(Translated by https://www.hiragana.jp/)
課題集
長文ちょうぶん 1.1しゅう
 【1】「てんひとうえひとつくらずひとしたひとつくらず」とえり。さればてんよりひとしょうずるには、まんにんまんにんみなおなにして、まれながら(きせん上下じょうげ差別さべつなく、万物ばんぶつれいたるしんとのはたらきをもって天地てんちあいだにあるよろずのもの(り、【2】もって衣食住いしょくじゅうようたっし、自由自在じゆうじざいたがいにひとさまたげをなさずしておのおの安楽あんらくにこのわたらしめたまうの趣意しゅいなり。されどもいまひろくこの人間にんげん世界せかい見渡みわたすに、かしこきひとあり、おろかなるひとあり、まずしきもあり、めるもあり、【3】貴人きじん(きじんもあり、下人げにん(げにんもありて、その有様ありさまくもどろ(どろとの相違そういあるにたるはなんぞや。その次第しだいはなはだあきらかなり。『きょう(じつごきょう』に、「ひとまなばざればさとし(なし、さとし(なきしゃ愚人ぐじんなり」とあり。【4】されば賢人けんじん愚人ぐじんとのべつまなぶとまなばざるとによりてできるものなり。またなかにむずかしき仕事しごともあり、やすき仕事しごともあり。そのむずかしき仕事しごとをするもの身分みぶんおもひとづけ、やすき仕事しごとをするもの身分みぶんかるひとという。【5】すべてしんもちい、心配しんぱいする仕事しごとはむずかしくして、手足てあしもちいうるちからやく(りきえきはやすし。ゆえに医者いしゃ学者がくしゃ政府せいふ役人やくにん、またはだいなる商売しょうばいをする町人ちょうにん、あまたの奉公人ほうこうにん使つかだい百姓ひゃくしょうなどは、身分みぶんおもくしてたっとものうべし。
 【6】身分みぶんおもくしてたっとければおのずからそのいえんで、下々しもじも(しもじもものよりればおよぶべからざるようなれども、そのほん(もとひろ(たずぬればただそのひと学問がくもんちからあるとなきとによりてその相違そういもできたるのみにて、てんよりさだめたる約束やくそくにあらず。【7】ことわざ(ことわざにいわく、「てん富貴ふうきひとあたえずして、これをそのひとはたらきにあずか(あたうるものなり」と。さればまえにもえるとおり、ひとまれながらにして賤・貧富ひんぷべつなし。ただ学問がくもんつとめて物事ものごとをよくもの貴人きじん(きじんとなりとみじん(ふじんとなり、無学むがくなるものひんじん(ひんじんとなり下人げにん(げにんとなるなり。
 【8】学問がくもんとは、ただむずかしきり、かい(がた古文こぶんみ、和歌わかたのしみ、つくるなど、世上せじょうのなき文学ぶんがくうにあらず。これらの文学ぶんがくもおのずからひとしんえつ(よろこばしめずいぶん調法ちょうほうなるものなれども、【9】古来こらい世間せけん儒者じゅしゃ和学わがくしゃなどのもうすよう、さまであがめとうと(とうとむべきものにあらず。古来こらい漢学かんがくしゃ世帯持しょたいもちの上手じょうずなるものすくなく、和歌わかをよくして商売しょうばい巧者こうしゃなる町人ちょうにんもまれなり。【0】これがためこころある町人ちょうにん百姓ひゃくしょうは、その学問がくもん出精しゅっせいするをて、やがて身代しんだいくずすならんとて親心おやごころ心配しんぱいするものあり。無理むりならぬことなり。畢竟ひっきょう(ひっきょうその学問がくもんじつとおくして日用にちようあいだわぬ証拠しょうこなり。
 さればいま、かかるなき学問がくもんはまずつぎにし、もっぱらきんむべきは人間にんげん普通ふつう日用にちようちか実学じつがくなり。

 「学問がくもんのすすめ」(福沢ふくさわ諭吉ゆきち)より



長文ちょうぶん 1.2しゅう
 【1】慰霊いれいさいのたびに官僚かんりょうたちの挨拶あいさつがある。「……みなさまのとうと犠牲ぎせいうえいま平和へいわがあることをけっしてわすれず……」といういいまわしをなんいた。そのたびにそれはちがうとおもった。犠牲ぎせいがなければいま平和へいわがなかったわけではないだろう。【2】はやはなしが、いちきゅうよんよんねんまつ段階だんかい大日本帝国だいにっぽんていこくファシスト(軍国ぐんこく主義しゅぎしゃ政権せいけん降伏ごうぶくしていれば、さんがつじゅうにち東京とうきょうだい空襲くうしゅう死者ししゃじゅうまんにんも、沖縄おきなわせん死者ししゃじゅうさんまんにんも、ヒロシマの死者ししゃじゅうまんにんもナガサキの死者ししゃななまんにんさずにんだ。【3】おなじように、シンガポールでんだひとたちも南京なんきんなんきんんだひとたちも、そもそも日本にっぽんぐんなければ自分じぶんたちは……とうはずだ。
 だれだって同胞どうほうたちの無駄むだとはおもいたくない。意義いぎのある崇高すうこうなしたい。【4】しかし、無駄むだみとめないのは、自分じぶんたち人間にんげんおろかさを糊塗こと(こと。とりつくろってごまかすこと)することにならない。かずひゃくまんにんという犠牲ぎせいうえにしかじゅう世紀せいき後半こうはん平和へいわ成立せいりつしないのだとしたら、そんな平和へいわはいらない。【5】死者ししゃたちのうえきずかれた平和へいわたのしむ資格しかくなどだれにもないではないか。覚悟かくご犠牲ぎせいではなく無念むねんであったという前提ぜんていからかんがえないかぎり、またおなじことがくりかえされるだろう。
 ヒロシマへの原爆げんばく投下とうか正当せいとうせいをいいは人々ひとびとがまだアメリカにはおおいようだ。【6】つまり、あそこで原爆げんばく使つかわなければ本土ほんど上陸じょうりく作戦さくせんでたくさんのアメリカの若者わかものんだし、日本にっぽんがわ犠牲ぎせいおおかったはずだという論法ろんぽう。あの時点じてんでトルーマン大統領だいとうりょうにいかなる選択肢せんたくしがあったかをかんがえて、アメリカへい死者ししゃかずについて、すうまんにんからひゃくまんにんまでさまざまな数字すうじ提出ていしゅつされている。【7】その前提ぜんていとして、沖縄おきなわせん日本にっぽんぐんはあれだけ頑強がんきょう抵抗ていこうしたではないかともわれる。実際じっさいはなし沖縄おきなわでは日本にっぽんぐん民間みんかんじんだてり、白旗はっきかかげてアメリカへいせたうえ反撃はんげきするようなアンフェア(公正こうせいでないこと)までした。
 【8】これにたいして、日本にっぽんがわからなん反論はんろんてこないのはなぜだろう。ヒロシマとナガサキに原爆げんばくとされなかったと仮定かていして、いったい大日本帝国だいにっぽんていこくはどこまで抵抗ていこうしたか。ぐん指揮しき系統けいとうはどの程度ていど混乱こんらんしていたのか、天皇てんのうはどこで収拾しゅうしゅうはかたか。【9】だいたいあの時期じきにはだれにどれだけの権力けんりょく指揮しきりょくがあったのか。じゅうねんもたって、関係かんけいしゃおおくがんでしまって、回想かいそうろくるいたぐい出尽でつくしたというのに、その程度ていどのシミュレーション(模擬もぎてき調査ちょうさ実験じっけんをして研究けんきゅうすること)をだれもしていない。【0】戦争せんそうんだ人々ひとびと大半たいはんわかかった。たか地位ちいにいたくせに責任せきにん所在しょざいをごまかす卑怯ひきょうしゃばかりがのこったとしたら、いかに慰霊いれいさいかさねてもわか死者ししゃたちはかばれないだろう。戦後せんごじゅうねん各論かくろんとして名誉めいよ破片はへんひろほんはたくさんたが、究極きゅうきょく責任せきにん史書ししょはまだていない。だから、原爆げんばく投下とうかたいしても決定的けっていてき反論はんろんができない。
 「じゅうねんまえはちがつじゅうにちわたしあわれな捕虜ほりょとして、フィリピンの収容しゅうようしょにいた。敗戦はいせんちかいのは覚悟かくごしていたが、祖国そこくやぶれたのははじめての体験たいけんである。捕虜ほりょ仲間なかまといっしょに、すこいた」と大岡おおおか昇平しょうへいいた。あの時期じきに、あの状況じょうきょうで、すこししかかなかったことがこのひとちからだとおもう。そのちからをもって大岡おおおかさんは事実じじつによる鎮魂ちんこん死者ししゃたましいをしずめること)をおこなった。うすっぺらな政治せいじ言葉ことばではなく、戦場せんじょうなにこったかを確定かくていしてゆく堅固けんご言葉ことばによって、あの戦争せんそう定義ていぎした。『レイテ戦記せんき』(大岡おおおか昇平しょうへいいた戦争せんそう文学ぶんがく)をかえすのも、ぼくにとっては今年ことしなつ黙祷もくとうひとつだった。

