(Translated by https://www.hiragana.jp/)
課題集
長文 10.1週
【1】
僕の
名前は、
太一である。
気取った
感じがなく、
適度に
男らしい
名前だとひそかに
気に
入っている。だが、どうしてこういう
名前をつけられたのか、くわしいところは
自分でも
知らなかった。ただ、
漢字が
簡単なので
書きやすくていいな、と
思っていたくらいである。
【2】ところで、
人の
名前を
考えるというのは
思った
以上に
頭を
使う、
大変な
作業だ。
実は
僕も「
名付け
親」になった
経験がある。
弟が
生まれた
時、お
兄ちゃんが
名前を
決めていいよ、と
言われたのだ。この
時の
奇妙な
緊張感といったら
今でも
忘れることができない。【3】
両親に
他意はなかったのだろうが、いきなり
兄の
重責を
背負わされた
思いがした。
これが、
犬や
猫の
名前ならばいい。
欧米風の
名前でも、
愛称のようなごく
簡単な
名前でも
問題はないだろう。だが、
生粋の
日本人である
弟に「アンソニー」だの「ロマーノ」だのと
名付けるわけにはいかない。【4】「タマ」や「クロ」などは
論外である。「たまさぶろう」「くろすけ」としたらまだしも
人間に
近づくが、そんな
時代劇のような
名前では
困る。
すっかり
行き
詰まった
僕は、
父に
相談することにした。
母はまだ、
生まれたての
弟と
一緒に
病院にいた。【5】
父はそこまで
悩むことはないだろうと
笑いながらも、ほかならぬ
僕の
名前をどうやってつけたかを
話してくれた。そこで
僕は
初めて、
自分の
名前の
由来について
知ることになったのである。
父は、「お
前の
誕生日は、
何月何日だ」と
聞いた。【6】
僕の
誕生日は
一月一日、
元日である。おめでたいことがいっぺんに
来るように、
産む
時期を
決めていたのだという
話は
前に
聞いたことがあった。
「
今ではあまり
見ないけど、
長男に
太郎とか
一郎という
名前をつけるだろう。【7】お
前はうちの
長男で、しかも
一年の
最初の
日に
生まれたから、
太郎の
太と
一郎の
一を
合わせて『
太一』にしたんだよ。」
そう
言って、
父はどうだ、おめでたい
名前だろう、と
胸を
張った。
安直といえば
安直だが、よく
考えたものだと
僕は
感心した。【8】その
話を
聞き、
僕もこの
方式でいこう、と
考えた。
弟の
誕生日は
十月一日だ。それならば……「
十」と「
一」を
合体させた「
士」という
字を
使おう。
僕はさっそくそのアイデアを、
電話で
母に
伝えた。
弟の
名前は「
英士」に
決まった。「えいじ」という
読みも
僕の
考えだ。【9】
響きが
格好いいし、「
太一」と
並べた
時の
語呂も
良い。
漢字は、
両親が
字画を
見て
決めてくれた。
今では
英士も
小学校一年生になっている。
生意気を
言うようになり、
怒りたくなることもあるが、
兄としてきちんと
面倒を
見てやりたい。【0】
長男を
表す「
太一」という
自分の
名前を
心に
思い
浮かべると、その
思いがいっそう
強くなる。
人間の
名前とは、
生き
方にも
影響を
与えるのだなと
思った。
(
言葉の
森長文作成委員会 ι)
長文 10.2週
【1】
色づいたカキは
日本の
秋を
彩る
風物詩です。カキこそは
千年にもわたって
日本人と
共にあり、
幾多の
詩歌に
詠まれてきた
郷愁の
果物といえます。
ガキ大将に
率いられたカキ
泥棒の
思い
出を
持つ
読者も
多いことでしょう。
【2】カキは
中国で
生まれ
日本で
大きく
発展した
果物で、また、
日本名のままで
世界に
通用する
数少ない
果物でもあります。かつて
農家の
庭先には
必ずカキの
巨木がありました。とくに
干し
柿は
歴史的に
重要な
甘味資源でした。【3】「
菓子」という
字も
元はといえば「
柿子」に
由来しています。また、
柿はビタミンCを
格別にたくさん
含む
果物です。それはリンゴの
二十三倍、
温州ミカンの
二倍にも
達し、
長年にわたって
日本人の
貴重なビタミンCの
供給源となってきました。
【4】
日本でカキの
栽培史は、
八世紀ごろまでさかのぼることができます。
江戸時代になると
渋抜き
法の
発達もあって、カキは
全国の「
庭先」に
普及し、さまざまな
地方品種が
生み
出され、そうした
時代が
長く
続きました。
(
中略)
【5】
大正期までカキは
日本の
果物の
王座に
君臨していました。が、やがてその
座は、
新興のミカンとリンゴに
奪われ、
最近では
食の
多様化の
中で、
生産量はナシにも
後れを
取っています。【6】しかし、
実態のつかみにくい「
庭先果樹」としては、
今もカキの
右に
出るものはありません。カキは
千年の
時を
越えて、
今なおただで
食べられる
日本最大の
果物なのです。
【7】
日本での
伸び
悩みとは
逆に、カキは
外国から
注目され、
新たな
世界果実への
道を
歩き
始めています。
特に
日本とは
季節が
逆になるニュージーランドでは、
時期はずれの
日本への
逆輸出まで
行いつつあります。
【8】
幸か
不幸か、カキは
早生品種の
開発が
難しく、また「
桃栗三年柿八年」といわれるように、
育種に
時間がかかり、その
作期は
今も
昔もあまり
変わっていません。【9】
寒い
夜に
鐘の
音でも
聞きながら
食べるのが
似つかわしい、
昔ながらの
季節を
感じさせてくれる
果物です。この
日本古来の
秋の
味覚が、
南半球育ちの
参入によって、
初夏の
味覚に
変貌しないとも
限らない
昨今です。
【0】さて、
周知のようにカキには
甘ガキと
渋ガキとがあります。
昔の
悪童たちは、どこの
家のカキが
甘いか
渋いかを
経験的に
知っていました。カキの
渋みの
本体は
特殊なタンニン
細胞に
含まれるタンニンです。カキが
未熟のころは
水(
果汁)に
溶ける
性質があって
渋く、
成熟にしたがって
