(Translated by https://www.hiragana.jp/)
課題集
長文ちょうぶん 1.1しゅう
 【1】「大人おとな」はいち人前にんまえ社会しゃかいじんとしてさまざまな権利けんり義務ぎむをもつが「ども」はそうではない。「ども」は未熟みじゅくであり、大人おとなによって社会しゃかい荒波あらなみから庇護ひごされ、発達はったつおうじてそれにふさわしい教育きょういくけるべきである。【2】そうしたどもかんは、われわれにとってはほとんど自明じめいのものである。しかし、われわれのどもかんがどこでも通用つうようするわけではない。社会しゃかいことなれば、さまざまにことなったどもかんがあり、それによってどもたち自身じしん経験けいけんことなってくる。【3】このことをアメリカの社会しゃかい学者がくしゃカープとヨールズは、つぎのようなれいげてしめしている。
 たとえばナバホ・インディアンはどもを自立じりつしたものとかんがえ、部族ぶぞく行事ぎょうじのすべてにどもたちを参加さんかさせる。どもは、庇護ひごされるべきものとも重要じゅうよう責任せきにん能力のうりょくがないものともみなされない。【4】どもの言葉ことば大人おとな意見いけん同様どうよう尊重そんちょうされ交渉こうしょうごとで大人おとなどもの代弁だいべんをすることもない。どもがあるすようになっても、おや危険きけんなものを先回さきまわりしてのぞくようなことはせずども自身じしん失敗しっぱいからまなぶことを期待きたいする。【5】こうしたどもへの信頼しんらいは、われわれのには過度かど放任ほうにんともえるが、自分じぶん他者たしゃ自立じりつ尊重そんちょうするナバホの文化ぶんかおしえるのにもっとも有効ゆうこう方法ほうほうであるという。(中略ちゅうりゃく
 【6】今日きょうのわれわれのどもかん、つまり「ども」をある年齢ねんれいはば区切くぎ特別とくべつ愛情あいじょう教育きょういく対象たいしょうとしてどもをとらえる見方みかたは、フランスの歴史れきし、フィリップ・アリエスによればしゅとして近代きんだい西欧せいおう社会しゃかい形成けいせいされたものであるという。【7】アリエスは、ヨーロッパでも中世ちゅうせいにおいては、どもは大人おとなくらべて身体しんたいちいさく能力のうりょくおとるものの、いわば「ちいさな大人おとな」とみなされ、ことさらに大人おとなちがいがあるとはかんがえられていなかったという。【8】どもは「どもあつかい」されることなく奉公ほうこう見習みなら修行しゅぎょう日常にちじょうのあらゆる大人おとなじって大人おとなおなじようにはたらき、あそび、らしていた。どもがしだいに無知むち無垢むく存在そんざいとみなされて大人おとな明確めいかく区別くべつされ学校がっこう家庭かてい隔離かくりされるようになっていったのは、じゅうなな世紀せいきからじゅうはち世紀せいきにかけてのことである。【9】アリエスはこのプロセスを「『子供こども』の誕生たんじょう」のなかで、どもをえがいた絵画かいがどもの服装ふくそうあそび、教会きょうかいでのいのりの言葉ことば学校がっこうのありさまなどを丹念たんねん記述きじゅつすることによってりにしている。【0】アリエスらによる近年きんねん社会しゃかい研究けんきゅうは、われわれになじみのふかどもかんも、そして、ひと幼児ようじぎ、自分じぶん自分じぶんまわりの世話せわができるようになってからもすぐに大人おとなにならずに「ども」ごすというライフコースのありかた自体じたいも、歴史れきしてき社会しゃかいてき産物さんぶつであることをあきらかにした。
 西欧せいおうでは「ども」は、社会しゃかい近代きんだいのプロセスにおいて、近代きんだい家族かぞく学校がっこう長期ちょうきてき発展はってんのなかから徐々じょじょされていった。一方いっぽう日本にっぽんでは、明治めいじ政府せいふによる急激きゅうげき近代きんだい政策せいさくのなかで、近代きんだい西欧せいおうどもかん影響えいきょうけながらも、西欧せいおうとはややことなったプロセスで「ども」の誕生たんじょうをみることになった。
 明治維新めいじいしんまで、どもはどもとして大人おとなから区別くべつされる以前いぜん封建ほうけん社会しゃかい一員いちいんとしてまず武士ぶしどもであり、町人ちょうにんどもであり、あるいは農民のうみんどもであった。さらに男女だんじょべつがあり、おな家族かぞくまれても男児だんじ女児じょじではまったくちがったあつかいをけた。たとえば武家ぶけ跡取あととりのどもは、いつ父親ちちおやんでも家格かかく相応そうおう役人やくにんとしていち人前にんまえつとろくることができるようはやくからきびしい教育きょういくほどこされたし、農民のうみんどももおさないころからおや仕事しごと手伝てつだむらども集団しゅうだん参加さんかして共同きょうどうたい一員いちいんとしての役割やくわりになった。近世きんせい後期こうき以降いこう寺子屋てらこやさとがく農村のうそんにまでつくられそこできの初歩しょほならうこともあったが、それはあくまで日常にちじょう生活せいかつ必要ひつよう知識ちしきにとどまり労働ろうどうのなかでおやたちからおしえられる日常にちじょう区別くべつされるものではなかった。どもたちは封建ほうけんてき区分くぶんのなかで、所属しょぞくする階層かいそう男女だんじょべつおうじてそれにふさわしい大人おとなとなるようしつけられた。
 明治めいじいちはちななねん学制がくせい公布こうふは、そのようにそれぞれ異質いしつ世界せかいにあったどもたちを、学校がっこうという均質きんしつ空間くうかん一挙いっきょすくいとり、「児童じどう」という年齢ねんれいカテゴリーに一括いっかつした。その意味いみで、わがくににおいて「ども」はまず、建設けんせつされるべき近代きんだい国家こっかにな国民こくみん育成いくせいをめざして、義務ぎむ教育きょういく対象たいしょうとして、制度せいどてきされたということができよう。



長文ちょうぶん 1.2しゅう
 【1】さて、ヨーロッパのたびをするとき、都市としのモニュメンタルな建造けんぞうぶつなどをれば、だれしもそれにせられる。だが、そこですぐにひとは、その建物たてものだれなんいかなる目的もくてきてたのか、などというような知的ちてき関心かんしんほううごかされやすいのであるが、【2】それはしばしばそのひと印象いんしょう体験たいけんやその感動かんどうよわめるか、すかするのに作用さようするのである。たしかに建築けんちくぶつについて、その様式ようしきとか構造こうぞうとか、また成立せいりつ過程かてい細部さいぶ特徴とくちょうといったことについて、知的ちてき認識にんしきする、ということも大切たいせつなことである。(中略ちゅうりゃく)【3】しかし、もっと大切たいせつなことは、その対象たいしょうについてまず知的ちてき分析ぶんせきてきかんがえる、ということではなくて、その対象たいしょうをまず全体ぜんたいとしてかんじるということ、あるいはその対象たいしょうとの出会であいを新鮮しんせん体験たいけんするということ、ではあるまいか。【4】全体ぜんたいとしてる、ということはそとからるということ、そしてその出会であいの新鮮しんせん印象いんしょう体験たいけんするということである。
 だが、このようにっただけでは、まだたび体験たいけんのなかにかくれひそんでいる大切たいせつなものをすには十分じゅうぶんではない。【5】にんたびにおいて都市とし建物たてもの樹木じゅもく原野げんや出会であうとすれば、それらの事物じぶつは、すでにひとつのしょ関連かんれん構造こうぞうをもったきた全体ぜんたいひとつのきた個性こせいたいであるはずである。そのきたひとつの全体ぜんたいとは、風景ふうけいにほかならない。【6】にんたびにおいて出会であうのはひとつの風景ふうけいなのであり、ある風景ふうけいのなかの事物じぶつ出会であうのである。そしてこの風景ふうけいこそは、歴史れきしてき文化ぶんかてき人間にんげんなま自然しぜんてき風土ふうどてきせいとのひとつの綜合そうごうひとつの結合けつごうとして現象げんしょうするものなのである。
 【7】ただたんに部分ぶぶんとしてのいえ建物たてものだけとか、くもやまかわだけでは風景ふうけいとはならない。ちょうど人間にんげんにとってはなみみがくかみなどのどの部分ぶぶんも、それだけではかおつまりきた全体ぜんたいをつくらないが、【8】ひとつの全体ぜんたいとしてのかお形成けいせいしたときに、はじめてきた個性こせいある風貌ふうぼう現象げんしょうするように、自然しぜんぶつ人為じんいてき建造けんぞうぶつなどが、ひとつの内的ないてき生命せいめいてき構造こうぞう関連かんれんをもつきた全体ぜんたいとなるところに風景ふうけい現象げんしょうする。風景ふうけいのこの内的ないてき生命せいめい関連かんれんは「風景ふうけいのリズム」とうことができる。【9】もしもひとつのうつくしい自然しぜんてき風景ふうけいがあって、そこに人為じんいてき建造けんぞうぶつはいむとして、それが風景ふうけいのリズムを破壊はかいせずに、調和ちょうわしたひとつの統一とういつをつくりしているとしたら、人為じんいてき建造けんぞうぶつをつくるひとしんに、したがってつくられた作品さくひんとしての建物たてもののなかに、風景ふうけいしん風景ふうけいのリズムがきて作用さようしているということ、このことをみとめざるをえないであろう。【0】その反対はんたい場合ばあい明白めいはくである。風景ふうけいしん無視むしした資本しほん主義しゅぎてき営利えいり関心かんしんのつくり建造けんぞうぶつが、むきしに風景ふうけい破壊はかいする、ということはひとのよくっていることなのである。きずつけられた風景ふうけいひといたみやかなしみを感得かんとくするのは、ひと風景ふうけいきものとかんじているからである。
 いま風景ふうけいしん、などといういいかたをしたのであるが、これがここでの眼目がんもくなのだ。風景ふうけいとは、たんなるんだ物象ぶっしょうとしての自然しぜん断片だんぺん機械きかいてき集合しゅうごうたいとはなにちがったものである。日本語にほんご風景ふうけいのこの本質ほんしつをよくとらえている。風景ふうけいあいだに「じょう」をれてみよう。すると「風情ふぜい」と「情景じょうけい」のが、風景ふうけいから派生はせいしてくる。じつに「風景ふうけい」とは、「風情ふぜい」をもった「情景じょうけい」にほかならない。つまり「風景ふうけい」というあいだに「じょう」がかくされているわけである。これ以上いじょうにみごとに風景ふうけい本質ほんしつかたるのはむずかしいほどだ。風景ふうけいじょうをもっているのだ。(中略ちゅうりゃく
 しかし、さらにいまひと本質ほんしつてき重要じゅうようなことがそこからしょうじてくる。風景ふうけいじょうをもって現象げんしょうするということは風景ふうけいが「世界せかいない存在そんざい」(メルロ=ポンティ)の出来事できごとになる、ということである。風景ふうけいはそれを発見はっけんする人間にんげん出会であうとき、すなわち「世界せかいない存在そんざい」において、きた現象げんしょうとなるのだ。たとえばひと海岸かいがん水平すいへいせんて、そこに風景ふうけいかんずるとしよう。するとこの風景ふうけいは、そらうみけるせんや、くもあおそらうみいろや、そしてひとしん状態じょうたいや、さまざまのものの綜合そうごうとしてひとつの出来事できごとひとつの存在そんざいであることは明白めいはくである。もしもひとが、その水平すいへいせん実在じつざい確認かくにんしようとして、その水平すいへいせんかってすすむなら、水平すいへいせん姿すがたしてしまうだろう。

