カウラ事件 じけん (カウラじけん)(Cowra breakout)は、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 時 どき の1944年 ねん 8月 がつ 5日 にち に、オーストラリア連邦 れんぽう ニューサウスウェールズ州 しゅう カウラ で起 お こった日本 にっぽん 軍 ぐん 捕虜 ほりょ 脱走 だっそう 事件 じけん 。
捕虜 ほりょ 収容 しゅうよう 所 しょ の脱走 だっそう 事件 じけん としては、史上 しじょう 最多 さいた の人数 にんずう (日本人 にっぽんじん 収容 しゅうよう 者 しゃ 数 すう 1,104名 めい の内 うち 、545名 めい 以上 いじょう )と見 み られる。死者 ししゃ 数 すう 235名 めい (オーストラリア人 じん 4名 めい 、日本人 にっぽんじん 231名 めい )、日本人 にっぽんじん 負傷 ふしょう 者 しゃ 数 すう 108名 めい 。[1]
カウラ第 だい 12戦 せん 争 そう 捕虜 ほりょ 収容 しゅうよう 所 しょ (No.12 Prisoner of War Compound、正式 せいしき 名称 めいしょう :Cowra PW and I Group、Prisoners of War and Internees Group)はニューサウスウェールズ州 しゅう の州都 しゅうと シドニー から西 にし 250kmに位置 いち する町 まち 、カウラの中心 ちゅうしん 部 ぶ から北東 ほくとう へ3.2kmの郊外 こうがい 地域 ちいき に位置 いち した。第 だい 12捕虜 ほりょ 収容 しゅうよう 所 しょ は、1947年 ねん のイタリア人 じん ・日本人 にっぽんじん 本国 ほんごく 送還 そうかん まで運営 うんえい された。
収容 しゅうよう 所 しょ の敷地 しきち は12角形 かくがた (直径 ちょっけい 約 やく 600m)をとっており、90度 ど 角 かく で4ブロックに分 わ かれていた。
収容 しゅうよう 捕虜 ほりょ :枢軸 すうじく 国 こく 捕虜 ほりょ (イタリア人 じん 、日本 にっぽん 軍 ぐん に従事 じゅうじ していた日本人 にっぽんじん と朝鮮 ちょうせん 人 じん )・被 ひ 拘束 こうそく 市民 しみん (オランダ領 りょう 東 ひがし インド 政府 せいふ により拘束 こうそく されていたインドネシア 人 ひと )約 やく 4,000名 めい が収容 しゅうよう されていた。1944年 ねん 8月 がつ 時点 じてん 、オーストラリア国内 こくない の捕虜 ほりょ 数 すう は、2,223名 めい の日本人 にっぽんじん 捕虜 ほりょ (544名 めい の海運 かいうん 業 ぎょう 者 もの を含 ふく む)、イタリア人 じん 捕虜 ほりょ (北 きた アフリカ戦線 せんせん より)14,720名 めい 、ドイツ人 じん 1,585名 めい (海軍 かいぐん 、海運 かいうん 業者 ぎょうしゃ )この内 うち 、1,104名 めい の日本人 にっぽんじん がカウラ収容 しゅうよう 所 しょ にいた[2] 。
日本 にっぽん 軍 ぐん 捕虜 ほりょ は1943年 ねん 1月 がつ から入 い れられた。最初 さいしょ に入 はい ったのはヘイ収容 しゅうよう 所 しょ から移送 いそう された豪州 ごうしゅう 捕虜 ほりょ 第 だい 1号 ごう の豊島 としま 一 はじめ 、次 つぎ に捕虜 ほりょ となった高原 たかはら 希 のぞみ 国 こく など6名 めい で、その後 ご もしばらくはポートモレスビー作戦 さくせん やラビの戦 たたか い で捕虜 ほりょ となった海軍 かいぐん 航空 こうくう 兵 へい が中心 ちゅうしん であったが、間 ま もなくビスマルク海 うみ 海戦 かいせん やブナの戦 たたか い など、ニューギニア方面 ほうめん での戦闘 せんとう で捕虜 ほりょ になった陸軍 りくぐん が大半 たいはん を占 し めるようになる。
捕虜 ほりょ たちは、トマト やブドウ の栽培 さいばい 、薪 たきぎ の為 ため の伐採 ばっさい といった、農業 のうぎょう を行 おこな っていた。また警備 けいび は緩 ゆる く、オーストラリア軍 ぐん は負傷 ふしょう 者 しゃ ・栄養失調 えいようしっちょう 者 しゃ などを含 ふく む捕虜 ほりょ に、手厚 てあつ い看護 かんご ・介護 かいご を施 ほどこ した。日本人 にっぽんじん は人気 にんき の高 たか い野球 やきゅう 、相撲 すもう 、麻雀 まーじゃん などのリクリエーション 活動 かつどう が自由 じゆう に許 ゆる され、野球 やきゅう のバックネット を運動 うんどう 場 じょう に建 た てる写真 しゃしん が残 のこ されている[3] 。
インドネシア人 じん 捕虜 ほりょ については当時 とうじ 、オランダ領 りょう 東 ひがし インド政府 せいふ 下 か にあったインドネシアでは、愛国 あいこく 主義 しゅぎ 者 しゃ たちはイリアンジャヤ (オランダ・ニューギニア )の収容 しゅうよう 所 しょ に1927年 ねん 以来 いらい 、捕 と 囚 しゅう されていた。しかし日本 にっぽん 軍 ぐん の占領 せんりょう 行動 こうどう により、オランダ政府 せいふ は彼 かれ らが日本 にっぽん 軍 ぐん へ参 まいり 軍 ぐん するのを危惧 きぐ して、オーストラリア政府 せいふ へ収容 しゅうよう を依頼 いらい した。オーストラリア政府 せいふ は、オーストラリア憲法 けんぽう に違反 いはん するために解放 かいほう 。彼 かれ らにとってより適 てき した気候 きこう のクイーンズランド州 しゅう で農業 のうぎょう を自由 じゆう に行 おこな う。終戦 しゅうせん 後 ご 、インドネシアへ帰国 きこく した。
1943年 ねん 2月 がつ 、ニュージーランド のフェザーストン 捕虜 ほりょ 収容 しゅうよう 所 しょ (日本人 にっぽんじん の捕虜 ほりょ 収容 しゅうよう 所 しょ )で日本人 にっぽんじん 捕虜 ほりょ が暴動 ぼうどう を起 お こした(フェザーストン事件 じけん )ため、カウラ収容 しゅうよう 所 しょ も警備 けいび の強化 きょうか が行 おこな われる。この際 さい に、年配 ねんぱい の退役 たいえき 軍人 ぐんじん や、前線 ぜんせん 勤務 きんむ には健康 けんこう 状態 じょうたい が適合 てきごう しないと評 ひょう された若者 わかもの などで構成 こうせい される、第 だい 22守備 しゅび 大隊 だいたい (22nd Garrison Battalion)を整備 せいび 。周囲 しゅうい の監視 かんし 、作業 さぎょう 班 はん の監督 かんとく を任務 にんむ とした。この市民 しみん 兵 へい 第 だい 22守備 しゅび 隊 たい には、ヴィッカース機関 きかん 銃 じゅう とブレンガン (ともにイギリス ・イギリス連邦 れんぽう 軍 ぐん により使用 しよう されていた自動 じどう 火器 かき )が配備 はいび された。
日本人 にっぽんじん 捕虜 ほりょ の状態 じょうたい [ 編集 へんしゅう ]
運営 うんえい は捕虜 ほりょ 側 がわ による自治 じち が認 みと められており、「団長 だんちょう 」(キャンプリーダー)を中心 ちゅうしん に補佐 ほさ する数 すう 人 にん が「事務所 じむしょ 」(オフィス)に詰 つ めて豪州 ごうしゅう 側 がわ との連絡 れんらく に当 あ たり、事件 じけん 直前 ちょくぜん にはその下 した に40名 めい の班長 はんちょう がいた。その自治 じち は最 さい 古参 こさん の豊島 としま を中心 ちゅうしん に前田 まえだ 、永友 ながとも 、伊藤 いとう 、柿本 かきもと ら下記 かき の海軍 かいぐん 航空 こうくう 兵 へい 組 ぐみ が取 と り巻 ま いていたが、比重 ひじゅう が高 たか まった陸軍 りくぐん より牢名主 ろうなぬし 的 てき であるとの批判 ひはん が高 たか まった。一方 いっぽう 、彼 かれ ら陸軍 りくぐん 下士官 かしかん 兵 へい は飢餓 きが や病気 びょうき だったところを入院 にゅういん 生活 せいかつ を経 へ てカウラに来 き た者 もの が多 おお く、豊島 としま ら海軍 かいぐん 組 ぐみ から「ハングリー・ボーイ」と蔑 さげす まれていた。選挙 せんきょ の結果 けっか 、数 かず に勝 まさ る陸軍 りくぐん によって海軍 かいぐん 航空 こうくう 兵 へい 組 ぐみ は失脚 しっきゃく したが、英語 えいご に秀 ひい でる豊島 としま は交渉 こうしょう 役 やく に欠 か かせず、三 さん 役 やく の一人 ひとり として留 とど まった。捕虜 ほりょ は主 おも に豪州 ごうしゅう 兵 へい への協力 きょうりょく を拒 こば み、労役 ろうえき 拒否 きょひ を貫 つらぬ こうとする強硬 きょうこう 派 は と、それに反 はん する穏健 おんけん 派 は に分 わ かれていた。
