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課題集
長文 1.1週
【1】
近時、
大学教師の
悩みの
種は、
授業中の
私語の
多さである。
私はいつも
最初の
講義のとき、「オシャベリはいけない」と
学生たちに
厳しい
態度を
示してから
講義に
入ることにしている。
【2】
問題は
私語ばかりではない。
昨年あたりから、
教室に
新現象が
起こり
始めた。
四月、いつものように
私語禁止をい
渡してから
講義に
入った。
学生たちは
静かに
聞いている。
今年の
学生は
質がよいのかと、
私はうれしくなった。【3】が、ふと
見ると、
前から
三分の
一あたりのところで、
机上に
英語の
教科書と
辞書を
広げている
者がいる。ちなみに
私の
授業は「
西洋精神史」であって、
英語ではない。だから、
彼女の
行為は「
内職」である。
【4】
授業中の
内職は、
別に
新しい
現象ではない。だが、
内職は
教室の
後ろのほうで、
机の
下でこっそりとやるから
内職というのである。
前のほうで、しかも
机の
上で
堂々とやる
内職は
初めて
見た。つまり、
彼女には、
自分が
悪いことをしているという
意識がまったくないのである。
【5】こういう
学生を
叱るのは
実に
骨が
折れる。「なぜ
悪いのか」をわからせるのがひと
苦労なのだ。もともと
内職が
悪いことだとは
毛頭思っていないから、
注意すると、ただポカンとして
私の
顔を
見つめる。【6】
彼女らはおそらく、
小学校でも、
中学校でも、
高校でも、また
家庭でも、そうしたことで
注意されたことがないのであろう。
同じことはアクビについても
言える。
授業中にアクビをするなと
言うと、
学生たちは
不思議な
顔をする。「
生まれて
初めてアクビを
注意されました」と
言わんばかりである。
【7】こんなことは
昔なら
一言、「
礼儀を
重んじなさい」と
言えば
済んだ。それがいまは
通じない。「いけないこと」を
一つひとつ
示し、「なぜいけないのか」を
丁寧に
説明しなければならないのである。
原理原則に
従う
行動様式、
思考様式を
持っていないから、
原理を
示しても
無駄なのだ。
【8】
評論家やジャーナリストは、こういうタイプの
人間を「
指示待ち
人間」「マニュアル
世代」などと
名付けるが、
現象だけしか
見ない、
皮相なとらえ
方である。
彼らは
単に、
指示を
待たなければ、マニュアルがなければ
行動できないというのではなく、
抽象的な
原理に
従って
行動することができないのである。【9】つまり、
自分の
中に
行動の
原理原則がないのだ。いわば、
自分の
中心に
背骨がないようなものである。それゆえ、
本質を
見るならば、こういう
型の
人間はずばり「
背骨のない
人間」「
無脊椎人間」とでも
呼ぶべきなのである。【0】
行動の
原理原則の
中でいちばん
大切なのが「
善悪」の
原理である。そして、これを
教えるのは
主として
父親の
役割である。
母親は、
個々の
行為について「よい」「
悪い」を
注意するが、
父親は、そもそも
世の
中にはして「よい」ことと「
悪い」ことがあるのだという
原理を
教えるのである。
ところが、いまは
父が
父の
役割を
果たしていない。その
結果、
善悪の
感覚のない
人間が
成長してしまう。たとえ「よい」「
悪い」の
区別を
教えられたとしても、その
基準はせいぜい「
他人に
迷惑をかけない」「
他人を
傷つけない」という
程度だから、
礼儀やマナー、あるいはその
行為が「
美しい」か「
醜い」か、「
他人に
不快感を
与えない」かどうかという
視点が
欠落してしまう。だから、
遅刻も
内職もアクビも
居眠りも、すべて「
悪くない」ということになってしまい、たまたま
注意を
受けると
意外だという
顔をするのであろう。
長文 1.2週
【1】
真意を
伝えるのはむつかしいが、
誤解をうけることはやさしい。
私はけっして
文学至上主義者ではないが、
同様、
視聴覚文化の
主謀者でもないつもりだ。【2】
私が
言いたいのは、
要するに、
言語芸術と
視聴覚芸術とは、
機械的に
対立させられるべきものではなく、そこに
共通の
課題を
見出すことによって、はじめて
両者の
独自性も
発揮できるのだという、ごく
単純なことにすぎないのである。
【3】サルトルは、「
嘔吐」(
正しくは、むかつきとでも
訳すべきものだろう)という
小説の
中で、まだ、
名づけられないもの(=
実存)が
人間にあたえる
衝撃と
苦悩をえがいた。
名づけ、
言語の
秩序の
中にくりいれることで、
人間は
外部の
存在を
服従させ、
安全なものにし、
家畜化することができたのである。【4】たとえば、
棒に
棒という
名前をあたえ、
棒として
認識することで、
個々の
棒ではない、
抽象的な
棒一般(
無限個数の
棒)を
手に
入れることが
出来た。すなわち、
道具の
使用が
可能になったわけである。
猿も
棒をつかう。しかし
猿のつかう
棒は、
棒一般ではない。【5】したがって、
猿は
道具をつかうことができないのである。
人間はほとんどすべての
存在に
名をあたえてしまった。
単に
名前をあたえただけでなく、
物と
物の
関係を
言葉の
組立てによって
言いあらわした。
文法の
進化とは、つまり
人間の
自然認識の
進化にほかならないわけだ。【6】この
関係は
赤ん
坊から
大人への
言語習得の
過程をみてもよく
分る。また
失語症の
患者が
文法構造を
次第に
小児型から
幼児型へと
退行させていくのに
並行して、
空間関係の
認知までが
対応的に
崩壊していくという
事実もある。【7】
重症の
失語症患者になると、
角度の
概念までが
無くなり、
板を
直角にきるために
定規をつかうという
操作さえできなくなるということだ。
現実への
言語の
浸透には、
想像以上のものがあるのである。
こうしてわれわれの
堅固な
日常世界が
構築される。【8】パヴロフはこれをステロタイプ、
安定化した
条件反射と
呼んだ。もっともパヴロフはべつにロマンチストではなかったから、ステロタイプというい
方を、かならずしも
否定的な
意味だけにつかっているわけではない。【9】むしろ、
個体保存のための、きわめて
効果的な
能力として
評価しているくらいだ。たしかに
言語のヨロイをはぎとられた
失語症の
患者は、あたかも
幼児のごとく、
無防備になってしまうのだから。
言いかえれば
言語を
媒介にしないむき
出しの
事物とは、
一種の
魔境にほかならない。【0】むき
出しの
事物は、
意味をもたない。そこには
因果関係も、
脈絡も、
観念の
誘発も
連想もありえない。ただ
口唇感覚の
延長上にとらえられた
切れぎれな
印象の
断片だけが
現実である
嬰児の
世界、もしくは
寸断され
変形され
事物相互の
脈絡を
見失った
精神分裂の
世界だけが、かろうじてその
裸の
事物の
不気味な
姿を
類推させるくらいのものだろう。おそらくそれは、メドゥサの
頭のように、
見たものを
石にする。
言葉は、メドゥサの
呪術から
身を
守る、
鏡の
楯なのである。
ところが、いわゆる
映像論者は、
犬だろうと、
猿だろうと、
赤ん
坊だろうと、
眼がありさえすればなんでも
同じように
物が
見えるという、きわめて
素朴な
反映論に
立っているらしく、
平然と
次のような
主張をする。「
映像は、
言語とちがった、
独自の
方法で、さまざまな
抽象的内容を
表現し、
伝達し
得る、
云々……。」しかし
残念ながら
私には、
言葉をもたない
動物――
犬や、
猿や、
豚――
等が、なんらかの
抽象的思考に
到達しえただろうなどとは、
想像することもできない。そんなことはただ、
童話の
中でしか
起こりえないことではあるまいか。どうやら
映像論者の
諸君は、
言語の
機能を
過小評価しているのみならず、
彼らの
旗印であるはずの
映像についても、
言語の
類比でしかみないという、
不当な
誤ちをおかしているように
思われてならないのだ。 (
中略)
かと
言って、べつに
映像のもつ
意義を
無視しようとしているのではない。それどころか、
実は
映像論者などより
以上に、
映像の
今日的意義を
高く
評価しているつもりである。いわゆる、
映像論者というのは、
一見映像と
言語を
対立的にとらえているようにみえながらその
実、
映像を
言語と
対等の
場所にもち
上げようとしてやっきになっている、その
言語コンプレックス
患者にすぎないのだ。
映像価値は、なにも
言語と
対等であることで
保証されるものではない。むしろ、
一切の
言語的要素――
抽象による
安定や
普遍化、
意味づけ、
伝達、
解釈、
連想、その
他――と
拮抗して、
破壊的に
作用するところにこそ、その
存在理由を
見出すべきではなかろうか。
映像の
価値は、
映像自体にあるのではない。
既成の
言語体系に
挑戦し、
言語に
強い
刺激をあたえて、それを
活性化するところにあるのだ。 (
