(Translated by https://www.hiragana.jp/)
課題集
長文ちょうぶん 4.1しゅう
長文ちょうぶんふたつある場合ばあい音読おんどく練習れんしゅうはどちらかひとつで。】
 【1】みどりゆたかな草原そうげんに、シカやウサギと一緒いっしょ人間にんげんおだやかにたたずんでいる。そらには小鳥ことりい、あたたかく周囲しゅういらしている。なにかのパンフレットで天国てんごく光景こうけいは、このようなものだった。【2】そのとき、わたしはふと天国てんごくというのは意外いがい退屈たいくつなところかもしれないとおもった。わたしたちのえが未来みらい社会しゃかいは、なん矛盾むじゅんもない平和へいわなかではない。もっと溌剌はつらつと、きるエネルギーにあふれたものであるべきだ。【3】それを、わたし自由じゆう自己じこ実現じつげん可能かのう社会しゃかいびたいとおもう。
 個人こじん自由じゆう自己じこ実現じつげんはかるための条件じょうけんとして、戦争せんそう暴力ぼうりょくのない平和へいわ社会しゃかいはもちろん必要ひつようだ。だが、ここでは、もっと重要じゅうよう条件じょうけんとしてふたつのことをげたい。【4】そのだいいちは、ゆたかさだ。これまでの社会しゃかいゆたかさは、おもうばゆたかさからっていたようにおもう。やす仕入しいれてたかるというかんがかたもとづいたゆたかさは、よりやす仕入しいれ、よりたかるために、ライバルを蹴落けおとすというかんがえにもむすびついていた。【5】競争きょうそうによって社会しゃかいゆたかになるというかんがえに、わたしたちはながあいだらされてきた。しかし、自然しぜんかいられるゆたかさはこれとは反対はんたいのものだ。それは、いわば、それぞれのもの個性こせいかしてつくしたゆたかさをかちうということでっている。【6】人間にんげん社会しゃかいも、このかちゆたかさの仕組しくみをかすことができるはずだ。
 個人こじん自由じゆう自己じこ実現じつげんはかるための条件じょうけんだいは、自分じぶん自身じしん目標もくひょうつけるための教育きょういくだ。【7】これまでの教育きょういくは、わばあたえられた一本いっぽんどう序列じょれつをつけるための教育きょういくだった。そこで優先ゆうせんされたのは、個人こじん目標もくひょうよりも、社会しゃかい目標もくひょうわせることだった。まなびたいものよりも、まなぶべきものが優先ゆうせんされる教育きょういくでは、まな意欲いよくはわきにくい。【8】しかも、そのまなぶべきもののおおくは、なにかのやくつというよりも点数てんすうをつけるためにやくつということでまなばされてきたのではないか。これからの社会しゃかいでは、一人ひとりひとりが各人かくじん適性てきせいにあった教育きょういくみずかえらぶことができるようになる必要ひつようがある。それは、もちろん適性てきせい格差かくさむすびつかない社会しゃかい前提ぜんていにしている。
 【9】「カゴにひと、かつぐじん、そのまたワラジをつくひと」という言葉ことばがある。社会しゃかいは、さまざまなひと分業ぶんぎょうによってっている。その分業ぶんぎょう社会しゃかいゆたかさにむすびつくためには、カゴにひと、かつぐじん、そのまたワラジをつくひとそれぞれが自分じぶん希望きぼうでその仕事しごとにつくと同時どうじに、それぞれの仕事しごと待遇たいぐうめんでの格差かくさがないことが必要ひつようだ。【0】これからの社会しゃかいでは、個人こじん幸福こうふく社会しゃかい全体ぜんたい幸福こうふくきにしてはありえない。自由じゆう情報じょうほう社会しゃかいでは、すべてのひと納得なっとくする仕組しくみでなければ、安定あんていした社会しゃかいつくれないからだ。未来みらい社会しゃかいは、天国てんごくのような外見がいけんおだやかさのなかにあるのではない。社会しゃかい構成こうせいする一人ひとりひとりがきがいをってきることのなかにある。天国てんごくつくすのは、シカやウサギもふくめたすべての構成こうせいいん日々ひびきとした生活せいかつなのだ。

言葉ことばもり長文ちょうぶん作成さくせい委員いいんかい Σしぐま
 【1】田中たなか美知太郎みちたろうさんがプラトンのこといていたのを、いつかんで大変たいへん面白おもしろいとおもったことがありますが、プラトンは書物しょもつというものをはっきり軽蔑けいべつしていたそうです。【2】かれかんがえによれば、書物しょもつなんけてみたって、おな言葉ことばいてある、一向いっこう面白おもしろくもないではないか、人間にんげんむかって質問しつもんすれば返事へんじをするが、書物しょもつえがいたうまように、いつもおながおをしてだまっている。ひとほうけということがあるが、書物しょもつひとるわけにはいかない。【3】だからそれをいいごとにして、馬鹿者ばかものどもは、なまかじりの知識ちしきまわして得意とくいにもなるのである。プラトンは、そういうかんがえをっていたから、くということおもんじなかった。こと文士ぶんしまかせてけばよい。哲学てつがくしゃには、もっとおおきな仕事しごとがある。【4】人生じんせい大事だいじとは、物事ものごと辛抱強しんぼうづよ吟味ぎんみするひとが、生活せいかつうらに、忽然こつぜんさとるていのものであるから、たやすく言葉ことばにはあらわせぬものだ、ましてこれをげて書物しょもつというようひと誤解ごかいされやすいものにしてくというようことは、ぴらである。【5】そういう意味いみことを、かれは、そのしんずべき書簡しょかんっているそうです。したがってかれによれば、ソクラテスがやったように、きた人間にんげん出会であってたがいにぜん人格じんかくして問答もんどうをするということが、真智まちしんちみちだったのです。【6】そういう次第しだいであってみれば、今日きょうのこっているかれ全集ぜんしゅうは、かれ余技よぎだったということになる。かれのアカデミアにける本当ほんとう仕事しごとは、みなえてなくなってりょうしまったということになる。そこで、プラトン研究けんきゅうしゃ立場たちばというものは、はなはみょうことになる、と田中たなかうのです。【7】プラトンは、書物しょもつ本心ほんしんかさなかったのだから、かれみずか哲学てつがく第一義だいいちぎかんがえていたものを、かれがどうでもいいとおもっていたかれ著作ちょさく片言かたこと隻句せっくからスパイしなければならぬ事情じじょうにあるとうのです。【8】今日きょう哲学てつがくしゃたちは、哲学てつがく第一義だいいちぎ書物しょもつによってあらわし(ママ)、スパイのるのをっている。プラトンは、書物しょもつきた人間にんげんかげぎないとかんがえていたが、今日きょう著作ちょさくしゃたちは、かげ工夫くふう生活せいかつしている。習慣しゅうかんかわってる。【9】ただ、人生じんせい大事だいじにはつくせないものがあるということだけがかわらないのかもれませぬ。
 文学ぶんがくしゃは、みなみな口語体こうごたいでものをようになったので、ことしゃべこととの区別くべつ曖昧あいまいになったが、曖昧あいまいになっただけです。両者りょうしゃあゆってようおもうのも外見がいけんぎない。【0】あれが文学ぶんがくで、あれが文章ぶんしょうなら、自分じぶんにもけそうだというひとえた、文学ぶんがく志望しぼうすることがやさしくなった、それだけのはなしで、とるにらぬことだ。それよりもよくかんがえてみると、じつは、文学ぶんがくしゃにとってしゃべことこととが、今日きょうようはなばなれになってりょうしまったことはないという事実じじつ注意ちゅういすべきだとおもいます。むかしうたわれるためかたられるため台本だいほんだった書物しょもつは、印刷いんさつされ定価ていかがつけられて、世間せけんにばらまかれれば、これをいた人間にんげんももうどうしようもないということになりました。今日きょうようだい散文さんぶん時代じだいは、印刷いんさつじゅつ進歩しんぽはなしてはかんがえられない、とことは、ただ表面ひょうめんてきことではなく、ひとも、印刷いんさつという言語げんご伝達でんたつじょう技術ぎじゅつ変革へんかくとともに歩調ほちょうわせてかざるをなくなったという意味いみです。むかしは、名文めいぶんえば朗々ろうろうしょうすべきものだったが、印刷いんさつ進歩しんぽは、文章ぶんしょうからリズムをうばい、文章ぶんしょう沈黙ちんもくしてりょうしまったとえましょう。散文さんぶんのがれると、また散文さんぶんちかづいてた。今日きょう電車でんしゃなかで、岩波いわなみ文庫ぶんこばんきむえんじゅしゅうきんかいしゅうひとの、かんがえながらかんじていると、愛人あいじんこえ勿論もちろんその筆跡ひっせきまでかんじて、よろこあるいはかなしむむかしひととはなんというちがいでしょう。散文さんぶんは、ひと感覚かんかく直接ちょくせつうったえる場合ばあいしょうずる不自由ふじゆうてて、表現ひょうげんじょうおおきな自由じゆうました。このわば肉体にくたい放棄ほうきした精神せいしん自由じゆうが、はなは不安定ふあんていなものであることは、散文さんぶんが、自分じぶん強制きょうせいすることも、読者どくしゃ強制きょうせいすることも、みずかすすんでてた以上いじょう仕方しかたがないことでしょう。いい散文さんぶんは、けっしてひと弱味よわみにつけみはしないし、ひとよいわせもしない。読者どくしゃめていればめているほどいいとうでしょう。すぐれた散文さんぶんに、もし感動かんどうがあるとすれば、それは、認識にんしき自覚じかくのもたらす感動かんどうだとおもいます。

 (小林こばやし秀雄ひでおかんがえるヒント』)


