(Translated by https://www.hiragana.jp/)
課題集
長文 1.1週
【1】ある
書物がよい
書物であるか、そうでないかを
判断するために、
普通私たちがやっていることは
誰でも
類似している。
自分が
比較的得意な
項目、
自分が
体験などを
総合してよく
考えたこと、あるいは
切実に
思い
患っていること、などについて、その
書物がどう
書いているかを、
拾って
読んでみればよい。【2】よい
書物であれば、きっとそういうことについて、よい
記述がしてあるから、
大体その
箇所で、
書物の
全体を
占ってもそれほど
見当が
外れることはない。
だが、
自分の
知識にも、
体験にも、まったくかかわりのない
書物に
行きあたったときは、どう
判断すればよいのだろうか。【3】それは、たぶん、
書物に
含まれている
世界によって
決められる。
優れた
書物には、どんな
分野のものであっても
小さな
世界がある。その
世界は
書き
手の
持っている
世界の
縮尺のようなものである。【4】この
縮尺には
書き
手が
通りすぎてきた「
山」や「
谷」や、
宿泊した「
土地」や、
出会った
人や
思い
患った
痕跡などが、すべて
豆粒のように
小さくなって
籠められている。どんな
拡大鏡にかけてもこの「
山」や「
谷」や「
土地」や「
人」は
目には
見えないかもしれない。そう、
事実それは
見えない。
見えない
世界が
含まれているかどうかを、どうやって
知ることができるのだろうか。
【5】もしひとつの
書物を
読んで、
読み
手を
引きずり、また
休ませ、
立ち
止まって
空想させ、また
考え
込ませ、
要するにここは
文字のひと
続きのように
見えても、
実は
広場みたいなところだなと
感じさせるものがあったら、それは
小さな
世界だと
考えてよいのではないか。【6】この
小さな
世界は、
知識にも
体験にも
理念にもかかわりがない。
書き
手が
幾度も
反復して
立ち
止まり、また
戻り、また
歩き
出し、そして
思い
患った
場所なのだ。
彼は、そういう
小さな
世界をつくり
出すために、
長い
年月を
棒にふった。【7】
棒にふるだけの
価値があるかどうかもわからずに、どうしようもなく
棒にふってしまった。そこには
書き
手以外の
人の
影も、
隣人もいなかった。また、どういう
道もついていなかった。
行きつ
戻りつしたために、そこだけが
踏み
固められて
広場のようになってしまった。【8】
実際は
広場というようなものではなく、ただの
踏み
溜りでしかないほど
小さな
場所で、そこから
先に
道がついているわけでもない。たぶん、
書き
手ひとりがやっと
腰を
下ろせるくらいの
小さな
場所にしかすぎない。【9】けれどもそれは
世界なのだ。そういう
場所に
行きあたった
読み
手は、ひとつひとつの
言葉、
何行かの
文章にわからないところがあっても、
書き
手をつかまえたことになるのだ。
私は、なぜ
文章を
書くようになったかを
考えてみる。【0】
心の
中に
奇怪な
観念が
横行してどうしようもなく
持て
余していた
少年の
晩期のころ、しゃべることがどうしても
他者に
通じないという
感じに
悩まされた。この
思いは、
極端になるばかりであった。この
感じは
外にもあらわれるようになった。
父親は、お
前このごろ
覇気がなくなったと
言うようになった。
過剰な
観念をどう
扱ってよいかわからず、しゃべることは、
自分をあらわしえないということに
思い
患っていたので、
覇気がなくなったのは
当然であった。われながら
青年になりかかるころの
素直な
言動がないことを
認めざるをえなかった。
今思えば、「
若さ」というものは、まさしくそういうことなのだ。
他者にすぐわかるように
外に
出せる
覇気など、どうせ、たいした
覇気ではない、と
断言できるが、そのとき、そう
言いきるだけの
自信はなかった。そうして、しゃべることへの
不信から、
書くことを
覚えるようになった。それは
同時に
読むようになったことを
意味している。
私の
読書は、
出発点で
何に
向かって
読んだのだろうか。たぶん
自分自身を
探しに
出かけるというモチーフで
読みはじめたのである。
自分の
思い
患っていることを
代弁してくれていて、しかも、
自分の
同類のようなものを
探しあてたいという
願望でいっぱいであった。すると
書物の
中に、あるときは
登場人物として、あるときは
書き
手として、
同類がたくさんいたのである。
長文 1.2週
【1】
農業は、きわめて
恣意的な
営みである。
土を
耕す
仕事は
自然と
調和したエコロジカルな
行為と
一般には
思われているようだが
決してそうではない。
恣意的、といって
曖昧なら、
人間が
自然を
自分の
都合のよい
方向にねじ
曲げる
行為、といったらいい
過ぎか。
【2】だいたい、
野菜、という
概念からして
人工的なものである。
人は
野草や
山菜を
採集する
労苦と
非能率を
恨んで、
採ってきた
植物を
住むところの
近くに
置いて
管理しようと
試みた。
種を
取って
播き、みずからの
意志によって
自然を
手なずけようとさえした。
【3】
人間の
管理下に
置かれたもののうち、
栽培されることに
甘んじた
植物もあったし、
断固としてそれを
拒否し、
野生の
状態でなければ
生育しないことを
死をもって
示した
種もあったろう。
食用になる
野草山菜のうち、
人の
管理下での
植栽が
可能なものが「ベジタブル」と
呼ばれる。【4】
生長・
増殖することが
可能、という
意味である。
そればかりではない。
品種の「
改良」という
名のもとに、
人間は
植物の
姿かたちさえも
自分たちの
望む
通りに
変えてきた。
根が
食べたいと
思えば、
根を
太くする。
茎が
固いと
思えば、
柔らかくする。
【5】たとえばレタスとかキャベツとかいった、
丸く
結球する
野菜を
考えてみよう。
これらの
植物は、
芽が
出てからしばらくのようすを
見ていればわかるが、
最初はごくふつうの、それぞれの
葉が
外側に
反りながら
上に
伸びていくかたちの
青菜である。【6】それが、ある
時点から、しだいに
外側の
葉が
内側の
葉を
包むように
巻きはじめる。
この
性質は、
人間がつくったものである。
葉が
丸く
内側に
巻きはじめるのは、
過剰な
栄養のために
過度に
増えた
葉がこみあって
伸びる
場所を
失うからだ。【7】もちろん
生体が
想定し
得る
以上の
栄養を
与えることができるのは
人間だけであり、そうして
得られた
結果――つまり、
結球することによって
内部は
日光を
遮断されて
白く
柔らかくなり、
同時にひとつの
固体の
摂食可能な
部分の
体積が
飛躍的に
増える――を
享受するのもまた
人間なのだ。
【8】
私は、
野菜のために
土を
耕しながら、ときどきそんなことを
考えた。
「
文化」という
言葉の
語源は「
耕す」という
意味だと
教えられ、そうであるとすれば
土を
耕す
農業こそはまさしく
文化的な
営みだと
納得するが、【9】しかしそれにしたところで、
文化というのは
人間が
手をつけられないような
荒々しい
自然をなんとか
馴化して
管理下に
置こうとする
試みなのだ、と
種明かしをすれば、それほどたいしたことをやっていないのはすぐにわかる。【0】
人は
自然界にある
無限の
音から
人の
耳に
美しいと
感じられる
楽音だけを
取り
出して
音楽をつくり
自然界の
無限の
風景のうち
気に
入った
部分だけを
抽出して
絵画に
構成する。
農耕も
含めて、そうした「
文化」
的な
営みの
中においてだけ、
人は
自然を
自分たちのコントロール
下に
置いたような
気分になるのである。
私たちの
農作業は、「
文化」からはほど
遠いところにあった。
九二年は、
前述したように
乾燥した
暑い
夏だった。
九三年は、
一転して
雨ばかり
降り
続く
寒い
夏で、コメが
大凶作に
見舞われたことは
記憶に
新しい。
私たちの
畑でもブドウには
病害が
発生したし、トマトは
降り
続く
雨にたたられてひどい
減収、ジャガイモは
掘り
返す
前に
半分が
土の
中で
腐った。
そして
九四年はまたまた
予想を
裏切る
酷暑と
旱魃のシーズンで、ブドウは
辛くも
枯死をまぬがれてなんとか
収穫にまで
至ったもののブルーベリーは
熟しつつある
実をつけたまま
立ち
枯れ、トウモロコシも
皮を
剥くと
乾からびた
実があらわれた。そのため
連日水やりに
追われたが、
地熱があまりにも
高くそれこそ
焼け
石に
水であった。トマトもピーマンも
水不足で
小さな
