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 障害学会第13回大会(2016年度)報告要旨 | 鬼頭 孝佳・高畑 祐人・安井 海洋
 

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障害しょうがい学会がっかいだい13かい大会たいかい(2016年度ねんど報告ほうこく要旨ようし


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鬼頭おにがしら 孝佳たかよし (きとう たかよし) 名古屋大学なごやだいがく文学ぶんがく研究けんきゅう博士はかせ後期こうき課程かてい 日本にっぽん学術がくじゅつ振興しんこうかい特別とくべつ研究けんきゅういんDC2
高畑たかはた ゆうじん (たかはた ゆうと) 名古屋大学なごやだいがく非常勤ひじょうきん講師こうし
安井やすい 海洋かいよう (やすい みひろ) 名古屋大学なごやだいがく文学ぶんがく研究けんきゅう博士はかせ後期こうき課程かてい

報告ほうこく題目だいもく

コミュニケーションの「障害しょうがい」とはなにか?

報告ほうこくキーワード

コミュさわ情報じょうほう伝達でんたつ不可能ふかのうせい解釈かいしゃくがく

報告ほうこく要旨ようし

 昨今さっこん、ビジネス分野ぶんや労働ろうどうしゃ予備よびぐん養成ようせいする教育きょういく中心ちゅうしんに、「コミュニケーション能力のうりょく」の育成いくせい必須ひっすとなりつつある。この場合ばあいどう能力のうりょく一定いってい目的もくてきする情報じょうほう過不足かふそくなく伝達でんたつすることに重点じゅうてんがあり、その定義ていぎはシャノンの情報じょうほう理論りろんもとづくヤコブソンのモデルとして措定そていされる(1)。
 しかし、自然しぜん言語げんご人工じんこう言語げんごほどシニフィアンとシニフィエの関係かんけい一義的いちぎてきではなく、コミュニケーションは暗号あんごう解読かいどくのように、受信じゅしんしゃ発信はっしんしゃ共有きょうゆうする文法ぶんぽう文脈ぶんみゃく完全かんぜんには想定そうていない。言語げんご考察こうさつたって、規範きはんかたりようろん言語げんごの3つの次元じげん想起そうきするならば、そもそも円滑えんかつ情報じょうほう伝達でんたつ可能かのうとはかんがえられないのではないだろうか(2)。もちろん、機知きちむコミュニケーションとは、けっしてマニュアルどおりのものではなく、またそうでなくては資本しほん主義しゅぎ適合てきごうてきな、ビジネスチャンスとしての「差異さい」を産出さんしゅつすることは不可能ふかのうである。しかし、同時どうじにこの「差異さい」はあらかじ商用しょうようる「理解りかい」を前提ぜんていとするてんかくれたマニュアルに依然いぜんとしてしたがっているとえよう。
 では、コミュニケーションは「理解りかい」を前提ぜんていとしなくてはならないのだろうか。この場合ばあい、「理解りかい」の内実ないじつ明確めいかくにする必要ひつようがある。すなわち、H. G. ガーダマーがしめしたように、異質いしつ文脈ぶんみゃくが「地平ちへい融合ゆうごう」の完全かんぜん調和ちょうわてき理解りかい必要ひつようとするのかといういをけてはとおれない。むしろ、J. デリダが適切てきせつ批判ひはんするように、現実げんじつには解釈かいしゃくがくてき循環じゅんかんとは解釈かいしゃくしゃがわ論理ろんり整合せいごうせいもとづいて中断ちゅうだんされざるをないのではないか。その意味いみで、「理解りかい」はつね解釈かいしゃくしゃ一方いっぽうてきおもみのいきるものではないだろう(3)。
