(Translated by https://www.hiragana.jp/)
課題集
長文 1.1週
ある
人は、
生きることの
本質は
演劇的なものであると
考える。ある
人は、
人生とは
砂漠のようなものであると
考える。
徳川家康は、
重い
車を
坂に
押し
上げるようなのが
人生だと
考えた。
徳川家康のこの
考えは、
多分に、
功利的なものを
含んでいて、
生きて
仕事をする
努力は
車を
坂に
押し
上げるように
絶えず
努力をつづけていれば
成功する、という
教訓につながっている。
しかし
同じような
形だが、ギリシャ
神話のシジフォスのことを
持って
来て
説明したアルベール・カミュは、それをもっと
人間の
原罪のようなものに
結びつけて、
生きることの
本質として
説明している。シジフォスはギリシャのコリントの
王で、
狡猾貪欲な
人間だったので、
死後地獄で
罰として、
岩を
山の
上まで
押し
上げることを
命ぜられる。その
岩は、
頂上まで
届くと、そこからころがり
落ちる。するとまたシジフォスはそれを
押し
上げねばならない。
人間は、
何人もその
内部に
持っている
狡猾さと
貪欲さの
故に、
生きる
上で
何等かの
岩を
押し
上げねばならず、しかもその
岩は
頂上に
達すると
必ず
転がり
落ち、
彼はまたそれを
押し
上げることをくり
返さねばならない。
人間であることの
本質の
中に、そのような
苦行が
含まれている、というふうにカミュは
考えた。
こういう
風に、ある
人が、
自己の
体験から
人生についての
一貫した
論理を
作ったり、または
別のもの、
砂漠とか
転がる
石などによってそれの
本質を
説明したとき、それは
思想と
呼ばれるのである。
思想と
呼ばれるものは、
必ずしも
体系的な
論理的構造を
持たなくてもいい、しかし、それは、ある
時の
体験、ある
事件を
説明するのに
役に
立つだけでは
真の
意味の
思想とは
言われない。いろいろな
体験、
様々な
事件にぶつかったときにも、その
同じ
考えでもその
事件の
本質を
説明して、
本人が
満足し、やっぱり
今度の
体験においても
人生は
砂漠のようなものだと
分かったとか、
人生は
劇場のようだと、
繰り
返して
考えるとき、それは
一つの
思想と
呼んでいい。
なぜなら、その
人は
常に、そういう
比喩の
中に、
生きることの
本質を
見出しているのであり、これから
起こるであろう
将来のことをも、その
考えかたによって
待ち
受けるからである。そのようなとき、それはその
人にとっての
思想である。しかし、
本人だけがそう
思っていて、その
人の
息子も
隣人も
同僚も
誰もが、それを
人生についての
唯一の
真実として
受け
容れず、
同意もしないとき、それは、
一般的な
意味での
思想とはならない。ある
考え
方によって、
自分だけでなく
多くの
他人をうなずかせ、より
真実な
人生の
本質を
理解させる
役目をするとき、その
考え
方は、はじめてその
人から
離れて、
客観的な
一つの「
思想」として
存在しはじめる。「
色は
空である」
即ち、ものの
形はその
本質ではない、と
解釈されるこの
言葉に
真実を
見出す
人が
多いとき、それは
一つの
思想として、
人から
人に
伝わり、
時代から
時代に
語り
伝えられて、
実在というものについて
人を
考えさせたりする。そして、
人間のあり
方の
本質を
理解させるものとして
深い
本当の
知恵がその
言葉に
含まれていれば、それは
長い
生命を
持ち、
多くの
人々に
認識を
深めることに
役立ち、
教育の
上でも
役立つことになる。
このように
思想というものは、
限られた
個人的の
臨時のものから、
人類の
全部または
一部をなす
多数の
人々に
真実を
教え、
生存についての
安定感を
与え、よりよき
生活に
導く
力を
持つようなものに
到るまで
種々さまざまである。
私たちが、
自分の
体験を
整理して、それを
人に
語ったり、
文章に
書いて
発表するとき、
私たちは、このような
考え
方、
見方、
整理の
仕方として
思想を、
高い
低い、
狭い
広いにかかわらず
持っている。
即ち
事実についての
考え
方を
持っている。そのような
考え
方がすべての
人の
中にあって、
書いたり
話したりする
時だけでなく、
体験それ
自体の
中でもその
人を
導いているのだ。
(
伊藤整「
体験と
思想」)
長文 1.2週
そこでふと
谷の
方角を
見ると、そちらは
壁になっていた。それだけなら
特に
不思議はないのだが、そこには
昔窓があったらしいのを、
割合近ごろになって
塗りつぶしたように
思えた。そうだとすればこの
小屋の
内部が
薄暗いのも、あながち
外の
日光が
強いばかりではない。
「あそこに
窓があれば
明るいだけでなく、
谷間の
景色が
見られるのに、それにしてもなぜ。」
そんな
事を
考えていると、
主人が
再び
姿を
現した。
主人は
口元で
笑いながら、
彼を
見つめたまま、
「
何年になるかな、そう
八年ぶりだ、
八年ぶりではじめて
人間に
会ったのだ。まあお
急ぎでなければ
今晩は
泊まって
明日お
出掛けなさい。
一番近い
人里まで
丸二日もかかるのだから。しかし
八年も
人を
見なかったとは。」
そういって
男は
何がおかしいのか、
大声を
出して
笑った。それが
非常にたのしそうなので、
彼も
声をあげて
笑った。ああこの
人は
世捨て
人なのだな、そう
思えば、
品のいいこの
男の
態度も、
清らかな
生活も
納得がゆくようであった。それでこの
男の
知らないであろうこの
数年の
出来事を
色々と
話してやった。
主人は
話の
内容よりも、
元気な
青年を
見ながら、
人の
言葉を
聞くのが
楽しくてたまらないのだという
風に
笑いながら、フンフンとうなずいていた。
帰省して
帰ってきた
息子に
対する
父親のようである。
話が
一段落すると、
「ところであなたは
将来何をおやりになるのかな。」
「
私は
絵を
学ぼうと
思います。」
「
何、
絵を。」
突然老人の
表情は
変わった。
今までの
行いすました
好々爺の
隠者の
顔は
一瞬にして
物怖じした
醜い
老人の
顔になった。
急に
皺と
白い
毛がふえたかと
思われる。
彼は
何か
悪い
事を
言ったのかと
思ったが、
訳がわからないままに
口を
閉じた。しばらくの
間沈黙が
二人の
間に
流れた。
今更のように
渓流の
音が
部屋の
中にひびいた。やがて
老人の
顔が
平静をとりもどしたので、
彼は、
「
私が
何か
悪い
事を
申し
