カウラ事件じけん

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カウラ事件じけん
事件じけんの1ヵ月かげつまえのカウラだい12せんそう捕虜ほりょ収容しゅうようしょ日本人にっぽんじん捕虜ほりょ野球やきゅうおこなっている。豪州ごうしゅう当局とうきょく宣伝せんでんのため撮影さつえいした(1944ねん7がつ1にち地図
日付ひづけ1944ねん8がつ5にち
場所ばしょオーストラリア連邦れんぽうニューサウスウェールズしゅうカウラ
座標ざひょう南緯なんい3348ふん40.60びょう 東経とうけい14842ふん14.39びょう / 南緯なんい33.8112778 東経とうけい148.7039972 / -33.8112778; 148.7039972座標ざひょう: 南緯なんい3348ふん40.60びょう 東経とうけい14842ふん14.39びょう / 南緯なんい33.8112778 東経とうけい148.7039972 / -33.8112778; 148.7039972
結果けっか~545にん脱走だっそう
死者ししゃ235

カウラ事件じけん(カウラじけん)(Cowra breakout)は、だい世界せかい大戦たいせんどき1944ねん8がつ5にちに、オーストラリア連邦れんぽうニューサウスウェールズしゅうカウラこった日本にっぽんぐん捕虜ほりょ脱走だっそう事件じけん

捕虜ほりょ収容しゅうようしょ脱走だっそう事件じけんとしては、史上しじょう最多さいた人数にんずう日本人にっぽんじん収容しゅうようしゃすう1,104めいうち、545めい以上いじょう)とられる。死者ししゃすう235めい(オーストラリアじん4めい日本人にっぽんじん231めい)、日本人にっぽんじん負傷ふしょうしゃすう108めい[1]

キャンプ[編集へんしゅう]

カウラだい12せんそう捕虜ほりょ収容しゅうようしょ(No.12 Prisoner of War Compound、正式せいしき名称めいしょう:Cowra PW and I Group、Prisoners of War and Internees Group)はニューサウスウェールズしゅう州都しゅうとシドニーから西にし250kmに位置いちするまち、カウラの中心ちゅうしんから北東ほくとうへ3.2kmの郊外こうがい地域ちいき位置いちした。だい12捕虜ほりょ収容しゅうようしょは、1947ねんイタリアじん日本人にっぽんじん本国ほんごく送還そうかんまで運営うんえいされた。

収容しゅうようしょ敷地しきちは12角形かくがた直径ちょっけいやく600m)をとっており、90かくで4ブロックにかれていた。

収容しゅうよう捕虜ほりょ[編集へんしゅう]

収容しゅうよう捕虜ほりょ枢軸すうじくこく捕虜ほりょ(イタリアじん日本にっぽんぐん従事じゅうじしていた日本人にっぽんじん朝鮮ちょうせんじん)・拘束こうそく市民しみんオランダりょうひがしインド政府せいふにより拘束こうそくされていたインドネシアひとやく4,000めい収容しゅうようされていた。1944ねん8がつ時点じてん、オーストラリア国内こくない捕虜ほりょすうは、2,223めい日本人にっぽんじん捕虜ほりょ(544めい海運かいうんぎょうものふくむ)、イタリアじん捕虜ほりょきたアフリカ戦線せんせんより)14,720めいドイツじん1,585めい海軍かいぐん海運かいうん業者ぎょうしゃ)このうち、1,104めい日本人にっぽんじんがカウラ収容しゅうようしょにいた[2]

日本にっぽんぐん捕虜ほりょは1943ねん1がつかられられた。最初さいしょはいったのはヘイ収容しゅうようしょから移送いそうされた豪州ごうしゅう捕虜ほりょだい1ごう豊島としまはじめつぎ捕虜ほりょとなった高原たかはらのぞみこくなど6めいで、そのもしばらくはポートモレスビー作戦さくせんラビのたたか捕虜ほりょとなった海軍かいぐん航空こうくうへい中心ちゅうしんであったが、もなくビスマルクうみ海戦かいせんブナのたたかなど、ニューギニア方面ほうめんでの戦闘せんとう捕虜ほりょになった陸軍りくぐん大半たいはんめるようになる。

捕虜ほりょたちは、トマトブドウ栽培さいばいたきぎため伐採ばっさいといった、農業のうぎょうおこなっていた。また警備けいびゆるく、オーストラリアぐん負傷ふしょうしゃ栄養失調えいようしっちょうしゃなどをふく捕虜ほりょに、手厚てあつ看護かんご介護かいごほどこした。日本人にっぽんじん人気にんきたか野球やきゅう相撲すもう麻雀まーじゃんなどのリクリエーション活動かつどう自由じゆうゆるされ、野球やきゅうバックネット運動うんどうじょうてる写真しゃしんのこされている[3]

インドネシアじん捕虜ほりょについては当時とうじ、オランダりょうひがしインド政府せいふにあったインドネシアでは、愛国あいこく主義しゅぎしゃたちはイリアンジャヤオランダ・ニューギニア)の収容しゅうようしょ1927ねん以来いらいしゅうされていた。しかし日本にっぽんぐん占領せんりょう行動こうどうにより、オランダ政府せいふかれらが日本にっぽんぐんまいりぐんするのを危惧きぐして、オーストラリア政府せいふ収容しゅうよう依頼いらいした。オーストラリア政府せいふは、オーストラリア憲法けんぽう違反いはんするために解放かいほうかれらにとってよりてきした気候きこうクイーンズランドしゅう農業のうぎょう自由じゆうおこなう。終戦しゅうせん、インドネシアへ帰国きこくした。

警備けいび[編集へんしゅう]

1943ねん2がつニュージーランドフェザーストン捕虜ほりょ収容しゅうようしょ日本人にっぽんじん捕虜ほりょ収容しゅうようしょ)で日本人にっぽんじん捕虜ほりょ暴動ぼうどうこした(フェザーストン事件じけん)ため、カウラ収容しゅうようしょ警備けいび強化きょうかおこなわれる。このさいに、年配ねんぱい退役たいえき軍人ぐんじんや、前線ぜんせん勤務きんむには健康けんこう状態じょうたい適合てきごうしないとひょうされた若者わかものなどで構成こうせいされる、だい22守備しゅび大隊だいたい(22nd Garrison Battalion)を整備せいび周囲しゅうい監視かんし作業さぎょうはん監督かんとく任務にんむとした。この市民しみんへいだい22守備しゅびたいには、ヴィッカース機関きかんじゅうブレンガン(ともにイギリスイギリス連邦れんぽうぐんにより使用しようされていた自動じどう火器かき)が配備はいびされた。

日本人にっぽんじん捕虜ほりょ状態じょうたい[編集へんしゅう]

