ガイウス・ユリウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス (古典 こてん ラテン語 らてんご :Gaius Julius Caesar Augustus Germanicus (ガーイウス・ユーリウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマーニクス)、12年 ねん 8月 がつ 31日 にち - 41年 ねん 1月 がつ 24日 にち )は、第 だい 3代 だい ロ ろ ーマ帝国 まていこく 皇帝 こうてい (在位 ざいい :37年 ねん - 41年 ねん )。ユリウス=クラウディウス朝 あさ の皇帝 こうてい の1人 ひとり である。カリグラ (Caligula, カリギュラ とも表記 ひょうき )の名 な でよく知 し られている(幼少 ようしょう の頃 ころ に履 は いていた小 ちい さな軍靴 ぐんか に由来 ゆらい する愛称 あいしょう )。
短 みじか い在位 ざいい 期間 きかん に、カリグラは壮大 そうだい な建設 けんせつ 事業 じぎょう と領土 りょうど の拡大 かくだい に力 ちから を注 そそ いだ。また最高 さいこう 権力 けんりょく 者 しゃ としての威信 いしん を高 たか めることに努 つと め、彼 かれ を打 う ち倒 たお そうと繰 く り返 かえ される陰謀 いんぼう から自身 じしん の地位 ちい を懸命 けんめい に守 まも りつづけたが、元老 げんろう 院 いん も関与 かんよ した陰謀 いんぼう により、41年 ねん にプラエトリアニ (親衛隊 しんえいたい )の一部 いちぶ 将校 しょうこう らによって暗殺 あんさつ された。その治世 ちせい を通 つう じてローマ市民 しみん からは人気 にんき が高 たか かったが、現存 げんそん する後代 こうだい の史料 しりょう ではいずれも、カリグラは狂気 きょうき じみた独裁 どくさい 者 しゃ であり、残忍 ざんにん で浪費 ろうひ 癖 へき や性的 せいてき 倒錯 とうさく の持 も ち主 ぬし であったとしている。しかし現存 げんそん する一 いち 次 じ 史料 しりょう の数 かず は少 すく なく、カリグラの治世 ちせい の実態 じったい には不明 ふめい な点 てん が多 おお い。
カリグラは12年 ねん 8月 がつ 31日 にち にアンツィオ の保養 ほよう 地 ち において、ガイウス・ユリウス・カエサル・ゲルマニクスの出生 しゅっしょう 名 めい で誕生 たんじょう した[1] 。彼 かれ はゲルマニクス と大 だい アグリッピナ のあいだに生 う まれて成人 せいじん した6人 にん の子供 こども の中 なか で3番目 ばんめ に当 あ たる[2] 。カリグラの兄弟 きょうだい は、長兄 ちょうけい ネロ・カエサル と次兄 じけい ドルスス・カエサル である[2] 。妹 いもうと にはユリア・リウィッラ とユリア・ドルシッラ 、小 しょう アグリッピナ がいる[2] 。またカリグラは次代 じだい の皇帝 こうてい クラウディウス の甥 おい 、その次 つぎ の皇帝 こうてい ネロ の伯父 おじ にもあたる[3] 。
カリグラの父 ちち ゲルマニクスは、ユリウス=クラウディウス朝 あさ の家系 かけい に属 ぞく する著名 ちょめい な人物 じんぶつ で、ロ ろ ーマ帝国 まていこく で最 もっと も重用 じゅうよう された将軍 しょうぐん の一人 ひとり として尊敬 そんけい をかちえていた[4] 。ゲルマニクスはネロ・クラウディウス・ドルースス と小 しょう アントニア の息子 むすこ であり、ティベリウス・クラウディウス・ネロ とリウィア・ドルシッラ の孫 まご であり、アウグストゥス の継 つぎ 孫 まご にもあたる[5] 。母 はは の大 だい アグリッピナはマルクス・ウィプサニウス・アグリッパ と大 だい ユリア の娘 むすめ であり、したがって大 だい ユリアの父母 ちちはは であるアウグストゥスと2番目 ばんめ の妻 つま スクリボニア の孫 まご にあたる[2] 。
上述 じょうじゅつ の通 とお り、ユリウス=クラウディウス家 か の人士 じんし は政略 せいりゃく 結婚 けっこん や近親 きんしん 婚 こん により非常 ひじょう に複雑 ふくざつ で入 い り組 く んだ縁戚 えんせき 関係 かんけい を結 むす んでいるため、簡略 かんりゃく 化 か した家系 かけい 図 ず を以下 いか に掲 かか げる。
カリグラは2歳 さい ないし3歳 さい の幼少 ようしょう 時 じ から、軍事 ぐんじ 作戦 さくせん で北部 ほくぶ ゲルマニア へ行 い く父 ちち ゲルマニクスに同行 どうこう している。このときのカリグラは軍靴 ぐんか や甲冑 かっちゅう まで含 ふく めた特別 とくべつ 仕立 した てのミニチュアの軍装 ぐんそう を身 み につけていたため、これを面白 おもしろ がった兵士 へいし たちのあいだでマスコット的 てき 存在 そんざい となった[6] 。ティベリウスがアウグストゥスの後 のち を継 つ ぐことに反対 はんたい して暴動 ぼうどう が起 お きたときも、危害 きがい の及 およ ぶことのないようカリグラが安全 あんぜん な場所 ばしょ へ移 うつ されることになったと聞 き いただけで、首謀 しゅぼう 者 しゃ の兵士 へいし たちはカリグラを自分 じぶん たちから遠 とお ざけないで欲 ほ しいと嘆願 たんがん し、みずから暴動 ぼうどう を鎮 しず めたといわれるほど兵士 へいし たちから愛 あい された[6] 。ラテン語 らてんご で「小 ちい さな軍靴 ぐんか 」を意味 いみ するカリグラというニックネームは、この軍装 ぐんそう の一部 いちぶ として彼 かれ の履 は いていた小 ちい さな靴 くつ にちなんで、兵士 へいし たちによってつけられたものである[7] 。しかし彼 かれ 自身 じしん はやがてこの渾名 あだな を嫌 きら うようになったと伝 つた えられている[8] 。
7歳 さい のときにも、カリグラはシリア へ遠征 えんせい する父 ちち に同行 どうこう している[9] 。帰還 きかん して間 あいだ もない19年 ねん 10月19日 にち にカリグラの父 ちち ゲルマニクスは死去 しきょ した。スエトニウス は、ゲルマニクスを政敵 せいてき とみなしていたティベリウス が、シリア属 ぞく 州 しゅう 総督 そうとく ピソ に命 めい じてゲルマニクスに毒 どく を盛 も ったのだと主張 しゅちょう している[10] [11] (現在 げんざい ではマラリアによる病死 びょうし が定説 ていせつ )。