池澤いけざわ夏樹なつき黙祷もくとうなつ』による)


長文ちょうぶん 1.3しゅう
 【1】一流いちりゅうホテルの、いかにも「一流いちりゅうでござい」というロビーに、たいていこうした男女だんじょ一群いちぐんがたむろしているのは、そうでないとどうしていいかわからないきゃくがいるとかんがえ、ホテルがわがあらかじめそれせんもんの「仕出しだ」にたのんで用意よういしておく場合ばあいおおいからである。【2】当然とうぜん経費けいひもかかるが、ロビーを利用りようするきゃくにランクのさい上位じょういにある「ちあわせ場所ばしょ」としてふさわしい体験たいけんをしてもらうことはホテルがわとしてものぞましいことであるし、これにはちょっとした教育きょういく効果こうかもある。【3】つまり、彼等かれらがあまり傍若無人ぼうじゃくぶじんいにおよぶと、ボーイがちかづいてって「周囲しゅういのお客様きゃくさま迷惑めいわくをいたしますから」と、それとなく注意ちゅういをするのをかけるであろう。あれは、そうすることによって「周囲しゅういきゃく」のほうが、「ははあ、ホテルのロビーであんなことをしてはいけないんだな」とまなぶことを、期待きたいしているのである。
 【4】もちろん、くりがえしそこでちあわせをし経験けいけんむと、もう、そうしたさわがしい男女だんじょ一群いちぐんがかたわらにいなくとも、なにとかそれらしくそこにすわっていられるようになる。【5】しかし、ホテルのロビーは、おくふかい。あるかれもしくは彼女かのじょは、ちかくにすわっていたわか女性じょせいがちらりとゆびをあげってきたボーイに「お手洗てあらいはどちら」とき、「あのエレベーターのおくにございます」とわせてから、「ありがとう」とハンドバッグをってがるのをる。【6】「なるほど、そうなんだ」というわけだ。なぜなら、それまでかれもしくは彼女かのじょは、みずかってボーイにちかづき、ときにはこうにくボーイにはしっていつき、「ねえ、トイレはどこ」といていたからである。
 【7】ホテルのロビーでは「ボーイにむこうからやってさせる」のでなければいけない。それが一流いちりゅうホテルのロビーを利用りようする、一流いちりゅうきゃくのやりかたなのだ。そこで、つぎから早速さっそくこれをこころみることになるのだが、簡単かんたんなようでこれがなかなかできない。【8】ゆびをちらりとげた程度ていどでは、ボーイなんかてくれやしないのだ。しかし、でおねえちゃんにとりたのむのではないから、「おーい」とさけんだり、パチパチとをたたいたりするわけにはいかない。【9】ロビーにはいってきたときに、あらかじめボーイに注目ちゅうもくさせておき、その一挙手一投足いっきょしゅいっとうそく意味いみたせておいて、タイミングよくちらりとやらないと、これはそらる。
 ただし、むずかしいだけにこれが成功せいこうしたとき感動かんどうは、えもわれない。【0】ホテルのロビーにいることの、奥儀おうぎおうぎたっしたのだというがするのである。そして、おしえられたとおりトイレにはいって、あらったをぬぐいながらてくると、そこに、くだんのボーイがっている。「おきゃくさま」と、かれうのである。「おきゃくさまこそ、ホテルのロビーを利用りようなさるにふさわしいほうとお見受みうけいたしました。ついては明日あしたより、失礼しつれいながら日当にっとうをおはらいたしますので、とうホテルのためにロビーにすわっていただけませんでしょうか。の、まだホテルのロビーになれないおきゃくさまのための、模範もはんになっていただきたいとぞんじますので……」
 つまり、ホテルのロビーにいる「どうしようもない田舎いなかしゃ」と、「これこそが都会人とかいじん」とおもえるものは、双方そうほうともホテルがわの「やとわれ」なのだ。そのあいだをキョロキョロしながらうろつきそれぞれからなにごとかをまなぼうとしているのが、本来ほんらいきゃくということになる。もちろん、まなわって「田舎いなかしゃがすっかりはらとされると、ボーイがやってきてやとってくれる。

別役べつやくみのる都市とし鑑賞かんしょうほう』による)


長文ちょうぶん 1.4しゅう
 たび未知みち風景ふうけいせっし、感動かんどうするまえに、「ああ、はがきとそっくり。」というセリフをくちにするひとをよくかける。また、最近さいきんのように飛行機ひこうき利用りようのたびがさかんになると、わか女性じょせい下界げかいながら、「まあ、地図ちずとそっくりね。」という歓声かんせいをあげる。しかし人間にんげんは、飛行機ひこうき発明はつめいしてからひゃくねんとは経過けいかしていないのに、いまや、驚異きょういてきはやさのジェット機じぇっときかんがし、それが人間にんげんくるしめようと疲労ひろうさせようとおかまいなしに、ますますスピードをはやめようとつとめている。一昔ひとむかしまえふねインド洋いんどよう横断おうだんして、はるばると欧州おうしゅう目指めざしたのに、それが、現在げんざいはどうだ。あっという目的もくてきいてしまう。
 おもうに、人々ひとびとたびというものへの導入どうにゅうつことがすくない。この導入どうにゅうじつたびだったのだが、いまでは目的もくてきくことだけがたびのようにおもわれてしまった。そして、それがたびだとおもいこんでしまう現代げんだいじんどくだ。ものきわめてはやくなり、時間じかん節約せつやくといちはやく目的もくてきくことは実現じつげんされたが、旅情りょじょうはそれに比例ひれいするとはいえないからだ。
 そのうち、人々ひとびとはもうわかってしまっているから、たび必要ひつようはないなどといいかねない。たびとは未知みちのものをるだけの行為こういではないのである。たびをして、「はがきそっくりの風景ふうけい」という感想かんそうくちにするようなひとにとっては、いっそたびなどしないほうがいいのだ。
 たびしんなかでもできる。病床びょうしょうしているひとでも、現実げんじつにそこをたびしたひとよりも旅情りょじょうあじわっている場合ばあいがある。それは想像そうぞうりょくゆたかだからだ。ぎゃくに、小説しょうせつなかえがかれた風景ふうけい土地とちにあこがれてそこへき、現実げんじつには失望しつぼうしたといってかえってくるようなひともいる。それは、小説しょうせつがうそをついたのではない。現実げんじつ先行せんこうして実景じっけいえたのでもない。
 旅情りょじょうというものは、意外いがいに、そのひとしんなかにあるものだということである。ある土地とちたびをして、なにしんのこったか、むねをあててそれをおもかえしてみるとわかる。旅先たびさきでの、はがきや小説しょうせつでは体験たいけんできなかった未知みちひととの出会であい、そのひとのおしゃべりやアクセント、そして、そのとき自分じぶんあじわったなにともいえない感情かんじょう、そうしたものがたびわすひとこまではなかったか。そういうイメージはつね自分じぶんしんがわにある。しん風景ふうけいをみるのである。

岡田おかだあききしゅうたび」)