運営うんえい捕虜ほりょがわによる自治じちみとめられており、「団長だんちょう」(キャンプリーダー)を中心ちゅうしん補佐ほさするすうにんが「事務所じむしょ」(オフィス)にめて豪州ごうしゅうがわとの連絡れんらくたり、事件じけん直前ちょくぜんにはそのしたに40めい班長はんちょうがいた。その自治じちさい古参こさん豊島としま中心ちゅうしん前田まえだ永友ながとも伊藤いとう柿本かきもと下記かき海軍かいぐん航空こうくうへいぐみいていたが、比重ひじゅうたかまった陸軍りくぐんより牢名主ろうなぬしてきであるとの批判ひはんたかまった[4]一方いっぽうかれ陸軍りくぐん下士官かしかんへい飢餓きが病気びょうきだったところを入院にゅういん生活せいかつてカウラにものおおく、豊島としま海軍かいぐんぐみから「ハングリー・ボーイ」とさげすまれていた[4]選挙せんきょ結果けっかかずまさ陸軍りくぐんによって海軍かいぐん航空こうくうへいぐみ失脚しっきゃくしたが、英語えいごひいでる豊島としま交渉こうしょうやくかせず、さんやく一人ひとりとしてとどまった。捕虜ほりょおも豪州ごうしゅうへいへの協力きょうりょくこばみ、労役ろうえき拒否きょひつらぬこうとする強硬きょうこうと、それにはんする穏健おんけんかれていた。