上げたのでしょうか。」
「いや
御心配なく。」
しかしそれ
以後は、
彼はようやくこの
老人なり
小屋なりが
得体が
知れなく
思えてきたので、
話も
渋りがちになった。それに
反して、
老人は
急に
能弁になって、この
辺の
川魚のよい
事や、
近くの
山で
春になると
採れる
蕨の
味のよい
事や、
秋になると
朝から
晩まで
一冬分の
薪を
集めねばならぬ
事を
話し
出した。しかしその
間にも
折々老人の
顔を
恐怖とも
焦燥ともつかぬ
影が
走った。
又一方彼の
心は
次第に
疑問の
雲が
濃くなっていった。そしてついには
話がとぎれて、
二人はその
沈黙の
中でいらだった
顔を
見せて
睨みあってしまった。やがて
老人はそのいらだった
顔の
奥から
渋い
笑いをしぼり
出して、
「
駄目ですな、やっぱり。
実ははじめてお
見かけした
時からもしやと
思って、しばらく
見ていたのですが。あなたがあの
谷を
眺めている
後ろ
姿に、
昔の
私の
姿を
見たように
思いました。
私もあなたの
年ごろにこの
谷を
発見して、この
谷を
絵絹に
表そうとしたのです。ところが
駄目なのです。
無才といえばそれまでですが。
私の
描く
画はみな
人臭くて、あなたがさきほど
御覧になった
山水の
明るい
厳しさは、どうしても
絹に
出てこないのです。この
山水は
生命を
入れる
余地のないほど
鋭いものですのに、
私の
絵は
木を
担った
樵夫、
糸を
垂れている
漁人、
岩山に
酒を
飲んでいる
隠士がいても
邪魔にならないどころか、それのある
方が
一層、
自然なような
絵なのです。
先ほども
大笑いしましたが、この
前に
人に
会ってから
八年、はじめてこの
山に
入って
三十年になります。
妙なものでこの
谷川の
音の
聞こえない
所まで
行くと
何か
忘れ
物をしたように
思われるのです。もう
最近では、この
谷を
離れる
事ができないだけに、
見るのもいやになってきました。あの
壁も
元は
窓でしたが、
最近塗りつぶしてしまいました。
窓があったころは、ここからの
眺めは
全くすばらしいものでしたけれど。」
主人はそういって、まるで
壁を
透かしてそとの
山河を
見ているように
目を
細めた。その
顔は
鋭く
淋しかった。その
庵室に
一泊した
彼は、
何か
画に
描くことに
恐怖と
不安を
感じながら、
老人の
教えてくれた
道をたどって
人里へ
出た。 (
三浦朱門「
冥府山水図」)
長文 1.3週
明治以後のわが
国の
文化は
翻訳文化である。
西欧の
文物を
摂取して、これを
消化するのに
懸命の
努力で
払われてきたが、
翻訳とはどういうことかという
問題が
最近までほとんどとり
上げられないでいたのは
興味ある
事実である。
まず、
翻訳といっても、すべてのものが
翻訳されるわけではないが、このことがあまりにもしばしば
忘れられている。ヨーロッパの
言語と
日本語とのように
言語の
性質がいちじるしく
異なっている
二国語間において、
翻訳されうる
部分は
普通に
考えられているよりもはるかに
小さなものでしかない。
そのうち、もっとも
翻訳しやすいのは、パラフレイズを
許容する、
思想内容、
論理、
事実などであろう。かならずしも
妥当な
考え
方とはいえないが、かりに、
言語を
内容と
形式に
二分するならば、
翻訳とは
形式を
犠牲にして
内容を
伝えようとする
作業にほかならない。
翻訳そのものがすでにそのような
前提に
立つ
以上、
翻訳文化において、
内容が
尊重されるのは
当然のことである。
形式とか
形式的というのはつねに
否定的な
意味合いにおいてのみ
使われる
語であった。
ヨーロッパ
文化は
優秀であるとなると、ヨーロッパの
言語に
含まれている
思想内容もすべてすぐれているのだと
決めてしまう。それがどういう
表現形式をとっているかは
問題にされない。
思想中心の
書物においてそうであるばかりではなく、
文芸においても
思想がもっとも
重視されるという
傾向が
固定する。
文学においては、
思想が
大切であっても、それはナマの
思想ではなく、
表現という
衣裳をまとったものであることは
理屈でわかっていても、その
衣裳を
訳出するのは
不可能である。また、
表現の
微妙な
味わいまで
感得することは
翻訳文化の
草創期にあっては
期待し
難いことでもあった。
まず、かいなでの
翻訳でわかるところだけで
満足するほかはなかったのである。それが
思想内容というわけだ。そしてこの
思想が
何よりも
重視されるのである。
芸術においてすら
思想が
最優先し、すぐれた
芸術作品であっても、いわゆる
思想がはっきりしていないという
理由で
却けられるということも
珍しくない。
思想があればよい
作品だというのは、どんなひどい
料理をしてあっても
材料に
栄養があれば、おいしく
食べるべきだというのにも
似た
乱暴な
考え
方である。いかにおいしいものでも
料理の
仕方がまずければ
食べものにならない。そんな
素朴なことでさえ、
翻訳文化に
埋没した
時代の
人たちにはわからなくなってしまっていたのであろうか。
それでも、まあ、
思想だけはとにかく
移植し
得たようにわれわれは
考えてきたのだが、
果たして
思想を
本当に
翻訳し
得たであろうか。
思想はきわめてしばしばそれを
表現する
言語と
密接不可分である。
言葉の
形式を
捨ててしまっては、
思想だけを
正しく
訳出することすら
困難なのではないか。わが
国では
明治になるまでいわゆる
翻訳――
原語の
形式をすてて
意味を
伝える
転換方式としての
翻訳をほとんどしたことがなかったことが
思い
合わされるのである。
たとえば、
中国大陸から
渡来した
文化を
理解するのに、
翻訳にはよらずに、
原文を
生かしながら
読む
訓読法を
案出したのである。これは
語順のいちじるしく
違う
二言語間の
理解のための
処理としてきわめて
賢明なものであるということができよう。
訓点読みが
原語の
形式、
音声を
大きく
歪めているのは
言うまでもないが、それでもなお、
原語の
一部分は
保たれているから、
形式がまったく
不問に
付されることはない。それだけいわゆる
翻訳よりはすぐれているとも
考えられるのである。
欧米の
学術書の
翻訳など、
論理と
思想が
伝わればよいような
場合において、きわめて
難解な
訳文になっていることがすくなくない。
原文を
見ると
達意の
文章になっていてすこしのよどみもないのに
訳文では
何のことかわからないということがおこるのである。そういう
例を
見るにつけても、
翻訳可能なはずの
内容も、
