(Translated by https://www.hiragana.jp/)
課題集
長文ちょうぶん 7.1しゅう
 【1】「あんずるよりむがやすし」という言葉ことばがある。あれこれかんがえているよりも、まずやってみようということだ。行動こうどうによってあらたにひらかれていくものもおおい。やってみないことにはなにはじまらないというのはたしかに真理しんりである。【2】「めくらへびにおじず」ということわざもある。へびという知識ちしきがないために、こわがらずにあるいていく。その結果けっか結局けっきょくへび行動こうどうさまたげにならなかったということである。
 【3】このようにかんがえると、知識ちしき経験けいけん障害しょうがいになるとえる。むしろ、知識ちしきがないほうはなしすすみやすい。明治維新めいじいしんになったのは、地方ちほう下級かきゅう武士ぶし若者わかものたちだった。中央ちゅうおう権力けんりょく伝統でんとうという知識ちしきから自由じゆうであったために、大胆だいたん日本にっぽん未来みらいえがけたのだ。【4】知識ちしきとぼしかったことが日本にっぽん未来みらいひらいたのだとってもいい。
 しかし、その明治維新めいじいしん発展はってんさせたのは、欧米おうべい視察しさつった若者わかものたちのあたらしい知識ちしきでもあった。知識ちしきのなさは、混迷こんめいする事態じたいやぶるエネルギーではあったが、あたらしい見取みとつくるには、そのための知識ちしき必要ひつようだった。【5】そうかんがえると、知識ちしきにもまた重要じゅうよう役割やくわりがあることがわかる。
 だから、問題もんだいは、経験けいけん知識ちしきかということではない。経験けいけんも、知識ちしきも、物事ものごと実現じつげんするためのひとつの方法ほうほうである。【6】目的もくてき到達とうたつするための手段しゅだんとして経験けいけん知識ちしきがあるのだとしたら、大事だいじなことはその手段しゅだんではなく目的もくてきほうである。「あんずるよりむがやすし」ということわざでわれているのは、どうむかということではなく、なにむかということなのである。


 【7】おに退治たいじった桃太郎ももたろうしたがったのは、いぬさるきじだった。それぞれが象徴しょうちょうしているものは、いぬ忠節ちゅうせつさる知恵ちえきじ勇気ゆうきだというせつがある。だが、肝心かんじんなのは従者じゅうしゃではなく桃太郎ももたろう自身じしんである。【8】その桃太郎ももたろう象徴しょうちょうしているものこそ、おに退治たいじという行動こうどう目的もくてきである。たしかに、目的もくてきだけでは物事ものごと成就じょうじゅしない。それなりの手段しゅだん方法ほうほう必要ひつようである。しかし、目的もくてき明確めいかくでありさえすれば、それにおうじた手段しゅだんかならあらわれるのである。
 【9】これを自分じぶんたちの人生じんせいてはめてみるとつぎのようなことがえる。なにかを勉強べんきょうする場合ばあい大事だいじなのは、どういう勉強べんきょうをするかという方法ほうほうたいする知識ちしきである。そして、実際じっさい勉強べんきょうをするという行動こうどうである。どちらもおなじように大切たいせつだ。【0】しかし、もっと大切たいせつなのはなにのために勉強べんきょうするのかという目的もくてきだ。その目的もくてきをまずたしかなものにすることが最初さいしょにすべきことなのである。

言葉ことばもり長文ちょうぶん作成さくせい委員いいんかい Σしぐま


長文ちょうぶん 7.2しゅう
 【1】ただ、ひとつ留意りゅういしなくてはならないてんがある。母親ははおやときわめてていながらなるものとして、「あかちゃんことば」という現象げんしょうひろ流布るふるふしているからなのだ。
 【2】あかちゃんことばというのもまた、英語えいごからの翻訳ほんやくで、原語げんごはベビートークという。最近さいきんではかれ映画えいがのタイトルにもなり日本にっぽん紹介しょうかいされたので、母親ははおやよりもはるかに知名度ちめいどたかいことだろう。【3】たとえば日本語にほんご文化ぶんかけんでは、あかちゃんはもののことをして「マンマ」とうことがおおい。そして、自動車じどうしゃは「ブーブー」、いぬは「ワンワン」となる。【4】もっともあかちゃんは外的がいてき事物じぶつ区別くべつにまだそれほどながけていないので、ブーブーはうご人工じんこうぶつ全体ぜんたいを、またヒト以外いがい動物どうぶつすべてをしてワンワンで総称そうしょうすることもしばしばである。
 【5】ところが、これらいちぐん単語たんごは、おとながあかちゃんにかってかたりかけるときにもまったくおな要領ようりょう使用しようされる。おかあさんはどもにかって、「ごはんべる?」とくかわりに「マンマべる?」とたずねる。【6】あるいはみちはしっているくるまゆびさして、「ほら、ブーブーよ!」とおしえている。同一どういつ女性じょせいがほかの成人せいじんたいして「マンマべる?」とか「ブーブーよ!」と発言はつげんすることはまずかんがえられないし、もし実際じっさいこったとしたら、相手あいてはとても奇異きいることはうたがない。【7】それゆえ、おとなの使つかあかちゃんことばはあきらかにあかちゃんとのかたりかけにさいして特異とくいてきもちいられ、あかちゃんの言語げんご使用しよう次元じげんにおとなが同調どうちょうすることで、双方そうほうあいだ交流こうりゅううながそうとする努力どりょくあらわれであるとみなすことができるだろう。
 【8】文化ぶんか人類じんるい学者がくしゃ川田かわたじゅんづくりによるとフランス語ふらんすご文化ぶんかでは、あかちゃんことばはほとんどかれないのだという。【9】わずかに「ねんね」が「ドド」、「おっぱい」が「ロロ」、「おしっこ」が「ピピ」、「うんち」が「カカ」のよんとあといくつかが散見さんけんされるだけで、それ以外いがいにはあかちゃんにたいしても、おとなにたいするのと大差たいさない言葉ことば用法ようほう使用しようする。【0】ただそのフランスにおいてすら、母親ははおや歴然れきぜんとして存在そんざいする。たしかにフランスじんのおとなは、どもにあかちゃんことばを使つかうことはほとんどないかもしれないけれど、「ちいさな大人おとな」にけて、成人せいじんたいするのとわらぬかたりかけをおこな場合ばあいですら、やはり口調くちょうおとたかくなり、また抑揚よくよう通常つうじょう以上いじょう誇張こちょうされていくことが、あきらかにされている。
 そもそもフランスではども中心ちゅうしん家庭かてい生活せいかついとなみがちな日本語にほんご文化ぶんかけんとは、かなりいちじるしい対照たいしょうをなすことがおおいようだ。たとえば日本にっぽんでは、夫婦ふうふでも、どもができるとおたがいに「おとうさん」「おかあさん」とび、まごまれると「おじいちゃん」「おばあちゃん」とかたえてしまう。自分じぶんつまがなぜ「おばあちゃん」なのか、かんがえてみれば奇妙きみょうはなしであるはずなのに、親族しんぞくない一番いちばん世代せだいからみた人間にんげん関係かんけい呼称こしょう形式けいしきにみんなが従順じゅうじゅんにつきあう。日本にっぽん生活せいかつしているかぎり、われわれはこれをごくたりまえのこととめているけれども、実際じっさいけっして普遍ふへんてきにヒトの社会しゃかいられるということではない。社会しゃかいなかどもをどう位置いちづけるかという価値かち判断はんだんによって、あかちゃんことばの発達はったつ度合どあいはいちじるしい多様たようせいしめすことを、文化ぶんか人類じんるいがく調査ちょうさおしえてくれている。
 単純たんじゅん結論けつろんづけると、あかちゃんことばの現象げんしょう文化ぶんかによって左右さゆうされ、母親ははおや文化ぶんかちがいをわず普遍ふへんてきである。両者りょうしゃ次元じげんべつにしている。もちろん日本にっぽんとフランスとのあいだどものしつけかた大幅おおはばことなり、それぞれの文化ぶんかけんそだったどものパーソナリティに如実にょじつ反映はんえいされていくのだろう。あかちゃんことばを採用さいようした日本にっぽんしきのしつけかたは、当然とうぜん日本にっぽん文化ぶんかそだどもの性格せいかく形成けいせいおおきな役割やくわりたしているにちがいない。
 
