(Translated by https://www.hiragana.jp/)
課題集
長文ちょうぶん 4.1しゅう
長文ちょうぶんふたつある場合ばあい音読おんどく練習れんしゅうはどちらかひとつで。】
 【1】生物せいぶつ遺伝いでんてき複製ふくせい技術ぎじゅつという意味いみでのクローニングは、衝撃しょうげきではない。だれでもっている、植物しょくぶつのいちばん簡単かんたんなクローニングは、「さし」というかたちである。動物どうぶつ場合ばあいは、さしというわけにはいかないが、からだ一部分いちぶぶんから全体ぜんたい再生さいせいするものはいる。【2】人間にんげんふくめた脊椎動物せきついどうぶつにとって、もっと身近みぢかなクローニングは、一卵性双生児いちらんせいそうせいじである。それほど頻繁ひんぱんこるわけではないが、しかしひとつの受精卵じゅせいらん由来ゆらいし、しかも同一どういつ子宮しきゅうそだ一卵性双生児いちらんせいそうせいじ存在そんざいすることは、ふるくからられている自然しぜんかい出来事できごとである。【3】このてんでは、からだ細胞さいぼうかく移植いしょくによりつくられ、母親ははおやとはべつ胎内たいないそだてられてできているひつじうしのクローンなどよりも「完璧かんぺきな」クローンであるとえる。
 【4】ひつじうしのクローニングが社会しゃかいてき衝撃しょうげきあたえたのは、うまでもなく動物どうぶつかく移植いしょくクローニングという技術ぎじゅつが、人間にんげんにも応用おうようされるのではないか、そして、ひとりの人間にんげんから、大量たいりょうにコピーがつくられるのではないかという憶測おくそく危惧きぐのためである。【5】おな遺伝子いでんしだからおな人格じんかくつくられるという憶測おくそくである。一卵性双生児いちらんせいそうせいじでさえ、それぞれに独立どくりつした別個べっこ人格じんかくみとめていることをかんがえれば、このような遺伝子いでんし決定けっていろん間違まちがいであることは明白めいはくである。【6】にもかかわらず、人間にんげん大量たいりょうコピーというイメージが一般いっぱんしたのは、とく合衆国がっしゅうこくにおいて、遺伝子いでんし絶対ぜったいし、環境かんきょういん軽視けいしする傾向けいこうがあるためでもある。【7】このことをスティーヴン・J・グールドは、「まれ」にをとられるばかりに「そだち」の重要じゅうようさを見落みおとしている社会しゃかい危険きけんせいとして早々そうそう指摘してきしていた。
 【8】「ドリー」のニュースをはじめ、その各国かっこくほうじられるクローニング成功せいこうのニュースにせっするたびに、わたしの脳裏のうりかびあがる「複製ふくせい」のイメージがある。いちきゅうきゅうさんねん平成へいせいねんあき伊勢神宮いせじんぐう光景こうけいである。【9】このとしじゅうねんいちの「式年しきねん遷宮せんぐう」のとしにあたるが、そのクライマックスである「遷御せんぎょ」の内宮ないくうのなかを撮影さつえいしながら、ちる夕刻ゆうこくまであるいたことがあった。【0】じゅうねんごとに正殿せいでんごしょうでんをはじめ、神宮じんぐうすべての神殿しんでんから神宝しんぽうまでをあたらしくつくえる「式年しきねん遷宮せんぐう」は、簡単かんたんえばかみ々のお引越ひっこしであるが、わたしには、それが形態けいたいてきには一種いっしゅ複製ふくせい儀式ぎしきのようにえたのである。建築けんちくてきには耐用たいよう年数ねんすうにいたらないじゅうねんというサイクルで、いっさいの神殿しんでんがまったくおな技法ぎほう形態けいたいのもとにつくえられる理由りゆうについては、いくつものせつがあるが、現実げんじつてき意味いみ説得せっとくりょくがあるのは、「ただいち神明しんめいづくり」とばれる建築けんちく様式ようしき知識ちしき技法ぎほう伝承でんしょうしてゆくための期間きかんとして、じゅうねん適当てきとうであったのではないかというものである。たしかに平均へいきん寿命じゅみょう現在げんざいよりもずっとみじかかった時代じだいに、おやからへ、複雑ふくざつ精緻せいちきわめた建築けんちく技法ぎほうつたえるには、じゅうねんではたんかすぎ、かといってさんじゅうねんではながすぎたのかもしれない。いずれにしても、「式年しきねん遷宮せんぐう」という儀式ぎしきじゅうねんという社会しゃかいてき時間じかんが、世代せだいあいだ知識ちしき伝承でんしょうという時間じかん関係かんけいしているというせつは、できたばかりの白木しらき神殿しんでんをレンズしにながめながら、すんなりとれることができたのだった。(中略ちゅうりゃく
 「式年しきねん遷宮せんぐう」におけるひろ意味いみでの様式ようしきの「複製ふくせい」は、その背後はいご人生じんせい社会しゃかいりもつ「時間じかんせい」があるが、かく移植いしょくクローニングによる人間にんげんの「複製ふくせい」には、この「時間じかんせい」が欠落けつらくしている。クローンであるおやからまれたさいクローンのうし誕生たんじょうしている今日きょう、クローニングをかさねるごとに、細胞さいぼう若返わかがえ可能かのうせいがあるという研究けんきゅう報告ほうこくさえてきているが、結果けっか当否とうひべつにして、現在げんざいわたしたちがたりにしているクローニングとは、これまでの生物せいぶつせいかいしていとなんできた「時間じかんせい」に、根本こんぽんてき変更へんこう要請ようせいするものではないだろうか。クローニングの登場とうじょうによって「適齢てきれい」という言葉ことば死語しごになるとはおもわないが、しかしおしなべて生物せいぶつは、「しかるべきときに、しかるべきことを」しながら世代せだいいできたのだ。それは「しかるべきときに、しかるべきことを」というせい規則きそくを、時間じかんせいとして社会しゃかいんできた人間にんげんにとって、「適齢てきれい」の意味いみあらためてなおさせるものではないかとおもう。

 (みなと千尋ちひろ文章ぶんしょう
 【1】学問がくもんやくつかとかんがえるとき、よくわたしおもかべるのは、天動説てんどうせつがくつがえされ、地動説ちどうせつ確立かくりつされるまでのヨーロッパの学者がくしゃたちの探究たんきゅうです。地動説ちどうせつ萌芽ほうがは、すでにじゅうよん世紀せいきにノルマンディの学者がくしゃ、ニコラ・オーレムのいたものにあったそうですが、【2】じゅうろく世紀せいきはいって科学かがくてきにこれをいちすすめたのは、ポーランドのコペルニクスで、けれどもキリスト教会きょうかいまりをおそれて、ななじゅうさい数日すうじつまえまでその論文ろんぶん発表はっぴょうしなかったといわれています。【3】そしてドイツのケプラー、イタリアのガリレイなどがこのかんがえを継承けいしょうしてより実証じっしょうちかづけますが、教会きょうかいからは弾圧だんあつつづけ、いちろくいちろくねんには、教皇きょうこうパウロせい地動説ちどうせつ聖書せいしょはんするという理由りゆうで、断罪だんざいしています。
 【4】いうまでもなく、太陽たいよううごくか地球ちきゅううごくかは、わたしたちの日常にちじょう生活せいかつにとって、まさにどうでもいいことです。いまでも人類じんるい圧倒的あっとうてきだい部分ぶぶんは、お日様ひさまひがしからのぼって西にししずむとおもっており、生活せいかつ感覚かんかくとしてそれはまったくただしい。【5】天動説てんどうせつ、つまり地球ちきゅう中心ちゅうしん主義しゅぎをくつがえすために、教会きょうかい弾圧だんあつえ、ずいぶんおかね使つかいながら、大勢おおぜい学者がくしゃ執念深しゅうねんぶか追究ついきゅうしてきたことは、直接ちょくせつにはまったく「やくにたない」ことです。
 【6】けれども、地動説ちどうせつ確立かくりつされたことで、人間にんげん世界せかいたいする認識にんしき根本こんぽんてきあらためられ、宇宙うちゅう科学かがくをはじめとする科学かがく技術ぎじゅつがどれだけわったか、その結果けっか地動説ちどうせつがどれだけ「人間にんげんやくっている」かは、あらためていうまでもないでしょう。
 【7】英語えいご学者がくしゃのことをスカラー、学校がっこうのことをスクールというのはごぞんじのとおりですが、これはギリシャの「スコレー」「ひま」という言葉ことば由来ゆらいしています。つまり、学者がくしゃというのは元来がんらい閑人ひまじん」であり、学問がくもんは「閑人ひまじん」のすることなのです。
 【8】小学校しょうがっこう就学しゅうがくりついち〇パーセントにもたない、わたし調査ちょうさをしていたころ西にしアフリカ内陸ないりく社会しゃかいむらでは、家族かぞくにとって大事だいじ労働ろうどうりょくであるどもが、はたけ仕事しごと手伝てつだいもしないで、毎日まいにちあさから夕方ゆうがたまで学校がっこうっているなどというのは、とんでもないことで、学校がっこうはまさに「スコレー」のなのだということがよくかりました。【9】学校がっこうおそわることも、むら生活せいかつにとってすぐのやくにはたない、公用こうようフランス語ふらんすごきとか、それを使つかってならう、算数さんすうとか、歴史れきしとか、地理ちりです。日本にっぽんでも、おおくの人々ひとびと生活せいかつまずしかったころには、事情じじょうおなじでした。【0】それなら、いえ仕事しごと手伝てつだわずに「スコレー」のである学校がっこうで、すぐやくにたないことを勉強べんきょうするのは無意味むいみかといえば、けっしてそうではなく、そのことを理解りかいして、いえまずしくても無理むりをしてどもを学校がっこうかせたおやは、日本にっぽんにもいたわけですし、アフリカのむらにだっているのです。
 それに、なんはらしにもならない知的ちてき好奇心こうきしんたすという、まさに「スコレー」とむすびついた人間にんげんいとなみは、「ヒトという、この不思議ふしぎ生物せいぶつ」の、ヒトすじなわではかたづかない本質ほんしつをなすもので、それはアフリカのむらの、生活せいかつめぐまれない人々ひとびとにとってもおなじです。
 ただ、だからといって、やくにたないことにあまんじていていとは、わたしはまったくかんがえません。たとえやくかた迂遠うえんだといっても、学者がくしゃ現実げんじつ社会しゃかいにいまこっていることにつねきとした関心かんしんをもち、人々ひとびともとめていることに共感きょうかんするのは、現地げんち調査ちょうさによる体験たいけん重要じゅうようどころとする人類じんるい学者がくしゃにとって、不可欠ふかけつのことです。とくに、人間にんげん社会しゃかいくさきる人々ひとびと共感きょうかんをもったまじわりをもつこと、そのことをとおして、たとえそれがきわめてなが迂回うかいであっても、究極きゅうきょくにはやくつことにつながる学問がくもんを、わたしたちはすることができるのだとおもいます。

川田かわたじゅんづくり人類じんるい地平ちへいから」より)


