(Translated by https://www.hiragana.jp/)
課題集
長文ちょうぶん 7.1しゅう
【1】「ドタッ、バタッ」
 というおとこえ、わたし一体いったいなにてくるのだろうと、うれしいよりもこわくなってしまった。
 これまでで一番いちばん印象いんしょうのこっているプレゼントは、ななさい誕生たんじょうのときのことだ。なにしろ、品物しなものでもものでもなく、ものおくられたのだから。
 【2】両親りょうしんってきたのは、アメリカンショートヘアーの子猫こねこだった。わたしおどろかせようと直前ちょくぜんまでかくしていたようだが、ハウスのなか元気げんきよくうごまわおとが、廊下ろうかこうからひびいてきていた。
 【3】まだちいさかったわたしにとって、それは未知みち存在そんざいたいする恐怖きょうふとなり、ちちはこんでくるころにはその不安ふあん頂点ちょうてんたっしていた。よろこぶとばかりおもっていたちちは、わたしいまにもきそうなかおになっているのをて、こまってしまったとっていた。
 【4】ハウスからてきた子猫こねこは、想像そうぞうよりはるかにちいさかった。まるであたらしいみかをたしかめるかのように、まんまるひとみ周囲しゅういをきょろきょろと見回みまわしている。よちよちとテーブルをあるまわっては、こてんところんだりする。【5】そのかわいらしい姿すがたて、わたしは「この面倒めんどうわたしてあげなきゃ」と決意けついした。
 「ロビン」という名前なまえも、わたしなやみになやんでつけたものだ。しかし、そんなロビンとのらしは波乱はらん連続れんぞくで、わたしものうことの大変たいへんさをった。【6】食事しょくじやトイレのしつけはもちろんのこと、壁紙かべがみをボロボロにされたり、お風呂ふろれるたびに大騒おおさわぎになったり、脱走だっそうしたまま日間にちかんかえってこず、心配しんぱいたおれそうになったこともある。
 さらに、っこしてやろうとばせば、するりとしてしまうのだ。【7】いつでもにとれるぬいぐるみとはちがうのだと痛感つうかんさせられる。それでいて、自分じぶんがおなかいたときにはからだをこすりつけて露骨ろこつあまえてくるのだから、なんともにくらしい。
 学校がっこうでも飼育しいくがかりをした経験けいけんがあるが、その仕事しごといたときにエサをやったり、先生せんせい指示しじがあったときに水槽すいそうあらったりする程度ていどだった。
 【8】ロビンはもうすっかり、大切たいせつ家族かぞく一員いちいんである。だがいまにしておもえば、あのななさい誕生たんじょう両親りょうしんからプレゼントされたのは、もっとおおきな価値かちのあるものだったのかもしれない。
 【9】つまり、もの世話せわすることでたくさんのおも教訓きょうくんる、という機会きかいだ。こうした自分じぶん人生じんせいきてくるものこそ、人間にんげんにとって本当ほんとうにありがたいプレゼントなのではないかとおもった。【0】

言葉ことばもり長文ちょうぶん作成さくせい委員いいんかい ιいおた


長文ちょうぶん 7.2しゅう
 【1】「そこをなんとか」といういいかたはきわめてあいまいである。「そこ」とはなにをさすのか。「なんとか」とはどういうことなのか。おそらく、これをそのまま外国がいこく翻訳ほんやくしたら、まったく意味いみをなさないだろう。【2】いや、意訳いやくしてもつうじまい。だいいち、意訳いやくのしようがない。いて説明せつめいするなら、「あなたはそのような理由りゆう拒絶きょぜつなさるが、その理由りゆうをもう一度いちどかんがなおして、わたし要求ようきゅうおうじてくださるまいか」とでもうほかあるまい。
 【3】しかし、外国がいこくじん理由りゆうをあげてたのみをことわ場合ばあいは、「だから、わたしはあなたのねがいをおけするわけにはいかない」という確固かっこたる立場たちば表明ひょうめいしているわけで、したがって、もうそれ以上いじょういくらたのんでも、おうじてくれる余地よちはない。【4】相手あいて要求ようきゅうをいれる余地よちがないからこそ、当人とうにんことわったのである。
 ところが、日本人にっぽんじん義理ぎり人情にんじょうにからまれて、どんなに明白めいはく拒絶きょぜつ理由りゆうがあろうと、相手あいて熱心ねっしんにたのまれたら、それをむげにことわるのは、なにがひけるようにおもってしまう。【5】われわれはそれを「義理ぎり人情にんじょう」のせいにするが、もともと義理ぎり人情にんじょうとは、せい反対はんたい概念がいねんなのである。「義理ぎり」とは、正当せいとうのことであり、「人情にんじょう」とは、そのきほぐすじょう意味いみする。【6】このように、せい反対はんたいのものを一緒いっしょにし、折衷せっちゅうして、日本人にっぽんじんはそこに独特どくとく判断はんだん領域りょういき設定せっていするのだ。それは、別言べつげんすれば「情状じょうじょう酌量しゃくりょう」といってもよい。【7】つまり、一切いっさいのことがらは、それ自体じたい完結かんけつしているのではなく、とき場合ばあいおうじて、伸縮しんしゅく自在じざいかたちをとっているわけである。
 【8】だから、日本人にっぽんじんのノーは、けっして絶対ぜったいてき否定ひていではなく、その一部いちぶにイエスをふくみ、イエスは、そのなかにノーの要素ようそをあわせっている。【9】「日本人にっぽんじん不可解ふかかいわらい」といわれるものは、そのときそのときの、こうした判断はんだんからまれているようにわたしにはおもわれる。それを勘案かんあんするあいだ、日本人にっぽんじん微笑びしょうしているのである。とうぜん、外国がいこくじんには、それが狡猾こうかつなごまかしのようにうつる。【0】けれど日本人にっぽんじんは、これこそが人情にんじょう、すなわち、もっとも人間にんげんてき対応たいおうとみなすのだ。
 じっさい、「そこをなんとか」という表現ひょうげんなかには、日本人にっぽんじんのもののかんがかたが、じつによくあらわれている。そのかんがかたとは、すべては完全かんぜんではない、ということだ。そこで、たのむほうも、たのまれるほうも、いくばくかの部分ぶぶんかなら保留ほりゅうされていることを前提ぜんていはなう。したがって、あと、どのくらい可能かのうせい余地よちがあるか、その「のこされた部分ぶぶん」を両者りょうしゃきわめようとし、この言葉ことば頻出ひんしゅつするわけである。
 日本にっぽん絵画かいが特質とくしつに「余白よはく」のというのがある。それにたいしてイスラムの芸術げいじゅつは、まったくぎゃくで、空白くうはくへの恐怖きょうふともおもえるほど、びっしりと空間くうかんをうめつくす。モスクの絢爛けんらんたる装飾そうしょくに、それがよくあらわれている。
 もともと砂漠さばくみんであるアラブじんは、けっして妥協だきょう余地よちみとめない。それが、こうした芸術げいじゅつ性格せいかくにも表現ひょうげんされているのではなかろうか。
 ところで、日本人にっぽんじんこのむ「余白よはく」だが、これはうまでもなく、可能かのうせい意味いみする。画家がかは、そこになにかをえがこうとおもえば、いくらでもえがすことができるのだ。しかし、かれえがかない。えがかないことによって、鑑賞かんしょうしゃにその部分ぶぶんあずかあずける。「余白よはく」は画家がか鑑賞かんしょうしゃ共有きょうゆう空間くうかんなのである。そして「余白よはく」をそれぞれが、想像そうぞうによってどのようにうめるか、とう作品さくひん作者さくしゃ鑑賞かんしょうしゃ双方そうほうの「せめぎあい」にかかっている、といってもよかろう。「そこをなんとか」することにより、日本にっぽん芸術げいじゅつも、その価値かちめられるわけである。

