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課題集
長文ちょうぶん 7.1しゅう
 【1】つくえよこにコピーに使つかったかみんである。うらしろいところをかしてメモ用紙めもようしにしているのだ。なに用事ようじおもすと、さっとメモをとる。計算けいさん用紙ようしのかわりにもなるし、作文さくぶん構成こうせい用紙ようしのかわりにもなる。【2】りたたんで暗唱あんしょう用紙ようしのかわりにすることもできる。いちまいうすかみが、いろいろなかたちやくつ。このかみにひとまとまりの文字もじせると、文章ぶんしょうかれたかみとなる。手紙てがみやレポートは、だれかに自分じぶんかんがえをつたえる道具どうぐだ。【3】その道具どうぐをいちばんの土台どだいささえているのが、このかみとペンである。わたしは、このかみのように、さまざまな情報じょうほうせることのできる教養きょうようおおきなざらになりたい。
 そのためにはだいいちに、白紙はくしのように、なんでも素直すなおれるしんつことだ。【4】日本にっぽん昔話むかしばなしに「わらしべ長者ちょうじゃ」がある。一本いっぽんのわらにアブをつけてっていたおとこが、そのわらしべをミカンと交換こうかんする。やがて、そのミカンを反物たんもの交換こうかんし、反物たんものうま交換こうかんし、うま交換こうかんいえをもらう、というはなしだ。自分じぶん自身じしん教養きょうようたかめるためには、このようになんでも素直すなおれるしんかせない。【5】なかには、相反あいはんする意見いけん情報じょうほうおおい。それらを先入観せんにゅうかんなくめるしんひろさが必要ひつようなのだ。
 だい方法ほうほうは、ぎゃくに、素直すなおれたもののなかから、自分じぶん必要ひつようなものを選択せんたくする勇気ゆうきだ。【6】にち戦争せんそうは、日本にっぽん命運めいうんめる戦争せんそうだったが、この戦争せんそう遂行すいこうした日本にっぽんのリーダーたちが共通きょうつうしてっていたものは、困難こんなん選択せんたくえてする勇気ゆうきだった。日本にっぽんがることによってはじめてひがしアジアはロシアの支配しはいをはねのけ自立じりつすることができた。【7】また、日本にっぽん勝利しょうり世界せかい有色ゆうしょく人種じんしゅ自覚じかくうながし、その世界せかいながれをえた。なにでもれる素直すなおしんは、選択せんたく決断けつだんする勇気ゆうきわされることによってはじめて価値かちあるものとなる。
 たしかに、自分じぶん得意とくい特定とくてい専門せんもん分野ぶんやつことも必要ひつようだ。【8】それは、かみえば、自由じゆうめる白紙はくしではなくすで印刷いんさつされたかみだろう。情報じょうほう印刷いんさつされたかみには、それなりの価値かちがある。しかし、それは、その特定とくてい目的もくてき以外いがい使つかうことができない。【9】新聞紙しんぶんし場合ばあいは、印刷いんさつされていても、弁当べんとうつつ使つかうこともできるが、それは本来ほんらい用途ようととはえない。わたしたちに必要ひつようなのは、たくさんの新聞しんぶんではなく、たくさんの白紙はくしだ。つくえよこまれたメモ用紙めもようしかして、自分じぶんらしいひろ教養きょうようそだてていきたい。【0】

言葉ことばもり長文ちょうぶん作成さくせい委員いいんかい Σしぐま


長文ちょうぶん 7.2しゅう
 【1】きることはまなぶことであり、まなぶことにはよろこびがある。きることは、またなにかを創造そうぞうしていくことであり、その創造そうぞうには、まなびの段階だんかいではあじわえない、おおきなよろこびがある。【2】このことはどんなひと人生じんせいにもあてはまるが、とく学問がくもん世界せかいでは銘記めいきすべき事柄ことがらであろう。
 言葉ことばをかえて表現ひょうげんしよう。学問がくもん世界せかいにおいてはまなぶこと、創造そうぞうすることのよろこびはとりもなおさず、かんがえることのよろこびだとおもう。【3】どんな分野ぶんや学問がくもんでもなにあたらしいものを発見はっけんし、つくっていくことに本来ほんらい意義いぎがある。「発見はっけん」と「創造そうぞう」にこそ、意味いみがある。たんなる知識ちしきりは学問がくもんとはいえないし評価ひょうかあたいすることもない。【4】さまざまな知識ちしきかんがえるための資料しりょうであり、読書どくしょかんがえるためのきっかけを提供ていきょうしてくれるものである。
 そうおもえば、知識ちしきあつめることも案外あんがいたのしいことだし、読書どくしょにならない。みみき、からだかんじ、んでかんがえる。【5】かんがえたあとではいたことんだことはわすってもよいわけだ。おぼえていなければならない、わすれてはならないとおもうと、学問がくもんするまえつかれてしまい、まなぶこと自体じたい億劫おっくうになってしまう。【6】本来ほんらい学問がくもんはそんなにむずかしいことではなく、かんがえることのきな人間にんげんならだれでも学問がくもんすることができるし、そのよろこびをあじわうことができるものである。
 それにしても、そもそも創造そうぞうちからはどこからやってくるのか。【7】創造そうぞうせい背景はいけいにある重要じゅうよう条件じょうけんとはなになのか。
 まず、こんな言葉ことばがある。フランスの有名ゆうめい数学すうがくしゃポアンカレがいった、「創造そうぞうとは、マッシュルームのようなものだ」という言葉ことばである。
 マッシュルームは、キノコの一種いっしゅである。【8】キノコというと、日本人にっぽんじんわたしはすぐに松茸まつたけ連想れんそうしてしまうのだが、すなわち、その松茸まつたけのようなものが創造そうぞうだ、とポアンカレはいうのだ。
 松茸まつたけは、周知しゅうちのように地表ちひょうきんばれるをもっている。【9】このは、きわめていい条件じょうけんあたえられると次第しだい円形えんけいひろがりながら発達はったつしていく。ところが、この好条件こうじょうけんがいつまでもつづくと、だけが発達はったつしてキノコをつくらずに、ついには老化ろうかしてんでしまうのである。【0】植物しょくぶつくわしい知人ちじんはなしによると、じつひゃくねんにわたってだけが発達はったつし、枯死こしした松茸まつたけがあるらしい。
 では、どうするか。発達はったつしてきたに、ある時点じてんで、成長せいちょう妨害ぼうがいする条件じょうけんあたえられなければならないのである。その妨害ぼうがい条件じょうけんは、たとえばぶし変化へんかによる温度おんど上昇じょうしょうあるいは下降かこうといった外界がいかい条件じょうけんであったり、また、まつやにとか、酸性さんせい物質ぶっしつとかの物質ぶっしつてき条件じょうけんであったりするようだ。このような条件じょうけんあたえられると、その妨害ぼうがいにもめげずにきるために、胞子ほうしというかたち種子しゅしをつくって発達はったつつづけようとする。そうして、やがて松茸まつたけとなるのである。(中略ちゅうりゃく
 仏教ぶっきょうの「因縁いんねん」という言葉ことば創造そうぞうせいにあてはめてかんがえてみると、「よし」とは、地表ちひょう発達はったつをとげた松茸まつたけのように、ひとおやからいだり、周囲しゅうい人間にんげんからまなんだり、あるいは学校がっこう勉強べんきょうしたりしながら自分じぶんなか蓄積ちくせきしていったものではないかとわたしおもう。だが、この「よし」だけがあれば、創造そうぞうあるいは飛躍ひやくができるわけではない。「えん」となるものが必要ひつようなのである。ある時点じてんで、松茸まつたけあたえられる妨害ぼうがい条件じょうけん相当そうとうするものが、ひとがものを創造そうぞうするじょうでも必要ひつようなのである。蓄積ちくせき表出ひょうしゅつさせる条件じょうけんるのである。それが「えん」である。ただし「えん」にも種類しゅるいある。「順縁じゅんえん」と「逆縁ぎゃくえん」である。実生活じっせいかつでは、しばしば「逆縁ぎゃくえん」が表出ひょうしゅつエネルギーとなる。「逆縁ぎゃくえん」という言葉ことば一般いっぱんてき言葉ことばえると、「逆境ぎゃっきょう」という言葉ことばにあてはまるのではないだろうか。
 なか成功せいこうしたひとは、大抵たいてい逆境ぎゃっきょう自分じぶん人生じんせいにプラスにんでいく能力のうりょくをそなえているようにわたしにはえる。創造そうぞうにも、この逆境ぎゃっきょうふか関係かんけいしている、といわなければならない。