長文ちょうぶん 4.2しゅう
 【1】科学かがく文明ぶんめい発達はったつは、人間にんげん日常にちじょうから手間てまをどんどんはぶく。おみせ入口いりくちてばドアは自動的じどうてきひらき、階段かいだんのそばにはかならずエスカレーターがある。ボタンをせばテレビがつき、クーラーがうごきだし、音楽おんがくながれはじめる。【2】電気でんき製品せいひんのなかでも、とくにAV機器ききにおいては、リモコンのないものは商品しょうひんになりえないようななかである。
 こうしたなか進化しんか現象げんしょうは、あげればきりがない。【3】そして、なぜこうしたことが進化しんか形容けいようされるかというと、これらはすべて、それまでの人間にんげんかなら経験けいけんしなければならなかった数々かずかず手間てまを、かたぱしからはぶいていったからである。しかし、わたしは、人間にんげんはある程度ていど手間てま自分じぶんでこなしてこそ成長せいちょうするものだとおもっている。【4】人間にんげん人間にんげんらしく成長せいちょう本来ほんらいあるべき姿すがたにできるだけちかづくためには、「必要ひつようなる手間てま」がかならずあるとおもっている。手間てまとはそれを経験けいけんしたひと個性こせいばし人間にんげんらしさを増幅ぞうふくさせるものなのである。
 【5】オーストラリアのある小学校しょうがっこうでは、卒業そつぎょうまえかならずオリエンテーリングがあるという。地図ちず磁石じしゃく懐中かいちゅう電灯でんとう、それに食料しょくりょうなど野外やがい活動かつどう必要ひつよう道具どうぐいちそろいち、二人ふたりいちくみ指定していされた場所ばしょから数日すうじつ野宿のじゅくをしながらゴールを目指めざす。
 【6】途中とちゅうけわしい地形ちけいもあれば、みちまようこともある。もちろんヘビなどの危険きけん動物どうぶつとも遭遇そうぐうする。携帯けいたいひんのなかには血清けっせいもあるというから、その危険きけんのほどがうかがえる。しかし、どんな障害しょうがいも、すべてにんけていかなければならないのだ。
 【7】このオリエンテーリングの授業じゅぎょうは、子供こどもたちにたんにサバイバルの方法ほうほうおしえるというものではない。そうやって野外やがい活動かつどうをするためには、みちさがし、危険きけん察知さっちし、つぎ自分じぶんたちがとるべき行動こうどうめていかなければならないわけで、そこには的確てきかく判断はんだんりょくもとめられるし、パートナーとの協調きょうちょうせい必要ひつようになる。【8】そしてなにより、さまざまなことへの対応たいおうかんがえて、あらゆる方向ほうこうヘアンテナをりめぐらせておかなければならない。まさに、人間にんげん本能ほんのうてきなアンテナの修練しゅうれんである。
 【9】現代げんだいでは、あらゆるものがそろい、しかも面倒めんどうなことはければいいわけで、子供こどもたちにとっては、あえて本能ほんのうてきなアンテナをりめぐらせる必要ひつようがなくなってきているのではないだろうか。そのため、決定けっていするちからがにぶり、清濁せいだく明確めいかく区別くべつもつけられないようになってきているようにおもう。【0】
 便利べんりさや快適かいてきさをもとめる人間にんげん欲求よっきゅうが、文明ぶんめい発展はってんさせてきたことは事実じじつであろう。しかし、そのために、有形ゆうけい無形むけい人間にんげん本来ほんらい財産ざいさんをたくさん犠牲ぎせいにしてきていることに、そろそろわたしたちはづくべきではないだろうか。
 わたしたちが、手間てまのかからないかたをしているかぎり、きることのよろこびをかんじることはできない。人間にんげんにとって、きるよろこびはどこにあるかとわれても即座そくざこたえることはむずかしいだろう。しかしそれは、けっしておおげさなものでも派手はでなものでもなく、あえて言葉ことばにするなら、しんおど状態じょうたい感動かんどうちあふれる状態じょうたいをもてる日々ひびではないかとおもう。そんなよろこびをあじわわせてくれるものとはなになのか。それは、「いままでらなかったことをきょうった感激かんげき。また、あしたあたらしいことをるかもしれないという期待きたい」である。
 わたしじゅうろくさいからじゅうはちさいまでのさん年間ねんかん北大ほくだい時代じだいめぐみすすむりょうけいてきりょうにお世話せわになった。このりょうじゅうすうねんまえにその歴史れきしじることになり、わたしもと住民じゅうみんということで、NHKからレポータをめいじられ、もう一度いちどおとずれることができた。かつてわたしんでいた部屋へやたずねたとき、なによりもなつかしく、またうれしかったのは、かべから天井てんじょうにかけてあますところなくかれた落書らくがきが健在けんざいだったことである。そして、その落書らくがきのなかにあったのが「ボーイズ・ビー・アンビシャス」であった。もちろん、創設そうせつしゃのクラーク言葉ことばである。これは、おおくのひとが「少年しょうねん大志たいしいだけ」の言葉ことばとしてならっているはずだ。「野心やしんいだけ」とやくされる場合ばあいもあるが、いずれにしろ、最初さいしょわたしんできたこの言葉ことばは、そのときの印象いんしょうのままに、けっして陳腐ちんぷになることなく、いまだに、こぎたないかべ落書らくがきと一緒いっしょわたしのなかできつづけている。
 きるよろこびとは、感性かんせいをとぎすまし、自然しぜんおおきさと人間にんげん魅力みりょく日々ひび発見はっけんすることにあるとおもう。
 そういうかたをすることがわたしのアンビションである。だからわたしは、少年しょうねんたちに、「少年しょうねん野心やしんいだけ」といたとき、野心やしんに「のごころ」と仮名かめいをつけることにしている。

牟田むた悌三ていぞう(むたていぞう)ちょ大事だいじなことは、ボランティアでおそわった』から)


長文ちょうぶん 4.3しゅう
 【1】ひとびとが時間じかんわれるようになったのは時計とけい発明はつめいされてからといわれる。かんがえてみれば太古たいこむかしから、ひとびとは太陽たいようほし運行うんこうにともなってぎゆくことを実感じっかんしていた。しかし、とき自分じぶんうえながれゆくものであって、時間じかんによってみずからの行動こうどうりっしようとはおもわなかったであろう。
 【2】日本にっぽん社会しゃかいでも、農業のうぎょう従事じゅうじしゃだい部分ぶぶんめた時代じだいには、時計とけいといえば、一家いっかにひとつ柱時計はしらどけいがあるくらい。とともに田畑たはたかけ、りとともにいえかえってやすむというのがたりまえ生活せいかつパターンだった。
 【3】こうくと、なんだか随分ずいぶんとおむかしのことのようだが、ついじゅうすうねんまえちいさな農村のうそん高齢こうれいしゃにたいして生活せいかつ時間じかん調査ちょうさこころみてうまくいかなかったというはなしいたことがある。【4】そのむらではだい多数たすう高齢こうれいしゃ時計とけいたず、なんなにをするという観念かんねんはない。時間じかんではなく、がたとか、ひるごろとか、夕方ゆうがたというように、おおまかなくくりかた日常にちじょう生活せいかつじゅう分間ふんかんうのである。
 【5】いつでもだれもが時計とけい所持しょじするようになると、ついつい時計とけいをのぞく機会きかい時間じかんにするようになる。「どきのたつのもわすれて」ということが、しだいにすくなくなるのはなんともさびしいことだ。
 【6】ひとびとが時間じかんわれるようになったもうひとつの理由りゆうは、テレビ画面がめんすみ時刻じこく表示ひょうじされるようになったことである。いつごろからこうしたことがおこなわれるようになったのかよくわからないが、ぶんきざみで表示ひょうじされる時間じかんてられて、会社かいしゃ学校がっこうかけるひとだい多数たすうではなかろうか。
 【7】あさのテレビ番組ばんぐみ時計とけいわりとわれるようになってひさしい。画面がめん時刻じこく表示ひょうじがなかったころは、放映ほうえいされている番組ばんぐみ大体だいたい時刻じこくるのが普通ふつうだった。時計とけいわりのテレビに時刻じこく表示ひょうじされるようになり、いま時計とけいそのものになってしまった。【8】わたし自身じしん画面がめんあらわれる時刻じこく表示ひょうじをちらちらながら、あとふんでとびださないと電車でんしゃがしてしまうと、毎朝まいあさどたばたしているのが実情じつじょうである。
 いまのところぶん単位たんい表示ひょうじされているからぶんきざみで行動こうどうしている。【9】だが、これがびょう単位たんい表示ひょうじされるようになったら、とおもうとぞっとする。びょうきざみで行動こうどうすることになれば、時間じかんわれるという感覚かんかくがいっそう切迫せっぱくしたものになることはたしかだ。
 このところ、金銭きんせん消費しょうひから時間じかん消費しょうひへとひとびとの関心かんしんうつってきているといわれる。【0】バブル紳士しんしたちの凋落ちょうらくぶりをると、かねえるしあわせには限界げんかいがある。それよりも充実じゅうじつしたときちたいとかんがえるのは、きわめて当然とうぜんのことだ。
 しかし、残念ざんねんなことに、時間じかんへの関心かんしんは、時間じかんにとらわれないことや時間じかんいかけられないことではなくて、時間じかん能率のうりつてき効率こうりつてき使つかかたかっているようながする。能率のうりつてき効率こうりつてき時間じかん使つかって、さていた時間じかんをどうするかといえば、もうひとつ仕事しごとれてしまうのがはたら日本人にっぽんじんかなしいせいさがだ。
 能率のうりつてき効率こうりつてきでない時間じかん使つかかたのできるチャンスをいかにして確保かくほするかが、わたしふくめておおくの日本人にっぽんじん課題かだいであろう。だが実情じつじょうは、みなみしまでのんびり時計とけいのない生活せいかつをしたいとあこがれながら、相変あいかわらず時間じかんわれているのが時間じかん貧乏びんぼうわたしなのである。

そで孝子たかこちょ時間じかんはなし」による)


