(Translated by https://www.hiragana.jp/)
課題集
長文 1.1週
【1】「
大人」は
一人前の
社会人としてさまざまな
権利や
義務をもつが「
子ども」はそうではない。「
子ども」は
未熟であり、
大人によって
社会の
荒波から
庇護され、
発達に
応じてそれにふさわしい
教育を
受けるべきである。【2】そうした
子ども
観は、われわれにとってはほとんど
自明のものである。しかし、われわれの
子ども
観がどこでも
通用するわけではない。
社会が
異なれば、さまざまに
異なった
子ども
観があり、それによって
子どもたち
自身の
経験も
異なってくる。【3】このことをアメリカの
社会学者カープとヨールズは、
次のような
例を
挙げて
示している。
例えばナバホ・インディアンは
子どもを
自立したものと
考え、
部族の
行事のすべてに
子どもたちを
参加させる。
子どもは、
庇護されるべきものとも
重要な
責任能力がないものともみなされない。【4】
子どもの
言葉は
大人の
意見と
同様に
尊重され
交渉ごとで
大人が
子どもの
代弁をすることもない。
子どもが
歩き
出すようになっても、
親が
危険なものを
先回りして
取り
除くようなことはせず
子ども
自身が
失敗から
学ぶことを
期待する。【5】こうした
子どもへの
信頼は、われわれの
目には
過度の
放任とも
見えるが、
自分と
他者の
自立を
尊重するナバホの
文化を
教えるのにもっとも
有効な
方法であるという。(
中略)
【6】
今日のわれわれの
子ども
観、つまり「
子ども」
期をある
年齢幅で
区切り
特別な
愛情と
教育の
対象として
子どもをとらえる
見方は、フランスの
歴史家、フィリップ・アリエスによれば
主として
近代の
西欧社会で
形成されたものであるという。【7】アリエスは、ヨーロッパでも
中世においては、
子どもは
大人と
較べて
身体は
小さく
能力は
劣るものの、いわば「
小さな
大人」とみなされ、ことさらに
大人と
違いがあるとは
考えられていなかったという。【8】
子どもは「
子ども
扱い」されることなく
奉公や
見習い
修行に
出、
日常のあらゆる
場で
大人に
混じって
大人と
同じように
働き、
遊び、
暮らしていた。
子どもがしだいに
無知で
無垢な
存在とみなされて
大人と
明確に
区別され
学校や
家庭に
隔離されるようになっていったのは、
十七世紀から
十八世紀にかけてのことである。【9】アリエスはこのプロセスを「『
子供』の
誕生」のなかで、
子どもを
描いた
絵画や
子どもの
服装、
遊び、
教会での
祈りの
言葉や
学校のありさまなどを
丹念に
記述することによって
浮き
彫りにしている。【0】アリエスらによる
近年の
社会史の
研究は、われわれになじみの
深い
子ども
観も、そして、
人が
幼児期を
過ぎ、
自分で
自分の
身の
回りの
世話ができるようになってからもすぐに
大人にならずに「
子ども」
期を
過ごすというライフコースのあり
方自体も、
歴史的、
社会的な
産物であることを
明らかにした。
西欧では「
子ども」は、
社会の
近代化のプロセスにおいて、
近代家族と
学校の
長期的な
発展のなかから
徐々に
生み
出されていった。
一方、
日本では、
明治政府による
急激な
近代化政策のなかで、
近代西欧の
子ども
観の
影響を
受けながらも、
西欧とはやや
異なったプロセスで「
子ども」の
誕生をみることになった。
明治維新まで、
子どもは
子どもとして
大人から
区別される
以前に
封建社会の
一員としてまず
武士の
子どもであり、
町人の
子どもであり、あるいは
農民の
子どもであった。さらに
男女の
別があり、
同じ
家族に
生まれても
男児と
女児ではまったく
違った
扱いを
受けた。たとえば
武家の
跡取りの
子どもは、いつ
父親が
死んでも
家格相応の
役人として
一人前に
勤め
禄を
得ることができるよう
早くから
厳しい
教育が
施されたし、
農民の
子どもも
幼いころから
親の
仕事を
手伝い
村の
子ども
集団に
参加して
共同体の
一員としての
役割を
担った。
近世後期以降、
寺子屋や
郷学が
農村にまで
作られそこで
読み
書きの
初歩を
習うこともあったが、それはあくまで
日常生活に
必要な
知識にとどまり
労働のなかで
親たちから
教えられる
日常知と
区別されるものではなかった。
子どもたちは
封建的区分のなかで、
所属する
階層や
男女の
別に
応じてそれにふさわしい
大人となるようしつけられた。
明治五(
一八七二)
年の
学制の
公布は、そのようにそれぞれ
異質な
世界にあった
子どもたちを、
学校という
均質な
空間に
一挙に
掬いとり、「
児童」という
年齢カテゴリーに
一括した。その
意味で、わが
国において「
子ども」はまず、
建設されるべき
近代国家を
担う
国民の
育成をめざして、
義務教育の
対象として、
制度的に
生み
出されたということができよう。
長文 1.2週
【1】さて、ヨーロッパの
旅をするとき、
都市のモニュメンタルな
建造物などを
見れば、
誰しもそれに
魅せられる。だが、そこですぐに
人は、その
建物は
誰が
何時いかなる
目的で
建てたのか、などというような
知的関心の
方に
動かされやすいのであるが、【2】それはしばしばその
人の
印象体験やその
感動を
弱めるか、
打ち
消すかするのに
作用するのである。たしかに
建築物について、その
様式とか
構造とか、また
成立過程や
細部の
特徴といったことについて、
知的に
認識する、ということも
大切なことである。(
中略)【3】しかし、もっと
大切なことは、その
対象についてまず
知的・
分析的に
考える、ということではなくて、その
対象をまず
全体として
見て
感じるということ、あるいはその
対象との
出会いを
新鮮に
体験するということ、ではあるまいか。【4】
全体として
見る、ということは
外から
見るということ、そしてその
出会いの
新鮮な
印象を
体験するということである。
だが、このように
言っただけでは、まだ
旅の
体験のなかにかくれひそんでいる
大切なものを
引き
出すには
十分ではない。【5】
人が
旅において
都市や
建物や
樹木や
原野に
出会うとすれば、それらの
事物は、すでに
一つの
諸関連と
構造をもった
生きた
全体、
一つの
生きた
個性体であるはずである。その
生きた
一つの
全体とは、
風景にほかならない。【6】
人が
旅において
出会うのは
一つの
風景なのであり、ある
風景のなかの
事物に
出会うのである。そしてこの
風景こそは、
歴史的・
文化的人間の
生と
自然的・
風土的生との
一つの
綜合、
一つの
結合として
現象するものなのである。
【7】ただたんに
部分としての
家や
建物だけとか、
雲、
山、
川だけでは
風景とはならない。ちょうど
人間にとって
眼、
鼻、
耳、
額、
髪などのどの
部分も、それだけでは
顔つまり
生きた
全体をつくらないが、【8】
一つの
全体としての
顔を
形成した
時に、
初めて
生きた
個性ある
風貌が
現象するように、
自然物や
人為的建造物などが、
一つの
内的・
生命的構造関連をもつ
生きた
全体となるところに
風景が
現象する。
風景のこの
内的生命関連は「
