ウサーマ・ビン・ラーディン

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ウサーマ・ビン=ラーディンから転送てんそう
ウサーマ・ビン・ラディン
أسامة بن لادن
1997ねんころのウサーマ・ビン・ラディン
アルカーイダ初代しょだいアミール司令しれいかん
任期にんき
1988ねん – 2011ねん5月2にち
前任ぜんにんしゃし(初代しょだい
後任こうにんしゃアイマン・ザワーヒリー
マクタブ・アル=ヒダマト創立そうりつしゃ
任期にんき
1984ねん – 1988ねん
前任ぜんにんしゃし(初代しょだい
後任こうにんしゃ廃止はいし(1だいかぎり)
個人こじん情報じょうほう
生誕せいたんウサーマ・ビン・ムハンマド・ビン・アワド・ビン・ラディン
(1957-03-10) 1957ねん3がつ10日とおか
サウジアラビアの旗 サウジアラビアリヤド
死没しぼつ (2011-05-02) 2011ねん5月2にち(54さいぼつ
パキスタンの旗 パキスタンアボッターバード
死因しいん銃殺じゅうさつ
国籍こくせきサウジアラビアの旗 サウジアラビア1957ねん - 1994ねん
国籍こくせき1994ねん - 2011ねん[1]
身長しんちょう1.93–1.98 m[6]
配偶はいぐうしゃNajwa Ghanhem
Khadijah Sharif
Khairiah Sabar
Siham Sabar
Amal Ahmed al-Sadah
子供こども20 - 26にん
宗教しゅうきょうイスラム教いすらむきょうワッハーブ / サラフィー主義しゅぎ[2][3][4][5]
兵役へいえき経験けいけん
所属しょぞくこく マクタブ・アル=ヒダマト1984ねん - 1988ねん
アルカーイダ1988ねん - 2011ねん
ぐんれき1984ねん2011ねん5月2にち
最終さいしゅう階級かいきゅうアルカーイダアミール
戦闘せんとうアフガニスタン紛争ふんそう

たいテロ戦争せんそう

ウサーマ・ビン・ムハンマド・ビン・アワド・ビン・ラディンأسامة بن محمد بن عوض بن لادن、Usāma bin Muhammad bin ʿAwad bin Lādin,[7][8] 1957ねん3がつ10日とおか - 2011ねん5月2にち)は、サウジアラビア出身しゅっしんイスラム過激かげきテロリスト

サウジアラビア有数ゆうすう富豪ふごう一族いちぞくまれたが、1994ねんにサウジアラビア国籍こくせき剥奪はくだつされ、以降いこう国籍こくせきであった。1988ねん国際こくさいテロ組織そしきアルカーイダ」を設立せつりつしてその初代しょだいアミール司令しれいかん)となり、以降いこうアメリカ同時どうじ多発たはつテロ事件じけんをはじめとする数々かずかずテロ事件じけん首謀しゅぼうしたことでられる[9]連邦れんぽう捜査そうさきょく(FBI)におけるさい重要じゅうよう指名しめい手配てはいもの1人ひとりであった。

2011ねん5がつパキスタンアボッターバードにおいてアメリカ海軍かいぐん特殊とくしゅせん開発かいはつグループおこなった軍事ぐんじ作戦さくせんによって殺害さつがいされた

名前なまえ表記ひょうき[編集へんしゅう]

日本語にほんごでは、ウサマ・ビン・ラーデン外務省がいむしょう[10]オサマ・ビンラディンNHKテレビ朝日てれびあさひなど)、ウサマ・ビンラディン日本にほんテレビTBSフジテレビテレビ東京てれびとうきょうなど)、ウサマ・ビンラーディン読売新聞よみうりしんぶんなど)などとも表記ひょうきされる[11]

フスハーでのフルネームは「ウサーマ・イブン・ムハンマド・イブン・アワド・イブン・ラーディン」であり、「ビン・ラーディン(=ラーディンの息子むすこのアワドの息子むすこムハンマドの息子むすこウサーマ」を意味いみする[7][8]

「ムハンマド」はちちであるムハンマド・ビン・ラーディンを、「アワド」は祖父そふであるアワド・ビン・アブード・ビン・ラーディンをしめしているが、「ラーディン」は祖父そふではなく、祖父そふアブードのちちであるラーディン・アリー・アル=カフターニー(Laden Ali al-Qahtani)をしめすものである[12]

