(Translated by https://www.hiragana.jp/)
課題集
長文ちょうぶん 1.1しゅう
 【1】わたしいえでは、大晦日おおみそかふたつの「除夜じょやおと」がこえる。ひとつは除夜じょやかね、もうひとつは「除夜じょや汽笛きてき」だ。わたし横浜よこはまんでいて、いえ高台たかだいにある。【2】だから年末ねんまつには、近所きんじょてらからひびく「ゴォーン、ゴォーン」というかねおとと、みなとらされる「ブォーウ、ブォーウ」という汽笛きてきおとこえてくるのだ。ベランダにて、そんなふたつのおとみみかたむけるのが、毎年まいとしわたしのひそかなたのしみである。
 【3】大晦日おおみそかよる空気くうきは、いつもとちがう。普段ふだんなら「うう、さむさむい、はやくこたつにはいりたい」とおもうだけなのだが、このばかりはそのさむさが、しんめてくれるかんじがする。【4】ながかったいちねんわろうとしていることを、実感じっかんするからかもしれない。
 ある友達ともだち毎年まいとし大晦日おおみそかにはアイドルのカウントダウンコンサートにっているらしい。しかも、おねえさんやおかあさんまで一緒いっしょだというからおどろきだ。【5】そしてよるおそくまでひらいているおみせで、豪華ごうか外食がいしょくをしてかえってくるのだという。それはそれでたいへんにぎやかで、たのしそうだとおもう。しかしわたしにとっては、そういう大晦日おおみそかはなんだかかない。【6】どこかにかけるわけでも、なにかをするわけでもなく、しずかにごしたいとおもうのだ。食事しょくじだって年越としこしそばで満足まんぞくである。
 これもいたはなしだが、大晦日おおみそかにそばをべるのは「ほそながく」きていけるように、つまり来年らいねんも「おおきな波乱はらんなく、平穏へいおんらせますように」という意味いみがあるのだという。【7】はは手作てづくりのそばをすすっていると、わたしもまさにそんな気分きぶんになる。
 どのようにごすかは、ひとそれぞれだ。しかし人間にんげんにとって、大晦日おおみそか特別とくべつであることにちがいはない。友達ともだちは「大晦日おおみそかぐらい、時間じかんわすれて大騒おおさわぎしたい」とっていた。【8】わたしぎゃくに、「大晦日おおみそかぐらい、時間じかんぎるのを大切たいせつかんじたい」とかんがえている。そうやって、新年しんねんむかえるしん準備じゅんびができるのは、大晦日おおみそかといういちにちだけではないだろうか。「てば海路かいろ日和ひよりあり」というが、「歳月さいげつじんたず」ともいう。【9】たのしいお正月しょうがつがやってくるが、のんびりしてばかりはいられない。
 いちねんろうとする、大晦日おおみそかよる除夜じょや汽笛きてきみみにするたび、わたし背中せなかされるような、前向まえむきな気持きもちになる。勇気ゆうきって、あたらしいいちねんへと「出航しゅっこう」していこう。【0】

言葉ことばもり長文ちょうぶん作成さくせい委員いいんかい ιいおた


長文ちょうぶん 1.2しゅう
 【1】テレビが普及ふきゅうして、映画えいがひとすくなくなったというのはほんとうです。「視聴覚しちょうかく文化ぶんか」が盛大せいだいにおもむき、ほんひとすくなくなるだろう、というのは、どうもほんとうらしくありません――ということは、およそ常識じょうしきからもさっせられるでしょう。
 【2】娯楽ごらくとしてのテレビと映画えいがとはたいへんよくています。るほうがで、すわっていれば画面がめんのほうがこちらを適当てきとう料理りょうりしてくれます。それほどているから、どちらか一方いっぽうでたくさんだというかんがえのおこるのもむしろ当然とうぜんのことでしょう。【3】ところがほんむのにはいくらかがわ努力どりょくがいります。またはやさをこちらが加減かげんすることもできるし、つまらぬところをはぶくこともできる。おもしろいところをむこともできるし、むかしのひとったようにしばらくまきかんをおいて長嘆ちょうたんいきちょうたんそくすることもできます。【4】そういうほんをよみながらできることは、映画えいがやテレビを見物けんぶつしながらは、どうしてもできません。ようするにほんむときのほうが、がわ自由じゆうおおきい、自分じぶん意志いし努力どりょくめることのできる範囲はんいひろい、つまり態度たいど積極せっきょくてきだということになるでしょう。
 【5】「今日きょうつかれたから、映画えいがでもようか」とはいいますが、「つかれたからほんでももうか」というひとがあまりいないのはそのためであり、そもそも読書どくしょほうということはりたっても、映画えいが・テレビ見物けんぶつほうということが意味いみをなさないのもそのためです。【6】一方いっぽうのたのしみ、他方たほう積極せっきょくてきなたのしみで、のたのしみがえるということは、かならずしも積極せっきょくてきなたのしみをもとめなくなるということではありません。娯楽ごらく性質せいしつがまったくちがうから、いわゆる視聴覚しちょうかく文化ぶんか」または「娯楽ごらく」は、読書どくしょのたのしみをさまたげるものではないでしょう。
 【7】しかしテレビには娯楽ごらく番組ばんぐみのほかに、いくらか知的ちてき好奇心こうきしん刺激しげきする番組ばんぐみもあります。たとえば憲法けんぽうについての座談ざだんかいとか、ダム建設けんせつ工事こうじ現場げんば写真しゃしんとかいったものが「憲法けんぽう」や「ダム建設けんせつ」にたいする好奇心こうきしん刺激しげきします。【8】しかし、その好奇心こうきしん十分じゅうぶん満足まんぞくさせるようなまとまった知識ちしきあたえてくれることは、ほとんどありません。そこで「憲法けんぽう」にかんしまた「ダム建設けんせつ」にかんして、まとまった知識ちしき読書どくしょによってようという欲求よっきゅうがおこっても、ふしぎではない。【9】そうなればテレビは、読書どくしょさまたげないばかりでなく、むしろ助長じょちょうするようにはたらくということになりましょう。すくなくともそういういちめんがありうるとおもいます。
 あたらしいはわからないというひとがよくあります。【0】あたらしいというのは、抽象ちゅうしょう絵画かいがのことでしょう。よくわからないというのは、その本来ほんらいさかなえがいたものか、女性じょせいえがいたものかわからないという意味いみでしょう。それならば、あたらしいはわかる必要ひつようのないものです。(中略ちゅうりゃく)しかし、ほんむということになると、これはどうしてもわからなければ無意味むいみです。さかなのことをっているのか、女性じょせいのことをっているのかわからなくてはどうにもなりません。すくなくとも、あるしゅ美術びじゅつはわかる必要ひつようのないものです。音楽おんがくおな意味いみではなにものも表現ひょうげんしていないので、そもそもわかるはずがない。読書どくしょだけがることや音楽おんがくくこととちがうのです。すべてのほん言葉ことばからできあがっていて、すべての言葉ことばはなにかを意味いみします。その意味いみをとらえて、意味いみ相互そうごのあいだの関係かんけい理解りかいすることが、ほんほう、つまりほんをよくわかることでしょう。むこととわかることとははなせません。
 しかし、なかにはむずかしいほんがあります。どうすればたくさんのほんんで、いつもそれをわかることができるようになるでしょうか。その方法ほうほう簡単かんたんです。しかし、おそらく読書どくしょにおいてもっとも大切たいせつなことのひとつです。すなわち、自分じぶんのわからないほんはいっさいまないということ、そうすれば、えずほんみながら、どのほんもよくわかることができます。すこしページをめくってみてあるいはすこみかけてみて、かんがえてもわかりそうもないほんまないことにするのが賢明けんめいでしょう。いちさつほんがわからないということ、ただそれだけでは、あなたがわるいということにもならず、またそのほんわるいということにもならない。これはよく心得こころえておくべきことで、そのことさえ十分じゅうぶん心得こころえていれば無用むよう努力どりょく無用むよう虚栄きょえいしん、または無用むよう劣等れっとうかんをはぶき、時間じかんのむだをはぶくことができるでしょう。だれにもわかりにくいほんというのがあります。わたしにはわかりにくいけれども、ほかのひとにはわかりやすいほんというのがあります。また最後さいごに、だれにもわかりやすいほんというものがあるでしょう。
 (加藤かとう周一しゅういち読書どくしょじゅつ」より)


