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課題集
長文ちょうぶん 10.1しゅう
 【1】孔子こうしは、日常にちじょう生活せいかつのこまごまとしたことをよくっていた。それを弟子でし感心かんしんすると、孔子こうしは、自分じぶんまずしかったからなんでも自分じぶんでやらなければならなかったのだとった。政治せいじ改革かいかく目指めざした孔子こうしは、結局けっきょく政治せいじ分野ぶんやではおおきな業績ぎょうせきげることができなかったが、子弟してい教育きょういく分野ぶんや後世こうせいのこ足跡あしあとのこした。【2】それも、孔子こうしがバランスのとれたゼネラリストとしてのちからっていたからだろう。しかし、今日きょう、そのようなゼネラリストが日本にっぽん社会しゃかいにいるかというとこころもとない。ゼネラリスト不在ふざい社会しゃかいというのが、今日きょう日本にっぽん問題もんだいだ。
 【3】では、その原因げんいんはどこにあるのだろうか。だいいちかんがえられるのは、現代げんだい社会しゃかい孔子こうし時代じだいくらべて、社会しゃかい制度せいどめんでも、科学かがく技術ぎじゅつめんでも、巨大きょだい複雑ふくざつしていることである。そのため、一人ひとり人間にんげん全体ぜんたい幅広はばひろ把握はあくすることがきわめてむずかしくなっている。【4】たとえば、原子力げんしりょく発電はつでんしょ事故じこがあったときに、いろいろな専門せんもんがそれぞれの立場たちばから意見いけんべたが、それらをまとめるゼネラリストの役割やくわりになひとはほとんどいなかった。あとから次々つぎつぎ指摘してきされたずさんな管理かんり仕方しかたると、当初とうしょから原発げんぱつという巨大きょだいなシステムの全体ぜんたいぞう見通みとおせるじんがいなかったらしいこともあきらかになった。【5】巨大きょだい対応たいおうするだけのひろ視野しやじんがいないまま、細分さいぶんされた場所ばしょ専門せんもんがばらばらに仕事しごとをしていたというのが実態じったいちかかったようだ。
 ゼネラリスト不在ふざいだい原因げんいんは、社会しゃかい安定あんてい成熟せいじゅくともない、世襲せしゅう傾向けいこうしてきたことがげられる。【6】政治せいじ分野ぶんやでは、まったくの新人しんじんが、地盤じばん看板かんばん特別とくべつ知名度ちめいどなしに当選とうせんすることがむずかしくなっている。さらに、世襲せしゅう有利ゆうりかんじる一種いっしゅ利権りけん集団しゅうだん形成けいせいされ、それが外部がいぶからの新規しんき参入さんにゅうはばむために、選挙せんきょ制度せいど法律ほうりつ複雑ふくざつにしているめんもある。【7】世襲せしゅう弊害へいがいは、まれつきその分野ぶんやしからない視野しやせま人材じんざいそだってしまうことにある。政治せいじというもっともゼネラリストの資質ししつ要求ようきゅうされる分野ぶんや世襲せしゅうすすめば、その弊害へいがいさらおおきいとかんがえられる。
 【8】たしかに、現代げんだい複雑ふくざつした制度せいど技術ぎじゅつ運用うんようできるのは、専門せんもんてき養成ようせいされたテクノクラートだろう。スペシャリストがそれぞのせんもん分野ぶんやにいるからこそ社会しゃかいはスムーズにうごく。しかし、専門せんもんよこじくひろがるほど、それをたて統合とうごうする強力きょうりょくなゼネラリストが必要ひつようになる。【9】「群盲ぐんもうぞうをなでる」という言葉ことばがある。ぞう説明せつめいするだけであれば、さまざまな専門せんもん自分じぶん立場たちばからぞう解釈かいしゃくしているだけでも問題もんだいはない。しかし、ぞう使づかいがきたぞうをコントロールするとき必要ひつようなのは、細部さいぶ解釈かいしゃくかさねではなく、ぞうというおおきな全体ぜんたいぞう把握はあくなのである。【0】

言葉ことばもり長文ちょうぶん作成さくせい委員いいんかい Σしぐま


長文ちょうぶん 10.2しゅう
 【1】近代きんだい社会しゃかいぜん近代きんだい安定あんていしたピラミッドがた社会しゃかい構造こうぞう破壊はかいし、そこに流動りゅうどう状態じょうたいをもちこんだわけだが、だからといって階層かいそう秩序ちつじょそのもの、すなわちピラミッドがた枠組わくぐみそのものまで放棄ほうきしたわけではなかった。【2】そこには、さまざまなかたちで階層かいそう秩序ちつじょてき構造こうぞうのこっているし、またそれがあるからこそ、それらの段階だんかい上昇じょうしょうすること(立身出世りっしんしゅっせ人間にんげんてき完成かんせい経済けいざい成長せいちょう福祉ふくし整備せいび軍事ぐんじてき優勢ゆうせい貧困ひんこん撲滅ぼくめつ平等びょうどう社会しゃかい実現じつげんなど)が理念りねんてき可能かのうであるとしんじられてきたのである。【3】これらはひとつの理念りねん中心ちゅうしん構築こうちくされたおおきな物語ものがたり歴史れきしやさまざまなイデオロギー)によって方向ほうこうづけられていた。人々ひとびと多様たよう事実じじつをこうした物語ものがたり秩序ちつじょしたがって配列はいれつし、また自分じぶん自身じしんせい意味いみづけも、この物語ものがたりからっていたのである。
 【4】だが、現在げんざいではこうした物語ものがたり軒並のきなみその信頼しんらいうしなっている。つまり、そうした秩序ちつじょはもはや人々ひとびと自分じぶん自身じしんせい投影とうえいするかがみとしての機能きのうたせなくなったのだ。【5】だい宗教しゅうきょう、イデオロギー、高級こうきゅう文化ぶんか公的こうてき文化ぶんかなどは、すでに人々ひとびと世界せかいむすびつける機能きのううしなってしまっている。そのことの原因げんいんとしては、ことなった文化ぶんかこそぎに均質きんしつし、効率こうりつのみがすべてを支配しはいする情報じょうほう社会しゃかい出現しゅつげんかんがえられるだろう。
 【6】問題もんだいはカルトてき文化ぶんかが、こうした文化ぶんかてき階層かいそう秩序ちつじょ不在ふざいうえっていることである。つまり、そこではかく要素ようそ構造こうぞうづけていた価値かち秩序ちつじょ崩壊ほうかいし、かく部分ぶぶん文化ぶんか断片だんぺんてき自立じりつしたものとしてえられているのだ。【7】たとえば、漫画まんが文学ぶんがく、ロックとクラシックなどのあいだにかつてはのこっていた暗黙あんもく上下じょうげ関係かんけいはもはや存在そんざいしない。それらはただたんおな平面へいめんうえただよっている、おたがいに無関係むかんけい孤島ことうにすぎないのだ。(中略ちゅうりゃく
 【8】もちろん従来じゅうらいからの階層かいそうてき価値かち秩序ちつじょはまだまだのこっているし、現実げんじつにはそうした「まえ」によって社会しゃかい維持いじされているようにえる。人々ひとびとはいい大学だいがくをめざし、いい会社かいしゃをめざし、まわりから祝福しゅくふくされる結婚けっこんをめざし、出世しゅっせをめざす。【9】だが、それらの理念りねんまでがのこっているわけではないのだ。いい大学だいがくはけっして学問がくもんおさめ、自己じこ成長せいちょうさせるためにめざされるわけではないし、会社かいしゃはその理念りねんによってえらばれるわけではない。それらは、ただたんに「とく」だから、すなわち金銭きんせんてき社会しゃかいてき利益りえきをもたらすからまもられているにすぎないのだ。【0】いわば、それら自身じしん価値かちはほとんどしんじられておらず、ただしんじているかのようにうことだけがこれらの制度せいどまもっているのである。
 このような意味いみでの価値かちからの疎外そがいはいたるところでいだすことができるだろう。たとえば、家族かぞく土地とちとの関係かんけい歴史れきしてき連続れんぞくせいやコミュニティの喪失そうしつなどのかたちでそれはひょうわれている。
 物語ものがたりへの実質じっしつてき信頼しんらいうしない、さまざまな情報じょうほう過剰かじょうなかで、それらの情報じょうほう秩序ちつじょづけることができなくなった人々ひとびとは、均質きんしつ平凡へいぼんかたもうとする。なぜなら、物語ものがたりがもはや信頼しんらいできないとしたら、自己じこ位置いち決定けっていするものは他人たにんとの相互そうご関係かんけいだけだからである。他人たにん均質きんしつであること、他人たにん話題わだい関心かんしん共有きょうゆうすることが存在そんざい相対そうたいてき安定あんていをもたらす。まえはこうした演技えんぎにとって不可欠ふかけつ虚構きょこうなのである。
 しかしながら一方いっぽうで、こうした根拠こんきょいた表層ひょうそうてき身振みぶりは、それだけではしん安定あんてい自己じこ意味いみづけをもたらすことはない。なぜなら、うまでもなく自己じこ意味いみづけるのは他人たにんとの差異さいでなくてはならないからだ。つまり完全かんぜん他人たにん同質どうしつでは差異さいまれてこないからである。
 そこでひとは、社会しゃかいされたわたしとはちがう「本当ほんとうわたし」をもとうとするのだ。いわば「うしなわれた内面ないめん」をもとめててしのない「たび」がはじまるのである。いかえれば、「個性こせい」という、同質どうしつせい土台どだいうえつくられた相対そうたいてき異質いしつせい防衛ぼうえいしようとするのだ。限定げんていされた価値かち領域りょういき自分じぶんをつなぎとめようとするカルト(あるいは専門せんもん領域りょういき主義しゅぎ)はこのような反動はんどうとしてあらわれてくる。つまり、それは同質どうしつせいそこなわぬかぎりでの異質いしつせいとしてあらわれてくるのである。異質いしつ価値かち乱立らんりつ戦争せんそう状態じょうたいをもたらさないのはそういうわけなのだ。だれも本当ほんとう全体ぜんたいへの従属じゅうぞく関係かんけいうしないたくないのである。