自然に
水に
溶けない
性質に
変わって
黒い「ゴマ」になり、
渋みがなくなります。
甘ガキでは
成熟するまでにそうした
変化が
完了しますので、
収穫したカキをすぐに
食べることができます。しかし、
渋ガキでは
成熟しても
可溶性タンニンが
残り、
収穫後に
人為的な
渋抜きが
必要になります。
甘ガキの
品種も
多いのに、そんな
手間をかけてまで
渋ガキにこだわるのは、とろけるような
肉質が
甘ガキでは
遠く
及ばない
上に、
寒冷地では
甘ガキも
温度不足で
渋が
抜けず、
甘ガキの
産地が
暖地に
限られているためです。(
中略)
カキはなぜ
渋いのか? あたり
前のことのように
思えますが、その
生物学的な
意味についてはこれまで
追求されたことがほとんどなかったようです。
渋ガキの
渋もいわゆる「
熟しガキ」になるまで
木の
上に
置いておけば
抜けます。しかし
渋いうちは
鳥もタヌキも
手を
出しません。
渋は
無用な
時期に
果実が
動物に
食われるのを
防ぐ、「
適応」
的な
意味を
持っていると
思います。
果実が
赤く
完熟してタネが
充実し、
渋みのなくなる「
熟しガキ」の
時期こそが、
動物たちの
食べたい
気持ちと、タネを
運んでほしいカキの
思いとが
一致する
時なのでしょう。こうした、
渋を
抜いてまで
若いカキを
食べてしまうヒトの
出現は、カキの
進化にとって
勘定外のことだったに
違いありません。
(『
果物はどうして
創られたか』
梅谷献二・
梶浦一郎)
長文 10.3週
【1】「
笑う
門には
福が
来る」のであって、
福が
来るから
笑うのではない。
自分から
運を
寄せつけないでおいて、「
私は
運が
悪い」となげいている
人は
多い。いつも
暗い
顔をしていれば
運もにげていく。
悪口ばかり
言っていても、
運はにげていく。【2】ビジネスで
成功したければ、「
悲観論者とは
付き
合うな」と
運について
書いた
人が
言っている。
運と
見えるものは
日常の
生き
方の
結果である。【3】ある
格言集に「
本をおくる
時は
表紙の
見返しに
短いメッセージを
書くこと」というのがあった。これはだれでもが
思う、どうというようなことばではない。しかし
心がないと
短いメッセージでもなかなか
書けない。【4】そして
実はそのような
日常の
積み
重ねが
幸運を
呼んでくるのである。
日常生活のこまごましたことをいい
加減にしておいて
大きな
幸運を
望んでも
無理である。
毎日のささいな
生活上の
連続が
大きな
幸運や
不運を
運んでくる。
【5】もし、
幸運がほしいなら、
日常のおくり
物一つにも
心があることが
大切である。
手紙一つそえるにも、びんせんからふうとう、
切手にまで
細かな
心づかいの
行き
届いた
人もいる。それが
相手への
最高のおくり
物である。【6】
物事を
安易に
考えないで、
苦労をいとわない
人は、
幸運のほうが
追いかけてくる。「あの
人なら」とおくられた
方が
信頼するからである。こうして
幸運を
運んでくれる
人脈はできてくる。
【7】
研究室から
大切な
本を
借りて
返さない
学生が
最近多い。こうした
社会性を
欠いた
人はいずれその
代償を
社会からはらわされる。
人びとはあいつと
付き
合うのはいやだと
思うからである。
つまり、
彼はまともな
人からは
相手にされなくなる。
【8】その
時に
社会性を
欠いた
人は、「
私は
運が
悪い」と
言う。
何が
原因で
自分に
世の
中がつらく
当たるのかが
理解できないのである。しかし、
社会性を
欠いた
毎日の
生活の
積み
重ねでそうなっていくのである。
【9】そして、「
私の
人生はどうしてこんなに
苦しいことばかりあるのだ」と
自分自身が
招いた
不運をただなげいている。その
困難や
不幸を
招いたのは
自分の
過去の
行いの
集積であることにはさいごまで
気がつかない。【0】
人は
成功や
失敗の
原因というのはよく
分かる。しかし「
日々の
積み
重ねの
結果そうなった」という、かくされた
部分はなかなか
理解できない。
こうして、
幸運や
不運の
環境はできてくる。
人はそこの
場所と
時だけでそうしたことをしているのではない。
他の
場所や
時でもそうしている。そうした
行動をする
心をその
人は
持っているのだから、
他でもそうした
行動をする。その
結果、そのような
人の
周りには
質のいい
人が
集まらない。だから
幸運もドアをたたかない。
アメリカに
今から
七十年も
前に、
運についてカソンという
人が
書いた
興味ある
本がある。
幸運を
呼び
寄せるための
十三の
知恵とでも
言うべき
本である。その
十三の
知恵のうちの
第二の
知恵が「
見つけ
出す」である。「なぜうまくいかないのか?」の
理由を
見つけ
出すことである。かれはすべてのことには
理由があるという。ニュートンはリンゴが
木から
落ちた
時に、「これには
理由がなければならない」と
知っていた。これがトップにたつ
人たちの
質であるという。
著者は
運命を
信じる
人はなまけ
者でおろか
者であるという。
運命を
信じる
人は
自らのベストをつくすことをしないための
言いわけとして
運命を
信じるのだと
言う。すわって
不運をなげいている
人は、
幸運が
自分を
見つけるべきだと
考えて、
自分が
幸運を
見つけるべきだとは
考えていない。
川にきた
時にすわって
川の
水がなくなることを
待っていてはならない。
橋をかけるしかない。すわって
川の
水がなくなることを
待っていた
人が、
橋をかけて
向こう
側にいき
幸運を
見つけた
人を
見て、
幸運の
人と
言うのである。
努力と
忍耐なくして
幸運はありえない。
人知れず
苦労をしていない
人はすぐに
物事を
幸運とか
不運とかでかたづけてしまう。しかし
幸運と
見えても、うまくことを
運ぶにはかげでそれなりの
長い
長い
努力や
苦労がいる。「
人生の