長文ちょうぶん 2.1しゅう
番目ばんめ長文ちょうぶん課題かだい長文ちょうぶんです。】
 【1】かおパスという言葉ことばがある。「おれだ」「よし」という阿吽あうんあうん呼吸こきゅうで、本来ほんらい規則きそくとして処理しょりするところを当人とうにんどうしの個人こじんてき関係かんけい処理しょりする方法ほうほうである。なれいというとこえはわるいが、人間にんげんどうしの信頼しんらいしんらい関係かんけい基礎きそきそにしているてんもっと確実かくじつ方法ほうほうともえる。【2】現代げんだい法律ほうりつ規則きそく万能ばんのう社会しゃかいでは、このような人間にんげん信頼しんらいしんらい関係かんけいもとづいた対応たいおう仕方しかたがもっと見直みなおされてもよいのではないだろうか。
 そのためのだいいち方法ほうほうは、相手あいてしんじるだけのしんひろさをつことだ。【3】信頼しんらいしんらいするということは、相手あいて自分じぶんをゆだねることである。場合ばあいによっては、自分じぶんおおきな損失そんしつこうむこうむ こともある。それにもかかわらず、相手あいてにすべてをまかせて信頼しんらいしんらいする。そういう決意けついがあるからこそ、相手あいて自分じぶん信頼しんらいしんらいしてくれる。【4】ジャン・バルジャンは、自分じぶんしんじてくれたろう司教しきょう裏切うらぎった。しかし、翌朝よくあさ憲兵けんぺいれられてきたジャンに、司教しきょうは、「そのぎん食器しょっきわたしあたあた たものだ」とげる。このように、相手あいてぜんなるしんたいする絶対ぜったい信頼しんらいしんらいが、人間にんげんらしいしんをもとにした社会しゃかい基礎きそきそとなる。
 【5】また、だいには、そのような人間にんげんどうしの信頼しんらいしんらいささえるだけの社会しゃかい一体いったいせいつくることだ。日本にっぽん社会しゃかい治安ちあんのよさは、世界せかいなかでも際立きわだっている。タクシーのなかわすれた財布さいふは、ほぼ確実かくじつもどもど てくる。【6】日本人にっぽんじんにとってはたりまえのようにえるこのようなことが、世界せかいではきわめてまれまれなことなのである。そういう社会しゃかいきずかれたのは、日本にっぽんひとつの民族みんぞくひとつの言語げんごひとつの文化ぶんかった社会しゃかいだったからである。【7】ことなる民族みんぞく文化ぶんか共存きょうぞんすることはもちろん大切たいせつだが、それは日本にっぽん社会しゃかいなかことなる民族みんぞく文化ぶんか異質いしつなままひろがっていいということではない。
 【8】ほう正義せいぎもとづいて判断はんだんするというかんがえは、たしかに人類じんるいなが歴史れきしなかってきた権利けんりだ。だからこそ、このかんがえは世界せかいのどこでも通用つうようするグローバルな思想しそうとなっている。しかし、そのグローバリズムは、日本にっぽんのようにたがたが 信頼しんらいしんらい関係かんけいをもとにってきた社会しゃかいでは、人間にんげんしんたないつめたい機械きかいのような対応たいおうえる。【9】大岡越前守おおおかえちぜんのかみおおおかえちぜんのかみ日本人にっぽんじん人気にんきがあるのも、人間にんげんしんぬくもりをさばかたなかかしたからだ。かおパスでわされるものは、たんなるかおではなく、たがたが 善意ぜんいへの信頼しんらいしんらいなのである。【0】

言葉ことばもり長文ちょうぶん作成さくせい委員いいんかい Σしぐま
 【1】イスラエルをたびしていたとき「ここでは全員ぜんいん一致いっち裁決さいけつ採用さいようしないんですよ」とかされた。
 ユダヤきょう習慣しゅうかんだ、というようなはなしだったが本当ほんとうだろうか。根拠こんきょは、もうひとつ、はっきりとしないけれど、事実じじつならば、なかなか興味深きょうみぶかい。
 【2】みんなが賛成さんせいしたときには、それをよしとしない、とうのだから「そんなばかな」というこえが、すぐさまこえてきそうなもするが、このたねのいいぶんひとつのパラドックスである。そのままってはなるまい。どういう条件じょうけんなかでそれをっているのか、中身なかみ吟味ぎんみする必要ひつようがある。
 【3】まずだいいちに、みんなが一致いっちできるような案件あんけんは、いちいち採決さいけつにかけないという事情じじょうがあるだろう。こたえがはじめからわかっていることを、わざわざいただして全員ぜんいん一致いっち確認かくにんするケースは『ない』とはわないが、あまり意味いみたない。【4】だから、ことさらに裁決さいけつもとめるのは、べつなかんがえがありそうなときであり、そうであるにもかかわらず、裁決さいけつ結果けっか全員ぜんいん一致いっちというのは、ちょっとうたがってみたほうがよい、というおしえだろう。
 たとえば、みんなが熟慮じゅくりょせず、いい加減かげんこたえているケースがある。【5】また反対はんたい意見いけんをすなおにいいあらわせない状況じょうきょうが、そこに伏在ふくざいしているケースもすくなからずありそうだ。さらにまた、あまりかんばしくないまわしがおこなわれているケースもあるだろう。
 こういう事情じじょう勘案かんあんすれば、ひとつのパラドックスとして「全員ぜんいん一致いっち採用さいようせず」という理屈りくつ理解りかいできる。
 【6】たとえば日本にっぽん相撲すもう協会きょうかい。ほとんどの重要じゅうよう議題ぎだいが、全員ぜんいん一致いっちでシャンシャンと決定けっていするといたことがあるけれど、わたしなんかうたがぶかくできているから、
 ――ほんとうかいな――
 とくびをかしげてしまう。異論いろんとなえると、いろいろまずいことがしょうじそうだから、かたちだけ一致いっちさせている、と、そういうことではないのか。
 【7】これがわたしかんちがいならば、まことにご同慶どうけいにたえないが、相撲すもう協会きょうかいはともかく、こうした気配けはいただよわせている全員ぜんいん一致いっちも、世間せけんにはけっしてまれではあるまい。わざわざ裁決さいけつ必要ひつようとするような案件あんけんならば、一人ひとりにん異論いろんはさものがいるほうが自然しぜんである。
 【8】おはなしわって、テレビの時局じきょく討論とうろんかいなどをいていると、司会しかいしゃが、「イエスかノーかでこたえてください」とっているのに、長々ながなが意見いけんべる論者ろんしゃおおい。とうより、この設問せつもんたいして「イエス」あるいは「ノー」のひとことでこたえたケースを、わたしたことがない。
 【9】この設問せつもんたいするこたえは「イエス」か「ノー」か、あるいは「この問題もんだいにはイエスかノーかでこたえられません」か、このみっつしかないとおもうのだが、現実げんじつには、どれでもないことが圧倒的あっとうてきおおいのである。
 【0】論者ろんしゃ本心ほんしん推測すいそくすれば、イエスかノーかこたえはできているし、こたえようとおもえばこたえられるのである。ただ、イエスのなかにもいろいろなイエスがある。ノーのなかにも同様どうようにいろいろなノーがある。自分じぶん心中しんちゅうのたずねてみてひゃくたいゼロの確信かくしんでイエスがえる場合ばあいもあれば、じゅうたいよんじゅうでからくもイエスにかたむいている場合ばあいもある。その内容ないようはとても複雑ふくざつだ。
 にもかかわらず、「イエス」とこたえたとたん、すべてひゃくたいゼロのイエスのような印象いんしょうをふりまくことになってしまう。その誤解ごかいけるあまり、簡単かんたんこたえることができない。
 じゅうたいよんじゅうまよったあげくのイエスと、よんじゅうたいじゅうまよったあげくのノーとのあいだには、じゅうポイントのちがいしかない。僅少きんしょうってよい。さらにえば、じゅうたいよんじゅうのイエスは、ひゃくたいゼロのイエスより、ずっとよんじゅうたいじゅうのノーにちかいのである。が、結果けっかてきには、それもイエスのグループにまとめられてしまう。
 このにある、すべての困難こんなん決断けつだんは、じゅうたいよんじゅうと、よんじゅうたいじゅうとのあいだにある、とわたしかんがえている。ひゃくたいゼロはおろか、ななじゅうたいさんじゅうくらいの状況じょうきょうだって、判断はんだん明々白々めいめいはくはくなやむほどのことではない。じゅうからよんじゅういた僅少きんしょう差異さいを……わずかなまよいをどうかんがえるか、このなやみは、そこにある。こんなふうにかんがえてみると、全員ぜんいん一致いっち排除はいじょするパラドックスもおおいに意味いみつようにおもえてならない。 (おもねかたなあとうだこう文章ぶんしょうによる)


