チェット・ベイカー

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全盛期ぜんせいき肖像しょうぞう

'チェット・ベイカー(Chesney Henry Baker Jr.、1929ねん12月23にち - 1988ねん5がつ13にち)はアメリカ白人はくじんジャズトランペッター、歌手かしゅ、フリューゲルホルン奏者そうしゃわかころはスタイリッシュな演奏えんそう美貌びぼうあま歌声うたごえで「ジャズかいジェームス・ディーン」「トランペットった天使てんし」などともてはやされていたが、ヘロインをめぐるトラブルでボコボコにされられていちすべてをうしなったあと、ガイコツみたいなかおの「ジャズかいゾンビ」として復活ふっかつした。

Wikipedia
ユーモア欠落けつらくしょう患者かんじゃのために、ウィキペディア専門せんもん気取きどたちが「チェット・ベイカー」の項目こうもく執筆しっぴつしています。

きずだらけの天使てんし

技巧ぎこうらしたほとんど曲芸きょくげいちかながいアドリブが主体しゅたいのビ・バッブの時代じだいにあって、あまり技巧ぎこうかんじさせないシンプルな演奏えんそうながら絶大ぜつだい人気にんきほこったチェット・ベイカーは、どう時代じだい黒人こくじんミュージシャンからひどく敵視てきしされていた。さらに、演奏えんそうスタイルのちがいにもかかわらず「ビ・バップのちち」チャーリー・「バード」・パーカーにかわいがられ、とにかくハンサムで女性じょせいファンもおおかったことで、パーカーに心酔しんすいわかくしてすでにハゲきざしがはじめていたマイルズ・デイヴィスからは蛇蝎だかつのごとくきらわれており、1954ねん共演きょうえんしたさいには終始しゅうしシカトされてステージのすみふるえていた。マイルズにしてみればベイカーは白人はくじんであるというだけではじめからすべてにめぐまれた目障めざわりなガキにえた。

ただ実際じっさいのところ、ベイカーは元々もともとそんなにおおくのものをっているわけではなかった。アメリカのド田舎いなか、オクラホマしゅうペインぐんイェールのさほどひろくない牧場ぼくじょうぬしむすめと、地元じもとのカントリーバンドのギターきとのあいだに、だい恐慌きょうこうとしふゆまれた。ほどなくして失職しっしょくした父親ちちおやさけって母親ははおや息子むすこなぐるようになり、母親ははおやはひたすら息子むすこねこかわいがりして、まずしくつら日々ひびえた。

かれ母親ははおやうたをまねてうたい、母親ははおや安物やすもの雑貨ざっかてんはたらいてったお人形にんぎょういてそだった。そこに父親ちちおや突然とつぜんトロンボーンをってきた。本当ほんとうかどうからないが、ミュージシャンだったころにトロンボーン奏者そうしゃのジャック・ティーガーデンと共演きょうえんしたことがあるのをほこりにしており、かれのようなデカいおとこになれというつもりだったらしいが、トロンボーンはデカすぎて10さいやそこらのおさな息子むすこにはあつかえなかった。それでちち仕方しかたなくそれを返品へんぴんしてわりにトランペットをあたえたところ、夢中むちゅう練習れんしゅうした。線路せんろ沿いのたて小屋こや黒人こくじん少年しょうねん唯一ゆいいつのオモチャであるブルースハープで汽車きしゃポッポのおとそうとがんばるみたいに。

とおりでいしげられて前歯まえばけても、かれ練習れんしゅうつづけた。なみだぐましいことだが、前歯まえばけると空気くうきりょう調節ちょうせつしにくくなる事実じじつにたんにづかなかっただけかもしれない。けたこと自体じたいにしていて、これ以降いこうくちじてわらうようになったが、これがイヤミなかんじにえてきらわれたりもしている。いちだけ油断ゆだんしてくちけてアホめんさらしているところをピアニストのラス・フリーマンに激写げきしゃされている。

