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課題集
長文ちょうぶん 10.1しゅう
 【1】「努力どりょくすればむくわれる」と、わたしたちはおそわってそだってきた。しかし、子供こども学力がくりょくおや収入しゅうにゅう相関そうかんしているなどという調査ちょうさると、努力どりょくする以前いぜんにスタートの地点ちてんちがっているというケースも、なかにはかなりあるのではないかとおもえてくる。【2】もし、そういうゆがみが社会しゃかいにあるとすれば、それは世代せだいるごとにさい生産せいさんされ、やがてまれつきぎんのスプーンをくわえためぐまれた少数しょうすうのグループと、たんゆびをくわえただけの多数たすうのグループとに、社会しゃかいははっきりと色分いろわけされるようになるだろう。【3】わたしたちは、機会きかいにおける均等きんとう保証ほしょうする社会しゃかいつくらなければならない。
 そのための方法ほうほうは、だいいちに、競争きょうそう条件じょうけんをそのつどあらたになお仕組しくみをつくることだ。【4】自由じゆう競争きょうそうという言葉ことばひびきがいいが、自由じゆう競争きょうそうはやがて、ちからつよいものがますますつよく、ちからよわいものがますますよわくなるようなかたよりをす。そのため、自由じゆう競争きょうそう往々おうおうにして独占どくせんのもとでの不自由ふじゆう競争きょうそうとなることがある。【5】政治せいじ世襲せしゅう日本にっぽんでは問題もんだいになっているが、これは、後援こうえんかいという地盤じばん自由じゆうみとめることが、候補者こうほしゃ参入さんにゅうはば不自由ふじゆう競争きょうそう結果けっかにつながることをしめしている。
 【6】だいには、機会きかい均等きんとうもとめることが、結果けっか平等びょうどう要求ようきゅうするところにまでつながらないように、わたしたちが節度せつどまもることである。企業きぎょう精神せいしんあふれた少数しょうすう人間にんげんと、そうでない多数たすう人間にんげんがいて、多数決たすうけつ物事ものごとめようとすれば、社会しゃかい多数たすう利益りえき保障ほしょうする方向ほうこうへとながれがちだ。【7】努力どりょく工夫くふうをするひとと、努力どりょく工夫くふうもしないひとが、おな給料きゅうりょうしかもらえないのであれば、はたら基準きじゅん自然しぜんひくほううようになる。このことは、かつての社会しゃかい主義しゅぎこく経済けいざい運営うんえいや、現代げんだいでもお役所やくしょ仕事しごとというかたちすで経験けいけんみだ。
 【8】たしかに、安定あんていした社会しゃかい条件じょうけんとして、個人こじん努力どりょく要求ようきゅうするまえに、最低限さいていげんのセーフティーネットというものは必要ひつようだ。しかし、それはあくまでも老人ろうじん病人びょうにんなどという弱者じゃくしゃたいしての安全あんぜんもうであって、社会しゃかい中心ちゅうしんはあくまでも自由じゆう競争きょうそううえつものでなければならない。【9】自由じゆう競争きょうそうなかでだれもがチャンスをかせるようになるためには、個人こじん意志いしとともに、社会しゃかいがチャンスを均等きんとう用意よういしていることが必要ひつようだ。「努力どりょくすればむくわれる」社会しゃかいもまた、わたしたちの努力どりょくによってつくられるのである。【0】

 (言葉ことばもり長文ちょうぶん作成さくせい委員いいんかい Σしぐま


長文ちょうぶん 10.2しゅう
 【1】効力こうりょくかんは、ただ自分じぶん努力どりょくによってこのましい変化へんかをひきおこすことができた、というだけではびていくものではない。これこそ自分じぶんのしたいことだとおもえる活動かつどう達成たっせいえらび、そこでの自己じこ向上こうじょう実感じっかんされて、はじめてしん効力こうりょくかん獲得かくとくされるからだ。【2】これにたいしておやは、いったいどんな手助てだすけができるだろうか。じつはこれもそんなにむずかしいこととはおもえない。ホワイトがただしく指摘してきしたように、高等こうとう動物どうぶつ本来ほんらい環境かんきょう能動のうどうてきはたらきかけ、みずからの有能ゆうのうさをばそうとする傾向けいこうをもつ。【3】管理かんり社会しゃかいから自由じゆうで、また無気力むきりょく汚染おせんされていないどもでは、この傾向けいこうはおおいにあてにできるからである。
 自然しぜん生活せいかつのなかで、どもはきわめておおくののぞましい特性とくせい発達はったつさせていく。【4】効力こうりょくかんばすというと、なに特別とくべつなことをしなければならないかのようにおもうかもしれないが、じつはどもの生活せいかつのなかには効力こうりょくかんばすのにかっこうの題材だいざいがたえずころがっているのである。
 【5】熟達じゅくたつれいにとってみよう。熟達じゅくたつをとおしてどもは自分じぶん努力どりょく意味いみり、そしてまた、その努力どりょく自分じぶんにとって意味いみのある分野ぶんやけることをまなんでいくだろう。しかし、生活せいかつのなかでの熟達じゅくたつけっして訓練くんれんというかたちをとらない。【6】どものがわ興味きょうみをもってみたがるさまざまな熟達じゅくたつ機会きかいがあるのだ。
 たとえば、どもが、「自転車じてんしゃりたい」といいだしたとしよう。おやはまず、「三輪車さんりんしゃにしなさい」というだろう。【7】ところが、三輪車さんりんしゃでしばらく満足まんぞくしていたどもが、そのうちどうしても自転車じてんしゃにしたいといいだすようになる。「自転車じてんしゃでないとスピードがでない」「自転車じてんしゃでなければともだちと一緒いっしょはしれない」などということもあるだろう。【8】しかし、最大さいだい理由りゆうは、三輪車さんりんしゃ安全あんぜんすぎ、やさしすぎるのでつまらない、ということである。自転車じてんしゃ要求ようきゅうするどもにされて、おや転倒てんとうすることをおそれながらも、補助ほじょをつけるという条件じょうけんでしぶしぶこれをみとめる。【9】どもはしばらく補助ほじょをつけて自転車じてんしゃっているが、そのうちにかなら補助ほじょをはずせといってくる。その理由りゆうは、ただみっともない、ということではない。むしろ、補助ほじょがあったのでは、やさしすぎてつまらない、ということである。【0】このように、どもの技能ぎのうかえしによって進歩しんぽしていくと、どもは、いわば、うちはつてきによりむずかしい課題かだい興味きょうみをもつようになる。条件じょうけんさえととのえれば、あとははなっておいても熟達じゅくたつするものだ、とさえいえるかもしれない。をつけなければならないのは、おやがむしろこれにブレーキをかけるやくをしてしまいがちなことだ。
 もうひとつ重要じゅうようなのは、どもの生活せいかつのなかには、さまざまな熟達じゅくたつのお手本てほんがあるということだ。ほんあしあるくといった単純たんじゅんなことでさえ、お手本てほんがなければ、やってみようとするにもならなかったかもしれない。おおかみそだてられておおきくなったどもがほんあし歩行ほこうしなかった、というのは有名ゆうめいはなしである。(中略ちゅうりゃく
 おや注意ちゅういすべきことといえば、なによりもまず賞罰しょうばつによってどもの行動こうどうをコントロールしすぎないということであろう。もちろん、効力こうりょくかんばすという以外いがい目的もくてきのために、賞罰しょうばつにたよらざるをえない場面ばめんがあることはたしかだ。しかし、そうだからといって、すべてのしつけや教育きょういく賞罰しょうばつにたよってしとおそうとすると、効力こうりょくかんばすことはまず無理むりになる。できるだけどもの探索たんさく発見はっけん奨励しょうれいし、どもなりの知識ちしき体系たいけい価値かちかん形成けいせいされ、さらにそれが自覚じかくされていくのを期待きたいするようにすべきだろう。おやかかわりかたは、どもがつぎにやるべきことを指示しじしたり、しょうめたりしかったりといったかたちではなく、むしろどもの活動かつどう自己じこ向上こうじょう促進そくしんされるように環境かんきょう条件じょうけんをととのえてやるとともに、どもの内部ないぶにある知識ちしき価値かち基準きじゅん明瞭めいりょうし、それがどもの行動こうどうみちびくものになるのをたすけるというかたちおこなわれるべきだろう。

