(Translated by https://www.hiragana.jp/)
課題集
長文ちょうぶん 10.1しゅう
 【1】じゅうばいもの今川いまがわぐん接近せっきん直面ちょくめんした信長のぶながには、篭城ろうじょう降伏ごうぶくかというふたつの方法ほうほう選択肢せんたくしできた。しかし、信長のぶなが目指めざしたものは、あくまでも勝利しょうりだった。勝利しょうりいちてんつめたことが、おけ狭間はざまでの奇襲きしゅうというあたらしい活路かつろ見出みいだしたのだ。【2】世界せかい歴史れきしひらいてきたのは、用意よういされた方法ほうほう問題もんだいをうまく解決かいけつしたひとではなく、問題もんだいそのものにふか直面ちょくめんしたひとだった。では、わたしたちもまた、安易あんい方法ほうほうへの誘惑ゆうわく拒否きょひして、問題もんだい直面ちょくめんしてきるためにはどうしたらよいのだろうか。
 【3】だいいちは、マニュアルにたよしんてることだ。むかし修行しゅぎょうは、わざぬすむものだった。いまは、ばやくマニュアルをまなぶことが、おしえるがわにもおそわるがわにももとめられる。その根底こんていには、問題もんだいにはかなら一定いっていこたえがあるものだという前提ぜんていがある。【4】だから、こまったことがあると、しかるべきひとにどうしたらよいかをくことになる。本当ほんとうは、こまったことにたいして、効率こうりつのよい解決かいけつつけようとするまえに、その問題もんだいにしみじみとこまることが必要ひつようなのではないか。【5】そのひとにしかできないようなふかなやかたこそ、そのひとにしかできない解決かいけつへの第一歩だいいっぽだ。
 だいは、解決かいけつちかづくことに価値かちがあるのではなく、問題もんだい格闘かくとうすることに価値かちがあるのだと発想はっそう転換てんかんをすることである。もし解決かいけつだけがとうといのであれば、ものまねでもカンニングでも解決かいけつすればよいことになる。【6】しかし、なかには解決かいけつこば問題もんだいおおい。親鸞しんらんは、「善人ぜんにんなおもて往生おうじょうをとぐ、いわんや悪人あくにんをや」とった。イエスは、「つみのないものだけがいしげよ」とった。ここにあるのは、教科書きょうかしょてき解決かいけつ方法ほうほうではなく、その問題もんだいふかきたひとにしかかたれない真実しんじつ言葉ことばだ。【7】だからこそ、これらの言葉ことば時代じだいえてわたしたちのしんうごかす。どんな人間にんげんしんなかにもあく存在そんざいするということは、方法ほうほうによっては解決かいけつすることのできない人間にんげん本質ほんしつだ。だからこそ、必要ひつようなのは解決かいけつなのではなく、問題もんだい共有きょうゆうなのだ。
 【8】たしかに、方法ほうほうは、科学かがく技術ぎじゅつ発展はってん役立やくだち、生活せいかつ改善かいぜん役立やくだつ。分数ぶんすうざんはひっくりかえしてかけるという方法ほうほうおそわらなければ、おおくの小学生しょうがくせいなが時間じかん分数ぶんすうることの意味いみについてあたまなやまさなければならないだろう。【9】だから、問題もんだいしん把握はあくできていないとしても、とりあえず解決かいけつ方法ほうほうがあるということは、日常にちじょう生活せいかつにとってやくつ。しかし、その発想はっそう人生じんせいそのものにあてはめようとすれば、それは人間にんげん生活せいかつというよりもむしろ機械きかいのメンテナンスにちかいものになるだろう。【0】人間にんげん生活せいかつは、方法ほうほうからではなく目的もくてきからとらえたときはじめてきたものになるのである。

言葉ことばもり長文ちょうぶん作成さくせい委員いいんかい Σしぐま


長文ちょうぶん 10.2しゅう
【1】 (回収かいしゅうされた牛乳ぎゅうにゅうパックからトイレットペーパーがつくられるさまざまな工程こうてい説明せつめいして)このような苦労くろうすえ牛乳ぎゅうにゅうパックからつくられたトイレットペーパーが、最近さいきんではれなくなってきたという問題もんだいこっています。【2】実際じっさい、M製紙せいしでも、使用しよう牛乳ぎゅうにゅうパックが山積やまづみになっていました。なぜれないかというとからつくった「ヴァージンパルプ」を使つかったトイレットペーパーのほうが値段ねだんやすいからです。(中略ちゅうりゃく)【3】市民しみん団体だんたいのみなさんは、「せっかく回収かいしゅうした牛乳ぎゅうにゅうパックが使つかわれないのではこまる。なんとかたくさん使つかってもらわないと」とって、市役所しやくしょ小学校しょうがっこうのトイレットペーパーを牛乳ぎゅうにゅうパックからつくったものにえてくださいとおねがいする運動うんどうをしています。【4】パックりの牛乳ぎゅうにゅうをどんどんって、どんどん回収かいしゅうして、それからつくったトイレットペーパーをどんどん使つかおうという運動うんどうをしているのです。
 【5】ここでもう一度いちど質問しつもんしたいとおもいます。「なぜ牛乳ぎゅうにゅうパックをリサイクルするのですか?」
 牛乳ぎゅうにゅうパックをリサイクルさせることは、「ゴミをらすため」にはなっているのですが、「環境かんきょうまもるため」にはなっていません。【6】パックりの牛乳ぎゅうにゅうをどんどんってどうするのでしょうか。アメリカやカナダの動物どうぶつ自然しぜんのことはなにかんがえていないのでしょうか。(中略ちゅうりゃく
 【7】「環境かんきょうまもるため」にと牛乳ぎゅうにゅうパックからはがきをつくっている市民しみん団体だんたいがあります。(中略ちゅうりゃく
 この市民しみん団体だんたいは、このはがきをつくるためにミキサーを10だい以上いじょうこわしてしまったそうです。それに、ドライヤーをすうじゅうふん使つか電気でんきりょうはどうでしょうか。【8】電気でんきおおくは火力かりょく発電はつでんしょでつくられます。火力かりょく発電はつでんのエネルギーは石油せきゆです。石油せきゆやしてはいガスをして電気でんきをつくっているのです。これもりっぱな大気たいき汚染おせんです。ミキサーを使つかうための電気でんきおなじです。(中略ちゅうりゃく
 【9】牛乳ぎゅうにゅうパックのリサイクルはすばらしいことです。ただ、ここでぼくいたいのは、地球ちきゅうにやさしくするために、自分じぶんにやさしくするために、そして友達ともだち家族かぞくみんなにやさしくするために、さらにもういちすすんでみようということなのです。【0】
 
 (伊藤いとう吉徳よしのり間違まちがいだらけのリサイクル」)