風景のリズム」と
言うことができる。【9】もしも
一つの
美しい
自然的風景があって、そこに
人為的建造物が
入り
込むとして、それが
風景のリズムを
破壊せずに、
調和した
一つの
統一をつくり
出しているとしたら、
人為的建造物をつくる
人の
心に、したがってつくられた
作品としての
建物のなかに、
風景の
心、
風景のリズムが
生きて
作用しているということ、このことを
認めざるをえないであろう。【0】その
反対の
場合も
明白である。
風景の
心を
無視した
資本主義的営利関心のつくり
出す
建造物が、むき
出しに
風景を
破壊する、ということは
人のよく
知っていることなのである。
傷つけられた
風景を
見て
人が
痛みや
悲しみを
感得するのは、
人が
風景を
生きものと
感じているからである。
いま
風景の
心、などというい
方をしたのであるが、これがここでの
眼目なのだ。
風景とは、たんなる
死んだ
物象としての
自然の
断片の
機械的集合体とは
何か
違ったものである。
日本語は
風景のこの
本質をよくとらえている。
風景の
間に「
情」を
入れてみよう。すると「
風情」と「
情景」の
二語が、
風景から
派生してくる。
実に「
風景」とは、「
風情」をもった「
情景」にほかならない。つまり「
風景」という
二語の
間に「
情」がかくされているわけである。これ
以上にみごとに
風景の
本質を
語るのはむずかしいほどだ。
風景は
情をもっているのだ。(
中略)
しかし、さらにいま
一つ
本質的に
重要なことがそこから
生じてくる。
風景が
情をもって
現象するということは
風景が「
世界内存在」(メルロ=ポンティ)の
出来事になる、ということである。
風景はそれを
発見する
人間と
出会うとき、すなわち「
世界内存在」において、
生きた
現象となるのだ。たとえば
人が
海岸で
水平線を
見て、そこに
風景を
感ずるとしよう。するとこの
風景は、
空と
海を
分ける
線や、
雲や
青い
空、
海の
色や、そして
見る
人の
心の
状態や、さまざまのものの
綜合として
一つの
出来事、
一つの
存在であることは
明白である。もしも
人が、その
水平線の
実在を
確認しようとして、その
水平線に
向かって
進むなら、
水平線は
姿を
消してしまうだろう。
(
内田芳明『
風景の
現象学』より)
長文 1.3週
【1】
首飾りというものは、まず
第一に
財貨であり、
第二に
地位や
富の
象徴であり、そして
第三にお
守りである。といったさまざまな
機能をもってきたようだし、
今日もなお、これら
三つの
機能はそれぞれにはたらき
続けている。だが、この
第三の
機能は、さらに
世俗化して
第四の
役割をも
受けもっているように
思われる。【2】もちろん、
真珠のネックレースとか、
高価な
宝石をちりばめたペンダントとか、
要するに
貴金属というカテゴリーにはいる
首飾りもたくさんあるし、
宝石店をのぞいてみると、
何百万円、ときには
何千万円、といった
値段のついたおどろくべき
首飾りがならんでいたりする。【3】どういう
人が
買うのか、
見当もつかないけれども、こういうものを
首にかけるご
婦人はおそらくそれを
見せびらかし、わたしはこれだけお
金持ちなのよ、ということを
無言のうちに
語ろうとなさっているに
違いない。
【4】しかし、たとえば、パチンとフタのひらくロケットといったようなものを
考えてみよう。それは
決して
高価なものとはかぎらないけれども、ロケットのなかには、
愛する
人の
写真などがひそかに
入っているものであるようだ。【5】このごろの
世相は、そんなにロマンチックなものではないかもしれないけれども、
昔はそういうものであったらしい。あるいは、
母から
娘へと
伝えられる
首飾りなども、それと
似た
性質をもっている。たとえそれが
小さな
銀のチャームであっても、それは
母親という
特定のひとの
思い
出とつながっているからだ。【6】
貴金属としては
全く
無価値であっても、
特定の
人間が
特定の
人間とのかかわりのなかでかけがえのないものとして
主観的に
絶対の
価値をあたえるもの――そういう
種類の
首飾りもある。【7】ややほろ
苦い
感傷をこめてこうした
種類の
首飾りをえがいた
小説があったし、またグレン・ミラーの
作曲になる「
真珠の
首飾り」などもあった。この
種類の
首飾りは
決して
財宝でもなく、
富の
象徴でもない。それはどちらかといえば、お
守り
系の
首飾りである。【8】とはいうものの、これは
神様からの
加護という
意味でのお
守りではない。それは
特定の
人とむすびついた
人間的な
記憶や
感情にかかわるものであって、しいて
名づけるなら、
安心型の
首飾りとでも
呼ぶべきであろうか。【9】それを
首にかけることで、
空間的あるいは
時間的にへだたった
特定の
人間が、
擬似的存在として
感じられるからである。その
擬似的存在感は
安心の
根源になってくれるのだ。
別段、
特定の
人間だけがそうした
安心の
根源になるわけではない。【0】たとえば、
旅先でみずから
買い
求めたペンダント、などというものもあるだろうし、なにかの
折の
記念に、と
贈られたチャームなどもあるだろう。そういう
首飾りは、その
場だの、できごとだのの
思い
出をたぐりよせるための
糸口として
作用するのである。
なんでもない「
物」に
深く
思い
入れをしてしまうことを
哲学用語では
物神崇拝(フェティシズム)という。そして
物神崇拝は
馬鹿げたこと、と
断定する
人たちもすくなくはない。しかし、
俗に、イワシの
頭も
信心からという。
第三者からみて、
全く
無価値、かつ
無意味であるようなものが
特定の
人間にとっては、
絶対の
価値と
意味をもつこともすくなくないのだし、われわれはおしなべて、なんらかの
物神崇拝の
対象をもっているものなのだ。いや、わたしにいわせれば、むしろ
物神崇拝の
対象をなにも
持っていない
人こそが、
実は
不幸なのだ。
(
加藤秀俊「
衣の
社会学」より)
長文 1.4週
「くるまざ」という
言葉は、
室町時代のころにはすでに
日本語の
中に
定着していたらしい。
一六〇
三年(
慶長八)に
日本イエズス
会が
長崎で
刊行した
有名な『
日葡辞
書』にはCurumazaniという
語が
採られていて、
例文としてCurumazani nauoru(
車座に
直る)があり、「
皆の
人々が
円形に
座につく」という
説明がついている。
何の
具体的な
根拠もないことだが、
私はこの「
車座」という
語が、いずれにしても
乱世の
時代になってから
人々に
愛用されるようになったのではないかと
想像している。「
車座に
直る」のは
女たちではあるまい。
合戦を
前にした
武士団、
自分たちの
権益を
犯されそうになって
対策を
練るためひそかに
集まった
豪商たち、
権力者に
無理難題をふっかけられて
鳩首協議するために
集合した
村の
代表者たち、そういう
男どもの
緊張した
顔が、この
言葉の
背後から
立ちのぼってくるように
思えてならない。
しかしこの
形のつどいは、いったん
緊急事態が
解決されれば、たちまち
一転して、
酒宴と
歌舞放吟の
場になるだろう。
女たちもその
時は
車座に
花を
添え、その
主人公にさえなるだろう。やがて
天下太平の
世ともなれば、もっぱら