表面の
乾いた
悲しい
実しか
実らせることができなかったし、
秋になってようやく
持ち
直したと
思ったら
台風の
風で
倒された。
まったく、
自然を
手なずけるどころか、
自然の
大きな
力に
翻弄されるばかりである。
もちろん、その
理由の
大きな
部分が
私たちの
技術や
予測の
未熟さ
設備や
投資の
不足にあることは
明白だが、しかし
必要なソフトやハードをすベて
兼ね
備えているはずの
周辺のプロの
農家も
結局はほとんど
同じような
被害に
苦しんでいることを
考えると、そもそも
農業というのは、
人間が
自然に
働きかけかなりの
程度それを
飼い
慣らしたように
見えて、
実際には
単に
大きな
自然界のほんの
少々の「おあまり」をいただくくらいのことしかできないのだ、ということがわかってくる。
畑仕事をはじめた
最初の
年には、
抜いても
抜いても
生えてくる
雑草と
格闘しているうちに、「いったい、
俺はなんでこんなことをしているのだろう」と
自問することがしばしばあった。「こんな
無駄なことにかかわっている
時間に、もっとほかにやるベきことがあるのではないのか?」そう
思ってイライラしたこともある。
しかし、そんな
過渡期の
思いも、
二年めに
入るとしだいに
消えていった。
畑仕事は、いくら
人間が
焦っても、できないものはできない。われわれの
望むもののうち、
自然の
合意を
得られた
分だけを、ゆるゆるとすすめることしかできないのである。
(
玉村豊男「
種まく
人」より)
長文 1.3週
【1】われわれ
自身は
必ずしも
意識していないかも
知れないが、
例えば「スミマセン」という
表現は
不思議だと
感じられることがある。この
表現は
英語で
言えば「Thank you」と「I am sorry」といういずれの
表現の
使われる
場合にも
用いられるが、【2】
一方は「お
礼」、
他方は「お
詫び」の
表現であり、そのように
一見相反するとも
思えるものが
同じことばで
表されるのは
不可解だというわけである。しかし、われわれ
自身がこれらの
表現を
使う
時の
気持を
少し
意識的に
内省してみればすぐ
分かる
通り、【3】
相手から
何か
好意あることをしてもらうことは
有難い(Thank you)と
同時に、
負担をかけたという
意味で
申し
訳ない(I am sorry)ことであり、こちらからもそれに
応える
何かをお
返しするまでは
事はすまないし、
自分の
気持ちもすまない――ということで、
日本語にはそれなりの
論理が
背後にあるわけである。
【4】あるいは、このような
例はどうであろうか。
英語では、「I am cold」「You are cold」「He is cold」は、どれも
同じように
普通の
自然な
表現である。ところが
日本語だと、「ボクハ
寒イ」はよいが、「
君ハ
寒イ」、「
彼ハ
寒イ」というのは
不自然に
聞こえる。【5】
一見、
日本語の
方は
筋が
通っていないように
思えるが、それなりの
論理は
背後にある。つまり、
寒いと
感じるのは
本人の
感覚であり、それを
本当の
意味で
体験できるのはその
本人だけである。したがって、
自分の
寒いのは
自分で
分かるから
良いが、
同じことは
他人についてはできないはず、というわけである。【6】「
君(
彼)ハ
寒イ」などという
表現を
聞くと、
何となく
差し
出がましいことを
言っているという
印象を
受けるのもそのためである。(
本人が
寒いということは、
本人以外にはその
内的な
感覚が
外からも
知覚できるような
形で
現れて
初めて
分かることである。【7】「
君(
彼)ハ
寒ガッテイル」ならば
不自然でなくなるのは、そのためである。)
この
種の
例は
言語のいろいろな
面で、またいろいろな
抽象度で、
見出し
議論することが
可能である。そこで
見出される
特徴も、この
言語特有のものから、どの
言語にも
普遍的なものに
至るまで、さまざまな
段階のものがあろう。【8】そして、また、それぞれの
特徴の
持っている
文化的な
意味合いもさまざまであろう。それは、
言語を
使う
人間が
一方では
自分なりの
創造をすることのできる
文化的存在であり、
同時に、
他方では
生物学的存在として
生理的・
心理的に(
例えば、
発声・
調音器官の
構造の
類似、
記憶力の
限界など)
共通の
制約を
有しているからである。
【9】しかし、いずれにせよ、
一つの
言語を
習得して
身につけるということは、その
言語圏の
文化の
価値体系を
身につけ、
何をどのように
捉えるかに
関して
一つの
枠組みを
与えられるということである。【0】(その
意味で、
一つの
言語を
習得するということは
一つの「イデオロギー」を
身につけることなのである。)そこで
身につけられる
価値体系やものの
捉え
方の
枠組みは、
決してそこから
抜け
出せないといった
性格のものではない。しかし、われわれがとりわけ
日常的なレベルで、それらを「
自然」なものとして
受け
入れている
限りにおいて、
自らの
身につけている
言語によって、ある
一つの
方向づけをされているのではないか。しかも、われわれ
自身はそれに
必ずしも
気づいていないのではないか。もしそうだとすると、この
点における
言語の
働きは、
人間という
存在にとって「
無意識」の
働きにもある
程度類比できるのではないか。いや、むしろ、「
無意識」の
方がいろいろな
意味でその
働きを
言語に
負っているのではないか。こういった
反省にまで
進んでいくことになるのである。
(
池上嘉彦「
記号論への
招待」)
長文 1.4週
なにぶん
絵本のことで、
生々しい
絵の
印象も
手伝ったにちがいないが、「
安寿と
厨子王」の
話は
私には
暴力にも
似た
一撃であった。グレアム・グリーンが『
失われた
幼年時代』で
言っているように、「
本というものがわれわれの
人生に
深い
感化を
及ぼすのは、おそらく
幼年時代だけである。それ
以後は、
感心したり、
面白がったり、これまでの
見方を
修正したりすることはあっても、
多くはすでに
考えていたことを
本で
確認するにとどまる。
恋をしていると、
自分の
顔かたちが
実物以上によく
見えるような
気がするのと
同じである。」
私が
鴎外の『
山椒大夫』を
読んだのは、
大人になってからであった。そして
今度また
久しぶりに
再読したが、
結末のところを
見て、そうかと
思った。あの
母親は、
可愛いさかりの
娘と
息子をさらわれた
哀しみに
夜も
昼も
泣いて
暮らすうちに、とうとう
目がつぶれてしまった、というくだりがあるような
気がしていたからである。むろん、
作者はそんなことは
書いていなかった。
書く
必要もなかったにちがいない。
私はたぶん
昔の
絵本でそう
読んだのか、でなければ
自分でそう
考えたのであろう。いずれにしても、
私の
心には
絵本のイメージのほうが
生きていたのである。
私が
鴎外の
結末でいい
加減に
読み
過ごしていた
箇所は、もう
一つあった。
作者はこう
書いている。
「
女は
雀でない、
大きいものが
粟をあらしに
来たのを
知った。そしていつもの
詞を
唱えやめて、
見えぬ
目でじっと
前を
見た。そのとき
干した
貝が
水にほとびるように、
両方の
目に
潤いが
出た。
女は
目が
開いた。
『
厨子王』という
叫びが
女の
口から
出た。
二人はぴったり
抱き
合った。」
それは
厨子王が
姉の
形見に
肌身離さず
持っていた
守り
本尊の
力であるという。そこが、ほとんど
私の
印象にはなかった。
絵本のほうはどうであったかは、もう
覚えていない。
子供心にも、この
最後の
奇蹟はいくぶん
付けたりのように
思われたかもしれない。
今の
私には、
親の
一念、
子の
一念とはそれほどのものかもしれないと
思う
気持ちもある
一方で、
不幸な
女の
盲目という
書き
方に、
何か
古い
物語の
慈悲のようなものを
感じる。ハッピーエンドがつまらぬというのではなく、
目が
明くことのほうが
残酷な
場合も
人生にはあるだろうからである。
作者鴎外は、この
作品の
発表(
大正四年)と
同時に『
歴史其儘と
歴史離れ』という
文章を
書き、
自ら
詳しい
解題を
行っている。そして、「
山椒大夫のような
伝説は、
書いて
行く
途中で、
想像が
道草を
食って
迷子にならぬ
位の
程度に
筋が
立っているというだけで、わたくしの
辿って
行く
糸には
人を
縛る
強さはない。わたくしは
伝説そのものをもあまり
精しく
探らずに、
夢のような
物語を
夢のように
思い
浮かべて
見た」と