長文ちょうぶん 10.3しゅう
 【1】高校こうこう進学しんがくりつろく〇%をえるのが昭和しょうわさんろくねん昭和しょうわよんきゅうねんにはきゅう〇%をえる。大学だいがく進学しんがくりつ〇%をえるのが昭和しょうわよんよんねん昭和しょうわよんはちねんにはさん%になる。大衆たいしゅう受験じゅけん社会しゃかい昭和しょうわよん年代ねんだい後半こうはんにはじまった。【2】週刊しゅうかん大学だいがく合格ごうかくしゃ高校こうこうべつ一覧いちらん受験じゅけん関係かんけい記事きじ頻繁ひんぱん登場とうじょうさせるようになるのが昭和しょうわよん年代ねんだいである。
 このあいだ進学しんがくりつ上昇じょうしょうによっておや子弟していすこしでもよりよい学校がっこう入学にゅうがくさせようとする。【3】教師きょうし進学しんがくさきのないどもがでないようにしなければならないという教育きょういくてき配慮はいりょはたらかせる。となると、れる学校がっこう確実かくじつにみきわめねばならない。生徒せいと相対そうたいてき学力がくりょく査定さてい――偏差へんさ必要ひつようになる。【4】ところが、確実かくじつ入学にゅうがくできる学校がっこうさがすためにいったん偏差へんさがつかわれると、それまで曖昧あいまいだった学校がっこうランクが明確めいかくになり、固定こていする。教師きょうし指導しどうする学校がっこうにはかなら入学にゅうがくできることになるが、その反面はんめん、それまで曖昧あいまいだった学校がっこう序列じょれつ偏差へんさによって、明確めいかく学校がっこうランクとなる。
 【5】こうして昭和しょうわよん年代ねんだい後半こうはん以後いごに「輪切わぎり」といわれる学校がっこうそう序列じょれつ急速きゅうそくすすんだ。職業しょくぎょう高校こうこう普通ふつう高校こうこう序列じょれつしたまれはじめるのもこのころからである。昭和しょうわねんには「高校こうこう入試にゅうし跋扈ばっこする偏差へんさ」のような偏差へんさバッシング記事きじ登場とうじょうするようになる。
 【6】学校がっこうそう序列じょれつすると、受験じゅけん競争きょうそうへのきつけは、学歴がくれき社会しゃかい立身出世りっしんしゅっせ物語ものがたりなどの外部がいぶ帰属きぞくさせることなく、受験じゅけん社会しゃかい内部ないぶ自己じこ生産せいさんすることができるようになる。学校がっこうランクや偏差へんさランクがそれ自体じたいとして競争きょうそう報酬ほうしゅうになり意味いみ根拠こんきょとなってしまうからである。【7】偏差へんさじゅういちじゅうろく僅差きんさ学校がっこうランクが将来しょうらい昇進しょうしん賃金ちんぎんされるわけではない。にもかかわらず、偏差へんさやわずかな学校がっこうランクが受験じゅけん競争きょうそう誘因ゆういんになってしまう。
 【8】しかも、すべての学校がっこうがランクつまりそう序列じょれつ状態じょうたいにおかれれば、事態じたい一部いちぶ人々ひとびとあいだのエリートこうをめぐっての競争きょうそうにとどまらなくなる。平均へいきん学力がくりょく生徒せいとも、相対そうたいてき上位じょういこうをめざしての競争きょうそうきつけられる。【9】生徒せいと模擬もぎ試験しけんなどによって偏差へんさじゅうらされたとき、偏差へんさろくじゅうはちとされる学校がっこうへの志願しがんはあきらめるだろう。しかし頑張がんばれば偏差へんさろく〇の学校がっこう進学しんがくできるのではないか、というようにかえってきつけられる。【0】(中略ちゅうりゃく
 したがって、受験じゅけん競争きょうそうはすべてのひとみ、熾烈しれつになる。しかし、失敗しっぱいかん挫折ざせつかんはすくないというパラドクシカルな状態じょうたいになる。というのは、大衆たいしゅう受験じゅけん社会しゃかいにおいては、模擬もぎ試験しけん受験じゅけん情報じょうほう自分じぶん学力がくりょく相対そうたいてき位置いちはやいときかららされている。高望たかのぞみしているわけではない。はじめからほどほどのところがめざされている。おおきな目標もくひょうもないかわりにおおきな挫折ざせつもないのである。そもそも偏差へんさ受験じゅけん体制たいせい成功せいこう失敗しっぱい断続だんぞくてきではなく傾斜けいしゃてきである。うえをみれば失敗しっぱいでありしたをみれば成功せいこうである。
 また背後はいご立身出世りっしんしゅっせ学歴がくれき社会しゃかいのようなおおきな物語ものがたりがあるわけではないから受験じゅけん失敗しっぱいすることは立身出世りっしんしゅっせ物語ものがたり成就じょうじゅ失敗しっぱいではない。せいぜいがいまより頑張がんばれば就職しゅうしょくのときに多少たしょう有利ゆうりかもしれないという「景品けいひん程度ていどである。受験じゅけん成功せいこう失敗しっぱいによってしんきずのこ青少年せいしょうねん人間にんげん形成けいせい影響えいきょうをあたえるといったことははるかにすくなくなったのである。(中略ちゅうりゃく
 大衆たいしゅう受験じゅけん社会しゃかいとは、受験じゅけんがシステムされた社会しゃかいである。受験じゅけんいちかいかぎりのものではなく、中学校ちゅうがっこう受験じゅけん高校こうこう受験じゅけん大学だいがく受験じゅけんというようになんかいもある状態じょうたいをいう。しかも学校がっこうそう序列じょれつされたなかでこういう競争きょうそうがおこなわれると、目標もくひょう競争きょうそうへのきつけは主体しゅたい欲望よくぼうからではなく、受験じゅけん社会しゃかいのほうからやってくる。(中略ちゅうりゃく
 欲望よくぼう受験じゅけんシステムからやってくる。受験じゅけんシステムの外部がいぶにある個人こじん野心やしん欲望よくぼう回収かいしゅうされ空白くうはくする。だから大衆たいしゅう受験じゅけん社会しゃかいにおかれた受験生じゅけんせいは、「なぜか(自分じぶんでもわからないうちに)受験じゅけん競争きょうそうにそれなりに頑張がんばってしまう」ということにもなる。大衆たいしゅう受験じゅけん社会しゃかいはシステムに飼育しいくされた(空虚くうきょな)主体しゅたい製造せいぞう工場こうじょうである。
 
 (竹内たけうちひろし立身出世りっしんしゅっせ主義しゅぎ」)


長文ちょうぶん 10.4しゅう
 子供こどもころ習字しゅうじ練習れんしゅう半紙はんしというかみうえおこなった。くろすみしろ半紙はんしうえ成熟せいじゅく文字もじてしなく発露はつろつづける、その反復はんぷく文字もじくトレーニングであった。かえしのつかないつたない結末けつまつかみうえあらわつづける呵責かしゃくねん上達じょうたつのエネルギーとなる。練習れんしゅうよう半紙はんしといえども、しろかみである。そこに自分じぶんのつたない行為こうい痕跡こんせきのこつづけていく。かみがもったいないというよりも、しろかみれない過失かしつ累積るいせきしていくさま把握はあくつづけることが、おのずと推敲すいこうという美意識びいしき加速かそくさせるのである。この、推敲すいこうという意識いしきをいざなう推進すいしんりょくのようなものが、かみ中心ちゅうしんとしたひとつの文化ぶんかつくげてきたのではないかとおもうのである。もしも、無限むげん過失かしつをなんの代償だいしょうもなくつづけてくれるメディアがあったとしたならば、すかたたくかを逡巡しゅんじゅんする心理しんりまれてこないかもしれない。
 現代げんだいはインターネットというあらたな思考しこう経路けいろまれた。ネットというメディアは一見いっけん個人こじんのつぶやきの集積しゅうせきのようにもえる。しかし、ネットの本質ほんしつはむしろ、不完全ふかんぜん前提ぜんていにした集積しゅうせきこうがわに、みな共有きょうゆうできる総合そうごうのようなものにばすことのようにおもわれる。つまりネットをかいしてひとりひとりがかんがえるという発想はっそうえて、世界せかい人々ひとびと同時どうじかんがえるというような状況じょうきょうまれつつある。かつては、百科ひゃっか事典じてんのような厳密げんみつさのわれる情報じょうほう体系たいけいむにも、個々ここのパートは専門せんもんとしてのがこれをになってきた。しかし現在げんざいでは、あらゆる人々ひとびと加筆かひつ訂正ていせいできる百科ひゃっか事典じてんのようなものがネットのなかうごいている。間違まちがいやいたずら、おもちがいや表現ひょうげん的確てきかくさは、世界中せかいじゅう人々ひとびとつねにさらされている。印刷物いんさつぶつ間違まちがいなくおくとき意識いしきとはことなるプレッシャー、良識りょうしき悪意あくいも、嘲笑ちょうしょう尊敬そんけいも、揶揄やゆ批評ひひょう一緒いっしょにした興味きょうみ関心かんしんあつりょくによって、情報じょうほうはある意味いみ無限むげん更新こうしんかえしているのだ。無数むすう人々ひとびとにさらされつづける情報じょうほうは、変化へんかする現実げんじつかぎりなく接近せっきんし、つづけるだろう。断定だんていしない言説げんせつ真偽しんぎがつけられないように、その情報じょうほうはあらゆる評価ひょうか回避かいひしながら、文体ぶんたいたないニュートラルな言葉ことば平均へいきんしめつづけるのである。あきらかに、推敲すいこうがもたらすしつとはことなる、あらたな基準きじゅんがここにまれようとしている。
 しかしながら、無限むげん更新こうしんつづける情報じょうほうには「清書せいしょ」や「仕上しあがる」というような価値かちかん美意識びいしき存在そんざいしない。無限むげん更新こうしんされつづける巨大きょだい情報じょうほうのうねりが、圧力あつりょくとして情報じょうほうにプレッシャーをあたつづけている状況じょうきょうでは、情報じょうほうつね途上とじょうでありわりがない。
 一方いっぽうかみうえるということは、くろいインクなりすみなりを付着ふちゃくさせるという、後戻あともどりできない状況じょうきょうし、完結かんけつした情報じょうほう成就じょうじゅさせる仕上しあげへの跳躍ちょうやく意味いみする。しろかみうえ決然けつぜん明確めいかく表現ひょうげん屹立きつりつさせること。可逆かぎゃくせいともなうがゆえに、達成たっせいには感動かんどうまれる。またそこにはくちあざやかさが発現はつげんする。そのいとなみは、しょ絵画かいが詩歌しか音楽おんがく演奏えんそう舞踊ぶよう武道ぶどうのようなものに顕著けんちょあらわれている。あやまり、身体しんたいのぶれ、鍛錬たんれん未熟みじゅくさを超克ちょうこくし、失敗しっぱいへの危険きけんおくすることなくいさぎよはっせられる表現ひょうげんつよさが、感動かんどう根源こんげんとなり、しょ芸術げいじゅつ感覚かんかくきたえる暗黙あんもく基礎きそとなってきた。音楽おんがく舞踊ぶようにおける「本番ほんばん」という時間じかんは、しろかみ同様どうよう意味いみをなす。