 室井むろいしょう「メディアの戦争せんそう機械きかい」より


長文ちょうぶん 10.3しゅう
 【1】日本にっぽんゆたかなくにである、という。
 いちきゅうはちはちねん日本人にっぽんじんいちにんあたりのGNPは、名目めいもくさんひゃくまんろくせんえんまんさんせんろくひゃくじゅうドル)。すでに、いちきゅうはちろくねん以来いらい、アメリカをいこしている。
 【2】日本にっぽん国土こくど面積めんせきは、アメリカのじゅうぶんいちしかないのに、地価ちか総額そうがくは、アメリカ全土ぜんどよんばい以上いじょういちきゅうはちななねんまつせんろくひゃくさんじゅうななちょうえん)であるという。
 日本人にっぽんじん個人こじん貯蓄ちょちく合計ごうけいは、やくひゃくはちじゅうちょうえんいち年間ねんかんのGNPをはるかにえる。【3】法人ほうじん企業きぎょう交際こうさいは、年間ねんかんやくよんちょうせんおくえんいちきゅうはちななねん国税庁こくぜいちょうしらべ)、いちにちひゃくじゅうおくえん支出ししゅつである。
 こんな数字すうじをいちいちすまでもない。店頭てんとうにあふれるかずかずの商品しょうひん。セリーヌもバーバリーも、ごくふつうにいろとりどりの服装ふくそうをした若者わかものたち。【4】毎日まいにち食事しょくじ残飯ざんぱんやまててもてても、すぐいっぱいになるくずかご。粗大そだいゴミ捨ごみす家具かぐ電気でんき製品せいひん
 海外かいがい旅行りょこう日本人にっぽんじん空港くうこうにあふれ、旅行りょこうだけではことりずに、海外かいがい不動産ふどうさん美術びじゅつひんいあさる。【5】若者わかものたちの結婚けっこん費用ひよう平均へいきんななひゃくまんえん以上いじょうとか、政治せいじ一夜いちやのパーティーになんじゅうおくえんもの政治せいじ資金しきんあつまる、などときけば、日本にっぽん社会しゃかいうえからしたまでかねあまり現象げんしょうであふれかえっているようにみえる。
 【6】そんな日常にちじょう経験けいけんとおして、わたしたちは、いやでも日本にっぽん金持かねもちのくにであることをらされている。
 もともと経済けいざい活動かつどうは、人間にんげんえや病苦びょうく長時間ちょうじかん労働ろうどうから解放かいほうするためのものであった。経済けいざい発展はってんすればするほど、ゆとりある福祉ふくし社会しゃかい実現じつげんされるはずのものであった。
 【7】それなのに、日本にっぽん金持かねもちになればなるほど、ぎゃくである。ひとびとはさらにてられ(先進せんしんこくもっとなが労働ろうどう時間じかん)、どもは偏差へんさ選別せんべつされ(世界中せかいじゅうどもを取材しゅざいしている絵本えほん作家さっかビャネール多美子たみこさんは「日本にっぽんどもほど自己じこ決定けっていけんうばわれたかわいそうなはいない」とう)、自然しぜんはなおも破壊はかいされていく。
 【8】効率こうりつきそ社会しゃかい制度せいどは、個人こじん行動こうどうと、連鎖れんさてき反応はんのうしあっているから、やがては生活せいかつ教育きょういく福祉ふくしも、経済けいざい価値かちもとめる効率こうりつ社会しゃかい歯車はぐるまきこまれるようになる。【9】競争きょうそう人間にんげん利己りこてきにし、一方いっぽう利己りこてきになれば、もの自分じぶんまもるために利己りこてきにならざるをないから、まんにんまんにんてきとなり、自分じぶんまもちからはカネだけになる。
 【0】そんな社会しゃかいでは、人間にんげん能力のうりょくは、経済けいざい価値かちをふやすかか、で判定はんていされ、おなじように社会しゃかいのためにはたらいているひとであっても、経済けいざい価値かち貢献こうけんしないひとみとめられることがすくない。
 ある財界ざいかいじんは、「日本にっぽん企業きぎょう優劣ゆうれつを、利潤りじゅん大小だいしょうによって序列じょれつづけしてしまい、たとえ良心りょうしんてき個性こせいてき創造そうぞうてきというような独特どくとく社風しゃふう企業きぎょうがあっても、利益りえきおおきくなければ、評価ひょうかされない」となげいていた。
 そんな日本にっぽんで、福祉ふくしのために献身けんしんてきはたらひとたか評価ひょうかするわけがない。その仕事しごとが、どんなに社会しゃかいてき必要ひつようなものであっても、経済けいざい価値かち無縁むえん老人ろうじん身体しんたい障害しょうがいしゃ精神せいしん障害しょうがいしゃのためにはたらひとへの社会しゃかいてき評価ひょうかは、きわめてひくい。福祉ふくし事務所じむしょで、保護ほご必要ひつようとするひとたちのために親身しんみになってはたら職員しょくいんよりも、生活せいかつ保護ほご申請しんせいする困窮こんきゅうしゃみずぎわ作戦さくせんとしていはらう職員しょくいんほう有能ゆうのう評価ひょうかされる。それは、つまり、経済けいざい価値かちにとってマイナスである社会しゃかい保障ほしょうたいして、財政ざいせい支出ししゅつ抑制よくせいするのが能吏のうりだ、というかんがえにっているからである。

 (あきらたかし淑子としこてるおかいつこゆたかさとはなにか』より)