せいこう信男のぶお「〇歳児さいじがことばを獲得かくとくするとき」による)


長文ちょうぶん 7.3しゅう
 【1】ユージーン(アメリカ、オレゴンしゅうまち)は東京とうきょうとちがって、まち自体じたいがそれほどおおきくなく、生活せいかつのリズムがゆったりしているせいもあるだろう、見知みしらぬひとどうしでも、みちですれちがうと、「ハロー」とあいさつし、バス停ばすてい車椅子くるまいす乗客じょうきゃくがいれば、むまであたりまえのようにっている。【2】ユージーンは、まちのなかに障害しょうがいしゃがいることで、ひとながれがわらないまちだった。そして、障害しょうがいしゃ自然しぜんにむきあうまちだった。アパートをりるとき管理人かんりにんのバットさんは、家賃やちんふくめて契約けいやく説明せつめいしたあとで、あなたが一人ひとりみやすいようにこちらでえられるところはえましょうとった。【3】「障害しょうがいしゃ理解りかいしめす」というより、きわめてビジネスライクな対応たいおうだった。そこには、車椅子くるまいす一人暮ひとりぐらしは危険きけんという無言むごんのメッセージはなく、アパートをものりるものの「大人おとな」と「大人おとな」の関係かんけいがあった。【4】むろん、日本にっぽんわたしが「大人おとなあつかいされないわけではない。しかし車椅子くるまいすひとうしろにいるだけで、大人おとなどものワンセットになってしまうこともある。
 【5】ところが、おもしろいことに、電動でんどうだとうしろにひとがついていないから、セットにしようがない。いっしょにひとがいても、そのひとわたしうしろではなくよこを、ならんであるく。【6】このことは、わたしひととの関係かんけい対等たいとうにする。このままかんたんに、電車でんしゃやバスにれれば、その関係かんけい途切とぎれることもない。【7】それは、おくれないからバスでおこなってと、相手あいてがさらりとえることであり、その仕事しごとえて、また明日あした、とあいさつして、みぎひだりにわかれることができる、あるいは、明日あしたなんにどこそこでと約束やくそくし、その時間じかんにその場所ばしょ一人ひとりおこなってかえってくることができる、ただそれだけのことだったりする。【8】しかし、そのことが、わたしをどれほど自由じゆうにするかを、ユージーンのふうおしえた。それはまた、みちまよって途方とほうにくれることでも、人通ひとどおりのえたくらよるバス停ばすていで、一人ひとりバスを心細こころぼそさをあじわうことでも、電動でんどうのバッテリーがれかけて、なんとかもってくれとねんじながら、バス停ばすていからアパートまでの夜道よみちを、こわごわかえることでもあった。
 【9】ついこのあいだ、イギリスの児童じどう文学ぶんがく作家さっか、ローズマリ・サトクリフの自伝じでん、「おもあおおか」をんだ。【0】スティルびょう歩行ほこう自由じゆううしなったども時代じだいから細密さいみつ画家がかて、歴史れきし小説しょうせつ作家さっかになるまで、つまりは、「ほかのどもにはできるあるしゅのことが自分じぶんにはできないことが、観念かんねんてきにしか理解りかいされていない」どもの時期じきから、障害しょうがいのもつ社会しゃかいてき意味いみ自分じぶんとふつうの人々ひとびととをへだてる微妙びみょうかべづき、それが人生じんせいあたえる影響えいきょう、「孤独こどく」をるまでが、かたられている。
 彼女かのじょ青春せいしゅん時代じだいだい大戦たいせん終結しゅうけつさかいにしている。ふつうの人々ひとびと健常けんじょうしゃ男性だんせい障害しょうがいしゃ女性じょせい本気ほんきこいをすることなど想像そうぞうもできないこの時期じきに、彼女かのじょひとつの恋愛れんあい経験けいけんする。両親りょうしんむすめきずつくことだけをおそれ、本人ほんにんたちもまた無意識むいしきのうちに、こいを「こい」として直視ちょくしするのを回避かいひする。彼女かのじょ別離べつりわった恋愛れんあいをふりかえり、もしそのころにいまのような、障害しょうがいしゃも「ほかのだれかれとおな感情かんじょうてき欲求よっきゅう」をもち、「それを実現じつげんする」こともできるというあたらしい見方みかた変化へんかしていれば、二人ふたり関係かんけいは、わっていただろうかとかんがえる。そして、たとえ結果けっかおなじだったにしても、たがいに自分じぶん感情かんじょうそとにだして、「自分じぶんたちの苦境くきょう直面ちょくめんし、それをかちうことができていたらよかった」としるす。
 きずつこうが、自分じぶん責任せきにんで「苦境くきょう直面ちょくめんする」、それを彼女かのじょは「きずつけられる権利けんり」とんだ。このサトクリフの言葉ことばに、訳者やくしゃは「からうろこがちる」おもいをしたという。しかしわたしぎゃくに、障害しょうがいしゃはずっとおなひとつのことを主張しゅちょうしてきたのだとおもった。障害しょうがいひとつの属性ぞくせいとしてもつ人間にんげんを、人間にんげんとしてまっすぐにると。彼女かのじょ権利けんりわたしなら、「経験けいけんかさねてゆく自由じゆう権利けんり」とぶ。障害しょうがいがこの自由じゆうをどれだけはばむかは、その時代じだいのその社会しゃかいが、障害しょうがいしゃをどう位置いちづけ、そのなかでひとひととの関係かんけいをどうつくっているかでまる。ユージーンのふうは、そのこともわたしおしえた。

青海あおみ恵子けいこ文章ぶんしょうによる)