長文ちょうぶん 1.3しゅう
 【1】まさかソフィーは、世界せかいをわかりきったものだとおもっているひと仲間なかまではないよね? これはわたしにとって切実せつじつ問題もんだいなのです、親愛しんあいなるソフィー。だからねんのため、想像そうぞうのなかでふたつ、体験たいけんをしてみましょう。
 【2】さあ、想像そうぞうしてみて。ソフィーはもり散歩さんぽしています。突然とつぜんちいさな宇宙船うちゅうせんつけます。宇宙船うちゅうせんうえには一人ひとりちいさな火星かせいじんがよじのぼってソフィーをじっとおろしている……。
 さあ、そんなとき、ソフィーならなにかんがえるだろう? 【3】まあ、それはどうでもいいとして。でも、自分じぶんほしじんみたいにかんじたことはない?
 ほかの惑星わくせい生物せいぶつにでくわすなんて、そんなにありそうなことではない。ほかの惑星わくせい生命せいめい存在そんざいするかどうかもわからないし。【4】けれども、ソフィーがソフィー自身じしんにでくわす、ということはあるかもしれない。あるれた、ソフィーがソフィー自身じしんをまったくあたらしく体験たいけんしてはっとする、ということは。ちょうどもり散歩さんぽしているときなんかにね。
 【5】わたしっておかしなもの、とソフィーはかんがえる。わたしはなぞめいたもの、と……。
 ソフィーはまるでなんねんもつづいたいばらひめねむりから目覚めざめたようにかんじる。わたしはだれ? ソフィーはたずねる。ソフィーは自分じぶん宇宙うちゅうのある惑星わくせいうえをごそごそうごきまわっているということはっている。【6】でも宇宙うちゅうとはなんだろう? なんであるのだろう? 
 もしもソフィーがこんな自分じぶんがついたなら、ソフィーは自分じぶん自身じしんをさっきの火星かせいじんおなじくらいなぞめいたものとして発見はっけんしたことになるのです。いえ、宇宙うちゅうからやってきたものをてびっくりするほうが、まだましなくらいだ。【7】ソフィーはソフィー自身じしんをとびきりおかしなものとして、とっくりとふかかんじるのです。
 わたしのはなしについてきている? ソフィー。もうひと想像そうぞう体験たいけんをしますよ。
 あるあさ、パパとママとちいさなトーマスが、そう、ふたつかみっつのおとこです、キッチンで朝食ちょうしょくべている。【8】ママがちあがり、ながだいのほうにく、するとそう、突然とつぜんパパが天井てんじょうちかくまでふわっとかびあがる。
 トーマスはなんてったとおもう? たぶんパパをゆびさして、「パパがんでる!」とうでしょう。
 もちろんトーマスはびっくりだけど、どうせトーマスはいつもびっくりしています。【9】パパはいろいろおかしなことをするから、ちょっとばかり朝食ちょうしょくのテーブルのうえぶなんて、トーマスのにはべつにたいしたことにはうつらない。パパは毎日まいにちへんてこな機械きかいでひげをそるし、しょっちゅう屋根やねのぼって、テレビのアンテナをあちこちひんげる。【0】かとおもうと、自動車じどうしゃくびをつっこんで、カラスみたいにまっくろになっててくる。
 さて、こんどはママのばんです。ママはトーマスのこえに、何気なにげなくふりかえる。ソフィーは、キッチンのテーブルのうえびまわるパパをて、ママがどう反応はんのうするとおもう?
 ママのからジャムのガラスビンがち、ママはびっくり仰天ぎょうてんしてけたたましくさけびます。パパがいすにもどったあと、ひょっとしたらママは医者いしゃてもらわなければならないかもしれない。(パパがテーブルマナーをまもらなかったばっかりに、とんだ大騒おおさわぎだ。)
 どうしてトーマスとママの反応はんのうはこんなにちがうのかな? ソフィーはどうおもう?
 これは「習慣しゅうかん」の問題もんだいです。(このことば、メモして!)ママは人間にんげんべないということをとっくにまなんでいる。トーマスはまなんでいない。トーマスはまだ、この世界せかいではなにがありでなにがありではないか、よくらない。
 でもソフィー、この世界せかいそのものは、どうなっているんだったっけ? こんな世界せかいはありかな? 世界せかいもパパのように宇宙うちゅう空間くうかんにふわふわとただよっているんじゃなかったっけ……。
 かなしいことに、わたしたちはおとなになるにつれ、重力じゅうりょく法則ほうそくになれっこになるだけではない。世界せかいそのものになれっこになってしまうのです。
 わたしたちはどものうちに、この世界せかいおどろ能力のうりょくうしなってしまうらしい。それによって、わたしたちは大切たいせつなにかをうしなう。


