(Translated by https://www.hiragana.jp/)
課題集
長文 1.1週
【1】
私の
家では、
大晦日に
二つの「
除夜の
音」が
聞こえる。
一つは
除夜の
鐘、もう
一つは「
除夜の
汽笛」だ。
私は
横浜に
住んでいて、
家は
高台にある。【2】だから
年末には、
近所の
寺から
響く「ゴォーン、ゴォーン」という
鐘の
音と、
港で
鳴らされる「ブォーウ、ブォーウ」という
汽笛の
音が
聞こえてくるのだ。ベランダに
出て、そんな
二つの
音に
耳を
傾けるのが、
毎年私のひそかな
楽しみである。
【3】
大晦日の
夜の
空気は、いつもと
違う。
普段なら「うう、
寒い
寒い、
早くこたつに
入りたい」と
思うだけなのだが、この
日ばかりはその
寒さが、
身も
心も
引き
締めてくれる
感じがする。【4】
長かった
一年が
終わろうとしていることを、
実感するからかもしれない。
ある
友達は
毎年、
大晦日にはアイドルのカウントダウンコンサートに
行っているらしい。しかも、お
姉さんやお
母さんまで
一緒だというから
驚きだ。【5】そして
夜遅くまで
開いているお
店で、
豪華な
外食をして
帰ってくるのだという。それはそれでたいへんにぎやかで、
楽しそうだと
思う。しかし
私にとっては、そういう
大晦日はなんだか
落ち
着かない。【6】どこかに
出かけるわけでも、
何かをするわけでもなく、
静かに
過ごしたいと
思うのだ。
食事だって
年越しそばで
満足である。
これも
聞いた
話だが、
大晦日にそばを
食べるのは「
細く
長く」
生きていけるように、つまり
来年も「
大きな
波乱なく、
平穏に
暮らせますように」という
意味があるのだという。【7】
母の
手作りのそばをすすっていると、
私もまさにそんな
気分になる。
どのように
過ごすかは、
人それぞれだ。しかし
人間にとって、
大晦日が
特別な
日であることに
違いはない。
友達は「
大晦日ぐらい、
時間を
忘れて
大騒ぎしたい」と
言っていた。【8】
私は
逆に、「
大晦日ぐらい、
時間が
過ぎるのを
大切に
感じたい」と
考えている。そうやって、
新年を
迎える
心の
準備ができるのは、
大晦日という
一日だけではないだろうか。「
待てば
海路の
日和あり」というが、「
歳月人を
待たず」ともいう。【9】
楽しいお
正月がやってくるが、のんびりしてばかりはいられない。
一年が
過ぎ
去ろうとする、
大晦日の
夜。
除夜の
汽笛を
耳にするたび、
私は
背中を
押されるような、
前向きな
気持ちになる。
勇気を
持って、
新しい
一年へと「
出航」していこう。【0】
(
言葉の
森長文作成委員会 ι)
長文 1.2週
【1】テレビが
普及して、
映画を
見る
人が
少なくなったというのはほんとうです。「
視聴覚文化」が
盛大におもむき、
本を
読む
人が
少なくなるだろう、というのは、どうもほんとうらしくありません――ということは、およそ
常識からも
察せられるでしょう。
【2】
娯楽としてのテレビと
映画とはたいへんよく
似ています。
見るほうが
受け
身で、すわっていれば
画面のほうがこちらを
適当に
料理してくれます。それほど
似ているから、どちらか
一方でたくさんだという
考えのおこるのもむしろ
当然のことでしょう。【3】ところが
本を
読むのにはいくらか
読む
側に
努力がいります。また
読む
速さをこちらが
加減することもできるし、つまらぬところを
省くこともできる。おもしろいところを
二度読むこともできるし、むかしの
人の
言ったようにしばらく
巻をおいて
長嘆息することもできます。【4】そういう
本をよみながらできることは、
映画やテレビを
見物しながらは、どうしてもできません。
要するに
本を
読むときのほうが、
読む
側の
自由が
大きい、
自分の
意志や
努力で
決めることのできる
範囲が
広い、つまり
態度が
積極的だということになるでしょう。
【5】「
今日は
疲れたから、
映画でも
見ようか」とはいいますが、「
疲れたから
本でも
読もうか」という
人があまりいないのはそのためであり、そもそも
読書法ということは
成りたっても、
映画・テレビ
見物法ということが
意味をなさないのもそのためです。【6】
一方は
受け
身のたのしみ、
他方は
積極的なたのしみで、
受け
身のたのしみが
増えるということは、かならずしも
積極的なたのしみを
求めなくなるということではありません。
娯楽の
性質がまったく
違うから、いわゆる
視聴覚「
文化」または「
娯楽」は、
読書のたのしみを
妨げるものではないでしょう。
【7】しかしテレビには
娯楽番組のほかに、いくらか
知的好奇心を
刺激する
番組もあります。たとえば
憲法についての
座談会とか、ダム
建設工事現場の
写真とかいったものが「
憲法」や「ダム
建設」に
対する
好奇心を
刺激します。【8】しかし、その
好奇心を
十分に
満足させるようなまとまった
知識を
与えてくれることは、ほとんどありません。そこで「
憲法」に
関しまた「ダム
建設」に
関して、まとまった
知識を
読書によって
得ようという
欲求がおこっても、ふしぎではない。【9】そうなればテレビは、
読書を
妨げないばかりでなく、むしろ
助長するようにはたらくということになりましょう。
少なくともそういう
一面がありうると
思います。
新しい
絵はわからないという
人がよくあります。【0】
新しい
絵というのは、
抽象絵画のことでしょう。よくわからないというのは、その
絵が
本来、
魚を
描いたものか、
女性を
描いたものかわからないという
意味でしょう。それならば、
新しい
絵はわかる
必要のないものです。(
中略)しかし、
本を
読むということになると、これはどうしてもわからなければ
無意味です。
魚のことを
言っているのか、
女性のことを
言っているのかわからなくてはどうにもなりません。
少なくとも、ある
種の
美術はわかる
必要のないものです。
音楽は
絵と
同じ
意味ではなにものも
表現していないので、そもそもわかるはずがない。
読書だけが
絵を
見ることや
音楽を
聴くことと
違うのです。すべての
本は
言葉からできあがっていて、すべての
言葉はなにかを
意味します。その
意味をとらえて、
意味相互のあいだの
関係を
理解することが、
本を
読む
法、つまり
本をよくわかることでしょう。
読むこととわかることとは
切り
離せません。
しかし、
世の
中にはむずかしい
本があります。どうすればたくさんの
本を
読んで、いつもそれをわかることができるようになるでしょうか。その
方法は
簡単です。しかし、おそらく
読書においてもっとも
大切なことの
一つです。すなわち、
自分のわからない
本はいっさい
読まないということ、そうすれば、
絶えず
本を
読みながら、どの
本もよくわかることができます。
少しページをめくってみてあるいは
少し
読みかけてみて、
考えてもわかりそうもない
本は
読まないことにするのが
賢明でしょう。
一冊の
本がわからないということ、ただそれだけでは、あなたが
悪いということにもならず、またその
本が
悪いということにもならない。これはよく
心得ておくべきことで、そのことさえ
十分に
心得ていれば
無用の
努力、
無用の
虚栄心、または
無用の
劣等感をはぶき、
時間のむだをはぶくことができるでしょう。だれにもわかりにくい
本というのがあります。
私にはわかりにくいけれども、ほかの
人にはわかりやすい
本というのがあります。また
最後に、だれにもわかりやすい
本というものがあるでしょう。
(
加藤周一「
読書術」より)
長文 1.3週
【1】まさかソフィーは、
世界をわかりきったものだと
思っている
人の
仲間ではないよね? これはわたしにとって
切実な
問題なのです、
親愛なるソフィー。だから
念のため、
想像のなかで
二つ、
体験をしてみましょう。
【2】さあ、
想像してみて。ソフィーは
森を
散歩しています。
突然、
行く
手に
小さな
宇宙船を
見つけます。
宇宙船の
上には
一人の
小さな
火星人がよじ
登ってソフィーをじっと
見おろしている……。
さあ、そんな
時、ソフィーなら
何を
考えるだろう? 【3】まあ、それはどうでもいいとして。でも、
自分を
異星人みたいに
感じたことはない?