長文ちょうぶん 7.4しゅう
 杉野すぎのくんは、よう反物たんもの株式会社かぶしきがいしゃかじまん商店しょうてん反物たんものを、とお地方ちほう呉服ごふくてんおろある出張しゅっちょういんになったばかりの青年せいねんである。はじめての出張しゅっちょう出足であしからうまくゆかず、さんざんなげであった。そして、きょうの目的もくてきはGまち――。このたび最後さいご日程にっていである。
 Gまちいたころはもういちしゃくさきえぬ吹雪ふぶきであった。すずをつけたうま、がたがたの箱馬車はこばしゃゆきめのあたらしいむしろむしろ、そんなものが雑然ざつぜんならんでいる駅前えきまえで、杉野すぎのくんはぼうぜんちつくしてしまった。土地とち人々ひとびと自然しぜん柔順じゅうじゅんひとたちのみの敬虔けいけんさで、ただ黙々もくもくうごいていた。
 杉野すぎのくんはまるで吹雪ふぶききこまれた人間にんげんのように、近江おうみ呉服ごふくてんころがりこんだ。みせにはだれもいず、くろ々と古風こふうにくすんだ店構みせがまえがしんとしずまりかえっていた。かこえうらいろり赤々あかあかえ、鉄瓶てつびんからはしろ湯気ゆげあたたかそうにっていた。杉野すぎのくんゆきはらいながら、なにかほっと安堵あんどした気持きもちになっていった。ふとかおげると、おく帳場ちょうば一人ひとり少女しょうじょ雑誌ざっしったままこちらをいてほほえんでいた。えくぼがしろはなのようにうつくしかった。
「あの、東京とうきょうかじまんでございますが。」
 杉野すぎのくんははっとしてお辞儀じぎをした。少女しょうじょ学校がっこうでするように丁寧ていねいあたまげると、そのままばたばたおくほうはしってった。すそみじか着物きものしたにすっくりとびたしろあし、そうしておさげにむすんだあかいりぼんが、蝶々ちょうちょうのようにおくんでったのちを、杉野すぎのくんゆめのようにじっと見送みおくっていた。
「ほうほう。それははあ。」
 そこへ主人しゅじんがそういながら、煙草たばこぼんげててきた。
「ひどいゆきではあ。さあさむときのそばがいちばんす。」と、炉辺ろへんろばたにすわりながら、煙管きせるきせる煙草たばこうのだった。杉野すぎのくん挨拶あいさつをしてすわった。
「こうぞ、こうぞ。」
 主人しゅじん突然とつぜん大声おおごえ小僧こぞうび、
座布団ざぶとんこさってこ。」とめいじるのだった。杉野すぎのくんかこえうらいろりにこころもちしゅをさしだしながら、まぶたのなぜかあつくなるのをおぼえた。
「ここへははじめてだべ。このゆきこはあおどろきなすっただべのう。」
なにもかもはじめてでして。」
 杉野すぎのくんうったえるように、種々しゅじゅおもいをこめてそうった。
「ほうほう。よくなすった。」
 そこへ先刻せんこく少女しょうじょがにこにこわらいながら、おちゃってきた。
「これがむすめではあ、みちちゃ、お辞儀じぎはあしなすったべのう。」
 少女しょうじょはくくっとわらったまま、またぱたぱたとおくはしってってしまった。しろがくくろ々としたつぶらなひとみ、そうしてまたしろはなのようなえくぼだった。杉野すぎのくん自分じぶんまでがなにかにこにこといましんたのしかった。
「ひとつうんとやってください。」と元気げんきよくい、れいのようにまずモスの見本みほんひらいた。
「ほう。このしゅははあよくできたっす。」
 主人しゅじん見本みほんにすると、いきなりさもかんったようにつぶやいた。

外村とのむらとのむらしげる物語ものがたり」)


長文ちょうぶん 8.1しゅう
 【1】「べられる」か「べれる」か。「られる」か「れる」か。後者こうしゃ用法ようほうゆるされるかか。あるいは、そんなことをおおやけ議論ぎろんすること自体じたい有益ゆうえきかどうか。
 いわゆる「ら言葉ことば」に関心かんしんあつまっている。
 【2】「どうして『ら言葉ことば』ばかりさわがれるのか」。中間ちゅうかん報告ほうこくをまとめただいじゅう国語こくご審議しんぎかいおおくの委員いいんは、不満ふまんげにかたる。この年間ねんかん多方面たほうめんにわたる議論ぎろんをしてきたのに、世間せけんかたは、まるで「ら言葉ことば」しかげてこなかったようだ、という不満ふまんである。
 【3】たしかに報告ほうこくは、敬語けいご方言ほうげん問題もんだいから情報じょうほうをめぐるさまざまな問題もんだい国際こくさい社会しゃかいへの対応たいおうなど多岐たきにわたっている。ワープロと字体じたい関係かんけいなども焦眉しょうび課題かだいひとつだ。しかし、「ら言葉ことば」だけが際立きわだって注目ちゅうもくされてしまった。
 【4】こうした関心かんしんかたよりもふくめて「ら言葉ことば」をめぐる落差らくさ断絶だんぜつ自体じたいが、国語こくご問題もんだい現状げんじょう反映はんえいしているとることもできる。その意味いみで、これを国語こくご審議しんぎかい役割やくわりかんがえるきっかけにできるし、再考さいこうする契機けいきにもできよう。
 【5】まず世代せだいあいだ断絶だんぜつ背景はいけいにある。若者わかもの造語ぞうごきゅう世代せだいはついていけない。どう世代せだいにしか通用つうようしない隠語いんごがまかりとおっている。最近さいきんその断絶だんぜつふかまるばかりだ。
 【6】「ぱんぴー」は普通ふつうひと。つまり、一般いっぱんピープルのりゃく。「アンビリ」は英単語えいたんごりゃくで「しんじられない」と、若者わかもの言葉ことば日本語にほんご境界きょうかいさええていく。従来じゅうらい尺度しゃくどえた変容へんようすすむ。この現状げんじょうをどうかんがえたらいいのか。
 【7】もともと地域ちいきによるちがいもある。「ら言葉ことば」が普通ふつう使つかわれている地域ちいきもある。方言ほうげんゆたかさを尊重そんちょうすると一方いっぽうでいいながら、他方たほうで、共通きょうつう基準きじゅんをたてに「認知にんちしかねる」とだんじられることにたいする反発はんぱつもあろう。
 【8】官民かんみん意識いしき落差らくさもある。世間せけん使つかわれる言葉ことばに「おかみ」がくちすのはおかしい。そもそも政治せいじ官僚かんりょうがまずうつくしく正確せいかく日本語にほんごまなび、つかうべきだ。そうした発想はっそうからの反発はんぱつもある。
 【9】根本こんぽんには、言語げんごかんちがいもよこたわっている。そもそも言葉ことば変化へんかしていくもの、ながれにまかせれば、自然しぜん淘汰とうたされるだろう、というかんがかたたいして、うつくしい言語げんご文化ぶんか基礎きそであり、なんらかの規範きはんでもって維持いじしていく必要ひつようがある、とのかんがかたもある。
 【0】それはそれで結構けっこうなことだ。今回こんかい国語こくご審議しんぎかい報告ほうこくは、あくまで議論ぎろん材料ざいりょうかんがえたらいい。報告ほうこくにもあるように、言葉ことばづかいについて審議しんぎかいは「ゆるやかな目安めやす、よりどころ」をしめすにとどまるべきだ、という立場たちばをとっている。
 審議しんぎかい役割やくわりわってきた。当用漢字とうようかんじ常用漢字じょうようかんじめるなど国語こくご政策せいさく中核ちゅうかくめていた時代じだいからはようへんさまがわりしている。そうした規制きせいゆるめる方向ほうこういているというだけでなく、影響えいきょうりょく自体じたいよわめる方向ほうこうかっている。当然とうぜんのことだろう。
 それは、ぎゃくにいえば、教育きょういく、マスコミそのそれぞれの現場げんばで、自分じぶんたちの言葉ことばかんがえていかなければならない、ということだ。時代じだいわりで、わたしたちの言葉ことばをどうしていくか、各自かくじかんがえていく必要ひつようがあるということだ。
 その原点げんてんもどって幅広はばひろ分野ぶんや論議ろんぎかさねることにしよう。

