(Translated by https://www.hiragana.jp/)
課題集
長文ちょうぶん 1.1しゅう
 【1】いちひきぴき子犬こいぬが、公園こうえんをうれしそうにはしっていく。人間にんげんさんさいぐらいの子供こどもが、やはり公園こうえんをうれしそうにはしっていく。そのふたつの姿すがたは、どちらもおなじようにほほえましい。【2】しかし、子犬こいぬほうは、そのなんねんたってもやはりいぬのままおおきくなるだけだが、人間にんげん子供こどもは、成長せいちょう過程かていで、偉大いだい才能さいのう発揮はっきする人間にんげんになるか、ぎゃく凶悪きょうあく犯罪はんざいしゃになるか、あるいは平凡へいぼん人間にんげんとして一生いっしょうごすことになるか、予測よそくすることができない。【3】また、たとえ平凡へいぼん人間にんげんおもわれていても、どういう個性こせい趣味しゅみがあるかということは千差万別せんさばんべつだ。わたしたちは、この人間にんげん可能かのうせいというものをよくておく必要ひつようがある。
 【4】なぜ、人間にんげんをその将来しょうらい可能かのうせいから必要ひつようがあるかというと、その理由りゆうだいいちに、人間にんげん幅広はばひろることができるからだ。たとえば、こんなんもないようにおもわれるひとでも、場面ばめんわればきゅう真価しんか発揮はっきすることがある。【5】小学生しょうがくせいのころ、友達ともだちすうにんでキャンプにかけた。そのメンバーのなかに、学校がっこうでも評判ひょうばんのいたずらっはいっていた。わたしは、当初とうしょ、そのがキャンプに参加さんかすることをあまりこころよおもっていなかった。しかし、実際じっさいにキャンプがはじまってみると、そのだい活躍かつやくでみんながおおいにがった。【6】この経験けいけんから、わたしは、人間にんげんひとつのめんからだけるべきではないことふか実感じっかんした。
 人間にんげん可能かのうせいからることが大切たいせつなもうひとつの理由りゆうは、わたしたちは進歩しんぽばかりではなく退歩たいほすることもあるからである。【7】たとえば、豊臣とよとみ秀吉ひでよしは、わかいころさまざまなアイデアと実行じっこうりょくあたらしい時代じだいひら役割やくわりたした。しかし、晩年ばんねん自分じぶん権力けんりょく執着しゅうちゃくすることに関心かんしんおおくがうつっていたようにおもえる。たとえ素晴すばらしい業績ぎょうせきのこしたひとであっても、進歩しんぽをやめればやはり後退こうたいするしかないのだ。
 【8】たしかに、わたしたちの日常にちじょう生活せいかつのほとんどは平凡へいぼん時間じかんかえしだ。しかし、人間にんげんは、いざというときは、まわりのひと予想よそうもできないような変化へんかをする存在そんざいだということをいつもしんにとめておく必要ひつようがある。【9】「男子だんしさんにちわざれば刮目かつもくかつもくしてつべし」という言葉ことばがある。たったさんにちでも、人間にんげんおおきく変化へんかする。子犬こいぬは、成長せいちょうしてもいぬのままだ。しかし、人間にんげんは、ぶたにも天使てんしにもなれる。よりよくきるためには、つねにその両方りょうほう可能かのうせい自覚じかくしていることが大切たいせつなのである。【0】

言葉ことばもり長文ちょうぶん作成さくせい委員いいんかい Σしぐま


長文ちょうぶん 1.2しゅう
 【1】産業さんぎょう革命かくめい以来いらい機械きかいひとびとの生活せいかつゆたかにする打出うちで小槌こづち役目やくめたすものだとおもわれてた。そしてその進歩しんぽはイコール人類じんるい幸福こうふくにつながるともしんじられていたのである。過去かこひゃくねんあいだ、わたしたちはなんのうたがいもなくそれをしんじてた。【2】その信仰しんこうがまちがいでなかったことは、人類じんるいがついにつき到達とうたつすることによって証明しょうめいされたかのようにえた。まさに科学かがく勝利しょうり確認かくにんする成果せいかだったわけである。そうした背景はいけいったとき、なによりもたよりになるたしかなよりどころは、工学こうがくてきなもののかんがかたであったし、またそうしんずるのが当然とうぜんのなりゆきでもあった。【3】そして数量すうりょうてき証明しょうめいできるものにこそ真理しんりがあり、それのみがただしいとするかんがかたが、ひろきわたっていったのである。
 だが最近さいきんになって、それだけがすべてではないということが、反省はんせいされるようになった。【4】経済けいざい高度こうど成長せいちょうにあっては、その目的もくてき達成たっせいする一番いちばん有力ゆうりょく武器ぶきは、工学こうがくてき発想はっそう工学こうがく技術ぎじゅつであった。だがいまやそのきすぎがいろいろなめん見直みなおされようとしている。それをおぎなうためのもっと有効ゆうこう方法ほうほうひとつとしてあげられるのは、生物せいぶつがくてき発想はっそうであろう。【5】「世紀せいき機械きかい文明ぶんめい時代じだいであったが、いち世紀せいき生物せいぶつ文明ぶんめい時代じだいになる」というような言葉ことば使つかわれている。これもまたそのことを示唆しさするとみてよいであろう。
 いまここでべてきたことは、デザインの分野ぶんやについてもあてはまることである。【6】以下いかにとりあげるのは、やや片寄かたよった対象たいしょうではあるが、わたしの関係かんけいするインテリアの分野ぶんやれいにしてこの問題もんだいかんがえてみたい。
 生物せいぶつがく建築けんちくというと、いまのところいかにも縁遠えんどお存在そんざいのようにおもわれる。だがたしてそうであろうか。
 【7】動物どうぶつがくは、かつてはおもに医学いがく補助ほじょ手段しゅだんとして発達はったつしためんがあった。いちはち世紀せいき以来いらい比較ひかく解剖かいぼうがくや、いちきゅう世紀せいきになって発展はってんした比較ひかく生理学せいりがくは、そうしたところから出発しゅっぱつした学問がくもんであった。【8】だがそれらの科学かがくは、現在げんざいではもっとひろ人間にんげんそのもののかたや、人間にんげんかん構成こうせいという分野ぶんやにさえも、寄与きよするようになってている。おなじ事情じじょう植物しょくぶつがくについてもいえることである。
 【9】それにもかかわらず、一般いっぱんには生物せいぶつがく建築けんちくとかかわり範囲はんいは、動物どうぶつがくなら建築けんちく害虫がいちゅう植物しょくぶつがくなら造園ぞうえん分野ぶんやくらいでしかないという単純たんじゅんかたがある。これはいささか近視眼きんしがんてきにすぎるのではないだろうか、とわたしはおもう。
 【0】これまでの建築けんちく芸術げいじゅつせい工学こうがくてき技術ぎじゅつ重点じゅうてんがおかれていた。建築けんちくがくひとひとつの独立どくりつした建物たてものをつくる技術ぎじゅつであった段階だんかいまではそれでよかったであろうが、それが一方いっぽうでは都市としという空間くうかんにまで拡大かくだいし、他方たほうではまた、インテリアというミクロの空間くうかんにまで細分さいぶんされて現在げんざいでは、その底流ていりゅう生物せいぶつがくてきなものの見方みかたかんがかたがしっかりくだしていないと、建築けんちくもインテリアも本当ほんとう人間にんげんのためのものになりえないということが、いま反省はんせいされはじめようとしている。
 かんがえてみるとわれわれの生活せいかつだい部分ぶぶんは、生物せいぶつてき嗜好しこうでよいわるいを判断はんだんしていることのほうがおおい。だが従来じゅうらい工学こうがくてき立場たちばでは、そういうあいまいさは技術ぎじゅつとはみとめられなかった。そこでなんとか数量すうりょうてきにあらわそうとするが、現在げんざい技術ぎじゅつ段階だんかいではどうしてもれない部分ぶぶんのこってしまう。その断層だんそうめる手段しゅだんが、しばしば芸術げいじゅつのもとに、たんなるカッコよさとすりえられるおそれもあったのである。だがあたらしい生物せいぶつがくは、そうしたあいまいさにたいして、ひとつのよりどころをしめ可能かのうせいつようになった。そして同時どうじに、数量すうりょうてきれるものだけが科学かがくのすべてではない、ということもおしえてくれるようになってたのである。
 いま都市とし空間くうかんれいをあげよう。ブラジリアはあらゆる技術ぎじゅつ駆使くししていち世紀せいきゆめ都市としとしてつくられたはずであった。だが実際じっさいにできあがってみると、かんじんの人間にんげんがなかなかみつかない。その理由りゆう調しらべてみるといわゆる街角まちかどがなかったためだという。気楽きらくひとひととがせっ泥臭どろくさ片隅かたすみがなくて、まちのたたずまいも、周辺しゅうへん人造湖じんぞうこも、よそゆきのつめたいうつくしさでととのいすぎていた。あるがままの人間にんげんくささのよどみ、といったものがけていたのが原因げんいんだったというのである。
 そうした話題わだいはわれわれの身辺しんぺんにもすくなくないようである。新宿しんじゅくふく都心としんができてからいちねん反省はんせいは、予想よそうしていたほどのひとりつかないことだったという。その原因げんいんは、ひときつけるなにかがまだりない。庶民しょみんてき泥臭どろくささ、たとえばあかちょうちんやなわのれんというようなものがけていたことにがついたというのである。まいの環境かんきょううつくしくあることは、たしかにのぞましいことにちがいないが、芸術げいじゅつだいいち主義しゅぎでは庶民しょみんにはとてもめない。庶民しょみん人間にんげんであるよりもさきに、まず生物せいぶつで、生物せいぶつ本来ほんらいもっと泥臭どろくさいものだということが、いつのにかわすれられていた。それにがついたわけである。

