(Translated by https://www.hiragana.jp/)
課題集
長文 1.1週
【1】「
天は
人の
上に
人を
造らず
人の
下に
人を
造らず」と
言えり。されば
天より
人を
生ずるには、
万人は
万人みな
同じ
位にして、
生まれながら
貴賤上下の
差別なく、
万物の
霊たる
身と
心との
働きをもって
天地の
間にあるよろずの
物を
資り、【2】もって
衣食住の
用を
達し、
自由自在、
互いに
人の
妨げをなさずしておのおの
安楽にこの
世を
渡らしめ
給うの
趣意なり。されども
今、
広くこの
人間世界を
見渡すに、かしこき
人あり、おろかなる
人あり、
貧しきもあり、
富めるもあり、【3】
貴人もあり、
下人もありて、その
有様雲と
泥との
相違あるに
似たるはなんぞや。その
次第はなはだ
明らかなり。『
実語教』に、「
人学ばざれば
智なし、
智なき
者は
愚人なり」とあり。【4】されば
賢人と
愚人との
別は
学ぶと
学ばざるとによりてできるものなり。また
世の
中にむずかしき
仕事もあり、やすき
仕事もあり。そのむずかしき
仕事をする
者を
身分重き
人と
名づけ、やすき
仕事をする
者を
身分軽き
人という。【5】すべて
心を
用い、
心配する
仕事はむずかしくして、
手足を
用うる
力役はやすし。ゆえに
医者、
学者、
政府の
役人、または
大なる
商売をする
町人、あまたの
奉公人を
召し
使う
大百姓などは、
身分重くして
貴き
者と
言うべし。
【6】
身分重くして
貴ければおのずからその
家も
富んで、
下々の
者より
見れば
及ぶべからざるようなれども、その
本を
尋ぬればただその
人に
学問の
力あるとなきとによりてその
相違もできたるのみにて、
天より
定めたる
約束にあらず。【7】
諺にいわく、「
天は
富貴を
人に
与えずして、これをその
人の
働きに
与うるものなり」と。されば
前にも
言えるとおり、
人は
生まれながらにして
貴賤・
貧富の
別なし。ただ
学問を
勤めて
物事をよく
知る
者は
貴人となり
富人となり、
無学なる
者は
貧人となり
下人となるなり。
【8】
学問とは、ただむずかしき
字を
知り、
解し
難き
古文を
読み、
和歌を
楽しみ、
詩を
作るなど、
世上に
実のなき
文学を
言うにあらず。これらの
文学もおのずから
人の
心を
悦ばしめずいぶん
調法なるものなれども、【9】
古来、
世間の
儒者・
和学者などの
申すよう、さまであがめ
貴むべきものにあらず。
古来、
漢学者に
世帯持ちの
上手なる
者も
少なく、
和歌をよくして
商売に
巧者なる
町人もまれなり。【0】これがため
心ある
町人・
百姓は、その
子の
学問に
出精するを
見て、やがて
身代を
持ち
崩すならんとて
親心に
心配する
者あり。
無理ならぬことなり。
畢竟その
学問の
実に
遠くして
日用の
間に
合わぬ
証拠なり。
されば
今、かかる
実なき
学問はまず
次にし、もっぱら
勤むべきは
人間普通日用に
近き
実学なり。
「
学問のすすめ」(
福沢諭吉)より
長文 1.2週
【1】
慰霊祭のたびに
官僚たちの
挨拶がある。「……みなさまの
尊い
犠牲の
上に
今の
平和があることを
決して
忘れず……」というい
回しを
何度か
聞いた。そのたびにそれは
違うと
思った。
犠牲がなければ
今の
平和がなかったわけではないだろう。【2】
早い
話が、
一九四四年末の
段階で
大日本帝国ファシスト(
軍国主義者)
政権が
降伏していれば、
三月十日の
東京大空襲の
死者十万人も、
沖縄戦の
死者二十三万人も、ヒロシマの
死者十五万人もナガサキの
死者七万人も
出さずに
済んだ。【3】
同じように、シンガポールで
死んだ
人たちも
南京で
死んだ
人たちも、そもそも
日本軍が
来なければ
自分たちは……と
言うはずだ。
誰だって
同胞たちの
死を
無駄とは
思いたくない。
意義のある
崇高な
死と
見なしたい。【4】しかし、
無駄と
認めないのは、
自分たち
人間の
愚かさを
糊塗(こと。とりつくろってごまかすこと)することに
他ならない。
数百万人の
死という
犠牲の
上にしか
二十世紀後半の
平和が
成立しないのだとしたら、そんな
平和はいらない。【5】
死者たちの
上に
築かれた
平和を
楽しむ
資格など
誰にもないではないか。
覚悟の
犠牲ではなく
無念の
死であったという
前提から
考えないかぎり、また
同じことがくりかえされるだろう。
ヒロシマへの
原爆投下の
正当性をい
張る
人々がまだアメリカには
多いようだ。【6】つまり、あそこで
原爆を
使わなければ
本土上陸作戦でたくさんのアメリカの
若者が
死んだし、
日本側の
犠牲も
多かったはずだという
論法。あの
時点でトルーマン
大統領にいかなる
選択肢があったかを
考えて、アメリカ
兵の
死者の
数について、
数万人から
百万人までさまざまな
数字が
提出されている。【7】その
前提として、
沖縄戦で
日本軍はあれだけ
頑強に
抵抗したではないかとも
言われる。
実際の
話、
沖縄では
日本軍は
民間人を
楯に
取り、
白旗を
掲げてアメリカ
兵を
呼び
寄せた
上で
反撃するようなアンフェア(
公正でないこと)までした。
【8】これに
対して、
日本の
側から
何の
反論も
出てこないのはなぜだろう。ヒロシマとナガサキに
原爆が
落とされなかったと
仮定して、いったい
大日本帝国はどこまで
抵抗したか。
軍の
指揮系統はどの
程度混乱していたのか、
天皇はどこで
収拾を
図り
得たか。【9】だいたいあの
時期には
誰にどれだけの
権力・
指揮力があったのか。
五十年もたって、
関係者の
多くが
死んでしまって、
回想録の
類も
出尽くしたというのに、その
程度のシミュレーション(
模擬的に
調査・
実験をして
研究すること)を
誰もしていない。【0】
戦争で
死んだ
人々の
大半は
若かった。
高い
地位にいたくせに
責任の
所在をごまかす
卑怯者ばかりが
生き
残ったとしたら、いかに
慰霊祭を
重ねても
若い
死者たちは
浮かばれないだろう。
戦後五十年、
各論として
名誉の
破片を
拾う
本はたくさん
出たが、
究極の
責任を
問う
史書はまだ
出ていない。だから、
原爆投下に
対しても
決定的な
反論ができない。
「
二十年前の
八月十五日、
私は
哀れな
捕虜として、フィリピンの
収容所にいた。
敗戦が
近いのは
覚悟していたが、
祖国が
敗れたのは
初めての
体験である。
捕虜の
仲間といっしょに、
少し
泣いた」と
大岡昇平は
書いた。あの
時期に、あの
状況で、
少ししか
泣かなかったことがこの
人の
知の
力だと
思う。その
力をもって
大岡さんは
事実による
鎮魂(
死者の
魂をしずめること)を
