神風かみかぜ

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カミカゼから転送てんそう
神風かみかぜモンゴル艦隊かんたい破壊はかいされた。菊池きくち容斎ようさい(1847ねん

神風かみかぜ(かみかぜ、しんぷう、かむかぜ)は神道しんとう用語ようごかみ威力いりょくによってつよふう意味いみする。

ふるくは日本書紀にほんしょきたれ仁紀ひとのりにおいて、「神風かみかぜ(かむかぜ)の伊勢いせくに常世とこよなみ敷浪しきなみするくになり。このくにらむとおもふ」というやまとひめいのち(ヤマトヒメノミコト)がてんあきら大神おおがみからけた神託しんたくなどに登場とうじょうする。「神風かみかぜの」は伊勢いせにかかる枕詞まくらことばである(「神風かみかぜや」は伊勢神宮いせじんぐう関係かんけいふか五十鈴川いすずがわなどにもかかる)[1]

和歌わか[編集へんしゅう]

ふるくは『万葉集まんようしゅう』に神風かみかぜについて記述きじゅつしたものがられ、れいとして、まきだい163ばんにはだいらい皇女おうじょうたとして、「神風かみかぜ伊勢いせくににも あらましを なにしかけむ きみもあらなくに」やどうまき199ばんには柿本人麻呂かきのもとのひとまろうたとして、てきぐん神風かみかぜいて混乱こんらんさせるむね内容ないよう記述きじゅつされていることから、奈良なら時代じだい時点じてん軍事ぐんじ神風かみかぜくといったかんがかたがあったことがわかる。

もと寇での暴風雨ぼうふうう[編集へんしゅう]

こうむ襲来しゅうらい絵詞えことばぜんまきろく】。一時期いちじき日本にっぽんもとぐん撃退げきたいできた要因よういんは「神風かみかぜ」とばれる暴風雨ぼうふううであったとされた。
神風かみかぜによってうみぼっするもとぐん葛飾かつしかためとき

ぶんひさし弘安ひろやすやくでの2にわたるもと寇でもとぐんだい損害そんがいあたえた暴風雨ぼうふううのこと。 中国ちゅうごく大陸たいりく朝鮮半島ちょうせんはんとうをほぼ制圧せいあつしたもとは、日本にっぽんたいしてもと属国ぞっこくとなって朝貢ちょうこうすることをせまった。 この要求ようきゅうとき鎌倉かまくら幕府ばくふ執権しっけん北条ほうじょう時宗じしゅう拒絶きょぜつしたところ、1274ねんぶんなが10ねん)と1281ねん弘安ひろやす4ねん)のにわたり武力ぶりょく併合へいごうおこなうべく、征服せいふく併合へいごうしたこううらららの軍勢ぐんぜいしたがえて大船おおぶねだん日本にっぽん本土ほんどせた(もと)。

もとだいいちかいぶんながやくでは、もとがわ史料しりょう高麗こうらい』によると、博多湾はかたわんから上陸じょうりくしたもとぐん日本にっぽんぐんはげしい抵抗ていこうけ、ふく司令しれいかんであるひだりふく元帥げんすいりゅうふくとおる負傷ふしょうするなど苦戦くせんしたため、もとぐんそう司令しれいかんである元帥げんすいゆるがせあつし(クドゥン)は「孫子まごこ兵法ひょうほうに『小敵しょうてきけんは、大敵たいてきとりこなり』とあって、少数しょうすうへいもとぐん)が力量りきりょうかえりみずに頑強がんきょうたたかっても、多数たすう兵力へいりょく日本にっぽんぐん)のまえには結局けっきょく捕虜ほりょにしかならないものである。疲弊ひへいした兵士へいしもちい、日増ひましにえるてきぐん相対あいたいさせるのは、完璧かんぺきさくとはえない。撤退てったいすべきである」とべ、もとぐん撤退てったいすることにけっしたとされる[2]危険きけん夜間やかん撤退てったい強行きょうこうしたもとぐんはその撤退てったい道中どうちゅう暴風雨ぼうふううい、朝鮮半島ちょうせんはんとう合浦がつぽ帰還きかんしたときには、13,500余人よにん帰還きかんしゃしていた[3]

かいもと寇・弘安ひろやすやくでは、もとぐん日本にっぽんぐん猛攻もうこう志賀島しかしまたたか壱岐島いきしまたたか鷹島たかしまおき海戦かいせん)で苦戦くせんいられ、ヶ月かげつちか海上かいじょう停滞ていたいしていたまま台風たいふうい、だい損害そんがいして混乱こんらんしたところを日本にっぽんぐんそう攻撃こうげきけて、壊滅かいめつした(御厨みくりや海上かいじょう合戦かっせん鷹島たかしま掃討そうとうせん)。もとぐん捕虜ほりょは2、3まんにもたっした[4]