森本もりもと哲郎てつろう文章ぶんしょうによる)


長文ちょうぶん 7.3しゅう
 【1】あれは小学校しょうがっこうさんねんころだったとおもうが、手作てづくりのむしかごのなかで、アオムシがキャベツのをすさまじいいきおいでべながら、ポトリポトリと緑色みどりいろのまるいおおきなくそふんとしていくのを、感心かんしんしながらながめていた記憶きおくがある。【2】消化しょうかされないセルロース(せんいもと)をあれだけべれば、立派りっぱくそふんをどんどんとしていかなければならないのだろう。べるということは、ずいぶん効率こうりつわるいことなのである。
 【3】ふつう草食そうしょく哺乳類ほにゅうるいでサイズのちいさいものは、だけをべるということはせず、もっと栄養えいようのつまっている果実かじつ種子しゅし貯蔵ちょぞう(いも)をべる。【4】ちいさい哺乳類ほにゅうるいは、体重たいじゅうあたりでくらべれば、非常ひじょうおおくのもの必要ひつようとするから、栄養えいようひくっぱだけできていくことはむずかしいのだろう。
 【5】サイズのおおきな哺乳類ほにゅうるいでも、くさふくまれている細胞さいぼうしつだけから栄養えいようをとることはせずに、もっとすぐれた方法ほうほうをあみだしたものが繁栄はんえいしている。ウシやヤギのようなはんすう動物どうぶつである。【6】かれらはいくつもの部屋へやかれたおおきな胃袋いぶくろをもち、このなか単細胞たんさいぼう生物せいぶつやバクテリアを共生きょうせいさせている。これらの共生きょうせい微生物びせいぶつにセルロースを分解ぶんかいさせて、それを自分じぶん栄養えいようにする。【7】だから、おなそうべるといっても、細胞さいぼうしつだけべてあとはてるのとは状況じょうきょうがまったくちがう。はんすうなどという芸当げいとうができるのも、巨大きょだい胃袋いぶくろをもてるだけ、からだのサイズに余裕よゆうがあるからだろう。
 【8】ほとんどのとりっぱはべない。ハクチョウなどの大形おおがたのものをのぞき、草食そうしょくせいとり果実かじつ穀物こくもつべる。これはぶことと関係かんけいするとおもわれる。【9】をたべるということは、栄養えいようひくいものを大量たいりょう摂取せっしゅすることを意味いみしている。これでは胃袋いぶくろばかりおもくなって、まわるには都合つごうわるい。
 【0】じつは、おなじことが昆虫こんちゅうにもあてはまる。くさうのは、ばない幼虫ようちゅう時代じだいなのである。変態へんたいしてぶようになったら、くさべない。みつ樹液じゅえきう。これらは栄養えいよう水溶液すいようえき、つまりドリンクざいのようなものだから、吸収きゅうしゅうがよく、おも胃袋いぶくろをかかえてよたよたぶことにはならず、都合つごうがいい。(中略ちゅうりゃく
 昆虫こんちゅう成功せいこう秘訣ひけつは、大量たいりょうにありながらほかの動物どうぶつたちがあまりしゅをつけなかったっぱという食物しょくもつをつけたところにある。しかし、くさうということは、おも胃袋いぶくろをかかえるわけで、移動いどうせい犠牲ぎせいにする。一本いっぽんくさいちひきぴきむしいつくしてしまったら、くさむしもおしまいであろう。イモムシのようなうごきののろいものが、くさいつくしながら、あたらしいくさもとめてはいまわるのは、現実げんじつてきでない。昆虫こんちゅうちいさいサイズは、一本いっぽんくさ満足まんぞくできる程度ていどの、てごろなサイズだとおもわれる。
 しかし、ちいさくてイモムシのようにはいまわっていては、ひろく子孫しそんをばらまいたり、よい環境かんきょうさがして移動いどうするには不利ふりである。そこで、じゅうぶんそうべてそだったら、変身へんしんしてはねをのばしてまわることにした。どのみち成長せいちょう過程かていでクチクラのからいで、あたらしいからつくらねばならないのだから、そのさいからだのつくりも大幅おおはばえてやるのは、そう抵抗ていこうはないだろう。こうしてはね昆虫こんちゅうは、ひろ範囲はんいまわり、どもがちゃんときていけそうなくさつけてたまごむ。幼虫ようちゅう自身じしんはあまりうごきまわれず環境かんきょうえらぶことはできないが、おやがかわりにえらんでくれるわけだ。
 昆虫こんちゅう羽化うか節目ふしめとしてしょくせい運動うんどうほうえる。幼虫ようちゅうは、あまりうごかず、ひたすらう。このときには胃袋いぶくろおもくてもいい。羽化うかして成虫せいちゅうになると、まわることがさい優先ゆうせんになり、消化しょうかのいいものだけをべる。なかには成虫せいちゅうになったらまったく食事しょくじをしないものもいる。このように昆虫こんちゅう変態へんたいすることにより、ちいさいサイズの短所たんしょ解消かいしょうした。昆虫こんちゅう生活せいかつは、まさにサイズと密接みっせつにかかわっているものなのである。

