(Translated by https://www.hiragana.jp/)
課題集
長文 10.1週
【1】「
努力すれば
報われる」と、
私たちは
教わって
育ってきた。しかし、
子供の
学力と
親の
収入が
相関しているなどという
調査を
見ると、
努力する
以前にスタートの
地点が
違っているというケースも、
世の
中にはかなりあるのではないかと
思えてくる。【2】もし、そういう
歪みが
社会にあるとすれば、それは
世代を
経るごとに
再生産され、やがて
生まれつき
銀のスプーンをくわえた
恵まれた
少数のグループと、
単に
指をくわえただけの
多数のグループとに、
社会ははっきりと
色分けされるようになるだろう。【3】
私たちは、
機会における
均等を
保証する
社会を
作らなければならない。
そのための
方法は、
第一に、
競争の
条件をそのつど
新たに
決め
直す
仕組みを
作ることだ。【4】
自由競争という
言葉は
響きがいいが、
自由な
競争はやがて、
力の
強いものがますます
強く、
力の
弱いものがますます
弱くなるような
偏りを
生み
出す。そのため、
自由競争は
往々にして
独占のもとでの
不自由な
競争となることがある。【5】
政治家の
世襲が
日本では
問題になっているが、これは、
後援会という
地盤を
引き
継ぐ
自由を
認めることが、
他の
候補者の
参入を
阻む
不自由な
競争を
生み
出す
結果につながることを
示している。
【6】
第二には、
機会の
均等を
求めることが、
結果の
平等を
要求するところにまでつながらないように、
私たちが
節度を
守ることである。
企業家精神に
溢れた
少数の
人間と、そうでない
多数の
人間がいて、
多数決で
物事を
決めようとすれば、
社会は
多数の
利益を
保障する
方向へと
流れがちだ。【7】
努力や
工夫をする
人と、
努力も
工夫もしない
人が、
同じ
給料しかもらえないのであれば、
働く
基準は
自然に
低い
方に
合うようになる。このことは、かつての
社会主義国の
経済運営や、
現代でもお
役所仕事という
形で
既に
経験済みだ。
【8】
確かに、
安定した
社会の
条件として、
個人の
努力を
要求する
前に、
最低限のセーフティーネットというものは
必要だ。しかし、それはあくまでも
老人や
病人などという
弱者に
対しての
安全網であって、
社会の
中心はあくまでも
自由な
競争の
上に
成り
立つものでなければならない。【9】
自由競争の
中でだれもがチャンスを
生かせるようになるためには、
個人の
意志とともに、
社会がチャンスを
均等に
用意していることが
必要だ。「
努力すれば
報われる」
社会もまた、
私たちの
努力によって
作られるのである。【0】
(
言葉の
森長文作成委員会 Σ)
長文 10.2週
【1】
効力感は、ただ
自分の
努力によって
好ましい
変化をひきおこすことができた、というだけでは
伸びていくものではない。これこそ
自分のしたいことだと
思える
活動や
達成を
選び、そこでの
自己向上が
実感されて、はじめて
真の
効力感は
獲得されるからだ。【2】これに
対して
親は、いったいどんな
手助けができるだろうか。じつはこれもそんなにむずかしいこととは
思えない。ホワイトが
正しく
指摘したように、
高等動物は
本来、
環境に
能動的に
働きかけ、みずからの
有能さを
伸ばそうとする
傾向をもつ。【3】
管理社会から
自由で、また
無気力に
汚染されていない
子どもでは、この
傾向はおおいにあてにできるからである。
自然な
生活のなかで、
子どもはきわめて
多くの
望ましい
特性を
発達させていく。【4】
効力感を
伸ばすというと、
何か
特別なことをしなければならないかのように
思うかもしれないが、じつは
子どもの
生活のなかには
効力感を
伸ばすのにかっこうの
題材がたえずころがっているのである。
【5】
熟達を
例にとってみよう。
熟達をとおして
子どもは
自分の
努力の
意味を
知り、そしてまた、その
努力を
自分にとって
意味のある
分野に
向けることを
学んでいくだろう。しかし、
生活のなかでの
熟達は
決して
訓練という
形をとらない。【6】
子どもの
側が
興味をもって
取り
組みたがるさまざまな
熟達の
機会があるのだ。
たとえば、
子どもが、「
自転車に
乗りたい」といいだしたとしよう。
親はまず、「
三輪車にしなさい」というだろう。【7】ところが、
三輪車でしばらく
満足していた
子どもが、そのうちどうしても
自転車にしたいといいだすようになる。「
自転車でないとスピードがでない」「
自転車でなければ
友だちと
一緒に
走れない」などということもあるだろう。【8】しかし、
最大の
理由は、
三輪車は
安全すぎ、やさしすぎるのでつまらない、ということである。
自転車を
要求する
子どもに
押されて、
親は
転倒することをおそれながらも、
補助輪をつけるという
条件でしぶしぶこれを
認める。【9】
子どもはしばらく
補助輪をつけて
自転車に
乗っているが、そのうちに
必ず
補助輪をはずせといってくる。その
理由は、ただみっともない、ということではない。むしろ、
補助輪があったのでは、やさしすぎてつまらない、ということである。【0】このように、
子どもの
技能が
繰り
返しによって
進歩していくと、
子どもは、いわば、
内発的によりむずかしい
課題に
興味をもつようになる。
条件さえととのえれば、あとは
放っておいても
熟達するものだ、とさえいえるかもしれない。
気をつけなければならないのは、
親がむしろこれにブレーキをかける
役をしてしまいがちなことだ。
もうひとつ
重要なのは、
子どもの
生活のなかには、さまざまな
熟達のお
手本があるということだ。
二本足で
歩くといった
単純なことでさえ、お
手本がなければ、やってみようとする
気にもならなかったかもしれない。
狼に
育てられて
大きくなった
子どもが
二本足で
歩行しなかった、というのは
有名な
話である。(
中略)
親が
注意すべきことといえば、
何よりもまず
賞罰によって
子どもの
行動をコントロールしすぎないということであろう。もちろん、
効力感を
伸ばすという
以外の
目的のために、
賞罰にたよらざるをえない
場面があることは
確かだ。しかし、そうだからといって、すべてのしつけや
教育を
賞罰にたよって