長文ちょうぶん 4.4しゅう
長文ちょうぶんふたつある場合ばあい読解どっかい問題もんだいよう長文ちょうぶんいち番目ばんめ長文ちょうぶんです。】
 わたしども彫刻ちょうこくこころざすものが、ひとかおしんをひかれるのは、皮膚ひふかみいろとか、目鼻めはなだちくちもととうのこまかいところよりも、もっと根本こんぽんてき彫刻ちょうこくてきうつくしさにあります。すなわちひとつのかたまりりとしてのうつくしさ、凸凹おうとつめんせんとうがつくるうつくしさであります。
 ひとかおは、たとえばだくみをきわめた、不思議ふしぎ技法ぎほうでつくられた建築けんちくです。目鼻めはなくちはこの建築けんちく細部さいぶ装飾そうしょくのようなものでしょう。この建築けんちく構造こうぞう不思議ふしぎなこと、容易よういひとのうかがいるをゆるさぬところです。この秘密ひみつひらことそこにわたしどものくるしみもよろこびもいちにかかっているのであります。
 先頃さきごろはちがつ初旬しょじゅん信州しんしゅう彫刻ちょうこく講習こうしゅうかいがありました。どういう方法ほうほうでどんなふうにやったらよいものかと、最初さいしょ相談そうだんけましたときわたしひとかおについて研究けんきゅうすることをすすめました。せいじんのモデルと塑造だい粘土ねんど用意よういしてこと、そして一人ひとりのモデルに研究けんきゅうしゃはちにんかぎりとし、各自かくじモデルについてるところを粘土ねんどを以ってつくってる、粘土ねんどをひねってはモデルをる、こういった方法ほうほう勉強べんきょうつづけてったら、そのあいだにだんだん彫刻ちょうこく会得えとく出来できくでしょうとこたえてきました。
 ひとかおならだれしも平生へいぜい見馴みなれているところですから、りつきにくいこともないでしょう。しかし実際じっさいにこうしてやりしてたら、平生へいぜい見慣みなれている人間にんげんかおじつはどんなにむつかしいものかということがつくでしょう。それは平生へいぜいぼんやりものをているからです。で、こうしてだんだんものを修行しゅぎょうまれてくると、見馴みなれている人間にんげんかおにも、じつ微妙びみょうにして複雑ふくざつきわまるいろいろの仕組しくみのあることがわかってましょう。してれば、毎日まいにちどうがん人間にんげんかおてくらすという、一見いっけんつまらなさそうな仕事しごとけっして無意義むいぎではありますまい、となおいいえてきました。
 かんがえてるとわたしひとかおこと余程よほどきのようです。以前いぜんわたしながらくくるしい境遇きょうぐうかれていました。ほとんどなぐさめのない生活せいかつでした。そのなかにあって、唯一ゆいいつなぐさめはひとかおことでした。電車でんしゃなかかいがわにいる人々ひとびとかおているとすべてをわすれること出来できました。電車でんしゃちんのないときは、こうじまちつとさきから本郷ほんごう自宅じたくまで、空腹くうふく疲労ひろうのからだをひきずってあるいてかえことさえしばしばありました。そのりさえ途上とじょう出会であ沢山だくさん人々ひとびとかおられるので、どんなに苦痛くつうをやわらげられたでしょう。
 ほんむよりも、ひとかおほうがどんなによいかれない、とよくそのころおもったものです。もっともほんひまおおくはたなかったけれど、ほんむよりもわたしひとかおから、どんなにおおくの学問がくもんをしましたろう。
 相者そうしゃひとかおて、そのひと過去かこ現在げんざい未来みらい、そのいろいろのことをいいあてますが、まったひとかおにはそのひとことなんでもありありといてあるものです。ただこれをこと大変たいへんむずかしいのです。
 友人ゆうじん中川なかがわ一政かずまさがかつていったことに、芸術げいじゅつ作品さくひんつくるが、一方いっぽうにおいておのずからそのかおつくってゆくものであるとありましたが、まことにしかりとおもいます。芸術げいじゅつでなくてもだれひと生活せいかつはそのかおをつくることにあるともいえます。
 人間にんげん一生いっしょう苦心くしんでつくられたそのかおは、そのひとともにどこへくのですか。わたし友人ゆうじん知人ちじんめんをいくつか石膏せっこうにとったことがあります。めんはぬけがらです。そのひとかおはそのひととも何処どこかへいってしまうのです。おもうとまった神秘しんぴです。
 言葉ことばうそをいうことができましょうが、かおひといつわことができません。はなし言葉ことばだけでひと真相しんそうあやまことがありますが、かおからときあやまことがありません。
 電話でんわというものがあります。便利べんりなものだとはおもいます。が、わたしはどうも電話でんわこのみません。それはなぜかとかんがえてるに、相手あいてかおえないということだい部分ぶぶんその原因げんいんがあるようです。ほんのとおいちへん用談ようだんだけはまされますが、すこしこみはいったはなしになると電話でんわでは充分じゅうぶんつうじません。こうかんじるひとおそらくわたしばかりではなかろうとおもいます。で、いかにわたしどもは平生へいぜいがおによってひとはなしているかということがわかります。かおがものをいい、かおがものをく、このはたらきはまった不思議ふしぎです。

石井いしい鶴三つるぞうかお』)
 【1】わたしたちにとって、学校がっこう教育きょういくはなぜ必要ひつようなのか。べつのいいかたをすれば、それぞれの実生活じっせいかつ経験けいけんかさねにまかせるのではなく、なぜ教育きょういくのための特別とくべつ場所ばしょ必要ひつようなのか。このいかけにたいしては、いくつかの理由りゆうかんがえられます。
 【2】だいいちに、世界せかいはあまりにもひろく、わたしたちがそのすべてを経験けいけんすることはできないからです。しかも、わたしたちが世界せかいんでいるもののおおくはすでにうしなわれた過去かこであり、現実げんじつんでいるもののなか以上いじょう現実げんじつには存在そんざいしません。【3】歴史れきしばれ、人類じんるい記憶きおくなかにしかないものがほとんどでしょう。経験けいけん記憶きおくによって濾過ろかされ、それと照合しょうごうされて、はじめて経験けいけんとして完成かんせいされます。
 もり鴎外おうがい短編たんぺん小説しょうせつ『サフラン』に、サフランをめぐるつぎのようなおもばなしてきます。【4】この植物しょくぶつほんはやくからっていたが、まだ実物じつぶつたことがない。そこで医師いしであった父親ちちおやたのみ、くすりだな抽斗ひきだしから乾燥かんそうしたサフランをしてもらう。「いてひとらぬとうことが随分ずいぶんある。ひとばかりではない。【5】すべてのものにある。」といった感慨かんがいつづった作品さくひんですが、かんがえてみれば、われわれがいうところの現実げんじつとは、なか以上いじょうもり鴎外おうがいにおけるサフランのようなものではないでしょうか。
 だいに、わたしたちがなんらかの現実げんじつ行動こうどうをうまくなしとげるためには、行動こうどうをいったん棚上たなあげし、目的もくてき一時いちじ保留ほりゅうして行動こうどうしなければならないからです。【6】いいかえれば、現実げんじつ行動こうどうにあたって失敗しっぱいけるには、まずもって練習れんしゅうをしなければなりません。野球やきゅう選手せんしゅのバットのもとすぶりが好例こうれいでしょう。んでてもいないボールを相手あいてにバットをります。そのことによって、かれはバッティングという行為こういのプロセスを意識いしきし、けようとしているわけです。
 【7】わたしたちの行動こうどう能力のうりょくは、単純たんじゅん経験けいけんをいくらかえしても、けっしてたかまることはありません。現実げんじつ行動こうどう練習れんしゅうのうえではじめてちます。どんな技術ぎじゅつであれ、技術ぎじゅつ駆使くしするプロセスをえず見直みなおし、なおさなければならないのです。【8】学校がっこうというものは、その意味いみで、現実げんじつ行動こうどうからひとまずはなれて、行動こうどうのプロセスをおしえるといってもいいでしょう。つまり教室きょうしつ行動こうどうではなくて、練習れんしゅうなのです。
 また、わたしたちが行動こうどうするためにはかた必要ひつようがあります。【9】武術ぶじゅつひとつをげてもあきらかでしょう。かたなをただまわしていればつよくなるというものではありません。めんち、かごしゅこてち、きをれるというかたをまずけ、それが、まるで無意識むいしきであるかのように流露りゅうろしてくるところに武術ぶじゅつ成立せいりつします。【0】がたは、行為こういのプロセスをささえてくれるのです。
 日常にちじょう作法さほうもまた同様どうようでしょう。人間にんげんかなしいときにはなりふりかまわずきたくなるものですが、そこにかなしみかたかたはいってきたとき、はじめてわたしたちはかなしみにえる能力のうりょくけることができるのです。芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけ短編たんぺん小説しょうせつ手巾しゅきんハンカチ』に、息子むすこくしたばかりの婦人ふじん端然たんぜんきゃくむかえながら、しかし、つくえしたでは「ひざうえ手巾しゅきんハンカチを、両手りょうてかないばかりにかたく、にぎっている。」という場面ばめんがあります。つまり、「かおでこそわらっていたが、じつはさっきから、全身ぜんしんいていたのである。」とあるように、彼女かのじょは「息子むすこくしたはは」というかたを、あるいはやくをそのえんじることによって、もないかなしみにえることができたし、また醜態しゅうたいをさらさずにんだわけです。
 教育きょういく必要ひつよう理由りゆう最後さいごは、おおくの知識ちしき経験けいけんからは直接ちょくせつまなべないからです。
 現代げんだい先進せんしん社会しゃかい人間にんげんならば、だれでも地動説ちどうせつただしいということをっています。しかし、だれ一人ひとりとして地球ちきゅう太陽たいようまわりをまわっているのをひともいなければ、そのうごきを実感じっかんしたひともいません。日常にちじょうでは、太陽たいようあさひがしそらのぼって、夕方ゆうがた西にしそらしずみます。むかしひと現代げんだいじんもそれを経験けいけんじょうっていますが、真実しんじつはそうではないということを、知識ちしきとしてけているのが現代げんだいじんでしょう。

山崎やまざき正和しょうわ文明ぶんめいとしての教育きょういく」の文章ぶんしょうによる)


長文ちょうぶん 5.1しゅう
いち番目ばんめ長文ちょうぶん暗唱あんしょうよう長文ちょうぶんで、番目ばんめ長文ちょうぶん課題かだい長文ちょうぶんです。】
 【1】文明ぶんめいとはなにかを地球ちきゅうシステムろんてきかんがえると、「人間にんげんけんつくってきるかた」となります。人間にんげんけん誕生たんじょうがなぜいちまんねんまえだったかというのは、気候きこうシステムの変動へんどうかかわってきます。【2】気候きこうシステムが現在げんざいのような気候きこう安定あんていしてきたのはいちまんねんまえのことです。それに適応てきおうしてそのころ我々われわれはそのかたえたんですね。
 【3】人間にんげんけんつくってきるかたというのは、じつは農耕のうこう牧畜ぼくちくというかたです。それ以前いぜん人類じんるい狩猟しゅりょう採集さいしゅうというかたをしてきた。狩猟しゅりょう採集さいしゅうというのはライオンもサルも、あらゆる動物どうぶつがしているかたです。【4】したがってこの段階だんかいまでは人類じんるい動物どうぶつあいだなん差異さいもなかった。これを地球ちきゅうシステムろんてき分析ぶんせきすると、生物せいぶつけんなか物質ぶっしつ循環じゅんかん使つかったかたということになります。生物せいぶつけんなかじたかたです。
 【5】それにたいして農耕のうこう牧畜ぼくちくはというと、たとえば森林しんりん伐採ばっさいしてはたけえると、太陽たいようからのひかりたいするアルベド(反射はんしゃのう)がわってしまう。ということは、地球ちきゅうシステムにおける太陽たいようエネルギーのながれをえているわけです。【6】また、あめったとき、大地だいち森林しんりんでおおわれているときとはたけとではその侵食しんしょく割合わりあいことなります。べつ言葉ことばでいえば、そこにみず滞留たいりゅうしている時間じかんちがってくる。すなわち、エネルギーのながれだけではなく、地球ちきゅう物質ぶっしつ循環じゅんかんわるということです。【7】これを地球ちきゅうシステムろんてき整理せいりして概念がいねんすると、人間にんげんけんつくってきるということになる。人類じんるい生物せいぶつけんからして、人間にんげんけんつくってはじめたために、地球ちきゅうシステムの構成こうせい要素ようそわったわけです。
 【8】ところで、さきほどいちまんねんまえ人間にんげんけんができたのは気候きこうわったからだといました。そういう時期じき最近さいきんいち〇〇まんねんくらいをとってもなんかいかあったでしょう。【9】人類じんるい誕生たんじょう以来いらい歴史れきしなな〇〇まんねんぐらいまでさかのぼってみれば、いちまんねんまえおなじような時期じきなんもあったはずですから、たとえばネアンデルタールじん農耕のうこうはじめてもよかったことになる。でも、かれらはそうしなかった。【0】農耕のうこう牧畜ぼくちくというかた選択せんたくし、人間にんげんけんつくったのは、われわれ現生げんなま人類じんるいだけなんです。
 それはなぜなのか。現生げんなま人類じんるい固有こゆうの、なに生物せいぶつがくてき理由りゆうがあるのではないかとかんがえられます。類人猿るいじんえん人類じんるいにはなく、我々われわれだけがもっている特徴とくちょうなにだろうとかんがえると、まずおもたるのは「おばあさん」の存在そんざいです。おばあさんとは、生殖せいしょく期間きかんぎてもびているメスのことです。たとえば、類人猿るいじんえんのチンパンジーのメスとくらべても、現生げんなま人類じんるいのメスは生殖せいしょく期間きかん終了しゅうりょう寿命じゅみょうながい。なおこの場合ばあい、オスは関係かんけいありません。オスはぬまで生殖せいしょく能力のうりょくがあります。したがって、おじいさんは現生げんなま人類じんるい以外いがいにも存在そんざいします。しかし、おばあさんは哺乳類ほにゅうるいには存在そんざいしないし、ネアンデルタールじん化石かせきからも、現生げんなま人類じんるいのおばあさんに相当そうとうするほねつかっていません。おばあさんの存在そんざいは、現生げんなま人類じんるいだけに特徴とくちょうてきなことなんです。
 では、おばあさんが存在そんざいするとなにこるのか。すぐにおもいつくのは、人口じんこう増加ぞうかです。なぜかというと、おばあさんはかつて子供こどもんだ経験けいけんをもつわけですから、おさん経験けいけんむすめつたえることができる。するとおさんがより安全あんぜんになり、新生児しんせいじにん死亡しぼうりつひくくなりますね。
 さらにおばあさんは、むすめんだ子供こどものめんどうもみます。たとえばむすめ生殖せいしょく期間きかんいちねんとして、子育こそだてにねんかかるとしたらさんにんしかめない。ところがおばあさんがいることでねんさんねん短縮たんしゅくされたらにんめる。ということで、おばあさんの存在そんざい人口じんこう増加ぞうかをもたらしたのではないかと、わたしかんがえています。このことは最近さいきん研究けんきゅうからもたしかめられています。
 我々われわれ現生げんなま人類じんるいいちまんねんまえぐらいにアフリカで誕生たんじょうしたのですが、ろくまんねんまえぐらいには、すでに地球ちきゅうじょうひろ分布ぶんぷするようになっていました。人類じんるいのような大型おおがた動物どうぶつが、なぜこんな短期間たんきかん世界中せかいじゅう拡散かくさんしていったのか。これも現生げんなま人類じんるい人口じんこう増加ぞうかという問題もんだいかんがえるとその理由りゆうわかります。