以下 いか 、事件 じけん 前後 ぜんこう におけるBブロックの主要 しゅよう 人物 じんぶつ を挙 あ げる。
豊島 としま 一 はじめ - Bブロック初代 しょだい 団長 だんちょう 。捕虜 ほりょ 番号 ばんごう 110001。偽名 ぎめい は南 みなみ 忠男 ただお 、中 なか 攻 おさむ 射手 しゃしゅ の兵曹 へいそう 長 ちょう と名乗 なの っていた。飛 ひ 龍 りゅう 航空 こうくう 隊 たい 零 れい 戦隊 せんたい 第 だい 1小隊 しょうたい 所属 しょぞく 、一等 いっとう 飛行 ひこう 兵 へい 。香川 かがわ 県 けん 勝間 かつま 村 むら (現 げん 三豊 みとよ 市 し )出身 しゅっしん 、操 みさお 練 ねり 56期 き 。2月19日 にち 、ポート・ダーウィン空襲 くうしゅう で被弾 ひだん しメルヴィル島 とう のスネーク湾 わん に不時着 ふじちゃく 、23日 にち 捕虜 ほりょ 。零 れい 戦 せん 搭乗 とうじょう 員 いん となる前 まえ は信号 しんごう 兵 へい で、喇叭 らっぱ ラッパ の心得 こころえ がある。豪州 ごうしゅう で英語 えいご を習得 しゅうとく し、団長 だんちょう を退 しりぞ いたのちも交渉 こうしょう 役 やく として地位 ちい を保 たも っていた。なお捕虜 ほりょ になって間 あいだ もない頃 ころ 、脱走 だっそう 騒 さわ ぎを起 お こしている。強硬 きょうこう 派 は であったとも、穏健 おんけん 派 は であったともいわれる。
高原 たかはら 希 のぞみ 国 こく - 第 だい 1班 はん 所属 しょぞく 。偽名 ぎめい は高田 たかだ 一郎 いちろう 、軍属 ぐんぞく で妙見 みょうけん 丸 まる 船員 せんいん と名乗 なの っていた。東港 ひがしみなと 空 そら 大 だい 艇 てい 隊 たい 所属 しょぞく 一 いち 飛 ひ 曹、97大 だい 艇 てい 偵察 ていさつ 員 いん 。兵庫 ひょうご 県 けん 姫路 ひめじ 市 し 出身 しゅっしん 、甲 きのえ 飛 ひ 2期 き 。2月15日 にち 、ティモール島 とう 増援 ぞうえん に向 む かう米 べい 豪 ごう 合同 ごうどう 船団 せんだん に触接 しょくせつ 中 ちゅう 、米 べい 第 だい 3追撃 ついげき 機 き 中隊 ちゅうたい 所属 しょぞく のP-40 (ロバート・J・ブエル中尉 ちゅうい 搭乗 とうじょう 機 き )と相打 あいう ちで撃墜 げきつい され、同乗 どうじょう 者 しゃ のうち生存 せいぞん した古川 ふるかわ 欣一 きんいち 二 に 整 せい 曹(偽名 ぎめい :山下 やました 清 きよし )、沖本 おきもと 治義 はるよし 一 いち 飛 ひ 曹(同 どう :伊野 いの 治 おさむ )、天本 あまもと 正 ただし 好 こう 三 さん 整 せい 曹(天野 あまの )、平山 ひらやま 一 いち 飛 ひ 曹(平田 ひらた 一夫 かずお )の4名 めい とともに[注釈 ちゅうしゃく 1] メルヴィル島 とう を漂流 ひょうりゅう 、3月3日 にち に捕虜 ほりょ となった。中学校 ちゅうがっこう を卒業 そつぎょう したため、豊島 としま ほどではないがある程度 ていど 英語 えいご の心得 こころえ があり、事件 じけん 後 ご は豊島 としま の代理 だいり で通訳 つうやく を行 おこな う。戦後 せんご は投資 とうし 家 か として活躍 かつやく した。また、戦後 せんご も沈黙 ちんもく を守 まも る元 もと 捕虜 ほりょ が少 すく なくない中 なか 、積極 せっきょく 的 てき にインタビューに応 おう じた。賛成 さんせい 票 ひょう を投 とう じたが、本心 ほんしん は反対 はんたい であった。
前田 まえだ 芳光 よしみつ - 捕虜 ほりょ 番号 ばんごう 110008[9] 。偽名 ぎめい はオキ・ヒデオ 。第 だい 四 よん 航空 こうくう 隊 たい 所属 しょぞく 、三 さん 飛 ひ 曹。愛媛 えひめ 県 けん 出身 しゅっしん 、甲 きのえ 飛 ひ 4期 き 。4月28日 にち 、ポートモレスビー南東 なんとう のロドニー岬 みさき 付近 ふきん で不時着 ふじちゃく 、5月6日 にち 捕虜 ほりょ 。事件 じけん 後 ご 、1週間 しゅうかん 荒野 あらの を彷徨 ほうこう ったのち捕 と らえられた。
永友 ながとも 勝明 かつあき - 捕虜 ほりょ 番号 ばんごう 110015。偽名 ぎめい はナガトモ・カツロウ 。第 だい 四 よん 航空 こうくう 隊 たい 所属 しょぞく 、一等 いっとう 飛行 ひこう 兵 へい 。宮崎 みやざき 県 けん 出身 しゅっしん 。2月28日 にち 、ポートモレスビーで不時着 ふじちゃく 。事件 じけん 当日 とうじつ 死亡 しぼう 。
伊藤 いとう 務 つとむ - 初代 しょだい 副 ふく 団長 だんちょう 。捕虜 ほりょ 番号 ばんごう 110009。偽名 ぎめい は耶麻 やま 川鉄 かわてつ 夫 おっと 、爆 ばく 撃 げき 機 き 副 ふく 操縦 そうじゅう 士 し を名乗 なの っていた。海軍 かいぐん 台 だい 南 みなみ 航空 こうくう 隊 たい 所属 しょぞく 、二 に 飛 ひ 曹。愛媛 えひめ 県 けん 出身 しゅっしん 、甲 きのえ 飛 ひ 4期 き 。5月17日 にち のポートモレスビー攻撃 こうげき で第 だい 1中隊 ちゅうたい 第 だい 2小隊 しょうたい (中隊 ちゅうたい 長 ちょう 中島 なかじま 正 ただし 少佐 しょうさ 、小 しょう 隊長 たいちょう 山口 やまぐち 馨 かおる 准尉 じゅんい )2番 ばん 機 き として出撃 しゅつげき [12] したが被弾 ひだん し不時着 ふじちゃく 、23日 にち 捕虜 ほりょ 。豊島 としま とは特 とく に仲 なか が良 よ く、強硬 きょうこう 派 は の筆頭 ひっとう であったと言 い われる。警備 けいび 兵 へい の制止 せいし を振 ふ り切 き って銃座 じゅうざ に迫 せま り、銃撃 じゅうげき を2度 ど 受 う けるも生還 せいかん 。戦後 せんご 、中野 なかの のアンケートでも明確 めいかく に賛成 さんせい を示 しめ した。
柿本 かきもと 円 えん 次 じ - 第 だい 7班長 はんちょう 。捕虜 ほりょ 番号 ばんごう 110007。本名 ほんみょう で通 とお す 。台 たい 南 みなみ 航空 こうくう 隊 たい 第 だい 3中隊 ちゅうたい 第 だい 2小隊 しょうたい 所属 しょぞく 、二 に 飛 ひ 曹。大分 おおいた 県 けん 朝日 あさひ 村 むら (現 げん 日田 にった 市 し 山田 やまだ 町 まち )出身 しゅっしん 、操 みさお 47期 き 。笹井 ささい 醇 あつし 一 いち や坂井 さかい 三郎 さぶろう の部下 ぶか で羽藤 はとう 一志 かずし の僚機であった事 こと もある。ラビの戦 たたか い の8月 がつ 27日 にち にミルン湾 わん で不時着 ふじちゃく し、同日 どうじつ 捕虜 ほりょ 。事件 じけん 当日 とうじつ 自殺 じさつ 。
