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課題集
長文ちょうぶん 1.1しゅう
 【1】はじめて金槌かなづちかなづちくぎったのは、小学校しょうがっこうにあがったばかりのころだった。ねらったところになかなかてなくて、くぎがった。あにが、「してごらん」とって金槌かなづちかなづちり、がったくぎばしてからすうかいくぎあたまつと、スコン、スコンという小気味こきみよいおとがしてくぎ見事みごといたまれた。【2】くぎつという一見いっけん単純たんじゅん動作どうさえることにも、わざじゅく練度れんどふかかかわっている。こんな体験たいけんから、わたし次第しだい自分じぶんくぎったり、のこぎりでいたったりすることがきになった。しかし、気分きぶんらないときは、くぎあたまではなくゆびつことがある。【3】そのかわり、あかるい気持きもちでつと、きれいにくぎあたま命中めいちゅうする。このことは、ものかぎらず、ひととの関係かんけいにもまたてはまるのではないか。わたしたちは、自分じぶん以外いがい世界せかい対話たいわすることによって自分じぶん自身じしん形成けいせいしていくのだろう。
 【4】では、その対話たいわ充実じゅうじつさせるためには、なに必要ひつようなのだろうか。だいいちは、いつも自分じぶん手足てあし使つかってみるようにこころがけることだ。水泳すいえい練習れんしゅうは、たたみうえではできない。まず、みずはいって手足てあしうごかすことからはじめなければならない。【5】るだけくだけのまなかたは、一見いっけん能率のうりつがよいようにえる。しかし、自分じぶん体験たいけんとおしてまなんでないことには、確実かくじつせい不足ふそくしている。たとえば、うちひしがれているだれかにこえをかけてあげられるのは、自分じぶんもやはりおなじようにうちひしがれた経験けいけんひとだけだろう。
 【6】だいには、そのような対話たいわ可能かのうにする社会しゃかい仕組しくづくりだ。リアルな対話たいわ反対はんたいがわにあるのは、インターネットに代表だいひょうされるバーチャルな対話たいわである。バーチャルな対話たいわささえているものは、グローバルで特定とくてい世界せかいだ。【7】リアルな対話たいわとは、ローカルでかおえる個人こじんによってになわれる。たとえば、地域ちいきのおまつりなどがそうだ。そのリアルなつながりを、おまつりのようなかぎられた行事ぎょうじとしてだけではなく、日常にちじょうてき経済けいざい活動かつどうとしておこなうことが地域ちいきでのひとひととのつながりを回復かいふくする。【8】その地域ちいき生産せいさんされたものを、その土地とちひと消費しょうひする。そういう世界せかいとおして、ひとひととのつながりも、ひとものとのつながりもさい構築こうちくされるはずだ。
 【9】たしかに、対話たいわには時間じかんがかかることもおおい。くぎかた人間にんげん気長きながまなぶよりも、機械きかいまかせてしまったほう能率のうりつは、はるかによい。対話たいわとおして政策せいさくめようとすれば、利害りがい対立たいりつからなに決断けつだんできなくなることもある。【0】しかし、人間にんげんきているのは合理ごうりせいのためではなく、人間にんげんらしいかたをするためである。対話たいわとはなにかのための手段しゅだんではなく、それ自体じたいひとつの目的もくてきであるとかんがえるとき、しんものひととの対話たいわのある社会しゃかいまれるのではないだろうか。

言葉ことばもり長文ちょうぶん作成さくせい委員いいんかい Σしぐま


長文ちょうぶん 1.2しゅう
 【1】わたしが、文章ぶんしょうくことでやっと生活せいかつ出来できるようになったころ言葉ことばづかいについて時折ときおり注意ちゅういしてくださるさん先輩せんぱいがあった。多忙たぼうほうたちであるから、わたし文章ぶんしょうなどにとまる機会きかいはなくても当然とうぜん、もしもにとまれば、それだけ僥倖ぎょうこうというものだとおもっていた。
 【2】一夕いっせきいっせきそとあつまりがあった。
 ウイスキーグラスをにしてちかくにっていられた、先輩せんぱいのある男性だんせい作家さっか名前なまえばれた。このあいだ偶然ぐうぜん新幹線しんかんせんなかであなたのものんだよ。おもしろかった。ただ、あれはちょっとおかしいんじゃないかなあ、とって、ある用語ようごのことを指摘してきされた。
 【3】また、女性じょせいのある先輩せんぱい作家さっかは、用件ようけん電話でんわくださったおりはなしわってから、そうそうわないでもいいことかもしれないけれど、あの文章ぶんしょうのあそこのところで、ああいていられたのには、わたくし、ちょっとひっかかったんですよ。【4】あの言葉ことばは、わたしならこういうとき使つかうんです。でもきっと、おかんがえがあってのことだとおもいますからおになさらないでね。
 わかあいだ自惚うぬぼれがつよい。 つよい。
 それでも、いずれおとらぬだい先輩せんぱい言葉ことばなので衝撃しょうげきつよかった。【5】風呂敷ふろしきくびからうえをすっぽりつつんでしまいたい気持きもちになったのは、かなりってからだった。
 んでいてくださったからこそのご注意ちゅういである。らんかおされていてもすむ。それにおぽうとも注意ちゅういだけでなくほめ言葉ことばくださった。【6】大安売おおやすうりのほめ言葉ことばだったにちがいないが、あそこがいけないというだけの注意ちゅういではなかった。いのまぎれにというかたちの気遣きづかいもあとになってかった。何事なにごとたいしても、おのれれの限界げんかい自覚じかくうしなったときにはもう、としてのわりのない堕落だらくはじまっているのだろうとつくづくおもうようになった。【7】けれども文章ぶんしょうまたけっして謙虚けんきょ気持きもちだけでけるものでもない。いきおい、が必要ひつようである。四苦八苦しくはっくふで渋滞じゅうたいしているときではなく、かれたような状態じょうたいになってはじめてふではこばされるときのことをかんがえると、これは無意識むいしき自惚うぬぼれというほかはない。
 【8】反省はんせいと、訓練くんれん謙虚けんきょさと、自惚うぬぼれ、そのどれがけてもいけないとおもうのはこのおよんでの認識にんしきで、経験けいけんあさいうちはどうしても自惚うぬぼれが先行せんこうする。そういうものたいして、あえて苦言くげんていし、しかってくださった方々かたがたをかえりみて有難ありがたおも気持きもちはつよくなるばかりである。
 【9】所詮しょせん孤独こどく仕事しごときなようにやればいいさというのもひとつのかたであろう。しかし、づいたことは、自分じぶんたち責任せきにんにおいてしかっておいてやらなければ、とおもってくださったのかどうか、とにかくわたしは、このたねのご注意ちゅういたいして、いま感謝かんしゃだけでなく、かたたいしても敬意けいいいだくようになっている。
 【0】わたしどもは、日頃ひごろいともやす日本語にほんご日本語にほんごっているが、さてそのちを辿たどってみると、くちごもりたくなるようなことがすくなくない。厄介やっかいな、複雑ふくざつちの歴史れきしをもっているのが、毎日まいにち使つかっている、のどこのくに言葉ことばでもない日本にっぽんくに言葉ことばである。
 その言葉ことばを、出来できるだけいい加減かげんにではなく運用うんようしようというのは、出来できるだけいい加減かげんにではなくものよう、もの自分じぶんとを関係かんけいづけようというかたのあらわれにほかならず、そうであればこそ言葉ことばづかいにたいする注意ちゅういは、さききた大人おとながまず子供こどもたいしておこなうべき大切たいせつ義務ぎむひとつかとおもう。
 教師きょうし生徒せいとたいする以前いぜんに、おやたいして。ということは、日常にちじょう言葉ことばづかいをまだよくはらないものたいしては、っているものおしえるのが至当しとうしとうだとおもうからで、らないものはほうっておいて、自分じぶんるようになるまでつというのは、ことによっては通用つうようするかもしれないけれど、怠惰たいだ正当せいとうにもなりかねない。
 大学生だいがくせいくらいになると、事情じじょう大分だいぶちがってくるが、「おこる」先生せんせいと、「しかる」先生せんせいを、子供こども存外ぞんがいするど見抜みぬくものである。こと小学校しょうがっこう中学校ちゅうがっこう高等こうとう学校がっこう国語こくご教育きょういくかんしては、自覚じかくほこりをもって「しかる」先生せんせいは、おおくてもいいとわたしおもう。
 生徒せいとおこるのはいたって簡単かんたんだが、日常にちじょう言葉ことばづかいについて、はっきりした自覚じかくほこりをもって生徒せいとしかるために、教師きょうし自身じしん言語げんご生活せいかつ訓練くんれん充実じゅうじつ前提ぜんていになる。教師きょうし知識ちしきだけにたよっていても、教師きょうし言語げんご感覚かんかく言葉ことばづかいのこのみだけにたよっていてもいけないのが国語こくご教育きょういくのはずだから、しか以上いじょうは、教師きょうしにも覚悟かくごがいる。
 表現ひょうげん自由じゆうみとめられているくに有難ありがたい。けれども、本当ほんとう自由じゆう行使こうし出来できるのは、不自由ふじゆう経験けいけんしているものだろう。自由じゆうらないものには、自由じゆうっているものおしえる義務ぎむはないのか。おしえられてまなぶことの大事だいじを、教師きょうしはこれまた、自覚じかくほこりをもっておしえていいのではないか。教師きょうし生徒せいとが、友達ともだちのような関係かんけいだけではこまる。
 まともに人格じんかくもそなわっていないうちから、ひとかどの人格じんかくあつかいをするのがたしていいことなのかどうか、責任せきにん回避かいひ人格じんかく尊重そんちょう放任ほうにんかんがえものである。
 一人ひとり人間にんげん駄目だめにしてしまうのはわけのないことだ。きなものをべたいだけべさせ、ねむりたいだけねむらせる生活せいかつつづけさせていればよいとったひとがいる。
 くにほろぼすのは武力ぶりょくだけではない。教育きょういく大事だいじということを切実せつじつおも機会きかいえている。数日すうじつまえ新聞しんぶん投書とうしょらんに、「手抜てぬきのつけ」という見出みだしがあった。一見いっけんしただけで、忸怩じくじたるものをおぼえた。内容ないようんでいないのに、おもたることはあまりにおおかった。いまわかものは、とまえに、そんなわかものだれがした、というこえかなければならないとおもった。いいのがれや他人たにん批判ひはんですまされるうちはいい。おおきな変化へんかは、ある突然とつぜんにはこらないようである。