本川ほんがわ達雄たつお「ゾウの時間じかん ネズミの時間じかん」による)


長文ちょうぶん 7.4しゅう
 久助きゅうすけくん身体しんたいのなかに漠然ばくぜんとしたかなしみがただよっていた。
 ひるのなごりのひかりと、よるのさきぶれのやみとが、地上ちじょうでうまくとけあわないような、みょうにちぐはぐなかんじのひとときであった。
 久助きゅうすけくんたましいは、ながかなしみの連鎖れんさのつづきをくたびれはてながら、旅人たびびとのようにたどっていた。
 六月ろくがつ日暮ひぐれの、微妙びみょうな、そして豊富ほうふ物音ものおとが、戸外こがいにみちていた。それでいてしずかだった。
 久助きゅうすけくんひらいて、はしらにもたれていた。なにかよいことがあるようながした。いやいやまだかなしみはつづくのだというもした。
 するととおいざわめきのなかに、いちこえ山羊やぎのなきごえがまじったのをききとめた。久助きゅうすけくんはしまったとおもった。まれてからまだじゅうにちばかりの山羊やぎを、ひるま川上かわかみへつれていって、昆虫こんちゅうっかけているうちついわすれてきてしまったのだ。しまった。それと同時どうじに、山羊やぎはひとりでかえってきたのだと確信かくしんをもっておもった。
 久助きゅうすけくん山羊やぎ小屋こやよこへかけしていった。川上かわかみほうをみた。
 山羊やぎこうからやってくる。
 久助きゅうすけくんにはほかのものはなににはいらなかった。山羊やぎしろいかれんな姿すがただけが、――山羊やぎ自分じぶん地点ちてんをつなぐ距離きょりだけがみえた。
 山羊やぎちどまっては川縁かわぶちかわっぷちくさをすこしくえみ、またすこしはしってはちどまり、無心むしんあそびながらやってくる。
 久助きゅうすけくんはむかえにいこうとはおもわなかった。もうたしかにここまでくるのだ。
 山羊やぎ電車でんしゃどうもこえてきたのだ。電車でんしゃにもひかれずに。あの土手どてのこわれたところもうまくわたったのだ。よくかわちもせずに。
 久助きゅうすけくんむねあつくなり、なみだがにあふれ、ぽとぽととちた。
 山羊やぎはひとりでかえってきたのだ。
 久助きゅうすけくんむねに、今年ことしになってからはじめてのはるがやってきたようながした。
 久助きゅうすけくんはもう、兵太郎へいたろうくんんではいない、きっとかえってくる、という確信かくしんっていたので、あまりおどろかなかった。
 教室きょうしつにはいると、そこに――いつも兵太郎へいたろうくんのいたところに、洋服ようふくかえた兵太郎へいたろうくんしろくなったかおでにこにこしながらこしかけていた。
 久助きゅうすけくん自分じぶんせきへついてランドセルをおろすと、おおきくひらいたまま、兵太郎へいたろうくんをみてつっっていた。そうすると自然しぜんかおがくずれて、兵太郎へいたろうくんといっしょにわらした。
 兵太郎へいたろうくん海峡かいきょうこうの親戚しんせきいえにもらわれていったのだが、どうしてもそこがいやでかえってきたのだそうである。それだけ久助きゅうすけくんひとからきいた。かわのことがもとで病気びょうきをしたのかしなかったのかはわからなかった。だがもうそんなことはどうでもよかった。兵太郎へいたろうくんかえってきたのだ。
 休憩きゅうけい時間じかん兵太郎へいたろうくん運動うんどうじょうへはだしでとびしていくのをまどからみたとき、久助きゅうすけくんは、しみじみこのはなつかしいとおもった。そしてめったなことではなない人間にんげん生命せいめいというものが、ほんとうにたっとく、うつくしくおもわれた。

新美にいみ南吉なんきちかわ」)


長文ちょうぶん 8.1しゅう
 【1】紫色むらさきいろかがや大粒おおつぶ果実かじつが、まえにいくつもぶらがっている。そのなかひとつをもぎとってくちなかほうむと、みずみずしい甘酸あまずっぱさが一気いっきひろがった。自分じぶんでブドウのんで、そのべるなんてはじめての体験たいけんだ。【2】感激かんげきしてうしろをくと、ちちははもそれぞれ夢中むちゅうでブドウを頬張ほおばっていた。
 わたしたちは「旅行りょこうき」、「いしんぼう」というてん共通きょうつうした家族かぞくである。
 ちち仕事しごと一筋ひとすじはたらもので、毎日まいにちおそかえってきてはごはんべてすぐねむってしまう。【3】趣味しゅみらしい趣味しゅみもないそうだが、旅行りょこうかけたときだけはニコニコしていて、見違みちがえるほどエネルギッシュである。
 ははははで、よく同窓生どうそうせい旅行りょこうかける。かえってくる夕飯ゆうはんは、まって地方ちほう名物めいぶつ弁当べんとうだ。
 【4】あさはやくにきて、きゅう日帰ひがえ旅行りょこう出発しゅっぱつしたことはすうれない。この目的もくてきは、山梨やまなしのブドウはたけだった。
 ちちははは、どちらもくるま免許めんきょっている。運転うんてん交替こうたいできてらくなので、気軽きがるかけられるということもあるだろう。【5】ちち安全あんぜん運転うんてんだが、ははきわめてあぶなっかしい。一度いちど赤信号あかしんごうがつかずスーッと通過つうかしそうになったときには、わたし大声おおごえ注意ちゅういしなければならなかった。
 山梨やまなしいたら、さっそくブドウかりりである。
 【6】新鮮しんせんなブドウをたっぷりあじわったのち、ここがははいのはたけだということをおしえてもらった。ははわかいころにここへ旅行りょこうて、農家のうかひと仲良なかよくなったのだという。
 たびをすることで、あたらしい出会であいがまれる。【7】両親りょうしん旅行りょこうをすると、ときどきこうした発見はっけんがある。
 ブドウはたけとなりには、ワインの工房こうぼうもあった。めるじんがいないのが残念ざんねんだ……とおもっていたら、気付きづいたときにはははかおをしていた。
 【8】かえりの運転うんてんちち一人ひとりですることになってしまった。
 「可愛かわいにはたびをさせよ」というが、わたしたびはたいてい両親りょうしん一緒いっしょだ。しかし、ひとりでたびをするのとはまたちが意味いみで、わたしたびからいろいろなことをまなんでいる。【9】ちちははていると、大人おとなになってもたびたのしむしんわすれないことが人間にんげんには必要ひつようなのかもしれない、とかんじるのである。【0】

