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課題集
長文ちょうぶん 4.1しゅう
長文ちょうぶんふたつある場合ばあい音読おんどく練習れんしゅうはどちらかひとつで。】
 【1】寺田てらださんは有名ゆうめい物理ぶつり学者がくしゃであるが、その研究けんきゅう特徴とくちょうは、日常にちじょう身辺しんぺんにありふれた事柄ことがら具体ぐたいてき現実げんじつとして我々われわれ周囲しゅうい手近てぢかられるような事実じじつなかに、本当ほんとう研究けんきゅうすべき問題もんだい見出みいだしたてんにあるという。(中略ちゅうりゃく
 【2】周知しゅうちとおり、林檎りんごからちるのを不思議ふしぎかんじて問題もんだいとしたことが、近代きんだい物理ぶつりがくへの重大じゅうだい貢献こうけんとなった。あたりまえ現象げんしょうとして人々ひとびと不思議ふしぎがらない事柄ことがらのうちに不思議ふしぎ見出みいだすのが、法則ほうそく発見はっけん第一歩だいいっぽなのである。【3】寺田てらださんはもっと日常にちじょうてき事柄ことがらのうちに無限むげんおおくの不思議ふしぎ見出みいだした。我々われわれ寺田てらださんの随筆ずいひつむことにより寺田てらださんのをもって身辺しんぺん見廻みまわすことができる。そのとき我々われわれ世界せかいじつ不思議ふしぎちた世界せかいになる。
 【4】なつ夕暮ゆうぐれ、ややほのぐらくなるころに、月見草つきみそう烏瓜からすうりはながはらはらとはなびらをひらくのは、我々われわれなれていることである。しかしそれがいかに不思議ふしぎ現象げんしょうであるかはづかないでいる。寺田てらださんはそれをはっきりとおしえてくれる。【5】あるいはとんびそらいながらえささがしている。我々われわれはそのとんびがどうしてえささがるかを疑問ぎもんとしたことがない。寺田てらださんはそこにも問題もんだい場所ばしょおしえ、そのかた暗示あんじしてくれる。【6】そういう仕方しかた錯覚さっかく物忌ものいみ、嗜虐しぎゃくせい喫煙きつえんよくというような事柄ことがらへもれてかれれば、また地図ちず映画えいが文芸ぶんげいなどのふか意味いみをもおしえられる。
【7】我々われわれはそれほどの不思議ふしぎ、それほどの意味いみったものに日常にちじょうれていながら、それを全然ぜんぜん感得かんとくしないでいたのである。寺田てらださんはこの色盲しきもう、この不感症ふかんしょう療治りょうじしてくれる。【8】この療治りょうじけたものにとっては、日常にちじょう身辺しんぺん世界せかい全然ぜんぜんあたらしいひかりをもってかがやすであろう。
 この寺田てらださんからつぎのような言葉ことばくと、まことにもっともにおもわれるのである。
【9】「西洋せいよう学者がくしゃらしたあと遙々はるばるはるばるおくればせに鉱石こうせきのかけらをさがしにくのもいいが、我々われわれあしもとうめもれてゐるたからわすれてはならないとおもふ。」
 寺田てらださんはその「我々われわれあしもとうめもれてゐるたから」をいくつかしてくれたひとである。【0】

 (かずつじわつじ哲郎てつろう

 【1】そうしてみると、価値かち多様たよう画一かくいつとはけっして矛盾むじゅんしたことではなくて、おな現象げんしょう両面りょうめんのようにおもえてくる。その根本こんぽんにはやはり、普遍ふへんてき価値かち崩壊ほうかいがある。普遍ふへんてき価値かち崩壊ほうかいしたのは崩壊ほうかいしただけの歴史れきしてき理由りゆうがある。【2】あるひとつの普遍ふへんてき価値かちしんじたひとたちが、それと矛盾むじゅんし、対立たいりつする価値かちしんじているひとたちを排撃はいげきし、差別さべつして残虐ざんぎゃく行為こういかえしてきたということがあって、あるふとづいてみると、そんなことをしてまでまもらなければならないほどの絶対ぜったいせいはどのような「普遍ふへんてき価値かちにもないことがわかってきたのである。
 【3】そこで、普遍ふへんてき価値かちというものは存在そんざいしないのだということになった。すべては相対そうたいてきであって、どのような価値かちしんじていようが間違まちがっているとはえず、それぞれが勝手かってしんじていればいいのだということになった。
 【4】そこから、価値かち多様たようということがてくるわけであるが、かなしいかな、人間にんげんなんらかの価値かちしんじ、それを自我じがささえにしなくてはきてゆけず、しかも自分じぶんしんじる価値かちはできるかぎりおおくのひとびとにしんじられているものであることをのぞむので、勝手かってにどのような価値かちしんじてもいいとわれても、それほど自由じゆうはばはないのである。【5】そして、普遍ふへんてき価値かち崩壊ほうかいしているわけだから、なんらかの価値かちしんじていても、それが普遍ふへんてきだとおもってしんじていたときのような自信じしんはもてず、ひょっとしてとんでもないことをしんじてしまっているのではないかとのうたがいをれない。【6】そこで、ひとたちがしんじているようにえる価値かちを、自分じぶん確信かくしんをもてないままに、一応いちおういまのところしんじておくといったことになる。ひとたちがしんじているようにえる価値かち自分じぶんしんじるというひとおおくなれば、必然ひつぜんてきに、価値かち画一かくいつされるわけである。
 【7】したがって、価値かち多様たようされたとっても、個人こじん選択せんたくできる価値かちはばひろゆたかになり、無限むげん多様たようかた可能かのうせいひらかれているということではなくて、ある価値かちしんじることによって個人こじんることができるものはむしろまずしくなっており、【8】また、価値かち画一かくいつされたとっても、おおくのひとひとつの共通きょうつう価値かちしんじて連帯れんたいするということにはならなくて、つまり、おな価値かちしんじていることがひとひととをむすびつけるわけではなくて、ばらばらにおな価値かちしんじているといった具合ぐあいになっている。
 【9】わたしは現代げんだいを「嫉妬しっととはしゃぎの時代じだい」だとっているが、普遍ふへんてき価値かち崩壊ほうかいすると、そこに自我じが安定あんていした基盤きばん見出みだせないので、ひとびとははしゃいで目立めだ以外いがい自分じぶん存在そんざい確認かくにんする方法ほうほうがなくなり、また、おな理由りゆうひとのことがえずになり、嫉妬しっとくるわざるをない。【0】
 この嫉妬しっととはしゃぎということと、価値かち多様たようまたは画一かくいつとはつながっている。目立めだつためには、ことなっていなければならず、ひとびとは多様たよう価値かちをそれぞれに表現ひょうげんし、「個性こせい」をして目立めだとうとする。しかし、他方たほうでは価値かち画一かくいつされているので、優劣ゆうれつ成否せいひはか一本いっぽん尺度しゃくどしかなく、すべてのひとおな尺度しゃくどのもとで序列じょれつをつけられ、劣位れついにおかれたものおな尺度しゃくどうえ上昇じょうしょうしないかぎり、いつまでもれつしゃである。これでは、おな尺度しゃくどうえ優位ゆういにあるもの嫉妬しっとし、かれきずりおろしたくなるのはけがたい。
 これらのことは現代げんだい時代じだい精神せいしんとでもうべきことであろう。こういう傾向けいこうはあらゆるめんあらわれている。たとえば、若者わかものおや反対はんたいり、苦難くなんえてついにむすばれるといったいわゆるだい恋愛れんあいをしなくなった。これは、恋愛れんあい永遠えいえんせい唯一ゆいいつせい絶対ぜったいせいといったことがしんじられなくなった以上いじょう、あるものが、おれはだい恋愛れんあいをしてやろうとがんばったところで、どうにもなるものではない。職業しょくぎょう選択せんたくにおいても、ひとつのことに一生いっしょうけるということをしなくなった。

岸田きしだしゅうしゅう文章ぶんしょうによる)


長文ちょうぶん 4.2しゅう
 【1】「ふしぎ」とえば、「わたし」という人間にんげんがこの存在そんざいしているということほど「ふしぎ」なことはないのではなかろうか。自分じぶん意志いししたわけでもない。ねがったわけでもない。ともかくがつくとこの存在そんざいしていた。【2】おまけに、名前なまえせい国籍こくせき貧富ひんぷ程度ていど、その人生じんせいにおいて重要じゅうようおもわれることの大半たいはんは、勝手かってめられている。こんな馬鹿ばかなことはないと憤慨ふんがいしてみても、まったく仕方しかたがない。その「わたし」をけいれ、「わたし」としての生涯しょうがいくことに全力ぜんりょくをつくさねばならない。(中略ちゅうりゃく
 【3】「わたし」のふしぎをわすれたたましいのことをわすれてきているひとに、その「ふしぎ」をわからせるてんで、児童じどう文学ぶんがくとくすぐれているとおもう。わたし児童じどう文学ぶんがくきなのは、このためである。たしかに「大人おとな」としてきるのも大変たいへんなことだ。【4】おかねをもうけねばならない。地位ちい獲得かくとくしなくてはならない。他人たにんとスムーズにつきわねばならない。それらは大変たいへん労力ろうりょく必要ひつようとするし成功せいこうしたときには、やったという達成たっせいかんもある。しかし「いったいそれがナンボのことよ」と「たましい」はう。【5】そのこえをよくみみどもはっている。あるいは「たましい」の現実げんじつどものほうっている。そのようなどものんだ五感ごかんとらえた世界せかいが、児童じどう文学ぶんがくのなかにかたられている。だから、児童じどう文学ぶんがくは、どもにも大人おとなにもんでほしいとおもう。
 【6】たましいというのは、直接ちょくせつにちゃんと定義ていぎするなどということはできない。しかし、それは、んだときにあちらにっていけるものだ、などとかんがえてみることもできる。「マッチりの少女しょうじょ」があちらにっていったものと、地位ちい名誉めいよ財産ざいさん沢山たくさんっているひとが、あちらにっていくものと比較ひかくしたらどうなるだろう。【7】もちろん後者こうしゃのようなひとは、立派りっぱ戒名かいみょうれることが、最近さいきんでは可能かのうになった。そのひとんで閻魔えんまえんままえち、立派りっぱ戒名かいみょう名乗なのるとして、閻魔えんまえんまさんの家来けらいおにが「ふん、それがナンボのものよ」などとっているところを想像そうぞうしてみるのも面白おもしろいことではある。
 【8】たましいなどほんとうにあるのかないのか、のところはわからない。しかし、それがあるとおもってみると、きゅう途方とほうもなくおそろしくなったり、面白おもしろくなったり、人生じんせいなんばいゆたかにあじわうことができることは事実じじつである。【9】もちろん、よいことばかりではなく、下手へたをすると普通ふつう人生じんせい維持いじできなくなるという危険きけんもあることはっておかねばならない。
 人生じんせいにおける「ふしぎ」と、それをしんのなかにおさめていく物語ものがたりとが、いかに人間にんげんささえているかについてべてきた。【0】むかしはそのことは部族ぶぞく民族みんぞくなどの集団しゅうだんで、神話しんわ共有きょうゆうすることによってなされてきた。このことは現在げんざいもある程度ていどまで事実じじつである。すべての宗教しゅうきょうはその基盤きばんとなる物語ものがたりをもっている。
 しかし、現在げんざいのように個人こじん主義しゅぎすすんできて、そのかたをある程度ていど肯定こうていするものにとっては、個人こじんにふさわしい物語ものがたりをもつ、あるいはつくり必要ひつようがあるとおもわれる。とっても、だれもがそのような物語ものがたりをつくり才能さいのうがあるわけではない。
 そのために、そのときどき自分じぶんにとって必要ひつよう物語ものがたり、あるいはそれに類似るいじのものを他人たにんのつくったもののなかからつけすことをしなくてはならない。それは、ひょっとしてふる神話しんわのときもあろう。あるいは、現代げんだい作家さっかいた児童じどう文学ぶんがくかもわからない。ただそれは自分じぶん完全かんぜんにピッタリというのはないであろう。自分じぶんもこののなかで唯一ゆいいつ固有こゆう存在そんざいかんがえるかぎり、そんなことはありえない。しかし、それととも自分じぶん人間にんげんとしていかにその存在そんざい共有きょうゆうっているかをおもうと、おおくのひと共通きょうつう重要じゅうよう物語ものがたりがあることも了解りょうかいできるであろう。
 このようにして自分じぶん人生じんせいきるとき、ぬときにあたって、自分じぶん生涯しょうがいそのものが世界せかいのなかでにはない唯一ゆいいつの「物語ものがたり」であったこと、「わたし」という存在そんざいのふしぎがひとつの物語ものがたりのなかにおさめられていることにづくことであろう。自分じぶん人生じんせいゆたかで、意味いみあるものとするために、われわれはいろいろな「ふしぎ」についての物語ものがたりっておくことが役立やくだつのではなかろうか。