長文ちょうぶん 1.4しゅう
 じゅうねんほどまえ、ボルドーのちかくをはしっていて、くるまの接触せっしょく事故じこをおこしたことがある。人身じんしんにはなん影響えいきょうもなかったし、こちらの日本にっぽんせい車体しゃたいがへこんだくらいで、なん日本にっぽんのくるまはよわいんだといまいましいくらいのものであったが、――それにこちらにもいいぶんがあり、相手あいてにも幾分いくぶんがあったのだが――。
 それでもくちをついてたのは「すみません」ということばであった。相手あいて朴訥ぼくとつ農民のうみん夫婦ふうふで「はじめてパリへって無事故むじこかえってきたのに……」と愚痴ぐちをさんざんならべていた。
 しばらくして「しまった」とおもった。「すみません」とは、あやまり文句もんくである。こちらがあやまってしまえばもうそれでおしまい。はすべて当方とうほうがかぶらねばならない。
 そのことは、フランスへて、くどくわれていたのだ。問題もんだいをおこしたら、ぜったいにあやまってはいけない。こちらの責任せきにんがいくら明白めいはくなときでも、まず「なんじなんじとがめとがガアル」(?ous avez tort.)とうべきである。そうでないと、賠償ばいしょう責任せきにんはすべてこちらがわねばならぬ。「すみません」とはくちけても(――はちとおおげさだが)ってはならぬ。自動車じどうしゃ保険ほけん契約けいやく注意ちゅういしょにさえ「事故じこのときにあやまってはならぬ」といてある。にもかかわらず、日本人にっぽんじんであるわたしはつい「すみません」とってしまった。習慣しゅうかんはおそろしいものである。
 リリアーヌ・エルという女性じょせいは「あやまるということ」(『しおうしお昭和しょうわじゅうさんねんよんがつごう)というエッセイのなかで、にちふつ比較ひかく文化ぶんかのおもしろい観点かんてんしている。日本人にっぽんじん簡単かんたんにあやまる。フランスじんはなかなかあやまらない。どうしてか、という問題もんだいである。彼女かのじょいているれいは、仲間なかま裏切うらぎったやくざが、のちに仲間なかまにリンチをけるというテレビドラマの場面ばめんである。彼女かのじょおな状況じょうきょうえがいたドラマを日本にっぽんとフランスでた。状況じょうきょう結果けっかはまったくおなじである。どちらも、見下みさげたやつとして仲間なかまに憐まれ、ゆるされる。ところが、その過程かていの、憐みを文句もんくがちがう。日本にっぽんだと「わるかった! ゆるしてくれ」とい、フランスだと「おれがわるいんじゃない! ころさないでくれ」とう。まるでせい反対はんたいである。
 ここでわたしいたいのは、フランスでの「自分じぶんわるかった」ということばのおもみである。かみまえ自己じこぜん人格じんかく否認ひにんするということ、それが自分じぶんあくをみとめるということである。これは勇気ゆうきある行為こういである。もし、やくざがそんな勇気ゆうきある行為こういしめせば、ひとかれ尊敬そんけいし、そして簡単かんたんころしてしまうだろう。憐みをうたことにはならないのだ。憐みを場合ばあいは、状況じょうきょうわるかったとくどくどと弁解べんかいしなければならないのだ。
 日本にっぽんではちょうどぎゃくである。弁解べんかいすれば、憐みはかけてもらえぬ。弁解べんかい理屈りくつであり、理屈りくつ卑怯ひきょうである。ただ一言ひとことわるかったとあやまる。このあたまげるというのが、日本にっぽん社会しゃかいでゆるしのえられる唯一ゆいいつ行為こういである。
 「わるかった」とっても、日本にっぽんでは勇気ゆうきある行為こういとはいえない。みんな、いつでも「わるかった」とあやまる。つまり社会しゃかいてき定型ていけいである。ひとは、定型ていけいによって憐みをもとめ、定型ていけいによって憐みをあたえる。ものっているのは、文化ぶんかかたである。
中略ちゅうりゃく
 絶対ぜったいつみというものはない。しかし、おたがいにちいさなあくちいさな迷惑めいわくをかけあっている。それは無意識むいしき領域りょういきにちらばっているので、いちいちとりたててはえないくらいである。だから、たえず「すみません」とう。「すみませんでむか」とわれればそのとおり、といった重大じゅうだい場面ばめんでは、「ではどうすればむのですか、あなたの気持きもちのむようになさってください」という「すみません」の語源ごげんせまるような科白せりふせりふてくる。もっとも「どうすればむのか」という反問はんもんじたい、あやまる文化ぶんかかたにそむいている。これは日本にっぽんでは反抗はんこうであり皮肉ひにくである。
 というわけで、もっぱらわたしたちはこしひくくしている。日本にっぽん文化ぶんかかたになじんだ外国がいこくじんのなかには、こしを――というよりをかがめて愛想あいそわらいをふりまくひともいる。いつだったか、約束やくそくをたがえた外国がいこくじんがおり、その人物じんぶつつぎわたしったとき、かれは「日本にっぽんふう」に海老えびのようにまげ、謝罪しゃざいしたものである。その極端きょくたん姿勢しせいにおどろいた。わたしたちは、外国がいこくじんというかがみうつった自分じぶんたちの文化ぶんか姿すがたにおどろくのである。

 エルさんはフランスじん論理ろんりきには、ふたつの種類しゅるいがあるという。客観きゃっかんてき普遍ふへんてき論理ろんりと、もうひとつは、自分じぶん立場たちばをあくまで正当せいとうしようとする論理ろんりへきと、である。後者こうしゃの、いわばフランスじんくせのようなものが前者ぜんしゃかたちづくり、前者ぜんしゃぎゃくに、後者こうしゃくせ助長じょちょうするということがあるのだろう。
 とりあえずあやまるという日本にっぽん文化ぶんかには、ひとひととのつながりをなめらかにするという普遍ふへんてき知恵ちえつうじるものがある。同時どうじに、なんでも「すみません」でとおそうとするあつかましさもある。むとかまないとか――そんなことを意識いしきしないで、ともかく「すみません」とっている。感謝かんしゃでも謝罪しゃざいでもない。「すみません」というのは、あやまる文化ぶんかかたをつたえることばである。同時どうじに、安直あんちょくなことばでもある。後者こうしゃはむしろ、伝統でんとうをなしくずしにするめんがある。
 ひとつのことばをめぐって、伝統でんとうと、それをなしくずしにしようというちからと、その双方そうほうがせめぎあっているようである。
 ことばはむずかしいものである。ことばの解釈かいしゃくもむずかしいものである。外国がいこくじんは、あやまる文化ぶんか卑屈ひくつさをいだして感心かんしんしたりするが、ことは(すくなくともいまは)それほど簡単かんたんではないようにおもわれる。

多田ただ道太郎みちたろう日本語にほんご作法さほう』)


長文ちょうぶん 2.1しゅう
 【1】ぼくは、なかにあるちいさなカードをにらみつけた。そこにはぼく名前なまえと、「受験じゅけん番号ばんごう008」という文字もじ印刷いんさつしてある。そう、これは受験じゅけんひょうなのだ。といっても、学校がっこうひらかれる「受験じゅけん面接めんせつ体験たいけんかい」に使つかう、練習れんしゅうようのものである。
 【2】いよいよ中学ちゅうがく受験じゅけんせまっている。勉強べんきょうはしっかりしてきたつもりだが、面接めんせつけるのははじめての経験けいけんだ。だから練習れんしゅうとはいえ、準備じゅんび入念にゅうねんにした。「尊敬そんけいしているひとだれですか」とかれたら「ちちです」、「日課にっかはありますか」とわれたら「自習じしゅうとして読書どくしょ暗唱あんしょうつづけています」とこたえるようにめていた。
 【3】体験たいけんかい当日とうじつ廊下ろうかにたくさんの椅子いすかれ、かおをこわばらせた同級生どうきゅうせいたちがずらりとならんですわっている。一人ひとりいちにん部屋へやまれていき、自分じぶんばんえてちかづいてくる。いつも見慣みなれているはずの教室きょうしつへのくちが、別世界べっせかいへのとびらか、おおきくひらいた怪物かいぶつくちのようにおもえてきた。
 【4】そして、ぼくばんた。返事へんじをして、教室きょうしつくち一礼いちれい。「どうぞ」とわれるまでってから、しずかに椅子いすこしろし、受験じゅけんひょう提出ていしゅつする……ここまではイメージどおりだ。まえ面接めんせつかんやくとして、さんにん先生せんせいすわっている。【5】どんなむずかしい質問しつもんをされるのか……と身構みがまえていたら、なか先生せんせいこまったようにわらって、こうった。
「これは、ぎゃくだねえ。」
ハッとしてつくえうえると、「受験じゅけん番号ばんごう008」の文字もじが、ぼくほういている。受験じゅけんひょう当然とうぜん、それを面接めんせつかんけてすべきものだ。【6】ぼく緊張きんちょうのあまり、まるで漫画まんがのようなミスをしてしまったのだった。
 自分じぶんのしでかしたことが自分じぶんしんじられず、一気いっきかおあかくなる。面接めんせつでのやりとりは、いまでも「ぎゃくだねえ」以外いがいにはなにおぼえていない。【7】結局けっきょく、あまりにもかりやすい失敗しっぱいだったせいか、とくに注意ちゅういされることはなかった。とてもずかしいおもいをしてしまったが、それだけに、本番ほんばんおな間違まちがいをすることはけっしてないだろう。【8】緊張きんちょうしそうになったら「とりあえず、受験じゅけんひょうぎゃくすなよ」と過去かこ自分じぶんにいいきかせて、リラックスするつもりだ。
 人間にんげんにとって、ちぢむような緊張きんちょう体験たいけんも、たまには必要ひつようだ。そうすることで自分じぶんい、おもわぬ発見はっけんができるかもしれないからだ。
【9】「初心しょしん忘るべからず」。
 このとき緊張きんちょうわすれることなく、些細ささい失敗しっぱいわらばなしにしてしまえるように、本番ほんばんでは結果けっかのこしたい。ぼく練習れんしゅうよう受験じゅけんひょうを、つくえしにそっとしまいんだ。【0】