朝日新聞社あさひしんぶんしゃせつによる。表記ひょうきとうあらためたところがある)


長文ちょうぶん 8.2しゅう
 【1】子供こどものころに、みちまよわなかったのは、どうしてでしょうか。逆説ぎゃくせつのようになりますが、むしろそれは地図ちず使つかわなかったからではないでしょうか。【2】子供こどもにとってみちというのは、おやともだちにれられておぼえるもので、なんかいあるいているうちに自然しぜんにつくものです。そうしておぼえたみちでは、まようなどということがなく、自分じぶんからだ一部いちぶになっていたようなさえします。
 【3】最近さいきん散歩さんぽコースで、その裏返うらがえしのような体験たいけんをしました。それは、ほとんど毎日まいにちのように散歩さんぽするコースのひとつで、けっしてまようようなみちではありません。ところが、ある、ほんのみじか時間じかんでしたが、ふと、自分じぶんいまどこにいるのかわからなくなったことがあったのです。【4】あいだもなく、「ああ、ここか。」と、理解りかいできましたが、このほんすではじめていたときだったものですから、いい材料ざいりょうだとおもい、本気ほんきになって原因げんいんさがしてみました。
 かんがえごとをしていて、うわそらだったこともあるのでしょう。【5】みちがった正面しょうめんに、そういえば工事こうじちゅういえがあったことをおもしました。しばらく、そのあたりにはなかったため、そのいえ完成かんせいして見違みちがえるようになっていたことにづかなかったのです。【6】わたしは、散歩さんぽをしながら、そのコースの風景ふうけい道筋みちすじといった情報じょうほうを、無意識むいしきのうちにあたまなかにしまいこんでいたのでしょう。風景ふうけいがちょっとわってしまったことで、っていた情報じょうほう混乱こんらんしょうじ、定位ていいできなくなってしまったのだとおもいます。
 【7】そのときわたしは、「ああ、動物どうぶつ風景ふうけいによる定位ていいはこれだな。」とおもったのです。動物どうぶつ地図ちずたないわりに、習慣しゅうかんによって獲得かくとくした目的もくてきまでの道筋みちすじ情報じょうほうを、無意識むいしきのうちに蓄積ちくせきしており、その情報じょうほう忠実ちゅうじつ行動こうどうするかぎり、動物どうぶつまよいにくいということです。
 【8】目的もくてきかうさいさき見通みとおしは、日常にちじょうてき無意識むいしき習慣しゅうかんおくうずもれ、てて問題もんだいにすることがなければ、意識いしきのぼってきません。このようなレベルの行動こうどう意識いしきは、動物どうぶつ人間にんげんもそうはわりがないのではないでしょうか。【9】そして、それが動物どうぶつまよいにくくしているシステムなら、どうもわたしには、人間にんげんは、地図ちずという文化ぶんかをもったことによって、かえってまよ可能かのうせいたかくなったとおもえてくるのです。
 【0】そとからはいってくる情報じょうほうは、どんなものでもえることだとおもいますが、まさしく使つかいこなしてこそ、その真価しんか発揮はっきします。ぎゃくに、みずからの経験けいけんによってれた情報じょうほうは、文字通もじどおについたもので、無意識むいしきのうちにも行動こうどうにつながっていくものです。
 人間にんげん動物どうぶつちがい、他人たにん行動こうどう結果けっかである地理ちりてき情報じょうほう地図ちずとしてり、いくらでも利用りようできます。動物どうぶつなら、無意識むいしきのうちにせよ、時間じかんをかけてにつけていく地理ちりてき情報じょうほうを、すうひゃくえんえにれることができるのです。それだけで、どこへでも移動いどう可能かのうになるわけですが、しかしまた、行動こうどう可能かのうせいえるということは、それだけみちまよ可能かのうせいにもつながってくるともえるでしょう。
 それは、地図ちずだけのはなしにはかぎりません。目的もくてきいた標識ひょうしきがあれば、はじめてのみちでもまよわないでくことができます。目的もくてきまで次々つぎつぎあらわれるバス停ばすてい住居じゅうきょ表示ひょうじなどの手掛てがかりもまた、動物どうぶつには利用りようできない、人間にんげん地図ちず文化ぶんかだといえるでしょう。そしてそれは、道順みちじゅんマップてき存在そんざいしている、現実げんじつ空間くうかんそのものにえがしるされたいちぶんいち地図ちずだともえます。
 こうした、人間にんげんつくした情報じょうほうは、行動こうどうたすけになるものであると同時どうじに、反面はんめん使つかかたがきちんとについていないかぎり、ぎゃく結果けっかにつながる危険きけんすらあるのです。

山口やまぐち裕一ひろいちひとはなぜみちまようか」による)