長文ちょうぶん 4.2しゅう
 【1】ふつうは、心臓しんぞう停止ていししてりゅうがとだえ、それにつづ全身ぜんしん生命せいめい活動かつどう停止ていしとしてこる。ところがのうさき機能きのう停止ていしにおちいることがある。この場合ばあい中枢ちゅうすう神経しんけいをまとめるのうによって全身ぜんしんもやがてぬことになるが、人工じんこう呼吸こきゅうちからでしばらくのあいだは(そして現在げんざいではかなり長期ちょうきにわたって)脳死のうし状態じょうたい身体しんたいを「かして」おくことができる。【2】つまり抑止よくしするテクノロジーの介入かいにゅうによって、せい手放てばなしながらなお中断ちゅうだんされた、あるしゅなかあいだてき身体しんたいつくされるのである。
 【3】脳死のうし心臓しんぞう決定的けっていてきちがうのは、全身ぜんしんおよぶプロセスやそのタイムラグのためでなく、このきわめて現代げんだいてきうえべた「中間なかまてき身体しんたい」をすからである。のう機能きのううしなったこの身体しんたいは、もはや人格じんかくとしての発現はつげんをいっさいいて、いわばだれでもない身体しんたいとしてよこたわっている。(中略ちゅうりゃく
 【4】脳死のうしをめぐる現在げんざい論議ろんぎなかわれているのは、じつ脳死のうし心臓しんぞうといずれが厳密げんみつ意味いみで「ひと」かということではない。それはこうからおとずれるを「みなしの」とえるということなのだ。
 【5】移植いしょく治療ちりょうにとっては、おとずれる確認かくにんしていたのではおそいのだ。そこで脳死のうしひととみなし、その段階だんかい身体しんたい人格じんかくせい拘束こうそくから解放かいほうすることにする。それでなければせっかく抑止よくししても、いずれにすべてをわたすことになってしまう。【6】だが、この「みなしの」(「みなし法人ほうじん」というときのように)によって、「だれでもない身体しんたい」はもはや「ひとではない身体しんたい」となり、脳死のうし身体しんたいの「資材しざいへのみちけることになる。ってみればそれは、役立やくだたない自明じめいを、人間にんげん利益りえきにそくして人間にんげん規定きていする「役立やくだ」へと転化てんかすることである。
 【7】人間にんげんは、これまでありのままの世界せかい否定ひていし、それを人間にんげんにとっての世界せかいへと転化てんかして、自己じこ可能かのうせい領域りょういき拡張かくちょうしてきた。その人間にんげんにとっても、だけは最近さいきんまで、無意味むいみ喪失そうしつでありつづけてきた。【8】だがテクノロジーは壁際かべぎわまでいつめ、ついにその領分りょうぶんからなま回収かいしゅうしうる部分ぶぶんもどすにいたった。この「みなしの」によって、いまあたらしい「資材しざい」を分泌ぶんぴつする生産せいさんてき人間にんげん自身じしん規定きていする「人間にんげんてき」となった……文明ぶんめい武勲ぶくんはこの征服せいふくをそんなふうにかたるのかもしれない。
 【9】だが、この論理ろんり事態じたいの「不気味ぶきみさ」にをつむっている。医療いりょうのテクノロジーがもたらしたのは、「ひとではない身体しんたい」とか、人体じんたいの「資材しざいとかいう、人間にんげんのまったく「人間にんげんてき」な可能かのうせいなのだ。核兵器かくへいき遺伝子いでんし工学こうがく象徴しょうちょうするように、現代げんだいのテクノロジーはもはや人間にんげん道具どうぐにおさまる範囲はんいえてすすんでいる。【0】そこでは人間にんげんに「役立やくだつ」はずのことが、人間にんげんを「人間にんげん」するようにさえはたらくことになる。人間にんげんはテクノロジーの主人しゅじんではなく、テクノロジーがえてゆく世界せかいなかで、いつのまにか自分じぶんもいっしょにえられているのだ。だから、人間にんげんはこの「不気味ぶきみ」な状況じょうきょう欺瞞ぎまんなしにけとめ、そこにひらきながらありうべき関係かんけいさぐってゆくほかはない。それが「人間にんげん」する世界せかいなかで、唯一ゆいいつたもちうる「人間にんげんてき態度たいどだとえるだろう。
 あの身体しんたいには、もはやそれを「わたしだ」と主張しゅちょうするひとはいない。では、それは「ひと」ではないのか? ここで本当ほんとうわれているのはそのことである。じつはそのたねいを人間にんげんはすでにはっしたことがある。世界せかい戦争せんそう象徴しょうちょうされる今世紀こんせいき人間にんげんの、栄光えいこうおなじように悲惨ひさんだった体験たいけんは、征服せいふくのテクノロジーのなか人格じんかくした身体しんたいてき存在そんざいを、「それでもひとだ」とうことから出発しゅっぱつする実存じつぞん思想しそうきたえてきた。それがこの問題もんだいおおきな示唆しさあたえている。
 移植いしょく治療ちりょうによってひときられるのは、人間にんげん身体しんたいてき存在そんざいだからである。それに、移植いしょくされる臓器ぞうきは「きて」いなければやくにたない。その「きている」身体しんたいから、それでも臓器ぞうき摘出てきしゅつゆるされるのは、なかばゆだねられたこの臓器ぞうきも、他者たしゃ身体しんたいられてしかきえないからである。つまりぬべき臓器ぞうき他者たしゃにおいて復活ふっかつするのだ。一方いっぽうそれをけた他者たしゃも、ゆだねられた臓器ぞうきをけっして自分じぶんのものとして同化どうかするわけではない。そのひと身体しんたい免疫めんえき抑制よくせいざいによって自己じこ固有こゆうせいよわめながら、他者たしゃ臓器ぞうきれているのだ。そのようなリレーのうちに身体しんたいてき生命せいめいはそれ自身じしん論理ろんりつらぬいており、部分ぶぶん身体しんたい受容じゅよう復活ふっかつをとおして、不老ふろう長寿ちょうじゅとはべつの「不死ふしせい」のきらめきさえのぞかせている。


長文ちょうぶん 4.3しゅう
 【1】なにはともあれ、このようにしても、クラシック音楽おんがくへのみちはつけられる時代じだいになった。あらゆるものがカジュアルになっていき、さまざまな機器きき圧倒的あっとうてき便利べんりさときかえに、「傾聴けいちょう」したり「注視ちゅうし」する面倒めんどう手続てつづきがどんどんうしなわれていく時代じだいのなかで、【2】「真面目まじめ」で「傾聴けいちょうせまる」クラシック音楽おんがくはほんとうに伝統でんとう芸能げいのうせずにきのびられるのか、と心配しんぱいしたのが杞憂きゆうだったかのように、それはいまではおしゃれなファッションにさえなることができる。【3】特定とくてい商品しょうひん際立きわだたせることをやめ、全般ぜんぱんてき生活せいかつスタイルのイメージを操作そうさしようとしはじめた企業きぎょう文化ぶんか戦略せんりゃくにとって、それは軽薄けいはく短小たんしょうつぎる「さらにあたらしいもの」でありうる。
 しかし、こうしたことがすぐにクラシック音楽おんがく啓蒙けいもうになり、普及ふきゅうにつながる、などとは早合点はやがてんしないほうがいだろう。【4】なかんずく伝統でんとうてき音楽おんがく芸術げいじゅつ理念りねん、とりわけじゅうきゅう世紀せいき音楽おんがくかん要求ようきゅうしたような「はじまりとわりがあって、そのあいだの過程かてい可逆かぎゃくてきであり、部分ぶぶん部分ぶぶん相互そうご有機ゆうきてき関係かんけいしあうとともに、きょく全体ぜんたい細部さいぶまで意味いみづけられたじた統一とういつたいである」ととらえられるような音楽おんがく作品さくひん理念りねん、【5】ほうからえば「かならず最初さいしょから最後さいごまでを順序じゅんじょどおりに中断ちゅうだんせずにきとおし、刹那せつな快感かいかんだけでなく、全体ぜんたい構造こうぞう脈絡みゃくらく理解りかいすべき」であるような音楽おんがく体験たいけん理念りねんが、そこでがれているかどうかは、まったくうたがわしい。【6】たんなる「楽想がくそう」と、有機ゆうきてき統一とういつたいとして仕上しあげられた「音楽おんがく作品さくひん」のちがいは画然かくぜんとしているのだから、音楽おんがく作品さくひんとは本来ほんらい切断せつだんしてはならないもののはずなのに、それをきざんですコマーシャルのじゅう秒間びょうかんは、【7】もはや西洋せいよう近代きんだいのひとつの極限きょくげんてき文化ぶんかのかたちというより、おびただしく流通りゅうつうする商業しょうぎょう音楽おんがく飽食ほうしょくするなかでこそひかるエスニックのような新鮮しんせんさなのかもしれない。
 なかにはクラシック音楽おんがくむずかしいとひといまでも結構けっこういる。【8】そのひとたちがくちをそろえてかたるのは、いちきょくながいので途中とちゅう退屈たいくつしてしまう、ましてくらざされたコンサート会場かいじょう長時間ちょうじかん物音ものおとひとつてずにじっとすわっているのは苦痛くつうだ、ということである。このことはとりもなおさず、一様いちように、クラシック音楽おんがく真髄しんずいとはその反対はんたい、【9】つまりながいちきょくきとおす、それもながらきではなく、全身ぜんしんみみとなってきとおすときに、旋律せんりつやりズムや音響おんきょうといった現象げんしょうてき快楽かいらくにとどまらぬ、それをえた「作品さくひん」という包括ほうかつてきでドラマティックな意味いみ連関れんかん体験たいけんできることにある、と了解りょうかいされていることをしめしている。【0】もちろん、細部さいぶ全体ぜんたいおとるわけではない。だが、きょく全体ぜんたいという世界せかいのなかに位置いちづけられることで、細部さいぶはそれだけで存在そんざいするより以上いじょう意味いみつことができる。(中略ちゅうりゃく
 しかし、コマーシャルのじゅうびょうのクラシック音楽おんがくは、そういう体験たいけんにはほどとおい、どころか、その入口いりくちでさえないのではないか、とわたしおもう。そこで、っているのはたしかに作品さくひん一部いちぶにはちがいないが、そのこうに作品さくひん全体ぜんたい暗示あんじすることのない、むしろ作品さくひんというからはなされた、それ自体じたいあじわわれるてき快楽かいらくてき現象げんしょうである。コマーシャルにぞくぞくと登場とうじょうし、しかもそれがある感銘かんめいさそっているとしても、かならずしもそれにつれて人々ひとびと容易よういにクラシック音楽おんがく世界せかいにいざなわれるとはかんがえないほうがい。うつくしくサンプルをならべたカタログは、もはや憧憬どうけい(しょうけい入口いりくちではなく、憧憬どうけい(しょうけい対象たいしょうそのものになろうとしているのだから。
 とにもかくにも、こうしたことは、音楽おんがく、というよりそのけとめかたが、いつのにか変容へんようしつつあることをしめしているのではないだろうか。
 つまり、コマーシャルのクラシック音楽おんがく効果こうかげたのは、たんにコマーシャルの世界せかいでありふれていないので新鮮しんせんだったというだけではなく、今日きょうではいちきょく有機ゆうきてき統一とういつたいとして把握はあくする構造こうぞうてきかたのできないひと、あるいはひそかないているひとがしだいにえており、じゅうびょうぽっきりという異端いたんかたがそのひとたちのしん間隙かんげきをついた、といういちめんがあったのではないだろうか。

岡田おかだ敦子あつこ永遠えいえん瞬間しゅんかんのなかに』より)


長文ちょうぶん 4.4しゅう
長文ちょうぶんふたつある場合ばあい読解どっかい問題もんだいよう長文ちょうぶんいち番目ばんめ長文ちょうぶんです。】
 【1】文明ぶんめいとはなにかを地球ちきゅうシステムろんてきかんがえると、「人間にんげんけんつくってきるかた」となります。人間にんげんけん誕生たんじょうがなぜいちまんねんまえだったかというのは、気候きこうシステムの変動へんどうかかわってきます。【2】気候きこうシステムが現在げんざいのような気候きこう安定あんていしてきたのはいちまんねんまえのことです。それに適応てきおうしてそのころ我々われわれはそのかたえたんですね。
 【3】人間にんげんけんつくってきるかたというのは、じつは農耕のうこう牧畜ぼくちくというかたです。それ以前いぜん人類じんるい狩猟しゅりょう採集さいしゅうというかたをしてきた。狩猟しゅりょう採集さいしゅうというのはライオンもサルも、あらゆる動物どうぶつがしているかたです。【4】したがってこの段階だんかいまでは人類じんるい動物どうぶつあいだなん差異さいもなかった。これを地球ちきゅうシステムろんてき分析ぶんせきすると、生物せいぶつけんなか物質ぶっしつ循環じゅんかん使つかったかたということになります。生物せいぶつけんなかじたかたです。
 【5】それにたいして農耕のうこう牧畜ぼくちくはというと、たとえば森林しんりん伐採ばっさいしてはたけえると、太陽たいようからのひかりたいするアルベド(反射はんしゃのう)がわってしまう。ということは、地球ちきゅうシステムにおける太陽たいようエネルギーのながれをえているわけです。【6】また、あめったとき、大地だいち森林しんりんでおおわれているときとはたけとではその侵食しんしょく割合わりあいことなります。べつ言葉ことばでいえば、そこにみず滞留たいりゅうしている時間じかんちがってくる。すなわち、エネルギーのながれだけではなく、地球ちきゅう物質ぶっしつ循環じゅんかんわるということです。【7】これを地球ちきゅうシステムろんてき整理せいりして概念がいねんすると、人間にんげんけんつくってきるということになる。人類じんるい生物せいぶつけんからして、人間にんげんけんつくってはじめたために、地球ちきゅうシステムの構成こうせい要素ようそわったわけです。
 【8】ところで、さきほどいちまんねんまえ人間にんげんけんができたのは気候きこうわったからだといました。そういう時期じき最近さいきんいち〇〇まんねんくらいをとってもなんかいかあったでしょう。【9】人類じんるい誕生たんじょう以来いらい歴史れきしなな〇〇まんねんぐらいまでさかのぼってみれば、いちまんねんまえおなじような時期じきなんもあったはずですから、たとえばネアンデルタールじん農耕のうこうはじめてもよかったことになる。でも、かれらはそうしなかった。【0】農耕のうこう牧畜ぼくちくというかた選択せんたくし、人間にんげんけんつくったのは、われわれ現生げんなま人類じんるいだけなんです。
 それはなぜなのか。現生げんなま人類じんるい固有こゆうの、なに生物せいぶつがくてき理由りゆうがあるのではないかとかんがえられます。類人猿るいじんえん人類じんるいにはなく、我々われわれだけがもっている特徴とくちょうなにだろうとかんがえると、まずおもたるのは「おばあさん」の存在そんざいです。おばあさんとは、生殖せいしょく期間きかんぎてもびているメスのことです。たとえば、類人猿るいじんえんのチンパンジーのメスとくらべても、現生げんなま人類じんるいのメスは生殖せいしょく期間きかん終了しゅうりょう寿命じゅみょうながい。なおこの場合ばあい、オスは関係かんけいありません。オスはぬまで生殖せいしょく能力のうりょくがあります。したがって、おじいさんは現生げんなま人類じんるい以外いがいにも存在そんざいします。しかし、おばあさんは哺乳類ほにゅうるいには存在そんざいしないし、ネアンデルタールじん化石かせきからも、現生げんなま人類じんるいのおばあさんに相当そうとうするほねつかっていません。おばあさんの存在そんざいは、現生げんなま人類じんるいだけに特徴とくちょうてきなことなんです。
 では、おばあさんが存在そんざいするとなにこるのか。すぐにおもいつくのは、人口じんこう増加ぞうかです。なぜかというと、おばあさんはかつて子供こどもんだ経験けいけんをもつわけですから、おさん経験けいけんむすめつたえることができる。するとおさんがより安全あんぜんになり、新生児しんせいじにん死亡しぼうりつひくくなりますね。
 さらにおばあさんは、むすめんだ子供こどものめんどうもみます。たとえばむすめ生殖せいしょく期間きかんいちねんとして、子育こそだてにねんかかるとしたらさんにんしかめない。ところがおばあさんがいることでねんさんねん短縮たんしゅくされたらにんめる。ということで、おばあさんの存在そんざい人口じんこう増加ぞうかをもたらしたのではないかと、わたしかんがえています。このことは最近さいきん研究けんきゅうからもたしかめられています。
 我々われわれ現生げんなま人類じんるいいちまんねんまえぐらいにアフリカで誕生たんじょうしたのですが、ろくまんねんまえぐらいには、すでに地球ちきゅうじょうひろ分布ぶんぷするようになっていました。人類じんるいのような大型おおがた動物どうぶつが、なぜこんな短期間たんきかん世界中せかいじゅう拡散かくさんしていったのか。これも現生げんなま人類じんるい人口じんこう増加ぞうかという問題もんだいかんがえるとその理由りゆうわかります。