言葉ことばもり長文ちょうぶん作成さくせい委員いいんかい ιいおた


長文ちょうぶん 2.2しゅう
 【1】わたしいえ自動車じどうしゃがやっととおれるぐらいの路地ろじめんしている。さんねんまえまではその路地ろじは、さまざまなひと動物どうぶつ散歩道さんぽみちとして利用りようされていた。都内とないにはめずらしくほそうされていず、みちばたにはくさえていた。となり近所きんじょにはふるいえおおくて、敷地しきちからはみした樹木じゅもくしげみが路上ろじょうかげをつくった。
 【2】それだけのみちである。ながさにしていち〇〇メートル、石段いしだんしたおおきなみちる。買物かいもの主婦しゅふも、したバス停ばすていひとも、ちょっとまわみちをしてこのみちとおっていった。毎朝まいあさ定刻ていこくにつえをついてくるおじいさん、いぬれたおくさんもとおった。【3】いぬだいよろこびで所々しょしょ地面じめんはなをつけ、最後さいごあしをあげて自分じぶんであるしるしのこしていった。ネコもはしりぬけた。いちだけだがへびもはいだしてきた。わたしむすめたちは大学生だいがくせいになったいまもなつかしげにこのみちのことをはなすが、実際じっさい近所きんじょ子供こどもたちのたまりでもあった。
 【4】なにかれらをこの路地ろじきつけたのだろう。おんなちいさいおとこくさっぱっているのをわたしはよくかけた。かれらはこの路地ろじ地球ちきゅうのかけらを発見はっけんしていたのではなかったろうか。いぬたちがはなでその存在そんざいたしかめたように。
 【5】わたし自身じしんもコンクリートにはあきあきしていて、みちばたにくさえている風景ふうけいしんひそかにたのしんでいた。あるあき褐色かっしょくじゅくしたエノコログサをながめていると、となりのいえのおばあちゃんがちかづいてきた。【6】片手かたてはなばさみをっている。おばあちゃんはむかしおどりの名手めいしゅだったそうだから、背筋せすじがピンとびている。
「こんにちは。いいお天気てんきですね」
「ちょっとネコジャラシをいただきますよ。おはな材料ざいりょうに。それにしてもこんなしょえてくるなんてねえ」
とおばあちゃんは感心かんしんしている。
【7】「にさわってごらんなさいよ。気持きもちのいいこと」
「でもちかごろの子供こどもはこれでネコとあそぶなんてらないみたい」
 わたしはすっかりとなりのいえのおばあちゃんに仲間なかま意識いしきった。
 しかしほどなく人間にんげんとは矛盾むじゅんしたものであることが証明しょうめいされるできごとがこった。【8】よくはるわたしいえまえにスミレがさいた。あかるいあかむらさきのはなびるととりわけあざやかで、わたしはふまないように注意ちゅういして出入でいりした。はなるとおおきくびてよくだった。来年らいねんはもっとふえるだろう、とわたしたのしみにしていた。【9】ところがある外出がいしゅつからかえってくるとスミレがない! そういえばだしがけにおばあちゃんがほうきとちりとりをってっていたので、あいさつをわしたのだった。清潔せいけつきのおばあちゃんは、自宅じたくまえからわたしいえにかけてていねいにくさむしりをしてくださったのである。
 【0】すうねんたって路地ろじ全体ぜんたい異変いへんきた。下水道げすいどう工事こうじはじまって地面じめんがほりかえされ、くるま震動しんどう下水げすいかんがこわれぬようにしっかりとほそうされてしまったのだ。ネコジャラシにスギナ、スミレもタチイヌノフグリもそれ以来いらい路地ろじから姿すがたしてしまった。みちくるまきの道路どうろになり、地球ちきゅうのかけらではなくなってしまった。
 町中まちなか雑草ざっそうたいする人間にんげん態度たいどとき場所ばしょによってさまざまである。ハイキングにけば「みどりがいっぱいで気持きもちいいわねえ」とよろこひとも、自分じぶんにわてきた雑草ざっそう血眼ちまなこいてしまう。
 「雑草ざっそうのようにたくましい」「雑草ざっそうのように生命せいめいりょくつよい」という表現ひょうげんがほめ言葉ことばとしてよく使つかわれる。でも、「雑草ざっそうのようにかわいい」とはぜったいに使つかわれない。「あなたは雑草ざっそうはなのようですね」などとおうものなら、きゅうきゅうパーセント相手あいてをまちがいなくおこらせるにちがいない。いいかたにもよるけれど、わたしならのこりのいちパーセントの部類ぶるいはいる。


