(Translated by https://www.hiragana.jp/)
課題集
長文ちょうぶん 1.1しゅう
 たび一人ひとりでするのがいいだろうか。だれかと二人ふたりでするのがいいだろうか。それとも、グループでするのがいいだろうか。これは意外いがいこたえにくい難問なんもんである。がそれでも、一度いちどかんがえてみるにあたいする問題もんだいふくんでいるといえるだろう。なぜなら、たび一人ひとりでするか、二人ふたりでするか、それともグループでするかによって、おなじくたびとはいってもかなり性格せいかくのちがったものになるからである。
 本当ほんとうたびきなひとは、ふとおもったときに一人ひとりでぶらりとたびかける、といわれる。日常にちじょう人間にんげん関係かんけいのしがらみからはなれ、あしおもむくままにたびをするには、一人ひとりたびがいちばんいいであろう。だれ相談そうだんする必要ひつようもなく、自分じぶんいちにんおもうがままにどこへでもくことができるうえに、たび仕方しかたについてもだれ遠慮えんりょもいらないからである。たびさまとして自由じゆう偶然ぐうぜんせいをもっともよく享受きょうじゅできるのは一人ひとりたびである。また、旅先たびさきでもっとも直接ちょくせつ現実げんじつれうるのも、自分じぶんをよくつめうるのも、一人ひとりたびであろう。
 定住ていじゅう社会しゃかいのなかにきていると、ひとはしばしば、日常にちじょう生活せいかつのわずらわしいしきたりや拘束こうそくをのがれて一人ひとりでふとどこかとおいところへってしまいたくなる。が、実際じっさいにそれができるひとはきわめてすくない。ほとんどの場合ばあい、ただそうしたいとしんおもうだけで実行じっこうはできず、したがっておもいだけがつのるようになる。だからこそ、人々ひとびとあいだ自由じゆう奔放ほんぽう一人ひとりたび放浪ほうろうへの願望がんぼうづよいのであろう。そして、放浪ほうろうという一人ひとりたびには、絶対ぜったいてき自由じゆうへのあこがれがある。
 このように、たしかにたび一人ひとりでするとき、本人ほんにんにとってもっとも自由じゆう解放かいほうてき冒険ぼうけんんだものになる。また一人ひとりたびでは、ほかに相談そうだんする相手あいて身近みぢかにいないから、すべてにつけて自分じぶん思案しあんしなければならない。そのために、自分じぶん自身じしんとのあいだでの対話たいわ活発かっぱつおこなわなければならないことになる。一人ひとりたびではわたしたちは、そういうかたちで旅先たびさきでの現実げんじつ相対そうたいするのである。けれどもこれは実際じっさいには、なかなかたいへんでほねれることであると、いきをぬくひまがなく、しん余裕よゆうがなくなるからである。そのために緊張きんちょう連続れんぞくいられ、どうしてもすきができてしまう。
 だから一人ひとり異国いこくたびをしていると、ほとんど不可抗力ふかこうりょくちかいかたちで、荷物にもつ一部いちぶきされたり、スリに出会であったりするのである。かくわたし自身じしん先達せんだつせんだってもミラノのまちさん人組にんぐみのスリに出会であって、なかがつきながらみすみすかなりの大金たいきんられてしまった。相手あいてがあまりにもみごとなうで、みごとなチーム・ワークだったので――もちろんぬすめられたことは腹立はらだたしく、そのなんにち不愉快ふゆかいでしょうがなかったけれど――じつはちょっと感心かんしんさえしている。
   (なか りゃく
 られたかねは、わたしにとってかなりの大金たいきんだったけれど、さいわい、旅行りょこうをつづけるうえ支障ししょうになるほどではなかった。しかしそのしばらくのあいだ旅行りょこうをしていてもどうしても必要ひつよう以上いじょう他人たにんたいして警戒けいかいしんはたらいてしまい、ひどくつかれた。そういうときほど、一人ひとりたびをしていること、相棒あいぼうなしにたびをしているのがうらめしくおもわれることはない。相棒あいぼうあるいはみちづれがあったからといって、スリに心配しんぱいがまったくないというわけではないけれど、二人ふたりになれば注意ちゅういおよばない死角しかくはずっとすくなくなるし、行動こうどうにずっと余裕よゆうがもてるようになる。
 それに同行どうこうしゃとしていい相棒あいぼうられれば、たびをするじょうでなにかと好都合こうつごう相談そうだん相手あいてになるし、はなうことでたびでの経験けいけんたしかめうこともできる。ただし実際じっさいには、このみちづれのえらびかたはたいへんむずかしい。適当てきとうみちづれをえらべば、たがいに相手あいて自由じゆう行動こうどう牽制けんせいったり、束縛そくばくったりすることになるだろう。たがいに相手あいて独立どくりつせい自由じゆうをできるだけ尊重そんちょうしながら、しかも必要ひつようなとき、いざというときにはちからになりい、よき相談そうだん相手あいてになるような関係かんけいがもっとものぞましいわけだ。いや、それほど理想りそうてき関係かんけいりたなくともかまわない。たびにおいてみちづれがいることは、自分じぶん以外いがいのもうひとつの他者たしゃふくみ、そのしゃとの対話たいわをもちうるというてん貴重きちょうなことなのである。
 ではつぎに、グループのたびはどうであろうか。一口ひとくちにグループでのたびといっても、気心きごころれたしたしい友人ゆうじんたちとのしょう人数にんずうたび場合ばあいと、いわゆる団体だんたい旅行りょこう、セット旅行りょこう場合ばあいとでは、一緒いっしょにはかんがえられない。前者ぜんしゃ場合ばあいには、グループでのたびといっても、よきみちづれとの二人ふたりでのたび本質ほんしつてきにはあまりことならないものでありうる。うまくいけば、ひとそれぞれの独立どくりつせい自由じゆうたもちうるからである。また、自己じこ他者たしゃとの関係かんけい固定こていてきでなく可動かどうてきだから、その関係かんけいがうまくかされれば、たびはいっそうゆたかなものになるだろう。
 ただし人数にんずうがあまりおおくなると、ひとそれぞれが旅先たびさき現実げんじつにふれることよりも、グループない相互そうごのふれい、いのほう重点じゅうてんがかかってくる。だからグループでのたびはしばしば移動いどうする宴会えんかいのようなものになるのである。いわゆる団体だんたい旅行りょこう、セット旅行りょこう場合ばあいには、あらかじめめられたコースがあって、スケジュールもびっしりつまっているから、また、バスにったままでおあてのところにれていってくれるからたびならではの独立どくりつせい自由じゆう偶然ぐうぜんせい異質いしつ現実げんじつなどとの接触せっしょくいちじるしくよわくなる。もちろんそのようなグループ旅行りょこう使つかかたによるし、そこで収穫しゅうかくにめぐまれることもあるけれど、その場合ばあいたびのありかた同行どうこうしゃのありかたもずいぶんちがってきているわけである。

中村なかむら雄二郎ゆうじろうたびへのさそい」)