こう中平なかひらゆうひろなかへいすけきることまなぶこと」による。)


長文ちょうぶん 7.3しゅう
 【1】なにといっても、現代げんだい技術ぎじゅつ特徴とくちょうづけるのは豊富ほうふ工業こうぎょう製品せいひん氾濫はんらんであろう。すくなくとも先進せんしん工業こうぎょうこくにおいては、たか生産せいさんせいうらづけられた安価あんかこう品質ひんしつ工業こうぎょう製品せいひん容易ようい入手にゅうしゅすることができる。このことがゆたかさの象徴しょうちょうである。【2】そして途上とじょうこくにおいても、そのようなゆたかさが目標もくひょうとして設定せっていされている。
 現代げんだい技術ぎじゅつは、とりあえず人間にんげんにとって有用ゆうようでない自然しぜん資源しげん抽出ちゅうしゅつ精練せいれんし、そして加工かこうして有用ゆうようなものに変化へんかさせることをその中心ちゅうしんとしている。【3】ゆたかさは、このような生産せいさん技術ぎじゅつによってささえられる。
 ところが、このような技術ぎじゅつ問題もんだいが、最近さいきんしばしば話題わだいになる。豊富ほうふ工業こうぎょう製品せいひんをつくりすための条件じょうけんとしての資源しげんエネルギーについては、その限界げんかい指摘してきされてすでにひさしい。【4】しかも使用しようわった製品せいひん廃棄はいきについては、安全あんぜん問題もんだいなどをこしながら廃棄はいき場所ばしょ重大じゅうだい不足ふそくまねいている。【5】そしてもっと本質ほんしつてきなこととして、資源しげん廃棄はいきという、いわば工業こうぎょう製品せいひん条件じょうけんのみならず、製品せいひんそのものの使用しよう場面ばめんにおいてさえも、道路どうろ容量ようりょうたいして過剰かじょう自動車じどうしゃとか、いえなかはいらない家庭かていよう機器ききなどの問題もんだいきている。【6】しかも道路どうろ新設しんせつすくなくとも都会とかいにおいてはもはや不可能ふかのうであり、いえ広大こうだい地価ちか高騰こうとうによってのぞむべくもない。
 【7】とすれば、自然しぜん資源しげん有用ゆうよう人工じんこうぶつ変換へんかんすることによってゆたかさを達成たっせいするという、あたかも自明じめいかんがえてきた命題めいだいは、おおくの矛盾むじゅんをはらむようになってきたとわざるをない。【8】これらは、人工じんこう環境かんきょうにおける人工じんこうぶつ充填じゅうてんりつ限界げんかいであり、資源しげんエネルギーの限界げんかいであり、廃棄はいきぶつ処理しょり能力のうりょく限界げんかいである。そしてこの限界げんかいは、局所きょくしょてき現象げんしょうにとどまらずに、オゾンそう破壊はかいられるように地球ちきゅうてき規模きぼにまで拡大かくだいしている。
 【9】依然いぜんとして工業こうぎょう製品せいひん大量たいりょう供給きょうきゅうという図式ずしきたよりながら、一方いっぽうわたしたちはべつ視点してんしつつある。それは、工業こうぎょう製品せいひん使用しようするのは、それに潜在せんざいする機能きのう発現はつげんさせ享受きょうじゅすることが本当ほんとう目的もくてきであり、製品せいひん所有しょゆうすることはそのためのたんなる手段しゅだんにしかぎないという視点してんである。【0】事実じじつ、レンタルなどの方式ほうしき次第しだいひろがりつつあり、そこには製品せいひん機能きのううという形態けいたいまれつつある。
 かんがえてみれば、豊富ほうふ製品せいひん所有しょゆうしそれにかこまれてらすというのは、それ自体じたい目的もくてきでなく、それらから発現はつげんしてくる豊富ほうふ機能きのう享受きょうじゅするのが目的もくてきであるのはたりまえのことであり、その所有しょゆうとは、本来ほんらい機能きのう享受きょうじゅ目的もくてき達成たっせい可能かのうにするいち手段しゅだんぎない。とすれば、技術ぎじゅつによるゆたかな社会しゃかい実現じつげんという視点してんにおいては、このような製品せいひん所有しょゆう必然ひつぜんてきなものではない。むしろ機能きのう売買ばいばいがより本質ほんしつてきである。
 我々われわれ日常にちじょう生活せいかつにおいて、製品せいひんって所有しょゆうするかレンタルで機能きのううかの選択せんたく何気なにげなくおこなうことがおおいであろう。しかしこのことは一見いっけんその場面場面ばめんばめんでは偶発ぐうはつてきなことのようでありながら、結局けっきょく充填じゅうてんりつ限界げんかいなどの現代げんだい技術ぎじゅつ問題もんだい本質ほんしつてき影響えいきょうあたえていく重要じゅうよう視点してんである。