 (波多野はたのよしみおっと稲垣いながき佳世子かよこ無気力むきりょく心理しんりがく――やりがいの条件じょうけん」より一部いちぶ改変かいへん


長文ちょうぶん 10.3しゅう
 【1】大人おとなになって毎日まいにちおなじようなことをかえしていると、あまり「ふしぎ」なことはなくなってくる。なにもかもわかったようなになると、今度こんど面白おもしろくなくなってきて、「ふしぎ」なことを提供ていきょうしてくれるテレビ番組ばんぐみもよおしものなどをる。【2】これらはかならず「ふしぎ」なことが最後さいごにはしんおさまるようになっているので、すこしのあいだしんをときめかして、のち安心あんしん、ということになる。
 【3】どもは「ふしぎ」とおもことたいして、大人おとなからおしえてもらうことによって知識ちしき吸収きゅうしゅうしていくが、とき自分じぶんなりに「ふしぎ」なことたいして自分じぶんなりの説明せつめいかんがえつくときもある。【4】どもが「なぜ」ときいたとき、すぐにこたえず、「なぜでしょうね」とかえすと、面白おもしろこたえがどものがわからてくることもある。
 「おかあさん、せみは、なぜミンミンいてばかりいるの」とどもがたずねる。【5】「なぜ、いているんでしょうね」と母親ははおやおうじると、「おかあさん、おかあさんとって、せみがんでいるんだね」とどもがこたえる。そして、自分じぶんこたえに満足まんぞくして再度さいど質問しつもんしない。これは、どもが自分じぶんで「説明せつめい」をかんがえたのだろうか。
 【6】それはたんなる外的がいてきな「説明せつめい」だけではなく、なにかあると「おかあさん」とびたくなる自分じぶん気持きもちもそこにめられているのではなかろうか。だからこそ、どもは自分じぶんこたえに「納得なっとく」したのではなかろうか。【7】そのときに、母親ははおやが「なぜって、せみはミンミンとくものですよ」とか、「せみはくのが仕事しごとなのよ」とか、こたえたとしても「納得なっとく」はしなかったであろう。たとい、せみのごえはどうしててくるかについて「ただしい」知識ちしき供給きょうきゅうしても、おなじことだったろう。【8】そのときに、そのにとって納得なっとくのいくこたえというものがある。
 「そのときに、そのひとにとって納得なっとくがいく」こたえは、「物語ものがたり」になるのではなかろうか。せみのこえいて、「せみがおかあさん、おかあさんとんでいる」というのは、すでに物語ものがたりになっている。【9】外的がいてき現象げんしょうと、どものしんのなかにしょうじることがひとつになって、物語ものがたり結晶けっしょうしている。
 人類じんるい言語げんごもちいはじめた最初さいしょから物語ものがたることをはじめたのではないだろうか。みじか言語げんごでも、それは人間にんげん体験たいけんした「ふしぎ」、「おどろき」などをしんおさめるためにもちいられたであろう。
 【0】古代こだいギリシャの時代じだいに、人々ひとびと太陽たいようねつをもった球体きゅうたいであることをっていた。しかしそれと同時どうじに、かれらは太陽たいようよんとうてのかね馬車ばしゃった英雄えいゆうとして、それをかたった。これはどうしてだろう。よるやみやぶって出現しゅつげんして太陽たいよう姿すがたたときのかれらの体験たいけん、その存在そんざいのなかにしょうじる感動かんどう、それらを表現ひょうげんするのには、太陽たいよう黄金おうごん馬車ばしゃった英雄えいゆうとして物語ものがたることが、はるかにふさわしかったからである。
 かくて、かく部族ぶぞく民族みんぞくは、「いかにしてわれわれはここに存在そんざいするのか」という、人間にんげんにとって根本こんぽんてきな「ふしぎ」にこたえるものとしての物語ものがたり、すなわち神話しんわをもつようになった。それはたんに「ふしぎ」を説明せつめいするなどというものではなく、存在そんざい全体ぜんたいにかかわるものとして、その存在そんざいふかめ、ゆたかにする役割やくわりをもつものであった。
ところが、そのような「神話しんわ」を現象げんしょうの「説明せつめい」としてるとどうなるだろう。たしかに英雄えいゆう夜毎よごと怪物かいぶつたたかい、それに勝利しょうりしてあさになるとあらわれてくるというはなしは、ある程度ていど太陽たいようについての「ふしぎ」を納得なっとくさせてくれるが、そのすべての現象げんしょうについて説明せつめいするのには都合つごうわるいこともあきらかになってきた。たとえば、せみのくのを「おかあさんとんでいる」として、しばらく納得なっとくできるにしても、しだいにそれでは都合つごうわるいことがでてくる。
 そこで、現象げんしょうを「説明せつめい」するためのはなしは、なるべく人間にんげん内的ないてき世界せかいをかかわらせないほうが、正確せいかくになることに人間にんげんがだんだんがつきはじめた。そして、その傾向けいこうさいたるものとして、「自然しぜん科学かがく」がまれてくる。「ふしぎ」な現象げんしょう説明せつめいするとき、その現象げんしょう人間にんげんからはなしたものとして観察かんさつし、そこにはなしをつくる。
 このような「自然しぜん科学かがく」の方法ほうほうは、ニュートンがこころみたように、「ふしぎ」の説明せつめいとして普遍ふへんてきはなし(つまり、物理ぶつりがく法則ほうそく)をしてくる。これがどれほど強力きょうりょくであるかは、周知しゅうちのとおり現代げんだいのテクノロジーの発展はってんがそれをしめしている。これがあまりに素晴すばらしいので、近代きんだいじんは「神話しんわ」をきらい、自然しぜん科学かがくによって世界せかいることにしんをつくしすぎた。これは外的がいてき現象げんしょう理解りかいおおいに役立やくだつ。しかし、神話しんわをまったく放棄ほうきすると、自分じぶんしんのなかのことや、自分じぶん世界せかいとのかかわりが無視むしされたことになる。

 (河合かわい隼雄はやお物語ものがたりとふしぎ」による)