たけ西にし寛子ひろこあさ公園こうえん』による)


長文ちょうぶん 1.3しゅう
 【1】にわ原始げんし社会しゃかいでは、集団しゅうだん全体ぜんたい広場ひろばでした。屋内おくないではいこい、にわでは活動かつどうてき共同きょうどう生活せいかつがいとなまれたのです。おおくは部落ぶらく中央ちゅうおうにあり、宗教しゅうきょうてき儀式ぎしき政治せいじ集会しゅうかいがおこなわれ、また生活せいかつ場所ばしょでもありました。【2】――狩猟しゅりょうしゅりょう時代じだいには呪術じゅじゅつおどりにわき、たたかいにむかう精鋭せいえいせいぞろいし、農耕のうこう社会しゃかいでは、収穫しゅうかく処理しょり作業さぎょう場所ばしょであり、また家畜かちくあそでもありました。やがて物々交換ぶつぶつこうかんがさかんになると、そのための市場いちばにもなった。それはあらゆる生活せいかつはばをふくめた、集団しゅうだん社会しゃかい共通きょうつう広場ひろばでした。
 【3】しかし、やがて歴史れきしがすすみ、階級かいきゅう制度せいどがあらわれはじめると、権力けんりょくしゃ占有せんゆうにわ出現しゅつげんします。ここでは、貴族きぞくたちがあつまって、政事せいじ儀式ぎしきをとりおこない、遊戯ゆうぎし、スポーツをたのしみ、もよおしものなどを観賞かんしょうしました。【4】すでに一般いっぱん庶民しょみんにはざされたものです。ふつうわれわれがかんがえる「庭園ていえん」は、この段階だんかいからはじまるとっていいでしょう。
 わがくにでは、平安朝へいあんちょう寝殿しんでん南面なんめん庭園ていえんというのは、このような性格せいかくっていました。【5】このころには寝殿しんでんからながめる美観びかんとして、いけり、なかしまをきずき、いしみ、たきをおとしたりして遠景えんけいをととのえました。
 やがて歴史れきしがくだるにつれて、禅宗ぜんしゅう影響えいきょうなどもあり、庭園ていえんはしだいにしずかにながめるというだけのものにかわってゆきます。【6】すでに政治せいじ競技きょうぎ広場ひろばではなく、活動かつどうてき生活せいかつよりも、幽邃ゆうすい環境かんきょうにかこまれて沈思ちんし瞑想めいそうするという、ぞくはなれた精神せいしんてき別世界べっせかいをつくりあげたのです。こうなってくると、庭園ていえんはひどく観念かんねんてき趣味しゅみてきになります。【7】そして、ようやく公共こうきょうせいをうしないはじめてくる。室町むろまち時代じだいからのにわは、ほとんどそういう性格せいかくってきます。
 形式けいしきはおどろくほどたくみに、複雑ふくざつになって、ひとつの完成かんせいをしめしました。【8】伝統でんとうてき技術ぎじゅつ確立かくりつされ、今日きょう日本にっぽん庭園ていえん」といえば、まずこの時代じだい形式けいしき、あるいはその亜流ありゅう以外いがいかんがえられないほど、以後いご造園ぞうえんじゅつ、そして審美しんびかん決定けっていしています。ながい人間にんげん歴史れきしかられば、これはかなり特別とくべつな、時代じだいてきなゆがみのはずなのですが。
 【9】徳川とくがわに、めざましく勃興ぼっこうした富裕ふゆう町人ちょうにん階級かいきゅうがこれをけつぎました。まちなかの、土蔵どぞう屋敷やしきちならぶなかににわりいれたのです。この風習ふうしゅうは、やがて、時代じだいとともに、ついに棟割長屋むねわりながや庶民しょみん階級かいきゅうにまでしみとおってゆきました。
 【0】めいめいが自分じぶんだけのにわをもつ。しかも、こごればこごるほど、建物たてものへいおくにかくして、そとからはかいまみることもできないようにしてしまう。――アメリカあたりの典型てんけいてき市民しみん住宅じゅうたく道路どうろめんした前面ぜんめんにわをもち、そこはプライヴェートなものであると同時どうじ街路がいろ延長えんちょうであり、公園こうえんてき役割やくわりをはたしているという近代きんだいせいと、これはまことに対照たいしょうてきです。どんなちいさいものでも、自分じぶん領分りょうぶんだけを嫉妬しっとぶかくまもるという封建ほうけんせいが、象徴しょうちょうてきにここに確立かくりつされてきたのです。
 このように、まったく公共こうきょうせいのない趣味しゅみにとじこもることによって、かつてられた庭園ていえん美的びてきたかさ、きびしさ、純粋じゅんすいさをうしない、卑小ひしょうげいしてゆきました。(中略ちゅうりゃく
 構想こうそう雄大ゆうだいさとか生活せいかつはばというものはなく、かといって、階級かいきゅう自体じたい表情ひょうじょうとか意欲いよくというものもそこにはられません。たんに生活せいかつ虚栄きょえいてきなアクセサリーになりさがっている。これがにわとして、けっして本来ほんらい意味いみではないことはたしかです。
 日本にっぽんにわがこういう封建ほうけんてき伝統でんとうをつづけて固定こていしたのにたいして、はやくから近代きんだいした西洋せいようでは、一般いっぱん市民しみん高層こうそう集団しゅうだん住宅じゅうたくみ、貴族きぞく豪壮ごうそう庭園ていえん開放かいほうして、公園こうえんとして共同きょうどうにわ設備せつびしました。たとえば、パリのルュクサンブールのにわは、かつては宮殿きゅうでん付属ふぞくしていた典型てんけいてきなフランスしき庭園ていえんですが、今日きょうでは広大こうだい自然しぜんなかであらゆるそうひとたちがそれぞれにたのしく利用りようしています。各種かくしゅのスポーツはもちろん、学生がくせいはノートをひろげ、しずかなかげでは、わか男女だんじょこいをささやいている。子供こどもたちはなわとびや、ボールげをしてあそび、夫人ふじんたちはそのわきで編物あみもの余念よねんがない。老人ろうじん日向ひなたぼっこをしながらベンチで新聞しんぶんんでいます。午後ごごのひとときには、音楽おんがくどうからのメロディーがにわいっぱいにながれるのです。
 われわれがかんがえる公園こうえんはとかく道路どうろ延長えんちょうといったかんじですが、これはしたしいみんなのにわです。そこにあつまってくるものだれでもの領分りょうぶんであり、生活せいかつ延長えんちょう、ひろがりなのです。
 今日きょう、もっともすすんだ建築けんちく都市とし計画けいかくしゃは「にわ」をさい発見はっけんし、現代げんだい生活せいかつにふさわしい機能きのうてき共同きょうどう広場ひろばとしてあたらしく設計せっけいしようとしています。それこそ人間にんげん社会しゃかいにおけるにわ本来ほんらいただしい意味いみをとりもどすことなのです。わたしはこれからのにわ市民しみん生活せいかつにおける理想りそうてき空間くうかんは、公共こうきょうてきであると同時どうじにプライヴェートであり、運動うんどうてきであるとともに休息きゅうそくてき、しかもきわめて芸術げいじゅつてきであるべきだとおもいます。
 庭園ていえんは、それ自体じたい造形ぞうけいされる空間くうかんです。建造けんぞうぶつであり、彫刻ちょうこくであり、また音響おんきょうあそびもあります。ながめると同時どうじれるものであり、静止せいししていると同時どうじにきわめて動的どうてき相貌そうぼうをもおびる。自然しぜんであり、またはん自然しぜんでもあるのです。さらにそのなかにあらゆる芸術げいじゅつ総合そうごうしてりいれることができます。き、彫刻ちょうこくをあしらう。うたい、う、可能かのうてき芸術げいじゅつ空間くうかんです。
 そういう本当ほんとうにわ、そしてそのありかたについて、ここでは展開てんかいするつもりはないのですが、しかしこの根本こんぽんてきなポイントだけは、しっかりとつかんでおきたい。そういう現代げんだいてきがまえをとおして名園めいえん観察かんさつし、批判ひはんしなければなりません。でないとふる伝統でんとう芸術げいじゅつがひとしくっているせまい趣味しゅみせい、その魔術まじゅつについっかかり、庭園ていえんにメスをれたつもりで、ぎゃくにその時代色じだいしょくなかにふみまよってしまうことになりかねないからです。

岡本おかもと太郎たろう日本にっぽん伝統でんとう』による。)


