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課題集
長文ちょうぶん 4.1しゅう
長文ちょうぶんふたつある場合ばあい音読おんどく練習れんしゅうはどちらかひとつで。】
 【1】近代きんだい合理ごうり主義しゅぎ精神せいしんは、思考しこう過程かてい、あるいはものをかんがえる過程かていで、さまざまな夾雑きょうざつぶつ余計よけい要素ようそのぞき、いくつかの単純たんじゅん原理げんりにしたがって論理ろんりすすめようとする思考しこうほうをとる。【2】その過程かてい仕掛しかけられる判断はんだん基準きじゅんも、できうるかぎり単純たんじゅんであることがのぞまれる。そして、そのかんがえられる単純たんじゅん原理げんりこそが、ふたつのものからそのいずれかを選択せんたくするという判断はんだん基準きじゅんであった。
 【3】すなわち、しんにせぜんあくみにくしゅうせいなど二者択一にしゃたくいつ論理ろんりこそ、近代きんだい合理ごうり主義しゅぎむねとする判断はんだん方法ほうほうにほかならない。しんなる前提ぜんていからはじまって、しんなる判断はんだんかえしていけば、真理しんり到達とうたつするとかたしんじられたのである。【4】デカルトが、数学すうがくてき方法ほうほう思考しこう方法ほうほうのあるべき姿すがたみとめたのも、伝統でんとうてき数学すうがくがこの真偽しんぎ二者択一にしゃたくいつ方法ほうほう絶対ぜったいてきっていたからだ。
中略ちゅうりゃく
 【5】しかし、真偽しんぎ弁別べんべつかえしていって世界せかい全体ぜんたい判断はんだんたっするという演繹えんえきてき論理ろんりは、世界せかい全体ぜんたい判断はんだん傘下さんかおさめようとするのだから、当然とうぜんのことに、判断はんだん普遍ふへん妥当だとうせい要求ようきゅうすることになる。【6】つまり、ある部分ぶぶんではてはまるが、べつの部分ぶぶんになるとてはまらない理論りろんは、斉一せいいつてき世界せかいぞうもとめる近代きんだい科学かがくてき合理ごうり主義しゅぎのなかでは市民しみんけんることはできないのである。【7】たとえば、科学かがく実践じっせん現場げんばでも、理論りろんにそぐわない実験じっけん結果けっか現象げんしょうあらわれたときに、それらを無視むし捨象しゃしょうしゃしょうして理論りろん斉一せいいつせいまもるということが日常茶飯にちじょうさはんにおこなわれるのである。【8】しかし、そうした例外れいがいぞくする現象げんしょう無視むししえなくなれば、それをむことのできない理論りろんそのものをえる必要ひつようがでてくるわけで、こうして理論りろん転換てんかんがおこなわれるようになる。【9】これが、「科学かがく革命かくめい」あるいは「パラダイム・シフト」とばれる現象げんしょうのひとつである。
 こうした現象げんしょうは、しかし、世界せかいたいする理論りろん普遍ふへん妥当だとうせいという信念しんねんないし確信かくしんにも意識いしき由来ゆらいするものだということがわかる。【0】あらゆる理論りろんは、数学すうがく原理げんりがそうであるように、いついかなるところでもてはまらなくてはならないとかたしんじられてきたのである。そうしたなかで、理論りろん妥当だとうしない例外れいがいてき現象げんしょうは、偶然ぐうぜんてきなもの、あるいは蓋然的がいぜんてきなものとしておとしめられてきたのである。そして、確定かくていせい原理げんり出現しゅつげんられるように、現象げんしょうをもれなく網羅もうら説明せつめいする理論りろん普遍ふへん妥当だとうせいそのものがらぎしてくると、方法ほうほうとしても、もはやかくりつ統計とうけいてき方法ほうほうをとらざるをえなくなってきたのである。つまり、現象げんしょう世界せかいたい人間にんげんがわがなしえるのは、一定いってい法則ほうそく世界せかいしつけることではなく、現象げんしょうのあるがままの姿すがた記述きじゅつすることとかんがえられるようになったわけだ。
 理論りろん法則ほうそく普遍ふへん妥当だとうせいという近代きんだい科学かがく絶対ぜったい主義しゅぎてき傾向けいこうは、相対性理論そうたいせいりろん量子力学りょうしりきがくなどじゅう世紀せいき初頭しょとう相次あいついであらわれるあらたな潮流ちょうりゅうによって、おおいにさぶりをかけられた。これらは、学問がくもん理論りろん世界せかいのなかだけでこったことのようにおもわれているが、そうではない。われわれの日常にちじょう生活せいかつにも、すくなからず影響えいきょうあたえているのだ。影響えいきょうあたえているというよりは、むしろ、おなおおきなながれが、理論りろんてき世界せかいにも、また日常にちじょう生活せいかつにもあらわれているというべきなのだろう。
 とにかく、「すべての……は……である」といった論理ろんりがくぜんしょう判断はんだんのようなものにられる、普遍ふへんせいへの意識いしきをもった思考しこうほうは、意識いしき昂揚こうようし、多様たようせい横溢おういつするようになった社会しゃかいてき意識いしき日常にちじょう生活せいかつのレベルにおいては、もはや妥当だとうせいうしないつつあるとかんがえるべきだろう。

山本やまもと雅男まさお『ヨーロッパ「近代きんだい」の終焉しゅうえん』より)
 【1】野球やきゅうで「ねんのジンクス」ということがよくわれる。いちねん好成績こうせいせきのこしたのに、ねんはさっぱりダメという場合ばあいである。イチローのような特段とくだんすぐれた選手せんしゅ例外れいがいで、ほとんどがなみ実力じつりょくぬしだから、いちねん誤差ごさでたまたまいい成績せいせきとなっただけで、ねんからは平均へいきんもどったとかんがえたほうただしいだろう。【2】にもかかわらず、スウィングがわるい、モーションがわるいと指摘してきされ、自分じぶんもそうではないかとおもんでフォームをくずしてしまい、結局けっきょく大成たいせいしなかった選手せんしゅおおくいる。すう年間ねんかん実力じつりょく見極みきわめる度量どりょうしいものである。

 【3】以上いじょう判断はんだんかく過程かていにおけるエラーについてべてきたが、それらに共通きょうつうする心理しんり整理せいりしておこう。
 まず、「認知にんちてき節約せつやく原理げんり」がある。かぎられた情報じょうほうからけた部分ぶぶん経験けいけん先入観せんにゅうかん単純たんじゅん類推るいすいによっておぎない、効率こうりつよく事態じたい処理しょりしようとする心理しんりのことだ。【4】本人ほんにんにとって負担ふたんすくない思考しこうほうだが、そこにエラーがしょうじてしまうのだ。
 つづいて、「認知にんちてき保守ほしゅせい原理げんり」をげよう。すでにっているスキーマをたも維持いじしようとする傾向けいこうで、反証はんしょう無視むししたり、無理むりにでも自分じぶんの描像にわせてしまう心理しんりである。【5】自分じぶん一貫いっかんしたかんがかたをしていると自認じにんできるので心理しんりてき安定あんていかんられることになる。だからこそあいだちがいやすいともえる。自分じぶん安心あんしんできる思考しこうほうでつい安住あんじゅうしてしまうからだ。
 【6】もうひとつは、「主観しゅかんてき確証かくしょう原理げんり」で、どちらともつかない証拠しょうこだけでなくあきらかな反証はんしょうであっても、自分じぶん予期よき積極せっきょくてき支持しじしていると勝手かって解釈かいしゃくする心理しんり傾向けいこうである。「いやよいやよもきのうち」と身勝手みがっておもんでセクシュアルハラスメントにおよ人間にんげんがその典型てんけいえる。【7】自分じぶん身勝手みがってさにづかず、すべ他人たにんのせいにして安閑あんかんとしているひとにおにかかることがおおいのはこのためだろう。被疑ひぎしゃたいして状況じょうきょう証拠しょうこしかつかっていないのに犯人はんにんめつけ、すべてその仮定かていした解釈かいしゃくしたがるれいもある。【8】犯人はんにんつかっていないと不安ふあんだが、強引ごういんにでもめつけてしまえば安心あんしんするのだ。(はや安心あんしんしたいという気持きもちそこひそんでいることもある。)この心理しんりには、思考しこう経済けいざいせい一貫いっかんせいなどもからっている。こうなるともはや自省じせいする気持きもちうしなってしまう。
 【9】さらにくわえるとすれば、「偶然ぐうぜんせい拒否きょひしたい心理しんり」、いいかえれば「確固かっことした因果いんが関係かんけいとして説明せつめいしたい心理しんり」もある。偶然ぐうぜんこったことであっても必然ひつぜんだとおもみ、それをきちんとした因果いんが関係かんけい説明せつめいしようとすると科学かがくてき理由りゆうつからず、ついにちょうつねてき現象げんしょうだとかんがえてしまうケースである。【0】予知よちゆめがテレパシーしかないと解釈かいしゃくし、たまたまたったのを透視とうしできたとり、そのまましんんでしまうのだ。認知にんちてきエラーを自覚じかくしないひとほど、自分じぶん体験たいけん絶対ぜったいしてしん傾向けいこうつよい。「しょせん、体験たいけんしたことがないひとにはわからない」として、他人たにん意見いけん忠告ちゅうこくれなくなってしまうのだ。そして、自分じぶん意見いけん強調きょうちょうすればするほどその信念しんねんはいっそうつよくなっていき、もはや後戻あともどりが不可能ふかのうになる。
 むろん、人間にんげん認知にんちエラーがおおいとっても、わたしたちは日常にちじょう生活せいかつにおいておおきな支障ししょうなしにきている。それを無意識むいしきのうちに矯正きょうせいしたり、またはおおきな問題もんだいこらないのでづかないままやりごしている。ときには認知にんちエラーが人間にんげん生存せいぞんにプラスにはたらいていることもあるとっておくべきだろう。あまりににしぎると神経症しんけいしょうむことになりかねないからだ。
 ただ、突発とっぱつてき事件じけんこって即座そくざ判断はんだんせまられたり、すぐに合理ごうりてき解釈かいしゃくができない事象じしょう遭遇そうぐうしたりしたとき、認知にんち過程かていにはあやまりがおおいことを自覚じかくして、自分じぶん推論すいろん絶対ぜったいしないことが肝腎かんじんなのである。それは疑似ぎじ科学かがくだまされていないかみずからを点検てんけんすることにもつうじるからだ。

池内いけうちりょう疑似ぎじ科学かがく入門にゅうもん』による)