長文ちょうぶん 1.2しゅう
 帰国きこくせい教育きょういく体験たいけん調査ちょうさをつづけるうちに、日本にっぽん欧米おうべい授業じゅぎょう方法ほうほうちがいが、だんだんにはっきりしてきました。それを、あえて一言ひとことでいえば、欧米おうべいでは獲得かくとくがた授業じゅぎょうが、日本にっぽんでは知識ちしき注入ちゅうにゅうがた授業じゅぎょう一般いっぱんてきだということになります。
 では獲得かくとくがた授業じゅぎょうとはどういうものなのでしょうか。もうすこくわしくかんがえてみましょう。獲得かくとくがた授業じゅぎょうにはふたつのめんふくまれます。ひとつは、生徒せいと自主じしゅてきまなんでいけるように、そのまなかた訓練くんれんしていくことです。生徒せいといちにんひとりが自分じぶんでテーマをめ、ある課題かだいにとりくんでいくなかで、内容ないようまなぶだけでなく、リサーチの仕方しかたにつけてゆくというものです。生徒せいとみずかまなぶという意味いみで、これを「自学じがく訓練くんれん」とよんでもよいものです。たとえば、日本にっぽん学校がっこう提出ていしゅつぶつにはレポートというひとつの言葉ことば使つかわれているだけですが、アメリカではプロジェクト、レポート、エッセー、リサーチ・ペーパーなどのようにたくさんの言葉ことば使つかわれています。こうしたことからも、いかに自分じぶんまな学習がくしゅうがさかんにおこなわれているかがわかるはずです。
 獲得かくとくがた授業じゅぎょうのもうひとつの側面そくめんは、参加さんかがた学習がくしゅうです。授業じゅぎょうのなかに生徒せいと発言はつげん発表はっぴょう討論とうろんなどをさかんにみこんで、生徒せいと授業じゅぎょうへの参加さんかをはげますものです。よくわれることですが、欧米おうべい授業じゅぎょうでは、先生せんせいがたえず「きみのかんがえはどうか」と生徒せいといかけ、意見いけん表明ひょうめいもとめます。また、講義こうぎしき授業じゅぎょうであっても、その途中とちゅうから、即興そっきょうディベートにうつっていくことなどもけっしてめずらしいことではありません。
 もちろん、調しらべたり、いたりする自学じがく訓練くんれん側面そくめんと、発表はっぴょうしたり、討論とうろんしたりする参加さんかがた授業じゅぎょう側面そくめんとは、たがいに密接みっせつ関連かんれんうものです。調しらべたり、いたり、発表はっぴょうしたり、討論とうろんしたりすることは、一連いちれん学習がくしゅう活動かつどうとなっているのです。そして、地球ちきゅう時代じだいむかえたいま、若者わかものもとめられる資質ししつは、こうした獲得かくとくがた学習がくしゅうのなかでこそそだってくるものなのです。日本にっぽん教育きょういく方法ほうほう国際こくさい必要ひつようだという理由りゆうは、こうしたことにもあらわれています。
 では一方いっぽう日本にっぽん授業じゅぎょうとして一般いっぱんてきな、知識ちしき注入ちゅうにゅうがた授業じゅぎょうとはどのようなものでしょうか。その基本きほん形態けいたいは、わたしたちがごろよくなじんでいるもの、つまり一斉いっせい講義こうぎしき授業じゅぎょうです。この授業じゅぎょうでは先生せんせい教壇きょうだんうえから生徒せいと知識ちしきそそぎこみます。まるで、はなみずそそぐように。知識ちしきたかいところからひくいところへとながれていきます。生徒せいと懸命けんめい板書ばんしょ内容ないようをノートし、どれだけ内容ないよう暗記あんきできたかについて、試験しけんでチェックをけるという方式ほうしきです。
 この形態けいたい授業じゅぎょうは、たくさんの生徒せいとに、系統けいとうてき知識ちしきを、かぎられた時間じかんで、しかも大量たいりょうつたえるには有効ゆうこう方法ほうほうです。その意味いみでは効率こうりつてき授業じゅぎょう方法ほうほうだとってもよいかもしれません。
 このため、知識ちしき注入ちゅうにゅうがた授業じゅぎょうは、日本にっぽんおなじようにいちクラスあたりの生徒せいとすうおお韓国かんこく中国ちゅうごく台湾たいわん、シンガポールなどのようなひがしアジア諸国しょこくでもごく一般いっぱんてき形態けいたいになっています。ただ、知識ちしき注入ちゅうにゅうがた授業じゅぎょうでは、どうしても生徒せいとがわ姿勢しせい終始しゅうししてしまいがちです。獲得かくとくがた授業じゅぎょうれた帰国きこくせいが、知識ちしき注入ちゅうにゅうがた授業じゅぎょう参加さんかかんがもてないという感想かんそうをもつのも、こうしたところからきています。
 日本にっぽんでもそうですが、いまあげたこれらのくにでは、授業じゅぎょう国定こくてい検定けんてい教科書きょうかしょ使つかい、ほとんどおな内容ないよう全国ぜんこく一斉いっせいおしえています。またいずれのくににもはげしい受験じゅけん競争きょうそうがあり、勉強べんきょうすること自体じたい受験じゅけんのための手段しゅだんとなっている状況じょうきょうられます。
 ですから、いまの知識ちしき注入ちゅうにゅうがた授業じゅぎょうから獲得かくとくがた方向ほうこうへむけて授業じゅぎょう形態けいたいうつしかえていくことは、けっして容易よういなことではありません。なにしろ、はたらいている制約せいやく条件じょうけんがあまりにもおおきいからです。しかし、そうはいっても国際こくさいなみがおしよせるにつれて、知識ちしき注入ちゅうにゅうがた授業じゅぎょうにもとづくつめこみ教育きょういく弊害へいがいが、いよいよはっきりえるようになったことも事実じじつなのです。

渡部わたなべあつし国際こくさい感覚かんかくってなんだろう」)



長文ちょうぶん 1.3しゅう
 いま日本にっぽん若者わかものおおくが、受験じゅけん競争きょうそうなかくるしんでいます。そして渦中かちゅうにいる受験生じゅけんせいは、こんなくるしい状況じょうきょうにおかれているのは、きっと日本にっぽん生徒せいとだけだろうとおもってしまいがちです。しかし、じつはそうではありません。近隣きんりん諸国しょこく受験じゅけん競争きょうそうはげしさも相当そうとうなものなのです。
 おとなりの韓国かんこく事情じじょうおなじです。わたしがソウル市内しない高校こうこうをはじめて見学けんがくしたのはいちきゅうはち年代ねんだい前半ぜんはんのことでしたが、日本にっぽん学校がっこうとの類似るいじてんおおさにをみはった経験けいけんがあります。とりわけ、韓国かんこく受験じゅけん競争きょうそうのきびしさは、日本にっぽんまさるともおとらないものでした。
   (なか りゃく
 もうひとつの隣国りんごく中国ちゅうごく入学にゅうがく試験しけんもたいへんなせまもんです。中国ちゅうごく大学だいがく進学しんがくりつ日本にっぽんほどたかくありませんが、入学にゅうがく定員ていいん自体じたいすくないため、競争きょうそう激烈げきれつです。北京ぺきんからの留学生りゅうがくせい王立おうりつぐん(ワンリージュン)さんはつぎのようにかたります。
 「中国ちゅうごく受験生じゅけんせい本当ほんとうによく勉強べんきょうします。ぼくの場合ばあいも、高校こうこう年生ねんせいから本格ほんかくてき受験じゅけん勉強べんきょうをはじめ、さん年生ねんせいでは受験じゅけん一色いっしょく生活せいかつになりました。いえではもちろん、学校がっこうやす時間じかんにも、寸暇すんかしんで、ともだちとおしったりしながら勉強べんきょうしました。入試にゅうしわったとたんにどっとつかれがてしまい、ねつしてさんげつほど入院にゅういんしてしまいました。精神せいしん疲労ひろうがピークになっていたんだとおもいます。」
 さいわいおうさんは、北京ぺきんにある文科ぶんかけい大学だいがく合格ごうかくすることができました。その経済けいざいがくまなぶために日本にっぽんて、いまは都内とない大学だいがく年生ねんせい在籍ざいせきしています。
 中国ちゅうごく大学だいがくはすべて国立こくりつ大学だいがくで、学生がくせい授業じゅぎょうりょう免除めんじょされています。全員ぜんいん学生がくせいりょうらしていますが、寮費りょうひ生活せいかつ政府せいふから支給しきゅうされていました。
 「中国ちゅうごく大学生だいがくせいは、特別とくべつめぐまれた環境かんきょうをあたえられて勉強べんきょうしている身分みぶんですので、あそびほうけている学生がくせいはいません。そのかわり、大学だいがく勉強べんきょういかめしかったですよ。定期ていき試験しけん場合ばあいも、先生せんせい範囲はんいげるだけ。日本にっぽんのように傾向けいこう対策たいさくのようなものはいっさいおしえてくれません。それでできなかったら落第らくだいですから、みんな必死ひっしなんです。」
 授業じゅぎょう形態けいたい日本にっぽんおなじで、講義こうぎ形式けいしきがほとんどです。ただ、日本にっぽん大学だいがくはいっておうさんがおどろいたことがあります。
 「日本にっぽん学生がくせいは、ほとんど先生せんせい質問しつもんしないんですね。こんな質問しつもんをしたら周囲しゅうい学生がくせいにどうおもわれるかというような遠慮えんりょもあるようです。中国ちゅうごくでは、授業じゅぎょう一区切ひとくぎりすると、学生がくせいがばらばらと教壇きょうだんのまわりにあつまってきて、先生せんせい質問しつもんします。べつ質問しつもんしたからといって、平常へいじょうてんがるとか、評価ひょうかわるというのではありません。ただ、やるのある学生がくせいほど、熱心ねっしん質問しつもんするものだという雰囲気ふんいきはありますね。その熱意ねついをわざわざかく必要ひつようはどこにもありませんから、いきおい質問しつもん活発かっぱつになるんです。」
 この指摘してきに、またまたかんがえさせられてしまいました。じつはおうさんとおなじような意見いけんを、ほかのくに留学生りゅうがくせいたちからもかされているからです。どうも、日本にっぽん大学生だいがくせい積極せっきょくせいのなさは、留学生りゅうがくせい奇異きいなものとうつるようです。だとすれば、知識ちしき注入ちゅうにゅうがた授業じゅぎょうだから学生がくせい姿勢しせいになっているというだけでなく、日本にっぽん場合ばあいにはもっとふか原因げんいんがあるということになるはずです。