中略)
こう
考えてくると、
文学と
視聴覚芸術とはもはや
単なる
対立物などではありえない。ジャンルの
如何をとわず、もともと
芸術的創造とは、
言語と
現実との
癒着状態――
言語という
壁にとりまかれた、ステロタイプの
安全地帯――にメスをいれ、
異質な
言語体系をつくり
出す(それはむろん
同時に
新しい
現実の
発見でもある)ものであるはずだ。このことは、
当然のことながら、
散文芸術についてもそのまま
当てはまる。
小説が、
言語(=
意識)に
衝撃をあたえ、それを
活性化するだけのエネルギーを
回復するためには、
一度まず
小説という
枠をはなれ、
芸術の
共通課題に
立ってみる
必要があるだろう……という
意味では、
私はやはり
映像主義者以上の
超映像主義者に
違いないし、またそれをもって
任じてもいる。だが
同時に、
視聴覚文化の
現状は、
映像の
破壊力を
利用するどころか、
小説同様に
言語の
壁にがんじがらめになっているわけで、この
停滞をうち
破るためには、さらに
強く
方法意識が
自覚されなければなるまい……。という
意味では、むしろ
文学(たとえばこの
私の
文章などをもふくめたごく
広義の)
主義者になるわけだ。
映像で
方法は
語れない。そして、
言語の
壁は、
想像以上に
堅固なものである。
小説家もまた、
言語破壊のダイナマイト
造りに
参加する
義務があるだろう。
(
安部公房「
砂漠の
思想」による)
長文 1.3週
【1】アジアには
国と
国との
協調をはかる
組織が
少ない。
ASEANや
南アジア
諸国連合など
存在しないことはないが、
本格的な
国家をこえる
連合体を
作ろうとする
動きはみられない。EU
諸国のように
国境をビザなしで
通り
抜けることができる
経験をアジアの
人々はもつことができない。【2】EU
諸国を
旅していて、
空港でEUパスポートと
記された
入口が
設けられているのをみる
度に
残念な
気がしてならない。
ASEANもいまや
活発な
活動に
入ったが、EUのような
政治共同体や
通貨統合へといった
動きはみられない。
【3】それどころか
現実にはますます
国と
国との
境は
高くなっているような
気がする。
確かに
市場開放の
動きとともに、
中国やベトナム、ミャンマーまでが
門戸開放を
行ないはじめたのは
好ましい
徴候だとはいえ、それはあくまでも
経済活動と
観光のためであって、
先に
触れたような
連合体へ
向かう
動きではない。【4】ビザなしの
国境移動などは
考えることもできないというのが、
現状ではあるまいか。それに
実際のところ、
毎年アジアを
旅していて
感じるのは、
各地での
国家主義の
高まりである。
表面は
国際協調をうたうが、
内実は
民族主義的な
国家統制が
厳しくなってきている。【5】
国内的にも、
地域や
宗教や
民族の
自己主張が
強くなり
排他的傾向を
示すところが
少なくない。
私は、タイでもマレーシアでも、あるいはスリランカでもインドでも、それぞれの
社会や
文化のあり
方に
共感をもち
敬意も
抱くが、ナショナリズムの
強制だけにはついてゆけないものを
感じざるをえない。【6】どこの
国でも
地域でも
土地の
文化のあたえるものを
享受するのにためらいはないのだが、
国家主義や
過度の
自民族・
自宗教・
自地域中心主義には
正直いってうんざりしてしまうし、その
面では
文化相対主義にとどまることができなくなる。
【7】それで
毎度東南アジアや
南アジアをめぐってきて、ナショナリズムに
疲れて
香港に
着くと、ほっとする
経験を
三〇
年近く
繰り
返してきた。
香港は
英国の
植民地であるが、
少なくとも
私の
知るこの
三〇
年ほどは、まず
自由港として、
次に
英国でも
中国でもないような
東西融合地点として
存在してきた。 (
中略)
【8】
近代のもたらしたアジアの
悲劇の
中心には
何といっても
西欧列強による
植民地化があり、それに
日本も
加わったわけであるが、
植民地からの
独立はほとんどのアジア
諸国の
悲願であった。
第二次大戦後多くの
国は
独立したが、その
後の
国家づくりは
決して
平坦なものではない。【9】
近代国家のモデルである「
国民国家」を
作り
出すことでは、
敢えていわせていただくならば、ほとんどの
国が
失敗しているとみてよいのではないか。
多民族、
多言語、
多地域の
社会からなる
国々では、
統合された
国民と
国民文化と
国語の
形成がまず
困難である。【0】
中央政府の
支配は
国の
隅々までとうてい
行き
届かない。
官僚制も
弱い。
日本やタイなどの
例外はあっても、
韓国やベトナムは
植民地後遺症としての
内乱の
混乱から
生まれた
分断国家に
悩み、
中国は
体制の
基礎づくりのために
国を
閉ざし、インドは
統合よりも
多文化共存の
方向へと
苦しく
転換をよぎなくされた。こうした
国家づくりの
中で、
政治権力が
行なうのは
国家主義の
強調である。
重苦しい
抑圧的雰囲気が、
外面の
陽気さの
陰にこもっている。
異国を
旅する
者の
勝手な
感想にはちがいないとしても、こうした
雰囲気に
次第にいら
立つことの
多い
国々の
中で
香港は
常に
息抜きとなった。
たしかに
植民地近代の
落し
子ではあっても、
自由港には
独特の
気易い
雰囲気がある。その
文化も
混合文化の
性格をもつ。アジアには
少なくとも
三つのこうした
都市国家があった。ベイルート、シンガポール、そして
香港である。
ベイルートはパレスチナ
問題と
中東での
紛争に
巻き
込まれて、
崩壊してしまった。
私自身一度はベイルート
滞在を
密かに
願っていたのに、それは
叶わぬ
夢となっている。シンガポールも
独立後は
発展への
道を
輝かしく
歩み
出したが、その
分だけ
国家主義の
色彩も
強まった。
短期間の
観光やビジネスの
出入りでは
世界で
一番といってよい
通りのよさを
有してはいるが、いまやあまりにも
国家規制の
多いところとなった。
発展とともに
国家主義も
強くなるのは
歴史によくみられる
例にちがいない。
香港は
東アジアにおける
英植民地という
逆説を
生きてきた。それがいつの
間にか
東と
西、
南と
北とを
仲介する
緩衝地帯の
役目をはたすようになった。
香港を
舞台とする
小説は
数あるが、ジョン・ル・カレの「スマイリー
閣下」の
香港が
冷戦下のエスピオナージ
活動の
緩衝地帯としての
香港を
描いて
出色であった。それは
英国人の
眼からとらえた
植民地都市ではあるが、そこに
漂う
雰囲気はまさしく
香港である。
香港は
一般には
通過する
場所であって、そこに
留まることを
目的とすることは
少ない。もちろん、
香港を
故郷とする
中国人も
英国人もいるわけだし、
本拠地を
香港におく
内外の
企業も
多いが、
基本的な
部分でそこは「
本来ない
場所」との
認識もあるのだ。
中国に
属する
領土にはちがいなく、
英植民地の
期限も
一九九七年六月三〇
日には
切れる。
一九八〇
年代初め
頃に
訪れると、
中・
英の
香港返還交渉が
行なわれていたときでもあり、
何か
将来についての
思いが
定まらない
刹那的な
気分が
漂っていた。ショッピングでもホテルでもレストランでも
嫌な
感じをもったことがいくつかあった。すさんだ
気分があふれて、
香港もこれまでかと
思ったこともある。
しかし、
一九八三年の
秋には
中国への
返還交渉が
妥結して、それなりに
未来図が
描けるようになったこともあってか、
落着きを
取り
戻していた。
勝手な
話であるが、また
香港の
緩衝性を
享受できる
気になったのである。
(
青木保「
逆光のオリエンタリズム」による)
長文 1.4週
一方、
生き
残る
方言には、
二種類のものがある。ひとつは、それが
方言だと
気づかれないで
使われる
方言である。
例えば、
東北地方では「
捨てる」ことをナゲルと
言う。「テレビをナゲル」は、テレビを
放り
投げるわけではなく、
廃棄するという
意味である。このように、
意味はずれるものの
形が
同じことばは、
共通語と
錯覚されるために
残りやすい
傾向がある。しかし、それらは
方言だと
気づかれたが
最後、
共通語へ
切り
替えられていく
運命にある。
生き
残る
方言のもうひとつは、
方言だとわかってはいるが、
使わないではいられないといったものである。それらは、
文末詞や、
感情語彙、
程度副詞、
挨拶ことばなどの
中に
多い。
例えば、
仙台の
文末詞なら「
行くっチャ」の「チャ」がよく
使われる。これは
共通語に
直せば「
行くさ、
行くとも」であり、「
当然だろ、
何でそんなこと
聞くんだ」といったニュアンスを
表す。また、「
行くべ、
行くべ」は、「
行こう、
行こう」という
意味で、
相手を
誘うときによく
使う。こういった「チャ」や「ベ」は
今でも
元気である。
感情語彙では、「メンコイ」や「イズイ」が
生き
残っている。「イズイ」は