長文ちょうぶん 1.4しゅう
 アイヌの世界せかいかんにおいておどろくべきことは、動物どうぶつ植物しょくぶつてん世界せかいではすべて人間にんげんかたちをして、家族かぞく生活せいかついとなんでいるとかんがえられていることである。そのてん世界せかいでは、われわれとおな人間にんげんである動物どうぶつ植物しょくぶつがこの世界せかいあらわれるときには、ハヨクベすなわ仮装かそうをつけてあらわれるというのである。なにのために仮装かそうをつけてあらわれるのか。それは人間にんげん世界せかいにミヤンゲすなわ土産みやげったマラプトすなわ客人きゃくじんとしておとずれるためである。つまり、アイヌにとって、くまもすべて人間にんげんおなじものであるが、かれらはそのをわれわれに提供ていきょうするためにこの仮装かそうをつけて出現しゅつげんするというわけである。
 アイヌの社会しゃかいもっと重要じゅうようまつりであるイヨマンテ、すなわくまおくりの儀式ぎしきは、このような客人きゃくじんたずさえた土産みやげをいただき、そのわりそのれい無事ぶじてんおくとどける宗教しゅうきょうてき儀式ぎしきなのである。アイヌはくまぐまれると、それを大事だいじそだて、その美味おいしくなるあきころごろくまぐまころす。このころかたもまたすべてめられたれいしたがっておこなわねばならぬが、この儀式ぎしき中心ちゅうしんはやはりころしたくまれいてんおくることにある。それがイヨマンテ、イ(それ)をオマンテ(おくる)儀式ぎしきなのである。ころされたくまあたま祭壇さいだんまつり、そこに日本にっぽんのゴヘイにあたるイノウすなわちケズリカケをて、そこに、くま人間にんげんからのミヤンゲとしてドングリや穀物こくもつさかなさけそなえ、それをたして、おそらくとりのイメージであるにちがいないイノウにせてくまれいてんおくるのである。こうして丁重ていちょうにもてなされたくま人間にんげんにもらった土産みやげてんかえると、その土産みやげすうじゅうばいになり、それをもって宴会えんかいひらくとてんにいるくまたちはってきて、てんかえったくまから、人間にんげん大切たいせつにもてなされ無事ぶじてんおくかえされたはなしき、それでは自分じぶんおこなってみようとおもうというのである。そして翌年よくねんおおくのくままれて、ゆたかりょうであるということになる。
 くまばかりか、すべての動物どうぶつ草木くさきすらここではかみであり、てん世界せかいでは人間にんげんかたちをとって生活せいかつしているのである。それゆえすべての動植物どうしょくぶつとく人間にんげんによってころされ食用しょくようにされるものは人間にんげんおなじく丁重ていちょうほうむられ、無事ぶじてんおくとどけられなければならないのである。
 このような世界せかいかんをわれわれはどのようにかんがえたらいいのであろうか。もとよりこれらの思想しそう全体ぜんたいとしてそのまま真理しんりであるとわたし主張しゅちょうしようとはおもわない。もしもくまに「あなたは土産みやげってこの世界せかいおとずれた客人きゃくじんなのですか」とたずねたら、くまはきっと「ノー」とこたえるにちがいない。それはあまりに人間にんげん勝手かってかんがかただとくま抗議こうぎするにちがいないが、しかしわたしキリスト教きりすときょうかんがえる、かみさんかわやすべての動植物どうしょくぶつをこしらえたのちに、最後さいご人間にんげんをつくり、人間にんげんかみおな理性りせいあたえた、それゆえ、人間にんげんはすべての動植物どうしょくぶつ支配しはいする権利けんりつ、という思想しそうよりはるかに勝手かってかんがかたではないとおもう。なぜなら、人間にんげんがすべての動植物どうしょくぶつ支配しはいし、殺害さつがいすることのできる権利けんりかみによってあたえられているというのでは、人間にんげん動植物どうしょくぶつころしてもいささかも良心りょうしん呵責かしゃくかんじないであろう。このかんがかたくま本来ほんらい人間にんげんおなじものであり、したがってわれわれはこの客人きゃくじん好意こういしたがって客人きゃくじんころした場合ばあいかならずそのれいてんおくらねばならないというかんがかたとはかなりながある。前者ぜんしゃ本質ほんしつてき人間にんげん動物どうぶつ差別さべつうえ世界せかいかんであるが、後者こうしゃ人間にんげん動物どうぶつとを本来ほんらい同一どういつとみる世界せかいかんなのである。
 人類じんるいなが狩猟しゅりょう採集さいしゅう生活せいかつすえに、動物どうぶつ殺害さつがい合理ごうりする哲学てつがくかんがえたにちがいないのである。おそらく動物どうぶつ殺害さつがい不快ふかいかんともなったにちがいない。その不快ふかいかん除去じょきょし、動物どうぶつ殺害さつがい食肉しょくにく合理ごうりする哲学てつがくとして、かれらは、動物どうぶつ土産みやげって人間にんげん社会しゃかいあらわれた客人きゃくじんであるという神話しんわかんがしたのであろう。このような神話しんわ動物どうぶつ殺害さつがい植物しょくぶつさいばつ最小さいしょう限度げんどにとどめることになろう。かれらは動植物どうしょくぶつに「わたしきていくためには、あなたの必要ひつようなのです。どうかあなたのいのちください」とわないと、動植物どうしょくぶつころすことができないのである。アイヌで「ありがとう」という言葉ことばは、「ヤイライゲ」というが、「ヤイライゲ」というのは、わたしころしてくれという意味いみである。この狩猟しゅりょう採集さいしゅう時代じだいきびしい自然しぜん環境かんきょうのなかでのもっとつよ感謝かんしゃ表現ひょうげんは、わたしころしてわたしにくってくれという言葉ことばなのである。 (梅原うめはらたけし伝統でんとう創造そうぞう』による)



長文ちょうぶん 2.1しゅう
番目ばんめ長文ちょうぶん課題かだい長文ちょうぶんです。】
 【1】れるものをすべてきんにしてほしい。そうねがった王様おうさまは、べるものも、るものも、すべてきんにしてしまい、やがて最愛さいあいむすめまでもかねにしてしまう。ギリシャ神話しんわてくるミダスおうはなしである。【2】ゆたかな社会しゃかいもとめてきた人類じんるい歴史れきしも、このミダスおうなにていないだろうか。つよくにねがってつくられた核兵器かくへいきは、相手あいてほろぼすばかりか、地球ちきゅうをもほろぼすようになった。ゆたかな資金しきん運用うんようねがってつくられた金融きんゆう工学こうがくは、その資金しきんなんばいものかえせない借金しゃっきんした。【3】そしてまた、ゆたかな社会しゃかいつくるための経済けいざい活動かつどう発展はってんは、環境かんきょう破壊はかいという人類じんるいにとってのあらたな貧困ひんこんしている。わたしたちは、りょうもとめるあまり、制御せいぎょすることの大切たいせつさをわすれているのではないか。
 【4】その原因げんいんは、だいいちに、世界せかい戦後せんご歴史れきしが、不足ふそくからの自由じゆうという観念かんねんにつきうごかされてきたからだ。昔話むかしばなしてくる意地悪いじわるなおばあさんは、かならおおきいはこをもらう。しかし、おおきいはこはいっているのはガラクタであり、本当ほんとう宝物ほうもつちいさいはこはいっている。【5】これは、むかしひとたちが、大事だいじなのはおおきさではないということを、よりよくきるための知恵ちえとしてにつけていた証拠しょうこではないだろうか。不足ふそくから過剰かじょうへと一直線いっちょくせんすすんできたわたしたちの生活せいかつも、いまいち先人せんじんたちの知恵ちえちかえって見直みなお必要ひつようがある。
 【6】だい原因げんいんは、りょう拡大かくだいもとめる心理しんりには、かならきそ他者たしゃがいるということである。くにくにとの関係かんけいえば、どのくにのGDPが世界せかいだいなんかということが、さも重要じゅうようなことであるかのようにろんじられることがおおい。大事だいじなことは、GDPのがくではなく、そのくにひと自分じぶんたちの生活せいかつをどのくらい幸福こうふくかんじているかどうかであるはずなのにである。【7】飽食ほうしょくのニワトリのれにえたニワトリをれると、そのえたニワトリにつられてすべてのニワトリがふたたびえさをすという。基準きじゅん自分じぶんなかたず、他者たしゃとの比較ひかくなかわたしたちも、このニワトリたちとわらないのではないだろうか。
 【8】たしかに、世界せかいにはまだ貧困ひんこんくるしむくにおおい。りょう問題もんだいは、人類じんるい全体ぜんたいとしてかんがえれば、まだ解決かいけつされていない課題かだいだとかんがえるひともいるだろう。しかし、その貧困ひんこんでさえ、原因げんいんのほとんどは政治せいじ貧困ひんこんであってりょう貧困ひんこんではないのである。【9】科学かがくしゃは、ながあいだりょう問題もんだいんできた。しかし、これからもとめられるのは制御せいぎょ問題もんだいである。れるものがかねになるのは素晴すばらしいことだ。しかし、そのためには、あるものはかねにして、あるものはかねにしないという制御せいぎょ自分じぶん自身じしんでできなければならない。【0】制御せいぎょ問題もんだい解決かいけつされたとき、はじめて人類じんるいは、かねと、おいしい食事しょくじと、最愛さいあいむすめとが両立りょうりつする、しんゆたかな社会しゃかいつくすことができるのである。

