ぼんゴロ
二つをだしただけで、ぼくらはアオたちを
無得点におさえ、なんなく
一回表をおえた。てんで
気をよくしちゃったぼくらは、いきおいにのって
攻撃にうつった。
「
小細工よりも、じゃかすか、かっとばしなさい。むこうのボールは、
内角低めをねらってるだけだから、バットを
短めに
持ってあわせていくのよ。」
キリコがしんけんな
目つきで、ぼくらに
作戦をあたえてくれる。いまじゃキリコはぼくらの
監督けんコーチで、ぼくらに
負けないくらい
試合に
身を
入れてくれるんだ。こいつはいっそうぼくらをはりきらせた。
試合は
五回戦だけど、やつらもなかなかねばる。それに
四回戦になると、
暑さのせいか、ジックのボールのスピードがおちた。こいつをばちばちひっぱたかれて、
二塁打一つ、
三塁打二つを
取られちまった。
得点は
八?
六と、まだリードしてたけど、ジックはすっかりくさり、くさったとこへ、アオのやつが、みんなをあおりたててやじりはじめた。ジックは
完全にダウンだ。コントロールまでみだれちゃって、
暴投を
二度もやり、
四球やエラーを
続出させた。
どうにか
守備陣がそれをカバーして、とにかく
四回の
表はおわらせたけど、
結果はさんたんたるもので、
八?
十とひどい
逆転をやられちまった。
ベンチにもどると、ジックはグローブを
力いっぱい
地面にたたきつけた。
「おれは、もう、
野球をやめた!」
そうとう
頭にきちゃったらしくて、ぼくやキリコがいくらなだめても、ますますかっかっしちゃうばかりなんだ。ぼくもすぐ
頭にきちゃうほうだけど、ジックのはちょっと
特別製なんだ。
ミツコやデッコが、
景気づけのために、みんなをリードして、いせいのいい
歌をうたってくれたりしたけど、ぼくらはしょぼくれちまって、
戦意もだんだん
遠のいてくんだ。
「おどろいた
子たちね。わたしがいつもいってるでしょ。『
勝ち』『
負け』で、なんでもわりきっちゃおうとするから、そんなことになるのよ。さあ、
負けるとわかっても、
戦うだけは
戦わなければいけないわ。どんなはめになったって、その
中でせいいっぱいの
努力をするのよ。」
キリコはバッターに
立つ
者ひとりひとりのしりを、
大きな
手で、ぴしゃぴしゃひっぱたいては
元気づけた。が
走者、
一、
三塁のチャンスもむなしく、
無得点におわっちまった。
まだふてくされているジックをとりまいて、
守備につく
気にもなれず、ぼくらは、タイムを
要求して、ぶらぶらしていた。
六組のきたないやじは、ますますさかんになってくる。ミツコやデッコたちが、
負けずにやりかえすのだけど、それもなんだかしだいにいきがさがる。ぼくも
最初のうちは、みんなとどなったりしていたんだけど、ジックのがんこさにあきれ、ジックにはらをたてた。
「じゃあ、おまえは、この
試合を
不戦敗にしようってのかい。」
ぼくはジックをにらみつけた。けど、ジックのやつグローブをひっぱたくばかりで、さっきからなにもいわないんだ。
ピッチャーはジックしかいないから、ぼくらはもうどうしようもないんだ。ほかのやつに
投げさせれば、もっともっとわるい
結果になるのはわかりきっている。それでここんとこは、どんなことしたって、なんとかジックに
投げてもらわなけりゃならない。とぼくは
決心した。
「あ、あのサブちゃん――。」
そのとき、おずおず
横のほうから、ぼくに
話しかけたやつがいた。
「なんだ。うるさいな。」
ふりむいてぼくはそいつをにらみつけた。すっかりいらいらしてたんだな。
立っていたのは
金井だった。みんながなにごとかというふうに、
金井のまわりに
集まってきた。さじを
投げたように、
遠くのベンチからぼくらをながめていたキリコも、
立ちあがってこっちを
見てる。
「ぼくに、
投げさせて、みてよ。」
ひとつひとつのことばを、くぎるように、
金井ははっきりいった。
「なんだって!」
ぼくはじぶんの
耳をうたがった。もやしのうまれかわりみたいにひょろひょろして、おまけに、いままでだって
野球をしてるのなんか
見たこともないやつなんだから、それもむりないというもんだ。
ところが
金井のやつ、よっぽど
心をきめてるらしく、もいちどはっきり、