 (原研げんけん哉『しろ』による)



長文ちょうぶん 11.1しゅう
 【1】言語げんご記号きごうもちいるという人間にんげん独自どくじ能力のうりょくは、あたかもつばさをはばたいて空中くうちゅう鳥類ちょうるい能力のうりょくおなじように、人間にんげん環境かんきょう世界せかいのイメージを動物どうぶつのそれとはくらべようもないほど拡大かくだいすることになる。【2】現在げんざい生存せいぞんしているイヌやネコは、さんひゃくねん以前いぜん江戸えどまちのイメージ、ましてやまんねん以前いぜん原人げんじんがどのような生活せいかつをしていたかのイメージをもつことができない。しかし、人間にんげんにはそれができる。【3】そのイメージは、時代じだい場所ばしょひとによってことなるかもしれないが、どのようなばあいでもイメージそのものはもつことができる。これは人間にんげん知覚ちかくでの意識いしき、すなわちみみのような感覚かんかく器官きかん知覚ちかくかっている環境かんきょう風景ふうけいが、【4】げん知覚ちかくされているものの意識いしきから、げん知覚ちかくされていないが、かつていち知覚ちかくされたものの記憶きおく想像そうぞうによる過去かこ未来みらいのイメージの意識いしきにまで――言語げんご活動かつどうつうじての――拡大かくだい延長えんちょうされたれいである。
 【5】このような風景ふうけい意識いしき拡張かくちょうもとづいて、人間にんげんしんほかはたらき、たとえば感情かんじょう情緒じょうちょはたらきも拡張かくちょうされる。人間にんげんでも動物どうぶつでも、自分じぶんれた食物しょくもつ動物どうぶつうばわれたときにしょうじるであろう感情かんじょうおなじであり、たね維持いじのためにおこなうせい行動こうどう瞬間しゅんかん感情かんじょうおなじようなものであろう。【6】しかし日々ひび食物しょくもつ一応いちおう不足ふそくなくべてはいるが、社会しゃかい経済けいざいきょうになり雇用こよう悪化あっか失業しつぎょうおそれからくる生活せいかつ不安ふあんとか、人間にんげん生態せいたいけい悪化あっかともなって将来しょうらいこるであろう人類じんるい滅亡めつぼうという観念かんねんが、【7】あるひとびとにあたえた未来みらいへのユートピアをうばわれた希望きぼうのない終末しゅうまつへの不安ふあんのような複雑ふくざつ感情かんじょう、あるいは日本にっぽん文学ぶんがくてき表現ひょうげんのある様式ようしきともなう「わび」とか「さび」といった情緒じょうちょは、言語げんご表現ひょうげん能力のうりょくをもたないほか動物どうぶつにはこりようのない感情かんじょう情緒じょうちょ人間にんげん独特どくとく言語げんごによる拡張かくちょうであろう。
 【8】また人間にんげん以外いがい動物どうぶつでも、たとえば必要ひつようとする食物しょくもつおおいかすくないかのちがいは判断はんだんでき、獲物えものいかけて行動こうどうするとき、その獲物えものがどのように行動こうどうするかをまえもって推理すいりすることはできるだろう。【9】――しかし、このおおいかすくないかをすう記号きごう言語げんご記号きごうおなじである)をもちいてよんばいおおいとか、いちばいおおい、などという算数さんすうてき計算けいさんはできないし、また推論すいろんげんまえこっている出来事できごとのなかでおこなうことからはなれて一般いっぱんてき形式けいしきてき表現ひょうげんすることはできない。【0】これができる人間にんげんしんはたらきは、言語げんご記号きごうあるいはすう記号きごうもちいることができるようになった大脳だいのう拡大かくだいされたはたらきにおうじて、大脳だいのう感情かんじょう情緒じょうちょしょうじさせる部分ぶぶん適応てきおうてきはたらくようになったことからしょうじる、しん拡張かくちょうされた部分ぶぶんはたらきである。(中略ちゅうりゃく
 人間にんげんしん一部いちぶには動物どうぶつしんとはちが部分ぶぶんがある。それは言語げんごである。このことはべつあたらしいことではなくて、だれでもっていることにぎない。しかし重要じゅうようなのは、このだれでもがっている現在げんざい事実じじつ宇宙うちゅう全体ぜんたい進化しんかのなかでどのように位置いちづけるかという、いわゆる「宇宙うちゅうにおける人間にんげん地位ちい」と従来じゅうらいよくいわれてきた哲学てつがくじょう問題もんだいとしてこの事実じじつあらためてなおすことである。(中略ちゅうりゃく
 人間にんげん言語げんご遺伝子いでんしおなじように(いやそれ以上いじょうに)この宇宙うちゅう進化しんかのなかであたらしいものをつくりすという宇宙うちゅうてき効果こうかをもっているということができる。その意味いみわたし人間にんげん言語げんごを、遺伝子いでんしおな系列けいれつの、よりすすんだちからとしてかたりでんという、わたし自身じしんつくった用語ようご表現ひょうげんした。ちから物質ぶっしつとなり、物質ぶっしつから遺伝子いでんしをもった生物せいぶつしょうじ、この生物せいぶつのなかから人間にんげんかたりでんによる文化ぶんかしょうじた。これは、宇宙うちゅう進化しんかのなかのおおきなみっつの段階だんかい最後さいごの(すくなくとも現在げんざいまでは)段階だんかいというべきだろう。「言語げんごをもつ」ということを宇宙うちゅう進化しんかのなかでこのように位置いちづけることができるとおもう。最近さいきん宇宙うちゅうろん学者がくしゃのなかでいわれている人間にんげん原理げんり意味いみをこのような文脈ぶんみゃくのなかで、より拡大かくだいして物理ぶつりがくから人間にんげんしょ科学かがくへとつなぐはしとすることができるのではないだろうか。