内田うちだ芳明よしあき風景ふうけい現象げんしょうがく』より)


長文ちょうぶん 1.3しゅう
 【1】首飾くびかざりというものは、まずだいいち財貨ざいかであり、だい地位ちいとみ象徴しょうちょうであり、そしてだいさんにおまもりである。といったさまざまな機能きのうをもってきたようだし、今日きょうもなお、これらみっつの機能きのうはそれぞれにはたらきつづけている。だが、このだいさん機能きのうは、さらに世俗せぞくしてだいよん役割やくわりをもけもっているようにおもわれる。【2】もちろん、真珠しんじゅのネックレースとか、高価こうか宝石ほうせきをちりばめたペンダントとか、ようするに貴金属ききんぞくというカテゴリーにはいる首飾くびかざりもたくさんあるし、宝石ほうせきてんをのぞいてみると、なんひゃくまんえん、ときにはなんせんまんえん、といった値段ねだんのついたおどろくべき首飾くびかざりがならんでいたりする。【3】どういうひとうのか、見当けんとうもつかないけれども、こういうものをくびにかけるご婦人ふじんはおそらくそれをせびらかし、わたしはこれだけお金持かねもちなのよ、ということを無言むごんのうちにかたろうとなさっているにちがいない。
 【4】しかし、たとえば、パチンとフタのひらくロケットといったようなものをかんがえてみよう。それはけっして高価こうかなものとはかぎらないけれども、ロケットのなかには、あいするひと写真しゃしんなどがひそかにはいっているものであるようだ。【5】このごろの世相せそうは、そんなにロマンチックなものではないかもしれないけれども、むかしはそういうものであったらしい。あるいは、ははからむすめへとつたえられる首飾くびかざりなども、それと性質せいしつをもっている。たとえそれがちいさなぎんのチャームであっても、それは母親ははおやという特定とくていのひとのおもとつながっているからだ。【6】貴金属ききんぞくとしてはまった価値かちであっても、特定とくてい人間にんげん特定とくてい人間にんげんとのかかわりのなかでかけがえのないものとして主観しゅかんてき絶対ぜったい価値かちをあたえるもの――そういう種類しゅるい首飾くびかざりもある。【7】ややほろにが感傷かんしょうをこめてこうした種類しゅるい首飾くびかざりをえがいた小説しょうせつがあったし、またグレン・ミラーの作曲さっきょくになる「真珠しんじゅ首飾くびかざり」などもあった。この種類しゅるい首飾くびかざりはけっして財宝ざいほうでもなく、とみ象徴しょうちょうでもない。それはどちらかといえば、おけい首飾くびかざりである。【8】とはいうものの、これは神様かみさまからの加護かごという意味いみでのおまもりではない。それは特定とくていひととむすびついた人間にんげんてき記憶きおく感情かんじょうにかかわるものであって、しいてづけるなら、安心あんしんがた首飾くびかざりとでもぶべきであろうか。【9】それをくびにかけることで、空間くうかんてきあるいは時間じかんてきにへだたった特定とくてい人間にんげんが、擬似ぎじてき存在そんざいとしてかんじられるからである。その擬似ぎじてき存在そんざいかん安心あんしん根源こんげんになってくれるのだ。別段べつだん特定とくてい人間にんげんだけがそうした安心あんしん根源こんげんになるわけではない。【0】たとえば、旅先たびさきでみずからもとめたペンダント、などというものもあるだろうし、なにかのおり記念きねんに、とおくられたチャームなどもあるだろう。そういう首飾くびかざりは、そのだの、できごとだののおもをたぐりよせるための糸口いとぐちとして作用さようするのである。
 なんでもない「もの」にふかおもれをしてしまうことを哲学てつがく用語ようごではものしん崇拝すうはい(フェティシズム)という。そしてものしん崇拝すうはい馬鹿ばかげたこと、と断定だんていするひとたちもすくなくはない。しかし、ぞくに、イワシのあたま信心しんじんからという。第三者だいさんしゃからみて、まった価値かち、かつ無意味むいみであるようなものが特定とくてい人間にんげんにとっては、絶対ぜったい価値かち意味いみをもつこともすくなくないのだし、われわれはおしなべて、なんらかのものしん崇拝すうはい対象たいしょうをもっているものなのだ。いや、わたしにいわせれば、むしろものしん崇拝すうはい対象たいしょうをなにもっていないひとこそが、じつ不幸ふこうなのだ。

加藤かとう秀俊ひでとしころも社会しゃかいがく」より)


長文ちょうぶん 1.4しゅう
 「くるまざ」という言葉ことばは、室町むろまち時代じだいのころにはすでに日本語にほんごなか定着ていちゃくしていたらしい。いちろくさんねん慶長けいちょうはち)に日本にっぽんイエズスかい長崎ながさき刊行かんこうした有名ゆうめいな『にち葡辞しょ』にはCurumazaniというかたりられていて、例文れいぶんとしてCurumazani nauoru(車座くるまざなおる)があり、「みな人々ひとびと円形えんけいにつく」という説明せつめいがついている。
 なん具体ぐたいてき根拠こんきょもないことだが、わたしはこの「車座くるまざ」というかたりが、いずれにしても乱世らんせい時代じだいになってから人々ひとびと愛用あいようされるようになったのではないかと想像そうぞうしている。「車座くるまざなおる」のはおんなたちではあるまい。合戦かっせんまえにした武士ぶしだん自分じぶんたちの権益けんえきおかされそうになって対策たいさくるためひそかにあつまった豪商ごうしょうたち、権力けんりょくしゃ無理むり難題なんだいをふっかけられて鳩首きゅうしゅ協議きょうぎするために集合しゅうごうしたむら代表だいひょうしゃたち、そういうおとこどもの緊張きんちょうしたかおが、この言葉ことば背後はいごからちのぼってくるようにおもえてならない。
 しかしこのかたちのつどいは、いったん緊急きんきゅう事態じたい解決かいけつされれば、たちまち一転いってんして、酒宴しゅえん歌舞かぶ放吟ほうぎんになるだろう。おんなたちもそのとき車座くるまざはなえ、その主人公しゅじんこうにさえなるだろう。やがて天下てんか太平たいへいともなれば、もっぱら後者こうしゃ車座くるまざ全盛ぜんせいとなる。
 いずれにしても、全員ぜんいん内側うちがわくというかたちのとりかたは、集団しゅうだん心構こころがまえを統一とういつし、同心どうしんものとしての結束けっそく忠誠ちゅうせいちかい、敵対てきたいするものたちにたいする排他はいたてき情熱じょうねつたかめるうえでは、もっと効果こうかてき陣形じんけいだった。高校こうこう野球やきゅうでもバレーボールでも、危機ききのぞんだ監督かんとくたちはみなこれを応用おうようする。なにしろ車座くるまざすわるというのは、たがいにかおかおい、相手あいて一挙手一投足いっきょしゅいっとうそくまで直接ちょくせつつめていられる唯一ゆいいつすわかたなのである。いわいのせきであるなら、一同いちどうしんおなじくするこころよ興奮こうふんさかずきわしよろこびに、おのずとうたおどりもてくるのは当然とうぜんだった。