渡部わたなべあつし国際こくさい感覚かんかくってなんだろう」)



長文ちょうぶん 1.4しゅう
 じゅうねんほどまえ、ボルドーのちかくをはしっていて、くるまの接触せっしょく事故じこをおこしたことがある。人身じんしんにはなん影響えいきょうもなかったし、こちらの日本にっぽんせい車体しゃたいがへこんだくらいで、なん日本にっぽんのくるまはよわいんだといまいましいくらいのものであったが、――それにこちらにもいいぶんがあり、相手あいてにも幾分いくぶんがあったのだが――。
 それでもくちをついてたのは「すみません」ということばであった。相手あいて朴訥ぼくとつ農民のうみん夫婦ふうふで「はじめてパリへって無事故むじこかえってきたのに……」と愚痴ぐちをさんざんならべていた。
 しばらくして「しまった」とおもった。「すみません」とは、あやまり文句もんくである。こちらがあやまってしまえばもうそれでおしまい。はすべて当方とうほうがかぶらねばならない。
 そのことは、フランスへて、くどくわれていたのだ。問題もんだいをおこしたら、ぜったいにあやまってはいけない。こちらの責任せきにんがいくら明白めいはくなときでも、まず「なんじなんじとがめとがガアル」(?ous avez tort.)とうべきである。そうでないと、賠償ばいしょう責任せきにんはすべてこちらがわねばならぬ。「すみません」とはくちけても(――はちとおおげさだが)ってはならぬ。自動車じどうしゃ保険ほけん契約けいやく注意ちゅういしょにさえ「事故じこのときにあやまってはならぬ」といてある。にもかかわらず、日本人にっぽんじんであるわたしはつい「すみません」とってしまった。習慣しゅうかんはおそろしいものである。
 リリアーヌ・エルという女性じょせいは「あやまるということ」(『しおうしお昭和しょうわじゅうさんねんよんがつごう)というエッセイのなかで、にちふつ比較ひかく文化ぶんかのおもしろい観点かんてんしている。日本人にっぽんじん簡単かんたんにあやまる。フランスじんはなかなかあやまらない。どうしてか、という問題もんだいである。彼女かのじょいているれいは、仲間なかま裏切うらぎったやくざが、のちに仲間なかまにリンチをけるというテレビドラマの場面ばめんである。彼女かのじょおな状況じょうきょうえがいたドラマを日本にっぽんとフランスでた。状況じょうきょう結果けっかはまったくおなじである。どちらも、見下みさげたやつとして仲間なかまに憐まれ、ゆるされる。ところが、その過程かていの、憐みを文句もんくがちがう。日本にっぽんだと「わるかった! ゆるしてくれ」とい、フランスだと「おれがわるいんじゃない! ころさないでくれ」とう。まるでせい反対はんたいである。
 ここでわたしいたいのは、フランスでの「自分じぶんわるかった」ということばのおもみである。かみまえ自己じこぜん人格じんかく否認ひにんするということ、それが自分じぶんあくをみとめるということである。これは勇気ゆうきある行為こういである。もし、やくざがそんな勇気ゆうきある行為こういしめせば、ひとかれ尊敬そんけいし、そして簡単かんたんころしてしまうだろう。憐みをうたことにはならないのだ。憐みを場合ばあいは、状況じょうきょうわるかったとくどくどと弁解べんかいしなければならないのだ。
 日本にっぽんではちょうどぎゃくである。弁解べんかいすれば、憐みはかけてもらえぬ。弁解べんかい理屈りくつであり、理屈りくつ卑怯ひきょうである。ただ一言ひとことわるかったとあやまる。このあたまげるというのが、日本にっぽん社会しゃかいでゆるしのえられる唯一ゆいいつ行為こういである。
 「わるかった」とっても、日本にっぽんでは勇気ゆうきある行為こういとはいえない。みんな、いつでも「わるかった」とあやまる。つまり社会しゃかいてき定型ていけいである。ひとは、定型ていけいによって憐みをもとめ、定型ていけいによって憐みをあたえる。ものっているのは、文化ぶんかかたである。
中略ちゅうりゃく
 絶対ぜったいつみというものはない。しかし、おたがいにちいさなあくちいさな迷惑めいわくをかけあっている。それは無意識むいしき領域りょういきにちらばっているので、いちいちとりたててはえないくらいである。だから、たえず「すみません」とう。「すみませんでむか」とわれればそのとおり、といった重大じゅうだい場面ばめんでは、「ではどうすればむのですか、あなたの気持きもちのむようになさってください」という「すみません」の語源ごげんせまるような科白せりふせりふてくる。もっとも「どうすればむのか」という反問はんもんじたい、あやまる文化ぶんかかたにそむいている。これは日本にっぽんでは反抗はんこうであり皮肉ひにくである。
 というわけで、もっぱらわたしたちはこしひくくしている。日本にっぽん文化ぶんかかたになじんだ外国がいこくじんのなかには、こしを――というよりをかがめて愛想あいそわらいをふりまくひともいる。いつだったか、約束やくそくをたがえた外国がいこくじんがおり、その人物じんぶつつぎわたしったとき、かれは「日本にっぽんふう」に海老えびのようにまげ、謝罪しゃざいしたものである。その極端きょくたん姿勢しせいにおどろいた。わたしたちは、外国がいこくじんというかがみうつった自分じぶんたちの文化ぶんか姿すがたにおどろくのである。

 エルさんはフランスじん論理ろんりきには、ふたつの種類しゅるいがあるという。客観きゃっかんてき普遍ふへんてき論理ろんりと、もうひとつは、自分じぶん立場たちばをあくまで正当せいとうしようとする論理ろんりへきと、である。後者こうしゃの、いわばフランスじんくせのようなものが前者ぜんしゃかたちづくり、前者ぜんしゃぎゃくに、後者こうしゃくせ助長じょちょうするということがあるのだろう。
 とりあえずあやまるという日本にっぽん文化ぶんかには、ひとひととのつながりをなめらかにするという普遍ふへんてき知恵ちえつうじるものがある。同時どうじに、なんでも「すみません」でとおそうとするあつかましさもある。むとかまないとか――そんなことを意識いしきしないで、ともかく「すみません」とっている。感謝かんしゃでも謝罪しゃざいでもない。「すみません」というのは、あやまる文化ぶんかかたをつたえることばである。同時どうじに、安直あんちょくなことばでもある。後者こうしゃはむしろ、伝統でんとうをなしくずしにするめんがある。
 ひとつのことばをめぐって、伝統でんとうと、それをなしくずしにしようというちからと、その双方そうほうがせめぎあっているようである。
 ことばはむずかしいものである。ことばの解釈かいしゃくもむずかしいものである。外国がいこくじんは、あやまる文化ぶんか卑屈ひくつさをいだして感心かんしんしたりするが、ことは(すくなくともいまは)それほど簡単かんたんではないようにおもわれる。

多田ただ道太郎みちたろう日本語にほんご作法さほう』)


