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課題集
長文ちょうぶん 7.1しゅう
 【1】野生やせい動物どうぶつは、いつもたくましくきている。ペットの動物どうぶつたちとはちがい、つねにらんらんとかがやかせ、獲物えものもとめ、あるいは獲物えものとなることからのがれ、自分じぶんたちの子孫しそんのこすために精一杯せいいっぱいきている。【2】この情熱じょうねつてきかたを、わたしたち人間にんげんも、もっと見直みなお必要ひつようがあるのではないだろうか。
 その理由りゆうだいいちに、情熱じょうねつてききることが、人間にんげんにとっても本当ほんとうよろこびにつながるとおもうからだ。すうねんまえ家族かぞくやまのぼったことがある。【3】山頂さんちょうちかくにある山小屋やまごやまる予定よていだったが、途中とちゅう山道さんどうあめはじめ、やがて大雨おおあめになった。全身ぜんしんずぶれになったままあるくことすうあいだ、やっと山小屋やまごやにたどりき、ったからだかわかし、おかして紅茶こうちゃんだ。【4】そのときのいちはい紅茶こうちゃは、かえるという言葉ことばがぴったりするようなあじだった。クーラーや暖房だんぼういた部屋へやで、った音楽おんがくきながらゆっくり紅茶こうちゃとはまたちがった、きている実感じっかんのわくあじだった。【5】情熱じょうねつてききるということをかんがえるとき、この山登やまのぼりと紅茶こうちゃあじおもす。
 だい理由りゆうは、情熱じょうねつてききることによって、自分じぶんあじ十分じゅうぶん発揮はっきしたかたができるということだ。【6】戦国せんごく時代じだいという下剋上げこくじょうはげしかった時代じだいは、日本人にっぽんじんだれでも自分じぶん実力じつりょくきていかなければならない時代じだいだった。その時代じだいきた戦国せんごく大名だいみょうたちは、現代げんだいからるとそれぞれ個性こせいあふれた魅力みりょくある人物じんぶつえる。【7】よく、信長のぶなが秀吉ひでよし家康いえやすさんとおりのかた人間にんげんかたみっつの代表だいひょうてき類型るいけいとすることがある。そこにられる個性こせいは、そのさんにんが、地図ちずみちもないわば野生やせい世界せかいで、自分じぶんみちひらいてきるために、あじかさざるをなかったことからまれたものだ。
 【8】たしかに、社会しゃかい保障ほしょうのもとで安心あんしんしてらせる人生じんせいというものも、人類じんるいがこれまでのなが歴史れきしなか達成たっせいしてきた成果せいかである。とくに、むかしのような農業のうぎょう中心ちゅうしん社会しゃかいならいざらず、今日きょうのように工業こうぎょうされ経済けいざいてき格差かくさひろがりやすい社会しゃかいでは、最低さいてい限度げんど生活せいかつくに保障ほしょうする仕組しくみというものはかすことができない。【9】だから、大事だいじなことは、底辺ていへんはしっかりと保護ほごするものの、それよりもうえ部分ぶぶんについては規制きせい撤廃てっぱいして自由じゆう競争きょうそうまかせることだ。自由じゆう社会しゃかいでそれぞれが自助じじょ精神せいしん物事ものごとにあたるならば、それは野生やせい動物どうぶつのようにきている実感じっかんこすことにつながるだろう。【0】情熱じょうねつとは、たんしんかたまれるものではなく、行動こうどうなかからまれるものだ。わたしもまた、安全あんぜんみちもとめるのではなく、自分じぶんちからみちひら自分じぶんにしかないかたをしていきたい。

言葉ことばもり長文ちょうぶん作成さくせい委員いいんかい Σしぐま


長文ちょうぶん 7.2しゅう
 【1】最近さいきん、とっても大分おおいたまえからのことだが、ラジオの音楽おんがく番組ばんぐみ解説かいせつしゃが、金曜きんようよるなどに番組ばんぐみわるとき「ではみなさん、よい週末しゅうまつをおごしください」といったあいさつをするようになった。【2】このような、一昔ひとむかしまえだったらだれもわなかったあいさつを日本人にっぽんじんがするようになったのは、海外かいがいとの接触せっしょく飛躍ひやくてきえた結果けっか、Have a nice weekend(holiday)! のような、やすみをまえにしてのあちらの人々ひとびとのあいさつの習慣しゅうかんを、日本人にっぽんじんすすんでれた結果けっかこった言語げんご表現ひょうげんじょう変化へんかなのである。【3】一般いっぱんてきってある言語げんごがそれまで接触せっしょくのなかったべつ言語げんご接触せっしょくするようになると、そこに相互そうご交流こうりゅうしょうじ、双方そうほう言語げんごなか相手あいて言語げんごによるいろいろな変化へんかこることがられている。このような言語げんご変化へんかを、言語げんごがくでは言語げんご干渉かんしょうんでいる。
 【4】おおくの日本人にっぽんじんにとって、欧米おうべい文化ぶんか風俗ふうぞく習慣しゅうかんは、依然いぜんとして自分じぶんたちのかた目標もくひょうあこがれの対象たいしょうであるようだ。その結果けっか、いま日本語にほんごは、日本にっぽん国際こくさいというだい変動へんどうなかで、外国がいこくとく英語えいごという強大きょうだい言語げんごからの広汎こうはんで、しかもほとんど一方いっぽうてき干渉かんしょうにさらされている。【5】さきにべたあたらしい週末しゅうまつのあいさつの誕生たんじょうは、表現ひょうげん形式けいしき領域りょういきこった比較的ひかくてきあたらしい言語げんご干渉かんしょういちれいであるが、のいろいろな分野ぶんやでも干渉かんしょうはすでに数多かずおおこっている。
 【6】しかしそれがもっと目立めだかたちで、しかも一番いちばん広範囲こうはんいこっているのは語彙ごい分野ぶんやである。普通ふつうには外来がいらいばれて、なにかと論議ろんぎ対象たいしょうになるタイプのことばは、じつ英語えいご旗頭はたがしらはたがしらとするヨーロッパしょ言語げんご日本語にほんご干渉かんしょうされてこった言語げんご変化へんかにほかならない。【7】たとえば食堂しょくどうなどで給仕きゅうじが「みず」とえばよいのに「ウォーター」を使つかい、「いちご」といううつくしい日本語にほんごがあるのに、わざわざ「ストロベリー」とんだりすることが、そのいちれいである。
 【8】このような外来がいらい問題もんだい言語げんご問題もんだいであると同時どうじに、それはまた文化ぶんか文明ぶんめい問題もんだいでもある。【9】人々ひとびとたん自分じぶんたちの言語げんご不足ふそくする語彙ごいおぎなうために外国がいこくのことばをもとめるだけでなく、そこには文化ぶんかたいするあこがれや自己じこ顕示けんじよく、そしてその文化ぶんか言語げんごへの接近せっきん同化どうか願望がんぼうといった、素朴そぼく実用じつようせい見地けんちからだけでは説明せつめいのできないおおくの要因よういんがからんでいるからである。(中略ちゅうりゃく
 【0】明治維新めいじいしんとともに日本にっぽん国内こくないには、それまでたこともいたこともない新奇しんき事物じぶつがどっとあふれ、旧来きゅうらいのしきたりや風俗ふうぞくわって、見慣みなれぬ外国がいこく制度せいど習慣しゅうかん急速きゅうそくひろがりはじめた。明治めいじという時代じだいは、突如とつじょとして東西とうざい文明ぶんめい衝突しょうとつじり一大いちだい社会しゃかい変動へんどう渦巻うずまきに、人々ひとびと翻弄ほんろうされた時代じだいなのである。日本人にっぽんじん言語げんご生活せいかつ例外れいがいではなかった。奔流ほんりゅうのようにおそいかかる変革へんかく荒波あらなみを、欧米おうべい言語げんごとはすべてのてんことなる日本語にほんご使つかってどうるかは、しん時代じだいにおける各界かくかい指導しどうしゃたちにせられた課題かだいであった。
 だれでもっている、それだけに目立めだ対応たいおうは「バター」や「チーズ」ということばのように、外国がいこくそのものを外来がいらいとして使つか方法ほうほうであった。しかし、これにくらべるとはるかに目立めだたず外来がいらいのような賛否さんぴ議論ぎろん対象たいしょうになることもほとんどなかった対応たいおうひとつは、すで日本語にほんご骨肉こつにくしていた漢字かんじをいろいろとわせて新語しんごつくるという方法ほうほうである。たとえば、英語えいごのautomobile carに対応たいおうするため、あらたにつくられた「自動車じどうしゃ」のようなものである。(中略ちゅうりゃく
 かえってみると、だい世界せかい大戦たいせんまでの日本人にっぽんじん生活せいかつは、社会しゃかいてき公的こうてき場面ばめんでは、西洋せいようしきつとめてれ、家庭かていもどると服装ふくそうから食事しょくじまですべてが日本にっぽんしきになり、外国がいこく文化ぶんか応接間おうせつましょうする来客らいきゃくよう特別とくべつ部屋へやかぎっておく場合ばあいおおかった。このようなうちそと区別くべつする生活せいかつ様式ようしきは、日本人にっぽんじん外来がいらい異質いしつ文化ぶんか急速きゅうそく受容じゅようせざるをなかった時代じだいに、一種いっしゅ社会しゃかい制度せいどじょう緩衝かんしょう装置そうちとして機能きのうしたとおもわれるのである。
 それを可能かのうにした要因よういんひとつは、日本にっぽん漢字かんじという便利べんり言語げんご手段しゅだんがすでにあったことなのである。あらゆるめん伝統でんとうてき日本にっぽん文化ぶんかとはことなる欧米おうべい文化ぶんかを、明治めいじ開国かいこくとともに一気いっきに、しかも広範囲こうはんい輸入ゆにゅう消化しょうかするとき、高度こうど文化ぶんか文明ぶんめい簡潔かんけつ表現ひょうげんするちからをすでにもっていた漢字かんじという言語げんご要素ようそ日本にっぽんにあったということは、幸運こううんなこととわねばならない。