行った。
薄っぺらな
政治の
言葉ではなく、
戦場で
何が
起こったかを
確定してゆく
堅固な
言葉によって、あの
戦争を
定義した。『レイテ
戦記』(
大岡昇平の
書いた
戦争文学)を
読み
返すのも、ぼくにとっては
今年の
夏の
黙祷の
一つだった。
(
池澤夏樹『
黙祷の
夏』による)
長文 1.3週
【1】
一流ホテルの、いかにも「
一流でござい」というロビーに、たいていこうした
男女の
一群がたむろしているのは、そうでないとどうしていいかわからない
客がいると
考え、ホテル
側があらかじめそれ
専門の「
仕出し
屋」に
頼んで
用意しておく
場合が
多いからである。【2】
当然、
経費もかかるが、ロビーを
利用する
客にランクの
最上位にある「
待ちあわせ
場所」としてふさわしい
体験をしてもらうことはホテル
側としても
望ましいことであるし、これにはちょっとした
教育効果もある。【3】つまり、
彼等があまり
傍若無人な
振る
舞いに
及ぶと、ボーイが
近づいて
行って「
周囲のお
客様が
迷惑をいたしますから」と、それとなく
注意をするのを
見かけるであろう。あれは、そうすることによって「
周囲の
客」の
方が、「ははあ、ホテルのロビーであんなことをしてはいけないんだな」と
学ぶことを、
期待しているのである。
【4】もちろん、くり
返しそこで
待ちあわせをし
経験を
積むと、もう、そうした
騒がしい
男女の
一群がかたわらにいなくとも、
何とかそれらしくそこに
座っていられるようになる。【5】しかし、ホテルのロビーは、
奥が
深い。ある
日、
彼もしくは
彼女は、
近くに
座っていた
若い
女性がちらりと
指をあげ
寄ってきたボーイに「お
手洗いはどちら」と
聞き、「あのエレベーターの
奥にございます」と
言わせてから、「ありがとう」とハンドバッグを
持って
立ち
上がるのを
見る。【6】「なるほど、そうなんだ」というわけだ。なぜなら、それまで
彼もしくは
彼女は、
自ら
立ってボーイに
近づき、
時には
向こうに
行くボーイに
走って
追いつき、「ねえ、トイレはどこ」と
聞いていたからである。
【7】ホテルのロビーでは「ボーイにむこうからやって
来させる」のでなければいけない。それが
一流ホテルのロビーを
利用する、
一流の
客のやり
方なのだ。そこで、
次の
日から
早速これを
試みることになるのだが、
簡単なようでこれがなかなかできない。【8】
指をちらりと
持ち
上げた
程度では、ボーイなんか
来てくれやしないのだ。しかし、
飲み
屋でおねえちゃんに
焼き
鳥を
頼むのではないから、「おーい」と
叫んだり、パチパチと
手をたたいたりするわけにはいかない。【9】ロビーに
入ってきた
時に、あらかじめボーイに
注目させておき、その
一挙手一投足に
意味を
持たせておいて、タイミングよくちらりとやらないと、これは
空を
切る。
ただし、
難しいだけにこれが
成功した
時の
感動は、えも
言われない。【0】ホテルのロビーにいることの、
奥儀に
達したのだという
気がするのである。そして、
教えられた
通りトイレに
入って、
洗った
手をぬぐいながら
出てくると、そこに、くだんのボーイが
立っている。「お
客さま」と、
彼が
言うのである。「お
客さまこそ、ホテルのロビーを
利用なさるにふさわしい
方とお
見受けいたしました。ついては
明日より、
失礼ながら
日当をお
払い
致しますので、
当ホテルのためにロビーに
座っていただけませんでしょうか。
他の、まだホテルのロビーになれないお
客さまのための、
模範になっていただきたいと
存じますので……」
つまり、ホテルのロビーにいる「どうしようもない
田舎者」と、「これこそが
都会人」と
思えるものは、
双方ともホテル
側の「
雇われ」なのだ。その
間をキョロキョロしながらうろつきそれぞれから
何ごとかを
学ぼうとしているのが、
本来の
客ということになる。もちろん、
学び
終わって「
田舎者」
度がすっかり
払い
落とされると、ボーイがやってきて
雇ってくれる。
(
別役実『
都市の
鑑賞法』による)
長文 1.4週
旅に
出て
未知の
風景に
接し、
感動する
前に、「ああ、
絵はがきとそっくり。」というセリフを
口にする
人をよく
見かける。また、
最近のように
飛行機利用のたびが
盛んになると、
若い
女性が
下界を
見ながら、「まあ、
地図とそっくりね。」という
歓声をあげる。しかし
人間は、
飛行機を
発明してから
百年とは
経過していないのに、
今や、
驚異的な
速さの
ジェット機を
考え
出し、それが
人間を
苦しめようと
疲労させようとおかまいなしに、ますますスピードを
速めようとつとめている。
一昔前は
船で
インド洋を
横断して、はるばると
欧州を
目指したのに、それが、
現在はどうだ。あっという
間に
目的地に
着いてしまう。
思うに、
人々は
旅というものへの
導入部を
持つことが
少ない。この
導入部が
実は
旅だったのだが、
今では
目的の
地へ
着くことだけが
旅のように
思われてしまった。そして、それが
旅だと
思いこんでしまう
現代人は
気の
毒だ。
乗り
物は
極めて
速くなり、
時間の
節約といちはやく
目的地へ
着くことは
実現されたが、
旅情はそれに
比例するとはいえないからだ。
そのうち、
人々はもうわかってしまっているから、
旅に
出る
必要はないなどといいかねない。
旅とは
未知のものを
知るだけの
行為ではないのである。
旅をして、「
絵はがきそっくりの
風景」という
感想を
口にするような
人にとっては、いっそ
旅などしない
方がいいのだ。
旅は
心の
中でもできる。
病床に
臥している
人でも、
現実にそこを
旅した
人よりも
旅情を
味わっている
場合がある。それは
想像力が
豊かだからだ。
逆に、
小説の
中に
描かれた
風景や
土地にあこがれてそこへ
行き、
現実には
失望したといって
帰ってくるような
人もいる。それは、
小説家がうそをついたのではない。
現実が
先行して
実景を
変えたのでもない。
旅情というものは、
意外に、その
人の
心の
中にあるものだということである。ある
土地へ
旅をして、
何が
心に
残ったか、
胸に
手をあててそれを
思い
返してみるとわかる。
旅先での、
絵はがきや
小説では
体験できなかった
未知の
人との
出会い、その
人のおしゃべりやアクセント、そして、そのとき
自分が
味わった
何ともいえない
感情、そうしたものが
旅の
忘れ
得ぬ
一こまではなかったか。そういうイメージは
常に
自分の
心の
側にある。
心が
風景をみるのである。
(
岡田喜秋「
旅に
出る
日」)
長文 2.1週
【
二番目の
長文が
課題の
長文です。】
【1】
顔パスという
言葉がある。「おれだ」「よし」という
