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課題集
長文ちょうぶん 1.1しゅう
 【1】近時きんじ大学だいがく教師きょうしなやみのたねは、授業じゅぎょうちゅう私語しごおおさである。わたしはいつも最初さいしょ講義こうぎのとき、「オシャベリはいけない」と学生がくせいたちにきびしい態度たいどしめしてから講義こうぎはいることにしている。
 【2】問題もんだいわたしばかりではない。昨年さくねんあたりから、教室きょうしつしん現象げんしょうこりはじめた。よんがつ、いつものように私語しご禁止きんしをいいわたしてから講義こうぎはいった。学生がくせいたちはしずかにいている。今年ことし学生がくせいしつがよいのかと、わたしはうれしくなった。【3】が、ふとると、まえからさんぶんいちあたりのところで、机上きじょう英語えいご教科書きょうかしょ辞書じしょひろげているものがいる。ちなみにわたし授業じゅぎょうは「西洋せいよう精神せいしん」であって、英語えいごではない。だから、彼女かのじょ行為こういは「内職ないしょく」である。
 【4】授業じゅぎょうちゅう内職ないしょくは、べつあたらしい現象げんしょうではない。だが、内職ないしょく教室きょうしつうしろのほうで、つくえしたでこっそりとやるから内職ないしょくというのである。まえのほうで、しかもつくえうえ堂々どうどうとやる内職ないしょくはじめてた。つまり、彼女かのじょには、自分じぶんわるいことをしているという意識いしきがまったくないのである。
 【5】こういう学生がくせいしかるのはじつほねれる。「なぜわるいのか」をわからせるのがひと苦労くろうなのだ。もともと内職ないしょくわるいことだとは毛頭もうとうおもっていないから、注意ちゅういすると、ただポカンとしてわたしかおつめる。【6】彼女かのじょらはおそらく、小学校しょうがっこうでも、中学校ちゅうがっこうでも、高校こうこうでも、また家庭かていでも、そうしたことで注意ちゅういされたことがないのであろう。
 おなじことはアクビについてもえる。授業じゅぎょうちゅうにアクビをするなとうと、学生がくせいたちは不思議ふしぎかおをする。「まれてはじめてアクビを注意ちゅういされました」とわんばかりである。
 【7】こんなことはむかしなら一言ひとこと、「礼儀れいぎおもんじなさい」とえばんだ。それがいまはつうじない。「いけないこと」をひとつひとつしめし、「なぜいけないのか」を丁寧ていねい説明せつめいしなければならないのである。原理げんり原則げんそくしたが行動こうどう様式ようしき思考しこう様式ようしきっていないから、原理げんりしめしても無駄むだなのだ。
 【8】評論ひょうろんやジャーナリストは、こういうタイプの人間にんげんを「指示しじ人間にんげん」「マニュアル世代せだい」などと名付なづけるが、現象げんしょうだけしかない、皮相ひそうなとらえかたである。かれらはたんに、指示しじたなければ、マニュアルがなければ行動こうどうできないというのではなく、抽象ちゅうしょうてき原理げんりしたがって行動こうどうすることができないのである。【9】つまり、自分じぶんなか行動こうどう原理げんり原則げんそくがないのだ。いわば、自分じぶん中心ちゅうしん背骨せぼねがないようなものである。それゆえ、本質ほんしつるならば、こういうかた人間にんげんはずばり「背骨せぼねのない人間にんげん」「脊椎せきつい人間にんげん」とでもぶべきなのである。【0】
 行動こうどう原理げんり原則げんそくなかでいちばん大切たいせつなのが「善悪ぜんあく」の原理げんりである。そして、これをおしえるのはしゅとして父親ちちおや役割やくわりである。母親ははおやは、個々ここ行為こういについて「よい」「わるい」を注意ちゅういするが、父親ちちおやは、そもそもなかにはして「よい」ことと「わるい」ことがあるのだという原理げんりおしえるのである。
 ところが、いまはちちちち役割やくわりたしていない。その結果けっか善悪ぜんあく感覚かんかくのない人間にんげん成長せいちょうしてしまう。たとえ「よい」「わるい」の区別くべつおしえられたとしても、その基準きじゅんはせいぜい「他人たにん迷惑めいわくをかけない」「他人たにんきずつけない」という程度ていどだから、礼儀れいぎやマナー、あるいはその行為こういが「うつくしい」か「みにくい」か、「他人たにん不快ふかいかんあたえない」かどうかという視点してん欠落けつらくしてしまう。だから、遅刻ちこく内職ないしょくもアクビも居眠いねむりも、すべて「わるくない」ということになってしまい、たまたま注意ちゅういけると意外いがいだというかおをするのであろう。



長文ちょうぶん 1.2しゅう
 【1】真意しんいつたえるのはむつかしいが、誤解ごかいをうけることはやさしい。わたしはけっして文学ぶんがく至上しじょう主義しゅぎしゃではないが、同様どうよう視聴覚しちょうかく文化ぶんか主謀しゅぼうしゃでもないつもりだ。【2】わたしいたいのは、ようするに、言語げんご芸術げいじゅつ視聴覚しちょうかく芸術げいじゅつとは、機械きかいてき対立たいりつさせられるべきものではなく、そこに共通きょうつう課題かだい見出みいだすことによって、はじめて両者りょうしゃ独自どくじせい発揮はっきできるのだという、ごく単純たんじゅんなことにすぎないのである。
 【3】サルトルは、「嘔吐おうと」(まさしくは、むかつきとでもやくすべきものだろう)という小説しょうせつなかで、まだ、づけられないもの(=実存じつぞん)が人間にんげんにあたえる衝撃しょうげき苦悩くのうをえがいた。づけ、言語げんご秩序ちつじょなかにくりいれることで、人間にんげん外部がいぶ存在そんざい服従ふくじゅうさせ、安全あんぜんなものにし、家畜かちくすることができたのである。【4】たとえば、ぼうぼうという名前なまえをあたえ、ぼうとして認識にんしきすることで、個々ここぼうではない、抽象ちゅうしょうてきぼう一般いっぱん無限むげん個数こすうぼう)をれることが出来できた。すなわち、道具どうぐ使用しよう可能かのうになったわけである。さるぼうをつかう。しかしさるのつかうぼうは、ぼう一般いっぱんではない。【5】したがって、さる道具どうぐをつかうことができないのである。人間にんげんはほとんどすべての存在そんざいをあたえてしまった。たん名前なまえをあたえただけでなく、ものもの関係かんけい言葉ことば組立くみたてによっていあらわした。文法ぶんぽう進化しんかとは、つまり人間にんげん自然しぜん認識にんしき進化しんかにほかならないわけだ。【6】この関係かんけいあかぼうから大人おとなへの言語げんご習得しゅうとく過程かていをみてもよくわかる。また失語症しつごしょう患者かんじゃ文法ぶんぽう構造こうぞう次第しだい小児しょうにがたから幼児ようじがたへと退行たいこうさせていくのに並行へいこうして、空間くうかん関係かんけい認知にんちまでが対応たいおうてき崩壊ほうかいしていくという事実じじつもある。【7】重症じゅうしょう失語症しつごしょう患者かんじゃになると、角度かくど概念がいねんまでがくなり、いた直角ちょっかくにきるために定規じょうぎをつかうという操作そうささえできなくなるということだ。現実げんじつへの言語げんご浸透しんとうには、想像そうぞう以上いじょうのものがあるのである。
 こうしてわれわれの堅固けんご日常にちじょう世界せかい構築こうちくされる。【8】パヴロフはこれをステロタイプ、安定あんていした条件じょうけん反射はんしゃんだ。もっともパヴロフはべつにロマンチストではなかったから、ステロタイプといういいかたを、かならずしも否定ひていてき意味いみだけにつかっているわけではない。【9】むしろ、個体こたい保存ほぞんのための、きわめて効果こうかてき能力のうりょくとして評価ひょうかしているくらいだ。たしかに言語げんごのヨロイをはぎとられた失語症しつごしょう患者かんじゃは、あたかも幼児ようじのごとく、防備ぼうびになってしまうのだから。いかえれば言語げんご媒介ばいかいにしないむきしの事物じぶつとは、一種いっしゅ魔境まきょうにほかならない。【0】むきしの事物じぶつは、意味いみをもたない。そこには因果いんが関係かんけいも、脈絡みゃくらくも、観念かんねん誘発ゆうはつ連想れんそうもありえない。ただ口唇こうしん感覚かんかく延長えんちょうじょうにとらえられたれぎれな印象いんしょう断片だんぺんだけが現実げんじつである嬰児えいじ世界せかい、もしくは寸断すんだんされ変形へんけいされ事物じぶつ相互そうご脈絡みゃくらく見失みうしなった精神せいしん分裂ぶんれつ世界せかいだけが、かろうじてそのはだか事物じぶつ不気味ぶきみ姿すがた類推るいすいさせるくらいのものだろう。おそらくそれは、メドゥサのあたまのように、たものをいしにする。言葉ことばは、メドゥサの呪術じゅじゅつからまもる、かがみだてなのである。
 ところが、いわゆる映像えいぞうろんしゃは、いぬだろうと、さるだろうと、あかぼうだろうと、がありさえすればなんでもおなじようにものえるという、きわめて素朴そぼく反映はんえいろんっているらしく、平然へいぜんつぎのような主張しゅちょうをする。「映像えいぞうは、言語げんごとちがった、独自どくじ方法ほうほうで、さまざまな抽象ちゅうしょうてき内容ないよう表現ひょうげんし、伝達でんたつる、云々うんぬん……。」しかし残念ざんねんながらわたしには、言葉ことばをもたない動物どうぶつ――いぬや、さるや、ぶた――とうが、なんらかの抽象ちゅうしょうてき思考しこう到達とうたつしえただろうなどとは、想像そうぞうすることもできない。そんなことはただ、童話どうわなかでしかこりえないことではあるまいか。どうやら映像えいぞうろんしゃ諸君しょくんは、言語げんご機能きのう過小かしょう評価ひょうかしているのみならず、かれらの旗印はたじるしであるはずの映像えいぞうについても、言語げんご類比るいひでしかみないという、不当ふとうあやまちをおかしているようにおもわれてならないのだ。 (中略ちゅうりゃく
 かとって、べつに映像えいぞうのもつ意義いぎ無視むししようとしているのではない。それどころか、じつ映像えいぞうろんしゃなどより以上いじょうに、映像えいぞう今日きょうてき意義いぎたか評価ひょうかしているつもりである。いわゆる、映像えいぞうろんしゃというのは、一見いっけん映像えいぞう言語げんご対立たいりつてきにとらえているようにみえながらその映像えいぞう言語げんご対等たいとう場所ばしょにもちげようとしてやっきになっている、その言語げんごコンプレックス患者かんじゃにすぎないのだ。映像えいぞう価値かちは、なにも言語げんご対等たいとうであることで保証ほしょうされるものではない。むしろ、一切いっさい言語げんごてき要素ようそ――抽象ちゅうしょうによる安定あんてい普遍ふへん意味いみづけ、伝達でんたつ解釈かいしゃく連想れんそう、その――と拮抗きっこうして、破壊はかいてき作用さようするところにこそ、その存在そんざい理由りゆう見出みいだすべきではなかろうか。
 映像えいぞう価値かちは、映像えいぞう自体じたいにあるのではない。既成きせい言語げんご体系たいけい挑戦ちょうせんし、言語げんごつよ刺激しげきをあたえて、それを活性かっせいするところにあるのだ。 (中略ちゅうりゃく
 こうかんがえてくると、文学ぶんがく視聴覚しちょうかく芸術げいじゅつとはもはやたんなる対立たいりつぶつなどではありえない。ジャンルの如何いかいかんをとわず、もともと芸術げいじゅつてき創造そうぞうとは、言語げんご現実げんじつとの癒着ゆちゃく状態じょうたい――言語げんごというかべにとりまかれた、ステロタイプの安全あんぜん地帯ちたい――にメスをいれ、異質いしつ言語げんご体系たいけいをつくりす(それはむろん同時どうじあたらしい現実げんじつ発見はっけんでもある)ものであるはずだ。このことは、当然とうぜんのことながら、散文さんぶん芸術げいじゅつについてもそのままてはまる。小説しょうせつが、言語げんご(=意識いしき)に衝撃しょうげきをあたえ、それを活性かっせいするだけのエネルギーを回復かいふくするためには、一度いちどまず小説しょうせつというわくをはなれ、芸術げいじゅつ共通きょうつう課題かだいってみる必要ひつようがあるだろう……という意味いみでは、わたしはやはり映像えいぞう主義しゅぎしゃ以上いじょうちょう映像えいぞう主義しゅぎしゃちがいないし、またそれをもってにんじてもいる。だが同時どうじに、視聴覚しちょうかく文化ぶんか現状げんじょうは、映像えいぞう破壊はかいりょく利用りようするどころか、小説しょうせつ同様どうよう言語げんごかべにがんじがらめになっているわけで、この停滞ていたいをうちやぶるためには、さらにつよ方法ほうほう意識いしき自覚じかくされなければなるまい……。という意味いみでは、むしろ文学ぶんがく(たとえばこのわたし文章ぶんしょうなどをもふくめたごく広義こうぎの)主義しゅぎしゃになるわけだ。
 映像えいぞう方法ほうほうかたれない。そして、言語げんごかべは、想像そうぞう以上いじょう堅固けんごなものである。小説しょうせつもまた、言語げんご破壊はかいのダイナマイトづくりに参加さんかする義務ぎむがあるだろう。