長文ちょうぶん 4.2しゅう
 【1】さてじゅうきゅう世紀せいき進行しんこうのうちに、自然しぜん科学かがくがものすごいいきおいで発達はったつし、社会しゃかいのあらゆるものをこれがうごかすこととなるにつれて、科学かがく精神せいしん歴史れきしをもとらえずにはおかなかったのであります。そして歴史れきし歴史れきし科学かがくばれることになります。【2】近代きんだい科学かがく開祖かいそであるデカルトは、歴史れきしをあまり重視じゅうししなかった。それは近代きんだい科学かがく歴史れきしてき制約せいやくそと純粋じゅんすい発展はってんさせるために必要ひつよう態度たいどであったのですが、ここでは人間にんげん知識ちしきないし思想しそうふたつにはっきりかたれ、一方いっぽう厳密げんみつ自然しぜん科学かがくがあり、他方たほう文学ぶんがくがあって歴史れきし後者こうしゃなかれられていたのであります。【3】ところが、その歴史れきし歴史れきし科学かがくした文学ぶんがく世界せかいから科学かがく世界せかいうつるのであります。そこでは歴史れきしはもはや過去かこ再現さいげんではなく、一定いってい法則ほうそくによる過去かこ理論りろんてき構成こうせいであろうとし、また、自然しぜん科学かがくがだんだんこまかい分野ぶんやかれるとおなじように、歴史れきしなに、さらになに々におけるなに々の研究けんきゅうというふうに細分さいぶんされる。【4】その各々おのおの全体ぜんたいをとらええぬかもしれぬが、それぞれの研究けんきゅう成果せいか客観きゃっかんてき真理しんりであるから、あたかも自然しぜん科学かがくにおける一々いちいち発見はっけんのように、からるものはそれをだいとしてさきすすむことができる。かくして蓄積ちくせきされた厳密げんみつ史料しりょうによってぜん歴史れきしがいつか構成こうせいされて成立せいりつする、というふうに楽観らっかんてきかんがえられたのだとおもいます。【5】そしてそうした科学かがくてき歴史れきし個人こじんというものの価値かち社会しゃかいなか埋没まいぼつさせる傾向けいこうしょうじました。自然しぜん科学かがくではありとかおおかみとかの発生はっせい進化しんか環境かんきょうそくして研究けんきゅうするが、ありおおかみ心理しんり個性こせい(もしそういうものがあるとしたらのはなしですが)を黙殺もくさつする。【6】そうした科学かがくをモデルとする以上いじょう歴史れきしにおける個人こじん軽視けいしということは当然とうぜんであったといえます。
 ところで、歴史れきし自然しぜん科学かがくしゃのように自我じがころして、自分じぶん歴史れきしてき世界せかいきる人間にんげんであることをわすって、歴史れきし研究けんきゅう記述きじゅつすることがたしてできるかどうか。【7】細部さいぶについては、それは可能かのうでありましょう。たとえば、関ケ原せきがはらたたかいに家康いえやすがどこからかえして、どこでなんにち滞在たいざいし、なんにちかかって戦場せんじょういたかというようなことは古文書こもんじょこもんじょそのによって、厳密げんみつ決定けっていすることができ、またまんいち不正確ふせいかくてんがあれば訂正ていせいもできます。【8】しかし、じつはそういう仕事しごと考証こうしょう仕事しごと歴史れきしではない。そういうデータが無限むげんあつまればおのずと歴史れきし出来できのぼるのではないのです。歴史れきしはそれらをあつめて歴史れきしくのですが、関ケ原せきがはらやく意義いぎかんがえるにはそのたね世界せかいかんがなくてはできず、つまり、史料しりょう統一とういつには史観しかんというのがなければ成立せいりつしません。【9】そうすればかならずそこに歴史れきし主観しゅかんてくるので、もしもまったく純粋じゅんすい精神せいしんというようなものの持主もちぬしがあったとしたら、歴史れきしなどかない、またけもしないだろうとおもわれます。そもそも歴史れきし事実じじつ選択せんたくないしとらえかたにも、その歴史れきし史観しかんはたらくのであります。【0】もちろん、愛国心あいこくしん作用さようされたり、伝統でんとう文化ぶんか偏愛へんあいしたりして、その史観しかんなにほどかくもるといったこともこりえましょう。しかし、こういうことはけがたいことで、もしこれをおそれていたならばデータの採集さいしゅうないしちいさな特殊とくしゅ研究けんきゅう以外いがいられないことになります。クローチェは、歴史れきし主観しゅかんおさえることは、いわば禁欲きんよくであって不能ふのうであってはならぬといいましたが、あじわうべき言葉ことばだとおもいます。学問がくもんとは冷静れいせいな、計量けいりょうされた冒険ぼうけんなのであります。
 こうした素朴そぼく客観きゃっかん主義しゅぎ歴史れきしかん根底こんていからうごかしたのは、最近さいきん物理ぶつりがく歴史れきしがモデルとした自然しぜん科学かがくそのものの基本きほんをなす物理ぶつりがく進歩しんぽであって、その物理ぶつりがく素朴そぼく客観きゃっかん主義しゅぎないし決定けっていろんてねばならなくなったことであります。対象たいしょう研究けんきゅうしゃがたんに自我じがころして私的してきればえるようなものではなくて、研究けんきゅうしゃがそこに操作そうさくわえることによってはじめてとらえられるものである、とされるのであって、「研究けんきゅうしゃかれ研究けんきゅうするところのプロセスのなかる」、そしてこのことは自然しぜん科学かがく研究けんきゅうについても歴史れきし研究けんきゅうについてもともただしい、とエドガー・ヴィントはいっています。だからディルタイのいうように、歴史れきし自己じこ脱却だっきゃくし、あらゆる時代じだい合一ごういつするようなことは可能かのうで、もしそんなふうに現在げんざいから脱却だっきゃくしうる純粋じゅんすい精神せいしんというようなものがあったら、その精神せいしん歴史れきしをとらえようとはしないでありましょう。このてん、ヴァレリーの言葉ことば意味いみふかまれます。「歴史れきししん性格せいかく歴史れきし自体じたい参与さんよするということである。過去かこ観念かんねんひとつの意味いみち、またひとつの価値かち形成けいせいするのは、自分じぶんのうちに未来みらいへの情熱じょうねつ見出みいだ人間にんげんにとってのみである。」

桑原くわばら武夫たけお歴史れきし文学ぶんがく」による)


長文ちょうぶん 4.3しゅう
 【1】分析ぶんせきとはそとから立場たちばです。というよりも、そとからものを方法ほうほうとして、分析ぶんせきという仕方しかたまれたのです。(中略ちゅうりゃく
 分析ぶんせきてき方法ほうほう確立かくりつしゃともえるデカルトは「研究けんきゅうしようとする問題もんだいのおのおのを出来できかぎりの、そうして、それをもっともよく解決かいけつするために要求ようきゅうされるかぎりの、部分ぶぶんけること」とっております。【2】そうして、それこそ、対象たいしょう、あるいは問題もんだい要素ようそわれるものなのです。その意味いみで、分析ぶんせきとは要素ようそへの還元かんげんであるともわれるのです。
 たとえば、みず水素すいそ酸素さんそからなるという場合ばあいみずはたしかに水素すいそとか酸素さんそとかわたしたちづけるものからっているのでありますが、【3】わたしたちはそのもの自体じたいるのではなく、水素すいそとか酸素さんそとかづけることによって、それを理解りかいするのです。もちろん、それは水素すいそとか酸素さんそとかいう言葉ことばしめされるとはかぎらず、ドルトンがおこなったように、【4】すべての原子げんししろまるとかくろまるとか、なかせんいたまるとか中心ちゅうしん黒点こくてんれたまるとかいった図形ずけいてき記号きごうしめすことも出来できますし、さらにOとかCとかNとかHとかいういわゆる化学かがく記号きごうもちいることも出来できます。【5】そうして、科学かがく記号きごうとしては、一切いっさい数学すうがくてき記号きごうしめされるのが理想りそうでありましょう。が、ともかくいわゆる物質ぶっしつ要素ようそも、分析ぶんせきてき認識にんしきとしては記号きごうてき認識にんしき以上いじょうにはないのです。もっとも、ここにはさらにつぎのような疑問ぎもんおこるかもれません。【6】それは、水素すいそ酸素さんそなどの原子げんしではまだ最後さいご要素ようそではないとしても、その原子げんし原子核げんしかく電子でんしにわけ、さらにかく陽子ようしとか中性子ちゅうせいしとか中間子ちゅうかんしとかにけてゆけば最後さいごにはしん物質ぶっしつてき要素ようそ到達とうたつするのではないかという疑問ぎもんです。【7】しかし、物質ぶっしつ成分せいぶんをどんなにちいさく分割ぶんかつしていっても問題もんだいすこしもかわりません。というのは、認識にんしき対象たいしょうそとにあるかぎり、いいかえれば、そとからものをながめるかぎり、やはりそれをとらえるためには、立場たちば記号きごう必要ひつようであるということにはわりはないからです。【8】むしろ、いまべたような極微きょくび世界せかいでは、それをるのはもはや、日常にちじょうてき感覚かんかく知性ちせいでは不十分ふじゅうぶんで、数学すうがくてき表現ひょうげんのみがそれを正確せいかくあらわしうるのであることをおもとき分析ぶんせきてき認識にんしき記号きごうてき認識にんしきであるということは、一層いっそうあきらかとなるのです。
 【9】以上いじょうはなししましたことによって、分析ぶんせきするとは対象たいしょう記号きごうとしての要素ようそにわけることであることはあきらかになったとおもいますが、そこで注意ちゅういしなければなりませんことは、その分析ぶんせき要素ようそとは、たんにその対象たいしょうだけにあるものではなく、おおくのものにある一般いっぱんてき要素ようそであるということです。【0】たとえば、水素すいそ酸素さんそみずにだけふくまれているものではなく、アルコールにも、空気くうきなかにもあるのです。ということは、つまり、分析ぶんせきするとは、特殊とくしゅなものを一般いっぱんてきなもので理解りかいするということなのです。そうして、それは、ぎゃくえば、もしユニークなもの、唯一ゆいいつ独自どくじなものがあるとすれば、そのようなものは、分析ぶんせき出来できないということなのです。――このことは、うごきと分析ぶんせきについてもえることで、刻々こっこく変化へんかするものは分析ぶんせき出来できないものなのです。なぜかといますと、分析ぶんせきするとは要素ようそつまり、単位たんいけることでありますが、単位たんいとは、それが不変ふへんなものわらないものであればこそ単位たんいえるのですが、対象たいしょう刻々こっこくかわっているとすれば、それらすべてに共通きょうつう単位たんいというものはりえないのです。もし、一刻いっこくやすみもなくわっているものをなんらかの記号きごうしめそうとするなら、ぎゃくにその記号きごう次々つぎつぎわらなければならない。それは単位たんいわるということである。しかし、それでは、それはもはや単位たんいではありません。
 このようにかんがえてきますと、分析ぶんせきという認識にんしき方法ほうほうは、すべての対象たいしょう適用てきよう出来できるものではないことがあきらかとなります。まった個性こせいてきな、絶対ぜったいのものによってえられない唯一ゆいいつ独自どくじな、オリジナルなものと、刻々こっこくあらたになるもの、すなわちただしい意味いみの「時間じかん」の認識にんしきには、分析ぶんせきてき方法ほうほう適用てきよう出来できないのです。

澤瀉おもだかひさけいおもだかひさゆき哲学てつがく科学かがく」)