 吉川よしかわ弘之ひろゆき「テクノロジーの行方ゆくえ」による。


長文ちょうぶん 7.4しゅう
 むかしぼくらは、学生がくせい合宿がっしゅくしていたころ、よく上野うえの動物どうぶつえんかけていった。ちかかったし、ほかにあそびをってなかったし、さんまい銀貨ぎんかでみんなそろってあそべるので、よくいっしょにドヤドヤッとかけていった。
 しかしぼくは、全体ぜんたいとしての動物どうぶつえんをあまりすかなかった。だいいち水禽すいきんのガアガアなきたてるこえがあまり愉快ゆかいでなかった。だいひろ動物どうぶつえんにいっぱいになってるケモノのにおいがたまらなかった。それがひどくからだをつかれさせた。らくだなどことにひどかった。ぼくがみんなといっしょによくかけたのはしゅとして山猫やまねこようためだった。
 山猫やまねこめは全身ぜんしんまっくろつつまれてきんいろのをしていた。かれのしっぽはからだよりもながく、イザというときにはこんぼうのようになるにちがいない一種いっしゅ特別とくべつのふくらみをせていた。ぼくのるかぎりかれは、おりの奥行おくゆきの半分はんぶんよりまえへはいちてこなかった。いつもおくほうにすわって、けっしてひとになれることがなかった。ぼくはかれに「ごろつき」のあたえた。かれはぼくに、ごろつき、ニヒリスト、かっぱらい、海賊かいぞくとうのことばをおもさせた。
 くまはおりの金棒かなぼうにつかまって臆面おくめんもなく芸当げいとうをしてせていた。とらきんいろのしまをきらめかしておりのなかをしていた。それはちぶれた貴族きぞくのようにものあわれであったが、同時どうじちぶれた貴族きぞくのようにあさましいびをかんじさせた。獅子ししときてははなしにもならなかった。かれはすっかりしょくくらこえふとって、むかしのこともすっかりわすれはててしまい、ここでいつかかれをつかまえた人間にんげんどもから比較的ひかくてきよく待遇たいぐうされてることにいいになってしまい、その「あてがいぶち」に満足まんぞくしきっていた。鈍感どんかんになってしまったかれは、ここの動物どうぶつえんのなかでさえ自分じぶん王様おうさまかんがえてるようにえた。それはぶたにもおとるものだった。
 しかし山猫やまねこめにそんなことはなかった。
 かれはまっくろかおをしてそのきんいろのをピカピカひからせていた。おりのくらおくほうでそれはりんのようにえていた。かれはけっして人前ひとまえあるいてせたりはしなかった。こんなところへめになっていてもいつもかれのくにのことをかんがえていた。かるがるとび、し、全力ぜんりょくでかみ、おも存分ぞんぶんながすかれのくにでそれができないくらいなら、そんなところでたとえそれをすることからにく一片いっぺんひときれれることができるとしても、そんなことのまねをする必要ひつようはないとかんがえていた。とら獅子しし大蛇おろちなぞがこんなばかものになってしまったとすれば、やつらがそんなに堕落だらくしてしまったというその一事いちじのためにもがんばらなければならないとかんがえていた。かれは本能ほんのうてきにかかっていた。それでかれのおりは一種いっしゅのうすっ気味悪きみわるさでひとおそいかかった。それでひとびとはかれのおりのまえにあまりながちどまらず、なるべく黙殺もくさつする方針ほうしんをとり、てはらず識らず黙殺もくさつして、とうとうそのことに平気へいきになってしまっていた。

中野なかの重治しげはる山猫やまねこその』)