安部あべ公房こうぼう砂漠さばく思想しそう」による)


長文ちょうぶん 1.3しゅう
 【1】アジアにはくにくにとの協調きょうちょうをはかる組織そしきすくない。ASEANあせあんみなみアジア諸国しょこく連合れんごうなど存在そんざいしないことはないが、本格ほんかくてき国家こっかをこえる連合体れんごうたいつくろうとするうごきはみられない。EU諸国しょこくのように国境こっきょうをビザなしでとおけることができる経験けいけんをアジアの人々ひとびとはもつことができない。【2】EU諸国しょこくたびしていて、空港くうこうでEUパスポートとしるされた入口いりくちもうけられているのをみるたび残念ざんねんがしてならない。ASEANあせあんもいまや活発かっぱつ活動かつどうはいったが、EUのような政治せいじ共同きょうどうたい通貨つうか統合とうごうへといったうごきはみられない。
 【3】それどころか現実げんじつにはますますくにくにとのさかいたかくなっているようながする。たしかに市場いちば開放かいほううごきとともに、中国ちゅうごくやベトナム、ミャンマーまでが門戸もんこ開放かいほうおこないはじめたのはこのましい徴候ちょうこうだとはいえ、それはあくまでも経済けいざい活動かつどう観光かんこうのためであって、さきれたような連合体れんごうたいかううごきではない。【4】ビザなしの国境こっきょう移動いどうなどはかんがえることもできないというのが、現状げんじょうではあるまいか。それに実際じっさいのところ、毎年まいとしアジアをたびしていてかんじるのは、各地かくちでの国家こっか主義しゅぎたかまりである。表面ひょうめん国際こくさい協調きょうちょうをうたうが、内実ないじつ民族みんぞく主義しゅぎてき国家こっか統制とうせいきびしくなってきている。【5】国内こくないてきにも、地域ちいき宗教しゅうきょう民族みんぞく自己じこ主張しゅちょうつよくなり排他はいたてき傾向けいこうしめすところがすくなくない。
 わたしは、タイでもマレーシアでも、あるいはスリランカでもインドでも、それぞれの社会しゃかい文化ぶんかのありかた共感きょうかんをもち敬意けいいいだくが、ナショナリズムの強制きょうせいだけにはついてゆけないものをかんじざるをえない。【6】どこのくにでも地域ちいきでも土地とち文化ぶんかのあたえるものを享受きょうじゅするのにためらいはないのだが、国家こっか主義しゅぎ過度かど民族みんぞく自宗じしゅうきょう地域ちいき中心ちゅうしん主義しゅぎには正直しょうじきいってうんざりしてしまうし、そのめんでは文化ぶんか相対そうたい主義しゅぎにとどまることができなくなる。
 【7】それで毎度まいど東南とうなんアジアやみなみアジアをめぐってきて、ナショナリズムにつかれて香港ほんこんくと、ほっとする経験けいけんさんねんちかかえしてきた。
 香港ほんこん英国えいこく植民しょくみんであるが、すくなくともわたしるこのさんねんほどは、まず自由じゆうみなととして、つぎ英国えいこくでも中国ちゅうごくでもないような東西とうざい融合ゆうごう地点ちてんとして存在そんざいしてきた。 (中略ちゅうりゃく
 【8】近代きんだいのもたらしたアジアの悲劇ひげき中心ちゅうしんにはなにといっても西欧せいおう列強れっきょうによる植民しょくみんがあり、それに日本にっぽんくわわったわけであるが、植民しょくみんからの独立どくりつはほとんどのアジア諸国しょこく悲願ひがんであった。だい大戦たいせんおおくのくに独立どくりつしたが、その国家こっかづくりはけっして平坦へいたんなものではない。【9】近代きんだい国家こっかのモデルである「国民こくみん国家こっか」をつくすことでは、えていわせていただくならば、ほとんどのくに失敗しっぱいしているとみてよいのではないか。
 民族みんぞく多言たげん地域ちいき社会しゃかいからなる国々くにぐにでは、統合とうごうされた国民こくみん国民こくみん文化ぶんか国語こくご形成けいせいがまず困難こんなんである。【0】中央ちゅうおう政府せいふ支配しはいくに隅々すみずみまでとうていとどかない。官僚かんりょうせいよわい。日本にっぽんやタイなどの例外れいがいはあっても、韓国かんこくやベトナムは植民しょくみん後遺症こういしょうとしての内乱ないらん混乱こんらんからまれた分断ぶんだん国家こっかなやみ、中国ちゅうごく体制たいせい基礎きそづくりのためにくにざし、インドは統合とうごうよりも文化ぶんか共存きょうぞん方向ほうこうへとくるしく転換てんかんをよぎなくされた。こうした国家こっかづくりのなかで、政治せいじ権力けんりょくおこなうのは国家こっか主義しゅぎ強調きょうちょうである。重苦おもくるしい抑圧よくあつてき雰囲気ふんいきが、外面がいめん陽気ようきさのかげにこもっている。異国いこくたびするもの勝手かって感想かんそうにはちがいないとしても、こうした雰囲気ふんいき次第しだいにいらつことのおお国々くにぐになか香港ほんこんつね息抜いきぬきとなった。
 たしかに植民しょくみん近代きんだいおとではあっても、自由じゆうみなとには独特どくとくやす雰囲気ふんいきがある。その文化ぶんか混合こんごう文化ぶんか性格せいかくをもつ。アジアにはすくなくともみっつのこうした都市とし国家こっかがあった。ベイルート、シンガポール、そして香港ほんこんである。
 ベイルートはパレスチナ問題もんだい中東ちゅうとうでの紛争ふんそうまれて、崩壊ほうかいしてしまった。わたし自身じしんいちはベイルート滞在たいざいひそかにねがっていたのに、それはかなわぬゆめとなっている。シンガポールも独立どくりつ発展はってんへのみちかがやかしくあゆしたが、そのぶんだけ国家こっか主義しゅぎ色彩しきさいつよまった。短期間たんきかん観光かんこうやビジネスの出入でいりでは世界せかい一番いちばんといってよいとおりのよさをゆうしてはいるが、いまやあまりにも国家こっか規制きせいおおいところとなった。発展はってんとともに国家こっか主義しゅぎつよくなるのは歴史れきしによくみられるれいにちがいない。
 香港ほんこんひがしアジアにおけるえい植民しょくみんという逆説ぎゃくせつきてきた。それがいつのにかひがし西にしみなみきたとを仲介ちゅうかいする緩衝かんしょう地帯ちたい役目やくめをはたすようになった。香港ほんこん舞台ぶたいとする小説しょうせつかずあるが、ジョン・ル・カレの「スマイリー閣下かっか」の香港ほんこん冷戦れいせんのエスピオナージ活動かつどう緩衝かんしょう地帯ちたいとしての香港ほんこんえがいて出色しゅっしょくであった。それは英国えいこくじんからとらえた植民しょくみん都市としではあるが、そこにただよ雰囲気ふんいきはまさしく香港ほんこんである。
 香港ほんこん一般いっぱんには通過つうかする場所ばしょであって、そこにまることを目的もくてきとすることはすくない。もちろん、香港ほんこん故郷こきょうとする中国人ちゅうごくじん英国えいこくじんもいるわけだし、本拠地ほんきょち香港ほんこんにおく内外ないがい企業きぎょうおおいが、基本きほんてき部分ぶぶんでそこは「本来ほんらいない場所ばしょ」との認識にんしきもあるのだ。中国ちゅうごくぞくする領土りょうどにはちがいなく、えい植民しょくみん期限きげんいちきゅうきゅうななねんろくがつさんにちにはれる。いちきゅうはち年代ねんだいはじごろおとずれると、なかえい香港ほんこん返還へんかん交渉こうしょうおこなわれていたときでもあり、なに将来しょうらいについてのおもいがさだまらない刹那せつなてき気分きぶんただよっていた。ショッピングでもホテルでもレストランでもいやかんじをもったことがいくつかあった。すさんだ気分きぶんがあふれて、香港ほんこんもこれまでかとおもったこともある。
 しかし、いちきゅうはちさんねんあきには中国ちゅうごくへの返還へんかん交渉こうしょう妥結だけつして、それなりに未来みらいえがけるようになったこともあってか、落着おちつきをもどしていた。勝手かってはなしであるが、また香港ほんこん緩衝かんしょうせい享受きょうじゅできるになったのである。

青木あおきたもつ逆光ぎゃっこうのオリエンタリズム」による)