後者の
車座が
全盛となる。
いずれにしても、
全員が
内側を
向くという
形の
座のとり
方は、
集団の
心構えを
統一し、
同心の
者としての
結束と
忠誠を
誓い
合い、
敵対する
者たちに
対する
排他的情熱を
高める
上では、
最も
効果的な
陣形だった。
高校野球でもバレーボールでも、
危機に
臨んだ
監督たちは
皆これを
応用する。
何しろ
車座に
座るというのは、
互いに
顔と
顔を
向け
合い、
相手の
一挙手一投足まで
直接見つめていられる
唯一の
座り
方なのである。
祝いの
席であるなら、
一同心を
同じくする
快い
興奮、
盃を
交わし
合う
歓びに、おのずと
歌も
踊りも
出てくるのは
当然だった。
(
中略)
私は
財政とか
経済とかの
方面についてまったく
暗い
人間なので、まことに
単純なことしか
言えないが、アメリカと
日本の
間で
極度に
緊張が
高まっている
貿易摩擦や
経済摩擦の
根源には、
単なる
経済問題よりもずっと
深い
生活原理の
食い
違いが
横たわっていることは
明らかで、これを
打開するにはたぶん
何世代もかかるのではないか、さもなければ
再び
重大な
衝突が
激発することもありうるのではないか、という
危惧さえ
感じることがある。
この
摩擦は、「
開放社会」と「
車座社会」との
対立、というふうにも
単純化して
言えるだろうが、アメリカの(そしてヨーロッパの、アジアの、その
他全世界の)
土地や
不動産や
美術品その
他を
次から
次へと
買い
漁り、
値を
釣りあげておきながら、
自国の
土地や
不動産その
他に
関しては、
高い
障壁を
張りめぐらしてヨソ
者の
参入を
可能な
限り
阻止する
姿勢を
貫こうとする
日本人というものは、
自由貿易、
開放主義の
原理を
奉ずる
人々から
見れば、
理解できないばかりか、
異様な
魂胆を
内に
秘めて
世界征服の
野望さえちらつかせて
前進する
邪悪な
民族とも
見えかねないだろう。アメリカ
政府や
議会の
中にそういう
感情が
高まってくる
時には、
各地の
市民の
中にその
何倍もの
強さにおいて、
同種の
感情をたかぶらせている
人々がいると
見なければならない。
(
大岡信『
詩をよむ
鍵』による。ただし
一部原文を
改めた)
長文 2.1週
【
二番目の
長文が
課題の
長文です。】
【1】そういう「
定着文化」というか、うごかないことがよしとされる
日本で
育ったわたしは、
長じてアラビアでのフィールドワークをするようになったとき、そうではない
文化、「
移動文化」ともいえるものにぶつかり、ある
種のショックを
受けた。【2】といっても、それは
異文化からきたわたしだから「ショック」なので、その
人たちにとってはごく
当り
前のこと。おどろきでもなんでもない。【3】わたしのフィールドのように
自然条件・
社会条件がきびしいところでは、しんどいことの
連続なのだが、こういうおどろき、
異質さの
魅力というものに
惹かれてなんとか
今日までやってこられたようにおもう。
【4】アラビアの
砂漠では、
昼間の
暴君である
太陽が、
夜のやさしさにその
支配権を
渡し、やっとおだやかな
夜がおとずれると、わたしもみなといっしょにほっとしたものだった。【5】
砂の
上に
横たわり、ねぶくろから
顔だけ
出してアラビアの
星たちと
交信するのも、
楽しみのひとつだった。
研究の
対象はもちろん
天の
星ではなく、
地上の
遊牧民、ベドウィンだったが、かれらの
移動について
調査していて、どうもよくわからないことがでてきた。【6】なぜ
移動するのだろう。うごく
必要はないではないか。
水、
草、
子どもたちの
学校、そのほかの
生活の
条件は
同じ、あるいは
悪くなるかもしれないのに、うごくことがあるのだ。
【7】このあたりのことは、
先に「アラビア・ノート」(NHKブックス、
一九七九年)で
少しふれたが、「どうしてなの」ときくわたしに、「なにもかもよごれてしまったからね」という
答えがかえってきた。これだけではどういうことかよくわからなかった。【8】フィールドワークをしていると、
言葉のやりとりだけではわからないことがたくさんあった。
当然のことである。
人は、
言葉だけでわかりあうわけではない。
一年ほどいっしょにくらすうち、
砂のまじった
食事も
気にならなくなるのと
同時くらいにかれらの「
移動の
哲学」がわかってきた。【9】
体系的なものを
哲学としてもっているわけではないが、かれらは
人間がひとつのところにじっとしているのは
退行を
意味すると
感じているのである。
ひとつのところで
生活をしていると、ごみが
出てくるとか、
死人が
出たというような
物理的なよごれもあるのだが、
人間の
心のほうもよごれてくる、よどんでくるように
感じているようなのだ。【0】うごくことによって
浄化されるという
感覚をもっている。これはセム
族の
中に
古くからあるものとつながっているようでもある。「
旧約聖書」にも、
荒野を
放浪し、きよめられたもののみカナンの
地に
入れるという
思想がみいだされる。いずれにしろ、うごくことによって
浄化されるのだというおもいが、ふつふつとからだのなかにわいてくるようなところがあるようだ。 (
中略)
そういう
元遊牧民たちだけでなく、オックスフォードやハーバードに
留学したようないわゆる「
都会の
遊牧民」といえるアラビア
人たちのなかにも「
動の
思想」はビルトインされているようである。
政府の
役人でも、
一カ所にじっとしている
人は
少ない。あちこちに
港すなわちオフィスをもっていて、
風のように
来ては
去るのでつかまえるのに
苦労する。ポケットベルがよく
売れており、コードレス
電話も
日本で
普及するよりはるか
前から
人びとのあいだで
使われていた。よくうごくかれらは、これらを
使ってビジネス
上の
連絡をとるというよりは、
家族や
友人、
親類と
連絡をとり、おしゃべりを
楽しんだりするのである。
職をかえることも
日常的なことである。
日本人の
終身雇用の
話をすると、
目をまるくしておどろき、
就職するときに「
絶対うごきません」というような
契約をしてしまうのかとたずね、けげんな
顔をする。いや、そんな
契約はしないが、ほとんどの
人はうごかない、
一生、
同じ
職場で
仕事をするのだというと、ますますおどろかれてしまう。
からだも
心もうごいていくことを
前提とするかれらは「ハサブ・ル・ズルーフ」という
言葉を
日常生活のなかでよく
使う。「そのときの
状況しだい」という
意味である。すべての「
時間」は「
現在」に
集約されると
考え、
大事なのは、
同じ
時間を
同じ
空間でわかちあっているこの
瞬間、
現在しかないのだという。
明日はこうしようとおもっていても、
次の
朝起きてみると
状況がうごいているかもしれない。
母が
危篤とか、
本人が
熱を
出したとか、そういうときはその
状況にしたがって
行動するしかない。そこで
約束事には、
日本では
悪名高い「インシャーアッラー」(
神の
御意志あらば)という
言葉をそえて
処方箋とする。
人間の
意志だけで、ものごとはうごくわけではない。
昨日が
今日をしばることもできない。
晴耕雨読感覚で
生きるということになるだろうか。
【1】どんな
理路整然とした
方法論につらぬかれていても、もしその
歴史書がその
