(Translated by https://www.hiragana.jp/)
課題集
長文 4.1週
【
長文が
二つある
場合、
音読の
練習はどちらか
一つで
可。】
【1】
緑の
豊かな
草原に、シカやウサギと
一緒に
人間が
穏やかにたたずんでいる。
空には
小鳥が
飛び
交い、
日は
暖かく
周囲を
照らしている。
何かのパンフレットで
見た
天国の
光景は、このようなものだった。【2】そのとき、
私はふと
天国というのは
意外に
退屈なところかもしれないと
思った。
私たちの
描く
未来の
社会は、
何の
矛盾もない
平和な
世の
中ではない。もっと
溌剌と、
生きるエネルギーに
溢れたものであるべきだ。【3】それを、
私は
自由な
自己実現の
可能な
社会と
呼びたいと
思う。
個人が
自由に
自己実現を
図るための
条件として、
戦争や
暴力のない
平和な
社会はもちろん
必要だ。だが、ここでは、
最も
重要な
条件として
二つのことを
挙げたい。【4】その
第一は、
豊かさだ。これまでの
社会の
豊かさは、
主に
奪う
豊かさから
成り
立っていたように
思う。
安く
仕入れて
高く
売るという
考え
方に
基づいた
豊かさは、より
安く
仕入れ、より
高く
売るために、ライバルを
蹴落とすという
考えにも
結びついていた。【5】
競争によって
社会は
豊かになるという
考えに、
私たちは
長い
間慣らされてきた。しかし、
自然界に
見られる
豊かさはこれとは
反対のものだ。それは、いわば、それぞれの
生き
物が
個性を
生かして
作り
出した
豊かさを
分かち
合うということで
成り
立っている。【6】
人間社会も、この
分かち
合う
豊かさの
仕組みを
生かすことができるはずだ。
個人が
自由な
自己実現を
図るための
条件の
第二は、
自分自身の
目標を
見つけるための
教育だ。【7】これまでの
教育は、
言わば
与えられた
一本道で
序列をつけるための
教育だった。そこで
優先されたのは、
個人の
目標よりも、
社会の
目標に
合わせることだった。
学びたいものよりも、
学ぶべきものが
優先される
教育では、
学ぶ
意欲はわきにくい。【8】しかも、その
学ぶべきものの
多くは、
何かの
役に
立つというよりも
点数をつけるために
役に
立つということで
学ばされてきたのではないか。これからの
社会では、
一人ひとりが
各人の
適性にあった
教育を
自ら
選ぶことができるようになる
必要がある。それは、もちろん
適性の
差が
格差に
結びつかない
社会を
前提にしている。
【9】「カゴに
乗る
人、かつぐ
人、そのまたワラジを
作る
人」という
言葉がある。
社会は、さまざまな
人の
分業によって
成り
立っている。その
分業が
社会の
豊かさに
結びつくためには、カゴに
乗る
人、かつぐ
人、そのまたワラジを
作る
人それぞれが
自分の
希望でその
仕事につくと
同時に、それぞれの
仕事に
待遇面での
格差がないことが
必要だ。【0】これからの
社会では、
個人の
幸福は
社会全体の
幸福を
抜きにしてはありえない。
自由な
情報社会では、すべての
人が
納得する
仕組みでなければ、
安定した
社会は
作れないからだ。
未来の
社会は、
天国のような
外見の
穏やかさの
中にあるのではない。
社会を
構成する
一人ひとりが
生きがいを
持って
生きることの
中にある。
天国を
作り
出すのは、シカやウサギも
含めたすべての
構成員の
日々の
生き
生きとした
生活なのだ。
(
言葉の
森長文作成委員会 Σ)
【1】
田中美知太郎さんがプラトンの
事を
書いていたのを、いつか
読んで
大変面白いと
思った
事がありますが、プラトンは
書物というものをはっきり
軽蔑していたそうです。【2】
彼の
考えによれば、
書物を
何度開けてみたって、
同じ
言葉が
書いてある、
一向面白くもないではないか、
人間に
向って
質問すれば
返事をするが、
書物は
絵に
描いた
馬の
様に、いつも
同じ
顔をして
黙っている。
人を
見て
法を
説けという
事があるが、
書物は
人を
見るわけにはいかない。【3】だからそれをいい
事にして、
馬鹿者どもは、
生齧りの
知識を
振り
廻して
得意にもなるのである。プラトンは、そういう
考えを
持っていたから、
書くという
事を
重んじなかった。
書く
事は
文士に
任せて
置けばよい。
哲学者には、もっと
大きな
仕事がある。【4】
人生の
大事とは、
物事を
辛抱強く
吟味する
人が、
生活の
裡に、
忽然と
悟るていのものであるから、たやすく
言葉には
現せぬものだ、ましてこれを
書き
上げて
書物という
様な
人に
誤解されやすいものにして
置くという
様な
事は、
真っ
平である。【5】そういう
意味の
事を、
彼は、その
信ずべき
書簡で
言っているそうです。
従って
彼によれば、ソクラテスがやった
様に、
生きた
人間が
出会って
互いに
全人格を
賭して
問答をするという
事が、
真智を
得る
道だったのです。【6】そういう
次第であってみれば、
今日残っている
彼の
全集は、
彼の
余技だったという
事になる。
彼のアカデミアに
於ける
本当の
仕事は、
皆消えてなくなって
了ったという
事になる。そこで、プラトン
研究者の
立場というものは、
甚だ
妙な
事になる、と
田中氏は
言うのです。【7】プラトンは、
書物で
本心を
明かさなかったのだから、
彼自ら
哲学の
第一義と
考えていたものを、
彼がどうでもいいと
思っていた
彼の
著作の
片言隻句からスパイしなければならぬ
事情にあると
言うのです。【8】
今日の
哲学者達は、
哲学の
第一義を
書物によって
現し(ママ)、スパイの
来るのを
待っている。プラトンは、
書物は
生きた
人間の
影に
過ぎないと
考えていたが、
今日の
著作者達は、
影の
工夫に
生活を
賭している。
習慣は
変って
来る。【9】ただ、
人生の
大事には
汲み
尽せないものがあるという
事だけが
変らないのかも
知れませぬ。
文学者は、
皆口語体でものを
書く
様になったので、
書く
事と
喋る
事との
区別が
曖昧になったが、
曖昧になっただけです。
両者が
歩み
寄って
来た
様に
思うのも
外見に
過ぎない。【0】あれが
文学で、あれが
文章なら、
自分にも
書けそうだという
人が
増えた、
文学を
志望する
事がやさしくなった、それだけの
話で、とるに
足らぬ
事だ。それよりもよく
考えてみると、
実は、
文学者にとって
喋る
事と
書く
事とが、
今日の
様に
離れ
離れになって
了った
事はないという
事実に
注意すべきだと
思います。
昔、
歌われる
為、
語られる
為の
台本だった
書物は、
印刷され
定価がつけられて、
世間にばらまかれれば、これを
書いた
人間ももうどうしようもないという
事になりました。
今日の
様な
大散文時代は、
印刷術の
進歩と
離しては
考えられない、と
言う
事は、ただ
表面的な
事ではなく、
書く
人も、
印刷という
言語伝達上の
技術の
変革とともに
歩調を
合わせて
書かざるを
得なくなったという
意味です。
昔は、
名文と
言えば
朗々誦すべきものだったが、
印刷の
進歩は、
文章からリズムを
奪い、
文章は
沈黙して
了ったと
言えましょう。
散文が
詩を
逃れると、
詩も
亦散文に
近づいて
来た。
今日、
電車の
中で、
岩波文庫版で
金槐集を
読む
人の、
考えながら
感じている
詩と、
愛人の
声は
勿論その
筆跡まで
感じて、
喜び
或いは
悲しむ
昔の
人の
詩とはなんという
違いでしょう。
散文は、
人の
感覚に
直接訴える
場合に
生ずる
不自由を
捨てて、
表現上の
大きな
自由を
得ました。この
言わば
肉体を
放棄した
精神の
自由が、
甚だ
不安定なものである
事は、
散文が、
自分を
強制する
事も、
読者を
強制する
事も、
自ら
進んで
捨てた
以上仕方がない
事でしょう。いい
散文は、
決して
人の
弱味につけ
込みはしないし、
人を
酔わせもしない。
読者は
覚めていれば
覚めている
程いいと
言うでしょう。
優れた
散文に、もし
感動があるとすれば、それは、
認識や
自覚のもたらす
感動だと
思います。
(
小林秀雄『
考えるヒント』)
長文 4.2週
【1】ふつう
死は、
心臓が
停止して
血流がとだえ、それに
続く
全身の
生命活動の
停止として
起こる。ところが
脳が
先に
機能停止におちいることがある。この
場合、
中枢神経をまとめる
脳の
死によって
全身もやがて
死ぬことになるが、
人工呼吸器の
力でしばらくの
間は(そして
現在ではかなり
長期にわたって)
脳死状態の
身体を「
生かして」おくことができる。【2】つまり
死を
抑止するテクノロジーの
介入によって、
生を
手放しながらなお
死を
中断された、ある
種の
中間的身体が
作り
出されるのである。
【3】
脳死が
心臓死と
決定的に
違うのは、
死が
全身に
及ぶプロセスやそのタイムラグのためでなく、このきわめて
現代的な
上に
述べた「
中間的身体」を
生み
出すからである。
脳の
機能を
失ったこの
身体は、もはや
人格としての
発現をいっさい
欠いて、いわば
誰でもない
身体として
横たわっている。(
中略)
【4】
脳死をめぐる
現在の
論議の
中で
問われているのは、
実は
脳死と
心臓死といずれが
厳密な
意味で「
人の
死」かということではない。それは
向こうから
訪れる
死を「みなしの
死」と
置き
換えるということなのだ。
【5】
移植治療にとっては、
訪れる
死を
確認していたのでは
遅いのだ。そこで
脳死を
人の
死とみなし、その
段階で
身体を
人格性の
拘束から
解放することにする。それでなければせっかく
死を
抑止しても、いずれ
死にすべてを
引き
渡すことになってしまう。【6】だが、この「みなしの
死」(「みなし
法人」というときのように)によって、「
誰でもない
身体」はもはや「
人ではない
身体」となり、
脳死身体の「
資材」
化への
道が
開けることになる。
言ってみればそれは、