日本語とヨーロッパ
語のような
構造の
異なる
言語の
間では
充分に
移し
切れないのではないかということを
考えさせられる。
(
外山滋比古「
省略の
文学」)
長文 1.4週
旅に
出て
未知の
風景に
接し、
感動する
前に、「ああ、
絵はがきとそっくり。」というセリフを
口にする
人をよく
見かける。また、
最近のように
飛行機利用のたびが
盛んになると、
若い
女性が
下界を
見ながら、「まあ、
地図とそっくりね。」という
歓声をあげる。しかし
人間は、
飛行機を
発明してから
百年とは
経過していないのに、
今や、
驚異的な
速さの
ジェット機を
考え
出し、それが
人間を
苦しめようと
疲労させようとおかまいなしに、ますますスピードを
速めようとつとめている。
一昔前は
船で
インド洋を
横断して、はるばると
欧州を
目指したのに、それが、
現在はどうだ。あっという
間に
目的地に
着いてしまう。
思うに、
人々は
旅というものへの
導入部を
持つことが
少ない。この
導入部が
実は
旅だったのだが、
今では
目的の
地へ
着くことだけが
旅のように
思われてしまった。そして、それが
旅だと
思いこんでしまう
現代人は
気の
毒だ。
乗り
物は
極めて
速くなり、
時間の
節約といちはやく
目的地へ
着くことは
実現されたが、
旅情はそれに
比例するとはいえないからだ。
そのうち、
人々はもうわかってしまっているから、
旅に
出る
必要はないなどといいかねない。
旅とは
未知のものを
知るだけの
行為ではないのである。
旅をして、「
絵はがきそっくりの
風景」という
感想を
口にするような
人にとっては、いっそ
旅などしない
方がいいのだ。
旅は
心の
中でもできる。
病床に
臥している
人でも、
現実にそこを
旅した
人よりも
旅情を
味わっている
場合がある。それは
想像力が
豊かだからだ。
逆に、
小説の
中に
描かれた
風景や
土地にあこがれてそこへ
行き、
現実には
失望したといって
帰ってくるような
人もいる。それは、
小説家がうそをついたのではない。
現実が
先行して
実景を
変えたのでもない。
旅情というものは、
意外に、その
人の
心の
中にあるものだということである。ある
土地へ
旅をして、
何が
心に
残ったか、
胸に
手をあててそれを
思い
返してみるとわかる。
旅先での、
絵はがきや
小説では
体験できなかった
未知の
人との
出会い、その
人のおしゃべりやアクセント、そして、そのとき
自分が
味わった
何ともいえない
感情、そうしたものが
旅の
忘れ
得ぬ
一こまではなかったか。そういうイメージは
常に
自分の
心の
側にある。
心が
風景をみるのである。
(
岡田喜秋「
旅に
出る
日」)
長文 2.1週
古代から
中、
近世にかけて、
公家、
武家をとわず
支配者の
手で
馬を
通す
街道がつくられ、
馬をつかって
荷物を
運び、
人が
移動するようになると、
街道筋には
乗馬の
客、
荷駄をつれた
客を
泊める
馬宿の
設備が
必要となる。
牛はどこでも
平気で
横になり、
人間といっしょに
野宿できるが、
馬は
神経質で
臆病なため、
夜は
馬宿のような
安全な
場所につないでやらねばならない。それに
牛は
道草で
充分であるが、
馬の
旅には
飼料の
手配が
必要である。
古く
旅宿のことを
旅籠屋)とよんだが、
旅籠とは
馬料をいれる
籠のことで、
旅籠屋とは
馬料を
用意し、
馬をつれた
旅人を
泊める
旅館という
意味であった。
薪を
用意し、
宿泊の
場所を
提供するだけで
旅人に
自炊させ、
薪の
代金(
木賃)をとる
木賃宿より
上等の
旅宿とされたのがはじまりであったという。
馬を
手厚く
飼うのはむかしから
武人のたしなみであり、その
息災を
祈る
厩祈祷は
古くからある。
夏には
蚊帳をかけて
安眠させるなど、よい
馬ほど
神経質で、
人間以上に
手数を
要した。
乗馬はかならず
二頭そろえ、
交互に
乗り
替えるものとされた。
明治、
大正の
陸軍の
高級将校たちも、
朝の
出勤時に
乗った
馬は
午後は
休ませ、
夕刻の
退勤時には
乗り
替えの
馬を
使用した。これも
武士の
作法として
伝来のものであったという。
したがって
馬をつかえるのは、これだけの
手数をかけたうえ、なおかつその
機動力を
利用したい
人、
利用しなければならない
人にかぎられてくるのは
当然であった。
中世の
鎌倉街道が、
村落とはかならずしも
関係なく、
等高線にそって
走っているのもそれが
馬をつかう
鎌倉御家人の
道である
以上、
必然の
姿であったといえる。
古代の
間道も、
開設されたときは、おなじような
姿をしていたろう。だがこうした
馬の
道は、
馬を
通すために
沢山の
人手を
必要とし、
街道の
要所要所に
宿駅、
馬宿の
設備がつくられなければならない。そして、
近世に
入ると、
一般農村の
生活水準がしだいに
向上し、
各地城下町の
繁栄がすすみ、
人と
商品の
流通が
庶民生活の
次元においても
活発になりはじめた。このことから、
農耕に
馬をつかうのは
依然として
少なかったけれど、
従来のように
支配者たちの
政治的、
軍事的目的のためだけでなく、
一般の
商品や
旅人を
運ぶために
馬をつかうことが
多くなった。
駄賃収入をめあてに
手数と
資金を
投じて
馬を
飼い、
牛にくらべて
上等の
飼料をたべさせ、
街道に
出て
運輸業に
従事するものが
急速に
増加した。
民間における
商品の
流通は、
十七世紀末、
元禄ごろから
顕著になりはじめた。そのころ
本街道の
宿駅に
常備されている
伝馬は、もともと
公用物運送のためのものであったから、
公用の
荷物が
立て
込めば
民間商品はあとまわしになる。
公用の
駄賃は
低く
押さえられていたから、
公用の
運送で
生じる
赤字が
民間のものに
転嫁されるし、
荷物は
宿駅ごとに
人馬を
継ぎ
立てるので、
損傷することが
多い。
信州の
中馬はこの
欠点を
補うために
発生し、
最初は
農家の
農閑期における
現金収入のためにはじまったのが、やがて
専業化した。
一人の
馬方が
四頭の
馬を
追い、
馬宿に
泊まりながら
数十里はなれたところまで
直送したので、
途中の
荷傷みもすくなく、
運賃も
通常の
宿継伝馬の
半分に
近かった。そのため、
街道の
宿場の
問屋たちは
既得権益を
侵害するものとしてことごとに
圧迫したので、
中馬はしだいに
宿場のある
街道をさけ、
間道をえらぶようになったという。
それゆえ
近世における
中馬道の
成立は、
交通運輸史上、
重大な
変革であった。それまで