長文ちょうぶん 10.4しゅう
 理想りそうてきなものとは現実げんじつえたもののことだ。現実げんじつにはない、現実げんじつとはどこかちがうところにある、それが理想りそうてきなもののありようだ。古代こだいギリシャの哲学てつがくしゃプラトンは、そんなありかたをする理想りそうてきなものを「イデア」とづけた。理想りそうてき人間にんげん理想りそうてきうま理想りそうてきなオリーブ、理想りそうてきいえ理想りそうてき都市とし理想りそうてき政治せいじ……それらはこの現実げんじつ世界せかいのうちには存在そんざいせず、どこかべつ世界せかいにある。そして、現実げんじつ人間にんげんうま、オリーブ、いえ都市とし政治せいじそのは、人間にんげんのイデア、うまのイデア、オリーブのイデア、……を手本てほんとして、それにるようにつくられている。が、それらが現実げんじつのものであるかぎり、イデアの完全かんぜんさにたっすることはできない。それがプラトンのイデアろん骨子こっしで、芸術げいじゅつ作品さくひんも、人間にんげんつくりだした現実げんじつ存在そんざいである以上いじょう、イデア(理想りそうてきなもの)ではなく、イデアの不完全ふかんぜん模造もぞうひんだ。
 理屈りくつとしてはすじかよっているが、芸術げいじゅつ作品さくひんまえにしたときのわたしたちの感覚かんかくとはおおきくずれるかんがえかただ。観音かんのん菩薩ぼさつのイデアが現実げんじつ世界せかいとはべつのどこかに――たとえば作者さくしゃ想像そうぞう世界せかいに――存在そんざいし、それを手本てほんとしてつくられた不完全ふかんぜん模造もぞうひんまえ百済くだら観音かんのんだ、とはどうしてもかんがえられない。制作せいさくにかかるまえ作者さくしゃあたまのなかにぞうのイメージがあり、それが制作せいさくみちびきとなった可能かのうせい十分じゅうぶんにあるが、出来上できあがった作品さくひんると、あたまのなかのイメージや、さらにそのむこうにあるとされるイデアのほうが、曖昧あいまいかつ不完全ふかんぜんなものであって、それを明確めいかくかたち表現ひょうげんした現実げんじつ作品さくひんは、かたちなき理想りそうらしきものをかたちのある理想りそうへとたかめたものとおもえるのだ。だからこそ、るほうは気息きそくととのえて、しずかにゆったりと作品さくひん対峙たいじしたくもなるので、作品さくひんのむこうにイデアをうかがうのは、芸術げいじゅつとつきあうたのしみをわれから放棄ほうきする所業しょぎょうのようにおもえる。
 場合ばあいはなしはもっとかりやすい。
 たとえば、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」のうつくしさは、モデルとなった女性じょせいうつくしさをはるかにえるものではなかろうか。のむこうにモデルとなったうつくしい女性じょせい想定そうていし、そのむこうにうつくしい女性じょせいのイデア(理想りそうがた)を想定そうていすることは可能かのうだ。しかし、「モナ・リザ」の(このさい細部さいぶまでうつしとられた大判おおばんのカラー写真しゃしんわりとかんがえてもいいことにしよう)をていて、うつくしいモデルや、モデルのむこうのイデア(理想りそうがた)におもいがくようなら、それはもうていないのとおなじことだ。イデアをいうなら、まええがかれてある女性じょせい絵姿えすがたこそがイデアであり、それ以上いじょうのイデアなどどこにもありはしない。それが傑作けっさく傑作けっさくたるゆえんだ。ダ・ヴィンチは細部さいぶにおいても全体ぜんたいにおいても、女性じょせい理想りそうがたを――永遠えいえん女性じょせいてきなるものを――追求ついきゅうしているといえるので、その理想りそうがたたて77センチメートル、よこ53センチメートルのカンバスじょう見事みごと定着ていちゃくされているのは、やはり不思議ふしぎなことといわざるをえないのである。
 時代じだいくだって、ポール・セザンヌが故郷こきょうやまえがいた「サント・ヴィクトワールさん」についてもおなじことがいえる。おな題名だいめいなんまいもあって、そのいちまいいちまいが、やま理想りそうてきうつくしさの追求ついきゅう、あるいは、やまとはなにかといういへの解答かいとう、あるいは、やまというものがこの存在そんざいするその存在そんざい意味いみ解明かいめい、といったふうなこころみだが、表現ひょうげんされたやまは、そのひとひとつがこれこそがやまだ、やまとはこんなふうにあるものだ、とかんじさせる。その意味いみで、そこに定着ていちゃくされてあるのはやま理想りそうがたといっていいのである。
 理想りそうがたが、ならば絵具えのぐりかさねたぬののカンバスとして、彫刻ちょうこくならば大理石だいりせきかたまりやブロンズのかたまりかたまり粘土ねんどかたまりとして、音楽おんがくならばリズムとメロディーとハーモニーをそなえた音声おんせいとして、まえに、あるいは、みみこえるように、ある。くりかえしいえば、それが芸術げいじゅつ作品さくひん基本きほんてきなありかたであって、作品さくひんたのしむがわからいえば、え、みみこえるものとの感覚かんかくてきなつきあいをとおして、かたちいろおと理想りそうてきなすがたを感受かんじゅできるのがよろこびのみなもとだといえる。芸術げいじゅつ作品さくひんせっするとき、わたしたちは、現実げんじつえた理想りそうてきなものが、いま、ここに、現実げんじつのものとしてある、という矛盾むじゅんたのしんでいるのだ。

長谷川はせがわひろし高校生こうこうせいのための哲学てつがく入門にゅうもん』による)


長文ちょうぶん 11.1しゅう
 【1】日本にっぽんとはくらべものにならない社会しゃかいてき共通きょうつう資本しほん威力いりょくをかんじるのは、交通こうつうやすさである。市中しちゅう交通こうつう片道かたみちひゃくじゅうえんのキップで、地下鉄ちかてつ市電しでんバスのどれにもりついで目的もくてきまでいくことができる。【2】交通こうつうにわずらわされることのない人間にんげん自由じゆう移動いどうが、どれほどおおきな生活せいかつ安定あんてい平等びょうどう寄与きよしていることか。
 老人ろうじん学生がくせい障害しょうがいしゃには半額はんがくパスまたは無料むりょうパスがあたえられている。【3】わたし感激かんげきしたのは、国鉄こくてつえきに、ろう婦人ふじん中年ちゅうねんおとこ(おそらくは親子おやこ)がひしとっているおおきなポスターがはってあり、「半額はんがくパスは、とおくのひとびとをちかづける」という文字もじいてあったことだ。国鉄こくてつ民営みんえい分割ぶんかつにして国鉄こくてつ用地ようち販売はんばい土地とち高騰こうとうさせた日本にっぽん。【4】いまではせんえんいちにち交通こうつうんでしまう。
 ボンにいたとき、夜中よなかごろ市営しえいバスがさんにんほどの乗客じょうきゃくをのせてはしっているのをみた。わずかの夜勤やきんひとたちのために、公営こうえい交通こうつう深夜しんやまではしっているのである。【5】きゅうすぎると、なくなってしまうバスのため、タクシー行列ぎょうれつしている日本人にっぽんじん電車でんしゃからりると、タクシーをうばうため、われさきにと、みなはしって階段かいだんをかけのぼりかけりる。【6】フライブルクでは、環境かんきょうキップという回数かいすうけんやすされていて、なるべく乗用車じょうようしゃらずに公共こうきょう交通こうつう利用りようするように計画けいかくされていた。【7】ドルトムントのまちでは、真夜中まよなかにもこうこうとした電灯でんとうがともり、白衣はくいをきた医師いし夜中よなか待機たいきして救急きゅうきゅう患者かんじゃそなえているステーションがあった。いちまいガラスをとおしてみえる白衣はくい医師いし姿すがたは、どんなに市民しみん安心あんしんかんあたえていたかしれない。
 【8】西にしドイツの労働ろうどう時間じかんは、製造せいぞうぎょう日本にっぽんよりやくひゃく時間じかんみじかいと一般いっぱんわれるが、さらに年間ねんかんせんひゃくあいだ労働ろうどうからせんよんひゃくあいだ労働ろうどうにむけて足並あしなみをそろえつつある。日本にっぽん年間ねんかんせんひゃくじゅうあいだ
 【9】西にしドイツの労働ろうどうしゃ労働ろうどう時間じかん短縮たんしゅく運動うんどうをしていたときのスローガンのひとつは、「わたしたちに家庭かていだんらんと、地域ちいき社会しゃかい政治せいじ参加さんかするときあいだあたえよ」だった。勤労きんろうしゃはせいぜい片道かたみちじゅうふんからさんじゅうふん帰宅きたくできるので、いちにちなかに、労働ろうどう文化ぶんか生活せいかつ家族かぞくだんらんのみっつのことが並行へいこうしておこなわれるゆとりがあるのだ。【0】