中略ちゅうりゃく

 わたし財政ざいせいとか経済けいざいとかの方面ほうめんについてまったくくら人間にんげんなので、まことに単純たんじゅんなことしかえないが、アメリカと日本にっぽんあいだ極度きょくど緊張きんちょうたかまっている貿易ぼうえき摩擦まさつ経済けいざい摩擦まさつ根源こんげんには、たんなる経済けいざい問題もんだいよりもずっとふか生活せいかつ原理げんりちがいがよこたわっていることはあきらかで、これを打開だかいするにはたぶんなに世代せだいもかかるのではないか、さもなければふたた重大じゅうだい衝突しょうとつ激発げきはつすることもありうるのではないか、という危惧きぐさえかんじることがある。
 この摩擦まさつは、「開放かいほう社会しゃかい」と「車座くるまざ社会しゃかい」との対立たいりつ、というふうにも単純たんじゅんしてえるだろうが、アメリカの(そしてヨーロッパの、アジアの、そのぜん世界せかいの)土地とち不動産ふどうさん美術びじゅつひんそのつぎからつぎへとあさり、りあげておきながら、自国じこく土地とち不動産ふどうさんそのかんしては、たか障壁しょうへきりめぐらしてヨソしゃ参入さんにゅう可能かのうかぎ阻止そしする姿勢しせいつらぬこうとする日本人にっぽんじんというものは、自由じゆう貿易ぼうえき開放かいほう主義しゅぎ原理げんりほうずる人々ひとびとかられば、理解りかいできないばかりか、異様いよう魂胆こんたんうちめて世界せかい征服せいふく野望やぼうさえちらつかせて前進ぜんしんする邪悪じゃあく民族みんぞくともえかねないだろう。アメリカ政府せいふ議会ぎかいなかにそういう感情かんじょうたかまってくるときには、各地かくち市民しみんなかにそのなんばいものつよさにおいて、同種どうしゅ感情かんじょうをたかぶらせている人々ひとびとがいるとなければならない。

大岡おおおかしんをよむかぎ』による。ただし一部いちぶ原文げんぶんあらためた)



長文ちょうぶん 2.1しゅう
番目ばんめ長文ちょうぶん課題かだい長文ちょうぶんです。】
 【1】そういう「定着ていちゃく文化ぶんか」というか、うごかないことがよしとされる日本にっぽんそだったわたしは、ながじてアラビアでのフィールドワークをするようになったとき、そうではない文化ぶんか、「移動いどう文化ぶんか」ともいえるものにぶつかり、あるしゅのショックをけた。【2】といっても、それは文化ぶんかからきたわたしだから「ショック」なので、そのひとたちにとってはごくあたまえのこと。おどろきでもなんでもない。【3】わたしのフィールドのように自然しぜん条件じょうけん社会しゃかい条件じょうけんがきびしいところでは、しんどいことの連続れんぞくなのだが、こういうおどろき、異質いしつさの魅力みりょくというものにかれてなんとか今日きょうまでやってこられたようにおもう。
 【4】アラビアの砂漠さばくでは、昼間ひるま暴君ぼうくんである太陽たいようが、よるのやさしさにその支配しはいけんわたし、やっとおだやかなよるがおとずれると、わたしもみなといっしょにほっとしたものだった。【5】すなうえよこたわり、ねぶくろからかおだけしてアラビアのほしたちと交信こうしんするのも、たのしみのひとつだった。研究けんきゅう対象たいしょうはもちろんてんほしではなく、地上ちじょう遊牧民ゆうぼくみん、ベドウィンだったが、かれらの移動いどうについて調査ちょうさしていて、どうもよくわからないことがでてきた。【6】なぜ移動いどうするのだろう。うごく必要ひつようはないではないか。みずくさどもたちの学校がっこう、そのほかの生活せいかつ条件じょうけんどうじ、あるいはわるくなるかもしれないのに、うごくことがあるのだ。
 【7】このあたりのことは、さきに「アラビア・ノート」(NHKブックス、いちきゅうななきゅうねん)ですこしふれたが、「どうしてなの」ときくわたしに、「なにもかもよごれてしまったからね」というこたえがかえってきた。これだけではどういうことかよくわからなかった。【8】フィールドワークをしていると、言葉ことばのやりとりだけではわからないことがたくさんあった。当然とうぜんのことである。ひとは、言葉ことばだけでわかりあうわけではない。
 いちねんほどいっしょにくらすうち、すなのまじった食事しょくじにならなくなるのと同時どうじくらいにかれらの「移動いどう哲学てつがく」がわかってきた。【9】体系たいけいてきなものを哲学てつがくとしてもっているわけではないが、かれらは人間にんげんがひとつのところにじっとしているのは退行たいこう意味いみするとかんじているのである。
 ひとつのところで生活せいかつをしていると、ごみがてくるとか、死人しにんたというような物理ぶつりてきなよごれもあるのだが、人間にんげんしんのほうもよごれてくる、よどんでくるようにかんじているようなのだ。【0】うごくことによって浄化じょうかされるという感覚かんかくをもっている。これはセムぞくなかふるくからあるものとつながっているようでもある。「旧約きゅうやく聖書せいしょ」にも、荒野あらの放浪ほうろうし、きよめられたもののみカナンのれるという思想しそうがみいだされる。いずれにしろ、うごくことによって浄化じょうかされるのだというおもいが、ふつふつとからだのなかにわいてくるようなところがあるようだ。 (中略ちゅうりゃく
 そういうもと遊牧民ゆうぼくみんたちだけでなく、オックスフォードやハーバードに留学りゅうがくしたようないわゆる「都会とかい遊牧民ゆうぼくみん」といえるアラビアじんたちのなかにも「どう思想しそう」はビルトインされているようである。政府せいふ役人やくにんでも、いちカ所かしょにじっとしているひとすくない。あちこちにみなとすなわちオフィスをもっていて、ふうのようにてはるのでつかまえるのに苦労くろうする。ポケットベルがよくれており、コードレス電話でんわ日本にっぽん普及ふきゅうするよりはるかまえからひとびとのあいだで使つかわれていた。よくうごくかれらは、これらを使つかってビジネスじょう連絡れんらくをとるというよりは、家族かぞく友人ゆうじん親類しんるい連絡れんらくをとり、おしゃべりをたのしんだりするのである。しょくをかえることも日常にちじょうてきなことである。
 日本人にっぽんじん終身しゅうしん雇用こようはなしをすると、をまるくしておどろき、就職しゅうしょくするときに「絶対ぜったいうごきません」というような契約けいやくをしてしまうのかとたずね、けげんなかおをする。いや、そんな契約けいやくはしないが、ほとんどのひとはうごかない、一生いっしょうおな職場しょくば仕事しごとをするのだというと、ますますおどろかれてしまう。
 からだもしんもうごいていくことを前提ぜんていとするかれらは「ハサブ・ル・ズルーフ」という言葉ことば日常にちじょう生活せいかつのなかでよく使つかう。「そのときの状況じょうきょうしだい」という意味いみである。すべての「時間じかん」は「現在げんざい」に集約しゅうやくされるとかんがえ、大事だいじなのは、おな時間じかんおな空間くうかんでわかちあっているこの瞬間しゅんかん現在げんざいしかないのだという。明日あしたはこうしようとおもっていても、つぎあさきてみると状況じょうきょうがうごいているかもしれない。はは危篤きとくとか、本人ほんにんねつしたとか、そういうときはその状況じょうきょうにしたがって行動こうどうするしかない。そこで約束事やくそくごとには、日本にっぽんでは悪名あくめいたかい「インシャーアッラー」(かみ意志いしあらば)という言葉ことばをそえて処方箋しょほうせんとする。人間にんげん意志いしだけで、ものごとはうごくわけではない。昨日きのう今日きょうをしばることもできない。晴耕雨読せいこううどく感覚かんかくきるということになるだろうか。

