(Translated by https://www.hiragana.jp/)
課題集
長文ちょうぶん 10.1しゅう
 【1】あさ学校がっこうかうみち途中とちゅうに、背丈せたけよりもわずかにたかいキンモクセイのがある。あきになると、ふうってほのかにあまかおりがただよってくる。ちょうどこのはなくころに、なつかしいおもがあったような記憶きおくがある。【2】それがなにだったのかはわすれてしまったが、キンモクセイのかおりをかぐと、ちいさいころの自分じぶん気持きもちがもどってくる。
 いま生活せいかつは、定期ていきテストがあったり、部活ぶかつ練習れんしゅう試合しあいがあったり、学校がっこう行事ぎょうじ準備じゅんびがあったりと、毎日まいにちがあわただしい。【3】時間じかんわれて生活せいかつしていると、気持きもちがだんだんと単調たんちょうになってくるようだが、そんなとき、なつかしいはなかおりにれると、そのぶしおもし、ふと自分じぶんりかえる気持きもちになれる。
 【4】ぶしかんじてきることが大事だいじだとおも理由りゆうは、だいいちに、ぶしごとのおもおうじて人生じんせいがそれだけゆたかになることだ。
 たとえば、なつというと、わたしがまずおもかべるのは、子供こどものころ、海辺うみべべたスイカりのスイカのあじだ。【5】みんなでになってすこすなじったくずれたスイカをたっぷりべた。たねばしっこをしてみんなでわらったことや、そのときのなみおとそらあおさがいまでもしんのこっている。【6】もしこれが、なつでもふゆでもおなじようにスイカがえて、パックにきれいにめられているスイカをべるだけだったら、なつかしいおもにはならなかっただろう。
 もうひとつの理由りゆうは、ぶしかんじてきる生活せいかつこそが、環境かんきょうにとっても無理むりのない合理ごうりてき生活せいかつだからだ。
 【7】たとえば、なつあつにクーラーをかせた生活せいかつをすれば、いえなかくるまなかたしかにすずしいが、そのすずしくなったぶんだけねつそと排出はいしゅつされる。その結果けっか都会とかいはますますあつくなり、そのあつさにけないようにさらにクーラーをかせるようになる。
 【8】これを、もしなつあついものだとって、薄着うすぎをしたり、まどはなしたり、みずったり、風鈴ふうりんをつけたり、木陰こかげができるようにえたりすることで対応たいおうするならば、それは自然しぜん調和ちょうわしたやさしい社会しゃかいつくることにつながるだろう。
 【9】たしかに、人間にんげん科学かがく発展はってんさせて、ぶし制約せいやくされない文化ぶんかつくげた。病人びょうにん老人ろうじんにとって、あつなつ負担ふたんである。健康けんこうひとにとっても、エアコンで調整ちょうせいされた環境かんきょうほうが、勉強べんきょう仕事しごとおおいにはかどる。【0】しかし、その便利べんりさにれるあまり、多様たようぶし一色いっしょくりつぶすようなことをしては、人間にんげん文化ぶんかわたしたちの感覚かんかくも、おなじように機械きかいてき一色いっしょくりつぶされることにならないだろうか。自然しぜんとは、わたしたちの外側そとがわにあるものではなく、わたしたち自身じしんふく世界せかいである。自然しぜんゆたかにかんじることは、自分じぶん自身じしんゆたかにすることにもつながっているのだとおもう。

言葉ことばもり長文ちょうぶん作成さくせい委員いいんかい Σしぐま


長文ちょうぶん 10.2しゅう
 【1】子供こども世界せかいは「ふしぎ」にちている。ちいさい子供こどもは「なぜ」を連発れんぱつして、大人おとなにしかられたりする。しかし、大人おとなにとってあたりまえのことは、子供こどもにとってすべて「ふしぎ」とっていいほどである。【2】「あめはなぜるの。」「せみはなぜくの。」あるいは、すこしゅがこんできて、飛行機ひこうきんでくうちにだんだんちいさくなっていくけど、なかっている人間にんげんはどうなるの、などというのもある。(中略ちゅうりゃく
 【3】子供こどもの「ふしぎ」にたいして、大人おとなとき簡単かんたんこたえられるけれど、一緒いっしょになって「ふしぎだな。」とやっていると、自分じぶん生活せいかつがそれまでよりゆたかになったり、面白おもしろくなったりする。
 【4】子供こどもは「ふしぎ」とおもうことにたいして、大人おとなからおしえてもらうことによって知識ちしき吸収きゅうしゅうしていくが、ときに、自分じぶんなりに「ふしぎ」なことにたいして自分じぶんなりの説明せつめいかんがえつくときもある。【5】子供こどもが「なぜ。」といたとき、すぐにこたえず、「なぜでしょうね。」とかえすと、面白おもしろこたえが子供こどもがわからてくることもある。
 「おかあさん、せみはなぜミンミンいてばかりいるの。」と子供こどもたずねる。【6】「なぜ、いてるんでしょうね。」と母親ははおやおうじると、「おかあさん、おかあさんとって、せみがんでいるんだね。」と子供こどもこたえる。そして、自分じぶんこたえに満足まんぞくして再度さいど質問しつもんしない。これは、子供こども自分じぶん説明せつめいかんがえたのだろうか。【7】それはたんなる外的がいてき説明せつめいだけではなく、なにかあると「おかあさん。」とびたくなる自分じぶん気持きもちもそこにめられているのではなかろうか。だからこそ、子供こども自分じぶんこたえに納得なっとくしたのではなかろうか。【8】そのときに、母親ははおやが「なぜって、せみはミンミンとくものですよ。」とか、「せみはくのが仕事しごとなのよ。」とか、こたえたとしても納得なっとくはしなかったであろう。【9】たとい(たとえとおなじ)、せみのごえはどうしててくるかについてただしい知識ちしき供給きょうきゅうしても、おなじことだったろう。そのときに、そのにとって納得なっとくのいくこたえというものがある。そのときに、そのひとにとって納得なっとくがいくこたえは、物語ものがたりになるのではなかろうか。【0】せみのこえいて、「せみがおかあさん、おかあさんとんでいる。」というのは、すでに物語ものがたりになっている。外的がいてき現象げんしょうと、子供こどもしんなかしょうじることがひとつになって、物語ものがたり結晶けっしょうしている。
 人類じんるい言語げんごもちはじめた最初さいしょから物語ものがたることをはじめたのではないだろうか。みじか言語げんごでも、それは人間にんげん体験たいけんした「ふしぎ」、「おどろき」などをしんおさめるためにもちいられたであろう。
 古代こだいギリシャの時代じだいに、人々ひとびと太陽たいようねつをもった球体きゅうたいであることをっていた。しかしそれと同時どうじに、かれらは太陽たいようよんとうてのかね馬車ばしゃった英雄えいゆうとして、それをかたった。これはどうしてだろう。よるやみやぶって出現しゅつげんして太陽たいよう姿すがたたときのかれらの体験たいけん、その存在そんざいなかしょうじる感動かんどう、それらを表現ひょうげんするのには、太陽たいよう黄金おうごん馬車ばしゃった英雄えいゆうとして物語ものがたることが、はるかにふさわしかったからである。かくて、かく部族ぶぞく民族みんぞくは「いかにしてわれわれはここに存在そんざいするのか。」という、人間にんげんにとって根本こんぽんてきな「ふしぎ」にこたえるものとしての物語ものがたり、すなわち神話しんわをもつようになった。それはたんに「ふしぎ」を説明せつめいするなどというものではなく、存在そんざい全体ぜんたいにかかわるものとして、その存在そんざいふかめ、ゆたかにする役割やくわりをもつものであった。
 ところが、そのような神話しんわ現象げんしょう説明せつめいとしてるとどうなるだろう。たしかに英雄えいゆうごとに怪物かいぶつたたかい、それに勝利しょうりしてあさになるとあらわれてくるというはなしは、ある程度ていど太陽たいようについての「ふしぎ」を納得なっとくさせてくれるが、そのすべての現象げんしょうについて説明せつめいするのには都合つごうわるいこともあきらかになってきた。たとえば、せみのくのを「おかあさんとんでいる。」として、しばらく納得なっとくできるにしても、次第しだいにそれでは都合つごうわるいことがでてくる。