体表面のなんとも
言えぬ
不快感を
表すもので、
襟元に
毛が
入って「イズクてたまらない」とか、セーターを
洗ったら
縮んでしまって「イズクてしょうがない」、といったふうに
使われる。こういう
方言は、
今でも
老若を
問わず
根強い
人気があって、かなり
使われている。
気づきにくい
方言と
違い、これらこそ
地元の
人々の
支持を
得た、
正真正銘生き
残る
方言といえる。
これらの「
真正」
生き
残る
方言に
共通するのは、いずれも
相手の
感情に
訴えかける
性質を
持つという
点である。
右で
見た
文末詞や
感情語彙はもちろん、
程度副詞(
関西のメチャ、
名古屋のデラなど)や
挨拶ことば(
東北のオバンデス)も、
同様に
理解してよいだろう。これらの
感情的要素は
相手の
心に
響くものだけに、
会話の
雰囲気を
気取らない、
打ち
解けたものにする
効果が
抜群である。すなわち、こうした
方言を
使うことで、「
私はあなたと
心を
割って、
親しく
話したいんだ」とか、「
肩肘張らないで、リラックスして
話しましょうよ」といった
意思表示を
行うことができる。
共通語の
使用が
相手との
間に
壁を
築くのに
対し、これらの
方言は
逆にそのような
垣根を
取り
払い、お
互いの
心的距離を
縮める
役目を
果たす。
現代人は
無意識のうちに、こうした
方言の
機能を
会話のストラテジーとして
利用しているように
見える。
「
方言」と
一口に
言っても、もはやそれはシステムではなくスタイルに
変質してしまった。それならば、
方言スタイルという
確固とした
文体が
存在するのかといえば、
若者たちの
方言の
実態は、
共通語が
主体でそこに
右に
見たような
要素をわずかに
加えた
程度のものにすぎない。
会話の
雰囲気作りのために
共通語に
散りばめられる
要素になってしまった
方言を、
私は、
服飾になぞらえて「アクセサリーとしての
方言」と
呼ぶ。アクセサリーはあえて
付ける
必要のないもので、それを
付けることには
積極的な
意味がある。
同じように、
若い
人たちは
共通語だけで
十分コミュニケーションが
成り
立つのに、あえて
方言を
使おうとしている。それは、
親しい
仲間同士の
会話を
楽しむ
潤滑油として、
方言の
価値を
認めているからにほかならない。
ところで、アクセサリー
化したといっても、
仙台あたりの
若者が
使う
方言はあくまでも
地元の
方言である。ところが、
最近では、
東京の
若者たちが、
全国各地の
方言を
取り
込んで
携帯メールを
楽しんでいるという。
正直、
方言がここまでくるとは
思わなかった。
考えてみればこうした
無国籍的な
方言の
使い
方は、アクセサリー
化した
方言の
究極の
姿であると
言えるだろう。だが、
土地から
遊離した
方言は
果たして
方言と
言えるのか。「
母なることば=
方言」というイメージにとらわれていると、
蕎麦の
薬味のような
方言を
方言と
認めるには
抵抗がある。「
方言」とは
何であるのか、
自明のように
思われたことが、
今、あらためて
問われているのである。
(
小林隆「
現代方言の
正体」による)
長文 2.1週
【
二番目の
長文が
課題の
長文です。】
【1】
私たちはよくテイストという
言葉を
使います。
好みといったような
意味ですが、
世間一般のい
方に
従えば「センス」という
言葉に
近い
意味に
使っています。センスとは
何かといえば「
違いを
見分ける
才能」だと
思います。
【2】AとB、
二つの
選択肢があるとき、
見た
目はまったく
変わらない。あるいはどうみてもAのほうがよさそうにみえる。そういうときでも
背後に
潜む
微妙な
違いのようなものを
感知して、「Bがいい」というのがセンスです。いずれにしろ
極上のセンスが
常識的であることはめったにありません。
【3】あるいはカンといわれるもの。これもセンスの
一つです。
勝負カンのある
人は
勝負センスがいい。いずれにしろ
科学者はテイストがよくないと、なかなかよい
業績が
上げられません。「
科学者の
成否はテイストで
決まる」という
人もいるくらいです。
【4】
私自身は、
自分が「テイストがいい」と
胸を
張っていうほどの
自信はありませんが、ときにわれながら「いいのではないか」とうぬぼれることもあります。パスツール
研究所とツバ
競り
合いをしていたときのことです。
【5】こちらがまだ
遺伝子の
解読に
着手もできないでいるのに、パスツールがすでに
八割がた
終わるところまで
進んでいたことは
前述しました。あのとき
実はもっとすごいことになっていたのです。
【6】パリからドイツに
飛んだ
私はハイデルベルク
大学の
友人を
訪ね、
話を
聞いてみると、パスツールだけではなくアメリカのハーバード
大学でも
同じテーマでやっていることがわかりました。おまけに「うちもやってるよ」とハイデルベルクの
友人にもいわれました。【7】
進み
具合を
探ってみると、
私たちよりはるかに
進んでいる
様子。パスツール、ハーバード、ハイデルベルクと
並んだら、この
世界では
横綱、
大関クラス。こっちは
十両からやっと
幕内に
上がったくらいなのです。
【8】こうなると、もう
絶望的です。そういう
状況下で
中西重忠先生に
出会い、
先生の
協力を
得たのですが、そのときのことをもう
少し
詳しく
話しますと、
中西先生は
私の
知らないあることを
教えてくれたのです。
【9】「
実は
遺伝子暗号というのは
九分九厘読めても、
最後でつまずくことがあるんですよ。それにいまさらパスツールがヒトだからって、こっちがサルでやってどうするんです。
絶対あきらめないでやるべきです。なんなら
私の
研究室で……」ということだったのです。【0】
問題はこの
瞬間です。このとき
私が「そういっていただくのはうれしいのですが、ここは
潔く
撤退して……」と
断っていたら、それでおしまいでした。
私はそのときどう
思ったか。いま
考えると
不思議ですが、
中西先生の
応援を
得たことで「
天の
味方がついた。これで
勝った!」と
直感したのでした。
冷静に
考えれば、
不利なはずの
選択肢をそのとき
選んでいたことになります。
そして
私は
大急ぎで
帰国し、それまでいくらやってもダメだったヒト・レニン
遺伝子の
取り
出しに
成功しました。これは
中西研究室のおかげでした。
そうなるとみんなの
目の
色が
違ってきます。
筑波から
京都に
移った
大学院生たちは
下宿にも
帰らず、
昼夜兼行で
研究に
没頭。
一種の
興奮状態のなかで、
三カ月で
一挙に
暗号を
読み
切ってしまったのです。
世界初のヒト・レニンの
遺伝子暗号解読は、
大学院生の
不眠不休の
努力とハイデルベルクの
酒場で
私が
九九%の
負け
戦を「
勝った!」と
思ったことにあるのです。
遺伝子ONの
世界が
火事場のバカ
力のように
出てきた
例といえるでしょう。
【1】
経験界で
出合うあらゆる
事物、あらゆる
事象について、その「
本質」を
捉えようとする、ほとんど
本能的とでもいっていいような
内的性向が
人間誰にでもある。【2】これを
本質追求とか
本質探究とかいうと、ことごとしくなって、
何か
特別のことでもあるかのように
響くけれど、
考えてみれば、われわれの
日常的意識の
働きそのものが、
実は
大抵の
場合、
様々な
事物事象の「
本質」
認知の
上に
成り
立っているのだ。【3】
日常的意識、すなわち
感覚、
知覚、
意志、
欲望、
思惟などからなるわれわれの
表層意識の
構造自体の
中に、それの
最も
基礎的な
部分としてそれは
組み
込まれている。
【4】
意識とは
本来的に「……の
意識」だというが、この
意識本来の
志向性なるものは、
意識が
脱目的に
向かっていく「……」(X)の「
本質」をなんらかの
形で
把捉していなければ
現成しない。【5】たとえその「
本質」
把捉が、どれほど
漠然とした、
取りとめのない、いわば
気分的な
了解のようなものであるにすぎないにしても、である。
意識を「……の
意識」として
成立させる
基底としての
原初的存在分節の
意味論的構造そのものがそういうふうに
出来ているのだ。
【6】Xを「
花」と
呼ぶ、あるいは「
花」という
語をそれに
適用する。それができるためには、
何はともあれ、Xがなんであるかということ、すなわちXの「
本質」が
捉えられていなければならない。【7】Xを
花という
語で
指示し、Yを
石という
語で
指示して、XとYを
言語的に、つまり
意識現象として、
区別することができるためには、
初次的に、
少くとも
素朴な
形で、
花と
石それぞれの「
本質」が
了解されていなければならない。【8】そうでなければ、
花はあくまで
花、
石はどこまでも
石、というふうに
同一律的にXとYとを
同定することはできない。
禅者のいわゆる(
第一次的)「
山はこれ
山、
水はこれ
水」とは、このような「
本質」から
成り
立つ
世界。
無数の「