阿吽の
呼吸で、
本来は
規則として
処理するところを
当人どうしの
個人的な
関係で
処理する
方法である。なれ
合いというと
聞こえは
悪いが、
人間どうしの
信頼関係を
基礎にしている
点で
最も
確実な
方法とも
言える。【2】
現代の
法律や
規則万能の
社会では、このような
人間の
信頼関係に
基づいた
対応の
仕方がもっと
見直されてもよいのではないだろうか。
そのための
第一の
方法は、
相手を
信じるだけの
心の
広さを
持つことだ。【3】
信頼するということは、
相手に
自分をゆだねることである。
場合によっては、
自分が
大きな
損失を
被ることもある。それにもかかわらず、
相手にすべてを
任せて
信頼する。そういう
決意があるからこそ、
相手も
自分を
信頼してくれる。【4】ジャン・バルジャンは、
自分を
信じてくれた
老司教を
裏切った。しかし、
翌朝憲兵に
連れられてきたジャンに、
司教は、「その
銀の
食器は
私が
与えたものだ」と
告げる。このように、
相手の
善なる
心に
対する
絶対の
信頼が、
人間らしい
心をもとにした
社会の
基礎となる。
【5】また、
第二には、そのような
人間どうしの
信頼を
支えるだけの
社会の
一体性を
作ることだ。
日本の
社会の
治安のよさは、
世界の
中でも
際立っている。タクシーの
中へ
置き
忘れた
財布は、ほぼ
確実に
戻ってくる。【6】
日本人にとっては
当たり
前のように
見えるこのようなことが、
世界ではきわめて
稀なことなのである。そういう
社会が
築かれたのは、
日本が
一つの
民族、
一つの
言語、
一つの
文化を
持った
社会だったからである。【7】
異なる
民族や
文化と
共存することはもちろん
大切だが、それは
日本の
社会の
中に
異なる
民族や
文化が
異質なまま
広がっていいということではない。
【8】
法と
正義に
基づいて
判断するという
考えは、
確かに
人類が
長い
歴史の
中で
勝ち
取ってきた
権利だ。だからこそ、この
考えは
世界のどこでも
通用するグローバルな
思想となっている。しかし、そのグローバリズムは、
日本のように
互いの
信頼関係をもとに
成り
立ってきた
社会では、
人間の
心を
持たない
冷たい
機械のような
対応に
見える。【9】
大岡越前守が
日本人に
人気があるのも、
人間の
心の
温もりを
裁き
方の
中に
生かしたからだ。
顔パスで
交わされるものは、
単なる
顔ではなく、
互いの
善意への
信頼なのである。【0】
(
言葉の
森長文作成委員会 Σ)
【1】イスラエルを
旅していたとき「ここでは
全員一致の
裁決は
採用しないんですよ」と
聞かされた。
ユダヤ
教の
習慣だ、というような
話だったが
本当だろうか。
根拠は、もう
一つ、はっきりとしないけれど、
事実ならば、なかなか
興味深い。
【2】みんなが
賛成したときには、それをよしとしない、と
言うのだから「そんなばかな」という
声が、すぐさま
聞こえてきそうな
気もするが、この
種のい
分は
一つのパラドックスである。そのまま
受け
取ってはなるまい。どういう
条件の
中でそれを
言っているのか、
中身を
吟味する
必要がある。
【3】まず
第一に、みんなが
一致できるような
案件は、いちいち
採決にかけないという
事情があるだろう。
答えが
初めからわかっていることを、わざわざ
問いただして
全員一致を
確認するケースは『ない』とは
言わないが、あまり
意味を
持たない。【4】だから、ことさらに
裁決を
求めるのは、べつな
考えがありそうなときであり、そうであるにもかかわらず、
裁決の
結果、
全員一致というのは、ちょっと
疑ってみたほうがよい、という
教えだろう。
たとえば、みんなが
熟慮せず、いい
加減に
答えているケースがある。【5】また
反対意見をすなおにい
表せない
状況が、そこに
伏在しているケースも
少なからずありそうだ。さらにまた、あまりかんばしくない
根まわしがおこなわれているケースもあるだろう。
こういう
事情を
勘案すれば、
一つのパラドックスとして「
全員一致は
採用せず」という
理屈も
理解できる。
【6】たとえば
日本相撲協会。ほとんどの
重要議題が、
全員一致でシャンシャンと
決定すると
聞いたことがあるけれど、
私なんか
根が
疑い
深くできているから、
――
本当かいな――
と
首をかしげてしまう。
異論を
唱えると、いろいろまずいことが
生じそうだから、
形だけ
一致させている、と、そういうことではないのか。
【7】これが
私の
勘ちがいならば、まことにご
同慶にたえないが、
相撲協会はともかく、こうした
気配を
漂わせている
全員一致も、
世間にはけっしてまれではあるまい。わざわざ
裁決を
必要とするような
案件ならば、
一人や
二人、
異論を
挟む
者がいるほうが
自然である。
【8】お
話変わって、テレビの
時局討論会などを
聞いていると、
司会者が、「イエスかノーかで
答えてください」と
言っているのに、
長々と
意見を
述べる
論者が
多い。と
言うより、この
設問に
対して「イエス」あるいは「ノー」のひとことで
答えたケースを、
私は
見たことがない。
【9】この
設問に
対する
答えは「イエス」か「ノー」か、あるいは「この
問題にはイエスかノーかで
答えられません」か、この
三つしかないと
思うのだが、
現実には、どれでもないことが
圧倒的に
多いのである。
【0】
論者の
本心を
推測すれば、イエスかノーか
答えはできているし、
答えようと
思えば
答えられるのである。ただ、イエスの
中にもいろいろなイエスがある。ノーの
中にも
同様にいろいろなノーがある。
自分の
心中を
尋ねてみて
百対ゼロの
確信でイエスが
言える
場合もあれば、
五十五対四十五でからくもイエスに
傾いている
場合もある。その
内容はとても
複雑だ。
にもかかわらず、「イエス」と
答えたとたん、すべて
百対ゼロのイエスのような
印象をふりまくことになってしまう。その
誤解を
避けるあまり、
簡単に
答えることができない。
五十五対四十五の
迷ったあげくのイエスと、
四十五対五十五の
迷ったあげくのノーとの
間には、
十ポイントのちがいしかない。
僅少差と
言ってよい。さらに
言えば、
五十五対四十五のイエスは、
百対ゼロのイエスより、ずっと
四十五対五十五のノーに
近いのである。が、
結果的には、それもイエスのグループにまとめられてしまう。
この
世にある、すべての
困難な
決断は、
五十五対四十五と、
四十五対五十五との
間にある、と
私は
考えている。
百対ゼロはおろか、
七十対三十くらいの
状況だって、
判断は
明々白々、
悩むほどのことではない。
五十五から
四十五に
至る
僅少の
