チェット・ベイカー

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全盛期ぜんせいき肖像しょうぞう

チェット・ベイカー(Chesney Henry Baker Jr.、1929ねん12月23にち - 1988ねん5がつ13にち)はアメリカ白人はくじんジャズトランペッター、歌手かしゅ、フリューゲルホルン奏者そうしゃわかころはスタイリッシュな演奏えんそう美貌びぼうあま歌声うたごえで「ジャズかいジェームス・ディーン」ともてはやされていたが、ヘロインをめぐるトラブルでられていちすべてをうしなったあと、「ジャズかいゾンビ」として復活ふっかつした。

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きずだらけの天使てんし[編集へんしゅう]

技巧ぎこうらしたほとんど曲芸きょくげいちかながいアドリブが主体しゅたいのビ・バッブの時代じだいにあって、あまり技巧ぎこうかんじさせないシンプルな演奏えんそうながら絶大ぜつだい人気にんきほこったチェット・ベイカーは、どう時代じだい黒人こくじんミュージシャンからひどく敵視てきしされていた。さらに、演奏えんそうスタイルのちがいにもかかわらず「ビ・バップのちち」チャーリー・「バード」・パーカーにかわいがられ、とにかくハンサムで女性じょせいファンもおおかったことで、パーカーに心酔しんすいわかくしてすでにハゲきざしがはじめていたマイルズ・デイヴィスからは蛇蝎だかつのごとくきらわれており、1954ねん共演きょうえんしたさいには終始しゅうしシカトされてステージのすみふるえていた。マイルズにしてみればベイカーは白人はくじんであるというだけではじめからすべてにめぐまれた目障めざわりなガキにえた。

ただ実際じっさいのところ、裕福ゆうふくいえまれジュリアード音楽おんがくいんたマイルズとくらべて、ベイカーは元々もともとそんなにおおくのものをっているわけではなかった。オクラホマしゅうのド田舎いなかに、地元じもとのカントリーバンドのギターきの息子むすことして、だい恐慌きょうこうとしふゆまれた。ほどなくして失職しっしょくした父親ちちおやって母子ぼしなぐるようになり、母親ははおやはひたすら息子むすこねこかわいがりして、まずしくつら日々ひびえた。

かれ母親ははおやうたをまねてうたい、母親ははおや安物やすもの雑貨ざっかてんはたらいてったお人形にんぎょういてそだった。そこに父親ちちおや突然とつぜんトロンボーンをってきた。トロンボーンはデカすぎて10さいやそこらのおさな息子むすこにはあつかえなかったので、ちち仕方しかたなくそれを返品へんぴんしてわりにトランペットをあたえたところ、夢中むちゅう練習れんしゅうした。線路せんろ沿いのたて小屋こや黒人こくじん少年しょうねん唯一ゆいいつのオモチャであるブルースハープで汽車きしゃポッポのおとそうとがんばるみたいに。

とおりでいしげられて前歯まえばけても、かれ練習れんしゅうつづけた。前歯まえばけると空気くうきりょう調節ちょうせつしにくくなる事実じじつにたんにづかなかっただけかもしれない。けたこと自体じたいにしていて、これ以降いこうくちじてわらうようになったが、これがイヤミなかんじにえてきらわれたりもしている。いちだけ油断ゆだんしてくちけてアホめんさらしているところを激写げきしゃされている。

チェット・ベイカーはろくな音楽おんがく教育きょういくけておらず、楽譜がくふめなかったが、いたものをすぐくことができた。高校こうこう吹奏楽すいそうがくではスーザのマーチをいちいただけで完璧かんぺき再現さいげんした。これが、かれてんからたほぼ唯一ゆいいつにして最大さいだいのものかもしれない。ちょっとうたがうたえたりオシャレだったりするとすぐ「おんなみたい」とからかわれる田舎いなか偏狭へんきょうさにうんざりしたベイカーは、映画えいがなかのジェームス・ディーンのように周囲しゅういすべてをうとましくおもうようになって、17さいになるとすぐ軍隊ぐんたいはいった。軍隊ぐんたいでの素行そこう最低さいていで、懲罰ちょうばつぼう常連じょうれんであり、発狂はっきょうした兵士へいしおなおりれられて、恐怖きょうふのあまり無表情むひょうじょうでうつむいてかたまっていたその姿勢しせいが、のちのステージでは「クール」とわれるようになる。

