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課題集
長文ちょうぶん 1.1しゅう
 なぜ、通常つうじょうわたしたちは、「わたしが『わたし』といふとき、それは厳密げんみつわたし帰属きぞくするやうな『わたし』で」あるとかんがえるのか、また「わたしからはっせられた言葉ことばのすべてがわたし内面ないめん還流かんりゅうする」(三島みしま由紀夫ゆきお太陽たいようてつ』)としんじているのか。その理由りゆうは、わたしたちが、「自己じこのなかにかならあとづけられている他者たしゃとの関係かんけいうごき」を、そうとづくまでもなくすぐに縮小しゅくしょうし、還元かんげんしてしまうからである。つまり、もうすこ具体ぐたいてきえば、小林こばやし秀雄ひでおかえ指摘してきしているように、「精神せいしんかんがへたところを言葉ことば表現ひょうげんするのだといふ迷妄めいもう」をどうしてものがれられないからである。

何故なぜ人々ひとびとがこの平凡へいぼん事実じじつわすれるかといふと、日常にちじょう生活せいかついても、人々ひとびと精神せいしんかんがへたところを言葉ことば表現ひょうげんするのだといふ迷妄めいもう如何いかにしてもわすれられないからである。しょ事実じじつひとかんがへるのは自分じぶん精神せいしんなのか自分じぶん言葉ことばなのかよしもないのである。かんがへるといふことくといふことふたつの事実じじつしてはゐないのだ。言葉ことばといふ技術ぎじゅつびこしてなにかをかんがへるとは狂気きょうき沙汰さたである。(小林こばやし秀雄ひでお「アシルとかめ?」)

 わたしたちはランボーの小説しょうせつむとき、フロベールの小説しょうせつむとき、そこにたしかに作品さくひんがあるというがする。そこに独特どくとく音色ねいろり、きした筆致ひっちえがかれた輪郭りんかくとか色彩しきさいわける。かけがえのないトーンや声調せいちょうし、なにかしら新鮮しんせん意味合いみあいが独自どくじてき特性とくせいとして刻印こくいんされているのを感得かんとくする。だからそういう作品さくひん創作そうさくされ、おくられた言葉ことば)をし、おくった作者さくしゃがいるということも確実かくじつで、うたがいようがないとおもえる。しかしそうした独自どくじせいてき特性とくせいは、わたしたちがふつうそうかんがえているように、その個人こじん作者さくしゃ)に本来ほんらいそなわっているような固有こゆう同一どういつせいなのであろうか。自己じこのうちでかなら自己じことはことなる他者たしゃとの関係かんけいうごきを、他者たしゃへとおくりかえ転送てんそう運動うんどう痕跡こんせき縮小しゅくしょうし、還元かんげんして、それ自体じたいとして充満じゅうまんし、みずからに現前げんぜんしているような独自どくじせい個性こせいなのであろうか。
 もし作者さくしゃ個人こじん)がそれらの言葉ことば構築こうちく作品さくひん)を創造そうぞうし、おくった絶対ぜったいてき起源きげんである――言葉ことばし、おくる行為こうい運動うんどう外側そとがわし、うえからそれを宰領さいりょうし、統轄とうかつする超越ちょうえつした創造そうぞう主体しゅたいである、いわばその「作品さくひん」にたいして「かみ」のごとき存在そんざいである、と絶対ぜったいてき決定けっていできるならば、そうみなすことに根拠こんきょがあるかもしれない。しかし作者さくしゃ自分じぶん言葉ことば創出そうしゅつし、おくる行為こうい運動うんどう開始かいしするしんはじめげんである――その行為こうい運動うんどううえから統轄とうかつする完璧かんぺき創造そうぞう主体しゅたいである、と絶対ぜったいてき決定けっていすることはできないだろう。なぜなら作者さくしゃは、すでに、そしてつねに、おくられている言葉ことば運動うんどうとおして、その運動うんどうのなかで、その運動うんどうとしておくるからだ。まったく恣意しいてきさだまった必然ひつぜんとしてうごいている形相ぎょうそうせい(と一体化いったいかした意味いみ内容ないよう)の相互そうごてきしょ関係かんけい体系たいけいてき作動さどうのなかにいつもすでまれながら、つねにおくられつつ、おくる運動うんどうによって、つまりつねになるものとのしょ関係かんけいうごきをつうじて、そういううごきとしておくるからである。かたるということ、くということは、その実情じつじょうもっとそくしてうとすれば、そういうほかなるものとのしょ関係かんけいうごきに参入さんにゅうするということではないだろうか。そうするとどのような個人こじんであれ、作者さくしゃであれ、言葉ことば創出そうしゅつし、おくるのではなく、中継ちゅうけいしながらえたり、ずらせたりしているのだとったほうが事実じじつちかいのではあるまいか。



長文ちょうぶん 1.2しゅう
 外国がいこくには二者択一にしゃたくいつとかすべてかかというような思考しこうほうがある。二者択一にしゃたくいつ対立たいりつするものがあるとき、そのどちらかひとつを選択せんたくすることだが、それは同時どうじ否定ひていされることを意味いみする。両者りょうしゃのよいところを折衷せっちゅう主義しゅぎもないわけではないが、両者りょうしゃ共存きょうぞんさせるかんがえはめずらしい。これはキリスト教きりすときょうという一神教いっしんきょう影響えいきょうであるというせつもあるが、絶対ぜったいてき対立たいりつ強調きょうちょうされている。すべてかかもいちしゅ二者択一にしゃたくいつであるということができる。
 わがくにでは本来ほんらいならば併存へいそんできないはずのものがなん矛盾むじゅんかんじられないで共存きょうぞんしている。一般いっぱん家庭かてい神棚かみだな仏壇ぶつだんとがおな部屋へやにあって、朝夕ちょうせきそれぞれの様式ようしきによって「おがむ」ことをきわめて自然しぜんであるとおもっている。仏教ぶっきょう信仰しんこうすればかみ否定ひていしなくてはならないという一元論いちげんろんではなく、ふつかみみとめる。多元たげんろんふくもとろんである。
 一元論いちげんろんからると多元たげんろん得体えたいれないものにえるのはやむをないことかもしれない。日本語にほんご多元たげんろんてき文化ぶんかなか発達はったつしてきたものであるから一元論いちげんろんてき一貫いっかんせい対立たいりつ原理げんりをはっきりさせない。「あれかこれか」ではなく「あれもこれも」主義しゅぎである。一元論いちげんろんからすれば矛盾むじゅんだということになる。
 しかし、多元たげんろんのメリットもわすれてはならないであろう。一元論いちげんろん明晰めいせきではあるけれどもどういち平面へいめんうえにおける問題もんだいしか処理しょりすることができないのは、矛盾むじゅんする次元じげんのものをすべてててしまっているからである。それにたいして、多元たげんろんでは立体りったいてき論理ろんり追求ついきゅうすることができる。一元論いちげんろん論理ろんりでは芸術げいじゅつとか生命せいめい現象げんしょうをとらえにくいが、多元たげんろん感情かんじょう比較的ひかくてきこまかいヒダにまではいってくことができる。
 一元論いちげんろん論理ろんり平面へいめん幾何きかがくてきであるとすれば、多元たげんろん論理ろんり生物せいぶつがくてきであるといえよう。
 多元たげんろんにおいては首尾しゅび一貫いっかんということはむしろ退屈たいくつ単調たんちょうさとかんじられやすい。ドライブ・ウエイが一直線いっちょくせんびているとすれば運転うんてんしゃはかえって運転うんてんあやまりやすいといわれる。適当てきとう曲線きょくせん変化へんかがあったほうがよい。論理ろんりにおいてもまったく純粋じゅんすいなロジックはどうも人間にんげんらしさのとぼしいつめたいものをかんじさせがちである。悲劇ひげきはあくまで深刻しんこくでなくてはならない。いやしくも観客かんきゃくわらいこけるような場面ばめんがあってはよろしくないとするのが純粋じゅんすいとうと一元論いちげんろんである。ところが、シェイクスピアのような天才てんさい滑稽こっけい場面ばめん挿入そうにゅうすることによって、かえっていっそう悲劇ひげきかんたかめるコツをっていた。しるこをうまくするには砂糖さとうだけでなく、ひとつまみのしおれるのと同工異曲どうこういきょくである。どうもわれわれの感覚かんかくには純粋じゅんすい論理ろんりだけでは満足まんぞくしないところがある。それを考慮こうりょれているのが多元たげんろんてき論理ろんりというわけである。
 一見いっけん矛盾むじゅんするものを調和ちょうわさせる多元たげんろんにとって、不可欠ふかけつ方法ほうほうは「とりわせ」である。同類どうるいのものやすじのとおったものをあつめるのではない――それでは月並つきなみで退屈たいくつになる――たがいに範疇はんちゅうことにするものをむすわせて意外いがいのおもしろさをす。それが「とりわせ」である。ぼたんに唐獅子からじしたけとら、などはそのとりわせの感覚かんかくによってうまれた絵画かいがてき世界せかいれいである。不調和ふちょうわえた調和ちょうわささえる論理ろんり着目ちゃくもくしたものである。日本語にほんごはこういう柔軟じゅうなん論理ろんり表現ひょうげんするのにてきしているし、ぎゃくえば日本語にほんご論理ろんりはそういうとらえどころのない性格せいかくのものにならざるをない。