言葉ことばもり長文ちょうぶん作成さくせい委員いいんかい ιいおた


長文ちょうぶん 8.2しゅう
 【1】はなえがはじめるときしん画用紙がようしのように真白まっしろでありたいとおもっている。おな名前なまえがついているはなでもよくると、ひとひとつが人間にんげんかおちがうように、それぞれの表情ひょうじょうっているからである。【2】またおなはなでも、あさひるではほんのわずかいろわっている場合ばあいおおい。
 いくらなれたはなでも「このはなはこういうかたちをしているんだ」などと先入観せんにゅうかんをもってえがはじめると、はなにソッポをかれてしまうことがある。【3】花屋はなやさんでは、ひらきすぎたものはものにならないようだけれど、ひらきすぎて雌蕊めしべ雄蕊おしべがとびしたものも、ときにはハッとするくらいうつくしい表情ひょうじょうせてくれることがある。【4】はなびらがいちまいちてしまったのも、むしっているのもいいなあとおもう。わってはなびらが茶色ちゃいろくなってしまったのも……、それはけっしてんだはなではなく一生懸命いっしょうけんめいきて、いまむすはじめたもっともすばらしい時期じきむかえているのではないだろうか。
 【5】ふうれてぶらさがっているのもあれば、病気びょうきなにかでゆがんでいているのもある。日向ひなたひなたいきおいよくいているのもあるが、根元ねもとほうではあめのはねかえりをけて、うすぎたなくなったのもある。そういうのをていると、人間にんげん社会しゃかいおなじだなあとおもったりする。【6】あたまいのもいれば、わるいのもいる。うつくしいひとも、そうでないひとも、病気びょうきひとも、健康けんこうひとも……、いろいろなひとがいる。
 しかし、わたし自身じしん、「あいつは、ああいうやつなんだ」とほんのわずかしからないうちにめつけてしまうことが、なんとおおいのだろう。【7】はないろいちにちにして変化へんかするのだから、ましてしんっているひとるとき、自分じぶんのわずかなばかりめつけてしまうのなんてまった間違まちがっているとおもう。
 いまわたしまえには、みごとなきく大輪たいりんたいりんいている。【8】きく比較的ひかくてきなが期間きかんいているはなだけれど、それでもひとにそのはなをほめられている時期じきはほんとうにわずかである。【9】はなしたにあるひとひとつを、さらにそのしたにあるなかうつくしさを、はなびらのなかえがけるようになりたいとおもっている。【0】
(『ふうたび星野ほしのとみひろしとみひろちょ


長文ちょうぶん 8.3しゅう
 【1】国際こくさいじんとは一体いったいどんな人間にんげんのことなのか、わかっているようでわかりにくい。たん外国がいこくなんおこなったことがあるとか、西洋せいようのマナーをにつけているとか、外国がいこく知名度ちめいどたかいなどということではないようながする。【2】また、外国がいこく堪能たんのうたんのうであるというだけでも国際こくさいじんとはべないだろう。
 わたしなりのかんがえでは、「外国がいこくじん相手あいて自分じぶんかんがえをつたえたりしんかよわせることのできるひと」というようなものではないかとおもっている。【3】こうかんがえるとき、国際こくさいじんたるべきもっと大切たいせつ条件じょうけんとはなにだろうか。それは多分たぶん、「論理ろんりてき思考しこうし、それを論理ろんりてき表現ひょうげんする能力のうりょくつこと」ではないかとおもう。【4】言語げんご風俗ふうぞく習慣しゅうかんなどはくにによってことなっていても、論理ろんりなるものは万国ばんこく共通きょうつうだからである。日本人にっぽんじん議論ぎろんベタは有名ゆうめいであるが、その原因げんいん日本人にっぽんじんがこの能力のうりょくけているからだとおもわれる。
 【5】なぜ、論理ろんりてき思考しこう訓練くんれんくにでは十分じゅうぶんにされていないのだろうか。やはり教育きょういく真先まっさきあたまかんでてしまう。大学だいがく入試にゅうし目指めざして階段かいだんがるようなしょうなかだか学校がっこう教育きょういく、しかもそのなか知識ちしき修得しゅうとく偏重へんちょうされているということ。【6】このあたりにおおきな原因げんいんがあるのではないか。
 アメリカの大学だいがく初年しょねんせい日本にっぽん学生がくせいくらべてみると、アメリカ学生がくせいほう知識ちしきりょうでははるかにおとっている。びっくりするほど無知むちであるとってもよい。【7】しかし論理ろんりてきかんが表現ひょうげん行動こうどうすることにかけては、かれらは十分じゅうぶん訓練くんれんけているから、精神せいしんてきには成熟せいじゅくしていて、論争ろんそうになったりした場合ばあいには日本人にっぽんじん学生がくせいはとても太刀打たちうちできない。【8】一見いっけんアメリカの学校がっこう生徒せいと自由じゆうあそばせているだけのようにえるが、そういった訓練くんれんはきちんとなされているのである。
 【9】たとえば小学生しょうがくせい宿題しゅくだいとして「ピューリタン(キリストきょう宗派しゅうはひとつ)がアメリカに移住いじゅうしたころ服装ふくそうについて調しらべなさい」というようなものがされるという。生徒せいとはそれを調しらべるのになにをどんな順序じゅんじょ実行じっこうすればよいかをまずかんがえる。【0】そして、どこの図書館としょかんけばよいのか、どんなほんめばよいのか、どのようにしてそのほん借出かりだすのか、だれけば有益ゆうえき情報じょうほうられるか、などをかんがえることになる。
 一方いっぽう日本にっぽんでは、受験じゅけん勉強べんきょうのために、生徒せいとたちは知識ちしきやテクニックの修得しゅうとくばかりにいまくられている。論理ろんりてき思考しこうのために適当てきとうおもわれている数学すうがくでさえ、まりきったいくつかの公式こうしきのうちからどれをどの場合ばあいにあてはめるかというだけのものになっていて、この意味いみではたんなる暗記あんき科目かもくしている。論理ろんりてき思考しこう訓練くんれんはほとんどりにされているとえよう。
 それでは、論理ろんりてき思考しこうそだてるにはどうしたらよいだろうか。普通ふつうまず数学すうがく教育きょういくあたまかぶが、これは一般いっぱんしんじられているほど効果こうかてきとはおもえない。数学すうがくたしかに論理ろんりうえてられているが、いわゆる論理ろんりてき思考しこう最適さいてき教材きょうざいかどうかうたがわしい。わたしにはむしろ、「言葉ことば」を大切たいせつにすることがもっと効果こうかてきなようにおもわれる。言葉ことばというものは人間にんげん思考しこうふかむすびついている。言葉ことばたんなる思想しそう表現ひょうげんではない。言葉ことばによって思考しこうする、という意味いみでは言葉ことば思想しそう形作かたちづくるとさええる。思考しこう言葉ことばとはほとんど区別くべつ出来できないほどに一体化いったいかしている。この意味いみで、論理ろんりてき言葉ことば大事だいじにするということは、論理ろんりてき思考しこう大事だいじにすることにひとしい。
 このような観点かんてんから、国語こくご教育きょういく充実じゅうじつさせることがだいいちおもわれる。洞察どうさつりょくめぐまれた日本人にっぽんじんにとって意思いし疎通そつう言葉ことば必要ひつようとしないことはしばしばある。しかし、我々われわれ国際こくさいじんとしてきようとするかぎり、論理ろんりてき言葉ことばからのがれられないことはあきらかにおもわれる。
藤原ふじわら正彦まさひこ数学すうがくしゃ言葉ことばでは」より)