小原おはら二郎じろう文章ぶんしょうによる)


長文ちょうぶん 1.3しゅう
 【1】社会しゃかい個人こじんからつものとされている。したがって実状じつじょうはどうであれ、それぞれの個人こじんは、社会しゃかい構造こうぞう運営うんえい将来しょうらいについて責任せきにんをもつものとして意識いしきし、行動こうどうしていることになっている。【2】しかしながら、このような意識いしき明治めいじ以降いこう輸入ゆにゅうされたものであり、現実げんじつ日本人にっぽんじんおおくは、社会しゃかい構成こうせいする個人こじんとしてよりも、世間せけんなかにいる、一人ひとり人間にんげんとして行動こうどうしている部分ぶぶんほうおおいのである。
 【3】世間せけん個人こじん関係かんけいについて注目ちゅうもくすべきことは、個人こじん自分じぶん世間せけんをつくるのだという意識いしきまったくもっていないてんにある。自己じこ世間せけんたいして、たいていのばあい立場たちばにたっているのである。個人こじん行動こうどう最終さいしゅうてき判定はんていし、さばくのは世間せけんだとみなされているからである。【4】「世間せけん」という言葉ことば定義ていぎしにくいのは、世間せけんつね個人こじんとの関係かんけいにおいてその個人こじん顔見知かおみしりの人間にんげん関係かんけいなかまれているものだからであり、ひとによって世間せけんひろひとせまひともいるからである。したがって個人こじんごとにさまざまな世間せけんがあり、日本にっぽんにはかぞえきれないほどの世間せけんがあることになる。【5】ときには身内みうち以外いがいにさしたる世間せけんとのつきあいもなくらしているひともいるのであるが、それでも世間せけん評判ひょうばんにかかるのである。
 欧米おうべいじん日本人にっぽんじん権威けんい主義しゅぎてきだとみることがおおいが、それは日本人にっぽんじんつね世間せけんにしながらきており、かれらからみると個性こせいてきではないようにみえるためである。【6】日本人にっぽんじんはできるだけ目立めだたないようにきることが大切たいせつであるとかんがえ、自分じぶん能力のうりょく必要ひつよう以上いじょうしめさないようにする。日本人にっぽんじんなによりもこわいとおもっているのは「世間せけん」からつめだんつまはじきされることだからである。【7】そのこわいとおもっている態度たいど欧米おうべいじんには理解りかいしかねるのであって、それはかれらには「世間せけん」が理解りかいしかねることとおなをもっている。
 個人こじん性格せいかくにもよるが、世間せけんなからすほう社会しゃかいなからすよりもらしやすく、らくなのだ。【8】そこでは長幼ちょうようじょ先輩せんぱい後輩こうはいなどの礼儀れいぎさえ心得こころえていればすべては慣習かんしゅうどおりにすすみ、得体えたいのしれない相手あいてとともに行動こうどうするときの不安ふあんなどはないからである。さらに世間せけんなかでの個人こじん位置いちは、長幼ちょうようじょ先輩せんぱい後輩こうはいなどの序列じょれつ一応いちおうまっており、能力のうりょくによってその位置いちおおきくわることはあまりない。【9】個人こじん世間せけんたいして批判ひはんをしたり、不満ふまんべることがあっても、世間せけんのルールは慣習かんしゅうそのものであり、なんら成文せいぶんされていないから、不満ふまん批判ひはんもききながされてしまうのである。
 日本人にっぽんじんおおくは世間せけんなからしている。【0】(中略ちゅうりゃく現実げんじつ日常にちじょう生活せいかつでは世間せけんなからしているにもかかわらず、日本にっぽんのインテリはすくなくとも言葉ことばのうえでは社会しゃかい存在そんざいするかのごとくにかたり、評論ひょうろん学者がくしゃは、現実げんじつには世間せけんによって機能きのうしている日本にっぽん世界せかいを、社会しゃかいとしてとらえようとするために、滑稽こっけいちがいがしばしばこっているのである。このことは政党せいとう大学だいがく学部がくぶ企業きぎょうやそのほかの団体だんたいなどの人間にんげん関係かんけいのすべてについていえることであり、それらの人間にんげん関係かんけいみなそこにぞくする個人こじんにとっては、世間せけんとして機能きのうしている部分ぶぶんおおきいのである。個々人ここじんはそれら世間せけん自分じぶんとの関係かんけいふかかんがえず、自覚じかくしないようにしてらしているのである。
 日本人にっぽんじん一人ひとりいちにんにそれぞれひろせまいのはあれ、世間せけんがある。世間せけん日常にちじょう生活せいかつ次元じげんにおいては快適かいてきらしをするうえで必須ひっすなものにえるが、その世間せけんがもつ排他はいたせい差別さべつてき閉鎖へいさせい公共こうきょうたときにはっきりあらわれる。たとえば何人なんにんかでたびるために列車れっしゃっているとしよう。れつをつくっているばあいも、何人なんにんかのうちの一人ひとり先頭せんとうならんで、あとからきたしゃもその先頭せんとう一人ひとりのあとにぞろぞろとんでくることがおおい。このようなとき、わたしたちは自分じぶんたちの仲間なかま利益りえきしかかんがえていないのである。あるとき電車でんしゃなかわたし中年ちゅうねん女性じょせいせきをゆずった。えきほどぎてその女性じょせいのとなりのせきいたとき、その女性じょせいとおくのせきすわっていた仲間なかませてならんですわり、「にんともすわれてかったね」とはなっていた。彼女かのじょたちにとってそのとき、二人ふたりだけの世間せけん形成けいせいされており、まわりの人間にんげんのことはまった彼女かのじょたちの考慮こうりょなかはいっていないのである。このようなことは日本にっぽんでは日常にちじょうてきにみられることであり、電車でんしゃなか宴会えんかいはじめたり、さわいだりするひとたちはつねにどこでもられるのである。このような事態じたいたいして、日本人にっぽんじんには公徳こうとくしんりないとかいろいろいわれるが、問題もんだい公徳こうとくしんではなく、ここでつくられている仲間なかま意識いしきが、おおくのひとたちによって是認ぜにんされているというてんにある。
 そのようなときわたしたち日本人にっぽんじんには、自分じぶんたちが排他はいたてき世間せけんをつくっているのだ、という認識にんしきがほとんどないのである。
阿部あべ謹也きんやちょ西洋せいよう中世ちゅうせいあい人格じんかく』より)