長文ちょうぶん 1.4しゅう
 一方いっぽうのこ方言ほうげんには、種類しゅるいのものがある。ひとつは、それが方言ほうげんだとづかれないで使つかわれる方言ほうげんである。たとえば、東北とうほく地方ちほうでは「てる」ことをナゲルとう。「テレビをナゲル」は、テレビをげるわけではなく、廃棄はいきするという意味いみである。このように、意味いみはずれるもののかたちおなじことばは、共通きょうつう錯覚さっかくされるためにのこりやすい傾向けいこうがある。しかし、それらは方言ほうげんだとづかれたが最後さいご共通きょうつうえられていく運命うんめいにある。
 のこ方言ほうげんのもうひとつは、方言ほうげんだとわかってはいるが、使つかわないではいられないといったものである。それらは、文末ぶんまつや、感情かんじょう語彙ごい程度ていど副詞ふくし挨拶あいさつことばなどのなかおおい。たとえば、仙台せんだい文末ぶんまつなら「くだりくっチャ」の「チャ」がよく使つかわれる。これは共通きょうつうなおせば「くさ、くとも」であり、「当然とうぜんだろ、なんでそんなことくんだ」といったニュアンスをあらわす。また、「くべ、くべ」は、「こう、こう」という意味いみで、相手あいてさそうときによく使つかう。こういった「チャ」や「ベ」はいまでも元気げんきである。
 感情かんじょう語彙ごいでは、「メンコイ」や「イズイ」がのこっている。「イズイ」はからだ表面ひょうめんのなんともえぬ不快ふかいかんあらわすもので、襟元えりもとはいって「イズクてたまらない」とか、セーターをあらったらちぢんでしまって「イズクてしょうがない」、といったふうに使つかわれる。こういう方言ほうげんは、いまでも老若ろうにゃくわず根強ねづよ人気にんきがあって、かなり使つかわれている。づきにくい方言ほうげんちがい、これらこそ地元じもと人々ひとびと支持しじた、正真正銘しょうしんしょうめいのこ方言ほうげんといえる。
 これらの「真正しんせいのこ方言ほうげん共通きょうつうするのは、いずれも相手あいて感情かんじょううったえかける性質せいしつつというてんである。みぎ文末ぶんまつ感情かんじょう語彙ごいはもちろん、程度ていど副詞ふくし関西かんさいのメチャ、名古屋なごやのデラなど)や挨拶あいさつことば(東北とうほくのオバンデス)も、同様どうよう理解りかいしてよいだろう。これらの感情かんじょうてき要素ようそ相手あいてしんひびくものだけに、会話かいわ雰囲気ふんいき気取きどらない、けたものにする効果こうか抜群ばつぐんである。すなわち、こうした方言ほうげん使つかうことで、「わたしはあなたとしんって、したしくはなしたいんだ」とか、「肩肘かたひじらないで、リラックスしてはなしましょうよ」といった意思いし表示ひょうじおこなうことができる。共通きょうつう使用しよう相手あいてとのあいだかべきずくのにたいし、これらの方言ほうげんぎゃくにそのような垣根かきねはらい、おたがいのしんてき距離きょりちぢめる役目やくめたす。現代げんだいじん無意識むいしきのうちに、こうした方言ほうげん機能きのう会話かいわのストラテジーとして利用りようしているようにえる。
 「方言ほうげん」と一口ひとくちっても、もはやそれはシステムではなくスタイルに変質へんしつしてしまった。それならば、方言ほうげんスタイルという確固かっことした文体ぶんたい存在そんざいするのかといえば、若者わかものたちの方言ほうげん実態じったいは、共通きょうつう主体しゅたいでそこにみぎたような要素ようそをわずかにくわえた程度ていどのものにすぎない。会話かいわ雰囲気ふんいきづくりのために共通きょうつうりばめられる要素ようそになってしまった方言ほうげんを、わたしは、服飾ふくしょくになぞらえて「アクセサリーとしての方言ほうげん」とぶ。アクセサリーはあえてける必要ひつようのないもので、それをけることには積極せっきょくてき意味いみがある。おなじように、わかひとたちは共通きょうつうだけで十分じゅうぶんコミュニケーションがつのに、あえて方言ほうげん使つかおうとしている。それは、したしい仲間なかま同士どうし会話かいわたのしむ潤滑油じゅんかつゆとして、方言ほうげん価値かちみとめているからにほかならない。
 ところで、アクセサリーしたといっても、仙台せんだいあたりの若者わかもの使つか方言ほうげんはあくまでも地元じもと方言ほうげんである。ところが、最近さいきんでは、東京とうきょう若者わかものたちが、全国ぜんこく各地かくち方言ほうげんんで携帯けいたいメールをたのしんでいるという。正直しょうじき方言ほうげんがここまでくるとはおもわなかった。かんがえてみればこうした国籍こくせきてき方言ほうげん使つかかたは、アクセサリーした方言ほうげん究極きゅうきょく姿すがたであるとえるだろう。だが、土地とちから遊離ゆうりした方言ほうげんたして方言ほうげんえるのか。「ははなることば=方言ほうげん」というイメージにとらわれていると、蕎麦そば薬味やくみのような方言ほうげん方言ほうげんみとめるには抵抗ていこうがある。「方言ほうげん」とはなにであるのか、自明じめいのようにおもわれたことが、いま、あらためてわれているのである。

 (小林こばやしたかし現代げんだい方言ほうげん正体しょうたい」による)


長文ちょうぶん 2.1しゅう
番目ばんめ長文ちょうぶん課題かだい長文ちょうぶんです。】
 【1】わたしたちはよくテイストという言葉ことば使つかいます。このみといったような意味いみですが、世間せけん一般いっぱんのいいかたしたがえば「センス」という言葉ことばちか意味いみ使つかっています。センスとはなにかといえば「ちがいを見分みわける才能さいのう」だとおもいます。
 【2】AとB、ふたつの選択肢せんたくしがあるとき、はまったくわらない。あるいはどうみてもAのほうがよさそうにみえる。そういうときでも背後はいごひそ微妙びみょうちがいのようなものを感知かんちして、「Bがいい」というのがセンスです。いずれにしろ極上ごくじょうのセンスが常識じょうしきてきであることはめったにありません。
 【3】あるいはカンといわれるもの。これもセンスのひとつです。勝負しょうぶカンのあるひと勝負しょうぶセンスがいい。いずれにしろ科学かがくしゃはテイストがよくないと、なかなかよい業績ぎょうせきげられません。「科学かがくしゃ成否せいひはテイストでまる」というひともいるくらいです。
 【4】わたし自身じしんは、自分じぶんが「テイストがいい」とむねっていうほどの自信じしんはありませんが、ときにわれながら「いいのではないか」とうぬぼれることもあります。パスツール研究所けんきゅうじょとツバいをしていたときのことです。
 【5】こちらがまだ遺伝子いでんし解読かいどく着手ちゃくしゅもできないでいるのに、パスツールがすでにはちわりがたわるところまですすんでいたことは前述ぜんじゅつしました。あのときじつはもっとすごいことになっていたのです。
 【6】パリからドイツにんだわたしはハイデルベルク大学だいがく友人ゆうじんたずね、はなしいてみると、パスツールだけではなくアメリカのハーバード大学だいがくでもおなじテーマでやっていることがわかりました。おまけに「うちもやってるよ」とハイデルベルクの友人ゆうじんにもいわれました。【7】すす具合ぐあいさぐってみると、わたしたちよりはるかにすすんでいる様子ようす。パスツール、ハーバード、ハイデルベルクとならんだら、この世界せかいでは横綱よこづな大関おおぜきクラス。こっちはじゅうりょうからやっと幕内まくうちがったくらいなのです。
 【8】こうなると、もう絶望ぜつぼうてきです。そういう状況じょうきょう中西なかにし重忠しげただ先生せんせい出会であい、先生せんせい協力きょうりょくたのですが、そのときのことをもうすこくわしくはなしますと、中西なかにし先生せんせいわたしらないあることをおしえてくれたのです。
【9】「じつ遺伝子いでんし暗号あんごうというのは九分九厘くぶくりんめても、最後さいごでつまずくことがあるんですよ。それにいまさらパスツールがヒトだからって、こっちがサルでやってどうするんです。絶対ぜったいあきらめないでやるべきです。なんならわたし研究けんきゅうしつで……」ということだったのです。【0】
 問題もんだいはこの瞬間しゅんかんです。このときわたしが「そういっていただくのはうれしいのですが、ここはいさぎよ撤退てったいして……」とことわっていたら、それでおしまいでした。わたしはそのときどうおもったか。いまかんがえると不思議ふしぎですが、中西なかにし先生せんせい応援おうえんたことで「てん味方みかたがついた。これでった!」と直感ちょっかんしたのでした。冷静れいせいかんがえれば、不利ふりなはずの選択肢せんたくしをそのときえらんでいたことになります。
 そしてわたし大急おおいそぎで帰国きこくし、それまでいくらやってもダメだったヒト・レニン遺伝子いでんししに成功せいこうしました。これは中西なかにし研究けんきゅうしつのおかげでした。
 そうなるとみんなのいろちがってきます。筑波つくばから京都きょうとうつった大学院生だいがくいんせいたちは下宿げしゅくにもかえらず、昼夜ちゅうや兼行けんこう研究けんきゅう没頭ぼっとう一種いっしゅ興奮こうふん状態じょうたいのなかで、さんカ月かげつ一挙いっきょ暗号あんごうってしまったのです。
 世界せかいはつのヒト・レニンの遺伝子いでんし暗号あんごう解読かいどくは、大学院生だいがくいんせい不眠ふみん不休ふきゅう努力どりょくとハイデルベルクの酒場さかばわたしきゅうきゅう%のいくさを「った!」とおもったことにあるのです。遺伝子いでんしONの世界せかい火事場かじばのバカちからのようにてきたれいといえるでしょう。