以下いか事件じけん前後ぜんこうにおけるBブロックの主要しゅよう人物じんぶつげる。

  • 豊島としまはじめ - Bブロック初代しょだい団長だんちょう捕虜ほりょ番号ばんごう110001。偽名ぎめいみなみ忠男ただおなかおさむ射手しゃしゅ兵曹へいそうちょう名乗なのっていた[5]りゅう航空こうくうたいれい戦隊せんたいだい1小隊しょうたい所属しょぞく一等いっとう飛行ひこうへい香川かがわけん勝間かつまむらげん三豊みとよ出身しゅっしんみさおねり56。2月19にちポート・ダーウィン空襲くうしゅう被弾ひだんメルヴィルとうのスネークわん不時着ふじちゃく、23にち捕虜ほりょれいせん搭乗とうじょういんとなるまえ信号しんごうへいで、喇叭らっぱラッパ心得こころえがある。豪州ごうしゅう英語えいご習得しゅうとくし、団長だんちょう退しりぞいたのちも交渉こうしょうやくとして地位ちいたもっていた。なお捕虜ほりょになってあいだもないころ脱走だっそうさわぎをこしている。強硬きょうこうであったとも、穏健おんけんであったともいわれる[6]
  • 高原たかはらのぞみこく - だい1はん所属しょぞく偽名ぎめい高田たかだ一郎いちろう軍属ぐんぞく妙見みょうけんまる船員せんいん名乗なのっていた[7]東港ひがしみなとそらだいていたい所属しょぞくいち曹、97だいてい偵察ていさついん兵庫ひょうごけん姫路ひめじ出身しゅっしんきのえ2。2月15にち、ティモールとう増援ぞうえんかうべいごう合同ごうどう船団せんだん触接しょくせつちゅうべいだい3追撃ついげき中隊ちゅうたい所属しょぞくP-40(ロバート・J・ブエル中尉ちゅうい搭乗とうじょう)と相打あいうちで撃墜げきついされ、同乗どうじょうしゃのうち生存せいぞんした古川ふるかわ欣一きんいちせい曹(偽名ぎめい山下やましたきよし)、沖本おきもと治義はるよしいち曹(どう伊野いのおさむ)、天本あまもとただしこうさんせい曹(天野あまの)、平山ひらやまいち曹(平田ひらた一夫かずお)の4めいとともに[注釈ちゅうしゃく 1]メルヴィルとう漂流ひょうりゅう、3月3にち捕虜ほりょとなった。中学校ちゅうがっこう卒業そつぎょうしたため、豊島としまほどではないがある程度ていど英語えいご心得こころえがあり、事件じけん豊島としま代理だいり通訳つうやくおこなう。戦後せんご投資とうしとして活躍かつやくした。また、戦後せんご沈黙ちんもくまももと捕虜ほりょすくなくないなか積極せっきょくてきにインタビューにおうじた。賛成さんせいひょうとうじたが、本心ほんしん反対はんたいであった[8]
  • 前田まえだ芳光よしみつ - 捕虜ほりょ番号ばんごう110008[9]偽名ぎめいオキ・ヒデオだいよん航空こうくうたい所属しょぞくさん曹。愛媛えひめけん出身しゅっしんきのえ4。4月28にち、ポートモレスビー南東なんとうのロドニーみさき付近ふきん不時着ふじちゃく、5月6にち捕虜ほりょ[10]事件じけん、1週間しゅうかん荒野あらの彷徨ほうこうったのちらえられた[11]
  • 永友ながとも勝明かつあき - 捕虜ほりょ番号ばんごう110015。偽名ぎめいナガトモ・カツロウだいよん航空こうくうたい所属しょぞく一等いっとう飛行ひこうへい宮崎みやざきけん出身しゅっしん。2月28にち、ポートモレスビーで不時着ふじちゃく[10]事件じけん当日とうじつ死亡しぼう
  • 伊藤いとうつとむ - 初代しょだいふく団長だんちょう捕虜ほりょ番号ばんごう110009。偽名ぎめい耶麻やま川鉄かわてつおっとばくげきふく操縦そうじゅう名乗なのっていた[10]海軍かいぐんだいみなみ航空こうくうたい所属しょぞく曹。愛媛えひめけん出身しゅっしんきのえ4。5月17にちのポートモレスビー攻撃こうげきだい1中隊ちゅうたいだい2小隊しょうたい中隊ちゅうたいちょう中島なかじまただし少佐しょうさしょう隊長たいちょう山口やまぐちかおる准尉じゅんい)2ばんとして出撃しゅつげき[12]したが被弾ひだん不時着ふじちゃく、23にち捕虜ほりょ[10]豊島としまとはとくなか[13]強硬きょうこう筆頭ひっとうであったとわれる[11]警備けいびへい制止せいしって銃座じゅうざせまり、銃撃じゅうげきを2けるも生還せいかん[11]戦後せんご中野なかののアンケートでも明確めいかく賛成さんせいしめした。
  • 柿本かきもとえん - だい7班長はんちょう捕虜ほりょ番号ばんごう110007。本名ほんみょうとおたいみなみ航空こうくうたいだい3中隊ちゅうたいだい2小隊しょうたい所属しょぞく曹。大分おおいたけん朝日あさひむらげん日田にった山田やまだまち出身しゅっしんみさお47笹井ささいあつしいち坂井さかい三郎さぶろう部下ぶか羽藤はとう一志かずしの僚機であったこともある。ラビのたたかの8がつ27にちにミルンわん不時着ふじちゃくし、同日どうじつ捕虜ほりょ[10]事件じけん当日とうじつ自殺じさつ
  • 小山田おやまだ正実まさみ - 捕虜ほりょ番号ばんごう110010。偽名ぎめい坂本さかもとトリミ整備せいび兵曹へいそうちょう名乗なのっていた[10]だい航空こうくうたい所属しょぞく一等いっとう飛行ひこうへいきゅうきゅうしき艦上かんじょう爆撃ばくげき射手しゃしゅ。ラビのたたかいの8がつ27にちだい3小隊しょうたい井上いのうえぶんがたな大尉たいい指揮しきしょう隊長たいちょう太田おおたあつしわれ曹長そうちょう)2ばんとして出撃しゅつげき[14]、ミルンわんにて対空たいくう砲火ほうか不時着ふじちゃくし、9月2にち捕虜ほりょ[15][16]森木もりきによれば団長だんちょうであった時期じきもあったという[13]経歴けいれき不明ふめいてんおおい。
  • 金沢かなざわあきら - 2代目だいめ団長だんちょう偽名ぎめい金沢かなざわあきら独立どくりつ工兵こうへいだい51連隊れんたい所属しょぞく陸軍りくぐん曹長そうちょう茨城いばらきけん生瀬なまぜむらげん大子だいごまち出身しゅっしん[17]。ビスマルクうみ海戦かいせんトロブリアンド諸島しょとう漂着ひょうちゃく捕虜ほりょとなる[18]団長だんちょうとなることあまでなく、後任こうにんつかるまでと条件じょうけんんだ[19]あし負傷ふしょうしていたため、突撃とつげきには参加さんかしなかった。
  • 小島こじま正雄まさお - 2代目だいめふく団長だんちょう本名ほんみょうとおだい50野戦やせん高射こうしゃほう大隊だいたい所属しょぞく陸軍りくぐん曹長そうちょう名古屋なごや出身しゅっしん太平たいへい火災かさい保険ほけんから応召おうしょう。ビスマルクうみ海戦かいせんでトロブリアンド諸島しょとう漂着ひょうちゃく捕虜ほりょとなる。聡明そうめい原隊げんたいにいたころより人望じんぼうあつく、カウラにいてもなくふく団長だんちょうされる。一方いっぽう収容しゅうようしょからはなにことこれば中心ちゅうしんにいる人物じんぶつだろうとマークされていた。攻撃こうげきにはくわわらず自殺じさつごうぐん尋問じんもんには協力きょうりょくてきで、「日本にっぽんぐん幹部かんぶ捕虜ほりょになるよりはえらべと指導しどうしているが、この方針ほうしんあやまっている」とべているほか[20]直前ちょくぜん、「バカなことをするもんだなぁ」と周囲しゅういらしており[19]穏健おんけんであったとする見方みかたおお[21]
  • どう市次郎いちじろう - だい11班長はんちょう本名ほんみょうとお海軍かいぐんとう機関きかん兵曹へいそう。1921ねんより7年間ねんかん海軍かいぐん勤務きんむのち日本にっぽん飛行機ひこうき株式会社かぶしきがいしゃ課長かちょうであった1941ねん応召おうしょう[22]。ブナにて戦車せんしゃほう右足みぎあし負傷ふしょう人事不省じんじふせいとなっていたところを豪州ごうしゅうへい捕虜ほりょとなる[22]あし不自由ふじゆうながら事件じけん代目だいめ団長だんちょうとなる[23]戦後せんご豪州ごうしゅうカウラかい初代しょだい会長かいちょう
  • 森木もりきまさる - だい7はん所属しょぞく偽名ぎめい木下きのした義則よしのり二等兵にとうへい名乗なのっていた[24]森木もりき戦後せんご婿養子むこようしになったのちせい当時とうじ森田もりた南海なんかい支隊したい歩兵ほへいだい144連隊れんたい本部ほんぶ所属しょぞく陸軍りくぐん軍曹ぐんそう高知こうちけん伊野いのまちげんいのまち出身しゅっしん[25]。ギルワ・ブナ地区ちく突撃とつげきちゅう銃撃じゅうげき人事不省じんじふせいとなっていたところを捕虜ほりょとなる[26]豊島としま団長だんちょう当時とうじ事務所じむしょ陸軍りくぐん代表だいひょうであったが、海軍かいぐん強硬きょうこう対立たいりつ事務所じむしょわれていた[13]戦後せんごカウラにかんする書籍しょせきおお出版しゅっぱんした。賛成さんせいひょうとうじたが、本心ほんしん反対はんたいであった[8]戦後せんご豪州ごうしゅうカウラかい高地こうち支部しぶちょうだいだい会長かいちょう
  • 下山しもやま義夫よしお - 捕虜ほりょ番号ばんごう147193[27]陸軍りくぐん曹長そうちょう偽名ぎめいかは不明ふめい調書ちょうしょによれば広島ひろしまけん出身しゅっしんで、デパート店員てんいんから応召おうしょう[20]中国ちゅうごくから南方なんぽう転戦てんせんし3がつごろグロスターみさきたたか退却たいきゃくちゅう友軍ゆうぐんとはぐれ捕虜ほりょ[20]。カウラではほぼ新入しんいりであったが班長はんちょうになる。うえしゃにはものには威張いば陰険いんけん性格せいかくで、捕虜ほりょからはきらわれていた[28]調書ちょうしょでは細心さいしん性格せいかくとしている[20]班長はんちょう会議かいぎにて強硬きょうこう意見いけん主張しゅちょうするが、事件じけんのこったことをほかの捕虜ほりょめられ、ボイラーしつにて自殺じさつ

このほか将校しょうこうキャンプの信任しんにんしゃ独立どくりつ工兵こうへいだい51連隊れんたい所属しょぞく西尾にしお四郎しろう軍医ぐんい大尉たいい偽名ぎめい塚原つかはらスエキチ)であった[29]が、事件じけん当時とうじ命令めいれい違反いはん拘束こうそくされており、強硬きょうこう及川おいかわあきら海軍かいぐん少尉しょうい代理だいりになっていた[30]将校しょうこう捕虜ほりょとなったことへの屈辱くつじょく下士官かしかんへい以上いじょうつよかったためか、朝鮮ちょうせんじん台湾たいわんじん捕虜ほりょへのいやがらせや脱走だっそうさわぎをこすなど、下士官かしかんへい以上いじょう強硬きょうこうてき態度たいどをとることがあった[31]