役立たない
自明の
死を、
人間の
利益にそくして
人間が
規定する「
役立つ
死」へと
転化することである。
【7】
人間は、これまでありのままの
世界を
否定し、それを
人間にとっての
世界へと
転化して、
自己の
可能性の
領域を
拡張してきた。その
人間にとっても、
死だけは
最近まで、
無意味な
喪失であり
続けてきた。【8】だがテクノロジーは
死を
壁際まで
追いつめ、ついにその
領分から
生に
回収しうる
部分を
取り
戻すにいたった。この「みなしの
死」によって、
今や
死は
新しい「
資材」を
分泌する
生産的な
死、
人間自身の
規定する「
人間的な
死」となった……
文明の
武勲詩はこの
死の
征服をそんなふうに
語るのかもしれない。
【9】だが、この
論理は
事態の「
不気味さ」に
目をつむっている。
医療のテクノロジーがもたらしたのは、「
人ではない
身体」とか、
人体の「
資材」
化とかいう、
人間のまったく「
非人間的」な
可能性なのだ。
核兵器や
遺伝子工学が
象徴するように、
現代のテクノロジーはもはや
人間の
道具におさまる
範囲を
超えて
進んでいる。【0】そこでは
人間に「
役立つ」はずのことが、
人間を「
非人間化」するようにさえ
働くことになる。
人間はテクノロジーの
主人ではなく、テクノロジーが
変えてゆく
世界の
中で、いつのまにか
自分もいっしょに
変えられているのだ。だから、
人間はこの「
不気味」な
状況を
欺瞞なしに
受けとめ、そこに
身を
開きながらありうべき
関係を
探ってゆくほかはない。それが「
非人間化」する
世界の
中で、
唯一保ちうる「
人間的」
態度だと
言えるだろう。
あの
身体には、もはやそれを「
私だ」と
主張する
人はいない。では、それは「
人」ではないのか? ここで
本当に
問われているのはそのことである。
実はその
種の
問いを
人間はすでに
発したことがある。
世界戦争に
象徴される
今世紀の
人間の、
栄光と
同じように
悲惨だった
体験は、
征服のテクノロジーの
中で
非人格化した
身体的存在を、「それでも
人だ」と
言うことから
出発する
実存の
思想を
鍛えてきた。それがこの
問題に
大きな
示唆を
与えている。
移植治療によって
人が
生きられるのは、
人間が
身体的存在だからである。それに、
移植される
臓器は「
生きて」いなければ
役にたない。その「
生きている」
身体から、それでも
臓器の
摘出が
許されるのは、なかば
死に
委ねられたこの
臓器も、
他者の
身体に
引き
取られてしか
生きえないからである。つまり
死ぬべき
臓器は
他者において
復活するのだ。
一方それを
引き
受けた
他者も、
委ねられた
臓器をけっして
自分のものとして
同化するわけではない。その
人の
身体は
免疫抑制剤によって
自己の
固有性を
弱めながら、
他者の
臓器を
受け
入れているのだ。そのようなリレーのうちに
身体的生命はそれ
自身の
論理を
貫いており、
部分身体の
受容と
復活をとおして、
不老長寿とは
別の「
不死性」のきらめきさえのぞかせている。
長文 4.3週
【1】
何はともあれ、このようにしても、クラシック
音楽への
道はつけられる
時代になった。あらゆるものがカジュアルになっていき、さまざまな
機器の
圧倒的な
便利さと
引きかえに、「
傾聴」したり「
注視」する
面倒な
手続きがどんどん
失われていく
時代のなかで、【2】「
真面目」で「
傾聴を
迫る」クラシック
音楽はほんとうに
伝統芸能化せずに
生きのびられるのか、と
心配したのが
杞憂だったかのように、それは
今ではおしゃれなファッションにさえなることができる。【3】
特定の
商品を
際立たせることをやめ、
全般的な
生活スタイルのイメージを
操作しようとしはじめた
企業の
文化戦略にとって、それは
軽薄短小の
次に
来る「さらに
新しいもの」でありうる。
しかし、こうしたことがすぐにクラシック
音楽の
啓蒙になり、
普及につながる、などとは
早合点しないほうが
良いだろう。【4】なかんずく
伝統的な
音楽芸術の
理念、とりわけ
十九世紀の
音楽観が
要求したような「
始まりと
終わりがあって、そのあいだの
過程は
不可逆的であり、
部分と
部分が
相互に
有機的に
関係しあうとともに、
曲全体は
細部まで
意味づけられた
閉じた
統一体である」ととらえられるような
音楽作品の
理念、【5】
聴く
方から
言えば「かならず
最初から
最後までを
順序どおりに
中断せずに
聴きとおし、
刹那の
快感だけでなく、
全体の
構造の
脈絡を
理解すべき」であるような
音楽体験の
理念が、そこで
受け
継がれているかどうかは、まったく
疑わしい。【6】たんなる「
楽想」と、
有機的統一体として
仕上げられた「
音楽作品」の
違いは
画然としているのだから、
音楽作品とは
本来切断してはならないもののはずなのに、それを
切り
刻んで
差し
出すコマーシャルの
十五秒間は、【7】もはや
西洋近代のひとつの
極限的な
文化のかたちというより、おびただしく
流通する
商業音楽を
飽食するなかでこそ
光るエスニックのような
新鮮さなのかもしれない。
世の
中にはクラシック
音楽は
難しいと
言う
人が
今でも
結構いる。【8】その
人たちが
口をそろえて
語るのは、
一曲が
長いので
途中で
退屈してしまう、まして
暗く
閉ざされたコンサート
会場で
長時間、
物音ひとつ
立てずにじっと
座っているのは
苦痛だ、ということである。このことはとりもなおさず、
一様に、クラシック
音楽の
真髄とはその
反対、【9】つまり
長い
一曲を
聴きとおす、それもながら
聴きではなく、
全身耳となって
聴きとおす
時に、
旋律やりズムや
音響といった
現象的な
快楽にとどまらぬ、それを
超えた「
作品」という
包括的でドラマティックな
意味連関が
体験できることにある、と
了解されていることを
示している。【0】もちろん、
細部が
全体に
劣るわけではない。だが、
曲全体という
世界のなかに
位置づけられることで、
細部はそれだけで
存在するより
以上の
意味を
持つことができる。(
中略)
しかし、コマーシャルの
十五秒のクラシック
音楽は、そういう
体験にはほど
遠い、どころか、その
入口でさえないのではないか、と
私は
思う。そこで、
鳴っているのはたしかに
作品の
一部には
違いないが、その
向こうに
作品全体を
暗示することのない、むしろ
作品という
根から
切り
離された、それ
自体で
味わわれる
個的で
快楽的な
現象である。コマーシャルにぞくぞくと
登場し、しかもそれがある
感銘を
誘っているとしても、かならずしもそれにつれて
人々が
容易にクラシック
音楽の
世界にいざなわれるとは
考えないほうが
良い。
美しくサンプルを
並べたカタログは、もはや
憧憬の
入口ではなく、
憧憬の
対象そのものになろうとしているのだから。
とにもかくにも、こうしたことは、
音楽、というよりその
受けとめ
方が、いつの
間にか
変容しつつあることを
示しているのではないだろうか。
つまり、コマーシャルのクラシック
音楽が
効果を
上げたのは、たんにコマーシャルの
世界でありふれていないので
新鮮だったというだけではなく、
今日では
一曲を
有機的統一体として
把握する
構造的な
聴き
方のできない
人、あるいは
秘かな
異和を
抱いている
人がしだいに
増えており、
十五秒ぽっきりという
異端の
聴き
方がその
人たちの
心の
間隙をついた、という
一面があったのではないだろうか。
(
岡田敦子『
永遠は
瞬間のなかに』より)
長文 4.4週
【
長文が
二つある
場合、
読解問題用の
長文は
一番目の
長文です。】
【1】
文明とは
何かを
地球システム
論的に
考えると、「
人間圏を
作って
生きる
生き
方」となります。
人間圏の
誕生がなぜ
一万年前だったかというのは、
気候システムの
変動に
関わってきます。【2】
気候システムが
現在のような
気候に
安定してきたのは
一万年前のことです。それに
適応してその
頃、
我々はその
生き
方を
変えたんですね。
【3】
人間圏を
作って
生きる
生き
方というのは、じつは
農耕牧畜という
生き
方です。それ
以前、
人類は
狩猟採集という
生き
方をしてきた。
狩猟採集というのはライオンもサルも、あらゆる
動物がしている
生き
方です。【4】したがってこの
段階までは
人類と
動物の
間に
何の
差異もなかった。これを
地球システム
論的に
分析すると、
生物圏の
中の
物質循環を
使った
生き
方ということになります。
生物圏の
中に
閉じた
生き
方です。
【5】それに
対して
農耕牧畜はというと、たとえば
森林を
伐採して
畑に
変えると、
太陽からの
光に
対するアルベド(
反射能)が
変わってしまう。ということは、
地球システムにおける
太陽エネルギーの
流れを
変えているわけです。【6】また、
雨が
降ったとき、
大地が
森林でおおわれているときと
畑とではその
侵食の
割合が
異なります。
別の
言葉でいえば、そこに
水が
滞留している
時間が
違ってくる。すなわち、エネルギーの
流れだけではなく、
地球の
物質循環も
変わるということです。【7】これを
地球システム
論的に
整理して
概念化すると、
人間圏を
作って
生きるということになる。
人類が
生物圏から
飛び
出して、
人間圏を
作って
生き
始めたために、
地球システムの
構成要素が
変わったわけです。
【8】ところで、
先ほど
一万年前に
人間圏ができたのは
気候が
変わったからだと
言いました。そういう
時期は
最近の
一〇〇
万年くらいをとっても
何回かあったでしょう。【9】
人類の
誕生以来の
歴史七〇〇
万年ぐらいまで
遡ってみれば、
一万年前と
同じような
時期が
何度もあったはずですから、たとえばネアンデルタール
人が
農耕を
始めてもよかったことになる。でも、
彼らはそうしなかった。【0】
農耕牧畜という
生き
方を
選択し、
人間圏を
作ったのは、われわれ
現生人類だけなんです。
それはなぜなのか。
