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課題集
長文ちょうぶん 4.1しゅう
長文ちょうぶんふたつある場合ばあい音読おんどく練習れんしゅうはどちらかひとつで。】
 【1】国境こっきょうえて移動いどうする人々ひとびとにとって、連続れんぞくせい保証ほしょうはなによりもつよ希求ききゅうするところとなる。【2】なかには、抑圧よくあつてき社会しゃかい体制たいせいからのがれることをひとつの目的もくてきとし、あこがれのあたらしい世界せかいもとめてきょうつものたちもいるが、それでも知己ちき親戚しんせきなどのつてをたより、同国どうこくじんあるいはどう民族みんぞくコミュニティのなかむかえられることをねがもの多数たすうであろう。【3】さきにあげたアルジェリアのカビール地方ちほうこうふつ移民いみんたちが「フランスははじめて土地とちではない」とおもんでいるということは、この連続れんぞくせい想定そうていであり、もっといえば連続れんぞくせいへの願望がんぼうであろう。【4】いくぶんともそのような想定そうていをもつことなしには、移動いどうという行動こうどうがそもそもこりえないだろう、ということはすでにべた。連続れんぞくせい想定そうてい機能きのうてき意義いぎおおきい。
 【5】しかし、こうした連続れんぞくせい想定そうていうえでの移動いどうは、また、移民いみんたちの生活せいかつをさまざまに限界げんかいづけてしまう。そのもっとも顕著けんちょれいは、言語げんごへのかれらの態度たいどである。【6】かつてトルコの東部とうぶから連鎖れんさ移民いみんてきにドイツのまち々にやってきた移民いみんたちは、「ドイツができなくとも、トルコじん先住せんじゅうコミュニティにむかえてもらえばなんとかなる」とおもい、ドイツまなろうもとらずドイツにいた。【7】たしかにコミュニティのなか生活せいかつしているかぎりおおきな不自由ふじゆうはないが、そこからそとへと人間にんげん関係かんけいひろげていくことはほとんどできない。職場しょくばなかでのかれらの位置いちも、トルコじん同僚どうりょうとするかぎられた地位ちいにすぎなくなってしまう。
 【8】言語げんごかんしては、きゅう植民しょくみんからきゅう宗主そうしゅこくにやってきた移民いみん場合ばあいに、連続れんぞくせい幻想げんそうがかえっていち陥穽かんせいとなるおそれがある。【9】たとえばアルジェリアからフランスへの移民いみんには――すくなくともこのくにのアラビア本格ほんかくてきはじまる以前いぜんろく年代ねんだいらい仏者ぶっしゃには――「フランス語ふらんすご使つかえるから、問題もんだいはない」というおもみがあった。【0】だが、かえってそのおもみのため、フランス語ふらんすごまなぶという動機どうきづけがよわく、夜間やかん講座こうざかようなどのろうもとらず、そのためふつ進歩しんぽがはかばかしくない、という問題もんだいしょうじていた。じっさい、かれらが「フランス語ふらんすごには問題もんだいはない」というのは、せいぜい日常にちじょう会話かいわのそれであって、言語げんご資本しほんとしてはまずしい。フランス語ふらんすごきはこころもとなく、自分じぶん手紙てがみくことはもとより、新聞しんぶんむこと、職場しょくば操作そうさマニュアルをむことも困難こんなんなのである。となると、いざ職場しょくば技術ぎじゅつ革新かくしんがおこなわれ、あたらしい技術ぎじゅつシステムが導入どうにゅうされるときなど、かれらのきのむずかしさが、そのまま技術ぎじゅつてき適応てきおう困難こんなんこし、雇用こよう不安ふあんにさらされることになるのである。
 連続れんぞくせい保証ほしょう問題もんだいんでいるべつのケースをあげれば、それは、日本にっぽんへの出稼でかせすう近年きんねん増大ぞうだいしているブラジル、ペルー、アルゼンチンなどの出身しゅっしんしゃ場合ばあいであろう。日本語にほんご保持ほじりつたか日系にっけいせいはまだしも、さんせいになると、日本語にほんご使つかえるものがきわめて少数しょうすうとなるが、かれらは来日らいにちにあたって、旅行りょこうぎょうをもかねる斡旋あっせん業者ぎょうしゃにすべてをゆだねることで、連続れんぞくせい確保かくほしようとする。ビザの申請しんせいから、しょく斡旋あっせん来日らいにち住宅じゅうたく手配てはいまですべて業者ぎょうしゃまかせ、来日らいにちすると、派遣はけん業者ぎょうしゃがれ、ここでも日本語にほんご使つかわず、ほとんどあらゆる手続てつづきが代行だいこうされるのである。当人とうにんは、ポルトガル、スペイン使つかい、本国ほんごく文化ぶんかしたがいながらなんとか日本にっぽん職業しょくぎょう生活せいかつなか位置いちることになる。日本にっぽん社会しゃかい制度せいどかんする知識ちしきみずからの努力どりょくようとするものおおくない。当座とうざはその必要ひつようがないとかんじるからである。しかし、その代償だいしょうちいさくなく、日本にっぽん社会しゃかいなかでのかれらの孤立こりつ一部いちぶこのことに由来ゆらいしている。

宮島みやじまたかし文化ぶんか不平等ふびょうどう』)
 【1】あたらしい様式ようしき創造そうぞうするということは、美術びじゅつにおける進歩しんぽ中核ちゅうかくてき意義いぎである。
 美術びじゅつにおける進歩しんぽは、科学かがく進歩しんぽなどとはおもむきことにしている。科学かがくまえ成果せいかだいとして、のものがそのさきるのであるが、美術びじゅつにおいてはすぐれた成果せいかかならずしものもののだいとはならない。【2】それぞれの傑作けっさくは、すべて特殊とくしゅな、ただ一回いっかいてきなもので、そこからさきけない「絶頂ぜっちょう」のような意味いみっている。たとえばギリシアの彫刻ちょうこくとかルネッサンスの絵画かいがとかのように、おなじやりかたではどうしてもそこからさきられないものである。おなじやりかたをすればかならずエピゴーネンになってしまう。【3】だから美術びじゅつ進歩しんぽをもたらそうとすれば、さきのものがのこしたあたらしいいだし、それにあたらしいかたちづけをしなくてはならない。それがあたらしい様式ようしき創造そうぞうなのである。
 そういう創造そうぞうのことをかんがえるごとに、わたしはいつもミケランジェロの仕事しごとおもす。【4】かれ作品さくひん実際じっさいわたしにそういう印象いんしょうあたえたのである。ギリシア彫刻ちょうこくうつくしさや、その作者さくしゃたちのすぐれた手腕しゅわんを、かれほどふか理解りかいしたひとはないであろうが、その理解りかい同時どうじに、ギリシアじんおな見方みかたおなじやりかたでは、到底とうていさきへはられぬということの、痛切つうせつ理解りかいであった。【5】だからかれ意識いしきしてそれをけ、見方みかたのやりかたをさがしたのである。すなわちギリシアてき様式ようしき否定ひていのうちに活路かつろいだしたのである。【6】「かたち」が内的ないてき本質ほんしつであり、したがって「うち」がのこりなく「そと」にあらわれているというやりかたたいして、うちおくにかくれ、そとはあくまでもうちたいする他者たしゃであって、しかもうち表現ひょうげんしているというやりかた、すなわちそれ自身じしんにおいてあらわれることのない「精神せいしん」の「外的がいてき表現ひょうげん」というやりかたったのである。【7】したがってつくられた形象けいしょうの「表面ひょうめん」がっている意味いみは、全然ぜんぜんわってくる。それはうちなるふかいものをつつんでいる表面ひょうめんである。そういうやりかたかれ絶頂ぜっちょう到達とうたつした。かれのあとからおなじやりかた踏襲とうしゅうするものは、「なにかをつつんでいる表面ひょうめん」だけをつくりながら、なかからっぽであるという印象いんしょうあたえる。【8】おなじやりかたかれさきることはできないのである。ロダンが「なにかをつつんでいる表面ひょうめん」をおもってて、めん形成けいせいしているあらゆるてんうちからそといているようなあたらしい表面ひょうめんつくしたとき、はじめて近代きんだい彫刻ちょうこくいちさきることができた。
 【9】そうかんがえてくると、あたらしい様式ようしき創造そうぞうにはふる様式ようしき重圧じゅうあつ必要ひつようだということになる。ふる様式ようしきによる傑作けっさく十分じゅうぶん理解りかいすればするほど、そこからの解放かいほう要求ようきゅうあたらしいみち探求たんきゅうさかんになる。すなわちできあがったひとつの様式ようしきのなかには、あたらしい様式ようしき必然ひつぜんしてくような潜勢力せんせいりょくがこもっているのである。【0】だからこそ過去かこ傑作けっさく鑑賞かんしょうや、その鑑賞かんしょう容易よういならしめる美術館びじゅつかんは、美術びじゅつ進歩しんぽ重大じゅうだい意義いぎになうことになる。それぞれの時代じだい、それぞれの様式ようしきにおいて、「絶頂ぜっちょう」を意味いみするような傑作けっさくが、美術館びじゅつかんならんでいて、いつでもられる、という社会しゃかいにあっては、わばそういう傑作けっさく権威けんい君臨くんりんしているのである。そういう世界せかいいくふんかでも独創どくそうてき仕事しごとをするためには、みぎ権威けんい重圧じゅうあつをはねかえして、あたらしい様式ようしきをつくりさねばならぬ。美術館びじゅつかんはそういう運動うんどう原動力げんどうりょくとなっているといってよい。

かずつじ哲郎てつろう文章ぶんしょうもとづく)


