(Translated by https://www.hiragana.jp/)
課題集
長文ちょうぶん 1.1しゅう
 わたどり毎年まいとしおなにもどってくるといわれています。これまでの標識ひょうしき調査ちょうさなどによると、実際じっさいおなにもどってくるれいはたくさん報告ほうこくされています。なにひゃくキロ、なんせんキロというなが距離きょりんで、またおな場所ばしょにもどってくるのですから、かれらはよほど正確せいかく地図ちずをもっているといわねばなりません。それと同時どうじわたりの方向ほうこうるためのとびきり正確せいかくなコンパス(らはりばんしんばん)ももっていることになります。
 かれらはいったいどうして、んでゆく方向ほうこうることができるのでしょう。そして、どうして目的もくてき場所ばしょることができるのでしょう。
 ふるくから人々ひとびとあいだでは、わたどりは、経験けいけんのある年老としおいたとりにつられてんでいる、といわれていました。まだわかとり経験けいけんすくないとりわたりのコースをよくらないので、としをとったとり先頭せんとうにして、んでゆくというのです。たしかに、ガンやカモがぶときは、いちれつにならんだり、くのになったりして、いかにも先頭せんとうとりがリーダーのようにえます。
 でも、このとりは、かならずしもリーダーの年老としおいたとりではないことがわかってきました。
 また、先頭せんとうとりは、たびたびいれかわっていることが観察かんさつされています。しかも、まったくわたりを経験けいけんしたことがないはずのわかとりばかりでんでいることもあるのです。
 これについて、ドイツのシュッツという学者がくしゃはおもしろい実験じっけんをしてみました。
 シュッツは、まだわたりを経験けいけんしたことのないわかとりをぜんぜん見知みしらぬ土地とちにつれていってはなしてみようとしたのです。
 この実験じっけんには、シュバシコウというコウノトリのなかまが使つかわれました。シュバシコウはドイツでは繁殖はんしょくしていますが、イギリスではまったく繁殖はんしょくしていません。シュッツは、わたりの時期じきがくると、このとりをわざわざイギリスまではこんではなしてみました。本当ほんとうわたりのコースからはずれた、まったく見知みしらぬ土地とちからはなされたわかとりたちは、いったいどうしたでしょう。
 わかとりたちはみごとにわたりの行動こうどうをおこないました。らない土地とちからでも、かれらはわたりに出発しゅっぱつしたのです。ただし、本当ほんとうわたりのコースをんだのではありません。ちょうど、ドイツとイギリスがはなれているぶんだけ、平行へいこうにずれてんだのです。いってみれば平行へいこう移動いどうです。わかとりたちのんでゆく方向ほうこうも、そして、距離きょり本来ほんらいわたりとおなじでした。でも、本当ほんとうわたりのコースとは平行へいこうにずれたコースをんでしまったのです。
 この実験じっけんから、わたどりのおもしろい性格せいかくがわかります。わたどりは、わたりのコースをまれつきっているのではありません。Aを出発しゅっぱつし、Bをとおり、Cにくというわたりのコースはりません。でも、どの方向ほうこうに、どのくらいべばいいかはっているのです。
 シュッツの実験じっけんは、そのおおくの研究けんきゅうしゃによってたしかめられています。ほとんどの場合ばあい見知みしらぬ場所ばしょにつれていかれたわかとりは、平行へいこう移動いどうわたりをおこないます。そして、おもしろいことに、かれらはそのいつわりのコースで、毎年まいとしわたりをおこなうということです。本来ほんらいわたりのコースとははずれたところで、あたらしいわたりのコースができるというわけです。
 ただ、平行へいこう移動いどうわたりをするのは、まだわたりをしたことのないわかとり場合ばあいだけです。いちでもわたりを経験けいけんしたとりは、こんな行動こうどうはとりません。すでにわたりをっているとり見知みしらぬ場所ばしょにつれていかれたとすると、かれらはわたりをはじめようとはせず、まず、いままでんでいた繁殖はんしょくにもどろうとするのだそうです。
 ここにも、わたしたちにはよくわからないわたりのふしぎがあります。
 わたどりなにかにっぱられるようにある方向ほうこうびはじめ、そして、一定いってい距離きょりぶと、ぴたりと、ぶのをやめてしまいます。こんなことは自然しぜんのふしぎというほかありません。でもかれらはいったい、どうやってんでいく方向ほうこうるのでしょう。どんな方法ほうほうわたりの方向ほうこうめるのでしょうか。
 これについては、以前いぜんから、さまざまなことがいわれていました。とりたちはからだなか磁石じしゃくのような器官きかんをもっており、それによって方向ほうこうるのだという意見いけんがありました。たしかに、磁石じしゃくさえあれば、方向ほうこうることは簡単かんたんです。
 また、とりたちは、太陽たいよう方向ほうこうるのではないか、という意見いけんもありました。これもありそうなことです。だれでもっているように、太陽たいようひがしから西にししずみます。そして、わたしたちのんでいる北半球きたはんきゅうでは、太陽たいようのとおりみちてん南側みなみがわにあります。ひょっとしたら、とりだって、このくらいのことはっているかもしれません。

倉橋くらはし和彦かずひこわたどり」)


長文ちょうぶん 1.2しゅう
 いちきゅうよんきゅうねん西にしドイツのクラマーという動物どうぶつ学者がくしゃは、わたどり太陽たいよう関係かんけいについて、ちょっとかわった実験じっけんをしました。
 当時とうじわたどりをつかまえカゴのなかっておくと、ちょうどわたりのぶしになると、とりたちはソワソワとちつかなくなり、カゴからびだしてしまいそうなほど活動かつどうてきになることがられていました。しかも、このようなとりたちは、カゴのなかにいても、おもしろいことに本来ほんらいわたってゆく方向ほうこうあたまけているのです。
 クラマーは、わたどりのこんな性格せいかく利用りようしました。かれはまず、ちょっとかわったとりカゴを用意よういしました。とりカゴといってもドラム缶どらむかんのようなもので、天井てんじょう側面そくめん全部ぜんぶふさがれています。そこ透明とうめいになっており、クラマーはカゴのしたにもぐりこんで、したから観察かんさつします。かれとりカゴの側面そくめんむっつのまどをあけ、いちとりなかのとまりきました。とりむっつのまどからだけそとられるというわけです。ただ、まどはずっとたかいところにつくられていたので、とりそらることはできますが、そのほかの景色けしきはまったくることができませんでした。もし、とり景色けしき方向ほうこうめたなら、なん意味いみもなくなってしまうからです。
 実験じっけんには、ホシムクドリというとり使つかわれました。ホシムクドリは、ヨーロッパとアフリカのあいだするわたどりです。わたりのぶしになると、とても活動かつどうてきになることでられています。クラマーはまず、れたとくもりので、ホシムクドリの行動こうどうにちがいがあるかどうかてみました。太陽たいようがでているとでていないで、どんなちがいがあるかをてみようというわけです。
 さて、カゴのそこにもぐりこんで、いちびょうごとにとりあたまける方向ほうこう記録きろくしてゆくと、クラマーはおもしろい結果けっかをえました。ホシムクドリは、れたには、ほぼわたりの方向ほうこうばかりにあたまけているのに、くもっているには、あるまった方向ほうこうあたまけるのではなく、まるでこまったようにむっつのまどそれぞれにあたまけるのです。いかにも方向ほうこうがわからずにあちこちまよっているみたいです。
 これは太陽たいようなに関係かんけいしているとおもわないではいられません。太陽たいようがでているには、わたりの方向ほうこうがわかりますが、くもりのにはそれができないのだとおもえるのです。
 クラマーはさらに実験じっけんをつづけました。
 じつは、このとりカゴには、特別とくべつなくふうがしてありました。というのは、むっつのまどそれぞれに反射はんしゃきょうをとりつけ、太陽光たいようこうせんきが自由じゆうえられるようになっていたのです。ホシムクドリには、反射はんしゃきょうでまげられたひかりがほんものの太陽たいようひかりおもえます。
 実験じっけんはもちろん、れたにおこなわれました。わたりに出発しゅっぱつしたくてウズウズしているホシムクドリは、やはりわたりの方向ほうこうあたまけています。さて、太陽光たいようこうせんきがかえられると、ホシムクドリはどうするでしょう。
 クラマーはいよいよ、とりカゴのむっつのまど反射はんしゃきょうをとりつけ、ひかりきをえました。かれは、太陽たいようひかりがちょうどきゅうまげられるように反射はんしゃきょうをセットしました。そして、またカゴのそこにもぐりこんで観察かんさつしました。すると、ホシムクドリはなんとひかりきにあわせ、ちょうどきゅう回転かいてんした方向ほうこうあたまけていました。ホシムクドリは、はいってくるひかりにあわせ、みごとにきをえたのです。
 さらに、太陽たいようひかり反射はんしゃきょう反対はんたい方向ほうこうきゅうまげても、ホシムクドリはそのとおりにきをえました。ホシムクドリにとっては、まどからはいってくるひかりだけがたよりです。かれらは太陽たいようひかりじるしにして方向ほうこうめていたのです。

倉橋くらはし和彦かずひこわたどり」)


