(Translated by https://www.hiragana.jp/)
課題集
長文ちょうぶん 10.1しゅう
 【1】流行りゅうこうという言葉ことば対義語たいぎご不易ふえきだ。時代じだい変化へんかわせてわるものがあると同様どうように、時代じだいとおしてわらないものもある。
 流行りゅうこう意識いしきすることは、社会しゃかい生活せいかつ円滑えんかつおこなうためにかせない。【2】たとえば、とおはなれた場所ばしょくのに、いまどき牛車うしぐるまぎっしゃ使つかひとはいない。もちろん、人力車じんりきしゃ使つかわない。現代げんだいなら自動車じどうしゃ普通ふつうだが、環境かんきょうへの負荷ふかかんがえて、今後こんご自転車じてんしゃになり、やがて科学かがく進歩しんぽによってタケコプターのような交通こうつう手段しゅだんになるかもしれない。【3】こういう外見がいけん変化へんか流行りゅうこうだ。
 流行りゅうこう大切たいせつさについては、うまでもない。とくに、現代げんだいのようにIT技術ぎじゅつ進歩しんぽはや時期じきには、流行りゅうこう流行りゅうこう活用かつようすることは一層いっそう重要じゅうようになる。
 【4】たとえば、いまのIT技術ぎじゅつ前線ぜんせんのひとつはソーシャルサービスだ。ネットによるコミュニケーションが日常にちじょうし、リアルな世界せかいのコミュニケーションと同様どうよう人間にんげん社会しゃかい生活せいかつふかささえるものになっている。
 【5】しかし、だから、その普及ふきゅうともな弊害へいがい当然とうぜんある。イギリスでは、ソーシャルサービスのひろがりによって中学生ちゅうがくせいほんまなくなったとう。テレビがはじめて登場とうじょう普及ふきゅうしたときも、いちおくそう白痴はくちさけばれた。テレビゲームのときも、携帯けいたい電話でんわのときも、家庭かていなかおおくの葛藤かっとうがあったはずだ。
 【6】しかし、そういう弊害へいがいえなければ、あたらしい活用かつようほうにつかない。流行りゅうこうつマイナスめんけて過去かこにしがみつくのではなく、流行りゅうこうのプラスめんて、その弊害へいがい知恵ちえ工夫くふうによって克服こくふくしていくのが、もっと現実げんじつてき対応たいおうえるだろう。
 【7】不易ふえきとは、外見がいけん変化へんかにもかかわらず、わらない本質ほんしつのことだ。たとえば、牛車うしぐるまから自動車じどうしゃへ、自動車じどうしゃからタケコプターへという変化へんかかんがえたとき、わらないものは、ある場所ばしょから場所ばしょへの移動いどうそのものであり、その移動いどうともな周囲しゅういへの配慮はいりょなど、時代じだいえて不変ふへんなものだ。
 【8】牛車うしぐるまぎっしゃ時代じだいに、せまみちをすれちが牛車うしぐるまぎっしゃどうしでゆずいがあったように、タケコプターの時代じだいにもゆずいはある。これが不易ふえきだ。
 このようにかんがえると、流行りゅうこう不易ふえきとは対立たいりつするものではなく、むしろ流行りゅうこうがあるからこそ不易ふえきがあり、不易ふえきつらぬかれているからこそ流行りゅうこうがあるともえる。
 【9】そうかんがえれば、不易ふえき流行りゅうこうは、ものがわにあるのではなく、ひとがわにあることがわかる。変化へんかする状況じょうきょうわせて自分じぶんらしくあること、これが不易ふえき流行りゅうこうむすびつけるようなのではないだろうか。【0】

言葉ことばもり長文ちょうぶん作成さくせい委員いいんかい Σしぐま



長文ちょうぶん 10.2しゅう
 【1】なんでもよくっていて、つぎからつぎへと、どんな問題もんだいについても、よくはなしをするひとがいる。じっといていると、はなしている内容ないようは、ほとんどが新聞しんぶん雑誌ざっしていたこと、あるいはテレビでだれかがはなしていたこと、つまり「情報じょうほう」なのである。【2】それをみぎからひだりへとながしているだけのことだ。はなしのある部分ぶぶんについて、疑問ぎもんてんたしかめたいとおもってくわしくくと、はっきりした「知識ちしき」をっているわけではないからこたえられない。【3】しかも、「情報じょうほう」をほとんどりしているだけで、その中身なかみ自分じぶんかんがえによって吟味ぎんみしていないから、どんなはなしをしてもそのひと人生じんせい経験けいけんらしたうえでの「知恵ちえ」になっていない。【4】わざわざ「情報じょうほう」「知識ちしき」「知恵ちえ」というみっつのことばにかぎカッコをつけたのには意味いみがある。ひとはなしとき、その内容ないようを、このみっつに分類ぶんるいしながらくと、なかなか面白おもしろいからだ。【5】むろん情報じょうほうたいとおもってはなしときには、情報じょうほう的確てきかくられればいので、うまく情報じょうほうつたえてくれるひとこのましい。また知識ちしきについてもおなじことがえる。さん番目ばんめ知恵ちえが、もっと興味深きょうみぶか分野ぶんやである。知恵ちえがあるかどうかは学歴がくれきなどとはまったく関係かんけいがない。【6】なかには、情報じょうほうにはうといかもしれないが、ゆたかな人生じんせい知恵ちえったひとがいる。そうかとおもうと、情報じょうほうにはやたらくわしいのに、まったく知恵ちえのことばをかないひとがいる。【7】そして、人間にんげんとして魅力みりょくがあるのは、もちろん知恵ちえのあるひとである。取材しゅざいしていてもはっとさせられるのは知恵ちえのことばをときである。普段ふだん無口むくちだが、くちけば知恵ちえのことばをかたるというひとがいる。【8】しっかりときてきた、その個人こじん存在そんざいかんじさせられる。対照たいしょうてき情報じょうほうばかりをぐるぐるまわしつづけ、情報じょうほうおどらされるひと人生じんせいとはなにだろう、とおもわされる。知恵ちえがあるかないかは、いちいつに、ものを自分じぶんあたまでじっくりとかんがえているかいないか、のちがいではないかとおもう。
 【9】T・S・エリオットという詩人しじんがいる。このひとに、みぎみっつをんだ、こういう文章ぶんしょうがある。「わたしたちが、知識ちしきなかうしなった知恵ちえはどこにある。わたしたちが、情報じょうほうなかうしなった知識ちしきはどこにある。」これは、なが一部いちぶである。【0】みっつのものについてエリオットがかんがえていたこと、さんしゃ関係かんけいをどうとらえていたかということが、ここにうまく表現ひょうげんされている。(中略ちゅうりゃく
 最近さいきん世相せそうひょうするのによく使つかわれるのは、いわゆるマニュアル文化ぶんかということばである。あるとき作家さっか山田やまだ太一たいちさんとはな機会きかいがあった。いろいろなはなしなかで、マニュアル文化ぶんかはなした。そうしたら、かれがこういう実例じつれいをあげた。いの有名ゆうめい俳優はいゆうが、芝居しばい稽古けいこ合間あいまにファーストフードのみせったというのである。一座いちざ人々ひとびと昼食ちゅうしょくうためで、ハンバーガーかなにかをじゅうすううつもりだった。注文ちゅうもんしたら、注文ちゅうもんけたむすめさんが、それを復唱ふくしょうしたあと、「ここでおがりになりますか。」といた。俳優はいゆうはあっけにとられた。「おい、よくろよ。ここにいるの、おれ一人ひとりじゃないか……。」むすめさんは、マニュアルに沿った応対おうたいをし、められた順序じゅんじょで、められた発言はつげんをしただけなのだろう。忠実ちゅうじつなのはいいが、まえ現実げんじつかんがえる、という自分じぶん能力のうりょく自由じゆうとをわすれているとしかおもえない。山田やまださんとしばらくわらったあと、わらごとではないですね、というはなしになった。
 新聞しんぶんのコラムを執筆しっぴつしていて、かんがえるということについておおいにかんがえさせられた。いまの教育きょういくは、家庭かていでも学校がっこうでも、十分じゅうぶんかんがえる訓練くんれんをしているだろうか、どもは自分じぶんあたまでじっくりかんがえるためのゆとりをあたえられているだろうか、という疑念ぎねんあたまはなれない。むろん、あいだだいどもだけではない。フランスに、ジャン・ギットンという哲学てつがくしゃ神学しんがくしゃがいる。このひとほんに、こういう一文いちぶんがある。「学校がっこうとはいちてんからいちてんへのさい長距離ちょうきょりおしえることであると、わたしいたい。」おもうに名言めいげんである。わたしは、このことばをよくおもこす。ある人々ひとびとは、さい長距離ちょうきょりいただけで、えられないながさと想像そうぞうするかもしれない。その最長さいちょう距離きょりを、道草みちくさのようにおもひともいるかもしれない。しかし、どもは自分じぶんあたまかんがえたり、かんじたりしながら、ながなが距離きょりあるき、それによって自分じぶんらしい成長せいちょうをとげるのである。ギットンはなによりも、かんがえることの大切たいせつさをいた。かんがえる訓練くんれんをしなければならないのはどもばかりではない。教師きょうし大人おとな同様どうようである。さきにべた「情報じょうほう」と「知識ちしき」と「知恵ちえ」のみっつにそくしてえば、先生せんせい教室きょうしつなかはなしたことのなかどもが成人せいじんしたのちもいつまでもおぼえているのは、たいてい「知恵ちえ」のことばである。 (白井しらい健策けんさく天声てんせい人語じんごななねん」から)