長文ちょうぶん 8.1しゅう
 【1】きもののようにほのおほのおをあげ、やがてえつきてはいになっていくかつての姿すがたには、霊的れいてき生命せいめい予感よかんさせる存在そんざいかんがあり、すべてのひとびとのしんに、おもにまつわるさまざまな感情かんじょうこしたものだったが、そんなとの対話たいわさえ、最近さいきんでは次第しだいわすれられていく。
 【2】それにわって、家庭かていなかには、電気でんきがまがま電子でんしレンジがあらわれ、石油せきゆストーブやセントラルヒーティングが普及ふきゅうし、かつてのランプのほのおほのおのまわりにひろがっていたやみのしじまはせて、いたるところに真昼まひるのような人工じんこう照明しょうめい空間くうかん出現しゅつげんしてしまったのである。
 【3】かんがえてみれば、人類じんるい歴史れきしというのは、使用しようというおどろくべき体験たいけんによってまくをあげたと同時どうじに、じつは、いかにしてその原初げんしょなずけ、制御せいぎょ可能かのうなものにするかという挑戦ちょうせん歴史れきしであったといえるのかもしれない。
 【4】さむさにこごえ、えと動物どうぶつからの襲撃しゅうげきにさらされて、四六時中しろくじちゅうやすまることのなかった人類じんるいが、はじめてなずけることのできたときの感動かんどうは、想像そうぞうにあまるものだったろうが、それと同時どうじに、その油断ゆだんをすればたちまちえてしまうか、反対はんたい自分じぶんたちをほろぼしてしまいかねないおそるべき存在そんざいであったのだ。【5】いわば、かみ悪魔あくまねそなえたような、そんなを、いつでもきなとき、きな場所ばしょで、きな目的もくてきのために使つかえるように制御せいぎょ可能かのうなものにするために、人類じんるい格闘かくとうし、まなび、燃焼ねんしょう制御せいぎょするさまざまな知恵ちえ発明はつめいしてきたのだといえる。
 【6】もともとそなわっていたねつひかり属性ぞくせいを、それぞれ目的もくてきべつ機能きのうべつ解体かいたいし、それにおうじて燃焼ねんしょう素材そざい方式ほうしき多様たよう分化ぶんかさせることで、原初げんしょのもつカリスマせい骨抜ほねぬきにし、【7】いまや人畜じんちく無害むがいで、ポケットにれてはこべるミクロの「」から、スイッチひとつでせる「アラジンのランプ」まで、無数むすう人工じんこうてき代替だいたいぶつをつくりしてしまったのである。
 【8】皮肉ひにくなことに、かつての独裁どくさいしゃてきかみは、いまではすっかりおとなしくなり、たくましくほのおほのおをあげてえる原初げんしょれる機会きかいすくなくなったかわりに、機能きのう代替だいたいぶつは、正体しょうたいのはっきりしないブラックボックスとして、生活せいかつ隅々すみずみにまで侵入しんにゅうしはじめている。
 【9】それはポケットのなかのライターのような貧弱ひんじゃくなものばかりではない。都市としなかじゅうから個々ここ住宅じゅうたくまで、ツリー構造こうぞうでのびたパイプや針金はりがねのネットワークにそってながれる都市としガスや電気でんきなどのの「もと」で、そのえないのネットワークは、かつての原初げんしょおよばぬほどの強烈きょうれつ潜在せんざいエネルギーをめて、現代げんだいじん生活せいかつ環境かんきょういてしまっているのである。【0】
 かつての原初げんしょは、個人こじんのレベルでって対処たいしょすることができたが、このように社会しゃかいされてしまった現在げんざいは、とき個人こじんらぬところで暴発ぼうはつする。ネットワークの規模きぼおおきくなるほどその供給きょうきゅうげん末端まったんあいだ階層かいそうてき距離きょりひろがって、やがて個人こじんえないものになる。こうして、いまやねつ機能きのうとしての現代げんだいの「」は、一方いっぽうではいならされた柔順じゅうじゅんなしもべであると同時どうじに、他方たほうではいつどこで暴走ぼうそうするかしれない不気味ぶきみなダモクレスのけんしてしまっているのである。

坂根さかねいわおおっとさかねいつお科学かがく芸術げいじゅつあいだ」より。)


長文ちょうぶん 8.2しゅう
 【1】最近さいきん料理りょうり趣味しゅみとするひとえたが、初心者しょしんしゃとプロとでひとおおきくちがっていることがある。初心者しょしんしゃ場合ばあいほん自分じぶんのレパートリーのなかから、まず自分じぶんのつくりたいものをめ、必要ひつよう材料ざいりょういにゆく。【2】材料ざいりょうなかひとつでもはいらないものがあれば、どこまでもさがしにゆく。これにたいしてプロの料理人りょうりにんは、まず市場いちばをのぞきにゆくという。そしてその入荷にゅうかした材料ざいりょうなかからくて豊富ほうふしゅんのものをつけると、それを中心ちゅうしんにしてかす料理りょうり設計せっけいがそれからはじまる。
 【3】初心者しょしんしゃ場合ばあい技術ぎじゅつからの発想はっそうである。最初さいしょ手持てもちの技術ぎじゅつ設計せっけいがあり、それに必要ひつよう資源しげんもとめる。これにたいして、プロのほうは、資源しげんからの発想はっそうというべきであろう。【4】最終さいしゅう目標もくひょうについてのおおまかなイメージはあろうが、設計せっけいはじめからきまっているわけではない。まずれられる、資源しげん前提ぜんていにして、それを活用かつようするための技術ぎじゅつがそれからまるのである。
 【5】資源しげんからの発想はっそう可能かのうなためには、レパートリーがひろく、しかも自由じゆうにそれを応用おうよう能力のうりょく必要ひつようである。だが結果けっかてきにはその時期じきごとにもっと材料ざいりょうやすいものをつくることができる。
 【6】これまでの近代きんだい産業さんぎょう技術ぎじゅつは、つねに技術ぎじゅつからの発想はっそうだったといえる。技術ぎじゅつ開発かいはつも、はじめに既存きそん技術ぎじゅつがあり、それをいかに修正しゅうせいするかの問題もんだいであった。設計せっけいさきにあり、それに必要ひつよう資源しげん世界中せかいじゅうからはこんできた。【7】石炭せきたん豊富ほうふなところではじまった技術ぎじゅつまった石炭せきたんのないところへ導入どうにゅうされることもしばしばられることであった。地元じもと資源しげんがあってもそれが既存きそん技術ぎじゅつわなければ一切いっさいかえりみられず、ひたすら既存きそん技術ぎじゅつてきする資源しげんいもとめてきたのである。
 【8】その結果けっか石油せきゆやウランなど地域ちいきてき偏在へんざいのはげしい資源しげんへの過度かど依存いぞんこり、それをめぐって各国かっこくがしのぎをけずり、国際こくさいてき政情せいじょう変化へんかいちこく経済けいざい基盤きばんうごかされるようになったことは、いまのエネルギー問題もんだい雄弁ゆうべん物語ものがたっている。【9】そしていま有力ゆうりょく代替だいたい資源しげん見当みあたらないまま、石油せきゆ資源しげん枯渇こかつえはじめている。
 だが資源しげん本当ほんとうにないのだろうか?
 エネルギー資源しげんにせよ、鉱物こうぶつ資源しげんにせよ、最近さいきんさわがしくいわれるみず資源しげんにせよ、よくかんがえてみると我々われわれのまわりにはかなり豊富ほうふにある。【0】ないのはそれを活用かつようする技術ぎじゅつであり、なによりもそこにける資源しげんからの発想はっそうであった。
 近代きんだい文明ぶんめいは、技術ぎじゅつからの発想はっそうってこれまで目覚めざましい発展はってんをとげてきた。手引てびしょとおりやりさえすればはじめてのひとでも一応いちおう製品せいひんがつくれるからである。日本にっぽんはまさにその優等生ゆうとうせいであった。だがそれは所詮しょせん初心者しょしんしゃ料理りょうりにすぎなかったのではあるまいか? そしていま、その基本きほんてき材料ざいりょう不足ふそくおとげている……。
 今日きょう人類じんるい直面ちょくめんしている危機ききえ、あたらしい文明ぶんめいへのみちひらくためには、発想はっそういちはち転換てんかんして、技術ぎじゅつからではなく、資源しげんからの発想はっそうるかどうかがかぎとなることであろう。