長文ちょうぶん 4.4しゅう
長文ちょうぶんふたつある場合ばあい読解どっかい問題もんだいよう長文ちょうぶんいち番目ばんめ長文ちょうぶんです。】
 【1】経済けいざいがくちちアダム・スミスはこうべています。「通常つうじょう個人こじん自分じぶん安全あんぜん利得りとくだけを意図いとしている。だが、かれえざるみちびかれて、自分じぶん意図いとしなかった公共こうきょう目的もくてき促進そくしんすることになる」。【2】ここでスミスが「えざる」とんだのは、資本しほん主義しゅぎりっする市場いちば機構きこうのことです。資本しほん主義しゅぎ社会しゃかいにおいては、自己じこ利益りえき追求ついきゅうこそが社会しゃかい全体ぜんたい利益りえき増進ぞうしんするのだとっているのです。
 【3】経済けいざい学者がくしゃの「悪魔あくま」ぶりがもっとも顕著けんちょ発揮はっきされるのは、環境かんきょう問題もんだいかんしてでしょう。おおくのひとにとって、資本しほん主義しゅぎ前提ぜんていとする私的してき所有しょゆうせいこそ諸悪しょあく根源こんげんです。環境かんきょう破壊はかいとは、私的してき所有しょゆうせいしたでの個人こじん企業きぎょう自己じこ利益りえき追求ついきゅうによってこされるとおもっているはずです。
 【4】だが、経済けいざい学者がくしゃはそのような常識じょうしきさかなでします。私的してき所有しょゆうせいとは、まさに環境かんきょう問題もんだい解決かいけつするために導入どうにゅうされた制度せいどだとうのです。
 【5】『かつて人類じんるいだれのものでもない草原そうげん自由じゆう家畜かちく放牧ほうぼくしていました。家畜かちくいちとうやせば、それだけおおにくかわやミルクがとれます。草原そうげんだれのものでもないので、家畜かちくべる牧草ぼくそうはタダです。【6】たしかにいちとうえれば家畜かちくべる牧草ぼくそうり、その発育はついく影響えいきょうしますが、自由じゆう放牧ほうぼくされている家畜かちくなか自分じぶん家畜かちくめる割合わりあい微々びびたるものです。それゆえ、人々ひとびと草原そうげん牧草ぼくそうがあるかぎり、自分じぶん家畜かちくやしていくことになります。【7】その結果けっか牧草ぼくそう次第しだい枯渇こかつし、いつの無数むすうせこけた家畜かちくがわずかにのこされた牧草ぼくそうもとめてあらそ事態じたい到来とうらいすることになるとうのです。』
 【8】これこそ「元祖がんそ環境かんきょう問題もんだいです。そして経済けいざい学者がくしゃは、それは、自然しぜんのままの草原そうげんだれ所有しょゆうでもない共有きょうゆうであるがゆえの悲劇ひげきであると主張しゅちょうします。【9】環境かんきょう問題もんだいとは「共有きょうゆう悲劇ひげき」だとうのです。
 『事実じじつもし草原そうげん分割ぶんかつされ、そのいちかく牧場ぼくじょうとして所有しょゆうするようになると、そのなか家畜かちくはすべて「自分じぶんの」家畜かちくとなります。【0】そのときさらにいちとううかどうかは、そのいちとうあらたに牧草ぼくそうべることによって、牧場ぼくじょうないほか家畜かちく発育はついくがどれだけ影響えいきょうけるかを勘案かんあんしてめるようになるはずです。もはや牧草ぼくそうはタダではありません。他人たにん牧場ぼくじょうしたりったりするときでも、そのなか牧草ぼくそう価値かちおうじた賃料ちんりょう価格かかく請求せいきゅうするようになるはずです。牧草ぼくそう合理ごうりてき管理かんりされ、共有きょうゆう悲劇ひげきからすくわれることになります。私的してき所有しょゆうせいしたでの自己じこ利益りえき追求ついきゅうこそが環境かんきょう破壊はかい防止ぼうしすることになるとうわけです。」
 「悪魔あくま」の一員いちいんだけあって、経済けいざい学者がくしゃ論理ろんり完璧かんぺきです(わたし自身じしんこの論理ろんりさんじゅう年間ねんかんおしえてきました)。実際じっさいいちきゅうきゅうななねん地球ちきゅう温暖おんだん防止ぼうしかんする京都きょうと議定ぎていしょは、この論理ろんりれました。先進せんしん諸国しょこく温暖おんだんガスの排出はいしゅつわく権利けんりとしてあてて、その過不足かふそく売買ばいばいすることを条件じょうけんきでゆるしたのです。
 ここでは温暖おんだんガスが汚染おせんする大気たいき家畜かちくらす牧草ぼくそう対応たいおうし、各国かっこく売買ばいばいしうる排出はいしゅつわく牧畜ぼくちく所有しょゆうする牧場ぼくじょう対応たいおうしています。すなわち、それは大気たいきという自然しぜん環境かんきょう一種いっしゅ所有しょゆうけん設定せっていすることによって、それが共有きょうゆうであるかぎ進行しんこうしていく温暖おんだんという悲劇ひげき解決かいけつしようとしているのです。
 では、これで環境かんきょう問題もんだいはすべてめでたく解決かいけつするのでしょうか?
 こたえは「いな」です。わが人類じんるい不幸ふこうにも、経済けいざい学者がくしゃ論理ろんり作動さどうしえない共有きょうゆうかかえているのです。
 それは「未来みらい世代せだい」の環境かんきょうです。

岩井いわい克人かつと未来みらい世代せだいへの責任せきにん――経済けいざいがくの「論理ろんり」と環境かんきょう問題もんだいの「倫理りんり」――」による)
 【1】わたしは『牡丹ぼたん灯籠とうろうどうろう』の速記そっきほん近所きんじょひとからりてんだ。その当時とうじ、わたしはじゅうさんよんさいであったが、いちへん眼目がんもくとする牡丹ぼたん灯籠とうろうどうろう怪談かいだんけんんでも、さのみにこわいともかんじなかった。どうしてこのはなしがそんなに有名ゆうめいであるのかと、いささか不思議ふしぎにもおもであった。【2】それから半年はんとしほどののち円朝えんちょう近所きんじょ麹町こうじまち山元やまもとまち)の万長つむながちんていという寄席よせて、かれの『牡丹ぼたん灯籠とうろうどうろう』を口演こうえんするというので、わたしはその怪談かいだんよるえらんできにった。つくごとのようであるが、あたかもそのよる初秋しょしゅうあめ昼間ひるまからりつづいて、怪談かいだんくにはまったくおあつらきのよいであった。
【3】「おまえ怪談かいだんきにくのかえ」と、ははおどすようにいった。
「なに、牡丹ぼたん灯籠とうろうどうろうなんかこわくありませんよ。」
 速記そっき活版かっぱんほんでたかをくくっていたわたしは、平気へいき威張いばってった。ところが、いけない。【4】円朝えんちょうがいよいよ高座こうざにあらわれて、燭台しょくだいまえでその怪談かいだんはなはじめると、わたしはだんだんに一種いっしゅ妖気ようきかんじてた。満場まんじょう聴衆ちょうしゅうはみないきえんんできすましている。ばんぞうとその女房にょうぼう対話たいわ進行しんこうするにしたがって、わたしの頸のあたりはなんだかつめたくなってた。【5】周囲しゅうい大勢おおぜい聴衆ちょうしゅうがぎっしりとめかけているにもかかわらず、わたしはこのはなし舞台ぶたいとなっている根津ねづのあたりのくらちいさい古家こやのなかにすわって、自分じぶんひとりで怪談かいだんかされているようにおもわれて、ときどきに左右さゆう見返みかえった。今日きょうちがって、そのころ寄席よせはランプのくらい。【6】高座こうざ蝋燭ろうそくろうそく薄暗うすぐらい。そとにはあめおとこえる。それらのことも怪談かいだん気分きぶんつくるべく恰好かっこう条件じょうけんになっていたには相違そういないが、いずれにしてもわたしがこの怪談かいだんにおびやかされたのは事実じじつで、せきの刎ねたのはじゅうごろあめはまだりしきっている。わたしくら夜道よみちげるようにかえった。
 【7】このときに、わたしえんあさ話術わじゅつみょうということをつくづくさとった。速記そっきほんまされては、それほどにすごくもこわおそろしくもかんじられない怪談かいだんが、高座こうざされてえんあさくちのぼると、ひとを悸えさせるような凄味すごみびてるのは、じつえらいものだと感服かんぷくした。【8】欧化おうか主義しゅぎ全盛ぜんせい時代じだいで、いわゆる文明開化ぶんめいかいかかぜさかんにまくくっている。学校がっこうかよ生徒せいとなどは、もちろん怪談かいだんのたぐいをしんじないように教育きょういくされている。【9】その時代じだいにこの怪談かいだんものにして、東京とうきょうちゅう人気にんきほとん独占どくせんしていたのは、こわものたさきたさが人間にんげん本能ほんのうであるとはいえ、たしかにえんあさ技倆ぎりょうるものであると、いまでもわたししんじている。【0】(中略ちゅうりゃく
 まえにもいうとおり、話術わじゅつみょうをここにくことは出来できないが、たとえばかのこうすけ主人しゅじんわらわめかけくにみつおっと源次郎げんじろうこうとして、あやまって主人しゅじん飯島いいじま平左衛門へいざえもんきずつけ、それから屋敷やしきをぬけして、将来しょうらいしゅうとたるべき相川あいかわ新五しんご兵衛ひょうえ屋敷やしきけてうったえるけんなど、その前半ぜんはん今晩こんばんやまであるから面白おもしろいに相違そういないが、後半こうはん相川あいかわ屋敷やしきたんすじるにぎないであまり面白おもしろくもないところである。速記そっきほんなどでめば、軽々けいけいごされてしまうところである。ところが、それを高座こうざかされると、いきもつけぬほどに面白おもしろい。こうすけあやまって主人しゅじんいたというはなしき、相手あいてしん兵衛ひょうえぎしりして「なぜ源次郎げんじろう……とこえをかけてかないのだ」としかる。文字もじけばただいちであるが、その一句いっくのうちに、一方いっぽうには一大事いちだいじ出来できしゅったいおどろき、一方いっぽうにはこうすけ不注意ふちゅういめ、また一方いっぽうにはこうすけあいしているという、さんよう意味いみがはっきりとあらわれて、新五しんご兵衛ひょうえというろう武士ぶし風貌ふうぼう躍如やくじょたらしめるところなど、そのいきたくみさ、いまわたしみみのこっている。だん十郎じゅうろうもうまい、菊五郎きくごろうもうまい。しかも俳優はいゆうはそのひとらしい扮装ふんそうをして、そのらしい舞台ぶたいってえんじるのであるが、円朝えんちょうたんおうぎ一本いっぽんをもって、その情景じょうけいをこれほどに活動かつどうさせるのであるから、じつ話術わじゅつみょうくしたものといってよい。名人めいじんはおそるべきである。

岡本おかもと綺堂きどう岡本おかもと綺堂きどう随筆ずいひつしゅう』による)


長文ちょうぶん 5.1しゅう
いち番目ばんめ長文ちょうぶん暗唱あんしょうよう長文ちょうぶんで、番目ばんめ長文ちょうぶん課題かだい長文ちょうぶんです。】
 【1】ハマーショルドの日記にっきはきわめて特異とくいである。国連こくれん事務じむ総長そうちょうという要職ようしょくにあったひとの、またその職責しょくせきにひたむきに献身けんしんしていたひとになるものでありながら、職務しょくむにかかわる記述きじゅついちぎょうとしてない。【2】それをんだだけで職業しょくぎょうをいいあてるのは、おそらく不可能ふかのうだろう。世俗せぞくてき属性ぞくせいだけではなく、時間じかん空間くうかんもすべて超越ちょうえつしているかにえる。時折ときおりあらわれる日付ひづけさえ、この印象いんしょうぬぐりはしない。【3】それはそうだろう。この日記にっきかれと「かみとのかかわりいにかんする白書はくしょのようなもの」(友人ゆうじんのレイフ・ベルフラーゲあて遺書いしょ)なのだから。
 【4】かみとの対話たいわ透徹とうてつした自己じこ省察せいさつとなる。もしかみ視線しせん自分じぶん照射しょうしゃされたならあかるみにされるのはなにか、それをはかくすとでもうかのように、ハマーショルドは自分じぶんよわさと卑小ひしょうさをつめつづけた。【5】「それからをそらしたなら、たちまち自分じぶん行動こうどう誠実せいじつさをおびやかすことになるから」(いちきゅうななねんよんがつななにち)である。傲慢ごうまんさや自己じこ憐憫れんびん怯懦きょうだるにらぬ自尊心じそんしん徹底的てっていてき排除はいじょした。【6】かれにとって誠実せいじつせいいとなみとは、存在そんざいにまつわるそれらの夾雑きょうざつぶつをぎりぎりまでとすことだった。日記にっきちゅう引用いんようされているつぎ文章ぶんしょうが、そうしたかれ思考しこうをあますところなくつたえている。
 【7】大地だいちおもみをかけぬこと。悲愴ひそう口調くちょうでさらにたかくとさけぶのは無用むようである。ただ、これだけでよい。
 ――大地だいちおもみをかけぬこと。(いちきゅういちねん日付ひづけ不明ふめい
【8】「大地だいちおもみをかけぬこと」とは、いかえれば自己じこ放棄ほうきつまりおのれをむなしくすることを意味いみする。この自己じこ放棄ほうき(ないしは自己じこ滅却めっきゃく)という言葉ことばはしばしば日記にっきなかもちいられており、ハマーショルドの思想しそうてき中心ちゅうしんてんひとつだとってよい。【9】それは夾雑きょうざつぶつまどわされたり、自分じぶん自身じしんにのみ拘泥こうでいしたりせぬことである。こうしてかれは、精神せいしんたかみに飛翔ひしょうする瞬間しゅんかんのために準備じゅんびつづけた。【0】まさにたましい彫琢ちょうたくとでもぶほかはない。
 なにがこれほどまでに、かれたましい彫琢ちょうたくてたのだろうか。このひとの「あこがれ」はなにであったのか。ここでわたしたちは、「よきのための成熟せいじゅく」というひとつのこたえに出会であう。
はおまえからなまささげる決定的けっていてき贈物おくりものたるべきであり、なまたいする裏切うらぎりであってはならない」(いちきゅういちねん日付ひづけ不明ふめい)、そうかれ自分じぶんかたりかけている。そこにられるのは、漠然ばくぜんとしたへの恐怖きょうふなどではなく、躍動やくどうするなまいとなみのてに積極せっきょくてきむかれようという、確固かっこたる姿勢しせいである。みずからいのちたいあきらめでもなければ、他人たにんせいみしだく傲慢ごうまんさでもない。
 を「なまたいする贈物おくりもの」にすべくかれもとめてやまなかったのは、「成熟せいじゅく」ということだった。いちきゅうさんねんよんがつななにち国連こくれん事務じむ総長そうちょう就任しゅうにんした日記にっきには、くりがえしそれへの渇望かつぼうかれている。たとえば、「成熟せいじゅく――なかんずく、子供こども仲間なかまあそんでいるときのように、現在げんざい瞬間しゅんかんあかるくんだ無心むしんさであそび、仲間なかましんがひとつになりきってかげひとつささぬ境地きょうち」。あそびほうける幼子おさなごとのむすびつけが意表いひょうくが、この「無心むしんさ」が、じつ自己じこ滅却めっきゃくおなじものであるとかんがえるならさほど不思議ふしぎはない。こうしてかれは、国連こくれん事務じむ総長そうちょうという、「世界せかいもっと不可能ふかのう仕事しごと」(初代しょだい事務じむ総長そうちょうT・リー)を、気負きおいものぼるたかぶりもせずに、成熟せいじゅく自己じこ滅却めっきゃくという自分じぶん自身じしん原則げんそくしずかにさい確認かくにんすることだけではじめたのだった。