長文ちょうぶん 10.3しゅう
 【1】あるあさわたしいちさつほんと、ひときれのパンをポケットにれていえて、くままにあるいてった。少年しょうねん時代じだいにいつもそうしたように、わたしはまずいえうらにわはいった。そこにはまだたっていなかった。【2】ちちえたモミの木立こだちわたしがまだほんのおさない、ほそ若木わかぎだったのをおぼえているモミの木立こだちががっしりとたかくそびえ、そのしたにはあわたん褐色かっしょくはりもっていた。【3】そこにはすう年来ねんらいツルニチニチソウのほかはなにそだとうとしなかった。が、そのかたわらの細長ほそながふちどり花壇かだんには、ははえた宿根草しゅっこんそうえていて、ゆたかに、たのしげにはなをつけていた。
 【4】休日きゅうじつのくつろいだ気分きぶんで、わたしはなからはなへとあるき、あちらこちらで芳香ほうこうはなかたちはなにおいをかいだり、指先ゆびさき注意深ちゅういぶかくひとつのはなのがくをひらいてのぞきこんで、神秘しんぴてきしろっぽいいろのうてなと、花弁はなびらみゃくや、めしべや、やわらかいのあるおしべや、きとおった導管どうかんなどの絶妙ぜつみょう配列はいれつ観察かんさつしたりした。【5】そのあいだにわたしくもおおあさそらながめた。そこには、ほそ綿めんとなってたなびくきりと、羊毛ようもうのようにふわふわしたちいさなうろこくもが、奇妙きみょうみだれてひろがっていた……。
 不思議ふしぎな、あるひそかな不安ふあんかんじながら、わたし少年しょうねん時代じだいよろこびをあじわった、なじみの場所ばしょまわした。【6】ちいさなにわや、はなかざられたバルコニーや、湿しめった、たらない、敷石しきいしこけ緑色みどりいろになった中庭なかにわわたしつめた。それらは、むかしとはちがったかおをしていた。はなたちさえもつきることのないその魅力みりょくをいくぶんかうしなっていた。【7】にわすみふるみずおけ水道すいどうせんとともにひっそりとそっけなくっていた。そこでむかしわたし水車みずぐるまをとりつけ、半日はんにちものあいだすいしっぱなしにして、ちちなやましたものだった。路上ろじょうにダムや運河うんがきずいて、だい洪水こうずいこしたのである。【8】風雨ふううにさらされたそのみずおけは、わたしにとって忠実ちゅうじつなおりで、気晴きばらしの相手あいてであった。それをつめていると、あのどものころよろこびの余韻よいんさえパッとしんかんでくるのであった。が、それはかなしいあじがした。【9】そのみずおけはもういずみでもなく、大河たいがでもなく、ナイアガラのたきでもなかった。
 物思ものおもいにふけりながら、わたし垣根かきねをよじのぼってえた。一輪いちりんあおいヒルガオのはなが、わたしかおにかるくれた。わたしはそれをみとってくちにくわえた。【0】そのときわたしは、散歩さんぽをして、やまうえからまち見下みおろしてみようとしんめていた。散歩さんぽをするのも、本当ほんとうたのしいくわだてではなかった。以前いぜんならば、けっしておもいつくことなどなかっただろう。少年しょうねん散歩さんぽなどしない。少年しょうねんは、もりくなら盗賊とうぞくか、騎士きしになってく。かわくならいかだりか、漁師りょうしか、あるいは水車みずぐるまづくりになってく。草原そうげんはしるのは、ちょう採集さいしゅうかトカゲりにくのだ。こうしてわたし散歩さんぽは、自分じぶんなにをしたらよいかわからない大人おとなの、上品じょうひんだが少々しょうしょう退屈たいくつ行為こういのようにおもわれた。
 あおいヒルガオはまもなくしぼんでてられた。そして今度こんどはもぎったブナのしょうえだをかじった。にがい、こうばしいあじがした。たかいエニシダのえている鉄道てつどう土手どてのところでいちひきのみどりいろのトカゲがわたしあしもとをはしってげた。すると、またわたししん少年しょうねん気持きもちがふっと目覚めざめた。わたしはじっとしていられず、はしったり、しのびったり、ちぶせしたりして、ついににちたってあたたかなおくびょうなトカゲを両手りょうてらえた。わたしはその光沢こうたくのある、ちいさな宝石ほうせきのようなをのぞきこみ、少年しょうねんのころのりのたのしみの余韻よいんあじわいながら、そのしなやかで力強ちからづよいからだとかたあしわたしゆびのあいだで抵抗ていこうし、るのをかんじた。だがそれからよろこびはえてしまった。つかまえた動物どうぶつをどうしたらよいのかまったくからなくなった。どうすることもできなかった。それをっていてももう幸福こうふくかんはなかった。わたし地面じめんにかがみこんで、ひらいた。トカゲは一瞬いっしゅんおどろいて、横腹よこばらをはげしくいきづかせながらじっとしていたが、それからわきもふらずにくさなか姿すがたした。汽車きしゃかがや鉄路てつろはしってて、わたしのそばをとおぎた。それを見送みおくったわたしは、一瞬いっしゅん非常ひじょうにはっきりと、ここではもうわたし本当ほんとうのよろこびがはなくことはないとかんじた。そしてあの列車れっしゃってなかきたいと、しんそこからおもった。
 (ヘルマン・ヘッセさく フォルカー・ミヒェルス へん 岡田おかだあさ