長文ちょうぶん 8.3しゅう
 【1】文章ぶんしょうんでいて、いっていることが全面ぜんめんてき肯定こうていされるのではない、また、当面とうめん必要ひつようなことでもないけれども、じっとしていられないような興奮こうふんおぼえることがあって、そういうとき、「刺激しげきてき」という形容詞けいようし使つかわれる。【2】「刺激しげきてき」とはどういうことか。
 かりに、ほん円周えんしゅうのようなものだとかんがえてみる。読者どくしゃはゆっくりそのえんってはしす。だんだん速度そくどくわわってくると、はじめのようにえんそくしているのが困難こんなんになり、カーヴではそとそうとするかもしれない。
 【3】「刺激しげきてき」とは、そういうカーヴをたくさんもったほんということになろう。
 読者どくしゃ予期よきするようなところへ展開てんかいするなら、快感かいかんはあっても、刺激しげきはすくない。【4】ぎゃくに、読者どくしゃ意表いひょうをつくようなことがつぎつぎあらわれると、読者どくしゃはその都度つど、タンジェントの方向ほうこうそうとして、そこに緊張きんちょうをかもしす。それが刺激しげきてきかんじられる。
 脱線だっせんしかけるときに創造そうぞうのエネルギーがまれる。【5】直線ちょくせんレールのうえしずかにおとなしくはしっていれば脱線だっせん危険きけんもないかわり、軌道きどうそとたくてもられない。無理むりなカーヴをおおきなスピードではしけようとすれば脱線だっせんするかもしれないが、そこに、あたらしいみちのできるチャンスもある。【6】安全あんぜん軌道きどうえらぶか、危険きけんなカーヴのおおみちえらぶかはこのみにもよるが、発見はっけん便利べんりなのは脱線だっせん可能かのうせいおおきなルートをはしることである。
 かりにおおきなカーヴがあってもスピードがなければ脱線だっせんしない。【7】安全あんぜん運転うんてんだけを目標もくひょうとするのなら、脱線だっせんしないのはよろこぶべきことだが、あたらしいみちをつくるには、軌道きどううえだけはしっていたのでははなしにならない。無理むりなカーヴなら脱線だっせんして、より合理ごうりてき近道ちかみち発見はっけんすることができるはずである。【8】脱線だっせんするにはスピードをしている必要ひつようがある。これは自動車じどうしゃ運転うんてんとはちがう。
 ころがってんだときに、たいへんおもしろいとおもったから、ひとつ本腰ほんごしれてんでなにかまとめてみようか、などとかんがえてつくえかってむとさっぱりおもしろくなくなってしまう。【9】そういう経験けいけんはすくなくない。やはり、速度そくど関係かんけいしているようにおもわれる。さっとんだときは、適当てきとう脱線だっせんして、勝手かってなことを想像そうぞうしながらむ。ところどころで自分じぶんかんがえを触発しょくはつされる。それが「おもしろい」という印象いんしょうになっている。【0】ていねいにめばいっそうおもしろくなるようにかんがえるのは誤解ごかいで、スピードにともなうスリルがえると、さっぱり刺激しげきてきでなくなってしまうのである。(中略ちゅうりゃく
 おおきなしたにはくさそだたない、という。大木たいぼくはすばらしい。らば大樹たいじゅのかげ、という言葉ことばもあるくらいである。ちかづきたいとおもうのは人情にんじょうであろう。すぐれたほん大木たいぼくのようなところがある。そのしたってはあしないで、ただ、大著たいちょ名著めいちょであることを賛嘆さんたんするにとどまる。大木たいぼくとおくからあおるべきものとおもって、はやくそのもとからはなれる必要ひつようがある。
 これはほんだけではなく、すぐれた指導しどうしゃについてもいいうる。すぐれた影響えいきょうりょくをもっているてんにのみ着目ちゃくもくしていると、そのために個性こせいうしなった人間にんげんそだ危険きけん見落みおとしがちになる。亜流ありゅうになりたくなかったら、敬遠けいえんして影響えいきょうける必要ひつようがある。それを勘違かんちがいして、すぐれた先生せんせいにはなるべくちかづきたいという気持きもちにひかれて、せっかくの薫陶くんとうだいなしにしてしまうことが、いかにしばしばこっていることであろうか。すぐれた師匠ししょう門下もんかにかならずしも偉才いさい傑物けつぶつばかりが輩出はいしゅつするとはかぎらないのは、大木たいぼくえだしたどくされてびるべきものまでびないでしまうからであろう。だいいち、門下もんかという言葉ことばからして感心かんしんしない。こころある門弟もんていはあえて門外もんがい勇気ゆうきがいる。
 圧倒あっとうされそうな影響えいきょうをもっているものには不用意ふよういちかづかないことである。ちかづいてもながくいすぎてはいけない。

外山とやまとやましげるいにしえしげひこ知的ちてき創造そうぞうのヒント」による。)