ウサーマの息子むすこウマル・ビン・ラーディン英語えいごばんによれば、一族いちぞくがれる部族ぶぞくめい由来ゆらい家名かめい(ニスバ)は「アル=カフターニー (アラビア: القحطاني‎, āl-Qaḥṭānī)」であるが、ウサーマのちちムハンマドが正式せいしきにこのニスバを使用しようすることはなかった[13]

経歴けいれき[編集へんしゅう]

出自しゅつじ[編集へんしゅう]

ドバイにあるサウディ・ビンラディン・グループのオフィス

ムハンマド・ビン・ラーディンは22かい結婚けっこんをし54にん子供こどももうけることになったが、妻子さいし大半たいはんは40だいぎて事業じぎょう拡大かくだいしてからの子供こどもたちである。また、最初さいしょつま以外いがい短期間たんきかん離婚りこんしている。ウサーマ・ビン・ラーディンはムハンマドの17番目ばんめであった。ビン・ラーディン一族いちぞくは50おくドル以上いじょう資本しほん所有しょゆうしており、そのうち、2おく5000まんドル以上いじょうがウサーマに分配ぶんぱいされていた[14][ちゅう 1]

出生しゅっしょうから青年せいねんまで[編集へんしゅう]

ウサーマ・ビン・ラーディンは、サウジアラビアのリヤドで、建設けんせつぎょうざいしたイエメン出身しゅっしんちちムハンマド・ビン・ラーディンと、その10番目ばんめつまでシリア出身しゅっしんははアリア・ガーネム(ハミーダ・アル=アッタス英語えいごばん)のあいだまれた[15][16]生年月日せいねんがっぴは、ビン・ラーディン本人ほんにんが1998ねんのインタビューのなかで1957ねん3がつ10にちであるとかたっている[16][17]

ちちムハンマドはビン・ラーディンがまれた直後ちょくごにガーネムと離婚りこんし、彼女かのじょはそのムハンマド・アル=アッタスと再婚さいこんしてべつの4にんもうけたため、幼少ようしょうのビン・ラーディンは実父じっぷはなれて3にん異父いふおとうと1人ひとり異父いふいもうととも生活せいかつすることになった[16]。ビン・ラーディンは敬虔けいけんスンナムスリムとしてそだてられ[18]、1968ねんから1976ねんにかけてはジッダ世俗せぞくてきなエリートこう教育きょういくけた[16][19]。その、ジッダのキング・アブドゥルアズィーズ大学だいがく進学しんがくして経済けいざいがく経営けいえいがくまなんだ[20]。ビン・ラーディンが1979ねん土木どぼく工学こうがく学位がくい取得しゅとくしたという報告ほうこく[21]、1981ねん行政ぎょうせいがく学位がくい取得しゅとくしたという報告ほうこく存在そんざいする一方いっぽう[22]学位がくい取得しゅとくするまえ大学だいがくをやめたとする報告ほうこく存在そんざいする[23]

大学だいがく時代じだい、ビン・ラーディンの関心かんしん宗教しゅうきょうかい、「クルアーンおよびジハードの解釈かいしゃく」と慈善じぜん活動かつどう精力せいりょくてき参加さんかしたほか[24]詩作しさくにも興味きょうみしめ[25]バーナード・モントゴメリーシャルル・ド・ゴール著作ちょさくこのんでんだとわれている[26]思想しそうめんでは、ムスリム同胞どうほうだん加入かにゅうし、サイイド・クトゥブ思想しそうけられた。さらに大学だいがく教鞭きょうべんをとっていたムスリム同胞どうほうだんアブドゥッラー・アッザームおしえをけ、あおぐようになった(のちにビン・ラーディンは、自身じしん影響えいきょうあたえた人物じんぶつとして、クトゥブとアッザームのげている)。ビン・ラーディンは厳格げんかくサラフィー主義しゅぎから、音楽おんがく映画えいがなどにたいして寛容かんようであった。その一方いっぽうで、競走きょうそうおおきな関心かんしんせていたほか、サッカーをこのんでプレーし、英国えいこくのクラブであるアーセナルFCのファンでもあった[26]

アフガニスタン紛争ふんそうへの参加さんか(1979–1989ねん[編集へんしゅう]

ソビエト連邦れんぽうアフガニスタンに進攻しんこうした1979ねん、ビン・ラーディンはサウジアラビアをはなれてパキスタンやアフガニスタンをはじめておとずれ、ソ連それんぐん抵抗ていこうするムジャーヒディーン支援しえんするための活動かつどうはじめた[27]。のちにビン・ラーディンは当時とうじ心境しんきょう回想かいそうし、「アフガニスタンの人々ひとびとたいする公正こうせいおこないに憤慨ふんがいおぼえた」とかたっている[28]