長文ちょうぶん 7.3しゅう
 【1】人間にんげん人間にんげん自由じゆうにまじわることができる。あるいは、まじわる相手あいて自由じゆうにえらぶことができる。学校がっこうともだち、職場しょくばでの友人ゆうじん恋人こいびと、そして夫婦ふうふでさえも、それぞれの当事とうじしゃ自由じゆう選択せんたくによって成立せいりつしている人間にんげん関係かんけいだ。
 【2】相手方あいてがただれをえらぶかは、ある意味いみでは自由じゆうであり、べつな見方みかたからすれば偶然ぐうぜんである。ふとめぐりあいったひとびと――そのひとびととわたしたちはつきあってきている。【3】なかよくなれば一生いっしょうをつらぬいた、したしい友人ゆうじん関係かんけいをとりむすぶこともできようし、けんかをして、それでおたがいふたたびがおをあわせない、といったようなことになるかもしれぬ。
 【4】とりわけ、現代げんだいのように、都市としがすすみ、偶然ぐうぜんせいたか社会しゃかいでは、人間にんげん関係かんけいは、ふとむすばれ、そしてふとえてゆく一時いちじてきなものであることがおおい。学校がっこう友人ゆうじんにしても、それは卒業そつぎょうすう年間ねんかんで、いつのまにかごぶさたになってしまう。【5】すくなくとも、そのような人間にんげん関係かんけいでは「ごぶさた」がゆるされるのである。
 しかし、そのように自由じゆう人間にんげん関係かんけいのなかで、ひとつの例外れいがいがある。それは、血縁けつえん関係かんけい、とりわけ親子おやこ関係かんけいである。【6】友人ゆうじんだの隣人りんじんだの夫婦ふうふだのは、「えらぶ」ことができるが、親子おやこ関係かんけいだけは、「えらぶ」ものではない。ひとまれた瞬間しゅんかんに、親子おやこ関係かんけい宿命しゅくめいてきにあたえられてしまっている。こればかりは、だれにも、どうにもならない。
 【7】そのうえ、人間にんげんという動物どうぶつ養育よういく期間きかんがながい。「おやはなくてもそだつ」というのも真実しんじつだけれども、おやがわりになるおとながいなければ人間にんげん乳幼児にゅうようじんでしまう。そして、ふつうのばあい、そだてるのはおやである。【8】親子おやこというのは、人間にんげんにとって、のっぴきならない関係かんけいなのだ。自由じゆうにみちあふれた現代げんだい人間にんげん関係かんけいのなかで、親子おやこだけはまったく別枠べつわく関係かんけいなのである。そこでは人間にんげん関係かんけい一般いっぱんについてのさまざまな原則げんそくはあてはまらない。【9】どんな社会しゃかい、どんな時代じだいにも、こうした特殊とくしゅ関係かんけいとしての親子おやこ関係かんけいきつづけ、そのことによって、人類じんるい歴史れきしはつづりあわされてきた。そして、ついこのあいだまで、そういう親子おやこ関係かんけいは、ごく自然しぜんなものとしてだれもがうけいれていた。
 【0】しかし、現代げんだいのひとつの特徴とくちょうは、親子おやこという関係かんけいが「問題もんだいしてきた、ということであろう。むかしのように、親子おやこ自然しぜんなスムーズな関係かんけいではなくなってきたのだ。新聞しんぶんうえ相談そうだんなどをみても、親子おやこ問題もんだい」がぐんとふえてきた。いわく、どうやってどもをそだてたらいいのでしょう。いわく、おやがわたしを理解りかいしてくれません、どうしたらいいのでしょう。……親子おやこのあいだには、あきらかに、ふかみぞがうまれてきている。
 なぜ親子おやこが「問題もんだいしてきたのか。いくつもの理由りゆうをあげることができる。
 まずだいいちに、変化へんかする社会しゃかいのなかでおや経験けいけんがまったく異質いしつしてしまったという事実じじつ注目ちゅうもくしたい。かつて、社会しゃかいが「伝統でんとう社会しゃかいであったとき、おやは、おなじ経験けいけん共有きょうゆうしていた。そだてながら、おやは、じぶんがどもだったころのことを回想かいそうすることができたし、そのどもをこれからどんなふうにそだてていったらいいか、についても確信かくしんをもつことができた。
 『どんなふうにそだてていったらいいか』といった疑問ぎもんは、伝統でんとう社会しゃかいおやからみれば想像そうぞうたやしている。どものそだてかた――それはきわめて簡単かんたんだ。じぶんがそだてられたのとおなじようにそだてればよい。それだけのことなのだ。じぶんのどもは、将来しょうらい、じぶんとおなじようになるだろう、とおやかんがえ、また、どもは、おやとおなじような人間にんげんになりたい、とかんがえた。いわば、そこでは、おやの「複製ふくせいひん」だったのである。
 ところが、現代げんだい社会しゃかいでの様子ようすはだいぶちがう。おむつのあてかた授乳じゅにゅう仕方しかたまでが、ひと時代じだいまえとすっかりかわってしまった。おやは、じぶんがどもだったときの経験けいけんおもしてそれによってどもをそだてるのではなく、育児いくじしょをひもといてどもをそだてる。乳児にゅうじ経験けいけん段階だんかいから、親子おやこのあいだには、おおきな落差らくさがつくられているのだ。
 社会しゃかい進歩しんぽし、変化へんかするかぎり、この落差らくさけられない。どもはおやとちがった存在そんざいになる。そして、この落差らくさから、さまざまな問題もんだい派生はせいしてゆく。完全かんぜん保護ほごしゃ教育きょういくしゃとしてのおやと、完全かんぜん保護ほごしゃ生徒せいととしての、という安定あんていした関係かんけいはグラつき、親子おやこのあいだには一種いっしゅ緊張きんちょう関係かんけいがうまれてゆく。