 そこで、現象げんしょう説明せつめいするためのはなしは、なるべく人間にんげん内的ないてき世界せかいをかかわらせないほうが、正確せいかくになることに人間にんげんがだんだんがつきはじめた。そして、その傾向けいこうさいたるものとして、自然しぜん科学かがくまれてくる。「ふしぎ」な現象げんしょう説明せつめいするとき、その現象げんしょう人間にんげんからはなしたものとして観察かんさつし、そこにはなしつくる。このような自然しぜん科学かがく方法ほうほうは、ニュートンがこころみたように、「ふしぎ」の説明せつめいとして普遍ふへんてきはなし(つまり、物理ぶつりがく法則ほうそく)をしてくる。これがどれほど強力きょうりょくであるかは、周知しゅうちのとおり、現代げんだいのテクノロジーの発展はってんがそれをしめしている。これがあまりに素晴すばらしいので、近代きんだいじん神話しんわきらい、自然しぜん科学かがくによって世界せかいることにしんをつくしすぎた。これは外的がいてき現象げんしょう理解りかいおおいに役立やくだつ。しかし、神話しんわをまったく放棄ほうきすると、自分じぶんしんなかのことや、自分じぶん世界せかいとのかかわりが無視むしされたことになる。
 せみのごえははんでいるのだとったぼうやは、科学かがくてき説明せつめいとしては間違まちがっていたかもれないが、そのときのそのぼうやの「世界せかい」とのかかわりをしめすものとして、もっと適当てきとう物語ものがたり見出みいだしたとうことができる。 (河合かわい隼雄はやお物語ものがたりとふしぎ」による)


長文ちょうぶん 10.3しゅう
 【1】わたしに、漫画まんが「ドラえもん」の面白おもしろさを紹介しょうかいしてくれたのは、いちきゅうななさんねんまれの長女ちょうじょだった。「ドラえもん」とともにそだったこのむすめも、今年ことしろくがつ結婚けっこんした。このなつ夫婦ふうふはじめて北海道ほっかいどう実家じっかおとずれたときのお土産みやげがシリーズのだいよんじゅうかん。【2】家族かぞくみんなでまわみし、「ドラえもん」ろんはなかせたばかりだった。それだけに作者さくしゃ藤子とうこふじこ・F・不二雄ふじおきゅうがつじゅうにち死去しきょしたのはいたまれる。
 【3】「ドラえもん」は、「鉄腕てつわんアトム」や「鉄人てつじん28ごう」に代表だいひょうされる、スーパーヒーローがたとはまったことなったタイプのロボットとして誕生たんじょうした。読者どくしゃ日常にちじょう生活せいかつ密着みっちゃくしてあいされるタイプのロボットなのである。【4】だが、「ドラえもん」がヒーローたりるゆえんは、「よん次元じげんポケット」にある。「タケコプター」「どこでもドアー」「インスタント旅行りょこうカメラ」「暗記あんきパン」……。「ドラえもん」のポケットからてくるこれらひとつひとつのアイテム(道具どうぐ)にかぎりないゆめがある。【5】これが「ドラえもん」の人気にんき秘密ひみつであることはいまさらうまでもない。
 しかし、「ドラえもん」には見逃みのがしてはならない、もうひとつの重要じゅうよう視点してんがあるべきだとおもうのだ。
 【6】――子供こどものみならず大人おとなにまでゆめあたえた――。本当ほんとうにそうであろうか。わたしかぎりでは「ドラえもん」のゆめいちもかなわなかった。【7】つぎからつぎへと「よん次元じげんポケット」からてくる奇想天外きそうてんがい科学かがく小道具こどうぐは、困難こんなん解決かいけつしてくれるどころか、思惑おもわくはんして勝手かってあばれだし、おもいがけないあらたな問題もんだいこしてしまうのがつねである。【8】それが、ギャグのメインになってはいるが、そこにはただわらってはすまされない問題もんだいがある。
 そもそも、この漫画まんがには、一定いってい法則ほうそくがある。「大変たいへんだ! 大変たいへんだ!」。【9】現代げんだい代表だいひょう「のび」の日常にちじょうなかこる様々さまざま問題もんだい発端ほったんとなる。かれ問題もんだい解決かいけつ本質ほんしつ見極みきわめようとはせず、じつ安易あんいに「ドラえもん」のポケットにたすけをもとめる。それにこたえて「ドラえもん」のしてくるおせっかいな道具どうぐ。【0】それはまるで魔法まほうのような効力こうりょく発揮はっきして問題もんだい一気いっき解決かいけつするようにおもえるのだが、すぐさま勝手かってあばれだし、あらたな問題もんだい右往左往うおうさおうする結末けつまつかえすのである。
 現代げんだい日常にちじょう生活せいかつ科学かがく文明ぶんめい過信かしんするあまり、科学かがくたいする基本きほんてき姿勢しせいわすってしまっている。便利べんりという言葉ことばかされて出来合できあいの科学かがく大量たいりょうんで、これでもかという失敗しっぱいかえしても、じつ平気へいきなのである。それはまるで「のび」の生活せいかつそのものである。
 らくすることをもとめるあまり、科学かがくのなんたるかをわすれてらす現代げんだい生活せいかつのありかたびせた作者さくしゃ皮肉ひにくわらい。「ドラえもん」のしん面白おもしろさは、我々われわれ日常にちじょうへの痛烈つうれつ風刺ふうしにあったのだ。
 かつて、藤子とうこふじこは「はん世紀せいきまえにはマンガ=わらいというのが世間せけん一般いっぱん常識じょうしきでした。しかし、ここよんじゅうねんばかりのあいだ驚異きょういてき変貌へんぼうげたのです。あいあり、感動かんどうあり、希望きぼうあり、絶望ぜつぼうあり……。かつてのわらいは、むしろ片隅かたすみ細々こまごま命脈めいみゃくたもっているかんじです。」とかたったことがある。かれう「かつてのわらい」とは漫画まんが漫画まんがたるゆえんのもの、すなわち「風刺ふうし精神せいしん」にほかならない。「ドラえもん」の面白おもしろさは、けっしてわらってはすまされない現代げんだい深刻しんこく問題もんだいへの警鐘けいしょうなのである。
 高度こうど発達はったつした現代げんだい科学かがく人類じんるい役立やくだてるために、自己じこ犠牲ぎせいにしてまで平和へいわ奉仕ほうしした「鉄腕てつわんアトム」。高度こうど科学かがく技術ぎじゅつをつくりだした人間にんげんが、それをどうあつかうべきかをテーマにした「鉄人てつじん28ごう」。そして、科学かがくのしでかす失敗しっぱい連続れんぞくに、はしまわるしかないのが、このだいさんのロボット「ドラえもん」のテーマだとすれば、それにづかずにわらってつづける子供こどもたちの未来みらいゆめえがけないのである。
 卓越たくえつした批評ひひょう精神せいしん漫画まんがしむとともに、藤子とうこふじこが「ドラえもん」にたくした現代げんだいへのメッセージを、子供こどもたちと一緒いっしょに、いまいちしっかりとかえしてしい。


長文ちょうぶん 10.4しゅう
きよし」とすすむがいった。「われのところにあたらしいほん東京とうきょうからおくってたとちがうか」
「ああ」ぼくはいった。「このあいだ小包こづつみおくってたんや」
してくれんか」とすすむはやさしくいった。
「いいよ」
とぼくはほとんどいそいそとしていった。すすむむかえることのできる材料ざいりょう意外いがいにも身近みぢかにあったのがうれしかった。
今日きょうってこうか」
「おれがわれんちにくわい」とすすむはいった。
 その日進にっしん約束やくそくしたとおりやってた。ぼくはかれを自分じぶん部屋へやとおして、伯母おばにたのんでそこにつくってもらってあったこたつにはいるようにすすめた。
 すすむはぼくのせたほんのどれにもこれにもをかがやかした。
東京とうきょうにはもっとあるんやろう」
「たのむからおくってもろうてくれんか」
「おれいままでいえ手伝てつだいでめんなんだろう、ふゆはいってようやく時間じかんができたんや」
