぜん 世界 せかい を救 すく う役割 やくわり である「サード・チルドレン」に選任 せんにん される。香山 かやま の文脈 ぶんみゃく においては、天命 てんめい により「特別 とくべつ 」へと移行 いこう する存在 そんざい の象徴 しょうちょう として引用 いんよう されていると思 おも われる。
■引用 いんよう ・参考 さんこう 文献 ぶんけん
・Conrad, Peter & Schneider, Joseph 1992,Deviance and medicalization : from badness to sickness,Temple University Press in PA through The Asano ,Agency=2003 進藤 しんどう 雄三 ゆうぞう :杉田 すぎた 聡 さとし :近藤 こんどう 正 ただし 英訳 えいやく 『逸脱 いつだつ と医療 いりょう 化 か ――悪 あく から病 やめ いへ』,ミネル みねる ヴァ書房 ぁしょぼう
・Feldman,M., Ford,C.V. 1994 Patient or Pretender : Inside the Strange World of Factitious Disorders,New York, NY, John Wiley & sons, =1998 沢木 さわき 昇 のぼる 訳 やく 『病気 びょうき 志願 しがん 者 しゃ ――「死 し ぬほど」病気 びょうき になりたがる人 ひと たち』,原 はら 書房 しょぼう
・Gerland, Gunilla 1996 En riktig manniska, Stockholm, Cure,=1997 A Real Person=2000 ニキリンコ 訳 やく ,『ずっと「普通 ふつう 」になりたかった』,花 はな 風 ふう 社 しゃ
・香山 かやま リカ 1999a 『インターネット・マザー』,マガジンハウス
・―――― 1999b 『〈じぶん〉を愛 あい するということ』,講談社 こうだんしゃ 現代新書 げんだいしんしょ
・―――― 2003 『「こころの時代 じだい 」解体 かいたい 新書 しんしょ 2』,創出 そうしゅつ 版 ばん
・―――― 2004 『生 い きづらい<私 わたし >たち――心 しん に穴 あな があいている』,講談社 こうだんしゃ 現代新書 げんだいしんしょ
・―――― 2007 『仕事 しごと 中 ちゅう だけ《うつ病 びょう 》になる人 ひと たち――30代 だい うつ、甘 あま えと自己 じこ 愛 あい の心理 しんり 分析 ぶんせき 』,講談社 こうだんしゃ
・―――― 2008a 『うつ病 びょう が日本 にっぽん を滅 ほろ ぼす!?』,創出 そうしゅつ 版 ばん
・―――― 2008b 『「私 わたし はうつ」と言 い いたがる人 ひと たち』,PHP新書 しんしょ
・香山 かやま リカ・岡崎 おかざき 伸郎 のぶお 2007『精神 せいしん 科 か 医 い の本音 ほんね トークがきける本 ほん ――うつ病 びょう の拡散 かくさん から司法 しほう 精神 せいしん 医学 いがく の課題 かだい まで』,批評社 ひひょうしゃ
・Illich, Ivan 1976 Limits to Medicine Medical Nemesis: The Expropriation of Health,CR: I.I.=1979 金子 かねこ 嗣郎 つぎお 訳 やく ,『脱 だつ 病院 びょういん 化 か 社会 しゃかい ――医療 いりょう の限界 げんかい 』,晶文社 しょうぶんしゃ
・ニキリンコ 1999 「軽度 けいど 障害 しょうがい と障害 しょうがい の証明 しょうめい 義務 ぎむ 」http://homepage3.nifty.com/unifedaut/shoumei.htm (20090926)
・――――― 2002 「所属 しょぞく 変更 へんこう あるいは汚名 おめい 返上 へんじょう としての中途 ちゅうと 診断 しんだん ――人 ひと が自 みずか らラベルを求 もと めるとき」石川 いしかわ 准 じゅん ・倉本 くらもと 智明 ともあき 編 へん 『障害 しょうがい 学 がく の主張 しゅちょう 』,明石書店 あかししょてん ,pp.175-222
・――――― 2005 『俺 おれ ルール!――自 じ 閉は急 きゅう に止 と まれない』,花 はな 風 ふう 社 しゃ
・――――― 2007a 『自 じ 閉っ子 こ におけるモンダイな想像 そうぞう 力 りょく 』,花 はな 風 ふう 社 しゃ
・――――― 2008b 『スルーできない脳 のう ――自 じ 閉は情報 じょうほう の便秘 べんぴ です』,生活 せいかつ 書院 しょいん
・岡野 おかの 高明 こうめい ・ニキリンコ 2002 『教 おし えて私 わたし の「脳 のう みそ」のかたち――大人 おとな になって自分 じぶん のADHD、アスペルガー障害 しょうがい に気 き づく』,花 はな 風 ふう 社 しゃ
・山口 やまぐち 真紀 まき 2009「診断 しんだん 名 めい を与 あた えること/得 え ることについての問題 もんだい の再 さい 検討 けんとう ――ニキの主張 しゅちょう を起点 きてん にして」福祉 ふくし 社会 しゃかい 学会 がっかい 第 だい 七 なな 回 かい 大会 たいかい 報告 ほうこく
・Williams, Donna 1992 Nobody Nowhere, Doubleday=1993 河野 こうの 万里子 まりこ 訳 やく ,『自閉症 じへいしょう だったわたしへ』,新潮社 しんちょうしゃ
・Willey, Liane Holliday 1999 Pretending to be Normal: Living with Asperger's Syndrome, Jessica Kingsley Publishers Ltd., U.K.=2002 ニキリンコ訳 やく 『アスペルガー的 てき 人生 じんせい 』,東京書籍 とうきょうしょせき