消耗にたえられる
人は、
幸運な
人である」とカソンは
言う。
困難のない
人生などない、これが
人生の
運を
考える
時の
大前提である。
(
桐蔭学園中)
長文 10.4週
求めよ、さらば
開かれん
ネコやイヌがドアの
前でしきりに
鳴くとき、ぼくらは
彼らが「
開けてくれ」といっているのだと
理解する。ところがものをむずかしく
考える
人がたくさんいて、そのような
理解は
正しくないと
教えてくれるのである。
たとえば、
言語学者のレーヴェスという
人は、「イヌは
開けてくれといって
吠えるのではなく、
閉じこめられているから
吠えるのである」といった。どうやら
彼は、ある
表現によって
未来のことを
支配しようとするのは、
人間においてこそ
可能なのであって、イヌやネコのような
動物にはそんなことはできない、
彼らにできるのは
現状の
報告だけである、と
考えていたらしい。
これは、
一時かなりの
説得力をもったいいかたであって、ぼくもそうかなと
思ったことがある。
けれど、
動物行動学者のローレンツはこういうことをいっている――のどのかわいたイヌが
水道の
蛇口に
前足をかけて、ワンワン
鳴いているとき、それは
人間の
言語にかなり
近いことをやっているのだ、と。つまりこのイヌは、
疑いもなく、「
早く
蛇口をひねって、
水を
飲ませてくれ」といっているのだ。
ドアの
前でネコが
鳴くのも、それとまったく
同じである。とくに、
彼らがトイレにいきたいとか、
子どもが
先に
外へ
出てしまってすごく
心配であるとかいう
切羽つまった
情況で、ぼくらの
顔をじっと
見ながら、ニャア……と
鳴くとき、それはレーヴェスよりローレンツのいったことにはるかに
近いだろう。
パンダの
発明
ただ
鳴いて「
開けてくれ」とたのむだけでない。オスネコのパンダはもっとおもしろいことを
発明した。
つまり
彼は、
人間のやっていることをつぶさに
観察して、ドアを
開けるとき
人間たちは
必ずノブにさわっている、ということを
発見したのである。ここから
彼はこういう
解釈をした――したがって、ドアを
開けたいときは、ドアのノブにさわればよい。
そこで
彼は、
部屋から
外へ
出たいとき、
後足で
立ちあがり、
体と
前足を
思いきり
伸ばして、
前足の
先でノブにさわることを
始めた。
おもしろいことに、そのときはほとんどの
場合、
無言である。ひょこひょこっとドアの
前へ
走っていって、ひょいと
立ちあがり、ノブに
前足をふれるのだ。
それを
見てぼくらはすぐドアを
開けてやるから、パンダは
自分の
発明にすっかり
自信をもってしまった。
一日何回でも、
開けてほしいときは
必ずこれをやる。(
中略)
ところが、これがほんとうにノブというものの
働きを
理解した
上での
行動であるかどうか、いささかわからなくなるような
場合もある。
パンダが
外へ
出かけていって、
庭から
帰ってきたことがあった。
食堂にぼくらがいるのを
見て、パンダは
入れてくれという
表情をした。そして、ガラス
戸に
手をかけて
立ちあがったのである。
三枚引きのガラス
戸には、もちろんノブはない。かぎはあるが、
外側からは
何も
見えない。その
何もないところへパンダは
前足をかけたのである。もちろん、ガラスの
部分でなく、かぎのあるべき
木枠のところにである。ただ、その
高さはドアのノブと
同じだった。けれどこれも、ちょうど
全身を
伸ばしてとどく
高さだから、たまたま
一致しただけである。そのときパンダは
地面から
体を
伸ばしたのだから、
内側にかぎや
引き
手のあるところよりは、ずっと
低い
位置に
足をかけたことになる。
だとすると、パンダにとっては、ノブがあってもなくても、
体を
思いきり
伸ばして
前足でさわれば、それが
開けてもらえるという
認識しかなかったのかもしれない。ノブが
云々という
理解はなかったのではないか?
人間以外の
動物を
人間的に
理解すること、つまり
擬人主義をきらう
人は、このような
解釈をよしとする。
けれど、
人間だって、たとえば
横断歩道を
渡るときには
手を
上げて、などと
教わると、
鉄道の
踏切を
渡るときも
手を
上げてゆく
人がいるのだから、
似たようなものではないだろうか。
(
日高敏隆「ネコたちをめぐる
世界」)
長文 11.1週
【1】
我が
家のリビングには、
僕の
赤ん
坊の
頃の
写真が
飾られている。よく「
小さいころの
写真を
見るのは
恥ずかしい」という
人がいるが、この
写真に
限って
言うなら、
僕はそうは
感じない。
物心ついたときからそこにあり、
毎日見ているため、もはや
慣れてしまって、
今さら
照れくさい
気持ちにはならないのである。
【2】むしろ、
写真の
中の
赤ちゃんは、
我ながらとてもかわいらしいと
思うほどだ。
何がそんなに
嬉しいのか、というほど
目を
細め、
口を
上げて
微笑んでいる。それがピントもばっちりのアップで
写された、
良い
写真である。【3】
僕はときどき「こんなに
可愛い
赤ちゃんが、
今ではすっかりかわいくない
少年になってしまったね」と
冗談を
言う。
母はそれを
聞くたびに、そうねえと
大笑いをするのだ。
ある
日、
僕はひとりで
留守番をしていて
暇だったので、その
写真をしげしげと
眺めてみた。【4】
本当に
自分なのか
疑った、というわけではないが、
成長した
現在の
顔と、どれくらい
変わったか
見比べてみようと
思ったのだ。
色々と
見回してみて、
一つ、
昔と
今でまったく
変わっていない
部分を
発見した。それは、
鼻の
頭にある
小さな
傷だ。【5】
今では
痛くもかゆくもない
傷あとであるが、
写真ではついたばかりのようで、よく
見ると
結構痛々しい
感じだった。こんな
傷があるのににこにこしているとは、やはり
赤ん
坊は
無邪気なのだなと、
僕は
他人事のように
思った。
【6】やがて
母が
帰ってきて、
僕は
気付いたことを
報告した。すると
母は、やけに