存在した
馬の
通う
道は、いずれも
支配者たちが
彼らの
政治支配と
軍事上、
経済上の
必要から、
強力な
政策的努力によって、
上からつくりだされたものであった。これに
対して
民間から、
純粋に
民間物資を
馬で
運ぶ
道がつくられた。
支配者から
賦課された
義務ではなく、
自らの
才覚で
馬を
飼い、
駄賃稼ぎをする
人、その
人たちを
馬ごと
泊める
家が、
馬の
道筋に
発生したわけである。ここにいたって
本街道はもちろん、
中馬道のようなものまでふくめ、
馬の
通る
道は
名実ともに
社会の
表街道となった。はじめ
馬の
道は、
支配者の
手で
村落とはあまり
関係ないかたちで
設定されたのに、この
道筋に
人と
物資が
集められ、
町や
村の
生活がかけられて、
社会の
経済と、
文化の
発展をここで
担うことになった。
しかしこうした
表街道の
繁栄の
背後にあって、
旧来の
馬の
通れない
道は、けっして
消滅したのではなかった。
中馬の
活躍した
信州を
例にとっても、
新潟県西部の
糸魚川と
信州の
松本とを
結び
糸魚川街道は、いちおう
平坦な
道であったが、いくつかの
小さな
峠が
馬の
通行をはばんだので、もっぱら
牛がつかわれた。
幕末、ここを
通って
北国の
塩を
信州に
運んだ
荷は、
年間八〇〇〇
駄をこえ、
太平洋岸、
三河の
塩を
信州に
運んだ
中馬の
数より
多かったという。
人と
牛しか
通れない
旧来の
道は、
繁栄してきた
馬の
通る
表街道からは
遠い。その
意味では、
表街道につらなる、
賑やかな
人里からはなれた、
辺鄙で、
険阻な
間道となり、
陰のうすい
存在になりはじめたのは
事実である。しかし、この
間道も、いっぽうではそれ
自身で
裏街道のネットワークをつくり、おなじように
表街道の
賑わいから
忘れられかけた
村々を
直結して、その
生活をひっそりと
支えていた。
裏街道という
言葉は、この
時代には
現代の
私たちの
感じるほどうら
哀しい
響きはもっていなかった。
近代的な
交通機関が
馬の
道でさえ
古いものとして
切り
捨てるまでは、
裏街道もまた、りっぱに
社会的効用がみとめられ、
生きて
働いていた。
(
高取正男「
日本的思考の
原型」)
長文 2.2週
伊代はおぼれていた。もう
沈む
寸前といってもよかった。
体が
大きいぶんだけ、
動きも
大きく
鈍くなりゆっくりになっていた。
洋がよっぽどプールへ
飛びこんで
救助しようと
思った。けれど、ここでそうしたら、
泳げるようになるのは
大幅に
時間がかかる。あるいは
恐怖が
倍加する
中で、
泳げなくなるかもしれなかった。
(あと
十秒、
待とう)
たぶん、ぎりぎりの
線だろう。へたに
声をかけてもまずかった。
洋は
目に
力のありったけをこめて
伊代を
見つめ
見守った。
(
腕を
動かしてくれ、
足で
水をけってくれ。ひどい
先生やと、おれを
憎んでもよいから、
憎しみを
力に
変えてくれ……)
洋はしばらくぶりに
祈った。
誰にということではなかった。そしてまばたき
一つか
二つする
間、
祈りながら
自分もおぼれかけていた。
小学生のときだ。
泳がしたろか。
兄ちゃんが
言ってくれ、
洋少年はパンツ
一枚で
兄ちゃんの
後について
川っぷちにおりていった。
紀の
川の
青い
深い
流れを
見ると
洋少年は
足がすくんだ。
兄ちゃんは
水泳部の
選手サンであり、みごとなポーズで
流れに
身を
躍らせた。
河童になって
浮きあがり
川ぎしにつないであった
小舟にはいあがった。
洋を
手招き、
舟にあがらせた。
「どないしたら
泳げるようになるのン、
兄ちゃん……。」
無邪気にたずねる
洋に、
兄ちゃんはいきなり、
強い
一突きをもって
回答した。ひとたまりもなく、
洋は
流れにまっさかさまに
落ちこみ、
水をのみのみ、
水をかきむしった。ようやく
顔がつき
出せて、こんどは
犬になって
水の
中を
走り、やとの
思いで
舟ばたに
片手をかけると、
兄ちゃんがその
指を
一本ずつ
外してくれた。
再び
沈みながら、
水中に
洋は
憎しみのことばを
吐いた。
「
兄ちゃんのひとごろし。」
しかしそれはみんな
泡になって
消え、
声にはならなかった。
夢中で
水の
中でもがき
続けるうちに
再浮上でき、こんどは
兄ちゃんのいる
舟がこわくて、
遠くの
岸辺へ
泳ごうとあせっていた。
泳ぐというより、
流されるかっこうでようやく
大きな
岩にしがみついた。
気がつくと、パンツを
流していた。
舟に
兄ちゃんがいなかった。パンツ、パンツと
洋は
涙声を
張り
上げた。パンツは
下手の
方から
兄ちゃん
河童が
片手に
高くさし
上げながら
泳ぎのぼって
取ってきてくれた。
「
洋、
泳げたやないか。」
兄ちゃんに
言われて
初めて
自分が
泳いでいたのに
気がついた。
荒療治ながら、
兄ちゃん
独自の
特訓であった。
洋はおぼれていた。それから
死力をつくして
浮かび
続けようとしていた。
流れが
洋を
運ぶ。へたをすれば
遠い
遠いところまで
運ばれかねなかった。
洋はもがき
続け、
決してあきらめなかった。
(ぼくはまだ
子どもやぞ、
子どものうちに
死んだりしてたまるか)
という
気持ちで
必死にさからっていた。
伊代は、はっと
目を
見開いた。
「
先生、
助けて――
助けてちょうだい。」
口の
中で
叫んでいるのに、
声になっていなかった。
体が
鉛みたいに
重く、
藻になったみたいにゆうらりゆうらりとしか
動いてくれない。
(わたし、
藻じゃなんかじゃないわ)
伊代は
心の
中で
叫び、
手足を
動かした。わたしが
藻でなくても、
藻にからまれて
動かなくなりそうな
気がした。
「せんせい……。」
水の
中からせんせいの
姿を
探した。
自分を
見つめるせんせいの
目が
青い
光を
帯びて
輝き、
伊予をそっと
包んでくれた。
伊代は
青い
光の
中で
急に
体が
楽になり、こんどはバレーでも
踊っているように、ゆったりと
手足が
動かせるようになった。すると
体全体がぐんと
浮かびあがった。
体全体が
前に
進んだ。これが
泳ぐということかもしれない……と
伊代はぼんやり
思い、
少しずつ
力をいれて
本当に
泳ぎ
始めていた……。
(
助かった)
祈りが
通じた
気持ちで、
洋は
両手を
合わせるかわりに
両手をこぶしにしてかたく
握りしめていた。
握りこぶしの
中から
冷や
汗がしたたり
落ちた。
(
今江祥智「
牧歌」)
長文 2.3週
わたしは
中学(
一中)から
高等学校(
三高)へかけて
京都で
育ったので、その
頃の
私はまことに
京都的な