長文ちょうぶん 1.3しゅう
 「はじめのニュースで、『○○さん』とおつたえしましたが、たいへん失礼しつれいいたしました。これはあやまりで、○○さんはご生存せいぞんで、元気げんきでごかつやくでした。おわびして訂正ていせいさせていただきます。これでニュースの時間じかんわります。」
 これはテレビニュースの時間じかんにおじさんが実際じっさいいたはなしで、しかもこのようなアナウンスをみみにしたのはいちではない。最初さいしょにふほういたときにはがくぜんとし、すうふん訂正ていせいいたときにはあぜんとした。わたしはたまたまニュースの時間じかんわくの最後さいごまでつきっていたから訂正ていせいったようなものの、もし途中とちゅうでテレビをしてしまっていたらどんなことになっただろう。「たいへん失礼しつれいいたしました」だけでは、そのひとはしばらくかえれないかもしれない。
 あるあるときに「同時どうじせい」をもって放送ほうそうすることがテレビの最大さいだいとくちょうであるとすれば、それは「いちかいこっきり」ということでもある。ほんものとおなじ「あるあるとき」は二度にど存在そんざいしない。テレビがわたしたちを強引ごういんきつけるのは潜在せんざいてきにこの意識いしきがあるからである。ビデオに録画ろくがしておいていつかゆっくりようということでよいはずなのだが、深夜しんやとか旅行りょこうちゅうだからどうしても、という場合ばあいのぞいては、わたしたちはそうしようとはおもわない。ビデオはなんとなく本物ほんものおもえないところがある。
 ところで、テレビ人形にんぎょうげき初期しょきだい傑作けっさく「ひょっこりひょうたんとう」の作者さくしゃでもあった作家さっか井上いのうえひさしはこうべている。
 「テレビの条件じょうけんである『(テレビ)放映ほうえいいちかいこっきりせい』は、いちかいこっきりだからこそ最善さいぜんのものを放映ほうえいすべきであるというはげしい決意けつい制作せいさくがわにもたらすであろう、ともかんがえられた。」「いちかいこっきりだから最善さいぜんをつくそうというになるというのは、どうやらわたしの机上きじょう空論くうろんのようだった。放送ほうそう仕事しごとにたずさわってみると、『いちかいこっきりだから、あいだいさえすればよい』という処世しょせいくんほうがずっと実際じっさいてきなのであった。」「たとえば、しめりにわなくなると、ディレクターたちは『なんでもいいからいてってきなさい。』と電話でんわこうでさけんだ。」「そのなんでもいいものをせられたわかひとたちこそ災難さいなんだったのではないか。」
 「わらい」の作家さっかとして、テレビがなかの「おもしろいもの」を手当てあたりしだいに風化ふうかしていく乱暴らんぼうをなげく前提ぜんていとしてかたっているのだが、テレビがすすむべき方向ほうこうをなおしんけんにさくしていたななさんねんのときにしてすでにこうけんぬいている。
 この「いちかいこっきり」が作用さようするか、わる作用さようするかである。冒頭ぼうとうのおわびと訂正ていせいのように、テレビのまちがいにはあぜんとさせられることがしばしばあるが、常識じょうしきてきにはこの場合ばあいには「わるく」作用さようしているとしかかんがえられない。テロップの文字もじあやまりにいたっては日常にちじょう茶飯事さはんじだ。わたしたちが直接ちょくせつゆびてきしなければ、訂正ていせいもおわびもせずにできればすごしたいという気配けはいすらある。ニュースでころされたひとが、めいわくをこうむったからといってテレビ局てれびきょく非難ひなんしようものなら、大人おとなげない、わきまえのないひとよと世間せけんからわらわれるのがちである。
 しかし、このかるさがまたテレビののおけないところでもある。「テレビとはそういうもの」というしたしみをいっそうとくちょうづけている。しゅんあいだしゅんあいだえて(え)とおと、そのしゅんあいだにこだわってはいけない。このことがテレビのわかりやすさのおおきな要因よういんでもある。
 (中略ちゅうりゃく
 テレビマンは「われわれは時間じかんとの勝負しょうぶにかけている」と格好かっこうよくえをはるが、わたしたちはそれがかくれみのやいわけにならないようにかんしなければならない。ようは、わたしたちがテレビてき社会しゃかい無責任むせきにんせい今後こんごもかんげいするか、あるいは責任せきにんをどこまでもかたちにしてしつようにもとめる活字かつじてき社会しゃかいにこだわるかにかかわっているようである。

佐藤さとうゆうつぎお「テレビとのつきあいかた」)


長文ちょうぶん 1.4しゅう
 ぼんゴロふたつをだしただけで、ぼくらはアオたちを無得点むとくてんにおさえ、なんなくいちかいひょうをおえた。てんでをよくしちゃったぼくらは、いきおいにのって攻撃こうげきにうつった。
小細工こざいくよりも、じゃかすか、かっとばしなさい。むこうのボールは、内角ないかくひくめをねらってるだけだから、バットをみじかめにってあわせていくのよ。」
 キリコがしんけんなつきで、ぼくらに作戦さくせんをあたえてくれる。いまじゃキリコはぼくらの監督かんとくけんコーチで、ぼくらにけないくらい試合しあいれてくれるんだ。こいつはいっそうぼくらをはりきらせた。
 試合しあい回戦かいせんだけど、やつらもなかなかねばる。それによん回戦かいせんになると、あつさのせいか、ジックのボールのスピードがおちた。こいつをばちばちひっぱたかれて、二塁打にるいだひとつ、三塁打さんるいだふたつをられちまった。得点とくてんはち?ろくと、まだリードしてたけど、ジックはすっかりくさり、くさったとこへ、アオのやつが、みんなをあおりたててやじりはじめた。ジックは完全かんぜんにダウンだ。コントロールまでみだれちゃって、暴投ぼうとうもやり、四球しきゅうやエラーを続出ぞくしゅつさせた。
 どうにか守備しゅびじんがそれをカバーして、とにかくよんかいひょうはおわらせたけど、結果けっかはさんたんたるもので、はち?じゅうとひどい逆転ぎゃくてんをやられちまった。
 ベンチにもどると、ジックはグローブをちからいっぱい地面じめんにたたきつけた。
「おれは、もう、野球やきゅうをやめた!」
 そうとうあたまにきちゃったらしくて、ぼくやキリコがいくらなだめても、ますますかっかっしちゃうばかりなんだ。ぼくもすぐあたまにきちゃうほうだけど、ジックのはちょっと特別とくべつせいなんだ。
 ミツコやデッコが、景気けいきづけのために、みんなをリードして、いせいのいいうたをうたってくれたりしたけど、ぼくらはしょぼくれちまって、戦意せんいもだんだんとおのいてくんだ。
「おどろいたたちね。わたしがいつもいってるでしょ。『ち』『け』で、なんでもわりきっちゃおうとするから、そんなことになるのよ。さあ、けるとわかっても、たたかうだけはたたかわなければいけないわ。どんなはめになったって、そのなかでせいいっぱいの努力どりょくをするのよ。」
 キリコはバッターにものひとりひとりのしりを、おおきなで、ぴしゃぴしゃひっぱたいては元気げんきづけた。が走者そうしゃいち三塁さんるいのチャンスもむなしく、得点とくてんにおわっちまった。
 まだふてくされているジックをとりまいて、守備しゅびにつくにもなれず、ぼくらは、タイムを要求ようきゅうして、ぶらぶらしていた。
 ろくくみのきたないやじは、ますますさかんになってくる。ミツコやデッコたちが、けずにやりかえすのだけど、それもなんだかしだいにいきがさがる。ぼくも最初さいしょのうちは、みんなとどなったりしていたんだけど、ジックのがんこさにあきれ、ジックにはらをたてた。
「じゃあ、おまえは、この試合しあい不戦敗ふせんぱいにしようってのかい。」
 ぼくはジックをにらみつけた。けど、ジックのやつグローブをひっぱたくばかりで、さっきからなにもいわないんだ。
 ピッチャーはジックしかいないから、ぼくらはもうどうしようもないんだ。ほかのやつにげさせれば、もっともっとわるい結果けっかになるのはわかりきっている。それでここんとこは、どんなことしたって、なんとかジックにげてもらわなけりゃならない。とぼくは決心けっしんした。
「あ、あのサブちゃん――。」
 そのとき、おずおずよこのほうから、ぼくにはなしかけたやつがいた。
「なんだ。うるさいな。」
 ふりむいてぼくはそいつをにらみつけた。すっかりいらいらしてたんだな。
 っていたのは金井かないだった。みんながなにごとかというふうに、金井かないのまわりにあつまってきた。さじをげたように、とおくのベンチからぼくらをながめていたキリコも、ちあがってこっちをてる。
「ぼくに、げさせて、みてよ。」
 ひとつひとつのことばを、くぎるように、金井かないははっきりいった。
「なんだって!」
 ぼくはじぶんのみみをうたがった。もやしのうまれかわりみたいにひょろひょろして、おまけに、いままでだって野球やきゅうをしてるのなんかたこともないやつなんだから、それもむりないというもんだ。
 ところが金井かないのやつ、よっぽどしんをきめてるらしく、もいちどはっきり、
「ぼくに投手とうしゅをやらせてよ。」
といったんだ。ぼくはおもわずわらっちまった。でも、金井かないかお真剣しんけんなんだな。奥歯おくばをぎゅっとかみしめて、まともにぼくをつめるようすにあっとうされて、ぼくらはだまりこんじまった。
「よし!」と、ぼくは金井かない上気じょうきしたかおにむかっていた。「げてみろ。」
 みんながざわめいた。ベンチにいたジックが、なにかいいたそうだったけど、ぼくはかまわずみんなにかたをませ、「いくぞっ!」とさけんだ。みんなもさけんだ。ぼくらはななさけんだ。ミツコやデッコたちみんながかんごえをあげ、拍手はくしゅし、ぼくらをはげました。ジックがベンチでそわそわしてた。キリコがぼくらにウインクをおくってよこした。
 金井かないはファーストミットをった。
「おまえはピッチャーをやるんだろ。」
と、ぼくはすこしあきれていった。みんながわらった。
「これが使つかいなれてるんだ、ごめんよ。」
 金井かないはわらい、それから、ベンチにのこされたようにすわり、しりをもぞもぞうごかしているジックのところにかけていった。
「いっしょうけんめいげてみるから、そのあいだにちょうしをなおしといてよね。」
金井かないはそれだけいいおわると、ひどくはずかしいことをしたかのようにはしってマウンドにのぼった。
 ぼくらきゅうにんかおあわせ、ちょっとくちびるをかんでわらった。やれるとぼくらはおもった。そうさ、ろくくみになんか、けてたまるもんか! ぼくは、ジックにしかめっつらをつくっておどけてみせ、みんなといっしょに、こえをだしあいながらポジションについた。
 金井かないひだりだった。うまいというほどではなかったけど、コントロールがきいたから、ひだりだというだけで、けっこうろくくみ攻撃こうげきをおさえることができた。それでもそのかいてんれられた。
 スコアははち?じゅうだ。だけど、それぐらいはもののかずではなかった。やるじゅうぶんのいま、よんてんぐらい、なんなくとりもどせるとおもえた。自信じしんまえからあったんだ。ただ、くさっちまって、やるをなくしてただけなのさ。
「お天気てんきさんたち、がんばるのよ。野球やきゅう最終さいしゅうかいうらからよ。」
 キリコは金井かないあたまをおいて、ぼくらをはげました。
 金井かないはジックにむかって、
つほうはてんでだめだから。」
と、バッターをゆずった。ジックだって、いつまでもぐずぐずしてるやつじゃない。
「すまん。」と、金井かないていい、「さっきはわるかったな。」
と、ぼくらにいった。ぼくらはジックをひやかしてわらった。
「ほんとに、ありがと。」と、ジックはもいちど金井かないにいった。
 金井かないはまっかになってうつむき、しきりとてんれられたことをにした。ぼくらは金井かないのせなかやかたや、あたまをたたき、「にするな。」「ドンマイ。」「ドンマイ。」
といった。クラスのみんなが、いせいのいいうたをうたうなかかいうら、ぼくらは最後さいご攻撃こうげきをかけた。