長文ちょうぶん 8.4しゅう
 イヌがよろこびを表現ひょうげんするときにることはよくられている。イヌのよろこびがおおきいときには、はげしくり、からだをくねらせる。みみ後方こうほうしぼられるようなかたちせている。いてもたってもいられぬようにびはねることもある。生後せいご半年はんとし前後ぜんこうわかめすでは、うれしすぎて尿にょうをもらす場合ばあいもある。
 このようなよろこびをあらわすのは、たとえば、ながあいだたびていたご主人しゅじんかえってきたようなときである。イヌは家族かぞくをひとつのれとしてかんがえているが、ぐんむれにはひとりひとりに順位じゅんい格付かくづけがある。当然とうぜん順位じゅんいうえひとえたときのほうがよろこびの表現ひょうげんはげしくなる。ひとたいしてよろこんでいるときのイヌは、年齢ねんれいわかいほどひとかおめたがるものである。
 いぬしゅによってよろこびの表現ひょうげんがあり、一般いっぱん日本犬にほんいぬよういぬほどオーバーではない。ようけんでも小型こがた愛玩あいがんいぬしゅと、シェパード、シベリアン・ハスキーなど使役しえきいぬしゅとの比較ひかくでは、飼主かいぬし居住きょじゅうおなじにしている愛玩あいがんいぬしゅのほうがよろこびの表現ひょうげんおおきい。
 イヌにはひと共同きょうどう作業さぎょうをしてほめられたときもうれしくなる習性しゅうせいがある。たとえば、ボールをげての「ってい」の訓練くんれんをさせると、イヌは嬉々ききとしてげたボールをくわえてきて飼主かいぬしわたすが、このときのボディランゲージは、「だいよろこび」とはややちがう。「上機嫌じょうきげん」あるいは「親愛しんあい」である。ボールをわたしたのち、「よーし、よくやった」という賞賛しょうさん言葉ことばうれしくなっている。はげしくはらず、ゆっくりとって、みみうしろにせている。ボールを主人しゅじんわたしたのちあしがわすわって訓練くんれんまでよくできているイヌは、くびばして主人しゅじんがもう一度いちどボールをげるのをつ。ときには「わん、わん」と催促さいそくすることがある。
 また、イヌはしかられたのちゆるしをうために「あまえ」のボディランゲージをせるが、そのときの位置いち催促さいそくのときとはちがって、したけている。つまり、恐縮きょうしゅく表現ひょうげんしながら、あそびにさそい、なんとか主人しゅじん機嫌きげんをなおしてもらいたいという魂胆こんたんである。
 ただし、イヌがこういう様子ようすせたからといって、しかられた理由りゆう理解りかいして二度にどおなじことをしないかといえばそうではない。しかられてりたときは、まず恐怖きょうふおぼえるものである。恐怖きょうふおぼえたときのイヌは、完全かんぜん股間こかんにまるめみ、みみ後方こうほうせてうずくまってしまう。まるめられたられることはない。しかられても「あまえ」をせるイヌには、しかられた意味いみかっていないものである。
 イヌがらないイヌにあって、うえにあげて小刻こきざみにるときは、相手あいて警戒けいかいしんったときである。同時どうじ攻撃こうげきすべきかかのまよいがある。みみ前方ぜんぽうけてしっかりとてられている。みみのハウンドしゅでも、みみ前向まえむきになるので、警戒けいかいしん攻撃こうげきてき気持きもちをいたことが判断はんだんできる。
 この場合ばあいたか位置いちるイヌほど気性きしょうつよ上位じょういのイヌである。イヌが相手あいて威圧いあつかんおぼえればげながらり、みみ後方こうほうけてせていく。
 したがって、イヌがっているから喧嘩けんかにはならないだろうとおもったらだい間違まちがいである。威圧いあつされたイヌがおびえながらも敵意てきいあらわしてきばせたりすると、っていたほうがいきなり攻撃こうげきをしかける場合ばあいもある。とくにテリア・グループは反応はんのうはやいので注意ちゅういする必要ひつようがある。

沼田ぬまた陽一よういち「イヌはなぜ人間にんげんになつくのか」)