「ぼくに
投手をやらせてよ。」
といったんだ。ぼくは
思わずわらっちまった。でも、
金井の
顔は
真剣なんだな。
奥歯をぎゅっとかみしめて、まともにぼくを
見つめるようすにあっとうされて、ぼくらはだまりこんじまった。
「よし!」と、ぼくは
金井の
上気した
顔にむかっていた。「
投げてみろ。」
みんながざわめいた。ベンチにいたジックが、なにかいいたそうだったけど、ぼくはかまわずみんなにかたを
組ませ、「いくぞっ!」とさけんだ。みんなもさけんだ。ぼくらは
七度さけんだ。ミツコやデッコたちみんながかん
声をあげ、
拍手し、ぼくらをはげました。ジックがベンチでそわそわしてた。キリコがぼくらにウインクを
送ってよこした。
金井はファーストミットを
取った。
「おまえはピッチャーをやるんだろ。」
と、ぼくはすこしあきれていった。みんながわらった。
「これが
使いなれてるんだ、ごめんよ。」
金井はわらい、それから、ベンチに
取り
残されたようにすわり、しりをもぞもぞ
動かしているジックのところにかけていった。
「いっしょうけんめい
投げてみるから、そのあいだにちょうしをなおしといてよね。」
金井はそれだけいいおわると、ひどくはずかしいことをしたかのように
走ってマウンドにのぼった。
ぼくら
九人は
顔を
見あわせ、ちょっとくちびるをかんでわらった。やれるとぼくらは
思った。そうさ、
六組になんか、
負けてたまるもんか! ぼくは、ジックにしかめっつらを
作っておどけてみせ、みんなといっしょに、
声をだしあいながらポジションについた。
金井は
左だった。うまいというほどではなかったけど、コントロールがきいたから、
左だというだけで、けっこう
六組の
攻撃をおさえることができた。それでもその
回で
二点入れられた。
スコアは
八?
十二だ。だけど、それぐらいはものの
数ではなかった。やる
気じゅうぶんのいま、
四点ぐらい、なんなくとりもどせると
思えた。
自信は
前からあったんだ。ただ、くさっちまって、やる
気をなくしてただけなのさ。
「お
天気屋さんたち、がんばるのよ。
野球は
最終回の
裏からよ。」
キリコは
金井の
頭に
手をおいて、ぼくらをはげました。
金井はジックにむかって、
「
打つほうはてんでだめだから。」
と、バッターをゆずった。ジックだって、いつまでもぐずぐずしてるやつじゃない。
「すまん。」と、
金井を
見ていい、「さっきはわるかったな。」
と、ぼくらにいった。ぼくらはジックをひやかしてわらった。
「ほんとに、ありがと。」と、ジックはもいちど
金井にいった。
金井はまっかになってうつむき、しきりと
二点入れられたことを
気にした。ぼくらは
金井のせなかやかたや、
頭をたたき、「
気にするな。」「ドンマイ。」「ドンマイ。」
といった。クラスのみんなが、いせいのいい
歌をうたう
中で
五回の
裏、ぼくらは
最後の
攻撃をかけた。
(
後藤竜二「
天使で
大地はいっぱいだ」)
「
飽和化市場」という
言葉がある。いろいろな
商品の
普及率がもう
限界のところまできている
消費市場をあらわす
言葉だ。たいていのモノはひととおり
行きわたった、という
状態である。
飽和化市場の
特徴は、いままでもっていた
製品から
新しいものに
買いかえていく
需要は
多いが、
市場全体が
成長していく
力はもう
限界のところまできている、という
点だ。
そのため、
売り
手側としても、いままでと
同じような
売り
方では
商品が
売れない。そこで、それぞれ
独自の
商品を
開発したり、
新しい
売り
方を
考えたり、これまでとはちがった
分野へ
進出したりと、あらゆる
手を
試みる。ここまでに
紹介した
販売方法の
工夫だとか、
競合商品にはない
独自の
機能やデザインの
開発などといったことも、こうした
市場があふれている。
たとえばモノ。すでに
述べたように、ヘッドホン・ステレオ
一つ
取りあげても、
似かよった
商品がたくさんのメーカーから
発売されている。たくさんの
商品のなかから、きみは
一つの
商品を
選んで
購入するわけだ。そのためにカタログを
取りよせたり、お
店の
人の
話を