後藤ごとう竜二りゅうじ天使てんし大地だいちはいっぱいだ」)


長文ちょうぶん 2.1しゅう
 子供こどもころわたしは、ものすごく内気うちき思案じあん何事なにごとにも消極しょうきょくてきで、むねなかかんがえていることがおよそ行動こうどうにあらわれず、オドオド、ウジウジしていた。現在げんざいわたしりあった友人ゆうじんたちは、まずしんじてくれないが、間違まちがいなくかわいそうなほどおとなしいだった。(中略ちゅうりゃく
 このまま、ずっとおおきくなっていくなんてあまりにつまらない。自分じぶん自身じしんえてしまえば、こういう状態じょうたいからせるのにと子供こどもしんかんじていた。
「こんなじゃイヤだ!」とおもつづけてはいても、一度いちど出来上できあがってしまったまわりの状況じょうきょうも、ってまれた性格せいかくも、そうそう簡単かんたんにはえられるものではない。
 そうわらぬ内気うちき表皮ひょうひしたに、わりたい、わりたいという願望がんぼうくちをみつけられないままたまりにたまっていった。
 それが、おもいがけず一気いっき爆発ばくはつしたのは、わすれもしない小学校しょうがっこうさんねん正月しょうがつさん学期がっきはじまってすこしたったあさだった。そのとし正月しょうがつちちくし、忌引きびきでしばらくやすんでいたわたしはそのあさ、いつにもして不安ふあん面持おももちで学校がっこうかった。深呼吸しんこきゅうをしてやっと教室きょうしつけたというのに、わたしせきだったところになに見知みしらぬおんなすわってる。きっと都会とかいからの転校生てんこうせいなのだろう。垢抜あかぬけしたかわいいだった。ランドセルを背負せおってったままはなおくがツーンといたくなるのをかんじていた。遠巻とおまきにしたクラスのたちも、わたし自身じしんでさえこれ以上いじょうなにこらず、やがて先生せんせいておしまいになるとおもっていた。
なんでここにすわっているの?」
「だって先生せんせいったんだもの。ここのしばらくやすむからってさ」
 こぼすまいとおもっていたなみだが、むねなかでグラグラえたって、がったがした。
「そうかい。じゃ、わたしかえらせてもらうわ」
 あっけにとられているクラスメートをぐるりと見回みまわし、バタンといきおいをつけてめると、そのあし職員しょくいんしつかい、先生せんせい期限きげん登校とうこう拒否きょひ宣言せんげんした。先生せんせい悪気わるぎがあったわけではなかったとおもう。きっと、あのなら大丈夫だいじょうぶだろうとかんがえていたのだろう。でもわたしはたったいま、あのであることをやめた。
 ついさっきみちいえもどとき、ほんのすこまえのちょっとまるめた自分じぶんとは、まるでちが自分じぶんあるいているようで、景色けしきまでわってみえた。
 たった一人ひとりのストは、たしいち週間しゅうかんかそこらで学校がっこうから先生せんせいかたがやってきてはない、納得なっとくして終了しゅうりょうした。ふたたび、以前いぜんおなじように登校とうこうしたが、もうわたし自身じしん以前いぜんのようではなかったし、友人ゆうじんわたしわった。
 こんな自分じぶんじゃイヤだと幼心おさなごころおもはじめてから、そのおもいを自分じぶん血肉けつにくにするまでずいぶんなが年月としつきようしたことになる。自分じぶん自身じしんまれわらせる、自分じぶんかた変革へんかくするといった、みずからのかくかかわることを、みずからの意志いしうごかすというのは、結構けっこうしんどい。つづかなければ、さらにズルッとふかみにはまりかねないし、さあわらねばとあたまから指示しじるようでは、がまだじゅくしていないのかもしれない。
 わたしがとっさにとってしまった行動こうどうは、もちろん、おっ、いま変身へんしんのチャンスだとかんがえてのことではない。周囲しゅういをも、自分じぶんをもびっくり仰天ぎょうてんさせた出来事できごとは、あのときわたしのもっとも自然しぜん反応はんのうになっていたのである。
 ただこまったことに、はははそのときわたし内面ないめんてき変化へんかをキャッチしそこなった。
 ははは、それ以来いらいわたし表面ひょうめんてき変化へんかにためいきをつきつづけている。
「まさかこのが……」と絶句ぜっくし、もういい加減かげんねんになったむすめをつかまえていまだに「こんなじゃなかったのに」となげいている。
 こんなだい変身へんしんしたわたしのフォッサマグナは、小学しょうがくさんねんきゅうさいふゆにくっきりよこたわっている。
吉永よしながみちきゅうさいふゆ」)