父 ちち の死後 しご 、カリグラは母 はは アグリッピナの元 もと で暮 く らしたが、やがて彼女 かのじょ はティベリウスとの関係 かんけい が悪化 あっか したため追放 ついほう されるにいたった[9] 。アグリッピナの新 あたら しい夫 おっと となる人物 じんぶつ が自分 じぶん の地位 ちい を脅 おびや かす存在 そんざい となることを恐 おそ れたティベリウスは、彼女 かのじょ が再婚 さいこん することを禁 きん じさえした[12] 。アグリッピナとその息子 むすこ でカリグラの長兄 ちょうけい に当 あ たるネロ・カエサル は29年 ねん に反逆 はんぎゃく 罪 ざい 容疑 ようぎ で追放 ついほう 処分 しょぶん となった[13] [14] 。そのため青年 せいねん 期 き のカリグラは、はじめ曾祖母 そうそぼ (父 ちち ゲルマニクスの祖母 そぼ )でありティベリウスの母 はは でもあるリウィア・ドルシッラ の元 もと へ送 おく られて生活 せいかつ することとなった[9] 。リウィアの死後 しご は、祖母 そぼ (ゲルマニクスの母 はは )小 しょう アントニア の元 もと へ送 おく られた[9] 。30年 ねん 、カリグラの次兄 じけい ドルスス・カエサル までもが反逆 はんぎゃく 罪 ざい 容疑 ようぎ で収監 しゅうかん され、すでに流刑 りゅうけい となっていた長兄 ちょうけい ネロ・カエサルも飢餓 きが もしくは自殺 じさつ により客死 かくし した[14] [15] 。母 はは と兄弟 きょうだい が追放 ついほう されたのち、カリグラと姉妹 しまい たちは軍 ぐん によって軟禁 なんきん され、ティベリウスの捕虜 ほりょ 同然 どうぜん の状態 じょうたい に置 お かれたとスエトニウスは書 か きしている[16] 。
ティベリウス帝 みかど の元 もと での生活 せいかつ [ 編集 へんしゅう ]
31年 ねん 、カリグラはカプリ島 とう に居 きょ を移 うつ していたティベリウスに引 ひ き取 と られ、そこでティベリウスの個人 こじん 的 てき 庇護 ひご を受 う けながら6年間 ねんかん 生活 せいかつ することとなった[9] 。多 おお くの人々 ひとびと にとっては信 しん じがたいことであったが、ティベリウスはカリグラに一切 いっさい 危害 きがい を加 くわ えることがなかった[17] 。カリグラは天性 てんせい の演技 えんぎ 者 しゃ であり、危険 きけん を察知 さっち してティベリウスに対 たい する遺恨 いこん を完全 かんぜん に隠 かく し通 とお した[9] [18] ため周囲 しゅうい の人々 ひとびと はカリグラのことを「いまだかつて、これほど立派 りっぱ な奴隷 どれい も、またこれほど見下 みさ げはてた主人 しゅじん もいなかった」と評 ひょう した[9] [18] 。
33年 ねん 、ティベリウスは即位 そくい するまで就 つ いていたクァエストル (財務 ざいむ 官 かん )の地位 ちい をカリグラに与 あた えた[19] 。カリグラの母 はは と兄 あに ドルススが獄死 ごくし したのもこの頃 ころ である[20] [21] 。カリグラは33年 ねん にユニア・クラウディアと結婚 けっこん しているが、翌年 よくねん には産褥 さんじょく の床 ゆか にあったユニア・クラウディアが死去 しきょ したため、最初 さいしょ の結婚 けっこん 生活 せいかつ は短 みじか く終 お わった[22] 。カリグラはやがて重要 じゅうよう な腹心 ふくしん となるプラエフェクトゥス・プラエトリオ (親衛隊 しんえいたい 長官 ちょうかん )のナエウィウス・ストリウス・マクロ との親交 しんこう をこのころに結 むす んでいる[22] 。マクロはティベリウスの前 まえ でカリグラのことを誉 ほ めそやし、カリグラに対 たい するティベリウスの悪意 あくい や疑念 ぎねん を吹 ふ き払 はら うようつとめた[23] 。
35年 ねん 、カリグラはティベリウス・ゲメッルス との共同 きょうどう 皇帝 こうてい として帝位 ていい 後継 こうけい 者 しゃ に指名 しめい された[24] 。
37年 ねん 3月 がつ 16日 にち にティベリウスが死去 しきょ し、その遺産 いさん と「プリンケプス 」の称号 しょうごう は、共同 きょうどう 後継 こうけい 者 しゃ であるカリグラとティベリウスの孫 まご ゲメッルスが相続 そうぞく することとなった。ティベリウスは77歳 さい で死 し の床 ゆか についたにもかかわらず、タキトゥス は、カリグラの即位 そくい を早 はや めた方 ほう がローマ市民 しみん も喜 よろこ ぶと考 かんが えたマクロが、ティベリウスに枕 まくら を押 お し付 つ けて暗殺 あんさつ したと書 か いており[25] 、スエトニウス にいたってはカリグラ自身 じしん が手 て を下 くだ したのではないかとも記 しる している[22] 。一方 いっぽう 、アレクサンドリアのフィロン やフラウィウス・ヨセフス はティベリウスの死 し は自然 しぜん 死 し であったと記録 きろく している[26] 。マクロの助 たす けを得 え て、カリグラはティベリウスの遺言 ゆいごん のうちゲメッルスに関 かん する条項 じょうこう はゲメッルスの狂気 きょうき を理由 りゆう に反故 ほご にし、それ以外 いがい の部分 ぶぶん のみティベリウスの遺志 いし に従 したが った[27] 。
元老 げんろう 院 いん からプリンケプスの称号 しょうごう を授与 じゅよ されると、カリグラは3月 がつ 28日 にち ローマ入 い りした。そこでは民衆 みんしゅう から「我 われ らの子 こ 」「我 われ らの星 ほし 」との歓呼 かんこ の声 こえ をもって迎 むか えられ[28] 、また「日 ひ の昇 のぼ る所 ところ から沈 しず む所 ところ まで、すべての世界 せかい の」民衆 みんしゅう からの尊敬 そんけい を勝 か ち得 え た最初 さいしょ の皇帝 こうてい と称賛 しょうさん された[29] 。
24歳 さい の若輩 じゃくはい で、何一 なにひと つ実績 じっせき がないにもかかわらず、カリグラの即位 そくい がこれほど熱烈 ねつれつ に歓迎 かんげい されたのは、とりもなおさずティベリウスの不人気 ふにんき の裏返 うらがえ しである。晩年 ばんねん のティベリウスは「隠棲 いんせい 」の名目 めいもく でカプリ島 とう に移 うつ り住 す むとそこに籠 こも りきりの状態 じょうたい となり、公式 こうしき の場 ば にはまったく姿 すがた を見 み せない日々 ひび が5年 ねん も続 つづ いていた。必要 ひつよう に応 おう じて元老 げんろう 院 いん 宛 あ てに書簡 しょかん で指示 しじ を出 だ すのがせいぜいで、公式 こうしき の場 ば はおろか非公式 ひこうしき な場 ば で貴族 きぞく や元老 げんろう 院 いん 議員 ぎいん と会 あ うことも稀 まれ となり、徹底 てってい した人嫌 ひとぎら いの態度 たいど をとっていた[30] 。その上 うえ ティベリウスの緊縮 きんしゅく 財政 ざいせい が剣 けん 闘士 とうし の試合 しあい や競技 きょうぎ 会 かい など金 かね のかかる催事 さいじ の予算 よさん が大幅 おおはば に削減 さくげん されることにつながった[31] ことで各 かく 方面 ほうめん から不興 ふきょう を買 か っており、その訃報 ふほう に接 せっ したローマの民衆 みんしゅう はこぞって狂喜 きょうき 乱舞 らんぶ したほどだった[32] 。名将 めいしょう ゲルマニクスの事績 じせき がまだ記憶 きおく に新 あたら しかったローマ軍団 ぐんだん や属 ぞく 州民 しゅうみん にとっては、ゲルマニクスを冷遇 れいぐう してその家族 かぞく を追放 ついほう したティベリウスに対 たい する反感 はんかん は依然 いぜん として強 つよ く、カリグラへの同情 どうじょう の念 ねん は篤 あつ かった。特 とく にローマ軍団 ぐんだん の兵士 へいし にとってはかつて彼 かれ らのマスコットだった少年 しょうねん がその父 ちち の果 は たせなかった皇帝 こうてい の座 ざ に就 つ くことは何 なに よりも嬉 うれ しいことだった[28] 。