現生人類に
固有の、
何か
生物学的な
理由があるのではないかと
考えられます。
類人猿や
他の
人類にはなく、
我々だけがもっている
特徴は
何だろうと
考えると、まず
思い
当たるのは「おばあさん」の
存在です。おばあさんとは、
生殖期間が
過ぎても
生き
延びているメスのことです。たとえば、
類人猿のチンパンジーのメスと
比べても、
現生人類のメスは
生殖期間終了後の
寿命が
長い。なおこの
場合、オスは
関係ありません。オスは
死ぬまで
生殖能力があります。したがって、おじいさんは
現生人類以外にも
存在します。しかし、おばあさんは
他の
哺乳類には
存在しないし、ネアンデルタール
人の
化石からも、
現生人類のおばあさんに
相当する
骨は
見つかっていません。おばあさんの
存在は、
現生人類だけに
特徴的なことなんです。
では、おばあさんが
存在すると
何が
起こるのか。すぐに
思いつくのは、
人口増加です。なぜかというと、おばあさんはかつて
子供を
産んだ
経験をもつわけですから、お
産の
経験を
娘に
伝えることができる。するとお
産がより
安全になり、
新生児や
妊婦の
死亡率も
低くなりますね。
さらにおばあさんは、
娘が
産んだ
子供のめんどうもみます。たとえば
娘の
生殖期間が
一五年として、
子育てに
五年かかるとしたら
三人しか
産めない。ところがおばあさんがいることで
五年が
三年に
短縮されたら
五人産める。ということで、おばあさんの
存在が
人口増加をもたらしたのではないかと、
私は
考えています。このことは
最近の
研究からも
確かめられています。
我々現生人類は
一五万年前ぐらいにアフリカで
誕生したのですが、
五、
六万年前ぐらいには、すでに
地球上に
広く
分布するようになっていました。
人類のような
大型動物が、なぜこんな
短期間に
世界中に
拡散していったのか。これも
現生人類の
人口増加という
問題を
考えるとその
理由が
判ります。
(
松井孝典『
松井教授の
東大駒場講義録』)
【1】
言語と
思考の
関係は
実は
学問の
世界でも
同様である。
言語には
縁遠いと
思われる
数学でも、
思考はイメージと
言語の
間の
振り
子運動と
言ってよい。ニュートンが
解けなかった
数学問題を
私がいとも
簡単に
解いてしまうのは、
数学的言語の
量で
私がニュートンを
圧倒しているからである。【2】
知的活動とは
語彙の
獲得に
他ならない。
日本人にとって、
語彙を
身につけるには、
何はともあれ
漢字の
形と
使い
方を
覚えることである。
日本語の
語彙の
半分以上は
漢字だからである。これには
小学生の
頃がもっとも
適している。【3】
記憶力が
最高で、
退屈な
暗記に
対する
批判力が
育っていないこの
時期を
逃さず、
叩き
込まなくてはならない。
強制でいっこうに
構わない。(
中略)
大局観は
日常の
処理判断にはさして
有用でないが、これなくして
長期的視野や
国家戦略は
得られない。【4】
日本の
危機の
一因は、
選挙民たる
国民、そしてとりわけ
国のリーダーたちが
大局観を
失ったことではないか。それはとりもなおさず
教養の
衰退であり、その
底には
活字文化の
衰退がある。
国語力を
向上させ、
子供たちを
読書に
向かわせることができるかどうかに、
日本の
再生はかかっていると
言えよう。
【5】アメリカの
大学で
教えていた
頃、
数学の
力では
日本人学生にはるかに
劣るむこうの
学生が、
論理的思考については
実によく
訓練されているので
驚かされた。
大学生でありながら(−1)×(−1)もできない
学生が、
理路整然とものを
言うのである。【6】
議論になるとその
能力が
際立つ。
相手の
論理的飛躍を
指摘する
技術にかけては
小憎らしいほど
熟練しているし、
自らの
考えを
筋道立てて
表現するのも
上手だ。
【7】これは
学生に
限られたことでなく、
暗算のうまくできない
店員でも、
話してみると
驚くほどしっかりした
考えを
持っているし、スポーツ
選手、スター、
政治家などのインタビューを
聞いても、
実に
当を
得たことを
明快な
論旨で
語る。
【8】これと
対照的に
日本人は、
数学では
優れているのに
論理的思考や
表現には
概して
弱い。
日本人学生がアメリカ
人学生との
議論になって、まるで
太刀打ちできずにいる
光景は、
何度も
目にしたことだった。
語学的ハンデを
差し
引いても、なお
余りある
劣勢ぶりであった。
【9】
当時、
欧米人が「
不可解な
日本人」という
言葉をよく
口にした。
不可解なのは
日本人の
思想でも
宗教でも
文学でもなく(これらは
彼等によく
理解されつつあった)、
実は
論理面の
未熟さなのであった。
少なくとも
私はそう
理解していた。【0】
科学技術で
世界の
一流国を
作り
上げた
優秀な
日本人が、
論理的にものを
考えたり
表現する、というごく
当たり
前の
知的作業をうまくなし
得ないでいること。それが
彼等にはとても
信じられないことだったのだろう。
日本人が
論理的思考や
表現を
苦手とすることは
今日も
変わらない。ボーダーレス
社会が
進むなか、
阿吽の
呼吸とか
腹芸は
外国人に
通じないから、どうしても「
論理」を
育てる
必要がある。いつまでも「
不可解」という
婉曲な
非難に
甘んじているわけにはいかないし、このままでは
外交交渉などでは
大きく
国益を
損うことにもなる。
数学を
学んでも「
論理」が
育たないのは、
数学の
論理が
現実世界の
論理と
甚だしく
違うからである。
数学における
論理は
真(
正当性一〇〇パーセント)か、
偽(
正当性〇パーセント)の
二つしかない。
真白か
真黒かの
世界である。
現実世界には、
絶対的な
真も
絶対的な
偽も
存在しない。すべては
灰色である。
殺人でさえ
真黒ではない。
死刑がある。
殺人は
真黒に
限りなく
近い
灰色である。
そのうえ、
数学には
公理という
万人共通の
規約があり、そこからすべての
議論は
出発する。
現実世界には
公理はない。すべての
人間がそれぞれの
公理を
用いていると
言ってよい。
現実世界の「
論理」とは、
普遍性のない
前提から
出発し、
灰色の
道をたどる、というきわめて
頼りないものである。そこでは
思考の
正当性より
説得力のある
表現が
重要である。すなわち、「
論理」を
育てるには、
数学より
筋道を
立てて
表現する
技術の
修得が
大切ということになる。
(
藤原正彦『
祖国とは
国語』)
長文 5.1週
【
一番目の
長文は
暗唱用の
長文で、
二番目の
長文は
課題の
長文です。】
【1】
普段は
人気のない
夜の
公園に、
明るいちょうちんがいくつもともっている。
思い
思いのゆかたを
着た
子供たちがお
喋りをしながら
夜店を
回る。
地域のお
祭りには、どこも
同じような
懐かしい
光景が
広がる。【2】しかし、このようなお
祭りのにぎやかさも、
翌日になると
再びもとの
静かな
住宅街の
中に
消えてしまう。
孤独な
老人、
家庭にひきこもる
子供たち、
夜休むためだけに
帰ってくる
勤め
人の
親たちが、もっと
日常的に
地域に
出て
仲よく
談笑できる
社会は
来るのだろうか。【3】
今の
日本では、
子供が
成長しても
同じ
地域に
住むという
定住化傾向が
強まっている。しかし、
地域社会の
機能はまだ
不十分だ。
その
原因は
第一に、これまでの
私たちの
生活基盤が
地域や
家族という
地縁血縁共同体ではなく、
学校や
会社という
機能利益共同体にあったためである。【4】
明治の
開国以来、
日本は
工業生産の
労働力を
農村から
調達してきた。この
百年間、
多くの
日本人は
新しい
職場を
求めて
住み
慣れた
地域を
離れ
全国の
都市に
広がっていった。
新興住宅地と
呼ばれる
地域では、
昔からそこに
住んでいる
住民はむしろ
少数派で、
全国各地から
集まった
新しい
住民が
地域の
多数派を
形成している。【5】ここで
必要なのは、
意識改革だ。
過去の
地縁に
頼るのではなく、
未来の
地縁を
自分たちの
手で
作っていくという
意識が
求められている。
地域社会が
十分には
機能していない
第二の
原因は、
権限と
予算の
不足である。【6】かつて
日本が
欧米の
植民地主義に
対抗するために
形成した
中央集権国家は、
現在では
非効率が
目立つようになっている。
昔、
日本がいくつもの
藩に
分かれていた
時代には、その
藩を
象徴するような
強力なリーダーが
登場することがあった。
武田信玄や
加藤清正は、
地域の
振興に
大きな
業績を
残した。
【7】
話を
広げて
考えると、
地球が
今のように
多様な
生命体を
宿す
惑星になったのは、さまざまな
環境にそれぞれの
個性で
適応する
生物がいたからであって、
決して
最も
進化した
生物である
人間が
地球を
支配するようになったからではない。
【8】
確かに、グローバル
化は
今後も
続く。
情報も、
資源も、
人間も、
国境を
越えて
行き
来できることが
世界の
進歩につながっている。しかし、グローバル
化は、その
基盤に
安定したローカル
化があってこそ
人間の
幸福に
結びつく。【9】
人類のこれまでの
歴史は、
小さな
集落から
小国家へ、
小国家からより
大きな
統合国家へという
流れであった。その
大きな
統合国家から
地球全体をひとつの
国とするような
流れは
当然考えられる。しかし、
同時にそのベクトルとは
反対の
地域や
家族に
向けての
関心が
生まれ
出したのが
現代の
特徴だ。
地域社会は、
地球国家の
進展とともに
進むものである。【0】どんな
小さな
町や
村にも、
日常的にお
祭りのにぎやかさが
戻ってくるときが、
地球と
地域が
結びついた
新しい
時代の
始まりになる。
(
言葉の
森長文作成委員会 Σ)
【1】たとえば、
折り
紙をわたされて、「この
折り
紙の3
分の2の4
分の3を
切り
取ってくれません?」と
頼まれたとしてみましょう。あなたは
何をするでしょう?