長文ちょうぶん 2.2しゅう
「おまえはどうもほんきでいかん」
 父親ちちおや剣道けんどうなんだんかのスポーツマンで、毎朝まいあさわたしゆきのなかにっぱりしては竹刀しないたせてかえしだの、もとすぶりだのをやらせるのである。
 わたしは、けっしてほんだけがきな弱々よわよわしい少年しょうねんではなかった。むしろ、英雄えいゆう冒険ぼうけん物語ものがたり主人公しゅじんこうにあこがれ、忍術にんじゅつ真似まねをして屋根やねからびおりたり、喧嘩けんかがくひたいられたり、水泳すいえい分列ぶんれつ行進こうしんきだったりする活発かっぱつ子供こどもだったとおもう。
 だが、両親りょうしんはいずれにせよ、わたし活字かつじむことをこのまなかった。かれらはわたしあまものかんがえず、直情ちょくじょう健康けんこうな、たけったようなおとこ仕立したててあげたがっていたのだというがする。しかし、わたしにとって、活字かつじつうじて自分じぶん空想くうそう世界せかいあそぶことは、きるということとおな本質ほんしつてきなことのようにかんじられた。
 わたしは<のらくろ>や<冒険ぼうけんダンきち>を、かなりおさなとき卒業そつぎょうし、小学生しょうがくせい上級じょうきゅうになると、両親りょうしん本棚ほんだなにあるじつ雑多ざったほんを、ほとんどとおしてしまっていた。
小島こじまはる>だとか、<もめん随筆ずいひつ>だとか、<放浪ほうろう>だとかいったほんは、たぶん母親ははおや蔵書ぞうしょだったにちがいない。わたしはそんなほん面白おもしろくて仕方しかたがなかったが、一方いっぽうでは、学校がっこう仲間なかまからりてむ、山中やまなか峯太郎みねたろう佐藤さとう紅緑こうろく世界せかいにも熱中ねっちゅうしていた。佐々木ささきくにのユーモア小説しょうせつも、わたし大好だいすきなほんひとつだった。江戸川えどがわ乱歩らんぽ岡本おかもと綺堂きどうなども、学校がっこう友人ゆうじんからりてんだ。
 わたしはかなりの距離きょりを、市電しでん徒歩とほ通学つうがくしていた。そのかえりに、あるきながらほん習慣しゅうかんがついてしまって、いえのそばまでても、まだむのをめるのがしく、もう一度いちど電車でんしゃえきまであるきながらつづけたりしたものだ。一度いちどわたしがカバンを背負せおったまま、いえまえから電車でんしゃ停留所ていりゅうじょ方角ほうがくほん熱中ねっちゅうしながらぎゃくもどりしているとき父親ちちおや出会であったことがある。
「おまえ、どこへくんだ」
 父親ちちおやは、学校がっこうからかえ時刻じこくぎゃく登校とうこうでもするかのようなわたし様子ようすて、けげんそうにたずねた。
学校がっこう筆箱ふでばこわすれてきたからりにこうとおもって」
 と、わたしったが、父親ちちおやはなんとなくわたしかえりにほんむことに夢中むちゅうになっているのをかんづいたようだった。
 そして、わたし学校がっこうからかえってくると、わたしのカバンをけ、なかにりてきた小説しょうせつほん読物よみもののたぐいがはいっていると、だまってげたままかえしてくれなかった。
 そのことでわたしはひどく友人ゆうじんたちに義理ぎりわるおもいをしたことがある。
 わたしはそこで自衛じえいのために一計いっけいあんじた。かえみちつづけてきたほんを、いえのなかにまないようにするのである。ふゆなど、わたしみさしのほん新聞紙しんぶんしにくるんで、いえ生垣いけがきのあたりにみあげられているゆきのなかにんでかくしておくことにした。
 そしてつぎあさ、それをして、ゆきはら新聞紙しんぶんしひろげてつづけるのだ。
 ときにはほんのなかにゆきんで、それがてつき、ページがパリパリとおとてたりすることもあった。
 そんな時代じだいを、いまおもいおこしてみると、きんじられた読書どくしょのなんともいえない鮮烈せんれつなよろこびの記憶きおくが、まざまざとよみがえってくる。現在げんざいわたし活字かつじのなかにうもれ、そしてそれをさい生産せいさんする生活せいかつのなかで、義務ぎむとしての読書どくしょ必要ひつようからの読書どくしょわれているが、すでに活字かつじ行間ぎょうかんからのぼってくるような、あの少年しょうねん時代じだい読書どくしょのよろこびからは、はるかにとおところにいる自分じぶんかんぜずにはいられない。
 ほんというものは、本来ほんらい、あのようにしてむべきものではなかろうか、というがする。

五木いつき寛之ひろゆき地図ちずのないたび」)


長文ちょうぶん 2.3しゅう
 小学校しょうがっこう中学年ちゅうがくねんころぼくはがき大将だいしょう毎日まいにち近所きんじょのちびっこたちをれてあそまわっていた。縄張なわば意識いしきつよくて、ぼくらは自分じぶんたちの町内ちょうないをその統治とうちにおいていた、つもりだった。放課後ほうかごになると、裏山うらやまつくった基地きち斜面しゃめんえた大木たいぼくえだいたれや鉄材てつざいをくくりつけてつくったてだった。)にあつまっては、めてくるかもしれないてき想定そうていして、ぼくらは石投いしなぎげの訓練くんれんんでいたのだ。
 はじめてあの新聞しんぶん配達はいたつ少年しょうねんたのは、その基地きち建設けんせつしおわった直後ちょくごころのことである。見張みはりにっていたおとうと大声おおごえぼくんだのだ。
兄貴あにき、なんかへんなのがはしりよう。どがんする。」
 ぼくおとうとゆびさすほうをた。かたから新聞しんぶんをぶらげた少年しょうねん多分たぶん小学校しょうがっこう高学年こうがくねんか、中学ちゅうがくいち年生ねんせいぐらいだとおもった。)が、いちけんいちけんいえ新聞しんぶんほうみながらはしっているのである。新聞しんぶん配達はいたつ少年しょうねん存在そんざいっていたのだが、こうやって意識いしきしてまじまじとるのははじめてのことであった。かれぼくらが見守みまもなか背筋せすじばしてすっとしたみちとおぎていってしまったのである。
 翌日よくじつかれおな時刻じこくにそこを通過つうかしていった。やはりかたからるしたたすきに新聞しんぶん山盛やまもれて、かれいちけんいちけんにそれをほうんでいくのだ。ぼくはその姿すがたなにしんうごかされていたのだが、沢山たくさん子分こぶんたちのまえかれめるわけにもいかず、ついしんにもない行動こうどうをとってしまうのである。
 そう、ぼくかれ目掛めがけていしげつけたのだ。
みな、あいつはてきたい。てきのスパイに間違まちがいないったい。」
 ちいさな子供こどもたちはぼくうことをすぐにしんじて、おなじようにかれ目掛めがけていしげつけはじめたのだ。新聞しんぶん少年しょうねん投石とうせきがつき、まるとぼくらのほうを一瞥いちべつした。しかし、いしけようともせずじっとぼくらのほうをにらみつけるのだった。いくつかのいしかれあしにあたったが、かれげようとはしなかった。
「やめ。」
 それにづいたぼくはちびっこたちに石投いしなぎげをやめさせた。子供こどもたちはいしげるのをやめ、ぼくつぎ命令めいれいっていた。ぼく新聞しんぶん少年しょうねんはそのときはじめて対峙たいじしてにらみあった。するどをしたつよそうなおとこだった。ぼくたちがだまっているとまもなくかれはしりだすのである。
 それからもときどきぼくらはかれつけては威嚇いかく攻撃こうげきをした。そのたびにかれまりじっとぼくらをすえるのだった。そのするどくかつてたことのない動物どうぶつてきなものだった。
 新聞しんぶん配達はいたつという行為こういわるいことではなく、むしろりっぱなことであることはあのころぼくでもちゃんと理解りかいはしていたつもりであった。ぼくだけじゃなく、おとうとやちびっこたちもちゃんとっていたはずだ。なのにぼくかれいしげたのは、多分たぶんかれ存在そんざいになっていたからなのだろう。新聞しんぶん少年しょうねん配達はいたつするということが一体いったいどういうことなのか、ぼくはすごく興味きょうみがあったのだ。
 それからすこしして、ぼくらが社宅しゃたくもんのところでたむろしてあそんでいると、かれ突然とつぜんもんなかはしんできたのである。がっちりとした身体しんたいをしていて、ぼくよりセンチはたかかった。ぼくぐにかれい、にらってしまった。そのとき、ちびっこの一人ひとりがいつもの調子ちょうしかれかっていしげつけてしまったのである。いしはそれほどスピードはなかったのだが、少年しょうねんがくひたいにあたってしまった。そして少年しょうねんはそのときはじめてぼくらに抗議こうぎをしたのである。
なんいしげるとや。おれがなんかしたとかね。」
 身構みがまえるちびっこたちをぼくあわててせいした。そしてすこかんがえてからききかえした。
「なんばしよっとね。」
 ぼく新聞しんぶんのつまったたすきをゆびさしていてみた。
新聞しんぶん配達はいたつにきまっとろうが。」
「そうやなか、なんで新聞しんぶんばくばりよっとかりたかったい。」
 ぼくかれにぐいとにらみつけられてひるみそうだったが、ちびっこたちにしめしがつかないのでじっとこらえ(えていたのである。
「なんでって、おかねんためにきまっとろうが。おかねかせいで、いえにいれるったい。うちはおまえらんとこみたいに裕福ゆうふくやなかけんな。」
「ゆうふく?」
 おとうとよこからくちしてきた。
「ああ、うちは貧乏びんぼうやけん、長男ちょうなんおれはたらいておかねかせがんとならんとよ。おまえらみたいにあそんでるわけにはいかんっちゃ。」
 かれのその言葉ことばぼくむねにびんびんとひびいた。自分じぶんのことを貧乏びんぼうといいきるかれがなぜか自分じぶんたちとはちが大人おとなえたのだ。
「わるいけどな、これからはおれ配達はいたつのじゃまばせんどいてくれんね。もし、邪魔じゃまするようだったら、こっちも生活せいかつがかかってるけんだまっちゃおかんばい。」
 かれはそううといしげつけたちびっこをしのけて新聞しんぶんくばりはじめるのだった。
 ぼく何故なぜかいいようのないショックで、それから数日すうじつかんがんでしまった。ぼくむかしからかんがむタイプだったようだ。あのときぼく新聞しんぶん配達はいたつ少年しょうねんじつしん何処どこかで尊敬そんけいしていたのだとおもう。自分じぶんかれ投影とうえいしはじめていたのだ。
 それから数日すうじつしてぼく社宅しゃたくもんのところでかれせすることになる。子分こぶんたちはれず、ぼくひとりであった。そして夕方ゆうがた、いつもの時間じかんかれ新聞しんぶんかかえてはしんできたのである。
「よう。」
 かれぼくつけると、そうこえをかけてきた。
今日きょうはぞろぞろいないのか。子分こぶんたちは。」
 ぼくおおきくうなずいた。
今日きょうはちょっとさしではなしがあるったい。」
「なんね。」
 新聞しんぶん少年しょうねん眉間みけんをぎゅっとめてぼくかおをまじまじとのぞんだ。ぼくつばんだ。
じつはあれから真剣しんけんにかんがえたっちゃけど。おれ新聞しんぶん配達はいたつやらしてくれんかとおもうてさ。」
 新聞しんぶん少年しょうねんかおがほころんだ。
きみがや。」
 ぼく真剣しんけんかおつきでうなずいた。
「だめやろか。」
 新聞しんぶん少年しょうねんくびる。
「いいや、でもおまえかんがえているよりずっと大変たいへんなことたい。そんでも途中とちゅうげださんでつづける自信じしんがあるっちゅうなら、はなしをつけてやってもよかたい。ただな、いい加減かげん気持きもちでやるとやったら、おれがゆるさんけんね。」
 ぼくかれにはじめて微笑ほほえんだのである。
 そしてその夕方ゆうがたぼくかれれられてちかくの新聞しんぶん集配しゅうはいしょったのである。はじめての経験けいけんぼくはすっかり緊張きんちょうしていた。集配しゅうはいしょ活気かっきがあって沢山たくさん少年しょうねんたちであふれていた。みんなたくましくぐのをした連中れんちゅうばかりであった。ぼくかれ仕事しごと段取だんどりを説明せつめいされながらしばらくその観察かんさつしていたのである。それからぼくかれ紹介しょうかいされたそこのボスにお辞儀じぎをした。ボスは笑顔えがおのたえないひとで、一言ひとこと、がんばるんだよとっただけだった。しかし、その言葉ことばはかつてどんな大人おとなたちがぼくにかけてくれた言葉ことばよりずっとぼく大人おとなとしてあつかってくれるものだった。そしてぼくつぎしゅうあたまから新聞しんぶんくばることになったのである。ぼく自分じぶんめたはじめてのアルバイトであった。
 しかし、結論けつろんからいえば、ぼくつぎしゅうあたまから新聞しんぶんくばることはなかったのである。そのばんぼく食事しょくじせき両親りょうしんにそのことを、やや自慢じまんするようにったのだが、突然とつぜん父親ちちおや怒鳴どなられてしまうのだ。
おれはおまえにそんな苦労くろうをかけさせているのか。まずしいおもいをさせているのか。」
 ははだまっていた。ぼくめられるだろうとおもっていたので、ちち怒鳴どなごえ予想よそうがい出来事できごとだったのだ。何時いつだったか勤労きんろう少年しょうねんのドキュメンタリーテレビをみながらちち目頭めがしららしていたのをぼくっていたから、かれのその行動こうどうはまったく理解りかいすることができなかったのである。そしてあまりの剣幕けんまくぼくさからうこともできなかった。
 結局けっきょくぼくははつぎ新聞しんぶん集配しゅうはいしょ出向でむき、ぼくはじめてのアルバイトはゆめえることとなった。ちち体面たいめんにしたんだ、とぼくあとかんがえた。新聞しんぶん背負しょわせてちいさな子供こどもはたらかせていると、おな社宅しゃたくひとたちになんおもわれるかからなかったからだろう。
 そしてぼくつぎから新聞しんぶん配達はいたつ少年しょうねんをさけるようになるのである。