 【1】どんな理路りろ整然せいぜんとした方法ほうほうろんにつらぬかれていても、もしその歴史れきししょがその時代じだいきた人間にんげん活動かつどう読者どくしゃのまえに形象けいしょうするだけのちからをもたなかったならば、それはんだ歴史れきし叙述じょじゅつです。そういう意味いみでは、歴史れきし学問がくもん芸術げいじゅつとのちょうど接点せってん位置いちしているといえるでしょう。【2】日本にっぽんでは残念ざんねんながらこうした歴史れきし叙述じょじゅつがはなはだすくない。いわゆるアカデミックな史家しかは、有職故実ゆうそくこじつがく伝統でんとう継承けいしょうしているために煩瑣はんさ考証こうしょうくびをつっこんで巨視的きょしてき構成こうせいりょくけ、【3】他方たほうひろ意味いみ唯物ゆいぶつ史観しかん影響えいきょうにある史家しかたちの労作ろうさくは、ともすれば理論りろんはだかのままで歴史れきしのなかに登場とうじょうしてくるために、人間にんげん人間にんげんとのぶつかりあいが範疇はんちゅう範疇はんちゅうとの関係かんけいとしてしかえがかれない傾向けいこうがあります。【4】またある場合ばあいには歴史れきし叙述じょじゅつ主体性しゅたいせいとか階級かいきゅうせいとかいう美名びめいりて、じつ自分じぶんのせまいエモーションで歴史れきしてき対象たいしょうこのみのいろにぬりあげてゆくれいすらなしとしません。いずれにしても歴史れきしころされてしまいます。
 【5】なぜ日本にっぽん場合ばあいにはこういうことになるのでしょうか。これはひとごとではなくわたし自身じしんへの批判ひはんとしてかんがえていることなのですが、わたしはなによりも歴史れきし自分じぶんのまえにいる人間にんげんがまずしくひからびているということの結果けっかではないかとおもうのです。歴史れきし現代げんだいとをつなぐくさびはいうまでもなく人間にんげんです。【6】歴史れきしのなかの人間にんげんうごきを注目ちゅうもくすることによって、それだけ現実げんじつ人間にんげんふか立体りったいてき観察かんさつするやしなわれるのですが、ぎゃくにまた現実げんじつ人間にんげんえているだけ、それだけ錯雑さくざつした歴史れきし過程かていのなかに躍動やくどうする人間像にんげんぞうをうかびあがらせるちからもうまれてくるわけです。【7】日本にっぽんにすぐれた伝記でんきがきわめてとぼしいという事実じじつになによりわれわれの人間にんげん観察かんさつりょくのにぶさがあらわれているのではないでしょうか。
 そういうわけで、せまい意味いみ歴史れきししょむだけでなく、すぐれた伝記でんき作家さっか作品さくひんむことが歴史れきし勉強べんきょう、ひいては社会しゃかい科学かがく一般いっぱん勉強べんきょうにも非常ひじょう大事だいじなことです。【8】歴史れきしまなぶということは、ようするに人間にんげんをたえずさい発見はっけんしてゆくということにほかなりません。いな、社会しゃかい科学かがく自体じたい究極きゅうきょく目標もくひょうもそこにあります。
 【9】さきほどユネスコが世界せかい各国かっこくから社会しゃかい科学かがくしゃをあつめて平和へいわ問題もんだい討議とうぎさせましたが、そのさい共同きょうどう声明せいめいのなかに、平和へいわ基礎きそとしての社会しゃかいてき洞察どうさつ民衆みんしゅうにあたえることが、人間にんげんがくとしての社会しゃかい科学かがく重大じゅうだい役割やくわりだ、とべているのをみて、わたしはいまさらのように感動かんどうしました。【0】日本にっぽん法律ほうりつ政治せいじ経済けいざい学者がくしゃたちはあまりに専門せんもんてき分化ぶんかし、他方たほうあまりに理論りろん整合せいごうせいをよろこびすぎて、人間にんげんをトータルに把握はあくするという、いちばん平凡へいぼんな、しかもいちばん肝腎かんじんのことをわすれていたのではないでしょうか。「機構きこう」の分析ぶんせきもけっこうですが、機構きこうといったところで具体ぐたいてきには肉体にくたい感情かんじょうとをもった人間にんげん集団しゅうだんによってになわれているもので、そうした感性かんせいてき人間にんげんとはなれた意味いみでの「客観きゃっかんてき存在そんざいではありません。そういう平凡へいぼんなことが看過かんかされると、どんな精緻せいち理論りろん人間にんげん内部ないぶからつきうごかすちからをもたなくなってしまうのです。
 学問がくもん意味いみをここまでつきつめてきてはじめて、「学問がくもんとはほんむことだけではない」という、よくいわれる命題めいだいただしい意味いみ理解りかいされてきます。人間にんげん人間にんげん行動こうどうとを把握はあくしようという目的もくてき意識いしきにつらぬかれているかぎり、映画えいがをみても、小説しょうせつんでも、となりのおばさんとはなしをしても、そこにひろくは学問がくもん一般いっぱんの、せまくは歴史れきしきた素材そざい発見はっけんできるはずです。そうした日常にちじょう生活せいかつのなかでたえず自分じぶん学問がくもんをためしてゆくことによって、学問がくもんがそれだけゆたかに立体りったいてきになり、ぎゃくにまた自分じぶん生活せいかつ行動こうどうとが原理げんりてき一貫いっかんせいをもってくるでしょう。

丸山まるやま真男まさお勉学べんがくについてのさん助言じょげん」より)


長文ちょうぶん 2.2しゅう
 【1】言語げんご以外いがい表現ひょうげん方法ほうほうは、総括そうかつしてこれを「しぐさ」または挙動きょどうといっているが、あるいはこのかたりではせまきにしっして、「く」まではふくまぬようなかんじがある。しかし、もっとよいができぬ以上いじょうは、用心ようじんをしてこのぶよりはない。【2】ジェスチュア・ラングェージというかたりを、タイラーの原始げんし文化ぶんかろんなどには使つかっていて、これが社会しゃかい生活せいかつおおきな役割やくわりをしていることは、すくなくとも未開みかいじんについては、くりかえしわがわれの実験じっけんたところであるが、じつはありふれたこととしてめないばかりで、おおくの文明ぶんめいじんもまたそういう空気くうきなか生息せいそくしているのである。
 【3】それにもかかわらず、今日きょう言葉ことばというもののちからを、一般いっぱん過信かしんしている。それというのはいたものが、あまはばをきかせるからかとおもう。文章ぶんしょうはすべて言葉ことばばかりから成立なりたち、日本にっぽんはまた朗読ろうどくほうなどということをまるでかんがえにれないくにであるから、【4】いたものだけによってなかろうとすると、結局けっきょく音声おんせいや「しぐさ」のどれぐらい重要じゅうようであったかを、こころづく機会きかいなどはいのである。言語げんご万能ばんのうしんずる気風きふうが、いますこしばかりつよぎるようである。【5】「そうったじゃないか」、そうはったが実際じっさいはそうかんがえていなかった場合ばあいに、こういう文句もんくでぎゅうぎゅうと詰問きつもんせられる。「なにがおかしい」。だまってわらっているよりそと場合ばあいに、言葉ことばってみろと強要きょうようせられる。「フンとはなんだ」。【6】説明せつめいしてみよという意味いみであるが、じつはその説明せつめいができないから、ただ「フン」というのである。これらはたいていは無用むよう文句もんくで、それを発言はつげんするまえから、もう相手あいて態度たいどはわかっているのである。むしろ、言語げんごにはげん〔ママ〕わせないことを承認しょうにんする方式ほうしきみたいなものである。【7】くということにたいしても「いたってわからぬ」、または「かずにわけをってごらん」などとよくうが、そうったからとて左様さようならばと、早速さっそく言葉ことば表現ひょうげん取替とりかえられるものでもい。【8】もしも言葉ことばをもって十分じゅうぶんのぞむところをべ、かんずるところをげん〔ママ〕わしるものならば、もちろんだれだってその方法ほうほうによりたいので、それでは精確せいかくしんうちうつせぬゆえに、くという方式ほうしき採用さいようするのである。【9】したがって、言葉ことばをもってする表現ひょうげん技能ぎのう進歩しんぽ反比例はんぴれいに、このだいしき表現ひょうげん方法ほうほう退却たいきゃくすることは、あかぼうから子供こども少年しょうねんから青年せいねんへと、段々だんだんかなくなってゆくのがよい証拠しょうこである。
 【0】ゆえに現代げんだいがもしもわたし観測かんそくしたとおり、老若男女ろうにゃくなんにょつうじて総体そうたいに泣声のすくなくなってきた時代じだいだとすれば、それはなんらかたね表現ひょうげん手段しゅだん、というなかにもしゅとしていいかたの、おおいに発達はったつした結果けっか推定すいていして、まずまちがいはいのであるが、なお一方いっぽうにはくことが人間にんげん交通こうつう必要ひつようひとつのはたらきであることをみとめずに、ただひたすらにこれをきらにくみ、またはしずしみあざけ傾向けいこうばかりつよくなっていることをかんがえると、あるいはまれには不便ふべんしのんで、かわりの方法ほうほうひとつもくても、なおくまいと努力どりょくしているものいとはえない。したがってこれを直接ちょくせつ人間にんげんかなしみの、むかしよりもすくなくなった徴候ちょうこうることは、まだすこしばかり気遣きづかわしく、きさえしなければ子供こどもつね幸福こうふくと、速断そくだんしてしまうこともかんがえものなのである。

柳田やなぎだ国男くにお不幸ふこうなる芸術げいじゅつ」より)