長文ちょうぶん 10.4しゅう
 「差別さべつ」や「平等びょうどう」といういいかたは、一種いっしゅ序列じょれつ構造こうぞう前提ぜんていにしている。自然しぜんすうのように、大小だいしょう順番じゅんばんがつけられるという性質せいしつを「順序じゅんじょ関係かんけい」とぶが、「差別さべつ」の対義語たいぎごとして「平等びょうどう」を措定そていする思想しそうてき態度たいどは、順序じゅんじょ関係かんけいという写像しゃぞうへの信奉しんぽうによって非常ひじょうつよ条件じょうけんづけられている。
 「差異さい上下じょうかという関係かんけい写像しゃぞうされる」という世界せかいかんしたでは、できるだけその差異さい隠蔽いんぺいして、均質きんしつなものとみなそうという動機どうきづけがまれる。そこにあらわれるのは、世界せかいがおたがいに比較ひかくなどできない多様たようなものによって構成こうせいされているという豊潤ほうじゅんさへの感謝かんしゃではなく、むしろすべてを中央ちゅうおう集権しゅうけんてき価値かちづけようという「かみ視点してん」につながる野望やぼうである。(りゃく
 差別さべつとされる言葉ことばをことさら使つかひと品性ひんせい下劣げれつであるが(とくに相手あいていやがる場合ばあいには、あえてそのような言葉ことば使つか必要ひつようはないとおもう)、その一方いっぽう思想しそう警察けいさつのごとき極端きょくたんな「差別さべつり」には、以前いぜんから違和感いわかんっていた。その根本こんぽんてき理由りゆうは、以上いじょうべたような、差別さべつをことさらに隠蔽いんぺいしようとする思想しそう背後はいごにある、画一かくいつてきなメンタリティにある。
 世界せかいには魑魅魍魎ちみもうりょうのごときじつ多彩たさいなものがあふれており、そのあいだ単純たんじゅんなる順序じゅんじょ関係かんけい上下じょうげ序列じょれつ)などつけることはできず、生肉せいにくべようが、こまかかろうが、はしでものをつまもうが、それは「個性こせい」であって、「みんなちがって、みんないい」と称揚しょうようされるべき差異さいである。そのような「覚悟かくご」をもって世界せかい見渡みわたせば、美人びじんだろうがブスだろうが、ハゲだろうがオヤジだろうが、べつにいいだろう、とおもえるはずだ。しかし、それは案外あんがいかなりラジカルで、それをきることのむずかしいスタンスなのかもしれないともおもう。
 もともと、近代きんだい科学かがく自体じたい世界せかいかんとしての原罪げんざいがある。周知しゅうちのとおり、ニュートンによる微積分びせきぶん手法しゅほう発明はつめい、「万有引力ばんゆういんりょく」という構想こうそう自体じたいが、世界せかいなか差異さい消去しょうきょし、すべてに普遍ふへんてき法則ほうそく見出みいだそうとする動機どうきづけにもとづいていた。まえのリンゴと、天上てんじょうかがやつきあいだには、ナイーブにかんがえればえがたい差異さいがある。両者りょうしゃおな万有引力ばんゆういんりょく法則ほうそくしたがって運動うんどうするという衝撃しょうげきてき着想ちゃくそうなかにこそ、近代きんだい科学かがく発展はってんさせた起爆きばくざいはあった。しかし、それは同時どうじ差異さいをどんどん無効むこうし、消去しょうきょしていく無限むげん運動うんどうはじまりでもあった。
 それぞれかがや個性こせいをもって屹立きつりつしているかにえた生物せいぶつしゅ起源きげんが「突然変異とつぜんへんい自然しぜん選択せんたく」という一般いっぱん原理げんり説明せつめいされ、おやるという現象げんしょうはDNAという単一たんいつ物質ぶっしつのバリエーションの問題もんだい帰着きちゃくし、そしていまや世界せかい森羅万象しんらばんしょうひとしくネットワークじょうのデジタル情報じょうほうなかうつされる。おとこおんなも、いもわかきもすべては差異さい隠蔽いんぺいされた平等びょうどう楽園らくえんまれていくという「政治せいじてきただしさ」のプログラムは、ニュートン以来いらい近代きんだい科学かがくのすばらしき成果せいか思想しそうてきあきらかに連動れんどうしているのである。

 (茂木もき健一郎けんいちろう「『みんないい』という覚悟かくご」による)



長文ちょうぶん 11.1しゅう
 【1】たとえば市町村しちょうそん残酷ざんこく仕打しうちをしている地方ちほう警察けいさつ暴力ぼうりょく行為こういのようなものから、IMF(国際こくさい通貨つうか基金ききん)やG7じーせぶん世界銀行せかいぎんこうといった総合そうごうてき中枢ちゅうすう機構きこういたる、政治せいじあやつって、社会しゃかい基本きほんてき政策せいさく決定けっていする組織そしきまで。【2】まず大切たいせつなことはそういう組織そしき存在そんざいしているということを認識にんしきし、そしてそれらとたたかうということさ。――レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン「機械きかいこうするいかり」とでもやくすことのできる、このロックバンドは、たかだかまだまいのアルバムをリリースしたにすぎない。【3】だが、かれらは文字通もじどおり、いかりをはっつづけているバンドである。アメリカン・インディアンの男性だんせいで、FBIの捜査そうさかん殺害さつがいした容疑ようぎ長期ちょうき拘留こうりゅうされているレナード・ぺルティエや、【4】もとブラック・パンサーのメンバーで黒人こくじんジャーナリストのマミア・アブジャーマルの解放かいほうのために活動かつどうし、ネオナチ反対はんたいのコンサートをひらいたり、あるいは、コンサート会場かいじょうられるたかすぎるてぃーシャツに抗議こうぎし、検閲けんえつ制度せいどにプロテストしたりもする。【5】ただやみくもに抗議こうぎしているだけではないか、とうのならば、そのとおりとこたえなければならぬかもしれない。【6】あらゆる権力けんりょく、あらゆる制度せいどたいして否定ひてい行動こうどうこすことこそロックであるとする、いていておもわず赤面せきめんするほどのふるくさいロックの定義ていぎいまでもしんじているバンドにすぎないのではないか、とわれれば、かれらがある意味いみでストレートすぎるほどの政治せいじてきなメッセージをかくそうとしないハードロックバンドであることはみとめなければならないだろう。
 【7】だがかれらにはアクチュアリティがある。
 アメリカやヨーロッパの社会しゃかいかかえるしょ問題もんだいのうち、しゅとして若者わかものそう病巣びょうそうかんがえられるいくつかの問題もんだいたいして、かれらはその切迫せっぱくした事態じたい正確せいかく感受かんじゅしている。【8】そして事態じたい抗議こうぎする歌詞かしき、轟音ごうおんなか挿入そうにゅうし、アルバムをリリースするという戦略せんりゃく実践じっせんしているのである。事実じじつ、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンほど戦略せんりゃくてきなバンドはいない。【9】それはあらゆる文化ぶんか政治せいじてきであるというテーゼを、つよかれらがしんじているからである。「文化ぶんかそのものが政治せいじてきだということを否定ひていしないということは、とても重要じゅうようなことだとおもう」とかれらはかたっている【0】自分じぶんたちの音楽おんがくそれ自体じたいがすでにいち政治せいじであり、抗議こうぎする対象たいしょうもまた政治せいじである。ここでわたしたちが注目ちゅうもくしなければならないのは、たたか相手あいてである政治せいじが、「機械きかい」と名指なざされていることだ。バンドめい虚飾きょしょくではない。権力けんりょく末端まったんこる暴力ぼうりょくから、権力けんりょく中枢ちゅうすう神経しんけいである総合そうごうてき組織そしきまで、すべてが「機械きかい」とばれているのである。ここでの「機械きかい」は国家こっか等号とうごうむすばれる存在そんざいではない。そうした枠組わくぐみではとらえられぬ、わたしたちのくびをじわじわとめつける、ごく具体ぐたいてきであり、同時どうじに、とらえどころのない途方とほうもないひろがりをった存在そんざいこそが、「機械きかい」とづけられている。(中略ちゅうりゃく
 ちょうどひゃくねんまえになる。ヴァレリーはいちきゅう世紀せいきまつ、こんなことをいている。「方法ほうほう」が制覇せいはするのだ、と。方法ほうほうは、個人こじん自由じゆう裁量さいりょうけんおよ範囲はんいせばめてゆく。いや、その範囲はんいかぎりなくゼロにちかづけてゆくことこそが、「方法ほうほう」の理想りそうなのである。(中略ちゅうりゃく
 「方法ほうほう」はだれにとっても反復はんぷく可能かのうなものであり、いかなる人間にんげんでもその「方法ほうほう」さえもちいれば、同一どういつ結果けっか到達とうたつする。このとき「方法ほうほう」をもちいるがわ個体こたいせいも、破壊はかいされる。優秀ゆうしゅう人間にんげんほどこじゅつが、優秀ゆうしゅう結論けつろん招来しょうらいするという、神話しんわ崩壊ほうかいするのである。英雄えいゆうぶに相応ふさわしい大文字おおもじ個人こじんなどいなくなり、均質きんしつした個人こじんだけがまるで砂漠さばくすなのようにあらゆる領域りょういきくすような事態じたい――。「模倣もほう可能かのうなものだけ模倣もほうされれば凡庸ぼんよう後継こうけいしゃ手段しゅだんやすだけ」のものが、方法ほうほうとしてそこにあり、次第しだい世界せかいはこうした「方法ほうほう」に制覇せいはされることになるだろう、とヴァレリーは予言よげんしていた。(中略ちゅうりゃく)ここでかたられる「方法ほうほう」は、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンがかたっていた「機械きかい」とおなじである、とわたしおもう。あらゆる機構きこう細部さいぶにまで浸透しんとうった「機械きかい」こそが、わたしたちから個体こたいせい剥奪はくだつする「方法ほうほう」にほかならない。