 【1】経験けいけんかい出合であうあらゆる事物じぶつ、あらゆる事象じしょうについて、その「本質ほんしつ」をとらえようとする、ほとんど本能ほんのうてきとでもいっていいような内的ないてき性向せいこう人間にんげんだれにでもある。【2】これを本質ほんしつ追求ついきゅうとか本質ほんしつ探究たんきゅうとかいうと、ことごとしくなって、なに特別とくべつのことでもあるかのようにひびくけれど、かんがえてみれば、われわれの日常にちじょうてき意識いしきはたらきそのものが、じつ大抵たいてい場合ばあい様々さまざま事物じぶつ事象じしょうの「本質ほんしつ認知にんちうえっているのだ。【3】日常にちじょうてき意識いしき、すなわち感覚かんかく知覚ちかく意志いし欲望よくぼう思惟しいなどからなるわれわれの表層ひょうそう意識いしき構造こうぞう自体じたいなかに、それのもっと基礎きそてき部分ぶぶんとしてそれはまれている。
 【4】意識いしきとは本来ほんらいてきに「……の意識いしき」だというが、この意識いしき本来ほんらい志向しこうせいなるものは、意識いしきだつ目的もくてきかっていく「……」(X)の「本質ほんしつ」をなんらかのかたち把捉はそくしていなければげんなりしない。【5】たとえその「本質ほんしつ把捉はそくが、どれほど漠然ばくぜんとした、りとめのない、いわば気分きぶんてき了解りょうかいのようなものであるにすぎないにしても、である。意識いしきを「……の意識いしき」として成立せいりつさせる基底きていとしての原初げんしょてき存在そんざい分節ぶんせつ意味いみろんてき構造こうぞうそのものがそういうふうに出来できているのだ。
 【6】Xを「はな」とぶ、あるいは「はな」というかたりをそれに適用てきようする。それができるためには、なにはともあれ、Xがなんであるかということ、すなわちXの「本質ほんしつ」がとらえられていなければならない。【7】Xをはなというかたり指示しじし、Yをいしというかたり指示しじして、XとYを言語げんごてきに、つまり意識いしき現象げんしょうとして、区別くべつすることができるためには、初次はつじてきに、すくなくとも素朴そぼくかたちで、はないしそれぞれの「本質ほんしつ」が了解りょうかいされていなければならない。【8】そうでなければ、はなはあくまではないしはどこまでもいし、というふうにどう一律いちりつてきにXとYとを同定どうていすることはできない。
 ぜんしゃのいわゆる(だいいちてき)「やまはこれさんみずはこれすい」とは、このような「本質ほんしつ」から世界せかい無数むすうの「本質ほんしつ」によって様々さまざま区切くぎられ、複雑ふくざつ聯関れんかんう「本質ほんしつ」の網目あみめとおして分節ぶんせつてきながめられた世界せかい。【9】そしてそれがすなわちわれわれの日常にちじょうてき世界せかいなのであり、また主体しゅたいてきには、現実げんじつをそのようなかたちでみるわれわれの日常にちじょうてき意識いしき表層ひょうそう意識いしき本源ほんげんてきなありかたでもある。意識いしきをもし表層ひょうそう意識いしきだけにかぎってかんがえるなら、意識いしきとは事物じぶつ事象じしょうの「本質ほんしつ」を、コトバの意味いみ機能きのう指示しじしたがいながら把捉はそくするところに生起せいきする内的ないてき状態じょうたいであるといわなければなるまい。【0】表層ひょうそう意識いしき根本こんぽんてき構造こうぞう規定きていするものとしての志向しこうせいには、「本質ほんしつ」の反省はんせいてきあるいはぜん反省はんせいてき――ほとんど本能ほんのうてきとでもいえるかもしれない――把握はあくつね先行せんこうする。この先行せんこうがなければ、「……の意識いしき」としての意識いしき成立せいりつないのである。…(中略ちゅうりゃく)…意識いしきがXにむかってすべしてく、その初動しょどう瞬間しゅんかんにおいて、Xはすでになにかであるのだ。そしてXをなにかであるものとして把握はあくすることは、すなわちXの原初げんしょてき定義ていぎであり、もっと素朴そぼくかたちにおける「本質ほんしつ把握はあく以外いがいなにものでもない。もしこのような原初げんしょてき本質ほんしつ把握はあくもなしにただやみくもに「そと」にけば、たちまちあの「ねばねばした」はなもない不気味ぶきみな「存在そんざい」の混沌こんとん泥沼どろぬまなかにのめりんで、「嘔吐おうと」をもよおすほかはないだろう。そして、そうなればもう、「……の意識いしき」などかげかたちもなくなってしまうだろう。「存在そんざい」の深淵しんえん垣間見かいまみ嘔吐おうとてき体験たいけんえがくとき、サルトルが、この「存在そんざい啓示けいじ直前ちょくぜん状態じょうたいとして言語げんご脱落だつらくかたっていることは興味深きょうみぶかい。
 「ついさっきわたし公園こうえんにいた」とサルトルはかたす。「マロニエのはちょうどベンチのしたのところでふか大地だいちにつきさっていた。それがというものだということは、もはやわたし意識いしきには全然ぜんぜんなかった。あらゆるかたりせていた。そしてそれと同時どうじに、事物じぶつ意義いぎも、その使つかかたも、またそれらの事物じぶつ表面ひょうめん人間にんげんいたよわ符牒ふちょうせんも。まる気味ぎみに、あたましだれ、たったひとりでわたしまったなまのままのそのくろ々とふしくれった、おそろしいかたまりりにめんかってすわっていた。」
 絶対ぜったい分節ぶんせつの「存在そんざい」と、それの表面ひょうめんに、コトバの意味いみがかりにして、かぼそ分節ぶんせつせん縦横じゅうおういて事物じぶつ、つまり存在そんざいしゃ、をつくして人間にんげん意識いしきはたらきとの関係かんけいをこれほど見事みごと形象けいしょうした文章ぶんしょうわたしらない。コトバはここではその本源ほんげんてき意味いみ作用さよう、すなわち「本質ほんしつ喚起かんきてき分節ぶんせつ作用さようにおいてとらえられている。コトバの意味いみ作用さようとは、本来ほんらいてきには全然ぜんぜん分節ぶんせつのない「くろ々として薄気味悪うすきみわるかたまりり」でしかない「存在そんざい」にいろいろな符牒ふちょうけて事物じぶつつくし、それらを個々ここ別々べつべつのものとして指示しじするということだ。老子ろうしてきないいかたをすれば、(すなわち「無名むめい」)がいろいろな名前なまえゆう(すなわち「有名ゆうめい」)に転成てんせいするということである。しかしまえにもちょっといたとおり、およそがあるところには、かならずなんらかのかたちでの「本質ほんしつ認知にんちがなければならない。だから、あらゆる事物じぶつえてしまうということ、つまり言語げんご脱落だつらくとは、「本質ほんしつ脱落だつらく意味いみする。そして、こうしてコトバが脱落だつらくし「本質ほんしつ」が脱落だつらくしてしまえば、当然とうぜん、どこにものない「存在そんざい」そのものだけがのこる。「たちま一挙いっきょとばりけて」「ぶよぶよした、かい無秩序むちつじょかたまりりが、おそろしいみだらな(存在そんざいの)はだか」のまま怪物かいぶつのようにあらわれてくる。それが「嘔吐おうと」をこすのだ。
 「嘔吐おうと体験たいけんのこの生々なまなましい描写びょうしゃは「本質ほんしつ」なるものが人間にんげん意識いしきにとってどれほど大切たいせつなものであるかということをしめしている。志向しこうせい本性ほんしょうとする意識いしきは「本質ほんしつ脱落だつらく直面ちょくめんして途方とほうれる。おのれれのそとに「本質ほんしつ」、あるいは「本質ほんしつてきなもの、をなければ、意識いしき志向しこうすべきところをうしなう。しかし、志向しこうすべきところをまったくもたない意識いしきは、意識いしきとしてのみずからを否定ひていするほかはない。こうして「……の意識いしき」としての意識いしきは、一時いちじてきあるいは永続えいぞくてきに、収拾しゅうしゅうすべからざる混乱こんらん状態じょうたい一種いっしゅ病的びょうてき状態じょうたいおちいるのである。

井筒いづつ俊彦としひこ意識いしき本質ほんしつ」による)


長文ちょうぶん 2.2しゅう
 【1】あたらしい世紀せいきにむけ、なに次代じだいつたえるか。こういう課題かだいあたえられてわたしにやってくるのは、自分じぶんのこれまできてきた時間じかんがほぼ、日本にっぽんで「戦後せんご」とばれる時期じきかさなっていた、という感慨かんがいです。【2】この「戦後せんご」のなにがよきものでなに克服こくふくされなければならないか、それをあきらかにしたうえで、それにピリオドをつこと。わたしはいま自分じぶんのこされた課題かだいを、そんなふうにかんじています。
 【3】これまで戦後せんご道徳どうとくは、自分じぶんのことだけかんがえるな、まず社会しゃかいのため、めぐまれないひとのためにかんがえよ、とおしえてきました。これはある小説しょうせつおもさせてくれたことですが、わたしたち戦後せんごまれの人間にんげん小学生しょうがくせいころは、どこでも、クラスのうしろに、「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」といった標語ひょうごかかげられていました。【4】しかし、このひきへび相手あいてべあっているようなオールマイティのモラルのまどかたまきえんかんなかで、わたしたちは、どこからはじめればいいかわからず、じつは、モラルをへしげ、モラルにへしげられる、そういうモラルをきる感覚かんかくを、うしなってきたとおもいます。
 【5】昨年さくねんいちきゅうきゅうねん)、阪神はんしん地方ちほう大震災だいしんさいがありボランティア活動かつどうわか人々ひとびと中心ちゅうしんおおくの関心かんしんあつめました。これまでの私利しり私欲しよくわりこれからは公共こうきょうせいがモラルのバックボーンになるというひともいましたが、わたしはそうはおもいませんでした。【6】そうではなく、これまで「私利しり私欲しよく自分じぶんのため)」と「公共こうきょうせい他人たにんのため)」はつねに予定よてい調和ちょうわてき一致いっち外観がいかんせつつそのじつ二者択一にしゃたくいつ問題もんだいだった(「自分じぶんのため」はよくない、とされ、しかし時代じだいはその、「自分じぶんのため」でうごき、エコノミック・アニマルをつくりました)。【7】それがようやくこの「私利しり私欲しよく」――ひとりのため――を足場あしばに、ここから出発しゅっぱつして「公共こうきょうせい」――みんなのため――にいたるみちすじがえてきた。ここにポスト戦後せんご可能かのうせいはあるのではないか、わたしはある機会きかいさきろん反論はんろんし、そういた記憶きおくがあります。
 【8】わたしのかんがえのいわばバックボーンをなしているのは石橋いしばし湛山たんざんのリベラリズムのかんがかたです。なぜ石橋いしばし戦前せんぜん時期じき軍部ぐんぶ圧力あつりょくにもめげずかれだけ、というより例外れいがいてきはん軍国ぐんこく主義しゅぎ自由じゆう主義しゅぎしゃとしてつことができたのか。【9】かれ大正たいしょうのリベラリストが朝鮮ちょうせん中国ちゅうごくへの侵略しんりゃく人道じんどうにもとる、相手あいてわるいから、よくない、とべたとき自分じぶん所謂いわゆるいわゆる人道じんどう」という言葉ことばきらいだ、といいました。かれ数字すうじをあげ、相手あいてをパートナーでなく奴隷どれいにしてしまう侵略しんりゃくてき植民しょくみん政策せいさくなにより経済けいざいてきに、日本にっぽんとくにならない、といいます。【0】つまりかれは、知識ちしきじんが「相手あいてのため」にならないからこれをやめよう、というとき、「自分じぶんのため」にならないからこれをやめよう、といういいかたで、軍部ぐんぶこうし、またその人道じんどう」の本質ほんしつすくいだす論理ろんりつくったのです。
 では、こういう「自分じぶんのため」、「自分じぶんがしたいこと」にはじまり、そこから「ひとのため」にいたるみちすじは、どんなふうにつくられうるのでしょうか。
 阪神はんしん大震災だいしんさいでは、ボランティアに若者わかもの仕事しごとごのみするというので非難ひなんされました。ひとのためにしている実感じっかんできる老人ろうじん介護かいごなどの仕事しごとよろこんでするが、ボランティアらしくないデスク・ワークはいやがるというのです。しかしこの「ごのみするボランティア」、これにわたしは「自分じぶんのしたいこと」が「ひとのため」につながる、というあたらしいみち模索もさくする、わか人々ひとびと無意識むいしきはたらきをます。わたしたちはこれにくじらをたてるべきではない。ひゃくねん単位たんいかんがえれば希望きぼうは、このわがままなボランティアにこそ、あるのかもれないのです。