かれのスタイルは結局けっきょくのところ高校こうこう吹奏楽すいそうがく延長えんちょうにあり、シンプルなメロディをかたちからいて演奏えんそうした。セッションちゅう最初さいしょはずっとうつむいてトランペットのさきげてつっったままかないくせに、絶妙ぜつみょうなタイミングではいってきて、こざっぱりした、しかし印象いんしょうてきなフレーズを見事みごとき、ファンにはアルカイック・スマイルでおうじる。身体しんたいてき制約せいやく軍隊ぐんたいでの処世しょせいじゅつ融合ゆうごうしてまれたこの「クール」なスタイルでてき味方みかた同時どうじつくりながら、40年代ねんだいのベイカーはやす酒場さかばでの数々かずかずのセッションをこなしていった。

バードとの共演きょうえん[編集へんしゅう]

ベイカーはのちに「ハリウッドのクラブでおこなわれただい規模きぼなオーディションで、バードがロサンゼルスじゅうの40にんすトランペッターのなかからオレを名指なざししたんだ」と回想かいそうしているが、その回想かいそう名前なまえがったミュージシャンたちはそろって「オーディションなんかなかった」とっているうえに、当時とうじのプロデューサーが「メンバーをそろえてっていたら、ぎりぎりになってトランペッターもやとえと指示しじがあった」と証言しょうげんしている。つまり、土壇場どたんばになって手当てあてたり次第しだい電話でんわをかけたら、かねこまったベイカーがいたのである。

共演きょうえんさい、ベイカーはあがりぎてあきらかにしくじっている。そのうえ自分じぶんかないときはひたすらしたいてすましているのでこころないヤジもんだが、バードにはベイカーがスカしているのでなくとても緊張きんちょうしているのだとちゃんとかっており、この未熟みじゅく若造わかぞうやさしくせっした。チャーリー・パーカーは元々もともと、クスリさえやらなければ至極しごくいヤツとしてられていた。

ライヴの会場かいじょうすみにカタギとはおもえぬあやしい風体ふうたいおとこたちが陣取じんどり、終演しゅうえんすぐにバードとベイカーのもとにちかづいてきた。バードはおおきなかれらをせいし「ちな。おれ弟分おとうとぶんにはゆびいちほんれさせねえぞ。てめえらの相手あいては、このオレだっ!」ととくり、「兄貴あにきィ……」と感涙かんるいにむせぶベイカーをよそに、おとこたちをれてそそくさとえていった。おとこたちはヘロインの売人ばいにんだった。バードはヘロインをつのみならず、アンフェタミンの錠剤じょうざいをスナック感覚かんかくでぽりぽりかじ大量たいりょうウイスキーながしこむ生活せいかつすえに32さいわかさで昇天しょうてんはたにいて感化かんかされたベイカーも結局けっきょくヘロインにすようになる。

人気にんき歌手かしゅになる[編集へんしゅう]

バードの死後しご、バリトンサックス奏者そうしゃジェリー・マリガンやピアニストのラス・フリーマンといったあらたな兄貴あにきぶん出会であい、かれらの庇護ひごのもとでのびのびとした演奏えんそうができるようになっていく。安心あんしんしておおきくなったベイカーは、自分じぶんのヴォーカルをメインにしたアルバムをつくることをおもいつく。コンプレックスだったはずの「おんなみたい」なうたかたのまま、フリーマンがえらんだむかしながらのスタンダード・ナンバーをなんきょく録音ろくおんした。こうして出来上できあがった『チェットのズンドコぶし』は、ムチムチのてぃーシャツからうでをむきしにした、恍惚こうこつとした表情ひょうじょうのベイカーのセクシーショットにいろどられて1954ねん発表はっぴょうされた。ソウルフルなうたかたとするミュージシャンたちには酷評こくひょうされたが、ジャケットと耳元みみもとでささやくようなあま退廃たいはいてき歌声うたごえおんなたちにだいけしてだいヒット、やがてとおブラジルの、声量せいりょうがなくて歌手かしゅをあきらめかけていたジョアン・ジルベルトみみにもとどき、ボサノバ誕生たんじょうのきっかけともなる。成功せいこうをよくしたベイカーはおな趣向しゅこうの『チェットのドドンパ』や『チェットのソーランぶし』をし、そのりにれてうたうようになる。