長文ちょうぶん 8.4しゅう
 島崎しまざき藤村とうそんことかんがえると、わたしあたまかんでるのは、「夜明よあまえ」の出版しゅっぱん祝賀しゅくがかい席上せきじょうで、諸家しょか祝賀しゅくが言葉ことばたいしてこたえた挨拶あいさつべた態度たいどである。
 人々ひとびとのテーブルスピーチがわると、藤村ふじむらとうそん感慨かんがいふけんだような、そのためにすこしぼんやりしたようなかおかおつきしずかにがり、しばらくうつむき加減かげんだまってたたずんでいたが、やがてかおをもたげ、ふとまゆをきりりとげて、そしてゆっくりした口調くちょうでこういったのである。
「わたしはみなさんがもっとほんとうのことをいってくださるとおもっていましたが、どなたもほんとうのことはいってくださらない……」
 そのまままたせてしばらだまってしまった。人々ひとびと粛然しゅくぜんしずまりかえった。
 実際じっさい諸家しょか言葉ことば月並つきなみでないことはなかったが、由来ゆらいこういう出版しゅっぱん記念きねんかいなどにいわれる言葉ことばは、普通ふつう作者さくしゃたいする祝賀しゅくが言葉ことばかねぎらいの言葉ことばかであるのがれいなので、そういうものとして無神経むしんけいながしてしまえば、別段べつだんとがめてしなければならないものでもなかったようにおもわれる。しかしそれをほんとうにき、そのなかから自分じぶん努力どりょくたいする忌憚きたんなき批評ひひょうをほんとうにさぐろうというになれば、諸家しょか言葉ことばあまりに形式けいしきてきである、月並つきなみなお世辞せじであったということが、藤村ふじむらとうそんしんさびしくしたとしても、これまた無理むりではないかもれないというがする。
 それは藤村ふじむらとうそんりゅうしずかないいかたではあったが、何処どこかにぴしりとひとつようなつらいものをふくんでいた。月並つきなみなお世辞せじたいする苦笑くしょうちた抗議こうぎっていた。それだから突然とつぜんしかられたといったかんじがだまんだ人々ひとびとかおあらわれたわけである。実際じっさいしかられてれば、もっとものはなしである。しかられなかったらしかられなくてもいようなことだけれども、しかられてるとその理由りゆうがないことはないので、きゅう人々ひとびとえりわせてすわなおさなければならなくなったとったかんじであった。
 藤村ふじむらとうそんしばらだまったのちで、ふたたがおをもたげ、ふとまゆふたたびきりりとしずんだ調子ちょうし言葉ことばいだ。
大体だいたいわたしという人間にんげんは、ひと窮屈きゅうくつかんじをあたえるのですか、ちかづきがたいようなかんじをあたえるのですか、だれもわたしにちかづいてほんとうのことってはくれません……じつけっしてそうではなく、わたしはひとちかづきたいのですけれど……」(中略ちゅうりゃく
 はそこで語調ごちょうえて、人々ひとびとほうまわし、こう結語けつごとしていった。
今夜こんやのように盛大せいだいにわたしのためにみなさんにあつまっていただこうとは、わたしにはまったおもいがけないことでした。わたしはわたしのためにみなさんにあつまっていただいたことがわたしの生涯しょうがいにもう一度いちどありました。それはわたしが洋行ようこうしたときことです。わたしはまえ新橋しんばし停車場ていしゃじょうからってきましたが、田山たやまくん柳田やなぎだくん途中とちゅうまでおくってくれるといって、一緒いっしょ汽車きしゃんでました。そのとき柳田やなぎだくんがわたしにかってこんなごとをいったのです。『人間にんげんがこうして自分じぶんのために沢山たくさんひとあつまってもらうのは、まあ洋行ようこうするときぐらいのものだね。それともうひとつある。それはその人間にんげん葬式そうしきときさ』と。……わたしは今夜こんやみなさんがこうしてあつまってくださったことを、わたしにたいする文壇ぶんだん告別こくべつしきだとおもっています」
 みぎ藤村ふじむらとうそん挨拶あいさつは、そのときいまわたしあたま相当そうとうつよ印象いんしょうのこしている。わたしはたゆまずに一歩一歩いっぽいっぽと、意志いしてき自分じぶんむちうちつつ、とうとうきたいものをみんないてしまったというつよ自信じしんったひとでなければ、そういう言葉ことばはいわれないとおもった。きたいものをみんないてしまったと、しずかにれる作家さっかまえたということは、わたしにはまったいち驚異きょういであった。わたしはそのことふか感動かんどうけ、しばらくはその感動かんどうのために、自分じぶん圧迫あっぱくされるのをかんじたほどである。

広津ひろつ和郎かずお藤村ふじむらとうそんおぼき』)


長文ちょうぶん 9.1しゅう
 【1】映画えいが地球交響曲ちきゅうこうきょうきょく」のシナリオハンティングのため、フィンランド北部ほくぶラップランドのもりあるいた。ラップランドはすでに北極圏ほっきょくけんはいっている地域ちいきで、ふゆゆきこおり暗闇くらやみ世界せかいになる。【2】そのぶんなつせい反対はんたい世界せかいとなり、ラップランドのもりは、このなつのわずかすうげつあいだに、あらゆる草木くさき一気いっき芽吹めぶき、花開はなひらき、えるようなみどりつつまれる。【3】ラップランドのなつもりは、まさにすべての生命せいめいによってかなでられる地球交響曲ちきゅうこうきょうきょくのコンサート会場かいじょうといった雰囲気ふんいきであった。しかし、ラップランドのもりは、じつは、エアコンのいた都会とかいのコンサートホールではなく、しん野性やせいたもたれているだい自然しぜんである。【4】撮影さつえい目的もくてきとしてだい自然しぜんなかときわたしはいつもふたつの矛盾むじゅんした世界せかいうえたされることになる。わたしだい自然しぜんなかでシンフォニーをともにかなでる演奏えんそうしゃのひとりとなるのか、それともそのシンフォニーにみみかたむける観客かんきゃくのひとりなのか。
 【5】ラップランドのなつもりいちあしれると、まず最初さいしょ出迎でむかえてくれるのは、うつくしい若葉わかばみどりでもなく、いろあざやかな草花くさばなでもなく、じつはおびただしいかずやブヨの大群たいぐんなのだ。【6】しかもそのかずとしつこさは都会とかい生活せいかつれたわたしたちの想像そうぞうぜっするものがある。写真しゃしん風景ふうけいうつくしさにひかれてこのもりにやって都会とかいからの旅人たびびとたちは、まずこの洗礼せんれいけることになる。
 【7】だからもりはい旅人たびびと長袖ながそでちょうズボン、そしてよけ帽子ぼうしをかぶるのが鉄則てっそくとなる。ところが、わたし立場たちばはそうはいかない。まずだいいちに、よけ帽子ぼうしをかぶっていたのでは撮影さつえいができない。【8】そしてなによりも、このようないわばバリヤーを自分じぶんのからだの周囲しゅういきずいてしまうことは、もり対話たいわするもっと重要じゅうよう回路かいろみずかじてしまうことになるからだ。
 もり本当ほんとううつくしさは、嗅覚きゅうかく聴覚ちょうかく触覚しょっかくなど五感ごかんのすべてが解放かいほうされてこそはじめてえてくる。【9】五感ごかんのすべてを解放かいほうし、全身ぜんしんもり対話たいわしたときはじめてもりわたしれてくれる。
 多様たよう木々きぎ草花くさばなむしたち、動物どうぶつたち、ふうにおい、ひかりなどすべてがふかかかわりってひとつのおおきな生命せいめいたいとしてきているもり。【0】もりのすべての生命せいめいがそれぞれの役割やくわりをにないながら、ともにひとつの生命せいめいのシンフォニーをかなでている。そこには安全あんぜん隔離かくりされた観客かんきゃくせきはない。もしもりかなでるシンフォニーをきたいなら、どうしてもそのもり一員いちいんとして、すみっこにでもくわえてもらわなければならない。
 ラップランドのもりなつみじかい。たちはこのみじかなつあいだに、必死ひっしきて子孫しそんのこそうとしている。なつもり侵入しんにゅうしてきたわたし肉体にくたいからいとろうとするのはもり自然しぜん摂理せつりそのものなのだ。わたしかんじるかゆさもまたもりかなでるシンフォニーの楽音がくおんひとつなのかもしれない。そうおもうと、されたときのかゆさはわらないにしても、そのことにこころみだされることからはすこ解放かいほうされるようながした。ふうにおいやおと感覚かんかくぎすます余裕よゆうまれた。