長文ちょうぶん 4.3しゅう
 【1】ラレルは、よっつの仕事しごと同時どうじつ、じつによくはたら勤勉きんべん助動詞じょどうしである。もとより、これを助動詞じょどうしとはみとめず、接尾せつびとするせつ時枝ときえだときえだ文法ぶんぽう)もあるが、それはとにかく、助動詞じょどうしラレルのよっつの仕事しごととはこうである。
 【2】いち、「せっかくった週刊文春しゅうかんぶんしゅんられた」というふうに、からの動作どうさはたらきをけることをあらわす。つまりあらわす。
 、「社長しゃちょう週刊文春しゅうかんぶんしゅんはいってきたられた」というふうに、動作どうさをするひとたいする敬意けいいあらわす。つまり尊敬そんけいあらわす。
 【3】さん、「週刊文春しゅうかんぶんしゅんはおもしろくかんじられる」というふうに、しようとおもわなくても自然しぜんにそうなるということをあらわす。つまり自発じはつあらわす。
 よん、「この図書館としょかんでは週刊文春しゅうかんぶんしゅんられます」というふうに、あることができるということをあらわす。つまり可能かのうあらわす。
 【4】ら言葉ことばは、よん番目ばんめの「可能かのう」において頻繁ひんぱんあらわれる。なぜだろうか。だいいち理由りゆうは、さきにもべたように助動詞じょどうしラレルがすこぶるきのはたらもので、みぎよっつの仕事しごといちけているからである。これをぎゃくに、使つかがわのわたしたちからると、ラレルは使つかけが複雑ふくざつ面倒めんどうくさい助動詞じょどうしだということになる。【5】だったらラレルの負担ふたんすこかるくしてやったらどんなものか。わたしたちは、しんそこでこんなふうにかんがえている。もっとえば、ラレルの使つかけは七面倒しちめんどうすぎるからすこ整理せいりして簡便かんべんにしようというわけだ。こういう性向せいこう言語げんご経済けいざい原理げんりしょうする。【6】くち希代きたいなまもの、なにかというとすぐ手抜てぬきしたがるのである。
 同時どうじに、日本語にほんごにはもうひとつ、複雑ふくざつ面倒めんどうなものがあって、それが敬語けいごである。しかもそれはただ複雑ふくざつでめんどうなものであるだけではなく、使つかかたあやまると、人間にんげん関係かんけいこわれてしまうなど、それはもう大変たいへんなことになる。【7】そこで「られる」「きたられる」「きられる」など、正規せいきのラレルに敬語けいご尊敬そんけい)の表現ひょうげんまかせることにした。その一方いっぽうで、とりわけ可能かのう表現ひょうげんをラレルから独立どくりつさせ、つまりラきのレルにして、「れる」「れる」「きれる」という具合ぐあい表現ひょうげんすることにした。【8】日本人にっぽんじんがどこかでだい集会しゅうかいひらいてそう談合だんごうしたわけではないが、自然しぜんにそういうことになったのではないか。……と、まあ、こういうことなのだろうとおもわれる。さらにくわえるなら、ラレルよりレルのほう発音はつおんしやすく簡潔かんけつでもあるので、よく使つか可能かのう表現ひょうげんをレルにしてしまったということもあるかもしれない。【9】いずれにしても、ら言葉ことばみとめるかどうかは、じゅう世紀せいき日本語にほんご重大じゅうだい問題もんだいひとつにはちがいない。というのもだいぶ以前いぜんからこの是非ぜひについては議論ぎろんがあったからである。『じつは、このいいかたは、松下まつしただい三郎さぶろうという、日本語にほんごふか研究けんきゅうした文法ぶんぽう学者がくしゃの『標準ひょうじゅん日本にっぽん文法ぶんぽう』というほんいちきゅうよんねん出版しゅっぱん)にすでに注意ちゅういされています。【0】「おこりキレル」「受ケレル」「らいレル」といういいかたは、「平易へいい説話せつわにのみもちい、厳粛げんしゅく説話せつわにはもちいない」とそのほんにあります。』(大野おおのすすむ
 国語こくご学者がくしゃ神田かんだ寿美子すみこさんによれば、川端かわばた康成やすなりの『雪国ゆきぐに』(いちきゅうさんねん)にも「あそびにこれないわ」というれいがあり、いちきゅうよんさんねん昭和しょうわじゅうはちねん)には「日本語にほんご」という雑誌ざっしに、『「られる」といふべきところを「れる」といふひと相当そうとうおおく、しかも知識ちしきじんいたものにまでしばしばこのやうな用法ようほうあらわれる。たとへば、「けられる」を「けれる」、「じられる」を「じれる」』とくのは遺憾いかんであるという記事きじがでているそうだ。このように、ら言葉ことばは、なが批判ひはんまとになりながらも、しかし次第しだいおお使つかわれるようになってきたのである。たしかに、ら言葉ことば手抜てぬきである。しかしそれには理由りゆうがあった。では、日本語にほんごによってきているもの一人ひとりとして、きみは、ら言葉ことばを、そうなった理由りゆうみとめるのか。こうわれるならば、こたえは言語げんごというものはその本質ほんしつにおいてうんと保守ほしゅてきなものである。そこで、そう簡単かんたんには言語げんご多数決たすうけつ原理げんりだの言語げんご経済けいざい原理げんりだのをれれない。いや、れられないのである。


長文ちょうぶん 4.4しゅう
長文ちょうぶんふたつある場合ばあい読解どっかい問題もんだいよう長文ちょうぶんいち番目ばんめ長文ちょうぶんです。】
 わたしたちはこれまで、時代遅じだいおくれの原始げんしてき素材そざいだとおもっていた。だからそれにあたらしい技術ぎじゅつくわえ、工業こうぎょう材料ざいりょうのレベルにちかづけることが進歩しんぽだとかんがえた。その結果けっか改良かいりょう木材もくざいばれるものが次々つぎつぎされた。それらは従来じゅうらい欠点けってんおぎない、大量たいりょう需要じゅようおうじ、生活せいかつゆたかにするのにおおきく役立やくだってきた。たしかに木材もくざい工業こうぎょう発展はってんしたのである。
 だが一方いっぽう最近さいきんになって、ひとつの疑問ぎもんたれはじめてきたようにおもう。それはというものは自然しぜんかたちのまま使つかったときが一番いちばんよくて、くわえればくわえるほど本来ほんらいのよさがうしなわれていくのではないか、という反省はんせいである。かんがえてみるとそれはたりまえのことだったかもしれない。なんせんまんねんものなが時間じかんをかけて、自然しぜん摂理せつりうように、すこしずつ体質たいしつえながらできあがってきたものだったはずである。自然しぜんで、そのままが最良さいりょうなのである。
 だから構成こうせいする細胞さいぼうひとひとつは、さむいところではさむさにえるように、あめおおいところでは湿気しっけつよいように、微妙びみょう仕組しくみにつくられている。あのちいさな細胞さいぼうなかには、人間にんげん知恵ちえのはるかにおよばない神秘しんぴがひそんでいるとみるべきであろう。それをいだりったり、くっつけたりするだけで、改良かいりょうされるとかんがえたこと自体じたい近代きんだい科学かがくへの過信かしんだったかもしれない。
 あつかってしみじみかんずることは、はどんな用途ようとにもそのまま使つかえるすぐれた材料ざいりょうであるが、その優秀ゆうしゅうせい数量すうりょうてき証明しょうめいすることは困難こんなんだということである。なぜなら、つよさとか、保湿ほしつせいほしつせいとか、遮音しゃおんせいとかいった、どの物理ぶつりてき性能せいのうをとりあげてみても、はほかの材料ざいりょうくらべて、最下位さいかいではないにしても、さい上位じょういにはならない。どれをとっても、中位ちゅうい成績せいせきである。だから優秀ゆうしゅうせい証明しょうめいしにくい、というわけである。
 だがそれは、抽出ちゅうしゅつした項目こうもくについて、一番いちばん上位じょういのものを最優秀さいゆうしゅうだとみなす、項目こうもくべつタテ割たてわ評価ひょうかほうによったからである。いま見方みかたえて、ヨコりの総合そうごうてき評価ひょうかほうをとれば、はどの項目こうもくでも上下じょうげかたよりのないすぐれた材料ざいりょうひとつということになる。木綿もめんきぬ同様どうようで、タテ割たてわ評価ひょうかほうでみていくと最優秀さいゆうしゅうにはならない。しかし「ふうあい」(繊維せんいざわりやかんじ)までふくめた繊維せんい総合そうごうせい判断はんだんすると、これらがすぐれた繊維せんいであることは、じつ専門せんもんのだれもがはだっていることである。そうじて生物せいぶつけい材料ざいりょうというものは、そういう性質せいしつをもつもののようである。
 以上いじょうべたことは、人間にんげん評価ひょうかのむずかしさにもつうずるものがあろう。さんタテ割たてわりの試験しけん科目かもく点数てんすうだけで判断はんだんすることは、危険きけんだという意味いみである。たしかにいま社会しゃかいは、タテ割たてわりのじくった上位じょういひとたちが、指導しどうてき役割やくわりめている。だが実際じっさいなかうごかしているのは、かくじくごとの成績せいせき中位ちゅういでも、バランスのとれたもなきひとたちではないか。あたまのいいじんはたしかに大事だいじだが、バランスのとれたひともまた、社会しゃかい構成こうせいじょうくことのできない要素ようそである。だがいままでの評価ひょうかほうでは、そういうひとたちのよさはかんでこない。おもうに生物せいぶつはきわめて複雑ふくざつ構造こうぞうをもつものだから、タテ割たてわりだけで評価ひょうかすることには無理むりがあるのであろう。