1979ねんから1984ねんまでの期間きかん、ビン・ラーディンの支援しえん活動かつどう募金ぼきん中心ちゅうしんであり、サウジアラビアなどの湾岸わんがん諸国しょこく活動かつどう拠点きょてんとしてアフガニスタンのムジャーヒディーンに資金しきん建設けんせつ機械きかい提供ていきょうしていた[29]。ビン・ラーディンはその、パキスタンのペシャーワル活動かつどうしていた大学だいがく時代じだい恩師おんしアブドゥッラー・アッザーム合流ごうりゅうした。1984ねんまでにアッザームとともに「マクタブ・アル=ヒダマト(MAK)」を組織そしきして、外国がいこくからムジャーヒディーンの新兵しんぺいをリクルートしてアフガニスタンにおく活動かつどうはじめた[30][31]。1984ねんにはみずから「ベイトゥルアンサール(支援しえんしゃたちのかん)」という施設しせつをペシャワールに建設けんせつし、以降いこう1986ねんまでパキスタンを拠点きょてんとして活動かつどうした[29]。ビン・ラーディンがアイマン・ザワーヒリーアブー・ムスアブ・アッ=ザルカーウィーオマル・アブドッラフマーンなどと関係かんけい構築こうちくしたのもこの時期じきであった。

1986ねん以降いこう、ビン・ラーディンは活動かつどう拠点きょてんをアフガニスタン国内こくないうつした[29]。1986ねんから1987ねんにかけ、ビン・ラーディンはアフガニスタン東部とうぶむらジャジ (Jaji)近郊きんこうみずからの基地きち建設けんせつし、すうじゅうにんのアラブじんムジャーヒディーンを指揮しきいた[32]。この基地きち拠点きょてんとして、ビン・ラーディンとその軍団ぐんだんソ連それんぐん交戦こうせんし、ビン・ラーディン自身じしんいち兵士へいしとして戦闘せんとう参加さんかした。とくに、1987ねんジャジのたたか英語えいごばんではソ連それんぐん勝利しょうりしたことになり(実際じっさいには、ソ連それんぐん死者ししゃめいたいしゲリラがわ死者ししゃ120めいという惨状さんじょうであった)、アラブけい主要しゅようメディアではこの戦果せんか華々はなばなしく報道ほうどうされ、ビン・ラーディンの知名度ちめいどたかまった[32]。ビン・ラーディンがアラブ世界せかい一部いちぶ英雄えいゆうされるようになったのもこの時期じきであった[33]

1979ねんから1989ねんにかけ、アメリカとサウジアラビアはパキスタンのぐん統合とうごう情報じょうほうきょく (ISI)をつうじ、アフガニスタンでたたかうムジャーヒディーンへ400おくドル相当そうとう援助えんじょおこなった(サイクロン作戦さくせん[34]。ジャーナリストのジェイソン・バーク英語えいごばんによれば、ビン・ラーディンが設立せつりつしたMAKもアメリカから提供ていきょうされた資金しきんっていた[35]。ビン・ラーディンはまた、ISI長官ちょうかんハミド・グル英語えいごばん中将ちゅうじょうい、関係かんけいふかめていた。アメリカはムジャーヒディーンに資金しきん武器ぶき提供ていきょうしたが、実際じっさい軍事ぐんじ訓練くんれんはISIとパキスタン陸軍りくぐん全面ぜんめんてき担当たんとうしていた[36]

アルカーイダの結成けっせい[編集へんしゅう]

1988ねん、ビン・ラーディンはMAKから独立どくりつしたしん組織そしきアルカーイダ」をげた。ローレンス・ライト調査ちょうさによれば、アルカーイダは1988ねん8がつ11にちに、ビン・ラーディン、アッザーム、およびジハードだん幹部かんぶすうめいによる合意ごういによって結成けっせいされ、その目的もくてきはビン・ラーディンの資金しきんとジハードだん専門せんもん知識ちしきわせることで、ソ連それんぐんがアフガニスタンから撤退てったいしたのち世界せかいべつ地域ちいきでジハードを継続けいぞくすることにあった[37]