小山田 おやまだ 正実 まさみ - 捕虜 ほりょ 番号 ばんごう 110010。偽名 ぎめい は坂本 さかもと トリミ 、整備 せいび 士 し の兵曹 へいそう 長 ちょう を名乗 なの っていた。第 だい 二 に 航空 こうくう 隊 たい 所属 しょぞく 一等 いっとう 飛行 ひこう 兵 へい 、九 きゅう 九 きゅう 式 しき 艦上 かんじょう 爆撃 ばくげき 機 き 射手 しゃしゅ 。ラビの戦 たたか いの8月 がつ 27日 にち に第 だい 3小隊 しょうたい (井上 いのうえ 文 ぶん 刀 がたな 大尉 たいい 指揮 しき 、小 しょう 隊長 たいちょう 太田 おおた 淳 あつし 吾 われ 飛 ひ 曹長 そうちょう )2番 ばん 機 き として出撃 しゅつげき [14] 、ミルン湾 わん にて対空 たいくう 砲火 ほうか を受 う け不時着 ふじちゃく し、9月2日 にち に捕虜 ほりょ [16] 。森木 もりき によれば団長 だんちょう であった時期 じき もあったという。経歴 けいれき は不明 ふめい 点 てん が多 おお い。
金沢 かなざわ 亮 あきら - 2代目 だいめ 団長 だんちょう 。偽名 ぎめい は金沢 かなざわ 彰 あきら 。独立 どくりつ 工兵 こうへい 第 だい 51連隊 れんたい 所属 しょぞく 、陸軍 りくぐん 曹長 そうちょう 。茨城 いばらき 県 けん 生瀬 なまぜ 村 むら (現 げん 大子 だいご 町 まち )出身 しゅっしん 。ビスマルク海 うみ 海戦 かいせん でトロブリアンド諸島 しょとう に漂着 ひょうちゃく 後 ご 捕虜 ほりょ となる。団長 だんちょう となる事 こと に余 あま り乗 の り気 き でなく、後任 こうにん が見 み つかるまでと言 い う条件 じょうけん で呑 の んだ。足 あし を負傷 ふしょう していたため、突撃 とつげき には参加 さんか しなかった。
小島 こじま 正雄 まさお - 2代目 だいめ 副 ふく 団長 だんちょう 。本名 ほんみょう で通 とお す 。第 だい 50野戦 やせん 高射 こうしゃ 砲 ほう 大隊 だいたい 所属 しょぞく 、陸軍 りくぐん 曹長 そうちょう 。名古屋 なごや 出身 しゅっしん 。太平 たいへい 火災 かさい 保険 ほけん から応召 おうしょう 。ビスマルク海 うみ 海戦 かいせん でトロブリアンド諸島 しょとう に漂着 ひょうちゃく 後 ご 捕虜 ほりょ となる。聡明 そうめい で原隊 げんたい にいた頃 ころ より人望 じんぼう が厚 あつ く、カウラに着 つ いて間 ま もなく副 ふく 団長 だんちょう に推 お される。一方 いっぽう 、収容 しゅうよう 所 しょ からは何 なに か事 こと が起 お これば中心 ちゅうしん にいる人物 じんぶつ だろうとマークされていた。攻撃 こうげき には加 くわ わらず自殺 じさつ 。豪 ごう 軍 ぐん の尋問 じんもん には協力 きょうりょく 的 てき で、「日本 にっぽん 軍 ぐん 幹部 かんぶ は捕虜 ほりょ になるよりは死 し を選 えら べと指導 しどう しているが、この方針 ほうしん は誤 あやま っている」と述 の べているほか、死 し の直前 ちょくぜん 、「バカなことをするもんだなぁ」と周囲 しゅうい に漏 も らしており、穏健 おんけん 派 は であったとする見方 みかた が多 おお い。
堂 どう 市次郎 いちじろう - 第 だい 11班長 はんちょう 。本名 ほんみょう で通 とお す 。海軍 かいぐん 二 に 等 とう 機関 きかん 兵曹 へいそう 。1921年 ねん より7年間 ねんかん 海軍 かいぐん で勤務 きんむ のち日本 にっぽん 飛行機 ひこうき 株式会社 かぶしきがいしゃ 課長 かちょう であった1941年 ねん に応召 おうしょう 。ブナにて戦車 せんしゃ 砲 ほう で右足 みぎあし を負傷 ふしょう 、人事不省 じんじふせい となっていたところを豪州 ごうしゅう 兵 へい の捕虜 ほりょ となる。足 あし が不自由 ふじゆう ながら事件 じけん 後 ご 、五 ご 代目 だいめ 団長 だんちょう となる。戦後 せんご 、豪州 ごうしゅう カウラ会 かい 初代 しょだい 会長 かいちょう 。
森木 もりき 勝 まさる - 第 だい 7班 はん 所属 しょぞく 。偽名 ぎめい は木下 きのした 義則 よしのり 、二等兵 にとうへい を名乗 なの っていた。森木 もりき は戦後 せんご 婿養子 むこようし になった後 のち の姓 せい で当時 とうじ は森田 もりた 。南海 なんかい 支隊 したい 歩兵 ほへい 第 だい 144連隊 れんたい 本部 ほんぶ 所属 しょぞく 、陸軍 りくぐん 軍曹 ぐんそう 。高知 こうち 県 けん 伊野 いの 町 まち (現 げん いの町 まち )出身 しゅっしん 。ギルワ・ブナ地区 ちく で突撃 とつげき 中 ちゅう に銃撃 じゅうげき を受 う け人事不省 じんじふせい となっていたところを捕虜 ほりょ となる。豊島 としま の団長 だんちょう 当時 とうじ 、事務所 じむしょ の陸軍 りくぐん 代表 だいひょう であったが、海軍 かいぐん 強硬 きょうこう 派 は と対立 たいりつ し事務所 じむしょ を追 お われていた。戦後 せんご カウラに関 かん する書籍 しょせき を多 おお く出版 しゅっぱん した。賛成 さんせい 票 ひょう を投 とう じたが、本心 ほんしん は反対 はんたい であった。戦後 せんご 、豪州 ごうしゅう カウラ会 かい 高地 こうち 支部 しぶ 長 ちょう を経 へ て第 だい 二 に 代 だい 会長 かいちょう 。
下山 しもやま 義夫 よしお - 捕虜 ほりょ 番号 ばんごう 147193。陸軍 りくぐん 曹長 そうちょう 。偽名 ぎめい か否 ひ かは不明 ふめい 。調書 ちょうしょ によれば広島 ひろしま 県 けん 出身 しゅっしん で、デパート店員 てんいん から応召 おうしょう 、中国 ちゅうごく から南方 なんぽう に転戦 てんせん し3月 がつ ごろグロスター岬 みさき の戦 たたか い で退却 たいきゃく 中 ちゅう に友軍 ゆうぐん とはぐれ捕虜 ほりょ 。カウラではほぼ新入 しんい りであったが班長 はんちょう になる。上 うえ の者 しゃ には媚 こ び下 か の者 もの には威張 いば る陰険 いんけん な性格 せいかく で、他 た の捕虜 ほりょ からは嫌 きら われていた。調書 ちょうしょ では細心 さいしん な性格 せいかく としている。班長 はんちょう 会議 かいぎ にて強硬 きょうこう 意見 いけん を主張 しゅちょう するが、事件 じけん 後 ご 生 い き残 のこ ったことをほかの捕虜 ほりょ に責 せ められ、ボイラー室 しつ にて自殺 じさつ 。
この他 ほか 、将校 しょうこう キャンプの信任 しんにん 者 しゃ は独立 どくりつ 工兵 こうへい 第 だい 51連隊 れんたい 所属 しょぞく の西尾 にしお 四郎 しろう 軍医 ぐんい 大尉 たいい (偽名 ぎめい は塚原 つかはら スエキチ)であったが、事件 じけん 当時 とうじ は命令 めいれい 違反 いはん で拘束 こうそく されており、強硬 きょうこう 派 は の及川 おいかわ 晃 あきら 海軍 かいぐん 少尉 しょうい が代理 だいり になっていた。将校 しょうこう は捕虜 ほりょ となった事 こと への屈辱 くつじょく が下士官 かしかん 兵 へい 以上 いじょう に強 つよ かったためか、朝鮮 ちょうせん 人 じん ・台湾 たいわん 人 じん 捕虜 ほりょ への嫌 いや がらせや脱走 だっそう 騒 さわ ぎを起 お こすなど、下士官 かしかん 兵 へい 以上 いじょう に強硬 きょうこう 的 てき な態度 たいど をとることがあった。