チェット・ベイカーは、いたものをすぐくことができた。高校こうこう吹奏楽すいそうがくではスーザのマーチをいちいただけで完璧かんぺき再現さいげんした。これが、かれてんからたほぼ唯一ゆいいつにして最大さいだいのものかもしれない。ちょっとうたがうたえたりオシャレだったりするとすぐ「おんなみたい」とからかわれる田舎いなか偏狭へんきょうさのせいもあって、チェットはたちまちグレて勉強べんきょうをさぼりマリファナをおぼおんなあさり、やがて映画えいがなかのジェームス・ディーンのように周囲しゅういすべてをうとましくおもうようになって、17さいになるとすぐ軍隊ぐんたいはいった。軍隊ぐんたいでの素行そこう最低さいていで、懲罰ちょうばつぼう常連じょうれんであり、発狂はっきょうした兵士へいしとなり無表情むひょうじょうでうつむいてかたまっていたその姿勢しせいが、のちのステージでは「クール」とわれるようになる。

音楽おんがく教育きょういくらしきものは高校こうこう軍隊ぐんたいのバンドとそのあと復学ふくがくしてはいった短大たんだいけただけで、裕福ゆうふくいえまれジュリアード音楽おんがくいんたマイルズとくらべるのがどくなほどお粗末そまつ経歴けいれきだが、それにくわえてはつならぬはつ演奏えんそう天才てんさいであったことがかえってわざわいし、楽譜がくふずに全部ぜんぶみみだけでおぼえてくことをかえし、がくなまけたために一生いっしょう楽譜がくふめなかった。バンドの仲間なかま指示しじ必要ひつようせまられたさいも「もっとシンプルなかんじでやって」くらいしかえなかった。

かれのスタイルは結局けっきょくのところ高校こうこう吹奏楽すいそうがく延長えんちょうにあり、シンプルなメロディをかたちからいて演奏えんそうした。セッションちゅう最初さいしょはずっとうつむいてトランペットのさきげてつっったままかないくせに、絶妙ぜつみょうなタイミングではいってきてこざっぱりした、しかし印象いんしょうてきなフレーズを見事みごとき、ファンにはアルカイック・スマイルでおうじる。身体しんたいてき制約せいやく軍隊ぐんたいでの処世しょせいじゅつ融合ゆうごうしてまれたこの「クール」なスタイルでてき味方みかた同時どうじつくりながら、40年代ねんだいのベイカーはやす酒場さかばでの数々かずかずのセッションをこなしていった。

たいしたかせぎにならないのにくるまったりマリファナをやりまくったりしていたのでよけいにかねがなかったのである。他人たにんくるまからホースでガソリンをいだしてぬすむようにもなったが、これによりはからずもかれ演奏えんそう技術ぎじゅつみがきがかかった。1950ねんすえにマリファナの不法ふほう所持しょじ逮捕たいほされ、収監しゅうかん軍隊ぐんたいはいなおすかえらばされて軍隊ぐんたいったがやはりいやで、心理しんりテストで「お花屋はなやさんになりたい」といてゲイをよそおうなど姑息こそく手段しゅだん使つかってシャバにもどると、ファンのおんな一人ひとりシャーレインと結婚けっこんした。さらにかねるようになった。

バードと

チャーリー・パーカーと共演きょうえんすることになったのはそんなときで、ベイカーはのちに「ハリウッドのクラブでおこなわれただい規模きぼなオーディションで、バードがロサンゼルスじゅうの40にんすトランペッターのなかからオレを名指なざししたんだ」と回想かいそうしているが、その回想かいそう名前なまえがったミュージシャンたちはそろって「オーディションなんかなかった」とっているうえに、当時とうじのプロデューサーが「メンバーをそろえてっていたら、ぎりぎりになってトランペッターもやとえと指示しじがあった」と証言しょうげんしている。つまり、土壇場どたんばになって手当てあてたり次第しだい電話でんわをかけたら、かねこまったベイカーがいたのである。1952ねんの『イングルウッド・ジャムInglewood Jam』のいちきょくSquirrelで、ソニー・クリスとバードにはさまれたチェット・ベイカーのソロでの音色ねいろリスのようにふるえ、あがりぎてあきらかにしくじっている。そのうえ自分じぶんかないときはひたすらしたいてすましているのでこころないヤジもんだが、バードにはこの若者わかものがスカしているのでなくとても緊張きんちょうしているのだとちゃんとかっていた。チャーリー・パーカーは元々もともと、クスリさえやらなければ至極しごくいヤツとしてられていた。かれがベイカーにやさしくしたのは才能さいのううんぬんよりもまず、かれわかくて未熟みじゅく可愛かわいかおをしていたからではないか。