最上さいじょう敏樹としき国境こっきょうなき平和へいわに』による)
 【1】げきは、つねに宗教しゅうきょうてきのうちに、その起原きげんいている。ギリシアげきにおいては、そのことが明瞭めいりょう看取かんしゅされる。その宗教しゅうきょうてき背景はいけいが、シェイクスピアげきでは、一見いっけんうしなわれているかのようにえるのだ。(中略ちゅうりゃく
 【2】もちろん、かれの詩的してき天才てんさいうたがうものはいない。またやや通俗つうぞくてきではあるが、その作品さくひん劇的げきてき効果こうか否定ひていしえない。それにしても、近代きんだいてき合理ごうり主義しゅぎからいえば、かれのさくげきじゅつは、あまりにも粗雑そざつにすぎ、実証じっしょうてき写実しゃじつ主義しゅぎからいえば、心理しんりてきリアリティをいている。【3】その精神せいしん思想しそうにいたっては、わたしたちはシェイクスピアのなかにいち人間にんげんである作者さくしゃぞうをみとめることができない。つまり、かれは近代きんだいてき意味いみにおける芸術げいじゅつではない。ひとびとはいうであろう、ハムレットやリアの主張しゅちょうみとることができても、作者さくしゃ主張しゅちょうはどこにもみとれない。作者さくしゃはどこにいるのか、と。
 【4】そういうひとたちに、わたしこたえる。すでにいったように、わたし個人こじん主張しゅちょうなどというものに、もはやなんの興味きょうみかんじない。個性こせい心理しんりの、いかに微細びさい分析ぶんせきも、いまのわたしにはなんら新鮮しんせんな、驚異きょういよろこびをあたえない。【5】すべてはわかりきったことだ。それらはぶし開花かいかする路傍ろぼうはなほどにも、わたしかぬであろう。が、作者さくしゃ思想しそう現実げんじつ分析ぶんせきとがなくして、現代げんだい文学ぶんがくはなりたたぬ。問題もんだいは、それが路傍ろぼうはなにどうみちつうじているかである。【6】わたしばかりではあるまい。わたしたちがもとめるのは博物学はくぶつがくでも博物学はくぶつがくしゃでもなく、きたはななのではないか。シェイクスピアからわたしたちがけとるものは、作者さくしゃ精神せいしんでもなければ、主人公しゅじんこうたちの主張しゅちょうでもない。【7】シェイクスピアはわたしたちになにかをあたえようとしているのではなく、ひとつの世界せかいわたしたちをまねれようとしているのである。それが、げきというものなのだ。それが、人間にんげんせいきかたというものなのだ。
 【8】宗教しゅうきょうてきは、つねにそのことを目的もくてきとしていた。ることをゆるされた特定とくていのひとたちを、眼前がんぜんに「おこなわれていること」の世界せかいきずりこむのが目的もくてきである。いわば路傍ろぼうはなわたしたちをぶしのなかにきずりこむように、奥儀おうぎおうぎ啓示けいじされるのである。(中略ちゅうりゃく)【9】サルトルが「嘔吐おうと」のなかでおんなにいわせている「完璧かんぺき瞬間しゅんかん」というのも、じつはそういうものを背景はいけいにしなければりたたぬのである。対象たいしょうとのあいだに、違和感いわかんず、自己じこ対象たいしょう部分ぶぶんのままでありながら、全体ぜんたいいだきかかえられている瞬間しゅんかん、それをおんなほっした。そして失敗しっぱいした。【0】相手あいておとこ協力きょうりょくしなかったからである。ということは、おんなおとこのまえで、路傍ろぼうはなにたいするようにすなおに自分じぶん違和感いわかんてさることができなかったということだ。のみならず、おんな相手あいてにそれをてることをもとめていたのである。いいかえれば、自分じぶん主役しゅやくえんじうるように、相手あいてがふるまうことを期待きたいしていたのである。もし、個人こじんが、個人こじん全体ぜんたいせいつくりあげようとすれば、自分じぶんがその中心ちゅうしんになり、相手あいて自分じぶんのまえにひざまずかせるまでは、とどまることをらぬのである。「嘔吐おうと」のなかのおんなは、たとえ受身うけみ端役はやくにおいても、主役しゅやく批判ひはん制御せいぎょしようとしているではないか。
 対象たいしょう路傍ろぼうはなにかぎれば、それは逃避とうひにしかならぬ。が、自然しぜんのみを対象たいしょうとすることも、今日きょうではすでに逃避とうひである。天災てんさいたたかおうとする科学かがくは、わたしたちの自然しぜんにたいする支配しはいよくあらわれかもしれぬが、そのうらで、もしわたしたちが自然しぜんとの調和ちょうわだけをこころがけるとしたなら、やはりそれは逃避とうひであろう。同様どうように、階級かいきゅう戦争せんそうあく根絶こんぜつしようとするこころみも、わたしたちのあいだにあっては、容易ようい逃避とうひ転化てんかしうるのだ。

福田ふくだひさしそん人間にんげん・この劇的げきてきなるもの」)


長文ちょうぶん 5.2しゅう
 【1】就業しゅうぎょう人口じんこう半分はんぶん以上いじょう従事じゅうじする産業さんぎょう時代じだい代表だいひょうさせ、社会しゃかい発展はってん段階だんかい狩猟しゅりょう社会しゃかい農業のうぎょう社会しゃかい工業こうぎょう社会しゃかい情報じょうほう社会しゃかい分類ぶんるいすると、現在げんざい情報じょうほう社会しゃかい盛期せいき位置いちするという解釈かいしゃくがある。
 【2】それぞれの社会しゃかいがどれくらいの期間きかんにわたり持続じぞくしたかを計算けいさんしてみると、現代げんだい人間にんげん直系ちょっけい祖先そせんをネアンデルタールなど後期こうき石器せっき時代じだい人類じんるいとすれば、狩猟しゅりょう社会しゃかいすうまんねん農業のうぎょう社会しゃかいすうせんねん工業こうぎょう社会しゃかいすうひゃくねんという単位たんい継続けいぞくし、じゅう世紀せいきなかごろから出発しゅっぱつした情報じょうほう社会しゃかいすうじゅうねんという単位たんい経過けいかしたのが現在げんざいということになる。(中略ちゅうりゃく
 【3】農業のうぎょう社会しゃかい特定とくてい地域ちいき特定とくてい作物さくもつ集中しゅうちゅうして栽培さいばいされる単品たんぴんしゅ生産せいさん方式ほうしき特徴とくちょうである。工業こうぎょう社会しゃかいになると、種類しゅるい限定げんていした製品せいひん大量たいりょう生産せいさんするしょう品種ひんしゅ生産せいさんになる。
 情報じょうほう社会しゃかいになると、工業こうぎょう製品せいひんであっても、同一どういつ仕様しようのものはきわめて少数しょうすうしか生産せいさんしない品種ひんしゅしょう生産せいさん特徴とくちょうとなる。【4】情報じょうほう社会しゃかい産業さんぎょうのコメといわれる集積しゅうせき回路かいろ(IC)のなか特定とくてい用途ようと集積しゅうせき回路かいろはその代表だいひょうである。この特徴とくちょう生産せいさん技術ぎじゅつ進歩しんぽにもよるが、希少きしょうであるほど価値かちがあるという情報じょうほう性質せいしつ反映はんえいしていると理解りかいしてもよい。
 【5】この方向ほうこう発展はってんさせると、いち品種ひんしゅいち生産せいさんという特徴とくちょうかびがる。ある製品せいひんいちひんずつしか生産せいさんしないという特徴とくちょうは、産業さんぎょう革命かくめい以前いぜん逆行ぎゃっこうするかのようだが、このいち品種ひんしゅいち生産せいさん高度こうど技術ぎじゅつ支援しえんされた方式ほうしきである。【6】各種かくしゅ製品せいひんについてこのようなシステムが実用じつようすれば、いち品種ひんしゅいち生産せいさんであっても産業さんぎょう革命かくめい以前いぜんとは根本こんぽんてきちが生産せいさん方式ほうしき実現じつげんすることになる。
 農業のうぎょう発生はっせい並行へいこうして集合しゅうごう定住ていじゅうするという生活せいかつ形態けいたい出現しゅつげんしたが、それは農業のうぎょう短期たんきおおくの労力ろうりょく必要ひつようとするからであり、労働ろうどう集約しゅうやく生産せいさん農業のうぎょう社会しゃかい特徴とくちょうである。【7】工業こうぎょう社会しゃかいでも労力ろうりょく必要ひつようだが、より重要じゅうよう要素ようそ生産せいさん設備せつびである。高度こうど設備せつび導入どうにゅう生産せいさん効率こうりつ向上こうじょうさせるため、企業きぎょうきそって工場こうじょう最新さいしん設備せつび投入とうにゅうする設備せつび集約しゅうやく生産せいさん工業こうぎょう社会しゃかい特徴とくちょうづける。
 情報じょうほう産業さんぎょう代表だいひょうであるソフトウェア産業さんぎょうでは状況じょうきょう大幅おおはば変化へんかする。【8】この分野ぶんや新規しんき労働ろうどう集約しゅうやく産業さんぎょうといわれ、端末たんまつ装置そうち配置はいちされた部屋へや多数たすう人間にんげんあつまってソフトウェアを生産せいさんする。しかしそれらの人間にんげん肉体にくたい労働ろうどうをしているわけではなく、高度こうど知識ちしき駆使くしして知的ちてき生産せいさん従事じゅうじしており、知識ちしき集約しゅうやく産業さんぎょう表現ひょうげんするのが適切てきせつである。
 【9】次期じき社会しゃかい重要じゅうよう産業さんぎょうになると期待きたいされているものに映像えいぞう産業さんぎょうがある。衛星えいせい放送ほうそうやCATV(有線ゆうせんテレビ)の普及ふきゅうによりテレビジョンのそう放送ほうそう時間じかんすう急増きゅうぞうし、今後こんごじゅう年間ねんかんよんばい程度ていど増加ぞうかすると予測よそくされる。一部いちぶ過去かこ映画えいがなどを利用りようするとしても、ほとんどは新規しんき制作せいさくされる必要ひつようがある。【0】
 この制作せいさく多数たすう人間にんげんによる労働ろうどう集約しゅうやくてき生産せいさんであるが、そこで要求ようきゅうされるのは農業のうぎょう社会しゃかいでの労力ろうりょくでも情報じょうほう社会しゃかい知識ちしきでもなく、人間にんげん感動かんどうしたり感激かんげきしたりする内容ないよう創造そうぞうする能力のうりょくである。この能力のうりょくを「感性かんせい」と表現ひょうげんすれば、次期じき社会しゃかいでの産業さんぎょう感性かんせい集約しゅうやく産業さんぎょうということができる。
 工業こうぎょう社会しゃかいから情報じょうほう社会しゃかい移行いこうする時期じきに、重厚じゅうこう長大ちょうだいから軽薄けいはく短小たんしょうへの転換てんかんという言葉ことば流行りゅうこうした。重量じゅうりょう容積ようせきたりの価格かかく高価こうか製品せいひん産業さんぎょう移行いこうするという現象げんしょうだが、「軽薄けいはく短小たんしょう以後いごは、そのような言葉ことばでは表現ひょうげんできない製品せいひん生産せいさんする産業さんぎょう登場とうじょうしてくる。
 次代じだいじゅうちょうえん産業さんぎょう期待きたいされる映像えいぞう産業さんぎょう創造そうぞうするイメージウェアは、重量じゅうりょう計測けいそくできる製品せいひんではなく、まったく異質いしつ価値かち基準きじゅんでなければ測定そくていできず、そこで誕生たんじょうしてきた表現ひょうげんが「美感びかんゆうそう」である。
 (中略ちゅうりゃく
 終焉しゅうえんしつつある情報じょうほう社会しゃかい代替だいたいして出現しゅつげんする感性かんせい社会しゃかいでは、技術ぎじゅつ芸術げいじゅつ目指めざし、技術ぎじゅつしゃ芸術げいじゅつ変身へんしんするとえよう。