押しとおそうとすると、
効力感を
伸ばすことはまず
無理になる。できるだけ
子どもの
探索や
発見を
奨励し、
子どもなりの
知識の
体系や
価値観が
形成され、さらにそれが
自覚化されていくのを
期待するようにすべきだろう。
親の
関わり
方は、
子どもが
次にやるべきことを
指示したり、
賞めたり
叱ったりといった
形ではなく、むしろ
子どもの
活動や
自己向上が
促進されるように
環境条件をととのえてやるとともに、
子どもの
内部にある
知識や
価値基準を
明瞭化し、それが
子どもの
行動を
導くものになるのを
助けるという
形で
行なわれるべきだろう。
(
波多野誼余夫、
稲垣佳世子「
無気力の
心理学――やりがいの
条件」より
一部改変)
長文 10.3週
【1】
大人になって
毎日同じようなことを
繰り
返していると、あまり「ふしぎ」なことはなくなってくる。
何もかもわかったような
気になると、
今度は
面白くなくなってきて、「ふしぎ」なことを
提供してくれるテレビ
番組や
催しものなどを
見る。【2】これらは
必ず「ふしぎ」なことが
最後には
心に
収まるようになっているので、
少しの
間心をときめかして、
後は
安心、ということになる。
【3】
子どもは「ふしぎ」と
思う
事に
対して、
大人から
教えてもらうことによって
知識を
吸収していくが、
時に
自分なりに「ふしぎ」な
事に
対して
自分なりの
説明を
考えつくときもある。【4】
子どもが「なぜ」ときいたとき、すぐに
答えず、「なぜでしょうね」と
問い
返すと、
面白い
答えが
子どもの
側から
出てくることもある。
「お
母さん、せみは、なぜミンミン
鳴いてばかりいるの」と
子どもがたずねる。【5】「なぜ、
鳴いているんでしょうね」と
母親が
応じると、「お
母さん、お
母さんと
言って、せみが
呼んでいるんだね」と
子どもが
答える。そして、
自分の
答えに
満足して
再度質問しない。これは、
子どもが
自分で「
説明」を
考えたのだろうか。
【6】それは
単なる
外的な「
説明」だけではなく、
何かあると「お
母さん」と
呼びたくなる
自分の
気持ちもそこに
込められているのではなかろうか。だからこそ、
子どもは
自分の
答えに「
納得」したのではなかろうか。【7】そのときに、
母親が「なぜって、せみはミンミンと
鳴くものですよ」とか、「せみは
鳴くのが
仕事なのよ」とか、
答えたとしても「
納得」はしなかったであろう。たとい、せみの
鳴き
声はどうして
出てくるかについて「
正しい」
知識を
供給しても、
同じことだったろう。【8】そのときに、その
子にとって
納得のいく
答えというものがある。
「そのときに、その
人にとって
納得がいく」
答えは、「
物語」になるのではなかろうか。せみの
声を
聞いて、「せみがお
母さん、お
母さんと
呼んでいる」というのは、すでに
物語になっている。【9】
外的な
現象と、
子どもの
心のなかに
生じることがひとつになって、
物語に
結晶している。
人類は
言語を
用いはじめた
最初から
物語ることをはじめたのではないだろうか。
短い
言語でも、それは
人間の
体験した「ふしぎ」、「おどろき」などを
心に
収めるために
用いられたであろう。
【0】
古代ギリシャの
時代に、
人々は
太陽が
熱をもった
球体であることを
知っていた。しかしそれと
同時に、
彼らは
太陽を
四頭立ての
金の
馬車に
乗った
英雄として、それを
語った。これはどうしてだろう。
夜の
闇を
破って
出現して
来る
太陽の
姿を
見たときの
彼らの
体験、その
存在のなかに
生じる
感動、それらを
表現するのには、
太陽を
黄金の
馬車に
乗った
英雄として
物語ることが、はるかにふさわしかったからである。
かくて、
各部族や
民族は、「いかにしてわれわれはここに
存在するのか」という、
人間にとって
根本的な「ふしぎ」に
答えるものとしての
物語、すなわち
神話をもつようになった。それは
単に「ふしぎ」を
説明するなどというものではなく、
存在全体にかかわるものとして、その
存在を
深め、
豊かにする
役割をもつものであった。
ところが、そのような「
神話」を
現象の「
説明」として
見るとどうなるだろう。
確かに
英雄が
夜毎に
怪物と
戦い、それに
勝利して
朝になると
立ち
現われてくるという
話は、ある
程度、
太陽についての「ふしぎ」を
納得させてくれるが、そのすべての
現象について
説明するのには
都合が
悪いことも
明らかになってきた。たとえば、せみの
鳴くのを「お
母さんと
呼んでいる」として、しばらく
納得できるにしても、しだいにそれでは
都合の
悪いことがでてくる。
そこで、
現象を「
説明」するための
話は、なるべく
人間の
内的世界をかかわらせない
方が、
正確になることに
人間がだんだん
気がつきはじめた。そして、その
傾向の
最たるものとして、「
自然科学」が
生まれてくる。「ふしぎ」な
現象を
説明するとき、その
現象を
人間から
切り
離したものとして
観察し、そこに
話をつくる。
このような「
自然科学」の
方法は、ニュートンが
試みたように、「ふしぎ」の
説明として
普遍的な
話(つまり、
物理学の
法則)を
生み
出してくる。これがどれほど
強力であるかは、
周知のとおり
現代のテクノロジーの
発展がそれを
示している。これがあまりに
素晴らしいので、
近代人は「
神話」を
嫌い、
自然科学によって
世界を
見ることに
心をつくしすぎた。これは
外的現象の
理解に
大いに
役立つ。しかし、
神話をまったく
放棄すると、
自分の
心のなかのことや、
自分と
世界とのかかわりが
無視されたことになる。
(
河合隼雄「
物語とふしぎ」による)
長文 10.4週
「
差別」や「
平等」というい
方は、
一種の
序列構造を
前提にしている。
自然数のように、
大小の
順番がつけられるという
性質を「
順序関係」と
呼ぶが、「
差別」の
対義語として「
平等」を
措定する
思想的態度は、
順序関係という
写像への
信奉によって
非常に
強く
条件づけられている。
「
差異は
上下という
関係に
写像される」という
世界観の
下では、できるだけその
差異を
隠蔽して、
均質なものとみなそうという
動機づけが
生まれる。そこに
立ち
現れるのは、
世界がお
互いに
比較などできない