長文ちょうぶん 4.2しゅう
 【1】そのむかし、サングラスをつということは、ちょっとした冒険ぼうけんであった。それをかけてまちあるくことは、もっとである。たとえばサングラスというのは、世間せけんたいしてすこしばかりうしろめたいところのあるひとがかけるものであって、それだけにややロマンチックなおもむきはあったものの、当然とうぜんながら周囲しゅういからそれらしいられる。【2】つまりサングラスをかけてまちあるくためには、つねにそのたね視線しせん予定よていしなければならず、そのなか平然へいぜんとしていられる心構こころがまえがなければならなかったのである。
 もちろん、いまはもうそんなことはない。【3】現在げんざいは、普通ふつう人々ひとびと普通ふつうにサングラスをかけてまちあるいているし、そんなものをかけているからとってだれも、かえってたりはしない。どことなく、後暗うしろぐらいところのあるひと、という印象いんしょううすれたかわりに、それにともなうロマンチックなおもむきえてしまった。ただ、どうなんだろうか。【4】そうかとって現在げんざいサングラスをかけているひとすべてが、ひかりから保護ほごするためにそうしているとはおもえない。
 よる人工じんこう光線こうせんなかでもサングラスをはずさないひとがいて、かれわせると「サングラスをとると、ているものをいではだかにされたようでずかしい」のだそうである。【5】またひとりは、「わたしひとをじっとくせがあるので、ひといやがられないようサングラスをしているのだ」とう。どうやらサングラスの、「かくみの」としての役割やくわりはまだのこっていて、それが一般いっぱん利用りようされているのであろう。【6】もしかしたら、周囲しゅうい人々ひとびとの「かくれているな」という関心かんしんかなくなったぶん、よりさりなくかくれることが出来できるようになったのかもしれない。
 最近さいきん対人たいじん関係かんけい淡泊たんぱくになったと、よくわれる。にくむことにも、あいすることにも、さほど情熱じょうねつてきでなくなったのである。【7】「君子くんしまじりはあわきことみずごとし」というかんがかたからすれば、それぞれ君子くんしいきたっしたともえるのであるが、実際じっさいにはどうなのだろうか。わたしわせれば、それだけ人々ひとびとがつつしみふかくなったというより、むしろ対人たいじん関係かんけいのそうしたわずらわしさにつかれた、というかんじがしてならない。【8】そして、そのこととサングラスが、無関係むかんけいではないようにおもえるのだ。
 わたしなんかサングラスをかけてまちあるいてみたことがある。もちろん最初さいしょのうちは、自分じぶん自分じぶんのサングラス姿すがたになってかないのだが、すれちが人々ひとびとだれにしてないのをるにつれ、次第しだいある(るひそかなこころよさをあじわえるようになるのである。【9】うまでもなく、たんなる自己じこ満足まんぞくにはちがいないものの、なんとなく世間せけんからいち退しりぞいて、それらのがいおよんでこない安全あんぜん地帯ちたいを、ひっそりとあゆることが出来できるようながする。
 極端きょくたんなことをえば、へいにあいた節穴ふしあなから、世間せけんというものをのぞきしている心境しんきょうかもしれない。【0】おそらく、我々われわれうちにあるてき傾向けいこうがそれをこころよいとかんじさせるのであろうが、だとすれば我々われわれ現在げんざいひとられ、批評ひひょうされ、こちらからもそれをかえすことによってかたちづくられていた対人たいじん関係かんけいのわずらわしさから、一斉いっせい逃避とうひし、自分じぶん自身じしん内側うちがわへこもりはじめたのである。しかもかつてなら、みずからサングラスのかげにかくれようとすると、「かくれているな」という人々ひとびと関心かんしんあつめ、それらをばっとしてけなければならなかったのだが、いまはそれもない。だれでも自由じゆうに、自分じぶん自身じしんすことが出来できるのである。
 もちろん、サングラスをかけたからとって、世間せけんからその人間にんげんえなくなるわけではない。かけている本人ほんにんが、世間せけんからえなくなっているような、錯覚さっかくるだけである。しかし、世間せけんからてその人間にんげんが、生々なまなましい実体じったいであることを、幾分いくぶんなりともうすれさせることは、事実じじつであろう。もしかしたら我々われわれにとって人間にんげんは、サングラスなしで対面たいめんするには、あまりに刺激しげきつよすぎるものになりつつあるのかもしれない。

別役べつやくみのる『カナダのさけのわらい』所収しょしゅう


長文ちょうぶん 4.3しゅう
 【1】現在げんざい子供こども』の問題もんだいがたいへんとらえにくく、なにかと不気味ぶきみなのは、ひとつには、社会しゃかいのなかで子供こどもについてのある一定いってい共通きょうつう了解りょうかい事項じこうりたなくなったからである。【2】と同時どうじに「『子供こども』の問題もんだいというのはふつうの問題もんだいのように対象たいしょう分析ぶんせきてきとらえていったところであまり意味いみをなさないからであろう。いまやいろいろな領域りょういきたんなる専門せんもんというものはやくにたないといわれ『せんもん馬鹿ばか』などということばさえてくるようになった。【3】けれどもこの問題もんだいは、一方いっぽう現在げんざいますます専門せんもんてき知識ちしき必要ひつようになっているだけに、どう対処たいしょすべきかは簡単かんたんではない。そしてこの場合ばあい、なによりも専門せんもんてき知識ちしきしつあるいはさまわれることになる。
 【4】ながあいだ知識ちしきとは無知むちあるいはタブラ・ラサ(白紙はくし)にくわえられ、かさねられたものであり、したがって、よりおおることがより真理しんりちかづくことだとかんがえられていた。【5】ところが事実じじつかならずしもそうとばかりはならずに、ものをおおること、おおくの知識ちしきをもつことによって、かえってわたしたちの一人ひとりいちにんるがままにものをることをできなくなるという事態じたいしょうずるようになった。【6】知識ちしき創造そうぞうてきなかたちではたらかされなくなるようになったといってもよければ、知識ちしきがかえって疎外そがいてきはたらくようになったといってもいい。こういうことはむかしからもなかったわけではない。それは半可通はんかつうばれるひとたちにはよくられたことであるけれど、なんといっても現在げんざいほどには問題もんだい尖鋭せんえい一般いっぱんしていなかった。【7】現在げんざい、こうした場合ばあい必要ひつようなことはなにか。それは、専門せんもんであることが、専門せんもんてき知識ちしきおおくもっていることだけにとどまらず、専門せんもんてき知識ちしきそのものの弊害へいがい見破みやぶり、それにとらわれないでいることでなければならないだろう。【8】純粋じゅんすいなあるいは形式けいしきてき論理ろんりからみれば、そういう作業さぎょう折角せっかくつくったものをこわすので、なにもしていないにひとしいようにみえるかもれない。しかし、このようなダイナミックな運動うんどうをとおしてはじめて、わたしたちは現実げんじつれうることになるのである。【9】これはどのような分野ぶんやについてもいうることだが、とりわけ『子供こども』の問題もんだいかんしては強調きょうちょうされてしかるべきだろう。それというのも、『子供こども』の問題もんだいは、とらわれないるがままになければならないのに、これほど出来合できあいの知識ちしきによっておおわれている領域りょういきはほかにないとおもわれるからである。【0】そこではおおくの知識ちしき惰性だせいけいつまり『えない制度せいど』としやすいのだ。
 そのことがもっとも極端きょくたんなかたちでてくるのは、『子供こども』あるいは『教育きょういく』の専門せんもんたちによるレッテルり(レイベリング)の問題もんだいである。そして、専門せんもんてき知識ちしきが『えない制度せいど』として拘束こうそくてきはたらくとき、そのにな(エージェント)になるのが職業しょくぎょうてき専門せんもんである。かれらは職業しょくぎょうてき専門せんもんとしていちめんではもちろん有効ゆうこうはたらきをするけれど、他面ためんではそのポスト(地位ちいしょく)を保守ほしゅしその存在そんざい意味いみしめすために、ぎゃくにわざわざ仕事しごとをつくりすことになる。知識ちしき仕事しごとによって自己じこ必要ひつよう権威けんいづけることになる。そのさい、もっとも問題もんだいなのが、子供こどもたちにたいしてる『非行ひこう』や『ちこぼれ』等々とうとうというレッテルなのである。
 大村おおむら英昭ひであき(『非行ひこう社会しゃかいがくいちきゅうはちねん)もっている。鑑別かんべつしょによって、子供こどもたちは『非行ひこう少年しょうねん』というレッテルが公式こうしきられ、中学ちゅうがく高校こうこう学内がくない試験しけんによって『ちこぼれ』は公認こうにんのものとなるのだが、そのようにひとたびられたレッテルは、専門せんもんエージェントの権威けんいによってきわめてうごかしがたくへずがしがたくなるだろう。しかも専門せんもんエージェントは、自分じぶんのところにれてこられた子供こどもたちになんらかのレッテルをらずにはおかないし、またそのための専門せんもんてき知識ちしき事欠ことかくことはない。そしてしばしば非行ひこう少年しょうねんすくすのは、むしろ専門せんもんエージェントの権威けんいをもたないひとぞくにいう『はだか人間にんげん』なのである、と。このはだか人間にんげんというのが、専門せんもんてき知識ちしきによってとらわれることのないをもって相手あいてせっしうるひとのことをすのはうまでもない。


長文ちょうぶん 4.4しゅう
長文ちょうぶんふたつある場合ばあい読解どっかい問題もんだいよう長文ちょうぶんいち番目ばんめ長文ちょうぶんです。】
 すなわち、人間にんげん社会しゃかいてき欲望よくぼうには、他人たにん模倣もほうして他人たにん同一どういつ存在そんざいであるとみとめてもらいたい模倣もほうへの欲望よくぼうと、他人たにんとの差異さい際立きわだたせて自己じこ独自どくじせいみとめてもらいたい差異さいへの欲望よくぼうとのふたつの形態けいたいがあるのである。いずれも、一体いったいどのような他人たにんによってどのようにみとめてもらうかというてんではおおいにことなるが、他人たにんみとめてもらいたいという社会しゃかいてき欲望よくぼうであるてんではかわりがない。しかも、それらは往々おうおうにして同一どういつ個人こじんなか共存きょうぞんしている。
 当然とうぜん、このような社会しゃかいてき欲望よくぼうふたつの形態けいたいのちがいにおうじて、モノにたいする人々ひとびと欲求よっきゅう形態けいたいことなってくる。模倣もほうへの欲望よくぼうは、人々ひとびとに、他人たにんすで所有しょゆうしているモノをもとめさせ、他人たにんおなじように消費しょうひさせるであろう。また、差異さいへの欲望よくぼうは、人々ひとびとに、おおくのひと所有しょゆうできないモノやおおくのひといま所有しょゆうしていないモノをもとめさせ、また他人たにんことなった仕方しかた消費しょうひさせるであろう。実際じっさい、すべての人間にんげん社会しゃかいは、それぞれ独自どくじ方法ほうほうで、このふたつの形態けいたい社会しゃかいてき欲望よくぼう存在そんざい、とくにそのうちのだい形態けいたいである差異さいへの欲望よくぼう対処たいしょしてきたはずである。たとえば、おおくの共同きょうどうたいてき社会しゃかいにおいては、共同きょうどうたい内部ないぶでは差異さいへの欲望よくぼう抑圧よくあつされ、外部がいぶ接触せっしょくする機会きかいであるまつりやポトラッチや戦争せんそうにおいてのみ一時いちじてきにそれをたしていたであろう。また、階級かいきゅう社会しゃかいにおいては、この差異さいへの欲望よくぼう支配しはいしゃ階級かいきゅうのみが全面ぜんめんてきたしうるものであったろう。じつは、社会しゃかいてき欲望よくぼう対処たいしょ仕方しかたとしていまあげたふたつのれいは、それぞれ大雑把おおざっぱって、商業しょうぎょう資本しほんてき利潤りじゅん創出そうしゅつ方法ほうほう産業さんぎょう資本しほんてき利潤りじゅん創出そうしゅつ方法ほうほうとに形式けいしきてき対応たいおうしているのである。そして、外部がいぶ階級かいきゅううしないつつある現代げんだい資本しほん主義しゅぎにおいても、利潤りじゅん創出そうしゅつ方法ほうほう社会しゃかいてき欲望よくぼうへの対処たいしょ仕方しかたにやはり形式けいしきてき対応たいおう関係かんけい見出みいだしうることは、いままでの議論ぎろんから当然とうぜんさっしがつくにちがいない。
 現代げんだい資本しほん主義しゅぎにおいては、だれもが差異さいへの欲望よくぼうをもち、それをたしたがっている。一体いったいどのようにすればよいのか。もちろん、差異さいせいという価値かちをもっている商品しょうひんえばよい。だが、そのためにはたん他人たにんことなった商品しょうひんっても意味いみがない。他人たにんっていなくて、しかも他人たにん価値かちあるとみとめる商品しょうひんつけさなければならないのである。もちろん市場いちばには商品しょうひん種類しゅるい無数むすうにあり、いぬあるけばぼうにあたる。「いや、広告こうこくつうじて、ぼうほういぬむかってあたってくる。」そこで、だれかがどこかでそのような商品しょうひんたり、差異さいへの欲望よくぼう満足まんぞくしたとしょう。これは、購買こうばいにおける一種いっしゅ革新かくしんである。しかし、その購買こうばいにおける革新かくしん効果こうかけっして永続えいぞくするものではない。なぜならば、あるひとがある商品しょうひん所有しょゆうすることによって差異さいへの社会しゃかいてき欲望よくぼう満足まんぞくしているということは、同時どうじに、まだその商品しょうひんっていないほか人々ひとびとがそれに価値かちみとめたことでもあるからだ。それは当然とうぜんこれらの人々ひとびとしんなか模倣もほうへの社会しゃかいてき欲望よくぼうをひきおこすであろう。それゆえ、購買こうばいりょくゆるすならば、かれらもその商品しょうひんはじめるにちがいない。その結果けっか、その商品しょうひん社会しゃかいてき価値かちはますますたかまり、さらにおおくのひとなか模倣もほうへの欲望よくぼうをひきおこし、模倣もほうぐんによって商品しょうひんのブームがうまれる。だが、このようなブームのなかで、次第しだい差異さいせいとしての商品しょうひん価値かちうしなわれ、差異さいせいへの人々ひとびと欲望よくぼうふたた不満足ふまんぞく状態じょうたいきもどされる。それゆえ、また人々ひとびと差異さいせいという価値かちをもつあらたな商品しょうひんさがもとめていくことになる。そのような商品しょうひんふたた見出みいだされると、模倣もほうによるブームがおこり、このブームのなかでその商品しょうひん差異さいせいという価値かちうしなっていく。そしてまた……。
 ここでも、差異さいせい発見はっけん模倣もほうによる差異さいせい喪失そうしつという、シシフォスの神話しんわ反復はんぷく過程かてい支配しはいしているのである。それは結局けっきょく他人たにんみとめられたいという人間にんげんにとっては絶対ぜったいてきである社会しゃかいてき欲望よくぼうが、モノのもつ差異さいせいという相対そうたいてき価値かち媒介ばいかいとしてしかたされないという、人間にんげん欲望よくぼうのはらむ根源こんげんてきなパラドクスの産物さんぶつであり、その部分ぶぶんてき一時いちじてきでしかありえない解決かいけつわることなき反復はんぷくなのである。