長文ちょうぶん 7.4しゅう
 あるあさ少年しょうねんは、目覚めざめるなり、「やまのぼろうよ。」とおんなった。「やまのぼるの。」おんな少年しょうねんいかえすようにったが、少年しょうねんが、「うん、さんや、うらさんや。まつのぼって、みなとようよ。」とせきこんでうと、おんなはしばらく少年しょうねんつめていて、やがて、「うち、やまなんかのぼったことあらへん。」と、ゆるしをうように、おどおどとった。おんなあしわるくてやまのぼることができなかったのだ。だが、かがやいていた少年しょうねんのまなざしが、みるみるくもっていくのをると、「ぼんはやまのぼりたいの。」とった。それから、「ぼんがのぼりたいんなら、うちってもええで。」としょんぼりった。
 おんなは、うら木戸きどがけはだにかかるところで、もう、右足みぎあしのひざをでかばいながら、やっと少年しょうねんのあとをのろのろとっているのであった。少年しょうねんは、はじめ、そんなことにづかなかった。おんなすこしでもはや尾根おねからの景色けしきせたくて、一人ひとりさきのぼってった。おんな自分じぶんおなじようにのぼってるように、少年しょうねんおもっていたのだ。だが、ふたみっつ、まがりかどをまがってから、おんな姿すがたえないことにづいた。「はようおいでよ。」おおきなこえでそうって、それから不安ふあんになって、あとへけもどってくと、おんなは、最初さいしょのまがりかどをやっとまがりおえて、右足みぎあしをひきずりながら懸命けんめいのぼってていた。いろのあせたメリンスの着物きもののひざぎりのすそから、ぐつっぱっている右足みぎあしえた。そんなことは、毎日まいにちいっしょにいて、とっくにっていたのだが、少年しょうねんは、そのとき、はじめてそのことにづいたようにおもった。
 少年しょうねんおんなのそばまでもどってくと、おんなはいっそう懸命けんめいあしをひきずりながら、「うち、のろくってかんにんな。」とった。おんなは、せいいっぱいわらいをほおにうかべようとしていた。そばかすがあせばんでいるのまわりにういてきていた。少年しょうねんは、それがおんなまえ表情ひょうじょうであることをっていた。少年しょうねんには、おんなおおきなこくから、いまにもぽたぽたとなみだがこぼれちそうにおもえたが、おんなはうれしそうに、にっこりわらってみせて、「ぼん、はよ、こ。」とった。
 少年しょうねんは、そうすればおんなあるきやすくなるなどということはかんがえてもみずに、おんな右肩みぎかた自分じぶん左肩ひだりかたをよせていって、おんなのからだのおもみを自分じぶんささえた。もう少年しょうねん尾根おねまでのぼることはあきらめていた。だが、ついそこまでのぼれば、したに、みなとくろわたかわら屋根やねならんだ町並まちなみや、いっぱいに汽船きせんがうずまったみなとおろされるところがあることをおもしていた。せめて、そこまで、少年しょうねんは、おんなれてきたかったのだ。
 少年しょうねんが、やっとおんなをその山肌やまはだまでれてくと、おんなは、「わっ。」とさけんで、だまりへとびだしてった。おんなはすぐころんで、メリンスの着物きものには芝草しばくさがまみれたが、そんなことはどうでもいいように、おんなは、「うち、こんなとこにたん、はじめてや。」とさけぶように少年しょうねんった。おんなのからだいっぱいにはるざしがこぼれていた。

田宮たみや虎彦とらひこちいさなあかはな』)


長文ちょうぶん 8.1しゅう
 【1】作曲さっきょく集中しゅうちゅうしているとき、不意ふいに、音楽おんがくというものが、自分じぶん知力ちりょく感覚かんかくでは、とらえようもない(神秘しんぴてきな)ものにおもわれることがある。自分じぶんなりに、音楽おんがくわかったようながしていただけに、そんなときわたしは、戸惑とまどいやあせりののち無力むりょくかんくじけそうになってしまう。【2】だがその無力むりょくかんは、深刻しんこく絶望ぜつぼうとは異質いしつな、むしろ居心地いごこちさとぬるぬくもりさえかんじられる「たぶんそれはなにか途方とほうもなくおおきな」あきらめのようなものだ。こんな感情かんじょうは、言葉ことばではとてもつたがたい。わたしつしかない。【3】期待きたいということではなく、おのれ空白くうはくにしておとわたしかたりかけてくるまでつ。おとろういじってわたしかんがえでしばることからはなれて、みみしん全開ぜんかいにする。
 【4】作曲さっきょくという仕事しごとは、どうしてもおとろういじぎて、そのおと本来ほんらいどこからたかというような痕跡こんせきまでもってしまう。方法ほうほうろんだけに厳格げんかくになると、ともすると音楽おんがくかみうえだけの構築こうちくぶつになり空気くうきかよわないものになる。【5】たとえば、ひとつの和音わおんは、物理ぶつりてき波長はちょう複雑ふくざつ集束しゅうそくとして、音響おんきょう学的がくてきには、ほとん不変ふへんのものとして存在そんざいし、また規定きているだろう。【6】だが音楽おんがくという有機ゆうきてきながれのなかでは、その(ひとつの和音わおんの)ひびきは千変万化せんぺんばんかするもので、その表情ひょうじょうゆたかさは、まるで、きたもののようである。【7】一般いっぱんわれる、長和おさわおんあかるく、たん和音わおんくらいというようなことがかならずしも正確せいかくでないのは、注意深ちゅういぶか音楽おんがく作品さくひん)をけば、容易よういに、理解りかいされることである。
 【8】ではなぜ、おとは、あたかきたもののようにその表情ひょうじょうえるのだろう? こたえは、至極しごく単純たんじゅんちがいない。すなわち、おとは、間違まちがいなく、きものなのだ。そしてそれは、個体こたいゆうさない自然しぜんのようなものだ。【9】ふうみずが、ゆたかで複雑ふくざつ変化へんか様態ようたいしめすように、おとわたしたちの感性かんせい受容じゅようおうじて、ゆたかにもまずしくもなる。わたしおとをつかって作曲さっきょくをするのではない。わたしおと協同きょうどう(コーオペレイト)するのだ。【0】だが、わたしが、ときに「作曲さっきょくとして」無力むりょくかんとらえられるのは、わたしがまだ協同きょうどうしゃおと」の言葉ことばをうまくはなせないからだ。
 先日せんじつ、ある紙上しじょうに、高見たかみじゅんしょう授賞じゅしょうされた吉田よしだ加南子かなこさんの受賞じゅしょう挨拶あいさつさいろくされていた。そのなかに、現在げんざい(いま)のわたしにはとても身近みぢかかんじられる言葉ことばがあった。手前てまえ勝手かって引用いんようさせていただく。
 吉田よしださんは、詩人しじんとしてあゆんだこれまでを簡略かんりゃくかえったあとに、
 「わたし意思いしだけではなくなにおおきなちからはたらきかけられている。わたしはそれをめなくてはならない。また、子供こどもあそぶようにくことが、仕事しごとになって、かされている。そうしたことをとおしてゆるしのようなものがあたえられているのかもしれない」
 そう現在げんざい心境しんきょうべられ、さらに、
わたし本当ほんとうそらとかうみとかっぱにとってもおれいいたいんです。けれども、残念ざんねんながらまだわたしは、そら言葉ことばうみ言葉ことばはなすことができません。ですから、そのためにこそいてゆかなければならない」と、挨拶あいさつむすばれている。
 この言葉ことばふか共感きょうかんいたものとして、なぜ、いまここにそれを引用いんようしたかを説明せつめいするのは、どうにも余分よぶんなことにおもえる。(中略ちゅうりゃく
 自然しぜんからまなぶことはあまりにもおおい。自然しぜんの(この地球ちきゅうの)記憶きおくそうの、ふかい、はるかなつらなりを見出みいだすのは、わたしのようなものには、とても容易よういなことではないが、せめてぶしごと変化へんかそう、その推移すいいかんじとれる感受性かんじゅせいにつけたい。それは、わたしに、おとかたりかけてくるこわれやすい言葉ことば表情ひょうじょうのいろいろをがすことがないようにはたらきかけてくれるだろう。作曲さっきょくおと人間にんげんとの協同きょうどう作業さぎょう(コラボレーション)だとおもうから、作曲さっきょくおと傲慢ごうまんであってはならないだろう。