言っている。
「
夢のような
物語を
夢のように」というその
夢は、ある
特定の
個人が
見る
夢というより、われわれ
日本人の
誰しもが
民族の
血の
中に
受け
継いできた
古い
歴史の
余映のようなものであろう。
夏目漱石も
短編集『
夢十夜』(
明治四十一年)で、われわれの
現在を
支配する
過去の
恐ろしい
姿を、
不条理なイメージの
断片を
突きつけるようにして、あばいて
見せた。
伝説のみならず、お
伽噺や
民話や
怪談のたぐいがいつの
世にも
子供の
心をとらえるのは、
子供自身の
血の
中に、
自分が
生まれる
何代も
前の
記憶を
呼び
起こそうとする
本能が
潜んでいるからだとでも
考える
他はない。
(
阿部昭『
短編小説礼讃』)
長文 2.1週
【
二番目の
長文が
課題の
長文です。】
【1】どこかへ
旅行がしてみたくなる。しかし
別にどこというきまったあてがない。そういう
時に
旅行案内記の
類をあけて
見ると、あるいは
海浜、あるいは
山間の
湖水、あるいは
温泉といったように、
行くべき
所がさまざま
有りすぎるほどある。【2】そこでまずかりに
温泉なら
温泉ときめて、
温泉の
部を
少し
詳しく
見て
行くと、
各温泉の
水質や
効能、
周囲の
形勝名所旧跡などのだいたいがざっとわかる。しかしもう
少し
詳しく
具体的な
事が
知りたくなって、
今度は
温泉専門の
案内書を
捜し
出して
読んでみる。【3】そうするとまずぼんやりとおおよその
見当がついて
来るが、いくら
詳細な
案内記を
丁寧に
読んでみたところで、
結局ほんとうのところは
自分で
行って
見なければわかるはずはない。もしもそれがわかるようならば、うちで
書物だけ
読んでいればわざわざ
出かける
必要はないと
言ってもいい。【4】
次には
念のためにいろいろの
人の
話を
聞いてみても、
人によってかなり
言う
事がちがっていて、だれのオーソリティを
信じていいかわからなくなってしまう。それでさんざんに
調べた
最後にはつまりいいかげんに、
賽でも
投げると
同じような
偶然な
機縁によって
目的の
地をどうにかきめるほかはない。
【5】こういうやり
方は
言わばアカデミックなオーソドックスなやり
方であると
言われる。これは
多くの
人々にとって
最も
安全な
方法であって、こうすればめったに
大きな
失望やとんでもない
違算を
生ずる
心配が
少ない。【6】そうして
主要な
名所旧跡をうっかり
見落とす
気づかいもない。
しかしこれとちがったやり
方もないではない。たとえば
旅行がしたくなると
同時に
最初から
賽をふって
行く
所をきめてしまう。あるいは
偶然に
読んだ
詩編か
小説かの
中である
感興に
打たれたような
場所に
決めてしまう。【7】そうして
案内記などにはてんでかまわないで
飛び
出して
行く。そうして
自分の
足と
目で
自由に
気に
向くままに
歩き
回り
見て
回る。この
方法はとかくいろいろな
失策や
困難をひき
起こしやすい。またいわゆる
名所旧跡などのすぐ
前を
通りながら
知らずに
見のがしてしまったりするのは
有りがちな
事である。【8】これは
危険の
多いへテロドックスのやり
方である。これはうっかり
一般の
人にすすめる
事のできかねるやり
方である。
しかし
前の
安全な
方法にも
短所はある。
読んだ
案内書や
聞いた
人の
話が、いつまでも
頭の
中に
巣をくっていて、それが
自分の
目を
隠し
耳をおおう。【9】それがためにせっかくわざわざ
出かけて
来た
自分自身は
言わば
行李の
中にでも
押しこめられたような
形になり、
結局案内記や
話した
人が
湯にはいったり
見物したり
享楽したりすると
同じような
事になる、こういうふうになりたがるおそれがある。【0】もちろんこれは
案内書や
教えた
人の
罪ではない。
しかしそれでも
結構であるという
人がずいぶんある。そういう
人はもちろんそれでよい。
しかしそれではわざわざ
出て
来たかいがないと
考える
人もある。
曲がりなりにでも
自分の
目で
見て
自分の
足で
踏んで、その
見る
景色踏む
大地と
自分とが
直接にぴったり
触れ
合う
時にのみ
感じ
得られる
鋭い
感覚を
味わわなければなんにもならないという
人がある。こういう
人はとかくに
案内書や
人の
話を
無視し、あるいはわざと
避けたがる。
便利と
安全を
買うために
自分を
売る
事を
恐れるからである。こういう
変わり
者はどうかすると
万人の
見るものを
見落としがちである
代わりに、いかなる
案内記にもかいてないいいものを
掘り
出す
機会がある。
(
寺田寅彦「
案内者」より)
【1】
現代はアイデンティティ
不定の
時代といわれている。
私はなにものか。
私は
何をして
生きていけばよいのか。どうすれば
自分らしさを
発見できるのか。これらの
問いは
青年期につきものだが、
最近では、
青年期に
限らず、およそライフステージのどこにおいても、このような
問いにつきまとわれることが
多い。
【2】
近代社会は、
前時代の
共同性を
解体させ、
一人の
個人がある
具体的な
共同体に
属することの
内的な
意味を
希薄化させた。それが、
私たちのアイデンティティ
不定の
大きな
要因として
関係している。【3】それは
同時に、
私たちの
社会において「
大人である」とか「
大人になる」とかいうことが、
何を
指すのかがはっきりしないことをも
意味する。
なぜならば、かつては、
大人になることは、
端的に、
個人が
自分の
属すべき
共同体の
一員としての
資格を
得ることを
意味していたからである。【4】
共同体があるひとつの
精神のもとに
統一性を
保っていれば、
大人であることの
意味はおのずから
決まってきた。したがって
大人になることは、その
共同体の
核をなしている
精神を
心身両面において
理解し、それを
自分が
生きていくための
基本の
型として
承認することを
意味していた。
【5】よく
知られているように、
近代以前の
社会には、それぞれの
社会の
要請に
見合った
何らかの
通過儀礼が
存在した。
子どもと
大人はこの
儀式によってはっきりと
分けられていた。【6】たとえば、わが
国の
武家社会における
元服の
儀式は、それを
最もよく
象徴している。
一定の
年齢になると、
男子は
幼名を
廃し
烏帽子名をつけ、
服を
改めて、
髪を
結いなおしたりさかやきを
剃ったりした。
【7】ところが
近代は、
子どもから
大人への
変化期からこの
単純な
境目を
取り
払い、
代わりに「
教育課程」という、
長い
射程をもったシステムをあてがうことにした。いうまでもなく、
学校制度がその
機能を
果たすことになったのである。
【8】「
教育課程」は、
節目のはっきりしないたいへん
間延びしたプロセスである。それは、
人間はだんだんと
段階的に
成長していって
大人になるものだというイメージを
私たちのなかに
知らず
知らずのうちに
植えつける。【9】
近代の
教育制度は、
自分がどこで
大人になったのかという
自覚を
曖昧なものにさせる
効果を
持っていたのである。
一方では、いま
述べた
認識と
一見矛盾する
次のようなこともいわれている。
【0】
近代以前には、
子ども
期と
呼べるような
時期は
存在せず、
子どもはみな
小さな
大人であった。
幼児期をすぎると、ごく
早い
時期から
子どもは
大人の
集団に
仲間入りして、かれらの
話や
行動のなかから
見よう
見まねで
大人社会の
規範やそのありさまを
学び、
明瞭に
問題化されることとひそやかに
語られることとの
区別などを
身につけるようになっていった。(
中略)
ところが
近代になって、
資本主義的生産が
飛躍的な
発展を
遂げるに
従い、
一人の
生産者が
複数の
消費者を
養えるようになると、「
家族」が、
一般世間から
明瞭な
輪郭をもって
成立するようになった。
この、
一般世間からの
家族の
明瞭な
自立が、
年少の
人々を
内部に
囲い
込み、そこに
子ども
期と
呼ベるような
独立した
時期を
誕生させた。
人間の
成長・
成熟にとって、
家族生活の
重要性が
浮かび
上がるようになった。(
中略)
それまでは、
子どもは
生むにまかせ、
大した
配慮もなく
育つにまかせていた。
子どもは、
家族の
内側と
外側のはっきりしない
境界線を、
早くから
行き
来していた。そして、
親から
身体的な
意味で
自立できるようになるごく
早い
年齢段階から
生産にかり
出され、
大人の
世界に
参加させられていた。
ところが、ある
時期から、
人々は、
子どもをまさに