つじ仁成ひとなり新聞しんぶん少年しょうねんうた」)


長文ちょうぶん 2.4しゅう
 「飽和ほうわ市場いちば」という言葉ことばがある。いろいろな商品しょうひん普及ふきゅうりつがもう限界げんかいのところまできている消費しょうひ市場いちばをあらわす言葉ことばだ。たいていのモノはひととおりきわたった、という状態じょうたいである。
 飽和ほうわ市場いちば特徴とくちょうは、いままでもっていた製品せいひんからあたらしいものにいかえていく需要じゅようおおいが、市場いちば全体ぜんたい成長せいちょうしていくちからはもう限界げんかいのところまできている、というてんだ。
 そのため、がわとしても、いままでとおなじようなかたでは商品しょうひんれない。そこで、それぞれ独自どくじ商品しょうひん開発かいはつしたり、あたらしいかたかんがえたり、これまでとはちがった分野ぶんや進出しんしゅつしたりと、あらゆるこころみる。ここまでに紹介しょうかいした販売はんばい方法ほうほう工夫くふうだとか、競合きょうごう商品しょうひんにはない独自どくじ機能きのうやデザインの開発かいはつなどといったことも、こうした市場いちばがあふれている。
 たとえばモノ。すでにべたように、ヘッドホン・ステレオひとりあげても、かよった商品しょうひんがたくさんのメーカーから発売はつばいされている。たくさんの商品しょうひんのなかから、きみはひとつの商品しょうひんえらんで購入こうにゅうするわけだ。そのためにカタログをりよせたり、おみせひとはなしいたりして情報じょうほうあつめ、比較ひかくしたうえめる。
 つまり、きみのまえには、とてもたくさんのメニューがあり、そこからあるひとつを選択せんたくするというわけだ。
 サービスという商品しょうひん購入こうにゅうする場合ばあいおなじだ。
 外食がいしょく代表だいひょうといえるファースト・フード。あるチェーンてんあたらしいハンバーガーが登場とうじょうしたとおもったら、すぐにべつのチェーンてんにもたようなメニューがつけくわえられる。もちろん、「一味いちみちがった」商品しょうひんとしてだ。
 ここでもきみは、さまざまなおみせのさまざまなメニューのなかからひとつのサービスを購入こうにゅうするための選択せんたくをすることになる。
 あたらしい商品しょうひんやサービスが市場いちばにでるまでには、がわの「商品しょうひん差別さべつ戦略せんりゃく」がおこなわれている。消費しょうひしゃがわ情報じょうほうるための調査ちょうさ、その情報じょうほうをすぐに利用りようできるように蓄積ちくせきしたデータベースの作成さくせい、テレビやイベントをとおしての宣伝せんでん広告こうこく商品しょうひん効率こうりつよくるための仕掛しかけなど、がわ努力どりょくはこれまでみてきたとおりだ。
 だから、きみは、がわ商品しょうひん差別さべつ戦略せんりゃくというおおきな「仕掛しかけ」をかいくぐって、たくさんのメニューからひとつをめ、選択せんたくするのである。これは、とてもたいへんなことなのだ。
 たしかにメニューはたくさんある。
 だが、それは、メニューがいまほどおおくなかったときにくらべて、よりよい選択せんたくができるということなのだろうか?
 ちがいをうたって登場とうじょうした商品しょうひんは、すぐに商品しょうひん登場とうじょうすることで、ちがいの部分ぶぶんがなくなってしまう。きみの「ステイタス」にふさわしいはずの独自どくじ商品しょうひんが、すぐにその独自どくじせいうしなってしまう。イタチごっこみたいなもので、ちがいはますます細分さいぶんし、たいした意味いみをもたなくなってくる。
 たいした意味いみのない「ちがい」をえらぶためにたくさんの商品しょうひん用意よういされているのが、はたしてほんとうにゆたかなことなのだろうか。わたしたちは、そんな「しあわせ」をもとめてきたのだろうか。なんでも自問じもんしてみる必要ひつようがありそうだ。
 おびただしい商品しょうひんにかこまれて毎日まいにちらしているわたしたち。わたしたちが生活せいかつすること=消費しょうひすることである。住宅じゅうたく家具かぐ食品しょくひん衣服いふく電気でんき製品せいひん新聞しんぶん書籍しょせき日用にちよう雑貨ざっかといったモノから、電気でんき、ガス、交通こうつう手段しゅだんをはじめとするサービスざいまで、日々ひび消費しょうひしつづけているのだ。
 そのわたしたちの多様たよう消費しょうひが、ふたたび多様たよう生産せいさんうながす。
 そしてあたらしく生産せいさんされた生産せいさんぶつが、消費しょうひしゃであるわたしたちに、またあらたな欲望よくぼうをひきおこす。
 こうして生産せいさん消費しょうひ循環じゅんかんしながらふくらんでいくのである。しかも、のどちらも、さきがみえていないときているのだ。
 こうした生産せいさん消費しょうひのくりかえしのなかで、地球ちきゅう資源しげん減少げんしょうをつづけ、生産せいさんにともなう排出はいしゅつぶつ消費しょうひ生活せいかつからでる廃棄はいきぶつなどによって、環境かんきょう汚染おせんがすすんでいる。それも、地球ちきゅうてき規模きぼでおこっているのである。
 をつけなくてはいけないのは、地球ちきゅう環境かんきょう汚染おせんしているのは、生産せいさんをしている企業きぎょうがわだけではない、ということだ。汚染おせん責任せきにんがあるのは、であるわたしたちもおなじだ。生産せいさんをささえている消費しょうひしゃがわ責任せきにんおおきい。
 つまり、わたしたちは他人たにんとのちがいをしめすために地球ちきゅう資源しげんをつかい、環境かんきょう汚染おせん物質ぶっしつ排出はいしゅつしつづけている可能かのうせいをもっているわけだ。もしそうだとしたら、わたしたちは、自分じぶんたちの消費しょうひのありかたそのものをいなおさなくてはいけない。
 たとえば、わたしたち日本人にっぽんじんがふだんべているエビ。
 日本人にっぽんじんのエビ消費しょうひは、このさんじゅう年間ねんかんろくばい以上いじょうになり、げはいちちょうえんをこえたそうだ。世界せかい最大さいだいのエビ消費しょうひこくだ。そのほとんどは東南とうなんアジアからの輸入ゆにゅうによっている。エビの稚魚ちぎょは、東南とうなんアジア各地かくちにひろがる広大こうだいなマングローブの沼地ぬまちそだっており、そのエビを捕獲ほかくするために大型おおがたせんもはいっている。そのためエビ資源しげんはしだいにすくなくなり、マングローブの沼地ぬまちらされているのだそうだ。
 日本人にっぽんじん直接ちょくせつらしまわっていないにしても、わたしたちのエビ消費しょうひが、結果けっかとしてマングローブをらすことになっているのは否定ひていできない。
 これはひとつのれいであって、わたしたちの生活せいかつが、このように間接かんせつてき環境かんきょう破壊はかいしていることは、じつにおおい。わたしたちがおびただしい消費しょうひかさねることが、かんがえてもみないようなところに悪影響あくえいきょうをあたえ、きずつけることになっているわけだ。
 そうした直接ちょくせつみえない他人たにん世界せかいへ、どこまで想像そうぞうりょくをはたらかせることができるかが、これからますますわれることになるだろう。もちろんこれは大人おとなだけの問題もんだいとしてでなく、きみたちいちにん一人ひとりがこれからかんがえなければならない問題もんだいだとおもう。