長文ちょうぶん 8.3しゅう
 【1】すうねんまえわたし西にしアフリカのナイジェリアの東北とうほくべエヌかわ河畔かはん一人ひとり土地とち盲人もうじん二人ふたり神話しんわ昔話むかしばなし採取さいしゅしてあるいていた。よんじゅうすぎのわたしほとんおなねんかんがえられるひとであった。この盲人もうじんにはじつ色々いろいろことおそわった。【2】そのうちのひとつがつぎのようなことである。
 あるときかれいて山道さんどうあるいているときに、かれは「あきのおごり」というのがあるのですよ、とかたはじめた。
 あきは、なにでもえるために、なにでもほどけるとおもっている。【3】ところがあきがているのはまええるものばかりでしょう。でもあきがているもののなかあきが記憶きおくにとどめるのは、そのひゃくまんぶんいちにすぎないはずですよ。【4】そうでしょう、くさ一本いっぽん一本いっぽんいしころのすべてをあきは記憶きおくしますか。しないでしょう。
 わたしたち盲人もうじんは、いちにち単位たんいでは、あきとくらべるとたしかになにてないにひとしい。【5】しかし、明日あした明後日みょうごにちさきくにつれて、わたしたちのほうがよくえるということにあきはあまがついていませんね。わたしたちはたしかにえません。しかしその代償だいしょうとして、しんあたえられています。【6】しんみみ身体しんたいあしはな・その諸々もろもろ器官きかんを「る」ために動員どういんするのです。それに、これらすべてを融合ゆうごうして、「とおく」をみるために、まわりのものにたいする「やさしさ」がくわわらなければなりません。【7】暗闇くらやみわたしたち盲人もうじんにとって絶望ぜつぼうてき試練しれんあたえますが、それはまた無限むげんやさしさをしてることの出来でき源泉げんせんです。あきのひとにはこうした暗闇くらやみ凝視ぎょうしすることは出来できません。【8】わたしたちは、「しん」をとおして暗闇くらやみ彼方かなたからあらわれるものているのです。
 この盲人もうじんは、昔話むかしばなし絶妙ぜつみょうかたであった。かれかた昔話むかしばなしは、人々ひとびとたましいをゆさぶるひびきをびていた。【9】かれかたとき昔話むかしばなしは、人間にんげんかたるのとおな言葉ことばかたられていても、それらの言葉ことばは、まわりの光景こうけいい、そうした事物じぶつたっし、世界せかいまったなれないあたらしいものにえるちからっていた。
 【0】もり原野げんやも、動物どうぶつたち々も、すべて、かれ言葉ことばせられて、かれかたあいだ時間じかんむかのようであった。かれ得意とくいとした昔話むかしばなしは、ままにきることを信条しんじょうとしたために王様おうさまからずりちた滑稽こっけいものはなしであった。このおとこは、そのままな境遇きょうぐう利用りようして、てんにも、水中すいちゅうにも、地上ちじょういたるところたびをしてあるくというのがこのシリーズ連作れんさく昔話むかしばなし骨子こっしである。
 かれ生活せいかつともにしているうちに、わたしにもなにえてるようながしてた。神話しんわというのは、これだなという実感じっかんいてた。それは神話しんわがく概論がいろんをいくさつんでもかれていない事柄ことがらであった。わたしたち生活せいかつなかわたしたちが、人間にんげん中心ちゅうしんに、損得そんとくづくで使つかっている言葉ことば一見いっけん荒唐無稽こうとうむけいすじなかまれると、効用こうようせいうしなってしまう。損得そんとくづくで使つかっている言葉ことばや、はなしすじは、わたしたち他人たにんや、わたしたちをとりまくほか事物じぶつ表面ひょうめんてきにはむすびつけるけれども、ふかそうでのつながりをってしまう。(中略ちゅうりゃく
 いうまでもなく、生態せいたいけいには、荒唐無稽こうとうむけいなこと、ばかばかしいこと、無駄むだなことがちている。それは神話しんわ昔話むかしばなしおなじことである。しかしながら、ここじゅうすうねんあいだ生態せいたい学者がくしゃや、動物どうぶつ行動こうどう学者がくしゃは、そうした一見いっけん無秩序むちつじょ関係かんけいなかには、調和ちょうわしてきるために、自分じぶんっている原則げんそく大胆だいたんえる生物せいぶつ叡知えいちはたらいていることをつけした。それは、人間にんげんみずからの文化ぶんかなかかくして維持いじしつづけてた、神話しんわてきやさしさ」ともうべきものに見合みあはずかたである。
 自然しぜんとの調和ちょうわこそ、我々われわれ人類じんるい生存せいぞんつづけるためにけることの出来できない原則げんそくになった。

やま昌男まさお仕掛しかけとしての文化ぶんか」)


長文ちょうぶん 8.4しゅう
 この文章ぶんしょう著者ちょしゃは、おさないころ、ちちいつけをやぶって、ひどくしかられたことがさんあったという。いち度目どめは、外国がいこくじんをものめずらしそうにじろじろるなといういつけをやぶったとき度目どめは、いえひとにことわりもなしによそのいえってはいけないといういつけをやぶったとき、そして、さん度目どめつぎ文章ぶんしょうである。
 もう一度いちどは、だいちょうカタルをんだがりに、「こりゃあみちみっちゃん、とってもわるいんだ。おいしそうにえるけどね、これをべるとせっかくよくなったのにさ、またおなかいたくなるよ。みちみっちゃんはいたくてくるしむし、パパとママは心配しんぱいしてられないし。だからべるんじゃないよ。」
と、かたくわれたそのうめあおいのを、これまた色彩しきさいのつややかなうつくしさにほだされて、ついってべたときだ。うんわるく、うめは、かれ執筆しっぴつする書斎しょさい真正面ましょうめんえられていた。
「パパがかいていらっしゃるときは邪魔じゃまするんじゃなくってよ。パパは一生いっしょうけんめいだからね。」
はははつねづねっていたし、実際じっさい一生いっしょうけんめいにくときのちちがどんなにのことにたいしてうわのそらになるかを、わたし自身じしん、たしかめてっていたから、うめるのもられまいと、たかをくくったのである。
 ところが、かれはちゃんとていた。いまにしておもえば、わたし計算けいさん不足ふそくというもので、まっあかなメリンスがちらちらうごけば、いくら一生いっしょうけんめいいていても、視界しかいにはそれがはいるはずであった。
 あおちいさなたまくちなかで、っぱいほろにがさをキュッとしたそのとたん、ガラリとひらいたガラスこうから、
 「ばか! なにをする!」
 かみなりがおちたかとおもわれる音声おんせいに、わたしはだらしなく尻餅しりもちをついた。かれはなかなかのスポーツマンで、水泳すいえい教師きょうし免許めんきょっていたし、学生がくせい時代じだいは「早稲田わせだかした」ピッチャーだった。だからはしるのもたいへんはやかった。あっとうまに、げるあいだもあらばこそ、かれははだしでんでて、わたしくち乱暴らんぼうむと青梅おうめをひきずりした。それからちゃほうをむいて、「ママ! ママ!」とさけんだ。
「ひまし!」
 ひましが、こばもうとするあいだながまれて、そのくささにきそうになっているわたしは、容赦ようしゃなくひきずられて、納戸なんどだなにしこめられた。
「あれだけってわからんやつは――すわってろ。」
 いつもならひましの「おくちなおし」のドロップがあたえられるはずだった。しかしそのはドロップはいくらってもなかった。ぬるぬると、いくらつばをのんでもしたにまつわってはなれないあぶら辟易へきえきしながら、わたしなんとなくカビくさだなのなかすわっていた。ネズミ、やしないかしら、おけ、いないかしら……
 さんとも、かんがえてみれば約束やくそく違反いはんであった。
「わかったね。」
「うん。」
「どう、わかった? ってごらん。」
 そんなやりとりのあとで、約束やくそく違反いはんしたのだから、まあしかたないと、わたしはらちもなくいながら、しかし不思議ふしぎにもなにかせいせいしたさっぱりとしたかんじをしんのどこかであじわいながら、ばちけた。
 あのせいせいしたかんじは、いま、分析ぶんせきしてみれば、「つみ」への正当せいとうな「つぐない」の機会きかいあたえられたものあじわう一種いっしゅ安堵あんどかんでもあったろうか。そのさんばちのとき、かれ意外いがいせつけた権威けんいはまた、わたしおさなばくばくとした世界せかいに、ひとつのはっきりしたせんいてせたともえる。
「ここまで。ここからさきはまだ。」
 そのせんは、子供こどもしん信頼しんらいかんえつけた。安心あんしんかんをもえつけた。
ひろがりすぎる自由じゆう不安ふあんなものである。びょうとはてしない、わくなき世界せかい自由じゆう世界せかいとはことなる。
「よし、ってろ。」
 その言葉ことばばっとがわたしに、自由じゆうというもののほんとうの意味いみおしえたのではなかったかしらと、いまになっておもうときがある。
いぬやしなえ道子みちこ白樺しらかんばしらかば文士ぶんしとしてのいぬやしなえけん」)