時代の
生きた
人間の
活動を
読者のまえに
形象化するだけの
力をもたなかったならば、それは
死んだ
歴史叙述です。そういう
意味では、
歴史は
学問と
芸術とのちょうど
接点に
位置しているといえるでしょう。【2】
日本では
残念ながらこうした
歴史叙述がはなはだすくない。いわゆるアカデミックな
史家は、
有職故実の
学の
伝統を
継承しているために
煩瑣な
考証に
首をつっこんで
巨視的な
構成力に
欠け、【3】
他方、
広い
意味で
唯物史観の
影響下にある
史家たちの
労作は、ともすれば
理論が
裸のままで
歴史のなかに
登場してくるために、
人間と
人間とのぶつかりあいが
範疇と
範疇との
関係としてしか
描かれない
傾向があります。【4】またある
場合には
歴史叙述の
主体性とか
階級性とかいう
美名を
借りて、
実は
自分のせまいエモーションで
歴史的対象を
好みの
色にぬりあげてゆく
例すらなしとしません。いずれにしても
歴史は
殺されてしまいます。
【5】なぜ
日本の
場合にはこういうことになるのでしょうか。これはひとごとではなく
私自身への
批判として
考えていることなのですが、
私はなによりも
歴史家が
自分の
目のまえにいる
人間を
見る
眼がまずしくひからびているということの
結果ではないかと
思うのです。
歴史と
現代とをつなぐくさびはいうまでもなく
人間です。【6】
歴史のなかの
人間の
動きを
注目することによって、それだけ
現実の
人間を
深く
立体的に
観察する
眼が
養われるのですが、
逆にまた
現実の
人間を
見る
眼が
肥えているだけ、それだけ
錯雑した
歴史過程のなかに
躍動する
人間像をうかびあがらせる
力もうまれてくるわけです。【7】
日本にすぐれた
伝記がきわめて
乏しいという
事実になによりわれわれの
人間観察力のにぶさがあらわれているのではないでしょうか。
そういうわけで、せまい
意味の
歴史書を
読むだけでなく、すぐれた
伝記作家の
作品を
読むことが
歴史の
勉強、ひいては
社会科学一般の
勉強にも
非常に
大事なことです。【8】
歴史を
学ぶということは、
要するに
人間をたえず
再発見してゆくということにほかなりません。いな、
社会科学自体の
究極の
目標もそこにあります。
【9】さきほどユネスコが
世界各国から
社会科学者をあつめて
平和問題を
討議させましたが、その
際の
共同声明のなかに、
平和の
基礎としての
社会的洞察を
民衆にあたえることが、
人間の
学としての
社会科学の
重大な
役割だ、と
述べているのをみて、
私はいまさらのように
感動しました。【0】
日本の
法律・
政治・
経済の
学者たちはあまりに
専門的に
分化し、
他方あまりに
理論の
整合性をよろこびすぎて、
人間をトータルに
把握するという、いちばん
平凡な、しかもいちばん
肝腎のことを
忘れていたのではないでしょうか。「
機構」の
分析もけっこうですが、
機構といったところで
具体的には
肉体と
感情とをもった
人間の
集団によって
担われているもので、そうした
感性的人間とはなれた
意味での「
客観的」
存在ではありません。そういう
平凡なことが
看過されると、どんな
精緻な
理論も
人間を
内部からつきうごかす
力をもたなくなってしまうのです。
学問の
意味をここまでつきつめてきてはじめて、「
学問とは
本を
読むことだけではない」という、よくいわれる
命題の
正しい
意味も
理解されてきます。
人間と
人間の
行動とを
把握しようという
目的意識につらぬかれているかぎり、
映画をみても、
小説を
読んでも、
隣りのおばさんと
話をしても、そこに
広くは
学問一般の、せまくは
歴史の
生きた
素材を
発見できるはずです。そうした
日常生活のなかでたえず
自分の
学問をためしてゆくことによって、
学問がそれだけゆたかに
立体的になり、
逆にまた
自分の
生活と
行動とが
原理的な
一貫性をもってくるでしょう。
(
丸山真男「
勉学についての
二、
三の
助言」より)
長文 2.2週
【1】
言語以外の
表現方法は、
総括してこれを「しぐさ」または
挙動といっているが、あるいはこの
語では
狭きに
失して、「
泣く」までは
含まぬような
感じがある。しかし、もっとよい
名ができぬ
以上は、
用心をしてこの
名で
呼ぶより
他はない。【2】ジェスチュア・ラングェージという
語を、タイラーの
原始文化論などには
使っていて、これが
社会生活の
大きな
役割をしていることは、
少なくとも
未開人については、くりかえし
我われの
実験し
得たところであるが、
実はありふれたこととして
気に
留めないばかりで、
多くの
文明人もまたそういう
空気の
中に
生息しているのである。
【3】それにもかかわらず、
今日は
言葉というものの
力を、
一般に
過信している。それというのは
書いたものが、
余り
幅をきかせるからかと
思う。
文章はすべて
言葉ばかりから
成立ち、
日本はまた
朗読法などということをまるで
考えに
入れない
国であるから、【4】
書いたものだけによって
世の
中を
知ろうとすると、
結局音声や「しぐさ」のどれぐらい
重要であったかを、
心づく
機会などは
無いのである。
言語の
万能を
信ずる
気風が、
今は
少しばかり
強過ぎるようである。【5】「そう
言ったじゃないか」、そうは
言ったが
実際はそう
考えていなかった
場合に、こういう
文句でぎゅうぎゅうと
詰問せられる。「
何がおかしい」。
黙って
笑っているより
外は
無い
場合に、
言葉で
言ってみろと
強要せられる。「フンとはなんだ」。【6】
説明してみよという
意味であるが、
実はその
説明ができないから、ただ「フン」というのである。これらはたいていは
無用の
文句で、それを
発言する
前から、もう
相手の
態度はわかっているのである。むしろ、
言語には
現〔ママ〕わせないことを
承認する
方式みたいなものである。【7】
泣くということに
対しても「
泣いたってわからぬ」、または「
泣かずにわけを
言ってごらん」などとよく
言うが、そう
言ったからとて
左様ならばと、
早速に
言葉の
表現に
取替えられるものでも
無い。【8】もしも
言葉をもって
十分に
望むところを
述べ、
感ずるところを
言い
現〔ママ〕わし
得るものならば、もちろん
誰だってその
方法によりたいので、それでは
精確に
心の
内を
映し
出せぬ
故に、
泣くという
方式を
採用するのである。【9】したがって、
言葉をもってする
表現技能の
進歩と
反比例に、この
第二式の
表現方法が
退却することは、
赤ん
坊から
子供、
少年から
青年へと、
段々泣かなくなってゆくのがよい
証拠である。
【0】ゆえに
現代がもしも
私の
観測した
通り、
老若男女を
通じて
総体に泣声の
少なくなってきた
時代だとすれば、それは
何らか
他の
種の
表現手段、という
中にも
主としてい
方の、
大いに
発達した
結果と
推定して、まずまちがいは
無いのであるが、なお
一方には
泣くことが
人間交通の
必要な
一つの
働きであることを
認めずに、ただひたすらにこれを
嫌い
憎み、または
賎しみ
嘲る
傾向ばかり
強くなっていることを
考えると、あるいは
稀には
不便を
忍んで、
代りの
方法は
一つも
無くても、なお
泣くまいと
努力している
者が
無いとは