 (あきらたかし淑子としこてるおかいつこゆたかさとはなにか』より)


長文ちょうぶん 11.2しゅう
 【1】その広告こうこくは、つぎのシーンではじまる。
 一対いっついが、立体りったいてき木製もくせいパズルをてている。そのあいだに、ソフトに調整ちょうせいされたおとここえが、最大さいだいの『工業こうぎょう社会しゃかい問題もんだい』または『ビジネス社会しゃかい問題もんだい』は、実際じっさいには『コミュニケーションの問題もんだい』だと説明せつめいする。
 【2】ビジネスマンと企業きぎょう朗報ろうほうあり! 企業きぎょう経営けいえい潤滑じゅんかつかぎは、効率こうりつてき調和ちょうわのとれた総合そうごうてきなコミュニケーション・システムにある! ついにパズルが完成かんせいしたのだ。ごらんなさい! なんと、世界せかい最大さいだい企業きぎょうAT&Tえいてぃーあんどてぃー(アメリカン・テレフォン&テレグラムしゃ)の社名しゃめいロゴが完成かんせいしたではないか。
 【3】画面がめん暗転あんてんし、しろのメッセージがかびあがる。
 「このシステムこそ解決かいけつさくだ」
 そう、天空てんくうほしがあるのとおなじにね。
 このテレビ広告こうこくは、しばらくのあいだ夕方ゆうがた全米ぜんべいニュース番組ばんぐみ合間あいまながされた。【4】このメッセージは高度こうど技術ぎじゅつてき消費しょうひ社会しゃかいきるわたしたちにけて、この社会しゃかいについての哲学てつがくつたえている。コミュニケーション産業さんぎょう自己じこ投影とうえいイメージの真髄しんずいともいうべきれいで、完璧かんぺきなる管理かんり理想りそうぞうおよび絶対ぜったいてきぜんとして提示ていじしている。【5】その一方いっぽうで、この企業きぎょうは、自社じしゃのシステムを使つかうことで、『だれかとしんかよわせる』ことができると主張しゅちょうする。AT&Tえいてぃーあんどてぃーのサービスをうことで家族かぞくきずなつよまり、友情ゆうじょう維持いじされる、と。
 【6】同社どうしゃのイメージとテレビ広告こうこくは、サービスや製品せいひんえて、なか理解りかいする方法ほうほうまでもりこもうとしている。その基本きほんてき前提ぜんていは、企業きぎょう中心ちゅうしん工業こうぎょう社会しゃかいにおいて、社会しゃかい秩序ちつじょのメカニズムを供給きょうきゅうするのはコミュニケーション産業さんぎょうということにある。【7】効率こうりつのよい経営けいえい管理かんり切望せつぼうするビジネスマンのふところにせまるコンセプトだ。その一方いっぽう現代げんだい消費しょうひ社会しゃかい孤独こどく流動的りゅうどうてき個人こじんであるわたしたちにたいし、ますますつかまえどころがなくなりつつある家庭かてい関係かんけいやコミュニティのきずな約束やくそくするのだ。
 【8】AT&Tえいてぃーあんどてぃーによって提示ていじされたようなマス・イメージは、おぼえやすい言語げんご信仰しんこうのシステム、共通きょうつう感性かんせいはたきこむ回路かいろをつくりだし現代げんだい社会しゃかい一部いちぶとなる意味いみわたしたちに説明せつめいしてくれる。【9】それは、品物しなものとサービスの販売はんばい消費しょうひ定義ていぎづけられた社会しゃかい人間にんげん関係かんけいがしばしば金銭きんせんのやりとりで規制きせいされる社会しゃかい解決かいけつさく見出みいだ必要ひつようせまられればすべてきんでかたづけることが常識じょうしきになりつつある社会しゃかいだ。冒頭ぼうとう広告こうこくられるような意図いとは、日常にちじょうのことになった。【0】消費しょうひわたしたちの『ウェイ・オブ・ライフ』なのだ。コマーシャル・イメージ――広告こうこく、パッケージ、広報こうほう活動かつどう映画えいが、テレビなど――は、この『ウェイ・オブ・ライフ』の強化きょうか重要じゅうよう役割やくわりたしている。(中略ちゅうりゃく
 マイク・ゴールドの自伝じでんてき移民いみん小説しょうせつかねのないユダヤじん』のなかでは、著者ちょしゃ父親ちちおやが、文化ぶんかてき崩壊ほうかいかん簡潔かんけつ表現ひょうげんしてアメリカを「泥棒どろぼう」よばわりする。最初さいしょしたしんだ生活せいかつ補充ほじゅうするための手段しゅだん解釈かいしゃくされていた賃金ちんぎん労働ろうどう時間じかんりは、じつはあたらしい支配しはい構造こうぞうであることがじきに暴露ばくろされた。賃金ちんぎんは、資本しほんおなはたらきをしなかった。資本しほん土地とち似通にかよっていた――それを所有しょゆうするものに有利ゆうりにはたらくとみいち形態けいたいだった。資本しほんは、自分じぶんえてゆくが、賃金ちんぎんちがった。労働ろうどうしゃがアメリカでかきあつめたわずかなかねは、その消費しょうひされるべき性質せいしつのものだった。のちのこりもせず、希望きぼうみださなかった。農業のうぎょう手工業しゅこうぎょうたずさわり、消費しょうひ禁物きんもつだとおしえられてきた人々ひとびとに、消費しょうひしん世界せかいでの市民しみんけん定義ていぎづけに必要ひつようなものとして提供ていきょうされたのだ。
 価値かち生存せいぞん土地とち直結ちょっけつしたり、自然しぜん利用りようからもたらされた状況じょうきょうでは、大量たいりょう消費しょうひ自殺じさつ行為こうい意味いみした。工業こうぎょうこくアメリカに移住いじゅうしてきた農民のうみん手工業しゅこうぎょう職人しょくにんにとって、賃金ちんぎん労働ろうどうシステムはこの基本きほんてき前提ぜんていぼうとくにほかならなかった。自然しぜんとの官能かんのうてき融合ゆうごうからしょうじたこの前提ぜんていは、いまや工業こうぎょう生産せいさん市場いちば開拓かいたく都会とかい生活せいかつ泥沼どろぬまうめもれつつあった。ここでもたくわえようとする努力どりょくはなされたが、賃金ちんぎん土地とちおなじように活用かつようしようとの移民いみんこころみは、むだにわることがおおかった。大量たいりょう生産せいさん工業こうぎょう発生はっせいにあった消費しょうひ市場いちば特徴とくちょうづけられた社会しゃかいにおいて、人間にんげん自然しぜん分裂ぶんれつ自明じめいであり、ウィリアムズぶところの「『人間にんげんによる自然しぜん征服せいふく』の勝利しょうりしゃがわ論理ろんり」が定着ていちゃくしていった。

 (スチュアート&エリザベス・イーウェンちょ欲望よくぼう消費しょうひ』)