聞いたりして
情報を
集め、
比較した
上で
決める。
つまり、きみの
前には、とてもたくさんのメニューがあり、そこからある
一つを
選択するというわけだ。
サービスという
商品を
購入する
場合も
同じだ。
外食の
代表といえるファースト・フード。あるチェーン
店で
新しいハンバーガーが
登場したと
思ったら、すぐに
別のチェーン
店にも
似たようなメニューがつけ
加えられる。もちろん、「
一味ちがった」
商品としてだ。
ここでもきみは、さまざまなお
店のさまざまなメニューのなかから
一つのサービスを
購入するための
選択をすることになる。
新しい
商品やサービスが
市場にでるまでには、
売り
手側の「
商品差別化戦略」がおこなわれている。
消費者側の
情報を
得るための
調査、その
情報をすぐに
利用できるように
蓄積したデータベースの
作成、テレビやイベントをとおしての
宣伝・
広告・
商品を
効率よく
売るための
仕掛けなど、
売り
手側の
努力はこれまでみてきたとおりだ。
だから、きみは、
売り
手側の
商品差別化戦略という
大きな「
仕掛け」をかいくぐって、たくさんのメニューから
一つを
決め、
選択するのである。これは、とてもたいへんなことなのだ。
たしかにメニューはたくさんある。
だが、それは、メニューがいまほど
多くなかったときにくらべて、よりよい
選択ができるということなのだろうか?
ちがいをうたって
登場した
商品は、すぐに
似た
商品が
登場することで、ちがいの
部分がなくなってしまう。きみの「ステイタス」にふさわしいはずの
独自の
商品が、すぐにその
独自性を
失ってしまう。イタチごっこみたいなもので、ちがいはますます
細分化し、たいした
意味をもたなくなってくる。
たいした
意味のない「ちがい」を
選ぶためにたくさんの
商品が
用意されているのが、はたしてほんとうに
豊かなことなのだろうか。わたしたちは、そんな「
幸せ」を
求めてきたのだろうか。
何度でも
自問してみる
必要がありそうだ。
おびただしい
商品にかこまれて
毎日暮らしているわたしたち。わたしたちが
生活すること=
消費することである。
住宅、
家具、
食品、
衣服、
電気製品、
新聞、
書籍、
日用雑貨といったモノから、
電気、ガス、
交通手段をはじめとするサービス
財まで、
日々消費しつづけているのだ。
そのわたしたちの
多様な
消費が、ふたたび
多様な
生産を
促す。
そして
新しく
生産された
生産物が、
消費者であるわたしたちに、また
新たな
欲望をひきおこす。
こうして
生産と
消費が
循環しながらふくらんでいくのである。しかも、
売り
手と
買い
手のどちらも、
先がみえていないときているのだ。
こうした
生産と
消費のくりかえしのなかで、
地球資源は
減少をつづけ、
生産にともなう
排出物や
消費生活からでる
廃棄物などによって、
環境汚染がすすんでいる。それも、
地球的な
規模でおこっているのである。
気をつけなくてはいけないのは、
地球環境を
汚染しているのは、
生産をしている
企業側だけではない、ということだ。
汚染に
責任があるのは、
買い
手であるわたしたちも
同じだ。
生産をささえている
消費者側の
責任も
大きい。
つまり、わたしたちは
他人とのちがいを
示すために
地球資源をつかい、
環境汚染物質を
排出しつづけている
可能性をもっているわけだ。もしそうだとしたら、わたしたちは、
自分たちの
消費のあり
方そのものを
問いなおさなくてはいけない。
たとえば、わたしたち
日本人がふだん
食べているエビ。
日本人のエビ
消費は、この
三十年間に
六倍以上になり、
売り
上げは
一兆円をこえたそうだ。
世界最大のエビ
消費国だ。そのほとんどは
東南アジアからの
輸入によっている。エビの
稚魚は、
東南アジア
各地にひろがる
広大なマングローブの
沼地で
育っており、そのエビを
捕獲するために
大型船もはいっている。そのためエビ
資源はしだいに
少なくなり、マングローブの
沼地も
荒らされているのだそうだ。
日本人が
直接荒らしまわっていないにしても、わたしたちのエビ