ベイカーはかれこえれた何人なんにんもの女性じょせいファンのなかから毎日まいにち3、4にんえらんでホテルや自宅じたく寝室しんしつ招待しょうたいし、素人しろうとである彼女かのじょらとセッションをするようになった。浮気うわきはそれまでにもあったが、こうおおっぴらにされてはつまシャーレインは当然とうぜんたまらない。しかし彼女かのじょはここでただだまってれていることはなく、みずからもアート・ペッパーだたるミュージシャンを別室べっしつれ、素人しろうととはおもえぬながくてホットなジャムセッションをひろげた。チェット・ベイカーがファンとのみじかくせわしないギグをえて一息ひといきついていると、別室べっしつからつまいのミュージシャンとの高度こうどかつきわめて情熱じょうねつてきなプレイがこえてて、それに触発しょくはつされたベイカーがトランペットをかなぐりて、ドアしに手足てあしをフルに使つかったパーカッションや怒鳴どなごえ、すすりきなどで参加さんかする日々ひびつづいた。

クルーたちと[編集へんしゅう]

つまられてんでいたベイカーだが、リリアンというフランスおんな夢中むちゅうになり、やがて帰国きこくした彼女かのじょって1955ねんあきふねでフランスにわたる。テナーサックスのフィル・アーソらごりごりのヘロイン中毒ちゅうどくしゃかためたバンドもつれてきて長期ちょうきにわたるツアーをおこな予定よていでいたが、メンバーの一人ひとりでベイカーが勝手かってにマブダチ認定にんていしていたピアニストのディック・ツワージクがオーバードーズで急死きゅうし。ベイカーが帰国きこく直前ちょくぜんの56ねん3がつうたったEverything Happens To Meは、元々もともと失恋しつれんしたおとこが「オレにはどんなわるいことだってこってしまうんだ」となげうただが、アドリブのほとんどない哀切あいせつきわまる録音ろくおんのこっている。

ニワトリとなんとかはたかいところが

ところが、帰国きこく1956ねんの7がつにアーソらとふたたんで収録しゅうろくされた『チェット・ベイカー&クルー』は、軽快けいかいなパーカッションにはじまる、ときに陽気ようきでときにロマンチックな作品さくひんである。ジャケット写真しゃしんではみなふねうえたのしげにすわっているなかベイカーが一人ひとりマストにのぼってしており、かれかたおもうとややゾッとしないでもないが、ヘロインでラリっているのとはちがう、からっとしたあかるさがかんじられる。

ツワージクのからこのアルバムをつくるまでのあいだなにかんがかんじたのか、ベイカーはあまりしゃべらないのでなぞではあるが、かれはフランスで再会さいかいしツアーちゅう仲間なかま面倒めんどうまでてくれたたリリアンをいて帰国きこくし、彼女かのじょとよくたインドけいのハリマという女性じょせい結婚けっこんして、このアルバムにもHalemaというタイトルのゆったりした甘美かんびきょくおさめている。いままでのすべてをフランスにいてきてれたのか、それとももうどうでもよくなったのか。マストのうえあぶなっかしくつベイカーの表情ひょうじょうはよくえない。

こののちはアーソとともにかつての間男まおとこアート・ペッパーと華麗かれい競演きょうえんたすなど、音楽おんがくだけいていると好調こうちょうなようだが、薬物やくぶつ乱用らんようがますますひどくなる。フィラデルフィアでのライヴの休憩きゅうけいちゅう楽屋がくやでベイカーとアーソがキめていると、私服しふく警官けいかんきゅうあらわれたので、アーソはひかりはやさでトイレへとはしりヘロインをながしたものの、テナーサックスのケースのなかにひとふくろはいっていたのをわすれており、ベイカーもくるまなかにマリファナのお徳用とくようパックをれたままにしていたため、あえなくにんとも御用ごようとなるというお茶目ちゃめ逮捕たいほげきもあった。

トイレで失神しっしんしてライヴにおくれたり、セッションの最中さいちゅうたり、挙句あげくてに麻薬まやくかねしさに自分じぶんのレコードを倉庫そうこからぬすんでハーレムでるまでになる。すうにわたる逮捕たいほ服役ふくえきののち、国内こくないでの仕事しごとがなさぎてヨーロッパへげた。

ヨーロッパ[編集へんしゅう]