長文ちょうぶん 2.2しゅう
 【1】文化ぶんかもパーソナリティも、おおくの場合ばあいすこしずつ変化へんかし、そしてときにはおおきく急速きゅうそく変化へんかしうるものである。文化ぶんかのコードは長年ながねんあいだにひとりひとりの人間にんげん安全あんぜん満足まんぞくをもとめる欲望よくぼうがあつまって、暗黙あんもく合意ごういのうちにつくりあげられてきたとかんがえられがちである。【2】しかし、次第しだい社会しゃかいつよ組織そしきされるとともに、そこには、社会しゃかい強者きょうしゃ、すなわち権力けんりょくしゃ安全あんぜん満足まんぞくをもとめる欲望よくぼう支配しはいてきなものとなっていったのは自然しぜんのなりゆきであった。たとえば、テューダーあさのイングランドおうへンリーはちせい在位ざいいいちきゅうよんなな)は、【3】みずからの離婚りこん合法ごうほうせいをめぐってアングリカン・チャーチ(イギリス国教こっきょうかい)を成立せいりつさせ、ローマ教会きょうかいからの分離ぶんり独立どくりつをなしとげてこれをひろみとめさせたし、ヒットラーのネクロフィリア(破壊はかいせい)はあの悪名あくめいたかきナチズムにおけるだい規模きぼ人間にんげん破壊はかい行為こうい当時とうじ社会しゃかいにおしつけたのであった。【4】しかし、今日きょう、あらゆるてんにおいて高度こうど統合とうごうてき組織そしきせいつよめた社会しゃかいでは、個人こじんとしての権力けんりょくしゃではなく、その構造こうぞうてき力動りきどうによって自律じりつてきにつくりされるよりおおきな交換こうかん価値かちこそが、文化ぶんかのコードとして支配しはいしゃ地位ちいにつくことになっている。【5】そこでは、そもそものはじめから個人こじん署名しょめいをもたないこの文化ぶんかのコードとしての交換こうかん価値かちたそうとする社会しゃかい力動りきどうてきうごきに、個人こじん欲望よくぼううごかされざるをえないような仕組しくみになっているとうことができよう。【6】わたしたちの支配しはいしゃは、かつてのように、名前なまえをもちはっきりえる権力けんりょくしゃとして君臨くんりんしているのではなく、社会しゃかいてき交換こうかん価値かちという千変万化せんぺんばんかする記号きごうのかたちをとってわたしたちひとりひとりを支配しはいするようになっている。【7】そして、文化ぶんかのコードというこの無名むめい支配しはいしゃは、あさからばんまでわたしたちひとりひとりのぜん存在そんざい直接ちょくせつ間接かんせつ支配しはいしつづけているようだ。
 ほかならぬこのわたし自身じしんほっしているとおもうことも、それは幻想げんそうであるにすぎない。【8】よりおおきな交換こうかん価値かちをもつ記号きごうとしてみなほっしているがゆえに、常識じょうしきにつけているわたし無意識むいしきのうちにほっするようになってしまっているものであるにすぎない。「○○大学だいがく入学にゅうがくしますように!」「スリムな美人びじんになりますように!」とう、つきることのないこの世俗せぞく欲望よくぼうは、【9】常識じょうしきとなった文化ぶんかのコードとしての「よりおおきな交換こうかん価値かち」を無意識むいしきのうちに私的してきコードにとりこみ、それにをまかせることによってしょうじているという側面そくめんつよいようだ。――ただし、機械きかいならぬ人間にんげんは、規則きそくえる創造そうぞうせいという能力のうりょくっているために、全面ぜんめんてきにそうであるというわけではない。【0】そのために、そうした「交換こうかん価値かち」が変化へんかすれば常識じょうしき変化へんかし、それにしたがって個人こじん欲望よくぼう内容ないよう当然とうぜん変化へんかすることになるのだろう。人気にんきのある学校がっこう学部がくぶそして美人びじんのタイプなどが時代じだいとともにうつりかわるのはそのあかしである。そしてこの情報じょうほう社会しゃかいにあって、このような交換こうかん価値かちとしての文化ぶんかのコードを敏速びんそくかつ広域こういき浸透しんとうさせるのをたすけているのは、いうまでもなく新聞しんぶん・テレビなどのマス・メディアである。
 これらの欲望よくぼうたそうとすることは、わたしたちを日々ひび仕事しごと学習がくしゅうにそのさまざまな活動かつどうにかりたてる原動力げんどうりょくとなっているが、他方たほうその欲望よくぼう満足まんぞくさせることがあまりにもむずかしくおもえるとき、わたし存在そんざい核心かくしんにしのびこんだこれらの欲望よくぼうのいっさいから解放かいほうされればどんなにしんやすまるだろうか、とおもうことにもなる。そのようなとき、冒頭ぼうとうべたように、わたしたちは無意識むいしきのうちにできるだけ文化ぶんかという「ひと」のくわわらない自然しぜんなかのがれ、あるいは「社会しゃかいてき行為こういなかにかりそめの脱出だっしゅつこころみて、文化ぶんかのコードによるすさまじい搾取さくしゅからすこしでもをまもろうとすることになるのかもれない。
 しかし、文化ぶんかのコードのとどかないところにげきったようにおもっていても、しん記録きろくをうちたてたいというおもいをひめた探検たんけんはもちろんのこと、南太平洋みなみたいへいようゆたかな自然しぜんというデラックスな休暇きゅうか宣伝せんでんさそわれて自然しぜんしたしむ人々ひとびともまた、やはり文化ぶんかのコードにしっかりとからめとられていることになる。それに、うみやまの「自然しぜん」のなかでも、やはり、流行りゅうこう登山とざん装備そうび水着みずぎ、さまざまなひととの出会であいがあり、文化ぶんかてきなものを完全かんぜんこばんでしまうことは、とうてい不可能ふかのうであるとってよいだろう。