長文ちょうぶん 10.4しゅう
 都会とかいにはむろんのこと、日本にっぽんまち々には、ある大切たいせつ要素ようそけている。
沈黙ちんもくである。静寂せいじゃくである。
 (中略ちゅうりゃく
     わが屋戸やとやどのいささ群竹むらたけむらたけふう
          おとのかそけきこのゆうべかも
 ゆうふうにそよいで、かすかなずれのおとをたてている群竹むらたけ作者さくしゃ大伴家持おおとものやかもちは、その静寂せいじゃくにじっとみみかたむけている。このような、かそけきおとにひかれるしん姿すがたというものこそ日本人にっぽんじん特有とくゆう姿すがただった。古池ふるいけかえるかわずおと、ほかのくにひとたちがいても、おそらくなんの感興かんきょうかんきょうもおこさないであろうような、そのようなおとを、日本人にっぽんじんなに世代せだいにもわたってあじわいつづけてきたのは、それが「おと」だったからではない。「しずけさ」だったからなのだ。ぜんやませみしぐれ、いわにしみるようなそのせみこえ芭蕉ばしょうみみをとられ、そして、その一句いっくに「しずかさや」という適切てきせつはつかたりいた。
 しずかさというものは、おとのない状態じょうたいをいうのではない。おとおととして、くっきりかびがる、そのような空間くうかん時間じかんをさすのである。おとは「静寂しじま」というカンバスにえがかれて、はじめて「おと」になるのであり、同様どうようしずかさというものは、そこにおとがくっきりとかびがることによって「静寂しじま」となる。
 のたぎるおと茶室ちゃしつ静寂しじまをささえ、かかといかけひ水音みずおとにわ閑寂かんじゃくをいっそうふかいものにする。かぼそいむしこえあきよるしずけさをび、炭火すみびのはじけるおとふゆ午後ごご沈黙ちんもくむ。こうした「おと」と「静寂しじま」のこよなき調和ちょうわこそ、日本人にっぽんじんあいした生活せいかつ空間くうかんであり、らしの時間じかんだった。
 だが、「文明ぶんめい」がすすみ、「文化ぶんか」が発展はってんするのと歩調ほちょうわせて、静寂しじまわたしたちから、反対はんたいとおざかってしまった。日本にっぽん都会とかいの、日本にっぽんまち々のどこに、「群竹むらたけのかそけきおと」をみみにしうる場所ばしょがあろうか。ほんのわずかでも、ほんのいっときでも、しずかにおもいにふけることのできる空間くうかん時間じかんが、都会とかいの、まち々のどこにのこされているというのか。
 まったぎゃくなのである。わたしたちの文明ぶんめいとは、静寂しじま騒音そうおんえることだったのであり、わたしたちの文化ぶんかとは、「かそけきおと」を拡声かくせいでただやたらに増幅ぞうふくすることだったのだ。
 日本にっぽんまち々には、便利べんりさのための、ありとあらゆる施設しせつつくられている。そして、これからもつくられようとしている。たったひとつ、「静寂しじま空間くうかん」をのぞいて。
 現代げんだい日本にっぽん文明ぶんめいは、静寂しじまだけはつくりだすことができないのである。いや、つくりだせないのではなく、つくりだそうとおもわないのだ。静寂せいじゃく空間くうかんとは、空白くうはく空間くうかんであり、むだな空間くうかんだとおもっているからである。自然しぜん真空しんくうをきらうというが、現代げんだい日本人にっぽんじん沈黙ちんもくをきらう。きらうのではなくて、おそれているのだ。だから、すこしでも、静寂しじま場所ばしょがあれば、あわててそこを騒音そうおんでふさごうとする。
 武器ぶき拡声かくせいである。えきでも、交差点こうさてんでも、公園こうえんでも、横丁よこちょうでも、喫茶店きっさてんでも、ホテルのロビーでも、大学だいがく構内こうないでも、寺院じいんでさえ、いま騒音そうおんなしには存在そんざいしえない。いわにまでしみむほどの「しずかさ」のちからを、日本にっぽん社会しゃかいは、とうとう文明ぶんめいによって追放ついほうしてしまった。そして、人々ひとびと沈黙ちんもく恐怖きょうふからすくし、静寂しじま不安ふあんからした。
 さあ、もう安心あんしんするがいい。どこにいても、騒音そうおんっている。どうだ、さびしくないだろう……。
 こうして、人々ひとびとは、騒音そうおんかれ、そのなか安心あんしんしていこい、ねむる。
 しかし、これほど夢中むちゅうになっておと製造せいぞうしたにもかかわらず、わたしたちは、じつ何一なにひとつ「おと」をいていないのである。こうにも、くことができないのだ。わたしたちのまわりに、いったい、生活せいかつのどんなおとがあるというのか。
 おりにふれ、人々ひとびとは、夜明よあけとともにこえてきた納豆なっとうりのこえゆうべとともにひびいた豆腐とうふのラッパのおとなつかしむ。だがそれは、をいうと、物売ものうりのこえやラッパのおとそのものをなつかしんでいるのはなく、そうした生活せいかつおとをしみじみとくことができた「しずかさ」への郷愁きょうしゅうなのである。げんに、それにわる生活せいかつおとなら、いまだってまわりにたくさんあるではないか。けれど、わたしたちには、もうそれがこえない。なぜなら、おとひとひとつが、くっきりとかびがってくるようなしずかな空間くうかん沈黙ちんもく時間じかんててしまったからだ。そして、すべてのおとを、「文化ぶんか」ののもとに、たんなる騒音そうおんにつくりえてしまったからである。
 島根しまねけんやまあい、津和野つわのまちで、わたしひさしぶりにわすれていた「おと」をいた。それは、まちのいたるところをながれる用水ようすいのささやきだった。
このまちには、きゅうせんにんという人口じんこうじゅうばいものこいはなされているのだ。
 よるはちわたし宿やどた。祇園ぎおんまちとおり、新町しんまちどおりをけ、殿町とのまちぎ、大橋おおはしわたった。どこをあるいても、あしもとに用水ようすいおとがついてきた。それはまさしく津和野つわのまちおとだった。
 さんひゃく年来ねんらい、このまちひとたちはこいってきた。「べない、らない、ころさない。」といって。だが、人々ひとびとはただこいをだいじにしたのではない。こいをだいじにすることによって、この用水ようすいおと大切たいせつにしてきたのだ。みずの「こえ」にみみかたむけることのできるしずかさを。
 大橋おおはしって、わたしあらためておもう。
 日本にっぽんらしのなかで、どんな「かそけき」おとでもくことができ、それにみみかたむけることができる。そのような空間くうかんをつくること、そのような時間じかんをもつこと、これこそが本当ほんとう文化ぶんか本当ほんとう生活せいかつなのではなかろうか、と。