長文ちょうぶん 11.2しゅう
 【1】歴史れきしせんもん仕事しごとというものは、それを歴史れきしがどう理解りかいするにせよ、たんに人間にんげんだけでなく、この地球ちきゅうじょうのあらゆる生命せいめい本来ほんらいてきにそなわった限界げんかい欠陥けっかんひとつたる一種いっしゅ自己じこ中心ちゅうしんせい是正ぜせいしようとするひとつのこころみだといえるのである。【2】歴史れきしがその専門せんもんてき見解けんかい到達とうたつするためには、なによりもまず、みずからも一人ひとり人間にんげんとしてまぬかれることのできないこの自己じこ中心ちゅうしんてき観点かんてんから、意識いしきてきに、また意図いとてきに、その視角しかくをそらそうとつとめなければならないのである。
 【3】自己じこ中心ちゅうしんせい地上ちじょうなまにおいてはた役割やくわりはいわば両面りょうめん価値かちてきなものである。一方いっぽうでは、自己じこ中心ちゅうしんせいはあきらかに現世げんせいせい本質ほんしつをなすものとかんがえられる。【4】なまあるものは、たとえささやかな付随ふずいてきなものにせよ、事実じじつこの宇宙うちゅう構成こうせいする一片いっぺん分子ぶんしだと定義ていぎすることもできるのであって、しかもそれが、部分ぶぶんてきにせよほかのものから解放かいほうされ、【5】さらにこの宇宙うちゅうほかのものをじぶんの利己りこてき目的もくてきわせるように、あらんかぎりの努力どりょくをはらういち自律じりつてきちからとして独立どくりつしているというような一種いっしゅの「はなれわざ」をえんじているものだともかんがえられるのである。【6】つまり、それぞれのなまあるものはみなきそってみずからを宇宙うちゅう中心ちゅうしんたらしめんとしているのであり、そのさいのあらゆるなまあるものと、またこの宇宙うちゅうそのものと、さらにこの宇宙うちゅう創造そうぞう維持いじしている万能ばんのうちから――このつかの現象げんしょうにひそむ実在じつざいにほかならない万能ばんのうちから――ともおうとしているのだということになるのである。【7】このような自己じこ中心ちゅうしんせいは、すべてなまあるものの存在そんざいくべからざるものであるために、その生活せいかつ必要ひつよう条件じょうけんひとつとなっているのであるが、もしかりに完全かんぜん自己じこ中心ちゅうしんせい放棄ほうきするということにでもなれば、【8】(たとえそれがなまそのものの消滅しょうめつ意味いみすることにはならないにしても)およそなまあるいかなるものも、まさにこのとき、この場所ばしょにおいてせいをいとなむためのあの媒介ばいかい手段しゅだんをも、同時どうじ完全かんぜん喪失そうしつすることになるであろう。【9】そしてこのような心理しんりてき真実しんじつへの洞察どうさつが、仏教ぶっきょう知的ちてき出発しゅっぱつてんとなっているのである。
 このように、自己じこ中心ちゅうしんせいなまひとつの必要ひつよう条件じょうけんなのであるが、しかしこの必要ひつよう条件じょうけんは、同時どうじにまたひとつのつみでもあるのである。【0】つまり自己じこ中心ちゅうしんせいは、このせいをうけたいかなるものもじつひとつとして宇宙うちゅう中心ちゅうしんたりえないものだとしてみれば、知的ちてきにもひとつのあやまりであり、またみずからが宇宙うちゅう中心ちゅうしんででもあるかのように行動こうどうできる権利けんりなど、なにひとつとしてもつものがないとしてみれば、それは道徳的どうとくてきにもあやまりなのである。およそなまあるいかなるものも、おなじ仲間なかまたる造物ぞうぶつにしろ、また宇宙うちゅうにしろかみもしくは実在じつざいにしろ、まるでそれらがいち自己じこ中心ちゅうしんてき造物ぞうぶつ要求ようきゅうにこたえるためにのみ存在そんざいしてでもいるかのようにこれをみなしていい権利けんりなどすこしももたないはずなのである。このようなあやまった信念しんねんをもち、これにもとづいた行動こうどうをすることは、(これをギリシアの心理しんりがく言葉ことばしたがえば)倨傲きょごうつみばれるもので、この倨傲きょごうとは、(なま悲劇ひげきキリスト教きりすときょう神話しんわのなかにあらわれているのにしたがえば)だい魔王まおうサタンがみずから奈落ならくに墜るにいたったあの法外ほうがいな、罪深つみぶかい、自殺じさつてき驕慢きょうまんにほかならないのである。
 このように自己じこ中心ちゅうしんせいなま必要ひつよう条件じょうけんであるばかりでなく、同時どうじ因果応報いんがおうほうともなひとつのつみでもあるとしてみると、すべてなまあるものは、終生しゅうせいぬけさることのできない窮境きゅうきょうにおちいっていることになる。なまあるものが、その生命せいめい維持いじすることができるのも、ただそれが自己じこ主張しゅちょうのあげくの自殺じさつをも、また自己じこ放棄ほうきからくる安楽あんらくをも、ともにどうにかしてけることができるかぎりにおいてであり、またそのあいだにおいてのみなのである。この中道ちゅうどうは、剃刀かみそりのようにせまみちで、そこをとおってゆく旅人たびびとは、そのみち両側りょうがわふたつの深淵しんえんへとひかれるちからによって、たえず極度きょくど緊張きんちょうかんじつつ、用心深ようじんぶか平均へいきんたもちつづけなければならないのである。
 なまあるものにその自己じこ中心ちゅうしんせいしている問題もんだいは、それゆえ生死せいし問題もんだいとなるのであり、それはあらゆる人間にんげんがたえずつきまとわれている問題もんだいなのである。歴史れきしのものの見方みかたにしても、このおそれるべき挑戦ちょうせんこたえようとして人間にんげんしんよそおういくつかの道具どうぐのなかのひとつにほかならないのである。
 
 (A・J・トインビー「歴史れきし宗教しゅうきょうかん」)


長文ちょうぶん 11.3しゅう
 【1】クリントンの税制ぜいせいあんはおまりのいまわしで修飾しゅうしょくされていた。いわく、「金持かねもちはみすぎ、まずしいひとまずしすぎる」、「かれらは不相応ふそうおう報酬ほうしゅうている」、「それこそ公平こうへいというもの」云々うんぬん
 政治せいじがこのようないまわしを使つかうのは、それをのぞ選挙せんきょみんがいるからにほかならない。【2】おそらく、政治せいじにそのようないいかたをしてもらうことで、隣人りんじんはたらきをあてにするうしろめたさがすこしはかるくなるからではないか。自分じぶん貪欲どんよく人間にんげんられるよりは、隣人りんじんはしぼりられて当然とうぜんせかけておくほうが、たしかにらくだ。
 【3】ここでのキーワードは「せかけ」である。つまり、所得しょとくさい分配ぶんぱいといえばこえはいいが、実際じっさいには、そのようなレトリックを本気ほんきしんじるひとなどいないということである。所得しょとくさい分配ぶんぱいは、ときにより、あるひとたちをごまかすためのレトリックとして使つかうことはできる。【4】じんによっては、それでいい場合ばあいがあるからだ。しかし、それをいついかなる場合ばあいでもしんじるというひとはいないし、ときにそれでよしとするひとも、じつは心底しんそこからしんじているわけではない。本気ほんきしんじるには、所得しょとくさい分配ぶんぱいはあまりにもおかしなはなしなのだ。
 【5】なぜここまで断言だんげんできるかというとむすめった経験けいけんからである。むすめ公園こうえんあそばせていて、わたしはなるほどとおもった。公園こうえんではおやたちが自分じぶんどもにいろいろなことをってかせている。【6】だが、ほかのがおもちゃをたくさんっているからといって、それをげてあそびなさいとっているのをいたことはない。一人ひとりどもがほかのどもたちよりおもちゃをたくさんっていたら、「政府せいふ」をつくって、それをげることを投票とうひょうめようなどとったおやもいない。
 【7】もちろん、おやどもにたいして、ゆずりあいが大切たいせつなことをってかせ、利己りこてき行動こうどうずかしいという感覚かんかくたせようとする。【8】ほかの自分勝手じぶんがってなことをしたら、うちのうでずくでというのは論外ろんがいで、普通ふつうはなんらかの対応たいおうをするようにおしえる。たとえば、おだてる、交渉こうしょうをする、仲間なかまはずれにするのもよい。だが、どう間違まちがってもぬすんではいけない、と。【9】まして、あなたのぬすみのかたつような道徳どうとくてき権威けんいをそなえた合法ごうほう政府せいふといったものは存在そんざいしない。いかなる憲法けんぽう、いかなる議会ぎかい、いかなる民主みんしゅてき手段しゅだんも、またこのほかのいかなる制度せいどといえども、そのような道徳どうとくてき権威けんいをそなえた政府せいふをつくることはできない。なぜなら、そのようなものはこの存在そんざいしないからである。【0】(中略ちゅうりゃく
 すうねんまえむすめのケーリーと彼女かのじょともだちのアリックスもれて夕食ゆうしょくかけたことがある。二人ふたりともたしかろくさいのときだったとおもう。デザートとして、いまアイスクリームを注文ちゅうもんするか、あとで風船ふうせんガムをってもらうか、ということになった。アリックスはアイスクリーム、ケーリーは風船ふうせんガムを選択せんたくした(これからおやになるひとに。デザートをやすくあげたければ、風船ふうせんガムもまたデザートであることを早期そうき教育きょういくによって認識にんしきさせよう)。
 アリックスがアイスクリームをわるのをって、ケーリーのガムをいにた。ケーリーは念願ねんがんのガムにありついたが、アリックスには当然とうぜんのことガムはない。アリックスは、そんなのずるいとってした。第三者だいさんしゃのおとなかられぱ、アリックスに正当せいとうせいがないのはあきらかだった。彼女かのじょにはケーリーとまったくおな選択せんたく機会きかいあたえられ、さきたのしみをあじわったにすぎない。
 これとおな問題もんだいはおとなの世界せかいでもきる。ポールとピーターは青年せいねん時代じだいおな機会きかいあたえられていた。ポールは無難ぶなん人生じんせい選択せんたくいち週間しゅうかんよんあいだだけはたらき、まった給料きゅうりょうをもらっていた。ピーターは青春せいしゅんしん事業じぎょうにかけリスキーな報酬ほうしゅうもとめでいちにちちゅうはたらいた。中年ちゅうねんまでにピーターは金持かねもちになったが、ポールはそうならなかった。ポールはこんなつもりではなかったとくことになり、この不平等ふびょうどう社会しゃかい制度せいどがいけないからだとぼやいた。(中略ちゅうりゃく
 では、選択せんたく結果けっかではなく、機会きかい結果けっかとして収入しゅうにゅうがついた場合ばあいにはどうかんがえればよいか。ここでもまた、おやとして自分じぶんどもにどうっているかをおもかえしてみてほしい。二人ふたり以上いじょうどもに同時どうじにケーキをした場合ばあい、かならず「ずるいよ、こっちのほうがちいさい」というこえがるだろう。そのとき、もしあなたに忍耐にんたいしんがあるなら、「いもうとのケーキのおおきさなんかにしないで、自分じぶんのケーキをおいしくべたほうがいいよ。そのほうが、いつもひとべっこをしないとがすまないどもより、なんばいもしあわせな人生じんせいおくれるから」といいきかせるかもしれない。