ほかの
惑星の
生物にでくわすなんて、そんなにありそうなことではない。ほかの
惑星に
生命が
存在するかどうかもわからないし。【4】けれども、ソフィーがソフィー
自身にでくわす、ということはあるかもしれない。ある
晴れた
日、ソフィーがソフィー
自身をまったく
新しく
体験してはっとする、ということは。ちょうど
森を
散歩している
時なんかにね。
【5】わたしっておかしなもの、とソフィーは
考える。わたしはなぞめいた
生き
物、と……。
ソフィーはまるで
何年もつづいたいばら
姫の
眠りから
目覚めたように
感じる。わたしはだれ? ソフィーはたずねる。ソフィーは
自分が
宇宙のある
惑星の
上をごそごそ
動きまわっているということは
知っている。【6】でも
宇宙とはなんだろう? なんであるのだろう?
もしもソフィーがこんな
自分に
気がついたなら、ソフィーは
自分自身をさっきの
火星人と
同じくらいなぞめいたものとして
発見したことになるのです。いえ、
宇宙からやってきたものを
見てびっくりするほうが、まだましなくらいだ。【7】ソフィーはソフィー
自身をとびきりおかしなものとして、とっくりと
深く
感じるのです。
わたしの
話についてきている? ソフィー。もう
一つ
想像の
体験をしますよ。
ある
朝、パパとママと
小さなトーマスが、そう、
二つか
三つの
男の
子です、キッチンで
朝食を
食べている。【8】ママが
立ちあがり、
流し
台のほうに
行く、するとそう、
突然パパが
天井近くまでふわっと
浮かびあがる。
トーマスはなんて
言ったと
思う? たぶんパパを
指さして、「パパが
飛んでる!」と
言うでしょう。
もちろんトーマスはびっくりだけど、どうせトーマスはいつもびっくりしています。【9】パパはいろいろおかしなことをするから、ちょっとばかり
朝食のテーブルの
上を
飛ぶなんて、トーマスの
目にはべつにたいしたことには
映らない。パパは
毎日へんてこな
機械でひげをそるし、しょっちゅう
屋根に
登って、テレビのアンテナをあちこちひん
曲げる。【0】かと
思うと、
自動車に
首をつっこんで、カラスみたいにまっ
黒になって
出てくる。
さて、こんどはママの
番です。ママはトーマスの
声に、
何気なくふり
返る。ソフィーは、キッチンのテーブルの
上を
飛びまわるパパを
見て、ママがどう
反応すると
思う?
ママの
手からジャムのガラスビンが
落ち、ママはびっくり
仰天してけたたましく
叫びます。パパがいすに
戻ったあと、ひょっとしたらママは
医者に
診てもらわなければならないかもしれない。(パパがテーブルマナーを
守らなかったばっかりに、とんだ
大騒ぎだ。)
どうしてトーマスとママの
反応はこんなにちがうのかな? ソフィーはどう
思う?
これは「
習慣」の
問題です。(このことば、メモして!)ママは
人間は
飛べないということをとっくに
学んでいる。トーマスは
学んでいない。トーマスはまだ、この
世界では
何がありで
何がありではないか、よく
知らない。
でもソフィー、この
世界そのものは、どうなっているんだったっけ? こんな
世界はありかな?
世界もパパのように
宇宙空間にふわふわと
漂っているんじゃなかったっけ……。
悲しいことに、わたしたちはおとなになるにつれ、
重力の
法則になれっこになるだけではない。
世界そのものになれっこになってしまうのです。
わたしたちは
子どものうちに、この
世界に
驚く
能力を
失ってしまうらしい。それによって、わたしたちは
大切な
何かを
失う。
長文 1.4週
十年ほど
前、ボルドーの
近くを
走っていて、くるまの
接触事故をおこしたことがある。
人身には
何の
影響もなかったし、こちらの
日本製の
車体がへこんだくらいで、
何と
日本のくるまは
弱いんだといまいましいくらいのものであったが、――それにこちらにもい
分があり、
相手にも
幾分の
非があったのだが――。
それでも
口をついて
出たのは「すみません」ということばであった。
相手は
朴訥な
農民夫婦で「はじめてパリへ
行って
無事故で
帰ってきたのに……」と
愚痴をさんざん
並べていた。
しばらくして「しまった」と
思った。「すみません」とは、あやまり
文句である。こちらがあやまってしまえばもうそれでおしまい。
非はすべて
当方がかぶらねばならない。
そのことは、フランスへ
来て、くどく
言われていたのだ。
問題をおこしたら、ぜったいにあやまってはいけない。こちらの
責任がいくら
明白なときでも、まず「
汝ニ
咎ガアル」(?ous avez tort.)と
言うべきである。そうでないと、
賠償責任はすべてこちらが
負わねばならぬ。「すみません」とは
口が
裂けても(――はちと
大げさだが)
言ってはならぬ。
自動車保険の
契約の
注意書にさえ「
事故のときにあやまってはならぬ」と
書いてある。にもかかわらず、
日本人である
私はつい「すみません」と
言ってしまった。
習慣はおそろしいものである。
リリアーヌ・エルという
女性は「あやまるということ」(『
潮』
昭和五十三年四月号)というエッセイの
中で、
日仏比較文化のおもしろい
観点を
出している。
日本人は
簡単にあやまる。フランス
人はなかなかあやまらない。どうしてか、という
問題である。
彼女の
引いている
例は、
仲間を
裏切ったやくざが、のちに
仲間にリンチを
受けるというテレビドラマの
場面である。
彼女は
同じ
状況を
描いたドラマを
日本とフランスで
見た。
状況と
結果はまったく
同じである。どちらも、
見下げた
奴として
仲間に憐まれ、ゆるされる。ところが、その
過程の、憐みを
乞う
文句がちがう。
日本だと「
悪かった!