長文ちょうぶん 2.3しゅう
 【1】「っちゃん」はイギリスでヨーロッパにおける個人こじん位置いちてしまった漱石そうせきが、わがくににおける個人こじん問題もんだい学校がっこうという世間せけんなかえがそうとした作品さくひんである。あかシャツは、あるときっちゃんにいう。【2】「あなたは失礼しつれいながら、まだ学校がっこう卒業そつぎょうしたてで、教師きょうしはじめての経験けいけんである。ところ学校がっこううんふものはなか情実じょうじつのあるもので、さう書生しょせいりゅう淡泊たんぱくにはかないですからね。」っちゃんはそれにたいして「今日きょう只今ただいまいたまでこれ(これでいいとかたしんじてる。【3】かんがへてると世間せけんだい部分ぶぶんひとはわるくなること奨励しょうれいしてようおもふ。わるくならなければ社会しゃかい成功せいこうはしないものとしんじてるらしい。たまに正直しょうじき純粋じゅんすいひとるとっちゃんだの小僧こぞうだのと難癖なんくせをつけて軽蔑けいべつする。【4】おっとそれぢゃ小学校しょうがっこう中学校ちゅうがっこううそをつくな、正直しょうじきにしろと倫理りんり先生せんせいきょうへないほうがいい。いっそおもって学校がっこううそをつくほうとか、ひとしんじないじゅつとか、ひとせるさく教授きょうじゅするほうが、ためにも当人とうにんためにもなるだらう。」とかんがえている。【5】「っちゃん」は学校がっこうという世間せけん対象たいしょうしようとした作品さくひんであり、読者どくしゃっちゃんに肩入かたいれしながらんでいるが、そのみなみな自分じぶんあかシャツの仲間なかまであることを薄々うすうすかんじとっているのである。しかし世間せけんたいする無力むりょくかんのために、せめて作品さくひんなかっちゃんが活躍かつやくするのを快哉かいさいさけんでいるにすぎないのである。
中略ちゅうりゃく
 【6】明治めいじ以降いこう社会しゃかいという言葉ことば通用つうようするようになってから、わたしたち本来ほんらい欧米おうべいでつくられたこの言葉ことば使つかってわがくに現象げんしょう説明せつめいするようになり、そのためにその概念がいねん本来ほんらいもっていた意味いみとわがくに実状じつじょうとのあいだ乖離かいり無視むしされる傾向けいこうてきたのである。【7】欧米おうべい社会しゃかいという言葉ことばは、本来ほんらい個人こじんがつくる社会しゃかい意味いみしており、個人こじん前提ぜんていであった。しかしわがくにでは個人こじんという概念がいねん訳語やくごとしてできたものの、その内容ないよう欧米おうべい個人こじんとはてもつかないものであった。【8】欧米おうべい意味いみでの個人こじんまれていないのに社会しゃかいという言葉ことば通用つうようするようになってから、すくなくとも文章ぶんしょうのうえではあたかも欧米おうべいりゅう社会しゃかいがあるかのような幻想げんそうまれたのである。しかし、学者がくしゃ新聞しんぶんじんべつにすれば、一般いっぱん人々ひとびとはそれほど鈍感どんかんではなかった。【9】人々ひとびと社会しゃかいという言葉ことばをあまり使つかわず、日常にちじょう会話かいわ世界せかいでは相変あいかわらず世間せけんという言葉ことば使つかつづけたのである。このてんについてはとく知識ちしきじん責任せきにんがある。知識ちしきじんおおくはわがくに現状げんじょう分析ぶんせきをするなかつね欧米おうべい比較ひかくし、欧米おうべい諸国しょこくくらべてわがくにおくれているとろんじてきた。【0】たとえばカントの「啓蒙けいもうとはなにか」という書物しょもつなかで、上官じょうかん命令めいれい間違まちがっていた場合ばあい部下ぶかのとるべき態度たいどろんじられている。上官じょうかん命令めいれい間違まちがっているとかんがえた場合ばあいでも、部下ぶかはその命令めいれいしたがわなければならない。さもなければ軍隊ぐんたい成立せいりつしないからである。しかし軍務ぐんむ終了しゅうりょうしたとき、その部下ぶか上官じょうかん命令めいれいあやまりを公開こうかいろんじることができるとカントはいう。そしてその場合ばあいかれ自分じぶん理性りせい公的こうてき使用しようしているのだというのである。
 日本にっぽん事情じじょうかんがえてみよう。ある会社かいしゃいん会社かいしゃ経理けいりやその不正ふせい発見はっけんして、それを公的こうてき指弾しだんした場合ばあいかれ間違まちがいなくくびになるであろう。そしてもしそのことが公的こうてきろんじられるようなことがこった場合ばあいかれ行動こうどう公的こうてき理性りせいもとづくものだというもの日本にっぽんにいるだろうか。
 このようにかんがえてくると、問題もんだいひとつは、わがくににおいては個人こじんはどこまで自分じぶん行動こうどう責任せきにんをとる必要ひつようがあるのかという問題もんだいであることがあきらかになろう。それはいいかえれば世間せけんなか個人こじんはどのような位置いちをもっているのかといういでもある。
 日本にっぽん個人こじんは、世間せけんきのかお発言はつげん自分じぶん内面ないめんおもいを区別くべつしてふるまう、そのような関係かんけいなか個人こじん外面がいめん内面ないめん双方そうほう形成けいせいされているのである。いわば個人こじんは、世間せけんとの関係かんけいなかまれているのである。世間せけん人間にんげん関係かんけい世界せかいであるかぎりでかなり曖昧あいまいなものであり、その曖昧あいまいなものとの関係かんけいなか自己じこ形成けいせいせざるをえない日本にっぽん個人こじんは、欧米おうべいじんからみると、曖昧あいまい存在そんざいとしてみえるのである。 (阿部あべ謹也きんや『「世間せけん」とはなにか』)


長文ちょうぶん 2.4しゅう
 英語えいごにキャノンCanonという単語たんごがある。もとはギリシャで、尺度しゃくど基準きじゅん意味いみだった。それがキリスト教きりすときょう正統せいとうてき戒律かいりつ聖書せいしょせいてん意味いみになり、さらに文学ぶんがく文化ぶんか標準ひょうじゅんないし標準ひょうじゅんてき作品さくひん意味いみする言葉ことばとなっている。
 アメリカではちかごろ、このキャノンの見直みなおしが話題わだいになっている。社会しゃかい現象げんしょうとしてはこれまで正義せいぎとされてきたものが不正ふせいとされ、野蛮やばんとされていたものがぎゃく崇高すうこうなされるたぐいのことがおおい。西部せいぶ劇映画げきえいがにおける騎兵隊きへいたい先住民せんじゅうみん(インディアン)のえがかたなど、その典型てんけいてきれいとなるだろう。そういう傾向けいこう反映はんえいして、歴史れきしえの要求ようきゅう広範こうはんになされているらしい。文学ぶんがくでも同様どうようである。古典こてんとされていた作品さくひんがわきにしやられ、従来じゅうらい無視むしされていた作品さくひんがキャノンのげられる。そういう文学ぶんがくほん教科書きょうかしょ相次あいついであらわれ、大学だいがくなどにおける文学ぶんがく文化ぶんか教育きょういくにも大幅おおはば変革へんかくせまっている。
 これに呼応こおうして、日本にっぽんにおけるアメリカ研究けんきゅう根本こんぽんてきわらなければならない、というこえ学会がっかいなどでよくかれるようになった。だがまた、そんなにきゅうへんわれるものか、といった不安ふあんこえもよくみみにする。
 キャノンの見直みなおしは、本当ほんとうべつあたらしいことではない。かりに日本にっぽん文学ぶんがくで『万葉集まんようしゅう』や芭蕉ばしょう不動ふどう地位ちいめてきたとしても、『古今ここんしゅう』や『しん古今ここんしゅう』、西鶴さいかく蕪村ぶそん地位ちいは、しばしばらいできたのではなかろうか。一世いっせい風靡ふうびしたべに逍鴎のうち、いまも衆目しゅうもくみとめる「文豪ぶんごう」はもり鴎外おうがいのみで、特別とくべつ愛好あいこう以外いがいにはなかなかもうとしない。そしてこのよんにんかげにかくれていた夏目なつめ漱石そうせきが、いまでは日本にっぽん近代きんだい文学ぶんがく代表だいひょうする地位ちいめているようにおもわれる。
 アメリカでも同様どうようである。じゅうきゅう世紀せいき最高さいこう詩人しじんあおがれていたロングフェローは、じゅう世紀せいきはいると神聖しんせいからきずりろされてしまった。かれふくめて、文学ぶんがくかい君臨くんりんした「ケンブリッジ・ブラーミン」いまいずこだ。そして、粗野そや猥雑わいざつとされていたホイットマンが、アメリカの代表だいひょうてき詩人しじんなされるようになった。アメリカで最初さいしょのノーベル文学ぶんがくしょう受賞じゅしょう作家さっかシンクレア・ルイスをはじめ、いまでは研究けんきゅうしゃにもまれなくなってしまった文学ぶんがくしゃ数多かずおおい。
 だが最近さいきんのアメリカでのキャノンの見直みなおしは、個々ここ人物じんぶつ事件じけんなが時間じかんをかけた見直みなおしとはちがう。それはアメリカの社会しゃかい文化ぶんか全体ぜんたいてき見直みなおしとむすびついているのだ。いちきゅうろく年代ねんだいからのアメリカの激変げきへん、つまり公民こうみんけん運動うんどう、さまざまな少数しょうすう人種じんしゅ台頭たいとう、あるいはフェミニズムの進展しんてんなどがあり、かつての白人はくじん男性だんせい中心ちゅうしん文化ぶんか打倒だとう目標もくひょうとされ、文化ぶんか主義しゅぎとなえられるようになった。ポストモダニズムなど、伝統でんとうてき価値かち権威けんい否定ひていする批評ひひょう理論りろんも、このうごきをたすけているといってよい。