本質」によって
様々に
区切られ、
複雑に
聯関し
合う「
本質」の
網目を
通して
分節的に
眺められた
世界。【9】そしてそれがすなわちわれわれの
日常的世界なのであり、また
主体的には、
現実をそのような
形でみるわれわれの
日常的意識、
表層意識の
本源的なあり
方でもある。
意識をもし
表層意識だけに
限って
考えるなら、
意識とは
事物事象の「
本質」を、コトバの
意味機能の
指示に
従いながら
把捉するところに
生起する
内的状態であるといわなければなるまい。【0】
表層意識の
根本的構造を
規定するものとしての
志向性には、「
本質」の
無反省的あるいは
前反省的――ほとんど
本能的とでもいえるかもしれない――
把握が
常に
先行する。この
先行がなければ、「……の
意識」としての
意識は
成立し
得ないのである。…(
中略)…
意識がXに
向って
滑り
出して
行く、その
初動の
瞬間において、Xはすでに
何かであるのだ。そしてXを
何かであるものとして
把握することは、すなわちXの
原初的定義であり、
最も
素朴な
形における「
本質」
把握以外の
何ものでもない。もしこのような
原初的「
本質」
把握もなしにただやみくもに「
外」に
出て
行けば、たちまちあの「ねばねばした」
目も
鼻もない
不気味な「
存在」の
混沌の
泥沼の
中にのめり
込んで、「
嘔吐」を
催すほかはないだろう。そして、そうなればもう、「……の
意識」など
影も
形もなくなってしまうだろう。「
存在」の
深淵を
垣間見る
嘔吐的体験を
描くとき、サルトルが、この「
存在」
啓示の
直前の
状態として
言語脱落を
語っていることは
興味深い。
「ついさっき
私は
公園にいた」とサルトルは
語り
出す。「マロニエの
根はちょうどベンチの
下のところで
深く
大地につき
刺さっていた。それが
根というものだということは、もはや
私の
意識には
全然なかった。あらゆる
語は
消え
失せていた。そしてそれと
同時に、
事物の
意義も、その
使い
方も、またそれらの
事物の
表面に
人間が
引いた
弱い
符牒の
線も。
背を
丸め
気味に、
頭を
垂れ、たった
独りで
私は
全く
生のままのその
黒々と
節くれ
立った、
恐ろしい
塊りに
面と
向かって
坐っていた。」
絶対無分節の「
存在」と、それの
表面に、コトバの
意味を
手がかりにして、か
細い
分節線を
縦横に
引いて
事物、つまり
存在者、を
作り
出して
行く
人間意識の
働きとの
関係をこれほど
見事に
形象化した
文章を
私は
他に
知らない。コトバはここではその
本源的意味作用、すなわち「
本質」
喚起的な
分節作用において
捉えられている。コトバの
意味作用とは、
本来的には
全然分節のない「
黒々として
薄気味悪い
塊り」でしかない「
存在」にいろいろな
符牒を
付けて
事物を
作り
出し、それらを
個々別々のものとして
指示するということだ。
老子的ない
方をすれば、
無(すなわち「
無名」)がいろいろな
名前を
得て
有(すなわち「
有名」)に
転成するということである。しかし
前にもちょっと
書いたとおり、およそ
名があるところには、
必ずなんらかの
形での「
本質」
認知がなければならない。だから、あらゆる
事物の
名が
消えてしまうということ、つまり
言語脱落とは、「
本質」
脱落を
意味する。そして、こうしてコトバが
脱落し「
本質」が
脱落してしまえば、
当然、どこにも
裂け
目のない「
存在」そのものだけが
残る。「
忽ち
一挙に
帷が
裂けて」「ぶよぶよした、
奇怪な
無秩序の
塊りが、
恐ろしい
淫らな(
存在の)
裸見」のまま
怪物のように
現われてくる。それが「
嘔吐」を
惹き
起こすのだ。
「
嘔吐」
体験のこの
生々しい
描写は「
本質」なるものが
人間の
意識にとってどれほど
大切なものであるかということを
示している。
志向性を
本性とする
意識は「
本質」
脱落に
直面して
途方に
暮れる。
己れの
外に「
本質」、あるいは「
本質」
的なもの、を
見なければ、
意識は
志向すべきところを
失う。しかし、
志向すべきところを
全くもたない
意識は、
意識としての
自らを
否定するほかはない。こうして「……の
意識」としての
意識は、
一時的あるいは
永続的に、
収拾すべからざる
混乱状態、
一種の
病的状態に
陥るのである。
(
井筒俊彦「
意識と
本質」による)
長文 2.2週
【1】
新しい
世紀にむけ、
何を
次代に
伝えるか。こういう
課題を
与えられてわたしにやってくるのは、
自分のこれまで
生きてきた
時間がほぼ、
日本で「
戦後」と
呼ばれる
時期に
重なっていた、という
感慨です。【2】この「
戦後」の
何がよきもので
何が
克服されなければならないか、それを
明らかにした
上で、それにピリオドを
打つこと。わたしはいま
自分に
残された
課題を、そんなふうに
感じています。
【3】これまで
戦後の
道徳は、
自分のことだけ
考えるな、まず
社会のため、
世の
恵まれない
人のために
考えよ、と
教えてきました。これはある
小説家が
思い
出させてくれたことですが、わたし
達戦後生まれの
人間が
小学生の
頃は、どこでも、クラスの
後ろに、「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」といった
標語が
掲げられていました。【4】しかし、この
二匹の
蛇が
相手を
食べあっているようなオールマイティのモラルの
円環の
中で、わたし
達は、どこからはじめればいいかわからず、じつは、モラルをへし
曲げ、モラルにへし
曲げられる、そういうモラルを
生きる
感覚を、
失ってきたと
思います。
【5】
昨年(
一九九五年)、
阪神地方で
大震災がありボランティア
活動が
若い
人々を
中心に
多くの
関心を
集めました。これまでの
私利私欲に
代わりこれからは
公共性がモラルのバックボーンになるという
人もいましたが、わたしはそうは
思いませんでした。【6】そうではなく、これまで「
私利私欲(
自分のため)」と「
公共性(
他人のため)」はつねに
予定調和的一致の
外観を
見せつつその
実二者択一の
問題だった(「
自分のため」はよくない、とされ、しかし
時代はその
実、「
自分のため」で
動き、エコノミック・アニマルを
作りました)。【7】それがようやくこの「
私利私欲」――ひとりのため――を
足場に、ここから
出発して「
公共性」――みんなのため――にいたるみちすじが
見えてきた。ここにポスト
戦後の
可能性はあるのではないか、わたしはある
機会に
先の
論に
反論し、そう
書いた
記憶があります。
【8】わたしの
考えのいわばバックボーンをなしているのは
石橋湛山のリベラリズムの
考え
方です。なぜ
石橋は
戦前の
時期を
軍部の
圧力にもめげず
彼だけ、というより
例外的に
反軍国主義の
自由主義者として
立つことができたのか。【9】
彼は
他の
大正期のリベラリストが
朝鮮・
中国への
侵略は
人道にもとる、
相手に
悪いから、よくない、と
述べた
時、
自分は
所謂「
人道」という
言葉は
嫌いだ、といいました。
彼は
数字をあげ、
相手をパートナーでなく
奴隷にしてしまう
侵略的植民地政策が
何より
経済的に、
日本の
得にならない、といいます。【0】つまり
彼は、
他の
知識人が「
相手のため」にならないからこれをやめよう、という
時、「
自分のため」にならないからこれをやめよう、というい
方で、
軍部に
抗し、またその
実「
人道」の
本質を
救いだす
論理を
作ったのです。
では、こういう「
自分のため」、「
自分がしたいこと」にはじまり、そこから「
人のため」にいたるみちすじは、どんなふうに
作られうるのでしょうか。
阪神大震災では、ボランティアに
来た
若者が
仕事を
選り
好みするというので
非難されました。
人のためにしている
実感できる
老人介護などの
仕事は
喜んでするが、ボランティアらしくないデスク・ワークはいやがるというのです。しかしこの「
選り
好みするボランティア」、これにわたしは「
自分のしたいこと」が「
人のため」につながる、という
新しい
道を
模索する、
若い
人々の
無意識の
働きを
見ます。わたし
達はこれに
目くじらをたてるべきではない。
百年単位で
考えれば
希望は、このわがままなボランティアにこそ、あるのかも
知れないのです。
(
加藤典洋「
自分から
他者へ――
二十一世紀の
新課題」より)
長文 2.3週
【1】「
大人」は
一人前の
社会人としてさまざまな
権利や
義務をもつが「
子ども」はそうではない。「
子ども」は
未熟であり、
大人によって
社会の
荒波から
庇護され、
発達に
応じてそれにふさわしい
教育を
受けるべきである。【2】そうした
子ども
観は、われわれにとってはほとんど
自明のものである。しかし、われわれの
子ども
観がどこでも
通用するわけではない。
社会が
異なれば、さまざまに
異なった