子どもとして「
大切に」あつかうようになった(あつかいが
実質的に
少なくなったのかどうかという
判断の
尺度にはならない)。フィリップ・アリエスのいう「
十七世紀までは
子どもは
小さな
大人にすぎなかった。
子ども
期は
近代になって
発見されたのだ」という
有名なことばはそういう
意味である。
したがって、
両方の
認識は
矛盾するのではなく、
同じ
一つのことを
異なる
二つの
側面から
観察したものと
考えるべきだ。
要するに、
子どもと
大人との
間に
単純に
荒々しく
引かれていた
境界線が
取り
払われ、それまでは
半ばどうでもいいものとして
無造作に
考えられていた
子どもが、もっと
細心な
視線を
注がなければならない
存在として、
大人たちの
意識のなかにクローズアップされてきたのである。そしてその
結果、
子ども
期は、いくつかの
段階を
抱え
持ちつつ、
次第に
大人になってゆく、「
過程的な」
存在とみなされるに
至ったのである。
(
小浜 逸郎「
大人への
条件」による)
長文 2.2週
【1】
私の
英語力はほとんど
中学三年間の
教育に
依拠している。
高校時代に
覚えた
難しい
単語は
記憶の
彼方へ
霧散してしまったし、
大学時代の
英語教育はなきに
等しかった。
大学にはLL
教室があったけれども、テレビモニターを
相手におうむ
返しに
発声するという
行為の
単純さと
滑稽さには
耐え
難いものを
感じた。【2】
現代小説を
読むリーディングの
授業は
他力本願で
何も
身につかなかった。
一番ひどかったのがアメリカ
人講師による
会話のクラスだ。これにはどうしてもなじむことができなかった。その
主な
理由は、
講師の「
笑顔」にあった。【3】
金髪の
彼は、
授業の
間中、
表情豊かに
微笑しつつ
頻繁に
学生たちに
語りかけていた。たいてい
私はうつむいて、
机の
下で
爪をいじったりしながらそれを
聞いていた。それがいけなかった。
【4】
視線を
落として
指先のあたりを
見つめるのは「
意識を
集中して
何かを
聞く」ときの
私の
定型ポーズにすぎないのに、
彼にかかると、それは
授業に
対する「
不満の
表明」とみなされる。しょっちゅう
机の
脇に
来ては、「
何か
問題がありますか?」「
具合でも
悪いのですか?」と
尋ねられてうっとうしいことこの
上ない。【5】
私は
無表情に
首を
振る。「
別に、
何もありません」
心の
中では
思っていた。おかしくもないのにあなたみたいに
笑っちゃいられないわよ。
馬鹿じゃないんだから……。そうこうする
間に
私の
英語力は
息絶えた。
【6】それから
十年以上が
経った
昨夏、
女子大生の
語学研修に
同行してアイオワ
州のある
私大へ
行った。
私自身は
英語のレッスンに
参加したわけではなかったけれども、ひと
月近く
滞在するうちに、あちらの
教授陣とかなり
緊密な
付き
合いをすることになった。【7】なにしろ、
朝昼晩の
食事が
一緒である。
毎日、レッスンの
前後にあちこちへ
案内され、
週末には
自宅へ
招待される。それはもう
逃げ
場もなく
英語攻めということでもあり、
苦しさ
半分有り
難さ
半分といった
日々。
苦しさの
方は、
言葉が
頭の
中に
渦巻くばかりで
口から
発射されないことだ。【8】だいたいすれ
違うたびに
見知らぬ
人と
挨拶を
交わすという
習慣からして
私にはつらい。にっこり
笑って、「ハーイ」というだけのことにどっと
疲れてしまう。
有り
難さの
方は
彼らのあふれるホスピタリティに
触れたことだ。【9】アルバイトの
学生から
役付きの
偉い
教授までが、
私の
日常の
細やかな
部分に
気を
遣ってくれる。
立場が
逆だったら、こうまでは
出来ない。「
笑顔」である。
彼らは
揃いも
揃ってにこやかな
人々だった。いつ
会ってもキゲン
良さそうに
微笑んでいる。【0】ほとんど
朝から
晩まで
笑っているのかと
思うほどだ。もしかすると
表情筋が
笑顔に
固定されているのかもしれないとさえ
思った。
陽気な
奴らなんだ、きっと。
笑顔の
民族なんだな。ある
時私は
見てしまったのだ。
今までにこやかに
笑顔を
振りまいていた
教授が、
一人になったとたん、
考え
深げな、どことなく
徒労感の
漂う
表情に
戻るのを。
彼はふと、まだ
傍らに
私がいるのに
気づいたけれども、
再び
同じテンションの
笑顔に
持っていくまでには
驚くほど
時間がかかった。その
時、
彼らの
笑顔が
意識的な
努力の
賜物であることを
私は
悟った。
彼らは
実に
意識的な
人々だった。
明快な
価値観を
持ち、
一瞬一瞬を
選択し、
行動に
移す。
笑うべきだと
思うから
笑うということだ。たとえ
一番気が
抜けるはずの
家庭でさえ、
意志の
力で
支えていかなければあっという
間に
瓦解するという
厳しい
認識が、
日常の
些細な
行為の
背後にも
痛いほどに
感じられる。
現実は
厳しく、それを
乗り
越えるためには
強靭な
意志力と
行動が
必要なのだ。
その
厳しい
現実の
一つがきっと
理解不可能な
他者の
存在なのだろう。ひと
月の
間に、さまざまな
場所でさまざまなアメリカ
人とすれ
違ううちに、
私は
一つの
妄想を
抱くようになった。「
向こうから
知らない
人が
歩いてくる。
言葉は
通じそうにない。
何か
誤解されたらナイフを
突き
付けられるかもしれない。ピストルだったら
即死だ」そのような
心理的風土のもとでなら、
過剰だろうがなんだろうが
誤解の
余地もないほどに
微笑んで
敵意のないことを
相手に
示そうとするだろう。
相手もそうするだろう。
摩擦を
起こさず、
安心してくらせる
市民社会の、それがルールになるだろう。
ここにいたって、その
昔、
苦手だった
英会話のクラスで
何が
起こっていたのか、
私はようやく
理解した
気がするのだ。こういう
国から
来た
人ならば、うつむくばかりでコミュニケーションの
努力を
怠った
私には
苛立ったはずだ。
今思えば、
彼もまた
強靭な
意志力によって
精一杯私たちに
微笑みかけていた。こちらが
無表情だった
分、
彼の
微笑みは
過剰になるのかもしれなかった。
英語表現の
基礎は
語彙でも
構文でもなく、
伝えようとする
意志、
微笑むその
姿勢だと
教えていたのかもしれなかった。
アメリカ
人は、あんなに
毎日一生懸命に
生きていて
疲れないのだろうか。
長文 2.3週
【1】
大相撲をはじめて
見にいったとき、びっくりしたことがある。それは、
取り
組み
中、
観客席が
四六時中ざわざわしていて、
呼び
出しから
仕切り、
立ち
会い、
組み
合い、そして
勝負までのしだいに
盛り
上がっていくはずの
緊迫感がぜんぜんないということだ。【2】それどころか、そもそも
立ち
会いの
瞬間も
注意をこらしていないと、すぐ
見逃してしまい、
眼を
上げたら
勝負は
終わっていた、ということもしばしばだ。【3】テレビの
相撲中継では、
懸賞の
提供者紹介や
客の
呼び
出しなどの
館内放送や
観客席のざわめきは
遮断されていて、
制限時間いっぱいになってから
観客の
声援を
入れるよう
演出してあるから、
下のほうの
取り
組みでさえ、
一抹の
緊張感がただようわけだ。【4】ではなぜ
館内がざわついているのか。
答えはかんたんだ。
一枡四人食べ
物を
拡げ、
酒やビールを
呑みながら、
声をひそめることもなくおしゃべりに
興じているからだ。
食べながら
見る、
見ながらしゃべる。
取り
組み
表の
紙をばしゃばしゃさせて、
勝敗を
記入する。【5】あいだに
前をひっきりなしにお
茶屋のひとが
食事やお
茶やみやげ
物を
運ぶ。ざわついて
当然だ。(
中略)
演ずる
者と
見る
者、つまり
演じられている
舞台とそれを
鑑賞する
観客とを
空間的に
分離すること、そういう
制度になれてしまうと、
大相撲とか
歌舞伎の
楽しみかたに、はじめはとまどう。【6】けれども、
今わたしたちが
劇場やコンサートホールで
入場券を
買って
鑑賞する
西洋の
演劇や
音楽にしたって、もともとは
人びとでなんとなくざわついている
宮廷の
庭や
居間で、あるいは
街の
芝居小屋や
路上で、
催しとして
行われていたわけで、
必ずしも
純粋な
鑑賞の
対象であったわけではない。【7】
渡辺裕によれば、たとえば
十八世紀の
演奏会は
極端ない
方をすると「
音楽のあるパーティー」といった
趣の
社交の
場だったようで、
客のおしゃべりがうるさくて、
声楽曲を
聴く
場合は
歌詞を
印刷したプログラムが
配られることもあったそうである。
【8】「おしゃべりだけではない。
聴衆は