小原おはら二郎じろうこはらじろう
 【1】はなしもともどそう。以上いじょうべてきたように、海牛うみうしるいとクジラるいでははな位置いちがかくのごとちがうのだが、クジラのようにはなあたまのてっぺんにある哺乳類ほにゅうるいはほかにはいない(おそらくほかの動物どうぶつぐんつなこう」でもそうなのかもしれない)。【2】とすれば、(現生げんなまの)クジラの定義ていぎとして、
いち) 哺乳類ほにゅうるいである。
) 一生いっしょうみずなかごす。
条件じょうけんくわえて、
さん) はなあな頭頂とうちょうあたまのてっぺん」に位置いちする。とすれば、クジラ以外いがいにこれに該当がいとうするものはいないことになる。【3】さらにいえば、(さん)は非常ひじょう有力ゆうりょくなキーであるから、()の「一生いっしょうみずなかごす」という定義ていぎがなくても、無事ぶじにクジラるいにまで検索けんさくくのである。(中略ちゅうりゃく
 クジラの体型たいけいをクラシックにまとめると、「紡錘形ぼうすいけいにしてひれじょう前肢ぜんしち、後肢あとあしこうしくがまつせん半月はんつきじょうびれが付属ふぞくする。【4】また、背部はいぶ後半こうはんびれをゆうするものもいる」とでもなる。クジラるい体型たいけいおおかれすくなかれこの字句じく包括ほうかつできてしまうのだが、一方いっぽう、「ちょっとてよ、こりゃ、なにもクジラだけの特徴とくちょうでもねーんじゃねえーか?」という疑問ぎもんがわきおこる。いや、じつにそうなのである。【5】ここでまとめたクジラのからだ基本きほんてき特徴とくちょうは、まさにうみ先輩せんぱいである魚類ぎょるいにもあてはまることなのである。
 著名ちょめい進化しんか学者がくしゃであるハウエルによれば、ホオジロザメ(魚類ぎょるい代表だいひょう)、イクチオザウルス(通称つうしょうぎょりゅう爬虫類はちゅうるい代表だいひょう)そしてバンドウイルカ・ナガスクジラ(クジラるい哺乳類ほにゅうるい代表だいひょう)はいずれも、基本きほん体型たいけい大変たいへん似通にかよっている。【6】これらは、進化しんか系統的けいとうてきにはまったくあか他人たにんのようなものだが、共通きょうつうしているのは、いずれも生活せいかつけんがまったくみずなかにあること、とりわけ一生いっしょうみずなかごすことである。つまり、このような生活せいかつ環境かんきょうゆえにこのからだつきになったということである。【7】このよんしゃ比較ひかくは、学術がくじゅつてきには系統的けいとうてきことなる生物せいぶつ同一どういつ環境かんきょうごすことによって体型たいけいてくる(生物せいぶつ学的がくてき収斂しゅうれん現象げんしょうれいとしてしばしばげられる。
 この収斂しゅうれん現象げんしょうは、自然しぜん科学かがくてきにも人文じんぶん科学かがくてきにも広範こうはん真理しんりをついているようにおもえる。【8】環境かんきょう条件じょうけん見立みたてれば、そらぶためにはとりとコウモリさらに飛行機ひこうき収斂しゅうれんになり、さらにかたち文化ぶんかにたとえれば、のぼりたいという条件じょうけんは、たがいに交流こうりゅうがなくても東西とうざい階段かいだんかたち使つかかたてくるというれいえられる。
 【9】いいかえれば、収斂しゅうれんとは「たがいに独立どくりつして努力どりょくしても、合理ごうりせい追求ついきゅうしてゆくと、結果けっか類似るいじしてくる」ということなのである。
 クジラるいが、一体いったいいつごろみずかいはいったかは依然いぜんとしてなぞおおい。【0】従来じゅうらい最古さいこのクジラであるムカシクジラるいパキセタスの化石かせきあらわれるのがおよそ〇〇〇まんねんまえといわれていたが、近年きんねん発見はっけんされたアンプロケタスの化石かせきは、これを上回うわまわ〇〇まんねんまえ地層ちそうからいだされている。いずれにしても、ためいきるような悠久ゆうきゅうときていることにはわりがない。このあいだには、幾多いくたのクジラの種類しゅるいあらわれてはえていったはずであるが、クジラるいというグループとしてはひたすらたゆまぬ努力どりょくかさねて地球ちきゅうじょうのあらゆるみずかい進出しんしゅつする一方いっぽう地球ちきゅうんだもっと高等こうとう哺乳類ほにゅうるいという生物せいぶつ一族いちぞくでありながら、みずからの記憶きおくすらないとおとお祖先そせんうみだい先輩せんぱい」である魚類ぎょるいしのぐほどにからだえてみずになじんだのである。わたし前段ぜんだんでこだわった「はな位置いち」も、もちろんこの一環いっかんにすぎない。
 クジラるいとは、哺乳類ほにゅうるいでありながら、本来ほんらい生活せいかつからみずかい生息せいそく場所ばしょうつし、そこでの生残いきのこりをたしただけでなく、なおかつ合理ごうりせい追求ついきゅうしているものであり、このような「クジラてきもの」はやはりクジラしかいない。

加藤かとう秀弘ひでひろ編著へんちょ『ニタリクジラの自然しぜん』による)