収容しゅうようしょでは、"傷病しょうびょうしゃ状態じょうたい改善かいぜんかんする赤十字せきじゅうじ条約じょうやく(ジュネーブ条約じょうやく" を日本人にっぽんじんにも適用てきよう当時とうじ日本にっぽん政府せいふはジュネーブ条約じょうやく批准ひじゅんしていない)していたが、日本人にっぽんじん捕虜ほりょはジュネーヴ条約じょうやく条文じょうぶん理解りかいしておらず[32]当時とうじ日本にっぽんぐん日本人にっぽんじん社会しゃかいの “きて虜囚りょしゅうはずかしめをけず(戦陣せんじんくん)” というかんがかたと、欧米おうべいおな枢軸すうじくこくであったイタリアをふくむ)やオーストラリアの“くに代表だいひょうして全力ぜんりょくたたかった、名誉めいよある捕虜ほりょ” という認識にんしき相違そういにより、オーストラリアじん日本人にっぽんじん捕虜ほりょあいだではコミュニケーションはあまりとられなかった(戦陣せんじんくんなどからなる日本にっぽん軍人ぐんじん固有こゆう意識いしきや、外交がいこう国際こくさい関係かんけい知識ちしき不足ふそくによる誤解ごかい背景はいけいにある)。

たとえば、アフリカからのイタリアじん捕虜ほりょ頻繁ひんぱん家族かぞく手紙てがみいていたのにたいし、日本にっぽん海軍かいぐん規範きはんべられているように、日本にっぽんぐん日本人にっぽんじん社会しゃかい捕虜ほりょ不名誉ふめいよとしていたため、捕虜ほりょになった日本にっぽんへいうち7、8わり偽名ぎめいもちいて登録とうろくしていた[3]本名ほんみょう本国ほんごく日本にっぽん照会しょうかいされて、自分じぶん家族かぞくなどが非国民ひこくみんあつかいをけ、村八分むらはちぶてき差別さべつにあう可能かのうせいけるため。実際じっさい捕虜ほりょだいいちごうとなった酒巻さかまき和男かずお少尉しょういいえは、非国民ひこくみんあつかいされていた)。したがって、本国ほんごくにいる自分じぶん家族かぞく手紙てがみくことはおこなわなかった。カウラに移送いそうされるまえのレッドホルムでの尋問じんもんちゅう新聞しんぶん写真しゃしんされた前田まえだがショックで自殺じさつはかっているほか、母国ぼこく健在けんざいらせる放送ほうそうけられた永友ながとも狂乱きょうらん状態じょうたいおちいったなどのことがあったため、ごうぐんえて追及ついきゅうけていた[33]

また、前述ぜんじゅつ待遇たいぐうめんたいする捕虜ほりょかたについて、高原こうげんは、厚遇こうぐうければけるほど、より精神せいしんてき呵責かしゃくてられる。また同時どうじきること価値かちをもかんじるようになっていった。しかしこうして捕虜ほりょとなることは本来ほんらいゆるされるものではなく、郷里きょうりかえろうにもかえれず、かといって帰化きかすること出来できない。こうしたジレンマにくわえ、戦局せんきょく日々ひび悪化あっかしていく事実じじつ現地げんち新聞しんぶんかられていた。豪州ごうしゅうぐん処刑しょけいされないのなら、居場所いばしょうしなった以上いじょう、いつかは自分じぶんたちけなければならないとかんがえながらもその機会きかいられずにいた、とかた[34]

脱走だっそう[編集へんしゅう]

収容しゅうようしょ移動いどうから脱走だっそう計画けいかく[編集へんしゅう]

1944ねん6がつ3にち、カウラにあいだもない朝鮮ちょうせんじん日本にっぽんへい捕虜ほりょ松本まつもとタケオより、捕虜ほりょ脱走だっそうくわだてているとの密告みっこくがあった。これをおもたシドニー地区ちく司令しれいは6がつ19にち、ヴィッカース機関きかんじゅう2ちょう追加ついか配備はいびさらにカウラの収容しゅうよう人数にんずう大幅おおはば定員ていいんオーバーしたこともあり、将校しょうこう下士官かしかんのぞ兵士へいし700めいを、400km西にし位置いちするヘイ(Hay, ニューサウスウェールズしゅう)のだい8捕虜ほりょ収容しゅうようしょうつすことを計画けいかく[35][36]通達つうたつはジュネーヴ条約じょうやくだい26じょう規定きていもとづいて移送いそう前日ぜんじつおこなうよう指示しじされたが、Bキャンプ司令しれいかんのラムゼー少佐しょうさは3にちはや8がつ4にち午後ごご2ごろ、捕虜ほりょ中心ちゅうしんかくであった金沢かなざわ小島こじま豊島としまさんめい通達つうたつした[37]移送いそうしゃのリストをその直接ちょくせつせ、豊島としま懸念けねんしめしたとも、兵士へいし分離ぶんりえてせていたが警備けいびへい一人ひとりくちすべらし、それを豊島としま数時間すうじかん確認かくにんして発覚はっかくしたたともされる[37]日本にっぽんへいにとって、下士官かしかんへい信頼しんらい関係かんけいあつむすばれたものであるという理論りろんもとづき、全体ぜんたい一緒いっしょ移送いそうならばいが、分離ぶんりしての移管いかんれることができない日本にっぽんへいは、それを契機けいきとして捕虜ほりょ収容しゅうようしょからの脱走だっそう計画けいかくすることになる[3]

事件じけん金沢かなざわは13にち査問さもん会議かいぎにて、脱走だっそう目的もくてきを「日本人にっぽんじんとして虜囚りょしゅうはじしのがたく、つね機会きかいもとるとき、分離ぶんり問題もんだいわれらの時期じき到来とうらいとし、1104めい一様いちよう決着けっちゃくせる行動こうどうなり。」とべている[8]。すなわち、行動こうどう本質ほんしつ脱走だっそうではなく、他力たりきによるであった。

日本人にっぽんじん捕虜ほりょ同日どうじつ午後ごご5事務所じむしょ幹部かんぶ10めい班長はんちょう40めいあつめてミーティングをひらき、要求ようきゅうれるか、反対はんたいして攻撃こうげきをするかの議論ぎろんおこなった。きゅうってわいたはなしゆえ、名案めいあんることもなく、おおくはだまりこくり、はらさぐいをしていた[8]高原こうげんによれば、なかには「九死きゅうし一生いっしょうだ。このいのち大切たいせつにしたい。日本にっぽんかえりたいし、肉親にくしんいたい。」といった発言はつげんをしたものもいたが、だれ賛同さんどうするものはおらず[38]だい26班長はんちょう森田もりた健司けんじ一等いっとうへいによれば、やがて強硬きょうこう班長はんちょう下山げざんがり、「貴様きさまらそれでも軍人ぐんじんか。非国民ひこくみんおれ始末しまつしてやる」とわめき、それに星野ほしのしんろく一等いっとう飛行ひこうへい同調どうちょう全員ぜんいんいたいところをかれたためじょう空気くうき一変いっぺんしたという[8][39]以降いこうすうあいだはほぼ両者りょうしゃがリードして出撃しゅつげき力説りきせつ班長はんちょうはほとんど無言むごんだったという[27][39]。ただし、りょうとも新参しんざんしゃ本来ほんらい発言はつげんけんひくく、だい14班長はんちょう大西おおにしおさむぼう軍曹ぐんそうは、小島こじま豊島としま扇動せんどうしたのではないかと推測すいそくしている[8]一方いっぽう高原こうげんによれば豊島としま会議かいぎ直後ちょくご、「下山げざんのやつ、えらそうなことばかりいいおって。脱走だっそうしようとしたこともないくせに」と愚痴ぐちをこぼしていたという[40]