かみ風連ふうれんらん[編集へんしゅう]

かみ風連ふうれんらんえがいた「熊本くまもと暴動ぼうどうぞくさきがけ討死うちじに

1876ねん明治めいじ9ねん)に熊本くまもと鎮台ちんだいきた、明治めいじ政府せいふへの士族しぞく反乱はんらんかみ風連ふうれん(しんぷうれん)のへんぶこともある。「れん」というのは熊本くまもと郷党きょうとう組織そしきことくわしくはかみ風連ふうれんらん参照さんしょう

神風かみかぜれん政府せいふ開明かいめい政策せいさく反対はんたいする復古ふっこ主義しゅぎ排外はいがい主義しゅぎ主張しゅちょうしており、国粋こくすい主義しゅぎてき思想しそう背景はいけいっていた。かみ風連ふうれん敬神けいしんとう)の神道しんとう信仰しんこう由来ゆらいする。

これを題材だいざいとする作品さくひん三島みしま由紀夫ゆきおよんさく豊饒ほうじょううみだいかん奔馬ほんば」』がある。

もの[編集へんしゅう]

1937ねん昭和しょうわ12ねん)4がつ東京とうきょうからロンドンまでの100あいだ世界せかい記録きろく飛行ひこう成功せいこうした朝日新聞社あさひしんぶんしゃ航空機こうくうき神風かみかぜごうしょうし、その乗務じょうむいん帰国きこくして前述ぜんじゅつした伊勢神宮いせじんぐう参拝さんぱいすることになったため、同年どうねん5月24にち現在げんざい近畿日本鉄道きんきにほんてつどう近鉄きんてつ)の母系ぼけい会社かいしゃである大阪おおさか電気でんき軌道きどうだい軌)とその子会社こがいしゃ参宮さんぐう急行きゅうこう電鉄でんてつまいりきゅう)は、大阪おおさかうえ本町ほんちょうえきげん大阪おおさか上本うえほんまちえき)から伊勢神宮いせじんぐう外宮げくう最寄駅もよりえきである宇治山田うじやまだえきまで臨時りんじ記念きねん特急とっきゅう電車でんしゃ運行うんこうし、その特急とっきゅう電車でんしゃも「神風かみかぜごう」とづけられた。

神風かみかぜ」はその翌日よくじつから同社どうしゃ定期ていき特急とっきゅう列車れっしゃ名前なまえ採用さいようされ、1938ねん昭和しょうわ13ねん)ごろまでだい軌の看板かんばん列車れっしゃとしてはしつづけた。なお、航空機こうくうきほうの「神風かみかぜ」にもとづいたクラシック音楽おんがくで、神戸こうべ出身しゅっしん作曲さっきょく大澤おおさわ壽人ひさとによる「ピアノ協奏曲きょうそうきょくだい3ばん神風かみかぜ」というものがある。

ふね名前なまえとしてももちいられた。日本にっぽん海軍かいぐん駆逐くちくかんには、初代しょだい神風かみかぜがた」と、代目だいめ神風かみかぜがた」がいる。また、戦後せんご海上保安庁かいじょうほあんちょうちよかぜがた巡視じゅんしていいちせきに「かみかぜ」のあたえられている。

また、国内こくない設計せっけいされた航空機こうくうきようエンジンとしては、はじめて量産りょうさん成功せいこうしたエンジンは「神風かみかぜ」と名付なづけられ、小型こがたけい患者かんじゃ輸送ゆそうなどに搭載とうさいされた。

だい世界せかい大戦たいせんでの神風かみかぜ特別とくべつ攻撃こうげきたい[編集へんしゅう]

1944ねん11月25にちUSS エセックス体当たいあたりするYamaguchi Yoshinori中尉ちゅうい特攻とっこう彗星すいせい)。着色ちゃくしょくされた写真しゃしん

神風かみかぜ」は、日本にっぽんのその思想しそうおおきな影響えいきょうあたえた。特別とくべつ攻撃こうげきたい神風かみかぜ(Kamikaze)は、もとはらった神風かみかぜ同様どうように、連合れんごうこくつということに由来ゆらいする。この神風かみかぜ特別とくべつ攻撃こうげきたい事例じれいは、世界せかいてき有名ゆうめいとなった。

終戦しゅうせん民間みんかん航空こうくう便びん再開さいかいされるとパイロット不足ふそくからのこったもと日本にっぽんぐんのパイロットらがおお雇用こようされたが、「神風かみかぜパイロットが操縦そうじゅうするのか」と罵倒ばとうされるなど戦後せんご日本にっぽん航空こうくう業界ぎょうかいにもわるいイメージをあたえた[5]