長文ちょうぶん 1.4しゅう
 エーレンベルグは、植物しょくぶつ生育せいいくするためにもっともてきした環境かんきょうにはふたつの場合ばあいがあるのではないか、とかんがえた。
 そのひとつは、たんうえ栽培さいばい実験じっけん最大さいだい生長せいちょうりょうしめ場所ばしょで、もし競争きょうそう相手あいてがいなければ、適度てきど水分すいぶん養分ようぶん自由じゆうにとりれて、のびのびと生育せいいくできる地域ちいきだ。かれはこのような地域ちいき生理せいりてき最適さいてきいきづけた。
 もうひとつは、こんうえ栽培さいばい実験じっけん最大さいだい生長せいちょうりょうしめしたような場所ばしょだ。つまり自然しぜんちか状態じょうたいで、ある植物しょくぶつ自分じぶんよりも競争きょうそうりょくつよ植物しょくぶつによって生理せいりてき最適さいてき場所ばしょをうばわれているため、こころならずもその場所ばしょからされ、もっとわる条件じょうけんのもとで生育せいいくしているような地域ちいきである。そんな地域ちいきを、かれ生態せいたいてき最適さいてきいきづけた。
 わたし感心かんしんしたが、ぜんぜん疑問ぎもんがなかったわけではない。
 生理せいりてき最適さいてきいきという言葉ことば全面ぜんめんてき納得なっとくできる。だが生態せいたいてき最適さいてきいきのほうはどうだろう? 自分じぶんにとってもっともよい環境かんきょう条件じょうけんからややはずれて、湿しめった場所ばしょかわいた場所ばしょいやられることが最適さいてきいきという言葉ことばいあらわされてよいのだろうか?
 だが、いまになってかんがえれば、エーレンベルグのった最適さいてきいきという意味いみふかさが、わたしにもわかるようながする。ある生物せいぶつ社会しゃかい健全けんぜんながいあいだ繁栄はんえいしてゆくためには、すべての欲望よくぼうがほんの短時日たんじじつのあいだ満足まんぞくできる本来ほんらい最適さいてき生育せいいくいきから多少たしょうずれていて、なんでもおもいどおりになるとはかぎらない環境かんきょうのほうが、よいかもしれないからだ。そのほうが、かえってバランスのとれた社会しゃかいたもってゆくのにはよい状態じょうたいだろう。もし、あまりつよくなりすぎ、すべての競争きょうそう相手あいてにうちかってあらゆる欲望よくぼうがかなえられたなら、その個体こたい種族しゅぞく社会しゃかい滅亡めつぼうしてゆくのが生物せいぶつかい鉄則てっそくなのだから。生態せいたいてき最適さいてきいきとは、生物せいぶつ社会しゃかい本来ほんらい意味いみからって、まさにながつづきのする最適さいてき地域ちいきだったのだ。
 すべての生物せいぶつには、生理せいりてき最適さいてきいき生態せいたいてき最適さいてきいきとがある。それを人間にんげん社会しゃかいにあてはめてみるとき、わたしにはちかごろの人間にんげんかたに、あるしゅおそろしさをかんじないわけにはいかない。
 わたしたちの日常にちじょう生活せいかつは、いろいろな欲望よくぼう満足まんぞくさせる方向ほうこうすすんでいる。あついときは、冷房れいぼうさむいときには暖房だんぼう衣料いりょう食物しょくもつ自動車じどうしゃなど、人間にんげん欲望よくぼうたすために、工場こうじょうはあたらしい製品せいひんをこれでもか、これでもかと生産せいさんして提供ていきょうする。
 人間にんげんのかずかずのせつなてき欲望よくぼうがすべて満足まんぞくさせられるような社会しゃかいまれようとしている半面はんめん人間にんげん生命せいめい持続じぞくてき存続そんぞくがおびやかされるような画一かくいつてき社会しゃかい文明ぶんめいすすんでいる。矛盾むじゅんしたなかだと、きみたちはかんがえるだろう。だが、この現象げんしょうはかならずしも矛盾むじゅんではない。
 自然しぜん山野さんやきるものわぬ植物しょくぶつたちは、きわめてきびしい条件じょうけんのところで、生理せいりてき最適さいてきとはいえない場所ばしょでがまんをかさねながらも、力強ちからづよきているではないか。そしてなんだいたっても、そこから消滅しょうめつしいないできている。この姿すがたに、わたしたち人間にんげんまなぶところはないだろうか?
 ことわっておきたいことがある。わたしはなにも人間にんげん文明ぶんめい進歩しんぽすることに反対はんたいしているわけではない。便利べんりなことは、不便ふべんなことよりもよいにきまっている。ただ、目先めさき欲望よくぼうをすこしでもはや満足まんぞくさせるために、現在げんざいのようにとお将来しょうらいまでをようとしないで環境かんきょうをこわしつづけてゆく。すると、これが人間にんげんにとって最高さいこう環境かんきょうだとむねったときに、そこがじつは人間にんげんにとってさい適地てきちでもなんでもなく、人類じんるい墓場はかばだったということがあるといたいのだ。
 目的もくてきたっするためには多少たしょう犠牲ぎせいもしかたない、というようなかんがえをすてて、まわりみちでも時間じかんをかけて目的もくてきすすむのだ。そのために環境かんきょうをみずから破壊はかいするようなおろかなことはけようではないか。まわりみちをするのもまた、がまんのひとつだ。そして、ある程度ていどがまんのあるような状態じょうたいこそ、生物せいぶつ社会しゃかいにとってもっとも健全けんぜんで、ちょうつづきする状態じょうたいなのだ。
宮脇みやわきあきら人類じんるい最後さいご」)


長文ちょうぶん 2.1しゅう
番目ばんめ長文ちょうぶん課題かだい長文ちょうぶんです。】
 【1】あそはじめたとき、あめってきた。小学校しょうがっこうさん年生ねんせいのころのことだ。一緒いっしょあそんでいたすうにんで、すぐに校舎こうしゃひさしひさししたはいりそのままあそびをつづけた。やがてあめ次第しだいはげしくなり、ついに本格ほんかくてき大雨おおあめになった。【2】仕方しかたがないので、いえかえることにし、結局けっきょくずぶぬれになってかえり、ははわらわれた。小学生しょうがくせいわたしたちにとって、あそびは人生じんせいたのしさそのものだった。【3】やすみの自然しぜんはやめるので、夏休なつやすみは毎日まいにち早起はやおきになる。勉強べんきょうのある平日へいじつおそくまでているが、自由じゆうごせるやすみのは、自分じぶんでもおどろくほどはやきられるのだ。
 【4】あそびは、人間にんげんきとさせる。それがあそびのプラスのめんだ。たのしい人生じんせいおくることは、人間にんげんとしてかすことができない。そして、人間にんげんあそびをとおして勉強べんきょう以外いがいなにかをまなぶ。【5】あそびの過程かていにはトラブルがつきものだ。「った。けた」「やった。やらない」などのいいがときどきまれる。しかし、人間にんげんはそこで他人たにんとの関係かんけい必要ひつよう感覚かんかくにつけているのだろう。
 【6】しかし、もちろん人間にんげんには勉強べんきょう必要ひつようだ。勉強べんきょうは、動物どうぶつにはない人間にんげん独自どくじ時間じかんごしかたで、あそびの対極たいきょくとしてかんがえられている。たとえば、漢字かんじり、計算けいさん練習れんしゅう社会しゃかい理科りかのさまざまな知識ちしき記憶きおく。これらに共通きょうつうしているのは、退屈たいくつで、できれば後回あとまわしにしたいということだ。【7】しかし、それがあとになってやくつのも事実じじつだ。たとえば、算数さんすうきゅうきゅうという計算けいさん方法ほうほうおぼえることによって、その数字すうじ使つか生活せいかつ飛躍ひやくてき能率のうりつがる。また、もっと学年がくねんがると、まなぶこと自体じたい面白おもしろくなるというひともいる。
 【8】このようにかんがえると、あそびと勉強べんきょうはもともと区別くべつしてかんがえるものではないのかもしれない。あそびも勉強べんきょうも、自己じこ向上こうじょうというてんおおきくは一致いっちする。【9】そして、自己じこ向上こうじょうは、人間にんげんにとってもっとおおきいよろこびのひとつだろう。だから、あそびを勉強べんきょうのように成長せいちょうかてにするとともに、ぎゃく勉強べんきょうあそびのようにたのしむことが、これから必要ひつようになってくるのではないだろうか。【0】