よんがつはいれば、中学ちゅうがくはいるための勉強べんきょうせんならんから、めんようになるしな」
すすむ興奮こうふんしたようにつぎからつぎへとしゃべった。
 東京とうきょうのこっているほん小分こわけにして小包こづつみおくってしいとそののうちに手紙てがみでたのんでみるとすすむ約束やくそくすると、すすむはようやく興奮こうふんしず安心あんしんしたかぜせた。
 ――その日進にっしん高垣たかがきひとみの「竜神りゅうじんまる」と南洋なんよういちろうの「ほええる密林みつりん」とをりてった。
 そしてすすむとの交友こうゆうふたた復活ふっかつし、冬休ふゆやすみのときおなじくらいの頻度ひんどでおたがいのいえきたした。いえでのすすむ学校がっこうでのすすむ別人べつじんかんがあった。すすむ学校がっこうでも、いえときおなじようにってくれたら、ぼくはすすむ本当ほんとう親友しんゆうなし大切たいせつおもったにちがいない。しかしぼくはいえいえかえるまでのすすむ専横せんおういをけっしてわすれるわけにはかなかった。すすむがそんなぼくの気持きもちにかんづいていたかどうかはからなかった。しかしとにかくぼくたちはにんだけでいるかぎり、い、話題わだいきなかった。はなし戦争せんそう見込みこみや、勉強べんきょう計画けいかく自分じぶんたちの将来しょうらいなどにおよんだ。
 たとえば将来しょうらいゆめについて、「戦争せんそうながびくようやったら」とすすむはいうのだった。
「おれァ、海兵かいへいけることにやっぱりめたわ」
 もしわったらどうするかというぼくのいにたいしてかれはこたえた。
高等こうとう学校がっこうはいってみかどだいだかぶんけて、官吏かんりになるわ、われのいえひとみたいにな」
 かれのあたまに、成功せいこうした郷里きょうり先輩せんぱいとしてぼくのちちえがかれていたことに間違まちがいなかった。そしてかれがおそれていることは戦争せんそうはやわって、ぼくが東京とうきょうはやげてしまい、一緒いっしょ受験じゅけん勉強べんきょうもできなくなってしまうことらしかった。その証拠しょうこに、かれはなんとなく、
戦争せんそうわってもろくねんはここでえてくのやろ、それから東京とうきょう中学ちゅうがくければいいにか」とぼくにたしかめたからである。もちろんぼくはそうするつもりだとうそをついた。
 ぼくらはよく一緒いっしょ風呂ふろへもおこなった。すると風呂ふろ一緒いっしょになる大人おとなたちは、はまいちばんのあんぼ(しっかりしゃ長男ちょうなん)と寛平かんぺいかんぺいさの東京とうきょうがすっかり意気投合いきとうごう親友しんゆうになったことを祝福しゅくふくしてくれた。するとぼくのしん自分じぶん間違まちがってられていることにたいする不満ふまんと、そんなふう誤解ごかいされてもしようがないようにっている自分じぶんたいする嫌忌けんきねんにひそかにつつまれた。ぼくはいつもしん奥底おくそこで、自己じこ忠実ちゅうじつでありたかったから、いえかえってからのすすむとのいまのようなかたちつづけるのを拒否きょひすべきか、もしくはすすむほう学校がっこうでの態度たいどあらためるべきだとおもっていた。そのことがふたつとも実現じつげんしないかぎり、自分じぶん忠実ちゅうじつでなく、虚偽きょぎ生活せいかつおこなっているのだとおもっていたのだった。しかし現実げんじつのぼくは、内心ないしんねがいとはまったくぎゃくに、のぼり貢物みつぎものいちけん以来いらいすすむ勢力せいりょく偉大いだいさをおもらされ、もはやのぼり協力きょうりょくしてきゅう改革かいかくするゆめにふけることもできなくなり、つとめてすすむにそうようにっているのだった――


長文ちょうぶん 11.1しゅう
 【1】ミミズがある生態せいたいけい生存せいぞんすることで「自然しぜん経済けいざい」にどんなかかわりをもつか、それが、イギリスのんだ偉大いだい生物せいぶつ学者がくしゃチャールズ・ダーウィン(いちはちきゅういちはちはち)のミミズにかんする着眼ちゃくがんてんだった。【2】かれは、邦訳ほうやく『ミミズと』でられる『ミミズの習性しゅうせいかんする観察かんさつとミミズのはたらきをとおしての有機ゆうき土壌どじょう形成けいせい』というなが表題ひょうだい書物しょもつを、いちはちはちいちねん出版しゅっぱんした。【3】「このように分化ぶんかひく動物どうぶつで、このように重要じゅうよう役割やくわりえんじてきた動物どうぶつが、ミミズ以外いがいにいようか。【4】もっと分化ぶんかひく動物どうぶつ、すなわちサンゴはサンゴ礁さんごしょう形成けいせいしてきたが、それはほとんど熱帯ねったいかぎられてきた」と、うみのサンゴと対比たいひして、地表ちひょうなくはたらつづけてきたミミズに敬意けいいあらわし、ケントしゅうダウンのいえにわ数々かずかず実験じっけんてき観察かんさつおこなっている。
 【5】タバコには関心かんしんしめさなかったミミズが、キャベツやタマネギはすぐあなれる様子ようす観察かんさつしているであろうダーウィンの姿すがた想像そうぞうすると、おもわず微笑ほほえんでしまう。【6】とくに、一定いってい面積めんせきないむミミズの数量すうりょうについては、いち平方へいほうメートルたりいちさんさんひきいちひきいっぴきさんグラムとするといち平方へいほうメートルたりさんきゅうきゅうグラムであることを推定すいていしている。【7】そして、それらのミミズがどのようにくそふん排出はいしゅつするか、一定いってい面積めんせきたりのくそふん排出はいしゅつりょうはどのくらいか、結果けっかとして地表ちひょうとミミズがどのようにかかわってきたか。【8】そのいちれいとして、いちはちねんまえ石灰せっかいをまいたはたけほりったときった側面そくめんよんメートルにわたって地表ちひょうからいちななセンチメートルのふかさに石灰せっかいそうがあるのを観察かんさつ、ミミズは平均へいきんしていちねんやくいちセンチメートルの土壌どじょう地表ちひょう排出はいしゅつしているとして、ミミズのないはたらきが、有機ゆうき土壌どじょう形成けいせいおおきな貢献こうけんをしてきたとべている。【9】結論けつろんとして、イギリスでは毎年まいとしいちエーカーたり、乾燥かんそう重量じゅうりょういち〇トン以上いじょうがミミズのからだとおして排出はいしゅつされ、そのはたらきゆえに、ふる歴史れきしじょう遺物いぶつ保存ほぞんされてきたというのである。
 【0】ところで、ダーウィンのミミズの研究けんきゅうにもれた有吉ありよし佐和子さわこ小説しょうせつふくあい汚染おせん』は、いちきゅうななよんねん新聞しんぶん発表はっぴょうされ、おおくの人々ひとびと関心かんしんをひいたが、そのなかに、人間にんげん自然しぜんをひどくいためつけた結果けっか自分じぶんたちのいのちにひどい影響えいきょうおよんでいる現状げんじょうくわしくかれている。農村のうそんまわってよくく「んだ」という言葉ことばについてべた箇所かしょ引用いんようする。
 ――「たとえばよ、わかりやすくえば、ミミズのいねえのことだな。硫安りゅうあんかければよ、ミミズは、即死そくしすっから。ミミズがいねえとよ、かたくなって、どうにもなんねえす。んだっちことは、ミミズがんだっちことだなあ。」
 とミミズ。例外れいがいはもちろんあるけれど、ふつうのミミズは、ゆたかにするために決定的けっていてき重要じゅうよう動物どうぶつである。「進化しんかろん」で有名ゆうめいなダーウィンは『ミミズと』という書物しょもつあらわし、多年たねんにわたる研究けんきゅう成果せいかをもとにして、自然しぜんなかでミミズがけもつ役割やくわりについて詳述しょうじゅつし、もしミミズがこのにいなくなったら植物しょくぶつ滅亡めつぼうひんするだろうと結論けつろんしている。
 ミミズは、毎日まいにちべてきている。はミミズのくちからはいってそとると、またになる。しかし、ミミズのくちはいまえとミミズがそとしたとは、性質せいしつがまるでちがっている。だいいちに、一緒いっしょまれた新鮮しんせんくさはんぐされのワラなどが、ミミズの体内たいない分泌ぶんぴつえきによってゆたかなくろになっててくる。だいに、てきたこまかいだん粒状りゅうじょうであるから、みず空気くうきとおりやすく、ふわふわとやわらかくなる。――