外山とやましげるいにしえ文章ぶんしょうによる)



長文ちょうぶん 1.3しゅう
 近代きんだい小説しょうせつ一般いっぱん制約せいやく形式けいしきであるといわれている。制約せいやくであるとは、限界げんかいまで希薄きはくされた様式ようしきせい意味いみする。わたし帰属きぞくする固有こゆう内面ないめんを、そのまま忠実ちゅうじつ模写もしゃ外部がいぶ対象たいしょうするには、表現ひょうげん媒体ばいたいはできるだけ制約せいやくてきであることがのぞましい。近代きんだい以前いぜん日本語にほんごぶんには、様々さまざま制約せいやくせられていた。明治めいじにおける「言文げんぶん一致いっち」とは、たんに口語こうご文語ぶんご一致いっち目指めざしたものではない。国木田独歩くにきだどっぽの『武蔵野むさしの以降いこう日本にっぽん近代きんだい小説しょうせつであろうと、会話かいわ部分ぶぶん忠実ちゅうじつに「口語こうご」を再現さいげんしているといえないてんをあげるまでもなく、それは歴然れきぜんとした事実じじつだろう。今日きょうでも事態じたい同様どうようである。「対談たいだん」や「座談ざだんかい」でも、会話かいわのテープを忠実ちゅうじつこした原稿げんこうと、公表こうひょうされる文章ぶんしょうとのあいだにはおおきな相違そういがある。「対談たいだん」や「座談ざだんかい」として公表こうひょうされる文章ぶんしょうのほとんどは、日本にっぽん近代きんだい小説しょうせつ会話かいわたい規範きはんとして修正しゅうせいされているのだ。たんにテープをこしたにすぎない文章ぶんしょうは、読者どくしゃ立場たちばからいえばほとんどむにえない。
 明治めいじにおける「言文げんぶん一致いっち」とは、文語ぶんご口語こうご一致いっち目指めざすことをかならずしも意味いみしていない。それは軍艦ぐんかん軍隊ぐんたい製造せいぞうしたり運営うんえいしたりする主体しゅたい近代きんだいてきわたし)の内面ないめんをそれ自体じたいとして過不足かふそくなく外面がいめんしうるための、可能かのうかぎ制約せいやくてき媒介ばいかいてきな、換言かんげんすれば様式ようしきせい制約せいやくされない透明とうめい表現ひょうげん形態けいたいから創造そうぞうするためにもとめられた運動うんどうにほかならない。「言文げんぶん一致いっち」によって生誕せいたんした日本にっぽん近代きんだい小説しょうせつのスタイルは、主語しゅご一人称いちにんしょう代名詞だいめいしを「自分じぶん」に、文章ぶんしょう末尾まつびを「デアリマス」に統一とういつするよう決定けっていされた軍隊ぐんたい用語ようごのそれとほとんど構造こうぞうてき照応しょうおうしている。
 明治めいじにおいてしん文章ぶんしょうをめぐる試行錯誤しこうさくごが、もっぱら近代きんだい小説しょうせつ文体ぶんたいをめぐる問題もんだいとして顕在けんざいしたことには必然ひつぜんてき理由りゆうがある。小説しょうせつ形式けいしき伝統でんとうてき文芸ぶんげいジャンルと比較ひかくして制約せいやくてきな、ぼつ様式ようしきてきなジャンルである。だから小説しょうせつ近代きんだいてき内面ないめん外面がいめん過不足かふそくなくうつしかえる透明とうめい表現ひょうげん形態けいたいとして、近代きんだいにおける文学ぶんがく表現ひょうげん王座おうざ地位ちい確保かくほしえた。
 しかし以上いじょうのような発生はっせいメカニズムの解明かいめいは、近代きんだい小説しょうせつ自己じこ了解りょうかい裏切うらぎらざるをえない。近代きんだいてきわたしは、固有こゆう内面ないめん小説しょうせつ形式けいしきという制約せいやくてき透明とうめい表現ひょうげん形態けいたいにおいて、作品さくひん対象たいしょう外面がいめんする。だが、「言文げんぶん一致いっち」が文字もじどおりの言文げんぶん一致いっち意味いみしていないように、制約せいやくてきぼつ様式ようしきてきであるとしんじられた近代きんだい小説しょうせつ言語げんごには、暗黙あんもく制約せいやくせい様式ようしきせいせられているのだ。それは主体しゅたい規制きせいするというよりも、主体しゅたいなるものを事後じごてき産出さんしゅつするような超越ちょうえつてきなメカニズムにほかならない。近代きんだい小説しょうせつ作者さくしゃおよび読者どくしゃは、この超越ちょうえつてきなメカニズムを制度せいどであるとは認識にんしきしない。むしろ原理げんりてき認識にんしきしえないというべきだろう。
 近代きんだい小説しょうせつ言語げんご文体ぶんたい近代きんだい以前いぜん普遍ふへんてきだった「作者さくしゃのいない作品さくひん」の水準すいじゅんえて、作者さくしゃ作品さくひん内面ないめん外面がいめん)という直結ちょっけつ形態けいたい可能かのうならしめたと自負じふしている。けれども認識にんしきされない表現ひょうげん形態けいたい物質ぶっしつせいは、無意識むいしきてき制約せいやくとして近代きんだい小説しょうせつ作者さくしゃおよび読者どくしゃひそかに統御とうぎょ支配しはいしている。それは文体ぶんたいについてのみいえることではない。近代きんだい小説しょうせつ発生はっせい克明こくめい検証けんしょうしてみれば、近代きんだいてき意識いしきには大気たいきのように自明じめいであるとしんじられているものが、長年ながねん曲折きょくせつ結果けっかとしてかろうじて確立かくりつされたシステムにすぎないことも了解りょうかいされるだろう。