中略ちゅうりゃく

 このようにてくると、キャノン見直みなお運動うんどうは、現代げんだいのアメリカにおける価値かちかん動揺どうよう文化ぶんか正統せいとうせいをめぐるたたかいであることがかる。わたしたちがそれを理解りかいし、その見直みなおしの方向ほうこう注意ちゅういはら必要ひつようは、間違まちがいなくある。それを日本にっぽん適用てきようして役立やくだてられる部分ぶぶんおおいようにおもう。

亀井かめい俊介しゅんすけ『わがアメリカ文学ぶんがく』より)



長文ちょうぶん 3.1しゅう
番目ばんめ長文ちょうぶん課題かだい長文ちょうぶんです。】
 【1】しろは、完成かんせいというものにたいする人間にんげん意識いしき影響えいきょうあたつづけた。かみ印刷いんさつ文化ぶんか関係かんけいする美意識びいしきは、文字もじ活字かつじ問題もんだいだけではなく、言葉ことばをいかなる完成かんせい定着ていちゃくさせるかという、情報じょうほう仕上しあげと始末しまつへの意識いしきしている。【2】しろかみくろいインクで文字もじ印刷いんさつするという行為こういは、可逆かぎゃく定着ていちゃくをおのずと成立せいりつさせてしまうので、成熟せいじゅくなもの、吟味ぎんみらないものはそのうえ発露はつろされてはならないという、暗黙あんもく了解りょうかいをいざなう。
 【3】推敲すいこうという言葉ことばがある。推敲すいこうとは中国ちゅうごくとうだい詩人しじん賈島かとうの、詩作しさくにおける逡巡しゅんじゅん逸話いつわである。詩人しじんもとめる詩想しそうにおいて「そう月下げっかもん」がいいか「そうたた月下げっかもん」がいいかをめかねてなやむ。【4】逸話いつわ逸話いつわたるゆえんは、選択せんたくする言葉ことばのわずかな差異さいと、そのほろにおいてのイマジネーションになるほどおおきな変容へんようこりるという共感きょうかんが、この有名ゆうめい逡巡しゅんじゅんとおして成立せいりつするということであろう。【5】つきあかりの静謐せいひつ風景ふうけいなかを、おともなくもんすのか、あるいは静寂しじまなか木戸きどたたおとひびかせるかは、たしかにおおきなちがいかもしれない。いずれかをめかねる詩人しじんのデリケートな感受性かんじゅせいに、ひとはささやかな同意どういせるかもしれない。【6】しかしながら一方いっぽうで、すにしてもたたくにしても、それほどの逡巡しゅんじゅんすほどの大事だいじでもなかろうという、ほろ執着しゅうちゃくする詩人しじん神経質しんけいしつさ、器量きりょうちいささをも同時どうじ印象いんしょうづけているかもしれない。【7】これは「定着ていちゃく」あるいは「完成かんせい」という状態じょうたいまえにした人間にんげん心理しんり言及げんきゅうする問題もんだいである。
 しろかみしるされたものは可逆かぎゃくである。後戻あともどりが出来できない。【8】今日きょう押印おういんしたりサインしたりという行為こういが、意思いし決定けっていあかしとして社会しゃかいなか流通りゅうつうしている背景はいけいには、しろかみうえには訂正ていせい不能ふのう出来事できごと固定こていされるというイマジネーションがある。しろかみうえしゅしるしどろいんでいもちいてしるしすという行為こういは、あきらかに可逆かぎゃくせい象徴しょうちょうである。
 【9】思索しさく言葉ことばとして定着ていちゃくさせる行為こういもまたしろかみうえにペンやふでくという可逆かぎゃくせい、そして活字かつじとして書籍しょせきうえ定着ていちゃくさせるというさらにおおきな可逆かぎゃくせい発生はっせいさせるいとなみである。推敲すいこうという行為こういはそうした可逆かぎゃくせいしたいとなみであり美意識びいしきであろう。【0】このような、達成たっせい意識いしきした完成かんせい洗練せんれんもとめる気持きもちの背景はいけいに、しろという感受性かんじゅせいひそんでいる。
 子供こどもころ習字しゅうじ練習れんしゅう半紙はんしというかみうえおこなった。くろすみしろ半紙はんしうえ成熟せいじゅく文字もじてしなく発露はつろつづける、その反復はんぷく文字もじくトレーニングであった。かえしのつかないつたない結末けつまつかみうえあらわつづける呵責かしゃくねん上達じょうたつのエネルギーとなる。練習れんしゅうよう半紙はんしといえども、しろかみである。そこに自分じぶんのつたない行為こうい痕跡こんせきのこつづけていく。かみがもったいないというよりも、しろかみれない過失かしつ累積るいせきしていくさま把握はあくつづけることが、おのずと推敲すいこうという美意識びいしき加速かそくさせるのである。この、推敲すいこうという意識いしきをいざなう推進すいしんりょくのようなものが、かみ中心ちゅうしんとしたひとつの文化ぶんかつくげてきたのではないかとおもうのである。もしも、無限むげん過失かしつをなんの代償だいしょうもなくつづけてくれるメディアがあったとしたならば、すかたたくかを逡巡しゅんじゅんする心理しんりまれてこないかもしれない。
 (中略ちゅうりゃく
 弓矢ゆみや初級しょきゅうしゃけた忠告ちゅうこくとして「諸矢もろや手挟たばさみててきこうかふ」ことをいさめる逸話いつわが『徒然草つれづれぐさ』にある。標的ひょうてきかうときほんってゆみかまえてはいけない。その刹那せつなおとずれるへの無意識むいしき依存いぞんいちへの切実せつじつ集中しゅうちゅうなまらせるという指摘してきである。この、一本いっぽんだけっててきかう集中しゅうちゅうなかしろがある。