言葉ことばもり長文ちょうぶん作成さくせい委員いいんかい Σしぐま
 【1】ある書物しょもつがよい書物しょもつであるか、そうでないかを判断はんだんするために、普通ふつうわたしたちがやっていることはだれでも類似るいじしている。自分じぶん比較的ひかくてき得意とくい項目こうもく自分じぶん体験たいけんなどを総合そうごうしてよくかんがえたこと、あるいは切実せつじつおもわずらっていること、などについて、その書物しょもつがどういているかを、ひろってんでみればよい。【2】よい書物しょもつであれば、きっとそういうことについて、よい記述きじゅつがしてあるから、大体だいたいその箇所かしょで、書物しょもつ全体ぜんたいうらなってもそれほど見当けんとうはずれることはない。
 だが、自分じぶん知識ちしきにも、体験たいけんにも、まったくかかわりのない書物しょもつきあたったときは、どう判断はんだんすればよいのだろうか。【3】それは、たぶん、書物しょもつふくまれている世界せかいによってめられる。すぐれた書物しょもつには、どんな分野ぶんやのものであってもちいさな世界せかいがある。その世界せかいっている世界せかい縮尺しゅくしゃくのようなものである。【4】この縮尺しゅくしゃくにはとおりすぎてきた「やま」や「たに」や、宿泊しゅくはくした「土地とち」や、出会であったひとおもわずらった痕跡こんせきなどが、すべて豆粒まめつぶのようにちいさくなってかごめられている。どんな拡大鏡かくだいきょうにかけてもこの「やま」や「たに」や「土地とち」や「ひと」はにはえないかもしれない。そう、事実じじつそれはえない。えない世界せかいふくまれているかどうかを、どうやってることができるのだろうか。
 【5】もしひとつの書物しょもつんで、きずり、またやすませ、まって空想くうそうさせ、またかんがませ、ようするにここは文字もじのひとつづきのようにえても、じつ広場ひろばみたいなところだなとかんじさせるものがあったら、それはちいさな世界せかいだとかんがえてよいのではないか。【6】このちいさな世界せかいは、知識ちしきにも体験たいけんにも理念りねんにもかかわりがない。幾度いくど反復はんぷくしてまり、またもどり、またあるし、そしておもわずらった場所ばしょなのだ。かれは、そういうちいさな世界せかいをつくりすために、なが年月としつきぼうにふった。【7】ぼうにふるだけの価値かちがあるかどうかもわからずに、どうしようもなくぼうにふってしまった。そこには以外いがいひとかげも、隣人りんじんもいなかった。また、どういうみちもついていなかった。きつもどりつしたために、そこだけがかためられて広場ひろばのようになってしまった。【8】実際じっさい広場ひろばというようなものではなく、ただのだまりでしかないほどちいさな場所ばしょで、そこからさきみちがついているわけでもない。たぶん、ひとりがやっとこしろせるくらいのちいさな場所ばしょにしかすぎない。【9】けれどもそれは世界せかいなのだ。そういう場所ばしょきあたったは、ひとつひとつの言葉ことばなんぎょうかの文章ぶんしょうにわからないところがあっても、をつかまえたことになるのだ。
 わたしは、なぜ文章ぶんしょうくようになったかをかんがえてみる。【0】しんなかかい観念かんねん横行おうこうしてどうしようもなくあましていた少年しょうねん晩期ばんきのころ、しゃべることがどうしても他者たしゃつうじないというかんじになやまされた。このおもいは、極端きょくたんになるばかりであった。このかんじはそとにもあらわれるようになった。父親ちちおやは、おまえこのごろ覇気はきがなくなったとうようになった。過剰かじょう観念かんねんをどうあつかってよいかわからず、しゃべることは、自分じぶんをあらわしえないということにおもわずらっていたので、覇気はきがなくなったのは当然とうぜんであった。われながら青年せいねんになりかかるころの素直すなお言動げんどうがないことをみとめざるをえなかった。いまおもえば、「わかさ」というものは、まさしくそういうことなのだ。他者たしゃにすぐわかるようにそとせる覇気はきなど、どうせ、たいした覇気はきではない、と断言だんげんできるが、そのとき、そういきるだけの自信じしんはなかった。そうして、しゃべることへの不信ふしんから、くことをおぼえるようになった。それは同時どうじむようになったことを意味いみしている。
 わたし読書どくしょは、出発しゅっぱつてんなにかってんだのだろうか。たぶん自分じぶん自身じしんさがしにかけるというモチーフでみはじめたのである。自分じぶんおもわずらっていることを代弁だいべんしてくれていて、しかも、自分じぶん同類どうるいのようなものをさがしあてたいという願望がんぼうでいっぱいであった。すると書物しょもつなかに、あるときは登場とうじょう人物じんぶつとして、あるときはとして、同類どうるいがたくさんいたのである。
 自分じぶん周囲しゅういわたしても、同類どうるいはまったくいないようにおもわれたのに、書物しょもつなかでは、たくさん同類どうるいがみつけられた。そこで、書物しょもつむことにみつきになった。深入ふかいりするにつれて、読書どくしょどく全身ぜんしんおかしはじめた、といまでもおもっている。
 ところで、そういうある時期じきに、わたしはふとがついた。自分じぶん周囲しゅういには、あまり自分じぶん同類どうるいはみつからないのに、書物しょもつなかにはたくさんの同類どうるいがみつけられるというのはなぜだろうか。ひとつのこたえは書物しょもつになった人間にんげんは、自分じぶんおなじように周囲しゅうい同類どうるいはみつからず、また、しゃべることでは他者たしゃつうじないというおもいになやまされたひとたちではないのだろうか、ということである。もうひとつのこたえは、自分じぶん周囲しゅういにいるひとたちもみな、じつはしゃべることでは他者たしゃ疎通そつうしないというおもいになやまされているのではないか。ただ、そとからはそうえないだけではないのか、ということである。後者こうしゃこたえにおもいいたったとき、わたしは、はっとした。わたしもまた、周囲しゅういひとたちからるとおもいのつうじない人間にんげんえているにちがいない。うかつにも、わたしは、この時期じきはじめて、自分じぶん姿すがた自分じぶんそとるとどうえるか、をった。わたしわたしがわかったとおもった。もっとおおげさにうと、人間にんげんがわかったようながした。もちろん、前者ぜんしゃこたえもいくふんかの度合どあい真実しんじつであるにちがいない。しかし、後者こうしゃこたえのほうわたしきであった。からうろこちるような体験たいけんであった。
 わたしは、文章ぶんしょうくことを専門せんもんとするようになってからも、できるだけそういうひとたちだけの世界せかいちかづかないようにしてきた。つまり、後者こうしゃこたえをむねおく戒律かいりつとしてきた。もし、わたしとしてすこしましなところがあるとすれば、わたし本当ほんとうおそれているひとたちが、ではなく、後者こうしゃこたえによって発見はっけんした、自分じぶん自分じぶんそとるときの自分じぶん凡庸ぼんようさにうつったひとたちであることだけにもとづいている。

吉本よしもと隆明たかあき詩的してき乾坤けんこん』による)


長文ちょうぶん 2.2しゅう
 【1】わたしたちはたび未知みち偶然ぐうぜん要素ようそおおふくんだたびるとき、どこかへきたいとか、なにかを調しらべたいとかなどといった、なんらかの意味いみ目的もくてきをもった自分じぶん意思いしとはべつに、一種いっしゅのあやしいむねのときめきをかんじる。【2】それは一抹いちまつ不安ふあんをまじえたしんはなやぎであり、それによってたびへの出立しゅったつというものに、独特どくとく感情かんじょういろづけがなされる。「いい旅立たびだち」などという国鉄こくてつ広告こうこくもあったが――多分たぶんこれは「おもったが吉日きちじつ」というむかしからあることわざにヒントをえたものであろう――【3】たびへの出立しゅったつがすぐれて演劇えんげきせいあるいは祝祭しゅくさいせいをもちうるのは、そのような感情かんじょういろづけのためであろう。旅立たびだちの場所ばしょであるえきやプラット・フォームや空港くうこう現代げんだい生活せいかつのなかではめずらしく濃密のうみつ意味いみじょうかたちづくり、そこに毎日まいにちおおくのちいさな――ときにはおおきな――ドラマや祝祭しゅくさいられるのは、だれでもよくっているところだ。
 【4】旅立たびだちにさいしたときのこのようなしん不思議ふしぎさまたくみにとらえて、わたしたちの先人せんじん一人ひとりは、つぎのようにいた。「はるてるかすみそらに、白河しらかわせきこえんと、そぞろかみものにつきてしんをくるはせ、道祖神どうそじんのまねきにあひてるものにつかず、云々うんぬん」(松尾まつお芭蕉ばしょう『おくのほそみち』)【5】あまりにも有名ゆうめい文章ぶんしょうであるが、この「そぞろかみものにつきてしんをくるはせ、道祖神どうそじんのまねきにあひて」(そぞろかみものれいにとりひょういたためものくるわしくなり、道祖神どうそじんにさそわれて)ということばには、たび日常にちじょうせいをこえた次元じげんへの飛翔ひしょうともいうべき側面そくめんをもっていることがよくしめされている。(中略ちゅうりゃく
 【6】日常にちじょう惰性だせいてき生活せいかつのなかでざされたわたしたちのしんを、たびひらかれた、かんにみちたものにする。と同時どうじにそれだけ、たびにおいてわたしたちはくさきざきの不安ふあんにも敏感びんかんになる。そのてんについても芭蕉ばしょう見落みおとしていない。【7】「前途ぜんとさん千里せんりのおもひむねにふさがりて、まぼろしのちまたに離別りべつなみだをそそぐ。くだりはるとりうおなみだ云々うんぬん。」ことで「まぼろしのちまた」とは「ぞくゆめうんいふガ如ク、人生じんせいノハカナキヲたとえたとフ」と注釈ちゅうしゃくほん(『おく細道ほそみちかんこもしょうおくのほそみちすがごもしょう』)にある。【8】ふだんの安穏あんのん無事ぶじ生活せいかつのなかでよりも、ひとはたびさいしてわがつめるようになるのである。いまではたびさいしての別離べつりむかしほど深刻しんこくなものではなくなったけれど、それでもそこにはひそかにわたしたちをおびやかすものがある。
 【9】たびわたしたちのしんひらかれたかんにみちたものにする、といった。しかしそれは、たびかけるとき、旅立たびだちにさいしてだけのことではなくて、およそたびをしているかぎり、いつでもいえることである。【0】これはだれでも経験けいけんしていることだけれど、旅先たびさきたものやいたものは、しばしばわたしたちに新鮮しんせんなおどろきをあたえ、旅先たびさき出会であった出来事できごとはしばしばわたしたちにつよい感動かんどうあたえる。たびるとひとはだれでも「芸術げいじゅつ」になり「詩人しじん」になるといわれるのも、そのことをしている。
 この場合ばあい芸術げいじゅつ」になり「詩人しじん」になるというのは、なにか特別とくべつちからあたらしくれることではないだろう。それはむしろ、人間にんげんがもともとっているいきいきとした感受性かんじゅせいをとりもどすことである。ふだんの生活せいかつ日常にちじょう生活せいかつ惰性だせいから自己じこはなつことなのである。「日々ひびあらたなり」という人間にんげんてきせいさまは、日常にちじょう生活せいかつのなかでもむろんえることであり、本来ほんらいわたしたちはそういうものとして毎日まいにちむかえなければならないのだが、実際じっさいにはそれはたいへんむずかしい。
 ところがたびでは――未知みち偶然ぐうぜん要素ようそおおふくんだたびでは――日々ひびわたしたちにとってあらたならざるをえない。そして日々ひびあらたであるなかで、よりつよくわたしたちの好奇心こうきしんうごかされ、はたらくようになる。ふつう「好奇心こうきしん」などというと、あまりいい意味いみにとられない場合ばあいおおい。なにか面白おもしろいことはないかとらなくてもいいことまでむやみに穿鑿せんさくするしん、あるいはものきといったような意味いみほぐされている。けれども好奇心こうきしんとは、わたしたち人間にんげん知的ちてき活動かつどう根源こんげんをなす情熱じょうねつ、つまり知的ちてき情熱じょうねつにほかならない。
 好奇心こうきしんというとあまりいい意味いみにとられない、といった。しかしじつはそれ以前いぜんの、情熱じょうねつ情念じょうねん、パトス)そのものが、これまで一般いっぱんながあいだ、はしたないものとされてきたという事情じじょうがある。情熱じょうねつ人間にんげんしん平静へいせいみだし、人間にんげん真理しんりからとおざけるものだとされてきた。しかしそのような見方みかたはきわめていちめんてきなものでしかない。『百科全書ひゃっかぜんしょ』の編者へんしゃとしてられるディドロ(『哲学てつがくてき思索しさく』)が、そのてんでたいへん適切てきせつなことをっていたのをおもす。
 すなわち、ひとは情念じょうねん情熱じょうねつ)のわるめんばかりをて、むやみに情念じょうねん排斥はいせきする。しかし情念じょうねんは、一方いっぽうであらゆる苦悩くのうみなもとであるだけでなく、同時どうじ他方たほうでは、あらゆるよろこびの源泉げんせんでもある。偉大いだい情念じょうねんによってはじめて、人間にんげんたましい偉大いだいなものごとに到達とうたつしうるのだ。これにはんしてひか感情かんじょう凡庸ぼんよう人間にんげんをつくり、弱々よわよわしい感情かんじょうはもっともすぐれた人間にんげんをもだいなしにしてしまう。
中略ちゅうりゃく
 ひか感情かんじょう凡庸ぼんよう人間にんげんをつくり、ひとは小心翼々しょうしんよくよくとしていると創造そうぞうてきでありえなくなる。これはきすぎた抑制よくせい禁欲きんよくてき態度たいどがおちいりやすい陥穽かんせいしめしている重要じゅうよう指摘してきである。いうまでもなくそれは、絵画かいが音楽おんがくといったせま意味いみでの芸術げいじゅつにかかわるだけではなく、もっとひろ人間にんげん知的ちてき活動かつどう精神せいしんてき活動かつどうにもかかわっている。だから、たとえどんなちいさなことにせよ、発見はっけん創造そうぞうのよろこびをもってきていくためには、通常つうじょうかんがえられているより以上いじょうに、知的ちてき情熱じょうねつとしての好奇心こうきしんをいきいきとたもっておかなければならないのである。ところで、知的ちてき情熱じょうねつとしての好奇心こうきしんとは、とくに、わたしたちが世界せかい自然しぜんやものごとにけるつよい関心かんしんのことである。そして、知識ちしきよりもなによりも関心かんしん(インタレスト)こそがあらゆる文化ぶんか学問がくもん原動力げんどうりょくであるとえそうだ。関心かんしんこそがひらくのである。