母 はは と兄 あに の遺 のこ 灰 はい を先祖 せんぞ の墓 はか に安置 あんち するカリグラ、ウスタシュ・ル・シュウール 筆 ふで 、1647年 ねん そもそもカエサルの大 だい 甥 おい であることを根拠 こんきょ にその養子 ようし となり、カエサル暗殺 あんさつ 後 ご の戦乱 せんらん を勝 か ち抜 ぬ いてその地位 ちい を継承 けいしょう したアウグストゥスは、自身 じしん の後継 こうけい 者 しゃ にもまた一族 いちぞく の者 もの が充 あ てられることを望 のぞ んでいた。にもかかわらず直接 ちょくせつ の血縁 けつえん 関係 かんけい にないティベリウスが皇帝 こうてい となったのは、血縁 けつえん 者 しゃ の中 なか から取 と った養子 ようし に次々 つぎつぎ に先立 さきだ たれるという不幸 ふこう に見舞 みま われたからで、結果 けっか 的 てき に妻 つま の連 つ れ子 こ ティベリウスが消去 しょうきょ 法 ほう で残 のこ ったためである[33] 。一方 いっぽう カリグラは、アウグストゥスの姉 あね を祖母 そぼ とするゲルマニクスと、アウグストゥスの実 じつ 孫 まご である大 だい アグリッピナの間 あいだ に生 う まれた男子 だんし であり、父母 ちちはは 双方 そうほう を通 つう じてアウグストゥスと実際 じっさい の血縁 けつえん がある、その正統 せいとう 性 せい が極 きわ めて明白 めいはく な存在 そんざい だった。
カリグラの即位 そくい を祝 いわ うため3か月 げつ にわたって催 もよお された公共 こうきょう の祝典 しゅくてん 行事 ぎょうじ では、16万 まん 匹 ひき を超 こ える動物 どうぶつ が生贄 いけにえ として奉 たてまつ げられたという逸話 いつわ もスエトニウスによって伝 つた えられている[34] [35] 。
即位 そくい してから最初 さいしょ の7か月 げつ 間 あいだ におけるカリグラの治世 ちせい は、まったくの幸福 こうふく に満 み ち溢 あふ れたものだったとフィロンは記 しる している[36] 。その多 おお くが政治 せいじ 的 てき な配慮 はいりょ によるものであったにせよ、カリグラの最初 さいしょ の施政 しせい は非常 ひじょう に寛大 かんだい なものだった[27] 。支持 しじ を得 え るために、プラエトリアニや都市 とし 部 ぶ の兵士 へいし のみならず、イタリア国外 こくがい の軍 ぐん まで含 ふく めた軍隊 ぐんたい の兵士 へいし たちに賞与 しょうよ を支給 しきゅう したり[27] 、ティベリウスによって作成 さくせい された反逆 はんぎゃく 罪 ざい に関 かん する書類 しょるい を破棄 はき し、これに関連 かんれん した裁判 さいばん はもはや過去 かこ のものだとして追放 ついほう された者 もの たちの帰国 きこく を赦 ゆる したり[37] 、さらには帝国 ていこく の税制 ぜいせい によって生活 せいかつ が逼迫 ひっぱく した人々 ひとびと を保護 ほご したり、剣 けん 闘士 とうし による試合 しあい を復活 ふっかつ させたりもしている。皮肉 ひにく にも、この時 とき には性 せい 犯罪 はんざい 者 しゃ を帝国 ていこく から追放 ついほう する措置 そち もとっている[38] [39] 。カリグラはまた、亡 な き母 おも や兄弟 きょうだい の遺骨 いこつ を集 あつ めて持 も ち帰 かえ り、アウグストゥス廟 びょう に安置 あんち することでその冥福 めいふく を祈 いの っている[40] 。
病気 びょうき と陰謀 いんぼう 、豹変 ひょうへん [ 編集 へんしゅう ]
幸先 さいさき よく統治 とうち を開始 かいし したカリグラではあったが、37年 ねん の10月 がつ に深刻 しんこく な病 やまい に倒 たお れる。カッシウス・ディオ も若干 じゃっかん 触 ふ れてはいる[41] が、この病気 びょうき について詳細 しょうさい に書 か き残 のこ している歴史 れきし 家 か はフィロンのみである[42] 。それによれば、カリグラは皇帝 こうてい になってからというもの入浴 にゅうよく と飲酒 いんしゅ とセックス に耽溺 たんでき するようになっていたためウイルス に感染 かんせん したのだとのことである[43] 。カリグラの苦悩 くのう を思 おも って悲嘆 ひたん と同情 どうじょう に暮 く れたため、帝国 ていこく 全体 ぜんたい が麻痺 まひ 状態 じょうたい に陥 おちい ったとさえ伝 つた えられている[44] 。やがてカリグラは全快 ぜんかい しているが、フィロンはこの時 とき の臨死 りんし 体験 たいけん こそが彼 かれ の治世 ちせい の分岐 ぶんき 点 てん になったと強調 きょうちょう している[45] 。カリグラに変化 へんか が起 お こったとすれば、それがいつのことであるのかについては議論 ぎろん がある。ヨセフスは、即位 そくい してから最初 さいしょ の2年間 ねんかん のカリグラは高貴 こうき で穏健 おんけん な君主 くんしゅ であったが、それ以降 いこう 暴君 ぼうくん へ変貌 へんぼう していったと述 の べている[46] 。
病 やまい から立 た ち直 なお ってすぐにカリグラは、彼 かれ が回復 かいふく してくれるならば自分 じぶん の命 いのち を奉 たてまつ げてもよいと誓 ちか った忠実 ちゅうじつ な人物 じんぶつ を呼 よ び出 だ し、約束 やくそく を守 まも ってもらおうと要求 ようきゅう し崖 がけ から突 つ き落 お とすなどして何人 なんにん か殺害 さつがい した[47] 。またカリグラは妻 つま を追放 ついほう し、義父 ぎふ のマルクス・シラヌスや従弟 じゅうてい のティベリウス・ゲメッルスは自害 じがい を強要 きょうよう された[47] [48] 。
シラヌスとゲメッルスを死 し に至 いた らしめた直接 ちょくせつ の罪状 ざいじょう は、カリグラを打倒 だとう しようとした陰謀 いんぼう の咎 とがめ であったという記録 きろく が残 のこ っている。フィロンの伝 つた えるところによれば、ゲメッルスは自分 じぶん が皇帝 こうてい の座 ざ に就 つ くために、カリグラが病 やまい に臥 ふ せっているあいだに陰謀 いんぼう を企 くわだ てていたという[49] 。シラヌスはカリグラによって正式 せいしき な裁判 さいばん にかけられた後 のち に自害 じがい した[50] 。ユリウス・グラエキヌスはシラヌスを起訴 きそ するよう命令 めいれい されたが、これを断 ことわ ったため同様 どうよう に処刑 しょけい された[50] 。ゲメッルスの計画 けいかく とシラヌスのそれとが関連 かんれん したものであるのか別個 べっこ に立 た てられたものであるのかは不明 ふめい である。スエトニウスは、これらの陰謀 いんぼう はいずれもカリグラによる空想 くうそう の産物 さんぶつ にすぎなかったと結論 けつろん づけている[51] 。
カリグラによる38年 ねん の税制 ぜいせい 廃止 はいし を祝 いわ った記念 きねん 銅貨 どうか 。裏面 りめん (写真 しゃしん 左 ひだり )には、人々 ひとびと が重税 じゅうぜい から開放 かいほう されたことを象徴 しょうちょう するフリジア帽 ぼう のイラストが彫 ほ られている。