 とはえ、解釈かいしゃくしゃはまったく主観しゅかんてき一方いっぽうてき相手あいて発話はつわ意味いみかならずしも確定かくていえない。というのも、解釈かいしゃくしゃ解釈かいしゃくしゃ論理ろんりえる「理解りかい」を要請ようせいるからである。しかも、解釈かいしゃくしゃ言語げんごによる解釈かいしゃく関与かんよするかぎりにおいて言語げんご共同きょうどうたいのメンバーでなくてはならないが、解釈かいしゃくしゃかならずしも言語げんご共同きょうどうたいのメンバーであるとはかぎらない。そもそも言語げんご言語げんご体系たいけい規範きはんてきかたりようろんてき側面そくめん内包ないほうするため、情報じょうほう理論りろんもとづくモデルが想定そうていするように、コミュニケーションの共通きょうつう契機けいきとなりる。しかし同時どうじ言語げんご如何いかなる言語げんご体系たいけいにおいてであれ、各個かっこ言語げんご使用しよう経験けいけん依存いぞんし、各個かっこ内的ないてき世界せかい完全かんぜんには表象ひょうしょうないという意味いみで、きょうやく不可能ふかのうせいゆうする。このようにかんがえれば、言語げんごでの意思いし疎通そつう言語げんご共同きょうどうたい所属しょぞくするすべてのメンバーにとって本来ほんらい不完全ふかんぜんなものである。それゆえ言語げんごでの意思いし疎通そつう不完全性ふかんぜんせいは、ことなる言語げんご共同きょうどうたいぞくするメンバーや言語げんご共同きょうどうたいぞくさないメンバーを言語げんご共同きょうどうたいやそれを基礎きそとする道徳どうとく共同きょうどうたいから排除はいじょする充分じゅうぶん理由りゆうとはなりないのではないだろうか。すなわち、理想りそうてきな「健常けんじょうしゃ」としての解釈かいしゃくしゃ立場たちばからは、重度じゅうど自閉症じへいしょうしゃ知的ちてき障害しょうがいしゃがその言語げんご能力のうりょくから当該とうがい言語げんご共同きょうどうたいのメンバーシップをうたがわれるとしても、「健常けんじょうしゃ同士どうしのコミュニケーションなるものがけっして理想りそうてき規範きはんでありない以上いじょう当該とうがい言語げんごかんする「障害しょうがい」はその当事とうじしゃ道徳どうとく共同きょうどうたいのメンバーシップまでをもこば理由りゆうとはなりないだろう。なぜなら当該とうがい言語げんご共同きょうどうたいにとって「なぞ」のメッセージをはっする主体しゅたいであっても存在そんざいけの必然ひつぜんてき想定そうていによって言語げんご共同きょうどうたいのメンバーシップが保障ほしょうされうるとかんがえることは可能かのうだからである(4)。当然とうぜんことなる言語げんご体系たいけいゆうする外国がいこく話者わしゃ手話しゅわ話者わしゃについても、そのちがいが排除はいじょする理由りゆうとはなりない。コミュニケーションとは元来がんらい統制とうせいてき理念りねんとしての「理解りかい」への「障害しょうがい」を内包ないほうするものであって、むしろ「理解りかい」の矮小わいしょうもとづく「円滑えんかつ」なコミュニケーションを規範きはんするうごきこそ、逆説ぎゃくせつてき不健全ふけんぜんな「健全けんぜんしゃ幻想げんそう」であるとわねばならない。コミュニケーションが内包ないほうするこうした「障害しょうがい」をれることによってのみ、豊饒ほうじょう他者たしゃ遭遇そうぐうし、一瞬いっしゅんの「理解りかい」に(たとえそれが誤解ごかいぎないとしても)遭遇そうぐうすることが可能かのうとなるのである。そうかんがえるならば、いわゆる「コミュさわ」のものにこそ、コミュニケーションのより普遍ふへんてき規範きはん見出みいだ糸口いとぐちがあるといってもよいのである。なお、ほん発表はっぴょう基本きほんてきには公刊こうかんぶつもとづく議論ぎろん特定とくてい個人こじん団体だんたい不利益ふりえきかぶらせるものではなく、著作ちょさくけんには十分じゅうぶん留意りゅういする。

ちゅう
(1)朝妻あさづま恵里子えりこ(2009)「ロマン・ヤコブソンのコミュニケーションろん」『スラブ研究けんきゅう』56。
(2)この次元じげん設定せっていたって向井むかい雅明まさあき(2016)『ラカン入門にゅうもん筑摩書房ちくましょぼう三浦みうらつとむ(1976)『日本語にほんごはどういう言語げんごか』講談社こうだんしゃとう参考さんこうにした。
(3)この段落だんらく議論ぎろんについては加藤かとう哲理てつり(2012)『ハンス=ゲオルグ・ガーダマーの政治せいじ哲学てつがくそうぶんしゃ参考さんこうにした。
(4)この着想ちゃくそうたっては小泉こいずみ義之よしゆき(2015)『ドゥルーズの哲学てつがく講談社こうだんしゃとう参考さんこうにした。



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