長文ちょうぶん 9.1しゅう
 【1】視覚しかくけいは、ひかりかいしてものかたち認知にんちする。かたちさわってもわかるから、視覚しかくだけがかたちになではない。さらに、聴覚ちょうかくかたち認識にんしきにまったく無関係むかんけいとはいえない。コウモリは、自分じぶんちょう音波おんぱ利用りようしてえさむしらえ、障害しょうがいぶつける。【2】そのためには相手あいて位置いちおおきさ、ひろがりを「みみている」はずである。
 ところでかたちはどこにあるのだろうか。かたちものほうにある。すなわちかたちもの属性ぞくせいだという。もちろんそうにちがいない。「いもの」は、どうやっても「えない」。【3】なくても、さわってみれば、あるていどがたがわかる。それは、ものが本来ほんらいかたちつからである。
 もうひとつの見方みかたでは、かたちあたまなかにある。がなかったら、ものえない。そののう連絡れんらくしている。【4】たしかに、さわってみればものかたちもあるていどわかるが、おおきな物体ぶったいでてもとても「一目いちもく」ではわからない。かたちるには、触覚しょっかく刺激しげきがいったんのうはいり、それを使つかってのうがあらためてかたち構成こうせいする。【5】だっておなじである。ものこのんでかたちつくっているわけではない。われわれのあたまが、かたちしょうするものを、相手あいてけている。
 さて、このふたつのどちらがただしいか。それは、かんがえてもムダらしい。【6】どちらがただしいかというのは、じつは質問しつもんわるい。こたえがないように、問題もんだいててある。かたちについては、みぎふたつのめん、つまり自分じぶん相手あいてとをともに考慮こうりょする必要ひつようがあるから、はなし面倒めんどうになるのである。
 【7】はたいへん有効ゆうこう感覚かんかくだが、あまりに有効ゆうこうなので、有効ゆうこうでないてんに、あんがいづかないことがある。たとえば、ものおおきさがわからない。
 そんなことはない。おおきいちいさいはればわかる。【8】そううかもしれないが、それは相対そうたいてき大小だいしょうである。顕微鏡けんびきょうたもののおおきさは、倍率ばいりつらないかぎりわからない。たこともないものが、宇宙うちゅう空間くうかんにポッカリいていたら、だれでも寸法すんぽうがわからない。【9】がつ太陽たいようが、おなじようなおおきさだとむかしひとおもっていたであろうが、実際じっさい寸法すんぽうはとんでもなくちがう。
 おおきさをるという、はなはだ単純たんじゅんなことができないので、ひとではモノサシをっているのである。【0】あんな簡単かんたん器具きぐはない。それでも、たいへん便利べんりなものである。なぜそれほど便利べんりかといえば、視覚しかくけいだけにまかせておくと、おおきさの絶対ぜったいがわからないからである。
 それを幾何きかがくむと、比例ひれいあるいは相似そうじになる。相似そうじというのは、かたちおなじだが、絶対ぜったいてきおおきさはどうでもいい。それはまさしく、視覚しかくけい性質せいしつである。幾何きかがくのようにかたちあつか数学すうがくが、視覚しかくけい性質せいしつつというのは、たとえばこういうことである。
 では、なぜかたちおなじなら、おおきさはどうでもいいのか。それは構造こうぞうかんがえればわかる。はカメラとおなじようにできている。レンズをとおったひかり網膜もうまくぞうむすぶ。そのおおきさは、ている物体ぶったい距離きょりとおざければちいさくなり、ちかければおおきくなる。生物せいぶつ年中ねんじゅううごきまわるから、そういうことはえずこる。だからといって、それをいちいち「ちがうもの」とかんがえては具合ぐあいわるい。
 ライオンがネズミのおおきさにえたところで、ライオンはライオンである。ネズミだとかんがえていれば、まえたときに、はじめてライオンではないかとづく。それではライオンにわれてしまう。だから、そういう生物せいぶつはできたとしても、いまはいない。つまり、視覚しかくけいは、そのなか絶対ぜったい座標ざひょうむようには、進化しんかしてこなかった。あえてそれをすれば、ずいぶん正確せいかくができたかもしれないが、いちいち座標ざひょうさだめるために計算けいさんりょう膨大ぼうだいになり、いきなりおおきなのうつくらなければならなかったかもしれない。
 ぎゃくに、われわれが「比例ひれい」とか「相似そうじ」をかんがえることができるのは、本来ほんらい視覚しかくけいにそういう性質せいしつ存在そんざいするからであろう。網膜もうまくは、発生はっせいてき構造こうぞうてきには、じつはのう延長えんちょうであり、相似そうじとは、のう一部いちぶがやっていることを、のうのどこかの部分ぶぶんがよくっている、ということかもしれないのである。