演奏中にさまざまな「
副業」を
行っていた。ツェルターは
後に
一七七四年のベルリンでのコンサートの
回想の
中で、「
無数のパイプから
立ち
上った
煙草の
煙のもやの
中で
指揮をすることは
容易ではなかったろう」と
述べている。【9】また
一七八四年のエアフルトでの
演奏会の
記録によれば、ビールや
煙草が
認められていただけでなく「とりわけ
音楽が
好きでない
人々は
気晴らしにトランプをやっており、ご
婦人方は
徐々にそちらに
加わっていった」。【0】フランクフルトのコンサート
協会が
一八〇
六年に
定めた
規則に「
犬を
連れてくることは
禁止」と
書かれていたというのも
興味深い。そんなことをわざわざ
断らなければならないというのは、そういうことを
何とも
思っていない
輩がいたということのあらわれである。(
渡辺格「
聴衆の
誕生」)」
じっと
息をこらして、
作品の
世界にひたりきるという「
集中的聴取」の
思想はまだなかったわけである。いま、たまたま
思想ということばを
使ったが、
居ずまいを
正して
作品に
集中するというような
聴取の
態度はかならずしも
自明のものではなく、「
芸術の
享受」あるいは「
作品の
鑑賞」という
一つの
思想をバックボーンとして、
制度化されてきた
態度にほかならないということである。そしてそのために、
演ずる
者、
演奏する
者と
見る
者、
聴く
者とを
空間的に
分割する
装置が、
劇場やコンサート・ホールとして
建造されたのだ。
「
隔たり」ということが、ここでポイントとなる。
演ずる
者、
演奏する
者と
見る
者、
聴く
者、つまりは、
見られるものと
見るものとを
空間的に
分離する
装置のなかで、
二つの
距離が
発生する。
主体と
対象との
隔たりと、
主体と
唯の
主体との
隔たりである。
見る
主体と
見られる
対象との
隔たりは、
芸術の
場合、「
鑑賞」という
概念と
連動している。
愉しみの「
享受」というよりもむしろ、
距離を
隔てて「
鑑賞」すべき
客体として「
芸術作品」が
主体から
空間的に
分離されていくそのプロセスを
支配していたのは、
近代芸術における「
美の
自律性」という
考えかた、「
美」はそれ
自体としての
独立の
価値をもつという
考えかただ。「
芸術作品」は、それが
創られた
時代や
環境を
超えた
独自の「
美的」
世界をもつ。それが
置かれた
状況、あるいはそれを
前にした
鑑賞者によって
価値を
変えるなどということは、
本来、「
芸術作品」にとってありえないことなのだ。そのためには、これらの
作品は
味覚とか
嗅覚、
触覚といった、そのつどの
状況によって
感覚内容が
変化するような「
低級」な
感覚に
支えられるようなものであってはならない。そうではなくて、
視覚や
聴覚のような、
距離をおいた
感覚、
対象と
接触したり
混じりあったりすることのない「
普遍的な
感覚」によって
支えられるのでなければならない、とされるのである。
さて「
隔たり」のもう
一つの
意味は、
他者との
隔たりということである。たとえばコンサートでも
演劇でも、
開演にあたってまず
客席の
照明が
落とされる。これはまずは、
見るものと
見られるもの、
演奏するものと
聴くものとを
空間的に
分離するためもあるが(
客席を
暗くすることで、
演奏家や
俳優は
自分は
見る
人ではなく
見られるばかりの
人になり
観客は
見られることなく
見るだけの
人になる)、
同時に、まわりにいる
他の
人間たちから
個人を
分離し、
隔離するためのものでもある。
観客が、
他人にじゃまされることなく、
個人として
作品鑑賞に
集中できるよう、
作品世界に
投入できるように、
照明が
落とされるのだ。だから
建物は、
純粋に「
作品」の
世界だけに
集中できるよう、
周囲の
騒音を
遮断する
構造になっているし、
観客は
観客で、
持ち
物、パンフレット、
咳払いなどで
余計な
物音を
立てることのないよう
注意しなければならないのである。
一九六〇
年代に
音楽や
演劇や
美術の
世界に
起こった
反逆、
例えば
演奏中に
客が
絶叫するようなライヴ
演奏とか、
観客を
演劇の
中に
巻き
込み、ストーリー
展開のなかに
偶然的な
要素をどんどん
導入していくハプニングなどのパフォーマンスやテント
小屋の
実験演劇(
路上で
予告なしに
劇が
開始されることもあった)、アクションペインティングなどは、まさにこのような
近代の「
芸術鑑賞」という
制度そのものに
攻撃の
照準を
合わせていたのであった。
(
鷲田清一)
長文 2.4週
その
翌日であった。
母親は
青葉の
映りの
濃く
射す
縁側へ
新しい
茣蓙を
敷き、
俎板だの
包丁だの
水桶だの
蠅帳だの
持ち
出した。それもみな
買い
立ての
真新しいものだった。
母親は、
自分と
俎板を距てた
向こう
側に
子供を
坐らせた。
子供の
前には
膳の
上に
一つの
皿を
置いた。
母親は、
腕捲りして、
薔薇いろの
掌を
差し
出して
手品師のように、
手の
裏表を
返して
子供に
見せた。それからその
手を
言葉と
共に
調子づけて
擦りながら
云った。
「よくご
覧、
使う
道具は、みんな
新しいものだよ。それから
拵える
人は、おまえさんの
母さんだよ。
手はこんなにもよくきれいに
洗ってあるよ。
判ったかい。
判ったら、さ、そこで――」
母親は、
鉢の
中で
炊きさました
飯に
酢を
混ぜた。
母親も
子供もこんこん
噎せた。それから
母親はその
鉢を
傍らに
寄せて、
中からいくらかの
飯の
分量を
掴み
出して、
両手で
小さく
長方形に
握った。
蠅帳の
中には、すでに
鮨の
具が
調理されてあった。
母親は
素早くその
中からひときれを
取り
出してそれからちょっと
押さえて、
長方形に
握った
飯の
上へ
載せた。
子供の
前の
膳の
上の
皿へ
置いた。
玉子焼鮨だった。
「ほら、
鮨だよ。おすしだよ。
手々で、じかに
掴んで
喰べても
好いのだよ」
子供は、その
通りにした。はだかの
肌をするする
撫でられるようなころ
合いの
酸味に、
飯と、
玉子のあまみがほろほろに
交ったあじわいが
丁度舌一ぱいに
乗った
具合――それをひとつ
喰べてしまうと
体を
母に
拠りつけたいほど、おいしさと、
親しさが、ぬくめた
香湯のように
子供の
身うちに
湧いた。
子供はおいしいと
云うのが、きまり
悪いので、ただ、にいっと
笑って、
母の
顔を
見上げた。
「そら、もひとつ、いいかね」
母親は、また
手品師のように、
手をうら
返しにして
見せた
後、
飯を
握り、
蠅帳から
具の
一片れを
取りだして
押しつけ、
子供の
皿に
置いた。
子供は
今度は
握った
飯の
上に
乗った
白く
長方形の
切片を
気味悪く
覗いた。すると
母親は
怖くない
程度の
威丈高になって、
「
何でもありません。
白い
玉子焼きだと
思って
喰べればいいんです」
といった。
かくて、
子供は、
烏賊というものを
生まれて
初めて
喰べた。
象牙のように
滑らかさがあって、
生餅より、よっぽど
歯切れがよかった。
子供は
烏賊鮨を
喰べていたその
冒険のさなか、
詰めていた
息のようなものを、はっ、として
顔の
力みを
解いた。うまかったことは、
笑い
顔でしか
現さなかった。
母親は、こんどは、
飯の
上に、
白い
透きとおる
切片をつけて
出した。
子供は、それを
取って
口へ
持って
行くときに、
脅かされるにおいに
掠められたが、
鼻を
詰まらせて、
思い
切って
口の
中へ
入れた。
白く
透き
通る
切片は、
咀嚼のために、
上品なうま
味に
衝きくずされ、
程よい
滋味の
圧感に
混じって、
子供の
細い
咽喉へ
通って
行った。
「
今のは、たしかに、ほんとうの
魚に
違いない。
自分は、
魚が
喰べられたのだ――」
そう
気づくと、
子供は、はじめて、
生きているものを
噛み
殺したような
征服と
新鮮を
感じ、あたりを
広く
見廻したい
歓びを
感じた。むずむずする
両方の
脇腹を、
同じような
歓びで、じっとしていられない
手の
指で
掴み
掻いた。
「ひ、ひ、ひ、ひ、ひ」
無暗に
疳高に
子供は
笑った。
母親は、
勝利は
自分のものだと
見てとると、
指についた
飯粒を、ひとつひとつ
払い
落としたりしてから、わざと
落ちついて
蠅帳のなかを
子供に
見せぬよう
覗いて
云った。
「さあ、こんどは、
何にしようかね……はてね……まだあるかしらん……」
子供は
焦立って
絶叫する。
「すし! すし!」
母親は、
嬉しいのをぐっと
堪える
少し
呆けたような――それは
子供が、
母としては