許してくれ」と
言い、フランスだと「おれが
悪いんじゃない!
殺さないでくれ」と
言う。まるで
正反対である。
ここで
私が
言いたいのは、フランスでの「
自分が
悪かった」ということばの
重みである。
神の
前で
自己の
全人格を
否認するということ、それが
自分の
悪をみとめるということである。これは
勇気ある
行為である。もし、やくざがそんな
勇気ある
行為を
示せば、
人は
彼を
尊敬し、そして
簡単に
殺してしまうだろう。憐みを
乞うたことにはならないのだ。憐みを
乞う
場合は、
状況が
悪かったとくどくどと
弁解しなければならないのだ。
日本ではちょうど
逆である。
弁解すれば、憐みはかけてもらえぬ。
弁解は
理屈であり、
理屈は
卑怯である。ただ
一言、
悪かったとあやまる。この
頭を
下げるというのが、
日本社会でゆるしのえられる
唯一の
行為である。
「
悪かった」と
言っても、
日本では
勇気ある
行為とはいえない。みんな、いつでも「
悪かった」とあやまる。つまり
社会的定型である。
人は、
定型によって憐みを
求め、
定型によって憐みを
与える。
物を
言っているのは、
文化の
型である。
(
中略)
絶対の
罪というものはない。しかし、おたがいに
小さな
悪、
小さな
迷惑をかけあっている。それは
無意識の
領域にちらばっているので、いちいちとりたてては
言えないくらいである。だから、たえず「すみません」と
言う。「すみませんで
済むか」と
言われればその
通り、といった
重大な
場面では、「ではどうすれば
済むのですか、あなたの
気持ちの
済むようになさってください」という「すみません」の
語源に
迫るような
科白も
出てくる。もっとも「どうすれば
済むのか」という
反問じたい、あやまる
文化の
型にそむいている。これは
日本では
反抗であり
皮肉である。
というわけで、もっぱら
私たちは
腰を
低くしている。
日本文化の
型になじんだ
外国人のなかには、
腰を――というより
背をかがめて
愛想笑いをふりまく
人もいる。いつだったか、
約束をたがえた
外国人がおり、その
人物、
次に
私に
会ったとき、
彼は「
日本ふう」に
背を
海老のようにまげ、
謝罪したものである。その
極端な
姿勢におどろいた。
私たちは、
外国人という
鏡に
映った
自分たちの
文化の
姿におどろくのである。
エルさんはフランス
人の
論理好きには、
二つの
種類があるという。
客観的、
普遍的な
論理と、もう
一つは、
自分の
立場をあくまで
正当化しようとする
論理癖と、である。
後者の、いわばフランス
人の
癖のようなものが
前者を
形づくり、
前者が
逆に、
後者の
癖を
助長するということがあるのだろう。
とりあえずあやまるという
日本文化には、
人と
人とのつながりをなめらかにするという
普遍的知恵に
通じるものがある。
同時に、
何でも「すみません」で
通そうとするあつかましさもある。
済むとか
済まないとか――そんなことを
意識しないで、ともかく「すみません」と
言っている。
感謝でも
謝罪でもない。「すみません」というのは、あやまる
文化の
型をつたえることばである。
同時に、
安直なことばでもある。
後者はむしろ、
伝統をなしくずしにする
面がある。
ひとつのことばをめぐって、
伝統と、それをなしくずしにしようという
力と、その
双方がせめぎあっているようである。
ことばはむずかしいものである。ことばの
解釈もむずかしいものである。
外国人は、あやまる
文化に
卑屈さを
見いだして
感心したりするが、
事は(
少なくとも
今は)それほど
簡単ではないように
思われる。
(
多田道太郎『
日本語の
作法』)
長文 2.1週
【1】
僕は、
手の
中にある
小さなカードをにらみつけた。そこには
僕の
名前と、「
受験番号008」という
文字が
印刷してある。そう、これは
受験票なのだ。といっても、
学校で
開かれる「
受験面接体験会」に
使う、
練習用のものである。
【2】いよいよ
中学受験が
迫っている。
勉強はしっかりしてきたつもりだが、
面接を
受けるのは
初めての
経験だ。だから
練習とはいえ、
準備は
入念にした。「
尊敬している
人は
誰ですか」と
聞かれたら「
父です」、「
日課はありますか」と
言われたら「
自習として
読書と
暗唱を
続けています」と
答えるように
決めていた。
【3】
体験会の
当日。
廊下にたくさんの
椅子が
置かれ、
顔をこわばらせた
同級生たちがずらりと
並んで
座っている。
一人一人、
部屋に
呼び
込まれていき、
自分の
番が
目に
見えて
近づいてくる。いつも
見慣れているはずの
教室への
入り
口が、
別世界への
扉か、
大きく
開いた
怪物の
口のように
思えてきた。
【4】そして、
僕の
番が
来た。
返事をして、
教室の
入り
口で
一礼。「どうぞ」と
言われるまで
待ってから、
静かに
椅子に
腰を
下ろし、
受験票を
提出する……ここまではイメージ
通りだ。
目の
前に
面接官役として、
三人の
先生が
座っている。【5】どんな
難しい
質問をされるのか……と
身構えていたら、
真ん
中の
先生が
困ったように
笑って、こう
言った。
「これは、
逆だねえ。」
ハッとして
机の
上を
見ると、「
受験番号008」の
文字が、
僕の
方を
向いている。
受験票は
当然、それを
見る
面接官に
向けて
出すべきものだ。【6】
僕は
緊張のあまり、まるで
漫画のようなミスをしてしまったのだった。
自分のしでかしたことが
自分で
信じられず、
一気に
顔が
赤くなる。
面接でのやりとりは、
今でも「
逆だねえ」
以外には
何も
覚えていない。【7】
結局、あまりにも
分かりやすい
失敗だったせいか、とくに
注意されることはなかった。とても
恥ずかしい