少年であったらしい。まあ
言ってみれば
物腰の
柔らかい
少年として
日曜日には
嵐山などを
歩きまわっていたらしく、
現に
大沢池あたりで
友だちと
香りのよい
菫を
摘んできた
記憶がいかにもそれらしく
残っている。
しかしなんといってもいちばんなまなましく
残っているのは、
三高の
入試で、もちろん
旧制の、しかも
全国に
七つしかなかった、いわゆるナンバースクール
時代のことだから、
競争はそれなりに
相当はげしかった。
私はどうにか
第一志望の
京都にもぐり
込むことができたが、
発表された
時の
有頂天なよろこびは
一生涯忘れることができない。これはひとつには
当時高校の
関門さえ
通れば、
大学へはほとんど
無試験で
入学できたのだから、
高校の
入学ということは
当時の
青年にとって、いわば
一生に
一度の
難関だったためでもあろう。しかしそれと
匹敵するくらいに
思い
出されるのがあの
大文字の
火なのだから、
私の
記憶の
中にともっているあの
火の
照明度はかなり
強いものだといわなくてはならない。
もっともこのことは
今の
学生にはたぶんあてはまらないことだろう。
今のように
市内の
随所に
鉄骨がそびえているのでは、
大文字の
火も
繁華街のビルのすきまからのぞく
明月かなにかのようにさぞみすぼらしいものになり
下がっているだろうし、
赤や
青に
明滅しているネオンがくれに
眺めたのではこれも
不景気な、
色あせた
存在だろうとなんだか
気の
毒になるが、
私の
学生の
頃はそんなものではなかった。
その
頃の
京都全市の
人々がかたずをのんで
今か
今かと
待ちかまえた
大文字山は、どこからでもなんのさえぎるものもなく、
東方の
空を
黒々と
大きく
限って
横たわっていた。
街の
灯もさすが
電燈ではあったが、とっぷり
暮れた
夜の
都には、まあどちらかといえば、
点々としたさみしいものだった。そこへ
真っ
赤な
炎が
急に
一つまた
二つと
燃えはじめ、またたく
間に
炎炎と
一大文字が
夜空の
一角を
領してしまう。
近所の
屋上や
路ばたの
涼み
台などあちこちから
感嘆の
声が
聞こえる。それはたぶん
京都の
市民たちがいっせいに
挙げる
歓声の
一続きみたいなものであったろう。もっとも、
何十年と
大文字を
見ていない
私が、せんえつにこんなことをいってはどうかと
思うが、
近ごろの
大文字がネオンに
圧倒されたり、ビルの
間にはさまって
見えたとしても、そんなことであの
火をつまらぬものになり
下がったなどと、けいべつしたくはない。
あの
文字どおりに
燃えさかる
炎にはどんなみごとなネオンのまばゆい
動きにも
代えがたい
情熱がかくされている。その
情熱こそは
当時の
青少年を
学問へかりたてたその
同じ
情熱だった。またあの
炎炎としてともりかつ
消えていく
自然のままの
光の
色あいの
中にはなにかしら
今日の
蛍光燈などには
求められない
無邪気純真な
真剣さが
宿っていた。あの
真剣さこそが
当時の
入試受験生をひたむきに
勉強させた
同じ
真剣さではなかったか。
私は
老人の
口ぐせをまねて
自分の
若い
頃のよさを
手本にして、いまどきの
若い
者の
功利主義やふまじめをお
説教しようなどとはけっして
思わない。ただ、
私の
時代のあの
大文字が
今もなおあんなにも
情熱をこめて、
真剣に
何十年前と
同じ
姿で
燃えているであろうなら、
私の
愛する
青年たちの
胸にもまたいたずらにビルにあこがれたり、ネオンにだまされたりしないで、その
昔と
同じような
情熱で
学問を
愛し、
真剣に
入試とたたかう
心がまえだけは
生かし
続けてほしいナアと
祈るばかりである。
(
高木市之助「
詩酒おぼえ
書き」)
長文 2.4週
人間は
目ざめているかぎり、いつも
頭のなかに
何かを
描いています。もしここに
一枚の
白いカンヴァスがあって、それに
人間があれこれ
思い
描くイメージが、そのまま
映しだされるとしたら、いったい、その
絵はどんな
作品になることか。
人間の
頭のなかほど
神秘的なものはない、と
言ってもいいと
思います。
そこでいま、
私は
自分を
実験台にして、
自分の
頭のなかを
正直に
描いてみようと
思います。といっても、まさか
白いカンヴァスに
私の
頭のなかにあるイメージを
映しだすわけにはゆきません。やむを
得ず、それを
何とかことばで
書きしてみようと
思うのです。
ところが、このような
試みは、けっして
容易ではありません。なぜなら
人間が
頭に
思い
描いているものは、なかなかことばにならないからです。
人間は
何かを
考える
際に、ことばで
考えています。ですから、
考えていることを、そのままことばにすることは、かんたんのように
思えますが、
頭のなかで
考えているそのことばは、けっして
完全なことばなのではなく、いわば、ことばの
断片のようなものです。とぎれとぎれのことばが、
浮かんだり、
消えたりしている、と
言ってもいいでしょう。それを、そのまま
原稿用紙に
書き
写してみても、
当人以外には、いや
当人にとってさえ、
意味不明のことばの
羅列になってしまい、とうてい、
理解できる
文章にはなりません。
フランスの
生理学者ポール・ショシャールは、
頭のなかで
考えているそのようなことばを「
内言語」と
呼んでいます。つまり、
人間はことばで
何かを
考えているのですが、そのことばは、
話したり
書いたりすることばとはちがった「
内言語」だ、というのです。したがって、
人間は、つねにふたつのことばを
持っているということになります。
考えるときに
使う「
内言語」と、
話したり
書いたりするときに
用いる
通常のことば――ショシャールそれを「
外言語」と
名づけます――です。
このふたつの
言語は、
一見、おなじように
思われますが、じつはそうではなく、
両者はまったく
異質な
脈絡のなかにあるのです。ですから、「
思ったとおりに
書け」と
言われても、そうかんたんにゆきません。
文章を
書くということは、「
内言語」を「
外言語」に
翻訳することであり、その
翻訳の
作業が
何よりも
大変なのですから。
しかし、
人間の
頭のなかには、ただ「
内言語」だけが
漂っているわけではありません。たしかに、
抽象的な
概念は「
内言語」によって
意識されていますが、そうした
言語とともに、さまざまなイメージが
明滅しているのです。いや、
言語よりも、イメージのほうが
主要部分を
占めているように
思われます。
たとえば、あなたが、リンゴを
食べたい、と
思ったとします。あるいは
友だちに
会おうと
考えたとする。その
際、あなたの