言えない。したがってこれを
直接に
人間の
悲しみの、
昔よりも
少なくなった
徴候と
見ることは、まだ
少しばかり
気遣わしく、
泣きさえしなければ
子供は
常に
幸福と、
速断してしまうことも
考えものなのである。
(
柳田国男「
不幸なる
芸術」より)
長文 2.3週
【1】「
坊っちゃん」はイギリスでヨーロッパにおける
個人の
位置を
見てしまった
漱石が、わが
国における
個人の
問題を
学校という
世間の
中で
描き
出そうとした
作品である。
赤シャツは、あるとき
坊っちゃんにいう。【2】「あなたは
失礼ながら、まだ
学校を
卒業したてで、
教師は
初めての
経験である。
所が
学校と
云ふものは
中々
情実のあるもので、さう
書生流に
淡泊には
行かないですからね。」
坊っちゃんはそれに
対して「
今日只今に
至る
迄是でいいと
堅く
信じて
居る。【3】
考へて
見ると
世間の
大部分の
人はわるくなる
事を
奨励して
居る
様に
思ふ。わるくならなければ
社会に
成功はしないものと
信じて
居るらしい。たまに
正直な
純粋な
人を
見ると
坊っちゃんだの
小僧だのと
難癖をつけて
軽蔑する。【4】
夫ぢゃ
小学校や
中学校で
嘘をつくな、
正直にしろと
倫理の
先生が
教へない
方がいい。いっそ
思ひ
切って
学校で
嘘をつく
法とか、
人を
信じない
術とか、
人を
乗せる
策を
教授する
方が、
世の
為にも
当人の
為にもなるだらう。」と
考えている。【5】「
坊っちゃん」は
学校という
世間を
対象化しようとした
作品であり、
読者は
坊っちゃんに
肩入れしながら
読んでいるが、その
実皆自分が
赤シャツの
仲間であることを
薄々感じとっているのである。しかし
世間に
対する
無力感のために、せめて
作品の
中で
坊っちゃんが
活躍するのを
見て
快哉を
叫んでいるにすぎないのである。
(
中略)
【6】
明治以降社会という
言葉が
通用するようになってから、
私達は
本来欧米でつくられたこの
言葉を
使ってわが
国の
現象を
説明するようになり、そのためにその
概念が
本来もっていた
意味とわが
国の
実状との
間の
乖離が
無視される
傾向が
出てきたのである。【7】
欧米の
社会という
言葉は、
本来個人がつくる
社会を
意味しており、
個人が
前提であった。しかしわが
国では
個人という
概念は
訳語としてできたものの、その
内容は
欧米の
個人とは
似ても
似つかないものであった。【8】
欧米の
意味での
個人が
生まれていないのに
社会という
言葉が
通用するようになってから、
少なくとも
文章のうえではあたかも
欧米流の
社会があるかのような
幻想が
生まれたのである。しかし、
学者や
新聞人を
別にすれば、
一般の
人々はそれほど
鈍感ではなかった。【9】
人々は
社会という
言葉をあまり
使わず、
日常会話の
世界では
相変わらず
世間という
言葉を
使い
続けたのである。この
点については
特に
知識人に
責任がある。
知識人の
多くはわが
国の
現状分析をする
中で
常に
欧米と
比較し、
欧米諸国に
比べてわが
国が
遅れていると
論じてきた。【0】たとえばカントの「
啓蒙とは
何か」という
書物の
中で、
上官の
命令が
間違っていた
場合に
部下のとるべき
態度が
論じられている。
上官の
命令が
間違っていると
考えた
場合でも、
部下はその
命令に
従わなければならない。さもなければ
軍隊は
成立しないからである。しかし
軍務が
終了したとき、その
部下は
上官の
命令の
誤りを
公開の
場で
論じることができるとカントはいう。そしてその
場合彼は
自分の
理性を
公的に
使用しているのだというのである。
日本の
事情を
考えてみよう。ある
会社員が
会社の
経理やその
他に
不正を
発見して、それを
公的な
場で
指弾した
場合、
彼は
間違いなく
首になるであろう。そしてもしそのことが
公的に
論じられるようなことが
起こった
場合、
彼の
行動が
公的な
理性に
基づくものだという
者が
日本にいるだろうか。
このように
考えてくると、
問題の
一つは、わが
国においては
個人はどこまで
自分の
行動の
責任をとる
必要があるのかという
問題であることが
明らかになろう。それはいいかえれば
世間の
中で
個人はどのような
位置をもっているのかという
問いでもある。
日本の
個人は、
世間向きの
顔や
発言と
自分の
内面の
想いを
区別してふるまう、そのような
関係の
中で
個人の
外面と
内面の
双方が
形成されているのである。いわば
個人は、
世間との
関係の
中で
生まれているのである。
世間は
人間関係の
世界である
限りでかなり
曖昧なものであり、その
曖昧なものとの
関係の
中で
自己を
形成せざるをえない
日本の
個人は、
欧米人からみると、
曖昧な
存在としてみえるのである。 (
阿部謹也『「
世間」とは
何か』)
長文 2.4週
英語にキャノンCanonという
単語がある。もとはギリシャ
語で、
尺度、
基準の
意味だった。それが
キリスト教の
正統的戒律、
聖書の
正典の
意味になり、さらに
文学・
文化の
標準ないし
標準的作品を
意味する
言葉となっている。
アメリカでは
近ごろ、このキャノンの
見直しが
話題になっている。
社会現象としてはこれまで
正義とされてきたものが
不正とされ、
野蛮とされていたものが
逆に
崇高と
見なされるたぐいのことが
多い。
西部劇映画における
騎兵隊と
先住民(インディアン)の
描き
方など、その
典型的な
例となるだろう。そういう
傾向を
反映して、
歴史の
書き
換えの
要求は
広範になされているらしい。
文学でも
同様である。
古典とされていた
作品がわきに
押しやられ、
従来無視されていた
作品がキャノンの
座に
押し
上げられる。そういう
文学史の
本や
教科書が
相次いで
現われ、
大学などにおける
文学・
文化教育にも
大幅な
変革を
迫っている。
これに
呼応して、
日本におけるアメリカ
研究も
根本的に
変わらなければならない、という
声が
学会などでよく
聞かれるようになった。だがまた、そんなに
急に
変われるものか、といった
不安の
声もよく
耳にする。
キャノンの
見直しは、
本当は
別に
新しいことではない。かりに
日本文学で『
万葉集』や
芭蕉は
不動の
地位を
占めてきたとしても、『
古今集』や『
新古今集』、
西鶴や
蕪村の
地位は、しばしば
揺らいできたのではなかろうか。
一世を
風靡した
紅露逍鴎のうち、いまも
衆目の
認める「
文豪」は
森鴎外のみで、
他は
特別の
愛好家以外にはなかなか
読もうとしない。そしてこの
四人の
陰にかくれていた
夏目漱石が、いまでは
日本近代文学を
代表する
地位を
占めているように
思われる。
アメリカでも
同様である。
十九世紀に
最高の
詩人と
仰がれていたロングフェローは、
二十世紀に
入ると
神聖な
座から
引きずり
降ろされてしまった。
彼を
含めて、
文学界に
君臨した「ケンブリッジ・ブラーミン」いまいずこだ。そして、
粗野で
猥雑とされていたホイットマンが、アメリカの
代表的詩人と
見なされるようになった。アメリカで
最初のノーベル
文学賞受賞作家シンクレア・ルイスをはじめ、いまでは
研究者にも
読まれなくなってしまった