 (松井まつい孝典たかのり松井まつい教授きょうじゅ東大とうだい駒場こまんば講義こうぎろく』)
 【1】言語げんご思考しこう関係かんけいじつ学問がくもん世界せかいでも同様どうようである。言語げんごには縁遠えんどおいとおもわれる数学すうがくでも、思考しこうはイメージと言語げんごあいだ運動うんどうってよい。ニュートンがけなかった数学すうがく問題もんだいわたしがいとも簡単かんたんいてしまうのは、数学すうがくてき言語げんごりょうわたしがニュートンを圧倒あっとうしているからである。【2】知的ちてき活動かつどうとは語彙ごい獲得かくとくならない。
 日本人にっぽんじんにとって、語彙ごいにつけるには、なにはともあれ漢字かんじかたち使つかかたおぼえることである。日本語にほんご語彙ごい半分はんぶん以上いじょう漢字かんじだからである。これには小学生しょうがくせいころがもっともてきしている。【3】記憶きおくりょく最高さいこうで、退屈たいくつ暗記あんきたいする批判ひはんりょくそだっていないこの時期じきのがさず、たたまなくてはならない。強制きょうせいでいっこうにかまわない。(中略ちゅうりゃく
 大局たいきょくかん日常にちじょう処理しょり判断はんだんにはさして有用ゆうようでないが、これなくして長期ちょうきてき視野しや国家こっか戦略せんりゃくられない。【4】日本にっぽん危機きき一因いちいんは、選挙せんきょみんたる国民こくみん、そしてとりわけくにのリーダーたちが大局たいきょくかんうしなったことではないか。それはとりもなおさず教養きょうよう衰退すいたいであり、そのそこには活字かつじ文化ぶんか衰退すいたいがある。国語こくごりょく向上こうじょうさせ、子供こどもたちを読書どくしょかわせることができるかどうかに、日本にっぽん再生さいせいはかかっているとえよう。
 【5】アメリカの大学だいがくおしえていたころ数学すうがくちからでは日本人にっぽんじん学生がくせいにはるかにおとるむこうの学生がくせいが、論理ろんりてき思考しこうについてはじつによく訓練くんれんされているのでおどろかされた。大学生だいがくせいでありながら(−1)×(−1)もできない学生がくせいが、理路りろ整然せいぜんとものをうのである。【6】議論ぎろんになるとその能力のうりょく際立きわだつ。相手あいて論理ろんりてき飛躍ひやく指摘してきする技術ぎじゅつにかけては小憎こにくらしいほど熟練じゅくれんしているし、みずからのかんがえを筋道すじみちてて表現ひょうげんするのも上手じょうずだ。
 【7】これは学生がくせいかぎられたことでなく、暗算あんざんのうまくできない店員てんいんでも、はなしてみるとおどろくほどしっかりしたかんがえをっているし、スポーツ選手せんしゅ、スター、政治せいじなどのインタビューをいても、じつとうたことを明快めいかい論旨ろんしかたる。
 【8】これと対照たいしょうてき日本人にっぽんじんは、数学すうがくではすぐれているのに論理ろんりてき思考しこう表現ひょうげんにはがいしてよわい。日本人にっぽんじん学生がくせいがアメリカじん学生がくせいとの議論ぎろんになって、まるで太刀打たちうちできずにいる光景こうけいは、なんにしたことだった。語学ごがくてきハンデをいても、なおあまりある劣勢れっせいぶりであった。
 【9】当時とうじ欧米おうべいじんが「不可解ふかかい日本人にっぽんじん」という言葉ことばをよくくちにした。不可解ふかかいなのは日本人にっぽんじん思想しそうでも宗教しゅうきょうでも文学ぶんがくでもなく(これらは彼等かれらによく理解りかいされつつあった)、じつ論理ろんりめん未熟みじゅくさなのであった。すくなくともわたしはそう理解りかいしていた。【0】科学かがく技術ぎじゅつ世界せかい一流いちりゅうこくつくげた優秀ゆうしゅう日本人にっぽんじんが、論理ろんりてきにものをかんがえたり表現ひょうげんする、というごくたりまえ知的ちてき作業さぎょうをうまくなしないでいること。それが彼等かれらにはとてもしんじられないことだったのだろう。
 日本人にっぽんじん論理ろんりてき思考しこう表現ひょうげん苦手にがてとすることは今日きょうわらない。ボーダーレス社会しゃかいすすむなか、阿吽あうん呼吸こきゅうとか腹芸はらげい外国がいこくじんつうじないから、どうしても「論理ろんり」をそだてる必要ひつようがある。いつまでも「不可解ふかかい」という婉曲えんきょく非難ひなんあまんじているわけにはいかないし、このままでは外交がいこう交渉こうしょうなどではおおきく国益こくえきそこなうことにもなる。
 数学すうがくまなんでも「論理ろんり」がそだたないのは、数学すうがく論理ろんり現実げんじつ世界せかい論理ろんりはなはだしくちがうからである。数学すうがくにおける論理ろんりしん正当せいとうせいいち〇〇パーセント)か、にせ正当せいとうせい〇パーセント)のふたつしかない。真白まっしろ真黒まっくろかの世界せかいである。現実げんじつ世界せかいには、絶対ぜったいてきしん絶対ぜったいてきにせ存在そんざいしない。すべては灰色はいいろである。殺人さつじんでさえ真黒まっくろではない。死刑しけいがある。殺人さつじん真黒まっくろかぎりなくちか灰色はいいろである。
 そのうえ、数学すうがくには公理こうりというまんにん共通きょうつう規約きやくがあり、そこからすべての議論ぎろん出発しゅっぱつする。現実げんじつ世界せかいには公理こうりはない。すべての人間にんげんがそれぞれの公理こうりもちいているとってよい。
 現実げんじつ世界せかいの「論理ろんり」とは、普遍ふへんせいのない前提ぜんていから出発しゅっぱつし、灰色はいいろみちをたどる、というきわめてたよりないものである。そこでは思考しこう正当せいとうせいより説得せっとくりょくのある表現ひょうげん重要じゅうようである。すなわち、「論理ろんり」をそだてるには、数学すうがくより筋道すじみちてて表現ひょうげんする技術ぎじゅつ修得しゅうとく大切たいせつということになる。

 (藤原ふじわら正彦まさひこ祖国そこくとは国語こくご』)


長文ちょうぶん 5.1しゅう
いち番目ばんめ長文ちょうぶん暗唱あんしょうよう長文ちょうぶんで、番目ばんめ長文ちょうぶん課題かだい長文ちょうぶんです。】
 【1】普段ふだん人気にんきのないよる公園こうえんに、あかるいちょうちんがいくつもともっている。おもおもいのゆかたを子供こどもたちがおしゃべりをしながら夜店よみせまわる。地域ちいきのおまつりには、どこもおなじようななつかしい光景こうけいひろがる。【2】しかし、このようなおまつりのにぎやかさも、翌日よくじつになるとふたたびもとのしずかな住宅じゅうたくがいなかえてしまう。孤独こどく老人ろうじん家庭かていにひきこもる子供こどもたち、よるやすむためだけにかえってくるつとにんおやたちが、もっと日常にちじょうてき地域ちいきなかよく談笑だんしょうできる社会しゃかいるのだろうか。【3】いま日本にっぽんでは、子供こども成長せいちょうしてもおな地域ちいきむという定住ていじゅう傾向けいこうつよまっている。しかし、地域ちいき社会しゃかい機能きのうはまだ不十分ふじゅうぶんだ。
 その原因げんいんだいいちに、これまでのわたしたちの生活せいかつ基盤きばん地域ちいき家族かぞくという地縁ちえん血縁けつえん共同きょうどうたいではなく、学校がっこう会社かいしゃという機能きのう利益りえき共同きょうどうたいにあったためである。【4】明治めいじ開国かいこく以来いらい日本にっぽん工業こうぎょう生産せいさん労働ろうどうりょく農村のうそんから調達ちょうたつしてきた。このひゃく年間ねんかんおおくの日本人にっぽんじんあたらしい職場しょくばもとめてれた地域ちいきはな全国ぜんこく都市としひろがっていった。新興しんこう住宅じゅうたくばれる地域ちいきでは、むかしからそこにんでいる住民じゅうみんはむしろ少数しょうすうで、全国ぜんこく各地かくちからあつまったあたらしい住民じゅうみん地域ちいき多数たすう形成けいせいしている。【5】ここで必要ひつようなのは、意識いしき改革かいかくだ。過去かこ地縁ちえんたよるのではなく、未来みらい地縁ちえん自分じぶんたちのつくっていくという意識いしきもとめられている。
 地域ちいき社会しゃかい十分じゅうぶんには機能きのうしていないだい原因げんいんは、権限けんげん予算よさん不足ふそくである。【6】かつて日本にっぽん欧米おうべい植民しょくみん主義しゅぎ対抗たいこうするために形成けいせいした中央ちゅうおう集権しゅうけん国家こっかは、現在げんざいでは効率こうりつ目立めだつようになっている。むかし日本にっぽんがいくつものはんかれていた時代じだいには、そのはん象徴しょうちょうするような強力きょうりょくなリーダーが登場とうじょうすることがあった。武田たけだ信玄しんげん加藤かとう清正きよまさは、地域ちいき振興しんこうおおきな業績ぎょうせきのこした。
 【7】はなしひろげてかんがえると、地球ちきゅういまのように多様たよう生命せいめいたい宿しゅく惑星わくせいになったのは、さまざまな環境かんきょうにそれぞれの個性こせい適応てきおうする生物せいぶつがいたからであって、けっしてもっと進化しんかした生物せいぶつである人間にんげん地球ちきゅう支配しはいするようになったからではない。
 【8】たしかに、グローバル今後こんごつづく。情報じょうほうも、資源しげんも、人間にんげんも、国境こっきょうえてできることが世界せかい進歩しんぽにつながっている。しかし、グローバルは、その基盤きばん安定あんていしたローカルがあってこそ人間にんげん幸福こうふくむすびつく。【9】人類じんるいのこれまでの歴史れきしは、ちいさな集落しゅうらくからしょう国家こっかへ、しょう国家こっかからよりおおきな統合とうごう国家こっかへというながれであった。そのおおきな統合とうごう国家こっかから地球ちきゅう全体ぜんたいをひとつのくにとするようなながれは当然とうぜんかんがえられる。しかし、同時どうじにそのベクトルとは反対はんたい地域ちいき家族かぞくけての関心かんしんまれしたのが現代げんだい特徴とくちょうだ。地域ちいき社会しゃかいは、地球ちきゅう国家こっか進展しんてんとともにすすむものである。【0】どんなちいさなまちむらにも、日常にちじょうてきにおまつりのにぎやかさがもどってくるときが、地球ちきゅう地域ちいきむすびついたあたらしい時代じだいはじまりになる。