 (松井まつい孝典たかのり松井まつい教授きょうじゅ東大とうだい駒場こまんば講義こうぎろく』)
 【1】日本にっぽんがいかに湿潤しつじゅんこっか、わたし外国がいこくたびするたびに、いやというほどおもらされる。ヨーロッパと日本にっぽんとではそれほど風土ふうどがないようにおもわれるが、湿度しつどちがう。だから、やたらにのどがかわく。【2】日本人にっぽんじん旅行りょこうしゃにとって、なによりつらいのは、ヨーロッパのまちでレストランにはいっても、カフェへっても、みずしてくれないことである。人々ひとびとはそんなにみずまないのだ。それに、日本にっぽん以外いがいくにでは、せいみずをそのままめるようなところはめったにない。【3】だから、みずはコーヒーなどよりもたか場合ばあいがしばしばある。かねはらってみずむという発想はっそう日本人にっぽんじんにはないから、代金だいきん請求せいきゅうされてびっくりする。わたしおどろき、いまさらのように日本人にっぽんじんは「みずみん」なんだなあと痛感つうかんした。
 【4】そのようなわけで、日本人にっぽんじんたましい奥底おくそこには、いつも水音みずおとひびいているのである。日本人にっぽんじんみずおとかぎりないしたしみをいだき、やすらぎをおぼえ、なつかしさをかんじるのだ。芭蕉ばしょうが「古池ふるいけや」の一句いっくをもって俳聖はいせいのようにあおがれ、蕪村ぶそんはるうみを「のたりのたり」と表現ひょうげんしたことで人口じんこう膾炙かいしゃされるようになったのも、けっしてゆえないことではない。
 【5】では、日本人にっぽんじんむねおくで、みずはどのようなおとひびかせているのであろうか。水音みずおと表現ひょうげんした擬態語ぎたいご擬声語ぎせいごが、その微妙びみょうおとをさまざまにつたえている。擬態語ぎたいごというのは、ものごとの状態じょうたい象徴しょうちょうてきおとあらわしたかたりであり、擬声語ぎせいごというのは物事ものごと動物どうぶつごえなどを写実しゃじつてきにとらえたかたりである。【6】言語げんごがくでは、それをオノマトペというが、日本語にほんごには、こうした擬声語ぎせいご擬態語ぎたいごがきわめておおい。オノマトペが日本語にほんご特質とくしつだといってもいいほどである。そして、それもみずふか関係かんけいがあるようにおもわれる。というのは、すうおおくの擬声語ぎせいご擬態語ぎたいごのなかでも、ことにみずえんのあるかたり目立めだつからである。
 【7】じっさい、くに言葉ことば日本語にほんごほど多様たようみず表現ひょうげんをもっているれいはないといってもいいのではあるまいか。だから、さきの蕪村ぶそん外国がいこく翻訳ほんやくするのは至難しなんなのである。たとえば英語えいごやドイツフランス語ふらんすごで「のたりのたり」をどのように表現ひょうげんしたらいいのだろう。【8】わたしはさんざん苦労くろうした、ついにこの外国がいこく知人ちじん説明せつめいなかった。
 日本語にほんごには、多彩たさいみず表現ひょうげんがあるのだが、こうしたオノマトペは、同質どうしつ社会しゃかいでこそ微妙びみょう伝達でんたつ機能きのう発揮はっきできるが、異質いしつ風土ふうど異質いしつ文化ぶんかのなかにひとにはさっぱりつうじない。【9】なぜなら、擬声語ぎせいご擬態語ぎたいごというのは、あくまで感覚かんかくてき言語げんごであって、言語げんご重要じゅうよう性格せいかくである抽象ちゅうしょうせいをもたないからだ。
 したがって、感覚かんかくてきにわかるこれらの言葉ことば意味いみ説明せつめいするとなると、とたんにきづまってしまう。【0】オノマトペは、いわば音楽おんがくなのであり、その意味いみつたえることのむずかしさは音楽おんがくあたえるイメージを言語げんご解説かいせつする困難こんなんさとおなじだといってよい。この意味いみ擬声語ぎせいご擬態語ぎたいご言葉ことば本質ほんしつともうべき抽象ちゅうしょうりょくていつぎ言語げんごだといえなくもない。しかし、言語げんごがその抽象ちゅうしょうりょくをもって伝達でんたつ領域りょういきには限界げんかいがある。人間にんげん言語げんごは、しょせん万能ばんのうではないのだ。
 もし言語げんごがこの世界せかいすべてを表現ひょうげんくせるものなら、言葉ことばさえあれば、なにもかも理解りかいできてしまうだろう。しかし、そうはいかない。そうはいかないからこそ、言葉ことばではいいあらわせないべつ表現ひょうげんを、人間にんげんかんがしてきたのだ。たとえば絵画かいがであり音楽おんがくである。セザンヌのを、あるいはモーツアルトの音楽おんがく言葉ことばにそっくりえるなどということができるであろうか。わたしはオノマトペを言語げんご音楽おんがくとの接点せってんとしてかんがえる。それは人間にんげん感覚かんかく音声おんせいそのものによって表現ひょうげんしようとする伝達でんたつ手段しゅだんだからだ。

森本もりもと哲郎てつろう日本語にほんご ひょううら』)


長文ちょうぶん 5.2しゅう
 【1】なにむかというまえに、まずなにはともあれ、夢中むちゅうむという体験たいけん一度いちどあじわう必要ひつようがあります。対象たいしょうはそれぞれのひとによってことなりますが、とにかく面白おもしろたのしいほんであることが必要ひつようです。【2】そして一度いちどたのしさをったら、あとは、この面白おもしろさの内容ないよう次第しだいたかめることが、たのしさをちょうつづきさせる秘訣ひけつです。たとえば推理すいり小説しょうせつだけをんでいると、最後さいごにはせっかく面白おもしろかったほんも、なんとなく空虚くうきょかんじがしてきます。
 【3】いちたのしさをったひとは、あとははなっておいても、読書どくしょ本能ほんのうともいうべきものによって、自分じぶんにぴったりしたほんをもとめてゆくものです。またひゃくさつほんのリストによって自分じぶんにふさわしいほんさがすようになるのも、この時期じきです。【4】この時期じきになれば、ひゃくさつのリストをてもおそれをなすどころか、ぎゃく面白おもしろそうなほんがこんなにならんでいてくれることに、ぞくぞくしたたのしさをかんじるようになるものです。ですから、読書どくしょたのしさをるということが、わたしたちが最初さいしょ体験たいけんしなければならないことになるのです。
 【5】あるひとたずねるかもしれません。「いまはテレビや映画えいが劇画げきがによって読書どくしょ以上いじょうたのしみをあじわえる時代じだいなのに、なぜ古臭ふるくさ読書どくしょなどに執着しゅうちゃくするのですか」と。
 しかしテレビをるのとほんむのとは別々べつべつのことです。【6】テレビはわたしたちを自分じぶんそとしますが、読書どくしょ自分じぶんなかもどします。それに読書どくしょはいつどこででもできます。汽車きしゃなかでも、飛行機ひこうきなかでも、ひるでも、なかでもいちさつほんさえあれば、自由じゆう別世界べっせかいはいりこむことができます。【7】おなほんでも、小説しょうせつ劇画げきがより、もっと自由自在じゆうじざいゆたかに想像そうぞうりょくつばさってばたくことができるのです。
 読書どくしょたのしさのなか最大さいだいのものは、この自由じゆうかんだということもできます。ほんとびらけると、もうこうはフランスだったり、江戸えど時代じだい日本にっぽんだったり、幻想げんそう世界せかいだったりするわけですから。【8】そこでは、わたしたちの人生じんせいとはべつ人生じんせいがはじまっています。べつ人々ひとびと出会であい、数奇すうき運命うんめいをたどることができるのです。ふかかなしみやよろこびをあじわうこともできますし、人生じんせい裏面りめん赤裸あかはだかせきらなすがたを戦慄せんりつすることもあります。わたしたちのたましい地獄じごくとお天国てんごくとおります。【9】いているおんなにもいます。ちひしがれたおとこにも出会であいます。幸福こうふくひとにもこいなやひとにもぶつかります。わたしたちはおもわぬ人生じんせいさびしさや、孤独こどくかんや、人々ひとびとあい体験たいけんします。
 こうしていちさつほんえたとき、わたしたちはみはじめるまえとは、別人べつじんになったようにおもえることがあります。【0】わたしは『つみばち』をんだとき、そんな気持きもちをあじわいました。しかしこうした経験けいけん読書どくしょ以外いがいには絶対ぜったいあじわえません。こうなると、読書どくしょたんなるたのしさから、もっとふかいもっと複雑ふくざつなものにわってゆくことになります。
 読書どくしょ対象たいしょうはこうして小説しょうせつから哲学てつがく宗教しゅうきょうへ、神話しんわ心理しんりがくひろがってゆきます。しかし読書どくしょ生涯しょうがいつうじてわたしたちのそばにあるのは、それがなによりもたのしいことだからです。たのしくなければなににもなりません。その証拠しょうこには、なに無理むりをして勉強べんきょうし、我慢がまんをして読書どくしょをしていたひとは、目的もくてきたっすると、けろりと読書どくしょなどしなくなるものです。
 わたし自分じぶんでもスポーツがきですし、映画えいがもよくるほうです。音楽おんがくなしではいちにちもいられません。それでも、なお読書どくしょたのしみをみなさんにあじわってほしいとおもうのは、読書どくしょによって、そうしたスポーツや映画えいが音楽おんがくたのしみが、一段いちだんゆたかになりふかくなるものだからです。

つじ邦生くにお永遠えいえん書架しょかにたちて』による)