長文ちょうぶん 11.3しゅう
 【1】Aは、まずメンフラハップのコマーシャルをれいにあげ、「モノはそこにあるだけではただのモノにすぎない。が、そのモノに面白おもしろ言葉ことばがつくと、とつぜんモノがいきづき、【2】モノと人間にんげんとの関係かんけいきとしたものにわってくる」と広告こうこくの『あらまほしきありよう』をいてから、商品しょうひんというモノをいきづかせることなく、モノからはなれ、一人ひとりあるきしていった「繁栄はんえい」のろく年代ねんだい以降いこう広告こうこくについて批判ひはんてきにのべている。
 【3】その、広告こうこくのいわゆる「モノばなれ」現象げんしょうきたのは「技術ぎじゅつ高度こうど平準へいじゅんみ、競争きょうそう商品しょうひんあいだ品質ひんしつ性能せいのうじょう差異さいがなくなった」結果けっかだった。【4】商品しょうひんたようなものになればなるほど、自社じしゃ商品しょうひん印象いんしょう競合きょうごう商品しょうひんから際立きわだたせる必要ひつようしょうじ、その「差別さべつ」の役割やくわりを、もっぱら広告こうこくになうことになったのである。ということについてAはいう、「それはいい、このむとこのまざるとにかかわらず、わたしたちはそういう時代じだいきている。【5】が、その差異さいづくりが、もっともらしい言葉ことばやまことしやかなレトリックの競争きょうそうになり、人間にんげんてきいきづかいをうしなって空回からまわりをはじめると、言葉ことばはただのガレキになり、モノと人間にんげんとのあいだかべつくってしまうことになる。【6】ろく年代ねんだい以降いこう広告こうこくは、実際じっさいには、そんな方向ほうこうへどんどんすすんできてしまったのではないか」「そういう広告こうこくは、商品しょうひん人間にんげん関係かんけいきさせるどころか、両者りょうしゃ窒息ちっそく状態じょうたいんでしまう。【7】いま広告こうこく批判ひはんされるところがあるとしたら、それは欲望よくぼう誘発ゆうはつするとからしのイデオロギーをしつけるといったふるくさい論点ろんてんによってではなく、モノと人間にんげんをへだててしまうような『言葉ことばのモノ』によってではないだろうか」と。
 【8】Aによれば、川崎かわさき作品さくひんで、ごうひろみと横山よこやまやすしが「ハエカ退治たいじにキンチョール。ってみろ!」とバケツにかってさけぶのは、モノした言葉ことばかべひらく「ひらけ、ゴマ!」のまじないであり、【9】糸井いとい作品さくひん意図いとするのは、『差異さいづくり』でなく、『づくり』をねらうことで、モノした言葉ことばかべをバイパスしてしまうことだという。その分析ぶんせきは、面白おもしろかった。モノと人間にんげん関係かんけい人間にんげん人間にんげん関係かんけい、のさい活性かっせい広告こうこく歓迎かんげいすることにも賛成さんせいである。
 【0】しかし、「それはいい、このむとこのまざるとにかかわらずわたしたちはそういう時代じだいきている」と「時代じだい」を大前提だいぜんていして、論議ろんぎ対象たいしょうがいにしてしまうことと、広告こうこく問題もんだいてんかんして、「欲望よくぼう誘発ゆうはつするとからしのイデオロギーをしつけるといったふるくさい論点ろんてんによってではなく……」と、広告こうこく表現ひょうげん問題もんだいをすべて集約しゅうやくしてしまうことは、疑問ぎもんだ。(中略ちゅうりゃく
 ましてその、広告こうこく基本きほんてき役割やくわりは、依然いぜんとしてまだ、あたらしいかたかんがかた、すなわち「らしのイデオロギー」の提示ていじしつけ)であり、そのあたらしいかたかんがかた一体化いったいかした商品しょうひん=モノへの欲求よっきゅう喚起かんきなのである。
 資生堂しせいどうがハワイに日本にっぽんはつ海外かいがいロケたいをおくったのはいちきゅうろくろくねんだったが、それからじゅうねんもしないうちに、ハワイはおろかアフリカやモロッコの奥地おくちにまで日本にっぽん広告こうこくロケたいむらがるようになった。だが、そうやって世界中せかいじゅうの「あこがれの生活せいかつ」が広告こうこくメディアをくすようになったとき、日本にっぽん商品しょうひん欧米おうべいいつき、商品しょうひんあいだ差異さいも、Aがいうとおりに、えはじめた。欧米おうべいという手本てほん手本てほんでなくなり、品質ひんしつ性能せいのうという明快めいかい目標もくひょうえたのである。どこかがしん製品せいひんすと、それがつか手本てほん目標もくひょうになった。そうして品質ひんしつ性能せいのう平準へいじゅん加速かそくし、「差別さべつ」の役割やくわり広告こうこくうつっていった。だが、その広告こうこくにおいても同様どうよう平準へいじゅんおこったのである。アメリカロケではをつけないからインドへこう、いやアフリカだ、と「あこがさき」が次々つぎつぎ開発かいはつされたがロケさきもたちまち平準へいじゅんされ、セットの、タレントの、メイクの、アイデアのもすぐあといされ、ということの結果けっかが、個性こせいな、表現ひょうげんだけががり、しん喚起かんきりょくもない広告こうこく表現ひょうげんの「モノ現象げんしょうだったのではないか。
 そしてわりにてきたのが川崎かわさきとおるの「オモシロ広告こうこく」であり、糸井いといチームの「おいしい生活せいかつ」すなわち「充実じゅうじつさせよう日常にちじょう生活せいかつ広告こうこくだったのだ。「いまここ」からしんあこがれの彼方かなたにとばすことをやめ、「いまここ」になおそうという広告こうこく。ただしそれらの広告こうこくも、第一義だいいちぎてきにはやはり「差別さべつ」のためのしん趣向しゅこうであり、あたらしいかた提案ていあんなのである。つまり「モノばなれ」広告こうこく本質ほんしつてきなところではわらないのだ。
 (佐野さのさんひろしふとしちょ広告こうこく文明ぶんめい』より抜粋ばっすい編集へんしゅう