最後さいごにとある班長はんちょう中野なかのどうであると推測すいそくしている[41])の提案ていあん一旦いったん会議かいぎ中止ちゅうしし、捕虜ほりょ全員ぜんいん多数決たすうけつ投票とうひょうおこなことになった。このさいトイレットペーパー移送いそう受諾じゅだくかを○×でおこなったという。「脱走だっそう参加さんか」と投票とうひょうしたもの少数しょうすういたが、結果けっかとして、移送いそう計画けいかく協調きょうちょうしない、すなわち脱走だっそうすることで決定けっていした。当時とうじ集団しゅうだん心理しんりとしてのけものになる、目立めだつことへの恐怖きょうふ心理しんり投票とうひょうつよはたらいて、ほとんどが脱走だっそう賛成さんせいしたことをげん生存せいぞんしゃ証言しょうげんしている[3]戦後せんご中野なかの不二男ふじお生存せいぞんしゃ100にんたいし、投票とうひょう結果けっか本心ほんしんはどうであったかのアンケート調査ちょうさおこなった。回答かいとうしたのは36にんであったが、うち投票とうひょう本心ほんしんともに○であったのは6にんぎず、投票とうひょう本心ほんしんともに×が10めい本心ほんしんは×だが投票とうひょうで○としたものが14にんとなった。回答かいとう事件じけん反省はんせい感情かんじょう考慮こうりょして多少たしょう割引わりびきはあれど、80パーセントが反対はんたいであったことになる[42]

班長はんちょう会議かいぎ作成さくせいされた作戦さくせん命令めいれいかくはんくばられ、捕虜ほりょたちは準備じゅんびととのえたのち、残飯ざんぱんつくったどぶろくをあおった。作戦さくせん命令めいれい作成さくせいしゃ不明ふめいだが、内容ないよう機関きかん銃座じゅうざ奪取だっしゅ、その掩護えんご鉄条てつじょうもう突破とっぱして守備しゅびたい宿舎しゅくしゃ制圧せいあつしたのち裏手うらておか集結しゅうけつ以後いご行動こうどうはその時点じてん決定けっていすること病弱びょうじゃくしゃ歩行ほこう不能ふのうもの事前じぜん処置しょちすることとした[42]

脱走だっそう決行けっこう[編集へんしゅう]

1944ねん8がつ5にち午前ごぜん2ほどからの深夜しんやたい豊島としま突撃とつげきラッパを合図あいずに、将校しょうこう入院にゅういんしゃふく不参加ふさんかしゃ118にん一説いっせつでは138にん)をのぞく900めい日本にっぽんへい集団しゅうだん脱走だっそう決行けっこうする[29]脱走だっそう携帯けいたいすること出来でき武器ぶきったものは身近みぢかにあるフォークナイフなどの金属きんぞく製品せいひん野球やきゅうバットといったものにぎず、機関きかんじゅう配備はいびされたオーストラリア警備けいびへい対抗たいこうできる状態じょうたいではかった。また、各自かくじ自決じけつよう剃刀かみそりった[6]

決行けっこうまえ作戦さくせん命令めいれいしたがい、あしわるもの次々つぎつぎくびをつって自殺じさつした。また、だい10はん安倍あべ班長はんちょうのように、豪州ごうしゅうへいとの戦闘せんとうこばんで自殺じさつするものもいた[43]決行けっこう直前ちょくぜん5ふんまえ一人ひとり捕虜ほりょがハットをし、なにかをうったえながらもんえてた。異常いじょう事態じたいさとった警備けいびへいのアルフレッド・ロールズ一等いっとうへいそらに2はつ威嚇いかく射撃しゃげきおこなった。それを豊島としまは「裏切者うらぎりものころせ!」とさけび、決行けっこうげて合図あいず突撃とつげきラッパをいた[43]

オーストラリアの歴史れきしGavin Long[44]によれば「午前ごぜん2ごろ一人ひとり日本人にっぽんじん(豊島としま)がキャンプのもんはしり、警備けいびさけんだのち、ラッパをいた。これにたいして警備けいびへい警告けいこく射撃しゃげきおこなった。つづいて『バンザイ』をさけびながら、毛布もうふをかぶりもうとおけようとした3にん日本人にっぽんじん(それぞれがきた西にし南側みなみがわ行動こうどう)に発砲はっぽうした。日本人にっぽんじん捕虜ほりょは、ナイフ、フォーク、くぎやフックをんだ野球やきゅうバットなどで武装ぶそうしていた」[32][45]

ほとんどの警備けいびへい就寝しゅうしんしていたが、発砲はっぽうのち非常ひじょう召集しょうしゅうされて配置はいちいた。日本人にっぽんじん捕虜ほりょはBブロックの建物たてもの放火ほうかやく200めい収容しゅうようしょ北西ほくせいから、やく200めい北部ほくぶから、やく300めい東部とうぶからそれぞれ脱走だっそうこころみた[46]

当時とうじ警備けいびへいは、「日本人にっぽんじんなにかんがえているのかからなかった。野球やきゅう相撲すもうなどのレクリエーションの自由じゆうもあったし、日本人にっぽんじんさかなべるので、(オーストラリアじんとはべつに、特別とくべつに)さかな食事しょくじ支給しきゅうされていた。脱走だっそうよる田舎いなか満月まんげつで、とてもあかるく、ひとかげがよくえたうえに、わざわざあかるくなるように建物たてもの放火ほうかをしたので、付近ふきん様子ようすひるのように目視もくしできた」と証言しょうげんしている[3]捕虜ほりょたちは西部せいぶ銃座じゅうざせ、機銃きじゅう掃射そうしゃおこなっていたベンジャミン・ハーディー一等いっとうへい撲殺ぼくさつ心得こころえのあるりくへいりついたが、ハーディーが直前ちょくぜんにボルトをいててていたため作動さどうしなかった[43]