収容 しゅうよう 所 しょ では、"傷病 しょうびょう 者 しゃ の状態 じょうたい 改善 かいぜん に関 かん する赤十字 せきじゅうじ 条約 じょうやく (ジュネーブ条約 じょうやく ) " を日本人 にっぽんじん にも適用 てきよう (当時 とうじ 、日本 にっぽん 政府 せいふ はジュネーブ条約 じょうやく を批准 ひじゅん していない)していたが、日本人 にっぽんじん 捕虜 ほりょ はジュネーヴ条約 じょうやく の条文 じょうぶん を理解 りかい しておらず[32] 、当時 とうじ の日本 にっぽん 軍 ぐん ・日本人 にっぽんじん 社会 しゃかい の “生 い きて虜囚 りょしゅう の辱 はずかし めを受 う けず(戦陣 せんじん 訓 くん )” という考 かんが え方 かた と、欧米 おうべい (同 おな じ枢軸 すうじく 国 こく であったイタリアを含 ふく む)やオーストラリアの“国 くに を代表 だいひょう して全力 ぜんりょく で戦 たたか った、名誉 めいよ ある捕虜 ほりょ ” という認識 にんしき の相違 そうい により、オーストラリア人 じん と日本人 にっぽんじん 捕虜 ほりょ の間 あいだ ではコミュニケーションはあまりとられなかった(戦陣 せんじん 訓 くん などからなる日本 にっぽん 軍人 ぐんじん に固有 こゆう の意識 いしき や、外交 がいこう ・国際 こくさい 関係 かんけい の知識 ちしき の不足 ふそく による誤解 ごかい が背景 はいけい にある)。
例 たと えば、アフリカからのイタリア人 じん 捕虜 ほりょ が頻繁 ひんぱん に家族 かぞく に手紙 てがみ を書 か いていたのに対 たい し、日本 にっぽん 海軍 かいぐん 規範 きはん に述 の べられているように、日本 にっぽん 軍 ぐん ・日本人 にっぽんじん 社会 しゃかい は捕虜 ほりょ を不名誉 ふめいよ としていたため、捕虜 ほりょ になった日本 にっぽん 兵 へい の内 うち 7、8割 わり は偽名 ぎめい を用 もち いて登録 とうろく していた[3] (本名 ほんみょう が本国 ほんごく 日本 にっぽん に照会 しょうかい されて、自分 じぶん の家族 かぞく などが非国民 ひこくみん の扱 あつか いを受 う け、村八分 むらはちぶ 的 てき 差別 さべつ にあう可能 かのう 性 せい を避 さ けるため。実際 じっさい 、捕虜 ほりょ 第 だい 一 いち 号 ごう となった酒巻 さかまき 和男 かずお 少尉 しょうい の家 いえ は、非国民 ひこくみん 扱 あつか いされていた)。したがって、本国 ほんごく にいる自分 じぶん の家族 かぞく に手紙 てがみ を書 か くことは行 おこな わなかった。カウラに移送 いそう される前 まえ のレッドホルムでの尋問 じんもん 中 ちゅう 、新聞 しんぶん に写真 しゃしん を出 だ された前田 まえだ がショックで自殺 じさつ を図 はか っているほか、母国 ぼこく に健在 けんざい を知 し らせる放送 ほうそう を持 も ち掛 か けられた永友 ながとも が狂乱 きょうらん 状態 じょうたい に陥 おちい ったなどの事 こと があったため、豪 ごう 軍 ぐん も敢 あ えて追及 ついきゅう は避 さ けていた。
また、前述 ぜんじゅつ の待遇 たいぐう 面 めん に対 たい する捕虜 ほりょ の受 う け止 と め方 かた について、高原 こうげん は、厚遇 こうぐう を受 う ければ受 う けるほど、より精神 せいしん 的 てき な呵責 かしゃく に攻 せ め立 た てられる。また同時 どうじ に生 い きる事 こと の価値 かち をも感 かん じるようになっていった。しかしこうして捕虜 ほりょ となることは本来 ほんらい 許 ゆる されるものではなく、郷里 きょうり へ帰 かえ ろうにも帰 かえ れず、かといって帰化 きか する事 こと も出来 でき ない。こうしたジレンマに加 くわ え、戦局 せんきょく が日々 ひび 悪化 あっか していく事実 じじつ は現地 げんち の新聞 しんぶん から読 よ み取 と れていた。豪州 ごうしゅう 軍 ぐん に処刑 しょけい されないのなら、居場所 いばしょ を失 うしな った以上 いじょう 、いつかは自分 じぶん 達 たち の手 て で手 て を付 つ けなければならないと考 かんが えながらもその機会 きかい を得 え られずにいた、と語 かた る[34] 。
収容 しゅうよう 所 しょ 移動 いどう から脱走 だっそう 計画 けいかく [ 編集 へんしゅう ]
1944年 ねん 6月 がつ 3日 にち 、カウラに来 き て間 あいだ もない朝鮮 ちょうせん 人 じん 日本 にっぽん 兵 へい 捕虜 ほりょ の松本 まつもと タケオより、捕虜 ほりょ が脱走 だっそう を企 くわだ てているとの密告 みっこく があった。これを重 おも く見 み たシドニー地区 ちく 司令 しれい 部 ぶ は6月 がつ 19日 にち 、ヴィッカース機関 きかん 銃 じゅう 2丁 ちょう を追加 ついか 配備 はいび 、更 さら にカウラの収容 しゅうよう 人数 にんずう が大幅 おおはば に定員 ていいん オーバーした事 こと もあり、将校 しょうこう ・下士官 かしかん を除 のぞ く兵士 へいし 700名 めい を、400km西 にし に位置 いち するヘイ (Hay, ニューサウスウェールズ州 しゅう )の第 だい 8捕虜 ほりょ 収容 しゅうよう 所 しょ に移 うつ すことを計画 けいかく 。通達 つうたつ はジュネーヴ条約 じょうやく 第 だい 26条 じょう の規定 きてい に基 もと づいて移送 いそう の前日 ぜんじつ に行 おこな うよう指示 しじ されたが、Bキャンプ司令 しれい 官 かん のラムゼー少佐 しょうさ は3日 にち 早 はや い8月 がつ 4日 にち 午後 ごご 2時 じ ごろ、捕虜 ほりょ の中心 ちゅうしん 格 かく であった金沢 かなざわ 、小島 こじま 、豊島 としま の三 さん 名 めい に通達 つうたつ した。移送 いそう 者 しゃ のリストをその場 ば で直接 ちょくせつ 見 み せ、豊島 としま が懸念 けねん を示 しめ したとも、兵士 へいし の分離 ぶんり を敢 あ えて伏 ふ せていたが警備 けいび 兵 へい の一人 ひとり が口 くち を滑 すべ らし、それを豊島 としま が数時間 すうじかん 後 ご に確認 かくにん して発覚 はっかく したたともされる。日本 にっぽん 兵 へい にとって、下士官 かしかん と兵 へい の信頼 しんらい 関係 かんけい は厚 あつ く結 むす ばれたものであるという理論 りろん に基 もと づき、全体 ぜんたい 一緒 いっしょ の移送 いそう ならば良 よ いが、分離 ぶんり しての移管 いかん を受 う け入 い れることができない日本 にっぽん 兵 へい は、それを契機 けいき として捕虜 ほりょ 収容 しゅうよう 所 しょ からの脱走 だっそう を計画 けいかく することになる[3] 。
事件 じけん 後 ご 、金沢 かなざわ は13日 にち の査問 さもん 会議 かいぎ にて、脱走 だっそう の目的 もくてき を「日本人 にっぽんじん として虜囚 りょしゅう の恥 はじ を偲 しの び難 がた く、常 つね に死 し の機会 きかい を求 もと め来 く るとき、分離 ぶんり 問題 もんだい は我 われ らの死 し の時期 じき 到来 とうらい とし、1104名 めい が一様 いちよう に決着 けっちゃく せる死 し の行動 こうどう なり。」と述 の べている。すなわち、行動 こうどう の本質 ほんしつ は脱走 だっそう ではなく、他力 たりき による死 し であった。