ヨーロッパ各地かくちでの公演こうえんは、なぜかどれも好評こうひょうはくした。とくにイタリアでの歓迎かんげいぶりはすさまじく、かれはスターとしてルチオ・フルチ監督かんとく青春せいしゅん映画えいがた。フルチはいまでこそエグいゾンビ映画えいが巨匠きょしょうとされているが、美貌びぼう俳優はいゆうそろえてきれいなのをったりもしていた。かれはアメリカじんミュージシャン・チェットというそのまんまの役名やくめいで、パーティーの最中さいちゅう浴槽よくそうそべって居眠いねむりしたり、木陰こかげおんなとキスしてかたいて「ア~リヴェデルチ~♪」とうたったりといつもの得意とくいわざ披露ひろうしている。ベイカーの外見がいけん監督かんとくのお眼鏡めがねにかなったわけであるが、演技えんぎができないのもすぐバレたのだろう。

イタリアで共演きょうえんしたミュージシャンのなかにあのベニート・ムッソリーニ息子むすこでピアニストのロマーノ・ムッソリーニがおり、ベイカーはかれに「なあ、おまえ親父おやじさあ、」とはなしかけて周囲しゅういこおりつかせた。しずまりかえったなかでベイカーは「こまったやつだよなあ」とのんきにつづけた。軍隊ぐんたいはいったのは終戦しゅうせんこうとはいえ、いちおうその時期じききたのにこれである。わかぎわにはよせばいいのに「なあ、親父おやじのこといてごめんな」とったらしい。

そんなほのぼのエピソードのうらで、ベイカーは自分じぶん使つかうためにヘロイン中毒ちゅうどく治療ちりょうやくを「だい用品ようひん」としてドイツからイタリアへ密輸みつゆしまくっており、1961ねんには禁固刑きんこけいけている。とはいえVIP待遇たいぐうだったらしく、出所しゅっしょ収録しゅうろくしたアルバム『チェット・イズ・バック!』はむかつくほどに絶好調ぜっこうちょうである。

もっと中庸ちゅうようなジャズアルバム[編集へんしゅう]

帰国きこくのチェット・ベイカーは、おおすぎる前科ぜんか問題もんだいとなって酒場さかばでの演奏えんそう許可きょかしょうをはくだつされたうえ、ヨーロッパ滞在たいざいちゅう浮気うわきしていた二十歳はたちそこそこのイギリスむすめ、キャロルとのあいだ子供こどもができてしまっており、かなりまずい状況じょうきょうたされていた。場所ばしょもなく、むかしいをあたってもみなことわられた。そんななかめてもいいとってくれたのがむかしにヤクちゅう治療ちりょう病院びょういんいちっただけの作曲さっきょくタッド・ダメロンで、ほっとしたベイカーが妻子さいしれて「あっ、ダメロンさんチーッス」とあがりこんだところ、べつおとこかれっていた。複数ふくすう音楽おんがく出版しゅっぱんしゃ経営けいえいし、ダメロンをはじめおおくのヤクちゅうのミュージシャンをものにしていたリチャード・カーペンターである。カーペンターズのあにほう同姓どうせい同名どうめい別人べつじんで、かれよりもさらに悪辣あくらつであった。家族かぞくよりもむしろヘロインのためになんとしてでもかせぎたかったベイカーは契約けいやくしょ署名しょめいし、カーペンターの奴隷どれいとなった。ベイカーの玉石混交ぎょくせきこんこうの、ちゃんと整理せいりするのが不可能ふかのうちか膨大ぼうだいでめちゃくちゃなディスコグラフィはほとんどカーペンターのせいである。

そんななかでもウェルメイドな作品さくひんまれるもので、帰国きこくだいいちさく銘打めいうたれた『もっと重要じゅうようなジャズアルバム1964/65』はわりにきごたえがあるが、おおげさな題名だいめいのせいもあってきらひとおおい。えないギリギリの角度かくどまでせいいっぱいくちびるゆがめてわらっているジャケット写真しゃしん不評ふひょうで、ただこれは「妻子さいしがいるんだ……」と懇願こんがんしているようにえなくもない。しかし全然ぜんぜんれなかった。

特筆とくひつすべきはベイカーがトランペットではなく、よりおとやわらかいフリューゲルホルンを使つかっていることで、これは宗旨しゅうしえしたわけではなく、ヘロインしさにトランペットをしつれたからだ。ベイカーがフリューゲルホルンをいているときはもれなくかなりの苦境くきょうにあった時期じきていい。しつれた以外いがいにも、はやくヘロインをいにきたくてもそぞろなあまりわすれたこともすうあり、いずれの場合ばあいもベイカーは「ぬすまれた」と主張しゅちょうしている。