武満たけみつとおる文章ぶんしょうによる)


長文ちょうぶん 8.2しゅう
 【1】吉川よしかわきつかわのパスはったもの意思いしがのりうつってでもいるかのように、全力ぜんりょく疾走しっそうちゅうそうかいそうすけ右足みぎあしつけいてきた。そうかいそうすけはただそのボールをエンドラインぎりぎりまでんでセンターリングをげればよかった。【2】反対はんたい方向ほうこうからはしんできたフォワードの連中れんちゅうがへディングなりダイレクトなりでシュートをめてくれるのだった。
 (中略ちゅうりゃく
 あき大会たいかいでは決勝けっしょうまですすみ、延長えんちょうせんでも決着けっちゃくがつかなかったのでペナルティーキック合戦かっせんにまでもつれこみ、結局けっきょくじゅん優勝ゆうしょうあまんじた。【3】大会たいかいちゅう目立めだった選手せんしゅがベストイレブンにえらばれたのだが、やはり優勝ゆうしょうチームから選出せんしゅつされるものおおく、技術ぎじゅつてきには優勝ゆうしょうチームのおなじポジションの選手せんしゅ上回うわまわっていた吉川よしかわきつかわせんにもれた。
 【4】ふゆ例年れいねんにないはしみをして、今年ことしこそは優勝ゆうしょうを、と団結だんけつつよめていたのだが、さんねん夏休なつやすみをまえにしたあつ午後ごごそうかいそうすけはコーチの浅野あさの退すさもうた。【5】前日ぜんじつ夏休なつやすみの練習れんしゅう計画けいかく浅野あさのから発表はっぴょうされたのだが、毎日まいにちあさきゅうから夕方ゆうがたろくまで練習れんしゅうメニューがめられ、休日きゅうじついちにちもなかった。吉川よしかわきつかわという天才てんさいてき選手せんしゅて、大会たいかい優勝ゆうしょう今年ことしのがしては当分とうぶん無理むりだ、とんだ浅野あさの決意けついおもてわれた計画けいかくひょうであった。
 【6】そうかいそうすけ学業がくぎょう成績せいせきは、もうすこ頑張がんばれば進学校しんがくこうといわれる都立とりつ高校こうこうとど程度ていどのものだった。ドリブルしながらフェイントをかけるとき、どうにもならない生来せいらいせいらいからだかたさをよくっていたので、サッカープレイヤーとしていち人前にんまえになれないことはかっていた。【7】なつ練習れんしゅう参加さんかすれば受験じゅけん勉強べんきょうができなくなる。
退すさします。お世話せわになりました」
 すでに練習れんしゅうはじまっている校庭こうてい花壇かだんまえで、トレーニングウエア姿すがた浅野あさのかってそうかいそうすけあたまげた。
【8】「冗談じょうだんはよせ」
 浅野あさのくびにかけたホイッスルをタバコでもすうようにくちにくわえた。よくけたせまがくしわなかから大粒おおつぶあせいていた。
本気ほんきです。めさせてください」
 【9】チームメイトたちが円陣えんじんキックをしながらこちらを注目ちゅうもくしていたので、そうかいそうすけ今度こんどあたまげなかった。
「ああやって懸命けんめい練習れんしゅうしている仲間なかま裏切うらぎるのか」
 【0】浅野あさの花壇かだんのひまわりのくきをつかんだが、語尾ごびふるえとともにりとってしまった。
自分じぶんかた自分じぶんめただけです」
 あおたかなつそらもとで、中学ちゅうがくさんねんそうかいそうすけはためらうことなくいいきった。
 浅野あさのにした大輪たいりんのひまわりをかわいた地面じめんたたきつけ、円陣えんじんほうあゆった。黄色きいろはなびらがそうかいそうすけのズボンのすそった。
 みぎウイングの自分じぶんけても、実力じつりょくにほとんどのない年生ねんせい補欠ほけつ補充ほじゅうすれば、チーム全体ぜんたいちからちない。だれにも相談そうだんせずに退すさめたそうかいそうすけがあくまで個人こじんてき問題もんだいなのだとみずからを納得なっとくさせていたのにはこんな状況じょうきょう判断はんだんがあったからだった。しかし、事態じたいかれ予想よそうしなかった方向ほうこうひろがってしまった。
 そうかいそうすけめたのをったさん年生ねんせいのレギュラーたちが翌日よくじつから次々つぎつぎ退すさもうるようになってしまった。そうかいそうすけよりもはるかに成績せいせきのよいゴールキーパーの菅井すがいやハーフの堀田ほったまでもが受験じゅけん勉強べんきょう理由りゆうめ、夏休なつやすみの前日ぜんじつになってのこったさん年生ねんせいのレギュラーは吉川よしかわきつかわ一人ひとりになってしまった。
 学校がっこう花形はながたクラブであるサッカーさん年生ねんせい大量たいりょう退すさ職員しょくいん会議かいぎ話題わだいにもなったようだが、理由りゆう受験じゅけん勉強べんきょう専念せんねんしたい、という至極しごくしごくまっとうなものだったので、校長こうちょう教頭きょうとうくちをつぐんだままだった。
 いち学期がっき終業しゅうぎょうしきえて校門こうもんるところで、そうかいそうすけはユニフォーム姿すがた吉川よしかわきつかわめられた。吉川よしかわきつかわれたようにほそめながら自転車じてんしゃ置場おきばほう手招てまねきした。
「おれはさあ、あたまもよくねえし、板前いたまえにでもなっておふくろのみせ手伝てつだうしかねえんだけど、サッカーやりてえんだ」
 スレート屋根やねした日陰ひかげはひんやりしていた。吉川よしかわきつかわはスパイクのうらのアルミピンではしらりながらしたいてはなしていた。
大会たいかいのベストイレブンになれたら、私立しりつ高校こうこうのサッカー特待とくたいせいれるかとおもってな。おれはさあ、そうおもってサッカーやってきたんだ。板前いたまえになるまえにサッカーではなかしてみたくてな。おれの、ゆめだな。あのしょうせえみせはいまえに、ゆめくらいたっていいとおもってな」
 吉川よしかわきつかわしたいたままいつのにかいていた。かわいたすなうえちるなみだ夕立ゆうだちあめつぶよりもおおきかった。
わるいな」
 そうかいそうすけはもっとこのてきした言葉ことばつけられない自分じぶんにいらだった。いっそなぐってくれたら、このいらだちも解消かいしょうするのに、とおもった。
「いや、いいんだ。ただ、おれのグチもいてもらいたくてさ。にすんな。おまえ、いいウイングだったよ」
 吉川よしかわきつかわかおあらうように両手りょうてなみだくと、そのままはしってってあたらしいチームのシュート練習れんしゅうくわわった。
 そうかいそうすけすなうえのこ吉川よしかわきつかわなみだあとをしばらくつめていたが、やがておおきな深呼吸しんこきゅうとともにくつし、校庭こうていかえらずに校門こうもんた。
 