長文ちょうぶん 9.1しゅう
【1】「ユウって本当ほんとうにロマンがないね!」
 あねにそうわれて、ぼくはぽかんとくちけてしまった。あねのきつい言葉ことばにはれていたが、そんなことをわれるとはまったく予想よそうしていなかった。
 それは去年きょねん双子ふたごあねにんで、夏休なつやすみの自由じゆう研究けんきゅうについて相談そうだんしていたときのことだ。【2】ぼくたちは地元じもとつたわるおとぎばなしについて調しらべ、発表はっぴょうしようとかんがえていた。「キツネにかされてんぼにっこちた」とか、「やまたすけたサルがおかえしにってきた」などというはなしに、あねむねをときめかせているようだった。
 【3】一方いっぽうぼくも、内心ないしんえていた。こういったはなし研究けんきゅうのしがいがある。そうおもって、「キツネやサルにそんな知恵ちえがあるはずはないから、人間にんげんどうしの出来事できごとをたとえたはなしではないか」と自分じぶんかんがえをはなしたのだ。そうしたら、あねはいきなりいかしてしまった。
 【4】あねによると、「ロマンがない」のがぼく短所たんしょだという。せっかくかわいらしい動物どうぶつたちの物語ものがたり想像そうぞうしているのにみずすな、というのである。しかし、そうわれても納得なっとくはいかない。ぼくにも意地いじがあった。結局けっきょくぼくあねはたもとをかち、おな題材だいざい別々べつべつ発表はっぴょうをすることになった。
 【5】そして夏休なつやすみがわり、自由じゆう研究けんきゅう発表はっぴょうするがやってきた。出番でばんあねさきだ。あね自分じぶんいたイラストをせながら、キツネやサルが主役しゅやくのおとぎばなし紹介しょうかいしていった。研究けんきゅう発表はっぴょうというより紙芝居かみしばい大会たいかいのようだったが、くやしいけれど面白おもしろ内容ないようになっていたとおもう。
 【6】おかげでぼくはすっかり尻込しりごみしてしまった。今度こんどあねばかりか、クラスのみんなに「ロマンがない」とわれるかもしれない……。だが、いまさらすわけにはいかなかった。
 ぼく勇気ゆうきをふりしぼって、図書館としょかん調しらべたはなし発表はっぴょうしていった。【7】むかし道路どうろ舗装ほそうされておらず、ったひとんぼに転落てんらくするのはしょっちゅうだったこと。やまはさんだとなりむらから迷子まいごを、おくかえしてあげたはなしがあること……。発表はっぴょうわったあと、担任たんにん城田しろたしろた先生せんせいはにっこりわらって、こうってくれた。
「とても面白おもしろかった。ユウくんの探究たんきゅうしんはすごいね。」
 【8】その言葉ことばいて、ぼくはすっとむねのつかえがとれたようなおもいがした。
 たしかに、ぼくあねうように「ロマンがない」のかもしれない。しかしそのわりに、先生せんせいみとめてくれた「探究たんきゅうしん」がある。それがぼく長所ちょうしょだ。「短所たんしょをなくすいちばんよい方法ほうほうは、いまある長所ちょうしょばすことである」という言葉ことばがある。【9】ぼく自信じしんって、長所ちょうしょである探究たんきゅうしんばしていきたい。
 人間にんげんにとって、自分じぶん長所ちょうしょ短所たんしょ気付きづかされる経験けいけん貴重きちょうである。指摘してきしてくれるひとがいるということも、ありがたいことだ。いまでは、城田しろたしろた先生せんせいはもちろん、あねにも感謝かんしゃしている。【0】