長文ちょうぶん 9.2しゅう
 【1】自分じぶん判断はんだん決断けつだん行動こうどうする。簡単かんたんなようにみえて、じつはとてもむずかしい。われわれでも、ときとして判断はんだんこまり、大勢おおぜい意見いけん依存いぞんしてしまうこともすくなくない。しかも、そうしたほうがらくであることも、また事実じじつである。【2】その判断はんだんが、かりにまちがっていても、自分じぶん自身じしん責任せきにんがあるわけではない。まして、その責任せきにん追求ついきゅうされることはない。その意味いみでも、自分じぶん自身じしん判断はんだんするより、はるかに気楽きらくである。
 【3】したがって、主体しゅたいてき判断はんだんして、行動こうどうしたいという欲求よっきゅうをのぞけば、ともすれば他人たにん集団しゅうだん依存いぞんして行動こうどうしてしまいがちになる。おとなでもこんなことがよくあるとすれば、いまだ判断はんだんりょくけるどもたちの場合ばあい、どうしても他人たにん依存いぞんになってしまう。【4】しかし、われわれが社会しゃかい生活せいかつおくっていく以上いじょう自分じぶんかんがえ、自分じぶん自身じしん判断はんだんしなければならないことは当然とうぜんのことであり、ときにはきびしい決断けつだんせまられることもすくなくない。
 それなくして、一般いっぱんてき社会しゃかい生活せいかつおくることすら困難こんなんといっても過言かごんではない。【5】ところが、さきほどもべたように、こんな当然とうぜんのことがなかなかできない。したがって、よほど意識いしきてき教育きょういくしていかなければ、他人たにん依存いぞんになってしまう。【6】ところが、どもたちをりまく最近さいきん教育きょういくじょうきょうは、これに逆行ぎゃっこうしていることがすくなくない。そのせいか、自分じぶん判断はんだんできない、自己じこ決定けっていできない、したがって自分じぶん自身じしん指針ししんをもたないまま行動こうどうしてしまうどもがおおいという。
 【7】つまり、他人たにん依存いぞんであり、集団しゅうだん依存いぞんであり、状況じょうきょう支配しはいされやすいといった傾向けいこうである。いや、他人たにん依存いぞん集団しゅうだん依存いぞんならまだしも、自分じぶんがどう行動こうどうすればよいのか「指示しじ」されるのをひたすらもとめ、その「指示しじ」どおりにしか行動こうどうできない。【8】しかも、もとめている「指示しじ」は漠然ばくぜんとしたものではない。ことこまかな行動こうどう指針ししんでないと、かえって混乱こんらんしてしまう。まさに、「指示しじまち」であり、「マニュアル願望がんぼう」である。【9】その意味いみでは、もはや自分じぶん判断はんだんできない、決断けつだんできないといった問題もんだいではない。優柔不断ゆうじゅうふだんといったレヴェルではなく、自分じぶん自身じしん判断はんだん決断けつだんを、最初さいしょから放棄ほうきしているといってもよい。
 こんな状態じょうたいであっても、どもの場合ばあいであれば、まだ可能かのうせいはある。【0】しかし、このことは、大学生だいがくせいにもそのままてはまる。あるいは、新卒しんそつ社会しゃかいじんおなじかもしれない。「指示しじ」しなければ、「マニュアル」をあたえなければ、なにもできない。最近さいきん、よくみみにする言葉ことばである。うちの学生がくせいをみていても、このことはよくかんじる。たとえば、「レポートのテーマは自由じゆう」というと、あきらかに困惑こんわくしている。
 このことを研究けんきゅうしつ学生がくせいにきいてみても、テーマは自由じゆうというのはかえってこまる。なにかテーマがあったほうがきやすいという。たしかにそうかもしれないが、それより自分じぶんでテーマをみつけるということが苦手にがてらしい。事実じじつ、なんらかの課題かだいあたえれば、かれらはそれなりの仕事しごとをする。ひょっとしたら、「テーマが自由じゆう」の場合ばあい、レポートをいている時間じかんより、テーマをさがしている時間じかんのほうがながいのかもしれない。
 むろん、こうしたことはレポートのテーマだけではない。一事いちじ万事ばんじこうした状態じょうたいである。そして、いまの学生がくせいはたんなる「指示しじ」をもとめているのではなく、「テーマされた指示しじ」をもとめていることもまちがいない。つまり、かれらは自分じぶんかんがえ、判断はんだんし、決断けつだんするといった作業さぎょうれていないといってよい。

はた政春まさはる文章ぶんしょうによる)


長文ちょうぶん 9.3しゅう
 【1】文化ぶんかということを、ここでは日常にちじょう生活せいかつにあらわれているめんからかんがえていって、ヨーロッパと日本にっぽんのそれをくらべてみると、最初さいしょおもいうかぶのは、つぎのことである。【2】わたしいち年余ねんよドイツに滞在たいざいしてけた印象いんしょうからいうと、先方せんぽう長所ちょうしょ短所たんしょも、一般いっぱん人々ひとびとにおける市民しみん意識いしき堅固けんごさに関係かんけいするのであった。【3】今世紀こんせいきにいたって崩壊ほうかいしたといわれる市民しみん生活せいかつ、ないし市民しみん意識いしきは、むかしにくらべればすき間風まかぜだらけなのであろうが、外来がいらいしゃわたしたちにとっては、それがいまなおあらゆるひと生活せいかつつよ背骨せぼねをなしていることにおどろかされるのである。【4】職業しょくぎょう地位ちい階級かいきゅうとうべつなしに、人間にんげん市民しみんとしてたがいに対等たいとう存在そんざいである。で、各人かくじんはそういうものとして自己じこ把握はあくしているから、個人こじんとしてのそのありかたが独立どくりつてきで、つよくたのもしい。そして社会しゃかいはこういうひとたちのい、約束やくそくである。
 【5】日本にっぽん生活せいかつ意識いしきにおいては、このことは、一部いちぶひとたちに概念的がいねんてきにうけとられているほかは、いまなおまったけているのである。それは敗戦はいせんじゅう年間ねんかんのデモクラシーの談義だんぎだけで、樹立じゅりつされうるようなやさしいものではない。【6】で、これをどういう方向ほうこうへもっていくようにしたらいいかということになれば、方法ほうほう手順てじゅんにおいては、種々しゅじゅかんがかたがあろうが、到達とうたつてんとしては、すべてがつよ対等たいとう人格じんかくとなることが目標もくひょうだと、わたしはいまなおかんがえるのである。【7】このことをないがしろにしては、社会しゃかい外観がいかんてき整備せいびされても、内実ないじつ浮動ふどうをくりかえすだけだとおもう。この目標もくひょうは、人間にんげん生活せいかつがいかに集団しゅうだんてきになっても、不動ふどうでなければなるまい。【8】このことが、こんにち、また将来しょうらい日本にっぽん文化ぶんかかんがえるときの筆者ひっしゃだいいちのたてまえである。
 前述ぜんじゅつのヨーロッパの長所ちょうしょは、同時どうじ短所たんしょをともなっている。つよい市民しみん意識いしきは、非常ひじょうにしばしば、せまくるしい、自己じこ満足まんぞくてきな、そして利己りこてきなにおいを発散はっさんさせる。【9】ひとの生活せいかつ無用むよう干渉かんしょうしないかわりに、自分じぶんさえよければいいという態度たいどが、ほのみえる。社会しゃかいにおいていち存在そんざいとしてとおるということだけに最終さいしゅう目的もくてきがあるかのように、外的がいてき立派りっぱさのかげに、空虚くうきょがのぞいている。【0】すこ飛躍ひやくてきえば、それはあいにとぼしい生活せいかつである。近代きんだい現代げんだい詩人しじん思想家しそうかおおくは、このてんにつまずきをかんじて、痛烈つうれつ反抗はんこうこえをあげたのである。このことは、わたしがとくにドイツにおお滞在たいざいしたから、かんじたのかもしれない。中央ちゅうおう集権しゅうけんてき国家こっか形態けいたいじゅうきゅう世紀せいき後年こうねんにいたるまでいて、そのも、地方ちほう主義しゅぎ割拠かっきょ主義しゅぎ特徴とくちょうとしてきたこのくにのありかたが、各人かくじんに、せまいからのなかの安穏あんのん着実ちゃくじつ生活せいかつてることを第一義だいいちぎとさせ、これが、ドイツは市民しみんてきなヨーロッパのなかでも、もっとも市民しみんてきくにだと、よくいわれるおも原因げんいんになったのかもしれない。だが、わたしかんじたところでは、程度ていどこそあれ、またから大小だいしょうちがいはあれ、いまもヨーロッパはおしなべてどこも市民しみんてきなのであって、したがって、一般いっぱんに、なにほどか、せまくるしくて、自己じこ満足まんぞくてきで、あいにとぼしいのである。
 現代げんだい日本人にっぽんじんが、やがて自立じりつてき個人こじんのありかたというかれらの文化ぶんか長所ちょうしょにつけるときがあるにせよ、この短所たんしょまでもいっしょにれるのではつまらない。それでは創造そうぞう活力かつりょくきあがってこない。しかし長所ちょうしょ短所たんしょ分離ぶんりしてれるということは、おそらく不可能ふかのうではないか。それについてわたし予感よかんするところはこうである。ヨーロッパてき市民しみんせい模型もけいとして、個人こじん強力きょうりょく自己じこ把握はあくをめざすなら、おそらく前述ぜんじゅつした長所ちょうしょ短所たんしょ分離ぶんりてき摂取せっしゅ不可能ふかのうである。しかしそれではいけない。人格じんかく確立かくりつということは、他人たにん模型もけいうのでなく、現代げんだい日本人にっぽんじんが、現在げんざいにおける自分じぶん自身じしん生活せいかつ基盤きばんから、自力じりきをもって追求ついきゅうしていかねばならない。とすれば、これは、たいへんな仕事しごとである。統制とうせいてき押売おしうりてき手段しゅだんは、いかなるものでも、事柄ことがら根本こんぽんてきにこわす。すべては、日本人にっぽんじん自身じしん内部ないぶからのちからいて、なされねばならぬのである。