長文ちょうぶん 11.4しゅう
 「のりてんわたし」というのは晩年ばんねん漱石そうせきつくった言葉ことばです。てんのっとってわたしる、「わたし」なんてない、というのは「西洋せいよう近代きんだいてき自我じが」すなわち「わたしわたしであり、その個性こせい意識いしきにのみある」というかんがかたたいする、日本人にっぽんじんとしての反発はんぱつだったのではないでしょうか。
 戸籍こせき制度せいど漱石そうせき思想しそうかられば、こうした近代きんだいというのは明治めいじ時代じだいはじまったとかんがえられます。しかし、日本にっぽん場合ばあい、こうしたおもみがここまで確立かくりつされたのは戦後せんごでしょう。戦後せんごは、それまでの日本にっぽんてきかんがかたを「封建ほうけんてき」の一言ひとこと片付かたづけてしまった。
 いまでは葬式そうしきといえば火葬かそうがあたりまえですが、高度こうど成長せいちょうまえまでは土葬どそうべつ非常識ひじょうしき手法しゅほうではなかった。これがあっというに、より死体したいとおざける方向ほうこうかっていった。出来できるだけ「」を日常にちじょう生活せいかつからはなしていった。かんがえないようになった。
 ほぼおな時期じきにトイレでもおなじようなことがきた。つまり水洗すいせん便所べんじょ普及ふきゅうです。あれは人間にんげん自然しぜんのものとしてすものをなるべくえないように、かんじないようにしたものです。(中略ちゅうりゃく
 同様どうよう戦後せんごえていったものはたくさんあります。おかあさんが電車でんしゃなかでおちち子供こどもあたえる姿すがたなくなってひさしいようにおもいます。
 肉体にくたい労働ろうどうしゃがフンドシいちちょうはたらかなくなったのはもっとまえからのようながします。(中略ちゅうりゃく
 このへんのことにはみな共通きょうつう感覚かんかくがあるのがおわかりでしょうか。身体しんたいかんすることが、どんどんされていったのです。
 これは都市としとともにこってきたことです。それも暗黙あんもくのうちにこることです。世界中せかいじゅうどこでも都市としすると法律ほうりつめたわけでもなんでもありません。それでもほぼたような状態じょうたいになります。これは意識いしきおな方向ほうこうせいもしくは傾向けいこうをもっているからです。
 都市としであるにもかかわらず、異質いしつ存在そんざいだったのが古代こだいギリシャです。ギリシャじんはアテネというあれだけの都市とし社会しゃかいつくっておきながら、はだか場所ばしょのこしていたのですから。かれらにとってははだか非常ひじょう身近みぢかだった。
 だれもがっているのがオリンピックです。これはもともとは全裸ぜんらおこなっていた大会たいかいです。マラソンだってなにだって全裸ぜんらです。マンガや絵本えほんのようにイチジクのなんかけていません。
 スポーツにかぎらず、教育きょういく機関きかん当時とうじのギムナジウム(青少年せいしょうねんのための訓練くんれんしょ)でもみなみなはだかでした。
 もともとギムナジウムという言葉ことばは「はだか」を意味いみしていたのです。おそらくはだかであることの根拠こんきょいまう「はだかい」というのに非常ひじょうちかかったのではないか。
 アテネがた民主みんしゅ主義しゅぎ前提ぜんていは、市民しみん全員ぜんいん平等びょうどうだということです。これはだれでもはだかいが出来できる、ということでしょう。ているものなにかで判断はんだんけない。わかひとたちはギムナジウムでは平等びょうどうだった。民主みんしゅ主義しゅぎ原点げんてんは「はだかい」にあった、というのは興味深きょうみぶかいことです。
 ギリシャとはことなり、マ帝国まていこくにはこうした「はだか文化ぶんか」はなかった。もちろん共同きょうどう浴場よくじょうとかそういう場所ばしょでははだかになっていました。しかし、べつにそれは社会しゃかい制度せいどむすびついていたわけではありません。
 ルネッサンス時代じだい彫刻ちょうこくは、ギリシャ時代じだいはだかのモデルの彫刻ちょうこくうつしたものですが、べつにルネッサンス時代じだい人々ひとびとはだかだったわけではない。レオナルド・ダ・ヴィンチははだからしていたわけではありません。かれらの彫刻ちょうこく題材だいざいはだかであっても、それは着物きもの連中れんちゅうはだかつくっているわけです。よく一緒いっしょにされてしまいがちですが、ギリシャ彫刻ちょうこくのように、もともとはだかごしていたひとたちがはだか彫刻ちょうこくつくるのとでは、意味いみがまったくちがうのです。
 もちろん、いまではなぜ古代こだいギリシャじんたちがはだかだったのか、文献ぶんけん証明しょうめいすることは出来できません。そんなことの理由りゆうをくわしくいているほんはないのです。こういう共同きょうどうたい全体ぜんたいっている無意識むいしきのルールというのは、往々おうおうにして記録きろくされません。
 ただし、かれらにとっていまわたしたちよりも身体しんたいというものが身近みぢかだったのは間違まちがいないし、それが社会しゃかいてきなんらかの作用さようをしていたとかんがえていいのではないでしょうか。

養老ようろう孟司たけしかべ』による)


長文ちょうぶん 12.1しゅう
 【1】本来ほんらい特許とっきょ制度せいど発明はつめい保護ほごするねらいをもっている。技術ぎじゅつを「公開こうかい」した代償だいしょうとして、発明はつめいしゃに「独占どくせんけん」をあたえようとするものである。
 技術ぎじゅつ公開こうかいとひきかえに発明はつめいしゃあたえられる独占どくせんけんには、みっつの効用こうよう期待きたいできる。
 【2】ひとつは、発明はつめいようした開発かいはつ費用ひよう回収かいしゅう可能かのうになることである。長期間ちょうきかん悪戦苦闘あくせんくとうすえ発明はつめいまでけたものが、その発明はつめい模倣もほうされたら、どんなことになるだろうか。発明はつめいしゃ以後いご発明はつめい中身なかみ公開こうかいしなくなるであろう。【3】実際じっさい模倣もほうしゃ開発かいはつコストがかからないので、発明はつめいしゃよりもやす商品しょうひん製造せいぞう販売はんばいすることができるわけである。もし発明はつめいしゃ一定いってい独占どくせん期間きかんあたえられれば、開発かいはつコストは回収かいしゅうされ、さらに利益りえきすことも期待きたいできよう。
 【4】ふた効用こうようは、社会しゃかい全体ぜんたいからみて、発明はつめいのための重複じゅうふく研究けんきゅうじゅう投資とうしけられ、公開こうかいされた発明はつめい中身なかみ吟味ぎんみされ、さらにちがった方向ほうこう研究けんきゅうすすむことが可能かのうである。
 【5】みっは、発明はつめい特許とっきょによって保障ほしょうされれば、発明はつめい行為こういがつきあたらしい発明はつめいおよび技術ぎじゅつ開発かいはつのための刺激しげきざいにもなりうるだろう。
 (中略ちゅうりゃく
 歴史れきしじょう、われわれからオリジナリティをうばった典型てんけいてき事例じれいとして、よくいにされる文献ぶんけんがある。【6】それがとおるろくねんいちなないちねん)に徳川とくがわ幕府ばくふしたきで、「新規しんき御法度ごはっと(ごはっと)」とばれたものである。新規しんきのことはすべて幕府ばくふたいする反逆はんぎゃくめつけられた。あたらしいことはなにもかもあくとみなされたのである。
 「新規しんき御法度ごはっと」とはどんなものだったのか。
 【7】いち呉服ごふくぶつしょ道具どうぐ書物しょもつもうすにおよばず、しょ商売しょうばいぶつ菓子かしるいにても、新規しんきたくみこうごと自今じこん以後いごかた停止ていしたり。よりどころなき仔細しさいこれあるもの役所やくしょへ訴出、もと仕出しだごと
 【8】いちしょしょうぶつうち古来こらいつうにてことこうしょ近年きんねんしょくひんかえもの数寄すき仕出しだこうるいおい吟味ぎんみ停止ていしさるくべくこうあいだけん々其旨心得こころえべきこと
 【9】つまり、呉服ごふく道具どうぐ書物しょもつやお菓子かしにいたるまで、新規しんきのものを製造せいぞう販売はんばいすることはきんじられたのである。またながあいだってきたものに、たとえばいろえるとか、素材そざいべつのものを使つかって、目先めさき変化へんかをつけようとすることもきんじられた。
 【0】じょうきはとおるろくねんのものだが、こののおれはしばしばはっせられている。
 とおるろくねんは、西暦せいれきなおすといちなないちねん先進せんしんこくのイギリスではいちはち世紀せいき産業さんぎょう革命かくめいむかえようとしていた。変革へんかく前夜ぜんやであった。
 日本にっぽん産業さんぎょう革命かくめいどころのはなしではなく、あたらしいお菓子かしさえつくってはいけないといわれた鎖国さこくのまっただなかにあった。しん技術ぎじゅつをはぐくむ土壌どじょう幕府ばくふによって完全かんぜん抑圧よくあつされ、まったく発明はつめいへの気運きうん醸成じょうせいするような社会しゃかい情勢じょうせいにはなかったのである。ひとびとは変化へんかもとめず、思想しそう自由じゆう行動こうどう自由じゆうもとめず、ひたすらまくはん体制たいせい秩序ちつじょまもることをいられた。だからこそ、この抑圧よくあつ反発はんぱつのバネになり、あたらしい時代じだい用意よういするための変革期へんかくきむかえることになるのである。
 かりに優秀ゆうしゅう技術ぎじゅつがあったにしても、それをおおやけにせず、秘法ひほうとしてみずからのうちにおさめておくことが、為政者いせいしゃもとめるところでもあった。
 このような変化へんかきら状況じょうきょうでは、「発明はつめい公開こうかい」を条件じょうけんに「独占どくせんけん」をあたえようという特許とっきょ思想しそうそだちようもない。
 たしかに、江戸えど時代じだいなかばをぎると、幕府ばくふした「新規しんき御法度ごはっと」とはぎゃくに、かくはんは、きそってしん技術ぎじゅつしん産業さんぎょうしん商品しょうひんもとめるようになっていったことは事実じじつである。しかし、欧米おうべいてつとか蒸気じょうき機関きかん電信でんしんといったすすんだ発明はつめい特許とっきょ関係かんけいろんじているとき、日本にっぽんでは塗物ぬりものかみ、ロウソク、醤油じょうゆ、おちゃ鋳物いもの木綿もめんなど日常にちじょう生活せいかつなか小物こもの改良かいりょう改善かいぜんかんする工夫くふう技法ぎほう問題もんだいにしていた。もちろん築城ちくじょうといった巨大きょだい技術ぎじゅつもあったが、それは例外れいがいちゅう例外れいがいといえる。
 よしみながろくねんいちはちさんねん)のペリーの来航らいこうによって、日本にっぽん急速きゅうそく開国かいこくかい、西欧せいおう文物ぶんぶつ大々的だいだいてき導入どうにゅうすることになった。こうしたながれのなか特許とっきょ制度せいども、福沢ふくさわ諭吉ゆきちの「西洋せいよう事情じじょう」(いちはちろくろくななねんにかけて出版しゅっぱん)によって、日本にっぽんにはじめて紹介しょうかいされた。