じん機械きかいかれ、そしてこうする」)



長文ちょうぶん 11.2しゅう
 【1】わたしながいこと京都きょうとんで毎日まいにちのようにみち僧侶そうりょ出会であったし、ときには寺院じいんをおとずれて、そこに僧職そうしょくほう対面たいめんすることもおおかったが、どのおかおもなべて、まよいもなやみもらぬ(とえる)平穏へいおん無事ぶじな、ふっくらとしたおかおばかりであるのが、むかしから不思議ふしぎおもわれてしかたがなかった。【2】僧服そうふくをまとうとあれば、日々ひびこれ仏法ぶっぽう、「日々ひびこれ好日こうじつ」、さればこそこのようなりたおかおがそろうことになるのだろうか。
 【3】しかしわたしからすると、そうという身分みぶんであることほどこわいことはない。臨済和尚おしょうは、「自分じぶんすくもの自分じぶんのほかにはない」とったが、いち人間にんげん僧服そうふくをまとうになることを決断けつだんするにたっては、まず他者たしゃへの救済きゅうさいしゃとして自立じりつできるよりまえに、それに先立さきだ自分じぶんみずからの始末しまつがつけられているはずである。【4】あるいはそうとなることそのことによって、みずからのりかたに決着けっちゃくをつけようとする覚悟かくごあってのことであるはずだとおもわれる。それなのに、あののびやかな、ときには堂々どうどう俗臭ぞくしゅうただよわせたおかおは、一体いったいどういうことなのであろう。
 【5】おもうに、現代げんだい日本にっぽん僧侶そうりょは、ほとんど例外れいがいなく、宗教しゅうきょうしゃ求道きゅうどうしゃたることをみずからの天職てんしょくとしてえらったというひとびとではなく、いわば職業しょくぎょうじんとして僧職そうしょくくことを他律たりつてき条件じょうけんづけられてそうなったというひとびとが大半たいはんめるであろう。【6】そして、ひとたび僧衣そういをまとい、そうすわることになると、そうたることのステータスそのものがそのひと安住あんじゅうさせ定着ていちゃくさせることになって、みずからをはなしてすえるしんうしなわれてゆく、というりゆきになるのではなかろうか。【7】まして、そのひとある宗門しゅうもん教団きょうだんのなかでひとつの職位しょくいくことにでもなれば、その地位ちい自体じたいがそのひと護符ごふごふとなって、安定あんていはいよいよたかまり、その風格ふうかくはいよいよいたにつき、その説法せっぽうもいよいよどうはいったたくみさをくわえるであろう。【8】そして、それと反比例はんぴれいして、みずからをいち人間にんげんもどし、その裸身らしんあらためてつめなおすという宗教しゅうきょうしゃとしての基本きほんてき心構こころがまえは、きりのようにえてゆくであろう。
 【9】このことのこわおそろしさを、わたしはかつて旧制きゅうせい中学ちゅうがく教師きょうしだったときみて体験たいけんした。赴任ふにんしてからいち週間しゅうかんたってがついたことは、教員きょういんしつ空気くうき退廃たいはいであった。【0】かれ教師きょうしたちの話題わだい下劣げれつさと、それにきかえての高慢こうまんなエリート意識いしき、そしてかげにこもった個人こじん派閥はばつあいだ反目はんもくなどなど……。これはおおきなショックだった。そして、なぜこうなのだろうとかんがえてみた。ハタとおもたったのは、教師きょうしたちがごろ相手あいてにしているのが、自分じぶんたちよりも年齢ねんれいひく生徒せいとたちばかりであるという環境かんきょうそのものにその理由りゆうがありそうだということだった。そうおもたって、わたしすじがぞっとするおもいだった。おさな相手あいておなじことをおしえてばかりいると、自分じぶん自身じしん勉強べんきょうはおろそかになるばかりか、自分じぶんいまりようやかたかえりみるということもしなくなる。それをしなくても、教師きょうしという職業しょくぎょう結構けっこうつとまるからである。こんなこわいことはない。見回みまわしたところ、「うたおしえられる」といった初心しょしんわすれずにいそうな教師きょうしは、一人ひとり見当みあたらない。みんな教室きょうしつでのおしかたどうはいったそのみちのベテラン教師きょうしばかりである。しかし、そのひとたちの世間せけんはなしのなんと低劣ていれつなことか。これでは、なが教師きょうしをつとめたら、人間にんげん成長せいちょうまってしまうこと必定ひつじょうひつじょうだと、わたしおもった。そしてさんねん退職たいしょくしてしまった。
 およそ人間にんげんとして成長せいちょうするためには、えず現在げんざい自分じぶんかたじることが必要ひつようであろう。みずからをじるとは、みずからを客観きゃっかんするべつをもちることである。現在げんざい環境かんきょう埋没まいぼつすることなく、つまり現在げんざい職業しょくぎょう地位ちいこしえてしまうことなしに、自分じぶんあらたな可能かのうせいえず開拓かいたくしようとする気魄きはくをもちつづけること、このことこそが、およそみちもとめるものの――社会しゃかいじんたると宗教しゅうきょうしゃたるとをわず――もっとも基本きほんてき要件ようけんであろう。ましてひとかってほうき、ひとかどの救済きゅうさいしゃとして自立じりつするほどのひとであれば、なおさら、みずからをそのみち完成かんせいしゃとして完結かんけつさせてしまってはならぬはずである。もし、いささかでも自己じこ完成かんせいしゃとしての意識いしきのこっていたら、そのひとはすでに救済きゅうさいしゃたる資格しかくはない。しかし、この痛切つうせつなディレンマをえるための苦悩くのうらぬ説法せっぽうしゃが、いまあまりにもおおい。 (にゅう義高よしたかひとすくうということ」)