 (月尾つきお嘉男よしお産業さんぎょう技術ぎじゅつ」による)


長文ちょうぶん 5.3しゅう
 【1】われわれのからだは、そのすべての部分ぶぶんがいつもおなじようにはたらいているわけではない。ているとき、すわっているとき、しゃべっているとき、あるいているときは、はたらいている神経しんけい筋肉きんにくおなじではない。われわれは、刻一刻こくいっこくたえずあたらしい統合とうごうをなしとげている。【2】このたえず変化へんかする動的どうてき統合とうごう複雑ふくざつさには、どのような人工じんこうてきシステムもかなわないだろう。だがこの現実げんじつてき統合とうごう統合とうごうのすべてではない。
 みちあるいているひとのなかには、剣道けんどう達人たつじんもあれば、ピアノの上手じょうずひともあるだろう。【3】みちあるくという現実げんじつてき統合とうごう範囲はんいにとどまるかぎり、ふたりの統合とうごう構造こうぞうたようなものであり、からだとしてはおなじだ、といえるかもしれない。しかし、それがふたりのしん姿すがたではない。ふたりのは、いま実現じつげんしていないが、実現じつげんしうる潜在せんざいてき統合とうごう可能かのうせい構造こうぞうしている。【4】ひとりののうちには、これまでのけんい、さらにはこれまでの剣道けんどう歴史れきしけんぜん一致いっち思想しそうまでも、にくしているかもしれない。ピアノをひとは、ピアノの鍵盤けんばん身体しんたい図式ずしきのうちにみこみ、ピアノきょく解釈かいしゃく歴史れきし演奏えんそうほう伝統でんとうをも潜在せんざいてき統合とうごうのうちにつつみこんでいる。【5】解剖かいぼうがくてき構造こうぞうをもった生理せいりてき身体しんたいであると同時どうじに、文化ぶんか歴史れきしをそのうちに沈澱ちんでんさせ、構造こうぞうとして構造こうぞうした文化ぶんかてき歴史れきしてき身体しんたいにほかならない。つまり身体しんたい文化ぶんか内蔵ないぞうするのである。(中略ちゅうりゃく
 この内蔵ないぞう過程かていというのは、連続れんぞくてき過程かていにみえて、じつはかなり不連続ふれんぞくである。【6】スポーツでも楽器がっき演奏えんそうでも、あるいはもっと抽象ちゅうしょうてき学習がくしゅうでもよい。こころみるたびにうまくなり、理解りかいすすむのは当然とうぜんとして、あるとき突然とつぜんうごきが自由じゆうになり、あたまれるおもいをすることがあるのではないだろうか。あたかもそれまでかった網目あみめ突然とつぜんのうちにりめぐらされたかのように。【7】経験けいけんのうちに沈澱ちんでんし、くりかえしは(能動のうどうてき訓練くんれん場合ばあいはもちろん、とくに意識いしきすることなくくりかえしている場合ばあいでも)、自分じぶんではがつかないちいさな発見はっけん創造そうぞうによって、まだ確定かくてい網目あみめ潜在せんざいてきのうちにつむしているのではないだろうか。
 【8】練習れんしゅうは、能動のうどうてきをある方向ほうこう整除せいじょして、統合とうごう容易よういにする回路かいろのうちに形成けいせいするこころみである。身体しんたいうごかさないイメージ練習れんしゅうや、イメージを積極せっきょくてきかべて練習れんしゅうすることが、うごきを内蔵ないぞうする早道はやみちであることがある。【9】これは意識いしきてき能動のうどうてき統合とうごうである。ところがぎゃくにつぎの段階だんかいでは、イメージが邪魔じゃまになる。こんどはうごきによってイメージをし、無心むしん状態じょうたいたっすることが必要ひつようになる。場合ばあいによっては、練習れんしゅうやすむことによって、上手うまくなったり、こつがつかめることさえある。【0】この場合ばあいにはたらいているのは、無意識むいしきてき受動じゅどうてき統合とうごうともいうべきものである。やすんでいるあいだ練習れんしゅうされたうごきは、徐々じょじょのうちに沈澱ちんでんし、うごきのネットワークが受動じゅどうてき構成こうせいされ、あるとき突然とつぜん網目あみめがつながるのであろう。
 ところがいちたんもうができあがると、くりかえしはただの反復はんぷくおちいりがちである。もっと抵抗ていこうのないみちがえらばれ、習慣しゅうかん惰性だせいとなるだろう。しかし惰性だせいなくりかえしは、あるとき飽和ほうわ状態じょうたいになる。われわれは突然とつぜん惰性だせいてきせいきていることを発見はっけんする。
 どんな立派りっぱ計画けいかくやユートピアにたいしても、「いや!」という少数しょうすうしゃがいるというだけではなく、計画けいかく現実げんじつするにつれて惰性だせいし、それにきた多数たすうしゃす。哲学てつがくしゃなままつ敬三けいぞうたくみな表現ひょうげんりれば「人間にんげんはユートピアにさえきる存在そんざい」なのである。人間にんげんすわりつづけることもできないし、ちつづけることもできない。すぐに惰性だせいする存在そんざいでありながら、惰性だせいてきでありつづけることもできない。人間にんげんやすきにつく存在そんざいだから、禁欲きんよく時代じだいのつぎに享楽きょうらく時代じだいるのはわかりやすい道理どうりである。面白おもしろいのは、人間にんげん享楽きょうらくにもきるということである。享楽きょうらく時代じだいのつぎに禁欲きんよく時代じだいるという不思議ふしぎさ――おな状態じょうたいながくつづけることができない人間にんげんのいたたまれなさは、うごかしがたくみえるかた転換てんかんし、不可避ふかひとみえる袋小路ふくろこうじ打開だかいするちからさえもっている。これが惰性だせいてき創造そうぞうてき習慣しゅうかんてき身体しんたい逆説ぎゃくせつである。

 (市川いちかわひろし文章ぶんしょうによる)


長文ちょうぶん 5.4しゅう
長文ちょうぶんふたつある場合ばあい読解どっかい問題もんだいよう長文ちょうぶんいち番目ばんめ長文ちょうぶんです。】
 マインド・コントロール概念がいねん導入どうにゅうは、カルト問題もんだい現場げんばおおきな変化へんかをもたらした。なぜひとがカルトに入信にゅうしんするかを説明せつめいする、明確めいかく道具どうぐができたからである。それまでは、これらは親子おやこ関係かんけい教育きょういく問題もんだいなどから言及げんきゅうされていた。マインド・コントロール概念がいねんはメンバーが自分じぶんきた出来事できごと理解りかいする手立てだてとなり、家族かぞく状況じょうきょう理解りかいするためにも役立やくだった。これを臨床りんしょう心理しんりがく言葉ことばえれば、心理しんり教育きょういくということになるであろう。心理しんり教育きょういくとは、症状しょうじょう行動こうどうがどのようなメカニズムできているか、それを緩和かんわさせたり予防よぼうしたりするにはどうしたらよいかを教育きょういくする介入かいにゅう方法ほうほうである。この機能きのうは、今後こんご十分じゅうぶん役立やくだつであろう。
 反面はんめん、この説明せつめいがいつでも有効ゆうこうせいつわけではないことも事実じじつである。ありがちなのは「自分じぶんはマインド・コントロールされていたのではなく、自分じぶんえらんだのだ」という主張しゅちょうである。この場合ばあい、マインド・コントロール概念がいねん自身じしんのプライドをきずつけるものとしてかたられる。ここには、自分じぶんには十分じゅうぶんなコントロール能力のうりょくがあり、その結果けっかしんじたのであって、他人たにんおもうようにコントロールされていたわけではないという反発はんぱつのニュアンスがふくまれる。実際じっさい個々ここのケースにおいて、個人こじんがどの程度ていどマインド・コントロールとばれるものの影響えいきょうにあったかは、究極きゅうきょくてきにはじゅつがない。
 HowモードとWhyモード
 マインド・コントロールという社会しゃかい心理しんりがくてき説明せつめいで、すべてが解決かいけつされるわけでもない。なぜなら、社会しゃかい心理しんりがくになえるのは事象じしょう説明せつめい解明かいめいであり、当事とうじしゃ自身じしん経験けいけんをどうめるかという臨床りんしょうてき側面そくめんになっていないからである。「自分じぶんがマインド・コントロールされていたことは、よくわかった。でも、それがなにになるのか」という言葉ことば当事とうじしゃからくことは、しばしばある。これは、How(いかに)とWhy(なぜ)の相違そういである。ひと知的ちてき欲求よっきゅうとして「どうして」をりたい場合ばあいと「なぜ」をりたい場合ばあいとがある。これは対象たいしょうとなる事象じしょうによってもことなるであろうし、どちらをることが満足まんぞくにつながるかが個人こじんのメンタリティによってことなることもある。カルトがもたらす信念しんねんは、元来がんらいWhyに重点じゅうてんくものである。たとえば「なぜ社会しゃかいには、こんなにあくがはびこっているのか」「なぜわたしは、こんなにつらいのか」などの疑問ぎもん苦悩くのうこたえるところから、これらの信念しんねん魅力みりょくていする。よって、これらの集団しゅうだんにはWhyに関心かんしんせられやすいひとのこることになる。
Whyは形而上けいじじょうてきいであり、そもそもおおくのひと納得なっとくする正答せいとう用意よういする性質せいしつのものではない。カルト・メンバーに教義きょうぎ論争ろんそうけて、出口でぐちえない堂々巡どうどうめぐりにおちいるのは、このためである。しんじるかしんじないかの基準きじゅんしかないものに、客観きゃっかんてき正当せいとうせいもとめるのはナンセンスである。したがって、カルトてき思考しこうった個人こじんべつ視点してん見出みいだすのは、けい而上てきいの前提ぜんていみずか疑問ぎもんつときか、思考しこう方向ほうこうせいがHowのモードにわったときのいずれかであろう。そこで個人こじんがHowを理解りかいすれば、それだけで事足ことたりる場合ばあいもある。だが、そもそもWhyに関心かんしんっていたかれらは、原点げんてんもど場合ばあいすくなくない。それは、哲学てつがくてき宗教しゅうきょうてきいにたいする絶対ぜったいてきこたえをうしない、呆然ぼうぜんちすくむWhyであることも、過去かこ個人こじんてき経験けいけんたいするWhyであることもあるであろう。