岩井いわい克人かつとかつひと『ヴェニスの商人しょうにん資本しほんろん』による)

 【1】近代きんだい日本にっぽん悲劇ひげきは、自分じぶんそだて、自分じぶん発展はってんさせた文化ぶんかと、まるでちがった歴史れきし伝統でんとうをもつヨーロッパ文化ぶんかささえられた文明ぶんめいを、でもとりいれなければならぬ羽目はめにおちこんだというところに、おおきな原因げんいんがあるのは、おおくのひととおりである。【2】わたしたちは、紀元きげんろく世紀せいきにかつて日本にっぽん圧倒的あっとうてき優勢ゆうせいなアジア大陸たいりく文化ぶんかせっし、それを模倣もほうすることになったとき、どんなおおきな眩惑げんわくおぼえたか、いまとなってはこれを如実にょじつしんかべることができない。【3】混乱こんらんおおきかったに相違そういないし、また、そこには、かれらのかつてかんじたことのないふかおおきな歓喜かんきおそれのりまじっていた未聞みもん眩惑げんわくがあったろう。
 ところで、日本にっぽんいまむかし先進せんしんこく模倣もほうしたといっても、じゅうきゅう世紀せいき日本にっぽんがヨーロッパ文化ぶんかせっした場合ばあいと、このろく世紀せいき経験けいけんとでは、そこにいくつかのちがいがある。【4】だいいちに、わたしたちの祖先そせんじゅうさん世紀せいき以上いじょうまえに、大陸たいりく文化ぶんかせっしたときは、かれらはほとんど文化ぶんからしい文化ぶんかなにももっていなかった。日本にっぽんには、文字もじがなかったし、鉄器てっきもなく、だいいち、こちらがわには国家こっか機構きこうもまだととのわず、官僚かんりょう組織そしきされてなかった。【5】日本人にっぽんじんは、徹底的てっていてき無条件むじょうけんに、大陸たいりく文化ぶんかをとりれざるをえなかった。そうして、その影響えいきょうは、『古事記こじき』のかかれたはち世紀せいきから計算けいさんしても、じゅうきゅう世紀せいきまで、じゅう世紀せいき以上いじょうにおよんだ。
 ところがじゅうきゅう世紀せいきになって、ヨーロッパ文化ぶんかが、日本にっぽん渡来とらいしたときには、日本にっぽんはもうまったくの文明ぶんめいこくではなかった。【6】そこには、たとえ荷風かふうのいう本店ほんてん支店してん関係かんけいはあったにしたところで、とにかく、それになりの宗教しゅうきょう哲学てつがく政治せいじ芸術げいじゅつ独自どくじ体系たいけいができあがっていた。だから、西洋せいよう文化ぶんか影響えいきょうは、当然とうぜんむかし場合ばあいより、おおきな抵抗ていこうにぶつかったわけだし、自分じぶん独立どくりつすくうために黒船くろふねまえ降伏ごうぶく決意けついした日本にっぽんがわ態度たいどは、あるしゅ条件じょうけんつきだった。【7】これは、たとえ、国民こくみん一部いちぶむかしおな無条件むじょうけん降伏ごうぶくをすすんで希望きぼうしたとしても、なお、不可避ふかひてきに、そうならざるをえなかった。そのうえ、この西洋せいよう影響えいきょう時間じかんてきにみても、まだいち世紀せいきにもたりない。【8】いまからはん世紀せいき以前いぜんに、荷風かふうがどんなに苛立いらだったにせよ、日本人にっぽんじんおおくが、根本こんぽんてきかれとちがうで、西洋せいよう日本にっぽん保存ほぞんしていたことは、やむをえないことでもあったわけだ。
中略ちゅうりゃく
 模倣もほう生産せいさんてきでありうるということを、わたしいまここでくわしくのべる必要ひつようもないであろう。【9】たとえば漢字かんじ採用さいようひとつとってみても、それが日本人にっぽんじん思考しこう仕方しかたにどんな複雑ふくざつ得失とくしつをあたえたかは、現代げんだい日本人にっぽんじんかんがえる場合ばあいにも、たいせつな問題もんだいふくんでいる。【0】かりになな世紀せいき日本人にっぽんじん漢字かんじ採用さいようしなかったら――というのは、すでに、おろかしい設問せつもんであるけれども――、日本にっぽんはより独自どくじ文化ぶんかみだしていたろうという結論けつろんすことは、不可能ふかのうではないだろう。じゅう世紀せいき日本にっぽんのあるひとたちは、漢字かんじ漢文かんぶん採用さいようしているかぎり、日本人にっぽんじん正確せいかくにものをかんがえることができないと、主張しゅちょうしているようにみえる。しかし、その場合ばあいの「正確せいかくかんがかた」という観点かんてんが、すでに西洋せいよう影響えいきょうであって、けっして日本人にっぽんじん自発じはつてきなものでないことはべつにしても――そうでなければ、日本人にっぽんじんはシナ文化ぶんか渡来とらいまえ正確せいかくかんがかたをしていたことになるはずだが、そんなことは滑稽こっけいである――、現代げんだい日本人にっぽんじんのなかには、すでに、そういう「正確せいかくかんがかた」をしているひとびとがいる。そのひとたちは、すべて、西洋せいようかんがかた消化しょうかにつけているから、漢字かんじ漢文かんぶん本店ほんてんとする国文こくぶん日本にっぽんぶんをもって、正確せいかくかんがえるちからをもつようになったのだ。しかし、かれはその能力のうりょくにつけるまでには、漢字かんじ模倣もほうにはじまった日本語にほんごはたらきが不可欠ふかけつだった。簡単かんたんにいってしまえば、いま日本語にほんご状態じょうたいにしても、かんがえるべきことはかんがえられるのだ。ただ、それには、現在げんざいでは「西洋せいよう」の消化しょうか絶対ぜったい必要ひつようとする。「わが日本にっぽんいまむかしも、先進せんしんこく模倣もほうによる」必要ひつようがある所以ゆえんだ。

吉田よしだ秀和ひでかず荷風かふうんで』より、一部いちぶ改変かいへん。)


長文ちょうぶん 5.1しゅう
いち番目ばんめ長文ちょうぶん暗唱あんしょうよう長文ちょうぶんで、番目ばんめ長文ちょうぶん課題かだい長文ちょうぶんです。】
 【1】文化ぶんか発展はってんには民族みんぞくというものが基礎きそとならねばならぬ。民族みんぞくてき統一とういつ形成けいせいするものは風俗ふうぞく慣習かんしゅうとう種々しゅじゅしゅじゅなる生活せいかつ様式ようしきげることができるであろうが、言語げんごというものがその最大さいだい要素ようそでなければならない。【2】ゆえ優秀ゆうしゅう民族みんぞく優秀ゆうしゅう言語げんごゆうつ。ギリシャ哲学てつがくてきし、ラティン法律ほうりつてきするといわれる。日本語にほんごなにてきするか。わたしはなおかかる問題もんだいについてかんがえてたことはないが、いちれいをいえば、俳句はいくというごとごと ものは、とても外国がいこくにはわけのできないものではないかとおもう。【3】それは日本語にほんごによってのみ表現ひょうげんであり、おおきくいえば日本人にっぽんじん人生じんせいかん世界せかいかん特色とくしょくしめしているともいえる。日本人にっぽんじんもの見方みかたかんがかた特色とくしょくは、現実げんじつなか無限むげんつかむにあるのである。【4】しかし我々われわれたん俳句はいくごときもののほこりとするにやすんずることなく、我々われわれもの見方みかたかんがかたふかめて、我々われわれしんそこから雄大ゆうだい文学ぶんがく深遠しんえん哲学てつがくすよう努力どりょくせなければならない。【5】我々われわれはらそこから物事ものごとふかかんがおおきく組織そしきしてくとともに、我々われわれ国語こくごをしてみずか世界せかい歴史れきしにおいてほかるいのない人生じんせいかん世界せかいかん表現ひょうげんする特色とくしょくある言語げんごたらしめねばならない。本当ほんとう物事ものごとかんがえてしんあるものつかめば、みずかほかによって表現ひょうげんすることのできないげんひょうげんぴょうるものである。
 【6】日本語にほんごほど、国語こくごれてそのまま日本にっぽんする言語げんごすくないであろう。ひさしいあいだ我々われわれ漢文かんぶんをそのままにみ、おおくの学者がくしゃ漢文かんぶんおろしによって、いや漢文かんぶんそのものによって自己じこ思想しそう発表はっぴょうしてた。【7】それはいちめんじゅんなるきた日本語にほんご発展はってんさまたげたともいいるであろう。しかしいちめんには我々われわれ国語こくご自在じざいせいというものをかんがえることもできる。わたし復古ふっこへきひとのように、いたず 言語げんご純粋じゅんすいせい主張しゅちょうして、いてふる言語げんご語法ごほうによって今日きょう思想しそうをいいあらわそうとするものに同意どういすることはできない。【8】無論むろん古語こごというものは我々われわれ言語げんごみなもとであり、民族みんぞく成立せいりつともに、国語こくご言語げんごてき精神せいしんもそこに形成けいせいせられたものとして、何処どこまでもふか研究けんきゅうすべきはいうまでもない。しかし言語げんごというものはきたものということをわすれてはならない。【9】『源氏げんじ』などのなかにも、如何いかおおくの漢字かんじがそのまま発音はつおんまるめてもちいられていることよ。また蕪村ぶそん俳句はいくなか漢語かんごれたごとく、外国がいこく語法ごほうでも日本にっぽんすることができるかもれない。ただ、その消化しょうか如何いかいかんにあるのである。【0】