長文ちょうぶん 11.3しゅう
 【1】くじらぞうは、ひとの「知性ちせい」とはまったく別種べっしゅの「知性ちせい」をっているのではないか? という疑問ぎもんである。
 【2】この疑問ぎもんは、最初さいしょ水族館すいぞくかんらえられたオルカ(シャチ)やイルカにげいおしえようとする調教ちょうきょう医者いしゃ心理しんり学者がくしゃ、その手伝てつだいをした音楽家おんがくかくじらのう興味きょうみ大脳だいのう生理学せいりがくしゃたちの実体験じつたいけんからまれた。
 【3】かれらが異口同音いくどうおん言葉ことばがある。それは、オルカやイルカはけっして、ただえさがほしいために本能ほんのうてきげいをしているのではない、ということである。
 かれらはらわれのとなった自分じぶん状況じょうきょうを、はっきり認識にんしきしている、という。【4】そして、その状況じょうきょうみずかれると決意けついしたときはじめて、自分じぶんとコミュニケーションしようとしている人間にんげん、さしあたっては調教ちょうきょうよろこばせるために、そして、自分じぶん自身じしんもその状況じょうきょうもとで、精一杯せいいっぱいきることをたのしむために「げい」とばれることをはじめるのだ。(中略ちゅうりゃく
 【5】たとえば、体長たいちょうななメートルもある巨大きょだいなオルカがせまいプールでちっぽけな人間にんげんビレにつかまらせたままもうスピードでおよぎ、プールのはしはしにくると、手綱たづな合図あいずもなにもないのにみずか細心さいしん注意ちゅういはらって人間にんげんちないようにスピードをとしてそのまま人間にんげんをプールサイドにたせてやる。(中略ちゅうりゃく)【6】こんなことがたして、ムチとあめによる人間にんげん強制きょうせいだけでできるだろうか。ましてオルカは水中すいちゅうにいるななメートルの巨体きょたいぬしなのだ。
 そこには、人間にんげん強制きょうせいではなく、あきらかに、オルカ自身じしん意志いし選択せんたくはたらいている。
 【7】せまいプールにめられ、本来ほんらいっているちょう高度こうど能力のうりょくなんまんぶんいち使つかえない苛酷かこく状況じょうきょうかれながらも、自分じぶんが「とも」としてれることを決意けついした人間にんげんよろこばせ、そして自分じぶんたのしむオルカの「しん」があるからこそできることなのだ。
 【8】また、こんなばなしもある。人間にんげんかれらになにかをおしえようとすると、かれらの理解りかい能力のうりょくおどろくべきはやさだそうだけれども、同時どうじに、かれらもまた人間にんげんなにかをおしえようとする、というのだ。
 【9】フロリダのわか学者がくしゃが、いちとうめすイルカに名前なまえをつけ、それを発音はつおんさせようとこころみた。イルカと人間にんげんでは声帯せいたいおおきくことなるので、なかなかうまくいかなかった。それでも、すこしうまくいったときにはその学者がくしゃあたま上下じょうげにウンウンとった。【0】にん一人ひとりいちとうか)のあいだでは、その仕草しぐさたがいに了解りょうかいした、という合図あいずだった。なんかえしているうちに、学者がくしゃは、そのイルカが自分じぶんとはべつのイルカのある音節おんせつ同時どうじかえ発音はつおんするのにがついた。しかしそれがなに意味いみするのかはわからなかった。そしてあるとき、ハタとづいた。「彼女かのじょわたしにイルカ名前なまえをつけ、それをわたし発音はつおんせよ、とっているのではないか」、そうおもったかれは、必死ひっしでその発音はつおんこころみた。
 自分じぶんでもすこしうまくいったかな、とおもったとき、なんとそのめすイルカはウンウンとあたまり、とてもうれしそうにプールちゅうをはしゃぎまわったというのだ。
 くじらぞう高度こうどな「知性ちせい」をっていることは、たぶん間違まちがいない事実じじつだ。
 しかし、その「知性ちせい」は、科学かがく技術ぎじゅつ進歩しんぽさせてきた人間にんげんの「知性ちせい」とはおおきくちがうものだ。人間にんげんの「知性ちせい」は、自分じぶんにとっての外界がいかいおおきくえば自然しぜんをコントロールし、のままに支配しはいしようとする、いわば「攻撃こうげきせい」の「知性ちせい」だ。この「攻撃こうげきせい」の「知性ちせい」をあまりにも進歩しんぽさせてきた結果けっかとして、人間にんげん大量たいりょう殺戮さつりく環境かんきょう破壊はかいこし、地球ちきゅう全体ぜんたい生命せいめい危機ききおとしいれている。
 これにたいしてくじらぞうつ「知性ちせい」は、いわば「受容じゅようせい」の知性ちせいとでもべるものだ。かれらは、自然しぜんをコントロールしようなどとは一切いっさいおもわず、そのわり、この自然しぜん無限むげん多様たよう複雑ふくざついとなみを、できるだけ繊細せんさい理解りかいし、それに適応てきおうしてきるために、その高度こうどな「知性ちせい」を使つかっている。
 だからこそかれらは、我々われわれ人類じんるいよりはるか以前いぜんから、あのおおきなからだでこの地球ちきゅうきながらえてきたのだ。おな地球ちきゅうまれながら、とわたしおもっている。
 (りゅうむらじん地球ちきゅう(ガイア)の知性ちせい」による)


長文ちょうぶん 11.4しゅう
 ところが、突然とつぜんソ連それん崩壊ほうかいして言語げんごたいする統制とうせい検閲けんえつもなくなり、西側にしがわ文明ぶんめいがどっとはいってきた。いま、モスクワの町中まちなか氾濫はんらんする外来がいらい膨大ぼうだいさには、おどろくばかりだ。モスクワいち大型おおがた書店しょてん「ドーム・クニーギ」にっても、「インターネット」「マネジメント」「マーケティング」といったコーナーばかりで、これがトルストイやドストエフスキーをんだ偉大いだい文学ぶんがくくにのなれのてか、と、ロシア文学ぶんがくびいきの日本人にっぽんじんとしては、ついなげかわしい気持きもちにもなろうというものだ。
 しかし、その一方いっぽうで、日本にっぽん都会とかいではとうにうしなわれてしまった言葉ことば生々なまなましさのようなものが、現代げんだいのロシアではいまだに保存ほぞんされているということものがしてはならない。ロシアじんたちは、ほんのちょっとしたことをきっかけに、たとえ見知みしらぬ他人たにんどうしであっても、おどろくほどおおくの言葉ことばついやして、自分じぶんかんがえと感情かんじょう相手あいて直接ちょくせつぶつける。それは情報じょうほう伝達でんたつ行為こういというよりは、言葉ことばつうじでたがいの存在そんざい認識にんしきしあう共同きょうどうたい儀式ぎしきにもている。おそらくいち世紀せいき日本にっぽん今後こんご、どんどんうしなわれていくのは、まさに言葉ことばのこういった機能きのうではないかとおもう。
 コンピュータ技術ぎじゅつ飛躍ひやくてき発達はったつし、これから社会しゃかいの「情報じょうほう」がますます進展しんてんしていくことだろう。しょう取引とりひきから恋愛れんあいまで、すべてはインターネットじょうのヴァーチャルな体験たいけんえられ、いち自分じぶん部屋へやなくとも生活せいかつなに不自由ふじゆうなくできるという時代じだいるのもゆめではない。しかし、そうなったとき、決定的けっていてきうしなわれる危険きけんがあるのは、個人こじんてき接触せっしょく可能かのうにし、たがいにおな人間にんげんなのだということを実感じっかんさせてくれる言葉ことば機能きのうである。こういった言葉ことば基本きほん機能きのうのことを、言語げんご学者がくしゃのヤコブソンは「交感こうかん機能きのう」とんでいるが、これがうしなわれたら、言葉ことば言葉ことばでなくなってしまうとっても過言かごんではないだろう。
 では、そのとき言葉ことばなにになるのか。おそらく「言葉ことばもどき」、オーウェルの表現ひょうげんふたたりれば、あらたな「ニュースピーク」ではないか。ニュースピークとはなにも、った過去かこ亡霊ぼうれいではない。それは、人間にんげんから個性こせい思考しこうりょくうばい、社会しゃかい構成こうせいするもの全員ぜんいん画一かくいつするあらたな、より強力きょうりょく全体ぜんたい主義しゅぎ時代じだいに、ふたたよそおいもあらたにあらわれることだろう。
 なんだか見通みとおしのくら予報よほうになってしまったみたいだが、正直しょうじきなところをえば、そんなニュースピークの時代じだい本当ほんとう到来とうらいするなどとはかんがえたくはない。これはあくまでも一種いっしゅ警告けいこくである。みょうなことをうようだが、おそらくわたしたちは、言葉ことばという不思議ふしぎもの未来みらいについては、人類じんるい未来みらいについて以上いじょう楽観らっかんてきになってもいいのではないだろうか。
 というのも、言葉ことば人類じんるいのありとあらゆる惨事さんじ残虐ざんぎゃくおろかしさを目撃もくげきし、克明こくめい記録きろくしながらも絶望ぜつぼうすることなくしぶとくび、時代じだい激変げきへんつうじてみずからもしなやかに変容へんようしながら、それでいて言葉ことばでありつづけることをめないで今日きょうまでているからだ。ぼくは人智じんちえた神秘しんぴてき言霊ことだまなどのことをっているわけではない。言葉ことば人間にんげんつくしたものでありながら、人間にんげん以上いじょう生命せいめいりょくち、人間にんげん社会しゃかいぎゃくつくっていくはたらきさえそなえている。コンピュータ程度ていど発明はつめい簡単かんたんにやられはしないだろう。しかし、それは潜在せんざいてきおそろしいちからでもありつづける。言葉ことば支配しはいするものは、結局けっきょくのところ、世界せかい支配しはいすることになるからだ。