戸田とだ京子きょうこ「カルト問題もんだいにおける心理しんりがく――社会しゃかい心理しんりがくからえるもの・臨床りんしょう心理しんりがくからえるもの」による)
 【1】「日本人にっぽんじんは、奈良なら時代じだいにはうめきだった。ところが平安へいあん時代じだいからこのみがかわって、さくらあいするようになった」
 と、こんなことを教室きょうしつおしえられたり、ほんんだりしたことは、ないだろうか。すくなくともわたしはそうだった。こういてあるほんも、いっぱいある。
 【2】しかし、そんな事実じじつはない。太古たいこ以来いらい日本人にっぽんじんさくらあいしてきたのである。
 それでは、どうしてこんな間違まちがいがおこったのか。じつは奈良なら時代じだいにできた『万葉集まんようしゅう』という歌集かしゅうでいちばんたくさんまれたはなは、うめである。
 だから、みんな、うめきだったとおもった。
 【3】ところが、これは当時とうじ中国ちゅうごくこのみの貴族きぞく趣味しゅみによるもので、ある歌人かじんなどはうめひとびとを招集しょうしゅうし、みんなでいっせいによんじゅうしゅほどのうめうたつくった。おまけに、からこのときをしのんでうめうたつくったひともある。
 こうなるといっきょにうめうたかずがふえてしまう。【4】そのかずを、うた性質せいしつ吟味ぎんみしないでかぞえたから、個人こじんやごく少数しょうすうひとこのみを、一般いっぱんひとこのみとかんちがいしてしまったのである。
 反対はんたいに、単純たんじゅんさくらうたかぞえると、かずうめおよばない。しかしさくら民衆みんしゅうてきには熱烈ねつれつあいされていることがわかる。
 【5】また、平安へいあん時代じだいになっても、ごく初期しょきのころには、宮中きゅうちゅう正殿せいでんまえに、うめたちばなえられていた。それが火事かじけて、そのさくらたちばなかわった。そこでまた、ひとびとはうめからさくらへと趣味しゅみうつったと誤解ごかいするのだが、最初さいしょ万事ばんじ中国ちゅうごくこのみの宮廷きゅうていだったから、うめえたのである。【6】やがては素直すなおに、日本にっぽん趣味しゅみにしたがってさくらえた。
 そこで、今後こんごわか世代せだいにも「日本人にっぽんじんはずっとさくらあいしてきた」と、おうではないか。
 しかし、そうなると日本人にっぽんじんはどうしてこうも、ながあいださくらあいしつづけるのだろうという疑問ぎもんがわく。【7】もうさくらは、遺伝子いでんしなかみこまれてしまった記号きごうだろうか。(中略ちゅうりゃく
 もうさくらは、日本人にっぽんじん遺伝子いでんし問題もんだいである。
 ではどんな遺伝子いでんしなのだろう。
 さきほど『万葉集まんようしゅう』についてべたが、そのなかに、つぎのようないちしゅがある。

  桜花おうか ときぎねど ひとの こいりと いまるらむ

 【8】さくらはなはどうしてるのか、作者さくしゃ推測すいそくする。「このさくらはなつぎのようにおもってるのではないか」と。つまりさくらは「わたしているひとは、いまが一番いちばんわたしあいしてくれている」とおもう。だからさくらはしおれるのをたないでろうとおもう。
 そう、作者さくしゃさくら落花らっか納得なっとくした。
 【9】人間にんげんにいいかえてみると、恋人こいびとがいま、一番いちばんわたしあいしてくれている。だから自殺じさつをしよう――そうおもうことになる。
 そんなひとがいたら、りのいのちしまないひとはいない。
 もっときつづけて永遠えいえんあいきればよかったのに、とやや批判ひはんをするひともいるだろう。【0】しかし反面はんめんながくはきられないいのちだから、はなりにんでよかった、と賛成さんせいするひともいるだろう。
 いずれにしても、これらは時間じかんなかいのちていることにかわりはない。
 いのち時間じかんちからを、まぬがれがたい。
 このもっとも根元ねもとてきいのち課題かだいを、からもっともとおはな絶頂ぜっちょうかんがえることの、衝撃しょうげきりょくつよい。
 万葉まんよううた作者さくしゃは、さくらはなをじっとることによって、無意識むいしきからだなかにたたえられていたいのちのうつろいがさそされ、はな姿すがたがわがいのち代行だいこうしゃとしてうつったのだろう。人間にんげんおもいをさそしたものは、はなのあまりものうつくしさだったことになる。

中西なかにしすすむ文章ぶんしょうによる)


長文ちょうぶん 6.1しゅう
いち番目ばんめ長文ちょうぶん暗唱あんしょうよう長文ちょうぶんで、番目ばんめ長文ちょうぶん課題かだい長文ちょうぶんです。】
 【1】いちななきゅうねん、フランス革命かくめい政府せいふ議会ぎかいは、それまでのように人体じんたい尺度しゃくどにした、地方ちほうごとにちがながさのはかかたをやめ、世界中せかいじゅうおな単位たんいながさをはかれるようにしようという決議けつぎをした。【2】この時代じだいには、グローバリゼーションの震源しんげんはアメリカではなく、フランス革命かくめい政府せいふだったのだ。
 【3】だが同様どうよう普遍ふへん指向しこうつよかった古代こだいギリシャのんだ哲学てつがくじんプロタゴラスは、「人間にんげん万物ばんぶつ尺度しゃくどなり」という、特殊とくしゅ指向しこうこそが普遍ふへんてきだという、見事みごと逆説ぎゃくせつてき命題めいだいいた。【4】実際じっさい人体じんたいのさまざまな部分ぶぶん規準きじゅんにした尺度しゃくどは、じゅうはち世紀せいきまつまでは、まさしく普遍ふへんてきに、だれもそれをあやしむことなく、こくごと、地方ちほうごとにもちいられていたのだ。
 【5】フランスで当時とうじもちいられていた、ながさをはか単位たんいには、アンパン(片手かたてゆびをいっぱいにひろげたときの親指おやゆびさきから小指こゆびさきまで)、クーデ(ひじからばした中指なかゆびさきまで)、ピエ(あし。ヤード・ポンドほうのフィート「あし」に対応たいおう)、【6】プース(あし親指おやゆびいちピエのじゅうぶんいち)、トワーズ(たけろくピエ)、ブラス(りょううでばしてひろげたながさ。ピエ。日本にっぽんひろ対応たいおうとうがあった。【7】クーデに対応たいおうする日本にっぽんしゃくは、呉服ごふくじゃくごふくじゃく鯨尺くじらじゃく曲尺かねじゃくかねじゃくでもちがうが、やはり前腕ぜんわんほねながさから尺度しゃくどだ。【8】ぬのなどをはかるのにひじげたかたちははかりやすいのか、西にしアフリカのモシ社会しゃかいでも、細長ほそなが帯状おびじょうった綿布めんぷるとき、げたひじから中指なかゆびさきまでのながさを単位たんいにしてはかる(カンティーガ、複数ふくすうでカンティーセという)。【9】日本語にほんご前腕ぜんわん小指こゆびがわほねしゃくこつしゃっこつぶことからも、このはかかた前腕ぜんわんとの関連かんれんうかがわれる。しゃくこつしゃっこつラテン語らてんご解剖かいぼう用語ようごはulnaだが、これは古代こだいローマでのながさの単位たんいでもあった(さんななセンチに対応たいおうするから、日本にっぽん呉服ごふくじゃくごふくじゃく鯨尺くじらじゃくのあいだくらいのながさだ)。【0】せきという漢字かんじ親指おやゆび中指なかゆびひらいた象形しょうけいで、日本にっぽんではあただ(てのひら下端かたんから中指なかゆびさきまでともいわれる)。
 いちななきゅういちねん、フランス革命かくめい政府せいふ学者がくしゃ招集しょうしゅうして、地球ちきゅうきた極点きょくてんから赤道せきどうまでの経線けいせん距離きょりいちせんまんぶんいちを、世界せかい共通きょうつうするながさの単位たんいとすることを決定けっていした。だが実際じっさいにこの距離きょりはかることはできないので、フランス北岸ほくがんのダンケルクから、地中海ちちゅうかいめんしたスペインりょうバルセロナまでを精密せいみつ三角さんかく測量そくりょうはかり、りょうはし地点ちてん緯度いどから、北極ほっきょくてん赤道あかみちあいだ距離きょり算出さんしゅつするという方法ほうほうがとられた。
 この地点ちてんのあいだは山岳さんがく地帯ちたいおおく、革命かくめい直後ちょくご政情せいじょう不安定ふあんていであり、測量そくりょう困難こんなんきわめた。それでもいちななきゅうはちねん測量そくりょう完了かんりょうし、翌年よくねんには白金はっきんせいのメートル原器げんきつくられた。地方ちほうごとに人間にんげん中心ちゅうしんつくられていた尺度しゃくどを、ヒトをはなれた「地球ちきゅう」(グローブ)の寸法すんぽうからすことにしたのだから、これこそ語義ごぎどおりの「グローバリゼーション」の先駆さきがけというべきだろう。
中略ちゅうりゃく
 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくいちはちななねん国際こくさいメートル条約じょうやくげん加盟かめいこくだが、ヤード・ポンドほうは「慣習かんしゅうてき単位たんい」として禁止きんしされていないどころか、日常にちじょう生活せいかつではこちらのほう普通ふつうもちいられている。しかもアメリカの影響えいきょうつよ航空こうくう宇宙うちゅう関係かんけい国際こくさい用語ようごでは、トル法とるほう採用さいようしているくにも、アメリカの「慣習かんしゅうてき単位たんい」にわせざるをえない状態じょうたいだ。国際線こくさいせん旅客機りょかくきでも、高度こうど距離きょり表示ひょうじに、メートルとフィートが併用へいようされていることは、よくられている。
 現代げんだいにおけるグローバル中心ちゅうしんにあるべいえいが、かつてのフランス主導しゅどうのグローバルたいして、ローカルな「慣習かんしゅうてき単位たんい」に固執こしつしている事実じじつても、グローバルたいローカルという関係かんけいが、文化ぶんかがい要素ようそ多分たぶんふくむ「ちから関係かんけい」のうえっていること、普遍ふへん指向しこう特殊とくしゅ慣習かんしゅうてき価値かち尊重そんちょうという対立たいりつも、状況じょうきょう次第しだい、「ちから関係かんけい」の都合つごう次第しだいでいかにわるものであるかがよくかる。

川田かわたじゅんづくり『もうひとつの日本にっぽんへのたび』による)
 【1】もしも「わすれる」という現象げんしょう境界きょうかいけてしまう現象げんしょうであるとしたら、この「けてしまう」という現象げんしょうかたちあらわれているものをさらにわたしわなくてはならない。というのも「けてしまう」というのは、けてえてしまうというような意味いみではけっしてないからである。
 【2】けるというのは、一滴いってきのインクが大海たいかいのなかに拡散かくさんてきけてなくなるというようなものではない。そうではなくて自分じぶんたもちながら、ある相手あいてまじわり、そのあいだの境界きょうかいかしてしまうありかたのことをここでは意味いみしている。
 【3】これはある交流こうりゅう形態けいたいである。わたしたちはたしかに大気たいき大地だいちといつも交流こうりゅうし、交感こうかんっている。実際じっさいわたしたちの生理せいり現象げんしょう呼吸こきゅう消化しょうか新陳代謝しんちんたいしゃとう)はまさに大気たいき大地だいちとの相互そうごせいそのものである。しかし問題もんだいは、そういう相互そうごせいそのものにをとめよ! というところにあるのではない。【4】そうではなくて、そういう相互そうごせいわたしたちはすこしも自覚じかくしていない、つまりそれをわすれているという現象げんしょうほう注目ちゅうもくしようというのである。
 生理学せいりがく生態せいたいがくであれば、おそらくその相互そうごせいそのものに諸手もろてでとびついて、いかに生体せいたい環境かんきょう世界せかいまじわりっているか、得意気とくいげ説明せつめいしにかかるであろう。【5】素人しろうとわたしたちは、そんなにもたくさんな関係かんけい自分じぶんたちは外界がいかいとむすんでいるのかと、説明せつめいされるたびに感心かんしんすることになるだろう。けれども実際じっさいのところは、そういう説明せつめいいたその十分じゅうぶんもたたないうちに、大地だいちうえほんあしあるき、空気くうきって、つねに新陳代謝しんちんたいしゃしていることなどキレイさっぱりわすれて行動こうどうしているのである。これが日常にちじょう姿すがたである。
 【6】これはどういうことなのかというと、わたしたちはこの「わすれる」というかたちで、実際じっさいのところキレイさっぱり大気たいき大地だいちのことをわすっているのではなく、わたしたちと大気たいき大地だいちとの関係かんけいにもとまらないほどにわせている、ということだったのである。【7】つまりうというかたち相手あいて交流こうりゅうっていたのである。「わすれる」とは「うしなう」ような関係かんけいではなく、もっと積極せっきょくてき相手あいてとの交流こうりゅう実現じつげんかたちだったのである。
 わたしはここで一気いっき主題しゅだい核心かくしんげておこうとおもう。【8】それはわたしたちの存在そんざい様式ようしきが、その根本こんぽんにおいて、個体こたいとしてではなくまじわりとしての存在そんざい様式ようしきである、ということについてである。つまりある存在そんざいがあってそれが外界がいかい関係かんけいをもっているというのではなく、そもそもはじまりそのものがまじわりとしてある、ということについてである。
 【9】この根源こんげんとしてのまじわりを「わすれる」ことによって、わたしたちはぎゃくに、まじわっていることよりか、たがいに区別くべつって境界きょうかいをもっていること、つまりわたしたちが個体こたいであることのほうをより自覚じかくしてきたのである。「おぼえている」とはまさに境界きょうかいおぼえていることであり、覚醒かくせいとは、個体こたいであることの自覚じかくなのである。【0】
 根源こんげんまじわりがある。いや根源こんげんまじわりである。このことを本当ほんとう理解りかいすることは、今日きょうではしごくむずかしいことになってきている。なぜならわたしたちはまじわりということをおもかべるまえに、かならず個体こたい想定そうていしてしまうことにれているからである。出発しゅっぱつ個体こたいではなくまじわりそのものである。このことの理解りかいがしだいにできなくなりつつある。
 「根源こんげんとしてのまじわり」とわたしんだもの、それをわたしたちのよくっていることばにいいなおせば、生命せいめいということになる、とわたしおもう。(中略ちゅうりゃく
 結論けつろんをさきにいえば、意識いしき心理しんり認識にんしきはすべて個体こたい現象げんしょうとしてあつかえるめんがあるのに(むろんそれはみかけにすぎないのだが)、生命せいめいには個体こたいをこえるひろがりがあるかのようにかんじられるからである。(中略ちゅうりゃく
 問題もんだい生命せいめいなるものを日常にちじょうてき観点かんてん発見はっけんされていないところにあるのではないか。宗教しゅうきょう用語ようご生物せいぶつ-生理学せいりがく用語ようご記述きじゅつされる生命せいめい以外いがいに、日常にちじょう用語ようご記述きじゅつされる生命せいめいがまだないのではないか。そのあたり最大さいだい問題もんだいであるようにわたしにはかんじられてきた。