言葉ことばもり長文ちょうぶん作成さくせい委員いいんかい ιいおた


長文ちょうぶん 9.2しゅう
 【1】イギリスじんいぬしつけしつけることが上手じょうずである。わたしいえまえ英国えいこく大使館たいしかん公邸こうていで、さんねんごとに交替こうたいするどの家族かぞくも、かならいぬをつれてくる。もうななはち家族かぞくかわったとおもうが、いぬいぬじつ見事みごとほかないほどぎょうぎがよい。
 【2】なか必要ひつようにほえたてたりさわいだりすることがないどころか主人しゅじんって散歩さんぽするときでもじつにおとなしい。よそのいぬっても、ほえもしなければることもしない。【3】主人しゅじんかたわらについてまえてただ黙々もくもくあるいていく。むろん引綱ひきづなくさりもなしである。
 これにくらべると日本人にっぽんじんいぬは、こちらがずかしくなるほどめちゃめちゃである。びかかったり、ほえたり、おおきないぬ場合ばあいなど主人しゅじんさえるのに苦労くろうする。【4】いぬかれて、小走こばしりになるひとおおい。せまみちいぬをつれた日本人にっぽんじん同士どうし出会であときがこれまた面白おもしろい。ちいさなよわそうないぬをつれたひとは、横道よこみちにそれたり、かえすことさえある。【5】おんなひとなどは、つれているちいさないぬをかばってげ、足早あしばやとおりすぎてくこともしばしばである。
中略ちゅうりゃく
 このようなはっきりしたちがいは一体いったいなに原因げんいんなのだろうか。【6】わたしかんがえでは人間にんげん動物どうぶつのおたがいの位置いちづけが、イギリスじん日本人にっぽんじんではまったくことなることから出発しゅっぱつしているとおもう。
 日本人にっぽんじんは、いぬねこそしてうまのような家畜かちく人間にんげん完全かんぜん支配しはい位置いちするもの、人間にんげん従属じゅうぞくする存在そんざいとはみなしていない。【7】もちろんこのような動物どうぶつ世話せわし、えさをやり、利用りようするためにころすというような外見がいけんてきめんでは日本にっぽんとイギリスでもさほど目立めだ相違そういはない。
 日本人にっぽんじんにとっていぬはそれ自体じたい自由じゆう自律じりつてき存在そんざいなのである。【8】日本人にっぽんじんのペットとか家畜かちくというかんがえは、このようなおたがいに独立どくりつした主体しゅたいてき存在そんざいとしての人間にんげんいぬ交差こうさしたところに成立せいりつしている。実際じっさいごく最近さいきんまでいぬをつないでおくとかがこいにれておくという習慣しゅうかん日本にっぽんにはなかった。【9】いぬはあたりを自由じゆう勝手かってあるまわ残飯ざんぱんやごみをあさる。
 勝手口かってぐちあらわれるいぬえさあたえているうちに、いつのまにかうちのいぬになることもしばしばであった。けん以上いじょういえおなけんをうちのいぬだとおもっていたなどということもあった。【0】またいぬいえひとらぬあいだに、えんしたなどで子供こどもむ。これもいぬ勝手かってである。ところが家人かじんにとっては、いりもしない厄介やっかいしゃをしょいむことはこまる。こんな場合ばあいに、いぬもっと人通ひとどおりのおおはしのたもとなどにてにくのだ。
 てるひとは、いらぬいぬ自分じぶん生活せいかつけんからとおざけて、必要ひつようなかかわりをつことだけが目的もくてきで、そのいぬなにころすことはないのである。人通ひとどおりがおおければ、だれ仔犬こいぬしいひとがいて、ひろってくかもれない。事実じじつおおくのいえいぬうようになるいきさつは、子供こどもひろってきたからしょうがなく、いてしまったというのがおおかった。
 イギリスじん家畜かちくとは人間にんげん完全かんぜん支配しはいすべき、それ自身じしん自律じりつせいたない存在そんざいかんがえている。いぬ人間にんげん人間にんげんのために利用りようする従属じゅうぞくてき存在そんざいであるから、ぎゃく一切いっさい面倒めんどう責任せきにん人間にんげんにある。不要ふよういぬや、回復かいふくむずかしい病気びょうきにかかったいぬを、自分じぶんころすのは、きるもぬも支配しはいしゃとしての人間にんげんめてやるべきだというかんがえにもとづいている。
 だから日本人にっぽんじんのように、いぬてたりすると、人間にんげんとしての責任せきにんをはたしていないと非難ひなんするのだ。したがってかれらにとっては、いぬ安楽あんらくさせることがただしいいぬあつかかたとなる。一口ひとくちえば、徹底的てっていてき人間にんげん中心ちゅうしんてき動物どうぶつかんなのである。なに残酷ざんこくなに残酷ざんこくでないかは人間にんげんのきめることなのだ。だから一般いっぱんにヨーロッパじん残酷ざんこくというかんがえは温血動物おんけつどうぶつまりなのである。
 そこで日本にっぽんいぬてられるといって、いぬのためにかなしむイギリスの婦人ふじんも、大正たいしょうエビはきたまま熱湯ねっとうんで料理りょうりするのが一番いちばんよいとって平然へいぜんとしている。またべるためでなく、たのしむためにさかなるのも残酷ざんこくではないのだ。おおきなカジキマグロとなんあいだうみうえ全力ぜんりょくくしてたたかうことは素晴すばらしいスポーツなのであって、さかなくるしむだろうとかんがえないのもおな理由りゆうである。
 もちろんイギリスじんでも日本人にっぽんじんでも、一般いっぱんひとはいまべたような動物どうぶつかん生命せいめいかんをはっきり意識いしきしているわけではない。けばいろいろと理屈りくつづけはするだろうが、人々ひとびと無意識むいしきうごかしている基本きほんてき価値かち体系たいけい枠組わくぐみというものは、じつふかくかくれているのである。
 日本にっぽん南極なんきょく観測かんそくたいが、こおりにとじめられてヘリコプターでやっと脱出だっしゅつしたときれていった樺太からふといぬりにしてきたことがあった。このとき日本にっぽんはむろん、外国がいこくからも非難ひなんこえがあがった。
 隊員たいいんたちは、ただ可愛かわいがっていたいぬたちをころすにしのびなかったのである。だれいぬどもが翌年よくねんまできのびようとはかんがえなかった。それでもころにはなれないのだ。ところがどうであろう。翌年よくねん観測かんそくたいふたた昭和しょうわ基地きちおとずれたとき、とう生存せいぞんしていたのだ。ころさなくてよかったと隊員たいいんたちおもったにちがいない。人間にんげん本位ほんい人間にんげん中心ちゅうしん家畜かちく始末しまつほうとはちがい、ここでは日本人にっぽんじん動物どうぶつ処理しょりほうほうったのである。すくなくとも、いぬ幸福こうふく中心ちゅうしんかんがえればである。