差異を……わずかな
迷いをどう
考えるか、この
世の
悩みは、そこにある。こんなふうに
考えてみると、
全員一致を
排除するパラドックスもおおいに
意味を
持つように
思えてならない。 (
阿刀田高の
文章による)
長文 2.2週
【1】
文化もパーソナリティも、
多くの
場合すこしずつ
変化し、そしてときには
大きく
急速に
変化しうるものである。
文化のコードは
長年の
間にひとりひとりの
人間の
安全と
満足をもとめる
欲望があつまって、
暗黙の
合意のうちにつくりあげられてきたと
考えられがちである。【2】しかし、
次第に
社会が
強く
組織化されるとともに、そこには、
社会の
強者、すなわち
権力者の
安全と
満足をもとめる
欲望が
支配的なものとなっていったのは
自然のなりゆきであった。たとえば、テューダー
朝のイングランド
王へンリー
八世(
在位一五〇
九〜
四七)は、【3】
自らの
離婚の
合法性をめぐってアングリカン・チャーチ(イギリス
国教会)を
成立させ、ローマ
教会からの
分離独立をなしとげてこれを
広く
認めさせたし、ヒットラーのネクロフィリア(
破壊性)はあの
悪名高きナチズムにおける
大規模な
人間破壊行為を
当時の
社会におしつけたのであった。【4】しかし、
今日、あらゆる
点において
高度に
統合的な
組織性を
強めた
社会では、
個人としての
権力者ではなく、その
構造的力動によって
自律的につくり
出されるより
大きな
交換価値こそが、
文化のコードとして
支配者の
地位につくことになっている。【5】そこでは、そもそものはじめから
個人の
署名をもたないこの
文化のコードとしての
交換価値を
満たそうとする
社会の
力動的な
動きに、
個人の
欲望は
動かされざるをえないような
仕組みになっていると
言うことができよう。【6】
私たちの
支配者は、かつてのように、
名前をもちはっきり
目に
見える
権力者として
君臨しているのではなく、
社会的な
交換価値という
千変万化する
記号のかたちをとって
私たちひとりひとりを
支配するようになっている。【7】そして、
文化のコードというこの
無名の
支配者は、
朝から
晩まで
私たちひとりひとりの
全存在を
直接・
間接に
支配しつづけているようだ。
ほかならぬこの
私自身が
欲していると
思うことも、それは
幻想であるにすぎない。【8】より
大きな
交換価値をもつ
記号として
皆が
欲しているがゆえに、
常識を
身につけている
私が
無意識のうちに
欲するようになってしまっているものであるにすぎない。「○○
大学に
入学しますように!」「スリムな
美人になりますように!」
等、つきることのないこの
世俗の
欲望は、【9】
常識となった
文化のコードとしての「より
大きな
交換価値」を
無意識のうちに
私的コードにとりこみ、それに
身をまかせることによって
生じているという
側面が
強いようだ。――ただし、
機械ならぬ
人間は、
規則を
変える
創造性という
能力を
持っているために、
全面的にそうであるというわけではない。【0】そのために、そうした「
交換価値」が
変化すれば
常識も
変化し、それにしたがって
個人の
欲望の
内容も
当然変化することになるのだろう。
人気のある
学校や
学部そして
美人のタイプなどが
時代とともに
移りかわるのはその
証である。そしてこの
情報化社会にあって、このような
交換価値としての
文化のコードを
敏速かつ
広域に
浸透させるのを
助けているのは、いうまでもなく
新聞・テレビなどのマス・メディアである。
これらの
欲望を
満たそうとすることは、
私たちを
日々仕事に
学習にその
他さまざまな
活動にかりたてる
原動力となっているが、
他方その
欲望を
満足させることがあまりにもむずかしく
思えるとき、
私の
存在の
核心にしのびこんだこれらの
欲望のいっさいから
解放されればどんなに
心が
休まるだろうか、と
思うことにもなる。そのようなとき、
冒頭に
述べたように、
私たちは
無意識のうちにできるだけ
文化という「
人の
手」の
加わらない
自然の
中に
逃れ、あるいは「
非社会」
的行為の
中にかりそめの
脱出を
試みて、
文化のコードによるすさまじい
搾取からすこしでも
身をまもろうとすることになるのかも
知れない。
しかし、
文化のコードの
手の
届かないところに
逃げきったように
思っていても、
新記録をうちたてたいという
思いをひめた
探検家はもちろんのこと、
南太平洋の
豊かな
自然というデラックスな
休暇の
宣伝に
誘われて
自然に
親しむ
人々もまた、やはり
文化のコードにしっかりとからめとられていることになる。それに、
海や
山の「
自然」の
中でも、やはり、
流行の
登山装備や
水着、さまざまな
人との
出会いがあり、
文化的なものを
完全に
拒んでしまうことは、とうてい
不可能であると
言ってよいだろう。
(
有馬 道子)
長文 2.3週
【1】
私が
本当に「
日本」を
身をもって
発見したと
思ったのは、
戦後であった。ある
日、
偶然、
上野の
博物館で、はじめて
縄文土器の
異様な
美にふれ、
全身がふくれあがった。
底の
底から
戦慄した。
日本の
根源をつきとめたと
思った。【2】
無限に
渦巻き、くりかえし、もどってくる。そのすごみ。それはいわゆる「
日本風」とはまったく
正反対だ。あまりにも
異質なので、それまではだれもがこの
国の
伝統とは
考えなかった。たんに
考古学的資料として
扱われ、
美術史からも
除外されていた。【3】しかし、
私はそこに
日本人としてビリビリと
受けとめる、
迫ってくるものを
感じとった。そして
私はその
感動を
文章にして
発表した。それはひどく
衝撃的な
発言と
受け
取られたようだ。
【4】
縄文土器論を
私は
美学的な
問題やただの
文化論として
書いたのではない。つまりこれから
日本人がどういう
人間像をとりもどすべきかということのポジティブ(
積極的)な
提言であり、またあまりにも
形式的で
惰性的な
日本観に、
激しく「ノー」を
発言したのだ。【5】いわゆる
日本的と
考えられている
弥生式以来の
農耕文化の
伝統、
近世からのワビ、サビ、シブミの
平板で
陰湿なパターンに
対して、
太々と
明朗で
強烈な、
根源的感動をぶつける。
自分の
作品でたたかい、
言葉、
論理で「ノー」と
言う。【6】それはもちろんだが、それだけでなく、だれでもの
心の
奥底、その
暗闇に
置去られている、よりナマな
人間像をつきつけることによって、
現代の
惰性をうち
破るテコにするのだ。
強力な
証拠をぶつけたからには、それを
起爆剤として、
何か
生まれるに
違いない。
私は
当然そう
期待した。
【7】
憎まれることを
前提にして、
極力ひらききったつもりである。