子ども
観があり、それによって
子どもたち
自身の
経験も
異なってくる。【3】このことをアメリカの
社会学者カープとヨールズは、
次のような
例を
挙げて
示している。
例えばナバホ・インディアンは
子どもを
自立したものと
考え、
部族の
行事のすべてに
子どもたちを
参加させる。
子どもは、
庇護されるべきものとも
重要な
責任能力がないものともみなされない。【4】
子どもの
言葉は
大人の
意見と
同様に
尊重され
交渉ごとで
大人が
子どもの
代弁をすることもない。
子どもが
歩き
出すようになっても、
親が
危険なものを
先回りして
取り
除くようなことはせず
子ども
自身が
失敗から
学ぶことを
期待する。【5】こうした
子どもへの
信頼は、われわれの
目には
過度の
放任とも
見えるが、
自分と
他者の
自立を
尊重するナバホの
文化を
教えるのにもっとも
有効な
方法であるという。(
中略)
【6】
今日のわれわれの
子ども
観、つまり「
子ども」
期をある
年齢幅で
区切り
特別な
愛情と
教育の
対象として
子どもをとらえる
見方は、フランスの
歴史家、フィリップ・アリエスによれば
主として
近代の
西欧社会で
形成されたものであるという。【7】アリエスは、ヨーロッパでも
中世においては、
子どもは
大人と
較べて
身体は
小さく
能力は
劣るものの、いわば「
小さな
大人」とみなされ、ことさらに
大人と
違いがあるとは
考えられていなかったという。【8】
子どもは「
子ども
扱い」されることなく
奉公や
見習い
修行に
出、
日常のあらゆる
場で
大人に
混じって
大人と
同じように
働き、
遊び、
暮らしていた。
子どもがしだいに
無知で
無垢な
存在とみなされて
大人と
明確に
区別され
学校や
家庭に
隔離されるようになっていったのは、
十七世紀から
十八世紀にかけてのことである。【9】アリエスはこのプロセスを「『
子供』の
誕生」のなかで、
子どもを
描いた
絵画や
子どもの
服装、
遊び、
教会での
祈りの
言葉や
学校のありさまなどを
丹念に
記述することによって
浮き
彫りにしている。【0】アリエスらによる
近年の
社会史の
研究は、われわれになじみの
深い
子ども
観も、そして、
人が
幼児期を
過ぎ、
自分で
自分の
身の
回りの
世話ができるようになってからもすぐに
大人にならずに「
子ども」
期を
過ごすというライフコースのあり
方自体も、
歴史的、
社会的な
産物であることを
明らかにした。
西欧では「
子ども」は、
社会の
近代化のプロセスにおいて、
近代家族と
学校の
長期的な
発展のなかから
徐々に
生み
出されていった。
一方、
日本では、
明治政府による
急激な
近代化政策のなかで、
近代西欧の
子ども
観の
影響を
受けながらも、
西欧とはやや
異なったプロセスで「
子ども」の
誕生をみることになった。
明治維新まで、
子どもは
子どもとして
大人から
区別される
以前に
封建社会の
一員としてまず
武士の
子どもであり、
町人の
子どもであり、あるいは
農民の
子どもであった。さらに
男女の
別があり、
同じ
家族に
生まれても
男児と
女児ではまったく
違った
扱いを
受けた。たとえば
武家の
跡取りの
子どもは、いつ
父親が
死んでも
家格相応の
役人として
一人前に
勤め
禄を
得ることができるよう
早くから
厳しい
教育が
施されたし、
農民の
子どもも
幼いころから
親の
仕事を
手伝い
村の
子ども
集団に
参加して
共同体の
一員としての
役割を
担った。
近世後期以降、
寺子屋や
郷学が
農村にまで
作られそこで
読み
書きの
初歩を
習うこともあったが、それはあくまで
日常生活に
必要な
知識にとどまり
労働のなかで
親たちから
教えられる
日常知と
区別されるものではなかった。
子どもたちは
封建的区分のなかで、
所属する
階層や
男女の
別に
応じてそれにふさわしい
大人となるようしつけられた。
明治五(
一八七二)
年の
学制の
公布は、そのようにそれぞれ
異質な
世界にあった
子どもたちを、
学校という
均質な
空間に
一挙に
掬いとり、「
児童」という
年齢カテゴリーに
一括した。その
意味で、わが
国において「
子ども」はまず、
建設されるべき
近代国家を
担う
国民の
育成をめざして、
義務教育の
対象として、
制度的に
生み
出されたということができよう。
しかし、
制度ができたからといって、「
児童」という
存在に
対して
当時の
人びとがすぐさま
今日のわれわれがもっているような「
子ども」のイメージを
抱いたわけではない。
社会的・
文化的な
意味で「
児童」という
存在にある
属性が
付与され、
近代的な「
子ども」
観が
誕生するためには、
学制という
制度に
加え、もうひとつ
別の
契機が
必要であった。それが
文学であった、と
柄谷行人は
述べている。
柄谷によれば、「
児童」は「
風景」や「
内面」とともに
近代になって
初めて
発見された。「
児童が
客観的に
存在していることは
誰にとっても
自明のようにみえる。しかし、われわれがみているような『
児童』はごく
近年に
発見され
形成されたものでしかない」。「
児童」は
明治末期小川未明をはじめとする
文学者たちの
夢としてあるいは
退行的空想として
見出された。
今日、
未明らの
描いた「
児童」は、
大人によって
考えられた
児童であって、まだ「
真の
子ども」ではない、と
児童文学者や
教育者たちから
批判されているが、
実は
未明らが
賛美し
描いた
観念的な
存在によってこそ「
児童」は
成立したのである。その
意味で、「
児童」がまず、
夢や
空想をともなう「ある
内的な
転倒によって
見出されたことはたしかであるが、しかし、
実は『
児童』なるものはそのようにして
見出されたのであって、『
現実の
子ども』や『
真の
子ども』なるものはそのあとで
見出されたにすぎない」(「
日本近代文学の
起源」)。いわば、
近代になって
人びとの
子どもに
対する
認知の
構図が
変化したため、
新しい
輪郭をもった「
子ども」という
存在が
浮かび
上がってきた。
柄谷は、
文学という
制度のなかにこの
重大な
認知の
図式の
変化が
生じたと
考え、「
児童」はまず
文学者のロマン
主義的観念として
生まれたと
主張するのである。
長文 2.4週
生産性向上を
目指してきた
近代社会は、
機械化と
時間管理の
徹底化によって
単位時間当たりの
生産性を
高め、
一日、
一週間、
一月、
一年といった
各周期の
労働時間の
短縮を
行なってきた。
一九八八年、
労働基準法の
改正により、
日本でもようやく
週四〇
時間を
目指して
労働時間の
短縮を
図る
動きが
国の
側から
開始された。いまだに
実質的に
週四〇
時間労働が
実現しないとはいえ、
自由時間の
増大に
対応するための
社会システムのあり
方が
模索されている。そこで
目標とされるのは
年間で
一八〇〇
労働時間の
社会であり、
睡眠時間や
通勤時間を
除いても
年間の
自由時間は
約四〇〇〇
時間となる。さらに、
圧倒的に
多い
自由時間は、
人生全体のなかで
大きな
比重を
占め、
人びとは
自由時間の
過ごし
方を
中心に
人生の
設計を
図らなければならない。
しかしながら、
近代社会の
理念の
下では、けっしてこの
自由時間は
個人の
自由に
完全に
委ねられるわけではない。それは、
自由裁量の
時間でありながら、
労働や
他の
義務的活動によって
生じた
疲労を
回復し、
気晴らしになり、しかも
自己の
発展と
文化の
発展につながるような
活動で
埋めることを
求められる。
享楽主義や
自己破壊につながるような
時間の
過ごし
方は、
近代の
理念に
反するのである。その
意味で、レジャーは、
新しい
時代の
社会規範にしたがって
水路づけられることになる。
他方で、
自由時間の
過ごし
方は、
時間をあくまで
定量的に
把握する
近代の
時間観念に
依拠している。
労働時間が
資源として
扱われ
経済的価値を
帯びるにつれ、それを
切り
詰めることによって
獲得された
自由時間にもその
経済的価値意識が
反映されてくることは、
必然の
成り
行きでもある。すなわち、
自由時間を
有効に
無駄なく
過ごそうという
意識が、
自由時間内の
活動自体に
浸透するのであり、
近代の
時間意識は、
自由時間においても
変わらない。
複数の
人びとが
共同で
行なうレジャー
活動は、
多くのスポーツや
趣味のクラブや
個人の
日常の
各周期のスケジュールのなかで、
厳格に
共時化され、
順序づけられ、
進度調整が
図られる。
しかし、
時間を
合理的に
使おうとする
割には、
自由裁量性に
目を
奪われたり
期待をかけすぎて、われわれはすべての
活動が
時間を
消費することを
忘れがちである。たとえば、テレビの
番組をビデオに
収録して
自分の
好きなときに
見るという
発想は、
時間消費の
自由裁量性を