 (沼野ぬまのたかしよし『W文学ぶんがく世紀せいきへ』)



長文ちょうぶん 12.1しゅう
 【1】音楽おんがくといえば、それはハニホヘトイロでそだったわたしたちの世代せだいもっと縁遠えんどおいもののひとつで、もの資格しかくなどなきにひとしいのだが、それでも、わたし自身じしん、ビートルズのことでめずらしい経験けいけんをしたことがある。【2】じゅうすうねんまえ、ビートルズが熱狂ねっきょうてきむかえられはじめたころ、元来がんらい野次馬やじうまなものだから、それではひとつとかたっぱしからレコードをいこんでらしてはみたものの、音楽おんがく評論ひょうろんたちの力説りきせつするさがいっこうに理解りかいできない。【3】それ以前いぜんにジャズやロックンロールなどにしたしんでいたわけではないから、その音楽おんがくせいのどこがどう革命かくめいてきなのか、わかるはずもないし。【4】それがある、ホリリッジ・ストリングスの演奏えんそうするビートルズのイージー・リスニング・ナンバーのレコードをみみにしたとたん、なんときれいなきょくなんだろうとおもわずうっとりした。【5】澄明ちょうめいにして華麗かれい巧緻こうちにして清新せいしん、わがみみうたがうとはこのことかといいたい体験たいけんだった。以来いらいわたしはビートルズのひそかなファンでありつづけている。
 【6】ヴォーカルきのイージー・リスニングだなんて、いまだとたよりなくていていられないだろうけれど、すくなくとも音楽おんがく音痴おんちわたしにとって、このいちまいのレコードは、世界せかいのビートルズをわたし自身じしんのビートルズにえた、奇蹟きせきてきなレコードだった。
 【7】「一瞬いっしゅんひらめき」による理解りかい。それは、読書どくしょについても、もとより例外れいがいではありない。が、まれついての天才てんさいべつとして、このひらめきを体験たいけんするためには、やはり相応そうおう試行錯誤しこうさくご歳月さいげつる。【8】さまざまなジャンルの、さまざまな作者さくしゃの、さまざまな作品さくひんあたりながら、しかし、どの作品さくひん上等じょうとうたのしく、どの作品さくひんがくだらなくて反古ほごほごにひとしいと、それがわかってんでいるのか、うたがってかかる月日つきひる。【9】めいあるひょう推輓すいばんや、世間せけんになんとなく流布るふるふしている評判ひょうばん自分じぶん自身じしんくだした評価ひょうか勘違かんちがいしてんでいるだけのことではないかとをもんですごす時日じじつじじつる。
 【0】もっとも、読書どくしょ一般いっぱんについていう場合ばあい水泳すいえい数学すうがく音楽おんがくなどとちがって「一瞬いっしゅんひらめき」はおおげさかもしれない。ある作品さくひんんでほかのほんからはかつてけたことのない一種いっしゅ新鮮しんせん印象いんしょう、この体験たいけん基準きじゅんとしてんでいけばいいのだなとふかくうなずく、そんなふうにかんがえたほうが実態じったい沿っているだろうか。が、いずれにせよ、試行錯誤しこうさくごをくりかえすことをいとわず、うたがってかかる姿勢しせいうしなわずにいるかぎり、そういう瞬間しゅんかんはいつかやってくるということは十分じゅうぶん期待きたいできる。もちろん、ひとによってその瞬間しゅんかんかんじることの強弱きょうじゃく遅速ちそくはあるだろうが、それは仕方しかたがない。人間にんげん感受性かんじゅせいというのはもともと不平等ふびょうどうにできているのである。
 いったんこうした読書どくしょのコツを会得えとくえとくした以上いじょうは、あとはもう一気呵成いっきかせいむにあたいするほんつぎからつぎへとつかってきて、読書どくしょたのしくてしようがなくなる。山本やまもと夏彦なつひこふうにいえば、くだらないほんんでさえ、それを罵倒ばとうするというたのしみがくわわる。かけばかりご大層たいそう内実ないじつはいたってまずしく退屈たいくつほんを、どんな義理ぎりがあるのからないが、無責任むせきにん天下てんか名著めいちょちあげる評論ひょうろん嘲笑ちょうしょうするというたのしみも。
 それだけではない、かつてやみくもにらしてはくりかえした試行錯誤しこうさくご、これがおもいがけずやくつのである。系統けいとう発生はっせいというか、もののしを弁別べんべつする見取図みとりずのようなものが、読書どくしょようかなめをおさえたとった瞬間しゅんかん脳裡のうり成立せいりつし、今後こんごほんかたについてのまたとないコンパスとなるからである。
 世間せけんひろいから、たったいちさつほんんだだけでチカッとひらめくというひともいないとはかぎらない。が、それは、はじめてほんんですべてがわかったとおもいこむ子供こどものようなもので、それ以前いぜん蓄積ちくせきがゼロだから、ほん世界せかいについての正負せいふさまざまの方向ほうこうをもった地図ちずつくりあげることができず、かえってその読書どくしょ難渋なんじゅうし、モームのいう「ひまつぶし」をたのしむ機会きかいがよりすくないということもまたありうる。なにごとにもプラスとマイナスがある。こと読書どくしょかんしては、神童しんどう天才てんさいをうらやむにはあたらない。

 (向井むかいさとし贅沢ぜいたく読書どくしょ』による)