収容しゅうようしょ敷地しきちがいへかろうじて脱出だっしゅつしたもののうち、やく70めい命令めいれいどおおかうえ集結しゅうけつしたが、どこかに脱出だっしゅつできるあてもなく、夜明よあ帰順きじゅんした[47]前田まえだ金田かねだひろしだい13はんふく班長はんちょう)らのこり33めい逃走とうそうつづけ、豪州ごうしゅう農村のうそんまわった。なかには民家みんかまえっていた川口かわぐちすすむら3にん捕虜ほりょに、牧場ぼくじょうぬしつまが『もうすぐ菓子かしけるからべてきなさい』とむかれ、紅茶こうちゃとスコーンを交流こうりゅうもあった[3][38]。しかしおおくの住民じゅうみん捕虜ほりょ警戒けいかいして武装ぶそうし、射殺しゃさつするケースもあった[38]金田かねだ武装ぶそうした住民じゅうみんによって3にち逮捕たいほされた[19]一方いっぽう豪州ごうしゅうぐん陸軍りくぐん訓練くんれんしょ生徒せいとたい追撃ついげきかわせたが、夕方ゆうがたかわせ没前ぼつぜんもどらせるという無理むり命令めいれいうえ歩兵ほへい訓練くんれん基地きち司令しれいかんミッチェル大佐たいさは、新兵しんぺいゆえの経験けいけん不足ふそく同士討どうしうちとなる可能かのうせいや、日本にっぽんによるオーストラリアへい捕虜ほりょへの報復ほうふくおそ銃剣じゅうけん以外いがい武器ぶき携行けいこうゆるさなかった[48]結果けっか士官しかん1めい捕虜ほりょ撲殺ぼくさつされている。かれ捕虜ほりょおおくはふたた捕虜ほりょにならぬよう自殺じさつした。また、怨恨えんこんからか、豪州ごうしゅうへいによる射殺しゃさつもあったという[38]前田まえだのように1週間しゅうかんもさまよう日本にっぽんへいもいたが[11]最終さいしゅうてき敷地しきちがいでの自殺じさつしゃ他殺たさつしゃ25めいのぞき、8にちまでに全員ぜんいん捕縛ほばくされた[47]

死者ししゃすうは235めい(オーストラリアじん4めい日本人にっぽんじん231めい)と多数たすう死傷ししょうしゃした。負傷ふしょうしゃすう日本人にっぽんじん108めい(うち3めい重傷じゅうしょうのため死亡しぼう)、オーストラリアじん4めい[47]。なお将校しょうこうキャンプでは参加さんかしゃがいなかったが、田島たじまたく自軍じぐん少尉しょうい偽名ぎめい藤田ふじた一郎いちろう大尉たいい)がながだまりょうももけ1,2あいだ死亡しぼう参加さんかしようとした及川おいかわあきら海軍かいぐん少尉しょういあし負傷ふしょうした[49][50]

オーストラリア政府せいふ反応はんのう[編集へんしゅう]

オーストラリア政府せいふは、当初とうしょカウラ事件じけん極秘ごくひ情報じょうほうとしておおやけにはしなかった。事件じけん当時とうじ戦時せんじちゅうであり、日本にっぽん政府せいふ日本にっぽんへい捕虜ほりょ多数たすうられた場合ばあい日本にっぽんによるオーストラリアへい捕虜ほりょたいする危険きけん可能かのうせい考慮こうりょした結果けっかである。事件じけん当日とうじつあさ7のABCラジオと新聞しんぶんでの発表はっぴょう許可きょかしたものの、捕虜ほりょ国籍こくせき死者ししゃすう公表こうひょうせず、8がつ6にち事態じたい収束しゅうそく宣言せんげんした。9月9にち首相しゅしょうジョン・カーティン捕虜ほりょ日本人にっぽんじんであること死者ししゃが200めい以上いじょうであること発表はっぴょうした[38]

日本にっぽん政府せいふ反応はんのう[編集へんしゅう]

日本にっぽん政府せいふは、カウラ事件じけんきたことを8がつ10日とおかには国際こくさい赤十字せきじゅうじつうじてベルン駐在ちゅうざい外交がいこうかん与謝野よさのしげるより報告ほうこくけていた[38]。また、9月2にちには軍事ぐんじ査問さもんかい報告ほうこくしょ捕虜ほりょ死亡しぼうしゃリストを豪州ごうしゅうよりスイスをとおしてっていたが、その詳細しょうさいはカーティンの公式こうしき発表はっぴょうまで把握はあくできなかった。しかし、日本にっぽん政府せいふ自国じこくぐん捕虜ほりょ存在そんざい自体じたい否定ひていしており、戦時せんじちゅう発表はっぴょうすることはかった。唯一ゆいいつ日本にっぽんぐん占領せんりょうインドネシア放送ほうそうきょくラジオ・バタビアが豪州ごうしゅう当局とうきょく公式こうしき発表はっぴょう翌日よくじつに「豪州ごうしゅうへい収容しゅうようしょにいた民間みんかん日本人にっぽんじん抑留よくりゅうしゃ虐殺ぎゃくさつした」と、捕虜ほりょであることをせ、豪州ごうしゅう当局とうきょくを「日本にっぽん民間みんかんじん収容しゅうようしゃ冷血れいけつ殺人さつじん」と非難ひなんするプロパガンダ放送ほうそうおこなっていた[38]

その[編集へんしゅう]

カウラの日本人にっぽんじんキャンプが焼失しょうしつしたため、同年どうねん8がつまつ下士官かしかんはマーチソン収容しゅうようしょに、へいはヘイだい8収容しゅうようしょ移送いそうした。将校しょうこう翌年よくねん3がつまつにマーチソン収容しゅうようしょうつされた[51]。ヘイではしん団長だんちょうどう手腕しゅわんもあって決起けっきうごきがこることはなかった。一方いっぽう、マーチソンの下士官かしかんキャンプやカウラをらないヘイ隣接りんせつだい7収容しゅうようしょでは決起けっきうごきが度々たびたびいぶっていたが、穏健おんけん収容しゅうようしょ管理かんりがわ結託けったくして強硬きょうこうおさんだ。マーチソンではものさわよう収容しゅうようしょがわ対応たいおうもあって危険きけん水域すいいきにはたっせず、やがて戦意せんい低下ていかした末期まっき捕虜ほりょくわわると沈静ちんせいした[52]。1946ねん3がつ復員ふくいん。引揚せんはこばれた。なお、事件じけん捕虜ほりょとしてくわわったものはマーチソンでは原田はらだ松藤まつふじ陸軍りくぐん薬剤やくざい中佐ちゅうさあさくも艦長かんちょう柴山しばやま一雄かずお海軍かいぐん中佐ちゅうさ、ヘイだい8収容しゅうようしょでは奥崎おくざき謙三けんぞうがいる[53]