多様なものによって
構成されているという
豊潤さへの
感謝ではなく、むしろすべてを
中央集権的に
価値づけようという「
神の
視点」につながる
野望である。(
略)
差別語とされる
言葉をことさら
使う
人は
品性下劣であるが(とくに
相手が
嫌がる
場合には、あえてそのような
言葉を
使う
必要はないと
思う)、その
一方で
思想警察のごとき
極端な「
差別語狩り」には、
以前から
違和感を
持っていた。その
根本的な
理由は、
以上述べたような、
差別をことさらに
隠蔽しようとする
思想の
背後にある、
画一的なメンタリティにある。
世界には
魑魅魍魎のごとき
実に
多彩なものがあふれており、その
間に
単純なる
順序関係(
上下の
序列)などつけることはできず、
生肉を
食べようが、
目が
細かろうが、
箸でものをつまもうが、それは「
個性」であって、「みんなちがって、みんないい」と
称揚されるべき
差異である。そのような「
覚悟」をもって
世界を
見渡せば、
美人だろうがブスだろうが、ハゲだろうがオヤジだろうが、
別にいいだろう、と
思えるはずだ。しかし、それは
案外かなりラジカルで、それを
生きることの
難しいスタンスなのかもしれないとも
思う。
もともと、
近代科学自体に
世界観としての
原罪がある。
周知のとおり、ニュートンによる
微積分の
手法の
発明、「
万有引力」という
構想自体が、
世界の
中の
差異を
消去し、すべてに
普遍的に
成り
立つ
法則を
見出そうとする
動機づけに
基づいていた。
目の
前のリンゴと、
天上に
輝く
月の
間には、ナイーブに
考えれば
乗り
超えがたい
差異がある。
両者が
同じ
万有引力の
法則に
従って
運動するという
衝撃的な
着想の
中にこそ、
近代の
科学を
発展させた
起爆剤はあった。しかし、それは
同時に
差異をどんどん
無効化し、
消去していく
無限運動の
始まりでもあった。
それぞれ
輝く
個性をもって
屹立しているかに
見えた
生物種の
起源が「
突然変異と
自然選択」という
一般原理で
説明され、
子が
親に
似るという
現象はDNAという
単一の
物質のバリエーションの
問題に
帰着し、そしていまや
世界の
森羅万象が
等しくネットワーク
上のデジタル
情報の
中に
映し
出される。
男も
女も、
老いも
若きもすべては
差異の
隠蔽された
平等の
楽園に
取り
込まれていくという「
政治的正しさ」のプログラムは、ニュートン
以来の
近代科学のすばらしき
成果と
思想的に
明らかに
連動しているのである。
(
茂木健一郎「『みんないい』という
覚悟」による)
長文 11.1週
【1】
例えば
市町村で
残酷な
仕打ちをしている
地方警察の
暴力行為のようなものから、IMF(
国際通貨基金)や
G7、
世界銀行といった
総合的な
中枢機構に
至る、
政治を
操って、
社会の
基本的政策を
決定する
組織まで。【2】まず
大切なことはそういう
組織が
存在しているということを
認識し、そしてそれらと
戦うということさ。――レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン「
機械に
抗する
怒り」とでも
訳すことのできる、このロックバンドは、たかだかまだ
二枚のアルバムをリリースしたにすぎない。【3】だが、
彼らは
文字通り、
怒りを
発し
続けているバンドである。アメリカン・インディアンの
男性で、FBIの
捜査官を
殺害した
容疑で
長期拘留されているレナード・ぺルティエや、【4】
元ブラック・パンサーのメンバーで
黒人ジャーナリストのマミア・アブジャーマルの
解放のために
活動し、ネオナチ
反対のコンサートを
開いたり、あるいは、コンサート
会場で
売られる
高すぎる
Tシャツに
抗議し、
検閲制度にプロテストしたりもする。【5】ただやみくもに
抗議しているだけではないか、と
言うのならば、その
通りと
答えなければならぬかもしれない。【6】あらゆる
権力、あらゆる
制度に
対して
否定の
行動を
起こすことこそロックであるとする、
書いていて
思わず
赤面するほどの
古くさいロックの
定義を
今でも
信じているバンドにすぎないのではないか、と
言われれば、
彼らがある
意味でストレートすぎるほどの
政治的なメッセージを
隠そうとしないハードロックバンドであることは
認めなければならないだろう。
【7】だが
彼らにはアクチュアリティがある。
アメリカやヨーロッパの
社会が
抱える
諸問題のうち、
主として
若者層の
病巣と
考えられる
幾つかの
問題に
対して、
彼らはその
切迫した
事態を
正確に
感受している。【8】そして
事態に
抗議する
歌詞を
書き、
轟音の
中に
挿入し、アルバムをリリースするという
戦略を
実践しているのである。
事実、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンほど
戦略的なバンドはいない。【9】それはあらゆる
文化は
政治的であるというテーゼを、
強く
彼らが
信じているからである。「
文化そのものが
政治的だということを
否定しないということは、とても
重要なことだと
思う」と
彼らは
語っている【0】
自分たちの
音楽それ
自体がすでに
一個の
政治であり、
抗議する
対象もまた
政治である。ここで
私たちが
注目しなければならないのは、
戦う
相手である
政治が、「
機械」と
名指されていることだ。バンド
名は
虚飾ではない。
権力の
末端で
起こる
暴力から、
権力の
中枢神経である
総合的な
組織化まで、すべてが「
機械」と
呼ばれているのである。ここでの「
機械」は
国家と
等号で
結ばれる
存在ではない。そうした
枠組みでは
捉えられぬ、
私たちの
首をじわじわと
締めつける、ごく
具体的であり、
同時に、
捉えどころのない
途方もない
拡がりを
待った
存在こそが、「
機械」と
名づけられている。(
中略)
ちょうど
百年前になる。ヴァレリーは
一九世紀末、こんなことを
書いている。「
方法」が
制覇するのだ、と。
方法は、
個人の
自由な
裁量権の
及ぶ
範囲を
狭めてゆく。いや、その
範囲を
限りなくゼロに
近づけてゆくことこそが、「
方法」の
理想なのである。(
中略)
「
方法」は
誰にとっても
反復可能なものであり、いかなる
人間でもその「
方法」さえ