有馬ありま 道子みちこ


長文ちょうぶん 2.3しゅう
 【1】わたし本当ほんとうに「日本にっぽん」ををもって発見はっけんしたとおもったのは、戦後せんごであった。ある偶然ぐうぜん上野うえの博物館はくぶつかんで、はじめて縄文じょうもん土器どき異様いようにふれ、全身ぜんしんがふくれあがった。そこそこから戦慄せんりつした。日本にっぽん根源こんげんをつきとめたとおもった。【2】無限むげん渦巻うずまき、くりかえし、もどってくる。そのすごみ。それはいわゆる「日本にっぽんふう」とはまったくせい反対はんたいだ。あまりにも異質いしつなので、それまではだれもがこのくに伝統でんとうとはかんがえなかった。たんに考古学こうこがくてき資料しりょうとしてあつかわれ、美術びじゅつからも除外じょがいされていた。【3】しかし、わたしはそこに日本人にっぽんじんとしてビリビリとけとめる、せまってくるものをかんじとった。そしてわたしはその感動かんどう文章ぶんしょうにして発表はっぴょうした。それはひどく衝撃しょうげきてき発言はつげんられたようだ。
 【4】縄文じょうもん土器どきろんわたし美学びがくてき問題もんだいやただの文化ぶんかろんとしていたのではない。つまりこれから日本人にっぽんじんがどういう人間像にんげんぞうをとりもどすべきかということのポジティブ(積極せっきょくてき)な提言ていげんであり、またあまりにも形式けいしきてき惰性だせいてき日本にっぽんかんに、はげしく「ノー」を発言はつげんしたのだ。【5】いわゆる日本にっぽんてきかんがえられている弥生やよいしき以来いらい農耕のうこう文化ぶんか伝統でんとう近世きんせいからのワビ、サビ、シブミの平板へいばん陰湿いんしつなパターンにたいして、ふとし々と明朗めいろう強烈きょうれつな、根源こんげんてき感動かんどうをぶつける。自分じぶん作品さくひんでたたかい、言葉ことば論理ろんりで「ノー」とう。【6】それはもちろんだが、それだけでなく、だれでものしん奥底おくそこ、その暗闇くらやみおけられている、よりナマな人間像にんげんぞうをつきつけることによって、現代げんだい惰性だせいをうちやぶるテコにするのだ。強力きょうりょく証拠しょうこをぶつけたからには、それを起爆きばくざいとして、なにまれるにちがいない。わたし当然とうぜんそう期待きたいした。
 【7】にくまれることを前提ぜんていにして、極力きょくりょくひらききったつもりである。ったことをいろいろもないが、わたし日本にっぽんけた。
 (中略ちゅうりゃく
 わたしいまこの世界せかいで、ほんいとうえ異様いようなバランスをとりながらわたってくようなおもいがする。【8】いわゆる「つなわたり」、曲技きょくぎっているのではない。……えるような、えないような、せまり、とおのき、からんでくる、透明とうめいいと。あたりにはなにもない。見物人けんぶつにん青空あおぞらも。ただほんいとだけが灰色はいいろ空間くうかんのなかにてしなくのびている。【9】わたし自分じぶん周辺しゅうへん運命うんめい不思議ふしぎおもいで凝視ぎょうしする。瞬間しゅんかんにバランスがくずれて精神せいしん動揺どうようさせる。一本いっぽんいとうえほんあしてば、あるいは軽業師かるわざしかるわざしのように安定あんていするだろう。しかしほんあしで、すじちがったスジをわたるのは絶望ぜつぼうてきである。
 【0】(中略ちゅうりゃく
 ふとわたしおもうことがある。欧米おうべいほうばかりにけ、すべての価値かち判断はんだんをあずけておのれむなしくしている現代げんだい日本にっぽん。しかし、その欧米おうべい文化ぶんか自体じたいかべにぶつかって、存在そんざいかん絶望ぜつぼうてきうしないつつある。そのような風土ふうどよりも、この根源こんげんてきな、ナマな生活せいかつかんなかで、純粋じゅんすいたましい共同きょうどうたいつくほうただしいのではないか。なぜ世界せかい政治せいじ経済けいざい中心ちゅうしんがそのまま文化ぶんか芸術げいじゅつのセンターでなければならないのか。それはいやしい。むしろ反対はんたいであるべきだ。
 西欧せいおう文化ぶんか系列けいれつまった反対はんたい出発しゅっぱつてんった、縄文じょうもん文化ぶんかとか、マヤ、インカ、北米ほくべいインディアン……いちつながりのつうじあい。このたましい風土ふうどともいうべきものをきわめあい、さい発見はっけんさい獲得かくとくし、ひらいてくことが大事だいじなのではないか。世界せかい文化ぶんか運命うんめいのためにも。
 西欧せいおう世紀せいきまつ以来いらいのいわゆる芸術げいじゅつ運動うんどう、エリートだけの、「芸術げいじゅつ」のわくないでのたたかいはむなしい。民衆みんしゅう全体ぜんたい風土ふうど生活せいかつ全体ぜんたいひびき、うねりをおよぼすような運動うんどうであるべきだ。
 わたしまえに、ほんいとかびあがってくる。たましい純粋じゅんすいにふれてあたらしく出発しゅっぱつするすじ。そのうえをひたすらにはしっていくのか。また日本にっぽん――いようのない抵抗ていこうがある。現実げんじつてきであるからこその、その絶望ぜつぼうてき因果いんがすじ矛盾むじゅんえながらきるべきか。しん動揺どうようするのだが。いずれにしても運命うんめいほんいとうえ異様いようなバランスをとりながらすすんでくつもりである。

岡本おかもと 太郎たろう


長文ちょうぶん 2.4しゅう
 人間にんげんざめているかぎり、いつもあたまのなかになにかをえがいています。もしここにいちまいしろいカンヴァスがあって、それに人間にんげんがあれこれおもえがくイメージが、そのままうつしだされるとしたら、いったい、そのはどんな作品さくひんになることか。人間にんげんあたまのなかほど神秘しんぴてきなものはない、とってもいいとおもいます。
 そこでいま、わたし自分じぶん実験じっけんだいにして、自分じぶんあたまのなかを正直しょうじきえがいてみようとおもいます。といっても、まさかしろいカンヴァスにわたしあたまのなかにあるイメージをうつしだすわけにはゆきません。やむをず、それをなにとかことばできしてみようとおもうのです。
 ところが、このようなこころみは、けっして容易よういではありません。なぜなら人間にんげんあたまおもえがいているものは、なかなかことばにならないからです。人間にんげんなにかをかんがえるさいに、ことばでかんがえています。ですから、かんがえていることを、そのままことばにすることは、かんたんのようにおもえますが、あたまのなかでかんがえているそのことばは、けっして完全かんぜんなことばなのではなく、いわば、ことばの断片だんぺんのようなものです。とぎれとぎれのことばが、かんだり、えたりしている、とってもいいでしょう。それを、そのまま原稿げんこう用紙ようしうつしてみても、当人とうにん以外いがいには、いや当人とうにんにとってさえ、意味いみ不明ふめいのことばの羅列られつになってしまい、とうてい、理解りかいできる文章ぶんしょうにはなりません。
 フランスの生理学せいりがくしゃポール・ショシャールは、あたまのなかでかんがえているそのようなことばを「うち言語げんご」とんでいます。つまり、人間にんげんはことばでなにかをかんがえているのですが、そのことばは、はなしたりいたりすることばとはちがった「うち言語げんご」だ、というのです。したがって、人間にんげんは、つねにふたつのことばをっているということになります。かんがえるときに使つかう「うち言語げんご」と、はなしたりいたりするときにもちいる通常つうじょうのことば――ショシャールそれを「そと言語げんご」とづけます――です。
 このふたつの言語げんごは、一見いっけん、おなじようにおもわれますが、じつはそうではなく、両者りょうしゃはまったく異質いしつ脈絡みゃくらくのなかにあるのです。ですから、「おもったとおりにけ」とわれても、そうかんたんにゆきません。文章ぶんしょうくということは、「うち言語げんご」を「そと言語げんご」に翻訳ほんやくすることであり、その翻訳ほんやく作業さぎょうなによりも大変たいへんなのですから。
 しかし、人間にんげんあたまのなかには、ただ「うち言語げんご」だけがただよっているわけではありません。たしかに、抽象ちゅうしょうてき概念がいねんは「うち言語げんご」によって意識いしきされていますが、そうした言語げんごとともに、さまざまなイメージが明滅めいめつしているのです。いや、言語げんごよりも、イメージのほうが主要しゅよう部分ぶぶんめているようにおもわれます。
 たとえば、あなたが、リンゴをべたい、とおもったとします。あるいはともだちにおうとかんがえたとする。そのさい、あなたのあたまに、まずリンゴということばがかんだのか、それともリンゴのイメージがさきあらわれたのか。ともだちのかおさきか、ともだちという言葉ことば最初さいしょか。わたしはいまそれを自分じぶんそくしてかんがえてみたのですが、どうも、はっきりしません。イメージがさきのようでもあるし、ことばがまずかんだようなもします。
 このように、イメージといっても、きわめて漠然ばくぜんとしており、さらによくかんがえてみると、イメージは「うち言語げんご」と一体いったいになっているようにもおもえます。しかし、イメージの背後はいごに「うち言語げんご」があったとしても、あるいは「うち言語げんご」の土台どだいにイメージが形成けいせいされていたとしても、イメージと「うち言語げんご」とは、やはりどこかちがっている。イメージとは画像がぞうのようなものであり、「うち言語げんご」とはことばだからです。

森本もりもと哲郎てつろう「ことばへのたび」)