事件じけん直後ちょくごの8がつ7にち、オールベリーにかれただい6兵站へいたんしょう地域ちいき指揮しきかんフレデリック・クリスチソン大佐たいさ議長ぎちょうとして軍事ぐんじ査問さもんかいひらかれ、脱走だっそうくわわった捕虜ほりょ7めいふくむ60めい以上いじょう証人しょうにん法廷ほうてい証言しょうげんした。また、オーストラリアじん監視かんしへい4めい日本人にっぽんじん捕虜ほりょ234めい死因しいんあきらかにすること目的もくてきとして民事みんじ検視けんし査問さもんかいが、10月31にちと12月11にちから15にちにかけて非公開ひこうかい実施じっしされた。りょう査問さもんかいでは、いずれも事件じけん計画けいかくてきなものとして結論けつろんけている。一方いっぽう非公開ひこうかいせい不満ふまんった赤十字せきじゅうじがわどう森木もりき独自どくじ報告ほうこくしょ作成さくせいさせ、事件じけん偶発ぐうはつてきなものとして結論けつろんけた[38]

1945ねん1がつ1にち金沢かなざわ後継こうけい団長だんちょう吉田よしだひろ曹長そうちょう[29]軍法ぐんぽう会議かいぎで、事件じけん当日とうじつのベンジャミン・ハーディー一等いっとうへいたいする殺人さつじん、および「ただしい規律きりつ秩序ちつじょみだした」ざいわれた。陳述ちんじゅつでは金沢かなざわのみならず、無関係むかんけいとみられていた将校しょうこうキャンプの西尾にしお大尉たいいも「将校しょうこう全員ぜんいん銃殺じゅうさつしてくれ」とねが[29]困惑こんわくした豪州ごうしゅう当局とうきょく同月どうげつ25にち判決はんけつ吉田よしだ無罪むざい金沢かなざわ後者こうしゃつみ有罪ゆうざい判決はんけつとし、重労働じゅうろうどう15かげつけいした[54][29]金沢かなざわはカウラで独房どくぼう生活せいかつごし、1946ねん3がつ刑期けいきげられ、捕虜ほりょたちととも大阪おおさか商船しょうせん復員ふくいんせんだいいち大海たいかいまるんだ[51][38]

事件じけん前日ぜんじつ会議かいぎ気炎きえんげた下山げざんは、事件じけんのこったことおなはん捕虜ほりょ投票とうひょうさせず全員ぜんいんあつかいで提出ていしゅつしたことあしわるはんいん自決じけつ強要きょうようしたこと捕虜ほりょめられ、ヘイ移送いそうまえの8がつ9にち自決じけつまれた[53]。また、脱走だっそう反対はんたいしたストレスで精神せいしんみ、復員ふくいんたず自殺じさつした捕虜ほりょもいた[38]

脱走だっそう計画けいかくはあったのか?[編集へんしゅう]

松本まつもとタケオの脱走だっそう計画けいかくもと捕虜ほりょおおくが否定ひていしており、森田もりたによれば当初とうしょそういうはなしかったわけではないが、安穏あんのんとした捕虜ほりょ生活せいかつでほぼ形骸けいがいしていたとしている。また、武器ぶきとされるものも普段ふだん道具どうぐとして使用しようしていたもので、加工かこうした突発とっぱつてきなものであったとおもわれる。一方いっぽうで、7がつちゅうに3にん捕虜ほりょ意図いとてき規則きそく違反いはん行動こうどうをとるなど、進行しんこうちゅう計画けいかくから離脱りだつするかのような不審ふしんうごきがあったと記録きろくされている[47]

戦後せんご[編集へんしゅう]

収容しゅうようしょ跡地あとちつくられた日本人にっぽんじん戦死せんししゃ墓地ぼち

1962ねん収容しゅうようしょ跡地あとちにカウラ日本人にっぽんじん戦死せんししゃ墓地ぼち(Cowra Prisoner of War Camp)が建設けんせつされ、カウラでの死者ししゃくわ豪州ごうしゅう地域ちいきでの戦死せんししゃくわえた522はしら埋葬まいそうされた。1963ねんにはオーストラリア政府せいふはからいによって、墓地ぼち日本にっぽん譲渡ゆずりわたされ、日本にっぽんこく国庫こっこ帰属きぞくした(オーストラリア戦争せんそう墓地ぼち委員いいんかい管理かんりにある)。関連かんれんするものとしてカウラ日本にっぽん庭園ていえん(Cowra Japanese Garden)がある。この事件じけんへの追悼ついとうめて、Bellevue Hillに日本にっぽん庭園ていえん造園ぞうえんされた。墓標ぼひょうおおくは偽名ぎめいで、いまなお身元みもと不明ふめいものおおい。どう森木もりきひそかにかえった戦死せんししゃ名簿めいぼをもとに厚生省こうせいしょう協力きょうりょく本名ほんみょう作業さぎょうおこなったものの、一部いちぶ遺族いぞくから「戦死せんし公報こうほうのままにしてほしい」との抗議こうぎがったため、若干じゃっかんめい確認かくにんしたところで中止ちゅうしした[11][53]。なお、豊島としま身元みもと不明ふめいしゃ一人ひとりであったが、1981ねんはたいく彦の調査ちょうさみなみ忠男ただお豊島としまはじめであると判明はんめいした[55]

1970ねん教育きょういく映画えいが製作せいさくしゃ高橋たかはし克雄かつお監督かんとく(株式会社かぶしきがいしゃ東中ひがしなか代表だいひょう)・富美子とみこ夫妻ふさい日本にっぽん貿易ぼうえき振興しんこう機構きこう(JETRO)の海外かいがいPR映画えいが『オーストラリア・東経とうけい135じょう隣人りんじん製作せいさく取材しゅざいのためカウラを訪問ほうもん日本人にっぽんじん墓地ぼち取材しゅざいにはぜん市長しちょうオリバーとカップス市長しちょう夫妻ふさい正装せいそうして同行どうこうした。事件じけん戦死せんししゃ(オーストラリア警備けいびたいによる機関きかんじゅう掃射そうしゃ)が、広島ひろしま師団しだん出身しゅっしんしゃであることから、夫妻ふさい広島ひろしま地酒じざけ持参じさんしてはかそそぎ、慟哭どうこく撮影さつえい苦慮くりょした。墓地ぼち映画えいが記録きろくされ、海外かいがい広報こうほう使つかわれた。高橋たかはし夫妻ふさいは、日本人にっぽんじん墓地ぼち完成かんせいしてからはじめてカウラまってくれた日本人にっぽんじん市役所しやくしょげん)として歓待かんたいけ、そのながく、市長しちょう夫妻ふさいらとの交流こうりゅうつづいた。この取材しゅざい実現じつげんには、当時とうじ斉藤さいとう大使たいし夫妻ふさい名瀬なぜ参事官さんじかん尽力じんりょくし、日産にっさん取材しゅざいしゃ提供ていきょうして長期ちょうき取材しゅざい協力きょうりょくした。なお、高橋たかはし監督かんとく夫妻ふさいは1979ねんに、当時とうじ皇太子こうたいし明仁あきひと親王しんのう同妃どうひ美智子みちこまねかれて4にん懇談こんだんしたが、そのさい明仁あきひと親王しんのうはカウラ戦友せんゆうかい代表だいひょうしゃ名前なまえをすらすらとぐちにしたという[56]