 農村のうそんおおくの人々ひとびとが、ロにしている「んだ」ということ、それは「ミミズがんだ」ということだというのは、じつ深刻しんこく事態じたいである。もうすこ引用いんようつづける。
 ――篤農とくのうたちが化学かがく肥料ひりょうによって「んだ」となげ場合ばあい当然とうぜん、「きている」ものという前提ぜんていがある。いちグラムのなかにはすうせんまんからすうおくというかぞえきれない単細胞たんさいぼう生物せいぶつやカビが棲息せいそくしていて、たがいに複雑ふくざつ関係かんけいたもっている。ミミズの場合ばあいは、人間にんげんえる生態せいたいけいだが、単細胞たんさいぼう生物せいぶつやカビのそれは、まだ研究けんきゅうくされてはいない。――
 その生存せいぞん死滅しめつをこのようにげられ、ミミズにとってはまさにれの舞台ぶたいともえようが、ここでうったえるところが、よんおくねん以上いじょうにわたって生存せいぞんつづけてきたこの動物どうぶつ地球ちきゅうじょうからの消滅しょうめつすくうものになってほしいとおもう。

 (中村なかむら方子のりこ文章ぶんしょうによる)



長文ちょうぶん 11.2しゅう
 【1】わたしたちが日常にちじょう、ことばを使つかっているときは、普通ふつうあらわされる内容ないようがまずあって、それをってはこ手段しゅだんとしてことばがあるというふうにかんがえています。【2】わたしたちの関心かんしんはもっぱらこの内容ないようのほうにあるわけで、それをはこ仲介ちゅうかいやくとしてのことばがはいっていても、ことばそのものにはあまり注意ちゅういはらいません。ことばというのはあるようでないようなもの、存在そんざいしながら、存在そんざいしていないような、なに透明とうめいになってしまっているようなかんじがするのではないでしょうか。
 【3】ところが、「かっぱ」のようなみますと、俄然がぜんことばが、わたしたちのまえにふさがって、それにわたしたちがあたまをぶつけている――そんな印象いんしょうつのではないかとおもいます。【4】ことばがそこでは不透明ふとうめいになって、わたしたちの意識いしき素通すどおりすることをゆるしてくれないわけです。日常にちじょうあまり意識いしきしてないことばそのものの存在そんざいということを、否応いやおうなしに意識いしきさせられてしまいます。【5】こういう状況じょうきょうは、によくてきます。のことばは日常にちじょうのことばとおなじではありません。そのためわたしたちはそこでいちまって、かんがえなくてはいけないということがこってきます。【6】つまりことばが不透明ふとうめいなものになってしまい、わたしたちがことばというものをあらためて認識にんしきすることになるのです。
 そういう意味いみでもう一度いちど「かっぱ」のもどってみましょう。【7】使つかわれている単語たんごはそんなにおおくもむずかしくもありません。「かっぱ」がて、それから「かっぱらった」がてきます。【8】たとえばこの「かっぱ」と「かっぱらった」ということばは、日常にちじょうのことばとしてかんがえている場合ばあいは、わたしたちはこの両方りょうほうがよくかたちをしたことばであるという意識いしきつようなことはないでしょう。【9】ところが、ことばが不透明ふとうめいになってわたしたちのまえあらわれますと、「かっぱ」と「かっぱらった」は、かたち非常ひじょうによくているという意識いしき否応いやおうなしにたされます。【0】そうしますと、ことばについての非常ひじょう素朴そぼく感覚かんかくとして、語形ごけいているとかたり意味いみているのではないかというふうな発想はっそうはたらきはじめます。つまり、「かっぱ」と「かっぱらった」とでは「かっぱ」というところ共通きょうつうである。そうすると意味いみのほうでも関係かんけいがあるのではないか。たとえば、「かっぱ」というのはいたずらきな生物せいぶつだから、「かっぱらう」という行為こういも、なにかもともと「かっぱ」のするようなことをいうのではなかったのか。もちろん語源ごげんてきにはそういうことはないでしょうけれども、そんな印象いんしょうをきっとつでしょう。日常にちじょうのことばづかいですと、「かっぱ」と「かっぱらう」はわたしたちのあたまなか全然ぜんぜんちがところにしまいまれていて、相互そうご連想れんそうするなどということもないでしょう。しかしふたならべられてみますと、語形ごけいたがいによくている、そうするとかたり意味いみているのではないかとかんがえたくなるわけです。わたし場合ばあいですと、かっぱのくちさきぎゃくみたいなかたちをしている――そんな類似るいじてん連想れんそうします。あるいはまた、かっぱがくとするとらっぱのようなおとすのではないか――そんなことをおもったりもします。(中略ちゅうりゃく
 わたしたちの日常にちじょう生活せいかつでは、ことばのきまりというものが習慣しゅうかんてきまっています。そして、わたしたちはいちおうきまりの範囲はんいないでことばを使つかうことで満足まんぞくしていて、それをえるというようなことは比較的ひかくてきまれです。まえいましたふたつのことばの使つかいかた――経験けいけん先行せんこうしてそれをことばであらわすことと、ことばがあたらしい経験けいけんすこと――これは「伝達でんたつ」と「創造そうぞう」ということでとらえることもできますし、あるいはことばの「実用じつようてき」なはたらきと、ことばの「美的びてき」なはたらきとわれることもあります。この後者こうしゃのほうはのことばに典型てんけいてきられるということで、ことばの「詩的してき」なはたらきといういいかたをすることもあります。
 わたしたちのことばについての認識にんしきは、ふつうその実用じつようてきはたらきのほうに大変たいへんかたよっていて、もうひとつの詩的してきはたらきのほうはわすれられがちです。それは、この詩的してきはたらきがよくあらわれるのは、のことばであるとか、どものことばとかどちらかといいますと、ことばの「中心ちゅうしん」でない部分ぶぶんだからでしょう。そういうことばの詩的してきはたらきというものが日常にちじょうのことばにおいてよりも重要じゅうよう役割やくわりたすという意味いみで、どものことばとのことばとはているということができます。(中略ちゅうりゃく
 普通ふつうひとが、日常にちじょうてき経験けいけん日常にちじょうてきなことばで表現ひょうげんして満足まんぞくしているのにたいして、「詩人しじん」とばれるようなひとたちは、日常にちじょうてき経験けいけんえる経験けいけんをもつでしょう。そして、それをあらわそうとすると、もはや日常にちじょうのことばの使つかかたでは不十分ふじゅうぶんなはずです。そこで、どうしても、日常にちじょうのことばのわくえるということが必要ひつようになってくるのです。
 参考さんこう:「かっぱ」の谷川たにがわ俊太郎しゅんたろうさく) かっぱかっぱらった/かっぱらっぱかっぱらった/とってちってた/かっぱなっぱかった/かっぱなっぱいっぱかった/かってきってくった


長文ちょうぶん 11.3しゅう