長文ちょうぶん 2.1しゅう
 学生がくせいさんがってほしい、と小説しょうせつじゅうさつほどはこんできた。全部ぜんぶ一人ひとり作家さっか著作ちょさく現在げんざい活躍かつやくちゅうわか著者ちょしゃで、残念ざんねんながら古書こしょはつかない。大事だいじにしなさい、とおひきとりねがった。大事だいじにせよ、は古本屋ふるほんやのおことわ辞令じれいである。だが学生がくせいには通用つうようしない。若者わかもの人気にんきのある作家さっかだから確実かくじつれる、と演説えんぜつはじめた。ひいきにする著者ちょしゃゆえ無理むりもない。しかし商売しょうばいべつだ。
 なん固辞こじしたが、無料むりょうでよいからたなならべてほしい、と哀願あいがんする。敬愛けいあいする作家さっかがかわいそうだ、とごとをいいだした。まさかタダでもらうわけにはいかない、なにがしをはらってった。わずらわしくなったのである。こっそりてればよい、というはらだった。
 ところが翌日よくじつやってきて、れましたか? とく。かれ自分じぶんきゅう蔵書ぞうしょたなならべられていない不当ふとうをなじりだした。えば当方とうほう勝手かってだ、とわたし抗弁こうべんした。いやほん場合ばあいべつだ、きゃくがゆだねたのであって、古本屋ふるほんやらねばならぬ使命しめいがある、とごたくならはじめた。
 古本屋ふるほんや作家さっか作品さくひんころ権利けんりはない、と気色けしきばんだ。うるさくてかなわないので、たな一隅いちぐう全部ぜんぶ陳列ちんれつした。学生がくせいはこれを満足まんぞくしてかえった。
 どうせれるわけがないのである。古本屋ふるほんや評価ひょうか根拠こんきょがあいまいとはうものの、いぶちにそくはねかえるのでかんはたらきはするどいのだ。
 いちカ月かげつたった。あんじょういちさつれない。きゃくもいない。ほおれたことか、とわたしおもわずったが、よろこんでいる場合ばあいじゃない。勤労きんろう奉仕ほうしではないのである。学生がくせいがやってきて、まだれませんか、とあきれている。ご主人しゅじん販売はんばい不熱心ふねっしんだからだ、とたりするので一喝いっかつした。あやうく作家さっか悪口わるぐちいそうになった。そんなにがもめるなら、いっそきみれ、とふてくされると、そうしますと素直すなおおうじた。
 こちらのわりしでもどしてくれればよい、と機嫌きげんなおすと、そんな馬鹿ばかな、いちわり手数料てすうりょうがいいとこでしょう、とう。なららぬ、とわたしはつむじをげた。
 きみ自分じぶん尊敬そんけいする作家さっかぎるのか、となじると、学生がくせいはひるんだ。理屈りくつはそうなる、とたたみかけると、撤回てっかいします、とあたまをさげた。多少たしょうこましゃくれていても、かれ案外あんがいのいいやつかもしれなかった。自分じぶんきゅう蔵書ぞうしょをバッグにつめながら、結局けっきょく自分じぶんなにをしていたんだろう、とつぶやいた。そしてかおをあげて真剣しんけんうったえた。
本屋ほんやさん、ぼくの読書どくしょはまちがっているんでしょうか。だってぼくのんでいるほん古本ふるほん価値かちがこんなにやすいなんて、なんだかなさけなくなりました。読書どくしょうちがまるでない」
 そこで古書こしょというものはてにならぬものなのだ、と冒頭ぼうとうはなしをした。

久根くね達郎たつお読書どくしょうち』)



長文ちょうぶん 2.2しゅう
 校庭こうていすみ水道すいどうじょうで、蛇口じゃぐちくちをつけてみずんでいる竜夫たつお頭上ずじょうで、あっというこえこえた。竜夫たつおかおをあげると、おなじクラスのおんな生徒せいと薄笑うすわらいをかべてっていた。
「いまそこで英子えいこちゃんもみずんだがや。英子えいこちゃん、きっとよろこぶわァ……」
「だら、へんなこというな」
 竜夫たつおくちあごらしたまま、校庭こうていはしっていった。どこをめざしてはしっているのかわからなかった。そのおんな生徒せいとおもいがけない言葉ことばかお火照ほてらしていた。
 授業じゅぎょうはじまると、竜夫たつおまどぎわのせきすわっている英子えいこなんぬすた。
 竜夫たつお授業じゅぎょう教室きょうしつ廊下ろうかあるいていく英子えいこをうしろからめた。
ぎんじいちゃんが蛍狩ほたるがりほたるがりにこうって。英子えいこちゃんも一緒いっしょかんけ?」
「……あのぼたるのこと?」
 英子えいこ銀蔵ぎんぞうはなしおぼえていた。
「うん、今年ことしはきっとよるって。ことしをはずしたら、もういつよるかわからんてぎんじいちゃんがうとるがや」
 英子えいこはもともと無口むくちむすめであった。竜夫たつおかたのあたりにをやりながら、だまってかんがえこんでいた。中学ちゅうがくはいって、こうやってにんきりで言葉ことばわすのははじめてのことだった。
「いつくがや」
「……まだわからん、田植たうえはじめるころが、ぼたる時期じきやと」
かあさんにいてみる」
「おばさん、きっと駄目だめやってうにまっとる」
「……なァん。そんなことわんよ」
英子えいこちゃんはきたいがか?」
「うん……きたい」
 おな年頃としごろむすめたちとくらべると、英子えいこはそんなにたかいほうではなかったが、それでも一時期いちじき竜夫たつおたつおよりもおおきかったときがある。竜夫たつお晩生ばんせいおくてだったからだが、いまこうしてならんでみると、いつのまにかはるかに竜夫たつおほうおおきくなっていた。
 竜夫たつおはふと英子えいこ関根せきねのことをはなしたい衝動しょうどうにかられた。自分じぶんまえから永久えいきゅう姿すがたしてしまったとももまた、自分じぶんおなじように、いやひょっとしたら自分じぶんよりももっとひたむきに、英子えいこかれていたのであった。
関根せきね英子えいこちゃんの写真しゃしんっとったがや」
 と竜夫たつおった。英子えいこけっして関根せきねのことをわるおもわないだろうという確信かくしんがあった。
「……写真しゃしん?」
「うん。英子えいこちゃんのつくえからぬすんだがや」
 おもたるように、英子えいこひらいて、とおくに視線しせんをそらした。ざかりのみち自転車じてんしゃってとおざかっていく関根せきねけいふとし最後さいご姿すがたおもすと、竜夫たつお突然とつぜん英子えいこたいして防備ぼうびになっていった。
「その写真しゃしんを、おれ関根せきねからもろたがや。友情ゆうじょうのしるしやとうて、関根せきねがくれたがや」
 そのとき級友きゅうゆうたちが廊下ろうかこうからやってくるのがえた。竜夫たつおあわてて、英子えいこった。
蛍狩ほたるがりほたるがり、く?」
「うん、く。かあさんにたのんでみる」
 竜夫たつお教室きょうしつけもどった。だれかにはなしかけられて、それにこたかえ竜夫たつおこえが、いつまでもうわずっていた。
 つぎ授業じゅぎょうはじまってすぐ、用務員ようむいん教室きょうしつはいってきて、教師きょうしなにやら耳打みみうちした。教師きょうし竜夫たつおせきまでると、
校門こうもんのところでおかあさんがっとられるからかえれ……」
 とささやいた。竜夫たつおは、ちちぬのだとその瞬間しゅんかんおもった。教室きょうしつていく竜夫たつおたつお級友きゅうゆうたちは一斉いっせいつめていた。まどぎわの英子えいこかおがぼっとしろくかすんでえた。 (宮本みやもとあきら螢川ほたるがわ』)


長文ちょうぶん 2.3しゅう
「うるせえんだよ、あいつ」「ったく、ちょームカつくよな」――少年しょうねんではない。少女しょうじょたちの会話かいわである。電車でんしゃのなかやまちで、こういった言葉ことばづかいをみみにすることは、めずらしくない。
最近さいきんおんなときたら、まったくなげかわしい」と嘆息たんそくされるかたもおおいだろう。身内みうちにそういうおんながいれば「なんて言葉ことばをつかうんだ。はしたない」としかひとおおいとおもう。
 なぜ、彼女かのじょたちは、このような乱暴らんぼう言葉ことばづかいをするのだろうか。ひとつは、「おんならしさ」という社会しゃかい通念つうねんやぶることへの、爽快そうかいかんではないかとおもう。「おんなおんならしく」という、ある意味いみでは大人おとなからのしつけの価値かちかんがある。それへの反発はんぱつではないだろうか。
 乱暴らんぼうないいかたはじめてためしてみたとき、やはり彼女かのじょたちには彼女かのじょたちなりの、抵抗ていこうかんがあったことだろう。が、ひとたび垣根かきねえてしまうと、意外いがいなほど、らくちんでさっぱりした世界せかいひろがっていた。
 いまほど極端きょくたんではないけれど、わたし高校生こうこうせいのころは、女子じょし生徒せいとのあいだで、自分じぶんのことを「ぼく」とぶのが流行はやっていた。わたし自身じしんはじめて自分じぶんのことを「ぼく」とってみたとき、なんともいえない不思議ふしぎ気分きぶんになった。その不思議ふしぎさは、やがて気持きもちよさに変化へんかする。つながれていたひもがぱっとえたような解放かいほうかんだった。母親ははおやはとてもいやがったけれど、結局けっきょく卒業そつぎょうするまで、わたしは「ぼく」だった。
 たぶんおなじような解放かいほうかんを、あじわっているのだろうなとおもいつつ、いま少女しょうじょらを観察かんさつしている。が、ときには、これはもっと根深ねぶかいものをはらんでいるのかもしれない、とおもうこともある。おとこ言葉ことば以上いじょう乱暴らんぼう表現ひょうげんみみにしたりすると、なんだか痛々いたいたしい、とさえおもえてくる。無理むりにそこまで自分じぶんをもっていかなくてもいいんじゃない? もっとかたちからいたら? とはなしかけたくなる。
 乱暴らんぼう言葉ことば自分じぶんのまわりをかためることによって、きずつきやすいしんを、彼女かのじょらはまもっているのかもしれない。
「ざけんじゃねえよ」「おまえにガタガタいわれたくねえな」――ごつごつしてとんがった言葉ことばを、よろいのようににつける少女しょうじょたち。彼女かのじょらは、なにをそんなに警戒けいかいしているのだろうか。
おんならしい言葉ことばをつかいなさい」としかることは簡単かんたんだ。が、よごれたてぃーシャツをぐのとはわけがちがう。言葉ことばは、しんうつすものだから。