長文ちょうぶん 5.1しゅう
いち番目ばんめ長文ちょうぶん暗唱あんしょうよう長文ちょうぶんで、番目ばんめ長文ちょうぶん課題かだい長文ちょうぶんです。】
 【1】じゅう空間くうかんをきれいにするには、できるだけ空間くうかんからものをなくすことが肝要かんようではないだろうか。ものを所有しょゆうすることがゆたかであると、ぼくらはいつのにかかんがえるようになった。
 【2】高度こうど成長せいちょうころ三種さんしゅ神器じんぎは、テレビ、冷蔵庫れいぞうこ洗濯せんたく、そのつぎ自動車じどうしゃとルームクーラーとカラーテレビ。戦後せんご飢餓きが状態じょうたい日本人にっぽんじんは、いつしか、ものを率先そっせんして所有しょゆうすることでゆたかさや充足じゅうそくかんめるようになっていたのかもしれない。【3】しかし、かんがえてみると、快適かいてきさとは、あふれかえるほどのものにかこまれていることではない。むしろ、ものを最小限さいしょうげん始末しまつしたほう快適かいてきなのである。なにもないという簡潔かんけつさこそ、たか精神せいしんせいゆたかなイマジネーションをはぐく温床おんしょうであると、日本人にっぽんじんはその歴史れきしとおして、達観たっかんしたはずである。
 【4】慈照寺じしょうじどう仁斎じんさいにしても、かつら離宮りきゅうにしても、からっぽだから清々すがすがしいのであって、ごちゃごちゃと雑貨ざっかやら用度ようどひんやらであふれているとしたなら、てられない。【5】洗練せんれん居住きょじゅう空間くうかんは、簡素かんそにしつらえられ、実際じっさいにこの空間くうかんときも、ものをすくなくすっきりともちいていたはずである。ようのないものは、どんなに立派りっぱでもぞう納戸なんど収納しゅうのうし、実際じっさい使つかうときだけしてくる。それが、日本にっぽんてきらしの作法さほうであったはずだ。
 【6】ものにはそのひとつひとつに生産せいさん過程かていがあり、マーケティングのプロセスがある。石油せきゆ鉄鉱てっこうせきのような資源しげん採掘さいくつはじまる遠大えんだいなものづくりの端緒たんしょさかのぼって、ものは計画けいかくされ、修正しゅうせいされ、実施じっしされてにかたちをなしてくる。【7】さらに広告こうこくやプロモーションが流通りゅうつう後押あとおしをけて、それらは人々ひとびとらしのそれぞれの場所ばしょにたどりく。そこにどれほどのエネルギーが消費しょうひされることだろう。その大半たいはんが、なくてもいいような、雑駁ざっぱくとした物品ぶっぴんであるとしたらどうだろうか。【8】資源しげんも、創造そうぞうも、輸送ゆそうも、電波でんぱも、チラシも、コマーシャルも、それらの大半たいはんが、らしににごりをあたえるだけの結果けっかしかもたらしていないとするならば、これほどむなしいことはない。
 【9】無駄むだものててらしを簡潔かんけつにするということは、家具かぐ調度ちょうど生活せいかつ用具ようぐあじわうための背景はいけいをつくるということである。芸術げいじゅつ作品さくひんでなくとも、あらゆる道具どうぐには相応そうおううつくしさがある。【0】なん変哲へんてつもないグラスでも、しかるべきこおりれてウイスキーをそそげば、めくるめく琥珀こはくしょくがそこにあらわれる。しもいたグラスを優雅ゆうが紙敷かみしきうえにぴしりとける片付かたづいたテーブルがひとつあれば、グラスは途端とたん魅力みりょくす。ぎゃくに、漆器しっきあでやかな漆黒しっこくをたたえて、陰影いんえい礼賛らいさんする準備じゅんびができていたとしても、ものがあふれかえっているダイニングではその風情ふぜいあじわうことはむずかしい。
 つよりもなくすこと。そこにまいのかたちをつくなおしていくヒントがある。なにもないテーブルのうえ箸置はしおきをはいする。そこにはしがぴしりとまったら、らしはすでゆたかなのである。
 (原研げんけん哉「たないというゆたかさ」より)
 【1】島国しまぐに言語げんご特色とくしょくのひとつは、相手あいてたいするおもいやりがとどいていることである。ヨーロッパの言語げんごでは、われとなんじ、おのず対立たいりつ関係かんけいにおいて言語げんご活動かつどうかんがえられるが、島国しまぐに言語げんご日本語にほんごではそういう対立たいりつ関係かんけいはあまり発達はったつしない。【2】そのかわり第一人称だいいちにんしょうにいろいろな形態けいたいができている。「わたしども」とか「手前てまえども」のように、第一人称だいいちにんしょう単数たんすう複数ふくすうかはっきりしないような用法ようほうがあり、それがなんともえないあじわいをもってけとられる。
 【3】ヨーロッパの言語げんご文法ぶんぽうかんがえになれたひとたちからると、いかにも不明瞭ふめいりょうである。もうすこしはっきりさせたほうがいいのではないか。どうして、日本語にほんご主語しゅご不安定ふあんていなのであろう。そういう感想かんそうがもたれ、それがやがて日本語にほんご論理ろんりてきではないのではないかといううたがいにむすびついてく。
 【4】日本語にほんご人称にんしょうをあらわすかたりは、きわめて多様たようで、第一人称だいいちにんしょうなどいつむっつがすぐあたまかんでくる。日常にちじょう使つかっている第一人称だいいちにんしょうでも、ふたつやみっつは使つかけている。相手あいてとの心理しんりてき距離きょり関係かんけいにしっくりうような人称にんしょう使つかうことが必要ひつようだという意識いしきがつよいからであろう。【5】対人たいじん関係かんけいほろ調整ちょうせい感覚かんかく発達はったつしているのだともえる。(ここまで、島国しまぐに言語げんごという表現ひょうげんなんのことわりもなしにもちいてきたが、大陸たいりく言語げんごにくらべておとっているといった含蓄がんちくはまったくない。島国しまぐに大陸たいりく地理ちりてき条件じょうけんしめすものであって、島国しまぐにてき母国ぼこく根性こんじょうといったものとむすびつく形容詞けいようしではないつもりである。以上いじょうねんのため。)
 【6】島国しまぐに言語げんごのもうひとつの特質とくしつは、はなしつうじがたいへんよいということである。ツーといえばカーとくる。おたがいに野暮やぼ人間にんげんはいない、あるいは、いないはずだという前提ぜんていっている。通人つうじん同士どうしのコミュニケイションだということである。【7】通人つうじんというとなにふるくさいかんじがするが、伝達でんたつ理解りかい必要ひつよう情報じょうほうをもっている人間にんげんはすべて通人つうじんである。したがって、われわれはだれでもある場面ばめんでは通人つうじんとしての言語げんご活動かつどうをしているのである。その典型てんけい家族かぞくあいだ会話かいわである。【8】省略しょうりゃくおおい、要点ようてんのみをおさえた言葉ことばのやりとりをしていて、おたがいに理解りかいっている。通人つうじん同士どうしだからである。
 家族かぞく会話かいわというのは、どんな大陸たいりく言語げんご性格せいかくのつよい社会しゃかいでも通人つうじんてき、したがって島国しまぐに言語げんごてきなものである。【9】ただ、日本語にほんごは、普通ふつう家族かぞくあいだおこなわれるような言語げんご活動かつどう様式ようしき親密しんみつ集団しゅうだん範囲はんいをこえてひろみとめられるのである。
 それでは島国しまぐに言語げんごがなぜ通人つうじん社会しゃかいになるのか。家族かぞく会話かいわ第三者だいさんしゃにはまるではんじもののようなやりとりをしておりながらなぜ意思いし疎通そつうができるのか。【0】そういうことが問題もんだいになるであろう。
 言語げんごには冗語じょうごせいというものがある。ひとくちにいうと言葉ことばなかふくまれる必要ひつよう蛇足だそくである。どんな言語げんごでも必要ひつようにして充分じゅうぶんなことだけしか表現ひょうげんしていないことはありない。ひゃく必要ひつようりょうだとすると、表現ひょうげんひゃくじゅうひゃくはちじゅうもの情報じょうほうをもっている。だから、はそのなかからひゃくだけを理解りかいすればよい。のこりの部分ぶぶん蛇足だそくであるが、これがないと相手あいてっていることが中途ちゅうとでわからなくなったりする危険きけんがある。(中略ちゅうりゃく
 このように、とき場合ばあいによって、蛇足だそく部分ぶぶんをふやしたり、らしたりということをほとんど無意識むいしきっている。相手あいてみみたっするまでにロスがおおいとおもえば冗語じょうごせいたかめるし、確実かくじつつたわる自信じしんをもっているときには、低音ていおんはなしたり、省略しょうりゃくおお表現ひょうげんをとったりして冗語じょうごせいをすくなくする。冗語じょうごせいのすくない典型てんけいてきなケースがすでにのべた家族かぞくあいだはなしである。
 日本語にほんご島国しまぐに言語げんごである。島国しまぐに言語げんごというのは極端きょくたんないいかたをすると、家族かぞく同士どうし会話かいわ社会しゃかい全体ぜんたいでもやっているような言語げんごのことで、当然とうぜん冗語じょうごせいはすくなくてよい。島国しまぐに言語げんご社会しゃかい冗語じょうごせいがすこし普通ふつうよりたかくなると、すぐ、くどいとかうるさいとか理屈りくつっぽい、野暮やぼというような消極しょうきょくてき反応はんのう誘発ゆうはつする。通人つうじん社会しゃかいである。大人おとなはなるべく冗語じょうごせいのすくない言葉ことばもちいるようにらずらずかたむいている。
 大陸たいりく言語げんご社会しゃかいでは冗語じょうごせいをあまりすくなくすると、ごく親密しんみつ関係かんけいひととのあいだならともかく、相手あいて誤解ごかいされたり、了解りょうかい不能ふのううったえられたりするから、ていねいな表現ひょうげんをしなくてはならない。ヨーロッパなかでもドイツがいちばん冗語じょうごせいたかいということであるが、われわれがドイツ論理ろんりてきなんとなく理屈りくつっぽいとかんじているのはこの冗語じょうごせいたかさと無関係むかんけいではないようにおもわれる。
外山とやましげるいにしえとやましげひこ日本語にほんご論理ろんり」より)


長文ちょうぶん 5.2しゅう
 【1】こればかりは自分じぶん体験たいけんするしかないが、方法ほうほうはないわけではない。
 だいいちにはたびをすることだ。地球ちきゅうじょうにはまだ浪費ろうひ文明ぶんめいおかされずむかしながらの素朴そぼく生活せいかついとなんでいるところがいくつもある。【2】アジア、アフリカのいわゆるだいさん世界せかいけばいまだそれがふつうのらしかただし、またアイルランドやメキシコやニュージーランドにたっぷりとそういうらしぶりがのこっている。わたしはそういう土地とちき、そのかたになじむことで、自分じぶんきている日本にっぽんだい都会とかいせいがいかにはん自然しぜん人工じんこうてきなものかをった。【3】と同時どうじかれらのそのなまのほうがいかに人間にんげんらしく、自然しぜん調和ちょうわしているかをあじわった。そのほうが効率こうりつてき生産せいさんもとめてあわただしい日本にっぽんいま生活せいかつよりずっと上等じょうとうなまだと痛感つうかんしたのだった。
 そこでなによりおもらされたのは、人間にんげんきていくうえでなんとわずかのものりるかということだった。【4】われわれが生活せいかつ必需ひつじゅひんのごとくおもいなしているさまざまな文明ぶんめい利器りきなどなくても人間にんげんきていけるのである。むしろそんなものなしに自然しぜんなかいたほうが、どれほどこん自分じぶんきてあることをしみじみとかんじるかもしれないのであった。
 【5】オーストラリアの原住民げんじゅうみん、アボリジニの一人ひとり東京とうきょうたときビルのくち自動じどうドアにおどろき、「なんでこんなものが必要ひつようなのか。ドアなどであければいいではないか」とったという。われわれはそういうおもいがけぬ指摘してきでふだんの生活せいかつがいかにムダなものでめられているかをおもらされるのである。
 【6】だいに、それよりもっと簡単かんたん方法ほうほうは、日本にっぽん文化ぶんか伝統でんとうなかからそういうシンプル・ライフを実践じっせんしたひとさがし、そのなまとわが現在げんざいとを比較ひかくしてみることだ。
 西行さいぎょう鴨長明かものちょうめい兼好けんこう法師ほうしいけ大雅たいが芭蕉ばしょう良寛りょうかんりょうかん等々とうとうさがすにもおよばぬくらいそういうかたをした人物じんぶつがわがくににはあって、むしろかれらこそがこのくに文化ぶんかをつくりしたとおもわれるほどだ。
 【7】そのなか一人ひとり前述ぜんじゅつした良寛りょうかんりょうかんをとってみれば、かれはおそろしいほど無一物むいちもつせいおくった。草庵そうあんみ、しょくは、乞食こじきにより、ころもている黒衣くろごひとつという極限きょくげん単純たんじゅんさにきた。【8】が、かれうたしょれば、このもっとまずしいせいえらんだこの人物じんぶつしんのうちがいかにゆったりとり、きているいちにちまたいちにち感謝かんしゃおもいできていたかがわかる。それをると、かれなにももたなかったにもかかわらずなぜこんなにゆたかな気持きもちできられたのだろうと、ふしぎながするくらいである。
 【9】くさあんさしのべて小山田おやまだ
 山田やまだのかはづくがたのしさ
 むらぎものしんたのしもはる
 とりのむらがりあそぶをれば
 ともに、ただとりあそかえる無心むしんくのをくというだけのうただが、単純たんじゅん充実じゅうじつし、良寛りょうかんりょうかんしん自然しぜんかってひらけ、とりかえるこえがそのしん世界せかいにこのうえない幸福こうふくかんあたえていることがわかる。【0】良寛りょうかんりょうかんおそれるべき単純たんじゅん生活せいかつをしながら、しんはこれだけ充実じゅうじつしていたのだ。これをると、これほど徹底てっていしてすべてをてたシンプル・ライフだったからこそ、これだけ自由じゆうでゆたかなしんになれたのかとおもわれるほどである。
 ――ひときるためにいったいなに必要ひつようとし、なに必要ひつようとしないか。(中略ちゅうりゃく
 そういう根源こんげんてき疑問ぎもんまえ自分じぶんたせてみるとき、自分じぶんたちがいかに文明ぶんめい提供ていきょうする便利べんり快適かいてき誘惑ゆうわくによって余計よけいなものをおおくもたされているか、それらぶつ過剰かじょうによってなまそのものをえなくしているかをらされるのである。すくなくともわたしは良寛りょうかんりょうかんやそういうかたをしたむかし日本人にっぽんじんなま自分じぶん現在げんざいとをくらべることによって、はじめて自分じぶんかれている立場たちばることができたのであった。
 その結果けっかわたしはクルマの所有しょゆう維持いじめ、テレビをず、クーラーのない、むろん携帯けいたい電話でんわだのワープロだのと無縁むえんな、物質ぶっしつ文明ぶんめい社会しゃかいなかであたうかぎりその恩恵おんけい拒否きょひするひねくれしゃらしをいとなむにいたったが、それで満足まんぞくしているのである。