過ぎ
去ったことをいろいろ
言う
気もないが、
私は
日本に
賭けた。
(
中略)
私は
今この
世界で、
二本の
糸の
上を
異様なバランスをとりながらわたって
行くような
思いがする。【8】いわゆる「
綱わたり」、
曲技を
言っているのではない。……
見えるような、
見えないような、
迫り、
遠のき、からんでくる、
透明な
糸。あたりには
何もない。
見物人も
青空も。ただ
二本の
糸だけが
灰色の
空間のなかに
果てしなくのびている。【9】
私は
自分の
周辺と
運命を
不思議な
思いで
凝視する。
瞬間にバランスが
崩れて
精神を
動揺させる。
一本の
糸の
上に
二本の
足で
立てば、あるいは
軽業師のように
安定するだろう。しかし
二本の
足で、
二筋の
違ったスジをわたるのは
絶望的である。
【0】(
中略)
ふと
私は
思うことがある。
欧米の
方ばかりに
目を
向け、すべての
価値判断をあずけて
己を
空しくしている
現代日本。しかし、その
欧米の
文化自体が
壁にぶつかって、
存在感を
絶望的に
失いつつある。そのような
風土よりも、この
根源的な、ナマな
生活感の
中で、
純粋な
魂の
共同体を
作る
方が
正しいのではないか。なぜ
世界の
政治、
経済の
中心地がそのまま
文化・
芸術のセンターでなければならないのか。それは
卑しい。むしろ
反対であるべきだ。
西欧文化の
系列と
全く
反対の
出発点に
立った、
縄文文化とか、マヤ、インカ、
北米インディアン……
一つながりの
通じあい。この
魂の
風土ともいうべきものを
見きわめあい、
再発見、
再獲得し、ひらいて
行くことが
大事なのではないか。
世界文化の
運命のためにも。
西欧世紀末以来のいわゆる
芸術運動、エリートだけの、「
芸術」の
枠内での
戦いは
空しい。
民衆全体、
風土の
生活全体に
響き、うねりを
及ぼすような
運動であるべきだ。
私の
目の
前に、
二本の
糸が
浮かびあがってくる。
魂に
純粋にふれて
新しく
出発する
筋。その
上をひたすらに
走っていくのか。また
日本――
言いようのない
抵抗がある。
現実的な
場であるからこその、その
絶望的な
因果の
筋を
矛盾に
耐えながら
生きるべきか。
心は
動揺するのだが。いずれにしても
運命の
二本の
糸の
上を
異様なバランスをとりながら
進んで
行くつもりである。
(
岡本 太郎)
長文 2.4週
人間は
目ざめているかぎり、いつも
頭のなかに
何かを
描いています。もしここに
一枚の
白いカンヴァスがあって、それに
人間があれこれ
思い
描くイメージが、そのまま
映しだされるとしたら、いったい、その
絵はどんな
作品になることか。
人間の
頭のなかほど
神秘的なものはない、と
言ってもいいと
思います。
そこでいま、
私は
自分を
実験台にして、
自分の
頭のなかを
正直に
描いてみようと
思います。といっても、まさか
白いカンヴァスに
私の
頭のなかにあるイメージを
映しだすわけにはゆきません。やむを
得ず、それを
何とかことばで
書きしてみようと
思うのです。
ところが、このような
試みは、けっして
容易ではありません。なぜなら
人間が
頭に
思い
描いているものは、なかなかことばにならないからです。
人間は
何かを
考える
際に、ことばで
考えています。ですから、
考えていることを、そのままことばにすることは、かんたんのように
思えますが、
頭のなかで
考えているそのことばは、けっして
完全なことばなのではなく、いわば、ことばの
断片のようなものです。とぎれとぎれのことばが、
浮かんだり、
消えたりしている、と
言ってもいいでしょう。それを、そのまま
原稿用紙に
書き
写してみても、
当人以外には、いや
当人にとってさえ、
意味不明のことばの
羅列になってしまい、とうてい、
理解できる
文章にはなりません。
フランスの
生理学者ポール・ショシャールは、
頭のなかで
考えているそのようなことばを「
内言語」と
呼んでいます。つまり、
人間はことばで
何かを
考えているのですが、そのことばは、
話したり
書いたりすることばとはちがった「
内言語」だ、というのです。したがって、
人間は、つねにふたつのことばを
持っているということになります。
考えるときに
使う「
内言語」と、
話したり
書いたりするときに
用いる
通常のことば――ショシャールそれを「
外言語」と
名づけます――です。
このふたつの
言語は、
一見、おなじように
思われますが、じつはそうではなく、
両者はまったく
異質な
脈絡のなかにあるのです。ですから、「
思ったとおりに
書け」と
言われても、そうかんたんにゆきません。
文章を
書くということは、「
内言語」を「
外言語」に
翻訳することであり、その
翻訳の
作業が
何よりも
大変なのですから。
しかし、
人間の
頭のなかには、ただ「
内言語」だけが
漂っているわけではありません。たしかに、
抽象的な
概念は「
内言語」によって
意識されていますが、そうした
言語とともに、さまざまなイメージが
明滅しているのです。いや、
言語よりも、イメージのほうが
主要部分を
占めているように
思われます。
たとえば、あなたが、リンゴを
食べたい、と
思ったとします。あるいは
友だちに
会おうと
考えたとする。その
際、あなたの
頭に、まずリンゴということばが
浮かんだのか、それともリンゴのイメージが
先に
現れたのか。
友だちの
顔が
先か、
友だちという
言葉が
最初か。
私はいまそれを
自分に
即して
考えてみたのですが、どうも、はっきりしません。イメージが
先のようでもあるし、ことばがまず
浮かんだような
気もします。
このように、イメージといっても、きわめて
漠然としており、さらによく
考えてみると、イメージは「
内言語」と
一体になっているようにも
思えます。しかし、イメージの
背後に「
内言語」があったとしても、あるいは「
内言語」の
土台にイメージが
形成されていたとしても、イメージと「
内言語」とは、やはりどこかちがっている。イメージとは
画像のようなものであり、「
内言語」とはことばだからです。
(
森本哲郎「ことばへの
旅」)
長文 3.1週
【
二番目の
長文が
課題の
長文です。】
【1】
欧米語に
対する
社会一般の
軽薄な
好奇心を
統制して
大和言葉ないしは
東洋語の
尊重を
自覚させるにはどうしたらいいか。その
基礎がひろく
日本精神の
鼓吹にあることはいうまでもない。
基礎さえ
出来れば
外来語はおのずから
影をうすくするであろう。
基礎が
出来なくては
何もならない。【2】
基礎を
前提すると
共に
基礎の
建設に
貢献すべき
言語統制の
方法としては、
文筆に
携わるものが
必要のない
外来語は
断然用いない
決意を
強固にし、まず