たわら万智まち『かすみそうのおねえさん』)




長文ちょうぶん 2.4しゅう
 保吉やすきちうみったのはさいろくさいころである。もっともうみとはいうものの、万里ばんり大洋たいようったのではない。ただ大森おおもり海岸かいがん狭苦せまくるしい東京とうきょうわんったのである。しかし狭苦せまくるしい東京とうきょうわん当時とうじ保吉やすきちには驚異きょういだった。奈良ならあさ歌人かじんうみせるこいを「大船おおぶね香取かとりうみいかりおろしいかなるひとかものおもわざらん」とうたった。保吉やすきちはもちろんこいらず、万葉集まんようしゅううたなどというものはなおさらひとつもらなかった。が、にちひかりけむったうみなにみょうにものがなしい神秘しんぴかんじさせたのは事実じじつである。かれうみしたかやすだれりの茶屋ちゃやすりにいつまでもうみながめつづけた。うみしろじろとかがやいたかけせんなんそうかべている。ながけむりそらいたほんのマストの汽船きせんかべている。つばさなが一群いちぐんかもめはちょうどねこのようにきかわしながら、海面かいめんななめにんでった。あのふねかもめはどこから、どこへってしまうのであろう? うみはただ幾重いくえかの海苔のり粗朶そだこうにあおあおとけむっているばかりである。……
 けれどもうみ不可思議ふかしぎをいっそうあざやかにかんじたのははだかになったちち叔父おじ遠浅とおあさなぎさりたときである。保吉やすきちはじすなうえしずかにせてくるさざなみこわれた。が、それはちち叔父おじうみなかへはいりかけたほんのさんぶん感情かんじょうだった。そのかれはさざなみはもちろん、あらゆるうみこう享楽きょうらくした。茶屋ちゃやすりにながめていたうみはどこか見知みしらぬかおのように、めずらしいと同時どうじ無気味ぶきみだった。――しかし干潟ひがたってうみおおきい玩具おもちゃばこおなじことである。玩具おもちゃばこ! かれ実際じっさいかみのようにうみという世界せかい玩具おもちゃにした。かに寄生きせいかいまばゆ干潟ひがた右往左往うおうさおうあるいている。なみいまかれまえいちふさの海草かいそうはこんできた。あの喇叭らっぱているのもやはり法螺貝ほらがいというのであろうか? このすななかかくれているのは浅蜊あさりというかいちがいない。……
 保吉やすきち享楽きょうらく壮大そうだいだった。けれどもこういう享楽きょうらくなかにも多少たしょうさびしさのなかったわけではない。かれ従来じゅうらいうみいろあおいものとしんじていた。両国りょうこくの「大平おおひら」にっている月耕げっこう年方としかた錦絵にしきえをはじめ、当時とうじ流行りゅうこう石版せきばんうみはいずれもおなじようにまっさおだった。こと縁日えんにちの「からくり」のせる黄海こうかい海戦かいせん光景こうけいなどは黄海こうかいというのにもかかわらず、毒々どくどくしいほどあおなみしろなみがしらをおどらせていた。しかし目前もくぜんうみいろは――なるほど目前もくぜんうみいろおきだけはあおあおとけむっている。が、なぎさちかうみすこしもあおいろびていない。まさにぬかるみのたまりすいえらぶところのないどろしょくをしている。いや、ぬかるみのたまりすいよりもいっそうあざやかな代赭たいしゃしょくたいしゃいろをしている。かれはこの代赭たいしゃしょくたいしゃいろうみ予期よき裏切うらぎられたさびしさをかんじた。しかしまた同時どうじ勇敢ゆうかんにも残酷ざんこく現実げんじつ承認しょうにんした。うみあおいとかんがえるのはおきだけ大人おとなあやまりである。これはだれでもかれのように海水浴かいすいよくをしさえすれば、異存いぞんのない真理しんりちがいない。うみじつ代赭たいしゃしょくたいしゃいろをしている。バケツのさび代赭たいしゃしょくたいしゃいろをしている。
 さんじゅうねんまえ保吉やすきち態度たいどさんじゅうねん保吉やすきちにもそのままはままる態度たいどである。代赭たいしゃしょくたいしゃいろうみ承認しょうにんするのは一刻いっこくはやいのにしたことはない。かつまたこの代赭たいしゃしょくたいしゃいろうみあおうみえようとするのは所詮しょせん徒労とろうに畢るだけである。それよりも代赭たいしゃしょくたいしゃいろうみなぎさうつくしいかい発見はっけんしよう。うみもそのうちにはおきのようにいちめんあおあおとなるかもれない。が、将来しょうらいあこがれるよりもむしろ現在げんざい安住あんじゅうしよう。――保吉やすきち預言よげんしゃてき精神せいしんんださん友人ゆうじん尊敬そんけいしながら、しかもなおしん一番いちばんそこにはあいかわらずひとりこうおもっている。
 大森おおもりうみからかえったのちはははどこかへったかえりに「日本にっぽんむかしはなし」のなかにある「浦島うらしま太郎たろう」をってきてくれた。こういうお伽噺とぎばなしんでもらうことのたのしみだったのはもちろんである。が、かれはそのそとにももうひとたのしみをわせていた。それはありわせの水絵みずえ一々いちいち挿絵さしえいろどることだった。かれはこの「浦島うらしま太郎たろう」にもさっそく彩色さいしきくわえることにした。「浦島うらしま太郎たろう」はいちさつなかじゅうばかりの挿絵さしえふくんでいる。かれはまず浦島うらしま太郎たろうかごみやりゅうぐうるのいろどりはじめた。かご(りゅうみやみどり屋根やねわた(がわらあかはしらのある宮殿きゅうでんである。乙姫おとひめは――かれはちょっとかんがえたのち乙姫おとひめもやはり衣裳いしょうだけはいちめんあかいろることにした。浦島うらしま太郎たろうかんがえずともい。漁夫ぎょふ着物きもの藍色あいいろ腰蓑こしみのうす黄色きいろである。ただほそ竿ざおにずっと黄色おうしょくをなするのは存外ぞんがいかれにはむずかしかった。みのかめだけをみどりるのはなかなかなまやさしい仕事しごとではない。最後さいごうみ代赭たいしゃしょくたいしゃいろである。バケツのさび代赭たいしゃしょくたいしゃいろである。――保吉やすきちはこういう色彩しきさい調和ちょうわ芸術げいじゅつらしい満足まんぞくかんじた。こと乙姫おとひめ浦島うらしま太郎たろうかおすすきあかいろくわえたのはすこぶ生動せいどうおもむきでもつたえたもののようにしんじていた。
 保吉やすきちはそうそうははのところへかれ作品さくひんせにった。なにいものをしていたはは老眼鏡ろうがんきょうがくしに挿絵さしえ彩色さいしきうつした。かれ当然とうぜんははくちから言葉ことばるのを予期よきしていた。しかしはははこの彩色さいしきにもかれほど感心かんしんしないらしかった。
うみいろはおかしいねえ。なぜあおいろらなかったの?」
「だってうみはこういういろなんだもの。」
代赭たいしゃしょくたいしゃいろうみなんぞあるものかね。」
大森おおもりうみ代赭たいしゃしょくたいしゃいろじゃないの?」
大森おおもりうみだってまっあおだあね。」
「ううん、ちょうどこんなしょくをしていた。」
 ははかれ強情ごうじょう加減かげん驚嘆きょうたんまじえた微笑びしょうらした。が、どんなに説明せつめいしても、――いや、癇癪かんしゃくこしてかれの「浦島うらしま太郎たろう」をいたのちでさえ、このうたが余地よちのない代赭たいしゃしょくたいしゃいろうみだけはしんじなかった。……

芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけ少年しょうねん」)