中村なかむら雄二郎ゆうじろうたびへのさそい』による)


長文ちょうぶん 2.3しゅう
 【1】どこかへ旅行りょこうがしてみたくなる。しかしべつにどこというきまったあてがない。そういうとき旅行りょこう案内あんないるいをあけてると、あるいは海浜かいひん、あるいは山間さんかん湖水こすい、あるいは温泉おんせんといったように、くべきところがさまざまりすぎるほどある。【2】そこでまずかりに温泉おんせんなら温泉おんせんときめて、温泉おんせんすこくわしくくと、かく温泉おんせん水質すいしつ効能こうのう周囲しゅうい形勝けいしょう名所旧跡めいしょきゅうせきなどのだいたいがざっとわかる。しかしもうすこくわしく具体ぐたいてきことりたくなって、今度こんど温泉おんせんせんもん案内あんないしょさがしてんでみる。【3】そうするとまずぼんやりとおおよその見当けんとうがついてるが、いくら詳細しょうさい案内あんない丁寧ていねいんでみたところで、結局けっきょくほんとうのところは自分じぶんおこなってなければわかるはずはない。もしもそれがわかるようならば、うちで書物しょもつだけんでいればわざわざかける必要ひつようはないとってもいい。【4】つぎにはねんのためにいろいろのひとはなしいてみても、ひとによってかなりことがちがっていて、だれのオーソリティをしんじていいかわからなくなってしまう。それでさんざんに調しらべた最後さいごにはつまりいいかげんに、さいでもげるとおなじような偶然ぐうぜん機縁きえんによって目的もくてきをどうにかきめるほかはない。
 【5】こういうやりかたわばアカデミックなオーソドックスなやりかたであるとわれる。これはおおくの人々ひとびとにとってもっと安全あんぜん方法ほうほうであって、こうすればめったにおおきな失望しつぼうやとんでもない違算いさんしょうずる心配しんぱいすくない。【6】そうして主要しゅよう名所旧跡めいしょきゅうせきをうっかり見落みおとすづかいもない。
 しかしこれとちがったやりかたもないではない。たとえば旅行りょこうがしたくなると同時どうじ最初さいしょからさいをふってところをきめてしまう。あるいは偶然ぐうぜんんだ詩編しへん小説しょうせつかのなかである感興かんきょうたれたような場所ばしょめてしまう。【7】そうして案内あんないなどにはてんでかまわないでしてく。そうして自分じぶんあし自由じゆうくままにあるまわまわる。この方法ほうほうはとかくいろいろな失策しっさく困難こんなんをひきこしやすい。またいわゆる名所旧跡めいしょきゅうせきなどのすぐまえとおりながららずにのがしてしまったりするのはりがちなことである。【8】これは危険きけんおおいへテロドックスのやりかたである。これはうっかり一般いっぱんひとにすすめることのできかねるやりかたである。
 しかしまえ安全あんぜん方法ほうほうにも短所たんしょはある。んだ案内あんないしょいたひとはなしが、いつまでもあたまなかをくっていて、それが自分じぶんかくみみをおおう。【9】それがためにせっかくわざわざかけて自分じぶん自身じしんわば行李こうりなかにでもしこめられたようなかたちになり、結局けっきょく案内あんないはなしたひとにはいったり見物けんぶつしたり享楽きょうらくしたりするとおなじようなことになる、こういうふうになりたがるおそれがある。【0】もちろんこれは案内あんないしょおしえたひとつみではない。
 しかしそれでも結構けっこうであるというひとがずいぶんある。そういうひとはもちろんそれでよい。
 しかしそれではわざわざたかいがないとかんがえるひともある。がりなりにでも自分じぶん自分じぶんあしんで、その景色けしき大地だいち自分じぶんとが直接ちょくせつにぴったりときにのみかんられるするど感覚かんかくあじわわなければなんにもならないというひとがある。こういうひとはとかくに案内あんないしょひとはなし無視むしし、あるいはわざとけたがる。便利べんり安全あんぜんうために自分じぶんことおそれるからである。こういうわりものはどうかするとまんにんるものを見落みおとしがちであるわりに、いかなる案内あんないにもかいてないいいものを機会きかいがある。

寺田てらだ寅彦とらひこ案内あんないしゃ」より)


長文ちょうぶん 2.4しゅう
 なぜひと理解りかいもとめるのであろうか。これは、進化しんか歴史れきしにおいて人間にんげんがきまった生活せいかつ様式ようしきをもたず、それゆえぎゃくにさまざまな環境かんきょうみつき生活せいかつできたことと関連かんれんがあるとおもわれる。特定とくてい生活せいかつ様式ようしきをもっていれば、それで適応てきおうしやすい環境かんきょうえらんでみつき、そこで所与しょよ情報じょうほう処理しょりするだけでことりる。しかしそうした特定とくてい生活せいかつ様式ようしきをもたないときは、将来しょうらい出会であうさまざまな環境かんきょう条件じょうけん、おこりうる種々しゅじゅ環境かんきょう変化へんか対処たいしょしうるような、一般いっぱんてき準備じゅんびをしておくことがどうしても必要ひつようになる。
 ある手続てつづきによっていまこの結果けっかれることができたとしても、それだけでは、その手続てつづきがどの範囲はんい有効ゆうこうなのかわからない。環境かんきょう条件じょうけん些細ささい変化へんかによってこの結果けっかられなくなってしまうというのでは、あまりにも不安定ふあんていである。これにたいして、その手続てつづきが「いかにして」「なぜ」うまくはたらくのかがわかっていれば、条件じょうけんわったときには、手続てつづきを柔軟じゅうなん修正しゅうせいすることができるだろう。また将来しょうらい予見よけんすることのできない課題かだい出会であったときにも、そこにふくまれる対象たいしょうぶつをよく理解りかいしていれば、適切てきせつ手続てつづてき知識ちしきすことも、それほどむずかしくないにちがいない。
 このようにかんがえてくると、理解りかいというのは、いわば、いろいろな環境かんきょう条件じょうけん(の変化へんか)の可能かのうせいそなえて、あらかじめ一般いっぱんてき準備じゅんびをしておくこととることができるのではあるまいか。理解りかいしておくことが人間にんげんにとって適応てきおうじょう必要ひつよう意味いみをここにもとめることができよう。
 予想よそうはんした事象じしょう出会であったとき、あるいは、どれが真実しんじつなのかよくわからないとき、一応いちおうわかるがピタッとわかったというかんじがもてないとき、知的ちてき好奇心こうきしんがひきこされる。この知的ちてき好奇心こうきしんのひきこされた状態じょうたいとは、ことばをえれば、理解りかいがまだ十分じゅうぶん達成たっせいされていないことをわれわれがかんじとった状態じょうたいだといえよう。このときわれわれは、いまのところうまくやっていけているが、将来しょうらいにわたってこの状態じょうたい維持いじできるかどうかわからない、とげられていることになる。そこでできるかぎり課題かだい優先ゆうせんさせて、理解りかい達成たっせいしよう(知的ちてき好奇心こうきしん充足じゅうそくさせよう)とするのである。
 当面とうめん課題かだい達成たっせいをめざすことが現在げんざい志向しこう(あるいは特定とくていされたちか将来しょうらい志向しこう)だとすれば、理解りかいをめざすことは、特定とくていされないとお将来しょうらい志向しこうだといえよう。そして人間にんげんは、そのような将来しょうらい志向しこうつよ動物どうぶつなのではないだろうか。
 もちろん、だからといって現在げんざいのさまざまな理解りかい活動かつどうにおいて、その都度つど「これは将来しょうらいのためだ」と意識いしきしているわけではない。むしろこの活動かつどうさいしては、わかることそのものがたのしいから、自分じぶんなりに納得なっとくできるのはうれしいことだから、それに従事じゅうじしている、というにすぎない。それが結果けっかとして将来しょうらい適応てきおう役立やくだつのだ、とかんがえるべきであろう。
 ここでひとつことわっておきたい。人間にんげん知的ちてき好奇心こうきしんつよく、ふか理解りかいすることをもとめている、といっても、いつでも、どのようなときでも、そうなのではない。たとえば、よんさいからきゅうさいどもたちに、種々しゅじゅ積木つみきあたえ、「平均へいきんだい支点してん)」のうえいてバランスをとるようにもとめた実験じっけんをみてみよう。年長ねんちょうどもやこの事態じたいれたどもは、中央ちゅうおう平均へいきんだいうえせるとバランスがとれるという「理論りろん」をち、これをためそうとしていた。
 ここで注目ちゅうもくすべきなのは、これらのどもが、とりあえずはこの課題かだいができるようになっていた、すなわち、試行錯誤しこうさくごてきなにとかつりあいをとって積木つみきくことができたことである。どうやったら課題かだい達成たっせいできるかまったくわからない、いいかえればぜん精力せいりょく当面とうめん課題かだい達成たっせい使つかわざるをないあいだは、理論りろん検証けんしょうつまり理解りかいへのこころみはられなかったのだ。ひとまず課題かだい達成たっせいできたというしんてき余裕よゆうがあったからこそ、この解決かいけつほうをよりひろ文脈ぶんみゃくにおいて内省ないせいしてみようとしたのだとかんがえられる。
 現在げんざい課題かだい達成たっせいのためにもちのしんてきエネルギーないし情報処理じょうほうしょり能力のうりょく使つかいきっている状態じょうたいでは、とてもこうした理解りかい達成たっせいのほうにまでそのちからをふりけられないであろう。いいかえれば、理解りかいをともなう学習がくしゅうには時間じかんがかかるのである。時間じかんわれ、おおくのことをすみやかに処理しょりしなければならない場合ばあいには、とてもふか理解りかいなど達成たっせいできない。ここであげた事例じれいが、からの強制きょうせいがないだけでなく、自分じぶんこのむやりかたで、このむだけの時間じかんめる事態じたいしょうじたものであったことを、もう一度いちど注意ちゅういしておこう。知的ちてき好奇心こうきしんにもとづくまなしゅ能動のうどうせいは、外側そとがわからせきたてられないかぎりにおいて発揮はっきされうるのである。