まもりまこと特許とっきょ文明ぶんめい』より抜粋ばっすい調整ちょうせい


長文ちょうぶん 12.2しゅう
 【1】きゅう年度ねんどまつ時点じてんで、このくににはいちまんきゅうよんもの規制きせいがあったといわれる。規制きせいは、政官せいかんぎょう癒着ゆちゃく構造こうぞう磐石ばんじゃくのものとする主因しゅいんでもある。近時きんじ、「規制きせい緩和かんわ」のだい合唱がっしょう巷間こうかんにこだまするようになったが、すべての規制きせいが「あく」というわけではかならずしもない。
 【2】規制きせいなかには、安全あんぜん環境かんきょう保全ほぜん弱者じゃくしゃ保護ほご経済けいざいてき不正ふせい防止ぼうし景観けいかん保全ほぜん自然しぜん保護ほごなどをねらいとする「必要ひつよう」な規制きせい数多かずおおくある。【3】しかし、あってもなくてもいいような規制きせい健全けんぜん自由じゆう競争きょうそう阻害そがいする規制きせい必要ひつようにきびしすぎる規制きせい利権りけん温床おんしょうとなる規制きせいなど、緩和かんわないし撤廃てっぱいすることがのぞましい規制きせいが、すくなくとも過半かはんめているとみてよい。
 【4】そうした規制きせいおおくは、中央ちゅうおう官庁かんちょう許認可きょにんか権限けんげんにつらなり、許認可きょにんか権限けんげんがあるからこそ、中央ちゅうおう官庁かんちょう民間みんかん企業きぎょうへのにらみをかすことができる。【5】とどこおりなく許認可きょにんか獲得かくとくするためには、このむとこのまざるとにかかわらず民間みんかん企業きぎょうは、監督かんとく官庁かんちょうからの「天下あまくだり」をれざるをえないといわれる。また、ここ一番いちばんというときには、ぞく議員ぎいんのたすけをりるのがいちばんっとりばやかった。
 【6】ようするに、許認可きょにんか行政ぎょうせい肥大ひだいこそが、政官せいかんぎょうさんしゃ癒着ゆちゃく強固きょうこなものとする接着せっちゃくざい役割やくわりたしたのである。【7】「かん」と「ぎょう」とのあいだにはしをかけるのが「せい」の役割やくわりであり、その役割やくわりたしてきたうえで、ひとかどの報酬ほうしゅうを「せい」が「ぎょう」に要求ようきゅうするのは、すくなくともついこのあいだまでは常識じょうしきされていた。
 【8】あらためて指摘してきするまでもなく、許認可きょにんか権限けんげんかくとする政官せいかんぎょう癒着ゆちゃく構造こうぞうこそが、市場いちば不透明ふとうめいかつ公正こうせいなものにする元凶げんきょうのひとつにかぞえられる。とはいえ、さき指摘してきしたように、あらゆる許認可きょにんかが「あく」というわけではない。【9】問題もんだいなのは、許認可きょにんかをめぐってのぞく議員ぎいん暗躍あんやくが、行政ぎょうせい不透明ふとうめいし、民間みんかん企業きぎょう途方とほうもない時間じかんてきコストと経済けいざいてきコスト(そのツケは消費しょうひしゃまわされる)を支払しはらわせ、許認可きょにんかのサジ加減かげん次第しだい行政ぎょうせい公正こうせいにするというてんである。【0】もしかり許認可きょにんか権限けんげんがまったくフェアに執行しっこうされるならば、規制きせい緩和かんわ撤廃てっぱいだい合唱がっしょうきたりはしないはずである。

佐和さわ隆光たかみつ平成へいせい不況ふきょう政治せいじ経済けいざいしつ』)


長文ちょうぶん 12.3しゅう
 【1】日本人にっぽんじんには、ボランティア精神せいしん希薄きはくで、ボランティアのシステムを社会しゃかいてき定着ていちゃくさせるのは困難こんなんではないかとの意見いけんがある。しかし、わたしけっしてそうはおもわない。
 【2】アメリカの場合ばあい、ボランティア精神せいしん相互そうご扶助ふじょ精神せいしん非常ひじょう発達はったつしていて、成人せいじん二人ふたり一人ひとりは、なんらかのボランティア活動かつどう従事じゅうじしているといわれる。
 なぜ、アメリカではそんなに発達はったつしているのか、これにはいくつかの要素ようそがある。
 【3】キリストきょうというバックボーンがあるということもある。かく地域ちいき教会きょうかいがあって、日曜日にちようびには、年代ねんだいえたたくさんのひとたちがあつまり、そこに地域ちいきができる。
 教会きょうかい牧師ぼくしさんの説教せっきょうき、きよらかなしんになると、なにかいいことをしたくなる。【4】情報じょうほう交換こうかんにもなり、どこそこのだれかがこまっているといった情報じょうほうなども教会きょうかいかいしてみんなにつたわる。こうして教会きょうかい中心ちゅうしんにしたボランティアのが、かく地域ちいきひろがっていく。
 【5】もっと具体ぐたいてき要素ようそは、時間じかんてきなゆとりがあるということであろう。
 日本人にっぽんじん年間ねんかん労働ろうどう時間じかんは、せんあいだえている。サービス残業ざんぎょうや、夜間やかん休日きゅうじつなどの仕事しごと仲間なかまとのつきい、接待せったいなどをれればせんすうひゃくあいだになるだろう。【6】それにたいしアメリカではせんきゅうひゃくあいだ、ドイツではせんろくひゃくあいだっているし、勤務きんむ時間じかん以外いがいは、かれらは完全かんぜん自由じゆうである。つまり、かれらには時間じかんてき余裕よゆうがたっぷりあって、そうなるとひと本性ほんしょうとして、ひといことをしたくなってくる。
 【7】そのうえ建国けんこく以来いらい自分じぶんたちの社会しゃかいをつくってきたという伝統でんとうがある。また、いろいろな民族みんぞくじっているから、おたがいに個人こじん尊重そんちょうしあい、協調きょうちょうしていかないとやっていけないという状況じょうきょうもある。【8】これだけの条件じょうけんそろっているため、アメリカではあれほどボランティアが発達はったつしているのだとおもう。
 それにたいして、たしかに日本にっぽんは、キリストきょうのバックボーンもないし、みんながあつまる地域ちいきもない、時間じかんてき余裕よゆうもない。【9】おさきくらではないか、とかんがえるのも無理むりはないかもしれない。
 しかし、宗教しゅうきょうてき要素ようそでいえば、熱心ねっしん信者しんじゃであるかないかにかかわらず、日本人にっぽんじんには伝統でんとうてき仏教ぶっきょうてきなフィーリングがある。習慣しゅうかん年中ねんじゅう行事ぎょうじなかにも、仏教ぶっきょう色濃いろこのこっている。
 【0】根本ねもと精神せいしんでいえば、キリストきょう場合ばあいは、イエス・キリストに象徴しょうちょうされるように自己じこ犠牲ぎせいむねとしている。したがって、まったくの手弁当てべんとう全面ぜんめんてき奉仕ほうしする。そこからなんの見返みかえりも期待きたいしない。
 一方いっぽう仏教ぶっきょう基本きほん原理げんり因果応報いんがおうほうかんがかたにある。ここでたすけておけば、いずれ自分じぶんこまったときにはたすけてもらえるだろうというように、ひろ意味いみでの見返みかえりをなんとなく期待きたいする。これはべつわるいことではなく「こまったときはおたがいさま」というかんがかただから、相互そうご扶助ふじょ精神せいしんである。ここに日本にっぽんてきなボランティア活動かつどうづく地盤じばんがあるとおもう。
 もともと日本人にっぽんじんは、農耕のうこう民族みんぞくである。機械きかい以前いぜん農耕のうこうというのは、一人ひとりではやっていけない。集落しゅうらくひとつの単位たんいとなり、ぶしごとの農作業のうさぎょう総出そうでおこなって収穫しゅうかく平等びょうどう配分はいぶんするということだから、基本きほんてきにはたすいのシステムである。そうした精神せいしんは、いまもわれわれの潜在せんざい意識いしきなかのこっている。
 そして、最近さいきん時間じかんてきゆとりもかなりてきた。かつては労組ろうそ要求ようきゅう賃上ちんあ一本いっぽんだったが、いまでは勤務きんむ時間じかん短縮たんしゅくわせて強力きょうりょく要求ようきゅうするといったようにわってきた。週休しゅうきゅうにちせいもいきわたってきた。日本にっぽんもこれからだんだんゆとりの世界せかいはいっていく。
 だから、ボランティア活動かつどうをするための条件じょうけんは、日本にっぽんでもじゅくはじめているとおもう。ただ、これも農耕のうこう民族みんぞく特徴とくちょうだが、突出とっしゅつきら意識いしきがあって、自分じぶんからはたって組織そしきをつくったり、みんなにびかけたりすることが苦手にがてである。
 テレビなどでたすいの提唱ていしょうをすれば、あっというなんせんまんえんもの義捐ぎえんきん(ぎえんきん)があつまる。このように、もともとたすいの精神せいしんをもった民族みんぞくだから、各地かくちにそうした組織そしきをつくり必要ひつよう場所ばしょ提供ていきょうしてゆけば、そこにみんなあつまってくるようになるだろう。それがときながれだとおもう。