高める
工夫であるように
見える。しかしこれは、
今は
読めないがいつか
読むつもりでたくさんの
本を
買い
込む
悪癖を
想起させる。
現実には、それは
限られた
自由時間にきわめて
時間消費量の
多い
活動を
詰め
込み、
結局睡眠時間を
切り
詰める
結果になりがちである。この
傾向は、
消費社会の
論理によってさらに
加速される。
(
長田1攻一「
現代社会の
時間」『
岩波講座現代社会学 時間と
空間の
社会学』
岩波書店、
一九九六年による。)
長文 3.1週
【
二番目の
長文が
課題の
長文です。】
【1】
情報処理能力。
これはまず、コンピューターのことを
考えてください。コンピューターはいま、
日進月歩しています。たとえばA、B、C、Dというふうにたくさんの
情報があったとします。
【2】
古いコンピューターは、Bの
情報は
処理できるけれども、AやCやDの
情報は
処理できないとします。
時間もかかる。でも
新しいコンピューターで
情報処理能力が
高まれば、メモリーも
大きいし、クリックすることもできる。AもBもCもDも、
処理してしまいます。
【3】
病気というのも、
結局、
一つの
情報にしか
過ぎません。そうすると、
古くて
情報処理能力の
低いコンピューターは、
病気があってもその
病気を
情報処理することができないので、
病気を
解決することができません。
【4】ところが、
新しいコンピューター、
情報処理能力の
高いコンピューターは、AもBもCもDも、
山積みする
問題を
一瞬のうちに
情報処理してしまいます。
病気という
情報が
処理されて、
病気がなくなってくるわけです。
【5】この
情報処理能力が
高い
低いというのは、その
人の
病気に
対する
態度だけを
見るのではなくて、その
人がほかの
人に
対してどういう
態度をとっているのか――ということが
非常に
大事になってきます。
【6】つまり、
自分のことだけを
大事にするとか、
好き
嫌いが
非常にはっきりしているとか、この
人だったら
好きだけど、この
人だったら
嫌い……。これも
結局、
情報処理能力が
非常に
限られているということになります。
【7】この
情報処理能力がうまくいかない
一つの
原因は、
生まれたときの「
三つ
子の
魂」という、
小さいときの
育て
方によって
変わってきます。
小さいころに、お
父さんとお
母さんの
一〇〇%の
愛情と、
自分が
愛されているという
気持ちを
持って
育っていない
人は、このコンピューターの
情報処理能力が
低いまま、
大人になってくるわけです。
【8】お
父さんが
非常に
怖い
人で、いつもその
顔色をうかがいながら
大きくなってきたというケースでは、その
人の
心は、そこで
傷ついたまま、
大きくなってこないのです。
体は
大きくなってくるけれども、
心が
大きくなってきません。
【9】
情報処理能力が
大きくなってこないので、こういう
人たちが
病気になったときに、それを
自然に
情報処理する
能力がなくなってきます。
病気という
情報体を
処理できなくなってくるのです。【0】これは
病気だけではなくて、たとえばその
人の
家庭が
非常に
不幸ばかりであるとか、あるいは
事故を
起こしやすいとか、あるいは
何をやってもうまくいかないとか、そういうものにも
通じてくるわけです。
病気とは、
簡単にいえば、その
人の
情報処理能力の
低さがそこで
浮き
彫りにされてくる――ということです。だから、その
情報処理能力を
高めてあげるという
治療をすると、
病気だけではなくて、ほかのことも
処理できるようになってきます。
心の
歪みを
治すということは、これによって
引き
起こされる
肉体的病気を
治すことになりますが、あまりにも
肉体的症状にこだわる
方にはこうお
話しします。
「
私は、
肉体的な
病気というものにはあまり
興味がありません。
私が
興味があるのは、その
病気を
通して、あなた
自身の
生活や
人生をもっと
楽しくする、
幸せにすることです。それが
私の
治療なので、ここが
痛い、あっちが
悪い、という
話は
興味がないのです。だつてあなたは、あなた
自身の
肉体的病気だけを
治したとしても、それだけで
本当に
幸せになれますか?」と。
私は、
病気を
通して、その
人の
人生がより
豊かになるという
形の
治療を
心がけています。
病気を
通して、
患者さんとそのほかの
人々の
人生を
豊かにするというチャンスを
差し
上げる、そういう
治療を
目指しているのです。
肉体的な
病気治しは
本当に
通過点にすぎないのです。
【1】しつけは
心の
面で
実に
複雑な
仕事をする。
外から
見てしつけで
一番目立つのは
母親やそれに
代わるはたらきをする
重要な
人物が
子どもの
行動を
制限してひとつの
枠や
型にはめ
込むということである。
子どもの
思いというより、
親の
思いに
従わせることである。
【2】
赤ん
坊時代のように、
子どもは
自分の
好きに
行動したり、
欲求を
充たしたりすることができなくなる。おっぱいが
欲しくても
与えられなくなる。オシッコやウンチを
垂れ
流しにすると、
叱られたり、きまった
時間やきまった
場所にするように
促される。【3】また、
食事もきまった
時間や
場所でしなければならない。よごれたら
嫌でも
手や
顔を
洗ったり、
服やシャツなどを
着替えて
身ぎれいにせねばならない。
これまで
好きなようにやれていたのに、この
変化は
大変なことである。【4】これまでやったこともないことを
強制される。
逆らうと
時には
罰を
受け
痛い
目にあう。
逆らってもよいことはない。
従うほかない。
このような
外からの
心理的な
圧力を
受けいれることは
大変なことである。【5】このためには、
親は
自分のためにやってくれているという
信頼や
信用を
心のどこかでもっていることが
必要である。い
換えると、
母親の
世界を
信頼するからこそ、はじめてしつけという
苦痛な
制限を
受けいれることが
可能となるのである。これによって
苦痛で
不快な
制限を
受けいれるのである。
【6】しかし、
母親を
含めて
自分の
周囲、つまり
世界が
自分に
罰を
与え
行動を
制限する
力をもつものだという
不信感もどこかに
残る。これがアンビヴァレンスである。また、
苦痛の
向こう
側には
親や
同胞や
自分を
受容する
世界が
開かれていること、
自分がより
一層自由に
表現ができる
世界があることも
体験する。
【7】このようにして、しつけは
外からの
制限を
内在化して、その
内的な
規範や
枠によって
今度は
自分を
統制し、
社会的に
受けいれられるようになる
人とのかかわりのプロセスのことである。このことが
自律性の
形成という
重要なプロセスであり、これはとても
複雑な
心のプロセスということができる。
【8】このプロセスを
苦痛や
不安が
妨害する。
苦痛、
不安、
不快に
対抗してプロセスを
進めるのが
親への
信頼である。
信頼がないと
外の
力に
一時的に
屈服させられて
命令に
従うが、その
命令は
内在化されない。【9】
外的命令が
内在化されないままの
場合、
外的な
力が
遠ざかると
再び
自分の
内的な
衝動に
従った
行動が
出てしまうことになる。
内在化が
少ないことは、
自分の
行動を
自己統制する
力が
生まれないことを
意味している。【0】だから
外的に
適応した
行動が
必要なときには、その
場に
外的な
力を
代表する
人がいなければならないことになる。
普通はこの
役割を
母親に
任せ、
自分の
身代わりの
代理自我として
行動している。そして、
受け
身的に
与えられるものを
受け
取るという
心の
体制をつくりあげてしまう。
内的な
規範をつくりあげて、
構造ができるためには、
内発的な
規制を
思案しなければならない。しかしわが
国の
場合、
外的なもので
行動を
規制したり、また
支援したりすることが
多い。
例として、
日ごろ
私たちの
目にとまるのは、
次のようなことではないだろうか。
私は
勤務地への
通勤にJRを
利用している。
車両は
四人掛けでたまに
親子が
同席して
座ることがある。
行儀が
悪く、
席の
上で
騒いだり、
靴のままで
席を
汚したりすることがある。しかし、
母親は
平気で
子どものために
他人が
迷惑をしていることなど、
関心がないかのように
振る
舞う。こんなときに、
思いきって
注意をすると、
子どもはおとなしくなるが、
母親は
怒ったような
顔をする。
悪かったと
謝る
人は
多くない。しばらくして、また
子どもがごそごそすると、
今度は
次のように
言う。「ほら、
隣の
恐いおじさんがいるから、
静かにしなさい」「
隣のおじさんがまた、
怒るよ」
子どもは
私の
方をじろりと
見て
静かになる。
子どもが
他人に
迷惑をかけているのは、
子どもや
親の
問題ではなく、
隣のうるさいジジイのせいなのである。
行動の
規制は
内的というより、
私という