重々しい
口調で、「
実は
今まで
隠していたことがある」と
切り
出した。それは、
僕にとって
衝撃の
事実であった。
なんと、
僕の
鼻の
傷は、まさにこの
写真を
撮った
時についたものなのだという。【7】カメラを
構えた
父に
向かって、
赤ん
坊の
僕はすごい
勢いで
這っていったらしい。
母が
止める
暇もなかったという。そして
僕はそのままカメラのレンズに
激突し、
火がついたように
泣きわめいたのだそうだ。
【8】そう、
微笑ましい
一枚だとばかり
思っていたこの
写真は、
笑っているのではなく、
痛みと
驚きで
泣き
出す
寸前の
歪んだ
表情をとらえたものだったのである。
人間の
先入観とは
恐ろしいものだ。ただ、それが
分かった
上で
見てみても、
写真の
中の
赤ちゃんはやはり
幸せそうに
見える。【9】
痛みや
失敗も
含めて、
愉快な
家族の
思い
出になっているからだろうか。
今まで
注目してこなかった
写真にも、さまざまな
隠された
物語があるのかもしれない。
僕は
今度の
留守番のとき、
改めて
古いアルバムを
開いてみようかと
考えた。【0】
(
言葉の
森長文作成委員会 ι)
長文 11.2週
【1】
私たちは
長い
間、
木綿と
木の
中で
暮らしてきた。だが
明治以降それを
捨てて、
新しいものへ、
新しいものへと
人工材料を
追いかけてきた。
(
中略)
【2】
今、
千三百年たった
法隆寺のヒノキの
柱と
新しいヒノキの
柱とではどちらが
強いかときかれたら、それは
新しいほうさ、と
答えるにちがいない。【3】だが、その
答えは
正しくない。なぜならヒノキは、
切られてから
二、
三百年の
間は、
強さや
剛性がじわじわと
増して
二、
三割も
上昇し、その
時期を
過ぎて
後、ゆるやかに
下降する。【4】その
下がりカーブのところに
法隆寺の
柱が
位置していて、
新しい
柱とほぼ
同じくらいの
強さになっているからである。つまり、
木は
切られた
時に
第一の
生を
断つが、
建築の
用材として
使われると
再び
第二の
生が
始まって、その
後、
何百年もの
長い
歳月を
生き
続ける
力をもっているのである。
【5】バイオリンは、
古くなるほど
音がさえるというが、それもこの
材質の
変化で
説明できる。
用材の
剛性が
増すとともに、
音色がよくなるのである。【6】したがって、
音色がよくなるのはある
時期までで、その
後はしだいに
元にもどっていくだろうことも
想像に
難くない。
ところで、その
名人によると、ヒノキでつくったバイオリンは、どうしても
和風の
響きがするというのである。【7】もともとバイオリンは、トウヒとカエデを
組み
合わせてできたものである。
使用する
樹種も
形も、
十六世紀後半に
定まり、それ
以後、
近代科学の
改良案もほとんど
寄せつけないほどに
完成した、
手工芸の
結晶である。【8】ほかの
樹種に
置き
換えるのが
難しいことはよくわかる。だが、ヒノキのバイオリンは
和風の
響きがするというのはおもしろい。
木は
同じ
種類のものでも、
産地により
立地によって、
材質が
少しずつ
違う。【9】それは、
物理的、
化学的な
試験によっても
証明できないほどの
微妙な
差であるが、
市場では
長い
経験によってそれぞれを
区別し、
値段も
取り
扱いも
違っている。
例えば、ヒノキの
中では
木曾産のものが
最高級だ、といったような
評価である。
【0】また、
木はそれが
生育した
土地で
使われたとき、いちばんしっくりとして
長持ちするということも、
木に
詳しい
人たちのよく
知るところである。これは
木のもつ
風土性とでもいうべきもので、どこか
食べ
物の
話に
似ている。その
土地でとれた
素材を
使い、
伝統の
調理法でつくった
料理がいちばんうまい、というのと
同じような
意味あいである。
ヒノキの
属には
世界に
六つの
種があるが、なかでも
日本のヒノキは
材としての
風格が
一段と
高い。だからこそ
白木造りの
建築が
生まれたのであるが、それは
日本という
風土の
中に
置かれたときが
最もふさわしく、また
性能も
発揮する。つきつめていえば、
木曾のヒノキは
木曾で
使われたとき、
奈良のヒノキは
奈良で
使われたときが、いちばんしっくりするということになるだろう。
私たちは、
機械文明の
恩恵の
中で、
工学的な
考え
方に
信頼を
置くあまり、
数量的に
証明できるものにのみ
真理があり、それだけが
正しいと
信じすぎてきたきらいがあった。だが、
自然がつくったものは、
木のように
原始的で
素朴な
材料であっても、コンピューターでは
解明できない
側面をもっているのである。
(
小原二郎『
日本人と
木の
文化』による)
長文 11.3週
【1】
誰もがよく
知っているお
伽噺「
桃太郎」は、「ある
日おじいさんは
山へ
柴刈りに、おばあさんは
川へ
洗濯に
行きました」という
語り
出しから
始まっている。【2】このお
伽噺が
昔から
変わることなく
子供たちをひきつけてきたのは、
波乱に
富んだ
冒険談の
幕あけを、かつての
日本人にとってもっともありふれた
日常生活の
一場面に
置いた、その
巧みな
語り
出しにあるのではなかろうか。
【3】
年寄りが
行けるような
身近な
所に、
薪採りのできる
林があり、また、
家のすぐそばには
洗濯のできるきれいな
小川が
流れているといった、この
素朴な
集落の
光景は、
日本人にとっての
一つの
原風景といってもよいだろう。【4】
東アジアの
季節風地帯に
属し、
気候が
湿潤であるために
豊かな
森林と
川に
恵まれたこの
国では、
住民の
生活は、この
森と
川の
恩恵のもとに
営まれてきたのであった。
(
中略)
【5】そこで
思いあたるのは、この
国のもともとの
集落形成が、
多くの
場合、
扇状地から
始められてきたことだ。
扇状地は、
山地の
渓流が
平野に
注ぎ
込む
地点で