長文ちょうぶん 5.3しゅう
 【1】創造そうぞうには、情念じょうねんちからがいる。芸術げいじゅつにおける創造そうぞうはもちろん、あらゆる学問がくもんにも、また日常にちじょう生活せいかつにもそれはいえることだろう。では、この情念じょうねん具体ぐたいてきにどのような情念じょうねんなのか。
 エジソンの言葉ことばに、「必要ひつよう発明はつめいははである」(Necessity is the mother of invention)というのがある。【2】なに必要ひつようであって発明はつめいあるいは創造そうぞうまれるという意味いみだが、問題もんだいはこの「必要ひつよう」という言葉ことば解釈かいしゃくである。
 「必要ひつよう」は、英語えいごでおもにとおりの表現ひょうげん仕方しかたがある。ニーズとウォントである。だが、おなじように「必要ひつよう」とやくされながら、このふたつの言葉ことば実際じっさい意味いみは、かなりちがうのだ。
 【3】「ニーズ」という言葉ことばは、空間くうかんてきにいえば、外部がいぶ状況じょうきょう判断はんだんして、した必要ひつようせいであり、時間じかんてきると、過去かこから現在げんざいにかけて人間にんげん経験けいけんしたこと、たものを基準きじゅんにしてした必要ひつようせいという意味いみ使つかわれる。【4】これにたいして「ウォント」は、自分じぶん内部ないぶからてくる必要ひつようせいであり、現在げんざい未来みらい時間じかんじくをとったうえでの必要ひつようせい意味いみしている。すなわち、欲望よくぼうとか欠乏けつぼう内包ないほうした「必要ひつよう」がウォントの由来ゆらいなのだ。
 【5】余談よだんになるが、よく企業きぎょうのパンフレットなどに、「消費しょうひしゃのニーズをよくとらえて……」などとかれているが、この表現ひょうげんはあまりよいとはおもえない。ニーズというのはようするに過去かこ知識ちしきからしただけのものであるから、そんなことをやっていたら企業きぎょうおくれてしまう。【6】それをくならば、「消費しょうひしゃのウォントを見抜みぬいて……」とくべきだろう。
 とにかく、ニーズは、理性りせいによる判断はんだんからまれた「必要ひつよう」、ウォントは現在げんざい自分じぶんなかにあるなにかとてもいたたまれないような、場合ばあいによってはたまらなく爆発ばくはつしたくなるような情念じょうねんからまれた「必要ひつよう」という具合ぐあい解釈かいしゃくしてもいいだろう。【7】わたしは、創造そうぞうにはもちろんニーズもなければならないが、どこかの時点じてんでウォントがまれないとダメだとおもうのである。つまり、創造そうぞう活動かつどうささえる背景はいけいには「こんなものがつくれたらいいな」と無心むしんおも欲望よくぼうねんや、欠乏けつぼうしているものをひたすらにもとめる渇望かつぼうねんがなければならないとおもうのだ。
 【8】わか読者どくしゃ諸君しょくんにはとくにこのことを強調きょうちょうしておきたい。自分じぶん将来しょうらいめていくというときに、いろいろな情報じょうほうがある。たとえば、自分じぶん偏差へんさがこの程度ていどだからあの大学だいがくのこういう学部がくぶにいこうとか、こういう職種しょくしゅ有望ゆうぼうだからこの企業きぎょう就職しゅうしょくしようという具合ぐあいに、いろいろな情報じょうほうからニーズをして進路しんろめるひと非常ひじょうおおい。
 【9】しかし、そういうかたをしたひとなんらかの方法ほうほうでニーズからしたものが、ウォントにわらないかぎり、どこかで挫折ざせつするのではないかとおもう。「自分じぶんはこの学問がくもんをしたいんだ」「わたしはこの仕事しごとにつきたいんだ」というウォントをもった意志いしりょくがなければならないのである。【0】
 グロタンディエクやザリスキー先生せんせいのように、想像そうぞうぜっする逆境ぎゃっきょうなかきてきたハングリーな数学すうがくしゃすぐれた業績ぎょうせきをあげたのは、ひとつには、ウォントという情念じょうねんつねかれらをうごかしつづけたからにちがいない。
 ものをつく過程かていには、そうじて飛躍ひやくというものが必要ひつようである。創造そうぞうしようとするものが、過去かこるいないあたらしいものであればあるほど、なおさら、飛躍ひやくすることが大事だいじになってくる。そして飛躍ひやくするには、うちなる欲望よくぼうちからりなければならないのである。飛躍ひやく原動力げんどうりょくはニーズではなく、ウォントだとわたしかんがえるのだ。

広中ひろなかたいらゆうへいすけきること まなぶこと」)


長文ちょうぶん 5.4しゅう
長文ちょうぶんふたつある場合ばあい読解どっかい問題もんだいよう長文ちょうぶんいち番目ばんめ長文ちょうぶんです。】
 書物しょもつはいつのにもゆっくりとむべきものだとわたしおもう。こんなにもほんがたくさんているのに、とうかもしれない。しかし、おなじようにレコードだってたくさんている。展覧てんらんかいいたところひらかれている。だからといって、音楽おんがく能率のうりつてきき、絵画かいがいそいでひとはいまい。それなのに、ことほんかんするかぎそく読を目指めざすのはどういうわけなのだろう。おそらく、書物しょもつというものが鑑賞かんしょうするというより知識ちしき伝授でんじゅ媒体ばいたいおもわれているせいであろう。たしかにほんとレコードではちがう。ほんのほうがはるかに多目的たもくてきである。鑑賞かんしょうするというよりは、情報じょうほうたいためにまれるほんのほうがずっとおおいだろう。そんなことは十分じゅうぶん承知しょうちうえで、なおかつ、わたしおそちどくすすめる。 
 はやむということは一見いっけん能率のうりつてきのようにおもえるが、結局けっきょくそんをすることになる。わたし必要ひつようせまられていそいでまざるをないことがある。ところが、いそいでよんだほんかぎって、あとになにのこっていない。そこで、もう一度いちどなおさなければならないことになる。そして、あらためてゆっくりなおしてみると、最初さいしょばしたそんな読書どくしょなん意味いみっていないどころか、まったちがえていたことにおどろくのである。こうなると、はや読するよりはまないほうがましである。なぜなら、誤解ごかい無知むちよりも有害ゆうがいだからである。
 そんなことをっても、必要ひつようせまられてまなければならない場合ばあいおおいではないか、とうかもしれない。しかし、必要ひつようせまられたらなおのことゆっくりむべきである。必要ひつようせまられる以上いじょう、あくまで誤解ごかいゆるされないからだ。たとえ明日あしたまでにどうしてもこのいちさつげねばならないという必要ひつようせまられた場合ばあいでも、ゆっくりとみ、めるところまでんでほんじたらいい。そのほうが、いい加減かげんななみをするよりは、はるかにるところがおおきい。
 おそちどくすすめるもうひとつの理由りゆうは、いくらはやんでみたところでたかがれているということである。どんなにはや読の技術ぎじゅつけたところで、ばいのスピードでめるものではない。かりばい速度そくどめたとしても、そうしたはや読からることができるのは、ゆっくりんだときのぶんいちぎない。つまり、半分はんぶんしからないのだからばいはやさでめるわけだ。しかも、その半分はんぶんまえべたように誤読ごどくおちいりやすいとすれば、はや読というものがいかに無意味むいみであるかに気付きづくであろう。実際じっさいほんというものはそんなにたくさんめるものではない。わずかなほんしかめないからこそ、なにむかその選択せんたく大切たいせつになる。つまり、ゆっくりむことは、それだけ良書りょうしょえらばせる効果こうかつのである。
 わずかなほんしかめなかったなら、それだけ視野しやせまくなり、とても現代げんだいいていけないとうかもしれない。たしかにそういった不安ふあん現代げんだいじんはや読へとてている。だが、そんなことはけっしてない。じゅうさつひとよりもさつひとのほうが視野しやひろく、立派りっぱ見識けんしきけているというようなことはざらにあるのだ。読書どくしょ価値かちなんさつんだかでまるのではなく、どんなほんをどのようにんだかでまるのである。
 わたしは、読書どくしょとは「あしよしずいから天井てんじょうをのぞく」ことだとおもっている。ふつうこの言葉ことばは、そんなちっぽけなあなからてんをのぞいてみても、広大こうだいてんのほんのわずかな部分ぶぶんえるだけだ、とその視野しやせまさをわらったものとほぐされている。たしかにそういう意味いみだろう。しかし、実際じっさいにのぞいてみるとかるが、あしよしずいからでも結構けっこうてんあおげるのである。いや、むしろちいさなあなからのぞいたほうが対象たいしょうがよくえることもおおい。 
とにかく、ほんはゆっくりむにかぎる。ゆっくりめばいちさつほんはどれほどおおくをかたってくれることか。読書どくしょとはただそこにかれていることを理解りかいするという単純たんじゅん作業さぎょうなのではなく、いかにして、書物しょもつによりおおくのことをかたらせるかという技術ぎじゅつなのである。それは、すぐれたインタビュアーが相手あいてからおもしろいはなし十分じゅうぶんすことができるようなものだ。性急せいきゅう読書どくしょではほんなにかたってくれはしない。かりにその内容ないよう要領ようりょうよくつかんだとしても、ただそれだけのはなしである。それではほんんだというより、ほんをつかんだというにぎない。
 読書どくしょとはあくまで著者ちょしゃ対話たいわなのである。時間じかんをかけてゆっくりといかけなければ、著者ちょしゃは、それこそとおいちへんこたえしかしてくれないのである。