言葉ことばもり長文ちょうぶん作成さくせい委員いいんかい Σしぐま
 【1】本質ほんしつてき問題もんだいに、どんなてんから気付きづくのか、そういうものが、どんな状況じょうきょうからてくるかというと、それも、そのひと素質そしつによるものだとおもいます。これはいろいろな要因よういんかんがえられます。ちいさいときからのものかんがかた家庭かていないでのしつけ、いろんな要素ようそ複雑ふくざつんでいるわけです。【2】わがまま放題ほうだいにしてそだったのでは、そういうことをかんじ、ある方向ほうこうへもっていく機能きのうかんがかたまれてこないとおもいます。ですから、たとえちいさなことでも、自分じぶんがどういう立場たちばにいるかということを、はやくから家庭かていしつけや、おや愛情あいじょうで、それをかんじさせるということも可能かのうだとおもいます。
 【3】子供こどもころのある時期じきから、仲間なかまないでも、むちゃくちゃやっていると、みんなからきらわれることも、さとります。
 ちいさな家庭かてい生活せいかつや、子供こども社会しゃかい体験たいけんから、本能ほんのうてきなわがままな感情かんじょうと、一方いっぽうでは、経験けいけんてきにどうすればいいかという、理性りせいというものが、ちいさいときからまれてくるのです。
 【4】家庭かていしつけのようなものからでも、その端緒たんしょまれてくるのではないかとおもいます。しつけきびしい家庭かていでは、ちいさい子供こどものころから、子供こども就寝しゅうしん時間じかんがきたから部屋へやかえってねなさいと、おや子供こどもにいいます。かなりちいさいときからでも、規律きりつおしえるために、そういうことをします。【5】おや可愛かわいいからといって手元てもとにおいてわがままにさせません。これもわがままにならない、ひとつのあいだとおもいます。
 子供こども本能ほんのう感情かんじょううごくときに、はやくから、おやがきちんと、教育きょういくめんで、子供こども時間じかんというものをしつけとしておしえるわけです。【6】最初さいしょはわめこうがさけぼうが、ゆるしてもらえません。こうして、我慢がまんすることや、自分じぶん立場たちば自覚じかくします。そういう日常にちじょう生活せいかつつうじて、どんなにしたしくても、それぞれの立場たちばがあるということを、しつけとして、おぼえていきます。【7】日々ひびちいさな出来事できごとで、なんでもないようなことですけど、そういうことのかさねにより、将来しょうらい判断はんだんりょく一端いったんそだつとおもうのです。それをそだてることが、家庭かていない本当ほんとう愛情あいじょうといえます。この教育きょういく大事だいじなんです。
 【8】日本にっぽんでも、むかしはそうした伝統でんとうてき家庭かていおしえがあったとおもうのです。キチンと父親ちちおや善悪ぜんあく礼儀れいぎおしえていました。愛情あいじょうちながら、きびしくしつけをしたものです。盲目的もうもくてき可愛かわいがらない、ねこ可愛かわいがりをしない、そういう分別ふんべつというものを、精神せいしんてきにつけていく家風かふうがありました。【9】両親りょうしんしつけがしっかりしているという、家庭かていない空気くうきかんじさせ、これが人間にんげん形成けいせい一端いったんになっていました。そして自分じぶん行動こうどうをどうしていくかを子供こどもかんじさせ、自覚じかくさせたものです。
 よく教育きょういく問題もんだいで、これからの学校がっこう教育きょういく進路しんろ個性こせい文部省もんぶしょう教育きょういく審議しんぎかいなどで云々うんぬんされます。【0】まず改革かいかくおやからやらないと効果こうかがりません。「たましいひゃくまでも」ではないですが、本当ほんとう意識いしきづくまでのおさな時代じだいに、家庭かていでそのそだつものです。おや本当ほんとう愛情あいじょうとはぞやということを自覚じかくする必要ひつようがあります。むかしおや子供こどものために一生懸命いっしょうけんめい食事しょくじつくりました。けむりなみだながしながら、あさはんつくるとか、手作てづくりのシャツをせるとかでそだったのです。今日きょうは、弁当べんとうでもおやつくるというのではなくむかしちがって給食きゅうしょくです。今日きょう一般いっぱんてきには、家庭かていでお惣菜そうざいとしてはやべられるよう便利べんり出来できています。子供こどもでもレンジであたためれば、苦労くろうなくつくれます。父親ちちおやそとかせいでいますが、その仕事しごと姿すがたえません。母親ははおやは、子供こどもには、じゅく勉強べんきょうけ、つぎなにしろということがあります。こうしたことが、一生懸命いっしょうけんめい子供こどもたちのことかんがえながら、そだてていると、おやおもっています。ところが、子供こども人間にんげん形成けいせい大事だいじてんは、人間にんげんてき愛情あいじょうです。本当ほんとう愛情あいじょうなになのかと、スキンシップで親子おやこ会話かいわ感性かんせいまれるようにしなければなりません。そういうところの形式けいしきわっているのに、本当ほんとう愛情あいじょうがつかないのではないかとおもいます。(中略ちゅうりゃく
 おやたい愛情あいじょう古典こてんてき本能ほんのうてきなものですから、経済けいざいてきまずしくても、あたたかい家族かぞくてき愛情あいじょうのあるいえというのは幸福こうふくです。そこからいい人間にんげんせいそだちます。ちゃんとした人物じんぶつてくるのではないでしょうか。

平山ひらやま郁夫いくお「このみち一筋ひとすじに」より)


長文ちょうぶん 2.2しゅう
 【1】新聞しんぶんというものをまるでまないとっているひとがいる。そうかとおもうと、あさ手洗てあらいで新刊しんかんしょ広告こうこくむのが最大さいだいたのしみだというひともいる。わたしはどちらのほうちかいのだろうかとかんがえてみた。たしかに、わたしは、新聞しんぶん一生懸命いっしょうけんめいろんじようとしている主張しゅちょうの、あまりではないようながする。【2】たいていの場合ばあい新聞しんぶん無名むめいせいにおいて大衆たいしゅう善導ぜんどうしようとして声高こわだかいている論述ろんじゅつと、一人ひとりいちにん新聞しんぶんじんきている現実げんじつのズレを、そのまましてくれるような紙面しめんにあまりおにかからないからであろうか。
 【3】どちらかといえば、わたしは、行間ぎょうかん余白よはくであるのかもれない。そういう意味いみわたしは、新聞しんぶんを、つきいちとかでなく毎日まいにち縁日えんにちのようなものであるとているふしがある。論説ろんせつ記事きじ神社じんじゃ神主かんぬしかんぬしさんの祝詞のりとのりとのようなものであり、【4】謹聴きんちょうしなければならないときはだまっておとなしくくが、わったらホッとするるいのものであり、経済けいざい記事きじはおみくじのようなもの、政治せいじ社会しゃかいめんいたっては、小屋掛こやが芝居しばいのようなもので、たるわたしはぶらぶら散歩さんぽして夜店よみせをひやかすきゃくのような存在そんざいである。
 【5】ということになると一番いちばんたのしく、ぴったりしているのはやはり広告こうこくらんという夜店よみせどおりかもれない。【6】広告こうこくちいさいもと書籍しょせきらんのようになかよくならんでいるのは、チャーミングな店舗てんぽであるが、全面広告ぜんめんこうこくのようなものはどちらかとえば、香具師こうぐしやし口上こうじょうじみているから、レイアウトをたのしむけれど、「まゆつばもの」ときながす傾向けいこうがある。
 【7】それでは、あなたが時々ときどき執筆しっぴつする文化ぶんからん学芸がくげいらんるいたぐいなにであるかとわれると、うまでもなくそれは縁日えんにち見世物みせもの、そのある程度ていど集約しゅうやくされたものとしてのサーカスのようなものであるとこたえることができるだろう。【8】にはさむらいくずれの居合抜いあいぬきのようなっぱった言説げんせつあり、ときにはガマのあぶらりの口上こうじょうよろしく本当ほんとううそかわからない言説げんせつりがあり、舶来はくらいの、人目ひとめをおどかせる新奇しんきじゅつよろしくうたいげられるしん思想しそうショーがある。【9】そうかとおもえば、アクロバット仕立したての音楽おんがくかいひょうる。これらはすべて、たくみにえんじられるときは、内容ないよう当否とうひべつとしてたのしませてもらえるが、下手へたげい、または興行こうぎょう下手へた意図いとが、前面ぜんめんたりするともあてられなくなる。
 【0】縁日えんにちであるから、やはりそこには、日常にちじょう生活せいかつ時間じかんながれとことなった、さまざまな偶然ぐうぜん介入かいにゅうがあったほうがよい。おもいがけないひとうとか、国鉄こくてつ(JR)はらげのかさひゃくえんひゃくえんうとか、おもってみなかった種類しゅるい商品しょうひん出会であ面白おもしろさはできるだけあったほうがよい。
 そのてん安物やすものだが、あたらしさだけは強調きょうちょうしてある夜店よみせ子供こどもにとって魅惑みわく空間くうかんそのものである。さしたって、新聞しんぶんなかにそうした偶然ぐうぜんひそんでいる空間くうかんさがすとすれば、それはやはり、あちこちにらばっている情報じょうほうである。情報じょうほうもできるだけ、個人こじんがひそかに培養ばいようしている「わたし文化ぶんかといった、あまりじんかちちたくないものに直接ちょくせつプラスになるもののほうが、意外いがいせいめんではよりたかいようにおもわれる。
 演劇えんげき音楽おんがくもよおし、ひとについてなど、こうした、自分じぶんっているからかくれた意味いみあきらかになるといった事実じじつは、なるべくたからさがしのように、それらしくないところにいてあったほうがよい。おおくのひとが、新聞しんぶん読書どくしょらんというものをたいしてありがたがらず、ほん広告こうこくほうにひそかなたのしみをたくそうとするのは、そのような情報じょうほう極秘ごくひ欲求よっきゅうあらわれかもれない。