しぶみのした歌唱かしょう

おなじく1965ねんの『ベイカーズ・ホリデイ』でもトランペットをヘロインにられてフリューゲルホルンを使つかっている。ビリー・ホリデイのファンであるベイカーが彼女かのじょあいしたきょく自分じぶんなりにうたったアルバムで、これも出来できわるくないのにれなかった。6きょくのWhen Your Lover Has Goneなんてシナトラとはわないまでもなかなかの貫録かんろくである。ベイカーのこえとし相応そうおうしぶみときがくわわったとはいえないだろうか。収録しゅうろくにはあわててヘロインちにくにしても。

どんぞこ、そして再生さいせい[編集へんしゅう]

1966ねんの8がつ深夜しんやサンフランシスコで、チェット・ベイカーは暴漢ぼうかんおそわれ、前歯まえばられてミュージシャンとして致命ちめいてき状況じょうきょうおちいる。真夏まなつでも真冬まふゆでも禁断症状きんだんしょうじょう身体しんたいふるわせ、つなぎのマリファナをそれ自体じたいアウトであることもわすれて必死ひっしいながら、直立ちょくりつ姿勢しせいでうつむいて路地ろじうらでいつまでもっているベイカーの姿すがたは、ヘロインの売人ばいにんたちから「エンピツくん」とばれしたしまれていたはずなのだが、なにがあったのだろうか。

ベイカー自身じしん最初さいしょのうち、「ヘロインをいにったわけではなくただタクシーにろうとしただけなのに、いきなり5にん黒人こくじんたちにかこまれてたいじゅうをなぐられた。くるまとおりかかった5,6にん白人はくじんたすけをもとめたが無視むしされ、結局けっきょく2人ふたりわか黒人こくじんたすけられた」とったが、何人なんにんかにかえはなすうちに加害かがいしゃ人数にんずうが10にん以上いじょうえたので、いまいちしんじてもらえなくなった。まずいとおもったのかやがて「前日ぜんじつホテルでった売人ばいにんかねはらわなかったから、仕返しかえしに5にんおとこをさしむけたんだろう」とはじめた。のちにかれ半生はんせいがドキュメンタリー映画えいがされたさいには、ハードボイルドものの探偵たんていさながらにヤクザの気配けはい事前じぜん察知さっちし、拳銃けんじゅうかたちにしてポケットにみカモフラージュする場面ばめんくわえている。

ベイカーにしのびよるヤクザのかげ……

「たくさんの黒人こくじんなぐられ、たくさんの白人はくじん見捨みすてられ、すうにん黒人こくじんたすけられた」というのは下手へたつくばなしではあるが、わかころから黒人こくじんミュージシャンたちにさんざんバカにされ、アメリカやヨーロッパのおも観客かんきゃくだったはずの白人はくじんたちには薬物やくぶつ乱用らんようがバレたとたんにのひらをかえされ、タッド・ダメロンとカーペンター(二人ふたりとも黒人こくじん)になにはともあれすくわれた、というベイカーのじつ人生じんせい奇妙きみょう符合ふごうしていて興味深きょうみぶかい。

いずれにしてもボコボコにされたのは事実じじつだし、理由りゆうはヘロインがらみで相手あいてはヤクザだろうし、前歯まえば完全かんぜんれてトランペッターとしても歌手かしゅとしてもわっていた。おそわれたすぐあとにライヴがひかえていて、いちおうこうとしたようだが、みたいなおとさえせなかった。その時点じてんでキャロルとのあいだ息子むすこにんいて、むすめまれたばかりだった。こうしてチェット・ベイカーは生活せいかつ保護ほご受給じゅきゅうしゃになった。ウィキペディアなどには「ガソリンスタンドはたらいていた」とあるが、実際じっさいのところにちともたなかった。かれがのちのインタビューで「ほぼ年間ねんかん毎日まいにちはたらいた」とこたえているが、家族かぞく全員ぜんいんから否定ひていされている。生活せいかつ保護ほごだけで家族かぞくにんがやっていけたとはおもえないのだが、この空白くうはく期間きかんなにをしていつないでいたのかはだれかたらず、一切いっさいなぞである。

ベイカーがミュージシャン以外いがいなにもできないことにづいた家族かぞくのすすめで、かれつくってふたたびトランペットにいどむようになる。ラリった状態じょうたいでトランペットにあぶらをさそうとして間違まちがえて安定あんていざい注入ちゅうにゅうしてこわすなどおちゃをやりつつも、かれなりに懸命けんめい練習れんしゅうはげんだ。そのうちおとせるようになり、ライヴもすこしずつはじめ、フルチもびっくりのゾンビみたいな容貌ようぼう観客かんきゃくおどろかせる。40だいなのにかなりけこみ、ふかいシワがびっしりきざまれたゴツゴツの顔面がんめんにつやつやの黒目くろめがついていて、カニみたいでもある。