砂礫が
堆積して
作られた、なだらかな
地形である。
【6】
背後に
山を
背負い
前には
平野をのぞむこの
扇状地は、
水はけのよい
土に
恵まれ、またその
末端のあちこちからは、
一度伏流した
谷川の
水の
一部が
再び
穏やかな
小川となって
流れ
出している。【7】それは、
日本の
自然のなかでもっとも
人間にやさしい
部分といってよいだろう。
人びとはここに
拠ることによって「
荒々しい
湿潤」がその
反面に
持つ
豊穣を
享受してきたのであった。
【8】おじいさんは
山に、おばあさんは
川に、という
描写は、まさにこのような
集落の
情景を
表している。【9】ここでは、
集落をとりまく
山麓の
森林は
薪炭材、
日用材や
農用材のほか、
緑肥、
木の
実、
山菜から
家畜飼料などに
至るまで、さまざまな
生活資源を
引き
出せる
宝の
山であり、また、そこから
流れ
出す
川は、
良質な
生活用水を
供給する
母なる
川だったのだ。
【0】こうした
人間の
身近にあって
生活のさまざまな
面で
利用されるような
森林を、
日本人は
里山と
呼んできた。この
里山の
特色は、
人間によってきわめて
集約的に
利用されながら、しかし、けっして
消滅することなく、
長く
維持されてきたことにある。(
中略)
しかし
里山が
長く
維持されてきたもう
一つの
理由は、
里山が、さきにも
述べたような
木材以外の、さまざまな
資源採取の
場としても
利用され
続けてきたからである。しかも、そうしたものの
採取は、つねに
取りつくす「
刈り
取り」でなしに、
必要な
時に
必要な
分だけを
求める「
摘み
採り」によってきた。
刈り
取りは、
弥生時代以来の
農耕文化のもっとも
基本的な
収穫の
方式である。しかし
日本人の
里山の
利用には、いわば
縄文時代以来の
伝統ともいうべき
多様な
摘み
採り
行為が
含まれていたのだった。この
国では
長い
間、
農耕地からの
刈り
取りと
里山からの
摘み
採りによって
人びとの
生活が
成り
立ってきたのである。
また、こうした
里山への
働きかけの
底流には、
自然への
畏敬があった。
西洋の
宗教と
日本の
宗教の
大きな
違いは、
前者が
排他的な
一神教であるのに
対し、
後者は
多神教であることにある。そこで、
天上に
唯一の
神が
在って
世界を
支配するのではなく、
地上のあらゆるものに
神々が
宿るとみる
心から、
山や
川までが
素朴な
信仰の
対象になっていたのであった。このことが、
西洋における
自然の
合理的制御とは
異なる、
自然への
順応を
支えてきたとみてよいだろう。
その
象徴が、
集落を
囲む
里山の
一角に
必ずあった、
鎮守の
森である。
鎮守の
森は、
村人の
信仰の
場であると
同時に、
里山のなかに
巧みに
織り
込まれた、
今でいえば
保存林にあたる
聖域でもあった。
集落一帯の
環境保全の
急所ともいえる
場所に
鎮守の
森が
配置されていたことが
今では
知られている。
(
石城謙吉「
森はよみがえる」による)
長文 11.4週
僕は
一度だけ
塾に
通ったことがある。
小学校の
六年生から
中学の
一年生の
春までの
間で、
場所は
北海道の
帯広だった。
塾の
名前は
正式の
名称があったはずだが、
今や
覚えているのは
狸塾という
通称のほうだけだ。(
別名ぽんぽこ
塾と
呼ばれていた)
何故その
塾に
通いだしたのかは
忘れてしまった。
多分同級生がそこへ
通っていたからだろう。あの
頃、
僕には
三人の
仲間がいた。
ありもり、おのだ、まなべ、の
三人である。
僕を
含めて
四人は
学校が
終わると
毎日自転車をとばして
塾へ
通うのだった。
雨の
日も
風の
日も
僕らは
自転車でそこへ
通っていた。
競争するように
競って、びゅんびゅん
風を
切って
走っていたのである。
そうだ、
今思い
出した。
僕がそこへ
彼らと
通うようになったのには、ちょっとした
理由があったのだ。
同じクラスのあやべさんという
女の
子がやはり
通っていたからだ。
僕は
彼女のことがきっと
好きだったのである。どうもまだ
愛とか
恋とかその
手の
感情に
鈍感な
時期だったので、あれがそういう
感情のものだったかどうかちょっと
自信がないのだが、
授業中彼女のきりりとした
横顔を
見るのがすきだったことは
確かだった。その
横顔をもっと
見たくて
勉強の
嫌いな
僕は
塾通いを
決心したのである。あやべさんは
帯広の
大きな
病院の
令嬢で、ゴトウクミコにまさるともおとらない
美形(いや、これは
信じて
頂くしかないのだが)な
才女だったのだ。
学校では
当然人気者で、
僕などそうやすやすと
近づくことさえできなかったのである。だから、
僕は
彼女と
同じ
塾へ
通うことにしたのだ。(
中略)
僕らは
塾帰りに、
途中の
国道沿いの
雑貨屋で
肉饅を
買って
食べる
習慣があった。
季節が
変わり
寒くなりはじめると
湯気の
昇る
肉饅を
食べることが
凄く
楽しみになるのだ。
北海道の
夜空は
星が
高く、きらきらと
散りばめるように
灯っていて
吸い
込まれそうだった。
僕らは
肉饅を
口いっぱいにほおばりながら、その
神秘的な
輝きを
見つけていた。
大きな
星空を
見ていると、
自分たちの
存在の
小ささに
気を
失いそうになった。
僕らは
微妙な
年頃であった。
恋を
知り、
物事をわきまえ
始める
年齢であったのだ。
「なあ、ニック。
君は
誰か
好きな
女の
子はいるのかい」
ジョンは
缶コーヒーを
啜りながらそういった。
僕は
思わず
食べていた
肉饅が
喉に
詰まりそうになって、
一度咳払いをするのだった。
「なんだよジョン、いきなりそんなことききやがって」
(
帯広はあまり
方言らしい
方言がなく、
殆ど
標準語であった。それから
僕らの
年齢の
子供たちはテレビの
影響もあって、
東京風の
言葉を
使うのがかっこいいとされていたのである。