 (村瀬むらせまなぶ文章ぶんしょうる)


長文ちょうぶん 6.2しゅう
 【1】ニュートンが集大成しゅうたいせいしたようなテクノロジー科学かがくはたんに思想しそうじょう成果せいかとして学者がくしゃたちの規範きはんになっただけではなかった。それは政治せいじてき社会しゃかいてきにも支持しじ獲得かくとくすることができた。というより、政治せいじてき社会しゃかいてき同様どうようのエートスがすでに生成せいせいされ定着ていちゃくしつつあったために支持しじることができたのである。
 【2】このことをもっとってろんじてみよう。テクノロジー科学かがくじゅうなな世紀せいき登場とうじょうした近代きんだい国家こっかなか受容じゅようされた。なにかをつくれたりするという意味いみ有用ゆうようであったから受容じゅようされたのだろうか? かならずしもそうではない。【3】そうるのは、狭隘きょうあい実用じつよう主義しゅぎてき短見たんけんである。テクノロジー科学かがくはいわば「イデオロギー」として近代きんだいてき政体せいたいりこまれたのである。
 近代きんだい政治せいじ哲学てつがく伝統でんとうは、イタリアのニッコロ・マキアヴェッリによってはじめられたとわれる。【4】かれ政治せいじ哲学てつがくは、政治せいじ目的もくてき理想りそうをほとんど問題もんだいにしない。それは、あたえられた状況じょうきょう君主くんしゅがいかにして有力ゆうりょくなライヴァルたちの詐術さじゅつにかかって敗北はいぼくすることなく、人民じんみんにほどよく信頼しんらいされ、すなわちおそれられすぎもせず、かといってあなどられもせず、統治とうちできるかの技法ぎほうについてろんずる。【5】『君主くんしゅろん』(いちさんねん)は、君主くんしゅ闘争とうそう手段しゅだんとして、ほうちからをあげているが、マキアヴェッリがしゅとして考察こうさつ対象たいしょうとするのは、ちからによる統治とうちである。かれによれば、君主くんしゅ野獣やじゅうせい人間にんげんせいとをたくみに使つかけ、ともかく勝利しょうりしなければならない。それゆえりょく保持ほじ重要じゅうようである。【6】「武装ぶそうせる予言よげんしゃ勝利しょうりし、武力ぶりょくなき予言よげんしゃ破滅はめつする」(だいろくしょう)のが政治せいじ冷徹れいてつ法則ほうそくである。このような政治せいじ技法ぎほうは、マキアヴェッリをたずとも、およそ政治せいじ存在そんざいしてからというもの現実げんじつおこなわれていたにちがいない。【7】けれども、かれ政治せいじあく現実げんじつ認容にんようし、自分じぶん名前なまえで、いちしょをもって理論りろんをあえてしたてん嚆矢こうしをなすのである。(中略ちゅうりゃく
 近代きんだい自然しぜん哲学てつがく機械きかいろんてきであるとわれる。機械きかいろんてき自然しぜんぞうとは自然しぜん機械きかいとしてかんがえをいう。【8】説明せつめいすることが困難こんなん生命せいめいてき有機ゆうきてきなことがらを可能かのうかぎ排除はいじょしようとするのである。抽象ちゅうしょうてき言葉ことばづかいでは、「自然しぜん微粒子びりゅうし位置いち運動うんどうからなる」といかえられる。デカルトは、宇宙うちゅう微粒子びりゅうし集成しゅうせいで、それらを統御とうぎょしているのは数学すうがくてき自然しぜん法則ほうそくであるとる、機械きかいろんてき宇宙うちゅうぞう最初さいしょ提唱ていしょうしゃとなった。【9】数学すうがく自然しぜんがくにおけるなみさい重要じゅうよう概念がいねんは「分析ぶんせき」であった。じゅうなな世紀せいきには、もっと精緻せいち機械きかい機械きかい時計とけいであるとかんがえられていたので、科学かがく革命かくめい当時とうじ自然しぜん時計とけい類比るいひてきられた。(中略ちゅうりゃく自然しぜんきているにちがいないが、とりあえず機械きかいてそれにアプローチしようとするのが、テクノロジー科学かがく方法ほうほうろんてき合意ごういなのである。【0】そうアプローチするほうが、自然しぜん理解りかいしやすいからである。換言かんげんすれば、技術ぎじゅつてき操作そうさすることが可能かのうになるのである。そのてんで、テクノロジー科学かがくはマキアヴェッリの政治せいじ哲学てつがくじつによくている。かれにとって政治せいじとは人民じんみん統治とうち技術ぎじゅつなのである。「いかにして」の技術ぎじゅつなのである。
 マキアヴェッリのリアリズムは、前述ぜんじゅつのようにベイコンによってたか評価ひょうかされ、さらにホッブズによって近代きんだい科学かがくてきよそおいをほどこされた。
 ホッブズは国家こっか機械きかいたのである。伝統でんとうてき主権しゅけんしゃ王権おうけん)は神秘しんぴてき仮面かめんをはがされ、国家こっかをよりよく統治とうちし、人民じんみん安寧あんねい提供ていきょうしうるもののみが主権しゅけんしゃあたいするとされた。ホッブズにとって、政治せいじ科学かがくにアプローチするもっと重要じゅうよう概念がいねんは、「分析ぶんせき」であった。かれによって、国家こっかちは個々人ここじんにまで分解ぶんかい分析ぶんせき)され、こうした個々人ここじん安全あんぜん最悪さいあく事態じたいとしての突然とつぜん暴力ぼうりょく回避かいひ)を保障ほしょうしてくれる政治せいじシステムはいかなるものであるかが探究たんきゅうされた。こういうアプローチの仕方しかたからられる帰結きけつは、主権しゅけんしゃだれでもよい、したがって、政体せいたい君主くんしゅせいでも共和きょうわせいでもどちらでもよい、ようは、人民じんみん安定あんていした生活せいかつ約束やくそくしてくれれば、政治せいじ最低さいてい役割やくわりたされる、ということである。このリアリズムの観点かんてんった政治せいじ科学かがくは、だれにでも評価ひょうかされるはずであったが、現実げんじつ認識にんしきがあまりに冷徹れいてつすぎたために、ホッブズはかれ先駆せんくしゃマキアヴェッリ同様どうようみなからきらわれた。今日きょうでもあまりに正直しょうじきすぎるものきらわれのてきになるように――。


長文ちょうぶん 6.3しゅう
 【1】このように、いちなな世紀せいきからいちはち世紀せいきにかけて、すでに地球ちきゅう自然しぜんかい歴史れきしてき展開てんかいということは何人なんにんかのひとびとにとっては当然とうぜんのこととなってはいたが、しかも、ひと大切たいせつてんは、そうした時期じきにおける「自然しぜんかい歴史れきしてき展開てんかい」は、「進歩しんぽ」すなわち「わる状態じょうたいから状態じょうたいへ」という価値かちスケールのなかでかんがえられていたわけではないというてんである。【2】むしろ、自然しぜん人間にんげん堕落だらく見合みあうようにかみわる状態じょうたいつくえているのであり、それが破局はきょくかさねとなって最後さいご審判しんぱんにいたるのだ、というかんがかたつよかったとえよう。
 【3】こうした終末しゅうまつろんてき悲観ひかんろん逆転ぎゃくてんさせた、地球ちきゅう生物せいぶつかい、そして人間にんげん社会しゃかい歴史れきしが「わる状態じょうたいから状態じょうたいへ」の「進歩しんぽ」の歴史れきしである、という楽観らっかん主義しゅぎは、まさしく啓蒙けいもう主義しゅぎ産業さんぎょう革命かくめい所産しょさんであったとえよう。【4】いちなな世紀せいきまでのかみ支配しはいする自然しぜんというかんがかたから、人間にんげん支配しはいする自然しぜんへといういちはち世紀せいき啓蒙けいもうかんがかたへの転換てんかん如実にょじつしめすように、歴史れきし自分じぶんたちのきずくものであり、また世界せかい歴史れきしは、より方向ほうこうかってつねにすすんでいるという「進歩しんぽ」の思想しそうがヨーロッパ世界せかいつよ支配しはいはじめた。【5】それが「生物せいぶつ進化しんか」、すなわち下等かとう動物どうぶつから高等こうとう動物どうぶつへという価値かち尺度しゃくど歴史れきしのぼりつめてきた、という思想しそうしたからささえることになったのである。
 したがって、生物せいぶつ進化しんかろんはそうした「社会しゃかい進化しんかろん」と密接みっせつつらなっている。【6】たとえばのちにるように「適者生存てきしゃせいぞん」や「生存せいぞん競争きょうそう」など進化しんかろん概念がいねんとして使つかわれているものは、もともと資本しほん主義しゅぎ理念りねんとしての「自由じゆう競争きょうそう」に由来ゆらいしていて、「社会しゃかい進化しんかろん」の強力きょうりょく推進すいしんしゃとしてられているスペンサー(いちはち〇−いちきゅうさん)の用語ようごであったし、【7】ダーウィンやウォーレスの生物せいぶつ進化しんかろんのきっかけが社会しゃかい学者がくしゃとしてのマルサス(いちななななろくいちはちさんよん〉の『人口じんこうろん』であったことも、生物せいぶつ進化しんかろん社会しゃかい科学かがくてき思想しそうとのつよ関連かんれん物語ものがたっている。(中略ちゅうりゃく
 【8】ダーウィニズムは、すでにべたように、社会しゃかい思想しそうから重要じゅうようなフィード・バックをけていたが、ダーウィニズム自身じしん今度こんどは、人類じんるいの「社会しゃかいてき問題もんだいあつか思想しそう領域りょういきぎゃくにフィード・バックすることになった。
 【9】「さい適者生存てきしゃせいぞん」の「最適さいてきしゃ」という概念がいねんを、きわめて恣意しいてきに、自分じぶん都合つごうのよいように解釈かいしゃくして、それを倫理りんり社会しゃかい思想しそうめん応用おうようしようとする態度たいどが、『たね起源きげん以後いご急速きゅうそくひろがっていくのがそのことをしめしている。【0】自由じゆう競争きょうそうという資本しほん主義しゅぎ理念りねんこそ、その競争きょうそうのなかで最良さいりょうのものがのこるという生物せいぶつがくてき原理げんり保証ほしょうする社会しゃかい進歩しんぽ原理げんりなのであって、競争きょうそう否定ひていする社会しゃかい主義しゅぎでは、人類じんるい社会しゃかい進歩しんぽまれめない、という社会しゃかい主義しゅぎ批判ひはんも、「科学かがく」ののもとに横行おうこうしたし、「天賦てんぷ人権じんけんろん」などまんにん平等びょうどう権利けんりをもっているとする発想はっそうも、ダーウィニズムの攻撃こうげきされた。たとえばチェンバレン(いちはちいちきゅうなな)は元来がんらいはイギリスじんいちきゅうはちねんドイツに帰化きか)でありながら、いちはちきゅうきゅうねんに『いちきゅう世紀せいき基礎きそ』という書物しょもつをドイツいたが、この書物しょもつは、人種じんしゅ優劣ゆうれつ生物せいぶつがくてき証明しょうめいしようとし、とくにゲルマン民族みんぞく優秀ゆうしゅうせい強調きょうちょうして、そこにあんに「優勝劣敗ゆうしょうれっぱい」というダーウィニズムの通俗つうぞくてきスローガンを示唆しさしたし、ダーウィンの従弟じゅうていゴルトン(いちはちいちきゅういちいち)がはじめたとわれる「優生ゆうせいがく」は、一方いっぽうにおいて、遺伝いでんてき操作そうさのなかで悪性あくせい素質そしつ排除はいじょすると同時どうじに、他方たほうでは「すぐれた」素質そしつばすというかんがかたもとにしており、「人種じんしゅ改良かいりょう」や「人間にんげん進化しんか」が現実げんじつ問題もんだいとしてかびがってくることにもなった。
 しかし、このように、「人間にんげん」が「人間にんげん」の素質そしつぜんあく判断はんだん操作そうさするという思想しそうがきわめて危険きけんであることは、ナチズムのれいあざやかに教示きょうししてくれており、「優生ゆうせいがく」が一部いちぶには進化しんかろん中心ちゅうしんとする純粋じゅんすい科学かがく理論りろんくだしているだけに、これまでになかった「人間にんげんによる人間にんげん人為じんい淘汰とうた」という思想しそう合理ごうりさえおこなわれるようになったことは注意ちゅういしなければならない。そして、このような「人類じんるい」の進化しんかや、「人類じんるい改良かいりょう」という着想ちゃくそうから、いわゆるいちきゅう世紀せいきまつの「超人ちょうじん思想しそう」もあらわれてくることになるとえよう。