38年 ねん 、カリグラは政治 せいじ ・社会 しゃかい の改革 かいかく に着手 ちゃくしゅ した。手始 てはじ めに彼 かれ は公的 こうてき 資金 しきん の収支 しゅうし を公表 こうひょう した。これはティベリウスの治世 ちせい においては公 おおやけ にされなかったものである。また火災 かさい によって資産 しさん を失 うしな った人々 ひとびと を助 たす けるため、いくらかの税金 ぜいきん を免除 めんじょ し、公共 こうきょう 競技 きょうぎ 大会 たいかい に賞金 しょうきん を設 もう けた。さらに騎馬 きば 隊 たい や元老 げんろう 院 いん の増員 ぞういん さえも許可 きょか した[52] 。
おそらく最 もっと も重要 じゅうよう なことは、カリグラが政務 せいむ 官 かん 選挙 せんきょ を民衆 みんしゅう 選挙 せんきょ に戻 もど したことであろう[53] 。これに関 かん してカッシウス・ディオは、「この施策 しさく は阿呆 あほう どもを喜 よろこ ばせはしたが、思慮 しりょ ある人々 ひとびと を嘆 なげ かせることとなった。これらの人々 ひとびと は熟慮 じゅくりょ の結果 けっか 、公職 こうしょく がふたたび大衆 たいしゅう の手 て に渡 わた れば必 かなら ずや多 おお くの災 わざわ いが起 お こることだろうと考 かんが えたのである」と述 の べている[54] 。
しかし同年 どうねん には、正式 せいしき な裁判 さいばん 抜 ぬ きで人々 ひとびと を処刑 しょけい したことでカリグラに対 たい する非難 ひなん の声 こえ が起 お こっている。とりわけ重要 じゅうよう な事例 じれい としては、カリグラが皇帝 こうてい の座 ざ に就 つ く上 うえ で大 おお きな借 か りがあるはずのマクロを処刑 しょけい した一 いち 件 けん が挙 あ げられる[41] 。
財政 ざいせい 危機 きき と飢饉 ききん [ 編集 へんしゅう ]
カシウス・ディオによれば、39年 ねん に財政 ざいせい 危機 きき が生 しょう じた[41] 。スエトニウスは38年 ねん から始 はじ まったものだと述 の べている[55] 。各 かく 方面 ほうめん への支援 しえん のため、あるいはカリグラ自身 じしん の寛大 かんだい さや浪費 ろうひ 癖 へき からくる公的 こうてき 支出 ししゅつ は国家 こっか の財政 ざいせい を疲弊 ひへい させた。古代 こだい の歴史 れきし 家 か は、カリグラは個人 こじん 資産 しさん を押収 おうしゅう するために、無辜 むこ の人々 ひとびと に対 たい する不当 ふとう な起訴 きそ や科料 かりょう 、果 は ては殺害 さつがい まで行 おこ なうようになったと主張 しゅちょう している[56] 。他 ほか にも多 おお くの極端 きょくたん な方策 ほうさく がとられたことが歴史 れきし 家 か たちによって記録 きろく されている。資金 しきん を得 え るために、カリグラは国 くに にお金 かね を貸 か してくれるよう市民 しみん に頼 たの みさえしたという[57] 。また訴訟 そしょう や結婚 けっこん 、売春 ばいしゅん に対 たい して税金 ぜいきん を課 か した[58] 。さらには見世物 みせもの において剣 けん 闘士 とうし の命 いのち を競売 きょうばい に掛 か けるようになった[56] [59] 。ティベリウスが死去 しきょ した時点 じてん で、ティベリウスに何 なに がしかの物品 ぶっぴん を遺贈 いぞう すると書 か かれていた存命 ぞんめい 人物 じんぶつ の遺言 ゆいごん 書 しょ は、同 どう じ物 ぶつ をカリグラに贈与 ぞうよ しなければならないものとする解釈 かいしゃく が定 さだ められた[60] 。また略奪 りゃくだつ によって資産 しさん を得 え た百 ひゃく 人 にん 隊長 たいちょう は、戦利 せんり 品 ひん を国 くに へ引 ひ き渡 わた すことが強制 きょうせい された[60] 。現職 げんしょく ならびに過去 かこ の道路 どうろ 長官 ちょうかん は無 む 資格 しかく と横領 おうりょう で起訴 きそ され、返金 へんきん を強要 きょうよう された[60] 。
規模 きぼ は不明 ふめい ながら短期間 たんきかん の飢饉 ききん が起 お こっているが、おそらくこの財政 ざいせい 危機 きき に端 はし を発 はっ したものである。スエトニウスは一般 いっぱん 市民 しみん の経済 けいざい がカリグラによって侵 おか されたためとしている[56] 。セネカ は、カリグラが浮 うわ き橋 きょう を作 つく るために大量 たいりょう の船 ふね を使 つか ったせいで、穀物 こくもつ の輸入 ゆにゅう が滞 とどこお ったことが飢饉 ききん の原因 げんいん だとしている[61] 。
バチカンのオベリスクはカリグラによってエジプトからもたらされたものである。これはカリグラの建設 けんせつ した競技 きょうぎ 場 じょう の中央 ちゅうおう 装飾 そうしょく 品 ひん であった。
カリグラが着工 ちゃっこう し、次代 じだい 皇帝 こうてい クラウディウスによって落成 らくせい されたクラウディア水道 すいどう の跡 あと
財政難 ざいせいなん に陥 おちい っていたにもかかわらず、カリグラは在位 ざいい 期間 きかん 中 ちゅう にいくつもの建設 けんせつ 事業 じぎょう に着手 ちゃくしゅ している。公共 こうきょう 事業 じぎょう として計画 けいかく されたものもあったが、中 なか には個人 こじん 的 てき な目的 もくてき のために手 て がけたものもあった。カリグラが寄与 きよ した中 なか でも最 もっと も優 すぐ れた事業 じぎょう は、エジプトからの穀物 こくもつ 輸入 ゆにゅう を増加 ぞうか させることとなった、レギウム(現 げん レッジョ・ディ・カラブリア )およびシチリア の港湾 こうわん 開発 かいはつ であったとヨセフスは評価 ひょうか している[62] 。これらの改良 かいりょう 工事 こうじ は飢饉 ききん への対策 たいさく であった可能 かのう 性 せい もある。
カリグラはアウグストゥスの神殿 しんでん とポンペイ の劇場 げきじょう を完成 かんせい させたのち、サエプタ・ユリア 近郊 きんこう に円形 えんけい 劇場 げきじょう の建設 けんせつ を開始 かいし した[63] 。また宮殿 きゅうでん も増築 ぞうちく している[64] 。クラウディア水道 すいどう と新 しん アニオ水道 すいどう の建設 けんせつ に着工 ちゃっこう したのもカリグラであり、これらはのちに大 だい プリニウス を驚嘆 きょうたん させた[63] [65] 。「ガイウスとネロのキルクス」と呼 よ ばれることとなる巨大 きょだい な競技 きょうぎ 場 じょう を建設 けんせつ し、エジプトから船 ふね でオベリスク (現在 げんざい バチカンのオベリスクとして知 し られる)を運 はこ び込 こ んでその中央 ちゅうおう に据 す えた[66] 。シラクサ では市 し の城壁 じょうへき と神殿 しんでん を修復 しゅうふく した[63] 。新 あたら しい道路 どうろ を敷 し き、整備 せいび を怠 おこた らぬよう厳命 げんめい した[55] [67] 。他 た にサモス の僭主 せんしゅ ポリクラテス の宮殿 きゅうでん の再建 さいけん や、エフェソス にあるディディマのアポロ神殿 しんでん の完成 かんせい 、アルプス 高地 こうち での新 しん 都市 とし 建設 けんせつ などを計画 けいかく した[63] 。さらにギリシア の地峡 ちきょう に運河 うんが を開通 かいつう させることも計画 けいかく し、この事業 じぎょう に従事 じゅうじ させるため百 ひゃく 人 にん 隊長 たいちょう を派遣 はけん したりもしている[63] 。