僕は
直ぐに
土地の
言葉や
習慣になれる
才能を
持っていたのだ。それがないと
転校生は
余所の
土地では
生き
残ってはいけないからだ)
「お、
顔が
赤いぞ。さては
図星君だな」
ジョンがそういって
僕の
肩を
叩くので、
僕は
思わず
目を
伏せてしまった。
「だれだよ、ニックは
誰が
好きなんだ」
ロバーツが
煽る。
「ひゅー、ひゅー」
サムはポケットに
手を
突っ
込んだままマフラーに
首を
竦めて
僕を
冷やかした。(
中略)
僕は
夜空を
見上げた。
星の
瞬きがキャサリンのウインクのようで
胸がときめいていた。
沢山の
初恋を
経験していたが、
多分あのときの
感情が
僕の
本当の
恋の
第一歩ではなかったかと
思うのだ。
胸がときめくということを
知ったのはまず
間違いなく(
断言はできないが)キャサリンが
最初の
女性であった。
(
辻仁成「キャサリンの
横顔」)
長文 12.1週
【1】
私は
朝寝坊などしたことがない。いつも
早寝早起きを
心がけ、
時間的余裕を
持って
行動している。それはなぜかというと、
以前、
父から「
会社に
遅刻して
上司を
激怒させた」という
話を
聞いたことがあるからだ。
【2】
父はそのことをまるで
笑い
話のように
語るが、
私は、とてもそんなのん
気にはなれない。
私の
学校の
先生は、みんな
厳しいのだ。そんな
先生たちに
叱られて、
震え
上がるような
思いをするのは
絶対に
嫌である。
【3】
理由はもう
一つある。そうした
生活パターンのおかげで、
私は
六年生になるまで、ずっと
皆勤賞を
続けていた。
卒業まであと
数ヶ月。
六年間の
皆勤は、
私の
大きな
目標でもあった。
しかし、
私のそんな
頑張りがあっさりと
無駄になる
出来事が、つい
最近起こってしまった。【4】その
日も
私は
寝坊をしなかった。
定刻に
起きて、
家を
出発したのである。それなのに、
乗り
込んだ
電車が
止まってしまったのだ。
車内アナウンスが、
電線に
異常があり
走行できなくなった、と
伝えていた。
私は
呆然とした。【5】このままでは
遅刻はまぬがれない。それも、ひどい
大遅刻だ。せっかくこれまで
気をつけてきたというのに、しかも
自分の
責任ではないのに!
携帯で
母に
電話をかけると、
速報が
出ているから
学校も
分かっているはずだ。【6】あなたは
怪我をしないように
気をつけなさい、と
優しく
言ってくれた。そうやって
落ち
着かせてもらうまで、
私の
頭は
焦りと
苛立ちで
混乱していた。
しばらく
待っても
電車は
動く
気配がない。ついに、
私たちはその
場で
電車を
降ろされ、
次の
駅まで
歩く
羽目になった。
【7】「
今からドアを
開きます。お
体をお
離しください。お
降りになる
際は、
押し
合わずゆっくりとお
願いいたします。」
そんなアナウンスを
聞いて、
私は「いつもは
乗るときに
同じことを
言っているのにな」と
少し
面白くなった。【8】このころには、
普段のペースから
外れた
特別な
状況を、どこか
楽しめるようになっていたのである。
長々と
続く
線路。
普段なら
決して
見ることができない
光景だ。その
上を
歩いていると、
昔見た
古い
映画のワンシーンが
思い
出されて、
思わずうきうきしてしまった。
【9】
学校に
到着したのは、
一時間目の
授業が
終わるころだった。
教室に
入った
私を、
担任の
先生は
気の
毒そうに
見た。
母の
言ったとおり、
遅刻の
理由も、そして
私が
皆勤を
目指していたことも
知ってくれていたのだろう。
今日、
遅刻したのは
自分のせいではない。【0】しかし
私は
不思議と、
素直に「すみません」と
謝ることができた。
人間にとって、たまには
時間に
縛られず、
解放的な
気分を
味わうのもいいのかもしれない。
皆勤賞の
夢は
途絶えたが、
代わりに
貴重な
体験をすることができた。「
急がば
回れ」ということわざもある。
私は
一度くらい、のんびり
朝寝坊をしてみるのもいいかな、とふと
思った。
(
言葉の
森長文作成委員会 ι)
長文 12.2週
【1】
人は
生まれながらにもっている
性格があるね。
しかし、その
人の
経験と
努力で、ある
程度変えることができる。
また、
人は
生まれながらにもっている
資質というものがある。【2】こちらのほうはうっかりしていると
気づかないもので、
自分の
資質がどういうものなのかなかなかわからない。
この
資質は、ちょうどその
人だけの
泉のようなもので、だれでもがすぐれた
資質をもっているのに、
一生かかっても
掘り
当てられない
人がいる。(
中略)
【3】
若い
君たちは、
自分のすばらしい
泉がどこにあるのか、さがしている
時期だ。
大いにいろいろのことをやって、さがしたらいい。
【4】そして、ちょうど
釣りをしているときのように、コツンと
当たりがあったら、そこに
君がかくれているのだからじっくりやってみたらいい。すぐにあきてしまわないで、
持続することも
大切なんだ。しんぼう、しんぼうってわけ。
【5】
高校とか
大学とかに
入るというのももちろん
一つの
標的だろう。
自分で
決めた
標的なら、みごと
的の
中心をねらいどおり
射抜くべきだ。
しかし、
高校や
大学の
入試という
標的だけでは、だれもがねらう
的だし、
青春のすべてをかけるには、ちょっとさびしい
気もする。【6】ケンカの
相手としても、
月並みでもあるね。
君だけにしかない、
君自身の
青春の
標的。
標的は
夢のあるビッグのほうがいい。
若い
君には
無限の
可能性があるのだから。
【7】しかし、それは
君の
資質にあったものでなければならないだろうね。といっても、まだ
資質の
泉を
模索中なのだから、
君の
好きなことでいい。なにかが
好きということは、そこに
資質の
鉱脈があるのだから。
【8】たとえば、
勉強がどうしても
嫌いでスポーツが
好きな
人は、スポーツに
君自身の