長文ちょうぶん 3.1しゅう
 日本人にっぽんじん平均へいきん寿命じゅみょう随分ずいぶんながくなった。われわれがどもだったころは、ろくじゅうさいなどというとまったくの「おじいさん」とおもったものだ。ななじゅうさい現在げんざいでは、「古来こらいまれなり」とはえなくなってしまった。ななじゅうさいえてきるひとほうおおくなったのである。余程よほどのことでもないかぎり、人間にんげんだれしも長寿ちょうじゅねがうのだから、このことは大変たいへんよろこばしいことだが、よろこんでばかりもいられないというのが、実状じつじょうではないだろうか。というのは、寿命じゅみょうびた老人ろうじんたちがいかにきるか、という問題もんだいしょうじてきたからである。
 わたしは、じゅうねんほど以前いぜんに、はじめてアメリカにったとき、非常ひじょう印象いんしょうのこったことのひとつに、公園こうえんにたむろしている老人ろうじんたちの姿すがたがあった。ひる公園こうえんには、おおくの老人ろうじんたちがすわりこんでいて、なにもせずにじっとしているのである。つまり、かれらは社会しゃかいからも家族かぞくからも「無用むようひと」とされ、ただ時間じかんをつぶすために公園こうえんにいるのである。その当時とうじ日本にっぽんはまだ物資ぶっし不足ふそくなやんでいた。しかし、日本にっぽん老人ろうじんたちのほうがアメリカの老人ろうじんたちより幸福こうふくなのではないかとかんじたことを、いまもよくおぼえている。
 ところで、日本にっぽんもその急激きゅうげき発展はってんげ、「先進せんしんこく」の仲間入なかまいりをしたわけだが、それにともなって老人ろうじんかた問題もんだいおおきくなってきたわけである。文明ぶんめいすすむと、どうして老人ろうじん不幸ふこうになるのか。それは、文明ぶんめいの「進歩しんぽ」というかんがえが、老人ろうじんきらうからである。文化ぶんかにあまり変化へんかがないとき、老人ろうじん知者ちしゃとして尊敬そんけいされる。しかし、そこに急激きゅうげきな「進歩しんぽ」がしょうじるとき、老人ろうじんは、むしろ進歩しんぽからのこされたものとして、見捨みすてられてしまうのである。
 近代きんだい科学かがくは、その急激きゅうげき進歩しんぽによって人間にんげん寿命じゅみょうばすことに貢献こうけんしつつ、一方いっぽうでは、それをささえる進歩しんぽ思想しそうによって、老人ろうじんたちを見捨みすてようとしている。この両刃りょうばもろはけんつるぎによって、おおくの老人ろうじん悲劇ひげきなかいやられているのである。
 老人ろうじんが、ただ年老としおいているというだけで尊敬そんけいされる時代じだいぎてしまった。そこで、老人ろうじんたちも「進歩しんぽ」におくれてはならないとおもう。老人ろうじんたちは、そこで「いつまでもわかく」ありたいとおもいはじめた。若者わかものけないちからをもっていてこそ老人ろうじん尊敬そんけいけるのだから、老人ろうじんわかさをたも努力どりょくをしなければならない、というわけである。しかし、そんなことは可能かのうであろうか。
 最近さいきんわたしはスイスの精神療法せいしんりょうほうのユングについて、『ユングの生涯しょうがい』という伝記でんきいた。そのとき非常ひじょうしんたれたのは、かれ主著しゅちょぶべきおおくの著作ちょさくが、ななじゅうさい以後いごかれていることをったことであった。かれはちじゅうろくさい死亡しぼうするが、いち週間しゅうかんまえも、なおつくえかってきものをしていたという。かれがこのようなちから年老としおいてもたもつことのできた秘密ひみつはどこにあるのだろうか。
 ユングは「人生じんせい後半こうはん」の意味いみ重要じゅうようせいをよく強調きょうちょうする。人生じんせい太陽たいよう運行うんこう軌跡きせきにたとえるなら、人間にんげん中年ちゅうねんにおいてその頂点ちょうてんたっし、以後いごは「くだることによって人生じんせいまっとうする」ことをかんがえねばならない。人生じんせい前半ぜんはんにおいては、上昇じょうしょう中心ちゅうしん主題しゅだいであり、社会しゃかいてき地位ちい家庭かていなどをきずくことが大切たいせつであるが、人生じんせい後半こうはんにおいては、「いかにしてむかえるか」におもいをいたすことが重要じゅうようである、というのである。きることは、もちろん大切たいせつであるが、中年ちゅうねん以降いこうにおいて、人間にんげんはいかにへの準備じゅんび完成かんせいしてゆくかがおおきな主題しゅだいとなるのである。
 これはひとによっては、奇異きいかんじをけるかもしれない。ななじゅうさいえてから、壮者そうしゃ顔負かおまけのおおくの仕事しごとをなしとげたひとが、いかにぬかということを強調きょうちょうするのは、なんだか矛盾むじゅんするようにかんじられないだろうか。しかし、のところ、このてんいることの逆説ぎゃくせつ存在そんざいしているようにおもえるのである。
 われわれは「い」をけることができたとしても、「」をけることはできない。したがって、いかにけいれるかは、いかにいるかの中心ちゅうしん問題もんだいであり、ここに不思議ふしぎ逆説ぎゃくせつ存在そんざいしているとおもわれる。
 がん宣告せんこくけ、手術しゅじゅつ不能ふのうわれてから、医者いしゃ予期よきはんしてながつづけるひとがあることは、最近さいきんよくられるようになった。このようなてん研究けんきゅうしたあるアメリカの心理しんり学者がくしゃは、興味深きょうみぶか結果けっか見出みいだした。つまり、がん宣告せんこくけて、まったく気落きおちしたひと早死はやじににする。それと同時どうじに、なにとかこれにけずに頑張がんばこうと努力どりょくするひと早死はやじににすることがわかったのである。
 それでは、長命ちょうめいするひとはどんなひとであろうか。このようなひとは、がんとうともせず、けることもなく、それはそれでけいれて、ともかくのこされた人生じんせいを、あるがままにきようとしたひとたちであった。これはもちろん、うはやすく、おこなうはかたいことである。しかし、勝負しょうぶえたかた存在そんざいし、そこに建設けんせつてき意味いみがあることを見出みいだしたことは素晴すばらしいことだ。
 人間にんげんかならぬのであってみれば、人間にんげんはすべての進行しんこうおそがんになっているようなものである。若者わかものたたか姿勢しせいいてそのままつづけることも、弱気よわきになってしまうのもよくない。しかし、そのいずれでもない「けいれ」こそが、われわれの老年ろうねんをよりきとしたものとするのではないだろうか。ここにいの逆説ぎゃくせつ存在そんざいしているようにおもう。
 このようにかんがえると、中年ちゅうねんのときからおもいをいたすべきだと主張しゅちょうしたユングが、直前ちょくぜんまで、仕事しごとをやりいた秘密ひみつもわかるがするのである。いかにしてわかさをたもつかに努力どりょくするのではなく、いかにしてけいれるかにりょくをそそぐことが、いてゆくためには大切たいせつであり、その仕事しごと個人こじん個人こじん中年ちゅうねんからはじめていくべきことである。これについては近代きんだい科学かがく解答かいとうあたえてはくれない。

河合かわい隼雄はやおはたらきざかりの心理しんりがく」)