39年 ねん 、カリグラは壮大 そうだい な見世物 みせもの を上演 じょうえん するために、本物 ほんもの の船 ふね を台 たい 船 せん として用 もち いた浮 うわ き桟橋 さんばし を作 つく らせた。その長 なが さは2マイル (3.2 km)に及 およ び、バイア(現 げん バーコリ の分離 ぶんり 集落 しゅうらく )の行楽 こうらく 地 ち から隣 となり のポッツオーリ の港 みなと までを繋 つな ぐものであった[68] 。この橋 はし はやはり巨大 きょだい な浮橋 うきはし を利用 りよう してヘレスポントス海峡 かいきょう を横断 おうだん したペルシア 王 おう クセルクセス1世 せい への対抗心 たいこうしん から作 つく られたものだといわれている[68] 。カリグラ(泳 およ げなかった[69] )は愛馬 あいば インキタトゥス に騎乗 きじょう し、アレクサンドロス大王 だいおう の胸当 むねあ てをつけて橋 はし を渡 わた った[68] 。この見世物 みせもの はティベリウス時代 じだい の占星術 せんせいじゅつ 者 しゃ メンデのトラシュルス による「(カリグラが)皇帝 こうてい になるのは、馬 うま にまたがってバイア湾 わん を渡 わた るより難 むずか しい」という予言 よげん への挑戦 ちょうせん でもあった[68] 。
また、カリグラは個人 こじん 的 てき に2艘 そう の巨大 きょだい な船 ふね (写真 しゃしん )を作 つく らせている。2艘 そう とも沈没 ちんぼつ したが、ネミ湖 こ の底 そこ から発見 はっけん された。これらは古代 こだい 世界 せかい において最大 さいだい 級 きゅう の規模 きぼ を誇 ほこ った船 ふね である。2艘 そう のうちの小 ちい さな方 ほう は女神 めがみ ディアーナ のための神殿 しんでん として設計 せっけい された。また大 おお きな方 ほう は大理石 だいりせき の床 ゆか や水道 すいどう まで完備 かんび しており、まさに精緻 せいち な浮 うわ き宮殿 きゅうでん であった。千 せん 数 すう 百 ひゃく 年 ねん にわたり伝説 でんせつ 上 じょう の存在 そんざい であり、レオン・バッティスタ・アルベルティ らも探索 たんさく を試 こころ みたが、発見 はっけん されて湖底 こてい から引 ひ き揚 あ げられたのは1929年 ねん から1932年 ねん にかけてのことである。当時 とうじ のイタリア首相 しゅしょう であったムッソリーニ によってこの船 ふね のための博物館 はくぶつかん も設立 せつりつ されたが、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 なか の戦災 せんさい によって焼失 しょうしつ し、現在 げんざい は数 すう 枚 まい の写真 しゃしん を残 のこ すのみとなった[70] 。
元老 げんろう 院 いん との対立 たいりつ [ 編集 へんしゅう ]
39年 ねん からカリグラと元老 げんろう 院 いん の関係 かんけい が悪化 あっか した[71] 。何 なに に関 かん して対立 たいりつ したのかは定 さだ かではないが、両者 りょうしゃ の確執 かくしつ を深 ふか める要因 よういん は少 すく なくない。先帝 せんてい ティベリウスは26年 ねん 以降 いこう カプリ島 とう に隠棲 いんせい していたため、カリグラが帝位 ていい に就 つ くまで元老 げんろう 院 いん は皇帝 こうてい がローマには不在 ふざい のまま統治 とうち することに慣 な れきっていた[72] 。さらに、ティベリウスによる反逆 はんぎゃく 罪 ざい 容疑 ようぎ での弾劾 だんがい によって、ガイウス・アシニウス・ガッルスをはじめとしたユリウス=クラウディウス朝 あさ を支持 しじ する元老 げんろう 院 いん 議員 ぎいん は多 おお くが粛清 しゅくせい されていた[72] 。
カリグラはティベリウスによる裁判 さいばん 記録 きろく を再 さい 検討 けんとう し、裁判 さいばん 中 ちゅう の元老 げんろう 院 いん 議員 ぎいん の言動 げんどう に鑑 かんが みて、多 おお くの議員 ぎいん は信頼 しんらい に値 あたい しないとの結論 けつろん を下 くだ し、調査 ちょうさ と裁判 さいばん を新規 しんき に執 と り行 おこ なうよう指示 しじ した[71] 。そして執政 しっせい 官 かん を更迭 こうてつ し、数 すう 人 にん の元老 げんろう 院 いん 議員 ぎいん を処刑 しょけい した[73] 。その他 た の元老 げんろう 院 いん 議員 ぎいん はカリグラの横 よこ に侍 はべ り彼 かれ の二 に 輪 りん 戦車 せんしゃ に並 なみ 走 そう させられるという侮辱 ぶじょく を受 う けたとスエトニウスは記 しる している[73] 。
元老 げんろう 院 いん と決裂 けつれつ した直後 ちょくご 、カリグラはいくつもの陰謀 いんぼう にさらされている[74] 。カリグラの義理 ぎり の兄 あに マルクス・アエミリウス・レピドゥス (カリグラの母 はは 大 だい アグリッピナ の姉 あね 小 しょう ユリア の息子 むすこ 、すなわちカリグラの従兄 じゅうけい であり、一時期 いちじき カリグラの妹 いもうと ユリア・ドルシッラ と結婚 けっこん していたため、義兄 ぎけい にもあたる)も関与 かんよ した陰謀 いんぼう は39年 ねん に失敗 しっぱい した[74] 。その直後 ちょくご には、ゲルマニア総督 そうとく であったグナエウス・コルネリウス・レントゥルス・ガエトゥリクス が共謀 きょうぼう 罪 ざい で処刑 しょけい された[74] 。
西方 せいほう への領土 りょうど 拡大 かくだい [ 編集 へんしゅう ]
40年 ねん 、カリグラはロ ろ ーマ帝国 まていこく の版図 はんと をマウレタニア (現 げん モロッコ )まで拡大 かくだい し、さらにはブリタンニア 遠征 えんせい という壮大 そうだい な試 こころ みも検討 けんとう した。ロ ろ ーマ帝国 まていこく によるブリタンニアの属 ぞく 州 しゅう 化 か を完全 かんぜん に達成 たっせい したのはクラウディウス帝 みかど である。
マウレタニアは当時 とうじ 、プトレマエウス (英語 えいご 版 ばん ) 王 おう
によって統治 とうち されていたローマの同盟 どうめい 国 こく であった。カリグラはプトレマエウスをローマへ招待 しょうたい し、そこで突然 とつぜん 彼 かれ を処刑 しょけい させた[75] 。マウレタニアはロ ろ ーマ帝国 まていこく に併合 へいごう され、2つの州 しゅう に分割 ぶんかつ された[76] 。この併合 へいごう 強行 きょうこう がクラウディウス時代 じだい に起 お きた大 おお きな反乱 はんらん の原因 げんいん となった[77] 。これらの事件 じけん に関 かん する細 こま かな事情 じじょう は明 あき らかになっていない。カッシウス・ディオはカリグラによるマウレタニア併合 へいごう の詳細 しょうさい を書 か きしたが、それらは現在 げんざい までに散逸 さんいつ している[78] 。