標的をかかげて、
二度とこない
青春のあいだにやりぬく
目標を
決め、ライフルの
標準をピタリと
合わせたらいい。【9】
君自身で
決めた
目標がなかったら、
自分にどのようにツッパッたらいいかわからないってもんだ。
自分のかかげた
標的にむかって、
一流のツッパリ
方をしてみようじゃないか。
【0】
青春のうちにこれだけはやった! その
自信が
君を
大きく
変えてゆく。
さてそこで、
標的をかかげるにあたって、
君は
生活を
選ぶか
人生を
選ぶかだ。
生活と
人生は
同じようで、
実は
大いにちがうんだね。
多くのオトナは
生活のほうを
選んでしまう。
大学を
出て
就職してマイホームをつくり、
子どもを
育てる。もちろんこうした
生活は
大切なことだ。しかし、その
生活のために、せっかく
掘り
当てた
自分の
泉を
涸らしてしまう
人が
多いんだね。
人生を
選ぶというのは、
自分の
資質に
合ったことをして、たとえ
貧しくても
生活ができ、おのずと
社会に
役立つ
生き
方になっていることなんだね。
生きている
意義が
実感でき、
他人のではない
自分自身のこれが
生き
方だと、
自信をもっていえる
生活。
そういう
人生を
選ぶと、この
地球上の
一角に、
君自身の
爪あとをつけたことになる。
それには、これまでふれたように、
社会を
高みから
見おろすのではなく、ひとの
苦しみやいたみのわかる
低い
視線が
必要だろう。
感動を
大切にすることも
重要だ。また「
知」のたのしみを
知ることや
広い
視野で
地球社会を
見ることも。(
中略)
いまアメリカでは
高校生の
間に、「ジェントルマンズC」という
合言葉があるそうだ。
本当のジェントルマンは、オールAの
成績をとろうとして
ガリ勉するものではなく、テニスをしたり、マイコンに
夢中になったり、ヨットで
遊んだり、
女の
子とドライブを
楽しんだり……
勉強もそのうちの
一つという
考え
方なんだね。
学校の
成績はCでも、
広い
視野でさわやかに
行動できる
人のほうが、
物事を
大きく
把握し、
国際人として
実力を
発揮できるってわけ。
君もひとむかし
前の
ガリ勉の
野暮ったいジェントルマンではなく「ジェントルマンズC」の
精神で
青春をすごそうじゃないか。
君らしいさわやかな
青春の
標的。
輝かしい
標的をもたないオトナなんてメじゃないってわけだ。
そして、
君の
資質にあった
好きな
職業を
選ぼう。
生活のためにいやいや
働いたのでは、
君自身の
人生を
生きることができず、
君の
人生という
大きなケンカに
負けてしまうからね。
(
佐江衆一「けんかの
仕方教えます」)
長文 12.3週
【1】がんばることが
大好きな
日本人は、さまざまな
場面で「
努力」「
勉強」などという
言葉を
好んで
使います。「
勉強しなさい」とは、
学校でも
家でもよくいわれることで、みなさんの
中にはいいかげん
耳にたこができている
人もいるのではないでしょうか。【2】みなさんは
小学校時代を
通じていろいろなことを
学び、そして、さらにこれから
中学校に
進学して
勉強をつづけようとしています。それでは「
勉強」とはどのようなもので、
何のためにするものなのでしょうか。
【3】
日本の
漢字には
音読みと
訓読みがあります。「べんきょう」というのは
音読みですが、これを
訓読みにしてみると「つとめしいる」と
読むことができます。【4】「つとめる」とは
一所懸命にはげむこと、「しいる」とは
無理やりやらせることといった
意味です。【5】つまり、「
勉強」には、「
学問につとめはげむ」という
意味の
中に、
何かを
無理じいするニュアンスがふくまれるため、はじめからいやな
印象がつきまとっているのです。「
勉強しなさい」といわれて、いやな
気分になるのは、もっともなことかもしれません。
【6】また、
日本語の「
勉強」には、
次のような
使い
方もあります。
例えば、
八百屋さんで
野菜を
買おうとするときのことです。できるだけ
安く
買いたいと
思い、ねぎったときに、
八百屋さんが、「
勉強しましょう」といいます。
【7】これは、
本当は
安くしたくはないのだけれども、しかたない、お
客さんのためにおまけしますという
意味です。
【8】この
八百屋さんは
安く
売ることを「つとめ、しい」られていますが、みなさんがやっている「
勉強」の
場合にも、
何かいやなことを「つとめ、しい」られるという
感じがあるのではないでしょうか。【9】
次にこの「
勉強」について、
中国語のもとの
意味から
考えてみましょう。
中国語の「
勉強」にも「つとめ、しいる」、「むりじいする」という
意味はあります。しかし、
現在、
中国では、みなさんがやっている「
勉強」には、「
学習」という
漢字を
使います。【0】「わたしは
日本語を
勉強しています。」を
中国語に
直すと、「
我学習日本語。」となります。しかも、
中国語でいう「
勉強」は、
学問だけにつとめはげむという
限定された
意味では
用いません。
(
中略)
島国の
日本は
歴史的にみて、つねに
新しい
外来の
文化をより
早くより
多く
輸入しなくてはならない
状況にありました。
最初は
中国から、
明治時代以後はヨーロッパから、
多くの
知識を
夢中になってとりいれてきました。その
結果、
日本人は
外来文化の
表面的な
部分ばかりを
身につけ、
内面的な
部分について
学ぶことをなおざりにしてきてしまったきらいがあります。
何のために「
勉強」するのかという
目的を
問う
前に、
知識をえるために、がむしゃらに「つとめ、しいる」くせがついてしまったのです。こうした
背景から
日本では、
学問がただ
単に「つとめ、しいる」
作業として
考えられ、めんどうくさく、たいくつで、つまらないものといったイメージが
強くなってしまったのだと
思います。しかし、
学生時代は、
人間がこれまで
築いてきた
文化の
基本をひろく
学び、
自分自身の
生き
方を
考える