長文ちょうぶん 5.3しゅう
 【1】ちちちちでなくなっている。ちちちち役割やくわりたしていない。家族かぞく統合とうごうし、理念りねんかかげ、文化ぶんかつたえ、社会しゃかいのルールをおしえるというちち役割やくわりえかけている。その結果けっか家族かぞくはバラバラになっていわゆる「ホテル家族かぞく」となり、善悪ぜんあく感覚かんかくのない人間にんげん成長せいちょうし、全体ぜんたいてき視点してんのない利己りこてき人間にんげん無気力むきりょく人間にんげんえている。
 【2】ちちとしての役割やくわりは、立派りっぱちちでないとたすことができない。立派りっぱでないちち家族かぞく統合とうごうしようとし、理念りねんかかげても、家族かぞくから無視むしされるだけである。立派りっぱちち必要ひつようとされているのに、しかしその立派りっぱちちそだちにくいのが現代げんだい社会しゃかいである。【3】そもそも「立派りっぱ」などというものが流行はやらないなかなのだ。みずからの欲望よくぼうをコントロールし、全体ぜんたい将来しょうらいかんがえてリーダーシップをとり、かく成員せいいん調停ちょうていをしてりまとめ、ルールをおしえるという「立派りっぱな」人格じんかくは、尊敬そんけい対象たいしょうにはなりにくい。【4】「正直しょうじき」だの「誠実せいじつ」だのという抽象ちゅうしょうてき徳目とくもくとくもくとなえる父親ちちおやは、どもたちからけむたがられる。あまり立派りっぱでない、むしろだらしのないくらいの父親ちちおやのほうがしたしまれることになる。「ありのまま」がよいとされ、「立派りっぱ」なのは無理むりしているとられ、不自然ふしぜんだとみなされる。
 【5】ちちでなくなったちち典型てんけいが「ともだちのような父親ちちおや」である。かれらは上下じょうげ関係かんけい意識いしきてきててしまった。価値かちかんしつけることは絶対ぜったいにしない。どもの自主じしゅせいおもんじてけっして強制きょうせいはしない。なにをするのも自由じゆう放任ほうにんである。【6】しかしそういう父親ちちおやどもは「自由じゆう意志いし」をつようにはなるが、「よい意志いし」をつようにはならない。精神せいしんりょくがなく無気力むきりょくになりがちなので簡単かんたん登校とうこうになったり、ぎゃくにわがままになると「いじめ」にはしったりする。
 【7】いじめっ出来できかたは、わがままいぬ出来できかたによくている。ぬしうことをきかないわがままいぬは、ぬし自由じゆう放任ほうにんでルールをおしえなかったためにまれるのである。いぬ意志いし尊重そんちょうして、いぬ要求ようきゅうなんでもきいてやっていると、いぬ自分じぶん主人しゅじんだとおもって自由じゆう意思いしち、勝手かって要求ようきゅうをして、やたらとえるようになる。【8】ぬしちちとして原則げんそく理念りねん生活せいかつ規則きそくおしえ、一定いってい我慢がまんをすることをおしえないと、どもでもいぬでもおなじようにわがままにそだってしまうのである。
 「ともだちのような父親ちちおや」は、じつはちちではない。ちちとはどもに文化ぶんかつたえるものである。つたえるとはある意味いみでは価値かちかんしつけることである。【9】自分じぶんしん価値かちあるとおもった文化ぶんかおしむのがちちもっと大切たいせつ役割やくわりである。上下じょうげ関係かんけいがあり、権威けんいっていてはじめてそれができる。しかし対等たいとう関係かんけいでは、文化ぶんかつたえることも、生活せいかつ規則きそく社会しゃかい規範きはんおしえることもできない。「ものかりのいい父親ちちおや」はちち役割やくわりたすことのできなくなったちちうべきである。【0】

はやし道義みちよし父性ふせい復権ふっけん」より)


長文ちょうぶん 5.4しゅう
長文ちょうぶんふたつある場合ばあい読解どっかい問題もんだいよう長文ちょうぶんいち番目ばんめ長文ちょうぶんです。】
 はるになると、隣家りんかにわしろはく木蓮もくれん一斉いっせいはなひらく。その姿すがた薄闇うすやみなかながめるのがいちばんうつくしい。しかし、いまきたいのは隣家りんかではない。身近みぢかはなうつくしさによってされたような、もう一本いっぽんのことである。
 ある午後ごご階下かいか西向にしむきのまどからぼんやりがいていた。そのころまだわが西側にしがわ建物たてものはなく、ぞいのみちへだててかなりとおくまでの景色けしきたのしめた。ふとがつくと、みちこうのいえ庭木にわきあいだから一本いっぽんしろ樹木じゅもくがっている。いや、満身まんしんしろはなかざったたけたかびこんできたのだ。そのいえにわにあるではない。さらとおくにっているものが庭木にわきごしにのぞまれたのだ。おそらく、以前いぜんからそこにあったのだろう。ただ純白じゅんぱくはなをまとうまで、こちらがづかなかっただけにちがいない。白木蓮はくもくれんはくもくれんにしては、たけすこたかすぎる。しかし辛夷こぶしこぶしにしては、あまりにはなおおぶりで全体ぜんたいつつみすぎている。いえものたずねても、そのるのははじめてであり、どのあたりにえているのか見当けんとうがつかぬという。まるで突然とつぜん出現しゅつげんしたかのような、しろえるうつくしいだった。
 つぎも、つぎつぎも、おなじようにっていた。というより、さらしろかがやきをまして西にしまどがいさそった。ついにたまらなくなっていえた。えきとは反対はんたい方角ほうがくなので、平素へいそはあまりあしはこばないあたりである。あるすとすぐに相手あいてえなくなった。みちからではちかくのいえ庭木にわきがじゃまをするからだ。はじめはえきへとかい、つぎ右折うせつかさねてもう一本いっぽんさきみちへとまがってみた。わがからのかたからすれば、そのみち左右さゆういずれかにあるはずだ。最初さいしょ、とうとう発見はっけんすることはできなかった。かえって西側にしがわ窓辺まどべつと、はくっきりとくもぞら背景はいけいにたたずんでいるのだった。
 翌日よくじつ度目どめ探索たんさくにおもむいた。そして前日ぜんじつおなどう右側みぎがわに、かいかべかくれるようにしてはなかせているおおきな白木蓮はくもくれんはくもくれんつけした。そしてひどくがっかりした。ちかくにそれらしいはないので間違まちがいないとおもわれるのに、角度かくどことなるためか、相手あいてまどからながめたときのような気高けだかうつくしさをたたえてはいなかった。こんなことならさがしさなければよかった、といたく後悔こうかいした。
 それからあいだもなく、いえてられて西向にしむきのまどからのながめをうばった。とお白木蓮はくもくれんはくもくれんはわが視界しかいからうしなわれた。そのはいま、ぼくのなかだけに一年中いちねんじゅうしろはなかせてひっそりとっている。

黒井くろい千次せんじくろいせんじじゅうだい落書らくがき」)
 【1】じっさい、ほかのくに言葉ことば日本語にほんごほど多様たようみず表現ひょうげんをもっているれいはないといってもいいのではあるまいか。だから、さきの蕪村ぶそん外国がいこく翻訳ほんやくするのは至難しなんなのである。たとえば英語えいごやドイツフランス語ふらんすごで「のたりのたり」をどのように表現ひょうげんしたらいいのだろう。【2】わたしはさんざん苦労くろうしたあげく、ついにこの外国がいこく知人ちじん説明せつめいなかった。
 「のたりのたり」だけではない。みずについてのオノマトペは、そのほとんどが翻訳ほんやく不可能ふかのうである。たとえば、文部省もんぶしょう唱歌しょうかの「はる小川おがわはさらさらながれる」の「さらさら」は、どうやくしたらいいのか。【3】おとぎばなし桃太郎ももたろう』でかたられているあの「ドンブラコッコ、スッコッコ」をなん表現ひょうげんしたらいいのか。野口のぐち雨情うじょう童謡どうよう「ドンとなみ ドンとて ドンとかえる」をどんなふうにいいかえたらいいのか。
 みずぬのなどをあらおとは「ざぶざぶ」であり、なみだながれる様子ようすは「さめざめ」であり、【4】水気みずけをふくんださまは「しっとり」であり、それがそとににじむほどであれば「じっとり」であり、湿気しっけ過度かどであれば「じめじめ」であり、みずえずなが状態じょうたいは「じゃーじゃー」であり、みずうご様相ようそうは「じゃぶじゃぶ」であり、水滴すいてきれるおとは「ぽたぽた」であり、【5】みずねる有様ありさまは「ぴちゃぴちゃ」であり、みずにひどくれる形容けいようは「びしょびしょ」であり、みずなにかがけいそうにかんでいるのは「ぷかぷか」、みずしずむさまは、「ぶくぶく」、あめすのは「ぽつぽつ」、水中すいちゅうからあわかびあがるのは「ぼこぼこ」、みず一気いっきすさまは「がぶがぶ」、【6】みずなにかにまれるおとは「ごぼごぼ」、そして、大波おおなみは「とどろ」にせ、たきは「ごうごう」とち、いし水中すいちゅうに「どぶん」としずみ、みずは「ばちゃっ」とねかえり、夕立ゆうだちは「ざーっ」とおそい、梅雨つゆは「しとしと」とりつづく。
 ああ、なんと多彩たさいみず表現ひょうげんであろうか!
 【7】だが、こうした多彩たさいなオノマトペは、同質どうしつ社会しゃかいでこそ微妙びみょう伝達でんたつ機能きのう発揮はっきできるが、異質いしつ風土ふうど異質いしつ文化ぶんかのなかにひとにはさっぱりつうじない。なぜなら、擬声語ぎせいご擬態語ぎたいごというのは、あくまで感覚かんかくてき言語げんごであって、言語げんご重要じゅうよう性格せいかくである抽象ちゅうしょうせいをもたないからだ。
 【8】したがって、感覚かんかくてきにわかるこれらの言葉ことば意味いみ説明せつめいするとなると――とたんにきづまってしまう。オノマトペは、いわば音楽おんがくなのであり、その意味いみをつたえることのむずかしさは音楽おんがくあたえるイメージを言語げんご解説かいせつする困難こんなんさとおなじだといってよい。【9】この意味いみ擬声語ぎせいご擬態語ぎたいご言葉ことば本質ほんしつともいうべき抽象ちゅうしょうりょくていつぎ言葉ことばだといえなくもない。しかし、言語げんごがその抽象ちゅうしょうりょくをもって伝達でんたつ領域りょういきには限界げんかいがある。人間にんげん言語げんごは、しょせん万能ばんのうではないのだ。【0】
 もし言語げんごがこの世界せかいのすべてを表現ひょうげんしつくせるものなら、言葉ことばさえあればなにもかも理解りかいできてしまうだろう。しかし、そうはいかない。そうはいかないからこそ、言葉ことばではいいあらわせないべつ表現ひょうげん人間にんげんかんがしてきたのだ。たとえば絵画かいがであり音楽おんがくである。セザンヌのを、あるいはモーツアルトの音楽おんがく言葉ことばにそっくりきかえるなどということができるであろうか。わたしはオノマトペを言語げんご音楽おんがくとの接点せってんとしてかんがえる。それは人間にんげん感性かんせい音声おんせいそのものによって表現ひょうげんしようとする伝達でんたつ手段しゅだんだからだ。したがって、擬声語ぎせいご擬態語ぎたいごはきわめて微妙びみょう感性かんせい表現ひょうげんるかわりに抽象ちゅうしょうせいき、普遍ふへんせい犠牲ぎせいにせざるをない。オノマトペはあくまでかぎられた言語げんご内輪うちわ言葉ことばという宿命しゅくめいをもつのである。