言葉ことばもり長文ちょうぶん作成さくせい委員いいんかい Σしぐま
 【1】たとえば、がみをわたされて、「このがみの3ぶんの2の4ぶんの3をってくれません?」とたのまれたとしてみましょう。あなたはなにをするでしょう?
 分数ぶんすう計算けいさん
 やってみていただくとかりますが、こたえは、2ぶんの1になります。【2】2ぶんの1をるのであれば、計算けいさんすればはなし簡単かんたん、とおもわれるかもしれませんが、実際じっさいこのいをあちこちでひとにしてみたところ、計算けいさんするひといちにん一人ひとりくらいしかいませんでした。たいていのひとは、直接ちょくせつってこたえをそうとします。【3】さん等分とうぶんりにくいですが、なにとかります。そしてできた3ぶんの2の部分ぶぶんについて、またこれもそこをよん等分とうぶんするようなかた工夫くふうし4ぶんの3をもとめてくれるのです。【4】つまり、小学校しょうがっこう十分じゅうぶん練習れんしゅう問題もんだいをやっていても、がみがあればひと計算けいさんしなくてもいい、そうやってそと世界せかいにあるものを、その目的もくてきわせて上手じょうず使つかうことがむしろ人間にんげん知性ちせいあらわれなのではないかとかんがえてみることができるでしょう。【5】人間にんげんとはなにかについてのかんがかたが、あたまなかですばやく計算けいさんできることといったものから、経験けいけんかし、そと世界せかいにある道具どうぐがみなど)をうまく使つかってもとめられているこたえをすこと、といった見方みかたわりつつあります。
 【6】人間にんげん認知にんち能力のうりょくにこういう側面そくめんがあることを強力きょうりょく主張しゅちょうしてきたのは、ひとを、そのひと毎日まいにち普通ふつう生活せいかつしているのなかで観察かんさつし、そこから人間にんげん能力のうりょくについてかんがえてきた研究けんきゅうしゃひとたちで、そのおおくは文化ぶんか人類じんるいがくなどのバックグラウンドをもっています。【7】じょうの3ぶんの2の4ぶんの3のはなしも、ジーン・レイヴなどを中心ちゅうしんとしたそういった研究けんきゅうしゃ台所だいどころでした観察かんさつがもとになっています。
 そのひとたちによると、学校がっこうという生活せいかつ場所ばしょはそれ自体じたいひとつの文化ぶんかであって、学校がっこうでよい成績せいせきおさめるということは、その文化ぶんかへの適応てきおう程度ていどがよくてその文化ぶんかのなかで十分じゅうぶん有能ゆうのうにふるまえることを意味いみします。【8】だから、学校がっこう卒業そつぎょうしたのちも、学校がっこうでやったようにあたらしいことを次々つぎつぎおぼえる必要ひつようがあったり、おしえられたとおりのやりかた仕事しごとをきちんとこなすことがもとめられたり、定期ていきてき昇進しょうしん試験しけんがあったりする社会しゃかいでなら、学校がっこう有能ゆうのうだったひとがいきいきときられるでしょう。
 【9】ただ、そういうひとたちが、学校がっこうではあまりおしえられないこと、奨励しょうれいされないこともうまくやる、という保証ほしょうはありません。むしろそういうことはできない、とかんがえたほうがいいような証拠しょうこがあげられてきています。【0】
 学校がっこう奨励しょうれいしないようなこと、暴力ぼうりょくだとか、セックスだとか、ドラッグだとか、そんなものにわかひとまらないほうがいいにまっている、という範囲はんいでなら、このはなしはこれでいいのかもしれません。けれど、こん学校がっこうであまりおしえないことのなかに、たとえばあたえられたわくをはずれるとか、これまでだれためしたことのない問題もんだいむとか、これまでのやりかた大幅おおはばつくえてみるとか、もうけっこう成果せいかがあがるとわれている定評ていひょうのある方法ほうほうをわざわざこわしてつくえようとしてみるとか、そういうたぐいの、これからのなかでいままでよりもっと大切たいせつになるだろうとかんじられていることがふくまれていないでしょうか。ふくまれているのだとすると、レイヴたちのうことは「学校がっこうではそういうたとえば創造そうぞうせいばれるような能力のうりょくはあんまりにつかないよ」という警告けいこくともとれるのです。(中略ちゅうりゃく
 「われたとおりにすること」でテストにいいてんれるなら、いいてんるプログラムをつくることはむずかしくないでしょう。こまるのは、ひと有能ゆうのうさが、われたとおりにできるかどうかではまらないというところです。ひとは、3ぶんの2の4ぶんの3を計算けいさん用紙ようしうえ計算けいさんするのが適切てきせつだと判断はんだんすればそうするし、がみうえってしまうほうがきれいではやいとおもえば計算けいさんしないですませます。
 こういう、への適応てきおうりょくが、人間にんげん有能ゆうのうさの本質ほんしつでしょう。学校がっこうは、ひと有能ゆうのうさをそだてるところですから、どものあたまなかに「いつでも分数ぶんすうざん絶対ぜったい間違まちがえずにはやくできる」プログラムをつくりたいのではなくて、そのあたえられた状況じょうきょう最大限さいだいげん利用りようするにはどうしたらいいかが苦労くろうせずにかる適応てきおうりょく目指めざしたいはずだとおもいます。

三宅みやけなほみ『インターネットのどもたち』による)
ちゅう)ジーン・レイヴー=認知にんち心理しんり学者がくしゃ


長文ちょうぶん 5.2しゅう
 【1】ひとつの集団しゅうだんは、一人ひとり裏切者うらぎりものと、一人ひとり犠牲ぎせいしゃすことによって完成かんせいされる。つまりそのとき集団しゅうだん論理ろんりてき構成こうせいされるのである。キリストとユダの伝説でんせつが、わたしにこのヒントをあたえてくれた。【2】おそらくあのじゅうさんにんは、対人たいじん関係かんけい独立どくりつしたメカニズムとして純粋じゅんすい培養ばいようするためのベテランたちだったのであり、またそうせざるをない環境かんきょうにおかれていたのだろう。(中略ちゅうりゃく
 わたしは、はじめにキリストがあって、そこにじゅうにんしたがったというせつを、ほぼしんじない。【3】まず、変転へんてんとしてとらえどころのない奇妙きみょう関係かんけいなかじゅうさんにんたのであり、それがてしない放浪ほうろうすえに、ユダとキリストをむことによって、ひとつの「関係かんけい」として完成かんせいされたのである。
 ユダもキリストも、それぞれがそれぞれをふくむ「じゅうさんにん」だったにちがいないと、わたしかんがえている。【4】そして、なによりも、ユダが「裏切者うらぎりもの」として発明はつめいされることによってはじめて、キリストが「犠牲ぎせいしゃ」となりたのであろう。新約しんやく時代じだい彼等かれらじゅうさんにんした最大さいだいのことは、「裏切者うらぎりもの」としてのユダを発明はつめいしたことであり、むしろキリストを発明はつめいしたことではなかったのではないかと、わたしかんがえているのだ。(中略ちゅうりゃく
 【5】創世そうせいに、アブラハムについての奇妙きみょうなエピソードがかたられている。「かみはアブラハムをこころみてわれた。『アブラハムよ、あなたの、あなたのあいするひとりイサクをれてモリヤのき、わたしがしめやまで、かれをささげなさい』(中略ちゅうりゃく)【6】かれらがかみしめされた場所ばしょにきたとき、アブラハムは、そこに祭壇さいだんきずき、たきぎをならべ、そのイサクをしばって祭壇さいだんのたきうえにのせた。そしてアブラハムがしのべ、刃物はものをとってそのころそうとしたときおも使つかいてんからかれんでった。【7】『アブラハムよ、わらべにをかけてはいけない。またなにかれにしてはならない。あなたの、あなたのひとりをさえわたしのためにしまないので、あなたがかみおそれるものであることをわたしはいまった』」(だいさんじゅうしょう
 【8】ここから、わたしは「裏切者うらぎりもの」がやがて発明はつめいされねばならないというかんれそうながする。このアブラハムの、かみたいして一方いっぽうてきにのめりこんでゆく無気味ぶきみ心情しんじょうは、おそらく一方いっぽうみずからのうちに「裏切者うらぎりもの」を用意よういしそれにたいする憎悪ぞうお相殺そうさいそうさいされ、安定あんていすること期待きたいするにちがいないからである。【9】つまり、この一方いっぽうに「裏切者うらぎりもの」が存在そんざいすることによってはじめて、わがころすという行為こういは、アブラハムにおい自己じこ完結かんけつするからである。「裏切者うらぎりもの」とは集団しゅうだん対人たいじん関係かんけいの、独立どくりつして自己じこ完結かんけつしようとするメカニズムが必然ひつぜんてきす、ある形態けいたいである。【0】集団しゅうだんは、「かみたいするおそれ」というとめどもなく一方いっぽうてき不安定ふあんてい心情しんじょうを、「裏切者うらぎりもの」によって、緊張きんちょうしあう安定あんていしたものにすることが出来できる。「裏切者うらぎりもの」というのは絶対ぜったいてきあくではない。「裏切うらぎる」という行為こうい相対そうたいてきなものであり、したがって集団しゅうだん永遠えいえんにそれを対象たいしょうすることが出来できない。ゆえにそれは、集団しゅうだん内部ないぶりっするメカニズムを持続じぞくてき緊張きんちょうさせつづけることが出来できるのである。
 新約しんやくによれば、キリストは、かれ死刑しけいにした外部がいぶ勢力せいりょくたいしてよりも、ユダにたいして緊張きんちょうしあっている。つまり、そのとき、その集団しゅうだんは、外部がいぶ勢力せいりょくたいして拮抗きっこうすることではなく、集団しゅうだんとして自己じこ完結かんけつすることをえらびつつあったのであり、そのためにみずから「裏切者うらぎりもの」を用意よういしてみせたのであろう。
 うまでもなく、集団しゅうだん自己じこ完結かんけつ目指めざすのは、集団しゅうだん衰弱すいじゃくしはじめている証拠しょうこである。しかし、集団しゅうだんつねに、いつかは衰弱すいじゃくむかえるものであり、自己じこ完結かんけつすることを目指めざすのである。げんいまでも「裏切者うらぎりもの」と「犠牲ぎせいしゃ」によって自己じこ完結かんけつ目指めざしつつある集団しゅうだんをたびたびにすることができる。ひとつの集団しゅうだんりっする原理げんりは、新約しんやく時代じだいからちっとも進歩しんぽしていないのかもしれないのだ。

別役べつやくみのる電信柱でんしんばしらのある宇宙うちゅう」から)