笠井かさいきよしの『探偵たんてい小説しょうせつろん序説じょせつ』による)



長文ちょうぶん 1.4しゅう
 「くるまざ」という言葉ことばは、室町むろまち時代じだいのころにはすでに日本語にほんごなか定着ていちゃくしていたらしい。いちろくさんねん慶長けいちょうはち)に日本にっぽんイエズスかい長崎ながさき刊行かんこうした有名ゆうめいな『にち葡辞しょ』にはCurumazaniというかたりられていて、例文れいぶんとしてCurumazani nauoru(車座くるまざなおる)があり、「みな人々ひとびと円形えんけいにつく」という説明せつめいがついている。
 なん具体ぐたいてき根拠こんきょもないことだが、わたしはこの「車座くるまざ」というかたりが、いずれにしても乱世らんせい時代じだいになってから人々ひとびと愛用あいようされるようになったのではないかと想像そうぞうしている。「車座くるまざなおる」のはおんなたちではあるまい。合戦かっせんまえにした武士ぶしだん自分じぶんたちの権益けんえきおかされそうになって対策たいさくるためひそかにあつまった豪商ごうしょうたち、権力けんりょくしゃ無理むり難題なんだいをふっかけられて鳩首きゅうしゅ協議きょうぎするために集合しゅうごうしたむら代表だいひょうしゃたち、そういうおとこどもの緊張きんちょうしたかおが、この言葉ことば背後はいごからちのぼってくるようにおもえてならない。
 しかしこのかたちのつどいは、いったん緊急きんきゅう事態じたい解決かいけつされれば、たちまち一転いってんして、酒宴しゅえん歌舞かぶ放吟ほうぎんになるだろう。おんなたちもそのとき車座くるまざはなえ、その主人公しゅじんこうにさえなるだろう。やがて天下てんか太平たいへいともなれば、もっぱら後者こうしゃ車座くるまざ全盛ぜんせいとなる。
 いずれにしても、全員ぜんいん内側うちがわくというかたちのとりかたは、集団しゅうだん心構こころがまえを統一とういつし、同心どうしんものとしての結束けっそく忠誠ちゅうせいちかい、敵対てきたいするものたちにたいする排他はいたてき情熱じょうねつたかめるうえでは、もっと効果こうかてき陣形じんけいだった。高校こうこう野球やきゅうでもバレーボールでも、危機ききのぞんだ監督かんとくたちはみなこれを応用おうようする。なにしろ車座くるまざすわるというのは、たがいにかおかおい、相手あいて一挙手一投足いっきょしゅいっとうそくまで直接ちょくせつつめていられる唯一ゆいいつすわかたなのである。いわいのせきであるなら、一同いちどうしんおなじくするこころよ興奮こうふんさかずきわしよろこびに、おのずとうたおどりもてくるのは当然とうぜんだった。

中略ちゅうりゃく

 わたし財政ざいせいとか経済けいざいとかの方面ほうめんについてまったくくら人間にんげんなので、まことに単純たんじゅんなことしかえないが、アメリカと日本にっぽんあいだ極度きょくど緊張きんちょうたかまっている貿易ぼうえき摩擦まさつ経済けいざい摩擦まさつ根源こんげんには、たんなる経済けいざい問題もんだいよりもずっとふか生活せいかつ原理げんりちがいがよこたわっていることはあきらかで、これを打開だかいするにはたぶんなに世代せだいもかかるのではないか、さもなければふたた重大じゅうだい衝突しょうとつ激発げきはつすることもありうるのではないか、という危惧きぐさえかんじることがある。
 この摩擦まさつは、「開放かいほう社会しゃかい」と「車座くるまざ社会しゃかい」との対立たいりつ、というふうにも単純たんじゅんしてえるだろうが、アメリカの(そしてヨーロッパの、アジアの、そのぜん世界せかいの)土地とち不動産ふどうさん美術びじゅつひんそのつぎからつぎへとあさり、りあげておきながら、自国じこく土地とち不動産ふどうさんそのかんしては、たか障壁しょうへきりめぐらしてヨソしゃ参入さんにゅう可能かのうかぎ阻止そしする姿勢しせいつらぬこうとする日本人にっぽんじんというものは、自由じゆう貿易ぼうえき開放かいほう主義しゅぎ原理げんりほうずる人々ひとびとかられば、理解りかいできないばかりか、異様いよう魂胆こんたんうちめて世界せかい征服せいふく野望やぼうさえちらつかせて前進ぜんしんする邪悪じゃあく民族みんぞくともえかねないだろう。アメリカ政府せいふ議会ぎかいなかにそういう感情かんじょうたかまってくるときには、各地かくち市民しみんなかにそのなんばいものつよさにおいて、同種どうしゅ感情かんじょうをたかぶらせている人々ひとびとがいるとなければならない。

大岡おおおかしんをよむかぎ』による。ただし一部いちぶ原文げんぶんあらためた)