児玉こだまひろし「あなたはわされている」)


長文ちょうぶん 3.1しゅう
 学校がっこう先生せんせいは「あなたの意見いけんは?」というでしょう。お化粧けしょうひとつにしても、洋服ようふくひとつにしても、流行りゅうこううのはおろかですよ、自分じぶんにあったお化粧けしょうをしなさい、自分じぶんにあったふくなさい、自分じぶんがたいせつですよと先生せんせいはいうでしょう。
 しかし会社かいしゃにでると、みんな自分じぶんというものを中心ちゅうしんにするのではなしに、会社かいしゃに、みんなに、あわせようという具合ぐあいになるのがふつうです。
 だが、このようなことなかれ主義しゅぎ個性こせいのなさだけでよいでしょうか。なかくしようとするひとは、しばしば異端いたんかんがえのぬしなかからまれるのではないでしょうか。いちれいをあげましょう。
 アメリカの自動車じどうしゃ会社かいしゃ、GMの小型車こがたしゃコルベアは、しばしば事故じこをおこしました。くるま高速こうそくでまがるとき、うしろがうわきあがり、まがりきらず事故じこをおこすのです。やがて、このくるまには設計せっけいじょうのまちがいがあり、その原因げんいんは、すこしでもやすくしようとして材料ざいりょう節約せつやくしたてん問題もんだいがあることが指摘してきされました。このことは、このくるまをつくっているひと、したがってこのくるまをよくっている従業じゅうぎょういん指摘してきによってあきらかになったのです。もしこうした指摘してきがおくれたら、さらにおおくのひと事故じこにあったでしょう。だが、こうした指摘してき従業じゅうぎょういんからでないような会社かいしゃだったらどうなるでしょう。
 日本にっぽんでは、おなじようなことをいった従業じゅうぎょういんに、「そんなことをいうのは会社かいしゃ批判ひはんすることで、われわれのてきだ」という会社かいしゃなかからまれ、げんに、自動車じどうしゃ会社かいしゃにいられなくなったすぐれた技術ぎじゅつしゃがいます。
 会社かいしゃのためよりもっと重要じゅうようなことがあったとき、会社かいしゃだいいちかんがえ、ほんとうのことをいわず、かくしやすい――こうしたゆがみが日本にっぽん会社かいしゃにはないでしょうか。
 このような日本にっぽんてき社会しゃかいなかにいる人間にんげんは、それにうようなことばを使つかいます。みなさんの使つかっている日本語にほんごと、学校がっこうでならう英語えいごとをくらべてごらんなさい。英語えいご文章ぶんしょうのいちばんはじめに、なにがきますか。主語しゅごがきます。「わたしが」とか「あなたが」というのがきます。なにかをするその責任せきにん所在しょざいは、まず「?」なり「You」なり、はっきり主語しゅごとして、いちばんはじめにでてくるのが特徴とくちょうです。
 そのつぎに、その問題もんだい賛成さんせいなのか反対はんたいなのか、イエスかノーかというのがきます。ですから英語えいごくと、はじめのところをいていると、だれがどういう意志いしをもっているかがだいたいわかります。
 しかし、日本語にほんごはそうではありません。たいてい主語しゅごがないでしょう。そして、イエスかノーかというのはまえにきません。文章ぶんしょうのいちばん最後さいごにくるのです。
 会議かいぎのときなどはなしをしているうちに、みなが反対はんたいだなということが顔色かおいろでわかると「……というようなかんがえもあるんだが、まずいですねェ」なんて、きゅうに方向ほうこう転換てんかんすることができることばです。
 つまり、相手あいてとちがうかんがえをだすことはたいへん失礼しつれいだし、おたがいの関係かんけいをまずくする。なにしろ大部屋おおべやのなかにいっしょにんでいるのですから。
 そこで、相手あいて自分じぶんとがおなじようなかんがえになるようにし、相手あいてきずつけない、自分じぶんとの関係かんけいもひびがはいらない――そういうようにもっていく習慣しゅうかんかんがかたが、ことばの構造こうぞうなかにもはいってくるのです。賛成さんせい反対はんたいかをいちばん最後さいごにもっていくという、世界せかいにもめずらしい日本語にほんごがこうした習慣しゅうかん対応たいおうしているのです。
 中国ちゅうごくだって英語えいごとおなじことばの構造こうぞうで、賛成さんせい反対はんたいかをしめすことばが主語しゅごのつぎにきます。日本語にほんご主語しゅごがはっきりしません。責任せきにん所在しょざいをまずなくし、賛成さんせい反対はんたいかをいちばん最後さいごにつけて、どうにでもかえられるということばの構造こうぞうになっています。
 ですから、問題もんだいがおこったときどうするかというと「わたし自分じぶん責任せきにんをよくよくかんがえて、こういう結論けつろんたっしました」ということはしないのです。なにがただしいか、なにがいいか、それよりもみんなはどうかんがえるであろうかをかんがえるというのがおおくの日本人にっぽんじんです。そして顔色かおいろながら、いつでも方向ほうこう転換てんかんできるようなことばの構造こうぞうをさぐりながら、最後さいごでみんなが一致いっちするようにもっていく。これです。ボスといわれている人間にんげんはこれをやるのです。
 佐藤さとう栄作えいさくという、ひじょうになが総理そうり大臣だいじんをつとめたひとがいます。このひとは、自分じぶん決定けっていくだすことがなかったといわれています。
からすすめられたかたちをとりたい」
 これが佐藤さとうさんの名文めいぶんつたえられています。自分じぶんできめたら自分じぶん責任せきにんをとらなければなりません。それは団結だんけつをみだすことになります。なぜなら、反対はんたい意見いけんひとがいるかもしれないからです。
 ある事件じけんがおこった。みなの意見いけんがとうぜん対立たいりつする。しかしボスは自分じぶん意見いけんをいわない。いえば、反対はんたいひとてきにまわすことになる。そこでなすがままにまかせる。たとえば、外国がいこくとの貿易ぼうえきで、いちドルがさんひゃくろくじゅうえんであったのをさんひゃくえんにするか、それともさんひゃくろくじゅうえんのままかという問題もんだいです。佐藤さとうさんはきめないのです。世界せかい経済けいざいいちきゅうなないちねんはちがつじゅうにちから混乱こんらんし、この問題もんだいおおさわぎになったとき、軽井沢かるいざわげてしまったのです。東京とうきょうにいれば、首相しゅしょうとして自分じぶんがきめ、自分じぶん責任せきにんをとらなければならないからです。
 現実げんじつはどんどんすすんで、とうとう反対はんたいもなにもあったものではなく、さんひゃくよんじゅうえんさんひゃくじゅうえんうごいてしまいました。もうやむをえない、これをみとめるよりみちがないという、そういうところまでいこまれて、みんなの意見いけんがまとまり、さあそうするかというところまでって佐藤さとうさんはやまをおり、これをみとめました。したがって反対はんたいはおこりません。これが、佐藤さとうさんが日本にっぽんでいちばんなが年月としつき総理そうり大臣だいじんをつとめた秘訣ひけつだといわれています。
 もしまちがっていたならば、みんながきめたのですから、いちおくそうざんげ、けっして佐藤さとうさんの責任せきにんにならないのです。
 しかし、佐藤さとうさんのような行動こうどうをしていると、なにもないときはいいのですけれど、重大じゅうだい問題もんだいがおこったとき、それにたいして、はやくしゅをうち、事態じたい危険きけんのない方向ほうこうにもっていくということができないのです。
 だれが戦争せんそうをするということをきめたかわからないうちに、いつのにか中国ちゅうごくとのたたかいがはじまり、ずるずる拡大かくだいし、日本にっぽんはあの敗戦はいせん経験けいけんしたのではないでしょうか。そして、戦争せんそう責任せきにんということになると、みんながわるかったのだといって、だれもむかしのあやまちを反省はんせいしようとしないのです。
 したがって日本にっぽん社会しゃかいのくさった部分ぶぶんわる部分ぶぶん、それをることもできませんでした。おなじ戦争せんそうをし、やぶれたドイツは、まったくちがいます。戦争せんそうをひきおこした責任せきにんしゃがいたのです。ヒットラーを中心ちゅうしんとするナチスです。したがってその責任せきにん追及ついきゅうし、くさったやまい部分ぶぶんりのぞく。いまもってドイツはこのナチスの協力きょうりょくしゃさば裁判所さいばんしょをもっているのです。だからあたらしくまれかわることができたのです。
 日本にっぽんは、いつまでたっても仲良なかよしクラブのなかで、責任せきにんもはっきりせず、やまいもはっきりせず、くさった部分ぶぶんをそのままにしながら、みんなかたをくみながらうごいている。これでいいのでしょうか。
 小学校しょうがっこう中学校ちゅうがっこう先生せんせいは、自分じぶん意見いけんをいいなさいとみなさんにいったでしょう。それは、こういうやまいりのぞくことができるような人間にんげんに、みなさんをしたいとおもっているからにちがいありません。