長文ちょうぶん 11.4しゅう
 徳川とくがわ家康いえやす自身じしんは、戦国せんごく武将ぶしょうつねとして、かん詩文しぶんきはできなかった。しかしかれは、「漢文かんぶんちから」をよく理解りかいしていた。
 家康いえやすが「漢文かんぶんちから」を実感じっかんした最初さいしょ契機けいきは、いちななねんさんぽうばら合戦かっせんであった。わか家康いえやすは、「孫子まごこ兵法ひょうほう」に精通せいつうした武田たけだ信玄しんげん交戦こうせんし、生涯しょうがい最大さいだい大敗たいはいきっした。武田たけだ滅亡めつぼう家康いえやす武田たけだ遺臣いしんおおかかえ、信玄しんげん兵法ひょうほう軍略ぐんりゃく研究けんきゅうさせた。
 (中略ちゅうりゃく
 日本にっぽん史上しじょう、「漢文かんぶんちから」を活用かつようして日本人にっぽんじん思想しそう改造かいぞう成功せいこうした統治とうちしゃは、聖徳太子しょうとくたいし徳川とくがわ家康いえやすにんであった。
 江戸えど時代じだいは、王朝おうちょう時代じだい日本にっぽん漢文かんぶん番目ばんめ黄金おうごん時代じだいであった。江戸えど漢文かんぶん文化ぶんか特徴とくちょうとしては、
いち漢文かんぶん訓読くんどく技術ぎじゅつが、一般いっぱん公開こうかいされたこと
史上しじょう空前くうぜんの、漢籍かんせき出版しゅっぱんブームがきたこと
さん武士ぶし百姓ひゃくしょう町人ちょうにん上層じょうそうである中流ちゅうりゅう実務じつむ階級かいきゅうが、漢文かんぶんまなんだこと
よん俳句はいく小説しょうせつ落語らくご演劇えんげきなどの文化ぶんかにも、漢文かんぶんおおきな影響えいきょうあたえたこと
漢文かんぶんが「生産せいさんざいとしての教養きょうよう」となったこと
 などがあげられる。
 室町むろまち時代じだいまで、漢文かんぶん訓読くんどく方法ほうほうたとえば訓点くんてんちかたは、平安へいあん時代じだい以来いらい学者がくしゃいえ秘伝ひでんとされていた。訓点くんてん一般いっぱん公開こうかいされ、われわれが見慣みなれている「レてん」「いちてん」「おく仮名がな」などの訓点くんてんほどこした漢籍かんせきひろ出版しゅっぱんされるようになったのは、江戸えど時代じだいからであった。
 (中略ちゅうりゃく
 日本にっぽん朝鮮ちょうせん通信使つうしんしは、日本にっぽんがわ文人ぶんじん漢詩かんし応酬おうしゅうをした。これは国威こくいをかけたぶんたたかいでもあった。初期しょきのころは、日本にっぽんがわつく漢詩かんしのレベルはひくかった。あとになると日本にっぽんがわ漢詩かんしのレベルが急速きゅうそく向上こうじょうしたため、朝鮮ちょうせんがわ一流いちりゅう漢詩かんしじんえらんで日本にっぽんおくるようになった。
 たとえば、新井あらい白石はくせきは、幕府ばくふつかえる漢学かんがくしゃとして、朝鮮ちょうせん通信使つうしんしれいをめぐってはげしい論争ろんそうをかわした。朝鮮ちょうせんがわは、論争ろんそうべつとして、白石しらいし漢詩かんしたか評価ひょうかした。白石しろいしのほうも、自分じぶん漢詩かんししゅう序文じょぶん朝鮮ちょうせん通信使つうしんしいてもらうなど、かれらの文学ぶんがくてき能力のうりょくたいしてふか敬意けいいはらった。政治せいじでは対立たいりつしても、文化ぶんかでは友好ゆうこうをつらぬく、という態度たいどが、にちちょう双方そうほうられたことは、興味深きょうみぶかい。
 戦国せんごく時代じだいまで野蛮やばんだった武士ぶしは、江戸えど時代じだい漢文かんぶんブームによって、朝鮮ちょうせん中国ちゅうごく大夫たいふ階級かいきゅうとわたりあえる文化ぶんかてき教養きょうようじんになった。
 日本にっぽんわたってきた朝鮮ちょうせん通信使つうしんしは、はなえびすかい思想しそう立場たちばから、日本にっぽん固有こゆう文化ぶんか風俗ふうぞくひく傾向けいこうがあった。そんなかれらさえ、日本にっぽん出版しゅっぱんぎょうさかんなこと、とくに漢籍かんせき出版しゅっぱんぶつ豊富ほうふさと値段ねだんやすさには、おどろきの見張みはった。
 (中略ちゅうりゃく
 江戸えど末期まっきには、下級かきゅう武士ぶしのみならず、ヤクザの親分おやぶん農民のうみんまでもが漢文かんぶんまなんだ。当時とうじ漢字かんじ文化ぶんかけんのなかで、このような中流ちゅうりゅう実務じつむ階級かいきゅうそだっていたのは、日本にっぽんだけである。日本にっぽんがいちはやく近代きんだい成功せいこうできた理由りゆうも、ここにあった。
 中国ちゅうごくでも、医者いしゃだったまごぶんのような中級ちゅうきゅう実務じつむ階級かいきゅう存在そんざいしたが、かれらのちから大夫たいふ階級かいきゅうよりよわく、そのため中国ちゅうごくからししんがい革命かくめいいちきゅういちいち)は日本にっぽん明治維新めいじいしんよりはん世紀せいきおくれた。
 もし、初代しょだい将軍しょうぐん徳川とくがわ家康いえやす儒学じゅがく幕府ばくふ官学かんがくにするという構想こうそうをもたなかったら。もし、日本にっぽん漢文かんぶん訓読くんどくというユニークな文化ぶんかがなかったとしたら――。
 日本にっぽん近代きんだいは、もっと困難こんなんみちをたどっていたにちがいない。

 (加藤かとうとおる文章ぶんしょうもとづく)