森本もりもと哲朗てつろう日本にっぽんのたたずまい」)



長文ちょうぶん 11.1しゅう
 【1】交話機能きのうというのは、簡単かんたんえば、ことばがもつ、ひとひと気持きもちをむすびつける作用さようすものである。
 かんがえてみると、わたしたちがことばをもちいるとき、べつなにかをつたえたり、とくにあることについてかたるというわけでもなく、ただことばをはっすることそれ自体じたいに、しゅたるねらいのある場合ばあいがある。
 【2】たとえば、町中まちなか夜中よなかあたりにひとかげのまったくないとき、あるいは人里ひとざとはるかはなれた山道さんどうなどで、見知みしらぬひと出会であったとき、わたしたちはなんとなく不安ふあん気持きもちになり、緊張きんちょうすることがある。【3】そんなとき、おもいがけなく相手あいて一言いちげん今晩こんばんは」とか「いい天気てんきですね」などとこえけてくれると、きゅうらくになっておもわずはずんだこえであいさつをかえしてぎる、といった経験けいけんをもつひとおおいとおもう。このようなとき、もしなにわずにちがったりすると、なんとなくうしろがになるものである。
 【4】このようにひと他人たにん出会であうと、かならしんなか警戒けいかい不安ふあんおそれなどの気持きもちが、多少たしょうなりともまれるもので、都会とかい人混ひとごみにれきっている現代げんだいじんは、このことをあまり意識いしきする機会きかいがないが、いまべたような状況じょうきょうしたではその気持きもちが表面ひょうめんしてくるのだ。
 【5】にん出会であいのさい経験けいけんするこの生物せいぶつてき緊張きんちょうをほぐしやわらげ、つぎ交流こうりゅう段階だんかい支障ししょうなくつないでゆくきっかけ糸口いとぐちあたえることが、ぞくにあいさつとばれる言語げんご行動こうどうしゅたる役目やくめなのである。
 【6】具体ぐたいてき情報じょうほう伝達でんたつ目的もくてきとしない、したがって内容ないようがあまり重要じゅうようでないタイプの言語げんご活動かつどうは、あいさつのほかにも、たとえば雑談ざつだんやおしゃべり、さらには井戸端いどばた会議かいぎなどとしょうせられる、一般いっぱんには無意味むいみ無駄むだ時間じかんつぶしとかんがえられているものにられる。【7】このような場合ばあい、ことばをわしうことそれ自体じたいが、たがいのしんかよわせ、一体いったいかんたかめるはたらきをするのである。
 【8】おおくのひと仕事しごとはなし用件ようけんはいまえに、お天気てんきはなしたりさわりのないみじか会話かいわわすのも、これがおたがいの警戒けいかいしん敵意てきいよわ反対はんたい安心あんしんかんたかめる効用こうようがあるからである。
 【9】交話機能きのうとはこのように、人々ひとびと本格ほんかくてき対話たいわ関係かんけいはいるためのいわばひとしじならし、しん波長はちょう(ダイヤル)わせをおこなうものであり、対話たいわしゃどうしの一体いったいかん帰属きぞく意識いしきたかめる潤滑油じゅんかつゆとしてのはたらきなのである。【0】

 (「教養きょうようとしての言語げんごがく」(鈴木すずき孝夫たかお)による。岐阜ぎふけん



長文ちょうぶん 11.2しゅう
 【1】フィンランドの保健ほけん担当たんとう機関きかんがある調査ちょうさ実施じっししたというはなしんだ。食事しょくじ指導しどう健康けんこう管理かんり効果こうかがどのようなものであるかを科学かがくてき調しらべるためだったという。その結果けっかが、じつ興味深きょうみぶかい。
 【2】よんじゅうさいからよんじゅうさいまでの人々ひとびとろくひゃくにんえらんで、Aグループとした。このひとたちには、定期ていき検診けんしん栄養えいようがくてき調査ちょうさなどをけてもらう。また、運動うんどう毎日まいにちすること、タバコ、アルコール、砂糖さとうなどの摂取せっしゅおさえることを約束やくそくしてもらう。【3】そして、そういう健康けんこう管理かんりじゅう年間ねんかんつづけた。ずいぶんいきなが調査ちょうさである。この効果こうか比較ひかくのため、べつどういち条件じょうけんひとたちで構成こうせいされるろくひゃくにんのBグループをえらんだ。このひとたちには、いかなる健康けんこう管理かんり実施じっししなかった。
 【4】じゅうねんたって、AグループとBグループを比較ひかくすると、はっきりしたちがいがあらわれた。一方いっぽうのグループでは、病気びょうきになったひとかずすくなかった。それが健康けんこう管理かんり対象たいしょうとならなかったBグループだったというのである。【5】おどろいた医師いしたち、保健ほけん担当たんとう機関きかんひとたちが、なぜそのような事態じたいきたのかというてんについて、さらにその原因げんいんせま調査ちょうさ研究けんきゅうおこなった。その結果けっかは、治療ちりょうじょう保護ほご管理かんり依存いぞん抵抗ていこうりょく低下ていかをもたらすという結論けつろんだった。【6】この調査ちょうさ結果けっかは、まことに意味深いみしんちょうである。わたしたちのかた全般ぜんぱんについても、おおいにかんがえさせるものをきつけているようにわたしにはおもえる。
 【7】自然しぜんかいにいる動物どうぶつは、医者いしゃてはくれないから、自分じぶん自分じぶんからだをつけてらさなければならない。いま、自分じぶんからだものもとめているか、みず必要ひつようとしているかといったことについて、自分じぶん本能ほんのう内部ないぶでささやいているこえきとっているのだ。【8】ところが、そういう本能ほんのうをききわける感度かんどが、わたしたちの場合ばあい一般いっぱんに、おそろしくにぶってしまっている。Bグループの人々ひとびとは、そういうにぶっていた感覚かんかくこし、みがはじめたのではなかったろうか。
 【9】フィンランドのこの調査ちょうさ結果けっかは、そのままどもたちのそだかた教育きょういくのありかたにもつうじるはなしである。保護ほご依存いぞんむ。そして、自律じりつ自立じりつにつながるのだ。最近さいきんどもは、動物どうぶつとして活動かつどうする機会きかいすくないので、かわいそうだとおもうことがある。【0】本来ほんらいどもは動物どうぶつどもとおなじで、成長せいちょうするにしたがい、さまざまな状況じょうきょうにぶつかり、自分じぶん本能ほんのう相談そうだんしながら行動こうどう仕方しかた選択せんたくすることをおぼえてゆく。そういうがめっきりってしまった。「どもというものはみんな、ある程度ていどまで、世界せかいをふたたびはじめからきる」といたのは、米国べいこく思想家しそうか、へンリー・ソローである。
 大人おとなられぬようにあななどをさがしてもぐりんだ体験たいけんはだれにでもあるだろう。ただおもしろい、秘密ひみつ行動こうどうにわくわくするということだけではあるまい。穴居けっきょ時代じだい記憶きおくからではなかろうか。いし大事だいじしにしまったり、いしけりなどにきょうじたりしたのは石器せっき時代じだい名残なごりかもしれぬ。のぼり、昆虫こんちゅう採集さいしゅう魚釣さかなつり、はたけ仕事しごと家畜かちく世話せわ、そのすべてが太古たいこからの人間にんげんいとなみの延長えんちょうであり、狩猟しゅりょう漁労ぎょろう農耕のうこう牧畜ぼくちく復習ふくしゅうだったのではないだろうか。どもは、あたま使つかい、さらにさまざまな道具どうぐつくって使つかう、こういったあそびや手伝てつだいをするなかで、人類じんるい歴史れきしてき発展はってんをもう一度いちどたどっているようながする。
 どもいちにんひとりが動物どうぶつとしての感覚かんかくつづけ、みがきながら成長せいちょうするために、そういうことをたっぷりとおこなうことが必要ひつようである。これをわたしは「人類じんるいぜん課程かてい」とんでいるが、最近さいきんどもがこれを学習がくしゅうするのは、至難しなんのようだ。日本にっぽんまずしかったころにそだった世代せだいは、それこそ石器せっき時代じだいからぜん課程かていをやってきた。いまのどもは、まれるとすぐ、電子でんし機器きき自動車じどうしゃ飽食ほうしょくじゅう世紀せいき一足飛いっそくとびなのである。のおこしかたも、あいさつの仕方しかたらずにそだつようなことになる。動物どうぶつだって、それぞれ独特どくとく方法ほうほうであいさつするというのに。