思いをしてしまったが、それだけに、
本番で
同じ
間違いをすることは
決してないだろう。【8】
緊張しそうになったら「とりあえず、
受験票を
逆に
出すなよ」と
過去の
自分にい
聞かせて、リラックスするつもりだ。
人間にとって、
身が
縮むような
緊張の
体験も、たまには
必要だ。そうすることで
自分と
向き
合い、
思わぬ
発見ができるかもしれないからだ。
【9】「
初心忘るべからず」。
この
時の
緊張を
忘れることなく、
些細な
失敗は
笑い
話にしてしまえるように、
本番では
良い
結果を
残したい。
僕は
練習用の
受験票を、
机の
引き
出しにそっとしまい
込んだ。【0】
(
言葉の
森長文作成委員会 ι)
長文 2.2週
【1】
私の
家は
自動車がやっと
通れるぐらいの
路地に
面している。
三年前まではその
路地は、さまざまな
人や
動物の
散歩道として
利用されていた。
都内にはめずらしくほそうされていず、
道ばたには
草が
生えていた。となり
近所には
古い
家が
多くて、
敷地からはみ
出した
樹木の
茂みが
路上に
日かげをつくった。
【2】それだけの
道である。
長さにして
一〇〇メートル、
石段を
経て
下の
大きな
道に
出る。
買物に
行く
主婦も、
下の
バス停に
行く
人も、ちょっと
回り
道をしてこの
道を
通っていった。
毎朝定刻につえをついてくるおじいさん、
犬を
連れたおくさんも
通った。【3】
犬は
大喜びで
所々で
地面に
鼻をつけ、
最後に
足をあげて
自分である
印を
残していった。ネコも
走りぬけた。
一度だけだがへびもはいだしてきた。
私の
娘たちは
大学生になった
今もなつかしげにこの
道のことを
話すが、
実際近所の
子供たちのたまり
場でもあった。
【4】
何が
彼らをこの
路地に
引きつけたのだろう。
女の
子や
小さい
男の
子が
草の
葉を
引っぱっているのを
私はよく
見かけた。
彼らはこの
路地で
地球のかけらを
発見していたのではなかったろうか。
犬たちが
鼻でその
存在を
確かめたように。
【5】
私自身もコンクリートにはあきあきしていて、
道ばたに
草が
生えている
風景を
心ひそかに
楽しんでいた。ある
秋、
黄褐色に
熟したエノコログサをながめていると、となりの
家のおばあちゃんが
近づいてきた。【6】
片手に
花ばさみを
持っている。おばあちゃんは
昔は
踊りの
名手だったそうだから、
背筋がピンと
伸びている。
「こんにちは。いいお
天気ですね」
「ちょっとネコジャラシをいただきますよ。お
花の
材料に。それにしてもこんな
所に
生えてくるなんてねえ」
とおばあちゃんは
感心している。
【7】「
穂にさわってごらんなさいよ。
気持ちのいいこと」
「でも
近ごろの
子供はこれでネコと
遊ぶなんて
知らないみたい」
私はすっかりとなりの
家のおばあちゃんに
仲間意識を
持った。
しかしほどなく
人間とは
矛盾した
生き
物であることが
証明されるできごとが
起こった。【8】
翌春私の
家の
前にスミレがさいた。
明るい
赤むらさきの
花は
日を
浴びるととりわけあざやかで、
私はふまないように
注意して
出入りした。
花が
散ると
葉が
大きく
伸びてよく
目だった。
来年はもっとふえるだろう、と
私は
楽しみにしていた。【9】ところがある
日外出から
帰ってくるとスミレがない! そういえば
出がけにおばあちゃんがほうきとちりとりを
持って
立っていたので、あいさつを
交わしたのだった。
清潔好きのおばあちゃんは、
自宅の
前から
私の
家にかけてていねいに
草むしりをしてくださったのである。
【0】
数年たって
路地全体に
異変が
起きた。
下水道工事が
始まって
地面がほりかえされ、
車の
震動で
下水管がこわれぬようにしっかりとほそうされてしまったのだ。ネコジャラシにスギナ、スミレもタチイヌノフグリもそれ
以来路地から
姿を
消してしまった。
道は
車向きの
道路になり、
地球のかけらではなくなってしまった。
町中の
雑草に
対する
人間の
態度は
時と
場所によってさまざまである。ハイキングに
行けば「
緑がいっぱいで
気持ちいいわねえ」と
喜ぶ
人も、
自分の
庭に
出てきた
雑草は
血眼で
引き
抜いてしまう。
「
雑草のようにたくましい」「
雑草のように
生命力が
強い」という
表現がほめ
言葉としてよく
使われる。でも、「
雑草のようにかわいい」とはぜったいに
使われない。「あなたは
雑草の
花のようですね」などと
言おうものなら、
九九パーセント
相手をまちがいなく
怒らせるにちがいない。い
方にもよるけれど、
私なら
残りの
一パーセントの
部類に
入る。
長文 2.3週
【1】ヨーロッパにおけるリンゴの
栽培は『
創世記』までさかのぼり、
四千年を
越える
歴史をもっています。なえ
木を
導入して
明治から
始まった
日本のそれは、ようやく
百年を
越えたばかりです。【2】ウィリアム・テルが
息子の
頭上のリンゴを
矢で
射ぬいたときも、ニュートンがリンゴの
落ちるのを
見たときも、グリム
兄弟が、「
白雪姫」に
毒リンゴを
食べさせたときも、
日本人は
誰もこの
果物を
知りませんでした。
【3】こうした
歴史の
違いは、
東西のリンゴのありように
大きな
差をもたらしました。
欧米のリンゴは
大衆の
中で
育ち、
生食用、
加工用、
料理用と
多彩な
用途に
分かれ、
小玉でも
外観が
悪くても、
味がよければよしとするポリシーで
今日に
至っています。【4】それに
対し、
日本の
場合は、
病気見舞いのぜいたく
品として
出発し、
生食用一本で、ひたすら
外観重視の「
高級化」の
道を
歩いてきました。こうした
流れは、リンゴが
十分大衆化した
今日まで、
変わることなく
続いています。
【5】
外国を
旅すると
一目瞭然ですが、