用いれば、
同一の
結果に
到達する。このとき「
方法」を
用いる
側の
個体性も、
破壊される。
優秀な
人間の
施す
術が、
優秀な
結論を
招来するという、
神話が
崩壊するのである。
英雄と
呼ぶに
相応しい
大文字の
個人などいなくなり、
均質化した
個人だけがまるで
砂漠の
砂のようにあらゆる
領域を
埋め
尽くすような
事態――。「
模倣可能なものだけ
模倣されれば
凡庸な
後継者の
手段を
増やすだけ」のものが、
方法としてそこにあり、
次第に
世界はこうした「
方法」に
制覇されることになるだろう、とヴァレリーは
予言していた。(
中略)ここで
語られる「
方法」は、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンが
語っていた「
機械」と
同じである、と
私は
思う。あらゆる
機構の
細部にまで
浸透し
切った「
機械」こそが、
私たちから
個体性を
剥奪する「
方法」にほかならない。
(
陣野後史「
機械に
憑かれ、そして
抗する」)
長文 11.2週
【1】
私は
長いこと
京都に
住んで
毎日のように
道で
僧侶と
出会ったし、
時には
寺院をおとずれて、そこに
住む
僧職の
方と
対面することも
多かったが、どのお
顔もなべて、
迷いも
悩みも
知らぬ(と
見える)
平穏無事な、ふっくらとしたお
顔ばかりであるのが、
昔から
不思議に
思われてしかたがなかった。【2】
僧服をまとう
身とあれば、
日々これ
仏法、「
日々これ
好日」、さればこそこのような
満ち
足りたお
顔がそろうことになるのだろうか。
【3】しかし
私からすると、
僧という
身分であることほど
怖いことはない。臨済
和尚は、「
自分を
救う
者は
自分のほかにはない」と
言ったが、
一個の
人間が
僧服をまとう
身になることを
決断するに
当たっては、まず
他者への
救済者として
自立できるより
前に、それに
先立つ
自分自らの
始末がつけられているはずである。【4】あるいは
僧となることそのことによって、
自らの
在りかたに
決着をつけようとする
覚悟あってのことであるはずだと
思われる。それなのに、あののびやかな、
時には
堂々と
俗臭を
漂わせたお
顔は、
一体どういうことなのであろう。
【5】
思うに、
現代日本の
僧侶は、ほとんど
例外なく、
宗教者・
求道者たることを
自らの
天職として
選び
取ったという
人びとではなく、いわば
職業人として
僧職に
就くことを
他律的に
条件づけられてそうなったという
人びとが
大半を
占めるであろう。【6】そして、ひとたび
僧衣をまとい、
僧の
座に
坐ることになると、
僧たることのステータスそのものがその
人を
安住させ
定着させることになって、
自らを
突き
放して
見すえる
眼も
心も
失われてゆく、という
成りゆきになるのではなかろうか。【7】まして、その
人が
或る
宗門や
教団のなかで
一つの
職位に
就くことにでもなれば、その
地位自体がその
人の
護符となって、
安定度はいよいよ
高まり、その
風格はいよいよ
板につき、その
説法もいよいよ
堂に
入った
巧みさを
加えるであろう。【8】そして、それと
反比例して、
自らを
一個の
人間に
戻し、その
裸身を
改めて
見つめ
直すという
宗教者としての
基本的な
心構えは、
霧のように
消えてゆくであろう。
【9】このことの
怖ろしさを、
私はかつて
旧制中学の
教師だった
時に
身に
沁みて
体験した。
赴任してから
一週間たって
気がついたことは、
教員室の
空気の
退廃であった。【0】
彼ら
教師たちの
話題の
下劣さと、それに
引きかえての
高慢なエリート
意識、そして
陰にこもった
個人や
派閥の
間の
反目などなど……。これは
大きなショックだった。そして、なぜこうなのだろうと
考えてみた。ハタと
思い
当たったのは、
教師たちが
日ごろ
相手にしているのが、
自分たちよりも
年齢の
低い
生徒たちばかりであるという
環境そのものにその
理由がありそうだということだった。そう
思い
当たって、
私は
背すじがぞっとする
思いだった。
幼い
子を
相手に
同じことを
教えてばかりいると、
自分自身の
勉強はおろそかになるばかりか、
自分の
今の
在りようや
生き
方を
省みるということもしなくなる。それをしなくても、
教師という
職業は
結構つとまるからである。こんな
怖いことはない。
見回したところ、「
背に
負うた
子に
教えられる」といった
初心を
忘れずにいそうな
教師は、
一人も
見当たらない。みんな
教室での
教え
方は
堂に
入ったその
道のベテラン
教師ばかりである。しかし、その
人たちの
世間話のなんと
低劣なことか。これでは、
長く
教師をつとめたら、
人間の
成長は
止まってしまうこと
必定だと、
私は
思い
知った。そして
三年で
退職してしまった。
およそ
人間として
成長するためには、
絶えず
現在の
自分の
生き
方を
恥じることが
必要であろう。
自らを
恥じるとは、
自らを
客観視する
別の
眼をもち
得ることである。
現在の
環境に
埋没することなく、つまり
現在の
職業や
地位に
腰を
据えてしまうことなしに、
自分の
新たな
可能性を
絶えず
開拓しようとする
気魄をもち
続けること、このことこそが、およそ
道を
求める
者の――
社会人たると
宗教者たるとを
問わず――もっとも
基本的な
要件であろう。まして
人に
向かって
法を
説き、ひとかどの
救済者として
自立するほどの
人であれば、なおさら、
自らをその
道の
完成者として
完結させてしまってはならぬはずである。もし、いささかでも
自己完成者としての
意識が
残っていたら、その
人はすでに
救済者たる
資格はない。しかし、この
痛切なディレンマを
乗り
越えるための
苦悩を
知らぬ
説法者が、
今は
余りにも
多い。 (
入矢義高「
人を
救うということ」)
長文 11.3週
【1】
鯨や
象は、
人の「
知性」とはまったく
別種の「
知性」を
持っているのではないか? という
疑問である。
【2】この
疑問は、
最初、
水族館に
捕らえられたオルカ(シャチ)やイルカに
芸を
教えようとする
調教師や
医者、
心理学者、その
手伝いをした
音楽家、
鯨の
脳に
興味を
持つ
大脳生理学者たちの
実体験から
生まれた。