新しい
外国語がはいってきかけた
場合には
自己の
好奇心を
抑圧して
直ちに
適当な
訳語をつくること、【3】またいったん
通用してしまった
場合にはなるべく
早く
訳語をつくって
原語を
社会の
識閾から
駆逐する
事を
計らなければならない。
いったん、
外来語が
社会的識閾へ
上って
常識化されてしまうと
便利であるから
誰しも
使うようになる。【4】それ
故に
常識化されるまでに
一般的通用を
阻止することに
全力をそそがなくてはならない。そして
不幸にも
既に
言語の
通貨となりすましてしまったならば
贋金を
根絶することに
必死の
努力を
払うべきである。【5】
失望するには
当らない。「オールドゥーヴル」は「
前菜」に
殆ど
駆逐されたかたちである。「ベースボール」は「
野球」に
完全に
駆逐されてしまった。これらの
事実は
我々に
勇気と
希望とを
与える。【6】
新しい
言語内容に
関して
外国語をそのまま
用いればなるほど
一番世話はない。
好奇心を
満足させることも
事実である。しかしそれではあまりにも
自国語に
対する
愛と
民族的義務とに
欠けている。
【7】
西洋哲学の
術語などは
明治以来諸先輩の
努力によって
殆どすべて
翻訳され
尽している。
範疇、
当為、
止揚、
妥当などというむつかしい
言葉も
今日ではもう
日用語になりきってしまった。【8】
哲学上の
言葉は
概念的抽象的であるからある
意味ではかえって
翻訳とその
通用とが
容易であるとも
考えられる。すべて
言語の
内容が
客観的知的である
場合には
翻訳が
成立しやすく、
主観的情的である
場合には
翻訳がうまくいかないことは
事実である。
【9】
生活と
密接な
具体的関係にある
言葉は
雰囲気の
情調を
満喫していて
他国語への
翻訳が
困難であるには
相違ないが、それも
程度の
問題であって、
外来語の
国訳へ
向って
出来得る
限りの
努力が
払われなくてはならない。【0】
知識階級が
全面的に
誠意ある
努力をこの
点に
払うならば
必ず
社会民衆が
納得して
使用するような
新鮮味ある
訳語が
出来てくると
信ずる。
日本人は
一日も
早く
西洋崇拝を
根柢から
断絶すべきである。
殊に
文筆の
上で
国民指導の
位置にある
学者と
文士と
新聞雑誌記者とが
民族意識に
深く
目覚めて、
国語の
純化に
努力し、
外来語の
排撃に
奮闘し、
社会の
趣味を
高きへ
導くことを
心掛けなければならない。
「
外来語所感」(
九鬼周造)より
【1】
学童のあそびには
多くの
想像力や
抽象思考力がはいってくるからきわめて
多彩なものになる。すでに
三歳ごろからみとめられたことではあるが、
低学年ではとくに「
何なにごっこ」がさかんになる。【2】たとえば
小学校一年の
男の
子二人は
学校から
帰ると
必ずどちらかの
家に
行って、
庭に
大きなみかん
箱をひきずり
出し、めいめい
一つの
箱にはいって、
自分たちはこの
舟の
船長なんだぞ、といい、
荒れる
海を
航海するつもりになってさかんに
体をゆすり、
箱をガタガ
夕させるあそびを「
発明」した。【3】これがよほど
気に
入ったらしく、かなりの
間、
同じあそびを、いろいろと
変化を
加えながらくりかえしていた。
七、
八歳ぐらいまでの
子はあきずに
同じ「ごっこ
遊び」をくりかえす。しかもその
度に
本気でだれか
他の
人物になったつもりになり、たとえば
右の
場合ならそのたびに
勇猛心や
冒険心がこころに
湧きあがるらしい。【4】
箱がひっくりかえって
少々のけがをしたところで、それはあそびをいっそうおもしろくするばかりである。
女の
子も
勇ましいあそびに
加わることがあるが、
女の
子同士だと、もっと
静かでしばしばロマンティックなあそび、たとえば「おひめさまごっこ」などをする
場合も
少なくない。【5】いずれにせよ、
同じこころの
世界に
遊んだ
者同士として、こうした
幼な
友だちの
味は
一生忘れられないものとなる。おそらくそれはのちの
交友、
恋愛、
結婚などという
対人関係の
基盤をつくる
力を
持っているのであろう。
【6】ボールあそびなどというものは、もっと
幼いときから「
心身の
機能をはたらかせるもの」として
行われていたが、
小学校の
上級になるほどチームを
組んで、ルールを
守るという
本格的なゲームのかたちをとるようになる。【7】
子どもたちがその
発達に
応じてどのようにルールを
意識するか、をピアジェ(スイスの
心理学者)はくわしく
観察した。
五歳ごろまでは、ルールは
少しも
強制されたものとは
子どもに
感じられず、いわばただおもしろいモデルとしてうけとめられる。【8】
五歳以後になるとルールは
神聖でおかすべからざるものとして
感じられる。ルールは
大人がつくったもので、
永久にそのままつづくものと
子どもは
思うので、ちょっとでもルールを
変えようとすると
重大な
違反、という
印象を
子どもに
与える。【9】
第三の
最終段階になると、ルールというものは
皆で
協定を
結んで
作ったものだ、ということがわかってくるので、それをうけ
入れるのは、いわば
自分で
自分に
課したことで、
外側から
強制されたものとは
感じられない。【0】ルールに
従うのは
集団に
忠実であるためで、もしルールが
望ましくないとなれば、
皆で
相談して
変えることもできるのだ、というように
考える。このような
考えかたは
十一歳か
十二歳ごろにやっと
到達するもので、もうこれは
大人の
考えかたといってよい。このような
考えのもとで
行われるゲームをピアジェは「
自律的ゲーム」と
呼び、それ
以前の「
他律的ゲーム」と
対比させている。
ゲームとは、あそびの
一種にすぎないとはいえ、この
種のあそび
活動を
通して
社会的ルールを
守ること、そのために
他人と
協力すること、つまり
倫理の
基本的訓練が
行われるのに
注目しよう。
修身の
訓話よりもこうしたあそびの
中で
子どもの
社会性が
育って
行くことを
考えれば、それだけでもあそびの
重要性がわかる。
さらに、あそびの
中で
想像性がゆたかに
発揮されると、
創造的活動にまでつながって
行く。「ごっこあそび」もその
萌芽だが、
構想力、
表現力が
発達した
子どもは、たとえば「ものがたりあそび」を
早くから
始める。
夜ねる
前のひととき、
弟妹たちにおとぎ
話を「
発明」して
話してきかせる
子がある。それはしばしば「つづきもの」で、
一人の
主人公が、
毎晩新しい
経験や
活動を
行なう。
幼児期の
子には「お
話」をきくのが
大きなよろこびなので、
皆一心に
耳をすませ、
主人公のよろこびや
悲しみに
一喜一憂しているうちに、
語り
手もきき
手もいつの
間にか
眠りこんでしまう。ウルフ(イギリスの