 「国語こくご自在じざいせい」(西田にしだ幾多郎きたろう
 【1】固有名詞こゆうめいしが、その固有こゆう意味いみにおいてはっきりと姿すがたをあらわすのは、かれ/彼女かのじょが、ちちははだけでなく(ちちははも、そのこどもにとってはひとつしかないものだから、太陽たいようつき固有名詞こゆうめいしであるかどうかという、文法ぶんぽう学者がくしゃ古典こてんてき議論ぎろん同様どうように、純粋じゅんすい普通ふつう名詞めいしでもなければ固有名詞こゆうめいしでもない)、【2】きょうだいやあそ仲間なかまをもち、あるいは保育園ほいくえん学校がっこうのようなところにかよって社会しゃかい生活せいかつをはじめたときである。かれ/彼女かのじょは、自分じぶんだけでなく、他者たしゃも、それぞれがをもつことをる。逆説ぎゃくせつてきなようだが、固有名詞こゆうめいしがあるというそのことが、言葉ことば本来ほんらいてき社会しゃかいてきなものであるということの証拠しょうこになるのである。
 【3】現代げんだい社会しゃかいでは、ひとやものが固有名詞こゆうめいしばれるものであり、またばれなければならないということは、経験けいけんつうじて徐々じょじょまなばれるのではなく、たとえばこどもに入学にゅうがくした学校がっこうをおぼえさせることによって一挙いっきょおしえこまれるのである。【4】この過程かていつうじて、こどもは、自分じぶんひとつの制度せいどなかにくりれられ、ある組織そしき所属しょぞくするのだという意識いしきえつけられるから、固有名詞こゆうめいしはこどもを社会しゃかいするための基本きほんてき道具どうぐとなり、人間にんげんぬまで固有名詞こゆうめいし支配しはいかれるのである。【5】言語げんご(ここに言語げんごとは、人間にんげんはことばをはな動物どうぶつであるというばあいの一般いっぱんてき言語げんごと、人間にんげんなにという、特定とくてい言語げんごしかはなすものではないという意味いみでの言語げんごとのじゅう意味いみにおいてである)が人間にんげんあたえられた宿命しゅくめいであるとするならば、固有名詞こゆうめいしは、宿命しゅくめいとしての言語げんご本質ほんしつてき部分ぶぶん体現たいげんしていることになる。
 【6】まことに固有名詞こゆうめいしこそは、人類じんるいけっしてひとつではなく、さまざまな名前なまえ――固有名詞こゆうめいしをもってかれ、それぞれが自分じぶんあるいは自分じぶんたちに対立たいりつするものであるということをおもらせ、相互そうごのちがいをいやがうえにもきわたせ、それを固定こていさせる道具どうぐである。【7】名前なまえ固有名詞こゆうめいしこそは、ことばのなかでもきん地位ちいめていて、これこそことばのなかのことば、名詞めいしなか名詞めいしだとってもいいくらいである。人間にんげんきているあいだのほとんどの時間じかんを、名前なまえとともにき、くるしみ、あらそってきたとえるのである。【8】そのために、どれだけおおくのひとが、名前なまえからのがれたいとおもっただろうか。――自分じぶん自身じしんとその家族かぞく名前なまえから、国家こっか民族みんぞく名前なまえ出身しゅっしん名前なまえ等々とうとうから。
 ところが、ことばの科学かがく――たとえば言語げんごがくは、名前なまえについては本気ほんき科学かがくしなかった。はじめから、それは科学かがくできないものとしてとりのぞいてしまったのである。
 【9】とりのぞいた理由りゆうひとつは、方法ほうほうろんがそうするようもとめたからである。そのこととふかいつながりがあるのだが、名前なまえ――固有名詞こゆうめいし問題もんだいを、ひたすら普通ふつう名詞めいし一般いっぱん名詞めいしといかにちがうかをかんがえるにとどまり、社会しゃかいのコンテキストにいてかんがえることをしなかったためである。【0】ことばや記号きごう認識にんしきろんじょう問題もんだい限定げんていされ、はじめから、社会しゃかいからりはなされていたのである。
 また代々だいだい文法ぶんぽう論理ろんり学者がくしゃたちは、固有名詞こゆうめいし本来ほんらい機能きのうは、それがなにかあるものをひとつしかないものとして孤立こりつさせてしめすところにあるといつづけてきた。純粋じゅんすい固有こゆうせいというものをそのようなものとしてかんがえてきたからである。
中略ちゅうりゃく
 このようにかんがえてみると、まさに、名前なまえに、アイデンティティというもののじゅうせいがある――自分じぶん自分じぶんであって、それ以外いがいのものではありないと主張しゅちょうされる自分じぶんは、他方たほうではどこかに所属しょぞくしている(どこにも所属しょぞくしないことが、すでに所属しょぞくである。ひとはこの独得どくとく所属しょぞくのしかたにもまたをつけるであろうから)あるいは所属しょぞくせざるをないというこの原理げんりは、づけ、すなわち、ことばの原理げんりそのものからはっしているようにおもわれる。
 人間にんげん名前なまえがその所属しょぞくしめすように(もう一度いちど強調きょうちょうしておけば、その名前なまえは、ある特定とくてい言語げんごぞくすからだ。このことはわすれないでおこう)、やまかわうみも、づけられると同時どうじに、その領有りょうゆうへの主張しゅちょう背後はいごにすべりむ。こうして固有名詞こゆうめいしは、たちまち緊張きんちょうした政治せいじ磁場じばつくすのである。

田中たなか克彦かつひこ名前なまえ人間にんげん」による)


長文ちょうぶん 5.2しゅう
 【1】こころざし倭人わじんでんによると、当時とうじうみをわたって中国ちゅうごく交通こうつうするさいに、かならもちおとろえしょうするおとこ一人ひとりともなっていたという。このおとこは、航海こうかいちゅうけっしてあたまくしけずくしけずらず、のみ、しらみをらず、衣服いふくあらわず、にくわず、婦人ふじんちかづかず、服喪ふくもちゅうのひとのようであった。【2】無事ぶじ航海こうかいわってみなとけば数々かずかず財物ざいぶつあたえられたが、暴風ぼうふうったりして難破なんぱするとただちにころされてしまった。こういう役割やくわりおとこおとろえといったのである。記録きろくのこされているところは以上いじょうとおりである。【3】おとろえとよばれるこのおとこはどうやら一種いっしゅのシャーマンであって、航海こうかい安全あんぜんいのったものであろう。シャーマンというものは、成功せいこうしてはじめて評価ひょうかされるもので、失敗しっぱいすればたちどころにころされてしまう。ころされることが呪力じゅりょく持続じぞく保証ほしょうでもあったわけである。
 【4】ところで、いかに呪力じゅりょくったシャーマンとはいえ、航海こうかいちゅう一定いってい禁忌きんきまもりさえすれば、ふね目的もくてき安着あんちゃくするというのはどういうことなのであろうか。それは持続じぞく出発しゅっぱつ時間じかん目的もくてきまで持続じぞくすること、そういうながれないときのシンボルなのではなかったろうか。【5】】あるいは、そういうとき演劇えんげきてき表現ひょうげんおとろえだったといってもよい。そして、そういった場合ばあいには、演劇えんげきてき表現ひょうげん以前いぜんのある時期じきには、ながれないときのリアリティーがすべての人々ひとびと実感じっかんされていたにちがいないのである。
 【6】ながれないとき時間じかんをこえたとき、そういうときはたしかにあった。創造そうぞうというのは、そういうとき出逢であうことである。りゅう宮城みやぎ浦島うらしま太郎たろうはこういうとき日常にちじょうときとして不老不死ふろうふしであったが、故郷こきょうかえって玉手箱たまてばこけたとたんに、一挙いっきょ時間じかんながったのであった。【7】山川やまかわながれにも、よどむときがあり、早瀬はやせとなってはしるときがある。表層ひょうそうみずしろ泡立あわだってながれていても、深層しんそうみずしずかにたたえている。そういうことがある。時間じかんおなじことである。
 ときについてかんがえるには、ときをまずその原初げんしょ意味いみにおいてとらえなお必要ひつようがある。【8】そうすると、ときは『もの』である。でつかまえることのできる『もの』、みみくことのできる『もの』である。ときはタンジブルなものである。さくらはなときうめばむときである。そういうときとき、それがときである。古池ふるいけかえるとびこむバシャッというおと、それがときである。【9】『もの』をはなれてときはない。
 かつて北部ほくぶラオスのむら調査ちょうさしていたときのことである。毎日まいにちむら家々いえいえたずねて家族かぞくのありかたいてまわっていた。ラオがよくできなかったから、簡単かんたん質問しつもんですむ調査ちょうさ手始てはじめにえらんだのである。【0】「あなたは今年ことしなんさいですか」「あなたのおくさんはどのむらまれましたか」「長男ちょうなん名前なまえは……、年齢ねんれいは……」といった質問しつもんかえしていた。
 ところが、むらびとは子供こども年齢ねんれいをよくらない。「一番いちばんなにという名前なまえでしたか」「サオ・ボーアです」「サオ・ボーアはなんさいですか」「サアー、おまえ、サオ・ボーアはいくつだったかナー」とかたわらのおくさんに始末しまつである。しかし、それでもわからない。そうするとあそんでいた子供こどもびもどす。「先生せんせい、サオ・ボーアはこのですよ。なんさいだとおもいますか」
 わたしはびっくりしてしまう。なんさいおもうかとわたしかれてもどうしようもない。おやむすめ年齢ねんれいらないのだから、わたしるはずはないではないか。そうおもった。文化ぶんかひくいところはこまったものだ。そうおもったこともある。しかし、そのかんがなおしてみると、われている本人ほんにんびにやって質問しつもんしゃまえれてきたのである。本人ほんにんわたしまえっているのである。これほどたしかなことがあろうか。(中略ちゅうりゃく
 ときは、あるいは時間じかんは、われわれの人生じんせいがそのうえ展開てんかいする座標ざひょうではない。最近さいきん宇宙船うちゅうせん地球ちきゅうごうというイメージが普及ふきゅうしている。そういうイメージからすると、この地球ちきゅうやくさんじゅうはちおく人間にんげんがそれぞれうで腕時計うでどけいをはめて宇宙うちゅう空間くうかんをただよっているような気分きぶんになるが、じつはそんなことはない。日本にっぽん時間じかんとボルネオの時間じかんとはちがうし、現代げんだい時間じかん古代こだい時間じかんはちがう。わたしときとあなたのときはちがう。時間じかんけっしてひとつになってはいない。