一ばん
好きな
表情で、
生涯忘れ
得ない
美しい
顔をして、
「では、お
客さまのお
好みによりまして、
次を
差し
上げまあす」
最初のときのように、
薔薇いろの
手を
子供の
眼の
前に
近づけ、
母はまたも
手品師のように
裏と
表を
返して
見せてから
鮨を
握り
出した。
同じような
白い
身の
魚の
鮨が
握り
出された。
母親はまず
最初の
試みに
注意深く
色と
生臭の
無い
魚肉を
選んだらしい。それは
鯛と
比良目であった。
子供は
続けて
喰べた。
母親が
握って
皿の
上に
置くのと、
子供が
掴み
取る
手と、
競争するようになった。その
熱中が、
母と
子を
何も
考えず、
意識しない
一つの
気持ちの
痺れた
世界に
牽き
入れた。
五つ
六つの
鮨が
握られて、
掴み
取られて、
喰べられる――その
運びに
面白く
調子がついて
来た。
素人の
母親の
握る
鮨は、いちいち
大きさが
違っていて、
形も
不細工だった。
鮨は、
皿の
上に、ころりと
倒れて、
載せた
具を
傍らへ
落とすものもあった。
子供は、そういうものへ
却って
愛感を
覚え、
自分で
形を
調えて
喰べると
余計おいしい
気がした。
子供は、ふと、
日頃、
内しょで
呼んでいるも
一人の
幻想のなかの
母といま
目の
前に
鮨を
握っている
母とが
眼の
感覚だけか
頭の
中でか、
一致しかけ
一重の
姿に
紛れている
気がした。
(
岡本かの
子「
鮨」)
長文 3.1週
【
二番目の
長文が
課題の
長文です。】
【1】
先進国の
後を
追いかける
途上国経済と、
世界の
先頭を
走る
先進国経済のもっとも
重要な
差は
何かというと、「
途上国経済では
物まねができたけれども、
先進国経済では
自分で
新しい
知識を
創造しないとそれ
以上の
発展ができない」ということである。【2】
途上国の
有利な
点は、
第一に、
先進国モデルが
存在し、
容易に
産業化のための
目標がみいだせること、
第二に、
先進国から
技術を
導入できること、そして
第三に、
賃金など
全体的なコストが
先進国に
比べて
有利であることなどである。
【3】このような
有利性が
存在しているかぎり、
自らオリジナルな
技術や
知識を
創造する
必要性はそれほど
高くない。
先進国から
使える
技術を
輸入し、それに
安い
賃金の
勤勉な
労働力を
張り
付けるだけで
競争力を
身につけることはできるだろう。【4】もっとも、これとてどこの
国にでもできるほど
簡単なことではないが、
日本や
現在急成長中の
東アジア
諸国はいずれもこのシナリオで
成功してきた。
しかし、
日本についていえば、これらの
好条件はすべて
消滅したといってよいだろう。【5】
十年ほど
前に、
日本経済は
歴史的なコスト
条件の
逆転を
経験した。またインプット
拡大による
成長にも
人口の
高齢化、
労働力人口の
減少、
貯蓄率の
低下などの
理由から
多くを
期待することはできない。【6】その
結果、
日本は
先進国の
宿命すなわち
自らの
行く
先を
自らの
創意工夫で
切り
開かなければならないという
宿命を、
好むと
好まざるとにかかわらず
背負うことになったのである。
【7】
日本の
社会経済体制は、
欧米に
追いつき、
追い
越すという
明治以来の
国策にそって
形成されてきた。たとえば、
日本の
教育制度は
欧米の
先進的知識を
詰め
込むことを
目指して
発達してきた。これはすばらしい
戦略であった。【8】
欧米と
日本の
間に、
科学技術や
近代思想などの
点で
大きな
知識のギャップがあったのだから、まずはこのギャップを
一刻も
早く
埋めることが
必要であったし、そうすることがキャッチアップを
効率的に
進める
唯一の
方法であった。
【9】しかし、
日本がキャッチアップを
終えた
今となっては
話は
変わってくる。
外来の
知識を
学ぶだけでは
必ずしも
独創的な
知識は
生まれない。
日本の
学校教育(とくに
義務教育)はすばらしいという
説があるが、それは
少なくとも
今日的観点からはとんでもない
誤解である。【0】たしかに、
先進国に
追いつく
目的のために、
先生が
生徒に
知識の
押し
売り、
詰め
込みを
強要することは
理にかなっていたかもしれない。いや、
欧米との
巨大な
知識ギャップを
一刻も
早く
埋めるためには、
大車輪で
知識の
吸収に
努めなければならないことは
当然であった。
知識吸収を
急ぐあまり、
時に
青年たちの
独創性、オリジナルなものの
考え
方を
育成するもうひとつの
教育の
重要な
役割が
多少なおざりにされたとしても、それはある
意味ではやむをえなかったことといえるかもしれない。
しかし、
今日のように、
自ら
価値を
創造することが
要求される
時代になっても、
教育システムが
本質的な
意味で
何も
変わっていないとすればそれは
大きな
問題であろう。
最近の
教育改革論議は
当然のことながらこのような
観点からなされることが
多い。しかし、
教育の
現場では、
相変わらず
先生が
大教室で
黒板に
知識を
羅列し、
日本的な
意味での「
優秀な」
生徒は、
試験のときにそれを
正確に
再現することを
要求されている。
生徒の
能力差や、
興味の
所在などは
無視し、とにかく
上から
与えられた
課題を、
先生が
決めたスピードでこなしていくことが「
優秀な」
生徒の
絶対的条件である。
極度に
一律化された
教育風景である。
日本の
教育現場で
自分の
頭で
考えた
独自の
意見を
前面に
押し
出すことが
高得点につながるという
話はおよそ
聞いた
試しがない。
試験では
先生が
正解と
認定する
答を
書くことが
得策であって、
先生の
頭になかったようなユニークな
答を
尊重する
風潮はない。
生徒は
一定の
枠のなかで
発想する
習慣をたちまち
身につけてしまう。このように「
優秀な」
生徒はいくつかの
入試を
経て、
完璧なまでに「
知識吸収型」の
枠にはまった
答しかできない
受動的人間になってしまう。
【1】
今日では、
道徳的共同体をつぶしてきた
法的社会がふつうの
社会となり、
国家となっている。しかし、
今日、
共同体が
完全につぶされたわけではない。
豪族など
大きな
共同体はすでにつぶされてしまっているが、
依然として
最小単位共同体の
家族は
残っている。【2】そして
一方、
共同体意識の
方は、
今も
人々の
間にしぶとく
生き
続けてきている。
共同体の
本質は
感覚であるから、
理屈、
理論すなわち
知よりも
情が
尊ばれる。
漱石の
言う「
智に
働けば
角が
立つ」わけである。【3】しかし、
法が
現代の
社会を
動かすものとなっていることを
認めざるをえないから、「
情に
流されまい」とする
努力が
必要となる。この
両者の
間をゆれているのが、
現代の
人間である。
しかし、
孔子はそうではなかった。【4】
彼が
生きていた
時代は、
法が
登場しはじめたころであり、
当時、
法優先は
異端の
思想であった。それは、
共同体という
体制の
根幹をゆるがす「
悪の
思想」とみなされていたのである。
孔子はその「
悪」の
摘発者であった。こういう
話がある。
【5】
晩年、おそらく
六十代も
半ばを
越えたころ、
孔子は
為政者としての
地位を
求めて、
諸国を
流浪していた。あるとき、
葉という
小さな
街に
立ち
寄ったらしい。この
街は、
南方の
強国であった
楚国の
一行政地区である。その
街の
長官の
葉公が、
孔子にこう
言った。【6】
自分の
街に「
直躬」(
正直者の
躬)という
仇名の
者がいる。その
父親が
羊を
盗んだとき、その
子は
父の
犯罪を
隠さないのみならず、
盗んだことの
証言をした、と。
ところが
孔子はい
返した。
私の
仲間の「
直」という
仇名の
男の
行動は
違います。【7】「
父は
子のために(
子の
犯罪を)
隠し、
子は
父のために(
父の
犯罪を)
隠す。
直(の
本当のありかたは)、その
中に
在り」と。
この
問答を
読んだとき、
現代人のわれわれの
大半は、おそらく
葉公のい
分、すなわち
父といえども
犯罪者は
法の
裁きを
受けるべきであり、
証言に
立つ
子の
立場を
正しいとするであろう。【8】それは
人間社会における
法優先の
立場である。
近代国家では、それが
正しい、
善いことである。
しかし、
前述のように、
孔子のころは、まだ
各種共同体が
現実に
機能していた
時代である。
仮に
犯罪が
起っても、
共同体でそれを
裁く
長老は、いろいろと
事情を
考えて
罰を
決める。【9】
時には、