 (白井しらい健策けんさく天声てんせい人語じんごななねん」の文章ぶんしょうによる。福井ふくいけん


長文ちょうぶん 11.3しゅう
 【1】このところ、ドストエフスキー、ファーブルなどとじゅうねん以上いじょうまえんだものを、もう一度いちどなおして、なんとなくよい気分きぶんである。古典こてんとはけっして「ふるいもの」という意味いみではない。永遠えいえんあたらしいものを古典こてんという。
 【2】時代じだい流行りゅうこう代表だいひょうするような作品さくひん次々つぎつぎにあらわれ、その時代じだいにはたくさんのひとまれるが、そのおおくは、いつのにかえていく。わかいころ、たいそうおもしろくんだ記憶きおくがあり、おもってなおしてみると、つまらないものであったりする。【3】どう時代じだい作品さくひんは、うつ風俗ふうぞく親近しんきんかんがあるし、またふる作品さくひんでもなんとなくその時代じだいによくける精神せいしん構造こうぞうっていたりすると、一種いっしゅ流行りゅうこうとなることがあるが、時代じだいわるとそのおおくは、あぶくのようにえてしまう。
 【4】古典こてんといえるものでも、ある時代じだいには、なりをひそめているが、べつ時代じだいにはよみがえってもてはやされることがある。作家さっか気質きしつ時代じだい気質きしつによくったり、そぐわなかったりするからだ。そだっていく子供こどもて、時代じだいには気質きしつがむらにあらわれるものだ。
 【5】だが、いずれにしても人間にんげんとは矛盾むじゅんした感性かんせいわせにっている複雑ふくざつきものなので、一人ひとり人間にんげんでも、ああもかんじたり、こうもかんじたり、破滅はめつゆめみたり、せいなる秩序ちつじょ情熱じょうねつかたむけたりする。【6】こういう人間にんげん性質せいしつは、どうやら人間にんげんきのびるかぎおなじらしい。なぜなら、地上ちじょうわざわいも破壊はかいもないかみくにとなり、というものがえうせたとしたら、まれいずるものもまたなくなり、それは人間にんげんくにではなくなってしまうだろう。【7】古典こてんとはそのもっと人間にんげんてきなものを、その時代じだい具体ぐたいてき素材そざいもちいて抽象ちゅうしょうなか表現ひょうげんているものである。
 【8】古典こてん現代げんだい生活せいかつでは日常にちじょうてきでない素材そざいもちいてあると、不思議ふしぎなことなのだが、抽象ちゅうしょう骨組ほねぐみがかえってはっきりとえてくることがある。そして、それが、現在げんざい日常にちじょうせいなか混乱こんらんしている思考しこうをしゃっきりとさせてくれることがあるものだ。
 【9】古典こてんはわたしをいつもすがすがしい気分きぶんにする。そのすがすがしさをあじわいたいばかりに、わたしは古典こてんにふける。わたしはそれがふるいという理由りゆうふるいものに特別とくべつ興味きょうみがあるわけではない。それがいまきていて、きているものがわたしにかたりかけるからみみかたむけるのだ。【0】 (大庭おおばみな大庭おおばみな全集ぜんしゅうだいじゅうかん』)