 (広重ひろしげ とおる伊東いとう俊太郎しゅんたろう村上むらかみ陽一郎よういちろう 『思想しそうのなかの科学かがく』 村上むらかみ執筆しっぴつ部分ぶぶんより)


長文ちょうぶん 6.4しゅう
長文ちょうぶんふたつある場合ばあい読解どっかい問題もんだいよう長文ちょうぶんいち番目ばんめ長文ちょうぶんです。】
 「わたし結婚けっこん相手あいてのぞ経済けいざいりょくは、そんなにおおきなものではありません。ただわたしどもにん安心あんしんしてらせる程度ていどでいいのです。どもにはちいさいときからならごとをさせてやりたいです。おかねがないからといってどもにみじめなおもいをさせるのだけは絶対ぜったいにいやです。そして、どもにん私立しりつ大学だいがくかせてやれるくらいの給料きゅうりょうもとめます(だって、わたしもそうしてもらったので当然とうぜんだとおもいます)。つきいちかい外食がいしょくし(もちろんまわりまわるお寿司すしではなく、お洒落しゃれなイタリアンとかです)、としいちかい海外かいがい旅行りょこうく。そういう程度ていど経済けいざいりょくです。わたしにはたま輿こし願望がんぼうはありません。わたし両親りょうしんおっと両親りょうしんたいし、肩身かたみせまおもいをするのはいやなので、かるたま輿こし程度ていど十分じゅうぶんです。もちろんおっと真面目まじめはたらひとでないとこまります。ちょっといやなことがあると会社かいしゃめるとかされたりすると、とてもこまります。それから、土曜日どようびにはどもをれて公園こうえんでサッカーしたり、かわ堤防ていぼうしたでキャッチボールしたりするのを、わたし堤防ていぼうくさむらにすわってながめるのがゆめです。それから、煙草たばこひと絶対ぜったいにおことわりです。本人ほんにんよりもまわりにいるわたしどもたちの受動じゅどう喫煙きつえんこわいからです。家族かぞくどもとわたし両親りょうしん)を大事だいじにして、結婚けっこん記念きねんとかは絶対ぜったいおぼえていてくれないといやです。あとDVとかして、暴力ぼうりょくるうひとももちろんおことわりです。まだ、ほかにもありますが、先生せんせいみっつまでとわれたので、このくらいにしておきます」
 っておくが、これは学生がくせいいたものを合成ごうせいしたり、特定とくてい個人こじんのものを意図いとてき抽出ちゅうしゅつしたりしたものではない。みんなみんな、こういてくるのである。なんでここまでおなじなのか、わたしきたいくらいである。この女子じょし学生がくせい結婚けっこん願望がんぼう男子だんし学生がくせい紹介しょうかいすると、教室きょうしつちゅうに「ふゆちゅうなつそう」みたいな菌糸きんしじょうのものが浮遊ふゆうする。漠然ばくぜんとしたいかりと不安ふあんめいたものだ。
 こういう、学生がくせいいたものをなんねん多数たすうんできて、わたしはこのくに晩婚ばんこんまらないとおもったのである。いまは、まだ晩婚ばんこんんでいるが、これからこんりつ上昇じょうしょう必至ひっしである。就職しゅうしょくなん結婚けっこんなんが、双子ふたごになってやってくる。
 おとこは、正社員せいしゃいんとして就職しゅうしょくできずにフリーターになれば結婚けっこんできない。結婚けっこんできないで家庭かていてないから、就労しゅうろう意欲いよく低下ていかし、ますます離職りしょく促進そくしんされる。おんなは、正社員せいしゃいん就労しゅうろう意欲いよくたかい、ついでに給料きゅうりょうたか男性だんせい目指めざして、「容貌ようぼう偏差へんさ」をげるのに余念よねんがない。しかし、「実用じつよう偏差へんさ」はきわめてひくい。料理りょうりつくったことがない。ごはんいたことがないという女子じょしおおい。なぜなら、女子じょし学生がくせい母親ははおやは「おんなは、結婚けっこんするといやでも家事かじをしなければいけないから、いえにいるうちはそんな苦労くろうをさせたくない」と、むすめ家事かじをさせないからである。むしろ、男子だんし学生がくせい母親ははおやほうに「将来しょうらい息子むすこ結婚けっこんしたら、おくさんもはたらいている可能かのうせいたかいので、おとこ家事かじができなければならないので、いまからおしえている」とかたるケースがおおかった。だから、おとこほうが、基本きほんてき炊事すいじはできるのである。現在げんざい大学生だいがくせいはとてもいそがしい。授業じゅぎょう以外いがい専門せんもん学校がっこうき、アルバイトもしている。
 「バイトで深夜しんやじゅうにアパートにかえり、カップめんべているとわびしくなり、就職しゅうしょくしてもこういう生活せいかつかとおもうと、いえかえったときにはやはりだれじん気配けはいがあってほしいなとおもいます」
 こういうことを女子じょし学生がくせいいてきたケースはいちかいもない。男子だんし学生がくせいにのみられる。こういう生活せいかつ実感じっかんから結婚けっこんへのあこがれは、だからこそディテールにった具体ぐたいてきなものになるのであろう。

小倉おぐら千加子ちかこ結婚けっこん条件じょうけん』)
 【1】いまなか孤独こどくという言葉ことばは、なぜかわるいイメージでがためられている。いつからそうなったのか、わたしらない。いつのころからか、きこもりという言葉ことばが、現代げんだい若者わかものどもたちの、社会しゃかい学校がっこうられないでいえにこもりりになる特殊とくしゅ状態じょうたいすようになってから、孤独こどくのイメージはすっかりわるくなった。【2】いいかえるなら、きこもりの若者わかものどもたちがなにばんなんじゅうまんというかずになってから、いよいよ孤独こどくのイメージは、社会しゃかいてきしのべてあげなければならないもの、克服こくふくしなければならないもの、といった否定ひていてきなものになってしまったのだ。
 【3】もちろん、集中しゅうちゅうてきないじめをけたり、しんやまいになったりして、まともに対人たいじん関係かんけいたもてなくなった場合ばあいには、周囲しゅういからのなんらかのサポートが必要ひつようであることはうまでもない。そういう場合ばあい孤独こどくと、人間にんげんひとりがきていくうえで本来ほんらいてきにまつわりつく孤独こどくとでは、本質ほんしつにおいてちがうもののはずだ。両者りょうしゃあいだ明確めいかく線引せんひきはできないにしても。
 【4】ところが、両者りょうしゃをいっしょくたにして、すべて孤独こどくはあってはならないものであるかのような風潮ふうちょうになっているところに問題もんだいがある。どもにはどもなりに、しん成長せいちょうかんがえるちからをつけるためには、孤独こどく時間じかんはとても大事だいじなのに、いま社会しゃかいはそのゆとりをたせようとしない。【5】ミヒャエル・エンデの『モモ』にえがかれた「時間じかん貯蓄ちょちく銀行ぎんこう」の銀行ぎんこういんのように、なにもしないでいると、たとえば、「あなたはきょうは、あいださんじゅういちふんよんじゅうななびょう無駄むだにした。一生いっしょうろくじゅうろくまんろくせんよんひゃくさんじゅうあいだじゅうふんよんじゅうはちびょうしかないのだから、時間じかんをそんなに無駄むだにしてはいけない。【6】いちふんいちびょうでもなにもしない時間じかんわたしどもにあづけなさい」といったぐあいにせまるのだ。
 やれじゅくに、やれお稽古けいこに、やれ宿題しゅくだいに、とせまられることにえられないどもたちは、ゲームやケータイやパソコンに没入ぼつにゅうする。【7】大人おとなたちは奇妙きみょうなことに、ちゃーんとゲームやケータイやパソコンを大量たいりょう生産せいさんして、どもたちがどんどんその世界せかいはいるのをさそっている。そういうものをどんどんどもにあたえるのは、「麻薬まやくあたえるにひとしい」とったのは、医療いりょう少年院しょうねんいん勤務きんむする精神せいしん岡田おかだたかしつかさだ。
 【8】ダブルバインド(じゅう拘束こうそく)という精神せいしん医学いがく用語ようご紹介しょうかいしたことがある。社会しゃかいがく人類じんるいがくなどマルチな才能さいのうつベイトソンという学者がくしゃつくった、人間にんげんしん領域りょういきにかかわる用語ようごだ。ベイトソンが紹介しょうかいしている象徴しょうちょうてき症例しょうれいはわかりやすい。母親ははおや精神せいしん病院びょういん入院にゅういんちゅう息子むすこ面会めんかいく。【9】息子むすこならんですわった母親ははおやは、くちでは「あなたをあいしてるのよ」とうが、内心ないしんでは息子むすこおそれている。息子むすこ言葉ことばをそのままけとめ、うれしくなって母親ははおやにキスをしようとする。ところが、母親ははおや一瞬いっしゅんだがピクッとかおをこわばらせ、キスされるのをけるようにをそらす。【0】内心ないしん身体しんたいあらわれたのだ。息子むすこするど母親ははおやめんせいり、病室びょうしつもどる。母親ははおやかえったのち息子むすこあばれまくり、保護ほごしつれられてしまう。
 おや二律背反にりつはいはんのことを同時どうじどもにうと、どもはどちらをえらんでいいかわからなくなり、精神せいしんてき混乱こんらんしたり、身動みうごきができなくなったりする。そういうおやそだてられたは、しん発達はったつにゆがみがしょうじるおそれがある。これがダブルバインドとその結末けつまつだ。

柳田やなぎだ邦男くにお文章ぶんしょうによる。一部いちぶ省略しょうりゃくがある。)