罪として
公にしないで、
事件を
闇から
闇へと
処理するだろうし、
時には、
皆への
見せしめに、
窃盗程度でも
死刑にすることすらある。そのように
裁量のはばが
広い。その
罰を
決めるのは、
共同体をリードする
道徳にどのようにそむいているかという
点においてである。
【0】だからたとえば
共同体の
有力者が、
明らかに
罪を
犯し、
裁かれるとき、その
有力者の
犯罪の
証言を
拒否する
部下は、
法優先の
公の
立場からは
指弾されても、
同じ
共同体メンバーの
立場からは、
逆に
賞賛を
受けることであろう。このように、
法的社会と
道徳的共同体との
関係は、いまもってなかなか
善悪の
判断のむつかしい
問題を
抱えているのである。
秦の
始皇帝を
代表者として、
中国古代の
秦・
漢帝国が
成立したころ、
法的社会を
作ろうとする
側と、
従来からの
道徳的共同体とは、
至るところで
衝突を
起こしたのである。まして、
法がしだいに
社会的に
認知されつつあった
春秋時代、すなわち
孔子が
生きていた
時代では、
法は、
共同体側から
見れば、
自分たちの
体制を
崩す
悪であるとするのが
常である。
各種共同体が
機能しなくなってしまった
現代では、
法的処理の
間にはさみこまれる
共同体的処理が、
逆に
不正なこと、
悪であるとされる。たとえば、
今日、
老父の
罪を
見逃してもらうために、
贈賄すれば、どうなるか。
子は
罪を
犯すことになる。しかし、
老父を
捕えた
検事や
警察の
側が、その
父を
老人であるがゆえに、その
罪を
公にしないとすると、
一転して、
温情ある
処置として
美談となる。
共同体的感覚による
行為である
贈賄と
美談とは
紙一重の
差なのである。
このように、
法的社会が
形成されて
以後、
共同体との
関係というやっかいな
問題を
人間は
抱えこんできて
今日に
至っており、いまなおその
解決方法に
苦しんでいる。
さて、
共同体の
指導原理は、
道徳であるから、
指導者はその
条件として
道徳性を
身につけなくてはならない。ちょうど、
法的社会の
指導原理が
法であり、
指導者はその
条件として、
法を
守りかつ
政策能力を
身につけなくてはならないのと
同じように。あえて
言えば、
共同体社会は
規模が
小さく、
前例主義なので、
新しい
政策の
立案といったようなことはあまりなかった。
この
道徳的指導者は、
法のように
強制するのではなくて、しぜんと
見習わせて、
人々を
感化することになる。 だから
孔子は
葉公に
対して、「
近き
者(
近くの
人々)は
説び、
遠き
者(
遠くの
人々)は(
慕い)
来る」と
述べている。これが
道徳政治というものの
姿である。
すなわち「
共同体→
共同体のきまり(
慣習)→
道徳」という
体系に
合わせて「
共同体の
指導者→
共同体のきまり(
慣習)の
熟達者→
道徳的完成者(
聖人)」という
図式を
考えだしたのである。そして
道徳的完成者(
聖人)を
最高指導者とし、その
人の
道徳に
感化され
教化される
政治を
道徳政治(
徳治政治)としたのである。これは、「
法的社会→
法的社会のきまり→
法」に
基づく「
法的社会の
指導者→
法的社会のきまりの
実行者や
政策プランナー」という
図式による
法的政治(
法治政治)と
鋭く
対立する。
前者の
道徳政治を
主張したのが、
儒家であり、その
組織的理論化や、
理論的指導を
行なった
最初の
人が
孔子であった。
後者の
法的政治を
主張したのが、
孔子よりずっと
後に
出てきた
法家(たとえば
韓非子)であり、その
方式に
基づく
大政治家が、
秦王朝を
建てた
始皇帝である。
(「
論語を
読む」
加地伸行より)
長文 3.2週
【1】イロリの
社交は、
家族結合の
社交であった。
一家団欒ということばは
言うまでもなく
家族がおなじ
火をかこんでいることを
指した。ひとつの
火を
通じて
心がかよいあう。そういう
不思議な
力を
火はもっていた。
家族だけではない。【2】
客人もまた、おなじ
火をかこむことで、
他人ではなくなる。
火は
人間を
近づけるのである。
若者たちが
夏の
山や
海で
火を
燃やしてひらくファイヤー・ストームなども、まさしく
火による
人間結合の
現代的なあらわれのひとつであろう。
【3】イロリの
社交には、
秩序があった。よく
知られているように、イロリの
四辺には
誰がどうすわるかについての
約束事がある。
土間に
面していちばん
奥の
辺は
横座である。そこには
戸主以外の
人間がすわってはいけない。【4】
横座からみて
左がわの
辺にすわるのは
主婦によって
代表される
家の
女たちである。この
座席はカカ
座などと
呼ばれる。そして
客人の
席、すなわち
客座は
横座からみて
右、
横座の
正面は
使用人や
場合によっては
嫁の
座る
下座――そんなふうに
席の
割りふりがきまっていたのである。【5】こんにち、
比喩的に、たとえば「
主婦の
座」というようなことばが
使われるのは、このようなイロリの
座の
割りつけから
延長されたものだと
考えてよいだろう。
それぞれの
座がきめられ、
冬の
夜などイロリをかこんで
世間話がつづく。【6】
火を
共有しているという
事実が、そして、ときにはバチバチと
音をたてて
燃える
炎が、いわばその
世間話の
背景音のようなものになる。
火は、
家庭の
健在をしめす
象徴なのでもあった。
これとまったくおなじことが、
西洋でも
考えられる。【7】かつてマーガレット・ミードはフランス
文化を
論じて、フランス
文化の
基本になっているモチーフはFoyerであるといった。このフォアイエというのは、
一家団欒を
意味し、
同時に
火床を
意味することばだ。【8】
同一の
火床ないしは
暖炉を
共有する
家族の
結合がかたいのである。
フランスだけではない。ヨーロッパやアメリカの
住宅で
中流以上といういささかゆとりのある
家にはたいてい
暖炉がある。【9】そして、こんにちでは、ちゃんと
中央管理暖房がゆきとどいているにもかかわらず、ときどき
暖炉に
薪をくべて
火の
共有の
事実を
演出するのである。じっさい、イロリと
暖炉はその
機能においてきわめて
類似している。【0】もちろん、
火をまんなかにしてかこむイロリと
火にむかって
半月型にならぶ
暖炉とでは、
社会構造は
少し
違うかもしれない。だが、おなじ
火のぬくもりと
光を
受けることのできる
場を
家庭の
象徴とすることは、たぶん
東西共通なのである。
火が
人間を
接近させ、
親密さを
強める
効果をもっていることをわれわれは
直観的に
知っている。ラジオが
大衆化したとき、アメリカの
大統領F・ルーズベルトは、
定期的な「
炉辺談話」
番組で
国民に
親しく
話しかけた。
番組の
題名にある「
炉辺」ということばだけで
大統領と
国民はぐんとその
距離を
縮めることができたのだ。(
中略)
火の
共有による
親密な
人間関係は、
調理の
火を
考えてみればよくわかる。「
同じ
釜の
飯を
食った」
関係、というのは、
遠慮のない
親しい
関係ということだ。おなじ
火で
調理されたものを
飲食するというのは、
暖房や
照明の
火の
共有よりもさらに
深い
共通感覚を
人間たちに
与える。
カマドをわける、あるいは
別火にするというのは、
人間のまじわりの
単位をわける、ということである。
調理の
火の
共有、それは
人間をつなぐ
基本的に
重要な
文化項目であった。
この
点でも、
日本文化はいろんな
工夫を
凝らし、それに
美的洗練をあたえつづけてきたように
思える。たとえばさまざまな
鍋料理。それは、
人間が
共通の
火で
調理されたものをわかちあうことで
親密さをつくりあげてゆくためのすばらしい
知恵であった。
茶の
湯もまた、ある
意味で
火の
共有を
象徴する
社交の
形態であった。
小さな
風炉とカマ、そこからまさしく
茶の
湯がうまれる。
茶会はおなじカマからつくられた、おなじ
味覚を
共有する
深い
人間関係を
形成してゆくのである。
暖房、
照明、
調理、それらは、いずれも
人間生活にとってきわめて
実用的な
火の
機能である。だが、
人間はそういう
実用性を
超えて、
火を
人間関係調整の
手段としても
展開させてきたのであつた。
火の
管理はたんに
物理現象としての
火を
管理するというだけでなく、その
火をめぐる
人間集団の
管理をもふくむものであった。
(
加藤秀俊「
暮らしの
思想」より)
長文 3.3週
【1】
今、
日本の
都会では、
路上でものを
売る
人を
見かけることがほとんどない。たまにあっても、ヒッピーのアクセサリーとかワゴン・セールとか、