長文ちょうぶん 9.3しゅう
 【1】人間にんげんおよび動物どうぶつとおして、広義こうぎのあいさつ行動こうどうは、一体いったいどのようなときこるものだろうか。だいいちかんがえられるのは、個体こたい個体こたいとの出会であいである。【2】たがいに見知みしらぬものどうしが出会であときうまでもなく、すでにっているものあいだでも、出会であいがある程度ていど離別りべつのちこった場合ばあいには、動物どうぶつ人間にんげんわず一般いっぱんにあいさつ行動こうどうられる。
 【3】未知みちものどうしの出会であいでは、相手あいて素性すじょう気持きもちがわからぬことからくる不安ふあん警戒けいかいねんが、とくにあいさつ行動こうどう要求ようきゅうするのである。【4】そこであいさつをおこなうことによって、なによりもまず、相手あいてたいして敵意てきいがいのないことをしめし、同時どうじ不安ふあんからくる相手あいて攻撃こうげき本能ほんのう発動はつどうおさえる、つまり、相手あいてをなだめ、安心あんしんさせるのである。
 【5】人間にんげん場合ばあい出会であいのあいさつ行為こういは、相手あいて以後いごなかよくとも行動こうどうしてゆける仲間なかまかどうかの、身元みもと確認かくにんにもつながっている。そのためには、あいさつがそれぞれの社会しゃかいで、文化ぶんかてき慣習かんしゅうされている一定いってい形式けいしきにしたがっておこなわれることが必要ひつようとなる。【6】この性質せいしつつよくもった、やや特殊とくしゅなあいさつとしては、仁義じんぎてき味方みかた暗闇くらやみ判別はんべつするのにもちいられる合言葉あいことばなどがあげられる。
 毎日まいにち一緒いっしょらしている家族かぞく場合ばあいでも、またおな学校がっこう職場しょくばかようものどうしでも、一夜いちやけたあさ出会であいのときには、かならずあいさつをする。【7】社会しゃかい生活せいかついとな人間にんげんにとって、わかれてときごすということは、わたしたちがおもっている以上いじょうに、他者たしゃたいするれぬ不安ふあんをつのらせるものらしい。
 【8】たしかにだれかと一緒いっしょにいるときは、そのひと気持きもちの変化へんかについていきやすいし、おな状況じょうきょうしたにいるわけだから、自分じぶん相手あいてとの相互そうご関係かんけいもわかっている。【9】ところがいったんはなれてしまうと、そのあいだは、二人ふたり別々べつべつ経験けいけんをすることになるため、気持きもちのズレやかんがかたちがいがしょうじてしまう可能かのうせいがある。だからこそふたた出会であったとき、両者りょうしゃ気持きもちや関係かんけいが、わかれるまえおなじでわっていないことを確認かくにんしたいのである。【0】このことは、なぜ人間にんげんわかれるときにもあいさつをするのかという問題もんだいにもつながっていく。
 わたしたちがわかれのさいにあいさつをする理由りゆうは、ふたたときまで、いまわかれるときおな親愛しんあい気持きもち、同一どういつ帰属きぞくかん相手あいていだつづけることを、あらかじめ確認かくにんしておきたいのである。
 このような解釈かいしゃくただしいとおもわれる理由りゆうは、つぎのような事実じじつ意味いみかんがえてみればわかる。人間にんげんでも動物どうぶつでも、みじかわかれののち出会であいのさいのあいさつと、なが別離べつりのちこった再会さいかいのあいさつとでは、その入念にゅうねんさ、つよさがことなるのである。(中略ちゅうりゃく
 動物どうぶつ場合ばあいおなじで、旅行りょこうなどで主人しゅじんながあいだをあけたのち帰宅きたくしたようなとき、飼犬かいいぬよろこびのあまりねて主人しゅじんむかえることは、いぬったことのあるひとならだれでもっているとおりである。しかし毎日まいにちなん主人しゅじんかおえるときは、これほどの大騒おおさわぎはしない。人間にんげん動物どうぶつのあいさつ行動こうどうおおきくちがてんは、動物どうぶつさき予測よそくができないため、別離べつりのあいさつがないことである。
 さて長期間ちょうきかんわかれの前後ぜんごのあいさつは、いまべたようになが複雑ふくざつなものとなるうえに、餞別せんべつとかおみやげといった物的ぶってきなしるしをおくることによって、さらなる補強ほきょうけることもおおい。このようにてくると、わたしたちにとってたがいにわかれているということが、どれほど不安ふあん心配しんぱいなものなのかが、よく理解りかいできるとおもう。

鈴木すずき孝夫たかお文章ぶんしょうによる)


長文ちょうぶん 9.4しゅう
「ただいま」
「ゆたか、ちょっときなさい」
 おかえりの返事へんじもなく、びつけたおとうさんのこえは、いつもよりつよかった。
「おまえか、ねこをひろってきたのは」
 居間いまにはいるなり、みみにつきつけられた言葉ことばあしがすくんだ。
「カラスがねらっていたから……。べられちゃうから……」
いまから、もどしてきなさい。もとのところへ……」
「……」
 いやだとおもった。それでもくちにはだせなかった。
「おとうさんは、ねこアレルギーなの。子供こどものころ、ぜんそくをわずらったことがあるの、それ、ねこ原因げんいんかもしれないんだって」
ともだちで、ってくれるひとさがすから……」
「いなかったらどうするの」
 そうった、おかあさんのわきで、おとうさんがこっちをていた。にらまれているようで、をあげられなかった。
「それまで、納屋なやうから、自分じぶんきていかれるようになったら、のらねこにするから」
「ききわけのないやつだなあ、のらねこやしてどうするんだ。のらねこのせいで迷惑めいわくこうむっている人間にんげんのことは、どうなるんだ」
「……」
「とにかく、うちじゃえないから、もとのところにもどしてきなさい。おまえわるいんじゃない、最初さいしょにすてた人間にんげんわるいんだ。うちでそだてて、のらねこやしたら、うちが悪者わるものにされる。かるな……」
「……」
 もうくちごたえはできなかった。
いまからいってきなさい」
「だれか、ねこきなひとがひろってくれるかもしれないでしょ」
 そうくわえたおかあさんの言葉ことばは、こえだけやさしかった。ゆたかは、言葉ことばをうしなったままにがった。
ちなさい。これミルクとおさら。ひろってくれるひとがあらわれるまでに、んじゃうとこまるから……」
 おかあさんがしだした、牛乳ぎゅうにゅうパックとプラスチックのさらり、ゆたかは納屋なやあるいた。あるきながら、こうなることは、はじめからかっていたようながした。
 納屋なやはいると、その気配けはいかんじたのか、子猫こねこたちがきだした。納屋なや電灯でんとうをつけると、けんめいにがって、あいもとめる子猫こねこたちの姿すがたがあった。たったふたつの、こんなちいさないのちでさえ、まもってやることのできない自分じぶんのことが、みじめでならなかった。おおきくなって、自分じぶんはたらきだしたら、ぜったい、おとうさんのうことも、おかあさんのうこともかない。そうおもいながら、子猫こねこはいったはこにふたをした。子猫こねこたちが、キーキーきながら、たすけてよと、うったえかけるようにはこなかうごきまわった。
 公園こうえんからえる街灯がいとうひかりがゆれている。古本屋ふるほんやのおじいさんのいえに、かりの気配けはいはなく、廃屋はいおくが、自分じぶんのしでかしたつみのきずあとのようにたたずんでいた。
 ゆたかは、ゆびにミルクをつけて子猫こねこたちのくちにもっていき、れないおもいのままに時間じかんごしていた。子猫こねこは、ミルクのついたゆびにしゃぶりついて、けんめいにもうとする。そのざらついたした感触かんしょくが、指先ゆびさき心地ここちよい。
中略ちゅうりゃく
 きようとしている子猫こねこたちをつめているうちに、ゆたかは、どうしてもたすけてやりたくなった。ここにはなっておけば、明日あしたあさにはカラスがくるだろうとおもった。あたまなかでは、子猫こねこたちをかくしておける安全あんぜん場所ばしょをさがしまわっていた。自分じぶんいえで、つからない場所ばしょは、もうなかった。あそこ、こことおもいをどんなにめぐらせても、ひとのないところはおもたらなかった。

笹山ささやま久三きゅうぞう「ゆたかはとりになりたかった」)