加藤かとうのりよう自分じぶんから他者たしゃへ――じゅういち世紀せいきしん課題かだい」より)


長文ちょうぶん 2.3しゅう
 【1】「大人おとな」はいち人前にんまえ社会しゃかいじんとしてさまざまな権利けんり義務ぎむをもつが「ども」はそうではない。「ども」は未熟みじゅくであり、大人おとなによって社会しゃかい荒波あらなみから庇護ひごされ、発達はったつおうじてそれにふさわしい教育きょういくけるべきである。【2】そうしたどもかんは、われわれにとってはほとんど自明じめいのものである。しかし、われわれのどもかんがどこでも通用つうようするわけではない。社会しゃかいことなれば、さまざまにことなったどもかんがあり、それによってどもたち自身じしん経験けいけんことなってくる。【3】このことをアメリカの社会しゃかい学者がくしゃカープとヨールズは、つぎのようなれいげてしめしている。
 たとえばナバホ・インディアンはどもを自立じりつしたものとかんがえ、部族ぶぞく行事ぎょうじのすべてにどもたちを参加さんかさせる。どもは、庇護ひごされるべきものとも重要じゅうよう責任せきにん能力のうりょくがないものともみなされない。【4】どもの言葉ことば大人おとな意見いけん同様どうよう尊重そんちょうされ交渉こうしょうごとで大人おとなどもの代弁だいべんをすることもない。どもがあるすようになっても、おや危険きけんなものを先回さきまわりしてのぞくようなことはせずども自身じしん失敗しっぱいからまなぶことを期待きたいする。【5】こうしたどもへの信頼しんらいは、われわれのには過度かど放任ほうにんともえるが、自分じぶん他者たしゃ自立じりつ尊重そんちょうするナバホの文化ぶんかおしえるのにもっとも有効ゆうこう方法ほうほうであるという。(中略ちゅうりゃく
 【6】今日きょうのわれわれのどもかん、つまり「ども」をある年齢ねんれいはば区切くぎ特別とくべつ愛情あいじょう教育きょういく対象たいしょうとしてどもをとらえる見方みかたは、フランスの歴史れきし、フィリップ・アリエスによればしゅとして近代きんだい西欧せいおう社会しゃかい形成けいせいされたものであるという。【7】アリエスは、ヨーロッパでも中世ちゅうせいにおいては、どもは大人おとなくらべて身体しんたいちいさく能力のうりょくおとるものの、いわば「ちいさな大人おとな」とみなされ、ことさらに大人おとなちがいがあるとはかんがえられていなかったという。【8】どもは「どもあつかい」されることなく奉公ほうこう見習みなら修行しゅぎょう日常にちじょうのあらゆる大人おとなじって大人おとなおなじようにはたらき、あそび、らしていた。どもがしだいに無知むち無垢むく存在そんざいとみなされて大人おとな明確めいかく区別くべつされ学校がっこう家庭かてい隔離かくりされるようになっていったのは、じゅうなな世紀せいきからじゅうはち世紀せいきにかけてのことである。【9】アリエスはこのプロセスを「『子供こども』の誕生たんじょう」のなかで、どもをえがいた絵画かいがどもの服装ふくそうあそび、教会きょうかいでのいのりの言葉ことば学校がっこうのありさまなどを丹念たんねん記述きじゅつすることによってりにしている。【0】アリエスらによる近年きんねん社会しゃかい研究けんきゅうは、われわれになじみのふかどもかんも、そして、ひと幼児ようじぎ、自分じぶん自分じぶんまわりの世話せわができるようになってからもすぐに大人おとなにならずに「ども」ごすというライフコースのありかた自体じたいも、歴史れきしてき社会しゃかいてき産物さんぶつであることをあきらかにした。
 西欧せいおうでは「ども」は、社会しゃかい近代きんだいのプロセスにおいて、近代きんだい家族かぞく学校がっこう長期ちょうきてき発展はってんのなかから徐々じょじょされていった。一方いっぽう日本にっぽんでは、明治めいじ政府せいふによる急激きゅうげき近代きんだい政策せいさくのなかで、近代きんだい西欧せいおうどもかん影響えいきょうけながらも、西欧せいおうとはややことなったプロセスで「ども」の誕生たんじょうをみることになった。
 明治維新めいじいしんまで、どもはどもとして大人おとなから区別くべつされる以前いぜん封建ほうけん社会しゃかい一員いちいんとしてまず武士ぶしどもであり、町人ちょうにんどもであり、あるいは農民のうみんどもであった。さらに男女だんじょべつがあり、おな家族かぞくまれても男児だんじ女児じょじではまったくちがったあつかいをけた。たとえば武家ぶけ跡取あととりのどもは、いつ父親ちちおやんでも家格かかく相応そうおう役人やくにんとしていち人前にんまえつとろくることができるようはやくからきびしい教育きょういくほどこされたし、農民のうみんどももおさないころからおや仕事しごと手伝てつだむらども集団しゅうだん参加さんかして共同きょうどうたい一員いちいんとしての役割やくわりになった。近世きんせい後期こうき以降いこう寺子屋てらこやさとがく農村のうそんにまでつくられそこできの初歩しょほならうこともあったが、それはあくまで日常にちじょう生活せいかつ必要ひつよう知識ちしきにとどまり労働ろうどうのなかでおやたちからおしえられる日常にちじょう区別くべつされるものではなかった。どもたちは封建ほうけんてき区分くぶんのなかで、所属しょぞくする階層かいそう男女だんじょべつおうじてそれにふさわしい大人おとなとなるようしつけられた。
 明治めいじいちはちななねん学制がくせい公布こうふは、そのようにそれぞれ異質いしつ世界せかいにあったどもたちを、学校がっこうという均質きんしつ空間くうかん一挙いっきょすくいとり、「児童じどう」という年齢ねんれいカテゴリーに一括いっかつした。その意味いみで、わがくににおいて「ども」はまず、建設けんせつされるべき近代きんだい国家こっかにな国民こくみん育成いくせいをめざして、義務ぎむ教育きょういく対象たいしょうとして、制度せいどてきされたということができよう。
 しかし、制度せいどができたからといって、「児童じどう」という存在そんざいたいして当時とうじひとびとがすぐさま今日きょうのわれわれがもっているような「ども」のイメージをいたわけではない。社会しゃかいてき文化ぶんかてき意味いみで「児童じどう」という存在そんざいにある属性ぞくせい付与ふよされ、近代きんだいてきな「ども」かん誕生たんじょうするためには、学制がくせいという制度せいどくわえ、もうひとつべつ契機けいき必要ひつようであった。それが文学ぶんがくであった、と谷行たにいきじん(からたにこうじんべている。
 だにからたにによれば、「児童じどう」は「風景ふうけい」や「内面ないめん」とともに近代きんだいになってはじめて発見はっけんされた。「児童じどう客観きゃっかんてき存在そんざいしていることはだれにとっても自明じめいのようにみえる。しかし、われわれがみているような『児童じどう』はごく近年きんねん発見はっけんされ形成けいせいされたものでしかない」。「児童じどう」は明治めいじ末期まっき小川おがわ未明みめいをはじめとする文学ぶんがくしゃたちのゆめとしてあるいは退行たいこうてき空想くうそうとして見出みいだされた。今日きょう未明みめいらのえがいた「児童じどう」は、大人おとなによってかんがえられた児童じどうであって、まだ「しんども」ではない、と児童じどう文学ぶんがくしゃ教育きょういくしゃたちから批判ひはんされているが、じつ未明みめいらが賛美さんびえがいた観念かんねんてき存在そんざいによってこそ「児童じどう」は成立せいりつしたのである。その意味いみで、「児童じどう」がまず、ゆめ空想くうそうをともなう「ある内的ないてき転倒てんとうによって見出みいだされたことはたしかであるが、しかし、じつは『児童じどう』なるものはそのようにして見出みいだされたのであって、『現実げんじつども』や『しんども』なるものはそのあとで見出みいだされたにすぎない」(「日本にっぽん近代きんだい文学ぶんがく起源きげん」)。いわば、近代きんだいになってひとびとのどもにたいする認知にんち構図こうず変化へんかしたため、あたらしい輪郭りんかくをもった「ども」という存在そんざいかびがってきた。だにからたには、文学ぶんがくという制度せいどのなかにこの重大じゅうだい認知にんち図式ずしき変化へんかしょうじたとかんがえ、「児童じどう」はまず文学ぶんがくしゃのロマン主義しゅぎてき観念かんねんとしてまれたと主張しゅちょうするのである。