消費が、
結果としてマングローブを
枯らすことになっているのは
否定できない。
これは
一つの
例であって、わたしたちの
生活が、このように
間接的に
環境を
破壊していることは、じつに
多い。わたしたちがおびただしい
消費を
重ねることが、
考えてもみないようなところに
悪影響をあたえ、
傷つけることになっているわけだ。
そうした
直接みえない
他人や
世界へ、どこまで
想像力をはたらかせることができるかが、これからますます
問われることになるだろう。もちろんこれは
大人だけの
問題としてでなく、きみたち
一人一人がこれから
考えなければならない
問題だと
思う。
(
児玉裕「あなたは
買わされている」)
学校で
先生は「あなたの
意見は?」というでしょう。お
化粧ひとつにしても、
洋服ひとつにしても、
流行を
追うのはおろかですよ、
自分にあったお
化粧をしなさい、
自分にあった
服を
着なさい、
自分がたいせつですよと
先生はいうでしょう。
しかし
会社にでると、みんな
自分というものを
中心にするのではなしに、
会社に、みんなに、あわせようという
具合になるのがふつうです。
だが、このような
事なかれ
主義、
個性のなさだけでよいでしょうか。
世の
中を
良くしようとする
人は、しばしば
異端の
考えの
持ち
主の
中から
生まれるのではないでしょうか。
一例をあげましょう。
アメリカの
自動車会社、GMの
小型車コルベアは、しばしば
事故をおこしました。
車が
高速でまがるとき、うしろが
浮きあがり、まがりきらず
事故をおこすのです。やがて、この
車には
設計上のまちがいがあり、その
原因は、
少しでも
安くしようとして
材料を
節約した
点に
問題があることが
指摘されました。このことは、この
車をつくっている
人、したがってこの
車をよく
知っている
従業員の
指摘によって
明らかになったのです。もしこうした
指摘がおくれたら、さらに
多くの
人が
事故にあったでしょう。だが、こうした
指摘が
従業員からでないような
会社だったらどうなるでしょう。
日本では、おなじようなことをいった
従業員に、「そんなことをいうのは
会社を
批判することで、われわれの
敵だ」という
目が
会社の
中から
生まれ、
現に、
自動車会社にいられなくなったすぐれた
技術者がいます。
会社のためよりもっと
重要なことがあったとき、
会社第一と
考え、ほんとうのことをいわず、かくしやすい――こうしたゆがみが
日本の
会社にはないでしょうか。
このような
日本的な
社会の
中にいる
人間は、それに
合うようなことばを
使います。みなさんの
使っている
日本語と、
学校でならう
英語とをくらべてごらんなさい。
英語は
文章のいちばんはじめに、なにがきますか。
主語がきます。「
私が」とか「あなたが」というのがきます。なにかをするその
責任の
所在は、まず「?」なり「You」なり、はっきり
主語として、いちばんはじめにでてくるのが
特徴です。
そのつぎに、その
問題に
賛成なのか
反対なのか、イエスかノーかというのがきます。ですから
英語を
聞くと、はじめのところを
聞いていると、だれがどういう
意志をもっているかがだいたいわかります。
しかし、
日本語はそうではありません。たいてい
主語がないでしょう。そして、イエスかノーかというのはまえにきません。
文章のいちばん
最後にくるのです。
会議のときなど
話をしているうちに、みなが
反対だなということが
顔色でわかると「……というような
考えもあるんだが、まずいですねェ」なんて、きゅうに
方向転換することができることばです。
つまり、
相手とちがう
考えをだすことはたいへん
失礼だし、おたがいの
関係をまずくする。なにしろ
大部屋のなかにいっしょに
住んでいるのですから。
そこで、
相手と
自分とがおなじような
考えになるようにし、
相手も
傷つけない、
自分との
関係もひびがはいらない――そういうようにもっていく
習慣や
考え
方が、ことばの
構造の
中にもはいってくるのです。
賛成か
反対かをいちばん
最後にもっていくという、
世界にも
珍しい