長文ちょうぶん 5.3しゅう
 【1】知人ちじんに「り」をするのがいる。ただし、趣味しゅみというわけではない。「そのあいだだけなにかんがえずにいることが出来できるんだ」と、かれっている。「パチンコ」をする、というのもいる。これも、景品けいひんをせしめようとか、そのこと自体じたいたのしいから、というのではない。【2】「あれをしていると一時いちじてき空白くうはくになっていられるからね」とうのである。
 このほか「料理りょうり」をするというのもいれば「推理すいり小説しょうせつ」をむ、というのもいる。いずれも、仕事しごととしてそれをやっているのでもなければ、趣味しゅみとしてそれをたのしんでいるのでもない。【3】奇妙きみょうないいかたではあるが、それらをすることによってしか、「なにもしていない」状況じょうきょう維持いじ出来できない、というわけだ。
 これを、趣味しゅみ堕落だらくうべきか、趣味しゅみとは本来ほんらいそのようなものであるとうべきか、よくわからない。【4】ともかく現在げんざい、「なにもしないでいる」状態じょうたいを、「なにもしない」ことで維持いじすることはむずかしいのである。ぼんやりしているとこれまでの仕事しごとつづき、これからの仕事しごと予定よていなどが襲来しゅうらいし、「あれをこうして、これをああして」と、たちまちいたたまれなくなってしまう。【5】「なにもしないでいる」ためには、「そうでないこと」を真剣しんけんにやることによって、それらをしてしまわなければいけないのである。
 もちろん「それほどまでにして、なにもしないでいる状態じょうたいなんかつくさなくたっていいじゃないか。」と、よそにはそうおもえる。【6】しかし、そうではない。前述ぜんじゅつした理由りゆうで「り」をしたり、「パチンコ」をしたり、「料理りょうり」をしたりしている人々ひとびとれば、よくわかる。かれらは、酸素さんそりなくなったみずなか金魚きんぎょが、水面すいめんくちをパクパクさせるように、かなり切迫せっぱくして「なにもしないでいる」ことをもとめているのである。
 【7】日常にちじょう生活せいかつにおける「なにもしないでいる」時間じかんというのは、芝居しばいの「暗転あんてん」や「幕間まくあい」とている。おおくの観客かんきゃくがここでホッとするのは、こらえていたオシッコをするためにトイレにけこめるからではない。【8】無意識むいしきにではあれ、それまで「ながれ」として連続れんぞくしていた時間じかんを、「かさね」として体験たいけんなおすことが出来できるからであり、その呪縛じゅばくからのがることが出来できるからである。
 【9】「時間じかんは、ながれるものではなくかさなるものである。」というなにかのコマーシャルにテレビで時々ときどきにかかるが、我々われわれは、おそらく、この「ながれる」時間じかんと、「かさなる」時間じかん双方そうほう交互こうご体験たいけんすることになっており、ただここへきて「ながれる」時間じかん呪縛じゅばくりょくつよくなっているのだろう。【0】それを「かさねる」時間じかんとして体験たいけんなおすための「暗転あんてん」と「幕間まくあい」が、日常にちじょう生活せいかつなかでつかまえがたくなってきているのかもしれない。
 もちろん、「睡眠すいみん」ということがある。これまで我々われわれは、「ねむること」によって、「ながれる」時間じかんを「つみかさねる」時間じかんとして体験たいけんなおしてきたとえるだろう。わり、しゅうわり、つきわり、ぶしわり、としわるごとに、我々われわれは「ながれ」を「かさね」にりかえてきたのである。しかしどうだろうか。「不眠症ふみんしょう」がえたり、それでなくとも「ねむり」があさくなったというものがえているように、にちしゅうつきぶしとしの「わり」のメリハリも、なんとなくうすれてきつつあるようながする。
 つまり「ながれる」時間じかんについては、はなっといても体験たいけん出来できるし、むしろそれに呪縛じゅばくされているかんつよいのだが、「かさねる」時間じかんについては、我々われわれ自身じしん意識いしきし、工夫くふうしなければ体験たいけん出来できないことになりつつあるのではないだろうか。「暗転あんてん」と「幕間まくあいまくあい」を、個々人ここじん日常にちじょう生活せいかつなか意識いしきてきつくさなければいけないのであり、そうしないとさんかけ状態じょうたいおちいって、呼吸こきゅう出来できなくなるような気配けはいすらかんじるのである。(中略ちゅうりゃく
 かつての「趣味しゅみじん」は、「ながれる」時間じかんからちょっとはずれたところにいて、「かさねる」時間じかんなかで、なにごとかをしていた。その知恵ちえを、現代げんだいじんまなびはじめた、ということかもしれない。ただし、前述ぜんじゅつしたように現代げんだいじんのそれは、かならずしも趣味しゅみとはえない。現代げんだいのそれは、「かさねる」時間じかんなかで「なにごとかをしている」ことよりも、「ながれる」時間じかんなかで「なにもしていない」ことのほう重要じゅうようで、必死ひっしになってそれにすがりついているからにほかならない。
 最近さいきん、「り」も「パチンコ」も「料理りょうり」も、「推理すいり小説しょうせつ」も流行はやっているらしいが、それはそれら自体じたい手柄てがらではない。それらは「なにもしないでいる」ための手続てつづきにすぎないのだ。
別役べつやくみのる「カナダのさけのわらい」による)


長文ちょうぶん 5.4しゅう
長文ちょうぶんふたつある場合ばあい読解どっかい問題もんだいよう長文ちょうぶんいち番目ばんめ長文ちょうぶんです。】
 あたらしい言葉ことばあたらしい事柄ことがらひとはどうやって理解りかいするのか。そこにはほとんどつねに、既知きち事柄ことがらへのなぞらえという作業さぎょうがあるのではないだろうか。こうした観点かんてんから「なぞらえ」がひと概念がいねん体系たいけい根底こんていにあることをくのがレイコフとジョンソンである。
 かれらの共著きょうちょ『レトリックと人生じんせい』の主旨しゅし一言ひとこと要約ようやくするなら、「われわれが普段ふだん、ものをかんがえたり行動こうどうしたりするさいもとづいている概念がいねん体系たいけい本質ほんしつは、根本こんぽんてきにメタファーによってっている」ということである。かれらのう「メタファー」は表現ひょうげん技巧ぎこうとしての隠喩いんゆではない。理解りかい思考しこうのための方略ほうりゃくである。かれらの規定きていによれば「メタファーの本質ほんしつは、ある事柄ことがら事柄ことがらとおして理解りかいし、経験けいけんすることである」。この「メタファー」を日本語にほんごにするならば、「隠喩いんゆ」よりも「なぞらえ」というほう適切てきせつであろう。すなわかれらのメタファーろんとは、なぞらえろんにほかならない。「筆者ひっしゃらは人間にんげん思考しこう過程かていだい部分ぶぶんがメタファーによってっているといたい」というかれらの主張しゅちょうは、ひと思考しこうがロゴスよりも「なぞらえ」に依存いぞんしているということである。
 かれらは「概念がいねん」を、「固有こゆう属性ぞくせい」によって定義ていぎされるものではなく、むしろ各人かくじんにとっての意味いみであり、したがって各人かくじん理解りかいしているもののことであるとかんがえる。そして、ある概念がいねんについてのわたしたちの理解りかいは、そのだい部分ぶぶん概念がいねんへのなぞらえによってなされているとする。ただし、それはいち観念かんねんいち観念かんねん比較ひかくすることではない。「理解りかいというものは、経験けいけん領域りょういき全体ぜんたいもとづいてしょうずるのであって、個々ここ観念かんねんもとづいてしょうじるのではない」からである。いいかえれば、わたしたちが理解りかいするものはコトの経験けいけんという全体ぜんたいであって、個々ここ観念かんねんはその構成こうせい要素ようそにすぎない。むしろ観念かんねんはそのコトのなか位置いちづけられることによって意味いみるのである。「なぞらえ」とは、すで理解りかいずみの経験けいけん領域りょういきもとづいて未知みち経験けいけん領域りょういき理解りかいすることである。そこで理解りかいされるものは、ふたつの領域りょういき共通きょうつうする経験けいけんの「かた」である。これをレイコフらは「経験けいけんのゲシュタルト」とぶ。「なぞらえ」とは、ある領域りょういきに、べつ領域りょういきの「経験けいけんのゲシュタルト」をあてはめて、その事柄ことがら理解りかいすることなのである。たとえば「議論ぎろん」についての理解りかいは「戦争せんそう」のメタファーにもとづいているとかれらがうとき、それは議論ぎろんというコトの経験けいけん領域りょういき全体ぜんたいすなわ開始かいしがあり、てき味方みかたがあり、攻撃こうげき防御ぼうぎょがあり、勝利しょうり敗北はいぼくがあるという、議論ぎろん経験けいけん全体ぜんたいが「戦争せんそう」とおな構造こうぞうをもつものとして理解りかいされているということである。
 さらにレイコフらはう。
 「重要じゅうようなことは、わたしたちはたん戦争せんそう用語ようごもちいて議論ぎろんのことをかたっているだけではないということである。議論ぎろんには現実げんじつけがあり、議論ぎろん相手あいててきとみなされ、相手あいて議論ぎろん立脚りっきゃくてん(=陣地じんち)を攻撃こうげきし、自分じぶんのそれをまもる。優勢ゆうせいになったり、劣勢れっせいになったりする。戦略せんりゃくをたて、実行じっこううつす。自分じぶん議論ぎろん立脚りっきゃくてん(=陣地じんち)がまもりきれないとわかれば、それを放棄ほうきしてあらたな戦線せんせんをしく。議論ぎろんなかでわれわれがおこなうことのおおくは、部分ぶぶんてきではあるが戦争せんそうという概念がいねんによって構造こうぞうあたえられているのである。」
 もちろんレイコフらが念頭ねんとうにおいているのは英語えいごの「議論ぎろん」の概念がいねんだが、日本語にほんごでも事情じじょうわらないだろう。もっとも文化ぶんかちがえば概念がいねんちがうことはありうる。そこでかれらは「議論ぎろん」を「ダンス」のメタファーによって理解りかいしている文化ぶんか想像そうぞうしてみる。論者ろんしゃおどしゅとみなされ、議論ぎろん目的もくてきうつくしくろんじあうことになる。多分たぶん人々ひとびと議論ぎろんについて「いきわない」とか「創造そうぞうせいとぼしく単調たんちょうだ」とか「なかだるみはあったが最後さいごはうまくまった」などとかたるだろう。そしてうまでもなく、概念がいねんことなる文化ぶんかにおいては、行動こうどうことなるであろう。
 「われわれは議論ぎろん戦争せんそうとみなし、戦争せんそうをするような議論ぎろん仕方しかたをするが、かれらはダンスとみなして、ダンスをするような仕方しかた議論ぎろんをする、ということになるであろう。」
 わたしたちの概念がいねんのほとんどは、概念がいねんへの「なぞらえ」によって理解りかいされているということである。したがって、わたしたちの概念がいねん体系たいけいは「なぞらえ」を原理げんりとして構築こうちくされているということである。