分数の
計算?
やってみていただくと
分かりますが、
答えは、2
分の1になります。【2】2
分の1を
切り
取るのであれば、
計算すれば
話は
簡単、と
思われるかもしれませんが、
実際この
問いをあちこちで
人にしてみたところ、
計算する
人は
一〇
人に
一人くらいしかいませんでした。たいていの
人は、
直接紙を
折って
答えを
出そうとします。【3】
三等分は
折りにくいですが、
何とか
折ります。そしてできた3
分の2の
部分について、またこれもそこを
四等分するような
折り
方を
工夫し4
分の3を
求めてくれるのです。【4】つまり、
小学校で
十分練習問題をやっていても、
折り
紙があれば
人は
計算しなくてもいい、そうやって
外の
世界にあるものを、その
場の
目的に
合わせて
上手に
使うことがむしろ
人間の
知性の
現れなのではないかと
考えてみることができるでしょう。【5】
人間の
知とは
何かについての
考え
方が、
頭の
中ですばやく
計算できることといったものから、
経験を
生かし、
外の
世界にある
道具(
折り
紙など)をうまく
使って
求められている
答えを
引き
出すこと、といった
見方に
変わりつつあります。
【6】
人間の
認知能力にこういう
側面があることを
強力に
主張してきたのは、
人を、その
人が
毎日普通に
生活している
場のなかで
観察し、そこから
人間の
能力について
考えてきた
研究者の
人たちで、その
多くは
文化人類学などのバックグラウンドをもっています。【7】
上の3
分の2の4
分の3の
話も、ジーン・レイヴなどを
中心としたそういった
研究者が
台所でした
観察がもとになっています。
その
人たちによると、
学校という
生活場所はそれ
自体が
一つの
文化であって、
学校でよい
成績を
収めるということは、その
文化への
適応の
程度がよくてその
文化のなかで
十分有能にふるまえることを
意味します。【8】だから、
学校を
卒業した
後も、
学校でやったように
新しいことを
次々覚える
必要があったり、
教えられたとおりのやり
方で
仕事をきちんとこなすことが
求められたり、
定期的に
昇進試験があったりする
社会でなら、
学校で
有能だった
人がいきいきと
生きられるでしょう。
【9】ただ、そういう
人たちが、
学校ではあまり
教えられないこと、
奨励されないこともうまくやる、という
保証はありません。むしろそういうことはできない、と
考えたほうがいいような
証拠があげられてきています。【0】
学校で
奨励しないようなこと、
暴力だとか、セックスだとか、ドラッグだとか、そんなものに
若い
人が
染まらないほうがいいに
決まっている、という
範囲でなら、この
話はこれでいいのかもしれません。けれど、
今学校であまり
教えないことのなかに、たとえば
与えられた
枠をはずれるとか、これまで
誰も
試したことのない
問題に
取り
組むとか、これまでのやり
方を
大幅に
作り
替えてみるとか、もうけっこう
成果があがると
言われている
定評のある
方法をわざわざ
壊して
作り
替えようとしてみるとか、そういうたぐいの、これからの
世の
中でいままでよりもっと
大切になるだろうと
感じられていることが
含まれていないでしょうか。
含まれているのだとすると、レイヴたちの
言うことは「
学校ではそういうたとえば
創造性と
呼ばれるような
能力はあんまり
身につかないよ」という
警告ともとれるのです。(
中略)
「
言われたとおりにすること」でテストにいい
点が
取れるなら、いい
点を
取るプログラムを
作ることはむずかしくないでしょう。
困るのは、
人の
有能さが、
言われたとおりにできるかどうかでは
決まらないというところです。
人は、3
分の2の4
分の3を
計算用紙の
上で
計算するのが
適切だと
判断すればそうするし、
折り
紙の
上で
折ってしまうほうがきれいで
速いと
思えば
計算しないですませます。
こういう、
場への
適応力が、
人間の
有能さの
本質でしょう。
学校は、
人の
有能さを
育てるところですから、
子どもの
頭の
中に「いつでも
分数の
掛け
算を
絶対間違えずに
速くできる」プログラムを
作りたいのではなくて、その
場に
与えられた
状況を
最大限に
利用するにはどうしたらいいかが
苦労せずに
分かる
適応力を
目指したいはずだと
思います。
(
三宅なほみ『インターネットの
子どもたち』による)
(
注)ジーン・レイヴー=
認知心理学者
長文 5.2週
【1】
一つの
集団は、
一人の
裏切者と、
一人の
犠牲者を
生み
出すことによって
完成される。つまりその
時、
集団は
論理的に
構成されるのである。キリストとユダの
伝説が、
私にこのヒントを
与えてくれた。【2】
恐らくあの
十三人は、
対人関係を
独立したメカニズムとして
純粋培養するためのベテラン
達だったのであり、またそうせざるを
得ない
環境におかれていたのだろう。(
中略)
私は、はじめにキリストがあって、そこに
十二人が
従ったという
説を、ほぼ
信じない。【3】まず、
変転としてとらえどころのない
奇妙な
関係の
中に
十三人が
居たのであり、それが
果てしない
放浪の
末に、ユダとキリストを
生むことによって、
一つの「
関係」として
完成されたのである。
ユダもキリストも、それぞれがそれぞれを
含む「
十三人目」だったに
違いないと、
私は
考えている。【4】そして、
何よりも、ユダが「
裏切者」として
発明されることによってはじめて、キリストが「
犠牲者」となり
得たのであろう。
新約時代、
彼等十三人が
為した
最大のことは、「
裏切者」としてのユダを
発明したことであり、むしろキリストを
発明したことではなかったのではないかと、
私は
考えているのだ。(
中略)
【5】
創世記に、アブラハムについての
奇妙なエピソードが
語られている。「
神はアブラハムを
試みて
言われた。『アブラハムよ、あなたの
子、あなたの
愛するひとり
子イサクを
連れてモリヤの
地に
行き、わたしが
示す
山で、
彼をささげなさい』(
中略)【6】
彼らが
神の
示された
場所にきたとき、アブラハムは、そこに
祭壇を
築き、たきぎを
並べ、その
子イサクを
縛って
祭壇のたき
木の
上にのせた。そしてアブラハムが
手を
差しのべ、
刃物をとってその
子を
殺そうとした
時、
主の
使が
天から
彼を
呼んで
言った。【7】『アブラハムよ、わらべに
手をかけてはいけない。また
何も
彼にしてはならない。あなたの
子、あなたのひとり
子をさえわたしのために
惜しまないので、あなたが
神を
恐れる
者であることをわたしは
今知った』」(
第三十二章)
【8】ここから、
私は「
裏切者」がやがて
発明されねばならないという
予感を
読み
取れそうな
気がする。このアブラハムの、
神に
対して
一方的にのめりこんでゆく
無気味な
心情は、
恐らく
一方で
自らのうちに「
裏切者」を
用意しそれに
対する
憎悪で
相殺され、
安定する
事を
期待するに
違いないからである。【9】つまり、この
一方に「
裏切者」が
存在する
事によってはじめて、わが
子を
殺すという
行為は、アブラハムに
於て
自己完結するからである。「
裏切者」とは
集団の
対人関係の、
独立して
自己完結しようとするメカニズムが
必然的に
生み
出す、ある
形態である。【0】
集団は、「
神に
対するおそれ」というとめどもなく
一方的な
不安定な
心情を、「
裏切者」によって、
緊張しあう
安定したものにすることが
出来る。「
裏切者」というのは
絶対的な
悪ではない。「
裏切る」という
行為は
相対的なものであり、
従って
集団は
永遠にそれを
対象化することが
出来ない。
故にそれは、
集団の
内部を
律するメカニズムを
持続的に
緊張させつづけることが
出来るのである。
新約によれば、キリストは、
彼を
死刑にした
外部勢力に
対してよりも、ユダに
対して
緊張しあっている。つまり、その
時、その
集団は、
外部勢力に
対して
拮抗することではなく、
集団として
自己完結することを
選びつつあったのであり、そのために
自ら「
裏切者」を
用意してみせたのであろう。
言うまでもなく、
集団が
自己完結を
目指すのは、
集団が
衰弱しはじめている
証拠である。しかし、
集団は
常に、いつかは
衰弱期を
迎えるものであり、
自己完結することを
目指すのである。
現に
今でも「
裏切者」と「
犠牲者」によって
自己完結を
目指しつつある
集団をたびたび
目にする
事ができる。
一つの
集団を
律する
原理は、
新約時代からちっとも
進歩していないのかもしれないのだ。
(
別役実「
電信柱のある
宇宙」から)
長文 5.3週
【1】
知人に「
釣り」をするのがいる。ただし、
趣味というわけではない。「その
間だけ
何も
考えずにいることが
出来るんだ」と、
彼は
言っている。「パチンコ」をする、というのもいる。これも、
景品をせしめようとか、そのこと
自体が
楽しいから、というのではない。【2】「あれをしていると
一時的に
空白になっていられるからね」と
言うのである。
このほか「
料理」をするというのもいれば「
推理小説」を
読む、というのもいる。いずれも、
仕事としてそれをやっているのでもなければ、
趣味としてそれを
楽しんでいるのでもない。【3】
奇妙ない
方ではあるが、それらをすることによってしか、「
何もしていない」
状況が
維持出来ない、というわけだ。
これを、
趣味の
堕落と
言うべきか、
趣味とは
本来そのようなものであると
言うべきか、よくわからない。【4】ともかく
現在、「
何もしないでいる」