森本もりもと哲郎てつろう日本語にほんご ひょううら』の文章ぶんしょうによる)


長文ちょうぶん 6.1しゅう
いち番目ばんめ長文ちょうぶん暗唱あんしょうよう長文ちょうぶんで、番目ばんめ長文ちょうぶん課題かだい長文ちょうぶんです。】
 【1】単調たんちょう荒涼こうりょう砂漠さばくくにには一神教いっしんきょうまれるとったひとがあった。日本にっぽんのような多彩たさいにして変幻へんげんきわまりなき自然しぜんをもつくに八百万やおよろずやおよろずかみ々がまれ崇拝すうはいされつづけてたのは当然とうぜんのことであろう。やまかわひとひとつがかみでありひとでもあるのである。【2】それをあがめそれにしたがうことによってのみ生活せいかつ生命せいめい保証ほしょうされるからである。また一方いっぽう地形ちけい影響えいきょう住民じゅうみん定住ていじゅうせい土着どちゃくせい決定けっていされた結果けっかいたるところの集落しゅうらく鎮守ちんじゅしゃもりてさせた。これも日本にっぽん特色とくしょくである。
 【3】仏教ぶっきょうとお土地とちから移植いしょくされてそれが土着どちゃく発育はついく持続じぞくしたのはやはりその教義きょうぎ含有がんゆうするいろいろの因子いんし日本にっぽん風土ふうど適応てきおうしたためでなければなるまい。おもうに仏教ぶっきょう根底こんていにある無常むじょうかん日本人にっぽんじんのおのずからな自然しぜんかんあい調和ちょうわするところのあるのもそのひとつの因子いんしではないかとおもうのである。【4】鴨長明かものちょうめい方丈ほうじょう引用いんようするまでもなく地震じしん風水ふうすい災禍さいか頻繁ひんぱんでしかもまった予測よそくがた国土こくどむものにとっては天然てんねん無常むじょうとおとお祖先そせんからの遺伝いでんてき記憶きおくとなって五臓六腑ごぞうろっぷにしみわたっているからである。
 【5】日本にっぽんにおいて科学かがく発達はったつがおくれた理由りゆうはいろいろあるであろうが、ひとつにはやはり日本人にっぽんじん以上いじょうべきたったような自然しぜんかん特異とくいせい連関れんかんしているのではないかとおもわれる。あめのない砂漠さばくくにでは天文学てんもんがく発達はったつしやすいが多雨たうくにではそれがさまたげられたということもかんがえられる。【6】まえにもべたように自然しぜんめぐみがとぼしいわりに自然しぜん暴威ぼういのゆるやかなくにでは自然しぜん制御せいぎょしようとする欲望よくぼうこりやすいということもかんがえられる。まった予測よそくがた地震じしん台風たいふう鞭打むちうたれつづけている日本人にっぽんじんはそれら現象げんしょう原因げんいん探究たんきゅうするよりも、それらの災害さいがい軽減けいげん回避かいひする具体ぐたいてき方策ほうさく研究けんきゅうにその知恵ちえかたむけたもののようにおもわれる。【7】おそらく日本にっぽん自然しぜん西洋せいようりゅう分析ぶんせきてき科学かがくまれるためにはあまりに多彩たさいであまりに無常むじょうであったかもしれないのである。
 【8】現在げんざい意味いみでの科学かがく存在そんざいしなかったとしても祖先そせんから日本人にっぽんじん日常にちじょうにおける自然しぜんとの交渉こうしょういま科学かがくからても非常ひじょう合理ごうりてきなものであるということは、たとえば日本人にっぽんじん衣食住いしょくじゅうについて前条ぜんじょう例示れいじしたようなものである。その合理ごうりせいを「発見はっけん」し「証明しょうめい」する役目やくめ将来しょうらい科学かがくしゃのこされた仕事しごと分野ぶんやではないかというもするのである。
 【9】ともかくも日本にっぽん分析ぶんせき科学かがく発達はったつしなかったのはやはり環境かんきょう支配しはいによるものであって、日本人にっぽんじん頭脳ずのう低級ていきゅうなためではないということはたしかであろうとおもう。その証拠しょうこには日本にっぽん古来こらい知恵ちえ無視むしした科学かがくだいはじをかいたれいかぞえればかぞれないほどあるのである。【0】

 「日本人にっぽんじん自然しぜんかん」(寺田てらだ寅彦とらひこ

 【1】ノンフィクションのは、るものをうつそうとし、フィクションのは、らしめるためにつくろうとする。
 たとえば、さきにあげた「『事実じじつ』の呪縛じゅばくえるもの」という座談ざだんかいなかで、小説しょうせつである加賀かが乙彦おとひこは、実在じつざい人物じんぶつをモデルにした小説しょうせついかりのないふね』をくという体験たいけんそくして、つぎのようにかたっている。
 【2】『……最初さいしょ収集しゅうしゅうした事実じじつ一応いちおうふまえて、それほど逸脱いつだつしたことはけないけれども、登場とうじょう人物じんぶつ心理しんりとか家族かぞく関係かんけいとかんだ様子ようすとかってのは、全部ぜんぶ事実じじつちが完全かんぜんなフィクションになってきたんですね。そのほう実在じつざい来栖くるすりょうさんという青年せいねん真実しんじつちかいのだろうということなんです。(中略ちゅうりゃく)【3】むかし、アンドレ・ジイドが「フィクションのほう真実しんじつで、ノンフィクションは真実しんじつからとおざかるだけだ」とってますけど、ぼくおなじようなかんがえで、フィクションがおおければおおいほど真実しんじつちかづいていくっていう経験けいけん今度こんどしましたね』
 【4】ここには、フィクションのの、つくるということの絶大ぜつだい自信じしんと、あえていえばおごりが、おどろくほど率直そっちょく表明ひょうめいされている。たしかにつくるということをみとめるならはなし簡単かんたんだ。【5】他人たにんというものはついに、理解りかいすることはできないのではないか、という苛立いらだちからもだっせ、事実じじつかく到達とうたつできないのではないかという絶望ぜつぼうからもはなたれる。自分じぶんたけった「真実しんじつ」とやらにも接近せっきんできるだろう。【6】しかし、想像そうぞうりょくによる事実じじつ改変かいへん細部さいぶ補強ほきょうという方法ほうほうは、記録きろくというものには限界げんかいがあるのではないかといういへのこたえにはなりえない。記録きろく、ここではノンフィクションだが、それはつくらぬという約束やくそくうえっているジャンルの文章ぶんしょうなのだ。それをスポーツにおけるルールとかんがえてもよい。【7】サッカーが使つかわないことによってラグビーとことなる緊張きんちょうかんすように、ノンフィクションも恣意しいてき想像そうぞうりょく行使こうししないということで『らしめる』というたたかいを免除めんじょされ、『る』ということによってささえられているちから付与ふよされているのだ。
 【8】ここまできて、ようやくノンフィクションには限界げんかいがあるのではないかといういにまとわりついているきりがうっすらとだがれていくようにかんじられる。つまり、限界げんかいがあるのは当然とうぜんではないか、という地点ちてん辿たどりつくのである。【9】そこに一定いっていのルールがある以上いじょう可能かのうなことにはかぎりがある。全能ぜんのう文章ぶんしょうのスタイルといったものをもとめることが無理むりなのだ。とすれば、もっと大事だいじなことは、ノンフィクションにはなに可能かのうなに不可能ふかのうかの境界きょうかい見極みきわめることのはずである。【0】
 ノンフィクションのライターにできることは、事実じじつ断片だんぺん収集しゅうしゅうすることでしかない。加賀かが乙彦おとひこのいう「真実しんじつ」とやらに到達とうたつすることは不可能ふかのうであり、事実じじつかくといったものをすこともできない。だが、それでどうしていけないことがあろう。断片だんぺん断片だんぺんのあいだはついにうずまらない。わかることもあり、わからないこともある。それをそのまま提出ていしゅつしてどうしていけないか。いや、むしろそのほうが、『る』ものとしての事実じじつ質感しつかんおおきさをくっきりとつたえることになるのではないか。事実じじつ断片だんぺん断片だんぺんとして提出ていしゅつする。しかし、その断片だんぺんえらかた提出ていしゅつ仕方しかたに、の「人間にんげん」がじりってしまわないか、といういかけがあった。それにたいしても、そのとおりとみとめることでしかこたえつからない。「人間にんげん」の混入こんにゅう不可避ふかひである。それはこのまんにんみとめる唯一ゆいいつ無二むに絶対ぜったいてき事実じじつがあるのではなく、個人こじんにとっての事実じじつしかないという立場たちば承認しょうにんすることでもある。つまり、ノンフィクションとは、事実じじつ断片だんぺんによる、事実じじつかんするひとつの仮説かせつにすぎないのだ。