長文ちょうぶん 2.1しゅう
 社会しゃかいにおいてもっと重要じゅうようなのは、複数ふくすう人間にんげん拘束こうそくするごとをつくりすことである。それにはいろいろなやりかたがある。アメリカじんなら、その状況じょうきょうにあてはめるべき客観きゃっかんてきルールをそれぞれ主張しゅちょうして、どちらがただしいかをあらそうだろう。アメリカにかぎらず、近代きんだい西欧せいおう社会しゃかいはルールにもとづいて権利けんり主張しゅちょうする方法ほうほうをとる。また中国人ちゅうごくじんなら、最初さいしょたがいの利害りがい徹底的てっていてき主張しゅちょうしたうえで妥協だきょうてんさがすだろう。
 日本にっぽんのやりかたはそのどちらでもない。日本にっぽんではごとは、対立たいりつする利害りがい相互そうご自発じはつてきにゆずりい、段階だんかいてき妥協だきょうてん発見はっけんしていくかたちでつくりされる。「あなたの気持きもちはわかる、だからわたし気持きもちもわかってくれ」「ここはゆずるからあそこはゆずってくれ、おたがいにいたみはわかちおう」。対立たいりつする立場たちばにある二人ふたり一歩一歩いっぽいっぽちかづき、最終さいしゅうてき妥協だきょういたる。日常にちじょう会話かいわで、会社かいしゃ会議かいぎで、そして政治せいじ場面ばめんで、人々ひとびとはこうしたゲームをくりひろげてきた。
 西欧せいおう中国ちゅうごくのやりかた比較ひかくした場合ばあい、この方法ほうほう関係かんけいしゃ自発じはつせいをそこなわず、すみやかに意思いし統一とういつできるてんでたしかにすぐれている。だが同時どうじに、ひとつおおきな構造こうぞうてき弱点じゃくてんをもかかえている。こちらがゆずったのに相手あいてがゆずらなければ、ゆずったほうの丸損まるぞんである。それでは妥協だきょうしようというにはならない。こちらが譲歩じょうほすれば相手あいて譲歩じょうほするという保証ほしょうがあって、はじめてこのごとプロセスは一般いっぱんてき成立せいりつしうるのである。
 実際じっさい日本人にっぽんじん中国人ちゅうごくじん交渉こうしょうする場面ばめんではこうした齟齬そごきやすい。日本人にっぽんじんのほうは相手あいて譲歩じょうほ期待きたいしてまず譲歩じょうほする。ところが、中国人ちゅうごくじんがわかられば、それは日本人にっぽんじんがわ立場たちばよわさをしめす。だから、自分じぶん利害りがいをいっそうつよ主張しゅちょうする。ところが、それは日本人にっぽんじんにとっては、相手あいて好意こういにつけこむというもっとゆるしがたいいなのだ。そこで当然とうぜん交渉こうしょうはご破算はさんになる。けれども、じつははなしはここでわらない。中国人ちゅうごくじんにとっては、最初さいしょはゆずっておきながら突然とつぜんつよるのは、それこそだまちなのだ。
 こんな場面ばめんにぶつかったとき、日本人にっぽんじんはこうさけぶだろう。――「なんでひと気持きもちがわからないんだ!」。まさにそのとおりで、じつは「気持きもちのわかりあい」というのは、日本にっぽん社会しゃかい社会しゃかいてきごとをめぐるコミュニケーションにおいて、相互そうご譲歩じょうほ保証ほしょうする「装置そうち」なのである。相手あいて気持きもちをさっし、それをむかれるようなかたちへこちらの気持きもちもうごく。相手あいて感情かんじょうをこちらの感情かんじょうのなかにむ。このたね感情かんじょう伝染でんせんせい日本人にっぽんじん大量たいりょうにもっており、それによって相互そうご譲歩じょうほ保証ほしょうされている。
 つまり「気持きもちのわかりあい」は日本にっぽん固有こゆう社会しゃかいてきかた社会しゃかいてきコミュニケーションの様式ようしき密接みっせつむすびついているのだ。そうしたてんで、日本にっぽんは「あいだじん主義しゅぎ社会しゃかい」だといわれる。「あいだじん主義しゅぎ」というのは西欧せいおうの「個人こじん主義しゅぎ」に対応たいおうする概念がいねんで、(いち相互そうご依存いぞん主義しゅぎ――社会しゃかい生活せいかつでは親身しんみ相互そうご扶助ふじょ不可欠ふかけつであり、依存いぞんうのが人間にんげん本来ほんらい姿すがたである。(相互そうご信頼しんらい主義しゅぎ――相互そうご依存いぞん関係かんけいうえでは、自己じこ行動こうどうたい相手あいて自己じこ意図いとさっしてうまくおうじてくれるはずだという相互そうご信頼しんらい必要ひつようである。(さん対人たいじん関係かんけい本質ほんしつ――いったん成立せいりつした関係かんけいはそれ自体じたい価値かちあるもので、その持続じぞく無条件むじょうけんのぞまれる、といった人間にんげん関係かんけい特徴とくちょうをさす。

佐藤さとう俊樹としき『〇〇年代ねんだい格差かくさゲーム』より)



長文ちょうぶん 2.2しゅう
 天文学てんもんがくしゃ宇宙うちゅう彼方かなた観測かんそくしているときに、宇宙うちゅうのそこでしょうじている出来事できごとに、のうなん関係かんけいしていない。しかし、その出来事できごと天文学てんもんがくしゃ観測かんそくしなければ、つまりそこで天文学てんもんがくしゃのう関与かんよしなければ、そんな出来事できごとはヒトにとって、存在そんざいしないも同然どうぜんってよいだろう。宇宙うちゅうろんでは、ある物理ぶつり定数ていすう測定そくてい計算けいさん結果けっか確定かくていすると、そうして定数ていすう決定けっていした宇宙うちゅうと、決定けっていする以前いぜん宇宙うちゅうとは、ことなったものになるというかんがえすらある。むろん、定数ていすう決定けっていするのはヒトののうである。
 ヒトがひとである所以ゆえんは、シンボル活動かつどうにある。言語げんご芸術げいじゅつ科学かがく宗教しゅうきょう等々とうとう。これらはすべて、のう機能きのうである。われわれはおかね使つかい、衣服いふく帽子ぼうし、アクセサリーをにつけ、くるまにおまもりをつるし、ゴルフ道具どうぐかつぎ、やマージャンでひまつぶす。これらはすべて「具体ぐたいしたシンボル」であるが、これもまた、すべてのうのシンボル機能きのうはっする。
 われわれの社会しゃかいでは言語げんご交換こうかんされ、ものざい、つまりぶつやおかね交換こうかんされる。それが可能かのうであるのはのう機能きのうによる。のう視覚しかくけいは、ひかりすなわちある波長はちょう範囲はんい電磁波でんじはとらえ、それを信号しんごうしておくる。聴覚ちょうかくけいは、音波おんぱすなわち空気くうき振動しんどうとらえ、それを信号しんごうしておくる。はじめは電磁波でんじは音波おんぱという、およそ無関係むかんけいなものが、のうない信号しんごうけいではなぜか等価とうか交換こうかんされ、言語げんごしょうじる。つまり、われわれは言語げんごくことも、むこともおなじようにできるのである。のうがそうした性質せいしつつことから、われわれがなぜおかね使つかうことができるかが、なんとなく理解りかいできる。おかねのう信号しんごうによくたものだからである。おかね媒介ばいかいにして、本来ほんらいはまったく無関係むかんけいなもの同士どうし交換こうかんしょうじる。それが不思議ふしぎでないのは(じつはきわめて不思議ふしぎだが)、なによりもまず、のうなかにおかね流通りゅうつう類似るいじした、つまりそれと相似そうじ過程かていがもともと存在そんざいするからであろう。自分じぶん内部ないぶにあるものがそとても、それは仕方しかたがないというものである。
 ヒトの活動かつどうを、のうばれる器官きかん法則ほうそくせいという観点かんてんから、全般ぜんぱんてきながめようとする立場たちばただのうろんぼう。ヒトがひとである所以ゆえんは、大脳皮質だいのうひしつ発達はったつするからである。のちべるように、そこからヒトのシンボル機能きのう発生はっせいする。ヒトののう動物どうぶつのうことなることは、だれでもっている。ゴリラののうとヒトののうつくえうえ複数個ふくすうこべてれば、素人しろうとでもただちに両者りょうしゃ識別しきべつするであろう。しかし、それはそれだけのことだともえるのである。つまり、ヒトののうもゴリラののうも、ようによってはさしてちがわない。ただのうろんは、ヒトとゴリラの類似るいじ差異さいとを説明せつめいしようとする。
 それだけではない。ただのうろんは、ヒトのなかにある差異さい説明せつめいしようとする。ヒトはかんがかたちがいをめぐってだい喧嘩けんかげんかをする。それが利害りがい関係かんけいであるなら、まだすくいようがある。利害りがい調整ちょうせいすればいい。しかし、基本きほんてきかんがかたちがいというのも、よくあることである。これは利害りがいがかかわらないだけに、ぎゃく調整ちょうせい困難こんなんである。いわゆる「神学しんがく論争ろんそう」というやつだが、その調整ちょうせいただのうろんたよるしかあるまい。