ライヴの会場かいじょうすみにカタギとはおもえぬあやしい風体ふうたいおとこたちが陣取じんどり、終演しゅうえんすぐにバードとベイカーのもとにちかづいてきた。バードはおおきなかれらをせいし「ちな。おれ弟分おとうとぶんにはゆびいちほんれさせねえぞ。てめえらの相手あいては、このオレだっ!」ととくり、「兄貴あにきィ……」と感涙かんるいにむせぶベイカーをよそに、おとこたちをれてそそくさとえていった。おとこたちはヘロインの売人ばいにんだった。バードはヘロインをつのみならず、アンフェタミンの錠剤じょうざいをスナック感覚かんかくでぽりぽりかじ大量たいりょうウイスキーながしこむ生活せいかつすえに32さいわかさで昇天しょうてんはたにいて感化かんかされたベイカーも結局けっきょくヘロインにすようになる。

ジェリー・マリガンと

まがりなりにもバードと共演きょうえんしたことでチェット・ベイカーの西海岸にしかいがん一帯いったいとどろき、むかしからのマリファナ友達ともだちのベーシスト、ボブ・ホイットロックの紹介しょうかいもあって、アレンジや作曲さっきょくもこなす知性ちせいのバリトンサックス奏者そうしゃジェリー・マリガンらとカルテットを結成けっせいすることになる。メンバー全員ぜんいんがヘロインを常用じょうようしていた。ピアノレスというめずらしい編成へんせいだが、ヘロイン中毒ちゅうどくのピアニストでちょうどいいのがいなかったのである。むずかしいことはマリガンにまかせてベイカーはままにラッパをいてさえいればよかったので相性あいしょう抜群ばつぐんで、かくきょくふん程度ていどのゴキゲンなセッションが次々つぎつぎつづいた。チェットにおとらずマリガンもしゅっとせてカッコかったのでライヴも大入おおい満員まんいんいちねんほどたのしくやっていたが、あるにんあつまる酒場さかば麻薬まやく捜査そうさかん乱入らんにゅう、「おまえら、いっせーのせでうでまくれ」とわれて同時どうじにまくったらジェリー・マリガンのうでにだけ真新まあたらしい注射ちゅうしゃこんがびっしりついていて、マリガンはそのくずちた。のメンバーはもうとっくのむかしあし静脈じょうみゃく使つかはじめていた。一人ひとりだけヘタこいたマリガンはそく逮捕たいほ、メンバーはりになり、ベイカーはあらたな「兄貴あにき」をつけた。ピアニストのラス・フリーマンである。

ラス・フリーマンと

ラス・フリーマンは写真しゃしんかぎり、ほそ口髭くちひげやした優雅ゆうが顔立かおだちをしているが、そんなかれもベイカーらとおなじく、演奏えんそう合間あいまにはきずついていない静脈じょうみゃく必死ひっしさがして注射ちゅうしゃたてて、ピストンをししてとヘロインがざったものが体内たいない出入でいりするのをかんじながらもだえていたのである。

フリーマン兄貴あにき楽譜がくふめないベイカーのために、セッションのまえにメインのメロディをいておぼえさせてくれた。この時期じきベイカーはかつてないほどおくせずまっすぐな演奏えんそうをしていた。バド・パウエル影響えいきょうけていたラス・フリーマンの、ときに挑戦ちょうせんてきかつ的確てきかくなアシストゆえである。フリーマンはベイカーと出会であった直後ちょくごくらいからヘロインをつための努力どりょく本格ほんかくてきはじめるのだが、ベイカーにたいする庇護ひごよくなのか、ひとのふりがふりなおそうとおもっただけなのか、いずれにしてもよりたよりがいのある存在そんざいになっていく。

安心あんしんしておおきくなったベイカーは、自分じぶんのヴォーカルをメインにしたアルバムをつくることをおもいつく。コンプレックスだったはずの「おんなみたい」なうたかたのまま、フリーマンがえらんだむかしながらのスタンダード・ナンバーをなんきょく録音ろくおんした。こうして出来上できあがった『チェットのズンドコぶし』は、ムチムチのてぃーシャツからうでをむきしにした、恍惚こうこつとした表情ひょうじょうのベイカーのセクシーショットにいろどられて1954ねん発表はっぴょうされた。ソウルフルなうたかたとするミュージシャンたちには酷評こくひょうされたが、ジャケットと耳元みみもとでささやくようなあま退廃たいはいてき歌声うたごえおんなたちにだいけしてだいヒット、やがてとおブラジルの、声量せいりょうがなくて歌手かしゅをあきらめかけていたジョアン・ジルベルトみみにもとどき、ボサノバ誕生たんじょうのきっかけともなる。成功せいこうをよくしたベイカーはおな趣向しゅこうの『チェットのドドンパ』や『チェットのソーランぶし』をし、そのりにれてうたうようになっていく。