日本人 にっぽんじん 捕虜 ほりょ は同日 どうじつ 午後 ごご 5時 じ 、事務所 じむしょ の幹部 かんぶ 10名 めい と班長 はんちょう 40名 めい を集 あつ めてミーティングを開 ひら き、要求 ようきゅう を受 う け入 い れるか、反対 はんたい して攻撃 こうげき をするかの議論 ぎろん を行 おこな った。急 きゅう に降 ふ ってわいた話 はなし ゆえ、名案 めいあん が出 で ることもなく、多 おお くは黙 だま りこくり、腹 はら の探 さぐ り合 あ いをしていた。高原 こうげん によれば、中 なか には「九死 きゅうし に得 え た一生 いっしょう だ。この命 いのち を大切 たいせつ にしたい。日本 にっぽん へ帰 かえ りたいし、肉親 にくしん に会 あ いたい。」といった発言 はつげん をした者 もの もいたが、誰 だれ も賛同 さんどう する者 もの はおらず[38] 、第 だい 26班長 はんちょう の森田 もりた 健司 けんじ 一等 いっとう 兵 へい によれば、やがて強硬 きょうこう 派 は 班長 はんちょう の下山 げざん が立 た ち上 あ がり、「貴様 きさま らそれでも軍人 ぐんじん か。非国民 ひこくみん は俺 おれ が始末 しまつ してやる」と喚 わめ き、それに星野 ほしの 新 しん 六 ろく 一等 いっとう 飛行 ひこう 兵 へい が同調 どうちょう 、全員 ぜんいん の痛 いた いところを突 つ かれたため場 じょう の空気 くうき が一変 いっぺん したという。以降 いこう 数 すう 時 じ 間 あいだ はほぼ両者 りょうしゃ がリードして出撃 しゅつげき を力説 りきせつ 、他 た の班長 はんちょう はほとんど無言 むごん だったという。ただし、両 りょう 名 な とも新参 しんざん 者 しゃ で本来 ほんらい 発言 はつげん 権 けん は低 ひく く、第 だい 14班長 はんちょう の大西 おおにし 治 おさむ 房 ぼう 軍曹 ぐんそう は、小島 こじま と豊島 としま が扇動 せんどう したのではないかと推測 すいそく している。一方 いっぽう 、高原 こうげん によれば豊島 としま は会議 かいぎ 直後 ちょくご 、「下山 げざん のやつ、えらそうなことばかりいいおって。脱走 だっそう しようとした事 こと もないくせに」と愚痴 ぐち をこぼしていたという。
最後 さいご にとある班長 はんちょう (中野 なかの は堂 どう であると推測 すいそく している)の提案 ていあん で一旦 いったん 会議 かいぎ を中止 ちゅうし し、捕虜 ほりょ 全員 ぜんいん の多数決 たすうけつ 投票 とうひょう を行 おこな う事 こと になった。この際 さい 、トイレットペーパー に移送 いそう 受諾 じゅだく か否 ひ かを○×で行 おこな ったという。「脱走 だっそう に非 ひ 参加 さんか 」と投票 とうひょう した者 もの も少数 しょうすう いたが、結果 けっか として、移送 いそう 計画 けいかく へ協調 きょうちょう しない、すなわち脱走 だっそう することで決定 けってい した。当時 とうじ の集団 しゅうだん 心理 しんり としてのけ者 もの になる、目立 めだ つことへの恐怖 きょうふ の心理 しんり が投票 とうひょう に強 つよ く働 はたら いて、ほとんどが脱走 だっそう に賛成 さんせい したことを現 げん 生存 せいぞん 者 しゃ は証言 しょうげん している[3] 。戦後 せんご 、中野 なかの 不二男 ふじお は生存 せいぞん 者 しゃ 100人 にん に対 たい し、投票 とうひょう 結果 けっか と本心 ほんしん はどうであったかのアンケート調査 ちょうさ を行 おこな った。回答 かいとう したのは36人 にん であったが、うち投票 とうひょう ・本心 ほんしん ともに○であったのは6人 にん に過 す ぎず、投票 とうひょう ・本心 ほんしん ともに×が10名 めい 、本心 ほんしん は×だが投票 とうひょう で○とした者 もの が14人 にん となった。無 む 回答 かいとう や事件 じけん 後 ご の反省 はんせい 感情 かんじょう も考慮 こうりょ して多少 たしょう の割引 わりびき はあれど、80パーセントが反対 はんたい であった事 こと になる。
班長 はんちょう 会議 かいぎ で作成 さくせい された作戦 さくせん 命令 めいれい が各 かく 班 はん に配 くば られ、捕虜 ほりょ たちは準備 じゅんび を整 ととの えたのち、残飯 ざんぱん で作 つく ったどぶろくをあおった。作戦 さくせん 命令 めいれい の作成 さくせい 者 しゃ は不明 ふめい だが、内容 ないよう は機関 きかん 銃座 じゅうざ の奪取 だっしゅ 、その掩護 えんご 下 か に鉄条 てつじょう 網 もう を突破 とっぱ して守備 しゅび 隊 たい 宿舎 しゅくしゃ を制圧 せいあつ したのち裏手 うらて の丘 おか に集結 しゅうけつ 、以後 いご の行動 こうどう はその時点 じてん で決定 けってい する事 こと 、病弱 びょうじゃく 者 しゃ 、歩行 ほこう 不能 ふのう の者 もの は事前 じぜん に身 み を処置 しょち する事 こと とした。
脱走 だっそう の決行 けっこう [ 編集 へんしゅう ]
1944年 ねん 8月 がつ 5日 にち 午前 ごぜん 2時 じ 過 す ぎ程 ほど からの深夜 しんや 帯 たい に豊島 としま の突撃 とつげき ラッパを合図 あいず に、将校 しょうこう と入院 にゅういん 者 しゃ 含 ふく め不参加 ふさんか 者 しゃ 118人 にん (一説 いっせつ では138人 にん )を除 のぞ く900名 めい の日本 にっぽん 兵 へい は集団 しゅうだん 脱走 だっそう を決行 けっこう する。脱走 だっそう 時 じ 、携帯 けいたい する事 こと の出来 でき た武器 ぶき と言 い ったものは身近 みぢか にあるフォーク ・ナイフ などの金属 きんぞく 製品 せいひん 、野球 やきゅう バット といったものに過 す ぎず、機関 きかん 銃 じゅう が配備 はいび されたオーストラリア警備 けいび 兵 へい に対抗 たいこう できる状態 じょうたい では無 な かった。また、各自 かくじ 自決 じけつ 用 よう の剃刀 かみそり を持 も った。
決行 けっこう 前 まえ 、作戦 さくせん 命令 めいれい に従 したが い、足 あし の悪 わる い者 もの は次々 つぎつぎ と首 くび をつって自殺 じさつ した。また、第 だい 10班 はん の安倍 あべ 班長 はんちょう のように、豪州 ごうしゅう 兵 へい との戦闘 せんとう を拒 こば んで自殺 じさつ する者 もの もいた。
決行 けっこう 直前 ちょくぜん 5分 ふん 前 まえ 、一人 ひとり の捕虜 ほりょ がハットを飛 と び出 だ し、何 なに かを訴 うった えながら門 もん を乗 の り越 こ えて来 き た。異常 いじょう 事態 じたい を悟 さと った警備 けいび 兵 へい のアルフレッド・ロールズ一等 いっとう 兵 へい は空 そら に2発 はつ 威嚇 いかく 射撃 しゃげき を行 おこな った。それを見 み た豊島 としま は「裏切者 うらぎりもの を殺 ころ せ!」と叫 さけ び、決行 けっこう を繰 く り上 あ げて合図 あいず の突撃 とつげき ラッパを吹 ふ いた。
オーストラリアの歴史 れきし 家 か Gavin Long [44] によれば「午前 ごぜん 2時 じ 頃 ごろ 、一人 ひとり の日本人 にっぽんじん (豊島 としま )がキャンプの門 もん へ走 はし り、警備 けいび に叫 さけ んだ後 のち 、ラッパを吹 ふ いた。これに対 たい して警備 けいび 兵 へい は警告 けいこく 射撃 しゃげき を行 おこな った。続 つづ いて『バンザイ』を叫 さけ びながら、毛布 もうふ をかぶり網 もう を通 とお り抜 ぬ けようとした3人 にん の日本人 にっぽんじん (それぞれが北 きた ・西 にし ・南側 みなみがわ で行動 こうどう )に発砲 はっぽう した。日本人 にっぽんじん 捕虜 ほりょ は、ナイフ、フォーク、釘 くぎ やフックを打 う ち込 こ んだ野球 やきゅう バットなどで武装 ぶそう していた」[32] [45] 。
ほとんどの警備 けいび 兵 へい は就寝 しゅうしん していたが、発砲 はっぽう の後 のち に非常 ひじょう 召集 しょうしゅう されて配置 はいち に付 つ いた。日本人 にっぽんじん 捕虜 ほりょ はBブロックの建物 たてもの に放火 ほうか 。約 やく 200名 めい が収容 しゅうよう 所 しょ 北西 ほくせい 部 ぶ から、約 やく 200名 めい が北部 ほくぶ から、約 やく 300名 めい が東部 とうぶ からそれぞれ脱走 だっそう を試 こころ みた。