長文ちょうぶん 11.4しゅう
 カラーテレビは教育きょういくじょうよくない、白黒しろくろテレビのほうがよいという意見いけんがあることをいた。白黒しろくろテレビだとどもたちは自分じぶんである程度ていどまで着色ちゃくしょくしたイメージをえがきうるし、それはさまざまでありうる。ところがカラーテレビだとどもの想像そうぞうりょくがはたらく余地よちがない。想像そうぞうりょく創造そうぞうせい基本きほんだから、つまり創造そうぞうせい伸長しんちょうをさまたげる結果けっかになるのだという。
 白黒しろくろテレビが、見本みほんなしのぬりのように、いろについてのどもの想像そうぞうりょくをかきたてるという効果こうかはあるかもしれない。だがその場合ばあいいろにかんする想像そうぞうりょくうらづける、いわばそれに対応たいおうする、経験けいけん蓄積ちくせきがなければならない。そうでないなら、白黒しろくろ画面がめん着色ちゃくしょく画面がめん転化てんかしたイメージをもつことは困難こんなんだし、かりにそうしたことがなされたとしても、そこにったイメージは、きわめて単純たんじゅんでまずしいものでしかないだろう。どもけの怪人かいじん怪獣かいじゅうテレビをているとき、これはおとなでも同様どうようだとおもわざるをえないことがある。
 ところで、われわれ人間にんげん色彩しきさい豊富ほうふさをおしえるまずだいいちのものは、自然しぜんである。やまうみかわも、ひとひとつの植物しょくぶつ動物どうぶつも、なんと複雑ふくざつ微妙びみょう色彩しきさいみ、陰影いんえいによるその変化へんかしめすものであることか。わたしはガラパゴスのうみで、そらをあおいで熱帯ねったいとりねったいちょうばたきもせずにしょうけっていくのをたとき、そのしろそらあおとがともに単色たんしょくであるようにえながら、繊細せんさい色彩しきさい交響こうきょうしんにつたえてくるのにうたれた。
 絵画かいがは、どれほど自然しぜん忠実ちゅうじつであろうとしても、自然しぜん色彩しきさいのことごとくをそのまま再現さいげんすることはできない。そもそも、絵画かいがはそのようなことを目標もくひょうとはしないであろう。たとえば写実しゃじつてき風景ふうけいであっても、それは自然しぜんからの抽象ちゅうしょうをもとにした創造そうぞうあるいはさい創造そうぞうであるにちがいない。そして人間にんげんは、極度きょくど抽象ちゅうしょう単純たんじゅんのなかにあらたな発見はっけんする能力のうりょくをそなえている。現代げんだい絵画かいがにあらわれているくすんだ単色たんしょくあるいはそれにちか色彩しきさいでの画面がめん構成こうせいは、色盲しきもうてき夜行やこう動物どうぶつ世界せかいだといえなくはない。人間にんげんにとって、それもまたひとつのである。
 色彩しきさいばかりではない。もののかたちにかんしても同様どうようである。抽象ちゅうしょうにおける、ちょっとれば単純たんじゅん一本いっぽん曲線きょくせんとか、交錯こうさくするすうほん直線ちょくせんとかにも、その背後はいごには画家がか感受かんじゅされた豊富ほうふ外界がいかいがあるはずである。外界がいかい音響おんきょう、たとえばふうのいぶきやとりのさえずりと、音楽おんがく創造そうぞうとのあいだにも、同一どういつ関係かんけい指摘してきされるであろう。あるてんでは、音楽おんがくにおける抽象ちゅうしょう構成こうせいないしさい構成こうせいとは、絵画かいが場合ばあいよりいっそう高度こうどかもしれない。
 さて、現代げんだいにおいて人間にんげん生活せいかつ環境かんきょうから、自然しぜん急速きゅうそく追放ついほうされつつある。それにとってかわっているのは、人工じんこう世界せかいである。開発かいはつされ都市としのいちじるしくすすんだこの国土こくど風景ふうけい一見いっけんすれば、それは瞭然りょうぜんとしている。巨大きょだいなビル、しん家屋かおく舗道ほどう高速こうそく道路どうろ、そのほかうつるすべてのものは、色彩しきさい形状けいじょうも、自然しぜん対比たいひすれば単純たんじゅんされ抽象ちゅうしょうされている。だからといってうつくしくないというのではないが、その人工じんこううつくしさをうらづける自然しぜん本来ほんらい多彩たさいさがうしなわれてしまっていくのでは、やがては人工じんこうのまずしさを招来しょうらいすることになるであろう。
 人間にんげんがどんな環境かんきょうでもきられるという、その高度こうど順応じゅんのうせいは、こうした問題もんだいをむずかしくしている。密林みつりんのなかでなんじゅうねんもくらすことが不可能ふかのうではないし、団地だんちのせまいアパートにひしめきあって生活せいかつすることもできる。なが年月としつき牢獄ろうごくにとじこめられても、それだけですぐぬというわけではない。そして、芸術げいじゅつなどにはまったくけて一生いっしょうおくったところでどうこういうことはこらないし、実際じっさいおおくのひとがそうしている。
 もしも人間にんげんが、よりよくき、よりよい社会しゃかいをつくるという目標もくひょうをもたないならば、この世界せかいからの自然しぜん消滅しょうめつうれえる理由りゆうなにもない。問題もんだい根本こんぽんは、人間にんげんせいきかたについて理想りそう目標もくひょうをもつかどうかにある。視野しやおおきく、また時間じかんのはばをひろくとってみるならば、自然しぜん喪失そうしつ人間にんげんとその社会しゃかいにいちじるしい影響えいきょうをおよぼすことになるにちがいない。われわれの周囲しゅうい自然しぜんをどう保存ほぞんするか、どのようにあらたな自然しぜん設計せっけいするかは、いうまでもなく、現代げんだい社会しゃかい重大じゅうだい課題かだいである。ことに成長せいちょうどものためにゆたかな自然しぜん生活せいかつとしてあたえることは、なによりたいせつなことである。
八杉やすぎ龍一りゅういち自然しぜん言葉ことば」)



長文ちょうぶん 12.1しゅう
 【1】わたしたちは、「げよう」とおもえばげられます。げるためには、たくさんの筋肉きんにく複雑ふくざつ収縮しゅうしゅく必要ひつようですが、それについては、わたしたちはなにもらないのに、げられるのはなぜでしょうか。【2】まず、実際じっさいげた経験けいけんがあって、それと「げる」ということばとがむすびつきます。そうすると、「げよう」とおもうと、以前いぜんげたときののう機能きのう無意識むいしきのうちにはたらいて、ひとりでにがるのです。
 【3】このような現象げんしょう随意ずいい運動うんどうといいますが、ようするに、「げよう」という目標もくひょうかってのうがひとりでにはたらくのです。「げよう」というのは意志いしともいわれますが、意志いしさえつよければなんでもできるというわけではありません。【4】およげないひとが「絶対ぜったいおよいでみせる」とりきんでもおよげません。つまり、およいだという経験けいけんがあって、それと「およぐ」ということばがむすびついていなければなりません。
 【5】スポーツなどの専門せんもん分野ぶんやでは、特別とくべつのことばがよく使つかわれます。たとえば、スキーの「ぜんかたぶけ」、おどりの「こしれる」などというものです。しかし、実際じっさい体験たいけんをして、「これがぜんかたぶけということなのか」とか「これがこしれるということなのか」とわからないと、これらのことばにしたがってからだうごかすことはできません。
 【6】ところで、なにをするにしろ、どうしたら失敗しっぱいするか、ということをっていて失敗しっぱいすることはめったにありません。どういうわけか失敗しっぱいしてしまうのです。そこで、つぎおなじことをするときに、「また、失敗しっぱいするかもしれない」とおもうと、ほんとうに失敗しっぱいしてしまいます。【7】まえよりもひどく失敗しっぱいすることもあります。これは、「失敗しっぱい」ということばをきっかけに、以前いぜん失敗しっぱいしたときののうのはたらきが進行しんこうして失敗しっぱいするのです。
 【8】「失敗しっぱい成功せいこうはは」といわれるように、失敗しっぱいかさねることによって、次第しだい成功せいこうちかづいてゆくのがのう自然しぜんのはたらきです。ところが、失敗しっぱいおそれると、のう人間にんげん発展はってんしません。
 【9】したがって、「失敗しっぱい」ということばのために、以前いぜん以上いじょう失敗しっぱいするというのは、ことばをっている人間にんげん特徴とくちょうともいえます。こういう現象げんしょう自己じこ暗示あんじといいますが、「げよう」とおもってげられる現象げんしょうと、よくていることにづくでしょう。【0】つまり、自己じこ暗示あんじ特別とくべつ不思議ふしぎ現象げんしょうではなく、わたしたちはたえず自己じこ暗示あんじによって行動こうどうしているともいえます。
 もちろん、「こんどは絶対ぜったい成功せいこうするぞ」とおもんでも「失敗しっぱいしたらたいへんだ」ということばにけてしまう場合ばあいがあります。成功せいこうした経験けいけんがないと、「成功せいこう」ということばではのう成功せいこうかってはたらかないからです。これとは反対はんたいに、成功せいこうするひと成功せいこうかさね「失敗しっぱいするがしない」と自信満々じしんまんまんです。どうしたら成功せいこうするかは、本人ほんにんにも自覚じかくされていませんが、以前いぜん成功せいこうした経験けいけんがあると、そのときののうのはたらきがひとりでに進行しんこうして、成功せいこうかさねることになるのです。