ベイカーはかれこえれた何人なんにんもの女性じょせいファンのなかから毎日まいにち3、4にんえらんでホテルや自宅じたく寝室しんしつ招待しょうたいし、素人しろうとである彼女かのじょらとセッションをするようになった。浮気うわきはそれまでにもあったが、こうおおっぴらにされてはつまシャーレインは当然とうぜんたまらない。しかし彼女かのじょはここでただだまってれていることはなく、みずからもボブ・ホイットロック、ジャック・シェルドン、アート・ペッパーだたるミュージシャンを別室べっしつれ、素人しろうととはおもえぬながくてホットなジャムセッションをひろげた。チェット・ベイカーがファンとのみじかくせわしないギグをえて一息ひといきついていると、別室べっしつからつまいのミュージシャンとの高度こうどかつきわめて情熱じょうねつてきなプレイがこえてて、それに触発しょくはつされたベイカーがトランペットをかなぐりて、ドアしに手足てあしをフルに使つかったパーカッションや怒鳴どなごえ、すすりきなどで参加さんかする日々ひびつづいた。

クルーたちと

完全かんぜん自業自得じごうじとくなのだが、ラス・フリーマンにもつまにもられてきずついたベイカーはやがて、女優じょゆう志願しがんのフランスじんリリアン・クーキエに夢中むちゅうになる。クーキエはベイカーの実家じっかにノーブラでついてって母親ははおや仰天ぎょうてんさせ、ファンやマスコミのまえでさんざん熱愛ねつあいぶりをアピールしたあげくふっとフランスかえってしまう不二子ふじこちゃんてき美女びじょで、彼女かのじょのおかげでだんだんとやるもどしたベイカーは、テナーサックスのフィル・アーソ、ベースのピーター・リットマンらごりごりのヘロイン中毒ちゅうどくしゃみずかやとってあらたなバンドを結成けっせいし、リリアン・クーキエをって1955ねんあきふねってフランスへってしまう。一緒いっしょったメンバーのなかに、リットマンのヘロイン仲間なかまのディック・ツワージクがおり、かれはベイカーがこれまで出会であったことのないタイプの破壊はかいりょくったピアニストだった。ベイカーはこの年下としした鬼才きさい勝手かってにマブダチ認定にんていしていたのだが、オーバードーズでツアーの途中とちゅう急死きゅうし。ベイカーが帰国きこく直前ちょくぜんの56ねん3がつうたったEverything Happens To Meは、元々もともと失恋しつれんしたおとこが「オレにはどんなわるいことだってこってしまうんだ」となげうただが、アドリブのほとんどない哀切あいせつきわまる録音ろくおんのこっている。

ニワトリとなんとかはたかいところが

ところが、帰国きこく1956ねんの7がつにアーソやリットマンとふたたんで収録しゅうろくされた『チェット・ベイカー&クルー』は、ビル・ラフバラの軽快けいかいなパーカッションにはじまる、ときに陽気ようきでときにロマンチックな傑作けっさくで、いままでとはちがいメンバー全員ぜんいんのソロがしっかりある。ジャケット写真しゃしんではみなふねうえたのしげにすわっているなかベイカーが一人ひとりマストにのぼってしており、かれかたおもうとややゾッとしないでもないが、ヘロインでラリっているのとはちがう、からっとしたあかるさがかんじられる。

ツワージクのからこのアルバムをつくるまでのあいだなにかんがかんじたのか、ベイカーはあまりしゃべらないのでなぞではあるが、かれはフランスで再会さいかいしツアーちゅう仲間なかま面倒めんどうまでてくれたたリリアン・クーキエをれずに帰国きこくし、彼女かのじょとよくたインドけいのハリマという女性じょせい結婚けっこんして、このアルバムにもHalemaというタイトルのゆったりした甘美かんびきょくおさめている。いままでのすべてをフランスにいてきてれたのか、それとももうどうでもよくなったのか。マストのうえあぶなっかしくつベイカーの表情ひょうじょうはよくえない。