長文ちょうぶん 5.3しゅう
 【1】ロボットは人間にんげんかとうのは、ロボットにもしんとか意識いしきといったものがあるかとうことである。うまそうに食事しょくじをしているロボットは、本当ほんとう空腹くうふくかんじ、食欲しょくよくをもち、そしてあじわっているのだろうか、あるいはたんにすべてただ「りをしている」だけなのだろうか。【2】歯医者はいしゃ椅子いすうえでうめきごえをあげているロボットは本当ほんとういたがっているのだろうか。ただやめそうなりをしているだけではないのか。
 だがこのいにこたえる方法ほうほうがあるだろうか。ロボットに「本当ほんとういたいのか」とたずねればもちろんのこと、「あいだけたことをうな、いたいったらいたいんだ」とこたえるだろう【3】(そしてそのよる日記にっきに、差別さべつ待遇たいぐうをうけてしんいたんだ、としるすかもしれない)。うそ発見はっけんにつないでも人間にんげん場合ばあいとはちが反応はんのうであろうがともかくうそをついているときのロボットとはちが正常せいじょう反応はんのうしめすだろう。【4】切開せっかいをすれば人間にんげん神経しんけい繊維せんいくらべれば不細工ぶさいく金属きんぞくせんがあり、それにパルス電流でんりゅうながれているのが検出けんしゅつされよう。そして、がくのあるロボットならば、それがロボットの痛覚つうかく神経しんけいなのだとうだろう。結局けっきょくのところはないのである。【5】それは現在げんざい科学かがく技術ぎじゅつ段階だんかいでははない、というのではなく未来永劫みらいえいごうないのである。いたいとかうまいということは細胞さいぼう興奮こうふんとか神経しんけい伝導でんどうなどとはまった別種べっしゅのことだからである。だからそれを生理学せいりがくてきなあるいは工学こうがくてき検査けんさほう検出けんしゅつしようというのが土台どだいそもそも的外まとはずれなのである。(中略ちゅうりゃく
 【6】わたしっているいたみはただわたし自身じしんかんじるものとしてのものである。それを他人たにん移植いしょくする、つまり他人たにんがそれをかんじると想像そうぞうすることはじつ不可能ふかのうなのではないか。実数じっすうあいだ大小だいしょう複素数ふくそすうあいだ移植いしょくしたり、将棋しょうぎ王手おうてこま移植いしょくすることが不可能ふかのうなように。【7】わたし他人たにんわたし経験けいけん経験けいけんをしていると想像そうぞうしているつもりでもじつ想像そうぞうしているのはその他人たにんになりわったわたし自身じしんなのではあるまいか。そして想像そうぞうなかであってもわたし終始しゅうしわたしであってかれではない。わたし想像そうぞう可能かのうなのは、かれ立場たちばにあるわたしいたみであってかれいたみではない。(中略ちゅうりゃく
 【8】にん激痛げきつうでうずくまりあせながしている。だが正直しょうじきなところわたし自身じしんすこしもいたくない。いたくもかゆくもない。だがわたし心痛しんつうする。しかしわたしかれいたい、ということを想像そうぞうしていはしない。その想像そうぞう不可能ふかのうだからである。【9】わたし想像そうぞうしているのはかれになりわったわたしいたみである。しかしだといってわたしはこの想像そうぞうじょうわたしいたみに心痛しんつうしているのではない(想像そうぞうされたいたみはすこしもいたくない)。そうではなくわたし心痛しんつう対象たいしょうはまさにかれなのである。【0】
 この一見いっけんまことに奇妙きみょう状況じょうきょう、この状況じょうきょうをわれわれの言葉ことばでは「かれいたがっている」とうのである。この状況じょうきょうなかで、かれになりわった想像そうぞうじょうわたしが、かれながめているわたしくるしそうなかれとのあいだびかっている。そして陽子ようし中性子ちゅうせいしあいだびかう中間子ちゅうかんしがその陽子ようし中性子ちゅうせいしとをかたむすびつけるように、このびかう想像そうぞうじょうわたし現実げんじつわたしかれとを「人間にんげん仲間なかま」としてむすびつけているのである。だからこのびかいがうしなわれたならばわたしにとってかれは「ひと」でなくなる。そしてわたしほうはなれじんしょうりじんしょうわれるだろう。
 さいわいまのところわたしはなれじんしょうりじんしょうではない。それはわたしまれてこのかた長年ながねん人中ひとなからしてきたおかげでについた態度たいどなのである(おおかみ少年しょうねんならばこの態度たいどたないだろう)。そしてもしわたし長年ながねんロボットと人間にんげんらしいいをつづけたならば、ロボットにたいしてもおそらくこの態度たいどをとるだろう。そのときわたしにとってそのロボットは「ひと」なのであり、しん意識いしきもある「人間にんげん」なのである。
 これはアニミズムとばれていいし、むしろそうばれるべきであろう。木石ぼくせきであろうと人間にんげんであろうとロボットであろうとそれら自体じたいとしてはしんあるものでもしんなきものでもない。わたしがそれらといかにまじわりいかにらすかによってそれらはしんあるものにもしんなきものにもなるのである。それにおうじてわたしもまた「人間にんげん」になるのである。

大森おおもりそうぞうながれとよどみ』による)


長文ちょうぶん 5.4しゅう
長文ちょうぶんふたつある場合ばあい読解どっかい問題もんだいよう長文ちょうぶんいち番目ばんめ長文ちょうぶんです。】
 さらに、人格じんかく形成けいせいしていくための重要じゅうよう場所ばしょとして、かつては技術ぎじゅつ修得しゅうとく今日きょうよりもはるかにおも手応てごたえをっていました。現在げんざい技術ぎじゅつ修得しゅうとく人間にんげんつくっていることは事実じじつですが、しかし、これもまた、残念ざんねんながらそのおもさのてん戦線せんせん縮小しゅくしょうしつつあるといわなければなりません。たとえば、むかし大工だいくさんになるためには一生いっしょう努力どりょく必要ひつようとするといわれたもので、わたしのうちへときたまてくれる大工だいくさんはさんじゅうねんのベテランですが、そういうひとが、「大工だいくというものは一生いっしょう修行しゅぎょうですよ」といまでもいっています。しかし、そのかれあたまをかいて、「いまどきこんなこといっていると、時代じだいからとりのこされますがね」とつけたすのです。
 というのは、現代げんだいでは技術ぎじゅつそのものが現実げんじつ体験たいけんではなくて、情報じょうほうされた一種いっしゅ知識ちしきわせになっていて、そのぶんだけたいへん修得しゅうとくしやすいかたちにわっているからです。はやはなしが、いたというものいちまいげても、むかしいた人間にんげんかんなにぎって、そのかんなうごかす自分じぶんうでとおして体験たいけんする本当ほんとうのものでありました。しかし、現在げんざいいたはほとんどが合成ごうせい樹脂じゅしで、かんな必要ひつようではなく、いわば、人間にんげんさえあればそれでようのすむ存在そんざいになりつつあります。いちまいいたがものであることをやめて、しだいにいたのイメージ、すなわち一種いっしゅ情報じょうほうになりつつあるわけです。
 そうなると、それをあつか個人こじん技術ぎじゅつはいちじるしく単純たんじゅんされて、肉体にくたいれる体験たいけん領域りょういきちいさくなってます。今日きょう技術ぎじゅつ修得しゅうとく一生いっしょう仕事しごとだというひとは、だんだんすくなくなり、だいたい免許めんきょしょうをもらえば、技術ぎじゅつはそれで完全かんぜん習得しゅうとくされたことになっています。料理人りょうりにん理髪りはつ自動車じどうしゃ運転うんてんしゅ学校がっこう教師きょうし、すべて免許めんきょしょうをもらえば、かれにとって職業しょくぎょうおよび技術ぎじゅつ修得しゅうとく段階だんかいおわりだという意識いしきひろがっています。げんに、それさえっていればまず最低さいてい限度げんど生活せいかつはできるわけですが、そのわり、その技術ぎじゅつをさらにばして、かれ独特どくとく技術ぎじゅつにするたのしみもなくなりました。
中略ちゅうりゃく
 職業しょくぎょうのことをドイツではベルーフ(Beruf)といいますが、ベルーフとは「かみごえ」という意味いみです。日本語にほんごにも「天職てんしょく」ということばがあるわけで、職業しょくぎょうとはうために勝手かって人間にんげんえらぶものではなく、最終さいしゅうてきには運命うんめいか、あるいはかみ人間にんげんをそこへびこむものだ、というかんがえが伝統でんとうてきにありました。それほど職業しょくぎょうには神秘しんぴてきといってよいほどのおもみがおかれていたのですが、そのひとつの理由りゆうは、人間にんげん職業しょくぎょう訓練くんれんなか意識いしきてき知識ちしき以上いじょうのものを獲得かくとくする、という事実じじつではなかったでしょうか。ものにれる体験たいけんというものは、たんなる知識ちしき学習がくしゅうとはちがって、人間にんげん自分じぶん意識いしきできない自己じこ部分ぶぶんゆたかにします。かんないたけずってじゅうねんじゅうねんごすということは、かれ肉体にくたいおもいがけない部分ぶぶんをふとらせることもあるし、「職人しょくにん気質きしつ」などという、いわくいいがた精神せいしん部分ぶぶんやしなうこともあります。じつは、人間にんげん個性こせいとはそうした無意識むいしきなものの集積しゅうせきとしてまれるものであり、この部分ぶぶんこそ個人こじんなかしん交換こうかん不可能ふかのう要素ようそだというべきでしょう。
 これにたいして、現代げんだい現実げんじつ情報じょうほうしていくということは、いいかえれば、現実げんじつのすべてが知識ちしきしていくことであり、その内部ないぶ意識いしきえた部分ぶぶん消滅しょうめつしつつある、ということだといえるでしょう。そして、それにつれて、現実げんじつとかかわる人間にんげんもまた情報じょうほうされ、肉体にくたい気質きしつたない観念かんねんてき存在そんざい変質へんしつしつつあるわけです。ひとつの中心ちゅうしんち、有機ゆうきてき統一とういつった「わたし」としての人間にんげん解体かいたいし、巨大きょだいで、しかし全体ぜんたいぞうえない、奇妙きみょう機械きかい部分ぶぶんひんになりつつあるのが現代げんだいだとるべきでしょう。

山崎やまざき正和まさかず混沌こんとんからの表現ひょうげん』による)