長文ちょうぶん 12.2しゅう
 【1】人間にんげん以外いがい動物どうぶつ普通ふつう本能ほんのう」のおもむくままに行動こうどうするとき、そこにまよいや不安ふあんはない。かれらにとっては、世界せかいあらかじ秩序ちつじょあたえられているのであって、みずからがそれをつく必要ひつようがないからである。つまり、選択せんたく余地よちがないのである。【2】それにたいして人間にんげんは、そのような「本能ほんのう」のみちびきをうしない、したがって、混沌こんとんした世界せかいたいして、素手すではたらきかけることができず、文化ぶんかという装置そうちつくすことによって、ふたた秩序ちつじょをとりもどしてきたのである。【3】人間にんげんがしばしば、文化ぶんかった生物せいぶつばれる理由りゆうはそこにある。
 何故なぜ人間にんげんのみが、そのような特異とくい生物せいぶつへの「進化しんか」のみちあゆんだのかということは、それ自体じたい非常ひじょう興味きょうみのある問題もんだいであるが、ここでは本題ほんだいはずれるのでれない。【4】そのわりに、文化ぶんかった生物せいぶつとなってしまった人間にんげんが、環境かんきょう変化へんかたいして、たねのようになに世代せだいにもわたって徐々じょじょみずからをえて、その変化へんか適応てきおうするということをせず、みずからがつくした文化ぶんかという装置そうち操作そうさすることによって適応てきおうしてきたということが、どのような意味いみつようになったかということをかんがえてゆきたい。
 【5】こんべたように、あるがままの混沌こんとん世界せかいたいして、文化ぶんかという装置そうちによって秩序ちつじょ回復かいふくするこころみがおこなわれ、それによって、人間にんげん世界せかい解釈かいしゃくすることができるようになるのであるが、その解釈かいしゃく有効ゆうこうであるためには、集団しゅうだん成員せいいんによるその承認しょうにん必要ひつようとする。【6】つまり、文化ぶんか文化ぶんかとして機能きのうするためには、社会しゃかい制度せいどされなければならないのである。ところが、このような社会しゃかい制度せいどされた文化ぶんかが、一旦いったん成立せいりつすると、今度こんどはその文化ぶんかそのものが、人間にんげんにとって、いわばだい自然しぜんとして、人間にんげん行動こうどう規制きせいしてくることになる。【7】したがって、「文化ぶんか」はもともと「自然しぜん」と対立たいりつする概念がいねんではあるが、人間にんげん文化ぶんかわくないでしか行動こうどうしえないものであってみれば、ある意味いみでは文化ぶんか自然しぜんという関係かんけい成立せいりつしてくるとさええるのである。
 (中略ちゅうりゃく
 【8】人間にんげん客観きゃっかんてき世界せかいにのみにきているのでもないし、通常つうじょう理解りかいされているような社会しゃかいてき活動かつどう世界せかいにのみきているのでもなく、その社会しゃかい表現ひょうげん手段しゅだんとなっている特定とくてい言語げんごつよ影響えいきょうけているのである。【9】本来ほんらい言語げんご使つかわないで現実げんじつ適応てきおうできるとかんがえたり、言語げんごをコミュニケーションや、内省ないせい特定とくてい問題もんだいくための偶然ぐうぜん手段しゅだんであるとかんがえるのはまったくの幻想げんそうにすぎない。【0】事実じじつは、「現実げんじつ世界せかい」というのは、かなりの程度ていどまで、その言語げんご使用しようしゃ集団しゅうだん言語げんご習慣しゅうかんうえ無意識むいしききずかれているのである。どのふたつの言語げんごをとってみても、おな社会しゃかいてき現実げんじつあらわしているとかんがえられるほど言語げんごはないのである。ことなる社会しゃかいきている世界せかいべつ世界せかいであり、たんことなるレッテルがけられた同一どういつ世界せかいではないのである。
 すなわち、われわれはぜん人類じんるい例外れいがいなくっている言語げんごという文化ぶんか装置そうち記号きごう体系たいけい)をとおしてしか現実げんじつ構成こうせいすることができないのであり、したがって、それぞれの言語げんごという記号きごう体系たいけいことなれば、えてくる世界せかいちがったものになってくるのである。このことは、あるものをそれとして認識にんしきできるのは、普通ふつう、それに名称めいしょうあたえられている場合ばあいであることをかんがえても、容易ようい想像そうぞうされるだろう。それまでは何気なにげなく見過みすごしてきた路傍ろぼうはなが、その名称めいしょうることによって、きゅうにいきいきとした存在そんざいかんって知覚ちかくされてくることはだれでも経験けいけんしたにちがいない。つまり、名称めいしょうという記号きごう表現ひょうげんあたえられてはじめて、そのはなはわれわれに意味いみった存在そんざいとしてあらわれてくるのである。かえしてうと、文化ぶんかという装置そうちは、もともと自然しぜん混沌こんとん秩序ちつじょあたえるために、人間にんげん集団しゅうだんとしてある意味いみでは恣意しいてきつくした記号きごう体系たいけいであるが、一旦いったんできあがるとそれは自立じりつせい獲得かくとくし、ぎゃくにその創造そうぞうしゃ呪縛じゅばくするようになるのである。このようにして、人間にんげんはもはや文化ぶんかという装置そうちなしではきていけない存在そんざいになってしまったのである。
 文化ぶんかをこのように、人間にんげん集団しゅうだんとして恣意しいてきつくした記号きごう体系たいけいとしてとらえるならば、かく文化ぶんかあいだ相違そういあらわれてくるのは当然とうぜんであるが、それのみでなく、その分節ぶんせつがある意味いみでは恣意しいてきでありうるがゆえに、文化ぶんかおこなう秩序ちつじょ(=分類ぶんるい)からはみしてくる部分ぶぶんてくるのは想像そうぞうかたくない。そのはみした部分ぶぶんをそのままにしておくことは、秩序ちつじょ破壊はかいにつながってくるため、文化ぶんかにとっては危険きけん存在そんざいになる。そのため、文化ぶんかは、そのはみした部分ぶぶんを、消極しょうきょくてきには「えないもの」(インビジブル)として、積極せっきょくてきには禁忌きんき(タブー)として抑圧よくあつする必要ひつようがあるのである。
池上いけがみ嘉彦よしひこ山中さんちゅうかつらはじめとう須教こう文化ぶんか記号きごうろん」より)