長文ちょうぶん 3.1しゅう
番目ばんめ長文ちょうぶん課題かだい長文ちょうぶんです。】
 【1】欧米おうべいたいする社会しゃかい一般いっぱん軽薄けいはく好奇心こうきしん統制とうせいして大和やまとやまと言葉ことばないしは東洋とうよう尊重そんちょう自覚じかくさせるにはどうしたらいいか。その基礎きそがひろく日本にっぽん精神せいしん鼓吹こすいにあることはいうまでもない。基礎きそさえ出来できれば外来がいらいはおのずからかげをうすくするであろう。基礎きそ出来できなくてはなにもならない。【2】基礎きそ前提ぜんていするととも基礎きそ建設けんせつ貢献こうけんすべき言語げんご統制とうせい方法ほうほうとしては、文筆ぶんぴつたずさわるものが必要ひつようのない外来がいらい断然だんぜんもちいない決意けつい強固きょうこにし、まずあたらしい外国がいこくがはいってきかけた場合ばあいには自己じこ好奇心こうきしん抑圧よくあつしてただちに適当てきとう訳語やくごをつくること、【3】またいったん通用つうようしてしまった場合ばあいにはなるべくはや訳語やくごをつくって原語げんご社会しゃかい識閾しきいきしきいきから駆逐くちくすることはからなければならない。
 いったん、外来がいらい社会しゃかいてき識閾しきいきのぼって常識じょうしきされてしまうと便利べんりであるからだれしも使つかうようになる。【4】それゆえ常識じょうしきされるまでに一般いっぱんてき通用つうよう阻止そしすることに全力ぜんりょくをそそがなくてはならない。そして不幸ふこうにもすで言語げんご通貨つうかとなりすましてしまったならば贋金にせがねにせがね根絶こんぜつすることに必死ひっし努力どりょくはらうべきである。【5】失望しつぼうするにはあたらない。「オールドゥーヴル」は「前菜ぜんさい」にほとん駆逐くちくされたかたちである。「ベースボール」は「野球やきゅう」に完全かんぜん駆逐くちくされてしまった。これらの事実じじつ我々われわれ勇気ゆうき希望きぼうとをあたえる。【6】あたらしい言語げんご内容ないようかんして外国がいこくをそのままもちいればなるほど一番いちばん世話ぜわはない。好奇心こうきしん満足まんぞくさせることも事実じじつである。しかしそれではあまりにも自国じこくたいするあい民族みんぞくてき義務ぎむとにけている。
 【7】西洋せいよう哲学てつがく術語じゅつごなどは明治めいじ以来いらいしょ先輩せんぱい努力どりょくによってほとんどすべて翻訳ほんやくされづくしている。範疇はんちゅうはんちゅう当為とうい止揚しよう妥当だとうなどというむつかしい言葉ことば今日きょうではもう日用にちようになりきってしまった。【8】哲学てつがくじょう言葉ことば概念的がいねんてき抽象ちゅうしょうてきであるからある意味いみではかえって翻訳ほんやくとその通用つうようとが容易よういであるともかんがえられる。すべて言語げんご内容ないよう客観きゃっかんてき知的ちてきである場合ばあいには翻訳ほんやく成立せいりつしやすく、主観しゅかんてきじょうてきである場合ばあいには翻訳ほんやくがうまくいかないことは事実じじつである。
 【9】生活せいかつ密接みっせつ具体ぐたいてき関係かんけいにある言葉ことば雰囲気ふんいき情調じょうちょう満喫まんきつしていて国語こくごへの翻訳ほんやく困難こんなんであるには相違そういないが、それも程度ていど問題もんだいであって、外来がいらいくにやくむかって出来できかぎりの努力どりょくはらわれなくてはならない。【0】知識ちしき階級かいきゅう全面ぜんめんてき誠意せいいある努力どりょくをこのてんはらうならばかなら社会しゃかい民衆みんしゅう納得なっとくして使用しようするような新鮮味しんせんみある訳語やくご出来できてくるとしんずる。
 日本人にっぽんじんいちにちはや西洋せいよう崇拝すうはい根柢こんていから断絶だんぜつすべきである。ことこと文筆ぶんぴつうえ国民こくみん指導しどう位置いちにある学者がくしゃ文士ぶんし新聞しんぶん雑誌ざっし記者きしゃとが民族みんぞく意識いしきふか目覚めざめて、国語こくご純化じゅんか努力どりょくし、外来がいらい排撃はいげき奮闘ふんとうし、社会しゃかい趣味しゅみこうきへみちびくことを心掛こころがけなければならない。

 「外来がいらい所感しょかん」(九鬼くき周造しゅうぞう)より
 【1】学童がくどうのあそびにはおおくの想像そうぞうりょく抽象ちゅうしょう思考しこうりょくがはいってくるからきわめて多彩たさいなものになる。すでにさんさいごろからみとめられたことではあるが、てい学年がくねんではとくに「なになにごっこ」がさかんになる。【2】たとえば小学校しょうがっこういちねんおとこにん学校がっこうからかえるとかならずどちらかのいえって、にわおおきなみかんばこをひきずりし、めいめいひとつのはこにはいって、自分じぶんたちはこのふね船長せんちょうなんだぞ、といい、れるうみ航海こうかいするつもりになってさかんにからだをゆすり、はこをガタガゆうさせるあそびを「発明はつめい」した。【3】これがよほどったらしく、かなりのあいだおなじあそびを、いろいろと変化へんかくわえながらくりかえしていた。ななはちさいぐらいまでのはあきずにおなじ「ごっこあそび」をくりかえす。しかもそのたび本気ほんきでだれか人物じんぶつになったつもりになり、たとえばみぎ場合ばあいならそのたびに勇猛ゆうもうしん冒険ぼうけんしんがこころにきあがるらしい。【4】はこがひっくりかえって少々しょうしょうのけがをしたところで、それはあそびをいっそうおもしろくするばかりである。おんないさましいあそびにくわわることがあるが、おんな同士どうしだと、もっとしずかでしばしばロマンティックなあそび、たとえば「おひめさまごっこ」などをする場合ばあいすくなくない。【5】いずれにせよ、おなじこころの世界せかいあそんだしゃ同士どうしとして、こうしたようともだちのあじ一生いっしょうわすれられないものとなる。おそらくそれはのちの交友こうゆう恋愛れんあい結婚けっこんなどという対人たいじん関係かんけい基盤きばんをつくるちからっているのであろう。
 【6】ボールあそびなどというものは、もっとおさないときから「心身しんしん機能きのうをはたらかせるもの」としておこなわれていたが、小学校しょうがっこう上級じょうきゅうになるほどチームをんで、ルールをまもるという本格ほんかくてきなゲームのかたちをとるようになる。【7】どもたちがその発達はったつおうじてどのようにルールを意識いしきするか、をピアジェ(スイスの心理しんり学者がくしゃ)はくわしく観察かんさつした。さいごろまでは、ルールはすこしも強制きょうせいされたものとはどもにかんじられず、いわばただおもしろいモデルとしてうけとめられる。【8】さい以後いごになるとルールは神聖しんせいでおかすべからざるものとしてかんじられる。ルールは大人おとながつくったもので、永久えいきゅうにそのままつづくものとどもはおもうので、ちょっとでもルールをえようとすると重大じゅうだい違反いはん、という印象いんしょうどもにあたえる。【9】だいさん最終さいしゅう段階だんかいになると、ルールというものはみな協定きょうていむすんでつくったものだ、ということがわかってくるので、それをうけれるのは、いわば自分じぶん自分じぶんしたことで、外側そとがわから強制きょうせいされたものとはかんじられない。【0】ルールにしたがうのは集団しゅうだん忠実ちゅうじつであるためで、もしルールがのぞましくないとなれば、みな相談そうだんしてえることもできるのだ、というようにかんがえる。このようなかんがえかたはじゅういちさいじゅうさいごろにやっと到達とうたつするもので、もうこれは大人おとなかんがえかたといってよい。このようなかんがえのもとでおこなわれるゲームをピアジェは「自律じりつてきゲーム」とび、それ以前いぜんの「他律たりつてきゲーム」と対比たいひさせている。
 ゲームとは、あそびの一種いっしゅにすぎないとはいえ、このたねのあそび活動かつどうとおして社会しゃかいてきルールをまもること、そのために他人たにん協力きょうりょくすること、つまり倫理りんり基本きほんてき訓練くんれんおこなわれるのに注目ちゅうもくしよう。修身しゅうしん訓話くんわよりもこうしたあそびのなかどもの社会しゃかいせいそだってくことをかんがえれば、それだけでもあそびの重要じゅうようせいがわかる。
 さらに、あそびのなか想像そうぞうせいがゆたかに発揮はっきされると、創造そうぞうてき活動かつどうにまでつながってく。「ごっこあそび」もその萌芽ほうがだが、構想こうそうりょく表現ひょうげんりょく発達はったつしたどもは、たとえば「ものがたりあそび」をはやくからはじめる。よるねるまえのひととき、弟妹ていまいたちにおとぎばなしを「発明はつめい」してはなしてきかせるがある。それはしばしば「つづきもの」で、一人ひとり主人公しゅじんこうが、毎晩まいばんあたらしい経験けいけん活動かつどうおこなう。幼児ようじには「おはなし」をきくのがおおきなよろこびなので、みないちしんみみをすませ、主人公しゅじんこうのよろこびやかなしみに一喜一憂いっきいちゆうしているうちに、かたもききもいつのにかねむりこんでしまう。ウルフ(イギリスの女流じょりゅう作家さっか)はきわめておさないころから、こうした「かた」だったというが、のちに作家さっかになるほどの人間にんげんでなくとも、学童がくどうは、こうした空想くうそう世界せかいはなひらく時代じだいである。それは審美しんびてき感情かんじょう発達はったつときわめて密接みっせつにむすびついている。どものおおくが詩人しじんてき素質そしつしめすのも、かれらの新鮮しんせん感受性かんじゅせいと、奔放ほんぽう空想くうそうりょく発達はったつするからであろう。これはうまく発達はったつさせれば、大人おとな卑小ひしょうな「現実げんじつ」をえさせ、あたらしい精神せいしん世界せかい基礎きそ能力のうりょくとなるのだから、大人おとなはなるべくこのをつんでしまわないように、むしろどもからまなぶようにしんしたいものだ。こうしためん発達はったつさせるために、学校がっこう国語こくご教育きょういく作文さくぶん授業じゅぎょうはきわめて大切たいせつ役割やくわりっているにちがいない。