(「ふたたびのきがい」堀田ほったつとむより)


長文ちょうぶん 12.4しゅう
 モーツァルトという人類じんるい史上しじょうまれにみるした、近代きんだい西洋せいよう機能きのう和声わせい音楽おんがくとは、人間にんげんにとってなになのか、それをかんがえるために、わたしわかいとき、医者いしゃになるのはやめて音楽おんがくがく勉強べんきょうしようとおもったことがある。音楽おんがく美学びがくのように哲学てつがくてき抽象ちゅうしょうてき概念がいねん問題もんだいにするよりも、おとくという具体ぐたいてき感覚かんかく体験たいけんのほうからそれをかんがえようとしていたのは、わたし医学部いがくぶせいだったからだろうか。
 機能きのう和声わせい音楽おんがくでは、ソシレのぞく和音わおんつぎにドミソのしゅ和音わおんると、音楽おんがく一段落いちだんらくしたという終結しゅうけつかんされる。ぞく和音わおんにファをくわえてソシレファのぞくなな和音わおんにしてやると、この終結しゅうけつかんはもっと明確めいかくなものになる。これは、シのおと半音はんおんがってドにかおうとし、ファのおと半音はんおんがってミにかおうとする、このふたつのおとのもつつよ方向ほうこうせいのためである。あるおとがそれ自身じしんにとどまろうとせず、みずからを離脱りだつしてべつおともとめようとする、ほとんど生理せいりてきといってよい法則ほうそくてき傾向けいこう、これが機能きのう和声わせい基礎きそになっている。
 平均へいきんりつでどの半音はんおん等間隔とうかんかくならんでいるピアノのような楽器がっきだと、それぞれのおと完全かんぜん均質きんしつされていて、だからこそ転調てんちょうというような技法ぎほう可能かのうになるのだが、そこにひとつの調しらべせいあたえられたとたん、音階おんかいじょうのそれぞれのおとに、おと異質いしつ個性こせいまれる。鍵盤けんばんじょうのすべてのおとは、おとたか以外いがいはまったく均質きんしつであるはずなのに、いったん調しらべせいあたえられると、どのおともそれぞれことなった未来みらい指向しこうせいしめすようになる。
 この個性こせい、たとえばシのド指向しこうせいは、人間にんげん感覚かんかくにとってあらがいがたいもののようである。だからピアノとちがって平均へいきんりつ固定こていされていない弦楽器げんがっき奏者そうしゃだと、シのおと場合ばあい、この指向しこうせい無意識むいしきにひきずられることになり、シをあらかじめドの方向ほうこうせて、つまり平均へいきんりつよりすこたかく、じゅん正調せいちょうちかおとはじこうとする傾向けいこうてくる。モーツァルトはヴァイオリンソナタをくとき、ヴァイオリンのシとピアノのシがなるべくかさならないように注意ちゅういしていたらしい。おとにごらないようにという配慮はいりょからである。
 調しらべせいあたえられるとおと個性こせいをもつようになる。調しらべせいあたえられるというのは、それをめるおとがすでにいくつかこえたということである。つまり、音楽おんがくにその経歴けいれきあたえられたということである。音楽おんがくりはじめると、あらゆるおとみずからの経歴けいれきを、過去かこ想起そうき(アナムネシス)をふくむことになる。過去かこったすべてのおと積分せきぶんとしてっているといってもよい。そしてこのアナムネシスが、現在げんざいおと未来みらい指向しこうせい(プロレプシス)をす。シがドに、ファがミにすすもうとするのは、調しらべせいのアナムネシスそのものがつむ微分びぶんてき方向ほうこうのプロレプシスである。ぞく和音わおんからしゅ和音わおんへの進行しんこうわると、プロレプシスはそこで一段落いちだんらくとなり、さらなる行動こうどうへの要求ようきゅうえて、安定あんていかん終結しゅうけつかんられる。
 生命せいめいてき行動こうどうのアナムネシス・プロレプシス構造こうぞうというのは、ヴァイツゼカーの理論りろんかたるときにかすことのできないかぎ概念がいねんである。人間にんげんかぎらず、あらゆるきものの主体しゅたいてき行動こうどうは、物体ぶったい物理ぶつりてき運動うんどうちがって、「そこから」と「そこへ」の性格せいかくをもっている。それはつねに記憶きおくうらづけられた未来みらい先取せんしゅだとヴァイツゼカーはいう。アナムネシスてき経歴けいれきささえられたプロレプシスてき未来みらい先取さきどりが、そしてそれのみが、主体しゅたい主体性しゅたいせい可能かのうにしている。だから主体しゅたいというものは、つねに現在げんざい最先端さいせんたんでプロレプシスてき未来みらいきているめんと、それまでの過去かこ全部ぜんぶをアナムネシスてききているめんとの、境界きょうかいてき性格せいかくをもつことになる。(中略ちゅうりゃく
 人間にんげん感覚かんかくは、このプロレプシスの意識いしきとアナムネシスの意識いしきとのはざまに「時間じかん」をかんじとる。時間じかんという実在じつざいがあらかじめあたえられていて、われわれがそれを消費しょうひしながらきているのではない。きるということは、行動こうどうかく瞬間しゅんかん過去かこ継承けいしょうしながら未来みらい先取せんしゅすることによって、その界面かいめん時間じかんという現実げんじつつづけることにほかならない。

木村きむらさとしびん音楽おんがく時間じかん」より)