外側の
人間のせいなのである。
私がいなければ、
同じ
行動も
平気で
許されるらしい。
私たちはこのような
外的な
規制をいつもやっていないだろうか。「
近所の
人が
見ているよ」「
先生からしかられるよ」「
友達が
笑うよ」といった
外的な
規制は、
内発的に
善悪の
基準をつくりあげるはたらきかけではない。「
周囲が
見ているか」「
権威の
目」といったことによって、
自分の
行動を
規制し、
価値判断をしようとする
姿勢である。
これらの
姿勢は
自分が
価値判断をするのではなく、
周囲に
判断を
任せ、それに
従う
姿勢を
要請していることになる。そのためには、いつも
周囲の
反応はどうか、
周囲の
判断はどうかに
敏感でなければならない。
ある
行動をして
悪かったのは、
他人が
注意をしたからであり、
他人が
悪いと
判断したからである。だから、
同じ
行動でも、
他人が
悪いと
判断しなかったり、
判断を
逃れたりすると、それは
許される
行動となってしまう。
場面によって、
同じことが
駄目になったり、よいということになったりする。
先ほどの
列車のなかでの
子どもの
行動も、
私が
駄目と
言ったから
駄目なのであり、
前の
日には
同じ
行動も
許されていたのである。また、
私がいなければ
許されるのである。 (
中略)
これが
人格の
受け
身性ということであり、
自律性の
形成不全である。
受け
身性は
与えられた
遂行すべき
課題に
対して
無力となることが
多い。
母親のような
代理自我が
存在する
場合は
適応的な
行動をすることができるが、
代理自我的な
人物がいないと、
無力な
自分が
人前にさらされてしまうことになる。
隠すべき
自分を
隠す
術もなく、
自分がむき
出しのまま
人にさらされる
可能性が
高くなる。
(
鑪八郎「
恥と
意地――
日本人の
行動原理」による)
長文 3.2週
【1】
人間科学における
根本問題は、
研究の
対象が
人間であり、それを
行う
主体の
方も
人間である、ということである。このことは、
人間科学を
考える
上で
忘れてはならないことである。しかし、「
科学」という
場合、われわれは、まず
自然科学のことを
考え、わけても
物理学をその
中心として
考えるのではなかろうか。【2】
村上陽一郎は「
科学」ということについて、
常に
深い
思索を
展開してきているが、
一般に、
科学的ということに
対して、「
分析的である」という
暗黙の
前提があり、このことをもう
少し
詳しく
言えば、「
現象を、ただ
現象としてとらえるのではなく、【3】その
現象を、それを
成立させている
何らかの
要素群に
分解し、その
要素群が、
時間―
空間のなかでどのように
振る
舞うか、その
有様を
記述することによって、もとの
現象を
説明する」ということになろう、と
述べている。【4】そして、このような
考えに
立つ
限り、
物理学が
科学のなかの
模範となってくるのも
当然であろう、としている。
村上の
言うとおり、この
方法によって
近代科学はその
方法論を
確立し、これによって
得た
事象の
因果関係の
法則を
知ることにより、
人間は
自然を
支配するようになってきたのである。【5】
近代科学の
成果は
取り
立ててここに
述べる
必要がないほど、われわれは
日毎にその
恩恵を
受けて
生きている。このように
近代科学の
成果があまりにも
見事であるので、
近代科学による
現実認識が
唯一の
正しいものである、という
考えが
一般に
強くなってきたのも
当然である。【6】しかし、ここでわれわれは
近代科学が
正しいというのと、
近代科学による
世界観が
正しいというのを
区別して
考えねばならない。
近代科学のはじまりにおいて、その
方法論の
根本にいわゆるデカルト―ニュートンのパラダイムがあることを
忘れてはならない。【7】このことは、
必ずしもデカルトやニュートンという
人間がそのような
世界観をもっていたことを
意味するものではないが、
近代科学のよって
立つパラダイムを
通常このように
呼び
習わしているのである。
【8】デカルト―ニュートン・パラダイムにおいて
最も
大切なことは、
明確な「
切断」の
機能である。
自と
他を
切り
離すこと、
精神と
物質を
切り
離すことが
第一の
前提である。
他から
切り
離された「
自」が
自と
無関係に、「
他」を
観察する。【9】その
結果わかってきたことは、「
自」と
無関係である
故に、
誰にでも
通用する
普遍性をもつ。このことは
実に
偉大なことである。ニュートンの
見出した
法則は、ニュートンという
人間、イギリスという
国などを
超えて
普遍的な
真理としても
提出できる。【0】もちろん、これに
対して
疑問を
呈することは
誰でも
可能であり、その
際は、ニュートンの
行ったのと
同じ
実験を、
彼の「
自」を
事象から
切り
離す
方法を
踏襲して
行い、
検証することができる。
論理実証主義という
方法論によって、ある
法則の
正しさが、
誰にでも
何時でも、
確かめることができるようになったのは、
実に
強力なことである。それのもつ
普遍性というものが
実に
広いのである。 (
中略)
自然科学の
方法および、そこから
得られる
結果が
普遍性をもち、その
法則があまりに
有効であるので、その
方法を
社会科学や
人文科学が
借りようとするのも
無理からぬことである。そして、そのような
方法によってそれなりの
成果を
得ている。そこで、
自然科学の
方法を
人間に
対しても
適用することによって、「
人間科学」が
発展するわけで、
生命科学などはこの
部類に
属するであろう。このような「
人間科学」は
今後ますます
発展してゆくであろう。しかし、これだけによって、
人間の
研究のすべてをつくしているとは
言い
難いのである。
ここで
筆者の
専門とする
臨床心理学における
例について
考えてみよう。たとえば、ある
非行少年に
対してわれわれが「
自」と「
他」の
区別を
明らかにして、
極めて
客観的な
研究を
行った
結果、その
少年の
非行の
在り
方、
両親の
生き
方、
友人の
有無などから
判断して、「
再教育不能」と
断定する。その
後も
客観的観察を
続けたところ、
確かに
非行はますます
悪化し、
先の
科学的判断は
正しいことが
立証される。このようなことをしても、まったくのナンセンスであることは
誰しもわかるであろう。
このようなとき、
臨床家のこころみることは、
前述した
自然科学的態度とは
異なって、その
非行少年の
行為を「それを
成りたせている
何らかの
要素群に
分解し」たりするのではなく、まず、その
少年を
一個の
全体的な
人間として、むしろ、「
自」と「
他」との
区別をできるだけなくするようにして、
彼とのかかわりを
求めてゆくことである。われわれがそのような
態度で
接してゆくと、その
少年はあんがいに
本音で
話をしてくれたり、
誰にも
話をしたことのない
大切な
秘密を
打明けたりして、そこから、
彼が
立ち
直ってゆくきっかけが
開かれたりする。もちろん、
一度や
二度の
面接で
事が
解決することはなくて、われわれが
前述のような
態度で
接し
続けていると、
彼もだんだんと
変化して
立ち
直ってくる。ここは、そのことについて
論じる
場ではないので
省略するが、このような
過程を
記述することも、「
人間の
科学」であると
言えないであろうか。
キュブラー・ロスは
死にゆく
人を
看とって、その
過程として
一般的に
言って、1
死の
否認、2
怒り、3(
神との)
取り
引き、4
抑うつ、5
死の
受容、の
五段階を
経ることを
明らかにした。
彼女のこのような
発見は、
現在においてターミナルケアをする
人たちに
対する
重要なひとつの
指針となっている。このことにしても、もしキュブラー・ロスが
死んでゆく
人を「
客観的観察の
対象」とする
態度で
接していたのでは、
決して
明らかにならなかったであろう。つまり、
研究の
対象である
人間に
対して、
研究者がどのような
態度をとるかによって、そこに
生じる
現象が
異なってくるし、また、そのことこそが
人間の
研究にとって
極めて
大切なことなのである。
(
河合隼雄「
人間科学の
可能性」による)
長文 3.3週
【1】そういう「
定着文化」というか、うごかないことがよしとされる
日本で
育ったわたしは、
長じてアラビアでのフィールドワークをするようになったとき、そうではない
文化、「
移動文化」ともいえるものにぶつかり、ある
種のショックを
受けた。【2】といっても、それは
異文化からきたわたしだから「ショック」なので、その
人たちにとってはごく
当り
前のこと。おどろきでもなんでもない。【3】わたしのフィールドのように
自然条件・
社会条件がきびしいところでは、しんどいことの
連続なのだが、こういうおどろき、
異質さの
魅力というものに
惹かれてなんとか
今日までやってこられたようにおもう。