頭に、まずリンゴということばが
浮かんだのか、それともリンゴのイメージが
先に
現れたのか。
友だちの
顔が
先か、
友だちという
言葉が
最初か。
私はいまそれを
自分に
即して
考えてみたのですが、どうも、はっきりしません。イメージが
先のようでもあるし、ことばがまず
浮かんだような
気もします。
このように、イメージといっても、きわめて
漠然としており、さらによく
考えてみると、イメージは「
内言語」と
一体になっているようにも
思えます。しかし、イメージの
背後に「
内言語」があったとしても、あるいは「
内言語」の
土台にイメージが
形成されていたとしても、イメージと「
内言語」とは、やはりどこかちがっている。イメージとは
画像のようなものであり、「
内言語」とはことばだからです。
(
森本哲郎「ことばへの
旅」)
長文 3.1週
人間の
頭のなかを
支配しているのが、そうしたイメージであることを、あらためて
指摘したのは、アメリカの
心理学者ケネス・ボウルディングです。と
言っても、
彼は、イメージというものの
範囲を
拡大して、
人間の
意識そのものを「イメージ」に
置きかえているようですが、ともかく、ボウルディングは、
人間の
意識を
形づくっているのがイメージだ、と
言うのです。したがって、その
内容は
複雑で、なかなかことばにあらわせないのですが、
彼はそれを、つぎのように
分類しています。
一、
空間のイメージ。
二、
時間のイメージ。
三、
関係のイメージ。
四、
個人のイメージ。
五、
価値のイメージ。
六、
感情や
情緒のイメージ。
七、
意識、
無意識、
潜在意識とみられるイメージ。
八、
確実なイメージと、
不確実なイメージ。あるいは、
明晰なイメージと、
曖昧なイメージ。
九、
現実的なもののイメージと、
架空なもののイメージ。
十、
公的なイメージと、
私的なイメージ。
こうなると、
頭のなかのイメージなるものは、
心のあらゆる
相、と
言ってもいいように
思えますが、ともかく、
彼はそれらの
意識内容を、すべて「イメージ」と
考えているわけです。
私はここで、ショシャールのいう「
内言語」の
実体を、つきとめようというのではありません。ボウルディングのいう「イメージ」の
分析を
試みようというのでもない。
私は、たったいま、
自分の
頭のなかにどんな「
内言語」や、どのような「イメージ」が
浮かんでいるのか、それを
実験的にとらえてみようとしているのです。
ところで、そうした「
内言語」や「イメージ」は、けっして
長くとどまっておりません。それは、あたかも
水の
流れのように
不断に
変化しており、
風のようにとらえどころがない。けれど、
水が
流れながら、やはり、ひとつの
川を
形づくっているように、そして
風が
吹きぬけながら、しかも、
春風や
秋風、あるいは
木枯らし、といったそれぞれの
風であるように、
頭のなかのイメージや
言語も、
何となくまとまった
像を
形づくっているように
思います。
かつて、
私はベルギーの
言語学者グロータス
神父に、あなたはどんなことばで
考えるのですか、とたずねてみたことがあります。グロータスさんは、
母国語のほかに
英語、
フランス語、
中国語、
日本語など、たくさんのことばを
自由にしゃべることができるのです。いったい、
彼はそのうちの
何語で
考えているのか。
すると、グロータスさんは、
笑いながら、「ああ、
何人から、その
質問を
受けたことでしょう!
答えをテープレコーダーに
吹きこんでおきたいくらいですよ」と
言って、こう
教えてくれました。
「わたしはいま、あなたと
日本語でしゃべっていますね。そうすると、あながた
帰ったあとも、わたしは
日本語で
考えつづけます。そこへフランスの
友人がやってきて、こんどは
フランス語でしゃべり
合ったとします。そうすると、そのあとは、ずっと
フランス語で、ものを
考える。つまり、わたしの
頭のなかの
言語は、そのときまで
使っていたことば、というわけです。」
もうひとり、
私は
中国の
友人にも、おなじ
質問をしてみました。
彼は、
中国語と
日本語を、まったくおなじようにしゃべるのです。
彼の
答えも、グロータスさんと
同様でした。その
前まで
使っていたことばで
考えるのだそうです。
頭のなかの「イメージ」も、きっとそうなのでしょう。たとえば、その
前に
外界から
強く
受けたメッセージが、そのままイメージとなって
残り、それを
押しのける
他のメッセージを
受けとるまで、そのまま
持続しているように
思われます。そして、もし、あるとき
受けとったメッセージが、あまりに
鮮明であったならば、そのイメージは
折りにふれて
頭のなかに
浮かびあがってくるにちがいありません。
(
森本哲郎「ことばへの
旅」)
長文 3.2週
一つの
分類体系が
支配し、それが
存在そのものの
分類であるとして
固定化されている
領域の
内部だけに
生きている
人にとっては、「わかる」とは、
相手が
自分と
同じ
分類系をもっていることの
確認であり、
対象を
自分の
分類体系のどこかに
位置づけることであり、「わかり
合う」とは、
相互に
同じ
分類体系をもっていることの
相互確認であり、それ
故の
安心である。
閉鎖社会での
特徴は、「わかり
方」がこのような
形になっていることである。「
君の
気持ちはよくわかる」とか、「いまの
若者は
理解できない」というときの「わかる」とか「
理解」は、このような
意味である。
じつは、このような
理解であれば、
対話も
評論も
不要なのである。
同質の
分類体系のなかに
住んでいるのなら、
言葉はいらない。「ハラとハラ」で
十分わかり
合えるし、
以心伝心が
可能である。
しかし、これでは
本当に「わかる」ということにならない。
互いに「わかっている」、あるいは「わかり
合っている」と
思い
込んでいるだけで、じつはわかり
合っていないかも
知れないのである。
子供たちが「
理解のある」
大人に
対して
不信感を
抱いたり、いらいらしたりすることのなかには、「
理解のある
大人たち」が、ちっとも「わかっていない」のに、「わかった」ふりをしたり、「わかっている」と
勝手に
思い
込んでいることに
対する
不満があるのかも
知れないのである。
最近いかにも「ものわかりのいい」
子供たちが
増えているが、わたしは
彼らを
見て、
本当に「わかっている」とは
思えない。ちっとも「わかっていない」のに、「わかった
風」をしていると
思う。それは
大人の
考えが
本当にわかっていたり、
大人のいうことにしたがおうとしているのではなく、「どうせわかり
合えないのだ」と
割り
切って、