長文ちょうぶん 9.4しゅう
 テレビやラジオにいわゆる教養きょうよう番組ばんぐみおおくなった。また、日本にっぽんしょ外国がいこく文物ぶんぶつ風土ふうど紹介しょうかいし、現状げんじょう分析ぶんせき批判ひはんするような現地げんち報告ほうこく番組ばんぐみおおくなった。それらはそれぞれにおもしろい。おもしろい以上いじょうに、ときにわれわれに疑問ぎもんをなげかけてくる。ところで残念ざんねんながら電波でんぱジャーナリズムというものは、疑問ぎもん自分じぶんかんがえてみたいから、一寸ちょっとちょっとってくれ、といってもってくれない。電波でんぱ機械きかいてきなテンポをもってさっさとあゆってしまう。われわれはかんがえることはやめて、みみでついてゆかなければ前後ぜんご脈絡みゃくらくうしなってしまう。
 じゅうふんさんじゅうぶん番組ばんぐみわると、とっさにとんでもないコマーシャルがこえてきたり、なん関係かんけいもない音楽おんがくになったりさては白菜はくさい、トマトのひゃくグラムたりの今日きょう値段ねだんになったり、美容びよう体操たいそうになったりする。るともなく、くともなくそれらをきしているうちに、さきに疑問ぎもんおもい、かんがえてみたいとおもったことも、どこかにえて、あとかたもなくなってしまう。
 このことの人間にんげんおよぼす影響えいきょうはかなりおおきい。現代げんだいにおいて、人間にんげん生活せいかつ生涯しょうがい断片だんぺんし、瞬間しゅんかんし、昨日きのう今日きょう今年ことし来年らいねんとのあいだ精神せいしんのつながりが稀薄きはくになったことがわれている。これにはいろいろな原因げんいんがあろう。たとえば仕事しごと分業ぶんぎょうし、専門せんもんし、機械きかいして、人間にんげん経験けいけん過去かこ蓄積ちくせき不用ふようにするという傾向けいこうつよまってきているということもその原因げんいんのひとつであろう。さらにいえば、そのひと個性こせい必要ひつようとしないのみか、はんかえって個性こせい邪魔じゃましゃとするような職場しょくば仕事しごとおおくなってきた。機械きかい番人ばんにん、また追随ついずいしゃになることが要求ようきゅうせられる、ということもある。経験けいけん個性こせいもいらないということは、人間にんげんから誰々だれだれでなければならぬということをうばい、アノニムな存在そんざいすなわだれでもかまわないだれかですむということである。そういうことを長年ながねんにわたってやっておれば、人間にんげん断片だんぺん当然とうぜんこってくるだろう。
 精巧せいこう機械きかい自動じどう機械きかいおおくなれば、人間にんげん労働ろうどう時間じかんすくなくしても、生産せいさん増加ぞうかすることができるだろう。生産せいさん合理ごうりは、今日きょうではそういう方向ほうこうですすめられている。いちにち労働ろうどう時間じかんろくあいだになり、しゅうにちせいになるということもこってくるだろう。当然とうぜんに閑、休暇きゅうかおおくなる。さてそのできた閑な時間じかんをラジオやテレビをき、ることにあてるとすれば、それらはすでにいったような性格せいかくのものだから、前後ぜんご持続じぞくしない断片だんぺん拍車はくしゃをかけるという結果けっかになる。
 みぎのことは、現代げんだいという時代じだい必然ひつぜんてき傾向けいこうだから、ある意味いみではやむをえないことであるが、さてそれでいいのかとかんがえてみればそれではこまるのである。やむをえないとしても、いいとはいえないのである。ここに問題もんだいがある。
 人間にんげん断片だんぺんし、瞬間しゅんかん瞬間しゅんかん生存せいぞんする存在そんざいするということは、自己じこ自身じしんたいして責任せきにんわなくなるということである。また自分じぶん自身じしん一生いっしょう生涯しょうがいというものをもたず、としごととしごとふかまる年輪ねんりんをもたないということである。夫婦ふうふ親子おやこ師弟してい友人ゆうじん間柄あいだがらが、そのときどきの都合つごうによるむすびつきとなって、持続じぞくする愛情あいじょう尊敬そんけいもなくなるということである。これは人間にんげんにして人間にんげんらしくないかた非行ひこう人間にんげんだとわたしおもう。過去かこいながら未来みらいおもい、現在げんざいにおいて現在げんざいえたもの、すなわ人生じんせい自分じぶん存在そんざい意味いみおもい、その意味いみ認知にんちすることによろこびをかんじ、また現在げんざい自己じこ不満ふまんかんじるということが、人間にんげん動物どうぶつから区別くべつしている特質とくしつである。

唐木からき順三じゅんぞうとデカダンス」)