森本もりもと哲郎てつろうおそちどくじゅつ」)
 【1】地球ちきゅうじょう二酸化炭素にさんかたんそは、大気たいき陸地りくち海洋かいようとのあいだを出入でいりしています。
 陸地りくち植物しょくぶつは、光合成こうごうせいによる無機物むきぶつからの有機物ゆうきぶつ生産せいさんそういち生産せいさんといいます)の結果けっかいちねん炭素たんそ換算かんさんいち〇〇おくトンの二酸化炭素にさんかたんそ大気たいきからとりこんでいますが、同時どうじ呼吸こきゅうのためにいちいちきゅうろくおくトンを排出はいしゅつしています。【2】森林しんりん破壊はかいなどの土地とち利用りよう変化へんかいちろくおくトンを排出はいしゅつしていますが、植林しょくりんなどをふくむ陸地りくちでの吸収きゅうしゅうろくおくトンの炭素たんそ大気たいきから固定こていしています。つまり陸地りくちでは、降水こうすいちゅう炭素たんそりょうおくトンもふくめていちろくおくトンを大気たいきからとりこんでいることになります。海洋かいようは、さしひきいちろくおくトンを大気たいきから吸収きゅうしゅうしています。
 【3】一方いっぽう石油せきゆ石炭せきたんなど化石かせき燃料ねんりょう燃焼ねんしょうによって、ろくよんおくトンの二酸化炭素にさんかたんそ排出はいしゅつされますが、吸収きゅうしゅうはありません。その結果けっか自然しぜんのバランスをこえて、さしひきさんおくトンの炭素たんそ排出はいしゅつされて大気たいきちゅう二酸化炭素にさんかたんそやしつづけ、これが地球ちきゅう温暖おんだんをひきおこしているとみられます。
 【4】バイオマスは、ってやして二酸化炭素にさんかたんそ排出はいしゅつしても、植林しょくりんをすれば、いずれはまた、大気たいきちゅう二酸化炭素にさんかたんそ光合成こうごうせい固定こていします。このようにバイオマスは、大気たいき炭素たんそりょう影響えいきょうをあたえないことから、カーボン・ニュートラルであるとみなされています。【5】バイオマスは、温室おんしつ効果こうかガスの排出はいしゅつがないカーボン・ニュートラルなエネルギーげんとして、地球ちきゅう温暖おんだん対策たいさく重要じゅうようはしらのひとつになっています。
 世界せかいおおくの国々くにぐには、バイオマスのエネルギー利用りよう二酸化炭素にさんかたんそ排出はいしゅつらす政策せいさくをすすめています。【6】〇〇ねんの「持続じぞく可能かのう開発かいはつかんする世界せかい首脳しゅのう会議かいぎ」では、今後こんご実施じっし計画けいかくのなかで、バイオマスをふくむ再生さいせい可能かのうエネルギーの利用りよう促進そくしん合意ごういされました。
 日本にっぽんでも、同年どうねん政府せいふがバイオマス・ニッポン総合そうごう戦略せんりゃく作成さくせいして、各地かくちにバイオマスタウンをつくるなど、バイオマス利用りようをすすめています。
 【7】バイオマスは太陽たいようエネルギー、しょう水力すいりょく風力ふうりょく地熱じねつなどとならんで日本にっぽんではしんエネルギーとよばれ、化石かせきエネルギーや原子力げんしりょくたいしてあたらしいエネルギーげんとされていますが、もともとこれらのエネルギーはむかしから使つかわれてきたものをあたらしい技術ぎじゅつでより効率こうりつよく、多様たようかたち利用りようしようとするものです。
 【8】消費しょうひしてもつぎつぎとまたみだすことができる資源しげんを、再生さいせい可能かのう資源しげんとよんでいます。再生さいせい可能かのうエネルギーげんは、バイオマスのほかに太陽光たいようこう風力ふうりょく水力すいりょくなどいろいろな自然しぜんエネルギーがありますが、工業こうぎょう原料げんりょうにもなるのはバイオマスだけなので、エネルギーと原料げんりょうじゅう期待きたいされているわけです。
 【9】海外かいがいでも、バイオマスは化石かせきエネルギーの消費しょうひらす重要じゅうようはしらとみなされています。国際こくさいエネルギー機関きかん(IEA)は、ねん世界せかいエネルギー需要じゅよう予測よそくをしています。のように、バイオマスと廃棄はいきぶつ割合わりあいは、世界せかいのエネルギー需要じゅようやくいち〇%になっています。【0】では、太陽たいようエネルギー、風力ふうりょくなどがその再生さいせい可能かのうなエネルギーになっており、バイオマスも化石かせきけいのものをふくむ廃棄はいきぶつといっしょにしめされています。そして、再生さいせい可能かのうエネルギー全体ぜんたいのなかでは、バイオマスがやくなな%をめることになると予測よそくされています。
 バイオマスをかすには、その特性とくせいをフルに利用りようすることが大切たいせつです。物質ぶっしつとしてくりかえし使つかえばそれだけ、生産せいさん投入とうにゅうしたエネルギーはより有効ゆうこう利用りようできますし、うまくわせると全体ぜんたいとしての経済けいざいせいたかまります。
 バイオマスのつよみをかして、日本にっぽん資源しげん徹底的てっていてき活用かつようし、化石かせき資源しげん節約せつやくして、地球ちきゅう環境かんきょうをよくしたいものです。

木谷きたにおさむ『バイオマスは地球ちきゅう環境かんきょうすくえるか』による)


長文ちょうぶん 6.1しゅう
いち番目ばんめ長文ちょうぶん暗唱あんしょうよう長文ちょうぶんで、番目ばんめ長文ちょうぶん課題かだい長文ちょうぶんです。】
 【1】研究けんきゅうかぎらず、だい事業じぎょう成功せいこう必要ひつようさん要素ようそとして、日本にっぽんではむかしから「うんどん」ということがわれている。科学かがくしゃ伝記でんきむと、そのひとなりの「うんどん」をあじわうことができる。
 【2】「うん」とは、幸運こううん(チャンス)のことであり、最後さいご神頼かみだのみでもある。「人事じんじくして天命てんめいつ」とわれるように、あらゆる知恵ちえ動員どういんすることで、ぎゃくひとちからおよばないうん部分ぶぶんえてくるようになる。【3】人事じんじくさずにボーッとしているだけでは、チャンスを見送みおくるのがせきやまうんうんであるとかることも実力じつりょくのうちなのだ。
 【4】つぎの「どん」のほうは、あじわるくてどこかにぶいということである。最後さいごの「」は、もちろん根気こんきのことだ。途中とちゅうさず、ねばりづよ自分じぶん納得なっとくがいくまでひとつのことをつづけていくことも、研究けんきゅうしゃにとって大切たいせつ才能さいのうである。【5】論文ろんぶん完成かんせいさせるまでの数々かずかず自分じぶん苦労くろうおもしてみると、「最後さいごまであきらめない」、という一言ひとこときる。やま頂上ちょうじょうをめざす登山とざんや、ゴールをめざすマラソンとおなじことである。
 【6】それでは、なぜ「どん」であることが成功せいこうにつながるのだろうか。分子生物学ぶんしせいぶつがく基礎きそきずいたM・デルブリュックは、「限定げんていてきいい加減かげんさの原理げんり」が発見はっけんには必要ひつようだとべている。
 【7】もしあなたがあまりにいい加減かげんならば、けっして再現さいげんせいのある結果けっかることはなく、そしてけっして結論けつろんくだすことはできません。しかし、もしあなたがちょっとだけいい加減かげんならば、なにかあなたをおどろかせるものに出合であったときには……それをはっきりさせなさい。
 【8】つまり、予想よそうがいのことがちょっとだけこるような、適度てきどな「いい加減かげんさ」が大切たいせつなのである。このようにすこしだけにぶけていることが成功せいこうにつながる理由りゆうをいくつかかんがえてみよう。
 【9】だいいちに、「さきがあまりえないほうい」ということである。あたまくてさき予想よそうがつきすぎると、結果けっかのつまらなさや苦労くろうやまほうにばかり意識いしきいてしまって、なかなか第一歩だいいっぽしにくくなるからである。【0】
 だいに、「頑固がんこいちてっ」ということである。「器用貧乏きようびんぼう」や「多芸たげい無芸むげい」ともわれるように、多方面たほうめん才能さいのうゆたかなひとより、研究けんきゅうにしかのうのないひとほうが、頑固がんこひとつのみちてっして大成たいせいしやすいということだ。だれでも使つかえる時間じかんかぎられている。才能さいのうめいじるままに小説しょうせついたりスポーツに熱中ねっちゅうしたり、といろいろなことにしてしまうと、一芸いちげいひいでるあいだもなく時間じかんってしまう。わたし恩師おんし宮下みやした保司やすし先生せんせいのう科学かがく)は、「頑固がんこ実験じっけんしつにこもる流儀りゅうぎ」をつらぬいており、わたしつねにこの流儀りゅうぎ意識いしきしている。
 だいさんに、「まわりにながされない」ということである。となりの芝生しばふはいつもあおえるもので、となりの研究けんきゅうしつたのしそうにえ、いつも他人たにん仕事しごとほうがうまくいっているようにえがちである。それから、科学かがく世界せかいにも流行りゅうこうすたりがある。「自分じぶん自分じぶんひとひと」とわりって他人たにん仕事しごとにかけず、流行りゅうこううことにも鈍感どんかんになったほうが、じっくりと自分じぶん仕事しごとんで、自分じぶんのアイディアをこころゆくまでそだてていけるようになる。
 だいよんに、「牛歩ぎゅうほ道草みちくさをいとわない」ということである。研究けんきゅうなかでは、地味じみ泥臭どろくさ単純たんじゅん作業さぎょう延々えんえんつづくことがある。研究けんきゅうけっして効率こうりつがすべてではない。研究けんきゅう試行錯誤しこうさくご無駄むだはつきものだ。研究けんきゅう順調じゅんちょうすすまないと、せっかくはじめた研究けんきゅう中途ちゅうとしてしまいがちである。成果せいかることをだいいちとして、スピードと効率こうりつだけをもとめていては、かたわらにあって、大発見だいはっけんになるような糸口いとぐち見落みおとしてしまうかもしれないのだ。(中略ちゅうりゃく
 あたまのいいじん批評ひひょうてきするが行為こういひとにはなりにくい。すべての行為こういには危険きけんともなうからである。怪我けがおそれるひと大工だいくにはなれない。失敗しっぱいこわがるひと科学かがくしゃにはなれない。(中略ちゅうりゃく
 あたまがよくて、そうして、自分じぶんあたまがいいとおも利口りこうだとおもひと先生せんせいにはなれても科学かがくしゃにはなれない。人間にんげんあたまちから限界げんかい自覚じかくしてだい自然しぜんまえおろかな赤裸あかはだか自分じぶんし、そうしてただだい自然しぜん直接ちょくせつおしえをのみ傾聴けいちょうする覚悟かくごがあって、はじめて科学かがくしゃにはなれるのである。