比喩ひゆとして[編集へんしゅう]

もと寇のとき故事こじ由来ゆらいして、おもいがけない幸運こううんめぐまれることについて「神風かみかぜく」という表現ひょうげん使つかわれる。

また、神風かみかぜ特攻隊とっこうたい由来ゆらいして、危険きけんかえりみない攻撃こうげきたいする比喩ひゆとしてももちいられる。アメリカ同時どうじ多発たはつテロ事件じけんころから、アルカーイダによる自爆じばくテロたいKamikazeという形容けいよう各種かくしゅマスコミ欧米おうべいおよびアラブりのマスコミ)によってもちいられた。外来がいらい原義げんぎことなる意味いみになるれいとして、英語えいごのkamikazeと日本語にほんご神風かみかぜ意味いみにずれがしょうじるのは外来がいらいれの過程かていにもきることである。また日本にっぽんでも戦後せんご乱暴らんぼう運転うんてんおこなタクシーを「神風かみかぜタクシー」とんだれいがある。カクテルカミカゼあじれのするどさをたとえた命名めいめいである。

徘徊はいかいがた兵器へいきはその特性とくせいからカミカゼUAVなどと表現ひょうげんされる。

ドラゴンクエストシリーズ自爆じばくする呪文じゅもん『メガンテ』は海外かいがいばんで『Kamikazee』とやくされている[6]

海外かいがい類例るいれい[編集へんしゅう]

古代こだいギリシア歴史れきしヘロドトスの『歴史れきし』によれば、紀元前きげんぜん492ねんアケメネスあさペルシア帝国ていこく海軍かいぐんが、ギリシア本土ほんど侵攻しんこうしようとしたさいアトス半島はんとうで「神風かみかぜ」にあって艦船かんせん大破たいは、ペルシャぐんたたかわずして潰走かいそうしたとされている。

ギリシア神話しんわもとづけば、このふうふゆにギリシアの北方ほっぽうからつめたいふうをもたらすボレアス(Boreas)というかみこしたもので、ときにはおそろしい破壊はかいをもたらしたという。

ボレアスがアテナイ王女おうじょオレイテュイアを略奪りゃくだつする神話しんわは、芸術げいじゅつ作品さくひん素材そざいとしてもよくられており、アテナイの人々ひとびとはボレアスを親類しんるいとしていた。

なお、イソップ物語ものがたり登場とうじょうする『北風きたかぜ太陽たいよう』は本来ほんらいボレアスと太陽たいようしんアポロンのやりとりであったとわれている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 松村まつむらあきら古語こご辞典じてん」(だいじゅうはん旺文社おうぶんしゃ 2008ねん
  2. ^ 高麗こうらいまきいちひゃくよん 列伝れつでんじゅうなな きんかたけいしょぐんあずかたたかえ、及暮乃解、ほうけいいいゆるがせあつしちゃおか曰、『兵法ひょうほう千里せんりけんぐん、其鋒不可ふかとうわが雖少、やめにゅうてきさかいひとためせんそくはじめあきら焚船淮陰背水はいすい也、請復せん』、ゆるがせあつし曰、『兵法ひょうほう小敵しょうてきけん大敵たいてきとりこさくつかれとぼしこれへいてき滋之しげゆきしゅかんけい也、わかかいぐんふくとおるちゅう流矢ながれや先登せんとうぶねとげ引兵かえかいよる大風おおふう戰艦せんかんさわいわはい、侁堕水死すいしいた合浦がつぽ、」
  3. ^ 高麗こうらいまきじゅうはち せいじゅうはち ちゅうれつおういち げんむねじゅうねんじゅういちがつおのれじゅうななにち)のじょうおのれ東征とうせいかえ合浦がつぽどう樞密院すうみついんごとちょう鎰勞ぐんかえしゃ無慮むりょまんさんせんひゃく餘人よにん。」
  4. ^ もとまきひゃくはち 列傳れつでんだいきゅうじゅう がいえびすいち にち本國ほんごくななにち日本人にっぽんじんらいたたかえつきあまりさん萬為其虜去」
  5. ^ 立花たちばなゆずる帝国ていこく海軍かいぐん士官しかんになった日系にっけいせい』(築地つきじしょかん、1994)232ぺーじ
  6. ^ ドラクエやモンハンの世界せかいをどうやくす? 「教会きょうかい十字架じゅうじかかたちまでえる」ゲーム翻訳ほんやく奥深おくふか世界せかい (2/4) - ねとらぼ

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

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