長文ちょうぶん 3.2しゅう
 では正月しょうがつになると、一家いっか全員ぜんいん写真しゃしんかん記念きねん写真しゃしんりにかけることが、まつうち行事ぎょうじであった。写真しゃしんかん日取ひどりや時間じかんは、年末ねんまつ連絡れんらくがしてあって、たいていは元旦がんたん食事しょくじおわってから全員ぜんいんかけた。両親りょうしん子供こどもろくにんにお手伝てつだいさんがくわわる。大変たいへんだった。写真しゃしんかん駅前えきまえにあって、毎年まいとしおな主人しゅじんおなじベレーぼうをかぶってあらわれた。
 ちち写真しゃしんきで、正月しょうがつ墓参はかまいり、それに子供こども入学にゅうがくしき卒業そつぎょうしきにはかなら写真しゃしんかんみなれてった。入学にゅうがくしき卒業そつぎょうしき制服せいふくおこなったが、それ以外いがい記念きねん撮影さつえいときにはちち姉達あねたち制服せいふくくことをきらった。
 一度いちど元旦がんたんあさ台所だいどころあねふくっていた。ははこまったかおをしてあね説得せっとくしていた。写真しゃしんかんでの撮影さつえいおわると、いつもそのまま子供こどもたちあそびにかけていいことになっていたので、たぶんあね友達ともだち初詣はつもうでなにかの約束やくそくをしていたのかもれない。
 あねちがふく着替きがえて食膳しょくぜんすわった。そこでおもってちちに、今年ことし記念きねん写真しゃしんふくおこなってよいか、とった。ちちあねかおをじっとて、
正月しょうがつ着物きもの用意よういしてもらわなかったのか」
ひくこえってから、ははをみた。ちちこえひくくなるときは、いかいち手前てまえだった。ちちがいったんいかしたら、いえなかすべてがまってしまう。そのこわさは、家族かぞく全員ぜんいんこわおそろしいほどっていた。
 近頃ちかごろ取材しゅざい写真しゃしんられることがおおくなった。わたし写真しゃしんられることが苦手にがてである。もうすこ自然しぜんに、とわれてもほおがひきつるばかりで、迷惑めいわくをかけることがおおい。それでも子供こどもころくらべると格段かくだん進歩しんぽである。
 とく写真しゃしんかん撮影さつえいがいけなかった。どうしてかわからないが、あのフラッシュをかれると十中八九じっちゅうはっくじてしまった。
「はい、もう一度いちど。ちょっとぼっちゃんがじましたよ」
とベレーぼう主人しゅじんわたし片手かたてしのべるようにして、丁寧ていねい口調くちょうう。ベレーぼう口元くちもとわらっているのだが、そのは、またこの坊主ぼうずをつぶった、という表情ひょうじょうをしていた。
 写真しゃしんじゅうにちくらいで出来できのぼってきた。そこでわたしわらしゃになった。じていたはずのわたしが、フランス人形にんぎょうのようにマツなが少年しょうねんになっている。姉達あねたちすほどの修整しゅうせいがされていたのである。
 一度いちど記念きねん写真しゃしんなおしになったことがあった。わたしかお修整しゅうせい写真しゃしんちちいかしたらしい。いやなことになったとおもった。
 写真しゃしんかんまえよるははわたし写真しゃしんうつされる要領ようりょうおしえてくれた。
 フラッシュがひかったときじるのは、それまでけようけようとしているからだ、だからそれまでは薄目うすめにしているように、とははった。そうしてわたし背後はいごにいるははが、撮影さつえい瞬間しゅんかんわたし背中せなかゆびいて、合図あいずをすることになった。これはなかなかの名案めいあんだとおもった。
 翌日よくじつ夕暮ゆうぐれ、全員ぜんいん写真しゃしんかんった。ちち撮影さつえいまえ別室べっしつ主人しゅじん小言こごとっていた。地声じごえおおきいひとだったから、そのはなしがスタジオで全員ぜんいんきこえた。わたしはよけいに緊張きんちょうした。ははるとわらってゆびててポンとたた仕種しぐさをした。写真しゃしんかん主人しゅじんあらわれた。かれがくあせをかいていた。わたし主人しゅじんった。それぞれの位置いちまると、写真しゃしんかん主人しゅじんわたしかおをじっとて、
ぼっちゃん、もうすこけましょうか」
った。しかしわたしははとの約束やくそくで、うすめをけたままにしていた。
ぼっちゃん、もうすこし……」
主人しゅじんがまたうと、
なにしとるんだ」
ちち大声おおごえ怒鳴どなった。すると、
大丈夫だいじょうぶです。ってください。どうぞ」
ははおおきなこえった。ははちちまえでそんなこえしたのを、わたしはじめていた……。
 あのころにとって一家いっかそろってどこかへかけるということは大変たいへんなことだった。はは数日すうじつまえからなにかと準備じゅんびをしていた。しかしこんかんがえてみると、ははちち癇癪かんしゃくおこさないようにとくばっていたのではなく、一家いっか全員ぜんいんかおそろえることが生活せいかつなか節目ふしめ節目ふしめときにしかないことをよくっていて、いえのしきたりのようなものをちゃんと子供こどもたちにもしつけようとしたのではないかとおもう。
 としせない家族かぞくがまだ沢山たくさんいた時代じだいだった。ひるよるはたらいて、ろくにん子供こどもなんじゅうにんかの従業じゅうぎょういん無事ぶじあたらしいとしむかえるということは大変たいへんなことだったはずだ。全員ぜんいん元気げんきとしせたあかし行事ぎょうじを、はは一番いちばんよろこんでいたのではないだろうか。
 いつのころからか、わたし姉達あねたち正月しょうがつ帰省きせいしなくなった。
 元日がんじつあさ緊張きんちょうしてちちまえならんだおも姉達あねたち、そしてわたしがいた。その時間じかんいまひどく大切たいせつなものにおもえて仕方しかたがない。なつかしんでいるのではない。正座せいざをして目上めうえひとまえすわるように、家族かぞくもとにちという時間じかんまえ正座せいざをしていたようにおもう。あのりつめた時間じかんは、ピンとった家族かぞくいとだったのではなかろうか。
 ははわたし背中せなかしてくれた写真しゃしんわたしまえに突んのめって、ビックリしたかおうつっている。は、ひらきすぎるほどひらいて……。

伊集院いじゅういんしず正月しょうがつ風景ふうけい家族かぞくいと」)


長文ちょうぶん 3.3しゅう
 小雨こさめが靄のようにけぶる夕方ゆうがた両国橋りょうごくばし西にしからひがしへ、さぶがきながらわたっていた。
 双子ふたごしま着物きものに、小倉おぐらほそ角帯かくおびいろせたくろぜんかけをしめ、あたまかられていた。あめなみだとでぐしょぐしょになったかおを、ときどきこうでこするため、のまわりやほおくろむらになっている。ずんぐりしたむくろからだつきに、かおもまるく、あたまとがっていた。――かれはしわたりきったとき、うしろから栄二さかえにってた。こっちはせたすばしっこそうなむくろ(からだつきで、おもながなかおまゆと、ちいさなひき緊ったくちびるが、いかにもかしこそうな、そしてきかぬつよ性質せいしつをあらわしているようにみえた。
 栄二さかえにいつくとともに、さぶのまえふさがった。さぶは俯いたまま、栄二さかえにをよけてとおりぬけようとし、栄二えいじはさぶのかたをつかんだ。
「よせったら、さぶ」とさかえった、「いいからかえろう」
さぶはこうき、むせびあげた。
かえるんだ」とさかえった、「きこえねえのか」
「いやだ、おら葛西かさいかえる」とさぶがった、「おかみさんにていけってわれたんだ、もうさんめなんだ」
「あるきな」とって栄二えいじひだりのほうへあごをしゃくった、「ひとるから」
 二人ふたり少年しょうねんはしのたもとをひだりまがった。あめおなじような調子ちょうしで、殆んどおともなくけぶっていた。
「おらほんとにらなかったんだ」とさぶがった、「ゆうべこなぶくろおさめとだなへしまってたときに、勝手かって使つかうからひとしておけって、おかみさんにわれた、だからひとつだけのこしといたんだ、そしたらそのふくろしっぱなしになってて、おかみさんは使つかったあとでしまっとけって、そのふくろかえしたのに、おれがしまいわすれたっていうんだ」
くせだよ、くせじゃねえか」
こな湿気しっけをくっちゃった、へまばかりする小僧こぞうだって」さぶはだてとまって、こうのまわりをこすりながらいた、「――おら、かえしてもらわなかった、そんなおぼえはほんとにねえんだ、ほんとにらなかったんだ」
くせだってば、おかみさんはなんともおもっちゃあいねえよ」
「だめだ、おら、だめだ、ほんとにとんまで、ぐずで、――自分じぶんでもってた、とてもつづけられやしねえ、もうたくさんだ」さぶはのどなじらせた、「おら、おもうんだが、いっそ葛西かさいかえって、百姓ひゃくしょうをするほうがましだって」
 ひろ河岸かわぎしどおりの、みぎ武家ぶけ屋敷やしきひだり大川おおかわで、もうすこしゆくとよこもうになる。折助おりすけとも人足ひとあしともわからない中年ちゅうねんの、ふうていのよくないおとこにんあなのあるかさをさして、なにかくちはやはなしながら、とおりすぎていった。そのおとこたちの、半纏はんてんしたからているはだかずねが、さかえにはひどくさむそうにみえた、さぶはあるきだしながら、小舟こぶねまちの「よし古堂ふるどうほうこどう」へ奉公ほうこうてからさん年間ねんかんの、やすひまもなくあびせられた小言こごと嘲笑ちょうしょう平手打ひらてうちのことをかたった。それはうったえのつよさではなく、あかのながきのような、よわよわしく平板へいばんなひびきをっていた。大川おおかわみずがときたま、おもいだしたように石垣いしがきはたき、ひくつぶやきのおとをたてた。
奉公ほうこうつらいのはどこだっておんなしこった、おかみさんのくちわるいのはくせだし」とさかえはつかえつかえった、「それにおめえ、おんななんてもともと、――くるまだ」
 栄二さかえにがさぶのうでさわり、二人ふたりだてとまってかわのほうへよけた。からの荷車にぐるまいたおとこがうしろからて、二人ふたりいぬいていった。
うでしょくけるのはからしつれえさ」とさかえつづけた、「かんがえてみな、葛西かさいかえったって、あさからばんまでわらってくらせやしねえだろう、それとも百姓ひゃくしょうはごしょうらくか」
葛西かさいのうちなら」とさぶがった、「ていけなんてわれることだけはありゃしねえ」
「ほんとにそうか」
 さぶは返辞へんじをしなかった。さかえ返辞へんじ期待きたいしていなかった。さぶは葛西かさいにある実家じっかのことをかんがえてみた。こしまがった喘息ぜんそくちの祖父そふよわちちと、おとこまさりではやははあさからはは喧嘩けんかえないくちやかましい兄嫁あによめさんにんいる弟妹ていまいと、んだくれのあにと、にんもいるおいめいたち。うすくらすすだらけな、ふるくてせまくて、ぜんたいが片方かたがたかたむいているいえや、反歩たんぶそこそこのせた田畑たはたなど。さぶは途方とほうにくれ、しゃくりあげながら、またあるきだした。
「おめえにゃあ田舎いなかがある」いっしょにあるきながら栄二さかえにった、「どんなうちにしろかえるところがあるからいい、だがおらあしんきょうだいも身寄みよりもねえひとりぼっちだ、今年ことしはる、おらあみせおいされるようなことをしちまった、おいるか、どっちかひとつという、とんでもねえことをしちまったんだ」
 さぶはそろそろといて、栄二さかえにかおた。好奇心こうきしんからではなく、戸惑とまどったようなつきであった。栄二えいじはふきげんな、おこってでもいるようなくちぶりで、自分じぶん去年きょねんからいくたびか帳場ちょうばぜにをぬすみ、それを主婦しゅふのおよしにみつかったのだ、と告白こくはくした。
 およしだけしかなかったのだろうか、それともすっかりっていて、わざとらないふうをよそおったのか、いずれにもせよ、栄二えいじぬほどじ、もうみせにはいられないとおもった。自分じぶんをぬすっとだなどとはかんがえもしなかったが、ぜにばこからぜにをつかみだした自分じぶん姿すがたが、あさましくてずかしくて、そのままみせにいるになれなかったのだ。
「だが、みせをとびだしてどこへゆく」とさかえつづけた、「おらあやっつのとし大鋸おがおおのこまちなつ火事かじにあい、両親りょうしんいもうとなれた、おれ一人ひとり白魚しらうお河岸かわぎしりにいっていてたすかったが、ほかに身寄みよりはいちけんもなかった、おやじは伊勢いせからたとってたが、伊勢いせのどこだかおらあおぼえちゃいねえし、おぼえていたってたよってゆけるもんじゃあねえ、おらあそのときくれえ自分じぶんにうちのねえことがかなしかったこたあなかった」
らなかった、おら、ちっともらなかった」とさぶがつぶやいた、
「――それでさかえちゃんは、がまんしたんだね」
ぜに二度にどとはぬすまなかった」
 二人ふたりよこもう河岸かわぎしまでてい、さぶがだてとまって、地面じめんをみつめ、れておもくなった草履ぞうりさきで、地面じめん左右さゆうにこすった。