長文ちょうぶん 2.3しゅう
 【1】ヨーロッパにおけるリンゴの栽培さいばいは『創世そうせい』までさかのぼり、よんせんねんえる歴史れきしをもっています。なえ導入どうにゅうして明治めいじからはじまった日本にっぽんのそれは、ようやくひゃくねんえたばかりです。【2】ウィリアム・テルが息子むすこ頭上ずじょうのリンゴをぬいたときも、ニュートンがリンゴのちるのをたときも、グリム兄弟きょうだいが、「白雪姫しらゆきひめ」にどくリンゴをべさせたときも、日本人にっぽんじんだれもこの果物くだものりませんでした。
 【3】こうした歴史れきしちがいは、東西とうざいのリンゴのありようにおおきなをもたらしました。欧米おうべいのリンゴは大衆たいしゅうなかそだち、生食なましょくよう加工かこうよう料理りょうりよう多彩たさい用途ようとかれ、小玉こだまでも外観がいかんわるくても、あじがよければよしとするポリシーで今日きょういたっています。【4】それにたいし、日本にっぽん場合ばあいは、病気びょうき見舞みまいのぜいたくひんとして出発しゅっぱつし、生食なましょくよういちほんで、ひたすら外観がいかん重視じゅうしの「高級こうきゅう」のみちあるいてきました。こうしたながれは、リンゴが十分じゅうぶん大衆たいしゅうした今日きょうまで、わることなくつづいています。
 【5】外国がいこくたびすると一目瞭然いちもくりょうぜんですが、今日きょう日本にっぽんのリンゴほど見栄みばえのするリンゴは世界せかいのどこにもありません。また、そうした外観がいかんへの極度きょくどのこだわりは、リンゴだけではなく、日本にっぽん果樹かじゅ生産せいさん一般いっぱんてき風潮ふうちょうにすらなっています。【6】料理りょうりでもべることがについている日本人にっぽんじんにとって、よりうつくしい果物くだものべたいというのは国民こくみんせいといえるかもしれません。とくに、輸入ゆにゅう自由じゆうをひかえたいま国産こくさん果実かじつ美観びかん日本にっぽん果樹かじゅ産業さんぎょう外国がいこく果樹かじゅ産業さんぎょうから防衛ぼうえいするためのおおきなセールスポイントになることでしょう。【7】また、すべてのものは、きたないよりはきれいなほう精神せいしん衛生えいせいにいいことも否定ひていできません。
 ただ、本末転倒ほんまつてんとうなのは、しばしばあじよりも「てくれ」のほうが、「こう品質ひんしつ」の上位じょういすわっていることです。【8】外国がいこくからもの技術ぎじゅつ導入どうにゅうしてそれを独自どくじ改変かいへんし、付加ふか価値かちをつけて発展はってんさせるのは、いわば日本にっぽんの「お家芸いえげい」で、貿易ぼうえき摩擦まさつ要因よういんにもなっています。果実かじつもその例外れいがいではありません。
 【9】昭和しょうわじゅうろくねんいちきゅうはちいちねん)のなつ、カナダからすうにん昆虫こんちゅう学者がくしゃ来日らいにちして、盛岡もりおかで「リンゴ害虫がいちゅう総合そうごう防衛ぼうえい」についてのシンポジウムが開催かいさいされました。これは日本にっぽんとカナダのこくあいだ科学かがく技術ぎじゅつ協定きょうていもとづいてったものです。【0】シンポジウムのあと、同伴どうはん夫人ふじんたちともども、おりから紅葉こうようさかりの十和田湖とわだこ経由けいゆして、青森あおもりのリンゴ栽培さいばい視察しさつしてもらいました。夫人ふじんたちがびっくりしたのは紅葉こうようで、「これほどうつくしい紅葉こうようまれてはじめてた」と歓声かんせいしきりでした。ふゆになるといきなりれて色気いろけもなく落葉らくようしてしまうカナダからて、日本にっぽんでも指折ゆびおりの十和田とわだ紅葉こうようを、それも最高さいこう時期じきたのですから、あながちお世辞せじではないようです。しかし、夫人ふじんたち以上いじょう学者がくしゃたちがびっくりしたのは、日本にっぽんのリンゴ栽培さいばいのやりかたでした。リンゴえん地面じめん銀色ぎんいろのビニールでおおい、反射はんしゃこうでリンゴのしり着色ちゃくしょくさせたり、リンゴをひとつずついちはちまわしてまんべんなくてて着色ちゃくしょくさせる技術ぎじゅつは、欧米おうべいにはまったくないものです。
 日本にっぽんでは、いろいろな果物くだもの紙袋かみぶくろおおってそだてます。この労力ろうりょくようする技術ぎじゅつは・多雨たう多湿たしつ風土ふうどなかで、病害虫びょうがいちゅう被害ひがい防止ぼうしのためにされました。リンゴの場合ばあいも「ふくろかけ」は、幼虫ようちゅう果実かじつふかあなけて致命ちめいてきがいあたえるシンクイムシるい被害ひがい防止ぼうし目的もくてきでした。しかし、化学かがく農薬のうやく発達はったつし、べつ防除ぼうじょ技術ぎじゅつ確立かくりつされた現在げんざいでも、ふくろかけは根強ねづよのこっています。果実かじつ葉緑素ようりょくそ形成けいせいおさえ、ふくろをはずしたのち果実かじつあざやかに着色ちゃくしょくさせるためです。そのわり、糖度とうどがり、あじ確実かくじつちます。このような特異とくい国産こくさん技術ぎじゅつは、おおかれすくなかれほとんどあらゆる果樹かじゅられますが、とくにリンゴで目立めだちます。
 これらのキメ細きめこまかな技術ぎじゅつは、リンゴをおいしくするためでなく、ひたすらうつくしくいろづかせる目的もくてき開発かいはつされてきました。人工じんこう着色ちゃくしょくなどは、ふつうなら人気にんき品種ひんしゅをうまくつくれない土地とちでもうつくしくいろづかせるためにされたくるしまぎれの技術ぎじゅつで、たしかに購買こうばい意欲いよくをそそるような見事みごとうつくしいリンゴがまれます。もちろんあじはがたちで、つくっている生産せいさんしゃ自身じしんべないようなこんなリンゴを、消費しょうひしゃなんもだまされてうとはとてもおもえません。
 さすがにこうしたあじわるくする技術ぎじゅつけん指導しどうもあってすたれる傾向けいこうにありますが、一体いったいこの日本にっぽん特有とくゆう現象げんしょうはだれがわるいのでしょうか。うつくしくなければわない消費しょうひしゃわるい、外観がいかん重視じゅうし値段ねだんをたたく流通りゅうつう機構きこう問題もんだいがある、まずくなるのを承知しょうちでやっている生産せいさんしゃわるい……意見いけんはさまざまでしょうが、はっきりしているのは、この奇妙きみょう日本人にっぽんじん美意識びいしきには、いささかの軌道きどう修正しゅうせい必要ひつようがあることです。