沢木さわきこう太郎たろうこうたろう文章ぶんしょうによる)


長文ちょうぶん 6.2しゅう
 【1】ひゃくねん以上いじょう家具かぐ使つかったというれいべつにめずらしくはない。イギリスだけではなく、中国ちゅうごくでも日本にっぽんでも代々だいだいそのいえつたわる家具かぐというものがあった。使つかかたさえ間違まちがえなければ、家具かぐにとってひゃくねんというのは、むしろみじか時間じかんえる。【2】またかなりあらっぽく使つかってもそう簡単かんたんにはこわれはしない。最悪さいあく場合ばあいでも、無垢むく天然てんねん使つかっていれば、ほんのすこ修理しゅうりしたらまた使つかえる。東京とうきょう新宿しんじゅくに「ダグ」という喫茶店きっさてんがあるが、そのなか使つかわれている家具かぐさんひゃくねん以上いじょうまえのがかなりある。【3】そして、毎日まいにち毎日まいにち、いろいろなタイプのひと使つかいつづけているのに、いまでもまったく問題もんだいがない。それどころか、永年えいねん使つかいつづけたあじわいはますますふかまっている。
 それにくらべたら、くるま家電かでん製品せいひんはほとんどのものがじゅうねん以内いない寿命じゅみょうである。【4】そして、じゅうねん使つかいつづけたのちは、ほとんどの場合ばあいてつくずの価値かちしかない。ところが、オーク・ヴィレッジ家具かぐは、ほぼくるまいちだいで、いえ必要ひつよう不可欠ふかけつなものがそろう。そして、じゅうねんたってもまず価値かちがるということがない。【5】いや、家具かぐはむしろじゅうねんぐらい使つかんだほうがよくなる。こうしてみると、無垢むく天然てんねん使つかったしつたか家具かぐひゃくねん使つかうとなれば、それはくるま家電かでん製品せいひんよりなんばいやすく、かつ生活せいかつ快適かいてきにするのに効果こうかがあるということが納得なっとくできる。
 【6】経済けいざいめんからかんがえた効果こうかは、のところ「ひゃくねん使つか家具かぐ」のもっとも重要じゅうよう要素ようそではない。無垢むくでできたしつたかい、テーブルやデスクや書棚しょだな生活せいかつなかれてみると、人間にんげん意識いしきわるのだ。うすっぺらな合板ごうはんごうばん無垢むく天然てんねん存在そんざいかんちがう。【7】そして、たん迫力はくりょくがあるだけでなく自然しぜん素材そざい特有とくゆうあたたかさとやわらかさで、わたしたちをれてくれる。だから、うまくその家具かぐうのはむつかしいことではない。たとえば、いテーブルのうえでは、自然しぜん毎日まいにち食事しょくじをより大切たいせつあじわうようになる。【8】わたしたちのまえにある食物しょくもつとなっている自然しぜんめぐみに素直すなお感謝かんしゃしながらべられるのも、無垢むくのテーブルだからこその効果こうかだ。会社かいしゃ会議かいぎでも、せせこましいことで腹立はらたてているひとに、なるべくひゃくねん木目もくめからのメッセージをとどけるようにしてみよう。【9】本物ほんもの使つかい、本物ほんものつくかたをした家具かぐは、本物ほんもの人間にんげんそだてるようになる。ひゃくねん木目もくめは、いまだ未熟みじゅくわたしたちを、ひかだが確実かくじつにしっかり応援おうえんしてくれるはずだ。そして、家具かぐ対話たいわしながらの日々ひびは、ほんのすこしずつだが、わたしたちの意識いしきえていってくれる。【0】
 本物ほんもの家具かぐながおうとおもうと必然ひつぜんてきじゅういち世紀せいき問題もんだいとなる。「子供こども後輩こうはいをどうそだてるか」が結局けっきょくじゅういち世紀せいきをどうそだてるか」にむすびつく。じゅういち世紀せいきにな人間にんげんたちの基礎きそをどうつくるかはきわめて大切たいせつ問題もんだいであり、かつきわめてむつかしい問題もんだいである。現在げんざいのところ、日本にっぽんおおやけ教育きょういくは、いま時代じだい錯誤さくごの「工業こうぎょう時代じだい生産せいさん様式ようしき」でもって、応用おうようりょくのないひよわなマニュアル人間にんげんつくりつづけている。人類じんるいだい変動へんどうにあって、こんなことではさきおもいやられる。また、まわりが、やすっぽい工業こうぎょう製品せいひんであふれていたためか、若者わかもの興味きょうみやすっぽくうすっぺらなものばかりに集中しゅうちゅうしている。このままでは、世界せかい全体ぜんたい刹那せつな主義しゅぎはしるか、安直あんちょくなカルトにはしるかになってしまう。
 そんな不安ふあんえようとしたとき、そう簡単かんたん特効薬とっこうやくつからない。即効そっこうせいくすりもとめること自体じたいが、ミイラりのミイラ現象げんしょうなのだから。そこではやはりすぐには効果こうかがなくても、ジワリジワリとそれでいてしんそこふかくにいち自然しぜんこえがしみとおっていくような方法ほうほうがよい。わたしは、ここでも「ひゃくねん使つかえるひゃくねん木目もくめをもった家具かぐ」こそ、無言むごんだが、もっとも説得せっとくりょくがある対話たいわ相手あいてのようにおもえる。「無垢むく学習がくしゅうつくえ子供こどもったら、子供こども生活せいかつ態度たいどわった。」という報告ほうこくも、なんけている。わか素直すなお感性かんせいがあれば、ひゃくねん以上いじょうもある木目もくめから、じゅういち世紀せいきまつまでもすえた遠大えんだい深遠しんえんなメッセージを、きっとみとれるはずだ。
 なにしろというものは、たねから発芽はつがしてすうひゃくねんからすうせんねんきる生命せいめいりょく基本きほんてきにはそなえている。そういう基本きほんてき生命せいめいりょく人間にんげん年輪ねんりんからかんるだけでも意味いみあることだ。しかし、さらに重要じゅうようなことは、はその生命せいめい持続じぞくしていたあいだ、すなわちみずからのからだすこしずつおおきくするという生産せいさん活動かつどうをしているあいだ、まわりの環境かんきょうりょうすることはあっても、悪化あっかすることはまったくないということだ。これは人間にんげん筆頭ひっとうとする動物どうぶつには、絶対ぜったいられないことであり、このかたこそ、じゅういち世紀せいきという環境かんきょう世紀せいきのためにもぜひとも我々われわれ人間にんげんはまなぶべきだろう。


長文ちょうぶん 6.3しゅう
 【1】「科学かがくにおける発想はっそう論理ろんり」というはなしになると、いつもむかしやったハバチの研究けんきゅうのことをおもす。もうさんじゅうねんほどまえのことだが、マツノキハバチ(まつ黄葉こうようはち)というハバチに興味きょうみをもった。
 欧州おうしゅう研究けんきゅうしゃによると、このハバチはとしによってだい発生はっせいしたり、ごくわずかな個体こたいすうしかあらわれなかったりする。【2】ふゆがあまりさむくないと、冬眠とうみん休眠きゅうみん)している幼虫ようちゅうおおくが休眠きゅうみんからさめられず、おやになれないままもういちねんふゆしてしまう。年々ねんねん休眠きゅうみん幼虫ようちゅうがたまっていき、たまたまふゆさむかったとしにそれが全部ぜんぶまとまってしんバチになってだい発生はっせいするからだというのである。
 【3】日本にっぽんにもおなしゅとされているマツノキハバチが、高山たかやまのハイマツたいにいるという。そこで中央ちゅうおうアルプスにのぼり、高度こうどせんひゃくメートル付近ふきんえているハイマツにいる幼虫ようちゅうをつかまえてて、大学だいがく研究けんきゅうしつ飼育しいくはじめた。【4】飼育しいく温度おんどは、普通ふつう昆虫こんちゅう実験じっけん常識じょうしきてきもちいられる摂氏せっしじゅうとした。幼虫ようちゅうたちはハイマツのをもりもりべて、元気げんきそうだった。
 ところがである。二日ふつかには半分はんぶんちかくの幼虫ようちゅうに、三日みっかには大半たいはんが、四日よっかにはのこっているものはいなくなっていた。【5】こうしてこのとし実験じっけんはあえなくわりになった。
 その翌年よくねん、また挑戦ちょうせんした。じゅうすこたかすぎたかとおもったので、じゅうろくの「」も設定せっていした。けれど結果けっか前年ぜんねんおなじだった。じゅうろく全滅ぜんめついちにちびただけだった。
 【6】そこでんだ幼虫ようちゅうをもって昆虫こんちゅう病理びょうりがく先生せんせいおとずれた。「病気びょうきではありませんね。たんなる生理せいりです」。たんなる生理せいり
 いったいどういうことだ? さんねんは、またころすためにむしりにくのかとアルプスへかけるのはおもかった。
 【7】出発しゅっぱつのとき、ふとある発想はっそうがひらめいた。大学前だいがくまえバス停ばすてい学生がくせいたせて、研究けんきゅうしつにとってかえした。そして、旧式きゅうしき自記じき温度おんどけい(そのころはそのタイプのものしかなかった)をぶらげて、バス停ばすていもどった。
 「そんなもの、どうするのですか」と、学生がくせいがいぶかしげにたずねる。【8】「まあ、いずれわかるよ」。そうこたえてアルプスにかった。
 ふとおもいついたのは、「飼育しいく温度おんど一定いっていではなく、高温こうおん低温ていおんれなくてはいけないのではないか」ということであった。高山こうざんでは昼間ひるまがさしてあついくらいだが、よるからがたには猛烈もうれつさむくなる。【9】高山たかやまのハバチはそういうところにすんでいるのだから、はげしい温度おんどれにえられるのみでなく、そのようなれを必要ひつようとしているかもしれない、ということにづいたのだ。
 やまからかえってて、早速さっそくひるじゅうよるはただのという条件じょうけん飼育しいくはじめた。【0】予想よそう的中てきちゅうした。幼虫ようちゅうたちはすくすくそだち、ほとんどぬことなく、まゆをつくった。
 さて、この結果けっか学会がっかい発表はっぴょうするだんになると、ある配慮はいりょ必要ひつようになった。じゅう一定いってい、あるいはじゅうろく一定いっていという条件じょうけんでは全部ぜんぶにました。そこまではよい。「それで、ふとおもいつきまして……」とは絶対ぜったいえない。
 どうしたかというと、「そこでこのむし生息せいそくしている場所ばしょ気温きおん測定そくていしてみました」といって、自記じき温度おんどけい記録きろくしたデータをせる。そして、「これをシミュレートした温度おんど条件じょうけん設定せっていして飼育しいくしたところ、幼虫ようちゅうはみごとに成長せいちょうして、成虫せいちゅうおやバチ)になりました。このハバチの幼虫ようちゅう成長せいちょうには、いちにちのうちに高温こうおん低温ていおん交代こうたいする温度おんど周期しゅうき必要ひつようなようにおもわれます」とむすんだのである。
 こうして、ふとおもいついた発想はっそうには一言ひとことれず、データにもとづいた「論理ろんりてき推理すいり展開てんかいするかたちをとることによって、この研究けんきゅうわたし自身じしんも、「科学かがくてき」な体面たいめんたもつことになった。
 これが、いままでの科学かがくと、科学かがく教育きょういくとしあなである。さいわいにしてちかごろは、おおくのひとがこのことにづきはじめた。しかし、コンピューターによるデータの処理しょり解析かいせき普通ふつうとなったいまはまた以前いぜん状態じょうたいもど可能かのうせいがある。といって、発想はっそうほう処方しょほうせんなど存在そんざいするはずはない。こん大切たいせつなのは、科学かがく技術ぎじゅつも、普通ふつうおもわれているのとはことなって、ずっと人間にんげんてきなものなのだということを、深刻しんこく意識いしきすることである。
日高ひだか敏隆としたか日本経済新聞にほんけいざいしんぶん」より)
 