伊東いとう光晴みつはるきみたちのきる社会しゃかい」)


長文ちょうぶん 3.2しゅう
 どもたちのきな昔話むかしばなしに「王様おうさまみみはロバのみみ」というおはなしがある。どういうわけかロバのようなみみをした王様おうさまがいた。それがられるのがいやでいつも帽子ぼうしをかむっていた。ただ、床屋とこやにはそれがバレてしまうので、床屋とこや散髪さんぱつしてもらうたびにその床屋とこやころしていた。とうとう、ある床屋とこやがあまりにも助命じょめいねがうので、「秘密ひみつまもる」ことを約束やくそくさせてかえらせてやった。ところが、その床屋とこや秘密ひみつまもっているうちにへん病気びょうきになってしまう。占師うらないしかれたいして、そのやめいはいたいことをわずにいるためのものだから、だれにもかれないようにしてまちのはずれのやなぎむかって、いたいことをえばよい、とおしえてくれる。
 そこで床屋とこややなぎむかって、「王様おうさまみみはロバのみみ王様おうさまみみはロバのみみ」とはなすと、病気びょうきはすぐになおってしまった。ところが、そのふういてやなぎれるたびに、「王様おうさまみみはロバのみみ」とりはじめたので、国中くになかひと王様おうさまみみ秘密ひみつってしまった。王様おうさまはそれをいて、みなられてしまったのなら仕方しかたがないと帽子ぼうしをぬいでしまわれた。ところが、国民こくみんはむしろそのような王様おうさま尊敬そんけいして、「ロバのみみ王様おうさま」として敬愛けいあいするようになった、というおはなしである。
 どもたちは、このはなしのなかで「王様おうさまみみはロバのみみ」という面白おもしろかえしをなんたのしみながら、かれらにとっても大変たいへん重要じゅうような「秘密ひみつ」ということとふか関連かんれんするものとして、興味きょうみをもってくようである。たしかに、このはなし秘密ひみつ機微きびについておおくのことをおしえてくれる。まず、秘密ひみつまもっていて病気びょうきになった床屋とこやのこと。これは秘密ひみつまもることのつらさやむずかしさを端的たんてきしめしている。秘密ひみつ身体しんたいない進入しんにゅうしてきた異物いぶつのように、そと排除はいじょしないとたまらないときがある。
 人間にんげんしんはある程度ていどのまとまりをもって存在そんざいしている。おおくの場合ばあい秘密ひみつはそのまとまりをこわしそうなものであることがおおい。王様おうさま尊敬そんけいすることと、王様おうさまがロバのみみをもっていることは簡単かんたんには両立りょうりつがたい。それに、王様おうさまがロバのみみだということは、すごいニュースバリューももっている。床屋とこやがしゃべりたくなるのも無理むりはない。そして、それを辛抱しんぼうつづけることは身体しんたい病気びょうきをさえおこしてしまうのである。
 王様おうさまにとって「ロバのみみ」は運命うんめいによってあたえられ、いかんともしがた欠陥けっかんであった。かれにとって出来できることは、あらゆる手段しゅだんこうじてそれをかくしてとおすことであった。そのためには、殺人さつじんということもけられなかった。おうおかしたおおくの「殺人さつじん」は、かれ秘密ひみつまもるために、どれほどおおくの「感情かんじょうころし」、「人間にんげん関係かんけいころし」てきたか、とかんがえると了解りょうかいしやすいだろう。実際じっさい、われわれは自分じぶん欠点けってんかくすために、どれほどおおくのことをころすことだろう。
 ついでながら、ころされるのが床屋とこやというのも面白おもしろい。床屋とこや髪型かみがたえるという意味いみで、「人格じんかく変化へんか」との関連かんれんゆめ物語ものがたりによくあらわれる。おう自分じぶん欠点けってんかくすことに固執こしつして、自分じぶん人格じんかく変化へんかのチャンスを見殺みごろしにしていたのである。
 ところで、ある床屋とこや嘆願たんがんおうしんうごかされ、ころすのをやめる。だれかの心情しんじょううごかされることは、なに意味いみあることがおこなわれるきっかけとなることがおおい。おうはそれまでころしてきた自分じぶん感情かんじょうに敢てをゆだねることを決意けついした、ということができる。おうはその自分じぶんかくしたい秘密ひみつくにちゅうひろがっていることをったとき、すぐに床屋とこやばっすることをせず、その経緯けいいって、それが「やなぎのそよぎ」によってひろまったことをった。人間にんげんがいかに努力どりょくをしても、「自然しぜん」のちからにはこうがたいときがある。そのことをったおうは、自然しぜんちからまえ文字もじどおり「脱帽だつぼう」したのである。
 おうのこのような態度たいどせっして、国民こくみんおうかくしたがっていた欠点けってんったにもかかわらず、まえよりもおう敬愛けいあいするようになった、というてん大切たいせつである。人間にんげん自分じぶんおおきな欠点けってん他人たにんられたとしても、かならずしもそれによってから軽蔑けいべつされるとはかぎっていないのである。国民こくみんが「ロバのみみ王様おうさま」とって敬愛けいあいしたということは、おう欠点けってんがかえって国民こくみん親愛しんあいじょう通路つうろとなっている、とさええるのである。
 欠点けってんられること、秘密ひみつられることなどは、かならずしも軽蔑けいべつされるきっかけとはならないし、むしろぎゃくのことさえしょうじるのであるが、「ロバのみみ王様おうさま」のはなし示唆しさするように、そのようなことがしょうじるためには、それにふさわしい努力どりょくや、ときじゅくすることなどの要素ようそ必要ひつようなことをわすれてはならない。

河合かわい隼雄はやおどもの宇宙うちゅう」)