日本語がこうした
習慣に
対応しているのです。
中国語だって
英語とおなじことばの
構造で、
賛成か
反対かを
示すことばが
主語のつぎにきます。
日本語は
主語がはっきりしません。
責任の
所在をまずなくし、
賛成か
反対かをいちばん
最後につけて、どうにでもかえられるということばの
構造になっています。
ですから、
問題がおこったときどうするかというと「
私は
自分の
責任をよくよく
考えて、こういう
結論に
達しました」ということはしないのです。なにが
正しいか、なにがいいか、それよりもみんなはどう
考えるであろうかを
考えるというのが
多くの
日本人です。そして
顔色を
見ながら、いつでも
方向転換できるようなことばの
構造をさぐりながら、
最後でみんなが
一致するようにもっていく。これです。ボスといわれている
人間はこれをやるのです。
佐藤栄作という、ひじょうに
長く
総理大臣をつとめた
人がいます。この
人は、
自分で
決定を
下すことがなかったといわれています。
「
他からすすめられた
形をとりたい」
これが
佐藤さんの
名文句と
伝えられています。
自分できめたら
自分が
責任をとらなければなりません。それは
団結をみだすことになります。なぜなら、
反対意見の
人がいるかもしれないからです。
ある
事件がおこった。みなの
意見がとうぜん
対立する。しかしボスは
自分の
意見をいわない。いえば、
反対の
人を
敵にまわすことになる。そこでなすがままにまかせる。たとえば、
外国との
貿易で、
一ドルが
三百六十円であったのを
三百円にするか、それとも
三百六十円のままかという
問題です。
佐藤さんはきめないのです。
世界経済は
一九七一年八月十五日から
混乱し、この
問題で
大さわぎになったとき、
軽井沢に
逃げてしまったのです。
東京にいれば、
首相として
自分がきめ、
自分が
責任をとらなければならないからです。
現実はどんどんすすんで、とうとう
反対もなにもあったものではなく、
三百四十円、
三百二十円と
動いてしまいました。もうやむをえない、これを
認めるより
道がないという、そういうところまで
追いこまれて、みんなの
意見がまとまり、さあそうするかというところまで
待って
佐藤さんは
山をおり、これを
認めました。したがって
反対はおこりません。これが、
佐藤さんが
日本でいちばん
長い
年月総理大臣をつとめた
秘訣だといわれています。
もしまちがっていたならば、みんながきめたのですから、
一億総ざんげ、けっして
佐藤さんの
責任にならないのです。
しかし、
佐藤さんのような
行動をしていると、なにもないときはいいのですけれど、
重大な
問題がおこったとき、それにたいして、はやく
手をうち、
事態を
危険のない
方向にもっていくということができないのです。
だれが
戦争をするということをきめたかわからないうちに、いつの
間にか
中国との
戦いがはじまり、ずるずる
拡大し、
日本はあの
敗戦を
経験したのではないでしょうか。そして、
戦争の
責任ということになると、みんなが
悪かったのだといって、だれも
昔のあやまちを
反省しようとしないのです。
したがって
日本の
社会のくさった
部分、
悪い
部分、それを
切り
取ることもできませんでした。おなじ
戦争をし、
敗れたドイツは、まったくちがいます。
戦争をひきおこした
責任者がいたのです。ヒットラーを
中心とするナチスです。したがってその
責任を
追及し、くさった
病の
部分を
取りのぞく。いまもってドイツはこのナチスの
協力者を
裁く
裁判所をもっているのです。だから
新しく
生まれかわることができたのです。
日本は、いつまでたっても
仲良しクラブの
中で、
責任もはっきりせず、
病もはっきりせず、くさった
部分をそのままにしながら、みんな
肩をくみながら
動いている。これでいいのでしょうか。
小学校や
中学校の
先生は、
自分の
意見をいいなさいとみなさんにいったでしょう。それは、こういう
病を
取りのぞくことができるような
人間に、みなさんをしたいと
思っているからにちがいありません。
(
伊東光晴「
君たちの