2004ねん8がつ、カウラ事件じけん60周年しゅうねん式典しきてんおこなわれた[57]現在げんざいでも、毎年まいとしカウラでは慰霊いれいさいおこなわれている。2006ねん11月には、聖路加国際病院せいるかこくさいびょういん名誉めいよ院長いんちょうなどをつとめる日野ひのはら重明しげあきが、カウラをおとずれた。2014ねん8がつには、天台宗てんだいしゅうハワイひらききょう総長そうちょうあらりょうひろしらが中心ちゅうしんとなり、ちょう宗派しゅうはによる70周年しゅうねん慰霊いれい行事ぎょうじおこなわれた。

皇室こうしつのカウラ訪問ほうもん[編集へんしゅう]

1973ねん昭和しょうわ48ねん)、皇太子こうたいし皇太子こうたいし時代じだい明仁あきひと上皇じょうこううえ皇后こうごう美智子みちこはオーストラリア、ニュージーランド両国りょうこく訪問ほうもん。そのさい、カウラにもり、日本人にっぽんじん墓地ぼち供花きょうかした。1992ねん平成へいせい4ねん)には黒田くろだ清子きよこ当時とうじ清子きよこ内親王ないしんのう)、1995ねん平成へいせい7ねん)には秋篠宮あきしののみやぶんじん親王しんのう夫妻ふさいおなじカウラ日本人にっぽんじん墓地ぼちおとず供花きょうかしている。

にちごう交換こうかん留学生りゅうがくせい[編集へんしゅう]

オリバーはにちごう親善しんぜん若者わかものへの期待きたいはかるため、高校生こうこうせい相互そうご交流こうりゅう提案ていあんした。これをもとに、1970ねん、カウラ高等こうとう学校がっこう東京とうきょう武蔵野むさしの成蹊高等学校せいけいこうとうがっこうとのあいだに、交換こうかん留学りゅうがく制度せいど発足ほっそくした。双方そうほうからいちにんずついち年間ねんかんホームステイするこの制度せいどは、2010ねんには40周年しゅうねんむかえ、両校りょうこう代表だいひょう相互そうご訪問ほうもんをするなどした。脚本きゃくほんゆえ如月きさらぎ小春こはるはこの制度せいどでカウラ高校こうこう留学りゅうがくしている。2003ねんより夏季かき短期たんき訪問ほうもんおこなわれている。2020ねんには交換こうかん留学りゅうがく制度せいど開始かいし50周年しゅうねんむかえる[58]

直江津なおえつとの交流こうりゅう[編集へんしゅう]

1988ねん、T・グリン神父しんぷがオーストラリアもと捕虜ほりょへい一緒いっしょに、捕虜ほりょ収容しゅうようしょのあった新潟にいがたけん直江津なおえつ訪問ほうもんし、故人こじんをしのぶめいばん寄託きたく事件じけん以降いこう毎年まいとし慰霊いれいさいおこなわれていることを、日本人にっぽんじんはじめてられることになった。1995ねん10月8にちには、直江津なおえつ捕虜ほりょ収容しゅうようしょ事件じけん被害ひがいしゃいた直江津なおえつ平和へいわ記念きねん公園こうえん開設かいせつした。

ダーウィン[編集へんしゅう]

ダーウィンでの戦没せんぼつしゃ墓地ぼちには、オーストラリアじん日本人にっぽんじん墓地ぼちととのえられている。日本人にっぽんじん墓地ぼちには、それぞれに名前なまえられた個別こべつ墓石はかいしととのえられている[59]

映像えいぞう作品さくひん[編集へんしゅう]

ドキュメンタリー映画えいが
映画えいが
テレビドラマ
テレビ番組ばんぐみ
  • はじめて戦争せんそうった - 若者わかものたちのたび(2)きて虜囚りょしゅうはずかしめをけず - オーストラリア・カウラ事件じけん』(1993ねんNHKエンタープライズ

学位がくい論文ろんぶん[編集へんしゅう]

  • 博士はかせ論文ろんぶん『カウラ事件じけん(1944ねん)の研究けんきゅう : 捕虜ほりょ日々ひびきた日本にっぽんへいたちの「日常にちじょう」からのさい考察こうさつ山田やまだ真美まみ (2014ねん)おちゃ水女子大学みずじょしだいがく

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 中野なかの(1984)、p.129にもとづく。ただしはた(1998)、P.252では高原こうげん以外いがい偽名ぎめい山川やまかわきよし伊野いの治義はるよし天川あまかわのぼる平田ひらた一夫かずおとなっている。事件じけんでは沖本おきもと死亡しぼう

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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  2. ^ Cowra Breakout”. オーストラリア戦争せんそう記念きねんかん. 2008ねん6がつ18にち閲覧えつらん
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  45. ^ 原文げんぶんAt about 2 a.m. a Japanese ran to the camp gates and shouted what seemed to be a warning to the sentries. Then a Japanese bugle sounded. A sentry fired a warning shot. More sentries fired as three mobs of prisoners, shouting "Banzai", began breaking through the wire, one mob on the northern side, one on the western and one on the southern. They flung themselves across the wire with the help of blankets. They were armed with knives, baseball bats, clubs studded with nails and hooks, wire stilettos and garotting cords.
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 中野なかの不二男ふじお『カウラの突撃とつげきラッパ れいせんパイロットはなぜんだか』文芸春秋ぶんげいしゅんじゅう、1991ねんISBN 4-16-727906-1 
  • ハリー・ゴードン しる山田やまだ真美まみ わけきて虜囚りょしゅうはずかしめをけず カウラだいじゅうせんそう捕虜ほりょ収容しゅうようしょからの脱走だっそう清流せいりゅう出版しゅっぱん、1995ねんISBN 4-916028-24-4 
  • はたいく日本人にっぽんじん捕虜ほりょ 白村はくそんこうからシベリア抑留よくりゅうまで うえはら書房しょぼう、1998ねんISBN 4-562-03071-2 
  • 森木もりきまさる『カウラ出撃しゅつげき今日きょう話題わだいしゃ太平洋戦争たいへいようせんそうノンフィクション〉、1972ねん 
  • 神立かんだつ尚紀なおき戦士せんし肖像しょうぞう文芸春秋ぶんげいしゅんじゅう、2004ねんISBN 4-89036-206-1 
  • 山田やまだ真美まみ『ロスト・オフィサー』スパイス、2005ねんISBN 4-902835-06-1
  • Reading list - Cowra Outbreak(オーストラリア戦争せんそう記念きねんかんサイトより)
  • Dead Men Rising(Angus & Robertson出版しゅっぱん、1975ねんちょ:Mackenzie Kenneth〈当時とうじカウラに駐屯ちゅうとん〉)

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]