 (原研げんけん哉『しろ』)
 【1】自然しぜんたいする人間にんげんはたらきかけにはふたつのかたがある。ひとつはりょうについてのもの。もうひとつは制御せいぎょ管理かんりかんするものである。むかしからひとはいつでもりょう不足ふそくなやんできた。えというのは食料しょくりょうりょう不足ふそく由来ゆらいする不幸ふこうであり、貧困ひんこんとは一般いっぱんされたえのことである。【2】食料しょくりょうさえ潤沢じゅんたくにあれば、人間にんげん幸福こうふくになれる。この物質ぶっしつ主義しゅぎてきかんがえは、しかし、直接ちょくせつえが解消かいしょうされるにつれてどんどん拡大かくだい解釈かいしゃくされ、いま他人たにんちが衣服いふくとか、ひろいえとか、あるいはとなりよりもおおきなくるま世界せかいいちてんしかない絵画かいが等々とうとう、とどまるところをらない。【3】そして、技術ぎじゅつというものが自然しぜんから便益べんえき方法ほうほうである以上いじょう技術ぎじゅつにはもっとおおくというりょう要請ようせい最初さいしょからつきまとってきた。労力ろうりょくそののコストを最小限さいしょうげんりゃくして最大さいだい収穫しゅうかくる。じつ単純たんじゅん明快めいかい目標もくひょう技術ぎじゅつ設定せっていしてやってきた。
 【4】そして、いまふりかえってみれば、技術ぎじゅつしゃたちはあたえられた任務にんむをあまりに見事みごと達成たっせいしたのである(ここでは技術ぎじゅつしゃという言葉ことばを、原始げんしてき農耕のうこう原理げんり無名むめい発明はつめいしゃから現代げんだい常温じょうおんかく融合ゆうごう研究けんきゅうしゃまで、つまり時間じかんにしてすうまんねんわたって技術ぎじゅつ革新かくしん従事じゅうじしてきた人々ひとびと定義ていぎしておこう)。【5】もともとホモ・サピエンスというたねは、このような仕事しごと得意とくいだったのだろう。自然しぜんからおおくの便益べんえき効率こうりつてきすという課題かだい達成たっせいされた。しかも、これはおな速度そくどすすんだのではなく、成果せいか加速度かそくどてきげられ、いわばこのひゃく年間ねんかん技術ぎじゅつ開発かいはつ雪崩なだれ現象げんしょうをあれよあれよとごすような歳月さいげつだった。【6】ひとつを解決かいけつするとそれがつぎ問題もんだいたいするヒントをあたえ、それがまたひろべつ分野ぶんやにスピンオフしてはなひらくというよろこばしい事態じたい技術ぎじゅつしゃたちは体験たいけんした。しあわせなひとたちだ。
 しかし、このあまりの成功せいこうは、りょう達成たっせいという目的もくてきそのものをうたが結果けっかんだ。【7】人間にんげん欲望よくぼう無限むげんであるのに、地球ちきゅうのサイズは有限ゆうげんだったのである。あまりにも単純たんじゅん算術さんじゅつてき事態じたいで、まねいたわれわれのほうだってつい先日せんじつまではこんなことでまるとはおもっていなかった。人間にんげんがこのパラドックスに気付きづいたきっかけは核兵器かくへいきだった。【8】りょう効率こうりつという課題かだいたいする飛躍ひやくてき解決かいけつという意味いみで、核兵器かくへいき現代げんだい技術ぎじゅつ典型てんけいである。以前いぜんならば一人ひとりてきころすには、自分じぶんていって、こちらのあやうくしたうえで、ころすか、ころすか、あるいは撲殺ぼくさつするか、絞殺こうさつするか、いずれにしても具体ぐたいてき物理ぶつりりょく相手あいて身体しんたいたいしてくわえる必要ひつようがあった。【9】勝敗しょうはいかくりつ当然とうぜん〇パーセントということになる。このりつすこしでも自分じぶんほう有利ゆうりかたぶけようという技術ぎじゅつてき要請ようせいおおくの武器ぶきみ、その最終さいしゅうてき傑作けっさくとして核兵器かくへいきとミサイルがまれた。【0】だれまない山岳さんがく地帯ちたい地下ちかふかつくられたあついべトンと鉄鋼てっこうごうなかで、肉体にくたいてきにはけっして戦士せんし体格たいかくをそなえているとはえない技術ぎじゅつしゃが、一見いっけん無害むがいえるボタンをす。実際じっさいにはもうすこ複雑ふくざつ操作そうさをするわけだが、いずれにしてもたところ殺人さつじんとまったく無関係むかんけい行動こうどうをすることで、半時はんときあいだにははるか彼方かなたすうじゅうまんひとぬ。そのすうじゅうまん人々ひとびと一人ひとりいちにん本当ほんとうてきであるかか、それを調しらべる必要ひつようもない。これほど効果こうかてき戦争せんそうがあっただろうかと、将軍しょうぐんたちがむねるのも無理むりはないのだ。
 核兵器かくへいきはいかになんでもつよすぎた。りょうというてんだけで異常いじょう肥大ひだいした怪物かいぶつである。いかにはやうまでも、きたいところへってくれなかったり、目的もくてきいてもまらないのではることはできない。これを技術ぎじゅつてき成功せいこうかならずしもトータルな成功せいこうではないことがあきらかになった。りょう問題もんだい解決かいけつしてみたら、そのりょう制御せいぎょするものが不足ふそくしていることが歴然れきぜんえてきたのである。そこであらためてひとは、むかしから自分じぶんたちがかかえてきた問題もんだいにはりょう制御せいぎょないし管理かんりめんがあったことに気付きづいた。これまではりょうばかりをってきたために無視むしされてきた制御せいぎょ問題もんだい表面ひょうめんしたのである。制御せいぎょ問題もんだい最初さいしょからすべてのとみきまとっていたし、それを指摘してきするこえもあった。とみ分配ぶんぱい集中しゅうちゅうはこの制御せいぎょ問題もんだいひとつの局面きょくめんにすぎない。だから社会しゃかい主義しゅぎしゃりょう確保かくほ同時どうじ分配ぶんぱい方法ほうほうろんじようとしたのはただしかった。しかし、いつでもりょう問題もんだい優先ゆうせんてきあつかわれ、制御せいぎょほうはそのということで先送さきおくりされてきたのが人間にんげん歴史れきしである。

池澤いけざわ夏樹なつき「ゴドーをちながら」)


長文ちょうぶん 3.2しゅう
 【1】芸術げいじゅつというものは、あるとき理論りろんまねべば、あとは芸術げいじゅつ個性こせいしたがって創作そうさくすればよいというものでもなければ、どだいそんなことはできないものだとおもう。【2】芸術げいじゅつは、理論りろんならうよりまえに、おさなとき、もっと根本こんぽんてき体験たいけんをしており、そのあとで、いつか、ある芸術げいじゅつ作品さくひん触発しょくはつされて、芸術げいじゅつたましいまされ、そこで、それを手本てほんにとり、理論りろんまなびながら、最初さいしょこころみにとりかかるというものだとおもう。【3】そうして、かれ成長せいちょうとか円熟えんじゅくとかいうものは、根本こんぽんてき体験たいけんにつながる表現ひょうげんにだんだんせまってゆくという順序じゅんじょむのではないか。この最初さいしょ手本てほんなにであるかは、その芸術げいじゅつ一生いっしょう支配しはいする。【4】日本にっぽん芸術げいじゅつにとって、それがピカソかゴッホだったり、モーツァルトかヴァーグナーだったり、チェーホフかシェイクスピアだったりしたとしても、わたしなに異議いぎうったえるすじはない。【5】ただ、そういうときかれのもっとおさな根本こんぽんてき体験たいけんと、西洋せいようだい芸術げいじゅつとのあいだ距離きょりはずいぶんひろいはずだろうから、後年こうねんそれをめるのは並大抵なみたいていのことではあるまいと、最近さいきんがついてきたのである。手本てほんひくければかったろうというのでもない。【6】しかしべートーヴェンもシェイクスピアも、わたしたちのとはひどくちがった文明ぶんめい体系たいけいからまれ、それと複雑ふくざつにからみあった芸術げいじゅつである。それはわたしたちにわからないといえないどころか、わたしたちに強烈きょうれつうったえかけ、わたしたちをしんそこからすぶり、魅了みりょうしつくすちからちている。【7】だが、わかるとかたのしめる、同感どうかんできるとかいうことと、創造そうぞう根源こんげんにつながるということとは、微妙びみょうにからみあっているが、ちがう次元じげんぞくする。これをあきらかにすることは、理論りろんにとっても研究けんきゅうにとっても、そうしてわたしたち芸術げいじゅつ関心かんしんのある文筆ぶんぴつ業者ぎょうしゃにとっても、いちばん大切たいせつ仕事しごとぞくするだろう。【8】バッハ、モーツァルトとヴァーグナーをもつドイツじん音楽家おんがくか、モンテヴェルディと民謡みんようをもつイタリアじん、リュリとドビュッシーをもつフランスじん、チャイコフスキーとしかしたらそのまえにグリンカをもったロシアじん音楽家おんがくかたち、これはかれらの幸福こうふくであり、ときには不幸ふこうかもれない。【9】こういう人々ひとびとがいたということが、のちにくるすう世紀せいきのそれぞれのくに芸術げいじゅつ決定けっていづけるのだから。
 どういう文化ぶんかも、そういうことからはのがれがたいのである。そうして、それは芸術げいじゅつ創作そうさくばかりでなく、まちひと市民しみん感受性かんじゅせい規制きせいにまでおよんでゆく。【0】ヨーロッパにゆくごとにおもうのだが、南欧なんおう人々ひとびとはよくらないからべつとしても、スカンディナヴィア、ドイツからオーストリア、スイス、オランダ、といった国々くにぐにで、花瓶かびんけてあるはなたばをみれば、それがどれもこれも、根本こんぽんてきには、じゅうろく世紀せいきネーデルランド天才てんさいブリューゲルろうのあの素晴すばらしいはなにそっくりの構成こうせいをもっている。ブリューゲルのはなは、のちにくる絵画かいがながれにおおきな影響えいきょうおよぼし、それにつづじゅうななはち世紀せいき画家がかたち、たとえば、花瓶かびんけた花束はなたばをやたらとたくさんえがいたホイスムたちの原型げんけいとなったといってもよいのだろうし、このたねかく都市とし美術館びじゅつかんにゆけばいっぱいある。そうして、現代げんだいのヨーロッパじんたちが、まるっきりこういうないでそだったというのはかんがえられないことだ。ただ、かれらがこんはなけるとしても、そういうおもしてするかどうかはうたがわしい。ところが、そうであるにせよ、そうでないにせよ、かれらははなけるとなったら、このよんひゃくねんまえのブリューゲルからすくなくともひゃくねんまえまで連綿れんめんとつたわった絵画かいが伝統でんとうにみられるかたをしてしまうのである。わたしは、こういったれいほかにも数多かずおおくあげることができる。

吉田よしだ秀和ひでかず「ソロモンのうた」より)