長文ちょうぶん 2.4しゅう
 生産せいさんせい向上こうじょう目指めざしてきた近代きんだい社会しゃかいは、機械きかい時間じかん管理かんり徹底てっていによって単位たんい時間じかんたりの生産せいさんせいたかめ、いちにちいち週間しゅうかんいちがついちねんといったかく周期しゅうき労働ろうどう時間じかん短縮たんしゅくおこなってきた。いちきゅうはちはちねん労働ろうどう基準きじゅんほう改正かいせいにより、日本にっぽんでもようやくしゅうよんあいだ目指めざして労働ろうどう時間じかん短縮たんしゅくはかうごきがくにがわから開始かいしされた。いまだに実質じっしつてきしゅうよんあいだ労働ろうどう実現じつげんしないとはいえ、自由じゆう時間じかん増大ぞうだい対応たいおうするための社会しゃかいシステムのありかた模索もさくされている。そこで目標もくひょうとされるのは年間ねんかんいちはち〇〇労働ろうどう時間じかん社会しゃかいであり、睡眠すいみん時間じかん通勤つうきん時間じかんのぞいても年間ねんかん自由じゆう時間じかんやくよん〇〇〇あいだとなる。さらに、圧倒的あっとうてきおお自由じゆう時間じかんは、人生じんせい全体ぜんたいのなかでおおきな比重ひじゅうめ、ひとびとは自由じゆう時間じかんごしかた中心ちゅうしん人生じんせい設計せっけいはからなければならない。
 しかしながら、近代きんだい社会しゃかい理念りねんしたでは、けっしてこの自由じゆう時間じかん個人こじん自由じゆう完全かんぜんゆだねられるわけではない。それは、自由じゆう裁量さいりょう時間じかんでありながら、労働ろうどう義務ぎむてき活動かつどうによってしょうじた疲労ひろう回復かいふくし、気晴きばらしになり、しかも自己じこ発展はってん文化ぶんか発展はってんにつながるような活動かつどうめることをもとめられる。享楽きょうらく主義しゅぎ自己じこ破壊はかいにつながるような時間じかんごしかたは、近代きんだい理念りねんはんするのである。その意味いみで、レジャーは、あたらしい時代じだい社会しゃかい規範きはんにしたがって水路すいろづけられることになる。
 他方たほうで、自由じゆう時間じかんごしかたは、時間じかんをあくまで定量ていりょうてき把握はあくする近代きんだい時間じかん観念かんねん依拠いきょしている。労働ろうどう時間じかん資源しげんとしてあつかわれ経済けいざいてき価値かちびるにつれ、それをめることによって獲得かくとくされた自由じゆう時間じかんにもその経済けいざいてき価値かち意識いしき反映はんえいされてくることは、必然ひつぜんきでもある。すなわち、自由じゆう時間じかん有効ゆうこう無駄むだなくごそうという意識いしきが、自由じゆう時間じかんない活動かつどう自体じたい浸透しんとうするのであり、近代きんだい時間じかん意識いしきは、自由じゆう時間じかんにおいてもわらない。複数ふくすうひとびとが共同きょうどうおこなうレジャー活動かつどうは、おおくのスポーツや趣味しゅみのクラブや個人こじん日常にちじょうかく周期しゅうきのスケジュールのなかで、厳格げんかくともされ、順序じゅんじょづけられ、進度しんど調整ちょうせいはかられる。
 しかし、時間じかん合理ごうりてき使つかおうとするわりには、自由じゆう裁量さいりょうせいうばわれたり期待きたいをかけすぎて、われわれはすべての活動かつどう時間じかん消費しょうひすることをわすれがちである。たとえば、テレビの番組ばんぐみをビデオに収録しゅうろくして自分じぶんきなときにるという発想はっそうは、時間じかん消費しょうひ自由じゆう裁量さいりょうせいたかめる工夫くふうであるようにえる。しかしこれは、いまめないがいつかむつもりでたくさんのほん悪癖あくへき想起そうきさせる。現実げんじつには、それはかぎられた自由じゆう時間じかんにきわめて時間じかん消費しょうひりょうおお活動かつどうみ、結局けっきょく睡眠すいみん時間じかんめる結果けっかになりがちである。この傾向けいこうは、消費しょうひ社会しゃかい論理ろんりによってさらに加速かそくされる。

 (長田ながた1おさむいち現代げんだい社会しゃかい時間じかん」『岩波いわなみ講座こうざ現代げんだい社会しゃかいがく 時間じかん空間くうかん社会しゃかいがく岩波書店いわなみしょてんいちきゅうきゅうろくねんによる。)


長文ちょうぶん 3.1しゅう
番目ばんめ長文ちょうぶん課題かだい長文ちょうぶんです。】
 【1】情報処理じょうほうしょり能力のうりょく
 これはまず、コンピューターのことをかんがえてください。コンピューターはいま、日進月歩にっしんげっぽしています。たとえばA、B、C、Dというふうにたくさんの情報じょうほうがあったとします。
 【2】ふるいコンピューターは、Bの情報じょうほう処理しょりできるけれども、AやCやDの情報じょうほう処理しょりできないとします。時間じかんもかかる。でもあたらしいコンピューターで情報処理じょうほうしょり能力のうりょくたかまれば、メモリーもおおきいし、クリックすることもできる。AもBもCもDも、処理しょりしてしまいます。
 【3】病気びょうきというのも、結局けっきょくひとつの情報じょうほうにしかぎません。そうすると、ふるくて情報処理じょうほうしょり能力のうりょくひくいコンピューターは、病気びょうきがあってもその病気びょうき情報処理じょうほうしょりすることができないので、病気びょうき解決かいけつすることができません。
 【4】ところが、あたらしいコンピューター、情報処理じょうほうしょり能力のうりょくたかいコンピューターは、AもBもCもDも、山積やまづみする問題もんだい一瞬いっしゅんのうちに情報処理じょうほうしょりしてしまいます。病気びょうきという情報じょうほう処理しょりされて、病気びょうきがなくなってくるわけです。
 【5】この情報処理じょうほうしょり能力のうりょくたかひくいというのは、そのひと病気びょうきたいする態度たいどだけをるのではなくて、そのひとがほかのひとたいしてどういう態度たいどをとっているのか――ということが非常ひじょう大事だいじになってきます。
 【6】つまり、自分じぶんのことだけを大事だいじにするとか、きらいが非常ひじょうにはっきりしているとか、このひとだったらきだけど、このひとだったらきらい……。これも結局けっきょく情報処理じょうほうしょり能力のうりょく非常ひじょうかぎられているということになります。
 【7】この情報処理じょうほうしょり能力のうりょくがうまくいかないひとつの原因げんいんは、まれたときの「たましい」という、ちいさいときのそだかたによってわってきます。ちいさいころに、おとうさんとおかあさんのいち〇〇%の愛情あいじょうと、自分じぶんあいされているという気持きもちをってそだっていないひとは、このコンピューターの情報処理じょうほうしょり能力のうりょくひくいまま、大人おとなになってくるわけです。
 【8】おとうさんが非常ひじょうこわひとで、いつもその顔色かおいろをうかがいながらおおきくなってきたというケースでは、そのひとしんは、そこできずついたまま、おおきくなってこないのです。からだおおきくなってくるけれども、しんおおきくなってきません。
 【9】情報処理じょうほうしょり能力のうりょくおおきくなってこないので、こういうひとたちが病気びょうきになったときに、それを自然しぜん情報処理じょうほうしょりする能力のうりょくがなくなってきます。病気びょうきという情報じょうほうたい処理しょりできなくなってくるのです。【0】これは病気びょうきだけではなくて、たとえばそのひと家庭かてい非常ひじょう不幸ふこうばかりであるとか、あるいは事故じここしやすいとか、あるいはなにをやってもうまくいかないとか、そういうものにもつうじてくるわけです。
 病気びょうきとは、簡単かんたんにいえば、そのひと情報処理じょうほうしょり能力のうりょくひくさがそこでりにされてくる――ということです。だから、その情報処理じょうほうしょり能力のうりょくたかめてあげるという治療ちりょうをすると、病気びょうきだけではなくて、ほかのことも処理しょりできるようになってきます。
 しんゆがみをなおすということは、これによってこされる肉体にくたいてき病気びょうきなおすことになりますが、あまりにも肉体にくたいてき症状しょうじょうにこだわるほうにはこうおはなしします。
わたしは、肉体にくたいてき病気びょうきというものにはあまり興味きょうみがありません。わたし興味きょうみがあるのは、その病気びょうきとおして、あなた自身じしん生活せいかつ人生じんせいをもっとたのしくする、しあわせにすることです。それがわたし治療ちりょうなので、ここがいたい、あっちがわるい、というはなし興味きょうみがないのです。だつてあなたは、あなた自身じしん肉体にくたいてき病気びょうきだけをなおしたとしても、それだけで本当ほんとうしあわせになれますか?」と。
 わたしは、病気びょうきとおして、そのひと人生じんせいがよりゆたかになるというかたち治療ちりょうこころがけています。病気びょうきとおして、患者かんじゃさんとそのほかの人々ひとびと人生じんせいゆたかにするというチャンスをげる、そういう治療ちりょう目指めざしているのです。
 肉体にくたいてき病気びょうきなおしは本当ほんとう通過つうかてんにすぎないのです。

 【1】しつけはしんめんじつ複雑ふくざつ仕事しごとをする。そとからてしつけでいち番目ばんめつのは母親ははおややそれにわるはたらきをする重要じゅうよう人物じんぶつどもの行動こうどう制限せいげんしてひとつのわくかたにはめむということである。どものおもいというより、おやおもいにしたがわせることである。
 【2】あかぼう時代じだいのように、どもは自分じぶんきに行動こうどうしたり、欲求よっきゅうたしたりすることができなくなる。おっぱいがしくてもあたえられなくなる。オシッコやウンチをながしにすると、しかられたり、きまった時間じかんやきまった場所ばしょにするようにうながされる。【3】また、食事しょくじもきまった時間じかん場所ばしょでしなければならない。よごれたらいやでもかおあらったり、ふくやシャツなどを着替きがえてぎれいにせねばならない。
 これまできなようにやれていたのに、この変化へんか大変たいへんなことである。【4】これまでやったこともないことを強制きょうせいされる。さからうとときにはばちいたにあう。さからってもよいことはない。したがうほかない。
 このようなそとからの心理しんりてき圧力あつりょくけいれることは大変たいへんなことである。【5】このためには、おや自分じぶんのためにやってくれているという信頼しんらい信用しんようしんのどこかでもっていることが必要ひつようである。いいかえると、母親ははおや世界せかい信頼しんらいするからこそ、はじめてしつけという苦痛くつう制限せいげんけいれることが可能かのうとなるのである。これによって苦痛くつう不快ふかい制限せいげんけいれるのである。
 【6】しかし、母親ははおやふくめて自分じぶん周囲しゅうい、つまり世界せかい自分じぶんばっあた行動こうどう制限せいげんするちからをもつものだという不信ふしんかんもどこかにのこる。これがアンビヴァレンスである。また、苦痛くつうこうがわにはおや同胞どうほう自分じぶん受容じゅようする世界せかいひらかれていること、自分じぶんがより一層いっそう自由じゆう表現ひょうげんができる世界せかいがあることも体験たいけんする。
 【7】このようにして、しつけはそとからの制限せいげん内在ないざいして、その内的ないてき規範きはんわくによって今度こんど自分じぶん統制とうせいし、社会しゃかいてきけいれられるようになるひととのかかわりのプロセスのことである。このことが自律じりつせい形成けいせいという重要じゅうようなプロセスであり、これはとても複雑ふくざつしんのプロセスということができる。
 【8】このプロセスを苦痛くつう不安ふあん妨害ぼうがいする。苦痛くつう不安ふあん不快ふかい対抗たいこうしてプロセスをすすめるのがおやへの信頼しんらいである。信頼しんらいがないとそとちから一時いちじてき屈服くっぷくさせられて命令めいれいしたがうが、その命令めいれい内在ないざいされない。【9】外的がいてき命令めいれい内在ないざいされないままの場合ばあい外的がいてきちからとおざかるとふたた自分じぶん内的ないてき衝動しょうどうしたがった行動こうどうてしまうことになる。
 内在ないざいすくないことは、自分じぶん行動こうどう自己じこ統制とうせいするちからまれないことを意味いみしている。【0】だから外的がいてき適応てきおうした行動こうどう必要ひつようなときには、その外的がいてきちから代表だいひょうするじんがいなければならないことになる。普通ふつうはこの役割やくわり母親ははおやまかせ、自分じぶん身代みがわりの代理だいり自我じがとして行動こうどうしている。そして、てきあたえられるものをるというしん体制たいせいをつくりあげてしまう。
 内的ないてき規範きはんをつくりあげて、構造こうぞうができるためには、うちはつてき規制きせい思案しあんしなければならない。しかしわがくに場合ばあい外的がいてきなもので行動こうどう規制きせいしたり、また支援しえんしたりすることがおおい。れいとして、ごろわたしたちのにとまるのは、つぎのようなことではないだろうか。
 わたし勤務きんむへの通勤つうきんにJRを利用りようしている。車両しゃりょうよんにんかけけでたまに親子おやこ同席どうせきしてすわることがある。行儀ぎょうぎわるく、せきうえさわいだり、くつのままでせきよごしたりすることがある。しかし、母親ははおや平気へいきどものために他人たにん迷惑めいわくをしていることなど、関心かんしんがないかのようにう。こんなときに、おもいきって注意ちゅういをすると、どもはおとなしくなるが、母親ははおやおこったようなかおをする。わるかったとあやまひとおおくない。しばらくして、またどもがごそごそすると、今度こんどつぎのようにう。「ほら、となりこわいおじさんがいるから、しずかにしなさい」「となりのおじさんがまた、おこるよ」どもはわたしほうをじろりとしずかになる。どもが他人たにん迷惑めいわくをかけているのは、どもやおや問題もんだいではなく、となりのうるさいジジイのせいなのである。行動こうどう規制きせい内的ないてきというより、わたしという外側そとがわ人間にんげんのせいなのである。わたしがいなければ、おな行動こうどう平気へいきゆるされるらしい。
 わたしたちはこのような外的がいてき規制きせいをいつもやっていないだろうか。「近所きんじょひとているよ」「先生せんせいからしかられるよ」「友達ともだちわらうよ」といった外的がいてき規制きせいは、うちはつてき善悪ぜんあく基準きじゅんをつくりあげるはたらきかけではない。「周囲しゅういているか」「権威けんい」といったことによって、自分じぶん行動こうどう規制きせいし、価値かち判断はんだんをしようとする姿勢しせいである。
 これらの姿勢しせい自分じぶん価値かち判断はんだんをするのではなく、周囲しゅうい判断はんだんまかせ、それにしたが姿勢しせい要請ようせいしていることになる。そのためには、いつも周囲しゅうい反応はんのうはどうか、周囲しゅうい判断はんだんはどうかに敏感びんかんでなければならない。
 ある行動こうどうをしてわるかったのは、他人たにん注意ちゅういをしたからであり、他人たにんわるいと判断はんだんしたからである。だから、おな行動こうどうでも、他人たにんわるいと判断はんだんしなかったり、判断はんだんのがれたりすると、それはゆるされる行動こうどうとなってしまう。場面ばめんによって、おなじことが駄目だめになったり、よいということになったりする。
 さきほどの列車れっしゃのなかでのどもの行動こうどうも、わたし駄目だめったから駄目だめなのであり、まえにはおな行動こうどうゆるされていたのである。また、わたしがいなければゆるされるのである。 (中略ちゅうりゃく
 これが人格じんかくせいということであり、自律じりつせい形成けいせい不全ふぜんである。せいあたえられた遂行すいこうすべき課題かだいたいして無力むりょくとなることがおおい。母親ははおやのような代理だいり自我じが存在そんざいする場合ばあい適応てきおうてき行動こうどうをすることができるが、代理だいり自我じがてき人物じんぶつがいないと、無力むりょく自分じぶん人前ひとまえにさらされてしまうことになる。かくすべき自分じぶんかくじゅつもなく、自分じぶんがむきしのままひとにさらされる可能かのうせいたかくなる。
 