状態を、「
何もしない」ことで
維持することは
難しいのである。ぼんやりしているとこれまでの
仕事の
続き、これからの
仕事の
予定などが
襲来し、「あれをこうして、これをああして」と、たちまちいたたまれなくなってしまう。【5】「
何もしないでいる」ためには、「そうでないこと」を
真剣にやることによって、それらを
締め
出してしまわなければいけないのである。
もちろん「それほどまでにして、
何もしないでいる
状態なんか
作り
出さなくたっていいじゃないか。」と、よそ
目にはそう
思える。【6】しかし、そうではない。
前述した
理由で「
釣り」をしたり、「パチンコ」をしたり、「
料理」をしたりしている
人々を
見れば、よくわかる。
彼らは、
酸素の
足りなくなった
水の
中の
金魚が、
水面に
出て
口をパクパクさせるように、かなり
切迫して「
何もしないでいる」ことを
求めているのである。
【7】
日常生活における「
何もしないでいる」
時間というのは、
芝居の「
暗転」や「
幕間」と
似ている。
多くの
観客がここでホッとするのは、こらえていたオシッコをするためにトイレに
駆けこめるからではない。【8】
無意識にではあれ、それまで「
流れ」として
連続していた
時間を、「
積み
重ね」として
体験し
直すことが
出来るからであり、その
呪縛から
逃れ
出ることが
出来るからである。
【9】「
時間は、
流れるものではなく
積み
重なるものである。」という
何かのコマーシャルにテレビで
時々お
目にかかるが、
我々は、
恐らく、この「
流れる」
時間と、「
積み
重なる」
時間の
双方を
交互に
体験することになっており、ただここへきて「
流れる」
時間の
呪縛力が
強くなっているのだろう。【0】それを「
積み
重ねる」
時間として
体験し
直すための「
暗転」と「
幕間」が、
日常生活の
中でつかまえ
難くなってきているのかもしれない。
もちろん、「
睡眠」ということがある。これまで
我々は、「
眠ること」によって、「
流れる」
時間を「つみ
重ねる」
時間として
体験し
直してきたと
言えるだろう。
日が
変わり、
週が
変わり、
月が
変わり、
季節が
変わり、
年が
変わるごとに、
我々は「
流れ」を「
積み
重ね」に
切りかえてきたのである。しかしどうだろうか。「
不眠症」が
増えたり、それでなくとも「
眠り」が
浅くなったというものが
増えているように、
日や
週や
月や
季節や
年の「
変わり
目」のメリハリも、
何となく
薄れてきつつあるような
気がする。
つまり「
流れる」
時間については、
放っといても
体験出来るし、むしろそれに
呪縛されている
感が
強いのだが、「
積み
重ねる」
時間については、
我々自身が
意識し、
工夫しなければ
体験出来ないことになりつつあるのではないだろうか。「
暗転」と「
幕間」を、
個々人が
日常生活の
中で
意識的に
作り
出さなければいけないのであり、そうしないと
酸欠状態に
陥って、
呼吸が
出来なくなるような
気配すら
感じるのである。(
中略)
かつての「
趣味人」は、「
流れる」
時間からちょっとはずれた
所にいて、「
積み
重ねる」
時間の
中で、
何ごとかをしていた。その
知恵を、
現代人が
学びはじめた、ということかもしれない。ただし、
前述したように
現代人のそれは、
必ずしも
趣味とは
言えない。
現代のそれは、「
積み
重ねる」
時間の
中で「
何ごとかをしている」ことよりも、「
流れる」
時間の
中で「
何もしていない」ことの
方が
重要で、
必死になってそれにすがりついているからにほかならない。
最近、「
釣り」も「パチンコ」も「
料理」も、「
推理小説」も
流行っているらしいが、それはそれら
自体の
手柄ではない。それらは「
何もしないでいる」ための
手続きにすぎないのだ。
(
別役実「カナダのさけの
笑い」による)
長文 5.4週
【
長文が
二つある
場合、
読解問題用の
長文は
一番目の
長文です。】
新しい
言葉の
指す
新しい
事柄を
人はどうやって
理解するのか。そこにはほとんど
常に、
既知の
事柄へのなぞらえという
作業があるのではないだろうか。こうした
観点から「なぞらえ」が
人の
概念体系の
根底にあることを
説くのがレイコフとジョンソンである。
彼らの
共著『レトリックと
人生』の
主旨を
一言で
要約するなら、「われわれが
普段、ものを
考えたり
行動したりする
際に
基づいている
概念体系の
本質は、
根本的にメタファーによって
成り
立っている」ということである。
彼らの
言う「メタファー」は
表現技巧としての
隠喩ではない。
理解や
思考のための
方略である。
彼らの
規定によれば「メタファーの
本質は、ある
事柄を
他の
事柄を
通して
理解し、
経験することである」。この「メタファー」を
日本語にするならば、「
隠喩」よりも「なぞらえ」という
方が
適切であろう。
即ち
彼らのメタファー
論とは、なぞらえ
論にほかならない。「
筆者らは
人間の
思考過程の
大部分がメタファーによって
成り
立っていると
言いたい」という
彼らの
主張は、
人の
思考がロゴスよりも「なぞらえ」に
依存しているということである。
彼らは「
概念」を、「
固有の
属性」によって
定義されるものではなく、むしろ
各人にとっての
意味であり、
従って
各人が
理解しているもののことであると
考える。そして、ある
概念についての
私たちの
理解は、その
大部分が
他の
概念へのなぞらえによってなされているとする。ただし、それは
一観念を
他の
一観念と
比較することではない。「
理解というものは、
経験の
領域全体に
基づいて
生ずるのであって、
個々の
観念に
基づいて
生じるのではない」からである。い
換えれば、
私たちが
理解するものはコトの
経験という
全体であって、
個々の
観念はその
構成要素にすぎない。むしろ
観念はそのコトの
中に
位置づけられることによって
意味を
得るのである。「なぞらえ」とは、
既に
理解ずみの
経験領域に
基づいて
未知の
経験領域を
理解することである。そこで
理解されるものは、
二つの
領域に
共通する
経験の「
型」である。これをレイコフらは「
経験のゲシュタルト」と
呼ぶ。「なぞらえ」とは、ある
領域に、
別の
領域の「
経験のゲシュタルト」をあてはめて、その
事柄を
理解することなのである。たとえば「
議論」についての
理解は「
戦争」のメタファーに
基づいていると
彼らが
言うとき、それは
議論というコトの
経験の
領域全体、
即ち
開始があり、
敵と
味方があり、
攻撃と
防御があり、
勝利と
敗北があるという、
議論経験の
全体が「
戦争」と
同じ
構造をもつものとして
理解されているということである。
さらにレイコフらは
言う。
「
重要なことは、
私たちは
単に
戦争用語を
用いて
議論のことを
語っているだけではないということである。
議論には
現実に
勝ち
負けがあり、
議論の
相手は
敵とみなされ、
相手の
議論の
立脚点(=
陣地)を
攻撃し、
自分のそれを
守る。
優勢になったり、
劣勢になったりする。
戦略をたて、
実行に
移す。
自分の
議論の
立脚点(=
陣地)が
守りきれないとわかれば、それを
放棄して
新たな
戦線をしく。
議論の
中でわれわれが
行うことの
多くは、
部分的ではあるが
戦争という
概念によって
構造を
与えられているのである。」
もちろんレイコフらが
念頭においているのは
英語の「
議論」の
概念だが、
日本語でも
事情は
変わらないだろう。もっとも
文化が
違えば
概念が
違うことはありうる。そこで
彼らは「
議論」を「ダンス」のメタファーによって
理解している
文化を
想像してみる。
論者は
踊り
手とみなされ、
議論の
目的は
見た
目に
美しく
論じあうことになる。
多分人々は
議論について「
息が
合わない」とか「
創造性に
乏しく
単調だ」とか「
中だるみはあったが
最後はうまく
決まった」などと
語るだろう。そして
言うまでもなく、
概念の
異なる
文化においては、
行動も
異なるであろう。
「われわれは
議論を
戦争とみなし、
戦争をするような
議論の
仕方をするが、
彼らはダンスとみなして、ダンスをするような
仕方で
議論をする、ということになるであろう。」
私たちの
概念のほとんどは、
他の
概念への「なぞらえ」によって
理解されているということである。
従って、
私たちの
概念体系は「なぞらえ」を
原理として
構築されているということである。
(
尼ケ崎彬の
文章)
【1】コミュニケーション・システムの
場合も、
少し
以前の
交通システムは
多分にツリー
型だった。だから
交通ストがあると
社会問題になったわけですが、
最近はあまり
問題にならない。【2】スト
慣れということもありますが、それだけではなく
交通システム
自体がだんだんネット
状になり、
代替経路が
確保されるようになったということがあります。ツリー
型のシステムでは、
二つのセットのオーヴァーラップ、
重なりあい、そこから
生ずる
両義性というものは
本来許されない。【3】しかし
実際のリヴィング・システムでは、あとでのべますように、ツリー
型のシステムがそのままであることは
珍しく、
裏のシステムや
補完システムが
非公式に
形成されます。
それにたいしてもう
一つのシステム・モデルは
網状交叉図式です。(
中略)【4】たとえば3というメンバーは1、2、3を
含むクラスに
属すると
同時に、3、4、5を
含むクラスに
属しているし、3、4、5、6を
含むクラスにも
属している。そういう
点ではある
意味での
多義性がそこに