また、中断 ちゅうだん されはしたもののブリタンニア進攻 しんこう のための軍事 ぐんじ 作戦 さくせん も北部 ほくぶ で展開 てんかい されたとみられている[78] 。実際 じっさい にオランダにあるクラウディウスの砦 とりで と呼 よ ばれていた場所 ばしょ では、年輪 ねんりん 年代 ねんだい 学 がく によって砦 とりで の木 き が紀元 きげん 40年 ねん のものである事 こと が分 わ かり、更 さら にカリグラ時代 じだい の硬貨 こうか が発掘 はっくつ されている。スエトニウスは、凱旋 がいせん 式 しき でゲルマン人 じん に変装 へんそう させられたガリア人 じん と、「海 うみ での戦利 せんり 品 ひん 」として貝殻 かいがら を集 あつ めるよう指示 しじ されたローマ軍 ぐん の逸話 いつわ を書 か きたてることで、この作戦 さくせん を一笑 いっしょう に付 ふ している[79] 。史料 しりょう が不足 ふそく しているため、正確 せいかく には何 なに がどのように起 お こったのかがカリグラ治世 ちせい に関 かん する一 いち 次 じ 史料 しりょう の中 なか でも議論 ぎろん の的 まと となっている。近 きん 現代 げんだい の歴史 れきし 家 か はこれらの行動 こうどう を解釈 かいしゃく するために、このイギリス海峡 かいきょう への進攻 しんこう は
単 たん なる訓練 くんれん と偵察 ていさつ にすぎなかった[80] 。
目的 もくてき はブリタンニア側 がわ の指揮 しき 官 かん アドミニウスの降伏 ごうぶく を認 みと めることだけであった[81] 。
ローマ軍団 ぐんだん が海峡 かいきょう を渡 わた って作戦 さくせん を開始 かいし することを拒 こば んだため、カリグラが皮肉 ひにく として給料 きゅうりょう 代 か わりに貝殻 かいがら でも集 あつ めろと命 めい じたという可能 かのう 性 せい [82] 。「貝殻 かいがら 」(ラテン語 らてんご 原文 げんぶん では conchae )は隠語 いんご であり、女性 じょせい 器 き (軍隊 ぐんたい は売春 ばいしゅん 宿 やど を訪 おとず れたであろう)もしくは船 ふね (ブリタンニア軍 ぐん の小船 こぶね を拿捕 だほ したと考 かんが えられる)を意味 いみ しているのかもしれない[83] 。
などの仮説 かせつ が提唱 ていしょう されている。
自己 じこ の神格 しんかく 化 か [ 編集 へんしゅう ]
フォロ・ロマーノのカストルとポルクス神殿 しんでん 跡 あと 。古代 こだい の資料 しりょう と近代 きんだい の考古学 こうこがく 的 てき 研究 けんきゅう 成果 せいか から、カリグラがこの建造 けんぞう 物 ぶつ を組 く み入 い れて神殿 しんでん を増築 ぞうちく したことが推定 すいてい されている
40年 ねん 、カリグラは自身 じしん の政治 せいじ 的 てき 役割 やくわり に宗教 しゅうきょう を持 も ち込 こ むという、非常 ひじょう に論議 ろんぎ を呼 よ ぶ政策 せいさく を実行 じっこう しはじめた。カリグラは公 おおやけ の場所 ばしょ へ姿 すがた を現 げん わすにあたり、ヘラクレス やメルクリウス 、ウェヌス 、アポロ などといった神 かみ 々や半 はん 神 かみ の扮装 ふんそう をするようになったのである[84] 。伝 つた えられるところによれば、彼 かれ は政治 せいじ 家 か たちとの会合 かいごう において自己 じこ を神 かみ と呼 よ び、公文書 こうぶんしょ においてもしばしばユピテル と称 しょう されるようになった[85] [86] 。アシア属 ぞく 州 しゅう のミレトス には彼 かれ を崇 あが めるための聖域 せいいき が設 もう けられ、ローマにも彼 かれ を崇拝 すうはい する2つの神殿 しんでん が建立 こんりゅう された[86] 。フォルム・ロマヌム (現 げん フォロ・ロマーノ )のカストルとポルックス神殿 しんでん はパラティーノの皇帝 こうてい 宅 たく に直結 ちょっけつ され、カリグラに奉納 ほうのう された[86] [87] 。カリグラはときおりここに姿 すがた を見 み せ、公衆 こうしゅう の面前 めんぜん で恭 うやうや しく神 かみ の役 やく を演 えん じた。
カリグラの宗教 しゅうきょう 的 てき 政策 せいさく は、以前 いぜん の皇帝 こうてい たちのそれと比 くら べて微妙 びみょう なものではあるが、しかし大 おお きな逸脱 いつだつ であった。カッシウス・ディオによれば、東方 とうほう 諸国 しょこく においては存命 ぞんめい の皇帝 こうてい が神聖 しんせい な存在 そんざい として崇拝 すうはい されるのに対 たい し、ロ ろ ーマ帝国 まていこく で崇拝 すうはい の対象 たいしょう となりうるのは過去 かこ に没 ぼっ した皇帝 こうてい たちであった[88] 。アウグストゥスの場合 ばあい はしばしば自己 じこ の神聖 しんせい 化 か をしているが、しかしその対象 たいしょう は肉体 にくたい 的 てき 存在 そんざい そのものではなく彼 かれ の精神 せいしん であり、しかもこうした行動 こうどう すら一般 いっぱん に皇帝 こうてい たちは行 い き過 す ぎとして避 さ けてきたものだとディオは述 の べている[88] 。ところがカリグラはこれをさらに押 お し進 すす め、元老 げんろう 院 いん 議員 ぎいん を含 ふく むローマ市民 しみん たちに対 たい して、受肉化 か した生 い ける神 かみ として自分 じぶん の存在 そんざい そのものを崇 あが めさせたのである[89] 。
カリグラはその在位 ざいい 中 ちゅう に東方 とうほう の属 ぞく 州 しゅう でたびたび起 お きた暴動 ぼうどう や陰謀 いんぼう の鎮圧 ちんあつ に追 お われることとなった。それを支 ささ えたのは、37年 ねん にカリグラが皇帝 こうてい に即位 そくい したのちにヨルダンの総督 そうとく となり、カリグラの親友 しんゆう でもあったアグリッパ1世 せい である[90] 。
東方 とうほう の政治 せいじ 不安 ふあん の原因 げんいん はギリシア文化 ぶんか とローマ法 ほう 、そしてユダヤ人 じん の権利 けんり などが縺 もつ れあって複雑 ふくざつ 化 か していた。しかし、フィロンはカリグラの自己 じこ 神格 しんかく 化 か がユダヤ教 きょう と相容 あいい れぬものであったことを指摘 してき し、カリグラにその責任 せきにん ありとしている[91] 。フィロンによれば、カリグラは「まるでユダヤ人 じん のみが彼 かれ に対 たい する叛意 はんい を抱 いだ く人々 ひとびと かのように、ユダヤ人 じん に対 たい しては特別 とくべつ に深 ふか い猜疑心 さいぎしん をもっていた」[91] 。カリグラは属 ぞく 州 しゅう アエギュプトゥス (エジプト )長官 ちょうかん であったアウィリウス・フラックスを信用 しんよう していなかった。フラックスはティベリウスに忠実 ちゅうじつ で、カリグラの母 はは に対 たい する陰謀 いんぼう に加担 かたん していただけでなく、エジプトの分離 ぶんり 独立 どくりつ 派 は に通 つう じてもいた[92] 。