 (みなみなぎけいけいし文章ぶんしょうによる)


長文ちょうぶん 8.3しゅう
 自分じぶん友達ともだちのできないのは、くちおもく、しゃべることが下手へたで、相手あいてきつけたり、えつよろこばせたりできないからだとおもっているひとすくなくない。しかしこのたねひとも、人間にんげんというものは、こちらのうことなどをそんなに注意ちゅういしてきいているものではないとかんがえることによって、気持きもちがらくにならないだろうか。なにかすばらしいことを自分じぶんうと相手あいて期待きたいしていないだろうかとかんがえるために、ますますくちおもくなる。だが、のなかで、自分じぶんうことにいちばんみみかたむけているのは、ほかならぬ自分じぶん自身じしんであることをっておくのはむだではあるまい。なにかつまらないことをってわらわれはしまいか、軽蔑けいべつされはしまいかと心配しんぱいするのは、相手あいて自分じぶん言葉ことばみみをすませているだろうとおもっている一種いっしゅとぼけうぬぼれである。こちらが不安ふあん心配しんぱいむねをドキドキさせてしゃべっているときでも、べつのことをかんがえているばあいがおおいのである。まさにアランのう「対象たいしょうのない恐怖きょうふ」であって、そんなことにくよくよするのはまった意味いみのないことである。
 「自分じぶんむしけらだとおもっているものひとみにじられる」という格言かくげんがフランスにあるが、他人たにんから尊重そんちょうされるには、まず自分じぶん自分じぶん尊重そんちょうすることがだいいちである。われながらつまらないヤツだとおもっている人間にんげんに、他人たにん敬意けいいはらうはずがあるまい。自分じぶんひとかれない人間にんげんだとおもっているかぎり、自分じぶんいてくれるひとはないだろう。人間にんげんというものは、いつも友達ともだちしそうにして卑屈ひくつ愛想あいそわらいをしている人間にんげんよりも、孤高ここう態度たいどをくずさない人間にんげんたいして、むしろ友情ゆうじょうもとめたがるものである。無益むえき劣等れっとうかんてるにしたことはない。
 友達ともだちができないことをなげひとつぎいたいことは、あなたは自分じぶん周囲しゅういなにつめたい空気くうきながしていないだろうかということである。わたしがこれまでくりがえいてきたように、友情ゆうじょうというものは、まずこちらからなにかを、しかもなんらの報酬ほうしゅう期待きたいすることなしにあたえることによってつ。あたえることが、際限さいげんあたえること自体じたいよろこびであるのがしん友情ゆうじょうというものである。われわれのあたえうるものには限度げんどがあるからである。そこに友人ゆうじん選択せんたくこるのであるが、自分じぶんえらんだひとで、そのひとのためにはなにあたえてもしくないという友人ゆうじんをもつことは至福しふくではないだろうか。
 わたしつめたい空気くうきというのは、きなひとにはすべてをあたえるというこの心意気こころいきとぼしいことを意味いみする。最初さいしょからあたえる気持きもちの全然ぜんぜんないひと友達ともだちのできるはずがないが、たとえあたえる気持きもちがあっても、その代償だいしょうをひそかに期待きたいするようではしん友情ゆうじょうむすばれない。人間にんげん敏感びんかんであるから、報酬ほうしゅう期待きたいしてあたえられる友情ゆうじょうは、これを無意識むいしきのうちに見破みやぶって、警戒けいかいする。友達ともだちのできないことをなげひとは、このたねの、他人たにんをして警戒けいかいせしめるものが自分じぶんにないかどうかを十分じゅうぶん反省はんせいしてみる必要ひつようがあろう。それと同時どうじ注意ちゅういすべきことは、他人たにんから報酬ほうしゅう期待きたいしない友情ゆうじょうあたえられながら、それを素直すなおに、しんからよろこんでれることをしないで、これにはなんらかの目的もくてきがあるのではないかと警戒けいかいすることであろう。このたね警戒けいかいしんもまたつめたい空気くうきとなって諸君しょくんをつつみ、友達ともだちをよせつけない。一般いっぱんに、友達ともだちのないことをなげひとには、このつめたい警戒けいかいしん無意識むいしきのうちに武装ぶそうしているひとおおいようにおもわれる。
 わたしなにかをあたえるというのは、もちろん物質ぶっしつてきなものばかりを意味いみするのではない。まれつきさまざまの魅力みりょくそなえているひとは、あたえるものをおおくもつひとである。問題もんだいあたえるもののとぼしいひとにある。自分じぶんなに無償むしょうひとあたえることができるかをかんがえるとき、よき友達ともだちはおのずからつくられるにちがいない。

かわもりかわもりこうぞうよしぞう文章ぶんしょうによる)


長文ちょうぶん 8.4しゅう
 その少年しょうねんはまるまるとふとっていて、いつも腕白わんぱくであった。クラスのなかでもとりわけまずしいいえ子供こどもで、給食きゅうしょくなどは期限きげんどおりにおさめたことはいちもなかった。あるとき、わたし少年しょうねんに、
「おまえ、なんでそないにふとってるねん?」
 といた。ちいさいころから「あおびょうたん」とあだをつけられていたせっぽちのわたしは、なんとか人並ひとなみふとりたいと子供こどもしんねんじつづけていた。ゆきふか富山とやまから、兵庫ひょうごけん尼崎あまがさきしてきていちカ月かげつばかりたったころわたし小学校しょうがっこう年生ねんせいのときである。
まえに、たこきをべるんや」
 少年しょうねんはそうおしえてくれた。毎晩まいばん夕刊ゆうかんってあるき、そのかせぎでたこきをうのだと、だれにも内緒ないしょにしていた秘密ひみつまでけてくれたのだった。酒乱しゅらんちちと、どんな仕事しごとをしているのかわからないが、めったにいえかえってこないははつその少年しょうねんが、いたしかたなく自力じりきかねかせし、毎夜まいよ毎夜まいよ、たこきばかりをべつづけていたことなどわたしよしもなかった。
ぼく夕刊ゆうかんって、たこきをうんや」
 わたしがそううと、はは血相けっそうえて反対はんたいした。ちちわらって、
「ぎょうさんもうけて、おとうちゃんにもおごってや」
 とゆるしてくれた。
 当時とうじ阪神はんしん電車でんしゃ尼崎あまがさきえき周辺しゅうへんには、ちいさい屋台やたい小料理こりょうりてんのきならべ、ならずものたちがてつく露地ろじのあちこちにたむろしていた。わたし少年しょうねんとつれだって、夕刊ゆうかんたば小脇こわきに、のノレンをくぐっていった。
 だれ夕刊ゆうかんってはくれなかった。しつこくりつけようとしてっぱらいにばされたり、しりられたりもした。寒風かんぷうきすさぶ大通おおどおりから、はだか電球でんきゅうのともる薄暗うすぐら露地ろじにもぐりみ、いちけんいちけん新聞しんぶんあるいているうちに、わたしはだんだんなさけなくなり、いえかえりたくなってきた。だが、ことわられてもことわられても夕刊ゆうかんりをやめようとしない少年しょうねんきずられて、夜更よふけまで場末ばすえがいあるきつづけたのだった。
「きょうは調子ちょうしわるいなァ……」
 と少年しょうねんとままった。
「……ぼく、もうかえらんとおこられる」
 その言葉ことばで、少年しょうねんわたしから新聞しんぶんたばり、
ぼくはもうちょっとねばってみるさかい」
といいのこして、ふたたくら露地ろじへとえてった。わたしからだちゅうこごえていた。夜道よみちふるえながらかえった。いえにゅうろうとしたとき、だれかのあるいておとこえた。ちちであった。ちちは「おかえり」とってわたしみみてのひらつつんでくれた。そのよる銭湯せんとうからのかえみちちちがさとすようにつぶやいた。
「おまえのたこきと、あののたこきとは、あじちがうんやでェ」
 それからちょうどじゅうねんちちんだ。ちち死後しごなにかのおりに、夕刊ゆうかんあるいた一夜いちやおもははかたった。そしてそのときははから、あのよる尼崎あまがさき歓楽街かんらくがい新聞しんぶんあるわたしのあとを、ちち最初さいしょから最後さいごまでずっとけていてくれたことをいたのであった。
 いまでもときおり、場末ばすえ歓楽街かんらくがいあるいているときなど、露地ろじのくらがりからまるまるとふとったあの少年しょうねんが、夕刊ゆうかんたばをかかえてはしてくる幻想げんそうにかられる。そんなとき、オーバーでつつんだちちが、物陰ものかげからじっとわたしているようなもするのである。