長文ちょうぶん 2.4しゅう
 保吉やすきちうみったのはさいろくさいころである。もっともうみとはいうものの、万里ばんり大洋たいようったのではない。ただ大森おおもり海岸かいがん狭苦せまくるしい東京とうきょうわんったのである。しかし狭苦せまくるしい東京とうきょうわん当時とうじ保吉やすきちには驚異きょういだった。奈良ならあさ歌人かじんうみせるこいを「大船おおぶね香取かとりうみいかりおろしいかなるひとかものおもわざらん」とうたった。保吉やすきちはもちろんこいらず、万葉集まんようしゅううたなどというものはなおさらひとつもらなかった。が、にちひかりけむったうみなにみょうにものがなしい神秘しんぴかんじさせたのは事実じじつである。かれうみしたかやすだれりの茶屋ちゃやすりにいつまでもうみながめつづけた。うみしろじろとかがやいたかけせんなんそうかべている。ながけむりそらいたほんのマストの汽船きせんかべている。つばさなが一群いちぐんかもめはちょうどねこのようにきかわしながら、海面かいめんななめにんでった。あのふねかもめはどこから、どこへってしまうのであろう? うみはただ幾重いくえかの海苔のり粗朶そだこうにあおあおとけむっているばかりである。……
 けれどもうみ不可思議ふかしぎをいっそうあざやかにかんじたのははだかになったちち叔父おじ遠浅とおあさなぎさりたときである。保吉やすきちはじすなうえしずかにせてくるさざなみこわおそれた。が、それはちち叔父おじうみなかへはいりかけたほんのさんぶん感情かんじょうだった。そのかれはさざなみはもちろん、あらゆるうみこう享楽きょうらくした。茶屋ちゃやすりにながめていたうみはどこか見知みしらぬかおのように、めずらしいと同時どうじ無気味ぶきみだった。――しかし干潟ひがたってうみおおきい玩具おもちゃばこおなじことである。玩具おもちゃばこ! かれ実際じっさいかみのようにうみという世界せかい玩具おもちゃにした。かに寄生きせいかいまばゆ干潟ひがた右往左往うおうさおうあるいている。なみいまかれまえいちふさの海草かいそうはこんできた。あの喇叭らっぱているのもやはり法螺貝ほらがいというのであろうか? このすななかかくれているのは浅蜊あさりというかいちがいない。……
 保吉やすきち享楽きょうらく壮大そうだいだった。けれどもこういう享楽きょうらくなかにも多少たしょうさびしさのなかったわけではない。かれ従来じゅうらいうみいろあおいものとしんじていた。両国りょうこくの「大平おおひら」にっている月耕げっこう年方としかた錦絵にしきえをはじめ、当時とうじ流行りゅうこう石版せきばんうみはいずれもおなじようにまっさおだった。こと縁日えんにちの「からくり」のせる黄海こうかい海戦かいせん光景こうけいなどは黄海こうかいというのにもかかわらず、毒々どくどくしいほどあおなみしろなみがしらをおどらせていた。しかし目前もくぜんうみいろは――なるほど目前もくぜんうみいろおきだけはあおあおとけむっている。が、なぎさちかうみすこしもあおいろびていない。まさにぬかるみのたまりすいえらぶところのないどろしょくをしている。いや、ぬかるみのたまりすいよりもいっそうあざやかな代赭たいしゃしょくたいしゃいろをしている。かれはこの代赭たいしゃしょくたいしゃいろうみ予期よき裏切うらぎられたさびしさをかんじた。しかしまた同時どうじ勇敢ゆうかんにも残酷ざんこく現実げんじつ承認しょうにんした。うみあおいとかんがえるのはおきだけ大人おとなあやまりである。これはだれでもかれのように海水浴かいすいよくをしさえすれば、異存いぞんのない真理しんりちがいない。うみじつ代赭たいしゃしょくたいしゃいろをしている。バケツのさび代赭たいしゃしょくたいしゃいろをしている。
 さんじゅうねんまえ保吉やすきち態度たいどさんじゅうねん保吉やすきちにもそのままはままる態度たいどである。代赭たいしゃしょくたいしゃいろうみ承認しょうにんするのは一刻いっこくはやいのにしたことはない。かつまたこの代赭たいしゃしょくたいしゃいろうみあおうみえようとするのは所詮しょせん徒労とろうに畢るだけである。それよりも代赭たいしゃしょくたいしゃいろうみなぎさうつくしいかい発見はっけんしよう。うみもそのうちにはおきのようにいちめんあおあおとなるかもれない。が、将来しょうらいあこがれるよりもむしろ現在げんざい安住あんじゅうしよう。――保吉やすきち預言よげんしゃてき精神せいしんんださん友人ゆうじん尊敬そんけいしながら、しかもなおしん一番いちばんそこにはあいかわらずひとりこうおもっている。
 大森おおもりうみからかえったのちはははどこかへったかえりに「日本にっぽんむかしはなし」のなかにある「浦島うらしま太郎たろう」をってきてくれた。こういうお伽噺とぎばなしんでもらうことのたのしみだったのはもちろんである。が、かれはそのそとにももうひとたのしみをわせていた。それはありわせの水絵みずえ一々いちいち挿絵さしえいろどることだった。かれはこの「浦島うらしま太郎たろう」にもさっそく彩色さいしきくわえることにした。「浦島うらしま太郎たろう」はいちさつなかじゅうばかりの挿絵さしえふくんでいる。かれはまず浦島うらしま太郎たろうかごみやりゅうぐうるのいろどりはじめた。かご(りゅうみやみどり屋根やねわた(がわらあかはしらのある宮殿きゅうでんである。乙姫おとひめは――かれはちょっとかんがえたのち乙姫おとひめもやはり衣裳いしょうだけはいちめんあかいろることにした。浦島うらしま太郎たろうかんがえずともい。漁夫ぎょふ着物きもの藍色あいいろ腰蓑こしみのうす黄色きいろである。ただほそ竿ざおにずっと黄色おうしょくをなするのは存外ぞんがいかれにはむずかしかった。みのかめだけをみどりるのはなかなかなまやさしい仕事しごとではない。最後さいごうみ代赭たいしゃしょくたいしゃいろである。バケツのさび代赭たいしゃしょくたいしゃいろである。――保吉やすきちはこういう色彩しきさい調和ちょうわ芸術げいじゅつらしい満足まんぞくかんじた。こと乙姫おとひめ浦島うらしま太郎たろうかおすすきあかいろくわえたのはすこぶ生動せいどうおもむきでもつたえたもののようにしんじていた。
 保吉やすきちはそうそうははのところへかれ作品さくひんせにった。なにいものをしていたはは老眼鏡ろうがんきょうがくしに挿絵さしえ彩色さいしきうつした。かれ当然とうぜんははくちから言葉ことばるのを予期よきしていた。しかしはははこの彩色さいしきにもかれほど感心かんしんしないらしかった。
うみいろはおかしいねえ。なぜあおいろらなかったの?」
「だってうみはこういういろなんだもの。」
代赭たいしゃしょくたいしゃいろうみなんぞあるものかね。」
大森おおもりうみ代赭たいしゃしょくたいしゃいろじゃないの?」
大森おおもりうみだってまっあおだあね。」
「ううん、ちょうどこんなしょくをしていた。」
 ははかれ強情ごうじょう加減かげん驚嘆きょうたんまじえた微笑びしょうらした。が、どんなに説明せつめいしても、――いや、癇癪かんしゃくこしてかれの「浦島うらしま太郎たろう」をいたのちでさえ、このうたが余地よちのない代赭たいしゃしょくたいしゃいろうみだけはしんじなかった。……

芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけ少年しょうねん」)


長文ちょうぶん 3.1しゅう
 【1】ぼくまえに、テストの問題もんだい用紙ようし山積やまづみされている。教室きょうしつにはだれもおらず、ぼく一人ひとり。とてもしずかな、居残いのこ勉強べんきょう時間じかんである。いつもならあたまかかえるか、してしまいたくなるところだ。しかし、このときぼくはやるちていた。【2】なぜなら、いままでやすませてもらったぶん、ここでがんばろうと決意けついしていたからだ。
 ぼくはつい昨日きのうまで、北海道ほっかいどうにいた。さん日間にちかん旅行りょこうっていたのだ。両親りょうしん計画けいかくしたこの旅行りょこうは、学校がっこうのテスト期間きかんとぶつかってしまっていた。【3】卒業そつぎょう進学しんがくひかえたこのときに、テストをやすんであそびにくなんてったら、おこられるんじゃないか……とぼくおもっていた。けれども担任たんにん先生せんせいは、
学校がっこう勉強べんきょうより、旅行りょこうほうがずっと経験けいけんになります。ぜひってきてください。」
ってくれた。【4】ぼくはとても感動かんどうした。だからこそ、旅行りょこうからかえったのち、テストをまとめてけることになっても、いやだなんてかんじなかったのだ。
 この旅行りょこう本当ほんとうたのしく、新鮮しんせんなことばかりだった。飛行機ひこうきるのははじめてで、はじめは不安ふあんもあった。【5】墜落ついらくしたらどうしよう、という心配しんぱいはもちろん、それ以上いじょうに、海外かいがい旅行りょこう経験けいけんがある友達ともだちから「くらいし、んでいるし、とても窮屈きゅうくつだった」といていたからだ。
 だが、ぼくたちのった飛行機ひこうきはビックリするくらいいていた。【6】時季じきはずれていたからで、両親りょうしん計画けいかくのうちだったらしい。ばたばたと座席ざせき移動いどうして、色々いろいろ方向ほうこうからくもした景色けしきたのしむことができた。むかしははすべりにったという蔵王ざおうのスキーじょうえた。国内こくない移動いどうだから、あいだっていられないのが、残念ざんねんだったくらいだ。
 【7】北海道ほっかいどうでは、最初さいしょ摩周湖ましゅうこた。ゆききりいちめんしろ、それは綺麗きれいだったのだが、もったゆき太陽たいようひかりかえして、すごくまぶしかったことのほうわすれられない。そこでった写真しゃしんでは、ぼくほそめて、まるでとても機嫌きげんわるいかのような表情ひょうじょうをしている。
 【8】ほかにも、アイヌぞくむらたり、こおったみずうみうえあるいたり、スノーモービルにったりした。どれも、先生せんせいっていたとおり、おなふゆでも東京とうきょうにいたのではけっしてできない経験けいけんばかりだった。
 がつけば、ぼくはいつも以上いじょうにサッサッと問題もんだいいていた。【9】一番いちばん苦手にがてな、算数さんすうのテストも片付かたづいた。人間にんげんは、たのしいおもがあるからこそ、やらなければならないつら勉強べんきょうにもむことができるのだろう。あと、つくえうえのこっているのは、すうまい作文さくぶん用紙ようしだけ。最後さいごは、「このふゆおも」という課題かだい作文さくぶんテストだ。【0】くことはもうまっている。「てつあついうちにて」という。おも文章ぶんしょうのこすのも、きっとはやほうがいいにちがいない。ぼく笑顔えがおでペンをにぎなおした。