【3】
彼らが
異口同音に
言う
言葉がある。それは、オルカやイルカは
決して、ただ
餌がほしいために
本能的に
芸をしているのではない、ということである。
彼らは
捕らわれの
身となった
自分の
状況を、はっきり
認識している、という。【4】そして、その
状況を
自ら
受け
入れると
決意した
時、
初めて、
自分とコミュニケーションしようとしている
人間、さしあたっては
調教師を
喜ばせるために、そして、
自分自身もその
状況の
下で、
精一杯生きることを
楽しむために「
芸」と
呼ばれることを
始めるのだ。(
中略)
【5】たとえば、
体長七メートルもある
巨大なオルカが
狭いプールでちっぽけな
人間を
背ビレにつかまらせたまま
猛スピードで
泳ぎ、プールの
端にくると、
手綱の
合図もなにもないのに
自ら
細心の
注意を
払って
人間が
落ちないようにスピードを
落としてそのまま
人間をプールサイドに
立たせてやる。(
中略)【6】こんなことが
果たして、ムチと
飴による
人間の
強制だけでできるだろうか。ましてオルカは
水中にいる
七メートルの
巨体の
持ち
主なのだ。
そこには、
人間の
強制ではなく、
明らかに、オルカ
自身の
意志と
選択が
働いている。
【7】
狭いプールに
閉じ
込められ、
本来持っている
超高度な
能力の
何万分の
一も
使えない
苛酷な
状況に
置かれながらも、
自分が「
友」として
受け
入れることを
決意した
人間を
喜ばせ、そして
自分も
楽しむオルカの「
心」があるからこそできることなのだ。
【8】また、こんな
話もある。
人間が
彼らに
何かを
教えようとすると、
彼らの
理解能力は
驚くべき
速さだそうだけれども、
同時に、
彼らもまた
人間に
何かを
教えようとする、というのだ。
【9】フロリダの
若い
学者が、
一頭の
雌イルカに
名前をつけ、それを
発音させようと
試みた。イルカと
人間では
声帯が
大きく
異なるので、なかなかうまくいかなかった。それでも、
少しうまくいった
時にはその
学者は
頭を
上下にウンウンと
振った。【0】
二人(
一人と
一頭か)の
間では、その
仕草が
互いに
了解した、という
合図だった。
何度も
繰り
返しているうちに、
学者は、そのイルカが
自分の
名とは
別のイルカ
語のある
音節を
同時に
繰り
返し
発音するのに
気がついた。しかしそれが
何を
意味するのかはわからなかった。そしてある
時、ハタと
気づいた。「
彼女は
私にイルカ
語の
名前をつけ、それを
私に
発音せよ、と
言っているのではないか」、そう
思った
彼は、
必死でその
発音を
試みた。
自分でも
少しうまくいったかな、と
思った
時、なんとその
雌イルカはウンウンと
頭を
振り、とても
嬉しそうにプール
中をはしゃぎまわったというのだ。
鯨や
象が
高度な「
知性」を
持っていることは、たぶん
間違いない
事実だ。
しかし、その「
知性」は、
科学技術を
進歩させてきた
人間の「
知性」とは
大きく
違うものだ。
人間の「
知性」は、
自分にとっての
外界、
大きく
言えば
自然をコントロールし、
意のままに
支配しようとする、いわば「
攻撃性」の「
知性」だ。この「
攻撃性」の「
知性」をあまりにも
進歩させてきた
結果として、
人間は
大量殺戮や
環境破壊を
起こし、
地球全体の
生命を
危機に
陥れている。
これに
対して
鯨や
象の
持つ「
知性」は、いわば「
受容性」の
知性とでも
呼べるものだ。
彼らは、
自然をコントロールしようなどとは
一切思わず、その
代わり、この
自然の
持つ
無限に
多様で
複雑な
営みを、できるだけ
繊細に
理解し、それに
適応して
生きるために、その
高度な「
知性」を
使っている。
だからこそ
彼らは、
我々人類よりはるか
以前から、あの
大きなからだでこの
地球に
生きながらえてきたのだ。
同じ
地球に
生まれながら、と
私は
思っている。
(
龍村仁「
地球(ガイア)の
知性」による)
長文 11.4週
ところが、
突然、
ソ連が
崩壊して
言語に
対する
統制も
検閲もなくなり、
西側の
文明がどっと
入ってきた。いま、モスクワの
町中に
氾濫する
外来語の
膨大さには、
驚くばかりだ。モスクワ
一の
大型書店「ドーム・クニーギ」に
行っても、「インターネット」「マネジメント」「マーケティング」といったコーナーばかりで、これがトルストイやドストエフスキーを
生んだ
偉大な
文学の
国のなれの
果てか、と、ロシア
文学びいきの
日本人としては、ついなげかわしい
気持ちにもなろうというものだ。
しかし、その
一方で、
日本の
都会ではとうに
失われてしまった
言葉の
生々しさのようなものが、
現代のロシアではいまだに
保存されているということも
見のがしてはならない。ロシア
人たちは、ほんのちょっとしたことをきっかけに、たとえ
見知らぬ
他人どうしであっても、
驚くほど
多くの
言葉を
費やして、
自分の
考えと
感情を
相手に
直接ぶつける。それは
情報伝達の
行為というよりは、
言葉を
通じで
互いの
存在を
認識しあう
共同体の
儀式にも
似ている。おそらく
二一世紀の
日本で
今後、どんどん
失われていくのは、まさに
言葉のこういった
機能ではないかと
思う。
コンピュータ
技術が
飛躍的に
発達し、これから
社会の「
情報化」がますます
進展していくことだろう。
商取引から
恋愛まで、すべてはインターネット
上のヴァーチャルな
体験に
置き
換えられ、
一歩も
自分の
部屋を
出なくとも
生活が
何不自由なくできるという
時代が
来るのも
夢ではない。しかし、そうなったとき、
決定的に
失われる
危険があるのは、
個人的な
接触を
可能にし、
互いに
同じ
人間なのだということを
実感させてくれる
言葉の
機能である。こういった
言葉の
基本機能のことを、
言語学者のヤコブソンは「
交感機能」と
呼んでいるが、これが
失われたら、
言葉は
言葉でなくなってしまうと
言っても
過言ではないだろう。
では、そのとき
言葉は
何になるのか。おそらく「
言葉もどき」、オーウェルの
表現を
再び
借りれば、
新たな「ニュースピーク」ではないか。ニュースピークとはなにも、
過ぎ
去った
過去の
亡霊ではない。それは、
人間から
個性も
思考力も
奪い、
社会を
構成する
者全員を
画一化する