宮本みやもとあきら夕刊ゆうかんとたこしょう』)


長文ちょうぶん 9.1しゅう
 【1】わたしじゅうねんほどまえから、人間にんげんみずからを飼育しいくし、家畜かちく――自己じこ家畜かちくしているとつづけている。まず人間にんげんは、人間にんげん自身じしん飼育しいくしているのではないか。女房にょうぼう亭主ていしゅ飼育しいくされているなどの、たとえに使つかわれるのとおなじようにかんじられるかもしれないがまったくちがう。【2】ヒトを生物せいぶつ一種いっしゅとみなした場合ばあい個人こじんレベルではなく、人間にんげん自身じしんがつくった社会しゃかいシステムに依存いぞんしてらしているてんからである。飼育しいく動物どうぶつれいにしてかんがえてみると、比較ひかく生態せいたい学的がくてきには否定ひていする論拠ろんきょはない。【3】飼育しいく動物どうぶつはそれなりにフリーにうごいてはいるものの、すこおおきなると人工じんこうてきにつくったなかでフリーなのにすぎない。せまおりなか飼育しいくされている場合ばあいちがって、飼場のついた飼育しいくじょうわれていたらどうであろうか。【4】どれほどおおきなちがいがあるだろうか。毎日まいにち自転車じてんしゃなどでくさりにつながれてはしっているイヌと、満員まんいん電車でんしゃでゆられてオフィスに往復おうふくする人々ひとびととのちがいは、たまにみちするのと、自分じぶんえらんだみち企業きぎょうたいふくめ)であるかのちがいでたいした差異さいはないともえる。【5】ちがいは社会しゃかいてき文化ぶんかてきめんがあるかどうかや、くさりえる具体ぐたいぶつかどうかであるともえる。
 人間にんげんみずからをみずからで飼育しいくし、馴化じゅんかしている。自己じこ飼育しいく自己じこ馴化じゅんかである。人類じんるいがく教科書きょうかしょには、こうした説明せつめいせられているものがある。【6】一般いっぱんには、これは否定ひていてき比喩ひゆてきにしかとらえられない。だれもみずかこのんで飼育しいくされ、ならされていくことなどないとかんずるからである。だが、わたしがこれにこだわったのは、ここでいう自己じことは個々ここ人間にんげん行為こういうえでの自己じこではなく、ものごとの自己じこ発展はってんうえでの自己じこである。【7】人間にんげんというもののありかたが、みずか飼育しいくしていくという意味いみである。では飼育しいくというのをどうかんがえるのかとわれれば、人類じんるいがくじょう定義ていぎはともかくも、動物どうぶつにとっては食物しょくもつ供給きょうきゅうされることからはじまる。【8】動物どうぶつきることは、まず生態せいたいがくてき生物せいぶつがくてき食物しょくもつをとることにきる。動物どうぶつ生活せいかつすべては、食物しょくもつをとることが中心ちゅうしんいとなまれている。その成果せいかにもとづいて繁殖はんしょくがなされる。
 【9】飼育しいくとは、食物しょくもつ供給きょうきゅうされ、さらに生活せいかつ空間くうかんあたえられるといってよい。しかし、いならすというと通常つうじょう餌付えづけからはじまるのでわかるように、食物しょくもつ自力じりきでとらずに依存いぞんらしが基盤きばんである。【0】子供こども時期じき食物しょくもつ供給きょうきゅうされるが、自立じりつするためには食物しょくもつ依存いぞんたねばならない。ライオンのような強力きょうりょく捕食ほしょくじゅうにとっても、離乳りにゅうのち自力じりき獲物えものをうまくとれるようになるまで、つづけることはとてもむずかしい。それだけに食物しょくもつ供給きょうきゅうされることは、まるでぜん生活せいかつ面倒めんどうてもらうのにひとしい。
 人間にんげんとして生活せいかつをしているヒトとしては、食物しょくもつのとりかた食事しょくじだけではない。獲物えものをとる動物どうぶつ場合ばあいになぞらえれば、漁業ぎょぎょう農業のうぎょうその食物しょくもつ生産せいさんのすべてを個人こじんでやらねばならなくなる。べつのいいかたをすれば、ヒトは社会しゃかいシステムに参加さんかすることによって、社会しゃかいてき食物しょくもつ供給きょうきゅうされている。社会しゃかいてき飼育しいくされているともえる。社会しゃかいシステムにせよ、食料しょくりょう生産せいさんのしくみもまた、人間にんげんがつくっているので、自己じこ飼育しいく自己じこ馴化じゅんかである。
 現在げんざいおおくの人々ひとびとは、わか人々ひとびと子供こどもていて、なにかおおきな変化へんか人間にんげん精神せいしん行動こうどうあらわれていると、漠然ばくぜんかんじているだろう。(中略ちゅうりゃく
 比喩ひゆとしてえば、現代げんだい青年せいねん子供こどもは、座敷ざしきイヌと類似るいじしている。自己じこ家畜かちくが、特殊とくしゅ条件下じょうけんか自己じこペットいたったものとえよう。さきにべたように自己じこ家畜かちくは、「もの」や「人工じんこうてき人為じんいてき世界せかい」のなか形質けいしつ決定けっていづけている、基本きほんてき人間にんげんのありかたである。したがって自己じこペットは、その自己じこ家畜かちく管理かんり保護ほご人工じんこうがよりすすんだ現代げんだいてき先進せんしんこくでの特殊とくしゅ状態じょうたいだとみなせる。自己じこペット場合ばあいには、自己じこ家畜かちくのような論理ろんりにもとづいたものであるよりも、状況じょうきょうしめ表現ひょうげん力点りきてんかれたいいかたである。自己じこ家畜かちく特殊とくしゅ現代げんだいてきありかたである。