 【1】「ああすれば、こうなる」がた社会しゃかいでは、さらにちがった側面そくめんあらわれる。そのひとつは、時間じかん変質へんしつである。あたまなかでは、時間じかん過去かこ現在げんざい未来みらいさん分割ぶんかつされる。ところが、時間じかん直線ちょくせんけばわかるように、「現在げんざい」とはその時間じかん直線ちょくせんうえいちてんぎない。【2】それはただちに未来みらいから過去かこへとまれる、とき瞬間しゅんかんぎないのである。もちろん常識じょうしきはそうはいわない。【3】なぜなら、われわれは現在げんざいとかいまとかいう表現ひょうげんをたえずもちい、しかもその「現在げんざい」というときは、実質じっしつてき時間じかんはばつことが当然とうぜん前提ぜんていだからである。それなら、そのように日常にちじょうてき使つかわれる「ただいま現在げんざい」の意味いみとはなにか。【4】それはすなわち、「予定よていされた未来みらい」をすのである。「ああすれば、こうなる」でかこまれたときだ、と表現ひょうげんしてもいい。具体ぐたいてきにいうなら、手帳てちょうかれた予定よていである。【5】来月らいげつさんにちは、会社かいしゃ創立そうりつ記念きねんだから、これこれこういうことをする。それがまれば、そのまでに「どのような準備じゅんびをするか」はまってしまう。そのためには、今日きょういのみせ電話でんわをしておかなければならない。【6】当日とうじつには自分じぶん会社かいしゃやすむわけにはいかない。したがって地方ちほうへの出張しゅっちょうは、そのけることになる。こうして、来月らいげつさんにち予定よていがあるということは、現在げんざいをすでにつよ拘束こうそくする。そうした拘束こうそくされたとき、それをわれわれは現在げんざいなすのである。
 【7】それなら未来みらいとはなにか。本来ほんらい未来みらいとは、なにがこるかわからない「ああすれば、こうなる」で拘束こうそくされていない時間じかんである。それなのにどもがそだはじめると、母親ははおやはこのをどの幼稚園ようちえんれて、とかんがす。【8】その幼稚園ようちえんわったら、どの小学校しょうがっこうに、そのつぎにはどの中学ちゅうがくから高校こうこうへ、どの大学だいがくのどの学部がくぶへ、とかんがえる。こうして「漠然ばくぜんたる」未来みらいは、現代げんだい社会しゃかいではただちに拘束こうそくされ、急速きゅうそくうしなわれていく。【9】大人おとなはそれでちっともこまらない。自分じぶんではそうおもっている。ただし、自分じぶんがどの段階だんかいでどれだけ年老としおい、どれだけの体力たいりょくうしない、感覚かんかくがどれだけなまるか、それは手帳てちょういてない。【0】さらにいつ、どういうやまいにかかり、その結果けっか、いつぬことになるか、やはり手帳てちょうにはいてないのである。かんがえてみれば、その手帳てちょうがすなわち意識いしきである。意識いしきという手帳てちょうは、そこにかれていない予定よてい無視むしする。いかに無視むししようと、しかし、きたるべきものはかならずる。意識いしきはそれをできるだけ「意識いしきしない」ために、意識いしきでないもの、具体ぐたいてきには自然しぜん徹底的てっていてき排除はいじょする。ひと一生いっしょうでいうなら、生老しょうろ病死びょうしかくしてしまう。ひとはいまでは病院びょういんまれ、いつのにかいて組織そしきを「定年ていねん」となり、あるいは施設しせつはいり、やがて病院びょういんぬ。日常にちじょう世界せかいでは、そういうものは「ない」ことになる。こうして世界せかいはますます「ああすれば、こうなる」ものであるように「える」ようになる。その世界せかいでは、意識いしきがすべてとなり、時間じかんはすべて現在げんざいするのである。
 これをみごとな物語ものがたりえがいたものが、ミヒャエル・エンデの『モモ』であることは、もはやおづきであろう。『モモ』の主人公しゅじんこう自称じしょうひゃくさいのモモという「少女しょうじょ」であることは、たいへん象徴しょうちょうてきである。モモは「時間じかん泥棒どろぼう」とたたかって、まち人々ひとびと幸福こうふくもどそうとする。現代げんだい東京とうきょうでも、灰色はいいろふくくろかばんをもった時間じかん泥棒どろぼうたちなら、いくらでもることができる。かれらの最大さいだい被害ひがいしゃたちは、「漠然ばくぜんとした、さだまらない未来みらい」だけを財産ざいさんとしているどもたちである。どもたちには地位ちいはなく、ちからはなく、知識ちしきはなく、おかね名誉めいよもない。かれらがつものは、唯一ゆいいつしん未来みらい」だけである。現代げんだい社会しゃかいはそれをしみなくうばう。
 政治せいじ国家こっかひゃくねんおもわなくなった。医師いしは、もっぱら患者かんじゃ検査けんさ没頭ぼっとうする。それはすべてが現在げんざいしたからである。ひゃくねんおもうよりも、ただいま現在げんざい状況じょうきょう徹底的てっていてき把握はあくし、それにたいして有効ゆうこうたなければならない。「ああすれば、こうなる」ようにしなければならないのである。医師いしおなじである。患者かんじゃは、「先生せんせい、どうしたらいいですか」とたずねる。だから医師いしはその患者かんじゃの「現在げんざいの」状態じょうたい徹底的てっていてき把握はあくしようとする。それを把握はあくすれば、「ああすれば、こうなる」はずだということが、わかるはずだとおもうからである。そうした状況じょうきょうわたし批判ひはんすると、若者わかものは、こう質問しつもんする。「先生せんせい、じゃあどうしたらいいんですか」。そのこたえがあるということは、つまり「ああすれば、こうなる」が成立せいりつするということである。若者わかものたちが、それを常識じょうしきとしていることが、こうした質問しつもんからよくわかるのである。
 (養老ようろう孟司たけしかんがえるヒト』による)


長文ちょうぶん 11.4しゅう
 人間にんげん自由じゆう平等びょうどうだというようなことが、原則げんそくとしてみとめられている社会しゃかい、これが、近代きんだいだといってよいでしょう。
 それでは、そういうものがたして我々われわれ日本人にっぽんじん固有こゆうのものか、我々われわれ自身じしん生活せいかつなかからてきたものかというと、これはそうではないということが、すぐおかりになるとおもいます。近代きんだいてきなものは、生活せいかつ観念かんねんにしろ、社会しゃかい生活せいかつかたちにしろ、みな西洋せいようからています。西洋せいようじんにとって近代きんだいは、つまり自分じぶんなかからたものです。自分じぶんたちのもののかんがかた、あるいはかんかた必然ひつぜん結果けっかです。ところが、我々われわれにとっては、それはよそかられたものだ。そこのところが、おな近代きんだいでもはなはちがうのです。 (中略ちゅうりゃく
 もり鴎外おうがいは、晩年ばんねん徳川とくがわ時代じだい漢方かんぽう明治めいじ時代じだいにはほとんどわすれられてしまって、そしてもし鴎外おうがいのこさなかったら、我々われわれ全然ぜんぜんらないだろうとおもうようなひとたちの伝記でんき非常ひじょう熱情ねつじょうをこめていています。(中略ちゅうりゃく)
 おそらく、日本人にっぽんじん西洋せいよう影響えいきょうけてからわるくなった、いま文明ぶんめいのありかたると、日本人にっぽんじん将来しょうらいすくいがあるかどうかからない。ただ、そういう西洋せいよう影響えいきょうけないまえ日本人にっぽんじんのある人々ひとびとかたに、自分じぶん非常ひじょう尊敬そんけいかんじて、そういうひとたちのかたおよばずながら自分じぶんしたがってゆこうという気持きもちに、やっと自分じぶんすくいをいだすというのが鴎外おうがいかんがえであったようです。鴎外おうがいのように、西洋せいようもよくっており、自然しぜん科学かがく知識ちしきもあり、もっと日本にっぽん近代きんだいということを評価ひょうかしてもいいようなひとが、非常ひじょう否定ひていてきであった、これは我々われわれ記憶きおくしておいてよいことだとおもいます。