養老ようろう孟司たけしただのうろん』による)



長文ちょうぶん 2.3しゅう
 近代きんだい文明ぶんめいは、構造こうぞう発想はっそうくわえて効率こうりつ合理ごうりせいおもんじる機能きのう発想はっそう社会しゃかい運営うんえい中枢ちゅうすう原理げんりとしてみ、環境かんきょう制御せいぎょによる成果せいか志向しこうてき社会しゃかい運営うんえいほう確立かくりつした。近代きんだい構造こうぞうよりも機能きのう優先ゆうせんすることで、中世ちゅうせい文明ぶんめいだつ構築こうちくをはたしたのである。より正確せいかく表現ひょうげんすれば、機能きのう発想はっそう構造こうぞう発想はっそう包摂ほうせつするかたちで、文明ぶんめいのメタモルフォーゼ(変態へんたい)がきたことだ。成果せいかげるためにひとぶつ制御せいぎょする。目的もくてき達成たっせいするために、効率こうりつてき手段しゅだんこうじる。このような発想はっそう転換てんかんをしたすえまれたのが近代きんだい文明ぶんめいだった。機能きのう発想はっそうは、成果せいか確保かくほするためには構造こうぞう(ルール)はつぎつぎと変更へんこうしてよい、構造こうぞう維持いじすることよりも環境かんきょう変化へんか適応てきおうすることのほうが重要じゅうようである、とする価値かちむ。実際じっさい近代きんだい社会しゃかいではほう規範きはんなどの規則きそくえず変化へんかしており、変化へんかすることが近代きんだい本質ほんしつであるといえるほど変化へんか奨励しょうれいされてきた。
 機能きのうてき成果せいか主義しゅぎは、規則きそくにしたがうだけであったり、それに拘泥こうでいするだけでは、競争きょうそうのこされ敗者はいしゃをみる、という倫理りんり基準きじゅんをもたらす。成果せいかげて進歩しんぽ発展はってんすることが評価ひょうか基準きじゅんとなる。このため自己じこ環境かんきょうへの一般いっぱんてき適応てきおう能力のうりょくたかめること、成果せいかたかめるための技能ぎのう知識ちしき習得しゅうとくすることが至上しじょう価値かちとみなされる。また、成果せいか確保かくほするために、目標もくひょうたいする手段しゅだん緻密ちみつ考量こうりょうし、細心さいしん注意ちゅういはらってことのなりゆきを見守みまもり、えずアクションを修正しゅうせいすることがもとめられる。さらに、ひとびとにたいして強圧きょうあつてきになると、志気しき低下ていかして成果せいか確保かくほ困難こんなんになるので、志気しきそこなわぬよう各人かくじん管理かんりする必要ひつようしょうじる。こうして、機能きのう文明ぶんめい支配しはいわって管理かんり発想はっそうをもたらした。機能きのう文明ぶんめいとは管理かんり優先ゆうせんする文明ぶんめいのことである。
 これにたいし、たるべきポストモダンを特徴とくちょうづけるのが意味いみ文明ぶんめいである。その特徴とくちょうは、機能きのう発想はっそうえ、いまだ構造こうぞうしていない領域りょういきでのいとなみを重視じゅうしすることにある。そこは制御せいぎょによる成果せいか確保かくほ中心ちゅうしんとなるのではなく、また規則きそくによるパターン維持いじ中心ちゅうしんになるのでもない。差異さい分節ぶんせつによる意味いみ創発そうはつ既存きそん伝統でんとうるがし、文化ぶんかとしての意味いみ追求ついきゅう中心ちゅうしんとなる領域りょういきである。

中略ちゅうりゃく

 意味いみ文明ぶんめい兆候ちょうこうは、物質ぶっしつてき欠乏けつぼうから解放かいほうされて、ひとびとのしゅたる関心かんしん所有しょゆうから存在そんざいへ、物質ぶっしつから記号きごうへ、欠乏けつぼうから差異さいへと移行いこうするなかにあらわれている。差異さいとしての記号きごうがもてはやされ、商品しょうひんもの差異さい記号きごう意味いみ方程式ほうていしきによってだつ物質ぶっしつする消費しょうひ社会しゃかい風潮ふうちょうは、げん段階だんかいでは差異さいおどけたわむれとしての意味いみ志向しこうにとどまるとはいえ、効率こうりつせい合理ごうりせい支配しはいする経済けいざい攪乱かくらん要因よういんとなっている。また現在げんざい生産せいさん様式ようしきとそこでの人間にんげん関係かんけい優位ゆういする機能きのう文明ぶんめいたいし、消費しょうひにおける意味いみ作用さようがゆらぎをこすようになっている。生産せいさん優位ゆういした社会しゃかいから消費しょうひ社会しゃかいへの移行いこうは、機能きのう優先ゆうせん発想はっそう風穴かざあなをあけることになるだろう。

今田いまだこうしゅん意味いみ文明ぶんめいがく序説じょせつ』より)