1989ねん2がつソ連それんぐんのアフガニスタンからの撤退てったい完了かんりょうしたのち、ビン・ラーディンはサウジアラビアに帰国きこくした[38]。サウジアラビアでビン・ラーディンとその軍団ぐんだんは、ソ連それんという「強大きょうだいちょう大国たいこく」をたおした英雄えいゆうとしてあつかわれた[30][39]帰国きこくしたのちのビンラーディンは一族いちぞく建設けんせつ会社かいしゃサウディ・ビンラディン・グループ)を手伝てつだったが、一方いっぽうでサウジアラビアの体制たいせい反抗はんこうする姿勢しせいしめしたため、当局とうきょくから警戒けいかいされた[30][38]

湾岸わんがん戦争せんそうべいぐん駐留ちゅうりゅう・サウジアラビアからの追放ついほう(1990–2000ねん[編集へんしゅう]

1990ねん8がつ2にちサッダーム・フセインイラクぐんクウェート侵攻しんこうし、サウジアラビアとの国境こっきょう到達とうたつした。サウジアラビアがイラクからの脅威きょうい直面ちょくめんするなか、ビン=ラーディンはファハド国王こくおうおよびスルターン国防こくぼうしょう会談かいだんおこない、国内こくない異教徒いきょうとアメリカぐん駐留ちゅうりゅうさせるわりに、みずからのムジャーヒディーンぐんだんによってサウジアラビアを防衛ぼうえいする計画けいかく提案ていあんした[40]。しかし、サウジアラビア王家おうけはビン・ラーディンによる提案ていあん拒絶きょぜつし、最終さいしゅうてきにはアメリカぐんのサウジアラビア駐留ちゅうりゅうみとめた[41]。1990ねん8がつ7にち、アメリカ大統領だいとうりょうジョージ・H・W・ブッシュはアメリカぐんのサウジアラビア派遣はけん発表はっぴょうし、同軍どうぐんは8がつ8にちからサウジアラビアへの展開てんかい開始かいしした[42]

ビン・ラーディンは、イスラム教徒きょうとアラビア半島はんとう常駐じょうちゅうすることは預言よげんしゃムハンマドによってきんじられていると解釈かいしゃくしており[43]メッカマディーナという2つの聖地せいちかかえるサウジアラビアに異教徒いきょうとのアメリカぐん進出しんしゅつしたことに憤慨ふんがいした[44]。それと同時どうじに、駐留ちゅうりゅうゆるしたサウジアラビア王家おうけサウード)を「背教はいきょうしゃ」として糾弾きゅうだんした[43]湾岸わんがん戦争せんそうがねとなったアメリカぐんのサウジアラビア駐留ちゅうりゅうは、ビン・ラーディンを急速きゅうそく反米はんべい活動かつどう傾倒けいとうさせていった。

1991ねん、サウジアラビア王家おうけはアメリカぐんとの同盟どうめい関係かんけいへの批判ひはんかえすビン・ラーディンを国外こくがい追放ついほうしょした[38][44]。サウジアラビアをわれたビンラーディンとその一派いっぱは、当初とうしょはアフガニスタンで亡命ぼうめい生活せいかつおくったが、1992ねんまでにスーダン移動いどうした[38][44]。アフガニスタンに滞在たいざいちゅうの1992ねん3がつから4がつにかけ、ビン・ラーディンは激化げきかするアフガニスタン内戦ないせん仲裁ちゅうさいこころみ、グルブッディーン・ヘクマティヤールたいしてのムジャーヒディーン指導しどうしゃ協力きょうりょくするようびかけていた[45]

スーダン時代じだい・アフガニスタンへの帰還きかん[編集へんしゅう]

アフガニスタンのカーブルでパキスタンじんジャーナリストのハミド・ミルからインタビューをけるビン・ラーディン(1997ねんごろ
FBI10だいさい重要じゅうよう指名しめい手配てはい

