【1】「そこをなんとか」というい
方はきわめてあいまいである。「そこ」とは
何をさすのか。「なんとか」とはどういうことなのか。おそらく、これをそのまま
外国語に
翻訳したら、まったく
意味をなさないだろう。【2】いや、
意訳しても
通じまい。だいいち、
意訳のしようがない。
強いて
説明するなら、「あなたはそのような
理由で
拒絶なさるが、その
理由をもう
一度考え
直して、
私の
要求に
応じてくださるまいか」とでも
言うほかあるまい。
【3】しかし、
外国人が
理由をあげてたのみを
断る
場合は、「だから、
私はあなたの
願いをお
引き
受けするわけにはいかない」という
確固たる
立場を
表明しているわけで、したがって、もうそれ
以上いくらたのんでも、
応じてくれる
余地はない。【4】
相手の
要求をいれる
余地がないからこそ、
当人は
断ったのである。
ところが、
日本人は
義理人情にからまれて、どんなに
明白な
拒絶の
理由があろうと、
相手に
熱心にたのまれたら、それをむげに
断るのは、
何か
気がひけるように
思ってしまう。【5】われわれはそれを「
義理と
人情」のせいにするが、もともと
義理と
人情とは、
正反対の
概念なのである。「
義理」とは、
正当な
理のことであり、「
人情」とは、その
理を
解きほぐす
情を
意味する。【6】このように、
正反対のものを
一緒にし、
折衷して、
日本人はそこに
独特の
判断領域を
設定するのだ。それは、
別言すれば「
情状酌量」といってもよい。【7】つまり、
一切のことがらは、それ
自体完結しているのではなく、
時と
場合に
応じて、
伸縮自在の
形をとっているわけである。
【8】だから、
日本人のノーは、けっして
絶対的な
否定ではなく、その
一部にイエスを
含み、イエスは、その
中にノーの
要素をあわせ
持っている。【9】「
日本人の
不可解な
笑い」といわれるものは、その
時その
時の、こうした
判断から
生まれているように
私には
思われる。それを
勘案するあいだ、
日本人は
微笑しているのである。とうぜん、
外国人には、それが
狡猾なごまかしのように
映る。【0】けれど
日本人は、これこそが
人情、すなわち、もっとも
人間的な
対応とみなすのだ。
じっさい、「そこをなんとか」という
表現の
中には、
日本人のものの
考え
方が、じつによくあらわれている。その
考え
方とは、すべては
完全ではない、ということだ。そこで、たのむほうも、たのまれるほうも、いくばくかの
部分が
必ず
保留されていることを
前提に
話し
合う。したがって、あと、どのくらい
可能性の
余地があるか、その「
残された
部分」を
両者は
見きわめようとし、この
言葉が
頻出するわけである。
日本の
絵画の
特質に「
余白」の
美というのがある。それに
対してイスラムの
芸術は、まったく
逆で、
空白への
恐怖とも
思えるほど、びっしりと
空間をうめつくす。モスクの
絢爛たる
装飾に、それがよく
現れている。
もともと
砂漠の
民であるアラブ
人は、けっして
妥協の
余地を
認めない。それが、こうした
芸術の
性格にも
表現されているのではなかろうか。
ところで、
日本人の
好む「
余白」だが、これは
言うまでもなく、
可能性を
意味する。
画家は、そこに
何かを
描こうと
思えば、いくらでも
描き
足すことができるのだ。しかし、
彼は
描かない。
描かないことによって、
鑑賞者にその
部分を
預ける。「
余白」は
画家と
鑑賞者の
共有の
空間なのである。そして「
余白」をそれぞれが、
想像によってどのようにうめるか、
当の
作品は
作者と
鑑賞者、
双方の「せめぎあい」にかかっている、といってもよかろう。「そこをなんとか」することにより、
日本の
芸術も、その
価値を
決められるわけである。
(
森本哲郎の
文章による)