38年 ねん 、カリグラはフラックスの素行 そこう 調査 ちょうさ のため、アグリッパを秘密裏 ひみつり にアレクサンドリアへ派遣 はけん した[93] 。フィロンによれば、ギリシア系 けい 住民 じゅうみん からユダヤ人 じん の王 おう とみなされたアグリッパは嘲笑 ちょうしょう をもって迎 むか えられた[94] 。フラックスは、ユダヤのシナゴーグ に皇帝 こうてい の彫像 ちょうぞう を据 す えることでギリシア系 けい 住民 じゅうみん とカリグラを懐柔 かいじゅう しようと試 こころ みたが[95] 、その結果 けっか 、都市 とし 部 ぶ で暴動 ぼうどう が発生 はっせい した[96] 。カリグラは、フラックスを更迭 こうてつ して処刑 しょけい することでこれに応 こた えた[97] 。
39年 ねん にアグリッパは、パルティア と共謀 きょうぼう してローマによる統治 とうち に対 たい する反乱 はんらん を計画 けいかく したとして、ガリラヤおよびペレアの領主 りょうしゅ であったヘロデ・アンティパス を起訴 きそ した[46] 。ヘロデ・アンティパスは自白 じはく し、カリグラによって追放 ついほう された。アグリッパは褒美 ほうび として領地 りょうち を与 あた えられ、ユダヤの大半 たいはん を支配 しはい するようになった[46] 。
40年 ねん にアレクサンドリアにおいてユダヤ人 じん とギリシア人 じん の間 あいだ での暴動 ぼうどう が再発 さいはつ した[98] 。ユダヤ人 じん は、皇帝 こうてい に対 たい する不敬 ふけい 罪 ざい で告発 こくはつ された[98] 。またヤムニア では論争 ろんそう が起 お きた[99] 。レンガ造 づく りの祭壇 さいだん が建 た てられたことに憤慨 ふんがい したユダヤ人 じん はこれを破壊 はかい した[99] 。これに対 たい する返答 へんとう として、カリグラは自分 じぶん の像 ぞう をエルサレムのユダヤ神殿 しんでん に建 た てることを命 めい じた[100] 。この命令 めいれい を実行 じっこう したならば内戦 ないせん が起 お こることは間違 まちが いないと危惧 きぐ したシリア総督 そうとく プブリウス・ペトロニウスは作業 さぎょう の速度 そくど を落 お とさせ、一 いち 年 ねん 近 ちか く完成 かんせい を先 さき 延 の ばしにした[101] 。結局 けっきょく のところ、アグリッパの説得 せっとく をき入 きい れたカリグラによってこの命令 めいれい は破棄 はき された[98] 。
暗殺 あんさつ とその余波 よは [ 編集 へんしゅう ]
カリグラ暗殺 あんさつ 後 ご 、カーテンの後 うし ろに隠 かく れていたクラウディウスを皇帝 こうてい に推挙 すいきょ するプラエトリアニ(ローレンス・アルマ=タデマ 画 が 、1871年 ねん )
皇帝 こうてい としてカリグラが行 おこ なった施政 しせい は元老 げんろう 院 いん や貴族 きぞく 、騎士 きし 階級 かいきゅう に対 たい してとりわけ過酷 かこく なものだったとされる[102] 。カリグラに対 たい して計 はか られながら失敗 しっぱい に終 お わったいくつもの陰謀 いんぼう は、こうした苛烈 かれつ な命令 めいれい が原因 げんいん となって引 ひ き起 お こされたものだとヨセフスは述 の べている[103] [104] 。最終 さいしゅう 的 てき にカリグラを葬 ほうむ ったのは、カッシウス・カエレア (英語 えいご 版 ばん ) によって率 ひき いられたプラエトリアニ の将校 しょうこう たちであった[105] 。この暗殺 あんさつ 計画 けいかく は3人 にん の男 おとこ たちによって立案 りつあん されたものとされるが、元老 げんろう 院 いん 議員 ぎいん や軍人 ぐんじん 、騎士 きし 階級 かいきゅう の多 おお くがこの計画 けいかく を事前 じぜん に知 し らされて関与 かんよ していたといわれる[106] 。
ヨセフスによれば、カエレアには暗殺 あんさつ を実行 じっこう する政治 せいじ 的 てき な動機 どうき もあった[107] 。しかし一方 いっぽう で、スエトニウスはカリグラがカエレアを侮蔑 ぶべつ 的 てき な名前 なまえ で呼 よ んだためだとしか伝 つた えていない[103] 。カリグラは、声 こえ がか細 ぼそ く収税 しゅうぜい に関 かん しても厳格 げんかく でないカエレアのことを女々 めめ しい男 おとこ とみなしており[108] [109] 、「プリアーポス (生産 せいさん ・生殖 せいしょく を司 つかさど るギリシア神話 しんわ の神 かみ で、男根 だんこん を意味 いみ する隠語 いんご でもある)」や「ウェヌス (美 び の女神 めがみ )」などといった綽名 をつけて侮辱 ぶじょく していたのである[103] [108] 。
41年 ねん 1月 がつ 24日 にち 、神君 しんくん アウグストゥスに奉 たてまつ げる笑劇 しょうげき や悲劇 ひげき を上演 じょうえん していた少年 しょうねん 俳優 はいゆう 劇団 げきだん に対 たい して激励 げきれい の言葉 ことば をかけていたカリグラを、カエレアと数 すう 名 めい のプラエトリアニの将校 しょうこう が呼 よ び止 と めた[110] 。この直後 ちょくご に起 お きた事件 じけん の詳細 しょうさい については、資料 しりょう によって若干 じゃっかん の異同 いどう があるが、カエレアが最初 さいしょ にカリグラを刺 さ し、数 すう 人 にん の共謀 きょうぼう 者 しゃ がそれに続 つづ いたという点 てん は共通 きょうつう している[108] [110] [111] 。スエトニウスは、カリグラの死 し とユリウス・カエサル の暗殺 あんさつ には類似 るいじ 点 てん が多 おお いことを指摘 してき している。2人 ふたり ともガイウス・ユリウス・カエサルという名 な をもち、カッシウスの名 な をもつ男 おとこ (カッシウス・ロンギヌス およびカッシウス・カエレア)とその仲間 なかま によって30回 かい 刺 さ されて死亡 しぼう したためである[110] [112] 。カリグラの身辺 しんぺん 警護 けいご をしていたゲルマン人 じん 兵士 へいし が到着 とうちゃく したとき、皇帝 こうてい はすでに息 いき 絶 た えていた。護衛 ごえい 兵 へい は怒 いか りと悲 かな しみに打 う たれ、暗殺 あんさつ 者 しゃ とその仲間 なかま を討 う ち殺 ころ しただけでは収 おさ まらず、罪 つみ のない元老 げんろう 院 いん 議員 ぎいん や傍観 ぼうかん 者 しゃ までも手 て にかけた[109] [110] 。