スーダンにわたったビン・ラーディンは同国どうこく政権せいけんにな民族みんぞくイスラーム戦線せんせん同盟どうめい関係かんけいきずくとともに、アルカーイダを国際こくさいてきなテロ組織そしきへと発展はってんさせた[17][44]。 1992ねん12月29にち、イエメンのアデンでアメリカぐん滞在たいざいするホテルが爆破ばくはされ、2人ふたりのオーストリアじん旅行りょこうしゃ死亡しぼうした[38]。これがビン・ラーディンが関与かんよした最初さいしょのテロ事件じけんとされている[38]。1993ねん2がつ26にち、ビン・ラーディンとの関係かんけいうたがわれるテロリストによってニューヨークで世界せかい貿易ぼうえきセンター爆破ばくは事件じけんこされ、6にん死亡しぼうした[44]。1993ねん、アメリカ政府せいふはスーダンをテロ支援しえん国家こっか指定していした[38]。1994ねん、サウジアラビア政府せいふはビン・ラーディンの国籍こくせき剥奪はくだつし、サウジアラビア国内こくないのこされたかれ財産ざいさんすべ凍結とうけつした[44]同年どうねんには、ビン・ラーディンの一族いちぞくかれとの関係かんけい断絶だんぜつした(それまでウサーマは一族いちぞく財産ざいさんから毎年まいとし1おくドルあまりをっていた)[17][44]

1996ねん5がつ、スーダンのオマル・アル=バシール政権せいけんはアメリカおよびサウジアラビアからの圧力あつりょくくっし、ビン・ラーディンを国外こくがい追放ついほうすることを決定けっていした[38]。ビン・ラーディンは亡命ぼうめいさきとしてアフガニスタンのジャラーラーバードえらび、5月18にちにチャーターでスーダンをはなれた[46]。アフガニスタンに帰還きかんしたビン・ラーディンとアルカーイダはターリバーン政権せいけん庇護ひごけ、ビン・ラーディンはターリバーンの最高さいこう指導しどうしゃムハンマド・オマル親密しんみつ関係かんけいきずいた[44][47]

1996ねん8がつ、ビン・ラーディンは最初さいしょの「ファトワー布告ふこく)」をはっし、「2つのせいなるモスクの(サウジアラビア)の占領せんりょうしゃ」であるアメリカにたいして「ジハード聖戦せいせん)」を宣言せんげんした[48]。このファトワーでビン・ラーディンは、異教徒いきょうとのアメリカぐんをアラビア半島はんとうから駆逐くちくし、占領せんりょうされている2つの聖地せいちメッカマディーナ)を解放かいほうするようぜん世界せかいのムスリムにびかけた[44]。1997ねん5がつジハードだん指導しどうしゃであったアイマン・ザワーヒリーがアフガニスタンのビン・ラーディンに合流ごうりゅうし、アメリカにたいするジハードをとも提唱ていしょうするようになった[49]

1997ねん3がつ、ビン・ラーディンはパキスタンじんジャーナリストのハミド・ミル英語えいごばんによるインタビューでアメリカはもなくちょう大国たいこくではなくなると予測よそくしてアフガニスタン、パキスタン、イラン中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくによる反米はんべい同盟どうめい提案ていあん[50]中国ちゅうごく新疆しんきょうウイグル自治じちでのテロは中国ちゅうごくとイスラム世界せかい団結だんけつすることをはばみたいCIAによるものだとして関与かんよ否定ひていした[51][52][53]

1998ねん2がつ、ビン・ラーディンとザワーヒリーは「ユダヤ・十字軍じゅうじぐんたいする聖戦せいせんのための国際こくさいイスラム戦線せんせん」を結成けっせいしたうえあらたな「ファトワー」をはっし、世界せかい各地かくちでアメリカとその同盟どうめいこく国民こくみん軍人ぐんじん民間みんかんじん区別くべつなく殺害さつがいすることが、「占領せんりょうされているアル=アクサー・モスク(エルサレム)とせいなるモスク(メッカ)を解放かいほう」するために、「ぜんムスリムにせられた義務ぎむである」と宣言せんげんした[54][55]

1998ねん8がつ7にち、アルカーイダのテロリストがタンザニアダルエスサラームケニアナイロビアメリカ大使館あめりかたいしかんをほぼどう時刻じこく爆破ばくは、12にんのアメリカじんふくむ224にん殺害さつがいした[56]。テロ事件じけん発生はっせいした1998ねん8がつ7にちは、アメリカぐんのサウジアラビア派遣はけんからちょうど8ねんであった[57]。1998ねん8がつ20日はつか、テロへの報復ほうふくとして、アメリカ大統領だいとうりょうビル・クリントンはアフガニスタンとスーダンのアルカーイダ関連かんれん施設しせつへの攻撃こうげきめいじ、トマホーク巡航じゅんこうミサイルによるばくげき実施じっしされた[58]。1999ねん6がつFBIはビン・ラーディンを大使館たいしかん爆破ばくは事件じけん容疑ようぎしゃとしてさい重要じゅうよう指名しめい手配てはいはん指定していした[58]。アメリカ政府せいふはターリバーン政権せいけんたいしビン・ラーディンとアルカーイダのわたしをもとめたが、ターリバーンはおうじなかったため、1999ねん10がつには国際こくさい連合れんごう安全あんぜん保障ほしょう理事りじかいにおいてわたしをもとめる国際こくさい連合れんごう安全あんぜん保障ほしょう理事りじかい決議けつぎ1267が採択さいたくされた[59]。ターリバーン政権せいけんはこれにもおうじず、アフガニスタンにたいする経済けいざい制裁せいさい発動はつどうされた。