 (千葉ちば康則やすのり「ヒトはなぜゆめるのか」による。静岡しずおかけん



長文ちょうぶん 12.2しゅう
 【1】外国がいこくじん日本語にほんごおしえているうちにひとつの事実じじつづきました。一般いっぱん欧米おうべいじんは、質問しつもんたいして「いいえ」とうときに、教師きょうしがビクッとするほどつよ調子ちょうしこたえることがおおいのです。【2】もしや、質問しつもんしそこなったのではないかと、こちらが不安ふあんになるほどに――。しかし、よくていると、「はい」も「いいえ」も、おなじようにつよくはっきりとこたえようとしているだけです。わたくしのみみは、その「いいえ」をつよすぎるとかんじたのでした。
 【3】それは、わたくしたちが、ごろ「いいえ」をややひか習慣しゅうかんについているためだとおもいます。肯定こうてい場合ばあい調子ちょうしよく「はい!」というひとが、否定ひていになると、内容ないようにもよりますが、無意識むいしきこえとしてしまいます。
 【4】いつか米国べいこくじん英語えいごならっていた日本人にっぽんじんが、弱々よわよわしく「ノー」とこたえて、もっとハッキリ態度たいどをあらわせと注意ちゅういされていたのをおもします。人格じんかくをもったいち人間にんげんなら、責任せきにんある態度たいどをとれ、とその英語えいご教師きょうしうのです。【5】かれわせれば、事実じじつそうでないことをあいまいにノーとうのは、質問しつもんしゃたいして失礼しつれいではないかと。
 このちがいは、否定ひていしている対象たいしょうちがいにもとづくようです。英語えいご場合ばあいには、おたがいが客観きゃっかんてきに「事実じじつ」をて、その「事実じじつ」についてかたります。【6】それが、イエスとノーに要約ようやくされているといえましょう。たとえば、「ませんでしたか。」というような否定ひてい質問しつもんには、日本語にほんご英語えいごとでこたえがぎゃくになることが一般いっぱんられています。なかった場合ばあいに、日本語にほんごでは「はい」とい、英語えいごでは「ノー」とこたえます。【7】つまり日本語にほんご場合ばあいこたしゅは、まずその質問しつもんけた「ききて」として、その質問しつもんぶんの「はな」の視線しせんわせて自分じぶん行為こうい質問しつもんぶん自分じぶん行為こういとのあいだ一致いっちてんいだして、「はい」とこたえるわけです。【8】ぎゃくに、事実じじつ場合ばあいには「いいえ」とこたえることになります。すなわち、日本語にほんご否定ひていは「質問しつもん」の文型ぶんけいあるいは質問しつもんしゃ意向いこうけられていますが、英語えいご否定ひてい質問しつもんけるがわの、現実げんじつ行為こうい有無うむけられています。【9】ですから英語えいごでは「ノー」とはっきりうことができ、むしろ、事実じじつ事実じじつとしてはっきりと否定ひていすることが、相手あいて尊重そんちょうにもつながるわけです。
 しかし、日本語にほんご返答へんとうでは、否定ひていが「質問しつもん」のほうけられているために、微妙びみょう心理しんりがからんできます。【0】きっぱり否定ひていしたりすると、「いいえ」が事実じじつ否定ひていをとびこえて、相手あいてかんがかたかんかた批判ひはんにまでおよばないともかぎりません。そこで「いいえ」は自然しぜんひかになります。そのひか態度たいどによって、否定ひてい事実じじつだけに限定げんていされることを、無意識むいしきのうちに示唆しさしているといえましょう。こうしてこえをおさえることが、客観きゃっかんせいにふみとどまるひとつの手立てだてともなるわけです。
 それさえも不安ふあんになると、「いいえ」のかわりに小声こごえで「はい」というひとさえあります。これをウソつきだときめつけることも一概いちがいにはできません。こういう場合ばあいは、こえ調子ちょうしとか表情ひょうじょうとかを総合そうごうして判断はんだんすることが必要ひつようです。それはもう意味いみをもつ言葉ことばというよりも、困惑こんわくをあらわすためいきのようなものとしてけとめるべきものかもしれません。日本人にっぽんじんは、いつしか読心術どくしんじゅつのようなものをにつけ、ことばのみせかけにまどわされることはありませんが、外国がいこくじんにとってはかいかいしがたいことがすくなくないようです。

 (山下やました秀雄ひでお文章ぶんしょうによる。京都きょうと


長文ちょうぶん 12.3しゅう
 【1】いちにん一人ひとりはなしが、みなそれぞれにちがっているからこそ面白おもしろいのだが、その一人ひとりいちにんちがはなしいているうちに、「宇宙うちゅう飛行ひこうたちは、やはりみんな、宇宙うちゅうで、ある共通きょうつう体験たいけんをしているな。」とわたし確信かくしんするようになった。
 【2】ただ、たぶんその共通きょうつう体験たいけんは、ほとんど無意識むいしきのうちに、直観ちょっかんてきになされるものだから、かならずしもかれ自身じしん認識にんしきしているとはかぎらない。地球ちきゅうもどってから宇宙うちゅう体験たいけんはなしをするとなると、どうしてもそこに、宇宙うちゅう飛行ひこういちにん一人ひとりの、この地球ちきゅうでの個人こじんてき歴史れきし価値かちかん現在げんざい環境かんきょうなどがかかわってくる。【3】だから、はなし表面ひょうめんのディテールがちがってくる。しかし、その表面ひょうめんてきちがいにとらわれず、そのはなしおくめたものを注意深ちゅういぶかさぐってみると、そこに共通きょうつう体験たいけんえてくるのだ。
 【4】結論けつろんさきってしまうなら、かれらはみな、宇宙うちゅうで『わたし』という個体こたい意識いしき一気いっきはらわれるような体験たいけんをしている。
 この体験たいけんもっともわかりやすくはなしてくれたのは、アポロ9ごう乗組のりくみいんだったラッセル・シュワイカートだ。
 【5】かれが、月面げつめん着陸ちゃくりくせんのテストをねて宇宙うちゅう遊泳ゆうえいしているときのことだった。
 かれ宇宙うちゅう空間くうかんでの仕事しごとぶりを宇宙船うちゅうせんなかから撮影さつえいするはずだったカメラが突然とつぜん故障こしょうし、うごかなくなった。【6】撮影さつえい担当たんとうのマックデビッド飛行ひこうは、シュワイカートに、そのままなにもせず分間ふんかんつようにいいのこして宇宙船うちゅうせんなかえた。
 シュワイカートに、突然とつぜんまったく予期よきしなかった静寂しじまおとずれた。
 それまで、びょうきざみでこなしていた任務にんむ一切いっさいなくなってしまったのだ。
 【7】地上ちじょうからの交信こうしん途絶とだえた。
 そして、真空しんくう宇宙うちゅうでの完全かんぜん静寂しじま
 かれは、ゆっくりとあたりを見回みまわした。
 眼下がんかには、真青まっさおかがやうつくしい地球ちきゅうひろがっている。
 視界しかいをさえぎるものは一切いっさいなく、重力じゅうりょくのため上下じょうげ左右さゆう感覚かんかくもない。【8】自分じぶんはまるでまれたままの素裸すっぱだかで、たった一人ひとりでこの宇宙うちゅうやみなかただよっている、そんながした。
 突然とつぜん、シュワイカートのむねなかに、なにか言葉ことばではいいあらわすことのできないあつはげしい奔流ほんりゅうのようなものが一気いっきながんできた。【9】かんがえた、というのではなく、かんじた、というのでもなく、そのあつなにかが、一気いっきにからだの隅々すみずみにまでちあふれたのだった。かれは、ヘルメットのガラスだまなかで、わけもなく大粒おおつぶなみだながした。この瞬間しゅんかんかれしんに、眼下がんかひろがる地球ちきゅうのすべての生命せいめい、そして地球ちきゅうそのものへのれぬほどのふか連帯れんたいかんまれた。
【0】「いま、ここにいるのは『わたし』であって『わたし』でなく、すべてのきとしけるものとしての『我々われわれ』なんだ。それも、いま、この瞬間しゅんかんに、眼下がんかひろがる、あお地球ちきゅうきるすべての生命せいめい過去かこきたすべての生命せいめい、そして、これからまれてくるであろうすべての生命せいめいふくんだ『我々われわれ』なんだ。」
 こんな、しずかだが、あつ確信かくしんかれしんなかまれていた。
 シュワイカートが宇宙うちゅう空間くうかん体験たいけんしたこの『わたし』という個体こたい意識いしきから『我々われわれ』という地球ちきゅう意識いしきへの脱皮だっぴは、いま、この地球ちきゅうむすべての人々ひとびともとめられている。