こののちはアーソとともにかつての間男まおとこアート・ペッパーと華麗かれい競演きょうえんたすなど、音楽おんがくだけいていると好調こうちょうなようだが、薬物やくぶつ乱用らんようがますますひどくなる。フィラデルフィアでのライヴの休憩きゅうけいちゅう楽屋がくやでベイカーとアーソがキめていると、私服しふく警官けいかんきゅうあらわれたので、アーソはひかりはやさでトイレへとはしりヘロインをながしたものの、テナーサックスのケースのなかにひとふくろはいっていたのをわすれており、ベイカーもくるまなかにマリファナのお徳用とくようパックをれたままにしていたため、あえなくにんとも御用ごようとなるというお茶目ちゃめ逮捕たいほげきもあった。

トイレで失神しっしんしてライヴにおくれたり、セッションの最中さいちゅうたり、挙句あげくてに麻薬まやくかねしさに自分じぶんのレコードを倉庫そうこからぬすんでハーレムでるまでになる。すうにわたる逮捕たいほ服役ふくえきののち、国内こくないでの仕事しごとがなさぎてヨーロッパへげた。

ヨーロッパ

ヨーロッパ各地かくちでの公演こうえんは、なぜかどれも好評こうひょうはくした。とくにイタリアでの歓迎かんげいぶりはすさまじく、かれはスターとしてルチオ・フルチ監督かんとく青春せいしゅん映画えいがた。フルチはいまでこそエグいゾンビ映画えいが巨匠きょしょうとされているが、美貌びぼう俳優はいゆうそろえてきれいなのをったりもしていた。かれはアメリカじんミュージシャン・チェットというそのまんまの役名やくめいで、パーティーの最中さいちゅう浴槽よくそうそべって居眠いねむりしたり、木陰こかげおんなとキスしてかたいて「ア~リヴェデルチ~♪」とうたったりといつもの得意とくいわざ披露ひろうしている。ベイカーの外見がいけん監督かんとくのお眼鏡めがねにかなったわけであるが、演技えんぎができないのもすぐバレたのだろう。

イタリアで共演きょうえんしたミュージシャンのなかにあのベニート・ムッソリーニ息子むすこでピアニストのロマーノ・ムッソリーニがおり、ベイカーはかれに「なあ、おまえ親父おやじさあ、」とはなしかけて周囲しゅういこおりつかせた。しずまりかえったなかでベイカーは「こまったやつだよなあ」とのんきにつづけた。軍隊ぐんたいはいったのは終戦しゅうせんこうとはいえ、いちおうその時期じききたのにこれである。わかぎわにはよせばいいのに「なあ、親父おやじのこといてごめんな」とったらしい。

そんなほのぼのエピソードのうらで、ベイカーは自分じぶん使つかうためにヘロイン中毒ちゅうどく治療ちりょうやくを「だい用品ようひん」としてドイツからイタリアへ密輸みつゆしまくっており、1961ねんには禁固刑きんこけいけている。とはいえVIP待遇たいぐうだったらしく、出所しゅっしょ収録しゅうろくしたアルバム『チェット・イズ・バック!』がむかつくほどに絶好調ぜっこうちょうなのである。ベイカーが刑務所けいむしょなかかんがえたきょく他人たにんがイタリアをつけたChetty's Lullabyは、息子むすこチェズニー・アフターブ・ベイカー(ミドルネームはハリマのくに言葉ことばで「太陽たいよう」)にあてた子守こもりうたで、「おまえがいなくてさびしいよ、おさまがのぼったらキスしてあげるよ」とむねせまこえうたっている。真面目まじめ育児いくじなどしているはずもないけれど。晩年ばんねんのインタヴューでベイカーはこのはじめての息子むすこについて「歌声うたごえのきれいなだった」ととおをしてべている。

イタリアでの悪質あくしつ密輸みつゆ服役ふくえきがヨーロッパじゅうにわたり、そのあとのパリをはじめあちこちでつめたくあしらわれて、ベイカーは仕方しかたなく帰国きこくめる。