長文ちょうぶん 3.3しゅう
 文明ぶんめいじん時計とけいによって時間じかんはかる。それによって、いちにちじゅうよんあいだ正確せいかく区切くぎられ、共通きょうつう時間じかん設定せっていされる。これはおおくの人間にんげん社会しゃかいをつくっていくためには、非常ひじょう大切たいせつなことである。これによって、われわれは友人ゆうじんわせもできるし、学校がっこう会社かいしゃも、どう一時いちじこく一斉いっせいはじめることもできる。時計とけい発明はつめいによって、人類じんるいはどれほど時間じかん節約せつやくできるようになったかわからない、本当ほんとう便利べんりなことだ。
 ところで幼児ようじたちは、大人おとなのもつ時計とけいによって区切くぎられた時間じかんとはことなる時間じかんきているようだ。「きのう」とか「あした」とかの意味いみも、はっきりとしていないもある。「また、あしたにしようね」などとっているも、それは厳密げんみつにあしたということをさすのではなく、「ちか将来しょうらい」を意味いみしていることもおおい。
 あるいは、なにかに熱中ねっちゅうしていたが、なにかで中断ちゅうだんしなければならなくなったとき、「また、あしたにしよう」とうのは、このことをうことによって、中断ちゅうだんすることをみずからに納得なっとくさせようとする意味いみあいでっているもある。この場合ばあいの「あした」は、じゅうよんあいだ経過けいか存在そんざいする時期じきなどではなく、断念だんねんしなければならないという気持きもちと、なに希望きぼうのこしておきたいような気持きもちの交錯こうさくした現在げんざい状況じょうきょうをのべている表現ひょうげんなのである。
 みちくさをしたためにしかられる幼児ようじたちが、わるかったという気持きもちをあらわしながら、なんとも納得なっとくのいきかねる表情ひょうじょうをしていることがよくある。かれらもしかられながら、「おくれてしまった」「おそくなってわるかった」ということはよくわかっているのである。しかし、なぜおそくなったのだろう。「ぼくはなにもしてなかったのに」、「ちょっとだけ、おたまじゃくしをてただけなのに」とおもっているのである。たしかにどもたちは「ちょっとだけ」なにかをしていたのである。しかし、残念ざんねんなことに、それは大人おとなのもっている時計とけいでは「一時いちじあいだ」もみちくさをっていたことになるのだ。
 おたまじゃくしをていたどもが、一時いちじあいだを「ちょっとのあいだ」とおもったように、われわれ大人おとなでも、おないちあいだを、ながかんじたりみじかかんじたりする。時計とけいうえでは一時いちじあいだであっても、経験けいけんするものにとっては、その一時いちじあいだあつみがことなるようにかんじられるのである。もちろん、時間じかんそのものにはあつみなどあるはずがないから、あくまで、それを経験けいけんするものの主観しゅかんとして、あつみがしょうじてくるのだ。
 なにかひとつのことに熱中ねっちゅうしていると、時間じかんはやくたっていくことはだれもがっていることである。といっても、なにかひとつのことをしていると、かなら充実じゅうじつした時間じかんごしたことになるとはかぎらない。たとえば、テレビのドラマなどをるともなくていると、ついひきこまれてわりまでてしまう。わってみるといつのにか一時いちじあいだたってしまっている。しかし、このあとでは充実じゅうじつかんよりも空虚くうきょかんじをあじわうことだってある。時間じかんはやくたったとかんじられるが、そのあつみのほうはうすくかんじられるのである。
 あるいは、ひとつのことをしていても時間じかんながかんじられるときもある。その一番いちばん典型てんけいてき場合ばあいは、「っている」時間じかんである。だれかがるのをっているとき、われわれはなかなかのことができない。そわそわしながらつ。しかもそのあいだ随分ずいぶんながかんじられるのである。「つ」ということだけをしているのだが、時間じかんながかんじてしまう。
 これらのことをかんがえると、自分じぶんのしていることに、その主体性しゅたいせいがどのように関係かんけいしているかにしたがって、時間じかんあつみがことなってくるらしいとおもわれる。「つ」ことは、受動じゅどうてきなことである。そのじんがいつるかは、そのひと行動こうどうにまかされているわけでっているほうとしては、ただそれにしたがってつより仕方しかたがないのである。これはテレビの場合ばあいでも同様どうようである。テレビをわって充実じゅうじつかんのない場合ばあいは、わたしたちがテレビをたのではなく、テレビがわたしたちをひきこんでしまったのである。わたしたちは受動じゅどうてきていたのだ。
 どもがテレビをすぎることはよく問題もんだいになる。たしかにテレビをすぎることは、どもが「あたえられた映像えいぞう」を受動じゅどうてきたのしむことによって、主体しゅたいてき時間じかんをもたなくなるてん危険きけんせい存在そんざいしている。しかし、テレビの主体しゅたいてき見方みかただってあるはずである。怪獣かいじゅうにしろ、チャンバラにしろ、どもにとってはかなら経験けいけんしなければならない世界せかいなのである。だから、それをたいときには「主体しゅたいてき」に十分じゅうぶんさせることがいいのではないか。主体しゅたいてきにテレビをさせるということは、どもの「たいままに放任ほうにんする」ことではない。放任ほうにんなかから主体性しゅたいせいてこない。
 テレビはたいが勉強べんきょうはどうするのか、父親ちちおや野球やきゅうたいが子供こども漫画まんがたい。これをどう解決かいけつするか。食事しょくじちゅうにテレビをないのはわがのおきてである。ところが、食事しょくじ時間じかんにどうしてもたい番組ばんぐみができた。これをどうするか。
 これらの葛藤かっとう対決たいけつしていくことによってこそ主体性しゅたいせいられる。対決たいけつつうじて獲得かくとくした時間じかん、それは主体性しゅたいせい関与かんよするものとして、「あつみ」をもった時間じかん体験たいけんとなるのである。

河合かわい隼雄はやおどもの『時間じかん体験たいけん」)


長文ちょうぶん 3.4しゅう
 ぼくはどものころ、弱虫よわむしだったので、どちらかというと、いじめられるがわだった。それでも、ぼくよりもっといじけたにたいして、いじめなかったかというと、そうもいきれない。いまかんがえると、そのぼくは、とてもみじめだ。
 たとえば、近所きんじょおにがわらのようなかおがいて、「おに」とはやして、いじめたことがあった。そこへ、その母親ははおやなみだながしてびだしてきたとき、まったくびっくりした。いじめているがわは、ことの重要じゅうようさを理解りかいしていないことがおおい。
 いじめている人間にんげんが、つよいわけではない。抑圧よくあつされている人間にんげんは、いじめる相手あいてさがしがちなものだ。上級生じょうきゅうせい下級生かきゅうせいをいじめる学校がっこうは、たいてい管理かんりがきびしい。クラブだって、リベラル(自由じゆう主義しゅぎてき)な雰囲気ふんいきのあるところだと、上級生じょうきゅうせい下級生かきゅうせいともだちづきあいしている。いじめている人間にんげんはたいてい、体制たいせいによっていじめられている、よわ人間にんげんなのだ。つよければ、よわものいじめなんか、する必要ひつようがない。
 ときには、だれかをいじめているという、加害かがい意識いしきのないこともおおい。その集団しゅうだんが、いじめをつくっている。いじめられるほうにしてみれば、そのほうがつらい。つみ意識いしきなしにわるいことをするほど、こまったことはない。
 それでも、やがて、もしもまともに成長せいちょうすれば、そのときの自分じぶんが、こうした状況じょうきょう強制きょうせいされて、つみ意識いしきなしに、だれかをいじめていた事実じじつがつく。たいてい、そのときには、もう過去かこをとりもどすことができない。しかも、その自分じぶんは、そうした状況じょうきょうのなかで、よわくみじめで、そのよわさゆえに、そんなことをしていたことがわかる。
 こうした、みじめな気持きもちをつようには、ならぬほうがよい。いじめられているもみじめだろうが、あとになってかんがえてみると、いじめたほうだって、それにおとらず、みじめなものだ。
 とくにこのごろ、一種いっしゅ村八分むらはちぶみたいな、いじめかたがあるらしい。かれもしくは彼女かのじょが、存在そんざいしないようにあつかう。かおわさず、こえをかわさず、存在そんざい自体じたい無視むししてしまう。これは、一種いっしゅ精神せいしんてき殺人さつじんである。暴走ぼうそうよりも、万引まんびきよりも、もっとひどい、最大さいだいきゅう非行ひこうだとおもう。
 ときに、いじめの計画けいかくしゃがいないことさえある。集団しゅうだん自体じたいが、いじめ存在そんざいになる。ちょっと怪談かいだんじみたこわさがある。こうしたとき、みんな普通ふつう中学生ちゅうがくせいで、だれも、いじめているという意識いしきのないことがある。これは、なおこわい。いじめていないつもりで、いじめてしまっている、このこわさの感覚かんかくは、怪談かいだん感覚かんかくである。
 ときには、いじめられているまでが、それを意識いしきしていないこともある。こうなると、最高さいこうにこわい。意識いしきしていなくても、いじめは存在そんざいしている。意識いしきにのぼらないたましいそこで、一種いっしゅ夢魔むま世界せかいで、だれかがだれかをいじめている。
中略ちゅうりゃく
 中学生ちゅうがくせいあいだで、いじめがえているというのを、わるがいるからだとは、ぼくはおもわない。いじめっこも、たいていは、普通ふつうだとおもう。いまの中学生ちゅうがくせい状況じょうきょうが、そうしたよわ部分ぶぶんつくっているのだとはおもう。
 それでも、もしきみが、よくかんがえてみて、だれかをいじめているとしたら、すぐにやめたほうがよい。あとでかならず、それはきみにとって、とてもみじめなおもいになる。相手あいてにたいしてだけでなく、きみ自身じしん未来みらいのために、すぐにやめたほうがよい。
 だれかをいじめたくなるには、きみのおかれている空気くうきがあろう。それはわかる。でも、そのために、だれかをいじめるとしたら、それはきみのよわさだ。人間にんげんというものは、よわいもので、ぼくは人間にんげんよわさを、むしろいとおしむほうだが、この場合ばあいだけは、いや、この場合ばあいこそ、きみにつよくなってほしい。
 やるしゅっせとか、根性こんじょうでがんばれとか、そんなこえにのっかって、つよくなれというのは、ぼくの趣味しゅみではない。それより、どんな状況じょうきょうにしろ、状況じょうきょうけて、他人たにんをいじめることでしんのバランスをとったりしないような、自分じぶん自身じしんしんつよさがほしい。

もりあつし「まちがったっていいじゃないか」)