りゅうむらひとしたつむらじんちょ地球ちきゅうのささやき」による。)


長文ちょうぶん 9.2しゅう
 【1】トンボ王国おうこくは、いうなればトンボとしたしむためのカタログです。自然しぜん保護ほごである以上いじょうに、博物館はくぶつかんやトンボまわることで、トンボやトンボを環境かんきょうたのしくかかわるための知識ちしきにつける場所ばしょとして、活用かつようすべきだとかんがえています。【2】ただ、すべてのひとびとが、トンボやその環境かんきょうるだけで、トンボたちの魅力みりょくすべてをくすともおもえません。
 やはり、直接的ちょくせつてきかかわり、たとえば、子供こどもたちにはズバリ、トンボりも体験たいけんさせるべきだとかんがえています。【3】その理由りゆうは、トンボそのものが、ある年齢ねんれい子供こどもたちにとって「かけがえのない」の対象たいしょうだとかんがえているからです。【4】つまり、ひとうつくしいせっしたとき模造もぞうひんでも所有しょゆうしたいとおもい、あるいはうつくしい音楽おんがくせっすれば、そのCDがほしくなったり、演奏えんそうしてみたくなったりするように、「うつくしいもの」を自分じぶんのモノにしたいということは、もっとも人間にんげんらしい欲望よくぼうともいえるのではないでしょうか。【5】そして、子供こども欲望よくぼうは、大人おとなたちのそれとはちがって、対象たいしょう稀少きしょう価値かちがあるからというのでもないのです。
 ともかく、子供こどもたちがそのような理由りゆうからトンボりをはじめたとき、むげに禁止きんしすることは、たのしいはずの身近みぢか自然しぜんぎゃくに、つまらない退屈たいくつなものとかんじさせはしないかとあんじてしまうのです。【6】子供こどもたちがトンボと同格どうかく立場たちば勝負しょうぶきそい、そしてあやまちとして殺生せっしょうをしたとしても、周囲しゅうい大人おとなたちのアフターケアさえよければ、りっぱな情操じょうそう教育きょういくになると確信かくしんしています。
 【7】たしかに、いま子供こどもたちにむしりをさせてみると、やたらかずばかりきそ傾向けいこうみとめられます。しかし、これは、子供こどもあそびにかかわる文化ぶんか退廃たいはいしているからにほかなりません。【8】すくなくとも、わたしたちが子供こどもころには、シオカラよりもあかトンボ(ショウジョウトンボ)、あかトンボよりもギンヤンマ、おなじギンヤンマでも採集さいしゅう方法ほうほうによって価値かちことなるという、暗黙あんもくのルールがありました。
 【9】とはいえ、現在げんざい日本にっぽんでは、いかにルール(保護ほご区内くないではあみらない、繁殖はんしょくまえのトンボはらないなど)をまもったとしても、大勢おおぜい子供こどもたちがトンボりにきょうじられるような環境かんきょうはほとんどのこされていません。【0】ただ、トンボ王国おうこくのまわり、四万十川しまんとがわしまんとがわ流域りゅういきにはまだそのような環境かんきょうのこっているのです。トンボ王国おうこくゆめ、それは、池田谷いけだたにのトンボ王国おうこくかくとして、その周辺しゅうへんひろがるあたりまえの自然しぜん環境かんきょうのいくつかを、体験たいけんゾーンとして整備せいび活用かつようすることです。そのなかでおおくのひとたち、とく将来しょうらいのある子供こどもたちに、トンボのめる環境かんきょうがほんとうにすばらしいものだとかんじさせることができたなら、その子供こどもたちが大人おとなになったとき日本にっぽんちゅうおおくの子供こどもたちがトンボりにきょうじられる水辺みずべ再生さいせいされるにちがいありません。

杉村すぎむら光俊みつとし一井いちい弘行ひろゆき「トンボ王国おうこくへようこそ」より)