長文ちょうぶん 12.1しゅう
 【1】われわれが日常にちじょうしばしば経験けいけんする事実じじつとして、つぎのようなものがある。われわれがほんした場合ばあいに、りたひともちいずみののちただちに自発じはつてきかえしてこないことがすくなくない。それは、どのような意識いしきによってうらづけられているのであろうか。【2】その意識いしきは、つぎ事実じじつから推測すいそくされるようにおもわれる。すなわち、そのような場合ばあいしたひとほん返還へんかん要求ようきゅうするしかたが、はなはだ特色とくしょくてきである。【3】わたしなんかい外人がいじんからほんりたことがあるが、返還へんかんがおくれると、したひと外人がいじん)は、きわめて「事務じむてき」に、「先日せんじつあなたにしたなに々のほんは、もしもちいずみならかえしてもらいたい」とってくる。【4】われわれ日本人にっぽんじん――すくなくとも、わたしっている範囲はんいの、わたしおなじくらいの年齢ねんれい人々ひとびと――は、こういうふうにうことに抵抗ていこうかんじ、若干じゃっかんわるびれて口実こうじつをもうけいわけをして(たとえば、「ぼく友達ともだちであのほんたいというものがあるのだが。……」というふうに)でないと、かえしてもらいたいとはえない。【5】あたかも貸主かしぬしのこのような行動こうどうのしかたに対応たいおうするかのごとく、借主かりぬしは、ようずみののちただちにかえさないことについてなんつみ意識いしきをもたないのが普通ふつうであり、むしろ、返還へんかん要求ようきゅうがあるまでかえさないでもっているのがたりまえででもあるかのごとくであり、むしろ、返還へんかん要求ようきゅうをうけても、わるびれることもなく、またいわけをすることもないのが普通ふつうのようである。【6】わたし自身じしんほんしてそのままかえしてもらえないままになっているれいけっしてすくなくない。極端きょくたんれいとしては、こんな経験けいけんがある。わたし学生がくせいからあるほんしてくれとたのまれ、こころよしたところ、ねんばかりたってもかえしてくれないので催促さいそくした。【7】かれはそのほん各所かくしょにペンや鉛筆えんぴつですじをひいたままで、なにわるびれるところもなくかえしてきたのである。【8】……わたし所有しょゆうぶつであるほん他人たにんしたときは、わたし現実げんじつ支配しはい事実じじつおわったことによって、そのほんたいするわたし所有しょゆうけんよわいものになり、これに対応たいおうしてその反面はんめんで、借主かりぬしがあらたにはじめた現実げんじつ支配しはい事実じじつは、わたし所有しょゆうけんから独立どくりつした一種いっしゅ正当せいとうせいをもちはじめ、だんだん所有しょゆうけんちかいものになってくるようにおもわれるのである。
 【9】このようなれい無数むすうにつづくが、最近さいきんまでもることなく新聞しんぶんをにぎわしている問題もんだいとしていわゆる役得やくとくという現象げんしょうがある。役得やくとくというのは、ある地位ちいについていることによってられる利益りえきで、しかも公式こうしきには承認しょうにんされていないもの、をすことばである。【0】役得やくとくには種々しゅじゅのものがあるが、ここでの問題もんだい関係かんけいがあるものとしては、他人たにん財産ざいさん管理かんりにあたるものが、その管理かんり財産ざいさん私的してき飲食いんしょくないし宴会えんかいをしたり旅行りょこうったりする場合ばあいをあげることができる。もちろん、その管理かんりしゃがその地位ちいにもとづく職務しょくむとして他人たにん接待せったいする必要ひつようがあって、管理かんり財産ざいさん飲食いんしょくないし宴会えんかいをしたり温泉おんせんったりすることは、正当せいとうである。しかし、その範囲はんいをこえて私的してき目的もくてきでそのような行為こういをすることは、民事みんじじょう他人たにん財産ざいさんたいする侵害しんがいであり、刑事けいじじょうは「他人たにんためメ其事務じむ処理しょりスルしゃ自己じこわかクハ第三者だいさんしゃ利益りえきはかまた本人ほんにん損害そんがいフル目的もくてきヲ以テ其任務にんむキタル行為こういため本人ほんにん財産ざいさんうえ損害そんがいエタルトキ」(刑法けいほうよんななじょう)というのに該当がいとうして背任はいにんざいとなるのである。会社かいしゃ重役じゅうやく会社かいしゃ費用ひようで、自分じぶん私宅したく建築けんちくあるいは修理しゅうりしたり、私宅したくよう美術びじゅつひん買入かいいれたり……して、会社かいしゃ財産ざいさん状態じょうたい悪化あっかさせ、取引とりひきさきないし債権さいけんしゃひいては経済けいざいかい一般いっぱんおおきな迷惑めいわくをかけたはなしが、最近さいきん新聞しんぶん紙面しめんをにぎわせたが、会社かいしゃ財産ざいさん実質じっしつじょう所有しょゆうしゃである株主かぶぬし迷惑めいわくをかけたというもっと重要じゅうようなことが、新聞しんぶんではかならずしもおおきくりあげられていないようにおもわれる。(中略ちゅうりゃく)いちばん面白おもしろいのは、だい大戦たいせんちゅう、「おおやけぶつおもしんすでてき」という標語ひょうご郵便ゆうびんきょくかべにはってあった、という事実じじつである。民法みんぽう所有しょゆうけんかんがかた前提ぜんていするなら、「おおやけぶつ」――国民こくみん個人こじん所有しょゆうぶつでなくて「おおやけ」すなわち政府せいふ府県ふけん市町村しちょうそん所有しょゆうぶつ――とおもうことは、それを国民こくみん個人こじん私的してき利益りえきのために使つかってはならない(他人たにん所有しょゆうけん侵害しんがいしてはならない)ということを意味いみするはずであるのに、この標語ひょうごぎゃくに、おおやけぶつおもうだけで「すでてき」だとうのである。うまでもなくその理由りゆうは、「おおやけぶつ」だとおもうとむだに使つかう、という傾向けいこうがあるからで、「むだ使づかいはてきだ」という戦争せんそうちゅう標語ひょうごとくに「他人たにん所有しょゆうぶつ」たるおおやけぶつについてったまでのことである。
 (川島かわしまたけしむべ日本人にっぽんじんほう意識いしき」より)