文学者も
数多い。
だが
最近のアメリカでのキャノンの
見直しは、
個々の
人物や
事件の
長い
時間をかけた
見直しとは
違う。それはアメリカの
社会や
文化の
全体的見直しと
結びついているのだ。
一九六〇
年代からのアメリカの
激変、つまり
公民権運動、さまざまな
少数派人種の
台頭、あるいはフェミニズムの
進展などがあり、かつての
白人男性中心の
文化は
打倒の
目標とされ、
多文化主義が
唱えられるようになった。ポストモダニズムなど、
伝統的価値の
権威を
否定する
批評理論も、この
動きを
助けているといってよい。
(
中略)
このように
見てくると、キャノン
見直し
運動は、
現代のアメリカにおける
価値観の
動揺と
文化の
正統性をめぐる
戦いであることが
分かる。
私たちがそれを
理解し、その
見直しの
方向に
注意を
払う
必要は、
間違いなくある。それを
日本に
適用して
役立てられる
部分も
多いように
思う。
(
亀井俊介『わがアメリカ
文学誌』より)
長文 3.1週
【
二番目の
長文が
課題の
長文です。】
【1】
白は、
完成度というものに
対する
人間の
意識に
影響を
与え
続けた。
紙と
印刷の
文化に
関係する
美意識は、
文字や
活字の
問題だけではなく、
言葉をいかなる
完成度で
定着させるかという、
情報の
仕上げと
始末への
意識を
生み
出している。【2】
白い
紙に
黒いインクで
文字を
印刷するという
行為は、
不可逆な
定着をおのずと
成立させてしまうので、
未成熟なもの、
吟味の
足らないものはその
上に
発露されてはならないという、
暗黙の
了解をいざなう。
【3】
推敲という
言葉がある。
推敲とは
中国の
唐代の
詩人、
賈島の、
詩作における
逡巡の
逸話である。
詩人は
求める
詩想において「
僧は
推す
月下の
門」がいいか「
僧は
敲く
月下の
門」がいいかを
決めかねて
悩む。【4】
逸話が
逸話たるゆえんは、
選択する
言葉のわずかな
差異と、その
微差において
詩のイマジネーションになるほど
大きな
変容が
起こり
得るという
共感が、この
有名な
逡巡を
通して
成立するということであろう。【5】
月あかりの
静謐な
風景の
中を、
音もなく
門を
推すのか、あるいは
静寂の
中に
木戸を
敲く
音を
響かせるかは、
確かに
大きな
違いかもしれない。いずれかを
決めかねる
詩人のデリケートな
感受性に、
人はささやかな
同意を
寄せるかもしれない。【6】しかしながら
一方で、
推すにしても
敲くにしても、それほどの
逡巡を
生み
出すほどの
大事でもなかろうという、
微差に
執着する
詩人の
神経質さ、
器量の
小ささをも
同時に
印象づけているかもしれない。【7】これは「
定着」あるいは「
完成」という
状態を
前にした
人間の
心理に
言及する
問題である。
白い
紙に
記されたものは
不可逆である。
後戻りが
出来ない。【8】
今日、
押印したりサインしたりという
行為が、
意思決定の
証として
社会の
中を
流通している
背景には、
白い
紙の
上には
訂正不能な
出来事が
固定されるというイマジネーションがある。
白い
紙の
上に
朱の
印泥を
用いて
印を
押すという
行為は、
明らかに
不可逆性の
象徴である。
【9】
思索を
言葉として
定着させる
行為もまた
白い
紙の
上にペンや
筆で
書くという
不可逆性、そして
活字として
書籍の
上に
定着させるというさらに
大きな
不可逆性を
発生させる
営みである。
推敲という
行為はそうした
不可逆性が
生み
出した
営みであり
美意識であろう。【0】このような、
達成を
意識した
完成度や
洗練を
求める
気持ちの
背景に、
白という
感受性が
潜んでいる。
子供の
頃、
習字の
練習は
半紙という
紙の
上で
行った。
黒い
墨で
白い
半紙の
上に
未成熟な
文字を
果てしなく
発露し
続ける、その
反復が
文字を
書くトレーニングであった。
取り
返しのつかないつたない
結末を
紙の
上に
顕し
続ける
呵責の
念が
上達のエネルギーとなる。
練習用の
半紙といえども、
白い
紙である。そこに
自分のつたない
行為の
痕跡を
残し
続けていく。
紙がもったいないというよりも、
白い
紙に
消し
去れない
過失を
累積していく
様を
把握し
続けることが、おのずと
推敲という
美意識を
加速させるのである。この、
推敲という
意識をいざなう
推進力のようなものが、
紙を
中心としたひとつの
文化を
作り
上げてきたのではないかと
思うのである。もしも、
無限の
過失をなんの
代償もなく
受け
入れ
続けてくれるメディアがあったとしたならば、
推すか
敲くかを
逡巡する
心理は
生まれてこないかもしれない。
(
中略)
弓矢の
初級者に
向けた
忠告として「
諸矢を
手挟みて
的に
向かふ」ことをいさめる
逸話が『
徒然草』にある。
標的に
向かう
時に
二本目の
矢を
持って
弓を
構えてはいけない。その
刹那に
訪れる
二の
矢への
無意識の
依存が
一の
矢への
切実な
集中を
鈍らせるという
指摘である。この、
矢を
一本だけ
持って
的に
向かう
集中の
中に
白がある。
(
原研哉『
白』)
【1】
自然に
対する
人間の
働きかけには
二つの
型がある。
一つは
量についてのもの。もう
一つは
制御と
管理に
関するものである。
昔から
人はいつでも
量の
不足に
悩んできた。
飢えというのは
食料の
量の
不足に
由来する
不幸であり、
貧困とは
一般化された
飢えのことである。【2】
食料さえ
潤沢にあれば、
人間は
幸福になれる。この
物質主義的な
考えは、しかし、
直接の
飢えが
解消されるにつれてどんどん
拡大解釈され、
今や
他人と
違う
衣服とか、
広い
家とか、あるいは
隣よりも
大きな
車、
世界に
一点しかない
絵画、
等々、とどまるところを
知らない。【3】そして、
技術というものが
自然から
便益を
引き
出す
方法である
以上、
技術にはもっと
多くという
量の
要請が
最初からつきまとってきた。
労力その
他のコストを
最小限略して
最大の
収穫を
得る。
実に
単純明快な
目標を
技術は
設定してやってきた。
【4】そして、
今ふりかえってみれば、
技術者たちは
与えられた
任務をあまりに
見事に
達成したのである(ここでは
技術者という
言葉を、
原始的な
農耕原理の
無名の
発明者から
現代の
常温核融合の
研究者まで、つまり
時間にして
数万年に
亘って
技術革新に
従事してきた
人々と
定義しておこう)。【5】もともとホモ・サピエンスという
種は、このような
仕事が
得意だったのだろう。
自然から
多くの
便益を
効率的に
引き
出すという
課題は
達成された。しかも、これは
同じ
速度で
進んだのではなく、
成果は
加速度的に
積み
上げられ、いわばこの
百年間は
技術開発の
雪崩現象をあれよあれよと
見て
過ごすような
歳月だった。【6】
一つを
解決するとそれが
次の
問題に
対するヒントを
与え、それがまた
広く
別の
分野にスピンオフして
花開くという
喜ばしい
事態を
技術者たちは
体験した。
幸せな
人たちだ。
しかし、このあまりの
成功は、
量の
達成という
目的そのものを
疑う
結果を
生んだ。【7】
人間の
欲望は