時でもあります。まさに
学校の
授業を
通じてなされる「
勉強」の
大切な
点はここにあります。
みなさんの
進む
方向がそれぞれちがうように、「
勉強」の
目的も
人によってさまざまでしょう。そして、
目的は
最初からあるものでなく、また
人から
強制されるものでもありません。
自分の
行くべき
道を
自分でさがしていくには、
多くの
困難もともなうでしょう。そうした
困難にうち
勝ち、
自分の
勉強する
目的をはっきりさせ、
勉強する
中で
自分の
生きがいを
見出すことができたら、「
勉強」も
苦痛ではなく、
充実したものになるでしょう。
「
勉強」とは、それ
自体が
目的ではなく、あくまでもそこへ
行きつくための
手段にすぎません。
手段を
目的とかんちがいするときに「
勉強」は
単なる
苦痛の
種になってしまうのだと
思います。
大切なのは、
何のために
学ぶかです。したがって、
学生時代とはこの
課題を「
勉強」を
通じて
考えていく、いわば
自分探しの
旅の
始まりにもたとえることができるでしょう。
(
和洋九段女子中より)
長文 12.4週
いもがあたえられると、サルたちは、
目の
色をかえてとびつき、いもをつかむと、いそいで
海にもっていきます。いもについた
砂をあらって
食べるためです。いもを
両手にもち、あとあしで
立って
走るサルもいます。そのために、ほかの
場所にすむサルは、めったに
二本あしでは
歩かないのに、この
島のサルたちは、
立って
歩くことが、とてもうまくなりました。
年よりたちは、
海水にいもをつけ、
手でごしごしこすって、
砂をとります。ところが、
母ザルたちは、
海水のなかで、かるくゆするだけです。それで、じゅうぶん
砂がとれます。しかも、
母ザルは、ひとくちかじるたびに、いもを
海水につけています。「どうしてだろう。」キョンは、ふしぎでした。でも、
海水になかに
落ちているかけらを
食べてみて、わけがわかりました。おかあさんは、いもに
塩味をつけていたのです。
「ペペッ」キョンは、
口のなかのものを、あわててはきだしました。
砂浜にまかれたむぎを
食べると、
砂がいっしょにはいってきて、すごくまずいのです。
「ばかね、こうするんだよ。」とでもいうように、おかあさんは、むぎを
砂といっしょにかきあつめ、それを
手でつかんで
海へもっていき、
水のなかになげいれました。むぎについていた
砂がすっかりとれ、むぎは、
水中で、
金のつぶのように
光っています。おかあさんは、それをひろって
食べました。
「ふうん、いいやりかただな。」と
思って、キョンはまわりを
見ました。と、みんな、そうしているのです。「へええ、
頭がいいんだな、みんな。」キョンは、すっかり
感心してしまいました。
「あれ、どうしたんだろう。」キョンは、サンゴを
見て、ふしぎに
思いました。サンゴは、この
群れでいちばん
強いメスです。それが、むぎあらいをせず、すわったまま、きょろきょろとまわりを
見まわしているのです。
ノギクが
砂を
手でかき、むぎを
集めはじめました。サンゴは、それをじいっと
見ています。ノギクがむぎを
集めて
手にもち、
海になげいれると、サンゴは、すかさず
走っていって、ノギクのせなかをつきとばしました。ノギクは「キャッ」と
悲鳴をあげてとびのきます。そのすきに、サンゴは、
水中になげられたむぎを、よこどりしてしまったのです。ノギクは、しばらくくやしそうに
見ていましたが、
強いサンゴにさからう
勇気はありません。すごすごと、また、むぎを
集めました。
サンゴは、よこどりが
専門です。「
悪いやつだなあ。」と、キョンは、あきれはててしまいました。(
中略)
幸島は、
海にかこまれているのに、むかしは、だれも
海にはいるものはいませんでした。ある
日、
海に
落ちたピーナツをひろうのに、
子ザルが
海にはいってから、みんなが
海にはいるようになったのです。でも、カミナリをはじめ、
年をとったサルたちは、けっして
水のなかへはいろうとしません。
考えかたが
古いので、
新しくはじまった
行動をとりいれることができないのです。
新しい
発見や
発明をするのは、ほとんど、
古い
習慣にとらわれない
子どもたちです。
子どもは、
文化のつくり
手です。
潮がひくと、
群れは、いっせいに
海岸へ
行き、
貝を
食べます。ウノアシやヨメガカサのように、
岩にぴったりはりついているものは、
歯ではがしとります。まき
貝のクボガイもだいすきです。キョンも、クボガイをひろって
食べました。おいしくて、ほっぺが
落ちそうです。
むかしは、
貝を
食べるものは、だれもいませんでした。それが、
十数年まえに、はじめて、
食べるものがあらわれたのです。だれがさいしょだったかは、わかっていません。でも、これも、きっと
好奇心の
強い、
子どものサルだったのでしょう。
貝を
食べる
行動は、しだいに
群れのサルにつたわっていき、いまでは、ほとんどみんなが
食べるようになりました。
新しい
食習慣が、
群れにできたのです。
つまり、
貝食いという
食物文化が、
新しく
生まれたのです。
その
後、キョンがおとなになってから、
島の
漁師がすてた
魚を
食べるものが
出てきました。なかには、つり
人がつった
魚を
食べるものが
出てきました。なかには、つり
人がつった
魚をねだるものもあらわれはじめ、つり
人をこまらせています。いずれ、
魚食いも、この
群れの
食物文化になることでしょう。
世界じゅうのサルのなかで、
生魚を
食べる
習慣をもった
群れは、ほかにありませんから、この
行動は、とてもめずらしがられることでしょう。
それにしても、
幸島のサルたちは、いもあらい、むぎあらい、
貝食い、
魚食いと、つぎつぎと
新しい
文化を
生みだしてきました。
新しい
行動を
身につけたり、
問題を
解決していくちえをもっているのには、びっくりします。そして、「
文化をもっているのは、
人間だけではないんだなあ。」と、
考えさせられます。
(
河合雅雄「ニホンザル」)