演奏えんそうしつはともかく復帰ふっきたしてギャラをにできるようになってきたベイカーは、家族かぞくのために復帰ふっきこころざしたはずが、家族かぞく老母ろうぼ実家じっかのこして浮気うわきするようになる。

二人ふたり愛人あいじん[編集へんしゅう]

再起さいきしてから晩年ばんねんいたるまでなが関係かんけいったのはにんで、ドラマーのダイアン・バブラのほか、やがて歌手かしゅのルース・ヤングともうようになる。ダイアン・バブラがじてベイカーのがくにキスしているところと、ルース・ヤングが椅子いすこしかけたベイカーのひざ身体しんたいをあずけ、うっとりとつめっているところをうつした、どちらもなかなか感動かんどうてき写真しゃしんがあるが、両方りょうほう浮気うわきである。彼女かのじょらのおかげでおとことしての自信じしんもどしたのか、わかころよりさらにピチピチのサイズのしまのシャツに、あざやかなあおいビロードのパンツというあく趣味しゅみ海賊かいぞくみたいないでたちでステージにつようにもなる。

こういていくといことのようなもしてくるが、二人ふたり愛人あいじんはベイカーによる家庭かていない暴力ぼうりょくがあったともべている。おそろしいのが、ダイアン・バブラがかれ嫌気いやけがさして部屋へやからしても、いつのにか室内しつないもどっているというのだ。いつのころからか、チェット・ベイカーはあめどいなどをつたってかべのぼまどからはいわざ会得えとくしていたようなのである。こうなると、ミュージシャンを廃業はいぎょうしていた期間きかんにどういつないできたかのなぞこたえがちょっとえてくる。

ベイカーとルース・ヤングはなかばきょう依存いぞんみたいなことになっていて、ドイツじんてつきん奏者そうしゃヴォルフガング・ラッカーシュミットは、ヤングに「なんでお風呂ふろ石鹸せっけんけちゃうの!勿体もったいないでしょ!」と子供こどものようなしかられかたをしたベイカーが「だってなんかつまんねーんだもん……」とふてくされている現場げんば目撃もくげきし、「え、オレこれからこんなやつと一緒いっしょにやるの?」とおもったがセッションしてみると案外あんがいよかったのでそのかいほど共演きょうえんしている。

ベイカーは70年代ねんだい後半こうはんまでにはハンデを克服こくふくしてなかなかの演奏えんそう技術ぎじゅつにつけており、こえもかすれたとはいえまだうつくしかった。

前年ぜんねん来日らいにち公演こうえん人気にんきがあり、ベイカーがこのときヘロインを使つかわずに治療ちりょうやくのメタドンでつよ意志いしせた、と演奏えんそう以外いがいてん評価ひょうかされることもあるが、ベイカーは事前じぜん日本にっぽん麻薬まやくまりのきびしさをっていたし、メタドンもかれがヨーロッパでハマった「だい用品ようひん」とおなじくつよくすりにはわりなく、むしろヘロインより依存いぞんせいたかいという意見いけんもある。ちなみに帰国きこくはまたヘロインをはじめ、最後さいごのほうはてる場所ばしょがなくなって陰嚢ふぐり注射ちゅうしゃしているのを目撃もくげきされている。

[編集へんしゅう]

1988ねん5がつ深夜しんやアムステルダム歩道ほどううえたおれてんでいるおとこ発見はっけんされ、かなりってからチェット・ベイカーだと確認かくにんされた。まっていたホテルの部屋へやまどからちたものとされたが、麻薬まやく売買ばいばい横行おうこうする治安ちあんわるいジーダイク地区ちくにほどちかく、中毒ちゅうどくしゃ麻薬まやくつためだけにまることがおおいホテルで、警官けいかんは「あーまたかよ」とおもっていつもとおりのペースで捜査そうさをしていたのである。ベイカーがまっていた部屋へやまどはわずか30センチほどしかいておらず、その時点じてん事故じこでも自殺じさつでもない、という結論けつろんになりそうなものだが、生前せいぜんスパイダーマンみたいなことをしていたために、部屋へやからなんかってかえるときにちたんじゃないすか、というはなしになり、結局けっきょく真相しんそうはうやむやになってしまった。日頃ひごろおこないが大事だいじなのだ。