長文ちょうぶん 2.3しゅう
 【1】科学かがく記述きじゅつからはじまる。現象げんしょうをコトバで記述きじゅつする。ある現象げんしょうとあるコトバが厳密げんみつ一対一いちたいいち対応たいおうしているならば、だれ現象げんしょう記述きじゅつしてもおな記述きじゅつになるはずだ。
 ところが、どっこい、そうはうまくゆかない。【2】そのことは、記述きじゅつから現象げんしょう再現さいげんしてみればわかる。
 「白馬はくばにまたがってやってきたのは、素敵すてき王子おうじさまだった」
 この記述きじゅつから現象げんしょう再現さいげんしてみることはできるけれども、ひとによってすこしずつことなった情景じょうけい再現さいげんするにちがいない。【3】それでもまだ、白馬しろうまとか王子おうじさまとかの自然しぜん言語げんごには、ある程度ていど共通きょうつう了解りょうかいがあるので、キリンにチンパンジーがまたがっているような情景じょうけいおもかべるひとはいない。
中略ちゅうりゃく
 コトバの共通きょうつう了解りょうかいについて、ふかかんがえたのは、スイスの言語げんご学者がくしゃのソシュール(いちはちなないちきゅういちさん)である。
 【4】ソシュールはまず、コトバの表記ひょうきはいい加減かげんであるとう。イヌのことをイヌとぶのは適当てきとうまったのであって、べつにさしたる理由りゆうがあるわけではない。べつ表記ひょうき、たとえば、イコでもイポでもよかったのだ。それが証拠しょうこ英語えいごではdogという。【5】これをコトバの(表記ひょうきかんする)恣意しいせいう。このはなしだれにでもよくわかる。
 しかし、コトバの本当ほんとう恣意しいせいはもっとふかいところにある、とソシュールはう。
 世界せかい連続れんぞくてき変化へんかする。我々われわれはそれを適当てきとうって、コトバでいいあてようとする。【6】コトバによる世界せかいかたには根拠こんきょがない。これがソシュールの主張しゅちょうである。
 これはちょっとわかりづらいかもれない。おおくのひとは、世界せかいにあらかじめなんらかの実体じったいがあって、それに名前なまえをつけているとおもっているからである。
 【7】それにたいして、ソシュールはつぎのような主張しゅちょうをしたのだ。たとえば、イヌとかネコとかの実体じったいが、あらかじめ世界せかいにあって、それにたいしてイヌとかネコとかの名前なまえをつけているのではなく、イヌとかネコとかの名前なまえがつけられて、はじめて、イヌとかネコとかの実体じったいがあるかのようにえるのだ。
 【8】やっぱりわからない? それではこういうれいはどうだろう。日本にっぽんではにじななしょくである。いろ可視かし光線こうせん波長はちょうによって、徐々じょじょ変化へんかする。それをななつに分断ぶんだんする根拠こんきょはない。しかし、ななしょくあるとわれてれば、ななしょくかれてえる。【9】だから、にじいろしょくであるという言語げんごがあれば、その言語げんご使つかっているひとにはにじしょくえるのである。実際じっさいにリベリアのバッサでは、にじいろしょくであるという。(中略ちゅうりゃく
 【0】コトバが世界せかいにあらかじめある実体じったいに、名前なまえをつけただけのものでないことは、つぎのようなことからも理解りかいできるかもれない。
 我々われわれひとにコトバをおしえるのになにをするかとえば、実物じつぶつゆびさして、コトバをうのである。たとえば幼児ようじおしえるときに、いぬゆびさしてワンワンとう。なんかえしておしえると、幼児ようじ見知みしらぬいぬても、ちゃんとワンワンとうようになる。もっともワンワンというコトバしからないと、ねこてもタヌキをてもワンワンとうかもれない。
 幼児ようじは、いぬはんれいをいくつかて、ワンワンというパターンをつくげる。最初さいしょねこもワンワンのパターンのなかはいっているが、大人おとなにそれはニャンニャンだよ、とわれて、ワンワンのパターンを修正しゅうせいする。だからワンワンというパターンは、現物げんぶつながら他人たにんとのコミュニケーションをとおして、構成こうせいされるのだ。
 個々ここいぬたしかに世界せかい実在じつざいするだろう。しかし、ワンワンというパターンは、幼児ようじ無関係むかんけい世界せかい実在じつざいするわけではない。科学かがく記述きじゅつなしには成立せいりつしない。だから科学かがくはパターンがひとによってことなるのはあまりありがたくない。そこでパターンを固定こていしようと努力どりょくすることになる。我々われわれ日常にちじょう世界せかいでは、コミュニケーションが成立せいりつすれば、イヌとはなにか、ということが定義ていぎできなくとも、べつ問題もんだいはない。しかし科学かがくは、できることならばコトバを厳密げんみつ定義ていぎできるものにしたいのだ。しかし、いまはなしたように、イヌというパターンが世界せかいなか実体じったいとして実在じつざいしているかどうかは非常ひじょううたがわしい。それは多分たぶん人間にんげんしんなかなんらかのパターンとしてあるにちがいないのである。

 (池田いけだ清彦きよひこ科学かがくはどこまでいくのか』より)


長文ちょうぶん 2.4しゅう
 それにしても、おくさつというのはおどろくべき数字すうじである。世界せかいひろしといえども、これだけのりょうほんがつくられ、そして消費しょうひされているくには、そうたくさんはない。おそらく、日本人にっぽんじんは、世界中せかいじゅうもっともよくほん民族みんぞくなのである。
 そして、つくられ、消費しょうひされるほんりょう以上いじょう注目ちゅうもくすべきことは、このように大量たいりょう書物しょもつ日本にっぽんでは家庭かていなかにまでとけこんでいるという事実じじつである。よんにん家族かぞくとしじゅうさつねんひゃくさつ、とにかくちょっとした「蔵書ぞうしょ」が、たいていの家庭かていでできあがっているのだ。
 もちろん、西洋せいよう家庭かていにも多少たしょう書物しょもつがないわけではない。しかし、わたしのたかぎりでは、ふつうの家庭かてい場合ばあい書物しょもつはたとえば暖炉だんろのうえにすうさつ小説しょうせつがのっている、という程度ていどのものであって、なんじゅうさつなんひゃくさつもが本棚ほんだなめているのは、かなり知識ちしきじん家庭かていにかぎられている。
 実際じっさい家庭かていよう本棚ほんだなをこんなに種類しゅるいとりそろえて家具かぐっているくには、世界せかいでおそらく日本にっぽんだけだ。アメリカでもヨーロッパでも、もし家庭かていよう本棚ほんだなというものがあるとすれば、せいぜい、サイドボードぐらいのものであって、すうじゅうさつ収容しゅうようすることなど、とうていできそうもない。本棚ほんだなは、よほど特殊とくしゅ場合ばあいべつとして、家庭かてい標準ひょうじゅん備品びひんではないのである。
 ところが、日本にっぽん家庭かていにはたいてい本棚ほんだながある。規模きぼだいしょうべつとして、ともかく「蔵書ぞうしょ」がある。たとえば書斎しょさいはなくても、廊下ろうかのつきあたりとか居間いまかべぎわとかに本棚ほんだながあり、全集ぜんしゅうものがならんでいる。それが平均へいきんてき日本にっぽん家庭かてい風景ふうけいなのだ。書物しょもつのない家庭かてい日本にっぽんにはない。
 これと対照たいしょうてき西洋せいよう家庭かていがつくのは、やたらに大型おおがたのグラフ雑誌ざっしなどがゆきわたっているという事実じじつだ。どこのいえっても、アメリカなら、たとえば『ライフ』のような雑誌ざっし居間いまつくえうえに、かならずといってよいほどかさねてある。しかし、それは日本にっぽん家庭かていではあまりかけない風景ふうけいだ。事実じじつ日本にっぽんのグラフ雑誌ざっしは、だいたいお医者いしゃさんや床屋とこやさんの待合室まちあいしつ備品びひんであって、家庭かてい備品びひんにはなりにくいのである。
 それでは、書物しょもつ備品びひんとする日本にっぽん家庭かていとグラフ雑誌ざっし備品びひんとする西洋せいよう家庭かていとは、どうちがうのだろう。だいいちにいえることは、グラフ雑誌ざっしがそのまれかた、あるいはられかたにおいて集団しゅうだんてきであるということだ。居間いまのソファにこしをおろして、主婦しゅふがグラフ雑誌ざっしひらいているとき、おっとどもは、それに「参加さんか」することができる。グラフは、一種いっしゅ絵本えほんのようなものだから、それをのぞきこんでいっしょにることができるのだ。ちょうどそれはテレビをているようなもので、集団しゅうだんてきなものである。
 だが、書物しょもつとなると、そういうわけにはゆかない。書物しょもつはひとりでむものである。のぞきこんでいっしょにむことはむずかしいし、だいいち、そんなことをされたらかない。たとえすぐそばにだれかがいても、読書どくしょというのは孤独こどく個人こじん行為こういなのである。
 だから、日本にっぽんちゃでは、たとえば、主人しゅじん経営けいえいがくほんみ、主婦しゅふ文学ぶんがく全集ぜんしゅうを、どもはマンガを、それぞれにだまってんでいる、といったような風景ふうけい出現しゅつげんする。いちさつのグラフ雑誌ざっしをかこんで、家庭かてい全員ぜんいん集団しゅうだんてきになにかをるのではなく、家族かぞくのそれぞれが、それぞれのほんつうじて、それぞれの世界せかい没入ぼつにゅうしている――それが日本にっぽん家庭かていにおける読書どくしょ風景ふうけいなのだ。
 いささか飛躍ひやくするようだが、これはことによると、日本にっぽん住居じゅうきょ個室こしつがないことと関係かんけいしているのかもしれない。どこにいても、家族かぞくかおをつきあわせていなければならないのだから、せめてほんでもんで、自分じぶんだけの精神せいしん個室こしつをつくりたい、という欲求よっきゅうまれるのである。ひとりひとりが個室こしつをもっている西洋せいようじんが、居間いまのグラフ雑誌ざっしをかこんで集団しゅうだんてき世界せかいをたのしむのにたいして、もともとがべったりと集団しゅうだんてき日本にっぽん家庭かていでは、書物しょもつによって、個室こしつてき世界せかいもとめようとするのだ、といってもよい。いつだったか、さんじょうひとあいだろくにんというひどい住宅じゅうたく環境かんきょう紹介しょうかいするテレビ番組ばんぐみていたとき、このろくにん家族かぞくが、みなかたせあって、それぞれにほんんでいた情景じょうけいにわたしはたれたことがある。
 現実げんじつ個室こしつ十分じゅうぶんでないとき、ひとは、心理しんりてき個室こしつを、読書どくしょという方法ほうほうれることができるのである。