 (尼ケ崎あまがさきあきら文章ぶんしょう
 【1】コミュニケーション・システムの場合ばあいも、すこ以前いぜん交通こうつうシステムは多分たぶんにツリーがただった。だから交通こうつうストがあると社会しゃかい問題もんだいになったわけですが、最近さいきんはあまり問題もんだいにならない。【2】ストれということもありますが、それだけではなく交通こうつうシステム自体じたいがだんだんネットじょうになり、代替だいたい経路けいろ確保かくほされるようになったということがあります。ツリーがたのシステムでは、ふたつのセットのオーヴァーラップ、かさなりあい、そこからしょうずる両義りょうぎせいというものは本来ほんらいゆるされない。【3】しかし実際じっさいのリヴィング・システムでは、あとでのべますように、ツリーがたのシステムがそのままであることはめずらしく、うらのシステムや補完ほかんシステムが非公式ひこうしき形成けいせいされます。
 それにたいしてもうひとつのシステム・モデルは網状もうじょう交叉こうさ図式ずしきです。(中略ちゅうりゃく)【4】たとえば3というメンバーは1、2、3をふくむクラスにぞくすると同時どうじに、3、4、5をふくむクラスにぞくしているし、3、4、5、6をふくむクラスにもぞくしている。そういうてんではある意味いみでの多義たぎせいがそこにまれてくる。
 【5】構造こうぞうは、多分たぶんにこういう交叉こうさがた網状もうじょう図式ずしき構造こうぞうをもっている。一般いっぱん人工じんこうてきなシステムはツリーてき性格せいかくをもつものがおおいのにたいして、自然しぜん発生はっせいてきなシステムはセミ・ラティスてきあるいはむしろネットワークてきである。【6】クリストファー・アレグザンダーというひと都市としデザイナーですが、世紀せいき考案こうあんされたル・コルビュジエからニーマイアー、丹下たんげ健三けんぞうにいたるすべての都市とし計画けいかくは、全部ぜんぶツリーがただということをはっきりさせた。【7】それにたいして自然しぜん形成けいせいされてきた都市とし、あるいは最初さいしょ計画けいかく都市としであっても歴史れきしのなかで自然しぜん都市としちかくなってきた都市とし(たとえば京都きょうと)は、セミ・ラティスてき構造こうぞうをもっているということを指摘してきしています。
 【8】またさまざまな芸術げいじゅつ作品さくひん構成こうせいするあいだテキスト空間くうかんとか文化ぶんか空間くうかんというようなものをかんがえてみると、その構造こうぞう多分たぶん交叉こうさがた網状もうじょう図式ずしきとなっている。一般いっぱん人間にんげんなま世界せかいにかかわるリヴィング・システムは、たえずクラスが重合じゅうごう多義たぎてきになる。グラフでいえばネットワークじょう形式けいしきをもつようになります。(中略ちゅうりゃく
 【9】組織そしきとしては、こういう組織そしきをとる会社かいしゃはまだすくないわけで、ほとんどの会社かいしゃがツリーてき組織そしきをとっている。しかしよくかんがえてみますと、それではりたってゆかない。そこで無意識むいしきてきにツリーを補完ほかんする非公式ひこうしき制度せいどとして活用かつようされているのが、たとえばひろ意味いみでの宴会えんかい政治せいじである。【0】つまり一時いちじてきうら組織そしきがつくられて、宴会えんかいせきではこの上下じょうげ関係かんけい業務ぎょうむのなわばりがある程度ていどやぶられるわけですね。これを〈シャドー・システム〉とびたいとおもいます。組織そしきかんがえるうえ重要じゅうようなのは、組織そしきあらわれたメインのシステムだけではなく、実際じっさいのはたらきのうえ構造こうぞうをなしているシャドー・システムをふくめた組織そしき全体ぜんたいのはたらきをとらえることです。
 宴会えんかい政治せいじとまではゆかなくても、たとえば4のメンバーが6のメンバーの仕事しごと密接みっせつ関係かんけいすることをやっていて、調整ちょうせいしたいという場合ばあい、ふつうは上司じょうしとおして交渉こうしょうしなければいけないけれども、まえもって、まあいちはいやろうというわけで根回ねまわしをするというようなことがおこなわれる。そういうツリーがたのシステムのうら構造こうぞうともいうべきものが、タテ社会しゃかいではどうしても必要ひつようになってくるのではないか。
 それを意識いしきてき表面ひょうめんし、公式こうしき制度せいどするこころみが最近さいきんさかんになってきました。たとえばプロジェクト・チームというのは、いろんな部署ぶしょから専門せんもんえらび、もと部署ぶしょでの上下じょうげ関係かんけいはあるていど解体かいたいして、そのプロジェクトにふさわしい組織そしき一時いちじてきにつくるというアド・ホック・システムです。松戸まつどに「すぐやる」というのがあります。あれはツリーがた組織そしき不備ふびおぎない、ネットワークがたのはたらきをもたせるための制度せいどされたゲリラがた組織そしきということができます。
 (市川いちかわひろし『「」の構造こうぞう』)


長文ちょうぶん 6.1しゅう
いち番目ばんめ長文ちょうぶん暗唱あんしょうよう長文ちょうぶんで、番目ばんめ長文ちょうぶん課題かだい長文ちょうぶんです。】
 【1】ケンタウロスは、人間にんげん上半身じょうはんしんうまどうあしがついたものだ。人魚にんぎょひめは、人間にんげん上半身じょうはんしんさかなどうがついている。インドのガネーシャは、人間にんげん身体しんたいにゾウのかおがついている。これらの不思議ふしぎ神話しんわじょう生物せいぶつつく技術ぎじゅつを、現代げんだいのバイオテクノロジーはれつつある。【2】科学かがく進歩しんぽは、科学かがく悪用あくよう可能かのうせい不可分ふかぶん関係かんけいにある。その典型てんけいてき分野ぶんやのひとつが、かく物理ぶつりがくである。物質ぶっしつっている膨大ぼうだい熱量ねつりょう可能かのうせいを、人間にんげんはエネルギーとして利用りようすることもできるし、兵器へいきとして利用りようすることもできる。【3】同様どうようのことが、バイオテクノロジーの未来みらいについてもえるのではないか。
 バイオテクノロジーの今後こんご発展はってんから予想よそうされるだいいち問題もんだいは、できることとやっていいことはちがうという区別くべつ基準きじゅんがまだはっきりしていないことである。【4】遺伝子いでんし解析かいせき技術ぎじゅつ発展はってんすれば、各種かくしゅ遺伝いでんてき疾病しっぺい改善かいぜんには役立やくだつだろう。しかし、それは遺伝いでんてき素質そしつによる就職しゅうしょく結婚けっこん差別さべつすことにもつながる可能かのうせいがある。人類じんるいのこれまでの歴史れきしは、無条件むじょうけん病気びょうきあく健康けんこうぜんとしてきた。【5】しかし、不老不死ふろうふし技術ぎじゅつてき可能かのうになりつつある時代じだい大切たいせつなのは、いかにきるかという技術ぎじゅつよりもいかによりよくきるかという哲学てつがくである。自然しぜんかいればわかるように、ものはみな成長せいちょう子孫しそんのこ年老としおいてんでいく。【6】永遠えいえん生命せいめいもとめることは、おおきくれば自然しぜん摂理せつりはんすることではないだろうか。自然しぜん摂理せつり人間にんげん倫理りんり統合とうごうがこれからもとめられてくる。
 問題もんだいてんだいは、科学かがく発達はったつによる恩恵おんけい強力きょうりょくなものであればあるほど、あとでその弊害へいがいがわかったときに、手後ておくれとなることもおおいということである。【7】とくに、生命せいめいかんすることについては、人間にんげん知識ちしき肝心かんじんなことはなにもわかっていないとってよい。生命せいめい知識ちしきさえないのに、生命せいめい部分ぶぶんてき操作そうさする技術ぎじゅつだけはあるという状態じょうたいもっと危険きけんなのだ。【8】この危険きけんせいふせぐためには、多様たようせい確保かくほ技術ぎじゅつ発達はったつ以上いじょう優先ゆうせんすることだ。農業のうぎょう品種ひんしゅ改良かいりょうで、F1えふわん雑種ざっしゅによる成果せいかげられることはおおいが、それが地域ちいき固有こゆうしゅ絶滅ぜつめつむすびつくようなことがあってはならない。おおきな恩恵おんけいは、おおきな弊害へいがい裏腹うらはら関係かんけいにある。
 【9】バイオテクノロジーはおおきな可能かのうせいめている。それは、肉体にくたい変容へんようだけでなく、精神せいしん変容へんようかすことさえできるようになるだろう。大切たいせつなのは、その可能かのうせい発展はってんさせるか、その危険きけんせい抑止よくしするかということではない。【0】どのような技術ぎじゅつも、それをかす社会しゃかい仕組しくみによって、人間にんげんたすけるものにもなれば、人間にんげんきずつける武器ぶきにもなる。ケンタウロスや人魚にんぎょひめやガネーシャが人間にんげん一緒いっしょらすようになってもよい。しかし、大事だいじなことは、すべての生物せいぶつ自分じぶん存在そんざい自信じしんほこりとよろこびをかんじてきていくための技術ぎじゅつでなければならないということである。

言葉ことばもり長文ちょうぶん作成さくせい委員いいんかい Σしぐま
 【1】とは、本来ほんらい自然しぜん造化ぞうかによる創造そうぞうぶつ性質せいしついあらわす言葉ことばである。自然しぜんはその創造そうぞうするすべてのものに、よしという性質せいしつのほかはあたえない。もとよりそれは、よしという性質せいしつあたえようと自然しぜんのぞんだ結果けっかあたえられた性質せいしつではなく、自性じしょうとしてそうなった性質せいしつである。【2】たとえば、はなはどんな種類しゅるいはなでもおなという性質せいしつっている。そしてそのうつくしさは、はな自然しぜん造化ぞうかによってうまれたために、本質ほんしつてきにそなわっている性質せいしつなのである。それをわたしたちはぶのだ。
 【3】はだから、人間にんげん存在そんざい以前いぜんから、滅亡めつぼうのあとまで、自然しぜん存在そんざいして造化ぞうかつづけるかぎり、人間にんげん関係かんけいなく持続じぞくつづける性質せいしつであることを、たしかに承知しょうちなおさなければならない。このかれ、あやかろうとして、人間にんげん創作そうさく活動かつどういとなんだ。【4】東洋とうようてきかんがえかたでは、自然しぜん手本てほんとすることで人間にんげん造型ぞうけい活動かつどうおこなわれ、西洋せいようてき意図いとでは、自然しぜんおぎないあるいは自然しぜん超越ちょうえつする造型ぞうけいようとして、造型ぞうけい活動かつどういとなまれてきた。【5】概括がいかつてきないいかたではあるけれども、そのなが歴史れきしにおいてされてきた造型ぞうけい作品さくひんうつくしさとは、畢竟ひっきょう人間にんげん能力のうりょく自然しぜん造化ぞうかちからかって、どこまでにくせりにくはくたかの記録きろくにほかならない。芸術げいじゅつとか、個性こせいとか、言葉ことばあやはいくらでもれる。【6】しかし人間にんげん造型ぞうけいうつくしさは、自然しぜんまえではおおくはひく次元じげんであった。なぜひく次元じげんわざるをないのか。究極きゅうきょくせい価値かちせいにおいて、それは相対そうたいせい範囲はんいないにとどまりがちだからである。
 【7】自然しぜん本質ほんしつは、美醜びしゅう対立たいりつ超越ちょうえつしたところにある。自然しぜんにはみにくいものがない。みにくいものにたいするうつくしいものがあるのではなくて、どんなものもそのままの性質せいしつにおいてうつくしいのだ。この超越ちょうえつせいゆえ自然しぜん究極きゅうきょくでありる。【8】しかるに人間にんげん造型ぞうけいは、人間にんげんつところの意識いしき欲望よくぼう迷妄めいもう懐疑かいぎ、そのもろもろの執着心しゅうちゃくしん規制きせいを、どうしてもけざるをない。うつくしいものをつくろうとする意識いしきうつくしいものをつくることで自分じぶん才能さいのうをひろく一般いっぱんみとめさせようという欲望よくぼう、【9】きることについてのさまざまの迷妄めいもう存在そんざいかんする懐疑かいぎようするに仏教ぶっきょう煩悩ぼんのうは、ただすだけの自然しぜん無心むしんを、人間にんげん創造そうぞう容易よういゆるしてくれないのである。規制きせいされ限定げんていされたよし人間にんげん個性こせい範囲はんい特殊とくしゅ性質せいしつ。【0】それらはいずれもみにく対立たいりつ概念がいねんとしてのにとどまって、自然しぜん超越ちょうえつせいにまで到達とうたつすることが困難こんなんなのである。
 無論むろん、それを可能かのうにしたとき場合ばあいもあった。人間にんげん煩悩ぼんのうだっした状態じょうたいでものをつく場合ばあい自然しぜんおなじような無心むしん行為こういをとり場合ばあい、そこには美醜びしゅう二元にげんえたうまた。原始げんし宗教しゅうきょう造型ぞうけい民芸みんげい、そして個人こじん能力のうりょく煩悩ぼんのう超克ちょうこくした。それらは自然しぜんおなじような性質せいしつをあらわしていることを、わたしたちは容易よういることができる。
 けれども、近代きんだいはじまった美術びじゅつは、当初とうしょから人間にんげん能力のうりょく絶対ぜったいてき信頼しんらいをおいて出発しゅっぱつしたものであり、才能さいのう個性こせいへの賛美さんびによってつらぬかれてきた。自我じが基調きちょうとし、煩悩ぼんのう素材そざいとする方向ほうこう目指めざしてきた。人間にんげんせい認識にんしき目途もくととする近代きんだい成行しげゆきは、人間にんげんつくにしか関心かんしんしめさず、視界しかいれなくなってしまった。基準きじゅん個性こせいにおかれ、みにく対立たいりつするという範囲はんいないでしかかんがえられなくなり、みずか次元じげんひく段階だんかい限定げんていする状態じょうたいとなったのであった。

水尾みずお比呂志ひろし終焉しゅうえん」より)