2000ねん10がつ、イエメンでアルカーイダのテロリストがアメリカ海軍かいぐん駆逐くちくかん「コール」に自爆じばく攻撃こうげき仕掛しか、17にん水兵すいへい殺害さつがいした[58]。2000ねん12月、国際こくさい連合れんごう安全あんぜん保障ほしょう理事りじかい決議けつぎ1333が採択さいたくされ、ターリバーン政権せいけんたい再度さいどビン・ラーディンのわたしがもとめられた[60]

アメリカ同時どうじ多発たはつテロ事件じけん以後いご(2001–2011ねん[編集へんしゅう]

ビン・ラーディンとアイマン・ザワーヒリー(2001ねん

2001ねん9月11にちアメリカ同時どうじ多発たはつテロ事件じけん直後ちょくごから、ビン・ラーディンには首謀しゅぼうしゃ嫌疑けんぎがかけられた[61]。2001ねん9がつ16にち、ビン・ラーディンは衛星えいせいテレビ局てれびきょくアルジャジーラつうじて声明せいめい発表はっぴょうし、事件じけんへの関与かんよ否定ひていした[62]。ビン・ラーディンはこの声明せいめいなかで、「わたし攻撃こうげき実行じっこうしゃではないと強調きょうちょうしておく。今回こんかい事件じけんべつ個人こじんによって、かれ自身じしん動機どうきによって実行じっこうされたようにえる」などとべた[63]。2001ねん9がつ20日はつか、アメリカ大統領だいとうりょうジョージ・W・ブッシュは「たいテロ戦争せんそう」を宣言せんげんするとともに、アフガニスタンのターリバーン政権せいけんたいし、ビン・ラーディンをふくすべてのアルカーイダ指導しどうしゃわたすことを要求ようきゅうする最後さいご通牒つうちょうけた[61]

ターリバーン政権せいけんはビン・ラーディンらのわたしを拒否きょひし、2001ねん10がつ7にち、アメリカを中心ちゅうしんとする有志ゆうし連合れんごう諸国しょこくはアフガニスタンへの空爆くうばく開始かいしした[61]。2001ねん11月、ジャラーラーバード郊外こうがいのビン・ラーディンのかくとされる場所ばしょがアメリカぐんによるばくげきけた[64]。そのさいにアメリカぐん回収かいしゅうしたビデオテープには、ビン・ラーディンとアルカーイダ構成こうせいいんハレド・アル=ハルビ英語えいごばんとの会話かいわ記録きろくされており、会話かいわなかでビン・ラーディンは同時どうじ多発たはつテロを事前じぜんっていたことをあんみとめていた[65]。11月まつには有志ゆうし連合れんごう侵攻しんこうによってターリバーン政権せいけん崩壊ほうかいし、以降いこうビン・ラーディンの正確せいかく足取あしどりは不明ふめいとなった。

アメリカぐんが2001ねん11月に回収かいしゅうしたビデオテープのなかで、アル=ハルビ(みぎ)と会話かいわするビン・ラーディン(ひだり

2001ねん12月17にち、ビン・ラーディンがザワーヒリーとともにアフガニスタン東部とうぶナンガルハールしゅうトラボラの渓谷けいこくにある洞穴どうけつ潜伏せんぷくしているという情報じょうほうからアメリカ・イギリスドイツ北部ほくぶ同盟どうめいかくぐん捕獲ほかく作戦さくせん(トラボラのたたかい)を実施じっししたが失敗しっぱいした[ちゅう 2]。そのはビン・ラーディンはターリバーン幹部かんぶらとともにパキスタンの北西ほくせい辺境へんきょうしゅう洞窟どうくつ潜伏せんぷくしているとかんがえられていた。