長文ちょうぶん 12.3しゅう
 【1】だれかがいつか、こんなことをっていた。神経しんけい苛立いらだってねむれないときがあるが、これは神経しんけい疲労ひろう肉体にくたい疲労ひろうとのバランスをいて、独自どくじ進行しんこうしてしまった結果けっかである。【2】したがってこうした場合ばあいは、縄跳なわとびをすうかいおこなって、肉体にくたい疲労ひろう神経しんけいのそれとどう程度ていどになるまでたかめればいい。それぞれの疲労ひろうのバランスがとれれば、ひとねむれるのである。
 【3】いささか論理ろんり明確めいかくぎて、そのぶんだけなんとなくあやういがしないでもないが、しかしこの論理ろんりかたには魅力みりょくがある。なによりも、神経しんけい疲労ひろうそれ自体じたいしずめようとするのではなく、肉体にくたい疲労ひろうをそれに見合みあうべくたかめようとするてん独特どくとくであり、そこに行動こうどうてきであり、しかも積極せっきょくてき姿勢しせいがうかがわれるのである。【4】そして事実じじつわたしは、同様どうよう症状しょうじょうおちいるたびにこのかんがかた応用おうようして実行じっこうし、もしわたし錯覚さっかくでなければ、われているとおりの効果こうかをあげることが出来できた。
 【5】かつてわたしは、ホンダの〇CCのカブ・原動機げんどうきづけ自転車じてんしゃ愛用あいようしていたが、これに長時間ちょうじかんった場合ばあいかならずこうした症状しょうじょうおちいった。 【6】原動機げんどうきづけ自転車じてんしゃというのは、人間にんげん筋力きんりょくによる走行そうこう速度そくどを、ガソリン・エンジンにえて促進そくしんするためのもっと原始げんしてき装置そうちであり、それとこれとのえを実感じっかんするためには、もっと効果こうかてき道具どうぐなのだが、それだけに、こうした症状しょうじょうおちい事情じじょうも、論理ろんりてき説明せつめいしやすいということがある。
 【7】もちろんこれもまた、論理ろんり明確めいかくぎて、自分じぶん自身じしんほとんどはにかまざるをないほどであるが、つまりこの場合ばあいわたしの「肉体にくたい」はただ、震動しんどうするちいさなガソリン・エンジンにしがみついているだけだが、「神経しんけい」のほうは、そのおな距離きょり時間じかん省略しょうりゃくすることなく体験たいけんしつくすのであり、したがってそのそれぞれの疲労ひろうのバランスは、おおきくちがってくるはずだ、というわけである。【8】「神経しんけい」の疲労ひろうのみが独自どくじ進行しんこうしてしまって、わたし苛立いらだち、ねむれなくなる。
 そこでわたしは、長時間ちょうじかん原動機げんどうきづけ自転車じてんしゃったかならず、いえはいまえにその体操たいそうをしたり、いえ周囲しゅういしばらはしったりして、「肉体にくたい」を酷使こくしし、疲労ひろうのバランスをとるようつとめた。【9】そうすることによってわたしは、そのよるの「安眠あんみん」を、ちとってきたのである。【0】(中略ちゅうりゃく
 わたしは、わたし自身じしん原動機げんどうきづけ自転車じてんしゃっていた当時とうじ体験たいけんそくして、ここまでかんがえてみた結果けっか冒頭ぼうとうかかげたかんがかたを、ほぼ「ありること」として、みとめることにした。「神経しんけい」と「肉体にくたい」といういいかたが、厳密げんみつかんがえようとするとややあいまいであるが、かれがその言葉ことばで、我々われわれうちなるなにをいいあてようとしつつあるかは、容易ようい想像そうぞうがつくのである。つまりここでは、そのそれぞれのものが、乖離かいりして世界せかい体験たいけんし、したがって乖離かいりしたままそれぞれべつレベルの疲労ひろうせられ、そのバランスがくずれつつあるてんに、問題もんだいがあるとっているのだ。(中略ちゅうりゃく
 わたしあるるジャーナリストが、ケネディ暗殺あんさつ事件じけん報道ほうどうするテレビ画像がぞうて、「ここにはなにうつされていない」とったのをおぼえている。かれは、かれ実際じっさいにその居合いあわせたことのある暗殺あんさつ事件じけん現場げんば想起そうきしながら、「そこにはたしかに、人々ひとびと恐怖きょうふさせ、もよおさせるなにものかがあったのだが、ここにはなにもない」ということをっているのだ。そしてこのことは、わたしある距離きょりを、あるいたりはしったりするのでなく原動機げんどうきづけ自転車じてんしゃとおけてしまったことによりいだかざるをなかったことと、同様どうようのものであったようながする。
 この手応てごたえのない世界せかいへの不安ふあん我々われわれうち潜在せんざいし、その焦燥しょうそうかんが、いきお手応てごたえのあるものにむかって、やみくもに発散はっさんされようとするのだ。

別役べつやくみのる「イロニーとしての身体しんたいせい」による)


長文ちょうぶん 12.4しゅう
 「患者かんじゃ最後さいごまで希望きぼうつことができるためにはどうしたらよいか」ということは、ことにじゅうあつしじゅうとく疾患しっかんにかかわる医療いりょう現場げんばにおいて切実せつじついである。病気びょうきであることがらされる―だんだん状態じょうたいわるくなることをり、有効ゆうこう対処たいしょほうはないこともる――自分じぶん身体しんたいがだんだんわるくなり、できることがどんどんってく――間近まぢかかんじるようになる。
 このような状況じょうきょうで、「希望きぼう」とはしばしば、「なおるかもしれない」というのぞみのことだとおもわれている。あるいは「自分じぶん場合ばあい通常つうじょうよりもずっと進行しんこうおそいかもしれない」ということもあろう。いずれにしてもまさに「希望きぼうてき観測かんそくである。だが、希望きぼうとはこうした内容ないよう予測よそくのことなのだろうか。
 もしそうだとすると、それこそかくりつからいって、そうした患者かんじゃ多数たすうにおいては、はじめにてた希望きぼうてき観測かんそく次々つぎつぎくつがえされるという結果けっかにならざるをない。それでは「最後さいごまでのぞみをもってきる」ということにはならないだろう。そもそも、「がん」と総称そうしょうされる疾患しっかんぐんをモデルとして、「告知こくち」の正当せいとうせいがキャンペーンされてきたのは、患者かんじゃ自分じぶんかれた状況じょうきょう適切てきせつ把握はあくすることが今後こんごかた主体しゅたいてき選択せんたくするために必須ひっす前提ぜんていであったからではなかったか。みぎべたようなのぞみの見出みだかたは、非常ひじょうわる情報じょうほうであっても真実しんじつ把握はあくすることが人間にんげんにとってよいことだというかんがえとは調和ちょうわしない。
 では「わりではない、そのさきがある」といったかんがかた採用さいようして、希望きぼう時間じかんてき未来みらいにおける幸福こうふくなまたくすというのはどうだろうか。だが、医療いりょうみずからが、そのような公共こうきょうてきには根拠こんきょなき希望きぼうてき観測かんそくぎない信念しんねん採用さいようして、患者かんじゃ希望きぼうたもとうとするわけにはいかない。
 ところで、わたしたちすべてのせいがそこにかっているところである。おそかれはやかれわたしせいもまたによってわりとなることは必至ひっしである。そのわたしにとって希望きぼうとはなにか――かんがえてみればこのいは、じゅうあつしじゅうとく疾患しっかんかかった患者かんじゃにとっての希望きぼう可能かのうせいという問題もんだいなんらか連続れんぞくてきであろう。そして、おおくの宗教しゅうきょう死後しごわたし存在そんざい持続じぞくおしえとしてふくみ、そこに希望きぼう見出みいだそうとしてきた。それは人間にんげん生来せいらい価値かちかん肯定こうていしつつ、提示ていじされる希望きぼうである。だが他方たほう宗教しゅうきょうてき思想しそうには、死後しごなまのぞみをおくかんがかた拒否きょひするながれもある。その場合ばあいは、人間にんげんはもっとラディカルに自己じこのぞみについてめるのである――「死後しごつづけたいというおもいがそもそも我欲がよくなのである」とか、「自己じこ幸福こうふく追求ついきゅうするところに問題もんだいがある」というように。それは生来せいらい価値かちかんくつがえしつつ提示ていじされるかんがえである。では、わたし存在そんざいわりであることにはなん不都合ふつごうもないではないかとして、これを肯定こうていした場合ばあいに、希望きぼうはどこにあるか――どのような仕方しかたであれ、「へとかう目下めしたなまそれ自体じたいに」とこたえるしかないであろう。
 わりのある道行みちゆきをあゆむこと、いまわたしあゆんでいるのだということ――そのことを積極せっきょくてきけるときに、わりにかってあゆんでいるという自覚じかく希望きぼう根拠こんきょとなる。そうであれば「希望きぼう最後さいごまでつ」とは、じつは「現実げんじつへの肯定こうていてき姿勢しせい最後さいごまでたもつ」ということにならない。つまり、自己じこせい肯定こうてい、「これでいいのだ」という肯定こうていである。「自己じこせい」といっても、きてしまっているせい完了かんりょうがた)としてみることと、きつつあるせい進行しんこうがた)としてみることとのじゅう視線しせんがある。完了かんりょうしたものというせいのアスペクトにおける肯定こうていは「これでよし」との満足まんぞくである。他方たほうきつつあるなま、つまり一瞬いっしゅんさきへといち活動かつどうのアスペクトにおける、前方ぜんぽうかっての肯定こうてい前方ぜんぽうかってみずか姿勢しせいが、希望きぼうならない。

 (清水しみず哲郎てつろう直面ちょくめんした状況じょうきょうにおいて希望きぼうはどこにあるか』より。一部いちぶ省略しょうりゃく