生きる
社会」)
ぼくは
子どものころ、
弱虫だったので、どちらかというと、いじめられる
側だった。それでも、ぼくよりもっといじけた
子にたいして、いじめなかったかというと、そうも
言いきれない。いま
考えると、そのぼくは、とてもみじめだ。
たとえば、
近所に
鬼がわらのような
顔の
子がいて、「
鬼の
子」とはやして、いじめたことがあった。そこへ、その
子の
母親が
涙を
流して
飛びだしてきたとき、まったくびっくりした。いじめている
側は、ことの
重要さを
理解していないことが
多い。
いじめている
人間が、
強いわけではない。
抑圧されている
人間は、いじめる
相手を
探しがちなものだ。
上級生が
下級生をいじめる
学校は、たいてい
管理がきびしい。クラブだって、リベラル(
自由主義的)な
雰囲気のあるところだと、
上級生も
下級生も
友だちづきあいしている。いじめている
人間はたいてい、
体制によっていじめられている、
弱い
人間なのだ。
強ければ、
弱い
者いじめなんか、する
必要がない。
ときには、だれかをいじめているという、
加害意識のないことも
多い。その
集団が、いじめを
作っている。いじめられるほうにしてみれば、そのほうがつらい。
罪の
意識なしに
悪いことをするほど、
困ったことはない。
それでも、やがて、もしもまともに
成長すれば、そのときの
自分が、こうした
状況に
強制されて、
罪の
意識なしに、だれかをいじめていた
事実に
気がつく。たいてい、そのときには、もう
過去をとりもどすことができない。しかも、その
自分は、そうした
状況のなかで、
弱くみじめで、その
弱さゆえに、そんなことをしていたことがわかる。
こうした、みじめな
気持ちを
持つようには、ならぬほうがよい。いじめられている
子もみじめだろうが、あとになって
考えてみると、いじめたほうだって、それに
劣らず、みじめなものだ。
とくにこのごろ、
一種の
村八分みたいな、いじめ
方があるらしい。
彼もしくは
彼女が、
存在しないように
扱う。
顔を
合わさず、
声をかわさず、
存在自体を
無視してしまう。これは、
一種の
精神的殺人である。
暴走よりも、
万引きよりも、もっとひどい、
最大級の
非行だと
思う。
ときに、いじめの
計画者がいないことさえある。
集団自体が、いじめ
存在になる。ちょっと
怪談じみたこわさがある。こうしたとき、みんな
普通の
中学生で、だれも、いじめているという
意識のないことがある。これは、なおこわい。いじめていないつもりで、いじめてしまっている、このこわさの
感覚は、
怪談の
感覚である。
ときには、いじめられている
子までが、それを
意識していないこともある。こうなると、
最高にこわい。
意識していなくても、いじめは
存在している。
意識にのぼらない
魂の
底で、
一種の
夢魔の
世界で、だれかがだれかをいじめている。
(
中略)
中学生の
間で、いじめが
増えているというのを、
悪い
子がいるからだとは、ぼくは
思わない。いじめっこも、たいていは、
普通の
子だと
思う。いまの
中学生の
状況が、そうした
弱い
部分を
作っているのだとは
思う。
それでも、もしきみが、よく
考えてみて、だれかをいじめているとしたら、すぐにやめたほうがよい。あとでかならず、それはきみにとって、とてもみじめな
思いになる。
相手にたいしてだけでなく、きみ
自身の
未来のために、すぐにやめたほうがよい。
だれかをいじめたくなるには、きみのおかれている
空気があろう。それはわかる。でも、そのために、だれかをいじめるとしたら、それはきみの
弱さだ。
人間というものは、
弱いもので、ぼくは
人間の
弱さを、むしろいとおしむほうだが、この
場合だけは、いや、この
場合こそ、きみに
強くなってほしい。
やる
気を
出せとか、
根性でがんばれとか、そんな
声にのっかって、
強くなれというのは、ぼくの
趣味ではない。それより、どんな
状況にしろ、
状況に
負けて、
他人をいじめることで
心のバランスをとったりしないような、
自分自身の
心の
強さがほしい。
(
森毅「まちがったっていいじゃないか」)