長文ちょうぶん 3.2しゅう
 【1】じゅうねんまえわたし京都きょうと下宿げしゅくしておりました。あるよるつきのいいよるでしたが、わたしのところのおばあさんと一緒いっしょに、にわつきてました。そのおばあさんはわたしに、「アメリカにもつきがありますか」といたのです。
 【2】たいへんかわいらしいはなしでしょうが、まだこのような初歩しょほてき誤解ごかいのこっているはずです。しかしどちらかというと、すくなくなったのです。じゅうねんまえか、じゅうねんまえなら、一般いっぱんひとおなじような誤解ごかいをしていたでしょうが、現在げんざいよっぽどのおばあさんでなければもうけないはなしになりました。
 【3】ところが、もうひとつの迷信めいしんが――迷信めいしんってもいいとおもいますが、日本にっぽんのこっている。ある意味いみでは、これが日米にちべい相互そうご理解りかい邪魔じゃまをしているのではないかとおもいます。それは、外国がいこくじんべないという迷信めいしんです。【4】わたしのことをらない日本人にっぽんじんはなすと、くにかれるし、職業しょくぎょうかれるし、そして、さん番目ばんめあたりの質問しつもんは、でも平気へいきですかとくのです。このような質問しつもんじつはどうでもいいとおもいます。【5】かりわたしてムカムカするとしても、日本にっぽん理解りかいしていないと早合点はやがてんしてもらいたくない。じつわたし大好だいすきです。「べます」というさつむねけてもいいとさえおもっています。それとも「べます」だけでも十分じゅうぶんでしょう。【6】どうせ質問しつもんはいつものことです。ほかのことはかれないんです。(笑)それがひとつです。
 さらに、もうひとつ、日本語にほんご外国がいこくじん絶対ぜったいはなせない、そして外国がいこくじんかりはなせてもぜったいめないという迷信めいしんです。この迷信めいしん非常ひじょう根強ねづよいのです。【7】さんじゅうねんまえから日本にっぽんのことを勉強べんきょうしていても、まだわたし日本にっぽん漢字かんじめないとおもっているひとたちが圧倒的あっとうてきおおい。わたし外国がいこく日本にっぽん文学ぶんがくおしえているとっていても、わたし日本にっぽん文字もじめないと確信かくしんしているんです。【8】そんなにむずかしいでしょうか。もし、そんなにむずかしいものでしたら、日本にっぽん国民こくみんはみんな天才てんさいばかりだとうほかないのです。つまり小学校しょうがっこうしかていない日本人にっぽんじんでもかなりめるのにさんじゅう年間ねんかん勉強べんきょうしても「佐藤さとう一郎いちろう」という名前なまえ外国がいこくじんめないとうのはどういうことでしょうか。
 【9】ともかく、そういうような迷信めいしんとか、外国がいこくじん理解りかいできるということを否定ひていするような態度たいどは、相互そうご理解りかい邪魔じゃまになるとわたしおもいます。
 アメリカじん理解りかい邪魔じゃまをするような迷信めいしんっているのです。しかし、アメリカじん迷信めいしんは、日本人にっぽんじん迷信めいしんとまさにぎゃくです。【0】日本人にっぽんじんは、外国がいこくじんはどうしても日本にっぽんのことを理解りかいできないとおもんで一応いちおうなげきますが、と同時どうじに、外国がいこくじんかってもらえないとおもうとなんとなく優越ゆうえつかんおぼえるのです。「やっぱり日本人にっぽんじんでなければこのもののおいしさはからない。日本人にっぽんじんでなければこのはなうつくしさがかるはずがない。日本人にっぽんじんでなければ天気てんきのいいのよさがかるはずがない……」。これは極端きょくたんですが。
 ところが、アメリカじん場合ばあいはどうかとうと、アメリカじんは、日本人にっぽんじんはみんなアメリカのことをっているはずだというふうにおもっている。英語えいごをゆっくりしゃべったらどんな日本人にっぽんじんでもかるはず、からないようならばそれはからないふりをしてるからだ、みんなかってるはずだとおもうのです。そして、アメリカのものなら日本人にっぽんじんべているにちがいないとおもっているのです。
 たとえば、外国がいこくじん日本にっぽん着物きものるとか草履ぞうりをはくとか、そういうことがあったら、日本人にっぽんじんなんとなくおかしいとおもう。なんとなくへんです、やっぱり着物きもの日本人にっぽんじんでなければ無理むりだとうでしょう。しかし、アメリカじんはまさにぎゃくです。日本人にっぽんじんているシャツのむねに、自分じぶん大学だいがくもんえがいてあれば、とてもうれしくなる。やっぱり日本人にっぽんじんもアメリカじんまったおなじものをよろこぶのだとおもいたがるのです。そして、日本人にっぽんじんがアメリカじんちがうといたら、時間じかん問題もんだいにすぎない、いずれそのうちまったおなじになるにちがいない、とおもいます。
 それはとんでもないはなしですが、もちろん悪意あくいはないのです。日本人にっぽんじん立場たちばにもアメリカじん立場たちばにも、まった悪意あくいがない。しかし、悪意あくいがなくても相互そうご理解りかいのためによくないとわたしおもいます。わたしはいちばん最後さいごに、そういうような悲観ひかんてきはなしはしたくありません。わたし相互そうご理解りかいとしごとにふかまっているにちがいないとおもっております。

(ドナルド・キーン『日本人にっぽんじん質問しつもん』)