無限であるのに、
地球のサイズは
有限だったのである。あまりにも
単純な
算術的な
事態で、
招いたわれわれの
方だってつい
先日まではこんなことで
行き
詰まるとは
思っていなかった。
人間がこのパラドックスに
気付いたきっかけは
核兵器だった。【8】
量と
効率という
課題に
対する
飛躍的な
解決という
意味で、
核兵器は
現代技術の
典型である。
以前ならば
一人の
敵を
殺すには、
自分で
出ていって、こちらの
身を
危うくした
上で、
刺し
殺すか、
切り
殺すか、あるいは
撲殺するか、
絞殺するか、いずれにしても
具体的な
物理力を
相手の
身体に
対して
加える
必要があった。【9】
勝敗の
確率は
当然五〇パーセントということになる。この
率を
少しでも
自分の
方に
有利に
傾けようという
技術的要請が
多くの
武器を
生み、その
最終的な
傑作として
核兵器とミサイルが
生まれた。【0】
誰も
住まない
山岳地帯の
地下深く
造られた
厚いべトンと
鉄鋼の
壕の
中で、
肉体的には
決して
戦士の
体格をそなえているとは
言えない
技術者が、
一見無害に
見えるボタンを
押す。
実際にはもう
少し
複雑な
操作をするわけだが、いずれにしても
見たところ
殺人とまったく
無関係な
行動をすることで、
半時間後にははるか
彼方で
数十万の
人が
死ぬ。その
数十万の
人々の
一人一人が
本当に
敵であるか
否か、それを
調べる
必要もない。これほど
効果的な
戦争があっただろうかと、
将軍たちが
胸を
張るのも
無理はないのだ。
核兵器はいかになんでも
強すぎた。
量という
点だけで
異常に
肥大した
怪物である。いかに
速い
馬でも、
行きたいところへ
行ってくれなかったり、
目的地に
着いても
止まらないのでは
乗ることはできない。これを
機に
技術的成功は
必ずしもトータルな
成功ではないことが
明らかになった。
量の
問題を
解決してみたら、その
量を
制御するものが
不足していることが
歴然と
見えてきたのである。そこであらためて
人は、
昔から
自分たちがかかえてきた
問題には
量と
制御ないし
管理の
二面があったことに
気付いた。これまでは
量ばかりを
追ってきたために
無視されてきた
制御の
問題が
表面化したのである。
制御の
問題は
最初からすべての
富に
付きまとっていたし、それを
指摘する
声もあった。
富の
分配や
集中はこの
制御の
問題の
一つの
局面にすぎない。だから
社会主義者が
量の
確保と
同時に
分配の
方法を
論じようとしたのは
正しかった。しかし、いつでも
量の
問題が
優先的に
扱われ、
制御の
方はその
後ということで
先送りされてきたのが
人間の
歴史である。
(
池澤夏樹「ゴドーを
待ちながら」)
長文 3.2週
【1】
芸術というものは、ある
時理論を
学べば、あとは
芸術家の
個性に
従って
創作すればよいというものでもなければ、どだいそんなことはできないものだと
思う。【2】
芸術家は、
理論を
習うよりまえに、
幼い
時、もっと
根本的な
体験をしており、そのあとで、いつか、ある
芸術作品に
触発されて、
芸術家の
魂を
目覚まされ、そこで、それを
手本にとり、
理論を
学びながら、
最初の
試みにとりかかるというものだと
思う。【3】そうして、
彼の
成長とか
円熟とかいうものは、
根本的な
体験につながる
表現にだんだん
迫ってゆくという
順序を
踏むのではないか。この
最初の
手本が
何であるかは、その
芸術家の
一生を
支配する。【4】
日本の
芸術家にとって、それがピカソかゴッホだったり、モーツァルトかヴァーグナーだったり、チェーホフかシェイクスピアだったりしたとしても、
私に
何も
異議を
訴える
筋はない。【5】ただ、そういう
時、
彼のもっと
幼い
根本的な
体験と、
西洋の
大芸術との
間の
距離はずいぶん
広いはずだろうから、
後年それを
埋めるのは
並大抵のことではあるまいと、
最近、
気がついてきたのである。
手本が
低ければ
良かったろうというのでもない。【6】しかしべートーヴェンもシェイクスピアも、
私たちのとはひどくちがった
文明の
体系から
生まれ、それと
複雑にからみあった
芸術である。それは
私たちにわからないといえないどころか、
私たちに
強烈に
訴えかけ、
私たちを
心の
底から
揺すぶり、
魅了しつくす
力に
満ちている。【7】だが、わかるとか
楽しめる、
同感できるとかいうことと、
創造の
根源につながるということとは、
微妙にからみあっているが、ちがう
次元に
属する。これを
明らかにすることは、
理論家にとっても
研究家にとっても、そうして
私たち
芸術に
関心のある
文筆業者にとっても、いちばん
大切な
仕事に
属するだろう。【8】バッハ、モーツァルトとヴァーグナーをもつドイツ
人音楽家、モンテヴェルディと
民謡をもつイタリア
人、リュリとドビュッシーをもつフランス
人、チャイコフスキーと
若しかしたらその
前にグリンカをもったロシア
人音楽家たち、これは
彼らの
幸福であり、
時には
不幸かも
知れない。【9】こういう
人々がいたということが、のちにくる
数世紀のそれぞれの
国の
芸術を
決定づけるのだから。
どういう
文化も、そういうことからは
逃れがたいのである。そうして、それは
芸術家の
創作ばかりでなく、
街の
人、
市民の
感受性の
規制にまで
及んでゆく。【0】ヨーロッパにゆくごとに
思うのだが、
南欧の
人々はよく
知らないから
別としても、スカンディナヴィア、ドイツからオーストリア、スイス、オランダ、といった
国々で、
花瓶に
生けてある
花の
束をみれば、それがどれもこれも、
根本的には、
十六世紀ネーデルランド
画派の
天才ブリューゲル
老のあの
素晴らしい
花の
絵にそっくりの
構成をもっている。ブリューゲルの
花の
絵は、
後にくる
絵画の
流れに
大きな
影響を
及ぼし、それに
続く
十七、
八世紀の
画家たち、たとえば、
花瓶に
生けた
花束の
絵をやたらとたくさん
描いたホイスムたちの
原型となったといってもよいのだろうし、この
種の
絵は
各都市の
美術館にゆけばいっぱいある。そうして、
現代のヨーロッパ
人たちが、まるっきりこういう
絵を
見ないで
育ったというのは
考えられないことだ。ただ、
彼らが
今花を
生けるとしても、そういう
絵を
思い
出してするかどうかは
疑わしい。ところが、そうであるにせよ、そうでないにせよ、
彼らは
花を
生けるとなったら、この
四百年前のブリューゲルから
少なくとも
二百年前まで
連綿とつたわった
絵画の
伝統にみられる
生け
方をしてしまうのである。
私は、こういった
例を
他にも
数多くあげることができる。
(
吉田秀和「ソロモンの
歌」より)
長文 3.3週
【1】ある
人物についての
物語が、
何よりも、
当人自身を
満足させるものでなければならない
場合を
考えよう。それは、
当人が、
不確実な
未来や
危機的状況を
前にして、
何らかの
選択あるいは
決断を
下さねばならないような
場合である。【2】このような
場合、ひとは、そうした
選択や
決断が、
果して
自身の
望むような
帰結をもたらすのかを
思案し、
過去において
自分が
出合った
相似た
事例を
探り、
自身の
能力や
資質を
確認しようとするであろう。【3】そして、そのことと