無用な
摩擦を
避け、
適当に「
良い
子」になって、
生活と
気分の
安定をはかっているのだと
思う。
親は
安心するであろうが、
結局は
本当に「わかり
合う」ための
努力を、
両方とも
放棄しているのである。これはいまの
子供や
若者が、ずるいとか
老成しているということではない。
彼ら
自身が
少しあとの
世代について
同じことを
感じているはずで、いまの
大人が、
自分と
同じ
分類体系が
通用していると
思い
込んでいるのに
対し、
若い
人ほど
実情が
見えているのだと
思う。
以上は、
日本のなかでの
世代間の
話であるが、
同様の
関係が、
日本と
外国、アメリカとソビエト、
欧米諸国とイスラム
圏、イスラエルとアラブ
諸国、
先進国と
開発途上国などのあいだにあると
思う。これらの
当事者が、
自分の
分類体系だけが
唯一の
真理であると
信じ、それ
以外のものを
排撃している
限り、
相互理解は
不可能で、「わかり
合える」ことはできず、
結局は、
武力にものをいわせて
相手をしたがわせるしかないという
結果になる。
世界全体がそういう
方向に
進みつつあって、
本当にわかり
合う
努力が
放棄されていっているのが、
現在の
危機的状況ではないかと
思われる。
このように、
異質の
分類体系が
相互の
理解を
拒否する
形で
対立し
合っているとき、「わかった
風」や「
理解ある
態度」を
示すことは、かえって
事態を
混乱させる
危険をはらんでいる。
一つの
分類体系に
固執している
相手に「
理解ある
態度」を
示すことは、しばしば
相手方に、「
自分と
同じ
分類体系をもっている。」と
思い
込ませるばあいもあるからだ。このばあい、
相手方がその
態度を
示した
側の
分類体系を
理解することはもちろんない。
結局は
理解し
合うことなく、
理解していると
誤解し
合うだけである。
したがって、
問題の
解決はきわめて
困難なのであるが、
問題点はきわめて
明白であると
思う。
要するに、
西欧的な
分類体系こそ
唯一絶対のものだと
信じられていた
一つの
時代が
去ったのである。このときこそ、
思い
込みの
幻想に
安住することなく、
本当に「わかり
合う」ことが
重要であり、その
可能性もでてきたのである。
本当に「わかる」とは、
異質的な
分類体系を
理解することである。それは
簡単に「わかった」とか「
理解ある
態度」を
示したりできるようなものではない。
長い、
困難な
相互の
努力によってはじめて
可能になるような、そして
可能になっても、
実現はきわめて
困難な
理解の
道である。「
西欧的な
分類体系こそ
唯一絶対のものだと
信じられていた
一つの
時代が
去ったのである。」と
書いたが、だから
欧米はダメだとか、
日本的分類体系を
唯一絶対にせよというのではない。
百年たっても、われわれは
西欧的な
分類体系が「わかった」などといえないのである。むしろ、いままでは、
理解したと
思い
込んでいた
傾向が
強い。
本当の
西欧理解はこれからなのである。それほどに「
本当にわかる」ということは
困難である。それは、
欧米の
人が、
日本の
分類体系を
理解しようとしなかったことと
関係がある。
異分野の
人との
共同研究のことと
比べよう。
一方的な
理解などというものは、ありえないのである。
欧米人がわれわれを「
本当に」
理解しうることを
媒介にして、われわれも
欧米を「
本当に」
理解しうる。アラブやアフリカとの
関係においても
同じである。もっとも
近い
韓国との
間にさえ、「
本当に」
理解し
合うという
相互努力は、まだきわめて
弱いと
思う。おのおの、
自分の
分類体系のなかに
相手を
位置づけて、
理解していると
思い
込んでいる
段階にとどまっているのではないかと
思う。
閉鎖社会では、
同じ
分類体系を
共有していれば「わかり
合え」、
物事が「わかる」ことも
容易であった。また
世界支配の
時代には、
支配国の
分類体系によることが「わかる」ことであり、それ
以外の
体系は、「わかる
必要がない」、あるいは「
無意味な」ものとされた。
日本で
鎖国時代にすでに、
異質的なものの
理解の
方法を
意識化しえたのは、
遊廓という
日常性とは
別の
社会の
理解を
通じてであったが、いまは、
科学の
諸分科間、
科学者と
民衆、
国家と
市民、
文科系出身者と
理科系出身者、
世代間、
民族間、
国家間、
宗教間で、
異なった
分類創造が
行われつつある。やがては、
地球外文明との
相互理解が
必要になるかも
知れない。その
意味でこの
文章は、「
異星人とのつきあい
方入門」なのである。
(
坂本賢三『「
分ける」こと「わかる」こと』)
長文 3.3週
夜中に
喉の
渇きを
覚えて
目をさます。ほんとうは
健やかな
感覚であるはずだ。
起き
上がって
水道のところまで
行き、
冷たい
水をコップに
一杯、
腹の
中に
流しこむ。その
混じり
気のない
満足がすぐにまた
眠りにつながっていく。
酔いの
重しをつけて
底に
沈められたような
今までの
眠りと
違って、
心地よく
小波立ちながらどこまでも
平らかにひろがっていく
眠りだ。
ところが、
起き
上がれない。ひたむきな
肉体の
欲求が、ほんのわずかのところで、どうしても
動作につながっていかない。
暗がりの
中で
頭を
起こして
腹這いにまではなっている。
枕元の
水は
寝る
前に
飲み
尽くしてしまった。
酒と
一緒に
水をそんなに
飲むというのは、あまり
良い
酔い
方はしていなかったしるしだ。
壁のクーラーが
控え
目な
音を
立てて、わずかに
涼しい
風を
首筋に
送ってくる。
妻と
子供たちが
薄い
毛布の
下で
三人からだを
寄せあって
眠っている。
水辺の
宿に
泊まるという
楽しみは、
三人の
中でどんなふうに
満たされているのだろう。
目に
映る
物の
動きがからだの
底のほうから
軽い
眩暈を
誘い
出す。
悪酔いの
時のあの
感じに
似ている。
波の
動きとともに、なまなましい
力が
闇の
中に
遍く
満ちわたり、
蠢きあっている。それに
釣り
合うだけの
活力が、いまこのからだの
中にない。
背中のほうで
妻と
子供たちが
交互にふくらます
寝息さえ、
水のゆらめきと、ふとひとつに
融けかかる。
動きに
取り
囲まれていることに、つかのま、
言いようのない
堪え
難さを
覚えた。しかし
目覚め
際の
感覚にすぎない。
目覚めの
際に、
肉体が
生命感をひょいとどこかに
置き
忘れてきたとしても、
不思議はない。よくあることだ。
鹹水湖(
塩水をたたえた
湖)が
山の
間まで