長文ちょうぶん 9.2しゅう
 【1】なにごとぞ はなひと長刀ちょうとうなががたな
 花見はなみ平素へいそ身分みぶん階層かいそうをもちこむのは野暮やぼやぼというものだ。花見はなみって武士ぶし権威けんいをふりまわすようなやからは、「なんだサンピン、えらそうにするな」と町人ちょうにんどもから反発はんぱつをくらうことになる。
 【2】花見はなみにケンカはつきものである。花見はなみには、町内ちょうない職域しょくいきといったしょう共同きょうどうたい仲間なかまが、つれだってかけることがおおい。それはあたらしく共同きょうどうたい意識いしきをもりあげようとするか、あるいはこわれかかった共同きょうどうたい意識いしきをたてなおそうとするのに利用りようされる。【3】だが花見はなみ場合ばあいは、あくまでしょう共同きょうどうたい意識いしきにとどまり、だい共同きょうどうたい意識いしきになれない。そこでしょう共同きょうどうたい同士どうしがいがみあいをこしがちだ。花見はなみどきのケンカといえば、個人こじん同士どうしのやりあいよりも団体だんたいきゃく乱闘らんとうおおいのは、そのためであろう。
 【4】さくらはなは、日本にっぽん民族みんぞくのシンボルとして、だい共同きょうどうたい意識いしき中核ちゅうかくかれたが、現実げんじつ花見はなみはついにそこまでいたっていない。
 花見はなみとならんで、月見つきみ雪見ゆきみ――このみっつが日本人にっぽんじん自然しぜん観賞かんしょう基本きほんになっているが、つきゆきはな、そのいずれもがうつろいやすいものという共通きょうつうてんがある。【5】がつはいつも満月まんげつではありえないし、ゆきはいつかとけてる。はな生命せいめいみじかい。満開まんかいだとおもっていたら、一夜いちや雨風あめかぜですぐってしまう。そうだからこそ、うつろいやすいものをしむしんが、時候じこうわした会合かいごうめずらしさをとうとぶのだ。【6】自然しぜん有為転変ういてんぺんをながめては、ひと生命せいめいのはかなさだけでなく、社会しゃかいもつねにうつわってゆくのだという気持きもちが、日本人にっぽんじんしんのどこかにえずひそんでいるのである。
 【7】だいたい日本人にっぽんじんは「る」ということに重要じゅうよう意味いみあたえる。百聞ひゃくぶん一見いっけんにしかずということわざのしめすとおり、いくらほんあたま理解りかいしていても、現場げんばたものには、たちうちできないのだ。【8】自分じぶんなければ、認識にんしき根拠こんきょとしてすこぶる薄弱はくじゃくだとする意識いしきがある。いうなれば現場げんば主義しゅぎであり、体験たいけん主義しゅぎであり、実証じっしょう主義しゅぎである。日本人にっぽんじんのカメラきも、絵葉書えはがきでは満足まんぞくできぬ「自分じぶんたしかめる」実証じっしょう主義しゅぎのなせるわざであろう。
 【9】さらにいえば、日本にっぽん社交しゃこう基本きほんは「る」ことで成立せいりつする。わか男女だんじょ恋人こいびと同士どうしあい告白こくはくをするとき、西洋せいようじんのように、
わたしはあなたをあいしています(I love you)」
などとはけっしていわない。【0】そんな言葉ことばくちさなくとも、満月まんげつあおて、
「いいおげっさんですね」
 そして、二人ふたりでじっとそら見上みあげるだけで、意思いしじゅうふんつうじるのだ。「つきかがみであったなら」といううた文句もんくがあるように、この場合ばあい、おげっさんはにんしんのリフレクターの役割やくわりをする。つまり、日本にっぽんでは、言葉ことばでなく、物理ぶつりてき対象たいしょうぶつをともにることで、社交しゃこうつのだ。そうかんがえてくると、月見つきみ花見はなみ雪見ゆきみといった集団しゅうだんてき観賞かんしょう行為こういは、じつは、日本にっぽん文化ぶんかのなかでのコミュニケーションの方法ほうほうでもある、といわなければなるまい。つきゆきはなひとひとをむすびつける触媒しょくばいなのである。西洋せいようのように、しゃべることが社交しゃこう基本きほんになっているところでは、はなしがとぎれるとなにかまずいおもいをしなければならない。日本人にっぽんじんなら、だまってなにかをながめることでも、会話かいわ進行しんこうしうるのだ。
 芝居しばいを「総見そうけんそうけん」するなどというが、これも舞台ぶたいえんじられている所作しょさしょさをみながいっしょにることに意味いみがある。ることに力点りきてんをかけた社交しゃこうが、芝居しばい総見そうけんなのである。おしゃべり一本いっぽんだと、話題わだいがとぎれたときに、白々しらじらしいかんじがのこる。共通きょうつうの「る」対象たいしょうぶつひとつおいておけば、そういう緊張きんちょうかんはなくなる。しゃべりたくなったらしゃべればいいし、しゃべることがなくなったら、ているだけでいい。日本にっぽん劇場げきじょうがザワザワとしているのは、西洋せいよう観劇かんげきエチケットからすれば、たいへん不作法ぶさほうなことかもしれぬが、それはそれで、ちゃんと機能きのうをもっているのである。
 花見はなみもっと庶民しょみんてきなマス・レジャーであるのもゆえなしとしない。

林屋はやしや辰三郎たつさぶろう日本人にっぽんじん知恵ちえ』)


長文ちょうぶん 9.3しゅう
 【1】衰弱すいじゃくしたアイデンティティのぎりぎりの補強ほきょう、それを個人こじんレベル、感覚かんかくレベルでみればたぶん「清潔せいけつ願望がんぼう」になる。【2】じぶんがだれかということがよくわからなくなるとき、じぶんのなかにほんとうにじぶんだけのもの、独自どくじのものがあるのかどうか確信かくしんがもてなくなるとき、ぼくらはじぶんになじみのないもの、異質いしつなもの、それにちょっとでも接触せっしょくすることをすごくこわがる。【3】じぶんでないものに感染かんせんすることでじぶんがくずれてしまう、そういうおそろしさにがんじがらめになるのだ。じぶんのなかになんの根拠こんきょもないまま、じぶんの同一どういつせい確保かくほしようとするなら、〜ではないというかたちで、ネガティヴにじぶんを規定きていするしかない。【4】じぶんはおんなではない、どもではない、白人はくじんではない、病気びょうきではない……
 そういうことすら不可能ふかのうなとき、ぼくらはじぶんでないもの、なるものの感染かんせん、あるいはそれとの接触せっしょく徹底てっていして回避かいひしようとする。【5】清潔せいけつ症候群しょうこうぐん(シンドローム)というのも、まさにそういうコンテクストであらわれてきたのではないだろうか。
 ろくじゅうだい後半こうはんのさる高名こうみょう数学すうがくしゃが、かつてぼくにこんなばなしをしてくださったことがある。【6】その先生せんせいは、じぶんのむすめがまだ高校生こうこうせいのころ、おとうさんをとにかくきたないとかんじていたらしく、いくらはなしかけてもからじこもって、とにかく父親ちちおやとは音信いんしん不通ふつうという状態じょうたいながつづいたそうだ。【7】それが、結婚けっこんどもをんだとたん、日常にちじょうのこと、小説しょうせつのことと、いろいろじぶんにしゃべりかけてきたという。んでおもしろかった小説しょうせつ交換こうかんしたり、映画えいがのはなしをしたりといろんなコミュニケーションの回路かいろひらかれてきたとおっしゃるのだ。【8】これは、おじょうさんがご主人しゅじんという他者たしゃ身体しんたいてき交感こうかんをもちはじめたこと、栄養えいよう摂取せっしゅから排泄はいせつまでどもの生理せいりぜん過程かていとつきあいだしたことと、無関係むかんけいではなかろうとおもう。【9】おじょうさんの場合ばあい結婚けっこんに、透明とうめいのカプセルでじぶんの存在そんざい他者たしゃから隔離かくりすることが不可能ふかのうになったということがおおきいとおもう。【0】他者たしゃ排除はいじょすることによってではなく、他者たしゃとの交錯こうさく他者たしゃとのやりとりのただなかで、そのつどじぶんをかたどっていくというやりかたにいやがおうでもまれていったのだ。
 ぼくらはじぶんの存在そんざいをじぶんというじられた領域りょういきのなかに確認かくにんすることはできない。ちょっとややこしいいかたをすると、ぼくらには「他者たしゃ他者たしゃ」としてはじめてじぶんを経験けいけんできるというところがある。ぼくらはじぶんをだれかある他人たにんにとって意味いみのある存在そんざいとして確認かくにんできてはじめて、じぶんの存在そんざい実感じっかんできるということだ。(中略ちゅうりゃく
 ロナルド・D・レインという精神せいしん医学いがくしゃは、ひとは「じぶんの行動こうどう意味いみするところを他者たしゃらされることによって、つまりかれのそうした行動こうどう他者たしゃおよぼす「効果こうか」によって、じぶんが何者なにものであるかをおしえられる」とっている。つまり、ぼくがぼくでありうるためには、ぼくはの「わたし」の世界せかいのなかにあるひとつの場所ばしょをもっているのでなければならないということだ。それが他者たしゃ他者たしゃとしてのじぶんの存在そんざいということである。
 そういう他者たしゃ他者たしゃとしてのじぶんの存在そんざい欠損けっそんけっそんしているとき、ぼくらは、他者たしゃにとって意味いみのあるものとしてのじぶんを経験けいけんできない。他者たしゃというかがみがないと、ぼくらはじぶん自身じしんにすらなれないということだ。
 このことは、自他じた相互そうごてき関係かんけいだけでなく、おしえる/おしえられるという関係かんけい看護かんごする/看護かんごされるという関係かんけいのように、一見いっけん一方いっぽう通行つうこうてき関係かんけいについてもいえる。教師きょうし看護かんごも、教育きょういく看護かんご現場げんばでまさに他者たしゃへとかかわっていくのであり、そのかぎりで他者たしゃからのぎゃく規定きていけ、さらにそのかぎりでそれぞれの「わたし」の自己じこ同一どういつせい補強ほきょうしてもらっているはずなのだ。ところがここで、「おしえてあげる」「世話せわをしてあげる」という意識いしきがこっそりしのんできて、自分じぶん生徒せいと患者かんじゃという他者たしゃたちとの関係かんけいをもたなくても「わたし」でありうる、という錯覚さっかくにとらわれてしまう。そしてそのとき、「わたし」の経験けいけんから他者たしゃとおのいていく。
 他者たしゃ他者たしゃとしてのじぶんを意識いしきできないとき、ぼくらの自己じこ意識いしきはぐらぐられる。あるいはとても希薄きはくになる。そういうとき、ぼくらは皮膚ひふ感覚かんかくという、あまりにもそく物的ぶってき境界きょうかいにこだわりだすのではないだろうか。自他じた境界きょうかい最後さいごのバリヤーとして。そしてそのバリヤー、つまりじぶんの最後さいご防壁ぼうへきを、過剰かじょう防衛ぼうえいしようというのが、異物いぶつとの接触せっしょく徹底てっていして回避かいひしようとするいわゆる清潔せいけつシンドロームだったのではないか。 (鷲田わしだ清一せいいち