長文ちょうぶん 6.2しゅう
 【1】科学かがく技術ぎじゅつ地域ちいき民族みんぞく差異さいえ、それゆえにヨーロッパにまれたという出自しゅつじ制約せいやくて、ぜん地球ちきゅうひろがった。その普遍ふへんせいは、あたかもすべてを均等きんとうにきりそろえる刃物はもののようなかたさをもって地域ちいき文化ぶんか水平すいへいし、生活せいかつ空間くうかん均一きんいつし、社会しゃかいシステムを一元化いちげんかしていく。【2】その傾向けいこうは「かた普遍ふへんせい」をもっている。それにたいし、文化ぶんか特定とくてい地域ちいき伝統でんとう民族みんぞくのエトスにはぐくまれるものとして本性ほんしょうじょうローカルな性格せいかくをもちながら、しかも、ある「やわらかい普遍ふへんせい」をふくんでいる。文化ぶんかやわらかい普遍ふへんせいは、究極きゅうきょくてきには宗教しゅうきょう普遍ふへんせいにあらわれるといってよいであろう。【3】宗教しゅうきょうはかならずその発生はっせいのローカルなかみ観念かんねん自然しぜんかん密接みっせつにむすびつき、民族みんぞく宗教しゅうきょうてきでありながら、しかも人間にんげん生死せいしにかかわる事柄ことがらとして、だいなりしょうなりユニヴァーサルで世界せかい宗教しゅうきょうてき側面そくめんをもつのである。
 【4】簡単かんたんないいかたをすれば、ヨーロッパにおいては、科学かがく技術ぎじゅつかた普遍ふへんせい文化ぶんかやわらかい普遍ふへんせいとは根本こんぽんてきには対立たいりつすることなく、いわば同心円どうしんえんをなしたのである。それは科学かがく技術ぎじゅつみずからの精神せいしん自発じはつてんだったということとおなじである。【5】厳密げんみつえば、「技術ぎじゅつ」をれる地盤じばん文化ぶんかのエトスがふくまれる以上いじょう技術ぎじゅつそれ自体じたいかならずそのうちに「やわらかい普遍ふへんせい」をふくむはずである。一元いちげんせいかたさは、厳密げんみつには技術ぎじゅつにではなくて科学かがくかえせられる。【6】ヨーロッパでは、科学かがく思考しこうみずからの精神せいしんそのものに胚胎はいたいしていたがゆえに、やわらかさの中心ちゅうしんかた科学かがく技術ぎじゅつから形成けいせいしたといえる。
 そのことは一見いっけん普遍ふへんてきえたヨーロッパてき世界せかいが、じつはひとつのローカルな地域ちいきであることを意味いみする。【7】もちろん科学かがく技術ぎじゅつによって可能かのうとなった牧歌ぼっかてき文明ぶんめい」が、「文化ぶんか」の精神せいしんせいおびやかすという危機きき意識いしきは、いろいろな思想家しそうかにおいて表明ひょうめいされた。しかし、それは、ヨーロッパ精神せいしん内部ないぶでの危機きき意識いしきにとどまっていたのである。【8】それはどこまでも「自己じこ批判ひはんであり、その自己じこのうちにヨーロッパ世界せかいという「他者たしゃ」をふくむことはなかった。
 それにたいして、日本にっぽん近代きんだいがヨーロッパ近代きんだい受容じゅようをともなって成立せいりつしたとき、両者りょうしゃ同心円どうしんえん形成けいせいするわけではなかった。【9】かた普遍ふへんせいやわらかい普遍ふへんせいとは、いわばそれぞれの中心ちゅうしんをずらして併存へいそんへいぞんしつつ、同一どういつのエポックを形成けいせいしたのである。あるいは、やわらかい普遍ふへんせいがいろいろの中心ちゅうしん併存へいそんせしめ、そのひとつとして科学かがく技術ぎじゅつうちにつつんだのである。【0】その中心ちゅうしんてきふくあい構造こうぞうが、自己じこ同一どういつせい基本きほんとするヨーロッパ近代きんだい日本にっぽん近代きんだい構造こうぞうじょうのちがいだともいえる。
 かりやすいれいをひとつげよう。火薬かやく発明はつめいにより戦争せんそう仕方しかた一変いっぺんしたことは、周知しゅうちのとおりである。そのことは、よう東西とうざいにおいておなじである。しかし子細しさいしさいにみればどうか。ドイツの文化ぶんか史家しかフリーデルがその名著めいちょ近世きんせい文化ぶんか』のなか指摘してきしたように、火薬かやく発明はつめいによって人間にんげんのありかたわった。「騎士きし」は「兵士へいし」になったのである。自分じぶんをもち、名乗なのることによってたたかいをはじめ、自分じぶん自分じぶん家門かもん名誉めいよなによりおもんじた騎士きし武芸ぶげいは、鉄砲てっぽうまえには児戯じぎひとしいものとなり、それに対抗たいこうすべく騎士きし兵士へいしとなった。人間にんげんはそれによって、鉄砲てっぽうおなじくひとつの部品ぶひんとして調達ちょうたつされる、代替だいたい可能かのう存在そんざいとなった。(中略ちゅうりゃく
 それにたいして、日本にっぽんでは事情じじょうことなっていた。武士ぶし火薬かやく発明はつめい以後いご代替だいたい可能かのうで、匿名とくめい兵士へいしというありかたねつつも、武士ぶしというありかたうしなわなかったのである。日本にっぽんの「武士ぶし」は、べつのエトスのなかきていたからである。武士ぶし主君しゅくんとをむすびつけたものは、解消かいしょう可能かのうな「契約けいやく」ではなくて、領地りょうち媒体ばいたいとした共同きょうどうたい意識いしきである。そこでは、自己じこ主体性しゅたいせい主張しゅちょうし、客体かくたいとして吟味ぎんみするという姿勢しせいはない。暗愚あんぐ主君しゅくんだからつかえることをめるといえば、ヨーロッパの契約けいやく精神せいしんからすればありるが、日本にっぽん武士ぶしどう精神せいしんではにそむく。主君しゅくんつかえるということは自分じぶん主体しゅたいてき決断けつだんでなされることではなくて、自分じぶん決定けってい以前いぜんのことなのである。そこでは、主体性しゅたいせい確立かくりつよりは自我じが滅却めっきゃくたっとばれる。そういう武士ぶしにとって、火薬かやく鉄砲てっぽう文字もじどおり舶来はくらい武器ぶきである。かれらは、その舶来はくらい武器ぶき駆使くしするようになった。しかし武士ぶしはそれによって戦争せんそう仕方しかた一変いっぺんさせはしたが、武士ぶしであることをめなかったのである。
大橋おおはし良介りょうすけ武士ぶしてきなもの、ヨーロッパてきなもの」)


長文ちょうぶん 6.3しゅう
 【1】ようするに、いちきゅうはち年代ねんだいはいって一挙いっきょ噴出ふんしゅつしたコンピュータ・コミュニケーション技術ぎじゅつ発展はってん普及ふきゅうは、連続れんぞくてき進行しんこうしていた技術ぎじゅつ人々ひとびと欲求よっきゅう変化へんかによって方向ほうこうえ、予想よそうがい分野ぶんやにおいても爆発ばくはつてきひろまりだした現象げんしょうなのだ。【2】そしてそれをしたのは、なな年代ねんだい浸透しんとうした資源しげん有限ゆうげんかんによってしょうじた人々ひとびと欲求よっきゅう変化へんか、つまり美意識びいしき倫理りんりかん変化へんかだといえる。
 【3】このてんにおいて、目下めした進行しんこうちゅうのコンピュータ・コミュニケーションを中心ちゅうしんとする技術ぎじゅつ進歩しんぽいちきゅう世紀せいきまつから世紀せいき前半ぜんはんにかけてあやつかえされた内燃ないねん機関きかん電気でんき技術ぎじゅつ化学かがく工業こうぎょう発達はったつなどとは、まったちがった社会しゃかいてき影響えいきょうっている。【4】つまり、産業さんぎょう革命かくめい以来いらい技術ぎじゅつ革新かくしんは、ものざい量的りょうてき増大ぞうだいもとめる欲求よっきゅうにそってすすんだものであり、しゅとしてものざい供給きょうきゅうりょう増大ぞうだい加工かこう向上こうじょう役立やくだった。ところが、こん進行しんこうしている技術ぎじゅつ革新かくしんは、しゅとして多様たよう情報じょうほうによる「部分ぶぶん増大ぞうだいしょう資源しげんによるものざい消費しょうひ削減さくげん目指めざすものだ。【5】いいかえれば、創造そうぞうてき増加ぞうかにこそ役立やくだ種類しゅるいのものなのである。
 このちがいは、きわめて重要じゅうようであり、本質ほんしつてきでもある。産業さんぎょう革命かくめい以来いらい技術ぎじゅつ革新かくしんは、内燃ないねん機関きかん電気でんき技術ぎじゅつ化学かがく工業こうぎょうも、それが増大ぞうだいさせようとしたものざい生産せいさんはみな、数値すうち可能かのうなものだった。【6】おべいてつなどの素材そざい勿論もちろん自動車じどうしゃやテレビ、建造けんぞうぶつといった高度こうど加工かこうひんでもそれぞれの加工かこう換算かんさんして統一とういつされた単位たんい(もっぱら価格かかく換算かんさんされた)で計上けいじょうすることが、すくなくとも理論りろんてきには可能かのうである。したがって、国民総生産こくみんそうせいさん(GNP)といった概念がいねんったし、それをとき系列けいれつてきに、あるいは国際こくさいてき比較ひかくすることも可能かのうであった。
 【7】しかし、いますすんでいる技術ぎじゅつ革新かくしん増加ぞうかさせようとしている「創造そうぞうは、現実げんじつてきにも理論りろんてきにも数値すうち不可能ふかのう性格せいかくのものである。デザインのし、イメージ価値かち大小だいしょう技術ぎじゅつ高低こうてい生活せいかつ快適かいてきさや都市とし空間くうかんのアメニティといったものは、本質ほんしつてき主観しゅかんてきか、すくなくとも相対そうたいてきである。【8】これらの価値かち価格かかく経済けいざい統計とうけい計上けいじょうされるのは、人々ひとびとがそれぞれの主観しゅかんおうじて対価たいか支払しはらった結果けっか集計しゅうけいぎない。したがって、その価格かかくが、それを生産せいさんするのに投入とうにゅうされた費用ひよう見合みあうという保証ほしょうは、長期ちょうきてきかんがえてもまった存在そんざいしない。
 【9】一人ひとりのデザイナーがヒット商品しょうひん創造そうぞうすることもあるわりに、せんにんだい事務所じむしょでもまった流行りゅうこうせないこともある。いちはちさい少年しょうねんがコンピュータ・ソフトで大儲おおもうけすることもあるが、さんねんのベテランもまったくだめなこともある。【0】くちコミだけで最高さいこうのイメージをるおみせもあれば、だい広告こうこく成果せいかまったくないこともある。主観しゅかん依存いぞんするは、いかにそれが社会しゃかいされてもやっぱり数値すうち不可能ふかのうであり、コストとの関係かんけい存在そんざいしない値打ねうちなのだ。
 こうした社会しゃかいてき主観しゅかん依存いぞんする数値すうちできない「」への傾斜けいしゃふかまることは、せんもっぱ数値すうちによる客観きゃっかんせい重視じゅうししてきた工業こうぎょう社会しゃかいてき合理ごうり精神せいしんには、許容きょようしがたいことだ。当然とうぜん、それゆえ反発はんぱつ反感はんかんもある。そこから「いろんなうん不運ふうんがあっても全体ぜんたいとして巨視的きょしてき平均へいきんてきれば、やっぱり価格かかくはコストに見合みあうはずだ」という主張しゅちょうてくるにちがいない。
 しかし、かり日本にっぽん全体ぜんたい、あるいは日本にっぽん全体ぜんたいなん年間ねんかんかといった大数たいすうたいすう平均へいきんをした結果けっかが「価格かかくはコストに見合みあう」としても(こんな事実じじつがあるという保証ほしょうまったくない)、ものざい単純たんじゅんなサービスにおけるごとく「コストに価格かかく接近せっきんする運動うんどうかえす」ためではなく、コストから上下じょうげ双方そうほうおおきく乖離かいりした価格かかくがそれぞれ単独たんどく発生はっせいした結果けっか偶然ぐうぜんぎない。
 ようするに、「」の値打ねうちの形成けいせい原理げんりは、工業こうぎょう社会しゃかいてきではないし、そんなたいして欲求よっきゅうつのらせ、しみなく対価たいか支払しはら精神せいしんも、工業こうぎょう社会しゃかいてき合理ごうり精神せいしんとは異質いしつのものである。
 だからこそ、「」が重要じゅうよう役割やくわりたすような社会しゃかい――「社会しゃかい」は、工業こうぎょう社会しゃかい延長えんちょうじょうにある「高度こうど社会しゃかい」などではなく、工業こうぎょう社会しゃかいとはまったべつの「しん社会しゃかい」なのである。
 いま、このいちきゅうはち年代ねんだいに、日本にっぽんで、そして世界せかい先進せんしん諸国しょこく(とりわけアメリカ)でこっている変革へんかくは、たんなる技術ぎじゅつ革新かくしんでもなければ、一時いちじてき流行りゅうこうでもない。それは、産業さんぎょう革命かくめい以来いらいひゃくねんりに人類じんるいむかえた「しん社会しゃかい」をだい変革へんかく、いわば「革命かくめい」なのである。