長文ちょうぶん 3.3しゅう
 【1】ある人物じんぶつについての物語ものがたりが、なによりも、当人とうにん自身じしん満足まんぞくさせるものでなければならない場合ばあいかんがえよう。それは、当人とうにんが、確実かくじつ未来みらい危機ききてき状況じょうきょうまえにして、なんらかの選択せんたくあるいは決断けつだんくださねばならないような場合ばあいである。【2】このような場合ばあい、ひとは、そうした選択せんたく決断けつだんが、はたして自身じしんのぞむような帰結きけつをもたらすのかを思案しあんし、過去かこにおいて自分じぶん出合であった相似そうじ事例じれいさぐり、自身じしん能力のうりょく資質ししつ確認かくにんしようとするであろう。【3】そして、そのこととかさなりかたちで、そもそも、そのような選択せんたく決断けつだん自分じぶんにふさわしいものであるのかを確認かくにんしようとするのではないだろうか。
 高校こうこう野球やきゅう活躍かつやくした生徒せいとがプロ野球やきゅうりをすすめられた場合ばあいかんがえよう。【4】プロの世界せかいでの成功せいこうかならずしもひゃくパーセントの成功せいこう保障ほしょうされたものではない。当人とうにんは、こうした事態じたいまえにして、まず自己じこ実力じつりょくについて過去かこ実績じっせき勘案かんあんしながら、それと並行へいこうして、プロ野球やきゅう選手せんしゅ生活せいかつが、しん自分じぶん願望がんぼうするものであるかを確認かくにんしようとするであろう。【5】このとき、過去かこ自分じぶんにまつわる様々さまざま出来事できごとおもが、プロ生活せいかつはい決断けつだんけて、まさしく自分じぶん自身じしん納得なっとくしうるような「すじ」のなか位置いちづけられていくのである。この場合ばあい、「すじ」は、すで成功せいこうしている野球やきゅう選手せんしゅかた物語ものがたり適宜てきぎ借用しゃくようするというわけにはいかない。【6】あくまで、本人ほんにん自身じしんにとって、プロ生活せいかつへの決断けつだん自然しぜんであるようにおもわれるような「すじ」でなければならない。すなわち、物語ものがたりかたられることで、それは、おのずから決断けつだん理由りゆう構成こうせいする。そのさい、プロにはいるという決断けつだんが、そうした物語ものがたり要請ようせいしたといったいいかた可能かのうであろう。【7】ということは、ぎゃくに、プロにはいることを断念だんねんする決断けつだんくだされたなら、また別様べつよう物語ものがたりかたられたであろうということを意味いみする。すなわち、「来歴らいれき」は固定こていしたものではなく、一定いってい範囲はんいで、現在げんざい決断けつだんとの関連かんれんで、様々さまざまかたられうる可能かのうせいつのである。
 【8】かくして、ひとは如何いかなる決断けつだんくだすか考慮こうりょしつつ、みずからの属性ぞくせい過去かこ出来事できごと適宜てきぎ選択せんたく解釈かいしゃくしたうえで、みずからの物語ものがたりの「すじ」をもとめるのであり、他方たほう様々さまざまにありうる「すじ」を探索たんさくするなかで決断けつだん内容ないよう次第しだいかたちととのえていくのである。【9】そのさい過去かこ様々さまざま事実じじつが、その時点じてん実際じっさいかんじられたり思考しこうされたのとはことなった意味いみづけがくだされる場合ばあいもあるであろう。また、以前いぜんにおいてはさして意味いみっていないとおもわれたり、なか忘却ぼうきゃくしていたりした事実じじつがにわかに重要じゅうよう意義いぎつものとしてかびがる場合ばあいもあろう。【0】このようにして、物語ものがたりは、現在げんざいとおして過去かこ未来みらい媒介ばいかいする。すなわち、さまざまな「すじ」の可能かのうせいめた物語ものがたりのなかで、過去かこ現在げんざい未来みらい規定きていし、また、未来みらい現在げんざい過去かこ規定きていするのである。
 当人とうにんの「何者なにもの」をもっともよくあきらかにするのは、うえたようになによりも当人とうにんにとって切実せつじつ自己じこ理解りかい要求ようきゅうもとづいてかたられた物語ものがたりであり、そして、そのような物語ものがたりこそが、他者たしゃたいしても、当人とうにんについてのより充実じゅうじつした「理解りかい」をあたえるのである。もっとも、このような「理解りかい」をとおしてられた「何者なにもの」も、の「何者なにもの」でもないという意味いみしん独自どくじのものであるとはかぎらない。ハイデガー(ドイツの哲学てつがくしゃ)は、ひとが「世人せじん」の状態じょうたいだっして「本来ほんらいてき自己じこ存在そんざい」ということにおもいたるのは、だれのものでもない自己じこ意識いしきしたときだとべ、そのような契機けいきを「先駆せんくてき決意けつい」という言葉ことば表現ひょうげんした。「先駆せんくてき決意けつい」は、確実かくじつ危機ききてきである状況じょうきょうのいわば極限きょくげんてきなケースについてわれるものであるとってよいが、おそらく、しんの「独自どくじせい」というものも、そのような極限きょくげんてき状態じょうたいにおいてあらわになるのかもしれない。しかし、ひとがもっぱらこうした特別とくべつ状態じょうたいかれている場合ばあいのみを念頭ねんとうくことが、当人とうにんへの理解りかいのうえで、はたして妥当だとうであろうか。そもそも、ひとがみずからについてかた物語ものがたりにとって重要じゅうようなことは、「独自どくじせい」というよりも、むしろ「真実しんじつせい」ではないかとおもわれるからである。


長文ちょうぶん 3.4しゅう
 ここで確認かくにんしなければならないのは、「わたしがわたしである」ことを「おぼえている」ということは、過去かこ行動こうどう完全かんぜん履歴りれき保存ほぞんされるのではなく、おもされるたびに変化へんかし、意味いみけのわる記憶きおく維持いじしているということであり、そこには「忘却ぼうきゃく」もおなじくらい必要ひつようとされるものであるということだ。すなわちそれは、「記憶きおく」と「記録きろく」が、しつとしてまったくことなるものであることを意味いみしている。記録きろく記憶きおくたす役割やくわりかんがえるために、もうすこし「記憶きおくのあいまいさ」というてんについてべてみよう。
 認知にんち心理しんり学者がくしゃ高橋たかはしまさのべによれば、わたしたちが「おぼえている」とおもっている過去かこ記憶きおくも、じつはかなりの程度ていどあいまいさをのこしている部分ぶぶんがあるという。高橋たかはしによると、わたしたちはいちヶ月かげつまえのことを、事実じじつのとおりにおもせるとかんがえがちだが、実際じっさいには、時間じかんをおくことで、〇%前後ぜんこう記憶きおくわってしまうというのだ。つまりそこでわたしたちは、「想起そうきする記憶きおく内容ないよう一部いちぶ選択せんたくし、さい構成こうせいしている」のである。さらにえば、なんかえおもすことで、「虚偽きょぎ記憶きおく」があらわれる場合ばあいさえあると高橋たかはしべている。
 その記憶きおくのゆがみに影響えいきょうおよぼすのは、たとえば「暗黙あんもく理論りろん」とばれるような素人しろうとかんがえだ。暗黙あんもく理論りろんとは、かならずしも明確めいかく科学かがくてき根拠こんきょがないにもかかわらず、世間せけんではしんじられている知識ちしき概念がいねんのことであり、具体ぐたいてきには、「幼少ようしょうのトラウマが人格じんかく形成けいせいつよ影響えいきょうする」といった知識ちしきのことをす。このように近年きんねん記憶きおく研究けんきゅうは、むしろ記憶きおくが、他者たしゃ社会しゃかいてき認知にんちとのかかわりで容易ようい変化へんかするような、あいまいなものであることに注目ちゅうもくしているのである。
 こうした知見ちけんもとづいて、心理しんり学者がくしゃは、「わたしはわたしのことをおぼえている」という出来事できごとが、文字もじどおり過去かこ出来事できごとのうないにストックするようなものではなく、おもされることによって、それがあらたに「記憶きおく」として上書うわがきされるような、「自己じこ物語ものがたり」の側面そくめんつと主張しゅちょうしている。つまり、わたしがわたしであることの確信かくしんは、(「もうひとりの自分じぶん」のようなものをふくむ)他者たしゃへのかたりのなかから生成せいせいしてくるということだ。
 だとすれば、そこで「記録きろく」というメディアが、自己じこ形成けいせいするのに非常ひじょう重要じゅうよう役割やくわりたすことは、容易ようい想像そうぞうできるだろう。「高校こうこう時代じだい友人ゆうじん」が、どのようなひとだったのか、はなっておけばわたしたちはすぐにわすれてしまう。しかし、日常にちじょうにはあまりおもされることのない相手あいてであっても、卒業そつぎょうアルバムを見返みかえしたり、あるいはときにそれをべつ友人ゆうじんせながら、「かれはこういうひとでね」とか「ああ、こんなじんもいたなあ、彼女かのじょはね……」とかたったりすることで、そのたびに「高校こうこう時代じだい自分じぶん」を構成こうせいすることができる。そしてそれをつうじて「あのときは意識いしきしなかったけど、ほんとうはこのひとのことがきだったんだ」などといったように、記録きろくをもとにした他者たしゃへのかたりをつうじて、「いまの自分じぶん」に接続せつぞくされる自己じこ物語ものがたり生成せいせいするのである。
 ここには、記録きろくというメディアと、自己じこによって物語ものがたられる記憶きおくとのあいだの、ダイナミックな関係かんけいることができるだろう。

鈴木すずき謙介けんすけ『ウェブ社会しゃかい思想しそう』による)