重なり
合う
形で、そもそも、そのような
選択や
決断が
自分にふさわしいものであるのかを
確認しようとするのではないだろうか。
高校野球で
活躍した
生徒がプロ
野球入りを
勧められた
場合を
考えよう。【4】プロの
世界での
成功は
必ずしも
百パーセントの
成功を
保障されたものではない。
当人は、こうした
事態を
前にして、まず
自己の
実力について
過去の
実績を
勘案しながら、それと
並行して、プロ
野球の
選手生活が、
真に
自分の
願望するものであるかを
確認しようとするであろう。【5】このとき、
過去の
自分にまつわる
様々な
出来事や
思い
出が、プロ
生活に
入る
決断に
向けて、まさしく
自分自身で
納得しうるような「
筋」の
中に
位置づけられていくのである。この
場合、「
筋」は、
既に
成功している
野球選手が
語る
物語を
適宜借用するというわけにはいかない。【6】あくまで、
本人自身にとって、プロ
生活への
決断が
自然であるように
思われるような「
筋」でなければならない。すなわち、
物語が
語られることで、それは、おのずから
決断の
理由を
構成する。その
際、プロに
入るという
決断が、そうした
物語を
要請したといったい
方も
可能であろう。【7】ということは、
逆に、プロに
入ることを
断念する
決断が
下されたなら、また
別様の
物語が
語られたであろうということを
意味する。すなわち、「
来歴」は
固定したものではなく、
一定の
範囲で、
現在の
決断との
関連で、
様々に
語られうる
可能性を
持つのである。
【8】かくして、ひとは
如何なる
決断を
下すか
考慮しつつ、
自らの
属性や
過去の
出来事を
適宜選択し
解釈したうえで、
自らの
物語の「
筋」を
求めるのであり、
他方、
様々にありうる「
筋」を
探索するなかで
決断の
内容が
次第に
形を
整えていくのである。【9】その
際、
過去の
様々な
事実が、その
時点で
実際に
感じられたり
思考されたのとは
異なった
意味づけが
下される
場合もあるであろう。また、
以前においてはさして
意味を
持っていないと
思われたり、
半ば
忘却していたりした
事実がにわかに
重要な
意義を
持つものとして
浮かび
上がる
場合もあろう。【0】このようにして、
物語は、
現在を
通して
過去と
未来を
媒介する。すなわち、さまざまな「
筋」の
可能性を
秘めた
物語のなかで、
過去と
現在が
未来を
規定し、また、
未来と
現在が
過去を
規定するのである。
当人の「
何者」をもっともよく
明らかにするのは、
上に
見たように
何よりも
当人にとって
切実な
自己理解の
要求に
基づいて
語られた
物語であり、そして、そのような
物語こそが、
他者に
対しても、
当人についてのより
充実した「
理解」を
与えるのである。もっとも、このような「
理解」を
通して
得られた「
何者」も、
他の「
何者」でもないという
意味で
真に
独自のものであるとは
限らない。ハイデガー(ドイツの
哲学者)は、ひとが「
世人」の
状態を
脱して「
本来的な
自己存在」ということに
思い
至るのは、
他の
誰のものでもない
自己の
死を
意識したときだと
述べ、そのような
契機を「
先駆的決意」という
言葉で
表現した。「
先駆的決意」は、
不確実で
危機的である
状況のいわば
極限的なケースについて
言われるものであると
言ってよいが、おそらく、
真の「
独自性」というものも、そのような
極限的状態において
露になるのかもしれない。しかし、ひとがもっぱらこうした
特別の
状態に
置かれている
場合のみを
念頭に
置くことが、
当人への
理解のうえで、
果して
妥当であろうか。そもそも、ひとが
自らについて
語る
物語にとって
重要なことは、「
独自性」というよりも、むしろ「
真実性」ではないかと
思われるからである。
長文 3.4週
ここで
確認しなければならないのは、「わたしがわたしである」ことを「
覚えている」ということは、
過去の
行動の
完全な
履歴が
保存されるのではなく、
思い
出されるたびに
変化し、
意味付けの
変わる
記憶を
維持しているということであり、そこには「
忘却」も
同じくらい
必要とされるものであるということだ。すなわちそれは、「
記憶」と「
記録」が、
質としてまったく
異なるものであることを
意味している。
記録が
記憶に
果たす
役割を
考えるために、もう
少し「
記憶のあいまいさ」という
点について
述べてみよう。
認知心理学者の
高橋雅延によれば、
私たちが「
覚えている」と
思っている
過去の
記憶も、
実はかなりの
程度あいまいさを
残している
部分があるという。
高橋によると、
私たちは
一ヶ月前のことを、
事実のとおりに
思い
出せると
考えがちだが、
実際には、
時間をおくことで、
五〇%
前後の
記憶が
入れ
替わってしまうというのだ。つまりそこで
私たちは、「
想起する
記憶内容の
一部を
選択し、
再構成している」のである。さらに
言えば、
何度も
繰り
返し
思い
出すことで、「
虚偽の
記憶」が
現れる
場合さえあると
高橋は
述べている。
その
記憶のゆがみに
影響を
及ぼすのは、たとえば「
暗黙理論」と
呼ばれるような
素人考えだ。
暗黙理論とは、
必ずしも
明確な
科学的根拠がないにもかかわらず、
世間では
信じられている
知識や
概念のことであり、
具体的には、「
幼少時のトラウマが
人格形成に
強く
影響する」といった
知識のことを
指す。このように
近年の
記憶研究は、むしろ
記憶が、
他者や
社会的な
認知とのかかわりで
容易に
変化するような、あいまいなものであることに
注目しているのである。
こうした
知見に
基づいて、
心理学者は、「わたしはわたしのことを
覚えている」という
出来事が、
文字どおり
過去の
出来事を
脳内にストックするようなものではなく、
思い
出されることによって、それが
新たに「
記憶」として
上書きされるような、「
自己物語」の
側面を
持つと
主張している。つまり、わたしがわたしであることの
確信は、(「もうひとりの
自分」のようなものを
含む)
他者への
語りの
中から
生成してくるということだ。
だとすれば、そこで「
記録」というメディアが、
自己を
形成するのに
非常に
重要な
役割を
果たすことは、
容易に
想像できるだろう。「
高校時代の
友人」が、どのような
人だったのか、
放っておけば
私たちはすぐに
忘れてしまう。しかし、
日常にはあまり
思い
出されることのない
相手であっても、
卒業アルバムを
見返したり、あるいはときにそれを
別の
友人に
見せながら、「
彼はこういう
人でね」とか「ああ、こんな
人もいたなあ、
彼女はね……」と
語ったりすることで、そのたびに「
高校時代の
自分」を
構成することができる。そしてそれを
通じて「あのときは
意識しなかったけど、ほんとうはこの
人のことが
好きだったんだ」などといったように、
記録をもとにした
他者への
語りを
通じて、「いまの
自分」に
接続される
自己物語を
生成するのである。
ここには、
記録というメディアと、
自己によって
物語られる
記憶との
間の、ダイナミックな
関係を
見て
取ることができるだろう。
(
鈴木謙介『ウェブ
社会の
思想』による)