 おなじようなことが漱石そうせきについてもえます。漱石そうせきは、鴎外おうがいよりよほどおしゃべりですから、自分じぶん思想しそうをはっきりべているのですが、そのなか有名ゆうめいなのは、このひと和歌山わかやまけんでやった「現代げんだい日本にっぽん開化かいか」という講演こうえんでしょう。これは、漱石そうせき思想しそう核心かくしんれている講演こうえんです。んでもなかなかおもしろい。洒脱しゃだつで、ユーモアにもんでいて、時々ときどき聴衆ちょうしゅうをうまくわらわせたりしています。しかし、内容ないよう近代きんだい日本にっぽん文明ぶんめいについて非常ひじょう悲観ひかんてき見方みかたをしています。漱石そうせきは、そこでまず文明ぶんめいというものあるいは文化ぶんか開化かいかという言葉ことば使つかっていますが)は、うちはつてき開化かいかと、そとはつてき開化かいかふたつある。そとはつてきというのは内部ないぶからるものでなくて、そとからの刺激しげきによって文化ぶんかおおきくわるということです。うちはつてきとは、ちょうと時候じこうあたたかくなってはなひらくとか、くも大空おおぞらんでいくとか、これは漱石そうせき比喩ひゆなのですが、そんなふうに、うちから自然しぜんちからされてなにかができあがるということです。
 ところで、日本にっぽん開化かいかはどうか。漱石そうせきるところでは、徳川とくがわ時代じだいわりまではだいたいないはつてきすすんできた、とう。これにはだいぶ問題もんだいがあるでしょう。なぜなら、日本にっぽん古代こだいから外来がいらい文化ぶんか輸入ゆにゅうつづけてきた、という事実じじつがあるわけです。しかし結局けっきょくのところ、わたし漱石そうせきかんがえがただしいのではないかとおもいます。
 日本にっぽん島国しまぐにあらうみかこまれている。外国がいこく現実げんじつちからになっておそってくるということはなんひゃくねんなんせんねんいちくらいの例外れいがいはあるが、ふだんは適当てきとうにそのうみが、ちょうどフィルターのような役割やくわりたしてくれる。したがって、外国がいこく敵対てきたいするちからとしてでなく、いつも文化ぶんかとしてはいってくる。仏教ぶっきょう儒教じゅきょうもそうでした。外国がいこくじんというのは、いつもめずらしいおきゃくさんであって、歓迎かんげいしてかえせばよい。らないときころしてしまえばよい。キリシタンがはいってきたときはそれをやった。江戸えど時代じだいごろまでの外国がいこくとの接触せっしょくは、いつも自然しぜんによってまもられていたのです。
 ところがじゅうきゅう世紀せいきになって、蒸気じょうきせんができる。うみという自然しぜんちから征服せいふくしてしまうような交通こうつう機関きかん発明はつめいされ、それによって外国がいこくはじめて現実げんじつちから侵略しんりゃくてきちからとして我々われわれまわりにせまってきた。そうしたちからうごかされて、明治維新めいじいしん達成たっせいされたわけです。いまかられば、ずいぶんのんきなものであったにしろ、当時とうじ日本にっぽんとしてはだい事件じけんでした。
 明治維新めいじいしんは、つまり日本にっぽん近代きんだい出発しゅっぱつてんは、たんすぐれた文化ぶんかせっしてこれをまなぶというようなおだやかなものではけっしてなかった。それをまなばなければ、こっちがやられてしまう、くにとしての独立どくりつ維持いじしてゆくことができない、という事情じじょうがあったのです。こっちが生活せいかつあるいは社会しゃかい組織そしき西洋せいようふうあらためなければ、ぎゃくに、西洋せいようじんちからによって、こっちがいやおうなく西洋せいようふうにされてしまう、そういう危機ききとして、外国がいこく現実げんじつちからるったわけです。ですから、日本にっぽんはじめてそとはつてきちからうごかされた、と漱石そうせきうのも、けっして誇張こちょうではなかったのです。(中村なかむら光夫みつお文章ぶんしょうより)


長文ちょうぶん 12.1しゅう
 【1】にんそく歩行ほこう解放かいほうし、その道具どうぐあつか役割やくわりたせ、それを発達はったつした大脳だいのう制御せいぎょするという方法ほうほうによって、急速きゅうそくつよ優勢ゆうせい動物どうぶつになった。【2】それが言葉ことばとならぶ異常いじょう加速かそく進化しんかのもうひとつの理由りゆうであったのだが、それはともかく、つよくなったために立場たちばつことはあってもられるがわにまわることはほとんどなくなった。【3】そして、最近さいきんでは事故じこ病気びょうきぬことさえ最小限さいしょうげんおさえられ、げんにわがくになどは、平均へいきん寿命じゅみょうにおいて世界一せかいいち数字すうじほこっている。【4】医学いがくという蓄積ちくせき可能かのう知識ちしき体系たいけいによって死亡しぼうりつげることが比較的ひかくてき容易よういであることはあきらかで、それにたいしてびた寿命じゅみょう中身なかみ充実じゅうじつさせて幸福こうふく老後ろうごおくることは大変たいへん困難こんなんらしいが、ここではそういうめんにはれないでおこう。【5】いずれにしても、われわれはられる感覚かんかくをすっかりわすれてしまった。だから自分じぶんよりつよくてはや相手あいてられることはそのまま極端きょくたん不幸ふこうであるという単純たんじゅん認識にんしきにこりかたまってしまっている。
 【6】われることは不幸ふこうである。それは生命せいめいというものが個体こたいにのみ宿やどり、あらゆる努力どりょくはらって個体こたい存続そんぞくをはかることが生命せいめいだいいち原理げんりである以上いじょう当然とうぜんのことだ。【7】しかし、われる立場たちば動物どうぶつとしての知恵ちえをしぼって相手あいてをまくこと、いやもっとあぶなくぎりぎりまでいすがられて、自分じぶん脚力きゃくりょくだけをたよりにからくもげきること、相手あいて存在そんざい一瞬いっしゅんはや気付きづいてたくみに回避かいひすることにさえ、おおいなるよろこびがめられているのかもしれない。【8】そういうときにこそよわ動物どうぶつ自分じぶんきているという実感じっかんあらためてかんじて幸福こうふくかんあじわうのかもしれない。
 動物どうぶつ場合ばあい、われわれとは概念がいねん自体じたいがずいぶんちがうのではないかとおもうのだ。【9】この場合ばあい動物どうぶつという言葉ことばには、現代げんだい文明ぶんめいなかきるわれわれのような人間にんげん以外いがいのすべての哺乳類ほにゅうるいふくめる。つまり、さきほどいたような、動物どうぶつたちとの交感こうかん関係かんけいにある狩人かりゅうどたち、動物どうぶつ同種どうしゅ知恵ちえによってせい維持いじしている人々ひとびともわれわれのがわではなくそちらがわれたいのだ。【0】かれらにとってとは、衰弱すいじゃくした精神せいしんえが単純たんじゅん強烈きょうれつ恐怖きょうふみなもとではない。われわれの精神せいしんという言葉ことばいただけで逆立さかだてる。想像そうぞうりょく自分じぶんたちのみじめな姿すがたもとめて暴走ぼうそうをはじめる。だがとは、本来ほんらいひとつの成就じょうじゅひとつの完成かんせいひとつの回帰かいきである。自然しぜんからとおはなれて概念がいねんてすぎたために、個体こたい意識いしきはなれてはすべてがであるというかんがえがすべてを圧倒あっとうし、ひたすら個体こたいにしがみつくことが至上しじょう命令めいれいとなった。はエゴの駆動くどう装置そうちになりさがってしまった。たして、きることではなくただなないことに、それほどの意義いぎがあるのだろうか。(中略ちゅうりゃく
 肉食にくしょくじゅうわれてげきるかわれるかはひとつのゲームである。なんったもの最後さいごにはやぶれる。自然しぜんかいには自然しぜんという言葉ことばはない。老衰ろうすいもない。動物どうぶつはみな捕食ほしょくしゃであると同時どうじ獲物えものであり、絶対ぜったい優位ゆういにたってうだけという動物どうぶつはいない。そして、かれらにあるのは事故死じこし病死びょうしだけだ。それがそのまま不幸ふこうでないのは、そのことがなまそのものの基本きほん条件じょうけんだから、なまというものが最初さいしょからをそのなかふくんでいるから、きるものはそれを承知しょうちしているからである。つね目前もくぜんにあり、だれもそれをわすれたふりをしたりはしない。動物どうぶつはみなこの危険きけんなゲームに参加さんかし、興奮こうふん高揚こうようあじわい、つね危機きき予想よそう警戒けいかいしながら、さしあたり目前もくぜんわかあおくさあじたのしむ。(中略ちゅうりゃく)そういう濃密のうみつ時間じかんうちにこそただしいかたち用意よういされている。それを承知しょうち生命せいめいではないのか。(中略ちゅうりゃく