長文ちょうぶん 2.4しゅう
 英語えいごにキャノンCanonという単語たんごがある。もとはギリシャで、尺度しゃくど基準きじゅん意味いみだった。それがキリスト教きりすときょう正統せいとうてき戒律かいりつ聖書せいしょせいてん意味いみになり、さらに文学ぶんがく文化ぶんか標準ひょうじゅんないし標準ひょうじゅんてき作品さくひん意味いみする言葉ことばとなっている。
 アメリカではちかごろ、このキャノンの見直みなおしが話題わだいになっている。社会しゃかい現象げんしょうとしてはこれまで正義せいぎとされてきたものが不正ふせいとされ、野蛮やばんとされていたものがぎゃく崇高すうこうなされるたぐいのことがおおい。西部せいぶ劇映画げきえいがにおける騎兵隊きへいたい先住民せんじゅうみん(インディアン)のえがかたなど、その典型てんけいてきれいとなるだろう。そういう傾向けいこう反映はんえいして、歴史れきしえの要求ようきゅう広範こうはんになされているらしい。文学ぶんがくでも同様どうようである。古典こてんとされていた作品さくひんがわきにしやられ、従来じゅうらい無視むしされていた作品さくひんがキャノンのげられる。そういう文学ぶんがくほん教科書きょうかしょ相次あいついであらわれ、大学だいがくなどにおける文学ぶんがく文化ぶんか教育きょういくにも大幅おおはば変革へんかくせまっている。
 これに呼応こおうして、日本にっぽんにおけるアメリカ研究けんきゅう根本こんぽんてきわらなければならない、というこえ学会がっかいなどでよくかれるようになった。だがまた、そんなにきゅうへんわれるものか、といった不安ふあんこえもよくみみにする。
 キャノンの見直みなおしは、本当ほんとうべつあたらしいことではない。かりに日本にっぽん文学ぶんがくで『万葉集まんようしゅう』や芭蕉ばしょう不動ふどう地位ちいめてきたとしても、『古今ここんしゅう』や『しん古今ここんしゅう』、西鶴さいかく蕪村ぶそん地位ちいは、しばしばらいできたのではなかろうか。一世いっせい風靡ふうびしたべに逍鴎のうち、いまも衆目しゅうもくみとめる「文豪ぶんごう」はもり鴎外おうがいのみで、特別とくべつ愛好あいこう以外いがいにはなかなかもうとしない。そしてこのよんにんかげにかくれていた夏目なつめ漱石そうせきが、いまでは日本にっぽん近代きんだい文学ぶんがく代表だいひょうする地位ちいめているようにおもわれる。
 アメリカでも同様どうようである。じゅうきゅう世紀せいき最高さいこう詩人しじんあおがれていたロングフェローは、じゅう世紀せいきはいると神聖しんせいからきずりろされてしまった。かれふくめて、文学ぶんがくかい君臨くんりんした「ケンブリッジ・ブラーミン」いまいずこだ。そして、粗野そや猥雑わいざつとされていたホイットマンが、アメリカの代表だいひょうてき詩人しじんなされるようになった。アメリカで最初さいしょのノーベル文学ぶんがくしょう受賞じゅしょう作家さっかシンクレア・ルイスをはじめ、いまでは研究けんきゅうしゃにもまれなくなってしまった文学ぶんがくしゃ数多かずおおい。
 だが最近さいきんのアメリカでのキャノンの見直みなおしは、個々ここ人物じんぶつ事件じけんなが時間じかんをかけた見直みなおしとはちがう。それはアメリカの社会しゃかい文化ぶんか全体ぜんたいてき見直みなおしとむすびついているのだ。いちきゅうろく年代ねんだいからのアメリカの激変げきへん、つまり公民こうみんけん運動うんどう、さまざまな少数しょうすう人種じんしゅ台頭たいとう、あるいはフェミニズムの進展しんてんなどがあり、かつての白人はくじん男性だんせい中心ちゅうしん文化ぶんか打倒だとう目標もくひょうとされ、文化ぶんか主義しゅぎとなえられるようになった。ポストモダニズムなど、伝統でんとうてき価値かち権威けんい否定ひていする批評ひひょう理論りろんも、このうごきをたすけているといってよい。

中略ちゅうりゃく

 このようにてくると、キャノン見直みなお運動うんどうは、現代げんだいのアメリカにおける価値かちかん動揺どうよう文化ぶんか正統せいとうせいをめぐるたたかいであることがかる。わたしたちがそれを理解りかいし、その見直みなおしの方向ほうこう注意ちゅういはら必要ひつようは、間違まちがいなくある。それを日本にっぽん適用てきようして役立やくだてられる部分ぶぶんおおいようにおもう。

亀井かめい俊介しゅんすけ『わがアメリカ文学ぶんがく』より)



長文ちょうぶん 3.1しゅう
 日本人にっぽんじんは、一般いっぱんてきには、神社じんじゃ仏閣ぶっかくのう茶道さどうなど、ふるきよき日本にっぽん伝統でんとうきで、それをほこりにおもっているのだが、その一方いっぽうで、実生活じっせいかつると伝統でんとう破壊はかいしゃともえる側面そくめんをもっている。
 まず、屈指くっし横文字よこもじカタカナ氾濫はんらん社会しゃかいであることを若者わかもの言葉ことばけば、国語こくごにおける伝統でんとう軽視けいし一目瞭然いちもくりょうぜんである。古典こてんとしての言語げんご純粋じゅんすいせいたいする感度かんどが、フランスなどにくらべてきわめてひくい。実際じっさい現在げんざい日本語にほんご横文字よこもじカタカナをきにはりたなくなっている。年々ねんねん大袈裟おおげさになるクリスマスのイルミネーションがわると、正月しょうがつには、依然いぜんとして大勢おおぜいひと神社じんじゃ仏閣ぶっかく初詣はつもうでく。クリスマスまではまだよいとして、最近さいきんは、ハロウィーンも定着ていちゃくしつつあるようだ。
 その一方いっぽうで、立春りっしゅんから大寒だいかんまでのじゅうよん節気せっきにそった日本にっぽん伝統でんとうてきぶし行事ぎょうじは、テレビのニュースの枕詞まくらことばである。
 また、ものつよいこだわりをもつ日本人にっぽんじんは、しゅんにこだわるが、いまは養殖ようしょく輸入ゆにゅう、ハウス栽培さいばいなどで、ほとんどいちねん中手なかてはいる。イチゴやスイカもいちねんちゅうあるといってよい。じゅうよんあいだ営業えいぎょうのコンビニが繁茂はんもするように、消費しょうひしゃのぞむことなら、利便りべんせい向上こうじょうのためならなんでもやる。アメリカにまさるともおとらない商業しょうぎょうマインドである。こうした高度こうど消費しょうひしゃ中心ちゅうしん資本しほん主義しゅぎが、日本にっぽんいちめんとしてすでに社会しゃかいろしている。
 さらに最近さいきんでは、シュンとなると日本にっぽんのものではなく、ボジョレー・ヌーボーにはじまり、イタリアさんポルチーニやトリュフなどといった外国がいこくさんのものでシュンをかんじてたのしむといった本末転倒ほんまつてんとうなことを国民こくみんげておこなっている。
 コメは日本人にっぽんじんにとってただの主食しゅしょくではない。依然いぜんとして文化ぶんかてき象徴しょうちょうてき意味合いみあいをもっている。だからこそ、コメの輸入ゆにゅう解禁かいきんしないのであり、国民こくみんもコメの自由じゆう要求ようきゅうしないのである。そのコメは「あらう」ものではなく「とぐ」ものである。にもかかわらず洗米せんまいといってのけてなにかんじない。こういうところにも日本にっぽんにおける伝統でんとうのありかたがあらわれているだろう。
 もっと面白おもしろいのは正月しょうがつである。新年しんねん新暦しんれきいわうのは、アジア諸国しょこくではおそらく日本にっぽんだけではないだろうか。伝統でんとうおもんじるのであれば、やはり旧暦きゅうれきいわうべきであろう。実際じっさい権威けんいとうと中国人ちゅうごくじんは、依然いぜんとして旧暦きゅうれき正月しょうがつ盛大せいだいいわっている。新暦しんれき正月しょうがつなど見向みむきもしない。韓国かんこく同様どうよう旧暦きゅうれき正月しょうがついわう。
 このように日本人にっぽんじんは、ふるきよき伝統でんとうおもんじるという一方いっぽうで、日々ひび行動こうどう伝統でんとうなどおかまいなしである。ててをとるとも、軽薄けいはくとも、柔軟じゅうなんとも、いい加減かげんとも、節操せっそうがないともいえるのが、日本人にっぽんじん行動こうどうなのである。つまり、融通無碍ゆうずうむげでつかみどころがないのである。
 欧米おうべい社会しゃかい理念りねん優先ゆうせんするが、日本にっぽん社会しゃかい現状げんじょう是認ぜにん生活せいかつ優先ゆうせんする。極端きょくたんにいえば、「うそも方便ほうべん」の社会しゃかいである。べつ見方みかたをすれば、欧米おうべいでは、概念がいねん抽象ちゅうしょう階層かいそうとおして、矛盾むじゅん統合とうごうてき視点してんから上位じょういレベルで解消かいしょうして、首尾しゅび一貫いっかんせい確保かくほするようにつとめる。しかし、日本にっぽんでは、矛盾むじゅん矛盾むじゅん併存へいそんへいぞんさせるか、生理せいりてきてるか、あるいはしてしまう。
 西欧せいおうてきかんがえれば、日本人にっぽんじん行為こういていると分裂ぶんれつしないのが不思議ふしぎであろうが、とう日本人にっぽんじんなに矛盾むじゅんかんじていない。つまり、にしていないのである。しかし、行為こういしゃとしての日本人にっぽんじん心性しんせいには、なんらかの一貫いっかんせい合理ごうりせい)が存在そんざいするはずである。それが西欧せいおうてき観点かんてん現在げんざい日本人にっぽんじんろんわくからはえないのである。