言葉ことばもり長文ちょうぶん作成さくせい委員いいんかい ιいおた


長文ちょうぶん 3.2しゅう
 【1】はしてきにいって、わたしたちは、おはなし文学ぶんがく――文学ぶんがくのうちでも、文字もじによらず、こえによって伝達でんたつされる文学ぶんがく――とかんがえています。口承こうしょう文学ぶんがくということばもありますが、そういうかたいことばをさけるとすれば、文学ぶんがく作品さくひんを、かたが、おもにこえによって表現ひょうげんし、それをしゅともどもたのしむことだといってもよいでしょう。【2】ですから、たとえば交差点こうさてんただしいわたかたおしえるためのおはなし、あるいは、幼稚園ようちえんなどでよくやるような、集団しゅうだん生活せいかつのルールをおしえたり、衛生えいせいじょうのしつけをするためにかせるおはなしなど、なにかをおしえる方便ほうべんとしてのおはなしは、ここでは一応いちおうのぞいてかんがえます。母親ははおや教師きょうしが、自分じぶん見聞みききしたことかんかんがえたことをはなすのもおなじです。【3】これらのはなしは、どもにたいへんよろこばれますし、どもとの気持きもちの交流こうりゅうというてんからいうと非常ひじょう貴重きちょうですが、内容ないよう表現ひょうげん吟味ぎんみされ、個人こじんてきなつながりをもっているひとだけでなく、もっと一般いっぱん通用つうようする文学ぶんがくてき価値かちをもつ場合ばあいのぞいて、ここでいうおはなしにはふくめません。
 【4】したがって、ここであつかうおはなしは、はなしそのものに文学ぶんがくてき価値かちがあることを前提ぜんていとします。この文学ぶんがくてき価値かちということは、たいへんむつかしい問題もんだいで、ろんじだせばきりがありませんが、ここでは、ひとまず、文学ぶんがくてき価値かちのある作品さくひんとは、「わたしたちのしんたのしませ、人間にんげんについてのわたしたちの理解りかいたすけてくれるもの」と、表現ひょうげんしておきましょう。【5】そして、この「しんたのしませる」ことのなかには、内容ないようだけでなく、その表現ひょうげん形式けいしきからくるうつくしさが、わたしたちのしんたのしませることがふくまれていることを、とくに指摘してきしておきたいとおもいます。
 【6】さて、ではそういう作品さくひんをどこにもとめるかということになりますと、具体ぐたいてきには昔話むかしばなし創作そうさくしゅとしてどもきの短編たんぺん)ということになります。そして、かたるというてんからいえば、このうち、とくに昔話むかしばなし重要じゅうようになってきます。【7】昔話むかしばなしは、なんといっても本来ほんらいかたりつたえられてきたものなので、かたってかせるはなしのそなえていなければならない基本きほんてき条件じょうけんたしているからです。【8】また、昔話むかしばなしは、一般いっぱん大衆たいしゅう文学ぶんがくでしたから、とりあつかうテーマは、普遍ふへんてき根源こんげんてきですし、その表現ひょうげん形式けいしきは、簡潔かんけつでそぼくなしんぬしにもよくわかるようになっています。つまり、今日きょうどもの興味きょうみ心理しんり理解りかい能力のうりょくによくうのです。【9】昔話むかしばなしが、今日きょうでは、もっぱらどものための文学ぶんがくになっているのはこのためでしょう。
 昔話むかしばなしなかには、たんかたることからしょうじた表現ひょうげん形式けいしき民衆みんしゅう文学ぶんがくであることからくる内容ないよう普遍ふへんせいということだけでなく、なにかもっとおおきなちからがかくされているようながしてなりません。【0】昔話むかしばなしは、文学ぶんがくのもとのかたちといってよいものですから、そこには、人間にんげん物語ものがたりし、それをささえてきたしんうごきやちからのもとが内蔵ないぞうされています。昔話むかしばなしのもつこのふしぎなちから本質ほんしつかすことは、わたしにはとうていできませんが、どもの時代じだいに、すこしも昔話むかしばなしにふれることなくそだったら、文学ぶんがくあじわいたのしむために必要ひつような、なに非常ひじょう大切たいせつ要素ようそけおちてしまうのではないか、とだけはいうことができます。
 かたとしても、もし、よいかたになりたいとねがうなら、たえず昔話むかしばなしにふれている必要ひつようがあるとわたしおもいます。それは、たんに、そこからはなし材料ざいりょうられるからというだけでなく、昔話むかしばなししたしむことによって、「物語ものがたり」やそれを「かたる」ことの意味いみすこしずつわかってくるようにおもえるからです。おはなし興味きょうみをもつものにとっては、昔話むかしばなしは、たえずそこに自分じぶんをうるおしにかえっていかなければならないいずみのようなものだとおもいます。


長文ちょうぶん 3.3しゅう
 【1】わたし市場いちばへゆくみちは、いかにも自然しぜん発生はっせいてきほそいやさしいみちだ。いえいえとのあいだなんとなくつくられた人間にんげんのふみならしたみちだ。ところが、そのみち最近さいきんアスファルトがしかれてしまった。なつなど、かごをげてあるいてみると、いかにもむんむんしてりかえしがきつい。それになんともふぜいがなくなった。
 【2】わたし舗装ほそうされたのを残念ざんねんおもった。あらたにつくった高速こうそく道路どうろのようなものならまことにりっぱな舗装ほそうがあってしかるべきだとおもう。しかしほとんどしゃとおらないむかしながらのとおみちのようなものまで舗装ほそうする必要ひつようたしてあるのだろうか。【3】いちおういしころであしうらがごろごろすることもなくてあるきやすいようではあるが、はばいちメートルありやなしやのこんな細道ほそみちがべタッとくろくアスファルトをられているのはいたましくさえある。よわいはだにこってりドーラン(おしろいの一種いっしゅ)をぬって皮膚ひふ呼吸こきゅうをふさいでしまったかんじがする。
 【4】わたしがこどものころはいていたかわくつは、たいていどれもこれもつめ(つまさきがけばだっていた。いしけりをしながらあるくせいだ。これときめた小石こいしを、ちいさくけりつづけながら学校がっこうへゆきかえる。くるま心配しんぱいなどほとんどせず、けとばしたいしのゆくてのまにまに、よろけながらあるくのである。【5】いま、こんなことをしたら、それはもういっぺんにくるまにひかれてしまうが、むかしはそんなことをしながらにぎやかにこどもはみちあるいた。
 みちにはいろいろなものがあった。しゃれたいしむしがい、雑草ざっそう可憐かれんはな、ラムネびんの破片はへん石炭せきたんのかけら、とりはね。【6】そんなものにいちいちしんをとめながら、ゆっくりとこどもはたのしみながらあるくのであった。舗装ほそうされたみちにはそんな、にとりたいようなものはなににもないのだ。
 最近さいきんあるほうからいしひとついただいた。【7】ダイヤモンドやルビーでもない、また当然とうぜんせきブームでさわがれるきくせきとか赤石あかしとかのしろものでもない。ひらべったい薄茶うすちゃしょくいしで、のひらにかるおおきさ、おもさである。
 ただおもしろいのは、全体ぜんたいにキララ(ひか鉱物こうぶつ一種いっしゅ)がはいっていることで、ひかりけてちいさくいちせいにまたたく。【8】太陽たいようにあてるとたのしいですとわれて、わたしひかりにも、またつきひかりにもらしてみた。チカチカとかわいらしくきらめくのをみると、いわゆる童話どうわ世界せかいのおもむきがある。そのひとは、みちひろいましたとった。どんなみちだろう。【9】ゆたかな気持きもちで、ものみなすべてにいとしみをかんじながらあるみちにちがいない。無味むみ乾燥かんそうなアスファルト道路どうろくるまとおるだけのためのみちにはこんなせきはないのだ。
 もちろん舗装ほそうされたみち場合ばあいによっては大切たいせつである。【0】ほこりをあびせかけられる街道かいどうすじ(かいどうすじいえなどはどくられない。一刻いっこくはや舗装ほそうしなければ、みちすじのいえまどけられない。だが、みち一番いちばんみちらしいのは、人間にんげんのくらしをあたたかにささえ、いろいろなものを発見はっけんすることのできるふみしめられたみちである。このことだけはわすれてはならないのだ。