長文ちょうぶん 12.2しゅう
 【1】現代げんだい高度こうど情報じょうほう社会しゃかいであるといわれる。湾岸わんがん戦争せんそうでは、国籍こくせきぐんのステルス戦闘せんとうによるバグダッド市内しない爆撃ばくげきが、あたかもTVてれびゲームのようにちゃにリアルタイムにうつされた。【2】いまではインターネットをつうじて、過去かこではかんがえられないりょう情報じょうほうが、瞬時しゅんじはい時代じだいになっている。情報じょうほうりょう増大ぞうだいは、意思いし決定けってい単純たんじゅんするであろうか。事態じたいはそれほど簡単かんたんではない。情報じょうほうりょう増大ぞうだい情報じょうほうのパラドックスという現象げんしょうこすからである。
 【3】つまり、情報じょうほうがあればあるほど、我々われわれ事実じじつ認識にんしきがあいまいになり、相対そうたいてき問題もんだい解決かいけつ能力のうりょく喪失そうしつするということである。情報じょうほう多量たりょうにあるということには、みっつの意味いみがある。まず、情報じょうほう細分さいぶんされるということである。【4】「もりず」ということわざどおり、樹木じゅもくたいする知識ちしき増大ぞうだいは、もり全体ぜんたい構造こうぞうてき認識にんしきうしなわせることになる。情報じょうほう細分さいぶん分析ぶんせきによっておこなわれることがおおいため、これを分析ぶんせき麻痺まひ(アナリシス・パラリシス)とぶこともある。【5】医学いがく専門せんもん分化ぶんか進展しんてんについてかんがえればかりやすいかもしれない。
 また、情報じょうほうおくしゅ媒体ばいたいとおしてつたえる情報じょうほうは、もと情報じょうほうとはかならことなる部分ぶぶんしょうじる。【6】これを情報じょうほうスラックというが、情報じょうほうシステムの複雑ふくざつ、ネットワークの錯綜さくそう進行しんこうによって、この情報じょうほうスラックが増大ぞうだいする。情報じょうほうおくしゅ媒体ばいたい複雑ふくざつになれば、情報じょうほうスラックもおお発生はっせいすることになり、結果けっかとしてしん情報じょうほうがよりあいまいになる。【7】だれでもやったことのある伝言でんごんゲームをかんがえれば理解りかいしやすい。伝言でんごんつたわっていくにしたがい、余分よぶん情報じょうほうくわわったり、情報じょうほう一部いちぶゆがめられたりすることはよく経験けいけんすることである。
 【8】だいさんは、そもそも我々われわれ情報じょうほうは、だれかの意思いし決定けってい結果けっかであるということである。TVてれびながれる情報じょうほうは、現場げんば撮影さつえいしゃ意識いしきてき無意識むいしきてき選択せんたくし、TVてれびきょく選択せんたくし、あなたがチャンネルを選択せんたくした結果けっか情報じょうほうである。【9】ニュースせいたかいもの、人気にんきのあるもの、もともとれやすいものが優先ゆうせんされる。てられた選択肢せんたくしかんする情報じょうほうは、はじめから隠蔽いんぺいされているとることもできる。
 【0】さらに情報じょうほう操作そうさというやっかいなものが存在そんざいする。情報じょうほう操作そうさは、国家こっかによる情報じょうほう統制とうせいのみならず、かぶ仕手してせん商品しょうひん広告こうこく、あるいは個人こじんレベルでの学歴がくれき詐称さしょうなど、ありとあらゆるレベルでおこなわれている。しかも、意識いしきてきになされている場合ばあいもあるが、なかには無意識むいしきちかいもの、指摘してきすれば情報じょうほう操作そうさなんてとんでもないという反論はんろんかえってきそうなものもあろう。たとえば、某社ぼうしゃの「植物しょくぶつ物語ものがたりシャンプーa」の宣伝せんでん文句もんくは、「洗浄せんじょう成分せいぶんきゅうきゅう以上いじょう植物しょくぶつまれに」とうたっている。植物しょくぶつという言葉ことばによって、かみへのやさしさ、安心あんしんかんとううったえ、購買こうばい意欲いよくたかめようとねらった宣伝せんでんかもしれない。じつは、あら成分せいぶんきゅうきゅう以上いじょう植物しょくぶつまれなのであって、においや成分せいぶんふくめた、シャンプー全体ぜんたい成分せいぶんきゅうきゅう以上いじょう植物しょくぶつまれであるとはっていない。指摘してきされれば、このようにうそはついていないと反論はんろんするであろう。ぼう官庁かんちょう交通こうつう事故じこ死亡しぼうしゃとシートベルト着用ちゃくようりつかんする広報こうほう同様どうようである。
 さらに、テレビコマーシャルとうで、シチューなべがあふれ、グツグツと煮立にたち、湯気ゆげめているシーンをることがある。しかし、本物ほんもののシチューの料理りょうりでは、プロがつくってもこのようにはならない。実際じっさいには、なべなか底上そこあげして表面ひょうめんし、パイプであわおくり、よこから水蒸気すいじょうきけるなどの苦労くろうをして、いかにもという「シチュー」のシーンをせているのである。
 このように、悪意あくいちた情報じょうほう操作そうさとまではいかなくとも、意図いとてき計算けいさんされた誤解ごかい情報じょうほう一部いちぶのみの提供ていきょうによる認識にんしき操作そうさ我々われわれのステレオタイプに合致がっちするようゆがめられたり脚色きゃくしょくされたりした情報じょうほうなどが、我々われわれまわりにはちあふれている。しかもこれらの情報じょうほうりょうきわめておおいのが現代げんだい特色とくしょくである。我々われわれ情報じょうほううみなかきているといっても過言かごんではない。
 
 (印南いなみ一路かずみち「すぐれた意思いし決定けってい」より)


長文ちょうぶん 12.3しゅう
 【1】今日きょうほとんどの人々ひとびとは、民主みんしゅ主義しゅぎ市場いちば経済けいざい、すなわち資本しほん主義しゅぎのことを、まるで兄弟きょうだいであるかのようにもっと自然しぜんなぺアとしてかたっている。【2】ほぼ同時どうじ産業さんぎょう資本しほん主義しゅぎ代表だいひょうせい民主みんしゅ主義しゅぎ世界せかい隅々すみずみまでひろがったために、この経済けいざい政治せいじふたつのシステムは完全かんぜん調和ちょうわして共存きょうぞんしている、という錯覚さっかくつくしてしまったのかもしれない。
 【3】しかし、ぶたをあけてなかてみれば、民主みんしゅ主義しゅぎ資本しほん主義しゅぎ中核ちゅうかくをなす価値かちかんが、それぞれ非常ひじょうことなることはあきらかではないか。民主みんしゅ主義しゅぎ極端きょくたん平等びょうどう肯定こうていしている。【4】つまり、いかにあたまくてもわるくても、勤勉きんべんでも怠慢たいまんでも、博識はくしきでも無知むちでも、一人ひとり一票いっぴょうなのである。社会しゃかいへの貢献こうけん関係かんけいなく、選挙せんきょには、だれもがおなじ「一票いっぴょう」をもつのである。【5】歴史れきしてきに、この極端きょくたん平等びょうどうのシステムを擁護ようごする支配しはいしゃはほとんどいなかった。いまわれわれはあらゆるひと一票いっぴょうあたえている。【6】知性ちせいとみ、あるいは社会しゃかいにおける影響えいきょうりょくとは無関係むかんけいにである。そのようなシステムの恩恵おんけいについて、かつてのジュリアス・シーザーを説得せっとくしようとしたら、どんなことになるだろう。
 【7】一方いっぽう資本しほん主義しゅぎは、極端きょくたん不平等ふびょうどう肯定こうていしている。経済けいざい収益しゅうえきはインセンティブの構造こうぞうつくし、それによってだれもがはたらつづけ、すぐさき未来みらい投資とうしつづける。不平等ふびょうどうは、健全けんぜん資本しほん主義しゅぎ必要ひつよう競争きょうそうをあおる。【8】市場いちば経済けいざいでは、とみはさらにとみをもたらし、貧困ひんこんはさらに貧困ひんこんをもたらす。なぜなら、人的じんてき物的ぶってき資産しさんへの投資とうし――ゆえ将来しょうらいてき所得しょとく――は、現在げんざい所得しょとくによって左右さゆうされるからだ。資本しほん主義しゅぎそのものには、平等びょうどうのメカニズムはまれていない。【9】経済けいざいてき適者てきしゃ経済けいざいてき不能ふのうしゃ絶滅ぜつめつさせるとかんがえられている。じつは、「適者生存てきしゃせいぞん」という言葉ことばは、いちきゅう世紀せいき経済けいざい学者がくしゃハーバード・スぺンサーがつくし、チャールズ・ダーウィンが進化しんかろん説明せつめいするために借用しゃくようしたものだ。【0】いちきゅう世紀せいき資本しほん主義しゅぎについてのきびしい見解けんかいでは、経済けいざいてき飢餓きがは、この経済けいざいシステムにおいて積極せっきょくてき役割やくわりたしていた。資本しほん主義しゅぎじつ民主みんしゅ主義しゅぎなど必要ひつようないのであり、それはいちきゅう世紀せいきのアメリカにられたように、奴隷どれいせい容易ようい共存きょうぞんすることができるのである。
 民主みんしゅ主義しゅぎ資本しほん主義しゅぎは、基本きほんてき次元じげんせい反対はんたいである。基本きほんてき価値かちことなるにもかかわらず、資本しほん主義しゅぎ民主みんしゅ主義しゅぎ共存きょうぞん可能かのうにしたのは、さきにもふれたように社会しゃかい福祉ふくし教育きょういくへの公共こうきょう投資とうしである。マルクスは、これらのふたつの要素ようそとく公共こうきょう教育きょういくが、近代きんだい社会しゃかい強固きょうこなものにすることを予知よちしていなかった。
 民主みんしゅてき資本しほん主義しゅぎこくでは、国家こっか市場いちばでの結果けっか平等びょうどうするための措置そち(たとえば、累進税るいしんぜいなど)をとり、必需ひつじゅひん取得しゅとくたすける(たとえば、住宅じゅうたくローンにたいする特別とくべつぜい免除めんじょなど)。もはや市場いちば必要ひつようとされなくなったひとには、国家こっか年金ねんきん、ヘルスケア、失業しつぎょう保険ほけんなどのかたち援助えんじょ提供ていきょうする。そして、国家こっか人々ひとびとりものになる技能ぎのう、すなわち公共こうきょう教育きょういく習得しゅうとくするのをたすけ、そこそこの生活せいかつかてられるようにする。(中略ちゅうりゃく
 このように、世紀せいきのほとんどをつうじて、民主みんしゅ主義しゅぎ資本しほん主義しゅぎは、相互そうご緊張きんちょうはあるが、比較的ひかくてき安定あんていしたバランスのなか共存きょうぞんすることができた。だい世界せかい大戦たいせんからいちきゅうなな年代ねんだい初期しょきにかけての生産せいさんせい上昇じょうしょう賃金ちんぎん増大ぞうだい国際こくさい経済けいざい拡大かくだいつづけた資本しほん主義しゅぎ黄金おうごん時代じだいには、このふたつのシステムのチームワークは、すべての問題もんだいにとっての完璧かんぺき解決かいけつさくであるかのようにおもわれたかもしれない。
 しかし今日きょうでは、この調和ちょうわすごすことのできない亀裂きれつあらわれている。民主みんしゅ主義しゅぎてき資本しほん主義しゅぎてき社会しゃかいシステムの安定あんていたいする圧力あつりょく一方いっぽうで、社会しゃかい福祉ふくし社会しゃかい投資とうしも、グローバル経済けいざい、および国民こくみん経済けいざい変化へんかによって、脅威きょういにさらされている。スカンジナビア諸国しょこく経験けいけんからもわかるように、広範囲こうはんいにわたる社会しゃかい福祉ふくし制度せいどは、理論りろんじょう理想りそうてきかもしれないが、実際じっさい問題もんだいとして、維持いじするのが非常ひじょうむずかしいことがわかってきた。まず、所得しょとくぜい〇パーセント、それにくわえて、消費しょうひぜい〇パーセントあまりというかたちで、所得しょとく半分はんぶんをはるかに上回うわまわがく政府せいふられるというレベルまでぜい負担ふたん増大ぞうだいつづける。経済けいざいより急速きゅうそく成長せいちょうする社会しゃかい福祉ふくし制度せいどをいつまでもたもつことは不可能ふかのうであり、スカンジナビアでは、このこころみは限界げんかいたっしているようだ。
 レスター・サローちょ経済けいざい探検たんけん未来みらいへの指針ししん」より