 (酒井さかいくによしみくによし文章ぶんしょう
 【1】テレビでえる戦争せんそう部分ぶぶんえない部分ぶぶん、そのがくっきりとてきたことが、湾岸わんがん戦争せんそうおおきな特徴とくちょうである。テレビで戦争せんそうえる、と一瞬いっしゅんおもったが、えている部分ぶぶんはその一部いちぶである、ということに、一瞬いっしゅんおくれてがついてくる。【2】あかるい部分ぶぶんあかるければあかるいほど、かげ部分ぶぶんかげかたちが、ぎゃくにはっきりしてくるともいえる。あかるい部分ぶぶんとは、つまり映像えいぞう情報じょうほうながれている部分ぶぶんくら部分ぶぶんとは、映像えいぞう秘匿ひとくされ、ながれてこない部分ぶぶんである。
 【3】しかも、あかるい部分ぶぶん同時どうじ進行しんこうがた、カラーの映像えいぞう音声おんせいつきで、そして大量たいりょうながれてくる。大量たいりょう情報じょうほうながれている、というのは、一見いっけん情報じょうほうがオープンにながれている、情報じょうほうたされていると錯覚さっかくさせるが、じつは、その大量たいりょう情報じょうほうは、その情報じょうほうかげにある、真実しんじつ情報じょうほうおおいかくすくらましの効果こうかねらっているものである。【4】いまのような情報じょうほう時代じだい宣伝せんでんせん情報じょうほうせんは、情報じょうほう完全かんぜんにシャットアウトするのではなく、むしろ情報じょうほうをどんどんながすところに特徴とくちょうがある。情報じょうほうさないことによってではなく、情報じょうほう積極せっきょくてきながすことで、情報じょうほう管理かんりする、操作そうさするという方法ほうほうである。
 【5】テレビは、映像えいぞう情報じょうほうふかくかかわっているだけに、える部分ぶぶんひかりたっている部分ぶぶん情報じょうほうつたえることになりやすい。【6】テレビが、おおくの情報じょうほうつたえればつたえるほど、テレビのカメラがかれていないところ、テレビカメラのアングルにはいってこない死角しかく部分ぶぶん、テレビのライトがたっていないくら部分ぶぶんがあること、そしてテレビでは映像えいぞうしにくい重要じゅうよう情報じょうほうのあることをかんがえなければならない。
 【7】テレビによってえている部分ぶぶんえない部分ぶぶんとを総合そうごうてき判断はんだんすることによって、はじめて、真実しんじつちかづくことができるのだ、といえる。
 しかも、テレビの発達はったつした時代じだい情報じょうほうせん宣伝せんでんせんでは、える部分ぶぶん情報じょうほうなが役割やくわりを、映像えいぞうあつかうテレビがいちけることになりやすい。【8】テレビのつたえる映像えいぞうは、作為さくいによって出来でき映像えいぞうつくられた映像えいぞう虚偽きょぎ映像えいぞう真実しんじつとは反対はんたい映像えいぞう場合ばあいはもちろん、戦場せんじょうからナマでおくられてくる映像えいぞうのように、映像えいぞうそのものは真実しんじつであっても、全体ぜんたいぞうからられた映像えいぞう真実しんじつのうちの一部いちぶ真実しんじついちめんにすぎないこともおおい。
 【9】しかしたとえ一部いちぶでありいちめんであるにもせよ、テレビをとおして、しかもリアルタイムで「現場げんば」をてしまうと、人間にんげんなんとなく、納得なっとくしてしまう、満足まんぞくしてしまうことになりやすい。大量たいりょう情報じょうほうながれているときに、情報じょうほうたいする飢餓きがかんすくないのは当然とうぜんだ。【0】むしろ情報じょうほうまったながされずに、情報じょうほうたいする飢餓きが欲求よっきゅうつよときにくらべて、情報じょうほう操作そうさ情報じょうほう管理かんりたいする抵抗ていこうよわいともいえる。(中略ちゅうりゃく
 ソマリアでの食糧しょくりょう補給ほきゅう確保かくほするために、首都しゅとモガディシオちかくに上陸じょうりくしたアメリカぐん国籍こくせきぐん)は、先回さきまわりしたアメリカなどのテレビ・クルーの煌々こうこうとしたライトの出迎でむかえをけた。これでは上陸じょうりく作戦さくせんなにもあったものではない、と米国防総省べいこくぼうそうしょうはメディアがわつよ抗議こうぎした。ソマリアの武装ぶそう勢力せいりょくまえに、自国じこくぐん姿すがたをさらけすようなものだ、という意味いみだろうが、もともと米国べいこくたいしては、武装ぶそう勢力せいりょく抵抗ていこうをあきらめていたことをかんがえると、たてまえではおこってみても、メディアに報道ほうどうされること、つまりメディアによって露出ろしゅつされることは、ほんねのところでは歓迎かんげいしていたのかもしれない。これからは、軍事ぐんじりょくうごかすといっても、火力かりょく使つかうよりは、存在そんざい誇示こじすることにますます重点じゅうてんうつるだろうし、実際じっさい戦闘せんとうおこなっても、そのなんばいもの宣伝せんでん必要ひつようになるからだ。ニュースげん(ソース)のがわがメディアによって露出ろしゅつされたい、みずからをメディアに露出ろしゅつしたいとのぞ状況じょうきょうが、メディアにとっては、あたらしい危険きけん状態じょうたいだということにもなる。
 危険きけん状況じょうきょうは、戦争せんそう紛争ふんそうといった特別とくべつ状況じょうきょうときだけの問題もんだいではない。政治せいじ世界せかいで、行政ぎょうせい領域りょういきで、産業さんぎょう企業きぎょう分野ぶんやで、あるいは文化ぶんか芸能げいのうかいといったところまでもが、テレビに露出ろしゅつされる機会きかい必死ひっしもとめている時代じだいだからだ。テレビにとりあげてほしい、テレビでひろめてほしい、テレビに出演しゅつえんさせてほしいとのぞひとたちは、政治せいじからタレント志望しぼうわか女性じょせいまで、テレビの周辺しゅうへんに、うごめいているといってもよい。

岡村おかむらこうじあきら文章ぶんしょうによる)


長文ちょうぶん 6.2しゅう
 【1】国際こくさい感覚かんかくがあるということは、ただ流暢りゅうちょう外国がいこくはな外国がいこくじんとそつなくつきあえるというような単純たんじゅんなことではありません。また国際こくさい感覚かんかくにつけるということは、これさえれれば大丈夫だいじょうぶというような一本いっぽんの「魔法まほうつえ」をつけることでもありません。【2】国際こくさい感覚かんかくという言葉ことばは、国際こくさいという言葉ことばがそうであるように、そのとらえかたひとによってまちまちだからです。
 ただ、いまわたしたちにとって大切たいせつだとおも問題もんだいは、たとえばそれが人権じんけんであれ、平和へいわであれ、環境かんきょうであれ、それについてげてかんがえようとすれば、たいていの場合ばあいに、国際こくさいてき側面そくめんとかかわりあいをもってきます。【3】したがって、「国際こくさい感覚かんかくってなんだろう」とかんがえることは、たるべきじゅういち世紀せいききるわたしたちのかたについてかんがえることでもあるのです。それは、現代げんだい社会しゃかいなかで、一人ひとり人間にんげん自分じぶんかたつらぬこうとしたらいったいどういう資質ししつもとめられるのか、とうことでもあります。
 【4】だから「国際こくさい感覚かんかくをもってるひとって、どんなひとでしょうね」とたずねられたとしたら、こうこたえることだけはできそうです。「そうですね。あなたがたったひとつの正答せいとう期待きたいしているとしたら、それをしめすことはわたしにはできません。【5】でも、つぎのような最大公約数さいだいこうやくすう回答かいとうすことならできるようにおもいます」と。
 国際こくさい感覚かんかくにつけているひとというのは、たとえばつぎのようなひとのことです。「自分じぶんなりの意見いけんをきちんともっているひと」「それを正確せいかくひとつたえることのできるひと」【6】「つねにステレオタイプ(かたどおり)の発想はっそうをさけようとつとめているひと」「海外かいがいのことだけでなく、日本にっぽんについてもよくろうとしているひと」そして「文化ぶんか正面しょうめんからむきあおうとこころがけているひと」などです。
 【7】ただ、わたしたち日本人にっぽんじん場合ばあい、どうしてもまず日本にっぽんというくにわくかんがえ、その枠組わくぐみのなかで、「世界せかいほこれる日本人にっぽんじん資質ししつとはなにか」とかんがえることになってしまいがちです。しかし、現代げんだいでは、自分じぶんくに国益こくえきさえまもれればそれでよい、という時代じだいではなくなってきています。【8】そのことは、グローバル・イシュー(地球ちきゅうてき課題かだい)がひろ認識にんしきされるようになったことにもあらわれています。
 たとえば、世界せかい自然しぜん環境かんきょうまもることと、あるくに経済けいざいてき利益りえき衝突しょうとつするということは、いくらでもこりうることです。【9】そのときにわたしたちが、自分じぶんくに国益こくえきだけにとらわれずに、より普遍ふへんてき視点してんから発想はっそうできるかどうかが問題もんだいになってきます。ひとつの時代じだいともきるということは、その時代じだいかかえる課題かだいを、世界せかいひとびとと共有きょうゆうすることでもあるからです。【0】
 交通こうつう通信つうしん手段しゅだん発達はったつによって、実質じっしつてき地球ちきゅうせまくなってきました。また、ぜん世界せかい直面ちょくめんしている困難こんなん事態じたいについて、国境こっきょうえて地球ちきゅう規模きぼ協力きょうりょくしあうことが必要ひつよう時代じだいになっています。いま時代じだいは、国際こくさい時代じだいから地球ちきゅう時代じだいへと、うつわりつつあります。この変化へんか対応たいおうして、国家こっか枠組わくぐみにそった国際こくさい感覚かんかくだけでなく、よりひろい、地球ちきゅう市民しみんとしての意識いしき要請ようせいされるようになってきました。
 この地球ちきゅう市民しみんという言葉ことばは、まだまだわたしたちのみみにはなじまない言葉ことばです。そもそも、わたしたちいちにんひとりは、家族かぞく一員いちいんであり、学校がっこう生徒せいとであり、クラブ活動かつどうのメンバーであり、自治体じちたい住民じゅうみんであり、国家こっか国民こくみんであるという具合ぐあいに、色々いろいろなレベルで帰属きぞくする集団しゅうだん団体だんたいをもっています。それはあなたが同心円どうしんえん中心ちゅうしんって、そのまわりにおおきなえんがしだいにひろがっていく様子ようす想像そうぞうしてもらうとわかりやすいかもしれません。地球ちきゅう市民しみんというものは、そのいちばんひろ同心円どうしんえんだとることもできます。
 地球ちきゅう市民しみんは、地球ちきゅうじょうらすすべてのひとびとが人間にんげんらしくきることをたがいに保障ほしょうしあうという理念りねんによってむすびつくべきものでしょう。「わたし平和へいわ人権じんけんもとめるように、地球ちきゅうじょうらすほかのすべてのひとも、おなねがいをもつ権利けんりがある」というかんがかたです。その意味いみで、地球ちきゅう市民しみんであるということは、人間にんげんであることと同様どうよう地球ちきゅうじょうきるわたしたちいちにんひとりをつつみこむ、もっとも普遍ふへんてき定義ていぎだといえるかもしれません。

渡部わたなべあつしじゅん文章ぶんしょうによる)


長文ちょうぶん 6.3しゅう
 【1】現代げんだいでは学術がくじゅつ研究けんきゅうにおいてだけでなく、企業きぎょう活動かつどうにおいてもまた専門せんもんがすすんでいます。それぞれの陣頭じんとうにたって仕事しごとすすめているのは専門せんもんたちです。現代げんだいは、まさに専門せんもんたちの時代じだいであるというべきかもしれません。【2】それだけにまた現代げんだいは「専門せんもんバカ」たちの時代じだいとなる危険きけんせいもおおいにはらんでいるのです。
 ただの専門せんもんというのは、いわばへいかこまれた住居じゅうきょなかだけでそとからの情報じょうほうることもなく、生活せいかつしているひとみたいなものです。【3】へいなかのことはよんろくちゅうよくまわり(まわっているのですが、へいそとはなにもえないし、かといってそとかけていく余裕よゆうもないのです。専門せんもん自分じぶん専門せんもんとする事柄ことがらについてはよくっていても、ただそれだけだったらほとんどすべての事柄ことがらについては無知むちだということになります。
 【4】ところが、自分じぶんせん門外もんがい事柄ことがらについてある程度ていど理解りかいすることができ、思慮しりょ分別ふんべつともなった言論げんろん展開てんかいできるひとたちがいるのです。その言論げんろんとう専門せんもんをもうなずかせたり、一考いっこううながしたりすることがあるのです。【5】そういった言論げんろん基盤きばんとなるのは、なになのでしょうか。それはもはや専門せんもんてき知識ちしき技術ぎじゅつではなく、常識じょうしき一般いっぱんてき教養きょうようなのです。
 アリストテレスは、『トピカ』で、大衆たいしゅう相手あいてはなうには、「エンドクサ」(通念つうねん)にもとづいて言論げんろん展開てんかいすることが有効ゆうこうだとしています。【6】大衆たいしゅう相手あいてにした場合ばあい大衆たいしゅうの「ドクサ」(見解けんかいおもいなし)を枚挙まいきょして、ほかのひとたちの意見いけんにではなく、かれら自身じしん意見いけんもとづいてろんぜよ、ということです。
 大衆たいしゅうというのは、ここでは専門せんもんてき知識ちしきをもたないひとたちのことを意味いみしています。【7】わたしたちいちにん一人ひとりみな自分じぶんせん門外もんがい事柄ことがらかんしてはそういう大衆たいしゅう一人ひとりだといえるでしょう。専門せんもんがきわめて精確せいかく専門せんもんてき知識ちしきもとづいて厳密げんみつ論証ろんしょうをおこなっても、専門せんもん以外いがい大衆たいしゅうにはむずかしくてついていけないわけです。
 【8】「エンドクサ」「人々ひとびと共通きょうつう見解けんかい」というのは、常識じょうしきにほかなりません。ひと自分じぶんせん門外もんがい事柄ことがらについてかんがえ、ろんじるときにりどころとなるのは常識じょうしきです。そればかりではありません。【9】専門せんもん自分じぶんせんもん事柄ことがらについてかた場合ばあいでも、専門せんもんてき知識ちしきをもたない大衆たいしゅう相手あいてにするならば、常識じょうしきつうじてでなければわかってはもらえないでしょう。常識じょうしきというのは、時代じだいによっても社会しゃかいによってもことなります。【0】たとえばむかしは「地球ちきゅう不動ふどうである」というのが常識じょうしきであったのが、いまは「地球ちきゅううごく」というのが常識じょうしきです。しかしまた、たとえば基本きほんてき人権じんけん擁護ようごというのはいまや世界せかい常識じょうしきであっても、その人権じんけん内容ないようことなるとすれば、基本きほんてき人権じんけんかんするあるくにでの常識じょうしきくにでは通用つうようしないこともあるわけです。
 常識じょうしき専門せんもんてき知識ちしきほど精確せいかくではありません。また常識じょうしきがすべて専門せんもんてき知識ちしき由来ゆらいするわけでもありません。たんにみながそうおもっているというだけの常識じょうしきもあります。しかし専門せんもんてき事柄ことがらかんする常識じょうしきというのは、専門せんもん知識ちしき専門せんもんでない大衆たいしゅうにもわかりやすく通俗つうぞくされることによって形成けいせいされるのです。そのような常識じょうしき知識ちしきたしかさをもつということができるでしょう。常識じょうしき専門せんもん大衆たいしゅう)からの、または専門せんもんけの、あるいは専門せんもんどうしの、言論げんろん基盤きばんなのです。
 常識じょうしき言論げんろんおおきな基盤きばんです。けれども上手じょうず言論げんろんというだけでなく、知恵ちえともな言論げんろんということになると、教養きょうよう基盤きばんとなるでしょう。
 教養きょうよう専門せんもんてき技術ぎじゅつ知識ちしき)と区別くべつされています。プラトンは、そのちがいをいくつかの対話たいわへんのなかで指摘してきしています。たとえば『プロタゴラス』では、ひときの先生せんせい竪琴たてごと先生せんせい体育たいいく先生せんせいからまなぶものは、いち素人しろうととしての自由じゆうじんにふさわしいものとして、教養きょうようのためにまなぶのだ、ということがわれています。医術いじゅつ彫刻ちょうこくじゅつのように、専門せんもん本職ほんしょく師匠ししょう)になるための技術ぎじゅつとしてまなぶのではないということなのです。
 教養きょうようというのは、そのみち専門せんもんになるための技術ぎじゅつ知識ちしき)としてまなばれるのではなく、いち素人しろうととしての自由じゆうじんにふさわしいものとしてまなばれるのだということが注目ちゅうもくされます。