加藤かとう秀俊ひでとしくらしの思想しそう」)


長文ちょうぶん 3.1しゅう
番目ばんめ長文ちょうぶん課題かだい長文ちょうぶんです。】
 【1】かおパスという言葉ことばがある。「おれだ」「よし」という阿吽あうんあうん呼吸こきゅうで、本来ほんらい規則きそくとして処理しょりするところを当人とうにんどうしの個人こじんてき関係かんけい処理しょりする方法ほうほうである。なれいというとこえはわるいが、人間にんげんどうしの信頼しんらい関係かんけい基礎きそにしているてんもっと確実かくじつ方法ほうほうともえる。【2】現代げんだい法律ほうりつ規則きそく万能ばんのう社会しゃかいでは、このような人間にんげん信頼しんらい関係かんけいもとづいた対応たいおう仕方しかたがもっと見直みなおされてもよいのではないだろうか。
 そのためのだいいち方法ほうほうは、相手あいてしんじるだけのしんひろさをつことだ。【3】信頼しんらいするということは、相手あいて自分じぶんをゆだねることである。場合ばあいによっては、自分じぶんおおきな損失そんしつこうむることもある。それにもかかわらず、相手あいてにすべてをまかせて信頼しんらいする。そういう決意けついがあるからこそ、相手あいて自分じぶん信頼しんらいしてくれる。【4】ジャン・バルジャンは、自分じぶんしんじてくれたろう司教しきょう裏切うらぎった。しかし、翌朝よくあさ憲兵けんぺいれられてきたジャンに、司教しきょうは、「そのぎん食器しょっきわたしあたえたものだ」とげる。このように、相手あいてぜんなるしんたいする絶対ぜったい信頼しんらいが、人間にんげんらしいしんをもとにした社会しゃかい基礎きそとなる。
 【5】また、だいには、そのような人間にんげんどうしの信頼しんらいささえるだけの社会しゃかい一体いったいせいつくることだ。日本にっぽん社会しゃかい治安ちあんのよさは、世界せかいなかでも際立きわだっている。タクシーのなかわすれた財布さいふは、ほぼ確実かくじつもどってくる。【6】日本人にっぽんじんにとってはたりまえのようにえるこのようなことが、世界せかいではきわめてまれなことなのである。そういう社会しゃかいきずかれたのは、日本にっぽんひとつの民族みんぞくひとつの言語げんごひとつの文化ぶんかった社会しゃかいだったからである。【7】ことなる民族みんぞく文化ぶんか共存きょうぞんすることはもちろん大切たいせつだが、それは日本にっぽん社会しゃかいなかことなる民族みんぞく文化ぶんか異質いしつなままひろがっていいということではない。
 【8】ほう正義せいぎもとづいて判断はんだんするというかんがえは、たしかに人類じんるいなが歴史れきしなかってきた権利けんりだ。だからこそ、このかんがえは世界せかいのどこでも通用つうようするグローバルな思想しそうとなっている。しかし、そのグローバリズムは、日本にっぽんのようにたがいの信頼しんらい関係かんけいをもとにってきた社会しゃかいでは、人間にんげんしんたないつめたい機械きかいのような対応たいおうえる。【9】大岡越前守おおおかえちぜんのかみおおおかえちぜんのかみ日本人にっぽんじん人気にんきがあるのも、人間にんげんしんぬくもりをさばかたなかかしたからだ。かおパスでわされるものは、たんなるかおではなく、たがいの善意ぜんいへの信頼しんらいなのである。【0】