当時 とうじ の警備 けいび 兵 へい は、「日本人 にっぽんじん は何 なに を考 かんが えているのか分 わ からなかった。野球 やきゅう 、相撲 すもう などのレクリエーションの自由 じゆう もあったし、日本人 にっぽんじん は魚 さかな を食 た べるので、(オーストラリア人 じん とは別 べつ に、特別 とくべつ に)魚 さかな を食事 しょくじ で支給 しきゅう されていた。脱走 だっそう 時 じ の夜 よる は田舎 いなか の満月 まんげつ で、とても明 あか るく、人 ひと の影 かげ がよく見 み えた上 うえ に、わざわざ明 あか るくなるように建物 たてもの に放火 ほうか をしたので、付近 ふきん の様子 ようす が昼 ひる のように目視 もくし できた」と証言 しょうげん している[3] 。捕虜 ほりょ たちは西部 せいぶ 銃座 じゅうざ に押 お し寄 よ せ、機銃 きじゅう 掃射 そうしゃ を行 おこな っていたベンジャミン・ハーディー一等 いっとう 兵 へい を撲殺 ぼくさつ し心得 こころえ のある陸 りく 兵 へい が取 と りついたが、ハーディーが直前 ちょくぜん にボルトを抜 ぬ いて投 な げ捨 す てていたため作動 さどう しなかった。
収容 しゅうよう 所 しょ 敷地 しきち 外 がい へかろうじて脱出 だっしゅつ した者 もの のうち、約 やく 70名 めい は命令 めいれい 通 どお り丘 おか の上 うえ に集結 しゅうけつ したが、どこかに脱出 だっしゅつ できるあてもなく、夜明 よあ け後 ご に帰順 きじゅん した。前田 まえだ 、金田 かねだ 弘 ひろし (第 だい 13班 はん 副 ふく 班長 はんちょう )ら残 のこ り33名 めい は逃走 とうそう を続 つづ け、豪州 ごうしゅう の農村 のうそん を逃 に げ回 まわ った。中 なか には民家 みんか の前 まえ に来 き て立 た っていた川口 かわぐち 進 すすむ ら3人 にん の捕虜 ほりょ に、牧場 ぼくじょう 主 ぬし の妻 つま が『もうすぐお菓子 かし が焼 や けるから食 た べて行 い きなさい』と迎 むか え入 い れ、紅茶 こうちゃ とスコーンを振 ふ る舞 ま う交流 こうりゅう もあった[3] [38] 。しかし多 おお くの住民 じゅうみん は捕虜 ほりょ を警戒 けいかい して武装 ぶそう し、射殺 しゃさつ するケースもあった[38] 。金田 かねだ も武装 ぶそう した住民 じゅうみん によって3日 にち 目 め に逮捕 たいほ された。一方 いっぽう 、豪州 ごうしゅう 軍 ぐん も陸軍 りくぐん 訓練 くんれん 所 しょ 生徒 せいと 隊 たい を追撃 ついげき に向 む かわせたが、夕方 ゆうがた に向 む かわせ日 ひ 没前 ぼつぜん に戻 もど らせるという無理 むり な命令 めいれい の上 うえ 、歩兵 ほへい 訓練 くんれん 基地 きち 司令 しれい 官 かん ミッチェル大佐 たいさ は、新兵 しんぺい ゆえの経験 けいけん 不足 ふそく で同士討 どうしう ちとなる可能 かのう 性 せい や、日本 にっぽん によるオーストラリア兵 へい 捕虜 ほりょ への報復 ほうふく を恐 おそ れ銃剣 じゅうけん 以外 いがい の武器 ぶき の携行 けいこう を許 ゆる さなかった。結果 けっか 、士官 しかん 1名 めい が捕虜 ほりょ に撲殺 ぼくさつ されている。彼 かれ ら捕虜 ほりょ の多 おお くは再 ふたた び捕虜 ほりょ にならぬよう自殺 じさつ した。また、怨恨 えんこん からか、豪州 ごうしゅう 兵 へい による射殺 しゃさつ もあったという[38] 。前田 まえだ のように1週間 しゅうかん もさまよう日本 にっぽん 兵 へい もいたが、最終 さいしゅう 的 てき に敷地 しきち 外 がい での自殺 じさつ 者 しゃ ・他殺 たさつ 者 しゃ 25名 めい を除 のぞ き、8日 にち 目 め までに全員 ぜんいん 捕縛 ほばく された。
死者 ししゃ 数 すう は235名 めい (オーストラリア人 じん 4名 めい 、日本人 にっぽんじん 231名 めい )と多数 たすう の死傷 ししょう 者 しゃ を出 だ した。負傷 ふしょう 者 しゃ 数 すう は日本人 にっぽんじん 108名 めい (うち3名 めい が重傷 じゅうしょう のため死亡 しぼう )、オーストラリア人 じん 4名 めい 。なお将校 しょうこう キャンプでは参加 さんか 者 しゃ がいなかったが、田島 たじま 拓 たく 自軍 じぐん 医 い 少尉 しょうい (偽名 ぎめい は藤田 ふじた 一郎 いちろう 大尉 たいい )が流 なが れ弾 だま を両 りょう 腿 もも に受 う け1,2時 じ 間 あいだ 後 ご に死亡 しぼう 、参加 さんか しようとした及川 おいかわ 晃 あきら 海軍 かいぐん 少尉 しょうい も脚 あし に負傷 ふしょう した。
オーストラリア政府 せいふ の反応 はんのう [ 編集 へんしゅう ]
オーストラリア政府 せいふ は、当初 とうしょ カウラ事件 じけん を極秘 ごくひ 情報 じょうほう として公 おおやけ にはしなかった。事件 じけん 当時 とうじ は戦時 せんじ 中 ちゅう であり、日本 にっぽん 政府 せいふ に日本 にっぽん 兵 へい 捕虜 ほりょ の多数 たすう の死 し を知 し られた場合 ばあい 、日本 にっぽん によるオーストラリア兵 へい 捕虜 ほりょ に対 たい する危険 きけん の可能 かのう 性 せい を考慮 こうりょ した結果 けっか である。事件 じけん 当日 とうじつ の朝 あさ 7時 じ のABCラジオと新聞 しんぶん での発表 はっぴょう を許可 きょか したものの、捕虜 ほりょ の国籍 こくせき と死者 ししゃ 数 すう を公表 こうひょう せず、8月 がつ 6日 にち に事態 じたい の収束 しゅうそく を宣言 せんげん した。9月9日 にち 、首相 しゅしょう ジョン・カーティン は捕虜 ほりょ が日本人 にっぽんじん である事 こと 、死者 ししゃ が200名 めい 以上 いじょう である事 こと を発表 はっぴょう した[38] 。
日本 にっぽん 政府 せいふ の反応 はんのう [ 編集 へんしゅう ]
日本 にっぽん 政府 せいふ は、カウラ事件 じけん が起 お きたことを8月 がつ 10日 とおか には国際 こくさい 赤十字 せきじゅうじ を通 つう じてベルン駐在 ちゅうざい の外交 がいこう 官 かん 与謝野 よさの 秀 しげる より報告 ほうこく を受 う けていた[38] 。また、9月2日 にち には軍事 ぐんじ 査問 さもん 会 かい 報告 ほうこく 書 しょ と捕虜 ほりょ の死亡 しぼう 者 しゃ リストを豪州 ごうしゅう よりスイスを通 とお して受 う け取 と っていたが、その詳細 しょうさい はカーティンの公式 こうしき 発表 はっぴょう まで把握 はあく できなかった。しかし、日本 にっぽん 政府 せいふ は自国 じこく 軍 ぐん 捕虜 ほりょ の存在 そんざい 自体 じたい を否定 ひてい しており、戦時 せんじ 中 ちゅう に発表 はっぴょう することは無 な かった。唯一 ゆいいつ 、日本 にっぽん 軍 ぐん 占領 せんりょう 下 か のインドネシア の放送 ほうそう 局 きょく ラジオ・バタビアが豪州 ごうしゅう 当局 とうきょく の公式 こうしき 発表 はっぴょう 翌日 よくじつ に「豪州 ごうしゅう 兵 へい が収容 しゅうよう 所 しょ にいた民間 みんかん の日本人 にっぽんじん 抑留 よくりゅう 者 しゃ を虐殺 ぎゃくさつ した」と、捕虜 ほりょ であることを伏 ふ せ、豪州 ごうしゅう 当局 とうきょく を「日本 にっぽん の民間 みんかん 人 じん 収容 しゅうよう 者 しゃ の冷血 れいけつ 殺人 さつじん 」と非難 ひなん するプロパガンダ 放送 ほうそう を行 おこな っていた[38] 。