 【1】芭蕉ばしょうはこうっている――連句れんくせきにのぞんだときには、文机ふづくえまえにして間髪かんぱつれずつくるのであって、まよっては駄目だめである。つくりおわって文机ふづくえからきおろせば、すでにそれは反故ほごでしかない。【2】――もちろんこれは、その一瞬いっしゅんてる力量りきりょうのすべてをやしきらねばならないという意味いみであり、だれにも首肯しゅこうできる作者さくしゃ覚悟かくごだが、しかしそれとはべつに、そこでったは、いかに名作めいさくであっても「文台ぶんだい引おろせばそくすなわち反故ほご也」なのだろうか。【3】おそらくこの言葉ことばも、名作めいさく記録きろくされてのちにのこるということとべつ矛盾むじゅんする言説げんせつではあるまい。作品さくひんろくされて後世こうせいつたわる、すなわち俳諧はいかい歴史れきしと、俳諧はいかいはその成立せいりつ一瞬いっしゅんなかにあるというのとは、べつ次元じげん出来事できごとであり、ここで芭蕉ばしょういたかったのは歴史れきしではなく、「」というものが俳諧はいかいには不可避ふかひであるという一事いちじにほかならなかった。【4】そうおもうと「文台ぶんだい引おろせばそくすなわち反故ほご也」は、芭蕉ばしょう時間じかん感覚かんかくなかに、「」をふくかたち時間じかんながれつづけていたことの証言しょうげんれよう。
 「」といっても、空間くうかんてきひろがりの形態けいたいをとった「」をおもえがいてみることはたやすい。【5】空間くうかんてき延長線えんちょうせんが、特定とくてい原理げんり基準きじゅんもとづいて限定げんていされ、められてかこえかべいへきわくができれば、すぐに「」が成立せいりつする。「」は限定げんてい区劃くかくされているが、固定こていしてはいずにえず更新こうしんされ、変形へんけいしてゆくものでもある。【6】「」は地盤じばんではない。そこからすれば、「」は時間じかんてきな「」でもあるだろう。芭蕉ばしょうの『おくのほそみち』のたびも、えずかわあらたまる「」を方々かたがたもとめたさすらいのあゆみであったが、これについてはあとかんがえてゆくことにしたい。【7】その旅先たびさき土地とち俳人はいじんにもてなされ、人々ひとびとあつまっていちかん歌仙かせんいた情景じょうけいともなれば、あきらかにれんしゅによってかたちづくられた「」がえてくるし、従前じゅうぜんからこの「」は「」としてかたられてきた。
中略ちゅうりゃく
 【8】いちねんさんひゃくろくじゅうにち、この物理ぶつりてきとしながさにおいて、祝祭しゅくさいときあいだめる割合わりあいはごくわずか、みじかいのが通例つうれいであろう。長々ながながといつまでもまつりつづき、おわったともおわっていないともれる曖昧あいまいさがしょうじたりすればまつり堕落だらく変質へんしつする。【9】さい特色とくしょく時間じかんてき限定げんていされ、純粋じゅんすいであることであり、みじか時間じかんのあいだしか持続じぞくしないことである。たとえ数日すうじつわたってまつりもよおされても、ぎたあとでおもかえしてみれば、みじかかった、あっというったという一抹いちまつおもいがのこるのがまつりなのだ。【0】「」にたいして「はれ」の時間じかんが、「ぞく」にたいして「きよし」の時間じかんったのは、内的ないてき魔性ましょう霊力れいりょくとその時間じかんてきみじかさである。一瞬いっしゅん燃焼ねんしょうのうちにすべてがるかしからざればという極点きょくてんてき思想しそうまでもふくめて、そこにはみじかいもの、しょうなるものへとかって凝縮ぎょうしゅくしてゆくちからがはたらいている。松尾まつお芭蕉ばしょう俳諧はいかい名付なづけられるのわざに時間じかんてきな「」を設定せっていしたが、そのことをつうじて――時間じかん構造こうぞうつうじて――しょうなるものにふうめられたおもさをかんじとっていた。それがかれ詩人しじんてき存在そんざい理法りほうについての認識にんしきであったというふうわたしかいしたい。

高橋たかはし英夫ひでお『ミクロコスモス――松尾まつお芭蕉ばしょうむかって』より)


長文ちょうぶん 6.1しゅう
いち番目ばんめ長文ちょうぶん暗唱あんしょうよう長文ちょうぶんで、番目ばんめ長文ちょうぶん課題かだい長文ちょうぶんです。】
 【1】経済けいざいがくちちアダム・スミスはこうべています。「通常つうじょう個人こじん自分じぶん安全あんぜん利得りとくだけを意図いとしている。だが、かれえざるみちびかれて、自分じぶん意図いとしなかった公共こうきょう目的もくてき促進そくしんすることになる」。【2】ここでスミスが「えざる」とんだのは、資本しほん主義しゅぎりっする市場いちば機構きこうのことです。資本しほん主義しゅぎ社会しゃかいにおいては、自己じこ利益りえき追求ついきゅうこそが社会しゃかい全体ぜんたい利益りえき増進ぞうしんするのだとっているのです。
 【3】経済けいざい学者がくしゃの「悪魔あくま」ぶりがもっとも顕著けんちょ発揮はっきされるのは、環境かんきょう問題もんだいかんしてでしょう。おおくのひとにとって、資本しほん主義しゅぎ前提ぜんていとする私的してき所有しょゆうせいこそ諸悪しょあく根源こんげんです。環境かんきょう破壊はかいとは、私的してき所有しょゆうせいしたでの個人こじん企業きぎょう自己じこ利益りえき追求ついきゅうによってこされるとおもっているはずです。
 【4】だが、経済けいざい学者がくしゃはそのような常識じょうしきさかなでします。私的してき所有しょゆうせいとは、まさに環境かんきょう問題もんだい解決かいけつするために導入どうにゅうされた制度せいどだとうのです。
 【5】『かつて人類じんるいだれのものでもない草原そうげん自由じゆう家畜かちく放牧ほうぼくしていました。家畜かちくいちとうやせば、それだけおおにくかわやミルクがとれます。草原そうげんだれのものでもないので、家畜かちくべる牧草ぼくそうはタダです。【6】たしかにいちとうえれば家畜かちくべる牧草ぼくそうり、その発育はついく影響えいきょうしますが、自由じゆう放牧ほうぼくされている家畜かちくなか自分じぶん家畜かちくめる割合わりあい微々びびたるものです。それゆえ、人々ひとびと草原そうげん牧草ぼくそうがあるかぎり、自分じぶん家畜かちくやしていくことになります。【7】その結果けっか牧草ぼくそう次第しだい枯渇こかつし、いつの無数むすうせこけた家畜かちくがわずかにのこされた牧草ぼくそうもとめてあらそ事態じたい到来とうらいすることになるとうのです。』
 【8】これこそ「元祖がんそ環境かんきょう問題もんだいです。そして経済けいざい学者がくしゃは、それは、自然しぜんのままの草原そうげんだれ所有しょゆうでもない共有きょうゆうであるがゆえの悲劇ひげきであると主張しゅちょうします。【9】環境かんきょう問題もんだいとは「共有きょうゆう悲劇ひげき」だとうのです。
 『事実じじつもし草原そうげん分割ぶんかつされ、そのいちかく牧場ぼくじょうとして所有しょゆうするようになると、そのなか家畜かちくはすべて「自分じぶんの」家畜かちくとなります。【0】そのときさらにいちとううかどうかは、そのいちとうあらたに牧草ぼくそうべることによって、牧場ぼくじょうないほか家畜かちく発育はついくがどれだけ影響えいきょうけるかを勘案かんあんしてめるようになるはずです。もはや牧草ぼくそうはタダではありません。他人たにん牧場ぼくじょうしたりったりするときでも、そのなか牧草ぼくそう価値かちおうじた賃料ちんりょう価格かかく請求せいきゅうするようになるはずです。牧草ぼくそう合理ごうりてき管理かんりされ、共有きょうゆう悲劇ひげきからすくわれることになります。私的してき所有しょゆうせいしたでの自己じこ利益りえき追求ついきゅうこそが環境かんきょう破壊はかい防止ぼうしすることになるとうわけです。」
 「悪魔あくま」の一員いちいんだけあって、経済けいざい学者がくしゃ論理ろんり完璧かんぺきです(わたし自身じしんこの論理ろんりさんじゅう年間ねんかんおしえてきました)。実際じっさいいちきゅうきゅうななねん地球ちきゅう温暖おんだん防止ぼうしかんする京都きょうと議定ぎていしょは、この論理ろんりれました。先進せんしん諸国しょこく温暖おんだんガスの排出はいしゅつわく権利けんりとしてあてて、その過不足かふそく売買ばいばいすることを条件じょうけんきでゆるしたのです。
 ここでは温暖おんだんガスが汚染おせんする大気たいき家畜かちくらす牧草ぼくそう対応たいおうし、各国かっこく売買ばいばいしうる排出はいしゅつわく牧畜ぼくちく所有しょゆうする牧場ぼくじょう対応たいおうしています。すなわち、それは大気たいきという自然しぜん環境かんきょう一種いっしゅ所有しょゆうけん設定せっていすることによって、それが共有きょうゆうであるかぎ進行しんこうしていく温暖おんだんという悲劇ひげき解決かいけつしようとしているのです。
 では、これで環境かんきょう問題もんだいはすべてめでたく解決かいけつするのでしょうか?
 こたえは「いな」です。わが人類じんるい不幸ふこうにも、経済けいざい学者がくしゃ論理ろんり作動さどうしえない共有きょうゆうかかえているのです。
 それは「未来みらい世代せだい」の環境かんきょうです。

岩井いわい克人かつと未来みらい世代せだいへの責任せきにん――経済けいざいがくの「論理ろんり」と環境かんきょう問題もんだいの「倫理りんり」――」による)
 【1】のうるとわかるが、能役者のうやくしゃあしうごきは独特どくとくである。スーッといちあしときあしゆびすべ内側うちがわへまがっている。しかもきるまでは舞台ぶたいいたにぴったりとはりついている。ところがあしきったところでスーッとつまさきいたをはなれて、かかとをいたにつけたままあし空中くうちゅうにうく。【2】そのときはあしゆび全部ぜんぶ真直まっすぐになる。そしてそうなったあしがポンと舞台ぶたいいたへおちるのである。
 このあしのはこびができない。いくら稽古けいこしてもできない。ところがほかのことにはやかましい師匠ししょうがこのことだけはなにも注意ちゅういしないのである。【3】かんがえるとこのあしうごきはからだ全体ぜんたいかまえができると自然しぜんにできるらしいので、からだ全体ぜんたいかまえもできないうちにあしだけできるわけがないから注意ちゅういしなかったらしいのだが、わたしはそんなことはわからないから、なんとかおぼえたいとおもった。【4】わたしがそうおもったのは、師匠ししょうあしじつにきれいだからであったし、たまたまにつれてかれた師匠ししょう師匠ししょうであった梅若うめわかみのる舞台ぶたいあしがたとえようもなくうつくしいものだったからである。わたしあしうごきにたましいをうばわれたといってもいい。あのあし、あのうごき、あれができたらなアといつもおもった。(中略ちゅうりゃく
 【5】日常にちじょう現実げんじつ生活せいかつでは、人間にんげん絶対ぜったいにあんなあしうごきはしない。あのあしうごきは不自然ふしぜんでグロテスクで普通ふつう人間にんげんあしというもののはたらきをふうじこめ、拒否きょひしている。この拒否きょひ地点ちてんじつは、どんなやくにも変化へんかする変換へんかん構造こうぞう仕掛しかけられている。【6】あの何者なにものにもなりうる白紙はくし可能かのうせいとは、ぎゃくにいえば何者なにものにもならないということをふくんでいるのであり、その前提ぜんていにはきびしい自己じこ否定ひていがある。その前提ぜんていがあり、前提ぜんていがあるゆえに変換へんかん構造こうぞう成立せいりつしている。【7】そして変換へんかん構造こうぞうがあるからこそ、能役者のうやくしゃ観客かんきゃくまえおんなからきゅうおとこになったり、けものだとおもうとたちまち人間にんげんになったりできるのである。
 そしてこの構造こうぞう対置たいちしているもうひとつの関係かんけいは、かたとそのかたうつくしさである。【8】大体だいたいわたしはこんな理屈りくつかんがえながら師匠ししょう梅若うめわかみのるあしていたのではない。わたし夢中むちゅうになってあしていたのは、ひたすらあしうごきがうつくしかったからである。そこにはひとしんうば異様いようちからがある。そしてそのちから追求ついきゅうしていくとそこにかたというものがうかびがる。【9】わたしにとってはこの道筋みちすじえようがないものだったがをいうとぎゃくかもれない。かたをくりかえしているうちにあのちからまれる。あのちからかたむのではなくて、かたちからむ。実際じっさいにはそういうことだろう。かたからだをはめこむことによってかたをこえるちから到達とうたつする。【0】しかしどっちにしてもかたがなければ、ちからはうまれようがない。かたこそがすべてを可能かのうにするのであり、自然しぜんの、あるいは現実げんじつからだというものを能役者のうやくしゃ拒否きょひできる根拠こんきょは、このかたというものなのである。
 これが日本人にっぽんじんすくなくとも能役者のうやくしゃかんがした身体しんたいたいする思想しそうである。この思想しそうのもとには、人間にんげん自然しぜん身体しんたいというものへの否定ひていがある。身体しんたい生理せいりというものがけがれたものだというかんがえがそこにあるのだろう。そういうことをかんがえるとわたしはいつも明治めいじ批評ひひょう言葉ことばおもす。日本人にっぽんじん日常にちじょう生活せいかつにようやく洋服ようふく浸透しんとうしてきたときに、この批評ひひょう洋服ようふくからだせんがあらわになるからあさましいといったのである。いまならばなぜ人間にんげんからだせんあさましいかということになるだろう。しかし、それが日本人にっぽんじんのながいあいだかんがかたであった。そうだったからこそ日本人にっぽんじん衣服いふくというものは、からだせんをかくすようにかくすようにと発達はったつもしてきたし、そこに独特どくとく美学びがくをもちつづけてきた。(中略ちゅうりゃく
 この身体しんたい思想しそう西欧せいおう近代きんだいのたとえばデカルトのしめした精神せいしん肉体にくたい二元論にげんろんとは、まった対照たいしょうてきなものである。精神せいしん肉体にくたいまったべつ次元じげんにあるのではなく、現実げんじつ肉体にくたいをこえてあらわれたもうひとつの身体しんたいというものが、じつ精神せいしんてきなものだったからである。そのからだははじめから日常にちじょう自然しぜんからだ拒否きょひし、そのからだをこえることによって身体しんたいというものにたいする意識いしきをかえる。精神せいしん肉体にくたい止揚しようするというような弁証法べんしょうほうてきなものですらない。その身体しんたい自体じたいがすでに精神せいしんてきなものであり、だから精神せいしんとのコミュニケーションというようなことが可能かのうなのである。