生まれてくる。
【5】
身の
構造は、
多分にこういう
交叉型網状図式の
構造をもっている。
一般に
人工的なシステムはツリー
的な
性格をもつものが
多いのにたいして、
自然発生的なシステムはセミ・ラティス
的あるいはむしろネットワーク
的である。【6】クリストファー・アレグザンダーという
人は
都市デザイナーですが、
二〇
世紀に
考案されたル・コルビュジエからニーマイアー、
丹下健三にいたるすべての
都市計画は、
全部ツリー
型だということをはっきりさせた。【7】それにたいして
自然に
形成されてきた
都市、あるいは
最初は
計画都市であっても
歴史のなかで
自然都市に
近くなってきた
都市(たとえば
京都)は、セミ・ラティス
的な
構造をもっているということを
指摘しています。
【8】またさまざまな
芸術作品が
構成する
間テキスト
空間とか
文化空間というようなものを
考えてみると、その
構造は
多分に
交叉型の
網状図式となっている。
一般に
人間の
生世界にかかわるリヴィング・システムは、たえずクラスが
重合し
多義的になる。グラフでいえばネットワーク
状の
形式をもつようになります。(
中略)
【9】
組織図としては、こういう
組織をとる
会社はまだ
少ないわけで、ほとんどの
会社がツリー
的な
組織図をとっている。しかしよく
考えてみますと、それでは
成りたってゆかない。そこで
無意識的にツリーを
補完する
非公式の
制度として
活用されているのが、たとえば
広い
意味での
宴会政治である。【0】つまり
一時的に
裏の
組織がつくられて、
宴会の
席ではこの
上下関係や
業務のなわばりがある
程度破られるわけですね。これを〈シャドー・システム〉と
呼びたいと
思います。
組織を
考える
上で
重要なのは、
組織図に
現われたメインのシステムだけではなく、
実際のはたらきの
上で
補構造をなしているシャドー・システムを
含めた
組織全体のはたらきをとらえることです。
宴会政治とまではゆかなくても、たとえば4のメンバーが6のメンバーの
仕事と
密接に
関係することをやっていて、
調整したいという
場合、ふつうは
上司を
通して
交渉しなければいけないけれども、
前もって、まあ
一杯やろうというわけで
根回しをするというようなことが
行われる。そういうツリー
型のシステムの
裏の
補構造ともいうべきものが、タテ
社会ではどうしても
必要になってくるのではないか。
それを
意識的に
表面化し、
公式に
制度化する
試みが
最近盛んになってきました。たとえばプロジェクト・チームというのは、いろんな
部署から
専門家を
選び、
元の
部署での
上下関係はあるていど
解体して、そのプロジェクトにふさわしい
組織を
一時的につくるというアド・ホック・システムです。
松戸市に「すぐやる
課」というのがあります。あれはツリー
型の
組織の
不備を
補い、ネットワーク
型のはたらきをもたせるための
制度化されたゲリラ
型組織ということができます。
(
市川浩『「
身」の
構造』)
長文 6.1週
【
一番目の
長文は
暗唱用の
長文で、
二番目の
長文は
課題の
長文です。】
【1】ケンタウロスは、
人間の
上半身に
馬の
胴と
脚がついた
生き
物だ。
人魚姫は、
人間の
上半身に
魚の
胴と
尾がついている。インドのガネーシャは、
人間の
身体にゾウの
顔がついている。これらの
不思議な
神話上の
生物を
作る
技術を、
現代のバイオテクノロジーは
手に
入れつつある。【2】
科学の
進歩は、
科学の
悪用の
可能性と
不可分の
関係にある。その
典型的な
分野のひとつが、
核物理学である。
物質が
持っている
膨大な
熱量の
可能性を、
人間はエネルギーとして
利用することもできるし、
兵器として
利用することもできる。【3】
同様のことが、バイオテクノロジーの
未来についても
言えるのではないか。
バイオテクノロジーの
今後の
発展から
予想される
第一の
問題は、できることとやっていいことは
違うという
区別の
基準がまだはっきりしていないことである。【4】
遺伝子の
解析技術が
発展すれば、
各種の
遺伝的な
疾病の
改善には
役立つだろう。しかし、それは
遺伝的素質による
就職や
結婚の
差別を
生み
出すことにもつながる
可能性がある。
人類のこれまでの
歴史は、
無条件に
病気を
悪、
健康を
善としてきた。【5】しかし、
不老不死が
技術的に
可能になりつつある
時代に
大切なのは、いかに
生きるかという
技術よりもいかによりよく
生きるかという
哲学である。
自然界を
見ればわかるように、
生き
物はみな
成長し
子孫を
残し
年老いて
死んでいく。【6】
永遠の
生命を
求めることは、
大きく
見れば
自然の
摂理に
反することではないだろうか。
自然の
摂理と
人間の
倫理の
統合がこれから
求められてくる。
問題点の
第二は、
科学の
発達による
恩恵が
強力なものであればあるほど、あとでその
弊害がわかったときに、
手後れとなることも
多いということである。【7】
特に、
生命に
関することについては、
人間の
知識は
肝心なことは
何もわかっていないと
言ってよい。
生命を
生み
出す
知識さえないのに、
生命を
部分的に
操作する
技術だけはあるという
状態が
最も
危険なのだ。【8】この
危険性を
防ぐためには、
多様性の
確保を
技術の
発達以上に
優先することだ。
農業の
品種改良で、
F1雑種による
成果が
取り
上げられることは
多いが、それが
地域固有種の
絶滅に
結びつくようなことがあってはならない。
大きな
恩恵は、
大きな
弊害と
裏腹の
関係にある。
【9】バイオテクノロジーは
大きな
可能性を
秘めている。それは、
肉体の
変容だけでなく、
精神の
変容に
生かすことさえできるようになるだろう。
大切なのは、その
可能性を
発展させるか、その
危険性を
抑止するかということではない。【0】どのような
技術も、それを
生かす
社会の
仕組みによって、
人間を
助ける
乗り
物にもなれば、
人間を
傷つける
武器にもなる。ケンタウロスや
人魚姫やガネーシャが
人間と
一緒に
暮らすようになってもよい。しかし、
大事なことは、すべての
生物が
自分の
存在に
自信と
誇りと
喜びを
感じて
生きていくための
技術でなければならないということである。
(
言葉の
森長文作成委員会 Σ)
【1】
美とは、
本来、
自然の
造化による
創造物の
性質を
言いあらわす
言葉である。
自然はその
創造するすべてのものに、
美という
性質のほかは
与えない。もとよりそれは、
美という
性質を
与えようと
自然が
望んだ
結果与えられた
性質ではなく、
自性としてそうなった
性質である。【2】たとえば、
花はどんな
種類の
花でも
同じ
美という
性質を
持っている。そしてその
美しさは、
花が
自然の
造化によって
生れたために、
本質的にそなわっている
性質なのである。それを
私たちは
美と
呼ぶのだ。
【3】
美はだから、
人間の
存在以前から、
滅亡のあとまで、
自然が
存在して
造化を
続ける
限り、
人間に
関係なく
持続し
続ける
性質であることを、
確かに
承知し
直さなければならない。この
美に
惹かれ、あやかろうとして、
人間は
創作活動を
営んだ。【4】
東洋的な
考えかたでは、
自然美を
手本とすることで
人間の
造型活動が
行われ、
西洋的な
意図では、
自然美を
補いあるいは
自然美を
超越する
造型美を
得ようとして、
造型活動が
営まれてきた。【5】
概括的ない
方ではあるけれども、その
永い
歴史において
生み
出されてきた
造型作品の
美しさとは、
畢竟人間の
能力が
自然の
造化の
力に
立ち
向かって、どこまで
肉迫し
得たかの
記録にほかならない。
芸術美とか、
個性美とか、
言葉の
綾はいくらでも
織れる。【6】しかし
人間の
造型の
美しさは、
自然美の
前では
多くは
低い
次元の
美であった。なぜ
低い
次元の
美と
言わざるを
得ないのか。
究極性、
価値性において、それは
相対性の
範囲内にとどまりがちだからである。
【7】
自然の
美の
本質は、
美醜の
対立を
超越したところにある。
自然には
醜いものがない。
醜いものに
対する
美しいものがあるのではなくて、どんなものもそのままの
性質において
美しいのだ。この
超越性の
故に
自然美は
究極の
美であり
得る。【8】しかるに
人間の
造型美は、
人間が
持つところの
意識や
欲望や
迷妄や
懐疑、その
他もろもろの
執着心の
規制を、どうしても
受けざるを
得ない。
美しいものを
作ろうとする
意識、
美しいものを
作ることで
自分の
才能をひろく
一般に
認めさせようという
欲望、【9】
生きることについてのさまざまの
迷妄、
存在に
関する
懐疑、
要するに
仏教の
言う
煩悩は、ただ
生み
出すだけの
自然の
無心の
美を、
人間の
創造に
容易に
許してくれないのである。
規制され
限定された
美、
人間の
個性の
範囲の
美、
特殊な
性質の
美。【0】それらはいずれも
醜の
対立概念としての
美にとどまって、
自然美の
超越性にまで
到達することが
困難なのである。
無論、それを
可能にした
時と
場合もあった。
人間が
煩悩を
脱した
状態でものを
作る
場合、
自然と
同じような
無心の
行為をとり
得た
場合、そこには
美醜の
二元を
越えた
美が
生れ
得た。
原始の
美、
宗教造型の
美、
民芸の
美、そして
個人の
能力が
煩悩を
超克した
美。それらは
自然美と
同じような
性質をあらわしていることを、
私たちは
容易に
知ることができる。