小笠原おがさわらやすし『なんとなく、日本人にっぽんじん』による)



長文ちょうぶん 3.2しゅう
 あるところに、一本いっぽんえていた。は、一人ひとり少年しょうねんをかわいがっていた。少年しょうねん毎日まいにちのところにきて、あそぶ。えだでぶらんこをしたり、りんごのをもいでべたり、木陰こかげでまどろんだり……。かれ大好だいすきで、しあわせだった。
 だが、ときがたち、成長せいちょうしたかれあしはしだいにとおのく。はひとりになることがおおくなった。あるかれた。よろこぶ。かれは、あそぶためのかねがほしいとう。は、りんごのってかねをつくったらいい、とすすめた。かれはりんごのをごっそりって、る。は、しあわせだった。
 やがて、壮年そうねんになって、ふたたかれる。いえがほしい、結婚けっこんしたい、とう。は、えだいえてたらどうだろうとすすめる。
 そこで、かれえだとし、全部ぜんぶってってしまう。は、しあわせだった。
 また、がひとりぼっちでごす日々ひびつづいた。あるとしをとったかれがやってくる。どこかとおくへきたい、ふねがほしいとう。それならわたしみきたおしてふねをつくったらいい、とう。かれたおして、ってってしまう。は、しあわせだった。
 なが年月としつきがたった。老人ろうじんになったかれが、とぼとぼともどってきた。しかし、には、なにもしてやれることがない。わたしはもうかぶだけだ、せめて、ここにこしをかけておやすみ、とう。背中せなかがった老人ろうじんは、ゆっくりとこしをおろす。そして、しあわせだった……。

 こういうはなしである。
 その含意がんいは、じつふかく、ゆたかなものである。この絵本えほん自体じたいがすばらしいが、さらにわたし関心かんしんをひいたのが、このほん題材だいざいにしたある研究けんきゅうなのだ。
 この絵本えほんどもたちはどうむだろう、とかんがえた心理しんり学者がくしゃ守屋もりや慶子けいこさんが、よんヵ国かこくどもやくせんにんほんませ、感想かんそうかせて、それらを分析ぶんせきした。その成果せいかが『どもとファンタジー』(しん曜社)というほんにまとめられている。

中略ちゅうりゃく
 くわしくは原著げんちょゆずるとして、わたし自分じぶん興味きょうみをひかれたことのひとふたつを紹介しょうかいしたい。

 たとえば、少年しょうねんとの接触せっしょくがあるたびごとに「しあわせだった」とかれている。この表現ひょうげんを、各国かっこくどもたちはどうっているのだろう。
 よんヵ国かこくというのは、日本にっぽん韓国かんこく、スウェーデン、イギリスである。感想かんそうかせてみたら、韓国かんこく、スウェーデン、イギリス、のどもたちは、そうじて「しあわせだった」という表現ひょうげんをことばどおりにっていることがわかったそうだ。つまり、しあわせだったとっているのだから、しあわせだったのだ、と額面がくめんどおりにけとめている。
 それにひきかえ、日本にっぽんどもたちのけとめかたは、やや複雑ふくざつである。「しあわせだった」とあるけれども、本当ほんとうにそうなのだろうか、とおもうらしい。本当ほんとうはいやだったのだ、本当ほんとうかなしかったにちがいない、というふうにけとめるどもがおおいことがわかった。かくされた部分ぶぶんがあるように推量すいりょうする、というのである。

中略ちゅうりゃく

 守屋もりやさんは「じゅう構造こうぞう」ということばを使つかっている。たとえば「じゅう構造こうぞうがた推量すいりょうは、日本にっぽんどもたちにはおおいが、英国えいこくやスウェーデン、韓国かんこくどもたちにはみられない」といている。