渡辺わたなべたもつ舞台ぶたいという神話しんわ』による)


長文ちょうぶん 6.2しゅう
 【1】コンピュータにかぎらず、複雑ふくざつなハイテク機器きき自由じゆう使つかいこなすということは容易よういなことではない。しかしだからといって、そういう機器きき使つかいこなせるひとは、「機械きかいにつよいひと」だけだとして、「ふつうのひと」や「機械きかいによわいじん」は「使つかえなくてたりまえ」とかんがえたり、【2】「使つかえないのは本人ほんにん不器用ぶきようだからだ」とか「あたまわるいからだ」としてあきらめていたのでは、なかはちっともよくならないだろう。いつまでも、わけのわからない、使つか勝手がってわる製品せいひん市場いちばにあふれ、ごく一部いちぶひとたちだけが技術ぎじゅつ成果せいか享受きょうじゅしているにとどまってしまう。
 【3】ここはやはり発想はっそうえて、「使つかいにくい、わかりにくいのは機械きかいわるい」と、堂々どうどうえる文化ぶんかつく必要ひつようがある。(中略ちゅうりゃく
 本来ほんらいは、ほんとうのシロウトこそが「王様おうさま」なのだ。そういうフツウのひとが「使つかいにくい機械きかい」は、まさに「機械きかいがわるい」のであり、そういう機械きかい平気へいきすメーカーがわるいのだ。【4】しかも、宣伝せんでんでは「だれでもすぐ使つかえる」だの、「なににもらんけど、やってみよう」などとい、コンピュータとはおよそえんのなさそうな芸能げいのうタレントが得意とくいげにコンピュータを操作そうさしているテレビコマーシャルをながしているが、【5】いざってみたものの、どうしていいかわからず、途方とほうにくれる消費しょうひしゃ続出ぞくしゅつしているという事態じたいは、はなっておいていいことではない。
 今日きょうのコンピュータを中心ちゅうしんとしたテクノロジーの横暴おうぼうさを人間にんげん立場たちばから批判ひはんし、方向ほうこうけをしめすということは、じつはユーザー(つまり一般いっぱん市民しみん)の責任せきにんなのである。【6】「テクノロジーは本来ほんらい人間にんげんのためであり、使つかいやすく、わかりやすいものであるべきだ」ということ、「間違まちがえたり、勘違かんちがいしたりすることは、機械きかいのほうを改善かいぜんすべきことなのだ」ということを、きちんと自覚じかくして、メーカーにうったえ、どもたちにもはっきりおしえておくべきである。
 【7】このためになによりもまずテクノロジーの産物さんぶつとしての道具どうぐは、すべて人間にんげんにとって使つかいやすく、したしみやすく、身体しんたいに「馴染なじみやすい」ものであるべきだというかんがえをはっきり表明ひょうめいし、しっかりほりさげておくべきであろう。【8】このようなかんがかたは、一般いっぱんてきにはユーザー中心ちゅうしん主義しゅぎとよばれている。
 さて、ここで手始てはじめに、ユーザーのがわから道具どうぐたいする注文ちゅうもんをつけてみよう。
 道具どうぐというのは、ユーザーの勝手かって注文ちゅうもんとしては、すくなくともつぎみっつの条件じょうけんたしてほしい。
【9】(1)道具どうぐ人間にんげん代用だいようぶつではないし、人間にんげんに「かくあるべし」とか「こうすべきだ」という価値かち判断はんだん基準きじゅんしめすものであってはならない。(規範きはんせい
(2)道具どうぐひとなにかの作業さぎょう当然とうぜんそれは道具どうぐの「そと」の世界せかい仕事しごと)を達成たっせいしようとしたとき、その達成たっせい支援しえんする手段しゅだんとして有効ゆうこう機能きのうしてくれるものでなければならない。(手段しゅだんせい)【0】
(3)道具どうぐはしばらく使つかっているうちに「使つかっている」という意識いしきがなくなり、それを使つかって実行じっこうしている作業さぎょうそのものに集中しゅうちゅうできるものでなければならない。(透明とうめいせい
 コンピュータが道具どうぐだと主張しゅちょうすることは、当然とうぜんこれらの条件じょうけん、すなわち規範きはんせい手段しゅだんせい、そして透明とうめいせい条件じょうけんたすべきだということである。
 このような道具どうぐかんは、青山学院大学あおやまがくいんだいがく鈴木すずき宏昭ひろあきによると、「奴隷どれいとしての」道具どうぐかんだという。ようするに「主人しゅじん命令めいれいするな、でしゃばるな、やるべきことはづかないところでだまってやれ」と注文ちゅうもんしているようなものだという。鈴木すずきによると、ひとびとのこういう道具どうぐかんは、ちょっと複雑ふくざつ道具どうぐになると、「こんなもの使つかえん」といってしたり、そうかとおもうとぎゃくに、「なずける」ためには、講習こうしゅうかいかなにかで「徹底てってい訓練くんれん」をけるしかないとおもむことになるのだという。
 これは、たしかにもっともな主張しゅちょうであるが、ともかく、コンピュータをなんだかすごい「知能ちのう」をもった機械きかいだとか、おそるおそる「ごきげんをうかがう」べきご主人しゅじんさまというようなイメージが根強ねづよいときには、「ほんとうは、しょせん道具どうぐなんですよ。あなた自身じしん主人しゅじんなんですよ」という発想はっそうをしてみることから、コンピュータのありかたかんがえてみるのは十分じゅうぶん意味いみがあるだろう。


長文ちょうぶん 6.3しゅう
 【1】井戸端いどばたえん若旦那わかだんなが、あるわたしはなしてくれました。
 「施肥せひ充分じゅうぶん栄養えいよう状態じょうたいのいいちゃには、はながほとんどきません。」
 はなは、うまでもなく植物しょくぶつ繁殖はんしょく器官きかんつぎ世代せだい生命せいめいがせるための種子しゅしをつくる器官きかんです。【2】そのはなを、植物しょくぶつ準備じゅんびしなくなるのは、わりのない生命せいめい幻覚げんかくできるほどの、エネルギーの充足じゅうそく状態じょうたい内部ないぶしょうじるからでしょうか。
 えることのできない生命せいめいが、えようとするいとなみ――それが繁殖はんしょくですが、そのいとなみをわすれさせるほどのせい充溢じゅういつを、肥料ひりょう植物しょくぶつ内部ないぶそそぎこむことはおどろきです。【3】幸福こうふく不幸ふこうかは、べつとして。
 施肥せひって放置ほうちすると、ちゃふたたはなかせるそうです。多分たぶん永遠えいえん夢見ゆめみさせてはくれないほどの、天与てんよ栄養えいよう状態じょうたいもどるのでしょう。
 ちゃは、もともと種子しゅしでふえる植物しょくぶつですが、現在げんざい茶園ちゃえん栽培さいばいされているちゃのほとんどはもしくはという方法ほうほうでふやされています。
 【4】井戸端いどばたえん若旦那わかだんなから、こんなばなしくことになったのは、わたし茶所ちゃどころ狭山さやま引越ひっこしたとしよくはる彼岸ひがんごろ、たまたま、という苗木なえぎづくりの作業さぎょうを、いえちかくでたことがきっかけです。
 【5】は、と、ほぼおな原理げんり繁殖はんしょくほうですが、が、えだ親木おやきからはなしてしこむところを、場合ばあいは、かわいちまいつなげた状態じょうたいえだり、こうしこむのです。親木おやきとはかわいちまいでつながっていて、栄養えいよう補給ほきゅうされる通路つうろのこされているわけです。
 【6】ちゃは、もとからたくさんのえだかれて生長せいちょうしますから、かまぼこがた仕上しあげられたちゃうねうねたてったと仮定かていすれば、その断面だんめんは、えだがまるでおうぎでもひろげたようにひろがり、えんが、密生みっせいしたおおわれています。【7】は、そのえだ主要しゅようなものを、よこし、なかほどをポキリとって、こうしこみ、地面じめんった部分ぶぶんは、もとへともどされないよう、ぎゃくがたちくうえからさえ、固定こていします。【8】なかえだ基部きぶえたころ、親木おやきとつながっている部分ぶぶん切断せつだんされ、一本いっぽん独立どくりつした苗木なえぎになるわけですが、作業さぎょうをぼんやりているかぎりでは、しゃくあまりたかさでえださきそろっているひろ茶畑ちゃばたが、みるみる、地面じめんいつくばってゆくという光景こうけいです。
 【9】もともと、種子しゅしでふえるちゃを、このような方法ほうほうでふやすようになった理由りゆうは、種子しゅしには変種へんしゅしょうじることがおおく、また、交配こうはいによってつくった新種しんしゅは、種子しゅしによる繁殖はんしょくかえしている過程かていもと品種ひんしゅのいずれか一方いっぽう性質せいしつもど傾向けいこうがあるからです。【0】(中略ちゅうりゃく
 「随分ずいぶん人間にんげん本位ほんいつくえられているわけです。」若旦那わかだんなわらいながらそうい、「茶畑ちゃばたでは、ちゃがみんな栄養えいよう生長せいちょうという状態じょうたいかれている。」とつけくわえてくれました。
 そとからの間断かんだんない栄養えいようめ、その苦渋くじゅうが、内部ないぶでいつのまにか安息あんそくとうたたわっているような、けだるい生長せいちょう――そんな状態じょうたいわたしは、栄養えいよう生長せいちょうという言葉ことばかんじました。
 で、わたしきました。
 「はなかせて種子しゅしをつくる、そういう、普通ふつう生長せいちょうは、なんうのですか?」
 「成熟せいじゅく生長せいちょう、とってます。」
 成熟せいじゅくが、ぬことであったとは!
 栄養えいよう生長せいちょう成熟せいじゅく生長せいちょうというふたつの言葉ことば不意打ふいうちにあったわたしふたつの生長せいちょう瞬時しゅんじ体験たいけんしてしまったいちかぶちゃでもありました。(中略ちゅうりゃく
 その、かなりのいて、おな若旦那わかだんなからいたはなしに、こういうのがありました。
 ――ながあいだ肥料ひりょう吸収きゅうしゅうしつづけたちゃ老化ろうかして、もはや吸収きゅうしゅうりょくをもうしなってしまったとき、一斉いっせいはなぞろえます。
 はなとはなにかを、これ以上いじょう鮮烈せんれつかたることができるでしょうか。