稲垣いながき佳世子かよこ波多野はたのよしみあまりおっとひとはいかにまなぶか 日常にちじょうてき認知にんち世界せかい』による。一部いちぶ改変かいへん



長文ちょうぶん 3.1しゅう
番目ばんめ長文ちょうぶん課題かだい長文ちょうぶんです。】
 【1】ひとりでいるときも、良心りょうしんはたらいている。だれていなくても、みちにごみをてようとおもわない。そういう倫理りんりかんを、わたしたちはっている。それは、自分じぶんなか内在ないざいてき価値かちかんがあるからだ。とおむかしちちははによっておしえられられてきたしつけが、自然しぜん自分じぶんなかうつしかえられはぐくまれて、自分じぶん自身じしん倫理りんりかんとしてそだってきたものだろう。【2】「てんる。る。る。わがわれる」という言葉ことばがある。ふたりだけのかくごとっても、てんも、も、あなたも、わたしっている、という意味いみだ。この内在ないざいてき価値かちかんが、社会しゃかい安定あんてい基礎きそになっている。
 【3】しかし、ここで問題もんだいになるのは、わたしたちが内在ないざいてき価値かちかん制約せいやくされることによって、しん自由じゆう判断はんだんができなくなってしまう場合ばあいもあるということだ。ひとがある宗教しゅうきょうしんじるさいもっとおおきな要因よういんは、その両親りょうしんもその宗教しゅうきょうしんじていたからだということがおおい。【4】自分じぶんえらんだとおもっていたものが、じつ無意識むいしきのうちにまれた幼児ようじからの価値かちかんだったとすれば、人間にんげんどうしの対話たいわ根本こんぽんてきなところでやはりりたないだろう。
 【5】では、どうしたらよいのだろうか。ひとつの対策たいさくは、自身じしん内在ないざいてき価値かちかん自覚じかくてきであることだ。わたしたちのおおくは、自分じぶんくに自分じぶん民族みんぞくほこりをっている。しかし、それは、往々おうおうにしてくに民族みんぞくたいする蔑視べっしむすびつくことがある。それは、わたしたちの価値かちかんが、じつからまれたものであることをしめしている。【6】自分じぶん価値かちかん原点げんてんさがせれば、そこに両親りょうしんだけでなく、マスメディアや政治せいじ文化ぶんかからの影響えいきょうることができるだろう。大事だいじなことは、価値かちかんつことではなく、自覚じかくした価値かちかんつことなのだ。
 【7】もうひとつの対策たいさくは、ことなる価値かちかんひとどうしのあいだでオープンな対話たいわ保証ほしょうすることだ。いぬとサルが出会であえば、喧嘩けんかをするしかない。たがいの相違そうい対話たいわによってめるだけの共通きょうつう土俵どひょうがないからだ。【8】しかし、人間にんげんは、たとえはな言語げんごことなっていても、ことなる思想しそう価値かちかん共通きょうつう論理ろんりによってろんじることができる。もしオープンな対話たいわがなく、各人かくじん自身じしん内在ないざいてき価値かちかんだけによってきていくだけなら、子供こどもはのびのびとあそぶべきたとかんがえるひとは、いつまでも子供こども公共こうきょうさわまわらせるだろう。【9】また、ぎゃく公共こうきょうでは、子供こどももルールをまもるべきだとかんがえるひとは、いつまでもさわ子供こどもゆるせないだろう。このことなる価値かちかん対話たいわによって止揚しようさせるのが、いぬやサルにはできない人間にんげん知恵ちえである。【0】
 たしかに、いまなかひろ見渡みわたせば、価値かちかん対立たいりつ問題もんだいよりも、価値かちかん不在ふざい問題もんだいほうおおきいようにえる。しかし、あるひとにとって価値かちかん不在ふざいえることが、じつはその相手あいてにとっては明確めいかく価値かちかん根差ねざしていることもある。たとえば、「そのようなことは重要じゅうようだとはおもわないので、どちらでもいい」というのもひとつの価値かちかんだ「てんる。る。る。わがわれる」という故事こじは、そういう内在ないざいてき価値かちかんっていたことに意義いぎがあるのではなく、その内在ないざいてき価値かちかん相手あいてつたわり共有きょうゆうできたというところに本当ほんとう意味いみがあったとなければならない。

言葉ことばもり長文ちょうぶん作成さくせい委員いいんかい Σしぐま
 【1】もう一度いちど教室きょうしつ光景こうけいへとてんじよう。どもたちの身体しんたい異変いへん近年きんねん、いっそう顕著けんちょである。その変化へんかはいくつでも列挙れっきょできるが、たとえば、都市とし小学校しょうがっこう高学年こうがくねんでは、かつての中学校ちゅうがっこうのように、授業じゅぎょう成立せいりつしない。【2】かつての中学校ちゅうがっこうちがうのは、教師きょうしへの反抗はんこうではなくて教師きょうしへの無視むしであることと、その無視むし主役しゅやくおんなたちであることである。中学校ちゅうがっこう高校こうこうになると、アパシー(無気力むきりょく感動かんどう)が教室きょうしつ支配しはいしている。無表情むひょうじょう沈黙ちんもくした生徒せいと教室きょうしつ置物おきもののようにすわっている。【3】こえをかけると一瞬いっしゅん身構みがまえて緊張きんちょうはしるが、びかけてってもくちひらくようすはない。もっとすごいはなしがある。小学校しょうがっこういち年生ねんせいというと、まず「はい、はい」とツバメののような教室きょうしつから出発しゅっぱつするのが常識じょうしきだが、よんがつから一言ひとことくちひらかないいち年生ねんせい教室きょうしつが、いくつかの学校がっこうられるようになった。【4】この沈黙ちんもく背後はいごには、もちろん陰湿いんしつないじめがひそんでいる。幼稚園ようちえんですでに高学年こうがくねんまでの洗礼せんれいけているのだろうか。
 これら特異とくい現象げんしょうだけでなく、教室きょうしつにおける身体しんたい異変いへんは、もっと日常にちじょうてきふか浸透しんとうしている。
 まず他者たしゃへの関心かんしんがある。【5】たとえば一人ひとりどもが「先生せんせいしゴムがない」となんう。「先生せんせいしゴム」を連発れんぱつするだけで、となりのどもに「ねぇ、ちょっとしゴムして」とってりるまれである。となりのもとなりので「これ使つかっていいよ」とまれにしかいない。【6】ほとんどの他人事たにんごととしてききながしているし、よくて「先生せんせい、このしゴムがないってってるよ」なのである。中学校ちゅうがっこう高等こうとう学校がっこう教室きょうしつだと「○○くんはいる?」と休憩きゅうけい時間じかんにたずねても、いっこうに釈然しゃくぜんとしない。「おい、○○きょうてたっけ」「さあ?」という調子ちょうしである。【7】はなはだしい場合ばあいにはもう半年はんとしっているのに「○○って、うちのクラスだったっけ?」というこえくこともある。
 他者たしゃへの気配きくばりがないわけではない。しかし、その気配きくばりはすれちがっている。ひとつのエピソードを紹介しょうかいしよう。【8】知人ちじん教師きょうし中学ちゅうがくいち年生ねんせい息子むすこ授業じゅぎょう参観さんかんったときのことである。授業じゅぎょう最後さいご一人ひとりおんな挙手きょしゅして「うるさくて先生せんせいはなしこえなくて、板書ばんしょをノートにうつすことしかできなかった」とうったえてしてしまった。【9】すると、そのとなりのせきにいた知人ちじん教師きょうし息子むすこが「先生せんせい、きょう、掃除そうじはあるんですか」と大声おおごえ質問しつもんしたとう。知人ちじん教師きょうしは、息子むすこ行為こういいきどおって授業じゅぎょうのあとに詰問きつもんしたところ、息子むすこは、そのおんな窮地きゅうちおちいるのを救出きゅうしゅつするためにわざわざ関係かんけいのない質問しつもんをしたのだとう。【0】もちろん、かれ行為こういおんな窮地きゅうちすくうどころか、ますますおんなしんきずふかいものにしたのだが、そのことは、知人ちじん息子むすこにはわかっていなかったとう。このようなすれちがいは、教室きょうしつのいたるところで頻発ひんぱつしている。
 他者たしゃへの関心かんしんは、大人おとなたいしては根底こんていてき不信ふしん感情かんじょうとなってあらわれている。大人おとなもくわせてはなしをするどもがすくなくなった。かたりかけてきても、ちらっとわせると、すぐにまなざしをそむけてはなしている。教師きょうしのほうも同様どうよう問題もんだいかかえている。どもがまなざしをそむけるものだから、教師きょうしのほうも微妙びみょうにまなざしをそむけながらはなしかけている。そういうつながりのなかでは「出会であい」も「対話たいわ」もまれようがない。
 モノとの出会であいの経験けいけんも、いちじるしく貧困ひんこんである。商品しょうひんとしての「もの」が氾濫はんらんする一方いっぽうで、自然しぜんつらなるモノの世界せかいは、ますますどもの生活せいかつから消滅しょうめつしつつある。そのはしてきあらわれが道具どうぐ使用しよう経験けいけん未熟みじゅくさにられる。小学校しょうがっこう高学年こうがくねんでも、木工もっこうをやらせると、のこのこぎりてるようにって木材もくざい手前てまえからこうにけてろうとするどもたちがすくなくない。金槌かなづちたせると金属きんぞくのところをにぎってくぎとうとするし、はなはだしい場合ばあいには、作業さぎょうだいがあるのにいたちゅうかかげてって、「くぎてない」と教師きょうし援助えんじょもとめるどももいる。まっとうに道具どうぐ使つかえるどもは皆無かいむってもよい。モノと出会であいモノを道具どうぐによって操作そうさする体験たいけん文化ぶんか欠落けつらくしているのである。
 言葉ことばという道具どうぐにおいても同様どうよう事情じじょうがある。「文字もじばなれ」「活字かつじばなれ」は、いまや決定的けっていてきってよいだろう。小学校しょうがっこうてい学年がくねんでは読書どくしょ習慣しゅうかんしているが、高学年こうがくねんになると活字かつじばなれが進行しんこうし、中学生ちゅうがくせい高校生こうこうせいになるとろくわりからななわり生徒せいとつきいちさつほんんでいない。むこととくこと(リテラシー)は自己じこ構成こうせい世界せかい構成こうせいする基本きほんてき作業さぎょうだが、その文化ぶんか急速きゅうそく衰退すいたいしつつある。郵政省ゆうせいしょう調査ちょうさでは、国民こくみんななわり年賀状ねんがじょうなどの挨拶あいさつじょうのぞいていち年間ねんかんいちつう手紙てがみかない状況じょうきょうむかえているが、おそらく中学生ちゅうがくせい高校生こうこうせい限定げんていすると、その状況じょうきょうはもっと深刻しんこくだろう。いちにち平均へいきんさんじゅうふん以上いじょう電話でんわをするかれらは、文字もじ文化ぶんか(リテラシー)の世界せかいから遊離ゆうりした世界せかいきている。喪失そうしつしているのは、「わたしはこうおもう(I think)」という一人称いちにんしょうかたりであり、「あいつがこうっている(He said.She said.)」というゴシップが、かれらの日常にちじょう世界せかい構成こうせいしているのである。