長文ちょうぶん 9.4しゅう
 日本人にっぽんじんはなにかというとひとおくりものをする。たいした意味いみがなくても、ぼんれになると、中元ちゅうげん歳暮せいぼおくらないとがすまない。虚礼きょれいではないか、やめてしまえ、というこえがときおりおこるけれども、贈答ぞうとうはいっこうにらない。われわれはおくりものをしないとかないようにできているのかもしれない。おな日本人にっぽんじんなら、おなじような気持きもちをもっているから、ときにおかしいとおもひとがいても、おくればだいたいって、かたちだけにしても、ありがたかった、うれしかった、とれいってくれる。
 そういうことになれっていると、相手あいて外国がいこくじんであっても、ついおなじことをしてしまう。こちらが善意ぜんいであれば、その気持きもちだけはすくなくともつうじるだろうとのんきにかんがえる。それがそうではないことがあるのだということは、にが経験けいけんをしてからでないと、わからないからやっかいである。
 たとえば、アメリカじんにとって日本にっぽんしきおくりものがどういうようにられるか。これについてはこういうエピソードがある。
 日本にっぽんむあるアメリカじん隣家りんか日本人にっぽんじんおくさんからある、くだものをもらった。くれたのはおくさんだが、おくさんがってきたものではない。おくさんのところへいがおくさんにおくったものだ。この知人ちじんはクルマでて、そのアメリカじん庭先にわさき駐車ちゅうしゃさせてもらった。おくさんとアメリカじんとのあいだで、必要ひつようなときには自由じゆう使つかっていいというはなしのついている庭先にわさきである。しかしきゃくらんかおではまずいとおもった。おくさんにもってきたくだものを、アメリカじんにあげてくれとたのんだ。おくさんにはまたべつのものをかんがえるとうのであろう。おくさんはわれるままに、きゃくかえったあと、くだものをもってアメリカじんのところへたのである。
 ところがアメリカじんよろこばない。どうしてくれるのかわからないのだ。やるといわれても、迷惑めいわくだとかんじる。こちらがくだものきだとわかってくれたのではない、しかも、ったこともないひとからのくだものをどうしてれるか。相手あいてはかまわず、そういうものをくれるのは、こちらの人間にんげん個性こせい無視むししていて、おもしろくない。駐車ちゅうしゃさせてもらってありがたいとおもったなら、なぜ本人ほんにんがやってきて、ひとこと、ありがとう、とってくれないか。そのほうがわけのわからないくだものをもらうよりどれだけうれしいかれない。えば、いになるチャンスだってまれる……。そんなふうかんじたが、このアメリカじん結局けっきょくとなりおくさんのくだものをった。ことわっては、おくさんのかおをつぶすことになるだろうという日本にっぽんてきかんがかたをしたものである。
 プレゼントをしていいのは、相手あいてこのみ、趣味しゅみをよくっていて、それにったものがあるときである。おくさんのところへもってきたものを、そのまま隣家りんかのアメリカじんへまわすのは、おくさきひとのことを無視むしするのもいいところで、はなはだまずい。
 おくりものはときとして、とんだ災難さいなんのもとになることもある。
 日本にっぽん勉強べんきょうしているアメリカじん女子大じょしだいせいが、バイクでジグザグ走行そうこうしていてトラックに接触せっしょく転倒てんとうし、かる怪我けがをした。入院にゅういんしたが、自分じぶんがわにあるとおもっていたから、トラックをめるはまったくなかった。ところが、トラックの運転うんてんしゅは、いくら自分じぶん責任せきにんではないにしても、げん相手あいて入院にゅういんしている。はなっておけないがしたのだろう。ブドウをもって見舞みまいにった。これがいけなかった。それまでは神妙しんみょうだったアメリカじん学生がくせいは、そこでかんがえを一変いっぺんさせた。この運転うんてんしゅ自分じぶんにワイロをおくろうとした。わる人間にんげんである。事故じこはこの運転うんてんしゅによっておこった。というようなはなしをつくりげてしまったのである。
 トラック会社かいしゃ運転うんてんしゅうったえて、裁判さいばんち、トラック会社かいしゃから多額たがく賠償金ばいしょうきんをせしめることに成功せいこうした。ずいぶんたかいことについたブドウである。善意ぜんいがとんでもない解釈かいしゃくをされてかたきあだになってしまった。おくりものの文化ぶんか万国ばんこく共通きょうつうのものではないことをらないでおこったしょう悲劇ひげきである。ことにあまり意味いみのないプレゼントをするのになれていると、つい気軽きがるひとにものを進呈しんていしがちになる。相手あいてをよくかんがえてからでないとおくりものをしてはいけない。国際こくさいてき場面ばめんにおいてはとくにそれに注意ちゅういする必要ひつようがある。

外山とやましげるいにしえとやましげひこ英語えいご発想はっそう日本語にほんご発想はっそう』)