女流作家)はきわめて
幼いころから、こうした「
語り
手」だったというが、のちに
作家になるほどの
人間でなくとも、
学童期は、こうした
空想の
世界が
花ひらく
時代である。それは
審美的感情の
発達ときわめて
密接にむすびついている。
子どもの
多くが
詩人的素質を
示すのも、
彼らの
新鮮な
感受性と、
奔放な
空想力が
発達するからであろう。これはうまく
発達させれば、
大人の
卑小な「
現実」を
乗り
越えさせ、
新しい
精神の
世界を
生み
出す
基礎能力となるのだから、
大人はなるべくこの
芽をつんでしまわないように、むしろ
子どもから
学ぶように
心したいものだ。こうした
面を
発達させるために、
学校の
国語教育や
作文の
授業はきわめて
大切な
役割を
持っているにちがいない。
長文 3.2週
【1】
二十年前、
私は
京都で
下宿しておりました。ある
夜、
月のいい
夜でしたが、
私のところのおばあさんと
一緒に、
庭に
出て
月を
見てました。そのおばあさんは
私に、「アメリカにも
月がありますか」と
聞いたのです。
【2】たいへんかわいらしい
話でしょうが、まだこのような
初歩的な
誤解が
残っているはずです。しかしどちらかというと、
少なくなったのです。
二十年前か、
五十年前なら、
一般の
人は
同じような
誤解をしていたでしょうが、
現在よっぽどのおばあさんでなければもう
聞けない
話になりました。
【3】ところが、もう
一つの
迷信が――
迷信と
言ってもいいと
思いますが、
日本に
残っている。ある
意味では、これが
日米相互理解の
邪魔をしているのではないかと
思います。それは、
外国人が
刺し
身を
食べないという
迷信です。【4】
私のことを
知らない
日本人と
話し
出すと、
国を
聞かれるし、
職業を
聞かれるし、そして、
三番目あたりの
質問は、
刺し
身でも
平気ですかと
聞くのです。このような
質問は
実はどうでもいいと
思います。【5】
仮に
私が
刺し
身を
見てムカムカするとしても、
日本を
理解していないと
早合点してもらいたくない。
実は
私は
刺し
身が
大好きです。「
刺し
身を
食べます」という
札を
胸に
付けてもいいとさえ
思っています。それとも「
食べます」だけでも
十分でしょう。【6】どうせ
質問はいつも
刺し
身のことです。ほかのことは
聞かれないんです。(笑)それが
一つです。
さらに、もう
一つ、
日本語は
外国人に
絶対話せない、そして
外国人が
仮に
話せてもぜったい
読めないという
迷信です。この
迷信は
非常に
根強いのです。【7】
三十年前から
日本のことを
勉強していても、まだ
私が
日本の
漢字を
読めないと
思っている
人たちが
圧倒的に
多い。
私が
外国で
日本文学を
教えていると
知っていても、
私が
日本の
文字を
読めないと
確信しているんです。【8】そんなに
難しいでしょうか。もし、そんなに
難しいものでしたら、
日本国民はみんな
天才ばかりだと
言うほかないのです。つまり
小学校しか
出ていない
日本人でもかなり
読めるのに
三十年間勉強しても「
佐藤一郎」という
名前を
外国人が
読めないと
言うのはどういうことでしょうか。
【9】ともかく、そういうような
迷信とか、
外国人が
理解できるということを
否定するような
態度は、
相互理解の
邪魔になると
私は
思います。
アメリカ
人も
理解の
邪魔をするような
迷信を
持っているのです。しかし、アメリカ
人の
迷信は、
日本人の
迷信とまさに
逆です。【0】
日本人は、
外国人はどうしても
日本のことを
理解できないと
思い
込んで
一応嘆きますが、と
同時に、
外国人に
分かってもらえないと
思うと
何となく
優越感を
覚えるのです。「やっぱり
日本人でなければこの
食べ
物のおいしさは
分からない。
日本人でなければこの
花の
美しさが
分かるはずがない。
日本人でなければ
天気のいい
日のよさが
分かるはずがない……」。これは
極端ですが。
ところが、アメリカ
人の
場合はどうかと
言うと、アメリカ
人は、
日本人はみんなアメリカのことを
知っているはずだというふうに
思っている。
英語をゆっくりしゃべったらどんな
日本人でも
分かるはず、
分からないようならばそれは
分からないふりをしてるからだ、みんな
分かってるはずだと
思うのです。そして、アメリカの
食べ
物なら
日本人は
食べているに
違いないと
思っているのです。
たとえば、
外国人が
日本の
着物を
着るとか
草履をはくとか、そういうことがあったら、
日本人は
何となくおかしいと
思う。
何となく
変です、やっぱり
着物は
日本人でなければ
無理だと
言うでしょう。しかし、アメリカ
人はまさに
逆です。
日本人が
着ているシャツの
胸に、
自分の
大学の
紋が
描いてあれば、とてもうれしくなる。やっぱり
日本人もアメリカ
人も
全く
同じものを
喜ぶのだと
思いたがるのです。そして、
日本人がアメリカ
人と
違うと
気が
付いたら、
時間の
問題にすぎない、いずれそのうち
全く
同じになるに
違いない、と
思います。
それはとんでもない
話ですが、もちろん
悪意はないのです。
日本人の
立場にもアメリカ
人の
立場にも、
全く
悪意がない。しかし、
悪意がなくても
相互理解のためによくないと
私は
思います。
私はいちばん
最後に、そういうような
悲観的な
話はしたくありません。
私は
相互理解が
年ごとに
深まっているに
違いないと
思っております。
(ドナルド・キーン『
日本人の
質問』)
長文 3.3週
【1】
妖怪の
中に「もののけ」という
種類があって、これは「もの」につく。
一般には、「ものの
毛」と
書いて、これは「もの」に
生える「
毛」のことであろうと
考えられているようであるが、そうではない。「ものの
気」と
書いて、これは「もの」が
漂わせているかに
見える「
気配」のことである。
【2】つまりこれは、「もの」についてそれが「もの」であることを、
次第に
歪曲もしくは
変質させてゆくわけであり、それが
我々には、どことなく
得体の
知れない「
気配」を
漂わせているように
見えるのであるが、ここで
言う「もったい」も、そうした「もののけ」の
亜種にほかならない。【3】そしてそれがつくと、
我々はその「もの」を、むしょうに
捨てたくなる。
従って
逆に、それのついていないものを
見ると、むしょうに
拾いたくなる。【4】つまり、「もったいない」のである。
我々は、
定期的にごみ
捨て
場をうろつき、「もったいない」とつぶやきながらあれこれと
拾い
集める
連中を
見て、「あれはきっと、それらのものが
拾ってくれ
拾ってくれと、
連中をそそのかすからに
違いない」と
考えるが、