たたら八郎はちろうはじ意地いじ――日本人にっぽんじん行動こうどう原理げんり」による)


長文ちょうぶん 3.2しゅう
 【1】人間にんげん科学かがくにおける根本こんぽん問題もんだいは、研究けんきゅう対象たいしょう人間にんげんであり、それをおこな主体しゅたいほう人間にんげんである、ということである。このことは、人間にんげん科学かがくかんがえるうえわすれてはならないことである。しかし、「科学かがく」という場合ばあい、われわれは、まず自然しぜん科学かがくのことをかんがえ、わけても物理ぶつりがくをその中心ちゅうしんとしてかんがえるのではなかろうか。【2】村上むらかみ陽一郎よういちろうは「科学かがく」ということについて、つねふか思索しさく展開てんかいしてきているが、一般いっぱんに、科学かがくてきということにたいして、「分析ぶんせきてきである」という暗黙あんもく前提ぜんていがあり、このことをもうすこくわしくえば、「現象げんしょうを、ただ現象げんしょうとしてとらえるのではなく、【3】その現象げんしょうを、それを成立せいりつさせているなんらかの要素ようそぐん分解ぶんかいし、その要素ようそぐんが、時間じかん空間くうかんのなかでどのようにうか、その有様ありさま記述きじゅつすることによって、もとの現象げんしょう説明せつめいする」ということになろう、とべている。【4】そして、このようなかんがえにかぎり、物理ぶつりがく科学かがくのなかの模範もはんとなってくるのも当然とうぜんであろう、としている。
 村上むらかみうとおり、この方法ほうほうによって近代きんだい科学かがくはその方法ほうほうろん確立かくりつし、これによって事象じしょう因果いんが関係かんけい法則ほうそくることにより、人間にんげん自然しぜん支配しはいするようになってきたのである。【5】近代きんだい科学かがく成果せいかててここにべる必要ひつようがないほど、われわれは日毎ひごとにその恩恵おんけいけてきている。このように近代きんだい科学かがく成果せいかがあまりにも見事みごとであるので、近代きんだい科学かがくによる現実げんじつ認識にんしき唯一ゆいいつただしいものである、というかんがえが一般いっぱんつよくなってきたのも当然とうぜんである。【6】しかし、ここでわれわれは近代きんだい科学かがくただしいというのと、近代きんだい科学かがくによる世界せかいかんただしいというのを区別くべつしてかんがえねばならない。
 近代きんだい科学かがくのはじまりにおいて、その方法ほうほうろん根本こんぽんにいわゆるデカルト―ニュートンのパラダイムがあることをわすれてはならない。【7】このことは、かならずしもデカルトやニュートンという人間にんげんがそのような世界せかいかんをもっていたことを意味いみするものではないが、近代きんだい科学かがくのよってつパラダイムを通常つうじょうこのようにならわしているのである。
 【8】デカルト―ニュートン・パラダイムにおいてもっと大切たいせつなことは、明確めいかくな「切断せつだん」の機能きのうである。おのずはなすこと、精神せいしん物質ぶっしつはなすことがだいいち前提ぜんていである。からはなされた「」がおのず無関係むかんけいに、「」を観察かんさつする。【9】その結果けっかわかってきたことは、「」と無関係むかんけいであるゆえに、だれにでも通用つうようする普遍ふへんせいをもつ。このことはじつ偉大いだいなことである。ニュートンの見出みいだした法則ほうそくは、ニュートンという人間にんげん、イギリスというくになどをえて普遍ふへんてき真理しんりとしても提出ていしゅつできる。【0】もちろん、これにたいして疑問ぎもんていすることはだれでも可能かのうであり、そのさいは、ニュートンのおこなったのとおな実験じっけんを、かれの「」を事象じしょうからはな方法ほうほう踏襲とうしゅうしておこない、検証けんしょうすることができる。論理ろんり実証じっしょう主義しゅぎという方法ほうほうろんによって、ある法則ほうそくただしさが、だれにでもなんでも、たしかめることができるようになったのは、じつ強力きょうりょくなことである。それのもつ普遍ふへんせいというものがじつひろいのである。 (中略ちゅうりゃく
 自然しぜん科学かがく方法ほうほうおよび、そこからられる結果けっか普遍ふへんせいをもち、その法則ほうそくがあまりに有効ゆうこうであるので、その方法ほうほう社会しゃかい科学かがく人文じんぶん科学かがくりようとするのも無理むりからぬことである。そして、そのような方法ほうほうによってそれなりの成果せいかている。そこで、自然しぜん科学かがく方法ほうほう人間にんげんたいしても適用てきようすることによって、「人間にんげん科学かがく」が発展はってんするわけで、生命せいめい科学かがくなどはこの部類ぶるいぞくするであろう。このような「人間にんげん科学かがく」は今後こんごますます発展はってんしてゆくであろう。しかし、これだけによって、人間にんげん研究けんきゅうのすべてをつくしているとはがたいのである。
 ここで筆者ひっしゃ専門せんもんとする臨床りんしょう心理しんりがくにおけるれいについてかんがえてみよう。たとえば、ある非行ひこう少年しょうねんたいしてわれわれが「」と「」の区別くべつあきらかにして、きわめて客観きゃっかんてき研究けんきゅうおこなった結果けっか、その少年しょうねん非行ひこうかた両親りょうしんかた友人ゆうじん有無うむなどから判断はんだんして、「さい教育きょういく不能ふのう」と断定だんていする。その客観きゃっかんてき観察かんさつつづけたところ、たしかに非行ひこうはますます悪化あっかし、さき科学かがくてき判断はんだんただしいことが立証りっしょうされる。このようなことをしても、まったくのナンセンスであることはだれしもわかるであろう。
 このようなとき、臨床りんしょうのこころみることは、前述ぜんじゅつした自然しぜん科学かがくてき態度たいどとはことなって、その非行ひこう少年しょうねん行為こういを「それをりたせているなんらかの要素ようそぐん分解ぶんかいし」たりするのではなく、まず、その少年しょうねんいち全体ぜんたいてき人間にんげんとして、むしろ、「」と「」との区別くべつをできるだけなくするようにして、かれとのかかわりをもとめてゆくことである。われわれがそのような態度たいどせっしてゆくと、その少年しょうねんはあんがいに本音ほんねはなしをしてくれたり、だれにもはなしをしたことのない大切たいせつ秘密ひみつ打明うちあけたりして、そこから、かれなおってゆくきっかけがひらかれたりする。もちろん、いち面接めんせつこと解決かいけつすることはなくて、われわれが前述ぜんじゅつのような態度たいどせっつづけていると、かれもだんだんと変化へんかしてなおってくる。ここは、そのことについてろんじるではないので省略しょうりゃくするが、このような過程かてい記述きじゅつすることも、「人間にんげん科学かがく」であるとえないであろうか。
 キュブラー・ロスはにゆくひととって、その過程かていとして一般いっぱんてきって、1否認ひにん、2いかり、3(かみとの)き、4そもそもよくうつ、5受容じゅよう、の段階だんかいることをあきらかにした。彼女かのじょのこのような発見はっけんは、現在げんざいにおいてターミナルケアをするひとたちにたいする重要じゅうようなひとつの指針ししんとなっている。このことにしても、もしキュブラー・ロスがんでゆくひとを「客観きゃっかんてき観察かんさつ対象たいしょう」とする態度たいどせっしていたのでは、けっしてあきらかにならなかったであろう。つまり、研究けんきゅう対象たいしょうである人間にんげんたいして、研究けんきゅうしゃがどのような態度たいどをとるかによって、そこにしょうじる現象げんしょうことなってくるし、また、そのことこそが人間にんげん研究けんきゅうにとってきわめて大切たいせつなことなのである。

河合かわい隼雄はやお人間にんげん科学かがく可能かのうせい」による)