長文ちょうぶん 3.4しゅう
 オーストラリアのヨーク半島はんとうのつけね、西側にしがわにいたイル=イヨロントぞく変化へんかてみます。
 かれらは食料しょくりょう採集さいしゅうみんで、りをしたりあつめたりという生活せいかつをしていました。かれらにとっても石斧せきふいしおのおとこのものでした。おくさんや子供こどもりることはできましたけれど、りるとき、かえすときのあいさつは、おっとつまに、ちち優位ゆういっていることをたしかめる機会きかいでした。そこへ白人はくじんがやってきて、てつおのはいってきました。イル=イヨロントぞくひとびとが白人はくじん手助てだすけをすると、その代償だいしょうとしててつおのをくれたりします。ときには、おくさんがてつおのをもらうことがあります。おっとのほうはいしおのしかもっていないのに、おくさんがてつおのをもっていることになります。そうすると、「すまんけど、おまえのてつおのしてくれ」ということもおきてきます。これがいしてつわったことでおきたさまざまな結果けっかひとつです。
 もっと重要じゅうようなことは、イル=イヨロントぞくいた時間じかんをどう使つかったかということです。このてんにいまわたしおおきな関心かんしんをもっています。
 いた時間じかん使つかって、なんとかれらはひるねをしたのです。わたしはじつは、その部分ぶぶんんだときにしてしまいました。このわらいには軽蔑けいべつ意味いみもふくまれていたとおもうのです。ところが、わたしのこの感想かんそうはじつはまちがっていた、といまはおもっています。
 せんねんまえ日本にっぽんではどうだったでしょうか。いしからてつへとわってきたときに、弥生やよいじんはおそらくいた時間じかん宴会えんかい出席しゅっせきすることも、昼寝ひるねをすることもしませんでした。いしからてつへの変化へんかを、生産せいさんりょく飛躍ひやくてき増大ぞうだいにつなげたのです。いままでいしおの一本いっぽんたおしている時間じかんで、よんほんたおすというぐあいに、すごく生産せいさんりょくたかめたのです。
 よん世紀せいきろく世紀せいき古墳こふん時代じだい)の農民のうみんはたらものだったことは、群馬ぐんまけん火山かざん噴火ふんか洪水こうずい直後ちょくご復旧ふっきゅう工事こうじにとりくんだ証拠しょうこからわかっています。また、日本にっぽん農業のうぎょうくさをとればとるほど、よい収穫しゅうかく約束やくそくされる農業のうぎょうであることから、弥生やよい農民のうみんはたらものだったことを、わたし予測よそくしています。
 パプア=ニューギニアやオーストラリアではいた時間じかんあそびに使つかったのに、日本にっぽんでは労働ろうどう使つかったということで、日本人にっぽんじん勤勉きんべんだと先祖せんぞをほめたたえるつもりか、とおもわれるかもしれません。そうではありません。
 道具どうぐ技術ぎじゅつは、毎年まいとしのようにどんどんすぐれたものになっていきます。なんのためだとおもいますか。質問しつもんすると、すこしでもらくになるようにとか、効率こうりつがよくなるようにとか、企業きぎょうがもうけるためだとかいうこたえがよくもどってきます。しかし、結果けっかからると、わたしはそうではないめんもあるとおもうのです。
 じつは、わたしたちをいそがしくするために道具どうぐ技術ぎじゅつ発達はったつしてきているのではないでしょうか。それまでじゅう時間じかんかかったところを、さんあいだくことができるようになったとします。いたななあいだをどう使つかうかとかんがえてみると、ほかの仕事しごとをしているのです。
 すくなくともつい最近さいきんまでは、あるいている時間じかんとかくるまっている時間じかんはボケーッとしていることができました。あるいは空想くうそうにふけることができました。しかし、いまや携帯けいたい電話でんわができたのです。あるいていても、くるまっていても、いつ電話でんわがかかてくるかわかりません。相手あいてからだけでなくて、自分じぶんからもかけます。なにもそんなときまでとおもうのですが、そんな大人おとなたちがえています。
 わたしたちは、技術ぎじゅつ道具どうぐ発達はったつ自分じぶんたちを解放かいほうするためだとおもっていますが、じつはおおきな誤解ごかいで、自分じぶんたちをいそがしくするために技術ぎじゅつ道具どうぐ発達はったつしているめんもあるのではないかとおもうのです。そこでわたしおもうのです。オーストラリアのイル=イヨロントぞくいた時間じかんたというのは、正解せいかいだ、と。
 多田ただ道太郎みちたろうさんは、つぎのようなことをわたしかたってくれました。
日本にっぽんには「やすむ」とか「なまける」ということばがあるけれども、みんなわる意味いみ使つかわれている。しかし、わたしたちは、むしろ強制きょうせいされたことはなにもしないという状況じょうきょう自分じぶんをおくことがたいせつだ。そういう状況じょうきょうのなかで、自由じゆうにしたいことをする、それがあそびだ。』
 多田たださんのいうことのなかに、わたしにとってひじょうに重要じゅうようなことがふくまれていました。それは、強制きょうせいされている状況じょうきょうからは空想くうそうりょくがはばたくはずがない、やすんではじめて人間にんげん構想こうそうりょくとか空想くうそうりょくがはばたくのだということです。はたらきづめにはたらいていると、そのあげくにてくることは、しょせんたいしたことはないのだということです。空想くうそうりょく想像そうぞうりょくとおきかえてもいい。アインシュタインが知識ちしきよりも想像そうぞうりょくのほうがずっとたいせつだ、といっていることをおもいだします。
 たしかに日本人にっぽんじんはたらきすぎるとおもいます。わたしたちはもうすこし余裕よゆうをもって、いい意味いみでの怠惰たいだ精神せいしんあそびの精神せいしんきていくべきではないでしょうか。これをなによりもまず自分じぶん自身じしんにいいたいとおもいます。もっと余裕よゆうをもって、あそびをもってきていったらいいのではないか、それをイル=イヨロントぞくまなびたいというおもいなのです。

佐原さはらしん遺跡いせきかた日本人にっぽんじんのくらし」)