今日、
日本のリンゴほど
見栄えのするリンゴは
世界のどこにもありません。また、そうした
外観への
極度のこだわりは、リンゴだけではなく、
日本の
果樹生産の
一般的風潮にすらなっています。【6】
料理を
目でも
食べることが
身についている
日本人にとって、より
美しい
果物を
食べたいというのは
国民性といえるかもしれません。とくに、
輸入自由化をひかえた
今、
国産果実の
美観は
日本の
果樹産業を
外国の
果樹産業から
防衛するための
大きなセールスポイントになることでしょう。【7】また、すべての
食べ
物は、
見た
目に
汚いよりはきれいな
方が
精神衛生にいいことも
否定できません。
ただ、
本末転倒なのは、しばしば
味よりも「
見てくれ」の
方が、「
高品質化」の
上位に
座っていることです。【8】
外国から
物や
技術を
導入してそれを
独自に
改変し、
付加価値をつけて
発展させるのは、いわば
日本の「お
家芸」で、
貿易摩擦の
要因にもなっています。
果実もその
例外ではありません。
【9】
昭和五十六年(
一九八一年)の
夏、カナダから
数人の
昆虫学者が
来日して、
盛岡で「リンゴ
害虫の
総合防衛」についてのシンポジウムが
開催されました。これは
日本とカナダの
二国間科学技術協定に
基づいて
行ったものです。【0】シンポジウムのあと、
同伴の
夫人たちともども、
折から
紅葉真っ
盛りの
十和田湖を
経由して、
青森のリンゴ
栽培地を
視察してもらいました。
夫人たちがびっくりしたのは
紅葉で、「これほど
美しい
紅葉は
生まれて
初めて
見た」と
歓声しきりでした。
冬になるといきなり
葉が
枯れて
色気もなく
落葉してしまうカナダから
来て、
日本でも
指折りの
十和田の
紅葉を、それも
最高の
時期に
見たのですから、あながちお
世辞ではないようです。しかし、
夫人たち
以上に
学者たちがびっくりしたのは、
日本のリンゴ
栽培のやり
方でした。リンゴ
園の
地面を
銀色のビニールで
覆い、
反射光でリンゴの
尻を
着色させたり、リンゴをひとつずつ
手で
一八〇
度回してまんべんなく
日に
当てて
着色させる
技術は、
欧米にはまったくないものです。
日本では、いろいろな
果物を
紙袋で
覆って
育てます。この
労力を
要する
技術は・
多雨・
多湿の
風土の
中で、
病害虫の
被害防止のために
生み
出されました。リンゴの
場合も「
袋かけ」は、
幼虫が
果実に
深く
穴を
開けて
致命的な
害を
与えるシンクイムシ
類の
被害防止が
目的でした。しかし、
化学農薬が
発達し、
別の
防除技術が
確立された
現在でも、
袋かけは
根強く
残っています。
果実の
葉緑素の
形成を
抑え、
袋をはずした
後の
果実を
鮮やかに
着色させるためです。その
代わり、
糖度は
下がり、
味は
確実に
落ちます。このような
特異な
国産技術は、
多かれ
少なかれほとんどあらゆる
果樹で
見られますが、
特にリンゴで
目立ちます。
これらの
キメ細かな
技術は、リンゴをおいしくするためでなく、ひたすら
美しく
色づかせる
目的で
開発されてきました。
人工着色などは、ふつうなら
人気品種をうまく
作れない
土地でも
美しく
色づかせるために
編み
出された
苦しまぎれの
技術で、
確かに
購買意欲をそそるような
見事に
美しいリンゴが
生まれます。もちろん
味はがた
落ちで、
作っている
生産者自身が
食べないようなこんなリンゴを、
消費者が
何度もだまされて
買うとはとても
思えません。
さすがにこうした
味を
悪くする
技術は
県の
指導もあってすたれる
傾向にありますが、
一体この
日本特有の
現象はだれが
悪いのでしょうか。
美しくなければ
買わない
消費者が
悪い、
外観重視で
値段をたたく
流通機構に
問題がある、まずくなるのを
承知でやっている
生産者が
悪い……
意見はさまざまでしょうが、はっきりしているのは、この
奇妙な
日本人の
美意識には、いささかの
軌道修正の
必要があることです。
長文 2.4週
保吉の
海を
知ったのは
五歳か
六歳の
頃である。もっとも
海とはいうものの、
万里の
大洋を
知ったのではない。ただ
大森の
海岸に
狭苦しい
東京湾を
知ったのである。しかし
狭苦しい
東京湾も
当時の
保吉には
驚異だった。
奈良朝の
歌人は
海に
寄せる
恋を「
大船の
香取の
海に
碇おろしいかなる
人かもの
思わざらん」と
歌った。
保吉はもちろん
恋も
知らず、
万葉集の
歌などというものはなおさら
一つも
知らなかった。が、
日の
光に
煙った
海の
何か
妙にもの
悲しい
神秘を
感じさせたのは
事実である。
彼は
海へ
張り
出した
葭簾張りの
茶屋の
手すりにいつまでも
海を
眺めつづけた。
海は
白じろと
赫いた
帆かけ
船を
何艘も
浮かべている。
長い
煙を
空へ
引いた
二本のマストの
汽船も
浮かべている。
翼の
長い
一群の
鴎はちょうど
猫のように
啼きかわしながら、
海面を
斜めに
飛んで
行った。あの
船や
鴎はどこから
来、どこへ
行ってしまうのであろう?
海はただ
幾重かの
海苔粗朶の
向こうに
青あおと
煙っているばかりである。……
けれども
海の
不可思議をいっそう
鮮やかに
感じたのは
裸になった
父や
叔父と
遠浅の
渚へ
下りた
時である。
保吉は
初め
砂の
上へ
静かに
寄せてくるさざ
波を
怖れた。が、それは
父や
叔父と
海の
中へはいりかけたほんの
二、
三分の
感情だった。その
後の
彼はさざ
波はもちろん、あらゆる
海の
幸を
享楽した。
茶屋の
手すりに
眺めていた
海はどこか
見知らぬ
顔のように、
珍しいと
同時に
無気味だった。――しかし
干潟に
立って
見る
海は
大きい
玩具箱と
同じことである。
玩具箱!