白井しらい健策けんさく天声てんせい人語じんご」のななねん)による



長文ちょうぶん 3.3しゅう
 チップをわたすということが、わたしたちのくににはない。チップはすべて、正価せいかふくまれているものとおもっている。高級こうきゅうレストランの高級こうきゅうさは、サービスの高級こうきゅうさとイコールであると無意識むいしきおもっている。ホテルやレストランで気持きもちのいい応対おうたいをされた場合ばあい心付こころづけをつつむのではなく、「またこよう」とわたしたちはかんがえる。それがわたしたちの評価ひょうかなのである。
 最近さいきん温泉おんせん宿やどでは、部屋へやそなけのパンフレットに「サービスりょうがあるので心付こころづけは不要ふよう」と、わざわざいてあったりする。年輩ねんぱい知人ちじんは、彼女かのじょ長年ながねん習慣しゅうかんらしく、温泉おんせん宿やどにはかなら心付こころづけを用意よういしていくが、いつもそれは和紙わしつつんである。現金げんきんせいわたす、ということに、わたしたちははげしい抵抗ていこうかんじる。しかも、紙幣しへいならともかく、コインをわたすという習慣しゅうかんは、まったくない。
 そして商売しょうばいというのは、正直しょうじきさをいたら成立せいりつしないと、これもまた、わたし自分じぶんくに習慣しゅうかんしんじている。せんえんのものをせんえんったとしたら、その瞬間しゅんかんせんえんもうかったですむが、しかし、だまされたとったきゃく二度にどとこないだろうし、そのきゃくがほかのだれかにそのことをはなせば、ほかのきゃくまでこなくなる、というふうな思考しこう回路かいろわたしっている。ながたら、正直しょうじき商売しょうばいのほうがぜったいにとくだとおもっている。だから、そのかぎりのひゃくえんひゃくえんもうけようとする気持きもちが、まるでわからないのである。その「わからない」ことこそ習慣しゅうかんちがい、さと内部ないぶ問題もんだいのはずなのに、ことおかねかんしては、ほかのことのようにすんなりとしたがうことができない。
 反対はんたいかんがえると、異国いこくひと日本にっぽんたびした場合ばあい、おかねかんする習慣しゅうかんちがいには、さほど苦労くろうしないのではないかと想像そうぞうする。ぼったくりバーなどにいけばはなしはべつだが、ごくふつうに移動いどうして、ごくふつうに食事しょくじをしているぶんには、ぼられることはまずないし、チップの心配しんぱいもいらないし、おりをごまかされることもない。そのぶん、物価ぶっかたかいという多大ただい難点なんてんはあるわけだが。
 では、異国いこくひと日本にっぽんにきた場合ばあい、いちばん苦労くろうする習慣しゅうかんちがいはなんだろう、といえば、沈黙ちんもくであるようにわたしおもう。さん週間しゅうかんいちカ月かげつ異国いこくたびしてかえってきたとき、わたしがもっとも違和感いわかんおぼえるのが、じつはその沈黙ちんもくである。日本にっぽんひとおどろくほどこえはっさない。ぶつかってもこえをたてず、くわし状態じょうたいになっても無言むごんひとあしんでしまっても「すみません」とひとはとてもすくなく、せいぜい無言むごん会釈えしゃくするくらい。
 たとえば、銀行ぎんこうでも空港くうこうでもいい、人々ひとびとれつになって順番じゅんばんっていたとする。そこに、れつ存在そんざいづかず、だれかはいりこんでしまったとき、ほとんどのくにではこえして注意ちゅういする。「こっちにならんで!」と、ひとりがうこともあり、れつにいる全員ぜんいん口々くちぐちうこともある。が、日本にっぽんでは、こえさず空気くうきしめす。ついさっき、じつはそのような光景こうけいをJRのえき構内こうないたりにしたのだが、れつ人々ひとびとはみな、無言むごんうちに、対応たいおうをしている駅員えきいんに、うったえかけるような視線しせんげていた。駅員えきいんはちゃんとづき、カウンターにんできた女性じょせいに、「すみませんが、れつができているのであちらにならんでください」と注意ちゅういしてことなきをていた。わたしにはごく自然しぜん光景こうけいではあるが、よくかんがえればすごいことなのである。沈黙ちんもく習慣しゅうかんたないひとかられば、ほとんどちょう能力のうりょく世界せかいだとおもう。「空気くうきむ」という言葉ことばが、くに言語げんごであるのかないのかはわからないが、しかし、それはあきらかに特殊とくしゅ習慣しゅうかんだとわたしおもう。

角田つのだ光代みつよ「おかね沈黙ちんもく」による)



長文ちょうぶん 3.4しゅう
 ここで確認かくにんしなければならないのは、「わたしがわたしである」ことを「おぼえている」ということは、過去かこ行動こうどう完全かんぜん履歴りれき保存ほぞんされるのではなく、おもされるたびに変化へんかし、意味いみけのわる記憶きおく維持いじしているということであり、そこには「忘却ぼうきゃく」もおなじくらい必要ひつようとされるものであるということだ。すなわちそれは、「記憶きおく」と「記録きろく」が、しつとしてまったくことなるものであることを意味いみしている。記録きろく記憶きおくたす役割やくわりかんがえるために、もうすこし「記憶きおくのあいまいさ」というてんについてべてみよう。
 認知にんち心理しんり学者がくしゃ高橋たかはしまさのべによれば、わたしたちが「おぼえている」とおもっている過去かこ記憶きおくも、じつはかなりの程度ていどあいまいさをのこしている部分ぶぶんがあるという。高橋たかはしによると、わたしたちはいちヶ月かげつまえのことを、事実じじつのとおりにおもせるとかんがえがちだが、実際じっさいには、時間じかんをおくことで、〇%前後ぜんこう記憶きおくわってしまうというのだ。つまりそこでわたしたちは、「想起そうきする記憶きおく内容ないよう一部いちぶ選択せんたくし、さい構成こうせいしている」のである。さらにえば、なんかえおもすことで、「虚偽きょぎ記憶きおく」があらわれる場合ばあいさえあると高橋たかはしべている。
 その記憶きおくのゆがみに影響えいきょうおよぼすのは、たとえば「暗黙あんもく理論りろん」とばれるような素人しろうとかんがえだ。暗黙あんもく理論りろんとは、かならずしも明確めいかく科学かがくてき根拠こんきょがないにもかかわらず、世間せけんではしんじられている知識ちしき概念がいねんのことであり、具体ぐたいてきには、「幼少ようしょうのトラウマが人格じんかく形成けいせいつよ影響えいきょうする」といった知識ちしきのことをす。このように近年きんねん記憶きおく研究けんきゅうは、むしろ記憶きおくが、他者たしゃ社会しゃかいてき認知にんちとのかかわりで容易ようい変化へんかするような、あいまいなものであることに注目ちゅうもくしているのである。
 こうした知見ちけんもとづいて、心理しんり学者がくしゃは、「わたしはわたしのことをおぼえている」という出来事できごとが、文字もじどおり過去かこ出来事できごとのうないにストックするようなものではなく、おもされることによって、それがあらたに「記憶きおく」として上書うわがきされるような、「自己じこ物語ものがたり」の側面そくめんつと主張しゅちょうしている。つまり、わたしがわたしであることの確信かくしんは、(「もうひとりの自分じぶん」のようなものをふくむ)他者たしゃへのかたりのなかから生成せいせいしてくるということだ。
 だとすれば、そこで「記録きろく」というメディアが、自己じこ形成けいせいするのに非常ひじょう重要じゅうよう役割やくわりたすことは、容易ようい想像そうぞうできるだろう。「高校こうこう時代じだい友人ゆうじん」が、どのようなひとだったのか、はなっておけばわたしたちはすぐにわすれてしまう。しかし、日常にちじょうにはあまりおもされることのない相手あいてであっても、卒業そつぎょうアルバムを見返みかえしたり、あるいはときにそれをべつ友人ゆうじんせながら、「かれはこういうひとでね」とか「ああ、こんなじんもいたなあ、彼女かのじょはね……」とかたったりすることで、そのたびに「高校こうこう時代じだい自分じぶん」を構成こうせいすることができる。そしてそれをつうじて「あのときは意識いしきしなかったけど、ほんとうはこのひとのことがきだったんだ」などといったように、記録きろくをもとにした他者たしゃへのかたりをつうじて、「いまの自分じぶん」に接続せつぞくされる自己じこ物語ものがたり生成せいせいするのである。
 ここには、記録きろくというメディアと、自己じこによって物語ものがたられる記憶きおくとのあいだの、ダイナミックな関係かんけいることができるだろう。

鈴木すずき謙介けんすけ『ウェブ社会しゃかい思想しそう』による)