言葉ことばもり長文ちょうぶん作成さくせい委員いいんかい Σしぐま
 【1】たしかブレーズ・パスカルだったとおもいますが、大体だいたいのようなことをもうしました。
 ――やまい患は、キリスト教徒きりすときょうと自然しぜん状態じょうたいである、と。
 【2】つまり、いつまでも自分じぶんのどこかが具合ぐあいわるい、どこかがいたむこと、いかえれば、中途半端ちゅうとはんぱれない存在そんざいである人間にんげんが、おのれ有限ゆうげんせいしみ々とかんじ、「原罪げんざい」の意識いしきなやんで、つねしんいたみをかんじているのが、キリスト教徒きりすときょうと自然しぜん姿すがただともうすわけなのでしょう。【3】まあ、そういうふうに解釈かいしゃくさせてもらいます。
 これはなにキリスト教徒きりすときょうとかぎらず人間にんげんとして自覚じかくった人間にんげん、すなわち、人間にんげんはとかく「天使てんしになろうとしてぶたになる」存在そんざいであり、しかも、さぼてんでもなくかめどもでもない存在そんざいであり、【4】さらにまた、うっかりしていると、ライオンやへびたぬききつね行動こうどうをする存在そんざいであることを自覚じかくした人間にんげんの、憤然ふんぜんとした、沈痛ちんつう述懐じゅっかいにもなるかもしれません。
 おそらく「狂気きょうき」とは、いまべたような自覚じかくたない人間にんげん、あるいはこの自覚じかくわすれた人間にんげん精神せいしん状態じょうたいのことかもしれません。【5】あえてロンブローゾをつまでもなく、ノーマルな人間にんげんとアブノーマルな人間にんげんとの差別さべつはむずかしいものです。気違きちがいと気違きちがいでない人間にんげんとのさかいははっきりわからぬものらしいのです。まず、そのあいだのことをわすれてはならず、心得こころえていたほうがよいかもしれないのです。【6】我々われわれには、みな少々しょうしょう気違きちがいめいたところがあり、うっかりしていると本物ほんものになるのだと、自分じぶんにいいきかせていないと、えらい「狂気きょうき」 にとりつかれます。また、そういうことをらないでいると、いつのまにか「狂気きょうき」の愛人あいじんになっているものです。
 【7】天才てんさい狂人きょうじんとの紙一重かみひとえだと、ロンブローゾはもうしているわけですが、天才てんさいとは、「狂気きょうき」が持続じぞくしない狂人きょうじんかもしれませんし、狂人きょうじんとは「狂気きょうき」 が持続じぞくしている天才てんさいかもしれませぬ。
 しかし、人間にんげんというものは「狂気きょうき」なしにはられぬものでもあるらしいのです。【8】我々われわれしんのなか、からだのなかにある様々さまざま傾向けいこうのものが、つねにうようようごいていて、我々われわれなに行動こうどうおこ場合ばあいには、そのうようようごいているものが、あたかも磁気じきにかかったてつのように一定いってい方向ほうこうきます。【9】そして、その方向ほうこうすすむのに一番いちばんてきした傾向けいこうったものが、むくむくとあたまをもたげて、まとまったおおきなちからのものになるのです。そのまますすつづけますと、だんだんと人間にんげん興奮こうふんしてゆき、ついには、精神せいしん肉体にくたいもあるゆがかたしめすようになります。【0】そのとき狂気きょうき」があらわれてくるのです。さいわいにも、普通ふつう人間にんげんのエネルギーには限度げんどはありますし、様々さまざま制約せいやくもありますから、「狂気きょうき」もそう永続えいぞくはしません。興奮こうふんから平静へいせいもどり、まとまって、むくむくあたまをもたげていたものがちからうしない、「狂気きょうき」がよわまるにつれて、まとまっていたものは、ばらばらになり、またもとのような、うようよした様々さまざま傾向けいこうつものの集合しゅうごうたいもどるのです。そして、人間にんげんは、このうようよした様々さまざまなものがしずかにしている状態じょうたいを、平和へいわとか安静あんせいとか正気しょうきとかんで、一応いちおうこのましいものとしていますのに、このこのましいものがすこながつづきますと、これにあきて憂鬱ゆううつになったり倦怠けんたいもよおしたりします。そして、ふたたの「狂気きょうき」をもとめるようになるものらしいのです。この勝手かっていとなみが、おそらく人間にんげん生活せいかつ実態じったいかもしれません。
 さけんでった人々ひとびと狂態きょうたいかんがえてごらんなさい。エネルギーはそのひと極限きょくげんにまで拡大かくだいされ、様々さまざま制約せいやくはまひかんによってされます。ですから、あのような「狂気きょうき」の饗宴きょうえんひらかれるのです。酔漢すいかん狂態きょうたいしずめるのには、かれ昏睡こんすいさせるか、あるいは狂態きょうたい結果けっかとしてしょうじた無理むり簡単かんたんにはとおらぬということをなにかのちからしめすかするよりそとにしかたがないことがしばしばあります。しかも、正気しょうきもどった酔漢すいかんは、そのすこしばかり正気しょうき期間きかんつづきますと、なんとなく倦怠けんたいかんおぼえ、「狂気きょうき」への郷愁きょうしゅうられて、またしてもさけもとめるようなことをいたします。
 我々われわれ正気しょうきだとうぬぼれている生活せいかつでも、よくかんがえてみれば、大小だいしょうの「狂気きょうき」の起伏きふく連続れんぞくであり、「狂気きょうき」なくしては、生活せいかつ展開てんかいしないこともあるということは、奇妙きみょうなことです。
 ようは、我々われわれは「天使てんしになろうとしてぶたになりかねない」存在そんざいであることをさとり、「狂気きょうき」なくしては生活せいかつできぬ存在そんざいであることをさとるべきかもしれません。このことは、天使てんしにあこがれる必要ひつようはないとか、「狂気きょうき」を唯一ゆいいつ倫理りんりにせよとかいう結論けつろんたっすべきものではけっしてありますまい。むしろぎゃくで、ぶたになるかもしれないから、ぶたにならぬようにをつけて、なれないことはわかっていても天使てんしにあこがれ、だれしもがっている「狂気きょうき」をつねかんしてきねばならぬという結論けつろんてきてもよいとおもいます。「狂気きょうき」なしでは偉大いだい事業じぎょうはなしとげられない、ともう人々ひとびともおられます。わたしは、そうはおもいません。「狂気きょうき」によってなされた事業じぎょうは、かなら荒廃こうはい犠牲ぎせいともないます。しん偉大いだい事業じぎょうは、「狂気きょうき」にとらえられやすい人間にんげんであることを人一倍ひといちばい自覚じかくした人間にんげんてき人間にんげんによって、誠実せいじつ執拗しつよう地道じみちになされるものです。やかましくわれるヒューマニズム(ユマニスム)というもののこころかくには、こうした自覚じかくがあるはずだともうしたいのであります。容易よういおちいりやすい「狂気きょうき」をけねばなりませんし、他人たにんを「狂気きょうき」にみちびくようなこともけねばなりませぬ。平和へいわくるしく戦乱せんらんらくであることを心得こころえて、くるしい平和へいわえらぶべきでしょう。冷静れいせい反省はんせいとが行動こうどう準則じゅんそくとならねばならぬわけです。そして、冷静れいせい反省はんせいとは、行動こうどう同一どういつではありませぬ。もっと人間にんげんてき行動こうどう動因どういんとなるべきものです。ただし、錯誤さくごせぬとはかぎりません。しかし、つねやまい患をおのれ自然しぜん姿すがたかんがえて、すすむべきでしょう。

渡辺わたなべ一夫かずお狂気きょうきについて』より抜粋ばっすい


長文ちょうぶん 3.2しゅう
 【1】日本人にっぽんじんが、淡泊たんぱくであるかわりに持続じぞくりょくけているとわれるのも、生活せいかつ感覚かんかく左右さゆうされているところがすくなくないのではあるまいか。うるさいことはきらいだという。ごてごてしているのはおもしろくないとかんじる。
 【2】こういう傾向けいこう言語げんご影響えいきょうしないはずはない。こまかいことは省略しょうりゃくしてしまう。それがわからぬのは野暮やぼだとして相手あいてにしない。のけものあつかいされるのはだれしもこのむところではないから、おたがいに以心伝心いしんでんしんじゅつちょうずるようになる。【3】道筋みちすじばして結論けつろんす。結論けつろん相手あいて想像そうぞうゆだねて、さりげないはなしでおちゃをにごす。ありのままをくどくどのべるのはきょうざめだとされる。
 そういう淡泊たんぱくこのみの通人つうじんたちがかんがえだした詩型しけい和歌わかであり俳句はいくであって、みじかいことでは世界せかいるいがすくない。【4】ことに大昔おおむかしから確立かくりつしている和歌わか形式けいしきは、日本人にっぽんじん感性かんせい言語げんご思考しこう決定けっていするほどのちからをもってきたようにおもわれる。
 その妙手みょうしゅたちに比較的ひかくてき女流じょりゅうおおかったことも、またおどろくべきことである。【5】ヨーロッパの文学ぶんがく歴史れきしると、文学ぶんがくそのものがみじかいこともあるけれども、さんよんひゃくねんまえ時代じだい女流じょりゅう詩人しじんいだすことは困難こんなんであろう。ところが、わがくにではせんねんちかいむかしでも、女性じょせい男性だんせいかたならべてめいうた数多かずおおのこしている。【6】ことに日本にっぽん言葉ことばはなひらいた平安朝へいあんちょう文学ぶんがく実質じっしつてき女流じょりゅう文学ぶんがくであった。そういうふる時代じだいに、こういうことがほかのくにこっているだろうか。日本語にほんご全体ぜんたい女性じょせいてき性格せいかくがつよいことはみとめてよい。
 【7】女性じょせいてき言語げんご持久じきゅうせいのつよい長編ちょうへん結晶けっしょうしないで短詩たんしがた文学ぶんがくんだのは、やはり風土ふうどてき因子いんしによるものとかんがえられる。さらりとなが叙情じょじょう尊重そんちょうされる。その女性じょせいてき性格せいかくにいくらか反発はんぱつしたらしくおもわれるのが、俳句はいくというさらにみじかである。【8】和歌わか仮名かめい言葉ことば中心ちゅうしんであるのに、俳句はいくでは漢語かんご比重ひじゅうおおきい。
 そういう和歌わか俳句はいく相違そういはありながらも、じつによくているのは、言葉ことばのいわゆる論理ろんりをむけていることである。感覚かんかくてき全体ぜんたい直感ちょっかん把握はあくする。
 青葉あおば やまほととぎす はつかつお (素堂そどう
 【9】この表現ひょうげんしようとしているものを理屈りくつ説明せつめいしようとすればおそらくなんじゅうまいもの文章ぶんしょう必要ひつようとする。それでもけっしてあらわせぬものを、このなか凝縮ぎょうしゅくさせている。論理ろんりえる論理ろんりがあるからだ。
 【0】「げんひおほせてなにかある」……そう芭蕉ばしょうっている。完結かんけつした表現ひょうげんととのいすぎた言葉ことばにならないことを、これほどはしてきにのべたものはすくない。「げんひおほせ」ないためには論理ろんりでもなんでも犠牲ぎせいにしてかえりみない。