けれども、
近代に
始まった
美術は、
当初から
人間の
能力に
絶対的な
信頼をおいて
出発したものであり、
才能と
個性への
賛美によって
貫かれてきた。
自我を
基調とし、
煩悩を
素材とする
方向を
目指してきた。
人間性の
認識を
目途とする
近代の
成行は、
人間の
作り
出す
美にしか
関心を
示さず、
視界に
入れなくなってしまった。
美の
基準は
個性におかれ、
醜と
対立する
美という
範囲内でしか
考えられなくなり、
自ら
美の
次元を
低い
段階に
限定する
状態となったのであった。
(
水尾比呂志「
美の
終焉」より)
長文 6.2週
【1】
科学技術は
地域や
民族の
差異を
越え、それゆえにヨーロッパに
生まれたという
出自の
制約を
抜け
出て、
全地球に
広がった。その
普遍性は、あたかもすべてを
均等にきりそろえる
刃物のような
硬さをもって
地域文化を
水平化し、
生活空間を
均一化し、
社会システムを
一元化していく。【2】その
傾向は「
硬い
普遍性」をもっている。それに
対し、
文化は
特定の
地域の
伝統や
民族のエトスに
育まれるものとして
本性上ローカルな
性格をもちながら、しかも、ある「
柔らかい
普遍性」をふくんでいる。
文化の
柔らかい
普遍性は、
究極的には
宗教の
普遍性にあらわれるといってよいであろう。【3】
宗教はかならずその
発生地のローカルな
神観念や
自然観と
密接にむすびつき、
民族宗教的でありながら、しかも
人間の
生死にかかわる
事柄として、
大なり
小なりユニヴァーサルで
世界宗教的な
側面をもつのである。
【4】
簡単ない
方をすれば、ヨーロッパにおいては、
科学技術の
硬い
普遍性と
文化の
柔らかい
普遍性とは
根本的には
対立することなく、いわば
同心円をなしたのである。それは
科学技術が
自らの
精神の
自発自展だったということと
同じである。【5】
厳密に
言えば、「
技術」を
受け
入れる
地盤に
文化のエトスがふくまれる
以上、
技術それ
自体は
必ずその
内に「
柔らかい
普遍性」をふくむはずである。
一元性の
硬さは、
厳密には
技術にではなくて
科学に
帰せられる。【6】ヨーロッパでは、
科学の
思考が
自らの
精神そのものに
胚胎していたがゆえに、
柔らかさの
中心が
硬い
科学技術の
殻を
形成したといえる。
そのことは
一見普遍的に
見えたヨーロッパ
的世界が、
実はひとつのローカルな
地域であることを
意味する。【7】もちろん
科学技術によって
可能となった
牧歌的「
文明」が、「
文化」の
精神性を
脅かすという
危機意識は、いろいろな
思想家において
表明された。しかし、それは、ヨーロッパ
精神の
内部での
危機意識にとどまっていたのである。【8】それはどこまでも「
自己」
批判であり、その
自己のうちに
非ヨーロッパ
世界という「
他者」を
含むことはなかった。
それに
対して、
日本近代がヨーロッパ
近代の
受容をともなって
成立したとき、
両者は
同心円を
形成するわけではなかった。【9】
硬い
普遍性と
柔らかい
普遍性とは、いわばそれぞれの
中心をずらして
併存しつつ、
同一のエポックを
形成したのである。あるいは、
柔らかい
普遍性がいろいろの
中心を
併存せしめ、そのひとつとして
科学技術を
内につつんだのである。【0】その
多中心的な
複合構造が、
自己同一性を
基本とするヨーロッパ
近代と
日本近代の
構造上のちがいだともいえる。
分かりやすい
例をひとつ
挙げよう。
火薬の
発明により
戦争の
仕方が
一変したことは、
周知のとおりである。そのことは、
洋の
東西において
同じである。しかし
子細にみればどうか。ドイツの
文化史家フリーデルがその
名著『
近世文化史』の
中で
指摘したように、
火薬の
発明によって
人間のあり
方が
変わった。「
騎士」は「
兵士」になったのである。
自分の
名をもち、
名を
名乗ることによって
戦いを
始め、
自分と
自分の
家門の
名誉を
何より
重んじた
騎士の
武芸は、
鉄砲の
前には
児戯に
等しいものとなり、それに
対抗すべく
騎士は
兵士となった。
人間はそれによって、
鉄砲と
同じくひとつの
部品として
調達される、
代替可能な
存在となった。(
中略)
それに
対して、
日本では
事情は
異なっていた。
武士は
火薬の
発明以後に
代替可能で、
匿名の
兵士というあり
方を
兼ねつつも、
武士というあり
方を
失わなかったのである。
日本の「
武士」は、
別のエトスの
中で
生きていたからである。
武士と
主君とをむすびつけたものは、
解消可能な「
契約」ではなくて、
領地を
媒体とした
共同体意識である。そこでは、
自己の
主体性を
主張し、
他を
客体として
吟味するという
姿勢はない。
暗愚の
主君だから
仕えることを
止めるといえば、ヨーロッパの
契約の
精神からすればあり
得るが、
日本の
武士道の
精神では
理にそむく。
主君に
仕えるということは
自分の
主体的決断でなされることではなくて、
自分の
決定以前のことなのである。そこでは、
主体性の
確立よりは
自我の
滅却が
尊ばれる。そういう
武士にとって、
火薬や
鉄砲は
文字どおり
舶来の
武器である。
彼らは、その
舶来の
武器を
駆使するようになった。しかし
武士はそれによって
戦争の
仕方を
一変させはしたが、
武士であることを
止めなかったのである。
(
大橋良介「
武士的なもの、ヨーロッパ
的なもの」)
長文 6.3週
【1】
要するに、
一九八〇
年代に
入って
一挙に
噴出したコンピュータ・コミュニケーション
技術の
発展と
普及は、
連続的に
進行していた
技術が
人々の
欲求変化によって
方向を
変え、
予想外の
分野においても
爆発的に
広まりだした
現象なのだ。【2】そしてそれを
生み
出したのは、
七〇
年代に
浸透した
資源有限感によって
生じた
人々の
欲求の
変化、つまり
美意識と
倫理観の
変化だといえる。
【3】この
点において、
目下進行中のコンピュータ・コミュニケーションを
中心とする
技術進歩、
一九世紀末から
二〇
世紀の
前半にかけて
操り
返された
内燃機関や
電気技術、
化学工業の
発達などとは、
全く
違った
社会的影響を
持っている。【4】つまり、
産業革命以来の
技術革新は、
物財の
量的増大を
求める
欲求にそって
進んだものであり、
主として
物財供給量の
増大と
加工度の
向上に
役立った。ところが、
今進行している
技術革新は、
主として
多様化、
情報化による「
知価」
部分の
増大と
省資源化による
物財消費の
削減を
目指すものだ。【5】いいかえれば、
創造的知価の
増加にこそ
役立つ
種類のものなのである。
この
違いは、きわめて
重要であり、
本質的でもある。
産業革命以来、
技術革新は、
内燃機関も
電気技術も
化学工業も、それが
増大させようとした
物財生産はみな、
数値化が
可能なものだった。【6】お
米や
鉄などの
素材は
勿論、
自動車やテレビ、
建造物といった
高度加工品でもそれぞれの
加工度を
換算して
統一された
単位(もっぱら
価格換算された)で
計上することが、
少なくとも
理論的には
可能である。
従って、
国民総生産(GNP)といった
概念も
成り
立ったし、それを
時系列的に、あるいは
国際的に
比較することも
可能であった。
【7】しかし、いま
進んでいる
技術革新が
増加させようとしている「
知価」
創造は、
現実的にも
理論的にも
数値化不可能な
性格のものである。デザインの
善し
悪し、イメージ
価値の
大小、
技術の
高低、
生活の
快適さや
都市空間のアメニティといったものは、
本質的に
主観的か、
少なくとも
相対的である。【8】これらの
価値や
価格が
経済統計に
計上されるのは、
人々がそれぞれの
主観に
応じて
対価を
支払った
結果の
集計に
過ぎない。
従って、その
価格が、それを
生産するのに
投入された
費用と
見合うという
保証は、
長期的に
考えても
全く
存在しない。
【9】
一人のデザイナーがヒット
商品を
創造することもある
代わりに、
千人の
大事務所でも
全く
流行を
生み
出せないこともある。
一八歳の
少年がコンピュータ・ソフトで
大儲けすることもあるが、
三〇
年のベテランも
全くだめなこともある。【0】
口コミだけで
最高のイメージを
得るお
店もあれば、
大広告の
成果が
全くないこともある。
主観に
依存する
知価は、いかにそれが
社会化されてもやっぱり
数値化不可能であり、コストとの
関係も
存在しない
値打ちなのだ。
こうした
社会的主観に
依存する
数値化できない「
知価」への
傾斜が
深まることは、
専ら
数値による
客観性を
重視してきた
工業社会的合理精神には、
許容しがたい
事だ。
当然、それ
故の
反発も
反感もある。そこから「いろんな
運不運があっても
全体として
巨視的平均的に
見れば、やっぱり
価格はコストに
見合うはずだ」という
主張も
出てくるに
違いない。
しかし、
仮に
日本全体、あるいは
日本全体の
何年間かといった
大数平均をした
結果が「
価格はコストに
見合う」としても(こんな
事実があるという
保証は
全くない)、
物財や
単純なサービスにおけるごとく「コストに
価格が
接近する
運動を
繰り
返す」ためではなく、コストから
上下双方に
大きく
乖離した
価格がそれぞれ
単独に
発生した
結果の
偶然に
過ぎない。
要するに、「
知価」の
値打ちの
形成原理は、
工業社会的ではないし、そんな
知価に
対して
欲求を
募らせ、
惜しみなく
対価を
支払う
精神も、