 (りゅうむらひとしたつむらじん文章ぶんしょうによる。)


長文ちょうぶん 12.4しゅう
 「どころ」、「きどころ」という言葉ことばがある。「どころ」は「価値かちのあるすぐれたところ」を、「きどころ」は「くねうちのある個所かしょかしょ」を意味いみする言葉ことばとして、のう歌舞伎かぶき人形浄瑠璃にんぎょうじょうるりをはじめ、それから派生はせいしてきた舞踊ぶよう歌謡かようなど、日本にっぽん伝統でんとうてき芸能げいのう世界せかいでよく使つかわれてきた。ところが、戦後せんごになってから、いつのころからか、その世界せかいでは、このふたつの言葉ことばかげうすれて、「せどころ」、「かせどころ」という言葉ことば優勢ゆうせいになった、とある放送ほうそう関係かんけいひとおしえてくれた。「どころ」、「きどころ」というのは、芸能げいのう享受きょうじゅするがわがそれをえんずるがわげいについて言葉ことばであるが、「せどころ」、「かせどころ」は反対はんたいえんずるがわ言葉ことばであろう。後者こうしゃのような言葉ことばむかしから芸能げいのう世界せかいにあったのかどうかわたしらないが、「」という言葉ことばはあったらしい。辞書じしょによれば、「みせば」は「芝居しばいなどでその役者やくしゃ得意とくいとするげいせどころ」のことである。(「せどころ」は――「かせどころ」も――辞典じてんには見当みあたらない)が、それは役者やくしゃ自身じしん使つかったのか、観客かんきゃくたちが「どころ」を役者やくしゃ投影とうえいして使つかったのか、辞書じしょからはわからない。「せどころ」、「かせどころ」も、芸能げいのう演者えんじゃ自身じしん使つかっているのか、興行こうぎょうこうぎょう放送ほうそう番組ばんぐみのプロデューサーなどが使つかっているのか、わたしはよくらないが、とにかく、このふたつの言葉ことばがいま電波でんぱ活字かつじって横行おうこうおうこうしているというのは、どういうことであろうか。
 「どころ」、「きどころ」というのは、芸能げいのう享受きょうじゅするひとたちがもの曲目きょくもくからつよい感動かんどうをうける個所かしょすが、その感動かんどうは、それをえんずるひとげいをはなれてはしょうじないが、享受きょうじゅするがわ鑑賞かんしょうりょくをはなれてもありえない。芸能げいのう享受きょうじゅ鑑賞かんしょうするがわえんずるがわとが対等たいとうであって、両者りょうしゃ交感こうかん成立せいりつするときにはじめて十全じゅうぜんなものになる。そして、「どころ」、「きどころ」は、享受きょうじゅするがわ批評ひひょう意識いしきにおいてこそ成立せいりつするはずである。「どころ」がすきのないげい全体ぜんたいをつうじてしか成立せいりつしないことをっているほんもの芸能人げいのうじんは、けっして、「せどころ」、「かせどころ」などとはわないにちがいない。「せどころ」、「かせどころ」という言葉ことばは、享受きょうじゅするがわ無視むしして、えんずるがわ自己じこ誇示こじしようとする態度たいどしめすものであろう。その言葉ことばには、えんずるがわがそのげいをセールス・ポイントにして享受きょうじゅするがわにおしつけようとするあつかましさ、「ここが見聞みききする価値かちのあるところだ」というおしつけがましさがかんじられる。すくなくとも、そこには、芸能人げいのうじんまたは興行こうぎょうしゃ放送ほうそうのプロデューサーや解説かいせつしゃくわえてもいい)が、観客かんきゃく聴衆ちょうしゅうにいわば指導しどうしゃとしてのぞむというおもがった姿勢しせいられる。
 だが、他方たほうかられば、おおくのひとびとが伝統でんとう芸能げいのうたいする教養きょうよう関心かんしんうしなっていることもたしかである。かつて、歌舞伎かぶき観客かんきゃくなり浄瑠璃じょうるり聴衆ちょうしゅうなりは、えんじられるもの曲目きょくもくについてよくっており、えんずるもの共通きょうつう理解りかいのうえにっていたが、今日きょう、その共通きょうつう地盤じばんおおきくくずれている。伝統でんとう芸能げいのう生活せいかつからりはなされて、いわば保存ほぞん対象たいしょうにされている。だからなにとかしておおくのひとたちに伝統でんとう芸能げいのうのよさを認識にんしきさせようと熱意ねついあせりが、芸能げいのう関係かんけいしゃたちに啓蒙けいもうてき指導しどうしゃとしての姿勢しせいをとらせて、「せどころ」、「かせどころ」などという言葉ことばづかいをみだしたのかもしれない。
 いずれにせよ、「せどころ」、「かせどころ」という言葉ことばは、伝統でんとう芸能げいのう危機ききふかさを端的たんてき表現ひょうげんしている。そして、そのような伝統でんとう芸能げいのう危機ききが、日本にっぽん社会しゃかい日本人にっぽんじん生活せいかつ意識いしきとのすさまじいほどの急激きゅうげき変化へんかひとつの局面きょくめんであることは、うまでもあるまい。わたしは「せどころ」、「かせどころ」という言葉ことばのことをかんがえながら、言葉ことばづかいの変化へんかという些細ささい現象げんしょうがどんなに複雑ふくざつ要因よういんをその背後はいごにもっているかにおもいあたって、あらためておどろいた。こうした言葉ことば変化へんか日本語にほんご混乱こんらんとしてあらわれているとすれば、それは日本にっぽん社会しゃかい変化へんかというより、日本にっぽん社会しゃかい文化ぶんかそのものの危機ききあらわしているのではあるまいか。