2004ねん10がつ、ビン・ラーディンはあらたなビデオ声明せいめいをアルジャジーラをつうじて発表はっぴょうし、みずからが同時どうじ多発たはつテロ事件じけん関与かんよしたことをおおやけみとめた[67]。18ふんにわたるビデオ声明せいめいなかでビンラーディンは、自分じぶんが19にん実行じっこうはんにテロ攻撃こうげき指示しじしたことをみと[67][68]ワールドトレードセンターのツインタワーを標的ひょうてきとしたのは1982ねんにイスラエルがレバノンを侵略しんりゃくしたさい光景こうけいがきっかけであったと説明せつめいした[69]

2004ねん以降いこう、ビン・ラーディンが腎臓じんぞうびょうくるしみつね人工じんこう透析とうせき電子でんし機器きき必要ひつようであると報道ほうどうされ、死亡しぼうせつ浮上ふじょうした。これは、フランス地方ちほうなどがつたえたもので、ちょうチフス死亡しぼうしたとの記事きじであった。しかし、フランスのシラク大統領だいとうりょうが、「死亡しぼうしたとの情報じょうほうはない」などとし、死亡しぼうせつ否定ひていした。2008ねん11月13にち、マイケル・ヘイデン(Michael Hayden)CIA長官ちょうかん当時とうじ)は、ウサーマ・ビン・ラーディンの追跡ついせき逮捕たいほ現在げんざいでもCIAのさい優先ゆうせん事項じこうとしたうえで、潜伏せんぷくさきをアフガニスタンとパキスタンの国境こっきょう地帯ちたいトライバルエリア・FATA)ではないかという見解けんかいしめした[70]

2010ねん10月18にちCNN北大西洋きたたいせいよう条約じょうやく機構きこう当局とうきょくしゃはなしとして、ウサーマ・ビン・ラーディンが、アフガニスタン・パキスタン国境こっきょう地帯ちたい洞窟どうくつではなく、パキスタン国内こくない家屋かおくで「快適かいてきに」らしているとほうじた。どう当局とうきょくしゃは「洞窟どうくつらしているアルカーイダのメンバーはだれ一人ひとりとしていない」とべた。ビン・ラーディンらは、パキスタン情報じょうほう機関きかん地元じもと住民じゅうみん保護ほごされ、同国どうこく北西ほくせい家屋かおく居住きょじゅうしており、付近ふきんにはアイマン・ザワーヒリーんでいるとされた[71]

発見はっけん[編集へんしゅう]

2010ねん8がつごろ配下はいか連絡れんらくがかり行動こうどう分析ぶんせきからウサーマ・ビン・ラーディンの居所きょしょめられた。

2011ねん5がつ2にち米国べいこく現地げんち時間じかん5月1にち)、パキスタンにおいてバラク・オバマ大統領だいとうりょう(当時とうじ)にめいじられて米国べいこく海軍かいぐん特殊とくしゅ部隊ぶたいDEVGRUおこなったネプチューン・スピア作戦さくせんによって殺害さつがいされた。

人物じんぶつ家族かぞく[編集へんしゅう]

FBIの手配てはいしょによれば、ウサーマ・ビン・ラーディンはたかせており、身長しんちょうは193–198cm、体重たいじゅうやく73kgであり、はだオリおりブ色ぶいろひとみかみいろはブラウン、左利ひだりききであるさいにはつえ使つかうとされていた[72]死亡しぼう身長しんちょう測定そくていおこなわれ、ビン・ラーディンの身長しんちょうは6フィート4インチ (193cm)と確認かくにんされた[73]

ビン・ラーディンは1974ねんにシリアのラタキア最初さいしょ結婚けっこんをした[74]。その1983ねんに2度目どめ、1985ねんに3度目どめ、1987ねんに4度目どめ、2000ねんに5度目どめ結婚けっこんをしているほか、一部いちぶ情報じょうほうげんによれば挙式きょしき結婚けっこん無効むこうにされた6にんつま存在そんざいする[75]。ビン・ラーディンはつまたちとのあいだに20–26にん子供こどももうけており[76][77]、そのおおくは2001ねんの9/11テロののちイランに逃亡とうぼうした[78]。1997–2001ねんにビン・ラーディンのボディガードをつとめた人物じんぶつによれば、ビン・ラーディンは倹約けんやく父親ちちおやとしては厳格げんかくであり、一方いっぽう家族かぞくりやピクニックにれてくことをたのしみにしていたという[79]