長文ちょうぶん 12.4しゅう
 普通ふつう日本にっぽんてき性格せいかくしたがって日本にっぽん文化ぶんか特色とくしょくとしてげられることは、日本人にっぽんじん同化どうかりょくもとづいて外来がいらい文化ぶんか受容じゅよう集大成しゅうたいせいして文化ぶんかふくしつせいまたは重層じゅうそうせいしめしてゐるといふのである。なるほどそれもひとつの特色とくしょくとしてげられるかもれない。しかしどこのくに文化ぶんかをとつてても外来がいらい文化ぶんか影響えいきょうけてゐないところはなく、そしてまた大抵たいてい場合ばあいにはそれを同化どうかして独自どくじ文化ぶんか発展はってんさせそしてふく質的しつてきまたは重層じゅうそうてき文化ぶんか形成けいせいしてゐるのである。またかりにそれが日本にっぽん文化ぶんか特色とくしょくであるとしてもそれはたん形式けいしきてき原理げんりであつて、日本にっぽん文化ぶんか内容ないようそのものを具体ぐたいてきに捉へてゐるものではない。それならばなにがいつたい日本にっぽんてき性格せいかくであるか。なにがいつたい日本にっぽん文化ぶんか内容ないようじょう特色とくしょくであるか。日本にっぽんてき性格せいかくまた日本にっぽん文化ぶんかにはどういふしょ契機けいきられるか。それをはつきり捉へることははなは困難こんなんなことであるが、ひとつのこころみを提出ていしゅつするのもかならずしも無意義むいぎではなからうとおもふ。大体だいたいいて日本にっぽんてき性格せいかくしたがえつて日本にっぽん文化ぶんかみっつの主要しゅよう契機けいきられるやうにわたしおもふ。自然しぜん意気いき諦念ていねんみっつである。
 そのみっつは互ひにどういふ関係かんけいつてゐるか。さき外面がいめんてきには自然しぜん意気いき諦念ていねんみっつはかみ、儒、ふつさんきょうにほぼ該当がいとうしてゐるとうんふやうにもることができる。したがえつて発生はっせいてき見地けんちからは神道しんとう自然しぜん主義しゅぎ質料しつりょうとなつて儒教じゅきょうてき理想りそう主義しゅぎ仏教ぶっきょうてき現実げんじつ主義しゅぎとに形相ぎょうそうされたとうんふやうにもかんがへられる。さうしてそこにかみ儒仏じゅぶつさんきょう融合ゆうごう基礎きそとして国民こくみん精神せいしん涵養かんようされ日本にっぽん文化ぶんか特色とくしょく発揮はっきしたとられるのである。
 いま質料しつりょうとか形相ぎょうそうとかうんつたが、このふたつを内面ないめんてき関連かんれんいてることが必要ひつようである。形相ぎょうそうといふものは外部がいぶから質料しつりょうへられるといふようなものではない。質料しつりょうなかにもともと形相ぎょうそうひそんでゐてそれがおのづから発展はってん自己じこ創造そうぞうしてくととも自己じこ適合てきごうしたものを外部がいぶから摂取せっしゅするのである。理想りそう主義しゅぎのあらはれの意気いきといふことと、現実げんじつ主義しゅぎのあらはれの諦念ていねんといふこととは外来がいらいてき文化ぶんかによつてはじめてあらたにへられた性質せいしつではなく、すで神道しんとう自然しぜん主義しゅぎなか萌芽ほうがとしてふくまれてゐたものが次第しだい次第しだい明瞭めいりょうにあらはれてて、それと同時どうじ外来がいらいてきではあるが自己じこ適合てきごうした要素ようそとして儒教じゅきょう仏教ぶっきょう契機けいきをも摂取せっしゅ同化どうかしたのであるとかんがえふべきである。
 (中略ちゅうりゃく
 以上いじょういて、自然しぜんといふ質料しつりょうなか意気いきとか諦念ていねんとかいふ形相ぎょうそう内的ないてきにおのづからふくまれてゐてそれが次第しだいにあらはにおおきく成長せいちょうして可能かのうせいられたとおもふ。自然しぜん主義しゅぎからおのづから理想りそう主義しゅぎ現実げんじつ主義しゅぎ発展はってんしてるのである。理想りそう主義しゅぎ現実げんじつ主義しゅぎ外来がいらいてきのものとして大和やまと民族みんぞく本来ほんらいせい相容あいいれないやうにかんがへる機械きかいてき歴史れきしかん賛意さんいひょうするわけにはわたしはゆかぬ。しかるになほここに問題もんだいのこされてゐる。それは意気いき諦念ていねんとはたして相容あいいれるものであらうかといふことである。意気いきとは武士ぶしどういてられる自力じりき精進しょうじん精神せいしんである。諦念ていねん他力本願たりきほんがん宗教しゅうきょう本質ほんしつをなしてゐる。この両者りょうしゃたして相容あいいれるであらうか。一体いったい気節きせつのためにうご意気いきどう方面ほうめんである。ものどうじない諦念ていねんしずか方面ほうめんである。そしてどうなかせいがあり、せいなかどうがあるといふ可能かのうせいられるかぎ意気いき諦念ていねんとの結合けつごう可能かのうせい目撃もくげきされなければならぬ。武士ぶしどうでもいのちやすんずるといふことをうんふ。武士ぶしどうかえりみないといふ裏面りめんにはをあつさりあきらめてゐるといふ知見ちけんうかがはれる。一般いっぱんへの存在そんざいといふやうなものは諦念ていねん基礎きそゆうつた意気いきといふかたち明瞭めいりょうにあらはれてゐる。せいころすものではない。せい本当ほんとう意味いみかしてゐるのである。無力むりょくちょうちからとは唯一ゆいいつ不二ふじのものとなつてゐる。諦念ていねん意気いきなかられる否定ひていてき契機けいきとしてくことのできないものである。意気いき諦念ていねんとは互ひに相容あいいれないやうなものではなく、むしろ両者りょうしゃ相関そうかんてき成立せいりつするものである。

 (九鬼くき周造しゅうぞう日本にっぽんてき性格せいかくについて」(いちきゅうさんななねん)による)