 シミュレート…実験じっけんおなじように再現さいげんすること。


長文ちょうぶん 6.4しゅう
長文ちょうぶんふたつある場合ばあい読解どっかい問題もんだいよう長文ちょうぶんいち番目ばんめ長文ちょうぶんです。】
 日本にっぽん人里ひとざとの、なにもきわだってうつくしいといえない風景ふうけいなかにも、最近さいきんとくにられるようになり、わかひとたちがおとずれる場所ばしょができはじめた。京都きょうと嵯峨野さがのなどは、そうした場所ばしょひとつにかぞえられるだろう。また大和やまとやまあたりみちも、だんだん人気にんきてきたようである。だが、これらの場所ばしょは、じつは、完全かんぜん自然しぜん風景ふうけいではなく、背後はいごにひかえている歴史れきしおもみがくわわって、その価値かちたかめているのだ。風景ふうけいかんがえるとき、これは非常ひじょう重大じゅうだいてんである。
 その歴史れきしることにより、平凡へいぼん風景ふうけい、ありふれた小山こやまが、ひとびとをたちまちふか感興かんきょうもよおす。きっかけは、歴史れきしだけではない。芭蕉ばしょう俳句はいくまれたいくつかの風景ふうけいは、そのって、ゆかりの風物ふうぶつ現代げんだいじんしんふか感慨かんがいこす。風景ふうけいは、ひとしんによってわる。風景ふうけい価値かちは、その現在げんざい実体じったいと、過去かこおも観賞かんしょうしゃしん交渉こうしょうのうちに成立せいりつする。
 風景ふうけい要素ようそには、歴史れきしおおきくかかわるだけではない。自然しぜんたいする知識ちしきが、なかなかおおきく作用さようする場合ばあいがある。もないはないているのをただるだけでなく、そのはな全部ぜんぶわかり、そのあるものがその土地とちにあることの意外いがいせいといったことがわかり、そのそだちぐあいのわるさまでわかったら、きょうざめになるどころかかえっていっそう印象いんしょうふかまるというものだろう。こうの丘陵きゅうりょう雑木林ぞうきばやしなかに、若葉わかばをつけたコブシのれをいだし、げつまえはなのころの光景こうけい想像そうぞうえがくのはわる趣味しゅみではない。まわりで小鳥ことりこえいて、そのとり種類しゅるいがわかるのもたのしい。ツキヒホシポイポイと形容けいようされるサンコウチュウのごえを、めずらしくも人里ひとざとちかくでいたときのうれしさは、風景ふうけいのよさとかならずしもえんではない。
 日本にっぽん風景ふうけいで、いままでひとがほとんど注意ちゅういはらわなかったものにかきがきがある。農村のうそん住宅じゅうたくかきがきかこったいえおおい。農村のうそんかきがきようしゅは、都会とかい住宅じゅうたくより単調たんちょう場合ばあいおおいが、そのかわりねん貫禄かんろくのあるものがすくなくない。かきがきというものは、手入ていれのぐあいで、じつにさまざまな態様たいようをしていて、ひとしん刺激しげきするものである。
 ひとんでいる風景ふうけい関係かんけいするものには、もっと人間にんげんくさいものがたくさんある。こうのあのまつしたいえのおばあちゃんは梅干うめぼしけるのが上手じょうずで、そのとなりいえ息子むすこ野球やきゅう選手せんしゅ甲子園こうしえん出場しゅつじょうしたことがあるなどとっていたら、そのきょうふかさはどうだろう。そんなことは、風景ふうけいとは関係かんけいないとひとがいるかもしれないが、わたしなに関係かんけいがあるという意見いけんである。
 日本にっぽんの、ひと風景ふうけいには、心温こころあたたまるうるおいとゆたかさをそなえたものが、いたるところにある。それは、いろいろな自然しぜん人文じんぶん知識ちしき裏打うらうちされいっそうの興趣きょうしゅげる。自分じぶんもそこにんで、朝夕あさゆうそのなかみたいような風景ふうけい……いや、それよりも「風土ふうど」といったほうが適切てきせつ場所ばしょが、まだまだ、日本にっぽんにたくさんのこっているのである。

中尾なかお佐助さすけわたしたちの風景ふうけい」)
 【1】民主みんしゅ主義しゅぎいち体験たいけんしたことのない社会しゃかい世代せだいは、民主みんしゅ主義しゅぎをとにもかくにも「素晴すばらしいもの」とかんがえ、そうした立場たちばってそれをえがき、たたえようとします。しかし、ながあいだにわたって民主みんしゅ主義しゅぎ実践じっせんし、体験たいけんし、その実情じつじょうにすることがえてくると、こうした議論ぎろんはなかなか人々ひとびと賛成さんせいられなくなります。【2】いろいろと「わけからない」ことや、いい加減かげんなことが数多かずおおくあることを否定ひていできなくなるからです。おおくの人々ひとびとは、先程さきほどれいにあげたような民主みんしゅ主義しゅぎ批判ひはんが、あながち見当けんとうはずれとばかりえないことをはだかんじています。【3】問題もんだいはそのさきです。「それではにどんな方法ほうほうがあるのか」ということへの回答かいとうがなければ、議論ぎろんさきすすまないからです。
 じゅう世紀せいきは「民主みんしゅ主義しゅぎ世紀せいき」とばれたように、人類じんるいじつにたくさんの政治せいじじょう実験じっけんおこなってきました。【4】整然せいぜんとした政治せいじ実現じつげんのための仕組しくみや、本当ほんとう意味いみでの「人民じんみんのための政治せいじ」を実現じつげんするためのこころみもおこなわれました。ファシズムや共産きょうさん主義しゅぎはその代表だいひょうれいだったとえます。【5】しかし、民主みんしゅ主義しゅぎたいするさまざまな批判ひはんは、たしかにするど説得せっとくてきえたにもかかわらず、それにえて実行じっこううつした代案だいあんをみると、その結果けっかけっしてかんばしいものではなく、民主みんしゅ主義しゅぎ以上いじょう惨憺さんたんたるものでした。そこでふたた民主みんしゅ主義しゅぎへともどることになったのです。【6】じゅう世紀せいき後半こうはん以降いこう歴史れきし精神せいしんてきにはこのもどりの歴史れきしであり、民主みんしゅ主義しゅぎ初恋はつこい相手あいてのようにむねおどるものではなかったにせよ、どこかにどうしてもてがたいものがあったということでしょう。
 日本にっぽん相当そうとうながあいだにわたって民主みんしゅ主義しゅぎ実践じっせんしてきました。【7】こうした体験たいけんかさねてくれば、民主みんしゅ主義しゅぎの「素晴すばらしさ」を議論ぎろんがあるかとおもえば、他方たほうではそれをさきのように「けなす」議論ぎろんをしていい気分きぶんになっているというきもあります。しかし、それもそろそろ卒業そつぎょうすべきでしょう。【8】日本にっぽん民主みんしゅ主義しゅぎはまさに、こうした段階だんかい只中ただなかにいるのです。つまり、そろそろその欠陥けっかんや「わけからなさ」を見据みすえながら、それを具体ぐたいてき改善かいぜんする方法ほうほうさぐらなければなりません。民主みんしゅ主義しゅぎの「素晴すばらしさ」をたたえる議論ぎろんとそれを「やかす」「けなす」議論ぎろんとのやりとりは、いわば空中くうちゅうせんというべきものです。【9】しかし、本当ほんとう必要ひつようなのは、地道じみち一歩一歩いっぽいっぽなにをどうえていくかという地上ちじょうせんなのです。
 ここでは「あれか、これか」しき空中くうちゅうせんではなく、「よりく」が合言葉あいことばになります。人生じんせいおおくの局面きょくめんにおいて大事だいじなことは、「よりく」をこころがけ、実行じっこうすることです。【0】「あれか、これか」にくらべると、「よりく」を探求たんきゅうすることは派手はでではなく、あまり魅力みりょくのないもののようにえるかもしれません。しかし、人間にんげん社会しゃかい個人こじん人生じんせいにおいて大事だいじなことは、ちょっとのちがいがおおきなちがいにつながるということです。継続けいぞくてき努力どりょく必要ひつようなのはそのためです。五十歩百歩ごじゅっぽひゃっぽだからといって馬鹿ばかにしてはなりません。なにも、欠陥けっかんがあるのは民主みんしゅ主義しゅぎだけではないのです。われわれ個々人ここじん社会しゃかいなどの組織そしきも、欠陥けっかんのないものはありません。それを継続けいぞくてき努力どりょくによって「よりく」していくことが大切たいせつなのであり、民主みんしゅ主義しゅぎ例外れいがいではないはずです。もちろん、人生じんせい組織そしきを「こわすこと」が目的もくてきでないならばですが……。

佐々木ささきあつしたけし民主みんしゅ主義しゅぎという不思議ふしぎ仕組しくみ』より)