浅野あさのならえいならひで論証ろんしょうのレトリック』による)


長文ちょうぶん 6.4しゅう
長文ちょうぶんふたつある場合ばあい読解どっかい問題もんだいよう長文ちょうぶんいち番目ばんめ長文ちょうぶんです。】
 あるなつの、ひどくむしあつのことだった。うえあに学校がっこうき、わたししたあにとだけがのこされて、退屈たいくつしていた。二人ふたりはただ目的もくてきもなく大堰おおせぎばたのほうあるいてった。大堰おおせぎばたのみずながれがまったようによどんでいて、きしには雑草ざっそうがしげり、ざしはじりじりとりつけていた。そのときあに水面すいめんちかく、ふなつけたのだった。
 ふな水温すいおんがりぎたために、くるしがって水面すいめんかび、くちをあけてあえいでいた。それが意外いがいにもひきろくひきぴき……じゅうひきぴきもいた。わたしたちは興奮こうふんした。あにながれのきしにうずくまり、手近てぢかなところにいているしょうふなこぶなをそっと両手りょうてってみた。ふなげるだけの気力きりょくもなく、だまってあにらえられた。それからが大変たいへんだった。みずからげたらさかなんでしまう。ふなみずなからえたまま、あにはどうすることもできなかった。あにかおだけをふりけて、
「おい、うちへかえってなにものってい。あきかんでもなにでもいい。大急おおいそぎだぞ」とった。
 わたし柔順じゅうじゅんおとうとだった。いつもあにたちの命令めいれいには絶対ぜったい服従ふくじゅうだった。わたしいつけにしたがっていきなりはしした。わたし自身じしんきたふなってかえりたくもあった。だが、そこからわたしいえまではひゃくメートル以上いじょうもあった。わたし日盛ひざかりの、人通ひとどおりのえたかわいたみちちいさな下駄げたらして夢中むちゅうになってはしった。あせながし、あつさにあえぎながらいえまでかえりつくと、あきかんひとつけして、またおなどうかえした。その途中とちゅうで、いしにつまずいてころび、ひざをすりむいてしまった。わたしいたみにえ、きながらはしった。それほどわたし柔順じゅうじゅんおとうとだった。そしてあにうらんでいた。川岸かわぎしまでもどってみると、あにはまだもとのところにうずくまって、いちひきしょうふなこぶな両手りょうてでつかまえていた。あにいえかえってから、(おれがったふなだ)とった。わたしはそれが不満ふまんだった。
 ふなよりも、わたしはトンボがきだった。一番いちばん大型おおがたのオニヤンマは大型おおがたという魅力みりょくはあるが、くろ黄色おうしょくのだんだらしま下品げひんだった。つかまえたことのうれしさはあるが、少年しょうねんしん陶酔とうすいにさそう「よし」がなかった。そこへいくと、ギンヤンマという、あの中型ちゅうがたのヤンマのうつくしさはわたしをうっとりさせた。わたしはほとんどヤンマを尊敬そんけいしていた。
 夕方ゆうがたになると、ときとしてわたしいえまえ道路どうろに、無数むすうのヤンマがんでくることがあった。おびただしいかずだった。ところがその時刻じこくがちょうどわたしいえ夕食ゆうしょくだった。夕飯ゆうはんべながら、わたしではない。はしすなり土間どまり、下駄げたっかけると同時どうじ竹竿たけざおをつかんです。ヤンマのれのなかで、やみくもに竹竿たけざおをふりまわすと、はねれたり、れたりしてちてくる。ときとして全身ぜんしん無傷むきずのヤンマをることがあった。これはわたしたちの宝物ほうもつだった。魚籠びくびくれて、ぬのでふたをして、ってかえる。しょう部屋へやって、ヤンマをばしてみる。そのかた優雅ゆうがさにわたし見惚みほれるのだった。

石川いしかわ達三たつぞうわたしひとりのわたし」)
 【1】一体いったい人間にんげんあたまさの特徴とくちょうとはなにか。おおくの研究けんきゅうしゃが、人間にんげん知能ちのう本質ほんしつはその社会しゃかいせいにあるとかんがえている。養老ようろう孟司たけし先生せんせいは、「教養きょうようとは他人たにんしんがわかることである」としばしばわれる。他人たにんしんつうわせ、協力きょうりょくして社会しゃかいをつくりげることが、人間にんげんあたまさの本質ほんしつである。
 【2】あたまさが社会しゃかいせいふかかかわるということを、意外いがいかんじるひともいるかもしれない。学校がっこう勉強べんきょうができるどもはなんとなくツンとましていて、あまりできないのほうがかえって他人たにんあたたかくせっすることができる。【3】一般いっぱんにはそのようなおもみがあるかもしれないが、現代げんだいのう科学かがくでは、あたまさとはすなわち他人たにんとうまくやっていけることであるとかんがえるのだ。
 他人たにんしん能力のうりょくを、専門せんもん用語ようごでは「しん理論りろん」という。コンピュータは、いくら計算けいさんはやくできたとしても、しん理論りろんたない。【4】他人たにんしんり、はじめてひとともいきいきとしたやりとりができるといった「コミュニケーション」の能力のうりょくにおいては、人間にんげんはコンピュータよりもまだまだはるかにすぐれているのである。
 人間にんげん社会しゃかいてき知性ちせいを、動物どうぶつくらべてみると、どうだろうか。【5】人間にんげん以外いがいにも、社会しゃかいをつくる動物どうぶつはいる。アリは高度こうど発達はったつした分業ぶんぎょう体制たいせいつし、さるれのなかには社会しゃかいてき地位ちいのようなものがある。しかし、これらの動物どうぶつくらべてみても、人間にんげん社会しゃかいてき知性ちせいとくすぐれていることはうたがいない。
 【6】現在げんざいまでにられている知見ちけん総合そうごうすると、厳密げんみつ意味いみ他人たにんしんることができるのは、すべての動物どうぶつなか人間にんげんだけであるとされる。「惻隠そくいんじょう」「あうんの呼吸こきゅう」「本音ほんね建前たてまえ」といった言葉ことばあらわれているように、相手あいてかんがえが身振みぶりや周囲しゅうい状況じょうきょうからは容易ようい判断はんだんできない場合ばあいでも、にはえない相手あいてしん能力のうりょく大変たいへんすぐれている。
 【7】そのような能力のうりょくは、動物どうぶつにもあるとかんがえるひともいるかもしれない。ペットをっているひとは、うちのポチ、うちのミイちゃんはわたししんがわかるのよ、と反論はんろんしたくなるかもしれない。
 いぬは、人間にんげん行動こうどうから意図いと察知さっちする能力のうりょくけている。【8】ぬし方向ほうこう自分じぶんけたり、うごきがしめすほうにはしったりといった行動こうどうは、知能ちのう発達はったつしているとされるチンパンジーよりもむしろ敏捷びんしょう反応はんのうい。
 どうして、いぬ人間にんげん意図いとれるようになったのか。【9】人類じんるい歴史れきしなかで、いぬがペットとしてわれるようになった経緯けいい明確めいかくではないが、いぬ人間にんげんがおたがいの存在そんざいを「許容きょよう」するようになったことがひとつのかぎであったとかんがえられている。
 野生やせい動物どうぶつは、おたがいにたいする警戒けいかいしんちている。【0】異種いしゅ動物どうぶつはもちろん、同種どうしゅ仲間なかまにさえ容易ようい警戒けいかいこうとはしない。わせればたたかったり、げだしたりすることが普通ふつうである。そのような状況じょうきょうでは、相手あいていにわせて自分じぶん協力きょうりょくしたり、微妙びみょうなニュアンスをったりといった認知にんち能力のうりょく発達はったつしない。
 英語えいごに「いぬ人間にんげん最良さいりょうとも」という表現ひょうげんがある。ある時期じきから、いぬ人間にんげんがおたがいの存在そんざい許容きょようし、リラックスしたままで「一緒いっしょにいること」が可能かのうになったことが、いぬ人間にんげんの「社会しゃかいてき関係かんけいせい」が発達はったつするじょう大切たいせつなきっかけとなったと、科学かがくしゃたちはかんがえているのだ。
 いぬ人間にんげんだけではない。人間にんげん同士どうし社会しゃかいてき知性ちせい進化しんかにおいても、おたがいの存在そんざいれ、共生きょうせいすることが本質ほんしつてき重要じゅうようであったとされる。
 異質いしつ他者たしゃれ、共生きょうせいすることが「あたまくなる」ことにつながる。最先端さいせんたん科学かがく理論りろんえがしたそのようなシナリオには、世知辛せちがらくなっていく現代げんだいきる人間にんげんみみかたむけるべきメッセージがひそんでいる。
 一緒いっしょ仲良なかよくいることであたまくなる。わたしたち人間にんげんは、そのようにして「万物ばんぶつ霊長れいちょう」になったのである。

茂木もき健一郎けんいちろう「それでものうはたくらむ」)