もっと中庸ちゅうようなジャズアルバム

帰国きこくのチェット・ベイカーは、おおすぎる前科ぜんか問題もんだいとなって酒場さかばでの演奏えんそう許可きょかしょうをはくだつされたうえ、ヨーロッパ滞在たいざいちゅう浮気うわきしていた二十歳はたちそこそこのイギリスむすめ、キャロルとのあいだ子供こどもができてしまっており、かなりまずい状況じょうきょうたされていた。場所ばしょもなく、むかしいをあたってもみなことわられた。そんななかめてもいいとってくれたのがむかしにヤクちゅう治療ちりょう病院びょういんいちっただけのタッド・ダメロンで、ほっとしたベイカーが妻子さいしれて「あっ、ダメロンさんチーッス」とあがりこんだところ、べつおとこかれっていた。複数ふくすう音楽おんがく出版しゅっぱんしゃ経営けいえいし、ダメロンをはじめおおくのヤクちゅうのミュージシャンをものにしていたリチャード・カーペンターであった。カーペンターズのあにほう同姓どうせい同名どうめいだがちがう。かれについてもおもうところはあるがいまちがう。家族かぞくよりもむしろヘロインのためになんとしてでもかせぎたかったベイカーは契約けいやくしょ署名しょめいし、カーペンターの奴隷どれいとなった。ベイカーの玉石混交ぎょくせきこんこうの、ちゃんと整理せいりするのが不可能ふかのうちか膨大ぼうだいでめちゃくちゃなディスコグラフィはほとんどカーペンターのせいである。

そんななかでもウェルメイドな作品さくひんまれるもので、帰国きこくだいいちさく銘打めいうたれた『もっと重要じゅうようなジャズアルバム1964/65』はわりにきごたえがあるが、おおげさな題名だいめいのせいもあってきらひとおおい。えないギリギリの角度かくどまでせいいっぱいくちびるゆがめてわらっているジャケット写真しゃしん不評ふひょうで、ただこれは「妻子さいしがいるんだ……」と懇願こんがんしているようにえなくもない。しかし全然ぜんぜんれなかった。

収録しゅうろくきょくのうち4きょくのアレンジをダメロンがしているとクレジットされているが、アレンジのみならず本当ほんとう作曲さっきょくしゃかれで、著作ちょさくけんをカーペンターにられているのである。全曲ぜんきょく参加さんかしているフィル・アーソもまたカーペンターの犠牲ぎせいしゃである。

特筆とくひつすべきはベイカーがトランペットではなく、よりおとやわらかいフリューゲルホルンを使つかっていることで、これは宗旨しゅうしえしたわけではなく、ヘロインしさにトランペットをしつれたからだ。ベイカーがフリューゲルホルンをいているときはもれなくかなりの苦境くきょうにあった時期じきていい。しつれた以外いがいにも、はやくヘロインをいにきたくてもそぞろなあまりわすれたこともすうあり、いずれの場合ばあいもベイカーは「ぬすまれた」と主張しゅちょうしている。

しぶみのした歌唱かしょう

おなじく1965ねんの『ベイカーズ・ホリデイ』でもトランペットをヘロインにられてフリューゲルホルンを使つかっている。ビリー・ホリデイのファンであるベイカーが彼女かのじょあいしたきょく自分じぶんなりにうたったアルバムで、これも出来できわるくないのにれなかった。6きょくのWhen Your Lover Has Goneなんてシナトラとはわないまでもなかなかの貫録かんろくである。ベイカーのこえとし相応そうおうしぶみときがくわわったとはいえないだろうか。収録しゅうろくにはあわててヘロインちにくにしても。

どんぞこ、そして再生さいせい

1966ねんの8がつ深夜しんやサンフランシスコで、チェット・ベイカーは暴漢ぼうかんおそわれ、前歯まえばられてミュージシャンとして致命ちめいてき状況じょうきょうおちいる。真夏まなつでも真冬まふゆでも禁断症状きんだんしょうじょう身体しんたいふるわせ、つなぎのマリファナをそれ自体じたいアウトであることもわすれて必死ひっしいながら、直立ちょくりつ姿勢しせいでうつむいて路地ろじうらでいつまでもっているベイカーの姿すがたは、ヘロインの売人ばいにんたちから「エンピツくん」とばれしたしまれていたはずなのだが、なにがあったのだろうか。