 動物どうぶつおろかだからなやみがないとうのは間違まちがいだ。動物どうぶつたちはおたがいにおおきな知恵ちえ共有きょうゆうすることで個体こたいのエゴを制限せいげんし、そこにちゃんと安心立命あんしんりつめい見出みいだしている。そのそのちからくすだけで、それをえる不安ふあんがあることに気付きづきもしない。本当ほんとうはそんな不安ふあんなどないのではないか、とかんがえることができたら人間にんげんもまたかれらの境地きょうちにもういちなのだが、それは容易よういなことではないらしい。近代きんだい宗教しゅうきょうがまことしやかにかたるやすらかな最期さいごだい往生おうじょう準備じゅんびとは、じつうしなわれた野生やせい動物どうぶつ狩猟しゅりょう民族みんぞく精神せいしん回復かいふくということではないのか。



長文ちょうぶん 12.2しゅう
 【1】今日きょう都市とし生活せいかつかせない行列ぎょうれつという社会しゃかい現象げんしょうがある。行列ぎょうれつという形式けいしきそのものは、カラハリ砂漠さばく狩猟しゅりょう採集さいしゅうみんサンじんりなどで遠出とおでするときにもまれ、西洋せいようでは戦争せんそう捕虜ほりょ行列ぎょうれつさせたことが古代こだい歴史れきししょにもみえる。【2】しかし、モノをれたりサービスをけたりする順番じゅんばん行列ぎょうれつは、近代きんだい工業こうぎょう社会しゃかい特有とくゆうのものだろう。【3】ちいさな個人こじん商店しょうてんではならぼうとする買物かいものきゃくはいないが、スーパーマーケットでは工場こうじょうのアセンブリィ・ラインのように、きゃくがレジでれつをつくることが前提ぜんていにされていることは行列ぎょうれつ工業こうぎょう社会しゃかいてき性格せいかく端的たんてきにしめしている。
 【4】えき切符きっぷ売場うりばやタクシー学生がくせい食堂しょくどうなどでの行列ぎょうれつ以前いぜんからあったが、ちかごろではデパートのトイレのまえや、昼食ちゅうしょく都心としん食堂しょくどうでも行列ぎょうれつはあたりまえの光景こうけいになった。【5】今日きょうだい都会とかいがそうであるように、一般いっぱんにモノやサービスの需要じゅよう供給きょうきゅう関係かんけい一定いってい程度ていど以上いじょう均衡きんこうがあるところではどこでも行列ぎょうれつができる可能かのうせいがある。【6】難民なんみんキャンプの行列ぎょうれつではモノの供給きょうきゅう不足ふそく強調きょうちょうされ、モノやサービスの供給きょうきゅう不足ふそくはないはずの現代げんだい日本にっぽんのアイスクリームてんやコロッケまえ行列ぎょうれつでは需要じゅようりにされる。
 【7】しかしながら、たとえ需要じゅよう供給きょうきゅう顕著けんちょ均衡きんこうがあっても、身分みぶん地位ちいにかかわらず先着せんちゃく優先ゆうせん原則げんそくがなければ、だれもれつをつくって順番じゅんばんとうとはしないだろう。【8】行列ぎょうれつ頻繁ひんぱんにみられる現代げんだい公共こうきょうてき場面ばめんでは、年齢ねんれい社会しゃかいてき地位ちい性差せいさ人種じんしゅなどは体系たいけいてき無視むしされるが、そうした先着せんちゃく優先ゆうせん平等びょうどう主義しゅぎがないところでは行列ぎょうれつまれない。【9】行列ぎょうれつをつくって順番じゅんばんつという習慣しゅうかんは、たとえば士農工商しのうこうしょう身分みぶんせい社会しゃかいではかんがえられないように、元来がんらい西欧せいおう近代きんだい社会しゃかい特有とくゆう行動こうどう様式ようしきなのである。
 さらにいえば、行列ぎょうれつ用件ようけんをひとつずつかたづけるという近代きんだいてき事務じむ処理しょり発想はっそうざしている。
 【0】以前いぜんギリシアで調査ちょうさちゅうづいたことだが、ギリシアの役所やくしょ銀行ぎんこうなどでは、相談そうだんごとをもってくるひとを、先客せんきゃくにかまわずつぎつぎと自室じしつれ、用件ようけんいて、処理しょりしやすいものからこたえていくというやりかたをとることがおおい。アラブ社会しゃかいでも伝統でんとうてきには同様どうよう方式ほうしきがとられるようだが、このような事務じむ処理しょり習慣しゅうかんをもつ社会しゃかいには行列ぎょうれつはなかなかなじまないようだ(ギリシアなどでは、行列ぎょうれつうしろのものもやりとりがみえるように横並よこならびになる傾向けいこうがある)。
 このようにすぐれて近代きんだいてき慣行かんこうである行列ぎょうれつには独特どくとく論理ろんり構造こうぞうがある。
 行列ぎょうれつはもちろんそのぜん段階だんかい、「行列ぎょうれつ以前いぜん」からはじまる。飛行機ひこうき国内こくない便びんるために出発しゅっぱつ一時いちじあいだはんくらいもまえ空港くうこうにいって待機たいきしてみたりするとわかるが、そんなはや時間じかんにもチェックイン・カウンターのあたりには、たいていなんにん様子ようすをうかがうようにしてっているひとがいる。だれかがカウンターのまえつと、すぐうしろに行列ぎょうれつができる。あまりじんすくないとはやくからならぶのもバカバカしくて苦痛くつうだが、そのあいだにもたがいのちゃくじゅん位置いち確認かくにんしていて、だれかがならんだとたんに心配しんぱいになってならぶのだろう。電車でんしゃえきのホームなどでもおなじようなことがおこることがある。サービスをけるがわがサービスをあたえるがわよりさきにあつまり、需給じゅきゅう関係かんけいがさほど切迫せっぱくしていないときにこのような「はん行列ぎょうれつ」が胚胎はいたいする。
 また、きゃくがひとりのあいだは、がわきゃくたせるがわ店員てんいん係員かかりいんとの心理しんりてき関係かんけいだけが問題もんだいだが、きゃくがふたり以上いじょうになってれつができると、そこにもの同士どうし社会しゃかいてき関係かんけい問題もんだいくわわってくる。ひとりでたされているあいだは、無力むりょくかん退屈たいくつ苛立いらだちとたたかっていればよいのだが、行列ぎょうれつができたとたんに、りこまれないように、礼儀れいぎ範囲はんいない相互そうご監視かんししなければならない。新聞しんぶん雑誌ざっしをひろげてみても、周囲しゅういにくばり、とくに前方ぜんぽう一定いってい以上いじょう間隔かんかくをあけないよう徐々じょじょまえにすすまなければならないから、ちついてむことはできない。つことは副次的ふくじてき活動かつどうではありえず、どうしてもそのの「主要しゅよう関与かんよ」にならざるをえないのだ。
 (中略ちゅうりゃく
 イギリスじんやアメリカじん行列ぎょうれつをあたりまえのようにかんがえるようだ。しかし、ギリシアなどヨーロッパでも工業こうぎょうがおくれた社会しゃかいひとびとには、そんな行列ぎょうれつもヒツジのれのようにみえるらしい。
 民主みんしゅ主義しゅぎには一定いってい均質きんしつせい必要ひつようだが、行列ぎょうれつていると、工業こうぎょう社会しゃかい近代きんだい民主みんしゅ主義しゅぎ母胎ぼたいであることがよくわかる。

 (野村のむら雅一まさいちぶりとしぐさの人類じんるいがく』より)


長文ちょうぶん 12.3しゅう
 【1】方言ほうげんで「つるべ」のことをツブレ、「ちゃがま」のことをチャマガ、「つごもり」をツモゴリとところがある。【2】このような現象げんしょう幼児ようじ言語げんごられるもので、おそらくこりは幼児ようじ時代じだい言語げんごはじまったものであろうが、ある地方ちほうでこのようなあやまりが定着ていちゃくしたのも、本来ほんらいびん」「茶釜ちゃがま」「つきかくれつごもり」であるという言語げんご意識いしきうすれてしまったからであろう。【3】語源ごげんがわからなくなると、もとのかたり発音はつおん意味いみ変化へんかきたすことがある。漢語かんご場合ばあいには、それに使つかわれた漢字かんじわすれられると、意味いみ用法ようほうてんずることがすくなくない。【4】ことにはな言葉ことばでは漢字かんじでどうくかを問題もんだいにしないから、意味いみ支持しじするものがないためにとかく変化へんかしがちである。