実父じっぷムハンマドは1967ねんにサウジアラビアで飛行機ひこうき事故じこ死亡しぼうした(事故じこ原因げんいんはアメリカじんパイロットによる着陸ちゃくりく判断はんだんミスだった)[80][81]。ムハンマドの死後しご長兄ちょうけいであるサーレム・ビン・ラーディン英語えいごばん後継こうけいしゃとして一族いちぞくちょうになったが、サーレムは1988ねん、テキサスしゅうサンアントニオ近郊きんこうみずか飛行機ひこうき操縦そうじゅうちゅうあやまって送電そうでんせん事故じここして死亡しぼうした[82]

ちちのムハンマド・ビン・ラーディンはもとアメリカ大統領だいとうりょうジョージ・H・W・ブッシュとともにカーライル投資とうしグループ大口おおぐち投資とうしであり役員やくいんだった。また、ウサーマの長兄ちょうけいのサーレムはもとアメリカ大統領だいとうりょうジョージ・W・ブッシュがかつて経営けいえいしていた石油せきゆ会社かいしゃ共同きょうどう経営けいえいしゃであった。無論むろん、これらはウサーマが反米はんべい立場たちばてんじてテロリストとなるまえはなしであり、また、かれ親族しんぞくはウサーマのようなテロリストではなくそのような組織そしきとの直接的ちょくせつてき関係かんけいもない。ウサーマの息子むすこちちたいしテロ行為こういをやめるようメッセージをはっしていた。しかし、それはジェスチャーにぎないとのせつがある[83]

2009ねん7がつ、アメリカのラジオきょくナショナル・パブリック・ラジオ」が、CIA当局とうきょくしゃはなしとして、ウサーマ・ビン・ラーディンの息子むすこ1人ひとりであるサアドが、パキスタン領内りょうないべいぐん無人むじん偵察ていさつによるばくげき死亡しぼうした可能かのうせいがあるとほうじた[84]。しかし同年どうねん12がつ、サウジアラビア資本しほんでイギリスの首都しゅとロンドン発行はっこうされる新聞しんぶんアッ=シャルク・アル=アウサト」は、ウサーマのべつ息子むすこであるウマル・ビン・ラーディンのはなしとして[85]死亡しぼうせつがささやかれているサアドは親族しんぞくらとともにイランにいたとつたえた。これによると、サアドは、兄弟きょうだい姉妹しまいであるムハンマド、ウスマーン、ハムザ、ファーティマ、イーマーン、そしてビン・ラーディンのつま一人ひとりであるハイリーヤ、叔父おじにあたるバクルをふくむ25にん親類しんるいともイラン国内こくない治安ちあん当局とうきょく監視かんし自宅じたく軟禁なんきんかれていたということを、ウスマーンが電話でんわでウマルにはなしたという。ただしウマルによればサアドはいちヶ月かげつまえ逃亡とうぼうし、そのはイラン国内こくないにはいないという。ビン・ラーディンの家族かぞくはそれまで、2001ねんのアフガン空爆くうばく隣国りんごくイランに逃亡とうぼうしたとられていた。

2012ねん5がつ2にち、ビン・ラーディンととも潜伏せんぷく生活せいかつおくっていた3にんつまと11にんどもたちは拘留こうりゅうされ、翌年よくねんつま二人ふたりむすめたちがパキスタンへの不法ふほう滞在たいざい起訴きそされた。別荘べっそうで45にち禁固刑きんこけいえたのち2人ふたりつまはサウジアラビアに、1人ひとりつまはイエメンにそれぞれのどもたちと強制きょうせい送還そうかんされたという[86]

2017ねん1がつ5にち息子むすこ一人ひとりハムザ・ビンラディン国際こくさいテロリストに指定していしたとアメリカ政府せいふ発表はっぴょうした[87]

2019ねん9がつ14にち、アメリカのトランプ大統領だいとうりょうが、べいぐんたいテロ作戦さくせんによりハムザを殺害さつがいしたと発表はっぴょうした[88]

活動かつどう年譜ねんぷ[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 1991ねん国外こくがい追放ついほう資産しさん凍結とうけつでその財産ざいさんおおくがうしなわれ、のこされた資産しさんは2500まん–3000まんドルであったとされている[14]
  2. ^ このことは2009ねん11月29にちアメリカ上院じょういん外交がいこう委員いいんかいにてげられ、現地げんち指揮しきかんからの増派ぞうは要請ようせい本国ほんごく拒否きょひしたのが捕獲ほかく失敗しっぱい原因げんいん結論けつろんけた[66]

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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]