長文ちょうぶん 3.2しゅう
 【1】わたしはこのすう年間ねんかんテレビ、ラジオ、新聞しんぶんなどをつうじて意見いけんべる機会きかいめぐまれましたが、わたしのような外国がいこくじん日本にっぽん内閣ないかく総理そうり大臣だいじんをはじめ要人ようじん政治せいじてきなものをふく制度せいどなどを批判ひはんしても、当局とうきょくからのおしかりもなければ愛国あいこくしゃといわれるほうから危害きがいくわえられたこともありません。【2】すくなくともわたしっているかぎりでは、日本にっぽんにおける言論げんろん自由じゆうはアジアはもちろん、世界せかいでもれいないほど保障ほしょうされているとおもいます。そして、いまでも様々さまざまくにおこなわれている報道ほうどう弾圧だんあつおもこすたびに、この自由じゆう享受きょうじゅできないでいる海外かいがい友人ゆうじんたいしあるしゅうしろめたさすらかんじることがあります。
 【3】とはいっても、この言論げんろん自由じゆう謳歌おうかしている日本にっぽん言論げんろん機関きかんたいし、疑問ぎもん注文ちゅうもんがないわけではありません。たしかに政府せいふによるきびしい検閲けんえつ特定とくてい団体だんたいによる弾圧だんあつかんじられませんが、言論げんろん機関きかんによる少数しょうすう意見いけん抹殺まっさつ世論せろん操作そうさちか誘導ゆうどうがあるようにかんじてなりません。【4】これは自由じゆうであるからこそしょうじているものであるといえるでしょう。ここではとりあえず新聞しんぶん、テレビなどマスコミについてかんがえてみたいとおもいます。
 【5】まず不思議ふしぎかんじることは、これだけのかず新聞しんぶん雑誌ざっしがあるというのにとりあげているテーマがほとんどおなじであるということ、しかもそのテーマはなに基準きじゅんにしてめているのか、わたしたち外国がいこくじんにとってはわかりにくいことです。【6】たとえば国益こくえき重視じゅうししてのかたであるとおもわれるときがありますが、しかしこの国益こくえきという言葉ことばはマスコミにおいてはタブーすらされて、ほとんど死語しごちかいような概念がいねんであるようなので、どうもそうではないようです。【7】それでは社会しゃかい正義せいぎなのかとかんがえてもみましたが、日本にっぽんには確固かっこたる正義せいぎ基準きじゅんとなるモラルや確立かくりつした規範きはんがあるようにもおもえないのです。
 わたしかんがえでは、マスコミの役割やくわりはまず現在げんざいなか出来事できごと事実じじつとして客観きゃっかんてきつたえること。【8】そして社会しゃかいたい危機きき回避かいひ役割やくわりたすことであり、個人こじんてき社会しゃかいてき向上こうじょうするための知識ちしき情報じょうほう提供ていきょうすることです。
 しかし日本にっぽん報道ほうどうについては、ニュースの判断はんだん基準きじゅんのあいまいさがになります。【9】社説しゃせつ論文ろんぶんはべつとして、その記事きじ報道ほうどうでは、なに客観きゃっかんてき事実じじつであり、またどんなメッセージをはっしようとしているかからないのです。
 そこでだいいちかんがえられることは、残念ざんねんながら日本にっぽんのマスコミを左右さゆうしている商業しょうぎょう主義しゅぎすじならなんでもやるという競争きょうそう原理げんりです。
 【0】つぎ読者どくしゃ視聴しちょうしゃ中毒ちゅうどくてき欲望よくぼうたすためにいたずらに刺激しげきてきでドラマチックな演出えんしゅつくわえることです。
 さらに、マスコミ関係かんけいしゃは、とくにテレビではあるしゅ時代じだい錯誤さくごおちいっているようで、はん国家こっかてきであることが正義せいぎであるときめつけ、庶民しょみんぶることで自分じぶん意見いけんもあたかも国民こくみん意見いけんのごとく仕立したてています。国家こっか弾圧だんあつてきであるような時代じだいであるならべつですが、マスコミそのものがおおきな権力けんりょくになっているのに、庶民しょみんぶることやはん体制たいせいてきであろうとするのはむしろ権力けんりょく乱用らんようであるようにわたしにはかんじられます。かず千万せんまん、あるいはおく単位たんい契約けいやくきんをもらっているキャスターが、自分じぶん庶民しょみんであるとことさらアピールする姿すがたは、庶民しょみんいものにしているようにすらおもわれます。
 わたし日本にっぽんのマスコミにたいし、みっつの注文ちゅうもんをしたいとおもいます。だいいちに、自分じぶん意見いけん客観きゃっかんてき事実じじつ区別くべつすること。だいに、マスコミじんとしての自覚じかくとモラルにもとづき、だれがただしいかよりも、なにただしいかを明確めいかくにしていくこと。だいさんに、なかたい麻薬まやく患者かんじゃ注射ちゅうしゃつような行為こういあらため、明白めいはく警鐘けいしょう提言ていげんおこなってしいこと、です。

(ベマ・ギャルポの文章ぶんしょうによる)