長文ちょうぶん 6.4しゅう
長文ちょうぶんふたつある場合ばあい読解どっかい問題もんだいよう長文ちょうぶんいち番目ばんめ長文ちょうぶんです。】
 パリとロンドンを往復おうふくしたたくさんの書簡しょかんにおいて、熊楠くまぐすいていることのなかでも、もっとも重要じゅうようなのは、ことという概念がいねんをめぐるかれ思考しこうである。ここには、とても現代げんだいてき思考しこうほうを、みいだすことができる。熊楠くまぐすはそのかんがえを、まず自分じぶんかんがえる学問がくもん方法ほうほうろんとして、かたしている。
 熊楠くまぐすかんがえでは、ことしんものがまじわるところにまれる。たとえば、建築けんちくなどというものも、ことである。その場合ばあい建築けんちく自分じぶんあたまなかまれた物質ぶっしつてきなプランを、やセメントやてつ使つかって現実げんじつしようとするだろう。建築けんちくぶつそのものはものだけれども、それはしんかいでおこる想像そうぞうゆめのような出来事できごと実現じつげんすべくつくりだされた。つまり、それはひとつのこととして、しんものがあいまじわる境界きょうかいめんのようなところにあらわれてくる現象げんしょうにほかならないことになる。
 このプロセスは、もっと精密せいみつ研究けんきゅうしてみることもできる。建築けんちく設計せっけいく。そして、その設計せっけいをもとにして、建築けんちく物質ぶっしつ実行じっこうされる。このときの設計せっけいもまた、ことなのである。設計せっけいは、建築けんちくあたまなかかんだアイディアを、明確めいかく構造こうぞうをもった透視とうしほうなか定着ていちゃくさせるものだ。ここでは「設計せっけいかた」という表現ひょうげんほう自体じたいが、アイディアの物質ぶっしつをたすけている。だから、そこでもしんものが、出会であっている。そうなると、建築けんちくという行為こういそのものが、幾重いくえにもかさねあわされたこと連鎖れんさとして、できあがっていることがわかる。記号きごう表象ひょうしょう関係かんけいしているものは、こうしてかんがえてみると、すべてことなのだということが、はっきりしてくる。
 いまの学問がくもんにいちばんけているものは、このこと本質ほんしつについての洞察どうさつだ、と熊楠くまぐすかんがえた。かれかんがえでは、純粋じゅんすいなただしんだけのものとか、純粋じゅんすいにただぶつだけのもの、というのは、人間にんげん世界せかいにとっては意味いみをもたず、あらゆるものがしんもののまじわりあうところにまれることとして、現象げんしょうしている。しかも、しんかいにおける運動うんどうは、物界ぶっかい運動うんどうをつかさどっているものとは、ちがながれと原理げんりにしたがっている。このために物界ぶっかいでは、因果応報いんがおうほうということが確実かくじつにおこるのに、純粋じゅんすいしんかいでも因果応報いんがおうほうがおこるとはかぎらないのだ。たとえそのひとしんわるかんがえがおこったとしても、そのかんがえが物界ぶっかい出会であって、そこにたしかなこと痕跡こんせきをつくりだし、物界ぶっかいながれのなかまれてしまうことがなかったとしたら、そのことだけでは、けっして将来しょうらいむくいをつくりだすとはかぎらない。
 こと異質いしつなものの出会であいのうちに、生成せいせいされる。そして、そのことが、ふたたびしんものにフィードバックしてはたらきかける過程かていかさねとして、人間にんげんにとって意味いみのある世界せかいは、つくりだされてくる。熊楠くまぐすはこのこと連鎖れんさなかから、ひとつの原則げんそくがみいだせるはずだとかんがえた。
 ここで熊楠くまぐすかんがえていることは、とてもおおきな現代げんだいてき意味いみをもっている。まずかれは、人間にんげんしんはたらきが関係かんけいするいっさいの現象げんしょうについての学問がくもんにとって、いちばん重要じゅうよう意味いみをもつのはことであるけれども、このこと対象たいしょうとして分離ぶんりすることができない構造こうぞうをもっている、とっているのだ、しんかいにおこるうごきが、それとは異質いしつ物界ぶっかい出会であったとき、そこにこと痕跡こんせきがつくりだされる。しかし、そのことはもともとしんかいうごきにつながっているものだから、しんかいはたらきである知性ちせいには、こともののように対象たいしょうしてあつかうことはできないのだ。しかし、その分離ぶんり不可能ふかのう対象たいしょう不可能ふかのうなダイナミックな運動うんどうであることをあつかうことができなければ、どんな学問がくもんでも、自分じぶん世界せかいをあつかっているなどと、大口おおぐちをたたくことはできなくなるわけだ。
 ここには、じゅう世紀せいき自然しぜん科学かがく量子りょうしろん誕生たんじょうをまって、はじめて直面ちょくめんすることになった「観測かんそく問題もんだい」の要点ようてんが、すでに熊楠くまぐす独自どくじのいいまわしによって、はっきりと先取さきどりされている。

中沢なかざわ新一しんいちもりのバロック』による)

 【1】人間にんげんが、動物どうぶつにおいては例外れいがいなくそうであるような、完全かんぜん特殊とくしゅされた器官きかん本能ほんのうをそなえていないこと、自然しぜんのままの状況じょうきょう適応てきおうすることによって生存せいぞんしてゆくことはできないこと、このことは、人間にんげんにとっては環境かんきょう世界せかいなるものがそんしないことを意味いみしている。【2】動物どうぶつ個々ここ状況じょうきょうめんしていかに行動こうどうしてゆくべきかを決定けっていするのは、かれうちなる自然しぜんそのものであった。それにはんして、人間にんげん自然しぜんのなかで生存せいぞんしうるためには、かれ自身じしん自分じぶん行動こうどうによって状況じょうきょうえてゆかなければならない。【3】いかえれば、動物どうぶつたいしては自然しぜんが、はじめからそれぞれの環境かんきょう世界せかいをあたえているのであるが、人間にんげん自然しぜんたいしてはたらきかけることによって、はじめて自分じぶん生活せいかつ環境かんきょうつくさなければならない。【4】この人間にんげんのはたらきによって形成けいせいされるもの、それがひろ意味いみでの文化ぶんかとよばれうるならば、文化ぶんかをもつことは人間にんげんにとって生物せいぶつがくてき必然ひつぜんである。そしてこの文化ぶんか世界せかいのほかに、自然しぜんのままの環境かんきょう世界せかいなるものは人間にんげんにとって本来ほんらいてきそんしえない。【5】極言きょくげんすれば、人間にんげんには自然しぜんはないのである。しかも環境かんきょう世界せかいちがって、もはや人間にんげんというたね共通きょうつうのものとして一定いってい文化ぶんか世界せかいがあるわけではなく、それぞれの民族みんぞく社会しゃかい集団しゅうだんがそれぞれべつ文化ぶんか形態けいたいつくるのである。
 【6】このようにてくると、人間にんげんにおいては動物どうぶつ場合ばあいとは本質ほんしつてきちがった意味いみでの自発じはつせいということがかんがえられなければならない。すなわち、環境かんきょう世界せかいからの刺戟しげきたいする反応はんのうとして、すでに自分じぶんのなかにそなわっている本能ほんのうによって行動こうどうするという意味いみでの自発じはつせい物体ぶったい運動うんどうとの対比たいひにおいて」ではなくて、【7】むしろぎゃくに、本能ほんのうてき直接ちょくせつせい欠如けつじょしていることにおいて成立せいりつする自発じはつせいすこ逆説ぎゃくせつてきないいかたになるが、直接ちょくせつ動因どういんあたえられていないがゆえにおこなわれなければならぬ自発じはつせいである。これは知覚ちかくめんでも運動うんどうめんでもられる。
 【8】われわれの知覚ちかく世界せかいは、たんに受動じゅどうてき成立せいりつしているものではなく、われわれによって構成こうせいされたものである。動物どうぶつ生存せいぞん必要ひつよう刺戟しげきしかうけないのにはんして、人間にんげんはもともと刺戟しげき過剰かじょう状態じょうたいにあり、生活せいかつ順調じゅんちょうにいとなむためにはこの均衡きんこうなんらかのかたち克服こくふくしてゆかねばならない。【9】幼児ようじ心理しんりがくによれば、産児さんじ最初さいしょのうちはたいていの刺戟しげきたいして不快ふかいかん反応はんのうしめす。うぶごえ苦痛くつうかん表現ひょうげんにほかならないとわれている。そこでまずこの「せい戟」の充満じゅうまんがいちおう遮蔽しゃへいされることになる。【0】ある実験じっけん報告ほうこくによれば、おと刺戟しげきたいし、ヵ月かげつにはかなりの程度ていどまで不快ふかいさなしにえるようになり、さらにさんヵ月かげつごろからは関心かんしんでいることができるようになる。この無関心むかんしんさの程度ていどは、拒否きょひてきおよび志向しこうてきな「反応はんのう」との割合わりあいにおいて、はじめは増大ぞうだいしてゆき、はちヵ月かげつごろ最大さいだいになる。この段階だんかいたうえで、こんどはそれらの「せい戟」を加工かこうしてゆく能力のうりょく発達はったつはじめる。それはほぼじゅうヵ月かげつごろからられ、積極せっきょくてき外界がいかいかう態度たいど明確めいかくになって、でものをつかむ運動うんどう発達はったつしてゆくのと並行へいこうしている。幼児ようじにおけるこの経過けいかはもちろん「無意識むいしきてきに」おこなわれることである。しかし人間にんげん生活せいかつ必要ひつようにとっては過剰かじょう刺戟しげきたいし、それを自分じぶんのはたらきによって処理しょり秩序ちつじょづけ加工かこうして、みずからの知覚ちかく世界せかい構成こうせいしてゆく、その最初さいしょ段階だんかいがここにられるのである。そのはたらきのよりすすんだ段階だんかいにおける重要じゅうよう道具どうぐ言語げんごにほかならない。われわれは知覚ちかくされるさまざまのものにたいして言語げんごその記号きごうをもっておきかえ、その記号きごうにともなう表象ひょうしょうとその意味いみ理解りかいによって対象たいしょう世界せかい体系たいけいしてゆく。これがわれわれの認識にんしき活動かつどうである。

山本やまもとしん形而上学けいじじょうがく可能かのうせい』より)