新たな、より
強力な
全体主義の
時代に、
再び
装いも
新たに
現れることだろう。
なんだか
見通しの
暗い
予報になってしまったみたいだが、
正直なところを
言えば、そんなニュースピークの
時代が
本当に
到来するなどとは
考えたくはない。これはあくまでも
一種の
警告である。
妙なことを
言うようだが、おそらく
私たちは、
言葉という
不思議な
生き
物の
未来については、
人類の
未来について
以上に
楽観的になってもいいのではないだろうか。
というのも、
言葉は
人類のありとあらゆる
惨事と
残虐と
愚かしさを
目撃し、
克明に
記録しながらも
絶望することなくしぶとく
生き
延び、
時代の
激変を
通じてみずからもしなやかに
変容しながら、それでいて
言葉でありつづけることを
止めないで
今日まで
来ているからだ。ぼくは
人智を
超えた
神秘的な
言霊などのことを
言っているわけではない。
言葉は
人間の
作り
出したものでありながら、
人間以上の
生命力を
持ち、
人間社会を
逆に
作っていく
働きさえ
備えている。コンピュータ
程度の
発明に
簡単にやられはしないだろう。しかし、それは
潜在的に
恐ろしい
力でもあり
続ける。
言葉を
支配する
者は、
結局のところ、
世界を
支配することになるからだ。
(
沼野充義『W
文学の
世紀へ』)
長文 12.1週
【1】
音楽といえば、それはハニホヘトイロで
育った
私たちの
世代に
最も
縁遠いものの
一つで、もの
言う
資格などなきに
等しいのだが、それでも、
私自身、ビートルズのことでめずらしい
経験をしたことがある。【2】
十数年前、ビートルズが
熱狂的に
迎えられはじめたころ、
元来が
野次馬なものだから、それではひとつと
片っぱしからレコードを
買いこんで
鳴らしてはみたものの、
音楽評論家たちの
力説する
良さがいっこうに
理解できない。【3】それ
以前にジャズやロックンロールなどに
親しんでいたわけではないから、その
音楽性のどこがどう
革命的なのか、わかるはずもないし。【4】それがある
日、ホリリッジ・ストリングスの
演奏するビートルズのイージー・リスニング・ナンバーのレコードを
耳にしたとたん、なんときれいな
曲なんだろうと
思わずうっとりした。【5】
澄明にして
華麗、
巧緻にして
清新、わが
耳を
疑うとはこのことかといいたい
体験だった。
以来、
私はビートルズのひそかなファンでありつづけている。
【6】ヴォーカル
抜きのイージー・リスニングだなんて、
今だと
頼りなくて
聞いていられないだろうけれど、
少なくとも
音楽音痴の
私にとって、この
一枚のレコードは、
世界のビートルズを
私自身のビートルズに
変えた、
奇蹟的なレコードだった。
【7】「
一瞬の
閃き」による
理解。それは、
読書についても、もとより
例外ではあり
得ない。が、
生まれついての
天才は
別として、この
閃きを
体験するためには、やはり
相応の
試行錯誤の
歳月が
要る。【8】さまざまなジャンルの、さまざまな
作者の、さまざまな
作品に
当りながら、しかし、どの
作品が
上等で
楽しく、どの
作品がくだらなくて
反古にひとしいと、それがわかって
読んでいるのか、
疑ってかかる
月日が
要る。【9】
名ある
評家の
推輓や、
世間になんとなく
流布している
評判を
自分自身の
下した
評価と
勘違いして
読んでいるだけのことではないかと
気をもんですごす
時日が
要る。
【0】もっとも、
読書一般についていう
場合、
水泳や
数学や
音楽などと
違って「
一瞬の
閃き」は
大げさかもしれない。ある
作品を
読んでほかの
本からはかつて
受けたことのない
一種新鮮な
印象を
得、この
体験を
基準として
読んでいけばいいのだなと
深くうなずく、そんなふうに
考えたほうが
実態に
沿っているだろうか。が、いずれにせよ、
試行錯誤をくりかえすことをいとわず、
疑ってかかる
姿勢を
失わずにいるかぎり、そういう
瞬間はいつかやってくるということは
十分に
期待できる。もちろん、
人によってその
瞬間を
感じることの
強弱遅速はあるだろうが、それは
仕方がない。
人間の
感受性というのはもともと
不平等にできているのである。
いったんこうした
読書のコツを
会得した
以上は、あとはもう
一気呵成、
読むに
値する
本が
次から
次へと
見つかってきて、
読書が
楽しくてしようがなくなる。
山本夏彦ふうにいえば、くだらない
本を
読んでさえ、それを
罵倒するという
楽しみが
加わる。
見かけばかりご
大層で
内実はいたって
貧しく
退屈な
本を、どんな
義理があるのか
知らないが、
無責任に
天下の
名著と
持ちあげる
評論家を
嘲笑するという
楽しみも。
それだけではない、かつてやみくもに
読み
散らしてはくりかえした
試行錯誤、これが
思いがけず
役に
立つのである。
系統発生図というか、ものの
良し
悪しを
弁別する
見取図のようなものが、
読書の
要をおさえたと
知った
瞬間に
脳裡に
成立し、
今後の
本の
読み
方についてのまたとないコンパスとなるからである。
世間は
広いから、たった
一冊の
本を
読んだだけでチカッと
閃くという
人もいないとはかぎらない。が、それは、
初めて
本を
読んですべてがわかったと
思いこむ
子供のようなもので、それ
以前の
蓄積がゼロだから、
本の
世界についての
正負さまざまの
方向をもった
地図を
作りあげることができず、かえってその
後の
読書に
難渋し、モームのいう「ひまつぶし」を
楽しむ
機会がより
少ないということもまたありうる。なにごとにもプラスとマイナスがある。こと
読書に
関しては、
神童や
天才をうらやむにはあたらない。
(
向井敏『
贅沢な
読書』による)
長文 12.2週
【1】
人間以外の
動物は
普通「
本能」の
赴くままに
行動するとき、そこに
迷いや
不安はない。
彼らにとっては、
世界は
予め
秩序を
与えられているのであって、
自らがそれを
創り
出す
必要がないからである。つまり、
選択の
余地がないのである。【2】それに
対して
人間は、そのような「
本能」の
導きを
失い、
従って、
混沌と
化した
世界に
対して、
素手で
働きかけることができず、
文化という
装置を
創り
出すことによって、
再び
秩序をとり
戻してきたのである。【3】
人間がしばしば、
文化を
持った
生物と