彼は
実際神のように
海という
世界を
玩具にした。
蟹や
寄生貝は
眩い
干潟を
右往左往に
歩いている。
浪は
今彼の
前へ
一ふさの
海草を
運んできた。あの
喇叭に
似ているのもやはり
法螺貝というのであろうか? この
砂の
中に
隠れているのは
浅蜊という
貝に
違いない。……
保吉の
享楽は
壮大だった。けれどもこういう
享楽の
中にも
多少の
寂しさのなかった
訳ではない。
彼は
従来海の
色を
青いものと
信じていた。
両国の「
大平」に
売っている
月耕や
年方の
錦絵をはじめ、
当時流行の
石版画の
海はいずれも
同じようにまっ
青だった。
殊に
縁日の「からくり」の
見せる
黄海の
海戦の
光景などは
黄海というのにも
関わらず、
毒々しいほど
青い
浪に
白い
浪がしらを
躍らせていた。しかし
目前の
海の
色は――なるほど
目前の
海の
色も
沖だけは
青あおと
煙っている。が、
渚に
近い
海は
少しも
青い
色を
帯びていない。
正にぬかるみのたまり
水と
選ぶところのない
泥色をしている。いや、ぬかるみのたまり
水よりもいっそう
鮮やかな
代赭色をしている。
彼はこの
代赭色の
海に
予期を
裏切られた
寂しさを
感じた。しかしまた
同時に
勇敢にも
残酷な
現実を
承認した。
海を
青いと
考えるのは
沖だけ
見た
大人の
誤りである。これは
誰でも
彼のように
海水浴をしさえすれば、
異存のない
真理に
違いない。
海は
実は
代赭色をしている。バケツの
錆に
似た
代赭色をしている。
三十年前の
保吉の
態度は
三十年後の
保吉にもそのまま
当て
嵌まる
態度である。
代赭色の
海を
承認するのは
一刻も
早いのに
越したことはない。かつまたこの
代赭色の
海を
青い
海に
変えようとするのは
所詮徒労に畢るだけである。それよりも
代赭色の
海の
渚に
美しい
貝を
発見しよう。
海もそのうちには
沖のように
一面に
青あおとなるかも
知れない。が、
将来に
憧れるよりもむしろ
現在に
安住しよう。――
保吉は
預言者的精神に
富んだ
二、
三の
友人を
尊敬しながら、しかもなお
心の
一番底にはあいかわらずひとりこう
思っている。
大森の
海から
帰った
後、
母はどこかへ
行った
帰りに「
日本昔噺」の
中にある「
浦島太郎」を
買ってきてくれた。こういうお
伽噺を
読んで
貰うことの
楽しみだったのはもちろんである。が、
彼はその
外にももう
一つ
楽しみを
持ち
合わせていた。それはあり
合わせの
水絵の
具に
一々挿絵を
彩ることだった。
彼はこの「
浦島太郎」にもさっそく
彩色を
加えることにした。「
浦島太郎」は
一冊の
中に
十ばかりの
挿絵を
含んでいる。
彼はまず
浦島太郎の
籠宮を
去るの
図を
彩りはじめた。
籠宮は
緑の
屋根亙に
赤い
柱のある
宮殿である。
乙姫は――
彼はちょっと
考えた
後、
乙姫もやはり
衣裳だけは
一面に
赤い
色を
塗ることにした。
浦島太郎は
考えずとも
好い。
漁夫の
着物は
濃い
藍色、
腰蓑は
薄い
黄色である。ただ
細い
釣り
竿にずっと
黄色をなするのは
存外彼にはむずかしかった。
蓑亀も
毛だけを
緑に
塗るのはなかなかなまやさしい
仕事ではない。
最後に
海は
代赭色である。バケツの
錆に
似た
代赭色である。――
保吉はこういう
色彩の
調和に
芸術家らしい
満足を
感じた。
殊に
乙姫や
浦島太郎の
顔へ
薄赤い
色を
加えたのは
頗る
生動の
趣でも
伝えたもののように
信じていた。
保吉はそうそう
母のところへ
彼の
作品を
見せに
行った。
何か
縫いものをしていた
母は
老眼鏡の
額越しに
挿絵の
彩色へ
目を
移した。
彼は
当然母の
口から
褒め
言葉の
出るのを
予期していた。しかし
母はこの
彩色にも
彼ほど
感心しないらしかった。
「
海の
色はおかしいねえ。なぜ
青い
色に
塗らなかったの?」
「だって
海はこういう
色なんだもの。」
「
代赭色の
海なんぞあるものかね。」
「
大森の
海は
代赭色じゃないの?」
「
大森の
海だってまっ
青だあね。」
「ううん、ちょうどこんな
色をしていた。」
母は
彼の
強情さ
加減に
驚嘆を
交えた
微笑を
洩らした。が、どんなに
説明しても、――いや、
癇癪を
起こして
彼の「
浦島太郎」を
引き
裂いた
後でさえ、この
疑う
余地のない
代赭色の
海だけは
信じなかった。……
(
芥川龍之介「
少年」)
長文 3.1週
【1】
僕の
目の
前に、テストの
問題用紙が
山積みされている。
教室には
誰もおらず、
僕一人。とても
静かな、
居残り
勉強の
時間である。いつもなら
頭を
抱えるか、
逃げ
出してしまいたくなるところだ。しかし、この
時の
僕はやる
気に
満ちていた。【2】なぜなら、
今まで
休ませてもらったぶん、ここでがんばろうと
決意していたからだ。
僕はつい
昨日まで、
北海道にいた。
三日間、
旅行へ
行っていたのだ。
両親が
計画したこの
旅行は、
学校のテスト
期間とぶつかってしまっていた。【3】
卒業と
進学を
控えたこの
時に、テストを
休んで
遊びに
行くなんて
言ったら、
怒られるんじゃないか……と
僕は
思っていた。けれども
担任の
先生は、
「
学校の
勉強より、
旅行の
方がずっと
良い
経験になります。ぜひ
行ってきてください。」
と
言ってくれた。【4】
僕はとても
感動した。だからこそ、
旅行から
帰った
後、テストをまとめて
受けることになっても、
嫌だなんて
感じなかったのだ。
この
旅行は
本当に
楽しく、
新鮮なことばかりだった。
飛行機に
乗るのは
初めてで、はじめは
不安もあった。【5】
墜落したらどうしよう、という
心配はもちろん、それ
以上に、
海外旅行の
経験がある
友達から「
暗いし、
混んでいるし、とても
窮屈だった」と
聞いていたからだ。
だが、
僕たちの
乗った
飛行機はビックリするくらい
空いていた。【6】
時季を
外れていたからで、
両親の
計画のうちだったらしい。ばたばたと
座席を
移動して、
色々な
方向から
雲の
下の
景色を
楽しむことができた。
昔、
母が
滑りに
行ったという
蔵王のスキー
場も
見えた。
国内の
移動だから、
二時間も
乗っていられないのが、
残念だったくらいだ。
【7】
北海道では、
最初に
摩周湖を
見た。
雪と
霧で
一面が
真っ
白、それは
綺麗だったのだが、
積もった
雪が
太陽の
光を
照り
返して、すごくまぶしかったことの
方が
忘れられない。そこで
撮った
写真では、
僕は
目を
細めて、まるでとても
機嫌が
悪いかのような
表情をしている。
【8】
他にも、アイヌ