工業社会的合理精神とは
異質のものである。
だからこそ、「
知価」が
重要な
役割を
果たすような
社会――「
知価社会」は、
工業社会の
延長上にある「
高度社会」などではなく、
工業社会とは
全く
別の「
新社会」なのである。
今、この
一九八〇
年代に、
日本で、そして
世界の
先進諸国(とりわけアメリカ)で
起こっている
変革は、
単なる
技術革新でもなければ、
一時的な
流行でもない。それは、
産業革命以来二百年振りに
人類が
迎えた「
新社会」を
生み
出す
大変革、いわば「
知価革命」なのである。
(
堺屋太一 『
知価革命』による)
長文 6.4週
【
長文が
二つある
場合、
読解問題用の
長文は
一番目の
長文です。】
一九世紀の
自由主義は、
危険とは
誰の
目にも
見えるもので、
危険回避は
各自の
自己決定に
委ねればいいという
考え
方に
立脚していた。
危険の
経験的自明性と
自由主義は
内側でつながっていた。すなわちJ・S・ミルの『
自由論』が
出された
一八五九年には、
見えない
微生物が
危険だという
医学思想はまだ
成立していなかった。
病原体説の
成立は、コッホによる
結核菌の
発見が
一八八二年であり、パスツールによる
狂犬病研究が
一八八〇
年以降である。
自由主義の
原則は、
危険の
経験的自明性というある
意味では
誤った
想定の
上に
作られてしまった。
その
後、われわれは
見えない
危険の
時代を
迎えることになった。
自動車を
走らせると
地球が
温暖化する。だれもその
因果関係を
見ることはできない。
手に
取った
黒土のひとかたまりにダイオキシンがどれだけ
含まれているか、
見ることはできない。トウモロコシDNAの
中の
危険な
塩基配列も
見えない。
吹き
寄せる
風のなかの
放射能も
見えない。
現代で
安全性を
理解するためには、「
地球全体で
人間が
空気の
中にすてる
炭酸ガスが
原因になって
地球が
温暖化し
南極にある
氷河が
溶けて、
二〇
年後に
太平洋のなかの
珊瑚礁の
国を
水没させる」ということを
理解しなくてはならない。
この
文章の
中には
見えないものがたくさんある。「
地球全体」は
見えない。「
空気の
中にすてる
炭酸ガス」は
見えない。「
地球の
温暖化」は
見えない。「
炭酸ガスという
原因による
温暖化という
結果」は
見えない。「
南極の
氷河」は
見えない。「
二〇
年後」は
見えない。「
太平洋のなかの
珊瑚礁」は
見えない。それではどうして「ゴミをへらせば
地球を
守ることになるのか」が
分かると
言えるだろう。もしも、「
疑わしいことを
信じてはいけない」というタテマエを
守るなら、「ゴミをへらせば
地球を
守ることになる」と
信じてはいけないという
結論になるのだろうか。
そこで
真理をつきとめることにしよう。「
科学的真理は
何度も
同じ
条件で
実験を
繰り
返すことによって
確かめられる」というタテマエにしたがうとする。
石油をたくさん
燃やして
何度も
実験をして
見たら、「
地球に
砂漠が
増える」、「たくさんの
生物が
絶滅する」、「
人間が
生きていくための
地下資源がなくなる」、「
地面の
下がゴミだらけになって
水が
飲めなくなる」という
結果が
起こったと
仮定しよう。やっぱり「ゴミをへらせば
地球を
守ることになる」というのは
正しかったという
結論がでるだろう。しかし、そのことを
確かめる
人間は、
生き
物のいない
砂漠で
食べ
物も
水もないという
状況にいるかもしれない。
「ゴミをへらせば
地球を
守ることになる」が
本当かどうか。
何度も
繰り
返して
確かめることができない。
環境問題は
日常の
経験だけでは
判断がつかないので、
高度の
専門的な
知識を
学ばなくてはならない。
情報依存的にしか
因果関係は
把握できない。
悪い
結果がでてしまった
後では
取り
返しがつかないので、
後悔しないですむように
情報を
捉えて
事前に
予防しなくてはならない。
どんな
事柄でも「
悪い
結果がでないように
完全に
予防すること」はとてもむずかしい。「
風邪の
予防」の
場合には、
予防に
失敗してもあまり
心配はいらない。
予防に
失敗しても
風邪は
必ずなおるからである。ところが「
砂漠が
増える」とか「
珊瑚礁が
水没する」とか「
明日から
使う
石油がない」とか「
鯨が
絶滅する」とかということは、
予防に
失敗したら
永遠に
取り
返しがつかない。
完全予防という
側面からも
安全の
情報依存が
成立する。
ベックは、その『
危険社会』(
一九八六年)で「ヒューム
以後明らかとなったように、
因果関係は
本質的に
知覚を
通じては
推定できない。
因果関係の
推定はあくまで
理論に
基づくのである」と
述べている。
安全性について
情報依存型の
社会を
作りあげることなしには、われわれは
安全を
確保できない。
安全性は
古典的自由主義のタテマエからすれば
自己決定権の
範囲に
含まれる。これは
自分の
生命の
自己防衛権と
同種のものと
受けとめられている。
実際には、
安全であるか
否かは
経験的に
自明ではなく、
信頼できる
情報に
依存している。
(
加藤尚武『
価値観と
科学/
技術』)
【1】
翌日も
朝から
夕方までのおよそ
七時間程度の
発表を
終え、そして
再び、
夕食後を
迎えた。
私は
何か
特定のテーマに
沿って、
学生達と
討論することを
考えなかったわけではなかったが、
昨日の
風景が
脳裏から
離れなかった。【2】
昨日のあの
不思議な
風景は
教育者としての
私よりも、
実験心理学者としての
私をはるかに
刺激していた。
昨日と
同じような
状況下で、
二日目の
夜を
学生達がはたしてどのように
過ごすのだろうかという
疑問の
誘惑に、
私は、
抗しきれないでいた。【3】そこで
再び
昨日と
同様の
自由時間を
彼らに
与えることにした。そして、
結果は
再現された。
昨日と
同様に。
二日目もゲームが
深夜まで
展開された。
「
今の
彼らにはゲームをするよりも、もっと
大切なことはないのだろうか。【4】
例えば
自分の
関心のあることを
人に
聞いてもらったり、
人の
話を
聞いてみたいとは
思わないのだろうか」。この
再現された
不思議な
風景を
説明するためにいささかの
考察を
試みようとしたが、
結局成功しないまま、
私は
浅い
眠りについた。【5】そして
私の
愚問は、
何の
解答をも
見いだせないままに、
初秋を
迎えてしまっていた。
ところが
私は
一つの
解答らしきものへの
指針を、
合宿後しばらくして
研究室を
訪れた
一人の
学生との
会話の
一端に、
見いだした。【6】その
学生の
言葉を
要約すると「ある
種のシリアスな
話題を
気軽に
口にしてはいけない。それは
相手に
重荷を
背負わせることになるかもしれないし、もし
相手が
話に
乗ってこなかった
場合には、
自分だけが
浮き
上がってしまうかもしれないから」。【7】
言葉を
補っていえば、
学生達はシリアスな
話題で
相手を
困らせたくもないし、
自分自身も
困りたくはないのである。そして
彼らは
他人も
自分も
傷付けたくはないのである。また
今までに
十分、
不自由な
思いをしてきたから、
過去の
不自由さを
取り
戻すために、
今眼前のそれが
何かわからないままに、とにかく
今をこなすのに
忙しいのである。【8】シリアスな
状況に
関わって
困るということは
立ち
止ることであり、
立ち
止るということは
彼らにとって、
無条件に「いけないこと」なのである。
少なくともゲームをしていれば、その
世界で
擬似的にシリアスな
状況に
陥るとしても、
現実の
人間関係の
世界でのわずらわしさに
関与する
機会を
回避できるのかもしれない。
【9】
結論を
急げば、
彼らは
限りなく
優しいのである。ただ
他人に
対してだけではなく、
自分に
対しても。また
彼らは
幼いのではなく、
幼い
時期にするべきことを
十分にさせてもらえなかっただけなのかもしれない。【0】
私にとって
不思議と
思えた
風景を
私自身の
大学時代の
記憶に
求めたことが
間違いであって、その
原風景を
私は
高校や
中学時代の
記憶に
求めるべきだったのである。
学生達の
行動に
対するこうした
私の
拡大解釈は、しかし、
私を
次のような
杞憂へと
誘う。
小学校の
時代に、やりたかったけれどもできなかったことを、
中学校の
時期へと
先延ばしし、
中学校でやろうと
思ってもできなかったことを、
高校へと
先延ばしにし、
高校でできなかったことを、
大学に、
大学でのことは、
大学院へと、あるいは
社会生活へと、
順次先延ばしにしているのではないだろうか。(
中略)
「
幸せの
姿はたった
一つであるが、
不幸の
姿は
数限りない」。しかし、
現今の
世情を
眺めると、
幸せの
姿は
曖昧すぎて
記述できず、
不幸の
姿はまた
多すぎて
記述できない。とすれば、
私達には「
困って
立ち
止る」という
贅沢は
許されていないのであり、そのために
逆説的な
意味で、
学生達は
困らないための
智恵としての
擬似実践力を
身に
付けてきたのではないだろうか。
何故なら、
男女として
話すことも、
個人的な
重荷を
語ることも
聞くことも、それらいっさいの
作業は、すべて
状況をシリアスに
捉え、
吾と
彼とを
抜き
差しならない
人間として
認識することを
前提として
始まるからである。すなわち、そうした
状況認識は
畢竟、
吾も
彼も
心身両面にわたって
傷つくべき
生身の
生きものであるという
認識の
共有を
求めているのである。
(
斉藤洋典『
幸福の
順延方程式』)