呼ばれる
理由はそこにある。
何故人間のみが、そのような
特異な
生物への「
進化」の
道を
歩んだのかということは、それ
自体非常に
興味のある
問題であるが、ここでは
本題に
外れるので
触れない。【4】その
代わりに、
文化を
持った
生物となってしまった
人間が、
環境の
変化に
対して、
他の
種のように
何世代にもわたって
徐々に
自らを
変えて、その
変化に
適応するということをせず、
自らが
創り
出した
文化という
装置を
操作することによって
適応してきたということが、どのような
意味を
持つようになったかということを
考えてゆきたい。
【5】
今述べたように、あるがままの
混沌の
世界に
対して、
文化という
装置によって
秩序を
回復する
試みが
行なわれ、それによって、
人間は
世界を
解釈することができるようになるのであるが、その
解釈が
有効であるためには、
集団の
成員によるその
承認を
必要とする。【6】つまり、
文化が
文化として
機能するためには、
社会制度化されなければならないのである。ところが、このような
社会制度化された
文化が、
一旦成立すると、
今度はその
文化そのものが、
人間にとって、いわば
第二の
自然として、
人間の
行動を
規制してくることになる。【7】したがって、「
文化」はもともと「
自然」と
対立する
概念ではあるが、
人間は
文化の
枠内でしか
行動しえないものであってみれば、ある
意味では
文化=
自然という
関係が
成立してくるとさえ
言えるのである。
(
中略)
【8】
人間は
客観的世界にのみに
生きているのでもないし、
通常理解されているような
社会的活動の
世界にのみ
生きているのでもなく、その
社会の
表現手段となっている
特定の
言語に
強い
影響を
受けているのである。【9】
本来言語を
使わないで
現実に
適応できると
考えたり、
言語をコミュニケーションや、
内省の
特定の
問題を
解くための
偶然の
手段であると
考えるのは
全くの
幻想にすぎない。【0】
事実は、「
現実世界」というのは、かなりの
程度まで、その
言語使用者の
集団の
言語習慣の
上に
無意識に
築かれているのである。どの
二つの
言語をとってみても、
同じ
社会的現実を
表わしていると
考えられる
程似た
言語はないのである。
異なる
社会が
生きている
世界は
別の
世界であり、
単に
異なるレッテルが
付けられた
同一の
世界ではないのである。
すなわち、われわれは
全人類が
例外なく
持っている
言語という
文化装置(
記号体系)を
通してしか
現実を
構成することができないのであり、したがって、それぞれの
言語という
記号体系が
異なれば、
見えてくる
世界も
違ったものになってくるのである。このことは、あるものをそれとして
認識できるのは、
普通、それに
名称が
与えられている
場合であることを
考えても、
容易に
想像されるだろう。それまでは
何気なく
見過ごしてきた
路傍の
花が、その
名称を
知ることによって、
急にいきいきとした
存在感を
持って
知覚されてくることは
誰でも
経験したに
違いない。つまり、
名称という
記号表現を
与えられて
初めて、その
花はわれわれに
意味を
待った
存在として
現われてくるのである。
繰り
返して
言うと、
文化という
装置は、もともと
自然の
混沌に
秩序を
与えるために、
人間が
集団としてある
意味では
恣意的に
創り
出した
記号体系であるが、
一旦できあがるとそれは
自立性を
獲得し、
逆にその
創造者を
呪縛するようになるのである。このようにして、
人間はもはや
文化という
装置なしでは
生きていけない
存在になってしまったのである。
文化をこのように、
人間が
集団として
恣意的に
創り
出した
記号体系として
捉えるならば、
各文化間の
相違が
現われてくるのは
当然であるが、それのみでなく、その
分節がある
意味では
恣意的でありうるが
故に、
文化の
行なう
秩序化(=
分類)からはみ
出してくる
部分が
出てくるのは
想像に
難くない。そのはみ
出した
部分をそのままにしておくことは、
秩序の
破壊につながってくるため、
文化にとっては
危険な
存在になる。そのため、
文化は、そのはみ
出した
部分を、
消極的には「
見えないもの」(インビジブル)として、
積極的には
禁忌(タブー)として
抑圧する
必要があるのである。
(
池上嘉彦・
山中桂一・
唐須教
光「
文化記号論」より)
長文 12.3週
【1】
誰かがいつか、こんなことを
言っていた。
神経が
苛立って
眠れない
時があるが、これは
神経の
疲労が
肉体の
疲労とのバランスを
欠いて、
独自に
進行してしまった
結果である。【2】
従ってこうした
場合は、
縄跳びを
数回行って、
肉体の
疲労を
神経のそれと
同程度になるまで
高めればいい。それぞれの
疲労のバランスがとれれば、
人は
眠れるのである。
【3】いささか
論理が
明確に
過ぎて、その
分だけ
何となく
危うい
気がしないでもないが、しかしこの
論理の
組み
立て
方には
魅力がある。
何よりも、
神経の
疲労それ
自体を
静めようとするのではなく、
肉体の
疲労をそれに
見合うべく
高めようとする
点が
独特であり、そこに
行動的であり、しかも
積極的な
姿勢がうかがわれるのである。【4】そして
事実私は、
同様の
症状に
陥るたびにこの
考え
方を
応用して
実行し、もし
私の
錯覚でなければ、
言われている
通りの
効果をあげることが
出来た。
【5】かつて
私は、ホンダの
五〇CCのカブ・
原動機付自転車を
愛用していたが、これに
長時間乗った
場合、
必ずこうした
症状に
陥った。 【6】
原動機付自転車というのは、
人間の
筋力による
走行速度を、ガソリン・エンジンに
置き
換えて
促進するための
最も
原始的な
装置であり、それとこれとの
置き
換えを
実感するためには、
最も
効果的な
道具なのだが、それだけに、こうした
症状に
陥る
事情も、
論理的に
説明しやすいということがある。
【7】もちろんこれもまた、
論理が
明確に
過ぎて、
自分自身ほとんどはにかまざるを
得ないほどであるが、つまりこの
場合、
私の「
肉体」はただ、
震動する
小さなガソリン・エンジンにしがみついているだけだが、「
神経」の
方は、その
同じ