族の
村を
見たり、
凍った
湖の
上を
歩いたり、スノーモービルに
乗ったりした。どれも、
先生の
言っていたとおり、
同じ
冬でも
東京にいたのでは
決してできない
経験ばかりだった。
気がつけば、
僕はいつも
以上にサッサッと
問題を
解いていた。【9】
一番苦手な、
算数のテストも
片付いた。
人間は、
楽しい
思い
出があるからこそ、やらなければならない
辛い
勉強にも
取り
組むことができるのだろう。あと、
机の
上に
残っているのは、
数枚の
作文用紙だけ。
最後は、「この
冬の
思い
出」という
課題の
作文テストだ。【0】
書くことはもう
決まっている。「
鉄は
熱いうちに
打て」という。
思い
出を
文章に
残すのも、きっと
早い
方がいいに
違いない。
僕は
笑顔でペンを
握り
直した。
(
言葉の
森長文作成委員会 ι)
長文 3.2週
【1】
端的にいって、
私たちは、お
話を
文学――
文学のうちでも、
文字によらず、
声によって
伝達される
文学――と
考えています。
口承文学ということばもありますが、そういうかたいことばをさけるとすれば、
文学作品を、
語り
手が、おもに
声によって
表現し、それを
聞き
手ともども
楽しむことだといってもよいでしょう。【2】ですから、たとえば
交差点の
正しい
渡り
方を
教えるためのお
話、あるいは、
幼稚園などでよくやるような、
集団生活のルールを
教えたり、
衛生上のしつけをするために
聞かせるお
話など、
何かを
教える
方便としてのお
話は、ここでは
一応のぞいて
考えます。
母親や
教師が、
自分の
見聞きしたこと
感じ
考えたことを
話すのも
同じです。【3】これらの
話は、
子どもにたいへん
喜ばれますし、
子どもとの
気持ちの
交流という
点からいうと
非常に
貴重ですが、
内容や
表現が
吟味され、
個人的なつながりをもっている
人だけでなく、もっと
一般に
通用する
文学的な
価値をもつ
場合を
除いて、ここでいうお
話には
含めません。
【4】したがって、ここで
扱うお
話は、
話そのものに
文学的な
価値があることを
前提とします。この
文学的価値ということは、たいへんむつかしい
問題で、
論じだせばきりがありませんが、ここでは、ひとまず、
文学的に
価値のある
作品とは、「
私たちの
心を
楽しませ、
人間についての
私たちの
理解を
助けてくれるもの」と、
表現しておきましょう。【5】そして、この「
心を
楽しませる」ことの
中には、
内容だけでなく、その
表現の
形式からくる
美しさが、
私たちの
心を
楽しませることが
含まれていることを、とくに
指摘しておきたいと
思います。
【6】さて、ではそういう
作品をどこに
求めるかということになりますと、
具体的には
昔話と
創作(
主として
子ども
向きの
短編)ということになります。そして、
語るという
点からいえば、このうち、とくに
昔話が
重要になってきます。【7】
昔話は、なんといっても
本来語りつたえられてきたものなので、
語って
聞かせる
話のそなえていなければならない
基本的な
条件を
満たしているからです。【8】また、
昔話は、
一般大衆の
文学でしたから、とり
扱うテーマは、
普遍的、
根源的ですし、その
表現形式は、
簡潔でそぼくな
心の
持ち
主にもよくわかるようになっています。つまり、
今日の
子どもの
興味や
心理や
理解能力によく
合うのです。【9】
昔話が、
今日では、もっぱら
子どものための
文学になっているのはこのためでしょう。
昔話の
中には、
単に
語ることから
生じた
表現の
形式や
民衆の
文学であることからくる
内容の
普遍性ということだけでなく、
何かもっと
大きな
力がかくされているような
気がしてなりません。【0】
昔話は、
文学のもとの
形といってよいものですから、そこには、
人間が
物語を
生み
出し、それを
支えてきた
心の
動きや
力のもとが
内蔵されています。
昔話のもつこのふしぎな
力の
本質を
解き
明かすことは、
私にはとうていできませんが、
子どもの
時代に、
少しも
昔話にふれることなく
育ったら、
文学を
味わい
楽しむために
必要な、
何か
非常に
大切な
要素が
欠けおちてしまうのではないか、とだけはいうことができます。
語り
手としても、もし、よい
語り
手になりたいと
願うなら、たえず
昔話にふれている
必要があると
私は
思います。それは、
単に、そこから
話の
材料が
得られるからというだけでなく、
昔話に
親しむことによって、「
物語」やそれを「
語る」ことの
意味が
少しずつわかってくるように
思えるからです。お
話に
興味をもつ
者にとっては、
昔話は、たえずそこに
自分をうるおしにかえっていかなければならない
泉のようなものだと
思います。
長文 3.3週
【1】
私が
市場へゆく
道は、いかにも
自然発生的な
細いやさしい
道だ。
家と
家との
間に
何となく
作られた
人間のふみならした
道だ。ところが、その
道は
最近アスファルトがしかれてしまった。
夏の
日など、かごを
下げて
歩いてみると、いかにもむんむんして
照りかえしがきつい。それに
何ともふぜいがなくなった。
【2】
私は
舗装されたのを
残念に
思った。
新たに
作った
高速道路のようなものならまことにりっぱな
舗装があってしかるべきだと
思う。しかしほとんど
車も
通らない
昔ながらの
通り
路のようなものまで
舗装する
必要は
果たしてあるのだろうか。【3】いちおう
石ころで
足裏がごろごろすることもなくて
歩きやすいようではあるが、
幅一メートルありやなしやのこんな
細道がべタッと
黒くアスファルトを
塗られているのはいたましくさえある。
弱いはだにこってりドーラン(おしろいの
一種)をぬって
皮膚呼吸をふさいでしまった
感じがする。
【4】
私がこどものころはいていた
皮靴は、たいていどれもこれも
爪さきがけばだっていた。
石けりをしながら
歩くせいだ。これときめた
小石を、
小さくけりつづけながら
学校へゆき
家に
帰る。
車の
心配などほとんどせず、けとばした
石のゆくてのまにまに、よろけながら
歩くのである。【5】いま、こんなことをしたら、それはもういっぺんに
車にひかれてしまうが、
昔はそんなことをしながらにぎやかにこどもは
道を
歩いた。
道にはいろいろなものがあった。しゃれた
石、
虫の
死がい、
雑草の
可憐な
花、ラムネびんの
破片、
石炭のかけら、
鳥の
羽。【6】そんなものにいちいち
心をとめながら、ゆっくりとこどもは
楽しみながら
歩くのであった。
舗装された
道にはそんな、
手にとりたいようなものは
何にもないのだ。