ベイカー自身じしん最初さいしょのうち、「ただタクシーにろうとしただけなのに、いきなり5にん黒人こくじんたちにかこまれてたいじゅうをなぐられた。くるまっていた5,6にん白人はくじんたすけをもとめたが無視むしされ、結局けっきょく2人ふたりわか黒人こくじんたすけられた」とったが、何人なんにんかにかえはなすうちに加害かがいしゃ人数にんずうが10にん以上いじょうえたので、いまいちしんじてもらえなくなった。まずいとおもったのかやがて「前日ぜんじつホテルでヤクの売人ばいにんさからってかねはらわなかったから、仕返しかえしに5にんおとこをさしむけたんだろう」とはじめた。のちにかれ半生はんせいがドキュメンタリー映画えいがされたさいには、ハードボイルドものの探偵たんていさながらにヤクザの気配けはい事前じぜん察知さっちし、拳銃けんじゅうかたちにしてポケットにみカモフラージュする場面ばめんくわえている。

ベイカーにしのびよるヤクザのかげ……

「たくさんの黒人こくじんなぐられ、たくさんの白人はくじん見捨みすてられ、すうにん黒人こくじんたすけられた」というのは下手へたつくばなしではあるが、わかころから黒人こくじんミュージシャンたちにさんざんバカにされ、アメリカやヨーロッパのおも観客かんきゃくだったはずの白人はくじんたちには薬物やくぶつ乱用らんようがバレたとたんにのひらをかえされ、タッド・ダメロンとカーペンター(二人ふたりとも黒人こくじん)になにはともあれすくわれた、というベイカーのじつ人生じんせい奇妙きみょう符合ふごうしていて興味深きょうみぶかい。

いずれにしてもボコボコにされたのは事実じじつだし、理由りゆうはヘロインがらみで相手あいてはヤクザだろうし、前歯まえば完全かんぜんれてトランペッターとしても歌手かしゅとしてもわっていた。おそわれたすぐあとにライヴがひかえていて、いちおうこうとしたようだが、みたいなおとさえせなかった。その時点じてんでキャロルとのあいだ息子むすこにんいて、むすめまれたばかりだった。こうしてチェット・ベイカーは生活せいかつ保護ほご受給じゅきゅうしゃになった。ウィキペディアなどには「ガソリンスタンドはたらいていた」とあるが、実際じっさいのところにちともたなかった。かれがのちのインタビューで「ほぼ年間ねんかん毎日まいにちはたらいた」とこたえているが、家族かぞく全員ぜんいんから否定ひていされている。生活せいかつ保護ほごだけで家族かぞくにんがやっていけたとはおもえないのだが、この空白くうはく期間きかんなにをしていつないでいたのかはだれかたらず、一切いっさいなぞである。

ベイカーがミュージシャン以外いがいなにもできないことにづいた家族かぞくのすすめで、かれつくってふたたびトランペットにいどむようになる。ラリった状態じょうたいでトランペットにあぶらをさそうとして間違まちがえて安定あんていざい注入ちゅうにゅうしてこわすなどおちゃをやりつつも、かれなりに懸命けんめい練習れんしゅうはげんだ。そのうちおとせるようになり、その状態じょうたい収録しゅうろくした『アルバーツ・ハウス』(1969)は失笑しっしょうするのさえはばかられる出来できで、弱々よわよわしいだけでなく、心配しんぱいになるくらいなが不自然ふしぜんあいだがあるが、最低さいていではない。翌年よくねんろくられた『ブラッド・チェット&ティアーズ』はそうかもしれない。ブラスロックバンドのヒットきょくのカヴァーしゅうで、ジャズロックの時代じだいだし自分じぶんもこのくらいは、というベイカーのせいいっぱいの妥協だきょうだったかもしれないが。

ライヴもすこしずつはじめ、ゾンビかガイコツみたいな容貌ようぼう観客かんきゃくおどろかせる。40だいなのにかなりけこみ、ふかいシワがびっしりきざまれたゴツゴツの顔面がんめんにつやつやの黒目くろめがついていて、カニみたいでもある。

演奏えんそうしつはともかく復帰ふっきたしてギャラをにできるようになってきたベイカーは、家族かぞくのために復帰ふっきこころざしたはずが、家族かぞく老母ろうぼ実家じっかのこして浮気うわきするようになる。

二人ふたり愛人あいじん

再起さいきしてから晩年ばんねんいたるまでなが関係かんけいったのはにんで、ドラマーのダイアン・バブラのほか、やがて歌手かしゅのルース・ヤングともうようになる。ダイアン・バブラがじてベイカーのがくにキスしているところと、ルース・ヤングが椅子いすこしかけたベイカーのひざ身体しんたいをあずけ、うっとりとつめっているところをうつした、どちらもなかなか感動かんどうてき写真しゃしんがあるが、両方りょうほう浮気うわきである。彼女かのじょらのおかげでおとことしての自信じしんもどしたのか、わかころよりさらにピチピチのサイズのしまのシャツに、あざやかなあおいビロードのパンツというあく趣味しゅみ海賊かいぞくみたいないでたちでステージにつようにもなる。