深く
入り
込んでいる。
向こう
岸はもう
山地の
夜の
暗さだ。
空もどんより
靄って、
星ひとつ
見えない。
都会の
夜更けを
覆うスモッグに
似ている。
大勢の
人間の
吐き
出すいきれが
空にのぼり、
夜気に
冷やされて
白く
凝りはじめる。このあたりに
何軒もある
旅館やホテルの
客たちの
寝息だろうか。
全部で
二、
三百人は
眠っているはずだ。それとも、
人間どもの
存在にかかわりなく、
大昔から、
夏の
夜更けになると
水面からのぼる
靄なのかもしれない。
人家も
見えぬ
山あいの
闇の
中に
立ちこめるいきれ……。
草や
樹は
気孔を
開ききって
葉を
重く
垂れ、
獣たちは
喘ぎながら
水辺へおりていく。このあたりでも、
水はまだよほど
塩からいのだろうか。
眩暈の
感じは
徐々に
引いていった。
水はまだゆらめいている。とりとめもなく
動く
水を、とりとめもない
気持ちで
眺める。そういう
時間を
幾度か
重ねて、
年を
取っていく。
何年かに
一度ずつ、
判で
捺したように
同じ
気持ちで
水を
眺める
自分が
繰り
返され、それからいつか、
存在しなくなってしまう。それでもこの
放心の
状態の
中には、
物憂い
永遠の
感じがたしかになにがしかふくまれている。
舷側に
押し
分けられた
水がしなやかに
反りかえる
翠色の
壁をつくって
滑り
退いていき、
波頭をざわめかせながら、うねりの
中に
巻きこまれる。そのうねりの
群れの
前に、
二つになる
下の
子供が
立っていた。
水の
動きにぼんやり
眺め
入っている
様子が
細いうなじに
表れていて、
思わず
近づいて
背中にそっと
手をかけたくなるような
後ろ
姿だった。そばに
行ってやろうかな、と
思いながら、
遠くから
眺めていた。
子供の
前から、
水がじかにひろがっている。
甲板からの
昇降口にあたるらしく、そこだけ
手摺りが
切れていて、
太いロープが
二本ゆるく
渡され、その
下のロープを
子供は
左手に
握って、からだの
重みをわずかにかけている。ロープがその
手のところでやや
押し
下げられて、
心もち、
外側へ、
水のほうへ
傾き
気味に
張っていた。
はっとした
時には、
手肢が
金縛りになって、
頭髪がほんとうに
逆立っていくのがわかった。
夢の
中で
空足を
踏むような
焦りが
全身を
走った。その
時、タラップの
方で
軽やかな
足音がして、
上甲板から
駆けおりてきた
若い
学生風の
男が
子供の
姿を
目に
止め、こちらが
走り
寄るよりも
一足早く、
子供をロープのそばから
抱き
取った。
後ろで
妻が
短い
悲鳴を
上げ、
蒼ざめた
顔で
男のそばに
駆け
寄って、
子供を
奪い
取った。
男はちょっと
唖然とした
面持ちで
妻を
見やってから、また
軽やかな
駆け
足で
下の
船室におりていった。
すぐに
船室に
行って、からだじゅうに
冷や
汗を
掻きながら、
礼と
詫びをしどろもどろに
述べると、
男は
具合悪そうにうつむいて、「ちょっと
危ないなと
思って……」と、まるでい
訳のようにつぶやいた。
下の
子がいつのまにか
毛布を
蹴飛ばして、オムツを
当てていた
頃のままガニマタにひらいた
短い
足を
母親の
腰の
上にのせている。あの
金縛りの
状態では、とっさに
後を
追って
飛び
込めはしなかった。
呆然と
見送ってしまった
一瞬を
取り
戻そうとして、
人の
見る
中で、
余計な
物狂わしい
身振りをしたにちがいない。
船べりと
子供の
間に
無数のうねりが
生き
物のようにひろがり、
波間から
小さな
頭が
見えて、また
呑みこまれる。ガニマタにひらいた
短い
足が
遠くに
一瞬のぞく……。
「
水が
飲みたいな」と、つぶやきがふと
口から
洩れ、なにか
空恐ろしい
気紛れの
声のように
聞こえた。
喉の
粘膜がささくれ
立ったように
火照って、
濃くなった
唾液が
不快な
臭いをときおり
内側から
鼻に
送ってくる。しかしからだは
頑固に
寝床に
沈みこんでいく。
目をつぶると、
水のゆらめきが
全身を
包みこんで、
奥から
眩暈をまたくりかえし
誘い
出した。
「こんな
大量の
水に
囲まれていながら、コップ
一杯の
水に
焦がれるとは……」という
思いが
顰め
笑いを
浮かべて
通り
過ぎた。
(
中西幸雄「
友情」)
長文 3.4週
子どもたち
全員と
学校の
裏手の
雑木山に
出かけました。
日かげの
沢にはまだ
汚れた
雪が
残っていましたが、
陽だまりは
枯れ
葉が
柔らかい
熱を
含み、そこを
歩くときに
頬に
暖かみを
送ってきます。
子どもたちは
歓声をあげ、
木に
登ったり、
蔓にぶらさがったり、カタクリを
摘んだりしました。
教室にいるときとは
別人のようでした。
枯れ
草に
腰をおろしていると、
六年生らしい
女の
子が
寄ってきました。
頬に
赤い
痣のあるひっそりとした
感じの
子でした。
女の
子はだまってわたしのそばにすわり、しばらく
枯れ
草を
引き
抜いては
編んでいましたが、やがてぽつりと
言いました。
「こんどの
先生ァ、
男先生も
女ゴ
先生もいい
先生だね。」
「…………。」
わたしはとっさにはこたえることができませんでした。
今の
今まで
村や
分校や
子どもたちをよく
思っていなかったような
気がしました。わたしは
小さな
狼狽を
押し
隠しながら、
女の
子の
名前や
家の
仕事のことや
兄弟のことを
聞きました。
里枝というその
女の
子は、
一言一言恥ずかしがるようにい
淀みながら
自分のことを
語りました。
訛の
強い
方言は、わたしには
耳ざわりなはずでしたが、おとなしい
里枝の
口からそれが
洩れると、
素直にわたしのからだの
中に
溶けこんでいくようでした。
先生! とだしぬけに
後ろから
背中をたたかれ、わたしは
思わず
悲鳴をあげました。どんぐり
眼の
一年生の
明が、
眼をいっそう
大きく
見開き、
息をはずませていました。
「
先生ァ、おらァ
卒業するまでいてくれるね。」
「どうして?」
「ほだって……。」
明は
後ろをふりかえりました。
明をからかったらしい
背の
大きい
男の
子が
朴の
木によりかかり、
照れ
笑いを
浮かべてこっちを
見ていました。
「
兼吉がな。ハイカラ
先生などァ
一年で
分校なんかやめて、すぐ
町サ
帰るって……。」
「
先生はハイカラじゃないよ。」
「ハイカラださァ、
金色の
眼鏡かけてェ。」
わたしは
思わず
笑いました。
女学校の
卒業記念に、
役場の
書記をしていた
父が
買ってくれた
旧式の
金縁の
眼鏡を、わたしは
大事に
使い
続けていたのでした。
(
三好京三「
分校日記」)