実はそうではない。【5】「もの」に「もったい」という「もののけ」がついている
時、その「もの」が
我々に「
捨てろ
捨てろ」とそそのかすのであり、「もったいない」と
言って
拾うのは、
単にその
反動にすぎないのである。(
中略)
【6】ところで、
人類史をひもとくまでもなく
我々は、かつて「
狩猟採集時代」というものを
経験し、
今また「
消費遺棄時代」というものを
迎えつつあることを、よく
知っている。つまり、その
生活の
主たる
様態を、「
拾う」ことから「
捨てる」ことへ、
大きく
転換させつつあるのだ。【7】
妖怪もったいは
太古より
存在し、それが「もの」についたり
離れたりすることにより、
人々にそれを
捨てさせたり
拾わせたりする
法則性は、
何ら
変化していないにもかかわらず、こうした
転換が
行なわれたということは、
明らかに
奇妙なことと
言えよう。
【8】
現在、もったい
専門の
妖怪学者が
問題としているのは、この
点にほかならない。
言うまでもなく、
考えられることはひとつである。つまり「
狩猟採集時代」から「
消費遺棄時代」に
至る
期間の、どこかの
時点で
文明が、もったいを
人為的に
操作しはじめたのだ。【9】
文明がもったいという
妖怪の
存在に
気づき、それをひそかに
養い
育て、「もの」に
自由につけたり
離したりすることができれば、
人々に「もの」を、これまた
自由に
捨てさせたり
拾わせたりすることができるようになるのは、
道理である。
【0】もちろん
文明が、
人々に「もの」を
捨てさせなければならなくなった
理由は、
誰もが
知っている。あらためてここで
歴史の
復習をする
余裕はないが、この
間に
人類は「
産業革命」を
経て「
大量生産時代」を
迎えたのであり、
当然ながらその
大量に
生産された「もの」は、
大量に
消費されなければならなくなったのである。しかし、
生産力というものはやみくもに
向上させることができるが、
消費の
方はそうはいかない。そこで、どうするべきか。
当たり
前の
文明ならここで
消費に
見合うべく
生産力の
方を
抑えるであろう。ところが、
我々の
文明はそうしなかった。
生産力を
抑えるどころか、それをさらに
向上させ、
我々の
消費の
手に
余る
分を、そのまま
捨てさせることにしたのである。このあたりが、
我々の
文明の、
天才的なところと
言えよう。そしてそのためにも、
妖怪もったいが
駆り
出されるハメになったのだ。
前述したように、「もの」に「もったい」がつくと、
我々はそれをまだ
消費しつくしてないにもかかわらず、むしょうに
捨てたくなる。
文明は――というより、
現在それをしているのは
流通経済の
中枢を
支える
専門家たちであるが――ひそかにこの
操作をしている。つまりこれを、
専門用語で「もったいをつける」と
言う。「もったい」がつくと、
何となくその「もの」が、「
重く」
感じられたり、「わずらわしく」
感じられたり、「うっとうしく」
感じられたりするのである。
もちろん、こうした
専門家たちだって
馬鹿ではないから、
商店へ
並べられた
商品に「もったい」をつけるようなことはしない。そんなことをすれば
我々は、
消費はおろか、「
購入する」ことをすらしなくなる。
商品の
流通が
円滑に
行なわれるためには、
我々がそれを
買って
帰り、
包装紙を
開いたとたん、それがつくようにしなければならない。ということから
考えれば、シャーロック・ホームズを
一冊でも
読んだことのあるものには、どこにカラクリがあるか、すでに
推理できたことであろう。そうなのだ。
包装紙である。
化粧箱である。そして、それを
結ぶリボンである。そこにもったいが
仕掛けられ、それらを
解き
放ったとたん、それは
中の
商品につくことになっているのである。
包装紙や、
化粧箱やリボンを、もったいないと
言ってしまっておきたくなるのは、そこにそれまでついていたもったいが、
中の
商品に
移り
住んでいるからにほかならない。
かくて、
流通経済は
円滑に
機能し、
生活は
潤い、
我々は
満足している。「もったい」である。
妖怪もったいの
養育と、
専門家たちによるその
見事な
操作によって
我々は「
捨てるために
手に
入れる」という、
生物学的には
希有の
性向を
身につけ、「
消費を
上回る
生産」という、あり
得べからざる
事態を
楽々とこなしているのだ。
(
別役実『
当世もののけ
生態学』より)
長文 3.4週
子どもたち
全員と
学校の
裏手の
雑木山に
出かけました。
日かげの
沢にはまだ
汚れた
雪が
残っていましたが、
陽だまりは
枯れ
葉が
柔らかい
熱を
含み、そこを
歩くときに
頬に
暖かみを
送ってきます。
子どもたちは
歓声をあげ、
木に
登ったり、
蔓にぶらさがったり、カタクリを
摘んだりしました。
教室にいるときとは
別人のようでした。
枯れ
草に
腰をおろしていると、
六年生らしい
女の
子が
寄ってきました。
頬に
赤い
痣のあるひっそりとした
感じの
子でした。
女の
子はだまってわたしのそばにすわり、しばらく
枯れ
草を
引き
抜いては
編んでいましたが、やがてぽつりと
言いました。
「こんどの
先生ァ、
男先生も
女ゴ
先生もいい
先生だね。」
「…………。」
わたしはとっさにはこたえることができませんでした。
今の
今まで
村や
分校や
子どもたちをよく
思っていなかったような
気がしました。わたしは
小さな
狼狽を
押し
隠しながら、
女の
子の
名前や
家の
仕事のことや
兄弟のことを
聞きました。
里枝というその
女の
子は、
一言一言恥ずかしがるようにい
淀みながら
自分のことを
語りました。
訛の
強い
方言は、わたしには
耳ざわりなはずでしたが、おとなしい
里枝の
口からそれが
洩れると、
素直にわたしのからだの
中に
溶けこんでいくようでした。
先生! とだしぬけに
後ろから
背中をたたかれ、わたしは
思わず
悲鳴をあげました。どんぐり
眼の
一年生の
明が、
眼をいっそう
大きく
見開き、
息をはずませていました。
「
先生ァ、おらァ
卒業するまでいてくれるね。」
「どうして?」
「ほだって……。」
明は
後ろをふりかえりました。
明をからかったらしい
背の
大きい
男の
子が
朴の
木によりかかり、
照れ
笑いを
浮かべてこっちを
見ていました。
「
兼吉がな。ハイカラ
先生などァ
一年で
分校なんかやめて、すぐ
町サ
帰るって……。」
「
先生はハイカラじゃないよ。」
「ハイカラださァ、
金色の
眼鏡かけてェ。」
わたしは
思わず
笑いました。
女学校の
卒業記念に、
役場の
書記をしていた
父が
買ってくれた
旧式の
金縁の
眼鏡を、わたしは
大事に
使い
続けていたのでした。
(
三好京三「
分校日記」)