長文ちょうぶん 3.3しゅう
 【1】先進せんしんこくのちいかける途上とじょうこく経済けいざいと、世界せかい先頭せんとうはし先進せんしんこく経済けいざいのもっとも重要じゅうようなにかというと、「途上とじょうこく経済けいざいではものまねができたけれども、先進せんしんこく経済けいざいでは自分じぶんあたらしい知識ちしき創造そうぞうしないとそれ以上いじょう発展はってんができない」ということである。【2】途上とじょうこく有利ゆうりてんは、だいいちに、先進せんしんこくモデルが存在そんざいし、容易ようい産業さんぎょうのための目標もくひょうがみいだせること、だいに、先進せんしんこくから技術ぎじゅつ導入どうにゅうできること、そしてだいさんに、賃金ちんぎんなど全体ぜんたいてきなコストが先進せんしんこくくらべて有利ゆうりであることなどである。
 【3】このような有利ゆうりせい存在そんざいしているかぎり、みずからオリジナルな技術ぎじゅつ知識ちしき創造そうぞうする必要ひつようせいはそれほどたかくない。先進せんしんこくから使つかえる技術ぎじゅつ輸入ゆにゅうし、それにやす賃金ちんぎん勤勉きんべん労働ろうどうりょくけるだけで競争きょうそうりょくにつけることはできるだろう。【4】もっとも、これとてどこのくににでもできるほど簡単かんたんなことではないが、日本にっぽん現在げんざいきゅう成長せいちょうちゅうひがしアジア諸国しょこくはいずれもこのシナリオで成功せいこうしてきた。
 しかし、日本にっぽんについていえば、これらの好条件こうじょうけんはすべて消滅しょうめつしたといってよいだろう。【5】じゅうねんほどまえに、日本にっぽん経済けいざい歴史れきしてきなコスト条件じょうけん逆転ぎゃくてん経験けいけんした。またインプット拡大かくだいによる成長せいちょうにも人口じんこう高齢こうれい労働ろうどうりょく人口じんこう減少げんしょう貯蓄ちょちくりつ低下ていかなどの理由りゆうからおおくを期待きたいすることはできない。【6】その結果けっか日本にっぽん先進せんしんこく宿命しゅくめいすなわちみずからのさきみずからの創意そうい工夫くふうひらかなければならないという宿命しゅくめいを、このむとこのまざるとにかかわらず背負せおうことになったのである。
 【7】日本にっぽん社会しゃかい経済けいざい体制たいせいは、欧米おうべいいつき、すという明治めいじ以来いらい国策こくさくにそって形成けいせいされてきた。たとえば、日本にっぽん教育きょういく制度せいど欧米おうべい先進せんしんてき知識ちしきむことを目指めざして発達はったつしてきた。これはすばらしい戦略せんりゃくであった。【8】欧米おうべい日本にっぽんあいだに、科学かがく技術ぎじゅつ近代きんだい思想しそうなどのてんおおきな知識ちしきのギャップがあったのだから、まずはこのギャップを一刻いっこくはやめることが必要ひつようであったし、そうすることがキャッチアップを効率こうりつてきすすめる唯一ゆいいつ方法ほうほうであった。
 【9】しかし、日本にっぽんがキャッチアップをえたいまとなってははなしわってくる。外来がいらい知識ちしきまなぶだけではかならずしも独創どくそうてき知識ちしきまれない。日本にっぽん学校がっこう教育きょういく(とくに義務ぎむ教育きょういく)はすばらしいというせつがあるが、それはすくなくとも今日きょうてき観点かんてんからはとんでもない誤解ごかいである。【0】たしかに、先進せんしんこくいつく目的もくてきのために、先生せんせい生徒せいと知識ちしきり、みを強要きょうようすることはにかなっていたかもしれない。いや、欧米おうべいとの巨大きょだい知識ちしきギャップを一刻いっこくはやめるためには、大車輪だいしゃりん知識ちしき吸収きゅうしゅうつとめなければならないことは当然とうぜんであった。知識ちしき吸収きゅうしゅういそぐあまり、とき青年せいねんたちの独創どくそうせい、オリジナルなもののかんがかた育成いくせいするもうひとつの教育きょういく重要じゅうよう役割やくわり多少たしょうなおざりにされたとしても、それはある意味いみではやむをえなかったことといえるかもしれない。
 しかし、今日きょうのように、みずか価値かち創造そうぞうすることが要求ようきゅうされる時代じだいになっても、教育きょういくシステムが本質ほんしつてき意味いみなにわっていないとすればそれはおおきな問題もんだいであろう。最近さいきん教育きょういく改革かいかく論議ろんぎ当然とうぜんのことながらこのような観点かんてんからなされることがおおい。しかし、教育きょういく現場げんばでは、相変あいかわらず先生せんせいだい教室きょうしつ黒板こくばん知識ちしき羅列られつし、日本にっぽんてき意味いみでの「優秀ゆうしゅうな」生徒せいとは、試験しけんのときにそれを正確せいかく再現さいげんすることを要求ようきゅうされている。生徒せいと能力のうりょくや、興味きょうみ所在しょざいなどは無視むしし、とにかくうえからあたえられた課題かだいを、先生せんせいめたスピードでこなしていくことが「優秀ゆうしゅうな」生徒せいと絶対ぜったいてき条件じょうけんである。極度きょくど一律いちりつされた教育きょういく風景ふうけいである。
 日本にっぽん教育きょういく現場げんば自分じぶんあたまかんがえた独自どくじ意見いけん前面ぜんめんすことがこう得点とくてんにつながるというはなしはおよそいたためしがない。試験しけんでは先生せんせい正解せいかい認定にんていするこたえくことが得策とくさくであって、先生せんせいあたまになかったようなユニークなこたえ尊重そんちょうする風潮ふうちょうはない。生徒せいと一定いっていわくのなかで発想はっそうする習慣しゅうかんをたちまちにつけてしまう。このように「優秀ゆうしゅうな」生徒せいとはいくつかの入試にゅうして、完璧かんぺきなまでに「知識ちしき吸収きゅうしゅうがた」のわくにはまったこたえしかできない受動じゅどうてき人間にんげんになってしまう。
 もちろん、わかいときに知識ちしきをできるだけおお吸収きゅうしゅうすること自体じたい将来しょうらい創造そうぞうせいにとって必要ひつよう不可欠ふかけつである。創造そうぞうせい源泉げんせんがどこにあるのかはふるくてあたらしい問題もんだいだが、あたまのなかにたたきまれた大量たいりょう知識ちしき創造そうぞうせい刺激しげきすることは間違まちがいない。問題もんだいは、教室きょうしつにおける教師きょうし生徒せいと関係かんけいである。たとえば、生徒せいとがまだおしえてもいないことを教室きょうしつ発言はつげんすることをきら教師きょうし非常ひじょうおおい。教師きょうし能力のうりょく知識ちしき範囲はんいえる生徒せいとがいた場合ばあい教師きょうしはそれを教師きょうしであることをたてに、権威けんいでもっておさもうとする。
 受験じゅけんじゅくでは公立こうりつ学校がっこうとちがって競争きょうそうきびしい。学校がっこう教科きょうかよりすす具合ぐあいはやいことはもちろん、おしえる内容ないようもはるかにすすんでいる。じゅくならったことを教室きょうしつまれると、学校がっこうでの教育きょういく進度しんど秩序ちつじょみだされるという理由りゆうもわからないではないが、できる生徒せいと好奇心こうきしんおさむのではなく、一人ひとりいちにん能力のうりょく進度しんどおうじて先生せんせい対応たいおうし、知的ちてき能力のうりょく最大限さいだいげん刺激しげきすることができるような教育きょういく体制たいせいをとることが本筋ほんすじである。平均へいきんてき生徒せいとをひたすら大事だいじにする、あるいはちこぼれをさないといったことにかまけるあまり、潜在せんざいてき能力のうりょくたか優秀ゆうしゅう生徒せいとあたまさえつけるといった「平等びょうどう主義しゅぎてき教育きょういく思想しそう」にそれなりの価値かちがあることはみとめられなければならないが、それが独創どくそうてき人材じんざいみとっている危険きけんについても十分じゅうぶん配慮はいりょ必要ひつようであろう。
 
中谷なかたにいわおちょ日本にっぽん経済けいざい歴史れきしてき転換てんかん』)


長文ちょうぶん 3.4しゅう
 この連載れんさい問題もんだい設定せっていである「思考しこう補助ほじょせん」というタイトルには、その構想こうそうにおいて、ある危機きき意識いしきめられていた。
 現代げんだいはからずも断片だんぺんしてしまっており、そのばらばらの破片はへんをかきあつめてみても、世界せかいぞうひとつにむすばない。そのような現状げんじょうたいする個人こじんてきなあせりとかなしみのようなものをけたうえで、じっくりとかんがえてみたいと連載れんさいはじめたときにおもっていた。
 一見いっけん関係かんけいのないようにえる分野ぶんやあいだに、補助ほじょせんいてみたい。その補助ほじょせんかなければえないあたらしい世界せかいぞう全体ぜんたいとしてかびがってくるあるイメージを把握はあくしてみたい。そのようなすくなくともわたしにとっては切実せつじつおもいがたくされていた。
 下手へたをすれば、ある分野ぶんや卓越たくえつした専門せんもんであることを維持いじすることですら処分しょぶん時間じかん自己じこのエネルギーのすべてをついやしてもむずかしい、という時代じだいである。自分じぶんせんもんであるのう科学かがくにおいては、すでにそのような傾向けいこうがあることを身近みぢか問題もんだいとしてよくっている。おなのう研究けんきゅうしているはずなのに、視覚しかく専門せんもん前頭葉ぜんとうよう統合とうごう過程かていらず、海馬かいばにおける学習がくしゅう理論りろん研究けんきゅうしゃはシナプスの可塑かそせい分子ぶんしメカニズムをらない。そのような事態じたいはすでに進行しんこうしてしまっている。
 想像そうぞうするしかないが、歴史れきしがくでも、経済けいざいがくでも、あるいは文学ぶんがく研究けんきゅうでもたような事態じたいすすんでいるのだろう。万葉まんよう専門せんもん江戸えど時代じだい戯作げさくしゃのことなどつゆらず、というのはたりまえのことなのかもしれないが、それでは満足まんぞくできないというさびしいおもいはだれむねなかにもあるのではないか。
 全体ぜんたい見渡みわたすことはもはや不可能ふかのうなのだろうか? 一人ひとりひとりの人間にんげん人類じんるい全体ぜんたい運営うんえいしている「エクスパート・システム」の部品ぶひんとして、あるいは「グーグル」で検索けんさくされるべきのアーカイブの部分ぶぶん担当たんとうしゃとして、その職分しょくぶんまっとうすることしかできないのだろうか?
 検索けんさくエンジンのまえには、文系ぶんけい理系りけいのそれもコンピュータのハードディスクじょうのデジタル・ビットにすぎない。それは、奇妙きみょうわたしたちのたましい自由じゆうにする光景こうけいではあるが、一方いっぽうではとてつもない脱力だつりょくへとさそ事態じたいでもある。そもそも、検索けんさくエンジンは世界せかい全体ぜんたいどころかひとつひとつの事物じぶつけることにすら、することができないのだ。
 のサブカル(=部分ぶぶん問題もんだい解法かいほうないしはレトリックとしてのみみ、所有しょゆうし、発信はっしんするということ)がポスト・モダニズムなどてて参照さんしょうするまでもなく進行しんこうしてしまった現代げんだいにおいて、断片だんぺん現状げんじょうけるためにはよほどの覚悟かくご戦略せんりゃくる。そんな志向しこうせいはもはやポスト・デジタルの人類じんるいにとって余計よけいなものでしかないのかもしれないが、それでも志向しこうすることだけはめたくない。
 アインシュタインは、「感動かんどうすることをめてしまったひとは、んでしまったのとおなじである」という意味いみ言葉ことばのこしている。断片だんぺんしたをそのままれて、疑問ぎもんたずにただ右往左往うおうさおうする人類じんるいはもはや本当ほんとうきていないのではないか。
 そもそも世界せかい全体ぜんたいける、ということは、一体いったいどのようなことなのだろう?
 世界せかいかんする人間にんげん集合しゅうごうとしてその要素ようそきならべてみることもできる。そして、その全体ぜんたい同時どうじ把握はあくすることを目指めざす、というかんがかたもある。そうだとすれば、やるべきことは、巨人きょじん博覧強記はくらんきょうきひとへのみちをたどることだろう。しょがく書物しょもつ通暁つうぎょうし、さまざまな分野ぶんや最新さいしん知見ちけん網羅もうらてき横断おうだんしてみせる。そのような胆力たんりょくのある人間にんげんひとつの理想りそうぞうであるかもしれないし、また実際じっさい過去かこにはそのようなみもあった。ゲーテやダ・ヴィンチ、南方みなかた熊楠くまぐすのように、ある程度ていど成功せいこうしたとおもわれるような実例じつれいもある。
 現代げんだい知的ちてき状況じょうきょう本質ほんしつてき問題もんだいてんは、そのようなひゃくいえ全書ぜんしょてき野望やぼう実現じつげん原理げんりてき不可能ふかのうだということがだれにもあきらかだというてんにある。たったひとつの分野ぶんやげてみたとしても、出版しゅっぱんされる論文ろんぶんほんかず膨大ぼうだいである。どれほど卓越たくえつした記憶きおくりょく思考しこう能力のうりょくめぐまれた人間にんげんでも、現代げんだいしょ分野ぶんや一人ひとりでカバーすることなどありえない。

茂木もき健一郎けんいちろう思考しこう補助ほじょせん」より)