カウラの日本人 にっぽんじん キャンプが焼失 しょうしつ したため、同年 どうねん 8月 がつ 末 まつ に下士官 かしかん はマーチソン収容 しゅうよう 所 しょ に、兵 へい はヘイ第 だい 8収容 しゅうよう 所 しょ に移送 いそう した。将校 しょうこう は翌年 よくねん 3月 がつ 末 まつ にマーチソン収容 しゅうよう 所 しょ に移 うつ された。ヘイでは新 しん 団長 だんちょう の堂 どう の手腕 しゅわん もあって決起 けっき の動 うご きが起 お こる事 こと はなかった。一方 いっぽう 、マーチソンの下士官 かしかん キャンプやカウラを知 し らないヘイ隣接 りんせつ の第 だい 7収容 しゅうよう 所 しょ では決起 けっき の動 うご きが度々 たびたび 燻 いぶ っていたが、穏健 おんけん 派 は が収容 しゅうよう 所 しょ 管理 かんり 側 がわ と結託 けったく して強硬 きょうこう 派 は を抑 おさ え込 こ んだ。マーチソンでは腫 は れ物 もの に触 さわ る様 よう な収容 しゅうよう 所 しょ 側 がわ の対応 たいおう もあって危険 きけん 水域 すいいき には達 たっ せず、やがて戦意 せんい の低下 ていか した末期 まっき の捕虜 ほりょ が加 くわ わると沈静 ちんせい 化 か した。1946年 ねん 3月 がつ に復員 ふくいん 。引揚船 せん で運 はこ ばれた。なお、事件 じけん 後 ご に捕虜 ほりょ として加 くわ わった者 もの はマーチソンでは原田 はらだ 松藤 まつふじ 次 じ 陸軍 りくぐん 薬剤 やくざい 中佐 ちゅうさ と朝 あさ 雲 くも 艦長 かんちょう の柴山 しばやま 一雄 かずお 海軍 かいぐん 中佐 ちゅうさ 、ヘイ第 だい 8収容 しゅうよう 所 しょ では奥崎 おくざき 謙三 けんぞう がいる。
事件 じけん 直後 ちょくご の8月 がつ 7日 にち 、オールベリーに置 お かれた第 だい 6兵站 へいたん 小 しょう 地域 ちいき の指揮 しき 官 かん フレデリック・クリスチソン大佐 たいさ を議長 ぎちょう として軍事 ぐんじ 査問 さもん 会 かい が開 ひら かれ、脱走 だっそう に加 くわ わった捕虜 ほりょ 7名 めい を含 ふく む60名 めい 以上 いじょう の証人 しょうにん が法廷 ほうてい で証言 しょうげん した。また、オーストラリア人 じん 監視 かんし 兵 へい 4名 めい と日本人 にっぽんじん 捕虜 ほりょ 234名 めい の死因 しいん を明 あき らかにする事 こと を目的 もくてき として民事 みんじ 検視 けんし 査問 さもん 会 かい が、10月31日 にち と12月11日 にち から15日 にち にかけて非公開 ひこうかい で実施 じっし された。両 りょう 査問 さもん 会 かい では、いずれも事件 じけん を計画 けいかく 的 てき なものとして結論 けつろん 付 つ けている。一方 いっぽう 、非公開 ひこうかい 性 せい に不満 ふまん を持 も った赤十字 せきじゅうじ 側 がわ は堂 どう と森木 もりき に独自 どくじ の報告 ほうこく 書 しょ を作成 さくせい させ、事件 じけん を偶発 ぐうはつ 的 てき なものとして結論 けつろん 付 つ けた[38] 。
1945年 ねん 1月 がつ 1日 にち 、金沢 かなざわ と後継 こうけい 団長 だんちょう の吉田 よしだ 広 ひろ 曹長 そうちょう が軍法 ぐんぽう 会議 かいぎ で、事件 じけん 当日 とうじつ のベンジャミン・ハーディー一等 いっとう 兵 へい に対 たい する殺人 さつじん 、および「正 ただ しい規律 きりつ と秩序 ちつじょ を乱 みだ した」罪 ざい に問 と われた。陳述 ちんじゅつ では金沢 かなざわ のみならず、無関係 むかんけい とみられていた将校 しょうこう キャンプの西尾 にしお 大尉 たいい も「将校 しょうこう は全員 ぜんいん 銃殺 じゅうさつ してくれ」と願 ねが い出 で た。困惑 こんわく した豪州 ごうしゅう 当局 とうきょく は同月 どうげつ 25日 にち の判決 はんけつ で吉田 よしだ は無罪 むざい 、金沢 かなざわ を後者 こうしゃ の罪 つみ で有罪 ゆうざい 判決 はんけつ とし、重労働 じゅうろうどう 15か月 げつ の刑 けい を科 か した。金沢 かなざわ はカウラで独房 どくぼう 生活 せいかつ を過 す ごし、1946年 ねん 3月 がつ に刑期 けいき を繰 く り上 あ げられ、他 た の捕虜 ほりょ たちと共 とも に大阪 おおさか 商船 しょうせん の復員 ふくいん 船 せん ・第 だい 一 いち 大海 たいかい 丸 まる に乗 の り込 こ んだ[38] 。
事件 じけん 前日 ぜんじつ の会議 かいぎ で気炎 きえん を上 あ げた下山 げざん は、事件 じけん 後 ご 生 い き残 のこ った事 こと 、同 おな じ班 はん の捕虜 ほりょ に投票 とうひょう させず全員 ぜんいん ○扱 あつか いで提出 ていしゅつ した事 こと 、足 あし の悪 わる い班 はん 員 いん に自決 じけつ を強要 きょうよう した事 こと を他 た の捕虜 ほりょ に責 せ められ、ヘイ移送 いそう 前 まえ の8月 がつ 9日 にち に自決 じけつ に追 お い込 こ まれた。また、脱走 だっそう に反対 はんたい したストレスで精神 せいしん を病 や み、復員 ふくいん を待 ま たず自殺 じさつ した捕虜 ほりょ もいた[38] 。
脱走 だっそう 計画 けいかく はあったのか?[ 編集 へんしゅう ]
松本 まつもと タケオの言 い う脱走 だっそう 計画 けいかく は元 もと 捕虜 ほりょ の多 おお くが否定 ひてい しており、森田 もりた によれば当初 とうしょ そういう話 はなし も無 な かったわけではないが、安穏 あんのん とした捕虜 ほりょ 生活 せいかつ でほぼ形骸 けいがい 化 か していたとしている。また、武器 ぶき とされるものも普段 ふだん 道具 どうぐ として使用 しよう していたもので、加工 かこう した突発 とっぱつ 的 てき なものであったと思 おも われる。一方 いっぽう で、7月 がつ 中 ちゅう に3人 にん の捕虜 ほりょ が意図 いと 的 てき に規則 きそく 違反 いはん の行動 こうどう をとるなど、進行 しんこう 中 ちゅう の計画 けいかく から離脱 りだつ するかのような不審 ふしん な動 うご きがあったと記録 きろく されている。
収容 しゅうよう 所 しょ 跡地 あとち に作 つく られた日本人 にっぽんじん 戦死 せんし 者 しゃ 墓地 ぼち
1962年 ねん 、収容 しゅうよう 所 しょ 跡地 あとち にカウラ日本人 にっぽんじん 戦死 せんし 者 しゃ 墓地 ぼち (Cowra Prisoner of War Camp)が建設 けんせつ され、カウラでの死者 ししゃ に加 くわ え豪州 ごうしゅう 他 た 地域 ちいき での戦死 せんし 者 しゃ を加 くわ えた522柱 はしら が埋葬 まいそう された。1963年 ねん にはオーストラリア政府 せいふ の計 はか らいによって、墓地 ぼち は日本 にっぽん に譲渡 ゆずりわた され、日本 にっぽん 国 こく の国庫 こっこ に帰属 きぞく した(オーストラリア戦争 せんそう 墓地 ぼち 委員 いいん 会 かい の管理 かんり 下 か にある)。関連 かんれん するものとしてカウラ日本 にっぽん 庭園 ていえん (Cowra Japanese Garden) がある。この事件 じけん への追悼 ついとう の意 い を込 こ めて、Bellevue Hillに日本 にっぽん 庭園 ていえん が造園 ぞうえん された。墓標 ぼひょう の多 おお くは偽名 ぎめい で、今 いま なお身元 みもと 不明 ふめい の者 もの が多 おお い。堂 どう と森木 もりき は密 ひそ かに持 も ち帰 かえ った戦死 せんし 者 しゃ 名簿 めいぼ をもとに厚生省 こうせいしょう の協力 きょうりょく で本名 ほんみょう の割 わ り出 だ し作業 さぎょう を行 おこな ったものの、一部 いちぶ 遺族 いぞく から「戦死 せんし 公報 こうほう のままにしてほしい」との抗議 こうぎ が上 あ がったため、若干 じゃっかん 名 めい を確認 かくにん したところで中止 ちゅうし した。なお、豊島 としま も身元 みもと 不明 ふめい 者 しゃ の一人 ひとり であったが、1981年 ねん に秦 はた 郁 いく 彦の調査 ちょうさ で南 みなみ 忠男 ただお =豊島 としま 一 はじめ であると判明 はんめい した。