【4】アラビアの
砂漠では、
昼間の
暴君である
太陽が、
夜のやさしさにその
支配権を
渡し、やっとおだやかな
夜がおとずれると、わたしもみなといっしょにほっとしたものだった。【5】
砂の
上に
横たわり、ねぶくろから
顔だけ
出してアラビアの
星たちと
交信するのも、
楽しみのひとつだった。
研究の
対象はもちろん
天の
星ではなく、
地上の
遊牧民、ベドウィンだったが、かれらの
移動について
調査していて、どうもよくわからないことがでてきた。【6】なぜ
移動するのだろう。うごく
必要はないではないか。
水、
草、
子どもたちの
学校、そのほかの
生活の
条件は
同じ、あるいは
悪くなるかもしれないのに、うごくことがあるのだ。
【7】このあたりのことは、
先に「アラビア・ノート」(NHKブックス、
一九七九年)で
少しふれたが、「どうしてなの」ときくわたしに、「なにもかもよごれてしまったからね」という
答えがかえってきた。これだけではどういうことかよくわからなかった。【8】フィールドワークをしていると、
言葉のやりとりだけではわからないことがたくさんあった。
当然のことである。
人は、
言葉だけでわかりあうわけではない。
一年ほどいっしょにくらすうち、
砂のまじった
食事も
気にならなくなるのと
同時くらいにかれらの「
移動の
哲学」がわかってきた。【9】
体系的なものを
哲学としてもっているわけではないが、かれらは
人間がひとつのところにじっとしているのは
退行を
意味すると
感じているのである。
ひとつのところで
生活をしていると、ごみが
出てくるとか、
死人が
出たというような
物理的なよごれもあるのだが、
人間の
心のほうもよごれてくる、よどんでくるように
感じているようなのだ。【0】うごくことによって
浄化されるという
感覚をもっている。これはセム
族の
中に
古くからあるものとつながっているようでもある。「
旧約聖書」にも、
荒野を
放浪し、きよめられたもののみカナンの
地に
入れるという
思想がみいだされる。いずれにしろ、うごくことによって
浄化されるのだというおもいが、ふつふつとからだのなかにわいてくるようなところがあるようだ。 (
中略)
そういう
元遊牧民たちだけでなく、オックスフォードやハーバードに
留学したようないわゆる「
都会の
遊牧民」といえるアラビア
人たちのなかにも「
動の
思想」はビルトインされているようである。
政府の
役人でも、
一カ所にじっとしている
人は
少ない。あちこちに
港すなわちオフィスをもっていて、
風のように
来ては
去るのでつかまえるのに
苦労する。ポケットベルがよく
売れており、コードレス
電話も
日本で
普及するよりはるか
前から
人びとのあいだで
使われていた。よくうごくかれらは、これらを
使ってビジネス
上の
連絡をとるというよりは、
家族や
友人、
親類と
連絡をとり、おしゃべりを
楽しんだりするのである。
職をかえることも
日常的なことである。
日本人の
終身雇用の
話をすると、
目をまるくしておどろき、
就職するときに「
絶対うごきません」というような
契約をしてしまうのかとたずね、けげんな
顔をする。いや、そんな
契約はしないが、ほとんどの
人はうごかない、
一生、
同じ
職場で
仕事をするのだというと、ますますおどろかれてしまう。
からだも
心もうごいていくことを
前提とするかれらは「ハサブ・ル・ズルーフ」という
言葉を
日常生活のなかでよく
使う。「そのときの
状況しだい」という
意味である。すべての「
時間」は「
現在」に
集約されると
考え、
大事なのは、
同じ
時間を
同じ
空間でわかちあっているこの
瞬間、
現在しかないのだという。
明日はこうしようとおもっていても、
次の
朝起きてみると
状況がうごいているかもしれない。
母が
危篤とか、
本人が
熱を
出したとか、そういうときはその
状況にしたがって
行動するしかない。そこで
約束事には、
日本では
悪名高い「インシャーアッラー」(
神の
御意志あらば)という
言葉をそえて
処方箋とする。
人間の
意志だけで、ものごとはうごくわけではない。
昨日が
今日をしばることもできない。
晴耕雨読感覚で
生きるということになるだろうか。
それでは
困ると
考えられるときには、
第二の
処方箋、
契約にもちこむ。
古来より、
恋の
詩歌を
愛し、ロマンスをこのむアラビア
人だが、
恋の
炎もうつろうことを
認識している。うつろうからこそロマンティックなのだと
考えているようである。そこであらかじめ、うつろったときのことを
考えて、
結婚も
契約とする。
離婚にいたったときの
処置も
決めておくのである。
結婚契約書をとりかわし、そこに
契約解除のときの
具体的事項もかきこまれるのだ。
カナダのエジプト
人調査のおり、
手に
入れたムスリム(イスラーム
教徒)の
結婚契約書にも、
解約事項をかきいれる
欄が
大きくあけられてあった。
「うごく」あるいはうつろうことを
前提とした
書類と、さきにのべた「うごかない」ことを
前提とした
日本の
書類とをくらべてみると、
文化の
差異が
象徴的にわかるようにおもう。アラビアから
地理的にたいへん
遠いカナダにまで、さかんに
移動していることを
知ったのもおどろきであったが、そのような
遠隔地で、しかも
文化のまったく
異なる
環境にあっても、
自分たちの「
動の
文化」を
大切にして
生きている
人たちがいることを、フィールドワークは、あきらかにしてくれたのだった。
(
片倉もとこ「『
移動文化』
考イスラームの
世界をたずねて」)
長文 3.4週
思考は
語りとは
別だという
考えは、
言語をもっぱら
伝達の
手段と
見なす
言語観によっても
補強されよう。「きれいな
夕焼けだね」と
人に
語るとき、まずわたしのなかに、きれいな
夕焼けだという
思いがあり、それを
相手に
伝達するために、そのような
言葉を
発したのだと
考えられる。
言語がもっぱら
自分の
思考を
相手に
伝達するための
手段だとすれば、
思考は
語りとは
別であり、
語りに
先だって
形成されるということになろう。
しかし、
考えることは
語ることと
本当に
別なのだろうか。
語ることに
先だって
思考が
形成され、それをたんに
日常言語で
表現するにすぎないのだろうか。
言葉を
用いて
考えるとき、まさに
語ることとともに、
思考が
形成されているようにみえる。「
今日は
暑いな」と
語るとき、そのときはじめて
今日は
暑いなという
思考が
形成されたのであって、
語ることに
先だってあらかじめそのような
思考が
形成されていたようには
思えない。もし
語ることに
先だって
思考が
形成されていたとすれば、その
思考は
無意識の
思考ということになるだろう。わたしが
今日は
暑いなと
意識的に
考えたのは、「
今日は
暑いな」と
語ったときである。したがって、それに
先だって、
今日は
暑いなという
思考があったとすれば、それは
無意識的な
思考にほかならない。
このような
無意識的な
思考が
存在するかどうかという
問題については、ここでは
紙幅の
都合上、
扱わない。そのような
無意識的な
思考が
存在するとすれば、それは
語りとは
別だといえるかもしれない。しかし、
意識的な
思考については、どうであろうか。わたしが
今日は
暑いなと
意識的に
考えるのは、まさに「
今日は
暑いな」と
語るときである。この
場合ですら、
思考は
語りとは
別なのであろうか。そうだとすれば、「
今日は
暑いな」と
語ることとは
別に、そしてそれと
同時に、
今日は
暑いなという
意識的な
思考が
形成されていることになる。しかし、「
今日は
暑いな」と
語るとき、わたしの
意識にのぼるのは、「キョウワアツイナ」という
音声(
声に
出したものであれ、
頭の
中のものであれ)だけである。それとは
別に、
今日は
暑いなという
思考が
意識に
現れるわけではない。したがって、
思考が
語りと
別だとすれば、ここでも
思考は
無意識的だということにならざるをえない。つまり、
意識的な
語りの
背後に、
無意識の
思考が
存在するということにならざるをえないのである。
結局、
意識的な
思考を
認めようとすれば、
言葉を
用いて
意識的に
考えるとき、
思考は
語りにほかならないと
考えるほかないであろう。「
今日は
暑いな」と
語るとき、そう
語ることが
今日は
暑いなと
考えることであり、それとは
別にそのような
思考があるわけではないのである。「きれいな
夕焼けだね」と
人に
語るときは、たしかにそう
語るまえに、きれいな
夕焼けだという
思いが
形成されていよう。しかし、その
思いが
意識的だとすれば、それはわたしの
頭のなかで「きれいな
夕焼けだ」と
語ること(つまり
内語)によって
形成されたものにほかならないだろう。そうだとすれば、この
場合も、きれいな
夕焼けだという
思いは「きれいな
夕焼けだ」という
内語にほかならないのである。
(
信原幸弘「
言語による
思考の
臨界」による。)