長文ちょうぶん 9.3しゅう
 【1】このところ日本にっぽんでは園芸えんげいだいはやりであるが、花木はなき草花くさばな名称めいしょう大変たいへんいきおいで外来がいらいえられている。旧来きゅうらい日本にっぽんはなうつくしく風雅ふうがなものがほとんどであるのに、たとえば彼岸花ひがんばなるいはリコリス、胡蝶こちょうらんはファレノリプシスといった具合ぐあいに、としごとにいいかえのかずえていく。
 【2】もともと気候きこう風土ふうど関係かんけいで、日本にっぽん植物しょくぶつ種類しゅるい豊富ほうふさにかけてはヨーロッパのどのくによりもめぐまれていた。【3】そのうえ、ふるくから古代こだい中国ちゅうごく影響えいきょう本草学ほんぞうがくほんそうがく発達はったつし、また江戸えど時代じだい園芸えんげい興隆こうりゅう茶道さどう普及ふきゅうなどのおかげで、日本にっぽん草花くさばな英語えいごなどにくらべると、それこそ比較ひかくにならぬぐらい、あじのある巧妙こうみょうなものがおおかった。
 【4】これにはんし、花木はなき草花くさばな決定的けっていてきすくなかった英国えいこくでは、当然とうぜん結果けっかとして固有こゆう植物しょくぶつめいとぼしく、したがってあらたに植物しょくぶつをつけるときは、学問がくもんてきなギリシャラテン語らてんごたよらざるをない。【5】そのむずかしい英語えいごめい日本人にっぽんじん外来がいらいとしてれた結果けっかいちいたのではおぼえることもできない、まぎらわしくいにくい名前なまえが、花屋はなや店頭てんとうやテレビ園芸えんげい時間じかんなどに、つぎからつぎへとあらわれてくることになった。
 【6】四季咲しきざきとえばだれでもかるのにセンペルフロレンスとなると、ラテン語らてんご知識ちしきのあるひとなら問題もんだいがないが、一般いっぱんひとこと園芸えんげい愛好あいこう高齢こうれいひとには、なにやら呪文じゅもんめいてまさしく発音はつおんすることもむずかしい。【7】風車かざぐるまえばはなかたちをうまくとらえた巧妙こうみょう感心かんしんできるしおぼえやすくもあるのに、クレマチスではなん見当けんとうもつかない。彼岸花ひがんばなならば、はなぶしとの関係かんけいでだれにでもかりやすいのに、それをどうしてえる必要ひつようがあるのだろうか。
 【8】このような現象げんしょう背後はいごに、えずあたらしさをもとつづける日本人にっぽんじん積極せっきょくせいみとめるひとがいるかもしれない。わたしもその精神せいしん評価ひょうかすべきだとおもうが、それにしても、このような意味いみ不明ふめいのなぞめいた外来がいらいで、ほとんど芸術げいじゅつてきとさええるうつくしくたくみに工夫くふうされた従来じゅうらい和名わみょうえて、いったいだれがとくをするとうのだろうか。【9】新奇しんきさをもとめるしん一概いちがいわるいとはえないが、この園芸えんげい分野ぶんやられるような、ぎた外来がいらい流行りゅうこうはやめてほしいとおもう。「バラのはなはどんなぼうとわりなくにおう。」というシェイクスピアのロミオの言葉ことばを、日本人にっぽんじんあらためておもこす必要ひつようがある。【0】

鈴木すずき孝夫たかお教養きょうようとしての言語げんごがく」による)


長文ちょうぶん 9.4しゅう
 ちかごろは、ロンドンにいる、あるいはイギリスにいる日本人にっぽんじんはかえって英語えいご使つかわなくなったのではないか。日本にっぽんから同日どうじつ配達はいたつされる日本経済新聞にほんけいざいしんぶん朝日新聞あさひしんぶんみ、衛星えいせい放送ほうそう日本にっぽんのテレビをる。そうすれば英語えいごなど使つかわなくていいのである。そういうかんがかたひとがふえているのではないだろうか。
 こういう生活せいかつをして、本人ほんにんたちはたいへん気楽きらくなつもりでいるが、イギリスのがわからいわせると、こういう日本人にっぽんじんはイギリスにていったいなにをしているんだろう、となる。お金儲かねもう以外いがいなにもしていないのではないか。イギリスじんをわかろうともしないし、イギリス社会しゃかいについてろうともしないじゃないかと。
 こうして、イギリスじんむねなかにひそんでいる時間じかんはしだいにふくらんでくることは間違まちがいない。かれらはこんなふうにおもうのだ。――日本人にっぽんじんはイギリスにて、したい放題ほうだいのことをしている。おかね使つかってくれるし、企業きぎょう進出しんしゅつしてくれるかもしれないが、実際じっさいにやっていることはマナーもないし、イギリスじん敬意けいいはらおうともしない。自分じぶんたちだけできなことをやって、ここがまるで自分じぶんたちの治外法権ちがいほうけん場所ばしょみたいなかおをしている。いまわか日本人にっぽんじんがますますそういう傾向けいこうになっていくとしたら、将来しょうらいはかなり心配しんぱいである。にちえい関係かんけいにかならず悪影響あくえいきょうおよぼすのではないか――。
 いうまでもないことだが、イギリスにいる日本人にっぽんじんのすべて、日本にっぽんのビジネスマンのすべてがそうだということではない。とく企業きぎょうじんからも尊敬そんけいされ、おおやけ場所ばしょ意見いけんもいうし、イギリス政府せいふにたいしてアドバイスもする。
 こうした日本にっぽん企業きぎょうじんとイギリス企業きぎょうじんとのおおきなちがいは、日本にっぽん企業きぎょうのトップは、ビジネスができるだけでなく、教養きょうようがあるというてんである。かれらは文学ぶんがく芸術げいじゅつのこともはなせるし、実際じっさい、そういうことに興味きょうみをもっている。イギリスのビジネスマンは、サッチャーさんの高等こうとう教育きょういく拡大かくだい方針ほうしんにもかかわらず、お金儲かねもうけはできるし、マネジメントのざいもあるが、じつは教養きょうよう文化ぶんかにかかわりのないひとおおいのである。おかねがたまったらそれをって外国がいこくようとか、ホリデーをたっぷりとろうとかいうことばかりかんがえていて、自分じぶん教養きょうようふかめるということはしないし、ほんむこともしない。
 そういうビジネスマンがおおいイギリスで、日本にっぽんのトップクラスのビジネスマンは、ほんんでいるとか芸術げいじゅつのこともわかるとか、とてもすばらしいとおもわれている。もちろんイギリスにもそういうひともいるが、マナーもすばらしいし、英語えいごもきちんとはなせる、いわば世界せかいレベルの日本にっぽんのビジネスマンがふえていることもまたたしかなのである。
 そうしたトップクラスのビジネスマンと、日本にっぽんからやってきたとたんに、日本にっぽんにはおかねがあって、イギリスからならうものはなにもないと、まるで植民しょくみんにでもたように威張いばってみせるわかひとたちとのがひじょうに拡大かくだいしてきているのではないか。
 ながいあいだイギリスにいて、日本にっぽん企業きぎょう地位ちいたかめるのに努力どりょくしてきた日本にっぽんのトップクラスのビジネスマンの苦労くろうは、日本にっぽん経済けいざいてき世界せかいおおきな地位ちいめるようになってからまれたわかひとたちのかるはずみな言動げんどうやバカげた行為こういによってくつがえされてしまうのではないか――そんなことが危惧きぐされるようになってきたのが当節とうせつのイギリスなのである。

(マークス寿子ひさこ大人おとなくにイギリスとどものくに日本にっぽん』)