最近ある
方から
石を
一ついただいた。【7】ダイヤモンドやルビーでもない、また
当然石ブームでさわがれる
菊石とか
赤石とかのしろものでもない。
平べったい
薄茶色の
石で、
手のひらに
軽く
乗る
大きさ、
重さである。
ただおもしろいのは、
全体にキララ(
光る
鉱物の
一種)が
入っていることで、
光を
受けて
小さく
一せいにまたたく。【8】
太陽にあてると
楽しいですと
言われて、
私は
日の
光にも、また
月の
光にも
照らしてみた。チカチカとかわいらしくきらめくのをみると、いわゆる
童話の
世界のおもむきがある。その
人は、
道で
拾いましたと
言った。どんな
道だろう。【9】ゆたかな
気持ちで、ものみなすべてにいとしみを
感じながら
歩く
土の
道にちがいない。
無味乾燥なアスファルト
道路、
車が
通るだけのための
道にはこんな
石はないのだ。
もちろん
舗装された
道も
場合によっては
大切である。【0】ほこりをあびせかけられる
街道筋の
家などは
気の
毒で
見られない。
一刻も
早く
舗装しなければ、
道すじの
家は
窓も
開けられない。だが、
道が
一番道らしいのは、
人間のくらしをあたたかに
支え、いろいろなものを
発見することのできるふみしめられた
道である。この
事だけは
忘れてはならないのだ。
長文 3.4週
オーストラリアのヨーク
半島のつけね、
西側にいたイル=イヨロント
族の
変化を
見てみます。
かれらは
食料採集民で、
狩りをしたり
木の
実を
集めたりという
生活をしていました。かれらにとっても
石斧は
男のものでした。
奥さんや
子供が
借りることはできましたけれど、
借りるとき、
返すときのあいさつは、
夫は
妻に、
父は
子に
優位に
立っていることを
確かめる
機会でした。そこへ
白人がやってきて、
鉄の
斧が
入ってきました。イル=イヨロント
族の
人びとが
白人の
手助けをすると、その
代償として
鉄の
斧をくれたりします。ときには、
奥さんが
鉄の
斧をもらうことがあります。
夫のほうは
石の
斧しかもっていないのに、
奥さんが
鉄の
斧をもっていることになります。そうすると、「すまんけど、おまえの
鉄の
斧を
貸してくれ」ということもおきてきます。これが
石が
鉄に
代わったことでおきたさまざまな
結果の
一つです。
もっと
重要なことは、イル=イヨロント
族が
浮いた
時間をどう
使ったかということです。この
点にいま
私は
大きな
関心をもっています。
浮いた
時間を
使って、なんとかれらは
昼ねをしたのです。
私はじつは、その
部分を
読んだときに
吹き
出してしまいました。この
笑いには
軽蔑の
意味もふくまれていたと
思うのです。ところが、
私のこの
感想はじつはまちがっていた、といまは
思っています。
二千年前、
日本ではどうだったでしょうか。
石から
鉄へと
変わってきたときに、
弥生人はおそらく
浮いた
時間で
宴会に
出席することも、
昼寝をすることもしませんでした。
石から
鉄への
変化を、
生産力の
飛躍的な
増大につなげたのです。いままで
石の
斧が
一本倒している
時間で、
四本倒すというぐあいに、すごく
生産力を
高めたのです。
四世紀、
六世紀(
古墳時代)の
農民が
働き
者だったことは、
群馬県で
火山の
噴火や
洪水の
直後に
復旧工事にとりくんだ
証拠からわかっています。また、
日本の
農業が
草をとればとるほど、よい
収穫を
約束される
農業であることから、
弥生農民が
働き
者だったことを、
私は
予測しています。
パプア=ニューギニアやオーストラリアでは
浮いた
時間を
遊びに
使ったのに、
日本では
労働に
使ったということで、
日本人は
勤勉だと
先祖をほめたたえるつもりか、と
思われるかもしれません。そうではありません。
道具や
技術は、
毎年のようにどんどんすぐれたものになっていきます。なんのためだと
思いますか。
質問すると、すこしでも
楽になるようにとか、
効率がよくなるようにとか、
企業がもうけるためだとかいう
答えがよくもどってきます。しかし、
結果から
見ると、
私はそうではない
面もあると
思うのです。
じつは、
私たちを
忙しくするために
道具や
技術は
発達してきているのではないでしょうか。それまで
十時間かかったところを、
三時間で
行くことができるようになったとします。
浮いた
七時間をどう
使うかと
考えてみると、ほかの
仕事をしているのです。
すくなくともつい
最近までは、
歩いている
時間とか
車に
乗っている
時間はボケーッとしていることができました。あるいは
空想にふけることができました。しかし、いまや
携帯電話ができたのです。
歩いていても、
車に
乗っていても、いつ
電話がかかてくるかわかりません。
相手からだけでなくて、
自分からもかけます。なにもそんなときまでと
思うのですが、そんな
大人たちが
増えています。
私たちは、
技術や
道具の
発達は
自分たちを
解放するためだと
思っていますが、じつは
大きな
誤解で、
自分たちを
忙しくするために
技術や
道具が
発達している
面もあるのではないかと
思うのです。そこで
私は
思うのです。オーストラリアのイル=イヨロント
族が
浮いた
時間を
寝たというのは、
正解だ、と。
多田道太郎さんは、つぎのようなことを
私に
語ってくれました。
『
日本には「
休む」とか「
怠ける」ということばがあるけれども、みんな
悪い
意味で
使われている。しかし、
私たちは、むしろ
強制されたことはなにもしないという
状況に
自分をおくことがたいせつだ。そういう
状況のなかで、
自由にしたいことをする、それが
遊びだ。』
多田さんのいうことのなかに、
私にとってひじょうに
重要なことがふくまれていました。それは、
強制されている
状況からは
空想力がはばたくはずがない、
休んではじめて
人間の
構想力とか
空想力がはばたくのだということです。
働きづめに
働いていると、そのあげくに
出てくることは、しょせんたいしたことはないのだということです。
空想力は
想像力とおきかえてもいい。アインシュタインが
知識よりも
想像力のほうがずっとたいせつだ、といっていることを
思いだします。
たしかに
日本人は
働きすぎると
思います。
私たちはもうすこし
余裕をもって、いい
意味での
怠惰の
精神、
遊びの
精神で
生きていくべきではないでしょうか。これをなによりもまず
自分自身にいいたいと
思います。もっと
余裕をもって、
遊びをもって
生きていったらいいのではないか、それをイル=イヨロント
族に
学びたいという
思いなのです。
(
佐原真「
遺跡が
語る
日本人のくらし」)