堺屋さかいや太一たいち 『革命かくめい』による)


長文ちょうぶん 6.4しゅう
長文ちょうぶんふたつある場合ばあい読解どっかい問題もんだいよう長文ちょうぶんいち番目ばんめ長文ちょうぶんです。】
 いちきゅう世紀せいき自由じゆう主義しゅぎは、危険きけんとはだれにもえるもので、危険きけん回避かいひ各自かくじ自己じこ決定けっていゆだねればいいというかんがかた立脚りっきゃくしていた。危険きけん経験けいけんてき自明じめいせい自由じゆう主義しゅぎ内側うちがわでつながっていた。すなわちJ・S・ミルの『自由じゆうろん』がされたいちはちきゅうねんには、えない微生物びせいぶつ危険きけんだという医学いがく思想しそうはまだ成立せいりつしていなかった。病原びょうげんからだせつ成立せいりつは、コッホによる結核けっかくきん発見はっけんいちはちはちねんであり、パスツールによる狂犬病きょうけんびょう研究けんきゅういちはちはちねん以降いこうである。自由じゆう主義しゅぎ原則げんそくは、危険きけん経験けいけんてき自明じめいせいというある意味いみではあやまった想定そうていうえつくられてしまった。
 その、われわれはえない危険きけん時代じだいむかえることになった。自動車じどうしゃはしらせると地球ちきゅう温暖おんだんする。だれもその因果いんが関係かんけいることはできない。った黒土こくどのひとかたまりにダイオキシンがどれだけふくまれているか、ることはできない。トウモロコシDNAのなか危険きけん塩基えんき配列はいれつえない。せるふうのなかの放射能ほうしゃのうえない。
 現代げんだい安全あんぜんせい理解りかいするためには、「地球ちきゅう全体ぜんたい人間にんげん空気くうきなかにすてる炭酸たんさんガスが原因げんいんになって地球ちきゅう温暖おんだん南極なんきょくにある氷河ひょうがけて、ねん太平洋たいへいようのなかの珊瑚礁さんごしょうくに水没すいぼつさせる」ということを理解りかいしなくてはならない。
 この文章ぶんしょうなかにはえないものがたくさんある。「地球ちきゅう全体ぜんたい」はえない。「空気くうきなかにすてる炭酸たんさんガス」はえない。「地球ちきゅう温暖おんだん」はえない。「炭酸たんさんガスという原因げんいんによる温暖おんだんという結果けっか」はえない。「南極なんきょく氷河ひょうが」はえない。「ねん」はえない。「太平洋たいへいようのなかの珊瑚礁さんごしょう」はえない。それではどうして「ゴミをへらせば地球ちきゅうまもることになるのか」がかるとえるだろう。もしも、「うたがわしいことをしんじてはいけない」というタテマエをまもるなら、「ゴミをへらせば地球ちきゅうまもることになる」としんじてはいけないという結論けつろんになるのだろうか。
 そこで真理しんりをつきとめることにしよう。「科学かがくてき真理しんりなんおな条件じょうけん実験じっけんかえすことによってたしかめられる」というタテマエにしたがうとする。石油せきゆをたくさんやしてなん実験じっけんをしてたら、「地球ちきゅう砂漠さばくえる」、「たくさんの生物せいぶつ絶滅ぜつめつする」、「人間にんげんきていくための地下ちか資源しげんがなくなる」、「地面じめんしたがゴミだらけになってみずめなくなる」という結果けっかこったと仮定かていしよう。やっぱり「ゴミをへらせば地球ちきゅうまもることになる」というのはただしかったという結論けつろんがでるだろう。しかし、そのことをたしかめる人間にんげんは、もののいない砂漠さばくものみずもないという状況じょうきょうにいるかもしれない。
 「ゴミをへらせば地球ちきゅうまもることになる」が本当ほんとうかどうか。なんかえしてたしかめることができない。環境かんきょう問題もんだい日常にちじょう経験けいけんだけでは判断はんだんがつかないので、高度こうど専門せんもんてき知識ちしきまなばなくてはならない。情報じょうほう依存いぞんてきにしか因果いんが関係かんけい把握はあくできない。わる結果けっかがでてしまったのちではかえしがつかないので、後悔こうかいしないですむように情報じょうほうとらえて事前じぜん予防よぼうしなくてはならない。
 どんな事柄ことがらでも「わる結果けっかがでないように完全かんぜん予防よぼうすること」はとてもむずかしい。「風邪かぜ予防よぼう」の場合ばあいには、予防よぼう失敗しっぱいしてもあまり心配しんぱいはいらない。予防よぼう失敗しっぱいしても風邪かぜかならずなおるからである。ところが「砂漠さばくえる」とか「珊瑚礁さんごしょう水没すいぼつする」とか「明日あしたから使つか石油せきゆがない」とか「くじら絶滅ぜつめつする」とかということは、予防よぼう失敗しっぱいしたら永遠えいえんかえしがつかない。完全かんぜん予防よぼうという側面そくめんからも安全あんぜん情報じょうほう依存いぞん成立せいりつする。
 ベックは、その『危険きけん社会しゃかい』(いちきゅうはちろくねん)で「ヒューム以後いごあきらかとなったように、因果いんが関係かんけい本質ほんしつてき知覚ちかくつうじては推定すいていできない。因果いんが関係かんけい推定すいていはあくまで理論りろんもとづくのである」とべている。
 安全あんぜんせいについて情報じょうほう依存いぞんがた社会しゃかいつくりあげることなしには、われわれは安全あんぜん確保かくほできない。安全あんぜんせい古典こてんてき自由じゆう主義しゅぎのタテマエからすれば自己じこ決定けっていけん範囲はんいふくまれる。これは自分じぶん生命せいめい自己じこ防衛ぼうえいけん同種どうしゅのものとけとめられている。実際じっさいには、安全あんぜんであるかかは経験けいけんてき自明じめいではなく、信頼しんらいできる情報じょうほう依存いぞんしている。

 (加藤かとう尚武なおたけ価値かちかん科学かがく技術ぎじゅつ』)
 【1】翌日よくじつあさから夕方ゆうがたまでのおよそななあいだ程度ていど発表はっぴょうえ、そしてふたたび、夕食ゆうしょくむかえた。わたしなに特定とくていのテーマに沿って、学生がくせいたち討論とうろんすることをかんがえなかったわけではなかったが、昨日きのう風景ふうけい脳裏のうりからはなれなかった。【2】昨日きのうのあの不思議ふしぎ風景ふうけい教育きょういくしゃとしてのわたしよりも、実験じっけん心理しんり学者がくしゃとしてのわたしをはるかに刺激しげきしていた。昨日きのうおなじような状況じょうきょうで、二日ふつかよる学生がくせいたちがはたしてどのようにごすのだろうかという疑問ぎもん誘惑ゆうわくに、わたしは、こうしきれないでいた。【3】そこでふたた昨日きのう同様どうよう自由じゆう時間じかんかれらにあたえることにした。そして、結果けっか再現さいげんされた。昨日きのう同様どうように。二日ふつかもゲームが深夜しんやまで展開てんかいされた。
 「いまかれらにはゲームをするよりも、もっと大切たいせつなことはないのだろうか。【4】たとえば自分じぶん関心かんしんのあることをひといてもらったり、ひとはなしいてみたいとはおもわないのだろうか」。この再現さいげんされた不思議ふしぎ風景ふうけい説明せつめいするためにいささかの考察こうさつこころみようとしたが、結局けっきょく成功せいこうしないまま、わたしあさねむりについた。【5】そしてわたし愚問ぐもんは、なん解答かいとうをもいだせないままに、初秋しょしゅうむかえてしまっていた。
 ところがわたしひとつの解答かいとうらしきものへの指針ししんを、合宿がっしゅくしばらくして研究けんきゅうしつおとずれた一人ひとり学生がくせいとの会話かいわ一端いったんに、いだした。【6】その学生がくせい言葉ことば要約ようやくすると「あるしゅのシリアスな話題わだい気軽きがるくちにしてはいけない。それは相手あいて重荷おもに背負しょわせることになるかもしれないし、もし相手あいてはなしってこなかった場合ばあいには、自分じぶんだけががってしまうかもしれないから」。【7】言葉ことばおぎなっていえば、学生がくせいたちはシリアスな話題わだい相手あいてこまらせたくもないし、自分じぶん自身じしんこまりたくはないのである。そしてかれらは他人たにん自分じぶん傷付きずつけたくはないのである。またいままでに十分じゅうぶん不自由ふじゆうおもいをしてきたから、過去かこ不自由ふじゆうさをもどすために、こん眼前がんぜんのそれがなにかわからないままに、とにかくいまをこなすのにいそがしいのである。【8】シリアスな状況じょうきょうかかわってこまるということはどまることであり、どまるということはかれらにとって、無条件むじょうけんに「いけないこと」なのである。すくなくともゲームをしていれば、その世界せかい擬似ぎじてきにシリアスな状況じょうきょうおちいるとしても、現実げんじつ人間にんげん関係かんけい世界せかいでのわずらわしさに関与かんよする機会きかい回避かいひできるのかもしれない。
 【9】結論けつろんいそげば、かれらはかぎりなくやさしいのである。ただ他人たにんたいしてだけではなく、自分じぶんたいしても。またかれらはおさないのではなく、おさな時期じきにするべきことを十分じゅうぶんにさせてもらえなかっただけなのかもしれない。【0】わたしにとって不思議ふしぎおもえた風景ふうけいわたし自身じしん大学だいがく時代じだい記憶きおくもとめたことが間違まちがいであって、そのげん風景ふうけいわたし高校こうこう中学ちゅうがく時代じだい記憶きおくもとめるべきだったのである。
 学生がくせいたち行動こうどうたいするこうしたわたし拡大かくだい解釈かいしゃくは、しかし、わたしつぎのような杞憂きゆうへとさそう。小学校しょうがっこう時代じだいに、やりたかったけれどもできなかったことを、中学校ちゅうがっこう時期じきへとさきばしし、中学校ちゅうがっこうでやろうとおもってもできなかったことを、高校こうこうへとさきばしにし、高校こうこうでできなかったことを、大学だいがくに、大学だいがくでのことは、大学院だいがくいんへと、あるいは社会しゃかい生活せいかつへと、順次じゅんじさきばしにしているのではないだろうか。(中略ちゅうりゃく
 「しあわせの姿すがたはたったひとつであるが、不幸ふこう姿すがたすうかぎりない」。しかし、現今げんこん世情せじょうながめると、しあわせの姿すがた曖昧あいまいすぎて記述きじゅつできず、不幸ふこう姿すがたはまたおおすぎて記述きじゅつできない。とすれば、わたしたちには「こまってどまる」という贅沢ぜいたくゆるされていないのであり、そのために逆説ぎゃくせつてき意味いみで、学生がくせいたちこまらないための智恵ちえとしての擬似ぎじ実践じっせんりょくけてきたのではないだろうか。何故なぜなら、男女だんじょとしてはなすことも、個人こじんてき重荷おもにかたることもくことも、それらいっさいの作業さぎょうは、すべて状況じょうきょうをシリアスにとらえ、われかれとをさししならない人間にんげんとして認識にんしきすることを前提ぜんていとしてはじまるからである。すなわち、そうした状況じょうきょう認識にんしき畢竟ひっきょうわれかれ心身しんしん両面りょうめんにわたってきずつくべき生身なまみきものであるという認識にんしき共有きょうゆうもとめているのである。

 (斉藤さいとうひろしてん幸福こうふく順延じゅんえん方程式ほうていしき』)