 【5】たとえば「馳走ちそう」「遠慮えんりょ」「結構けっこう」「世話せわとう漢語かんごはな言葉ことば日常にちじょうとして使つかわれているうちに、原義げんぎとかなりちがった意味いみ用法ようほうになっていった。
 「馳走ちそう」は、もとの漢字かんじからえば、はしるのだが、いまではおいしい料理りょうり意味いみする。【6】おいしい料理りょうりはいろいろ手数てかず労力ろうりょくがかかるから、「御馳走ごちそう」と相手あいてれいったところから、現在げんざいのような意味いみてんじたのである。「遠慮えんりょ」は、いまはひかえにする、さしひかえる使つかう。【7】しかし、もとのは、「とおきおもんぱかり」である。とおきおもんぱかりによって、積極せっきょくてきには行動こうどうしないことがこる。そのことから、現在げんざいのような意味いみてんじたものであろう。
 【8】「結構けっこう」は、もと建物たてもの文章ぶんしょう配置はいち構成こうせい意味いみするかたりだが、「立派りっぱ結構けっこう」「見事みごと結構けっこう」というようなほめ言葉ことばからてんじて、立派りっぱだ、見事みごとだというになったのである。【9】「好天こうてん」のことを「天気てんき」とうのも、「よい天気てんき」と使つかっているうちに「よい」がはぶかれて「天気てんき」だけでも好天こうてん意味いみするようになったのとている。
 【0】「もう結構けっこうです」の「結構けっこう」は、立派りっぱだ、見事みごとだのからさらにてんじたものであろうが、このように次々つぎつぎ意味いみてんじてくのは、はな言葉ことばでは「結構けっこう」という漢字かんじ字面じめんおもこされることがないからであろう。
 「世話せわ」も、世間せけんばなしのうわさのから、いまの「世話せわになる」「世話せわをかける」「世話せわする」の用法ようほうまれた。(中略ちゅうりゃく
 「週刊しゅうかん朝日あさひ」に、電車でんしゃの「つりがわ」は現在げんざいかわではなくてビニールを使つかっているから、これを「つりがわ」としょうするのは不当ふとうで、「つりビニール」とうべきであろう、「枕木まくらぎ」は、近年きんねんではなくてコンクリートを材料ざいりょうとしているから、「まくらコンクリート」とうべきではないかというかんがえが掲載けいさいされていた。
 このようなかんがかたをすると、言葉ことばにはいくらでもおかしなものがる。「えき」や「駐車ちゅうしゃ」も、馬偏うまへんがついているのはおかしい。むかしのようにうま馬車ばしゃはしっているのでなく、「えき」は鉄道てつどうのステーションであり、「駐車ちゅうしゃ禁止きんし」などの「駐車ちゅうしゃ」は自動車じどうしゃをとめておくことだからである。「あか白墨はくぼく」「黄色きいろ白墨はくぼく」もおかしな表現ひょうげんえるであろう。
 言葉ことばただしさをろんずるときにとかく語源ごげんいにされるが、語源ごげんとおりでは社会しゃかい状勢じょうせい変化へんかのためにわなくなるものがおおい。社会しゃかい複雑ふくざつになり、ひと心理しんり単純たんじゅんではなくなるから、語源ごげんとおりであることがただしいということになると、いま現実げんじつ社会しゃかいにはわないことになる。
 そうかとって、一々いちいち言葉ことばいかえるのも大変たいへんなことだろう。「つりがわ」がたらないからとって「つりビニール」にしたところで、もし今後こんごビニールが材料ざいりょうわれば、また名称めいしょうえなければならないだろう。
 「枕木まくらぎ」にしても同様どうようである。現在げんざい、まだのものもあるから、「枕木まくらぎ」と「まくらコンクリート」とのふたつを保存ほぞんしなければならないし、将来しょうらい材料ざいりょうわれば、また「まくら○○」というかたり使つかわなければなるまい。ただ、こういう心理しんりから、在来ざいらいてて、外来がいらい使つかったり、あたらしい漢語かんごつくって使つかったりすることも事実じじつである。「洗濯せんたく」は本来ほんらいみず使つかうことである。近年きんねんのように揮発きはつ使つかったりして清浄せいじょうにするのを、「洗濯せんたく」で表現ひょうげんしたのでは適当てきとうでないということで、「クリーニング」がおこなわれてた。「床屋とこや」も「理髪りはつてん」になった。
 結局けっきょく言葉ことば各人かくじん言語げんご意識いしきによってうごいてくようである。そして、その言語げんご意識いしきつくげるのは、しゅとしてそのひと経験けいけん教養きょうよう学校がっこうけた教育きょういくである。言葉ことばただしさの規範きはん意識いしきもそこからまれるようだ。 (岩淵いわぶち悦太郎えつたろうぶんによる)


長文ちょうぶん 12.4しゅう
 あるひるめしをおえると父親ちちおやは、あごをなでながらかみそりをした。よしきちをのんでいた。
「だれだ。このかみそりをぼろぼろにしたのは。」
 父親ちちおやは、かみそりのをすかしててから、かみのはしをふたつにおってってみた。が、すこしひっかかった。ちちかおはすこしけわしくなった。
「だれだ。このかみそりをぼろぼろにしたのは。」
 ちちはかたそでをまくって、うでをなめると、かみそりをそこへあててみて、
「いかん。」といった。
 よしきちはのみかけたをしばしくちへためて、だまっていた。
よしきちがこのあいだといでいましたよ。」と、あねった。
よしきち、おまえどうした。」
やっぱり、よしきちはだまっていた。
「うむ、どうした?」
「ははあ、わかった。よしきち屋根やねうらへばかりあがっていたから、なにかしていたにきまっている。」と、あねはいってにわへおりた。
「いやだい。」と、よしきちはさけんだ。
 あねりょうはりのはしにつりさがっているはしごをのぼりかけた。するとよしきちは、はだしのままにわへおりて、はしごをしたからゆすぶりだした。
「こわいよう、これ、よしきちってば。」
 かたをちぢめているあねは、ちょっとだまると、くちをとがらせてつばをかけようとした。
よしきちっ。」と、ちちはしかった。
 しばらくして屋根やねうらのおくのほうで、
「まあ、こんなところにめんがこさえてあるわ。」というあねこえがした。
 よしきちあねめんっておりてくると、とびかかった。あねよしきちをつきのけてめんちちにわたすと、ちちはそれをたかくささげるようにして、しばらくだまってながめていたが、
「こりゃよくできとるな。」
 また、ちょっとだまって、
「うむ、こりゃよくできとる。」といってから、あたまひだりへかしげかえた。
 めん父親ちちおやおろして、ばかにしたようなかおでにやりとわらっていた。
 そのよる納戸なんど父親ちちおや母親ははおやとは、ねながら相談そうだんした。
よしきちをげたにさそう。」
 最初さいしょにそう父親ちちおやがいうと、いままでだまっていた母親ははおやは、
「それがいい。あのはからだがよわいからとおくへやりたくない。」といった。
 まもなくよしきちはげたになった。
 よしきちつくっためんは、その、かれのみせのかもいのうえでたえずわらっていた。むろんなにをわらっているのかだれもらなかった。
 よしきちじゅうねんめんしたでげたをいじりつづけてびんぼうした。
 あるよしきちはひさしぶりでそのめんた。するとめんは、いかにもかれをばかにしたようなかおをしてにやりとわらった。よしきちははらがたった。つぎにはかなしくなった。が、またはらがたってきた。
「きさまのおかげで、おれはげたになったのだ。」
 よしきちめんをひきおろすと、なたをふるってそのでそれをふたつにわった。しばらくしてかれは、げたの台木だいぎをながめるように、われためんをながめていたが、なんだかそれでりっぱなげたができそうながしてきた。