朝市とか、いかにも
特別な
売り
方で、ただなんとなく
道端に
立ったりしゃがみこんだりして
客を
待つという
売り
手がいなくなった。
【2】
順序から
言うならば、
常設の
店ができる
前は
商売はみんな
路上で
行われていた。
道は
人や
馬の
行き
来のためだけにあるのではなく、
立ち
話やものの
売買や
時には
喧嘩のための
公共スペースだった。
家の
裏の
小さな
畑で
出来た
豆や
芋を
町まで
運んでいって
道端で
売る。【3】
売れたら、そのお
金で、
家では
作れない
野菜や
道具類や
贅沢品を
買って
帰る。
商売はこうして
始まったのだ。
しかし、
道で
売っているものは
時として
信用できない。
村の
顔見知り
同士ならともかく、
大きな
町で
見知らぬ
者からものを
買うと、
万一、それがインチキな
品でも
苦情を
持ち
込む
先がない。【4】
今でも
訪問販売や
通販の
類にはこの
種の
問題がつきまとっている。
訪問と
言えば、
三十年前に
見事な
詐欺にあったことがある(どうもぼくは
詐欺にひっかかりやすい
性格らしい)。
日曜日の
昼ごろ、
庭で
草取りをしていると、
威勢のいい
魚屋風の
男がやってきて、
道から
声を
掛ける。【5】うなぎを
買わんかと
言うのだ。
今と
違って
冷凍の
蒲焼がいつでも
手に
入るわけではなく、うなぎはなかなか
贅沢な
食べ
物だった。それが
安い。たしかに
安い。
男は
垣根越しに、なぜ
安いかという
理由を、
特別のルートとか
何とか、
言葉巧みに
話す。
【6】
日曜だからどこの
家でも
父親がいる。
一つ
奮発しようということになって、
家族の
数だけうなぎを
買う。それから
御飯を
炊く
算段になる。この
時差が
大事だ(
保温式の
炊飯器はまだなかった)。
買ってすぐに
食べるものではこの
話は
成立しない。【7】
一時間後、いよいよ
白い
御飯がどんぶりに
盛られて、
蒸して
温めたうなぎが
乗り、タレがかかってみんなの
前に
並ぶ。
子供たちはわくわくして
箸を
取る。ところが、
一口ほおばると、これがあなごなのだ。
見た
目はそっくりだが、
味はだいぶ
違う。【8】あなごはあなごでうまい
魚だけれども、うなぎに
化けてはいけない。もちろん
男は
二度と
来なかった。
路上の
取引には、いつもこのくらいのリスクがつきまとう。
日本のように
万事がお
金本位になってしまっていない
国では、まだ
路上の
商売は
賑わっているし
信頼もされている。【9】イスタンブールでは
子供たちが
街頭に
並んで、
声を
張り
上げて
煙草を
売っている。それがなぜか
毎日のように
品が
変わる。ある
日は
全員がケントを
売っている。
次の
日はそれがサムソンという
国産ブランドに
変わる。【0】トルコの
子供たちはよく
働く。
寒風の
中で
鼻をすすりながら、サムソンサムソンサムソンと
黄色い
声で
呼ぶのが、
今でも
聞こえる。
スーダンの
煙草の
売り
方はまた
違う。
首都のハルトゥームは
全体が
砂漠色にくすんだ
町で、その
広い挨っぽい
道の
脇に、
煙草屋は
黙って
坐っている。
買うのはほとんど
常連で、
取引の
単位は
一本である。スーダンの
人にとって
煙草は
相当な
贅沢で、
一度に
一箱をまるごと
買える
者は
少ない。だから、
一本ずつ
買う。
朝、
仕事にゆく
途中で
一本買って、その
場で
吸う。マッチで
火をつけるのは
無料サービス。
煙草屋の
周囲に
立ったり
坐ったりして、
本当においしそうに
吸う。まわりにいい
匂いの
煙が
立ち
込める。
吸い
終わると、
元気に
仕事に
行く。お
金に
余裕がある
時には、
昼にも
一本買う。
まだ
禁煙していなかったぼくは、ある
日、この
煙草屋から
一箱買おうとした。
橋を
渡ってオムドゥルマンの
町までラクダ
市を
見に
行くのに、
道中で
吸う
分を
持参するのだ。
一度にたくさん
売れば、
簡単に
儲かるわけだから
煙草屋も
喜ぶだろうと
思ったのだが、それはみんなが
煙草代に
困っていない
国から
来た
者の、
浅ましい
考えだった。
ぼくは、
一箱は
売れないと
言われた。つまり、この
煙草屋にしても、
毎朝早く、その
日に
売る
分だけを
仕入れてくる。だから、ぼくが
二十本も
買ってしまうと、
昼休みの
一服を
楽しみにしている
誰かの
分が
足りなくなる。
事情を
知ったぼくは、
一本だけ
買って、
火をつけてもらい、ゆっくりとその
場で
吸って、
橋に
向かった。いい
気持ちだった。
(「インパラは
転ばない」
池澤夏樹より)
長文 3.4週
要するに、ニューヨークは
何もない
街らしい。だから、その
点、
東京によく
似ているといえる。
実際、
商店の
飾り
窓のかざりつけだの、
道路から
直接二階へ
上る
狭い
階段の
入り
口だの、そんな
何でもない
街のたたずまいの
中に、ときどき「おや」と
思うほど
東京にそっくりの
情景が
眼につく。そう
思って
眺めると、
東京がニューヨークを
真似しているのか、ニューヨークが
東京を
取り
入れたのか、
一瞬どっちがどっちだかわからなくなるようだ。
私の
前を、ゴムの
半長靴をはいた
女が
一人、
前かがみの
姿勢で
歩いて
行く。
踏み
荒らされた
舗道は
毀れてデコボコだし、おまけに
一週間まえに
降った
雪が
凍りついたり
溶けかかったりして、よほど
気をつけないと
滑ってころぶか、
氷まじりのヌカルミにぞっぷり
足のクルブシまでつかってしまう。
道の
片側に
高い
板塀がつづき、
中ではコンクリート
建築の
作業をやっている。
間断なしに
響く
重苦しい
金属音。
道路をうめつくしてやっと
動いているタクシーや
乗用車。……
見るものは
何もない(その
気になれば
芝居でも、
美術品でも、
世界の
一級品がふんだんにあるにもかかわらず)、ぼんやり
休んでもいられない、そのくせ
黙って
空気を
吸っているだけでも
金がへって
行くようなニューヨークの
街は、およそ
観光客には
不向きのようだが、
住んでみたら
案外暮らし
好いかもしれないと
思わせるところもある。
近代美術館がそうだったように、ここには
伝統や
権威や
際立った
性格的なものは
何もないかわり、
外来者が
眼に
見えぬ
圧迫感を
加えられることもなさそうだ。ナッシュヴィルのようにホテルのロビーでまわり
中から
眺められることもないし、どんな
恰好をして
歩いていても
平気だ。
黒人の
男が
白人の
女とつれだっているのを
見掛けたが、これはナッシュヴィルでは
夢みたいなことだ。……
朝、コーヒー・ショップで
食事をしていると、
眼にクマどりのある
顔色の
悪い
女の
子がドーナッツを
半分だけ
惜しそうに
食べ、あとの
半分を
紙ナフキンに
包んで、
木綿のワンピース
一枚の
姿で
雪と
氷の
戸外へ、ゆっくりと
出て
行った。
彼女の
痩せた
肩先には、
無残で
優美な
都会の
無関心さが
肩掛けのようにかかっている。
アベイ・ホテルの
地下室にはストックホルムの
海賊料理のレストランがある。その
他、ちょっと
足をはこべばヨーロッパの
各国から
集まった
各国の
料理店がそれぞれ
軒を
並べている。しかし
前を
通っても
別段、どの
店へ
入ろうという
気もしない。アメリカへ
来て「
戦前並み」のフランス
料理を
食うというのが
馬鹿馬鹿しいからではなく、
興味がまったくわかないからだ。それなら
日本料理屋はどうかというと、
最初から
私はこれに
最も
反発を
感じた。
話に
聞くだけでもイヤなことだと
思っていた。しかし
一度でも
誘われて
入ってみると、ここには
麻薬のような
吸引力がある。
先月末、アメリカに
着いて
三日目だったが、M
紙の
特派員Y
氏につれられて
行った
店で、ミソ
汁を
一と
口すすった
瞬間、
私は
嘘もかくしもなく、
全身から
一時にシコリが
脱けて
行くのを
感じた。まるで
毛穴が
全部ひらいて、そこから
自由な
空気がいっぺんに
流通しはじめるみたいだった。それに
給仕人に
母国語で
注文を
発し、
母国語でこたえられるのは
何としても
避けがたい
魅力だ。
汽車や
劇場の
中などで
同国人に
出会うと、
本当のところ
顔をそむけたくなる
気持ちがある。それが
食い
物屋では
逆の
作用をあらわしてしまうのは、どういうわけだろう。ドルが
円で
呼ばれ、51 streetが
五十一丁目と
言いなおされるようなことを、どうしてうれしがるのかわからない。けれども
腹が
空いてくると、
脚が
自然に
日本料理店の
方へ
向いてしいまうのである。
(
安岡章太郎「アメリカ
感情旅行」)