長文ちょうぶん 3.3しゅう
 【1】日本にっぽんのある会社かいしゃ香港ほんこん現地げんち人間にんげん採用さいようしようと求人きゅうじん広告こうこくしたという。
 「日本語にほんごのできるひともとむ」
 するとまどか(またたかんに、「こそは日本語にほんご達者たっしゃである」とむねってたくさんの香港ほんこんじんしかけた。【2】会社かいしゃがわはおおいによろこんで、さっそく面接めんせつをしてみたが、実際じっさいにはほとんどのひとが、「コンニーチハ、サヨナーラ」といった挨拶あいさつ程度ていどしか日本語にほんごはなすことができなかったそうである。
 このはなしいたとき、わたしは「香港ほんこんひとはすごい」と感心かんしんしたものだ。【3】なにより語学ごがくができるという認識にんしきが、日本人にっぽんじんとずいぶんかけはなれているではないか。もし日本人にっぽんじんが、「あなたは英語えいごはなせますか」とわれたら、たいがいのひとは、「すこしだけ」とこたえるであろう。【4】この「すこしだけ」が「はい、はなせます」にわるまでにはながみちのりがあって、よほど流暢りゅうちょうに、アメリカじんもびっくりするほどペラリペラリとしゃべれないかぎり、「はなせます」とはとうていこたえられない。【5】ずかしいという理由りゆうもあるだろうが、もし「はなせます」とこたえた場合ばあい、その責任せきにん自分じぶんらされたうえ、理解りかいできなかったらどうしようという不安ふあんが、一瞬いっしゅん脳裏のうりをかすめるからである。
 そこで、「まあ、そこそこはなせるな」と内心ないしん自負じふしているひとも、「すこしだけ」とこたえておく。【6】そのほうが無難ぶなんである。これが日本にっぽんりゅう謙譲けんじょう美徳びとく」 なのである。
 ところが香港ほんこんのような国際こくさい貿易ぼうえき都市としきていくためには、そんなのんきなことはっていられない。【7】語学ごがく堪能たんのうたんのうでなければ給料きゅうりょうのいい仕事しごとにはありつけないし、語学ごがくのみならず、自己じこPRの上手じょうずにできない人間にんげんは、出世しゅっせのぞめないという社会しゃかい仕組しくみが出来上できあがっているのだろう。つまり、少々しょうしょうはったりをきかせても、「できる」とさきげたほうがちなのである。
 【8】もっともこれは、いまからじゅうねんほどむかしはなしだから、やや時代遅じだいおくれの認識にんしきだとわれるかもしれない。いま日本にっぽん若者わかもののなかにも、臆病おくびょうがらずに「はい、はなせます」とこたえる人間にんげんえている。しかし、わたしふくめたおおかたの日本人にっぽんじんしんのなかには、かれしかれ「謙譲けんじょう」を「美徳びとく」とする意識いしきのこっているようながする。
 【9】学生がくせい時代じだい先輩せんぱいからこんな手紙てがみをもらったことがある。「きみはいつも、もうこれ以上いじょうちる心配しんぱいがないというところまで自分じぶん卑下ひげするくせがある。そうしておけば安心あんしんなのだろう。ひとから過大かだい期待きたいをかけられて失敗しっぱいするよりも、最初さいしょ期待きたいされないで、だんだん評価ひょうかがっていくほうが得策とくさくだとおもっているのかもしれない。【0】しかし、それはけっして正当せいとう自己じこ評価ひょうかにはつながらない。一見いっけん謙虚けんきょえるけれど、それでは進歩しんぽがないからだ」
 なんでこんなにきびしい批判ひはんをされなければならないんだと憤慨ふんがいしながらも、同時どうじに、自分じぶんでもづいていなかった性格せいかくあたらしい側面そくめんを、みごとに分析ぶんせきされ、せつけられたのにはおどろいた。(中略ちゅうりゃく
 日本人にっぽんじんは(と、こういう枠組わくぐみをつくることがそもそもいけないのだが)、たいする人間にんげん出方でかた次第しだい自分じぶん位置いち行動こうどうめるきらいがある。だからこそ、なるべくはやく、まえにいるひとがどういう人間にんげんなのかを判断はんだん整理せいり類別るいべつしなければならない。これはもう、ってまれた性癖せいへきのようなものである。「あのひとって、誰々だれだれてるとおもわない」というのも日本人にっぽんじん得意とくい台詞ぜりふである。わたし個人こじんがつくとしょっちゅうっている。
 かくしてひとは、自分じぶん立場たちば確保かくほするために他人たにんかたにはめたがり、そのつくられたかたからはみて「たれるくい」にならないよう、自分じぶん自身じしんは「謙譲けんじょう美徳びとく」を利用りようする。
 かんがえてみると、つくづく日本にっぽんには、個人こじんめたる才能さいのうをできるだけばさないようにする基盤きばんがあることにがついた。
 では、どうすればいいのでしょう。むずかしい問題もんだいです。なにしろ、他人たにんをけなすひとおおくても、おだて上手じょうずすくないくにだから。
「できる、えらいぞ、ほれ、ガンバ」
 のこ手立てだては、自分じぶん自分じぶんをほめちぎり、なんとかなまけている細胞さいぼうをたたきこす以外いがいにない。

阿川あがわ佐和子さわこ『おいしいおしゃべり』から)


長文ちょうぶん 3.4しゅう
 人間にんげんがこのきてついろいろな体験たいけんは、人間にんげん最大さいだい教師きょうしだ。あることを目的もくてきとして我々われわれはそれを達成たっせいしようとこころみる。そして失敗しっぱいし、また成功せいこうする。その経験けいけんを、記憶きおくなか整理せいりして知恵ちえばれる理解りかいりょくることによって、類似るいじしたつぎ体験たいけん我々われわれそなえる。その累積るいせきなんだいなんだいつづいて巨大きょだいなものにたっしたのが文化ぶんかである。
 技術ぎじゅつてき知恵ちえのうち簡単かんたんなものは、教育きょういくによって容易よういつたえることができる。しかし、理論りろん道具どうぐ機械きかいのようなものが複雑ふくざつになると、それをさづける人受ひとうひとかぎられ、そこに専門せんもんまれる。技術ぎじゅつてき知恵ちえ専門せんもんにまかせておいていいことがある。
 肉体にくたいてきなもの、心理しんりてきなもの、または道徳どうとくてき宗教しゅうきょうてきなものの伝授でんじゅは、専門せんもんのみで処理しょりできない。ちちませかた、どものそだてかた、他人たにんとの交際こうさい仕方しかたあいかなしみのあつかかたとその表現ひょうげん仕方しかたなどは、あらゆる人間にんげんが、おや教師きょうし先輩せんぱいからって、自分じぶん生活せいかつ実質じっしつとしなければならない。それとう体得たいとくすることはあかぼうから大人おとなになることであり、わば動物どうぶつから人間にんげんになることである。
 自分じぶん他人たにんとのいかた、自分じぶん内部ないぶこる欲求よっきゅうよろこびやかなしみの調整ちょうせい仕方しかたは、人間にんげんであることの根本こんぽん条件じょうけんにつながっているがゆえに、その処理しょりあやまることは、生存せいぞん危機ききとなり、破滅はめつとなる。我々われわれ存在そんざい外側そとがわにあるものは、とく専門せんもんてき知識ちしき技能ぎのう必要ひつようとするものでないかぎり、我々われわれはそれにれることができる。たとえば自転車じてんしゃることは、人間にんげん疲労ひろうさせるものだとしても、人間にんげんは、必要ひつようなときだけそれにり、必要ひつようときはそれを使つかわずにいることができる。自転車じてんしゃ我々われわれからはなれてそとにあるものであり、我々われわれはそれを必要ひつようときだけ利用りようする。
 しかし、自分じぶんよろこびやかなしみ、家族かぞく勤務きんむさき同僚どうりょうなどと接触せっしょくせずにきていることはできない。そういう事柄ことがらについてのかた技術ぎじゅつというべきものは利口りこう人間にんげん利口りこうでない人間にんげんもが、おなじようにまなり、そして毎日まいにちを、毎時まいじあいだをそれの処理しょりたらなければならないことである。その処理しょり仕方しかたとして、礼儀れいぎとか倫理りんりという一般いっぱんてきなものがあり、さらによりふかいところからそのたねのことについての真理しんりてき安定あんてい方法ほうほうとしての道徳どうとく愛憎あいぞう恋愛れんあい宗教しゅうきょう教理きょうりなどがある。
 そして我々われわれが「体験たいけん」という言葉ことばを、人間にんげんかたとの関係かんけいにおいて使つかうときは、このような体験たいけんのことをう。そして宗教しゅうきょう教育きょういくが、我々われわれみちびくのもまたこのような部分ぶぶんにおいてである。この部分ぶぶんについて、だれでもが自分じぶん体験たいけんについてなにかの判断はんだんをしているものである。わたしちちは、田舎いなかむら収入しゅうにゅうやくという目立めだたない仕事しごとをしている人間にんげんであったが、なんわたしたちにかってった。「人生じんせいというのは芝居しばいをしているようなものだ。自分じぶんたった役割やくわりをうまくやるそとはない」と。たしか、わたしのおぼろげな推定すいていでは、わたしちち村長そんちょうになりたかったようである。その当時とうじ村長そんちょう選挙せんきょでなく、前任ぜんにんしゃ村会そんかい議員ぎいんたちの推薦すいせんによって地方ちほう長官ちょうかんから任命にんめいされたものであった。ちち内気うちきかた人間にんげんであったので、村長そんちょう推挙すいきょされる機会きかいがなく、収入しゅうにゅうやくわった。そのことにたいしての不満ふまんとあきらめの感情かんじょうがこの言葉ことばなかただよっていることを、二十歳はたちぐらいのときわたしかんじた。

伊藤いとうせい体験たいけん思想しそう」)