1970年 ねん 、教育 きょういく 映画 えいが 製作 せいさく 者 しゃ の高橋 たかはし 克雄 かつお 監督 かんとく (株式会社 かぶしきがいしゃ 東中 ひがしなか 代表 だいひょう )・富美子 とみこ 夫妻 ふさい が日本 にっぽん 貿易 ぼうえき 振興 しんこう 機構 きこう (JETRO)の海外 かいがい PR映画 えいが 『オーストラリア・東経 とうけい 135度 ど 上 じょう の隣人 りんじん 』製作 せいさく 取材 しゅざい のためカウラを訪問 ほうもん 、日本人 にっぽんじん 墓地 ぼち 取材 しゅざい には前 ぜん 市長 しちょう オリバーとカップス市長 しちょう 夫妻 ふさい が正装 せいそう して同行 どうこう した。事件 じけん の戦死 せんし 者 しゃ (オーストラリア警備 けいび 隊 たい による機関 きかん 銃 じゅう 掃射 そうしゃ )が、広島 ひろしま 師団 しだん 出身 しゅっしん 者 しゃ であることから、夫妻 ふさい は広島 ひろしま の地酒 じざけ を持参 じさん して墓 はか に注 そそ ぎ、慟哭 どうこく 、撮影 さつえい に苦慮 くりょ した。墓地 ぼち は映画 えいが に記録 きろく され、海外 かいがい 広報 こうほう に使 つか われた。高橋 たかはし 夫妻 ふさい は、日本人 にっぽんじん 墓地 ぼち が完成 かんせい してから初 はじ めてカウラ市 し に泊 と まってくれた日本人 にっぽんじん (市役所 しやくしょ の言 げん )として歓待 かんたい を受 う け、その後 ご 長 なが く、市長 しちょう 夫妻 ふさい らとの交流 こうりゅう が続 つづ いた。この取材 しゅざい 実現 じつげん には、当時 とうじ の斉藤 さいとう 大使 たいし 夫妻 ふさい や木 き 名瀬 なぜ 参事官 さんじかん が尽力 じんりょく し、日産 にっさん が取材 しゅざい 車 しゃ を提供 ていきょう して長期 ちょうき 取材 しゅざい に協力 きょうりょく した。なお、高橋 たかはし 監督 かんとく 夫妻 ふさい は1979年 ねん に、当時 とうじ の皇太子 こうたいし 明仁 あきひと 親王 しんのう ・同妃 どうひ 美智子 みちこ に招 まね かれて4人 にん で懇談 こんだん したが、その際 さい 、明仁 あきひと 親王 しんのう はカウラ戦友 せんゆう 会 かい の代表 だいひょう 者 しゃ の名前 なまえ をすらすらと口 ぐち にしたという[56] 。
2004年 ねん 8月 がつ 、カウラ事件 じけん 60周年 しゅうねん 式典 しきてん が行 おこな われた[57] 。現在 げんざい でも、毎年 まいとし カウラでは慰霊 いれい 祭 さい が行 おこな われている。2006年 ねん 11月 には、聖路加国際病院 せいるかこくさいびょういん 名誉 めいよ 院長 いんちょう などを務 つと める日野 ひの 原 はら 重明 しげあき が、カウラを訪 おとず れた。2014年 ねん の8月 がつ には、天台宗 てんだいしゅう ハワイ開 ひらき 教 きょう 総長 そうちょう 荒 あら 了 りょう 寛 ひろし らが中心 ちゅうしん となり、超 ちょう 宗派 しゅうは による70周年 しゅうねん の慰霊 いれい 行事 ぎょうじ が行 おこな われた。
皇室 こうしつ のカウラ市 し 訪問 ほうもん [ 編集 へんしゅう ]
1973年 ねん (昭和 しょうわ 48年 ねん )、皇太子 こうたいし ・皇太子 こうたいし 妃 ひ 時代 じだい の明仁 あきひと 上皇 じょうこう ・上 うえ 皇后 こうごう 美智子 みちこ はオーストラリア、ニュージーランド両国 りょうこく を訪問 ほうもん 。その際 さい 、カウラ市 し にも立 た ち寄 よ り、日本人 にっぽんじん 墓地 ぼち で供花 きょうか した。1992年 ねん (平成 へいせい 4年 ねん )には黒田 くろだ 清子 きよこ (当時 とうじ は清子 きよこ 内親王 ないしんのう )、1995年 ねん (平成 へいせい 7年 ねん )には秋篠宮 あきしののみや 文 ぶん 仁 じん 親王 しんのう 夫妻 ふさい が同 おな じカウラ日本人 にっぽんじん 墓地 ぼち を訪 おとず れ供花 きょうか している。
日 にち 豪 ごう 交換 こうかん 留学生 りゅうがくせい [ 編集 へんしゅう ]
オリバーは日 にち 豪 ごう 親善 しんぜん と若者 わかもの への期待 きたい を図 はか るため、高校生 こうこうせい の相互 そうご 交流 こうりゅう を提案 ていあん した。これをもとに、1970年 ねん 、カウラ高等 こうとう 学校 がっこう と東京 とうきょう 都 と 武蔵野 むさしの 市 し の成蹊高等学校 せいけいこうとうがっこう との間 あいだ に、交換 こうかん 留学 りゅうがく 制度 せいど が発足 ほっそく した。双方 そうほう から一 いち 人 にん ずつ一 いち 年間 ねんかん 、ホームステイ するこの制度 せいど は、2010年 ねん には40周年 しゅうねん を迎 むか え、両校 りょうこう の代表 だいひょう が相互 そうご 訪問 ほうもん をするなどした。脚本 きゃくほん 家 か の故 ゆえ 如月 きさらぎ 小春 こはる はこの制度 せいど でカウラ高校 こうこう に留学 りゅうがく している。2003年 ねん より夏季 かき 短期 たんき の訪問 ほうもん も行 おこ なわれている。2020年 ねん には交換 こうかん 留学 りゅうがく 制度 せいど 開始 かいし 50周年 しゅうねん を迎 むか える[58] 。
直江津 なおえつ 市 し との交流 こうりゅう [ 編集 へんしゅう ]
1988年 ねん 、T・グリン神父 しんぷ がオーストラリア元 もと 捕虜 ほりょ 兵 へい と一緒 いっしょ に、捕虜 ほりょ 収容 しゅうよう 所 しょ のあった新潟 にいがた 県 けん 直江津 なおえつ 市 し を訪問 ほうもん し、故人 こじん をしのぶ銘 めい 版 ばん を寄託 きたく 。事件 じけん 以降 いこう 毎年 まいとし 、慰霊 いれい 祭 さい が行 おこな われていることを、日本人 にっぽんじん に初 はじ めて知 し られることになった。1995年 ねん 10月8日 にち には、直江津 なおえつ 捕虜 ほりょ 収容 しゅうよう 所 しょ 事件 じけん の被害 ひがい 者 しゃ を悼 いた む直江津 なおえつ ・平和 へいわ 記念 きねん 公園 こうえん が開設 かいせつ した。
ダーウィン での戦没 せんぼつ 者 しゃ 墓地 ぼち には、オーストラリア人 じん ・日本人 にっぽんじん 墓地 ぼち が整 ととの えられている。日本人 にっぽんじん 墓地 ぼち には、それぞれに名前 なまえ が彫 ほ られた個別 こべつ の墓石 はかいし が整 ととの えられている[59] 。
ドキュメンタリー映画 えいが
映画 えいが
テレビドラマ
『カウラ大 だい 脱走 だっそう 』 Cowra Breakout (1984年 ねん ):オーストラリア製作 せいさく のテレビミニシリーズ。288分 ふん 。
テレビ番組 ばんぐみ
『初 はじ めて戦争 せんそう を知 し った - 若者 わかもの たちの旅 たび (2)生 い きて虜囚 りょしゅう の辱 はずかし めを受 う けず - オーストラリア・カウラ事件 じけん 』(1993年 ねん 、NHKエンタープライズ )
博士 はかせ 論文 ろんぶん 『カウラ事件 じけん (1944年 ねん )の研究 けんきゅう : 捕虜 ほりょ の日々 ひび を生 い きた日本 にっぽん 兵 へい たちの「日常 にちじょう 」からの再 さい 考察 こうさつ 』 山田 やまだ 真美 まみ (2014年 ねん )お茶 ちゃ の水女子大学 みずじょしだいがく
^ 中野 なかの (1984)、p.129に基 もと づく。ただし秦 はた (1998)、P.252では高原 こうげん 以外 いがい の偽名 ぎめい は山川 やまかわ 清 きよし 、伊野 いの 治義 はるよし 、天川 あまかわ 昇 のぼる 、平田 ひらた 一夫 かずお となっている。事件 じけん では沖本 おきもと が死亡 しぼう