長文ちょうぶん 3.3しゅう
 【1】妖怪ようかいなかに「もののけ」という種類しゅるいがあって、これは「もの」につく。一般いっぱんには、「ものの」といて、これは「もの」にえる「」のことであろうとかんがえられているようであるが、そうではない。「ものの」といて、これは「もの」がただよわせているかにえる「気配けはい」のことである。
 【2】つまりこれは、「もの」についてそれが「もの」であることを、次第しだい歪曲わいきょくもしくは変質へんしつさせてゆくわけであり、それが我々われわれには、どことなく得体えたいれない「気配けはい」をただよわせているようにえるのであるが、ここでう「もったい」も、そうした「もののけ」の亜種あしゅにほかならない。【3】そしてそれがつくと、我々われわれはその「もの」を、むしょうにてたくなる。
 したがってぎゃくに、それのついていないものをると、むしょうにひろいたくなる。【4】つまり、「もったいない」のである。我々われわれは、定期ていきてきにごみじょうをうろつき、「もったいない」とつぶやきながらあれこれとひろあつめる連中れんちゅうて、「あれはきっと、それらのものがひろってくれびろってくれと、連中れんちゅうをそそのかすからにちがいない」とかんがえるが、じつはそうではない。【5】「もの」に「もったい」という「もののけ」がついているとき、その「もの」が我々われわれに「てろてろ」とそそのかすのであり、「もったいない」とってひろうのは、たんにその反動はんどうにすぎないのである。(中略ちゅうりゃく
 【6】ところで、人類じんるいをひもとくまでもなく我々われわれは、かつて「狩猟しゅりょう採集さいしゅう時代じだい」というものを経験けいけんし、いままた「消費しょうひ遺棄いき時代じだい」というものをむかえつつあることを、よくっている。つまり、その生活せいかつしゅたる様態ようたいを、「ひろう」ことから「てる」ことへ、おおきく転換てんかんさせつつあるのだ。【7】妖怪ようかいもったいは太古たいこより存在そんざいし、それが「もの」についたりはなれたりすることにより、人々ひとびとにそれをてさせたりひろわせたりする法則ほうそくせいは、なん変化へんかしていないにもかかわらず、こうした転換てんかんおこなわれたということは、あきらかに奇妙きみょうなこととえよう。
 【8】現在げんざい、もったいせんもん妖怪ようかい学者がくしゃ問題もんだいとしているのは、このてんにほかならない。うまでもなく、かんがえられることはひとつである。つまり「狩猟しゅりょう採集さいしゅう時代じだい」から「消費しょうひ遺棄いき時代じだい」にいた期間きかんの、どこかの時点じてん文明ぶんめいが、もったいを人為じんいてき操作そうさしはじめたのだ。【9】文明ぶんめいがもったいという妖怪ようかい存在そんざいづき、それをひそかにやしなそだて、「もの」に自由じゆうにつけたりはなしたりすることができれば、人々ひとびとに「もの」を、これまた自由じゆうてさせたりひろわせたりすることができるようになるのは、道理どうりである。
 【0】もちろん文明ぶんめいが、人々ひとびとに「もの」をてさせなければならなくなった理由りゆうは、だれもがっている。あらためてここで歴史れきし復習ふくしゅうをする余裕よゆうはないが、このあいだ人類じんるいは「産業さんぎょう革命かくめい」をて「大量たいりょう生産せいさん時代じだい」をむかえたのであり、当然とうぜんながらその大量たいりょう生産せいさんされた「もの」は、大量たいりょう消費しょうひされなければならなくなったのである。しかし、生産せいさんりょくというものはやみくもに向上こうじょうさせることができるが、消費しょうひほうはそうはいかない。そこで、どうするべきか。
 たりまえ文明ぶんめいならここで消費しょうひ見合みあうべく生産せいさんりょくほうおさえるであろう。ところが、我々われわれ文明ぶんめいはそうしなかった。生産せいさんりょくおさえるどころか、それをさらに向上こうじょうさせ、我々われわれ消費しょうひあまぶんを、そのままてさせることにしたのである。このあたりが、我々われわれ文明ぶんめいの、天才てんさいてきなところとえよう。そしてそのためにも、妖怪ようかいもったいがされるハメになったのだ。
 前述ぜんじゅつしたように、「もの」に「もったい」がつくと、我々われわれはそれをまだ消費しょうひしつくしてないにもかかわらず、むしょうにてたくなる。文明ぶんめいは――というより、現在げんざいそれをしているのは流通りゅうつう経済けいざい中枢ちゅうすうささえる専門せんもんたちであるが――ひそかにこの操作そうさをしている。つまりこれを、専門せんもん用語ようごで「もったいをつける」とう。「もったい」がつくと、なんとなくその「もの」が、「おもく」かんじられたり、「わずらわしく」かんじられたり、「うっとうしく」かんじられたりするのである。
 もちろん、こうした専門せんもんたちだって馬鹿ばかではないから、商店しょうてんならべられた商品しょうひんに「もったい」をつけるようなことはしない。そんなことをすれば我々われわれは、消費しょうひはおろか、「購入こうにゅうする」ことをすらしなくなる。商品しょうひん流通りゅうつう円滑えんかつおこなわれるためには、我々われわれがそれをってかえり、包装ほうそうひらいたとたん、それがつくようにしなければならない。ということからかんがえれば、シャーロック・ホームズをいちさつでもんだことのあるものには、どこにカラクリがあるか、すでに推理すいりできたことであろう。そうなのだ。包装ほうそうである。化粧けしょうばこである。そして、それをむすぶリボンである。そこにもったいが仕掛しかけられ、それらをはなったとたん、それはなか商品しょうひんにつくことになっているのである。包装ほうそうや、化粧けしょうばこやリボンを、もったいないとってしまっておきたくなるのは、そこにそれまでついていたもったいが、なか商品しょうひんうつんでいるからにほかならない。
 かくて、流通りゅうつう経済けいざい円滑えんかつ機能きのうし、生活せいかつうるおい、我々われわれ満足まんぞくしている。「もったい」である。妖怪ようかいもったいの養育よういくと、専門せんもんたちによるその見事みごと操作そうさによって我々われわれは「てるためにれる」という、生物せいぶつ学的がくてきには希有けうけう性向せいこうにつけ、「消費しょうひ上回うわまわ生産せいさん」という、ありべからざる事態じたい楽々らくらくとこなしているのだ。

別役べつやくみのる当世とうせいもののけ生態せいたいがく』より)


長文ちょうぶん 3.4しゅう
 どもたち全員ぜんいん学校がっこう裏手うらて雑木ざつぼくやまかけました。かげのさわにはまだよごれたゆきのこっていましたが、だまりはやわらかいねつふくみ、そこをあるくときにほおあたたかみをおくってきます。どもたちは歓声かんせいをあげ、のぼったり、づるにぶらさがったり、カタクリをんだりしました。教室きょうしつにいるときとは別人べつじんのようでした。
 くさこしをおろしていると、ろく年生ねんせいらしいおんなってきました。ほおあかあざのあるひっそりとしたかんじのでした。おんなはだまってわたしのそばにすわり、しばらくくさいてはんでいましたが、やがてぽつりといました。
「こんどの先生せんせいァ、おとこ先生せんせいおんなおな先生せんせいもいい先生せんせいだね。」
「…………。」
 わたしはとっさにはこたえることができませんでした。いまいままでむら分校ぶんこうどもたちをよくおもっていなかったようながしました。わたしはちいさな狼狽ろうばいかくしながら、おんな名前なまえいえ仕事しごとのことや兄弟きょうだいのことをきました。里枝りえというそのおんなは、一言ひとこと一言ひとことずかしがるようにいいよどみながら自分じぶんのことをかたりました。なまりつよ方言ほうげんは、わたしにはみみざわりなはずでしたが、おとなしいさとえだくちからそれがれると、素直すなおにわたしのからだのなかけこんでいくようでした。
 先生せんせい! とだしぬけにうしろから背中せなかをたたかれ、わたしはおもわず悲鳴ひめいをあげました。どんぐりまなこいち年生ねんせいあかりが、をいっそうおおきく見開みひらき、いきをはずませていました。
先生せんせいァ、おらァ卒業そつぎょうするまでいてくれるね。」
「どうして?」
「ほだって……。」
 あかりうしろをふりかえりました。あかりをからかったらしいおおきいおとこほうによりかかり、わらいをかべてこっちをていました。
兼吉けんきちがな。ハイカラ先生せんせいなどァいちねん分校ぶんこうなんかやめて、すぐまちかえるって……。」
先生せんせいはハイカラじゃないよ。」
「ハイカラださァ、金色きんいろ眼鏡めがねかけてェ。」
 わたしはおもわずわらいました。女学校じょがっこう卒業そつぎょう記念きねんに、役場やくば書記しょきをしていたちちってくれた旧式きゅうしき金縁きんぶち眼鏡めがねを、わたしは大事だいじ使つかつづけていたのでした。

三好みよし京三きょうぞう分校ぶんこう日記にっき」)