こういていくといことのようなもしてくるが、二人ふたり愛人あいじんはベイカーによる家庭かていない暴力ぼうりょくがあったともべている。おそろしいのが、ダイアン・バブラがかれ嫌気いやけがさして部屋へやからしても、いつのにか室内しつないもどっているというのだ。いつのころからか、チェット・ベイカーはあめどいなどをつたってかべのぼまどからはいわざ会得えとくしていたようなのである。こうなると、ミュージシャンを廃業はいぎょうしていた期間きかんにどういつないできたかのなぞこたえがちょっとえてくる。

ベイカーとルース・ヤングはなかばきょう依存いぞんみたいなことになっていて、ドイツじんてつきん奏者そうしゃヴォルフガング・ラッカーシュミットは、ヤングが「なんでお風呂ふろ石鹸せっけんけちゃうの!勿体もったいないでしょ!」とベイカーをしかり、ガイコツおじさんが「だってなんかつまんねーんだもん……」とふてくされている現場げんば目撃もくげきし、「え、オレこれからこんなやつと一緒いっしょにやるの?」とおもったがセッションしてみると案外あんがいよかったのでそのかいほど共演きょうえんしている。

ベイカーは70年代ねんだい後半こうはんまでにはハンデを克服こくふくしてなかなかの演奏えんそう技術ぎじゅつにつけており、こえもかすれたとはいえまだうつくしかった。1974ねんにジェリー・マリガンと共演きょうえんしたカーネギー・ホールでのコンサートでは、マリガンのもののようないながら、抑制よくせいいたかんじのいい演奏えんそうをしている。オランダ歌手かしゅレイチェル・グールドとんだ1979ねんの『オール・ブルース』ではベイカーはトランペットのみでうたはレイチェルにまかせているが、彼女かのじょこえがベイカーのとていて、かれ貧困ひんこん麻薬まやくをもちくずさなければられていたかもしれないふかみがある。

1985ねんにダイアン・バブラがかれのもとをってからピアニストのポール・ブレとんで録音ろくおんした『ダイアン』がめいばんとされているが、ベイカーの演奏えんそうはあまりに繊細せんさいで、いつみょう方向ほうこうにそれていくかからないあやうさがあって、ひびれたガラス細工ざいくをこわごわているようだ。

前年ぜんねん来日らいにち公演こうえん人気にんきがあり、ベイカーがこのときヘロインを使つかわずに治療ちりょうやくのメタドンでつよ意志いしせた、と演奏えんそう以外いがいてん評価ひょうかされることもあるが、ベイカーは事前じぜん日本にっぽん麻薬まやくまりのきびしさをっていたし、メタドンもかれがヨーロッパでハマった「だい用品ようひん」とおなじくつよくすりにはわりなく、むしろヘロインより依存いぞんせいたかいという意見いけんもある。ちなみに帰国きこくはまたヘロインをはじめ、最後さいごのほうはてる場所ばしょがなくなって陰嚢ふぐりしたりしている。

1988ねん5がつ深夜しんやアムステルダム歩道ほどううえたおれてんでいるおとこ発見はっけんされ、かなりってからチェット・ベイカーだと確認かくにんされた。まっていたホテルの部屋へやまどからちたものとされたが、そのホテルが麻薬まやく売買ばいばい横行おうこうする治安ちあんわるいジーダイク地区ちくにほどちかく、中毒ちゅうどくしゃ麻薬まやくつためだけにまることがおお場所ばしょで、警官けいかんは「あーまたかよ」とおもっていつもとおりのペースで捜査そうさをしていたのである。ベイカーがまっていた部屋へやまどはわずか30センチほどしかいておらず、その時点じてん事故じこでも自殺じさつでもない、という結論けつろんになりそうなものだが、生前せいぜんスパイダーマンみたいなことをしていたために、部屋へやからなんかってかえるときにちたんじゃないすか、というはなしになり、結局けっきょく真相しんそうはうやむやのままである。日頃ひごろおこないが大事だいじなのだ。