長文ちょうぶん 3.3しゅう
 【1】そういう「定着ていちゃく文化ぶんか」というか、うごかないことがよしとされる日本にっぽんそだったわたしは、ながじてアラビアでのフィールドワークをするようになったとき、そうではない文化ぶんか、「移動いどう文化ぶんか」ともいえるものにぶつかり、あるしゅのショックをけた。【2】といっても、それは文化ぶんかからきたわたしだから「ショック」なので、そのひとたちにとってはごくあたまえのこと。おどろきでもなんでもない。【3】わたしのフィールドのように自然しぜん条件じょうけん社会しゃかい条件じょうけんがきびしいところでは、しんどいことの連続れんぞくなのだが、こういうおどろき、異質いしつさの魅力みりょくというものにかれてなんとか今日きょうまでやってこられたようにおもう。
 【4】アラビアの砂漠さばくでは、昼間ひるま暴君ぼうくんである太陽たいようが、よるのやさしさにその支配しはいけんわたし、やっとおだやかなよるがおとずれると、わたしもみなといっしょにほっとしたものだった。【5】すなうえよこたわり、ねぶくろからかおだけしてアラビアのほしたちと交信こうしんするのも、たのしみのひとつだった。研究けんきゅう対象たいしょうはもちろんてんほしではなく、地上ちじょう遊牧民ゆうぼくみん、ベドウィンだったが、かれらの移動いどうについて調査ちょうさしていて、どうもよくわからないことがでてきた。【6】なぜ移動いどうするのだろう。うごく必要ひつようはないではないか。みずくさどもたちの学校がっこう、そのほかの生活せいかつ条件じょうけんどうじ、あるいはわるくなるかもしれないのに、うごくことがあるのだ。
 【7】このあたりのことは、さきに「アラビア・ノート」(NHKブックス、いちきゅうななきゅうねん)ですこしふれたが、「どうしてなの」ときくわたしに、「なにもかもよごれてしまったからね」というこたえがかえってきた。これだけではどういうことかよくわからなかった。【8】フィールドワークをしていると、言葉ことばのやりとりだけではわからないことがたくさんあった。当然とうぜんのことである。ひとは、言葉ことばだけでわかりあうわけではない。
 いちねんほどいっしょにくらすうち、すなのまじった食事しょくじにならなくなるのと同時どうじくらいにかれらの「移動いどう哲学てつがく」がわかってきた。【9】体系たいけいてきなものを哲学てつがくとしてもっているわけではないが、かれらは人間にんげんがひとつのところにじっとしているのは退行たいこう意味いみするとかんじているのである。
 ひとつのところで生活せいかつをしていると、ごみがてくるとか、死人しにんたというような物理ぶつりてきなよごれもあるのだが、人間にんげんしんのほうもよごれてくる、よどんでくるようにかんじているようなのだ。【0】うごくことによって浄化じょうかされるという感覚かんかくをもっている。これはセムぞくなかふるくからあるものとつながっているようでもある。「旧約きゅうやく聖書せいしょ」にも、荒野あらの放浪ほうろうし、きよめられたもののみカナンのれるという思想しそうがみいだされる。いずれにしろ、うごくことによって浄化じょうかされるのだというおもいが、ふつふつとからだのなかにわいてくるようなところがあるようだ。 (中略ちゅうりゃく
 そういうもと遊牧民ゆうぼくみんたちだけでなく、オックスフォードやハーバードに留学りゅうがくしたようないわゆる「都会とかい遊牧民ゆうぼくみん」といえるアラビアじんたちのなかにも「どう思想しそう」はビルトインされているようである。政府せいふ役人やくにんでも、いちカ所かしょにじっとしているひとすくない。あちこちにみなとすなわちオフィスをもっていて、ふうのようにてはるのでつかまえるのに苦労くろうする。ポケットベルがよくれており、コードレス電話でんわ日本にっぽん普及ふきゅうするよりはるかまえからひとびとのあいだで使つかわれていた。よくうごくかれらは、これらを使つかってビジネスじょう連絡れんらくをとるというよりは、家族かぞく友人ゆうじん親類しんるい連絡れんらくをとり、おしゃべりをたのしんだりするのである。しょくをかえることも日常にちじょうてきなことである。
 日本人にっぽんじん終身しゅうしん雇用こようはなしをすると、をまるくしておどろき、就職しゅうしょくするときに「絶対ぜったいうごきません」というような契約けいやくをしてしまうのかとたずね、けげんなかおをする。いや、そんな契約けいやくはしないが、ほとんどのひとはうごかない、一生いっしょうおな職場しょくば仕事しごとをするのだというと、ますますおどろかれてしまう。
 からだもしんもうごいていくことを前提ぜんていとするかれらは「ハサブ・ル・ズルーフ」という言葉ことば日常にちじょう生活せいかつのなかでよく使つかう。「そのときの状況じょうきょうしだい」という意味いみである。すべての「時間じかん」は「現在げんざい」に集約しゅうやくされるとかんがえ、大事だいじなのは、おな時間じかんおな空間くうかんでわかちあっているこの瞬間しゅんかん現在げんざいしかないのだという。明日あしたはこうしようとおもっていても、つぎあさきてみると状況じょうきょうがうごいているかもしれない。はは危篤きとくとか、本人ほんにんねつしたとか、そういうときはその状況じょうきょうにしたがって行動こうどうするしかない。そこで約束事やくそくごとには、日本にっぽんでは悪名あくめいたかい「インシャーアッラー」(かみ意志いしあらば)という言葉ことばをそえて処方箋しょほうせんとする。人間にんげん意志いしだけで、ものごとはうごくわけではない。昨日きのう今日きょうをしばることもできない。晴耕雨読せいこううどく感覚かんかくきるということになるだろうか。
 それではこまるとかんがえられるときには、だい処方箋しょほうせん契約けいやくにもちこむ。古来こらいより、こい詩歌しかあいし、ロマンスをこのむアラビアじんだが、こいほのおもうつろうことを認識にんしきしている。うつろうからこそロマンティックなのだとかんがえているようである。そこであらかじめ、うつろったときのことをかんがえて、結婚けっこん契約けいやくとする。離婚りこんにいたったときの処置しょちめておくのである。結婚けっこん契約けいやくしょをとりかわし、そこに契約けいやく解除かいじょのときの具体ぐたいてき事項じこうもかきこまれるのだ。
 カナダのエジプトじん調査ちょうさのおり、れたムスリム(イスラーム教徒きょうと)の結婚けっこん契約けいやくしょにも、解約かいやく事項じこうをかきいれるらんおおきくあけられてあった。
 「うごく」あるいはうつろうことを前提ぜんていとした書類しょるいと、さきにのべた「うごかない」ことを前提ぜんていとした日本にっぽん書類しょるいとをくらべてみると、文化ぶんか差異さい象徴しょうちょうてきにわかるようにおもう。アラビアから地理ちりてきにたいへんとおいカナダにまで、さかんに移動いどうしていることをったのもおどろきであったが、そのような遠隔えんかくで、しかも文化ぶんかのまったくことなる環境かんきょうにあっても、自分じぶんたちの「どう文化ぶんか」を大切たいせつにしてきているひとたちがいることを、フィールドワークは、あきらかにしてくれたのだった。

 (片倉かたくらもとこ「『移動いどう文化ぶんかこうイスラームの世界せかいをたずねて」)


長文ちょうぶん 3.4しゅう
 思考しこうかたりとはべつだというかんがえは、言語げんごをもっぱら伝達でんたつ手段しゅだんなす言語げんごかんによっても補強ほきょうされよう。「きれいな夕焼ゆうやけだね」とひとかたるとき、まずわたしのなかに、きれいな夕焼ゆうやけだというおもいがあり、それを相手あいて伝達でんたつするために、そのような言葉ことばはっしたのだとかんがえられる。言語げんごがもっぱら自分じぶん思考しこう相手あいて伝達でんたつするための手段しゅだんだとすれば、思考しこうかたりとはべつであり、かたりにせんだって形成けいせいされるということになろう。
 しかし、かんがえることはかたることと本当ほんとうべつなのだろうか。かたることにせんだって思考しこう形成けいせいされ、それをたんに日常にちじょう言語げんご表現ひょうげんするにすぎないのだろうか。言葉ことばもちいてかんがえるとき、まさにかたることとともに、思考しこう形成けいせいされているようにみえる。「今日きょうあついな」とかたるとき、そのときはじめて今日きょうあついなという思考しこう形成けいせいされたのであって、かたることにさきだってあらかじめそのような思考しこう形成けいせいされていたようにはおもえない。もしかたることにせんだって思考しこう形成けいせいされていたとすれば、その思考しこう無意識むいしき思考しこうということになるだろう。わたしが今日きょうあついなと意識いしきてきかんがえたのは、「今日きょうあついな」とかたったときである。したがって、それにさきだって、今日きょうあついなという思考しこうがあったとすれば、それは無意識むいしきてき思考しこうにほかならない。
 このような無意識むいしきてき思考しこう存在そんざいするかどうかという問題もんだいについては、ここでは紙幅しふく都合つごうじょうあつかわない。そのような無意識むいしきてき思考しこう存在そんざいするとすれば、それはかたりとはべつだといえるかもしれない。しかし、意識いしきてき思考しこうについては、どうであろうか。わたしが今日きょうあついなと意識いしきてきかんがえるのは、まさに「今日きょうあついな」とかたるときである。この場合ばあいですら、思考しこうかたりとはべつなのであろうか。そうだとすれば、「今日きょうあついな」とかたることとはべつに、そしてそれと同時どうじに、今日きょうあついなという意識いしきてき思考しこう形成けいせいされていることになる。しかし、「今日きょうあついな」とかたるとき、わたしの意識いしきにのぼるのは、「キョウワアツイナ」という音声おんせいこえしたものであれ、あたまなかのものであれ)だけである。それとはべつに、今日きょうあついなという思考しこう意識いしきあらわれるわけではない。したがって、思考しこうかたりとべつだとすれば、ここでも思考しこう無意識むいしきてきだということにならざるをえない。つまり、意識いしきてきかたりの背後はいごに、無意識むいしき思考しこう存在そんざいするということにならざるをえないのである。
 結局けっきょく意識いしきてき思考しこうみとめようとすれば、言葉ことばもちいて意識いしきてきかんがえるとき、思考しこうかたりにほかならないとかんがえるほかないであろう。「今日きょうあついな」とかたるとき、そうかたることが今日きょうあついなとかんがえることであり、それとはべつにそのような思考しこうがあるわけではないのである。「きれいな夕焼ゆうやけだね」とひとかたるときは、たしかにそうかたるまえに、きれいな夕焼ゆうやけだというおもいが形成けいせいされていよう。しかし、そのおもいが意識いしきてきだとすれば、それはわたしのあたまのなかで「きれいな夕焼ゆうやけだ」とかたること(つまりない)によって形成けいせいされたものにほかならないだろう。そうだとすれば、この場合ばあいも、きれいな夕焼ゆうやけだというおもいは「きれいな夕焼ゆうやけだ」といううちにほかならないのである。

 (しんじはら幸弘ゆきひろ言語げんごによる思考しこう臨界りんかい」による。)