距離と
時間を
省略することなく
体験しつくすのであり、
従ってそのそれぞれの
疲労のバランスは、
大きく
喰い
違ってくるはずだ、というわけである。【8】「
神経」の
疲労のみが
独自に
進行してしまって、
私は
苛立ち、
眠れなくなる。
そこで
私は、
長時間原動機付自転車に
乗った
日は
必ず、
家に
入る
前にその
場で
体操をしたり、
家の
周囲を
暫く
走ったりして、「
肉体」を
酷使し、
疲労のバランスをとるよう
努めた。【9】そうすることによって
私は、その
夜の「
安眠」を、
勝ちとってきたのである。【0】(
中略)
私は、
私自身が
原動機付自転車に
乗っていた
当時の
体験に
即して、ここまで
考えてみた
結果、
冒頭に
掲げた
考え
方を、ほぼ「あり
得ること」として、
認めることにした。「
神経」と「
肉体」というい
方が、
厳密に
考えようとするとややあいまいであるが、
彼がその
言葉で、
我々の
内なる
何をい
当てようとしつつあるかは、
容易に
想像がつくのである。つまりここでは、そのそれぞれのものが、
乖離して
世界を
体験し、
従って
乖離したままそれぞれ
別レベルの
疲労を
課せられ、そのバランスが
崩れつつある
点に、
問題があると
言っているのだ。(
中略)
私は
或るジャーナリストが、ケネディ
暗殺事件を
報道するテレビ
画像を
見て、「ここには
何も
映し
出されていない」と
言ったのを
覚えている。
彼は、
彼が
実際にその
場に
居合せたことのある
暗殺事件の
現場を
想起しながら、「そこには
確かに、
人々を
恐怖させ、
吐き
気を
催させる
何ものかがあったのだが、ここには
何もない」ということを
言っているのだ。そしてこのことは、
私が
或る
距離を、
歩いたり
走ったりするのでなく
原動機付自転車で
通り
抜けてしまったことにより
抱かざるを
得なかったことと、
同様のものであったような
気がする。
この
手応えのない
世界への
不安が
我々の
内に
潜在し、その
焦燥感が、
勢い
手応えのあるものに
向って、やみくもに
発散されようとするのだ。
(
別役実「イロニーとしての
身体性」による)
長文 12.4週
「
患者が
最後まで
希望を
持つことができるためにはどうしたらよいか」ということは、ことに
重篤な
疾患にかかわる
医療現場において
切実な
問いである。
病気であることが
知らされる―だんだん
状態が
悪くなることを
知り、
有効な
対処法はないことも
知る――
自分の
身体がだんだん
悪くなり、できることがどんどん
減って
行く――
死を
間近に
感じるようになる。
このような
状況で、「
希望」とはしばしば、「
治るかもしれない」という
望みのことだと
思われている。あるいは「
自分の
場合は
通常よりもずっと
進行が
遅いかもしれない」ということもあろう。いずれにしてもまさに「
希望的」
観測である。だが、
希望とはこうした
内容の
予測のことなのだろうか。
もしそうだとすると、それこそ
確率からいって、そうした
患者の
多数においては、はじめに
立てた
希望的観測が
次々と
覆されるという
結果にならざるを
得ない。それでは「
最後まで
望みをもって
生きる」ということにはならないだろう。そもそも、「
癌」と
総称される
疾患群をモデルとして、「
告知」の
正当性がキャンペーンされてきたのは、
患者が
自分の
置かれた
状況を
適切に
把握することが
今後の
生き
方を
主体的に
選択するために
必須の
前提であったからではなかったか。
右に
述べたような
望みの
見出し
方は、
非常に
悪い
情報であっても
真実を
把握することが
人間にとってよいことだという
考えとは
調和しない。
では「
死は
終わりではない、その
先がある」といった
考え
方を
採用して、
希望を
時間的な
未来における
幸福な
生に
託すというのはどうだろうか。だが、
医療自らが、そのような
公共的には
根拠なき
希望的観測に
過ぎない
信念を
採用して、
患者の
希望を
保とうとするわけにはいかない。
ところで、
死は
私たち
全ての
生がそこに
向かっているところである。
遅かれ
早かれ
私の
生もまた
死によって
終わりとなることは
必至である。その
私にとって
希望とは
何か――
考えてみればこの
問いは、
重篤な
疾患に
罹った
患者にとっての
希望の
可能性という
問題と
何らか
連続的であろう。そして、
多くの
宗教は
死後の
私の
存在の
持続を
教えとして
含み、そこに
希望を
見出そうとしてきた。それは
人間の
生来の
価値観を
肯定しつつ、
提示される
希望である。だが
他方宗教的な
思想には、
死後の
生に
望みをおく
考え
方を
拒否する
流れもある。その
場合は、
人間はもっとラディカルに
自己の
望みについて
突き
詰めるのである――「
死後も
生き
続けたいという
思いがそもそも
我欲なのである」とか、「
自己の
幸福を
追求するところに
問題がある」というように。それは
生来の
価値観を
覆しつつ
提示される
考えである。では、
死が
私の
存在の
終わりであることには
何の
不都合もないではないかとして、これを
肯定した
場合に、
希望はどこにあるか――どのような
仕方であれ、「
死へと
向かう
目下の
生それ
自体に」と
応えるしかないであろう。
終わりのある
道行きを
歩むこと、
今私は
歩んでいるのだということ――そのことを
積極的に
引き
受ける
時に、
終わりに
向かって
歩んでいるという
自覚が
希望の
根拠となる。そうであれば「
希望を
最後まで
持つ」とは、
実は「
現実への
肯定的な
姿勢を
最後まで
保つ」ということに
他ならない。つまり、
自己の
生の
肯定、「これでいいのだ」という
肯定である。「
自己の
生」といっても、
生きてしまっている
生(
完了形)としてみることと、
生きつつある
生(
進行形)としてみることとの
二重の
視線がある。
完了したものという
生のアスペクトにおける
肯定は「これでよし」との
満足である。
他方、
生きつつある
生、つまり
一瞬先へと
一歩踏み
出す
活動のアスペクトにおける、
前方に
向かっての
肯定、
前方に
向かって
自ら
踏み
出す
姿勢が、
希望に
他ならない。
(
清水哲郎『
死に
直面した
状況において
希望はどこにあるか』より。
一部省略)