山本やまもと周五郎しゅうごろう「さぶ」)


長文ちょうぶん 3.4しゅう
 オーストラリアのヨーク半島はんとうのつけね、西側にしがわにいたイル=イヨロントぞく変化へんかてみます。
 かれらは食料しょくりょう採集さいしゅうみんで、りをしたりあつめたりという生活せいかつをしていました。かれらにとっても石斧せきふいしおのおとこのものでした。おくさんや子供こどもりることはできましたけれど、りるとき、かえすときのあいさつは、おっとつまに、ちち優位ゆういっていることをたしかめる機会きかいでした。そこへ白人はくじんがやってきて、てつおのはいってきました。イル=イヨロントぞくひとびとが白人はくじん手助てだすけをすると、その代償だいしょうとしててつおのをくれたりします。ときには、おくさんがてつおのをもらうことがあります。おっとのほうはいしおのしかもっていないのに、おくさんがてつおのをもっていることになります。そうすると、「すまんけど、おまえのてつおのしてくれ」ということもおきてきます。これがいしてつわったことでおきたさまざまな結果けっかひとつです。
 もっと重要じゅうようなことは、イル=イヨロントぞくいた時間じかんをどう使つかったかということです。このてんにいまわたしおおきな関心かんしんをもっています。
 いた時間じかん使つかって、なんとかれらはひるねをしたのです。わたしはじつは、その部分ぶぶんんだときにしてしまいました。このわらいには軽蔑けいべつ意味いみもふくまれていたとおもうのです。ところが、わたしのこの感想かんそうはじつはまちがっていた、といまはおもっています。
 せんねんまえ日本にっぽんではどうだったでしょうか。いしからてつへとわってきたときに、弥生やよいじんはおそらくいた時間じかん宴会えんかい出席しゅっせきすることも、昼寝ひるねをすることもしませんでした。いしからてつへの変化へんかを、生産せいさんりょく飛躍ひやくてき増大ぞうだいにつなげたのです。いままでいしおの一本いっぽんたおしている時間じかんで、よんほんたおすというぐあいに、すごく生産せいさんりょくたかめたのです。
 よん世紀せいきろく世紀せいき古墳こふん時代じだい)の農民のうみんはたらものだったことは、群馬ぐんまけん火山かざん噴火ふんか洪水こうずい直後ちょくご復旧ふっきゅう工事こうじにとりくんだ証拠しょうこからわかっています。また、日本にっぽん農業のうぎょうくさをとればとるほど、よい収穫しゅうかく約束やくそくされる農業のうぎょうであることから、弥生やよい農民のうみんはたらものだったことを、わたし予測よそくしています。
 パプア=ニューギニアやオーストラリアではいた時間じかんあそびに使つかったのに、日本にっぽんでは労働ろうどう使つかったということで、日本人にっぽんじん勤勉きんべんだと先祖せんぞをほめたたえるつもりか、とおもわれるかもしれません。そうではありません。
 道具どうぐ技術ぎじゅつは、毎年まいとしのようにどんどんすぐれたものになっていきます。なんのためだとおもいますか。質問しつもんすると、すこしでもらくになるようにとか、効率こうりつがよくなるようにとか、企業きぎょうがもうけるためだとかいうこたえがよくもどってきます。しかし、結果けっかからると、わたしはそうではないめんもあるとおもうのです。
 じつは、わたしたちをいそがしくするために道具どうぐ技術ぎじゅつ発達はったつしてきているのではないでしょうか。それまでじゅう時間じかんかかったところを、さんあいだくことができるようになったとします。いたななあいだをどう使つかうかとかんがえてみると、ほかの仕事しごとをしているのです。
 すくなくともつい最近さいきんまでは、あるいている時間じかんとかくるまっている時間じかんはボケーッとしていることができました。あるいは空想くうそうにふけることができました。しかし、いまや携帯けいたい電話でんわができたのです。あるいていても、くるまっていても、いつ電話でんわがかかてくるかわかりません。相手あいてからだけでなくて、自分じぶんからもかけます。なにもそんなときまでとおもうのですが、そんな大人おとなたちがえています。
 わたしたちは、技術ぎじゅつ道具どうぐ発達はったつ自分じぶんたちを解放かいほうするためだとおもっていますが、じつはおおきな誤解ごかいで、自分じぶんたちをいそがしくするために技術ぎじゅつ道具どうぐ発達はったつしているめんもあるのではないかとおもうのです。そこでわたしおもうのです。オーストラリアのイル=イヨロントぞくいた時間じかんたというのは、正解せいかいだ、と。
 多田ただ道太郎みちたろうさんは、つぎのようなことをわたしかたってくれました。
日本にっぽんには「やすむ」とか「なまける」ということばがあるけれども、みんなわる意味いみ使つかわれている。しかし、わたしたちは、むしろ強制きょうせいされたことはなにもしないという状況じょうきょう自分じぶんをおくことがたいせつだ。そういう状況じょうきょうのなかで、自由じゆうにしたいことをする、それがあそびだ。』
 多田たださんのいうことのなかに、わたしにとってひじょうに重要じゅうようなことがふくまれていました。それは、強制きょうせいされている状況じょうきょうからは空想くうそうりょくがはばたくはずがない、やすんではじめて人間にんげん構想こうそうりょくとか空想くうそうりょくがはばたくのだということです。はたらきづめにはたらいていると、そのあげくにてくることは、しょせんたいしたことはないのだということです。空想くうそうりょく想像そうぞうりょくとおきかえてもいい。アインシュタインが知識ちしきよりも想像そうぞうりょくのほうがずっとたいせつだ、といっていることをおもいだします。
 たしかに日本人にっぽんじんはたらきすぎるとおもいます。わたしたちはもうすこし余裕よゆうをもって、いい意味いみでの怠惰たいだ精神せいしんあそびの精神せいしんきていくべきではないでしょうか。これをなによりもまず自分じぶん自身じしんにいいたいとおもいます。もっと余裕よゆうをもって、あそびをもってきていったらいいのではないか、それをイル=イヨロントぞくまなびたいというおもいなのです。

佐原さはらしん遺跡いせきかた日本人にっぽんじんのくらし」)