元老 げんろう 院 いん はカリグラの死 し を共和 きょうわ 制 せい 復興 ふっこう の機会 きかい として利用 りよう しようと試 こころ みた[113] 。カエレアは元老 げんろう 院 いん を支持 しじ するよう軍 ぐん を説得 せっとく することに努 つと めた[114] 。しかし、軍 ぐん は帝室 ていしつ への忠誠 ちゅうせい を守 まも った[114] 。暗殺 あんさつ を嘆 なげ いたローマ市民 しみん は集会 しゅうかい を開 ひら き、カリグラの暗殺 あんさつ 者 しゃ を法 ほう に照 て らして処罰 しょばつ するよう要求 ようきゅう した[115] 。帝政 ていせい の支持 しじ が消 き え去 さ らぬことに苛立 いらだ った暗殺 あんさつ 者 しゃ たちは、カリグラの妻 つま カエソニア (英語 えいご 版 ばん ) を探 さが し出 だ して刺殺 さしころ し、幼 おさな い娘 むすめ ユリア・ドルシッラ も頭 あたま を壁 かべ に叩 たた きつけられて殺 ころ された[116] 。しかしカリグラの叔父 おじ クラウディウス を見 み つけ出 だ すことはできなかった。すでに町 まち を離 はな れてプラエトリアニの兵舎 へいしゃ にかくまわれていたためである[117] 。クラウディウスはプラエトリアニの支持 しじ を得 え て皇帝 こうてい に就任 しゅうにん したのち、カエレアとカリグラ暗殺 あんさつ に関与 かんよ したことが明 あき らかになったその仲間 なかま 全員 ぜんいん を処刑 しょけい するよう命令 めいれい を下 くだ した[118] 。
後世 こうせい の評価 ひょうか [ 編集 へんしゅう ]
カリグラの胸像 きょうぞう 。ルーヴル美術館 びじゅつかん 所蔵 しょぞう
カリグラの治世 ちせい に関 かん する歴史 れきし は非常 ひじょう に問題 もんだい 含 ふく みなものとなっている。カリグラと同 どう 時代 じだい に記 しる された資料 しりょう が、アレクサンドリアのフィロン と大 だい セネカ による2作 さく しか現存 げんそん していないためである。フィロンの著作 ちょさく 『ガイウスへの使節 しせつ 』と『フラックスへの反論 はんろん 』にはカリグラの初期 しょき の統治 とうち に関 かん する詳細 しょうさい が述 の べられているが、その大 だい 部分 ぶぶん はユダヤ人 じん であるフィロン自身 じしん が共感 きょうかん を寄 よ せていたユダヤ属 ぞく 州 しゅう やエジプト のユダヤ住民 じゅうみん に関 かか わる出来事 できごと に焦点 しょうてん を当 あ てたものとなっている。またセネカのさまざまな著作 ちょさく においては、おおむね断片 だんぺん 的 てき な逸話 いつわ によってカリグラの個性 こせい が伝 つた えられている。セネカは、おそらくカリグラに対 たい する陰謀 いんぼう 団 だん とかかわりがあったため、39年 ねん にはカリグラによって処刑 しょけい されかかっている[119] 。
かつてはカリグラに関 かん する同 どう 時代 じだい の詳細 しょうさい な歴史 れきし 文献 ぶんけん が存在 そんざい したが、いずれも現在 げんざい は失 うしな われている。また、それらの文献 ぶんけん を書 か いた歴史 れきし 家 か は、カリグラに対 たい して過剰 かじょう に批判 ひはん 的 てき であるかあるいはその逆 ぎゃく であり、いずれにせよ中立 ちゅうりつ 的 てき な立場 たちば から書 か かれたものではない[120] 。それにもかかわらず、これらの失 うしな われた一 いち 次 じ 資料 しりょう が、セネカやフィロンの著作 ちょさく と同様 どうよう に、後世 こうせい の歴史 れきし 家 か によって書 か かれた現存 げんそん する二 に 次 じ 史料 しりょう や三 さん 次 じ 史料 しりょう の出典 しゅってん とされているのである。同 どう 時代 じだい の歴史 れきし 家 か の中 なか には、名前 なまえ のみ知 し られている者 もの もいる。
ファビウス・ルスティクス やクルウィウス・ルーフス もカリグラを批判 ひはん する歴史 れきし 書 しょ を書 か いたが、現存 げんそん していない。ファビウス・ルスティクスはセネカの友人 ゆうじん で、歴史 れきし の潤色 じゅんしょく と誤伝 ごでん とによって知 し られている[121] 。クルウィウス・ルーフスはカリグラの暗殺 あんさつ にも関与 かんよ した元老 げんろう 院 いん 議員 ぎいん である[122] 。カリグラの妹 いもうと 小 しょう アグリッピナ も、明 あき らかにカリグラの治世 ちせい の詳細 しょうさい を含 ふく んでいたであろうカリグラの伝記 でんき を書 か いたが、これもまた散逸 さんいつ した。小 しょう アグリッピナは、カリグラに対 たい して陰謀 いんぼう を企 くわだ てたマルクス・アエミリウス・レピドゥス と交際 こうさい していたため、カリグラによって追放 ついほう された[74] 。小 しょう アグリッピナの息子 むすこ であり後 のち に皇帝 こうてい となるネロ の相続 そうぞく 財産 ざいさん もカリグラによって没収 ぼっしゅう された。詩人 しじん でもあったグナエウス・コルネリウス・レントゥルス・ガエトゥリクス は皇帝 こうてい に取 と り入 い るためカリグラを讃 たた える内容 ないよう の著作 ちょさく を少 すく なからず書 か いていたが、これらも失 うしな われた。
カリグラに関 かん して知 し られていることの大半 たいはん はスエトニウス とカッシウス・ディオ によって書 か かれており、この2人 ふたり はいずれも貴族 きぞく 階級 かいきゅう の出身 しゅっしん であった。スエトニウスがカリグラに関 かん する歴史 れきし を書 か いたのはカリグラの暗殺 あんさつ より80年 ねん 後 ご 、カッシウス・ディオは180年 ねん 後 ご である。カッシウス・ディオの著作 ちょさく は、カリグラの治世 ちせい に関 かん して大 おお まかに年代 ねんだい 順 じゅん の記述 きじゅつ をしている唯一 ゆいいつ の史料 しりょう であるという点 てん で非常 ひじょう に貴重 きちょう なものであるが、ディオの作品 さくひん は11世紀 せいき の修道 しゅうどう 士 し ヨハネス・クシフィリヌス による梗概 こうがい という形 かたち でしか現存 げんそん していない。
カリグラに関 かん していくらかの理解 りかい を助 たす ける資料 しりょう は、若干 じゃっかん ながら他 ほか にも存在 そんざい している。フラウィウス・ヨセフス はカリグラの暗殺 あんさつ についての詳 くわ しい説明 せつめい を遺 のこ している。タキトゥス は、ティベリウス の監視 かんし 下 か にあったころのカリグラの生活 せいかつ に関 かん する情報 じょうほう を記 しる している。タキトゥスは古代 こだい の歴史 れきし 家 か の中 なか にあっては最 もっと も客観 きゃっかん 的 てき であり、カリグラの詳細 しょうさい な伝記 でんき を書 か いたが、『年代 ねんだい 記 き 』のカリグラに関 かん する部分 ぶぶん は失 うしな われた。大 だい プリニウス の『博物 はくぶつ 誌 し 』も、若干 じゃっかん ながらカリグラに言及 げんきゅう している。
カリグラに関 かん する史料 しりょう のうち、現存 げんそん するものの数 かず はきわめて少 すく なく、カリグラのことを好意 こうい 的 てき に描 えが いている史料 しりょう は存在 そんざい しない。こうした史料 しりょう の不足 ふそく と偏 かたよ りの結果 けっか 、カリグラの治世 ちせい に関 かん しては大 おお きな欠落 けつらく がある。カリグラの在位 ざいい 期間 きかん の最初 さいしょ の2年 ねん に書 か かれたものはほとんど存在 そんざい せず、その上 うえ 、マウレタニア 併合 へいごう やブリタンニア への遠征 えんせい 、元老 げんろう 院 いん との確執 かくしつ といった後年 こうねん の重要 じゅうよう な事件 じけん についてもきわめて限 かぎ られた詳細 しょうさい しか伝 つた えられていないのである。
カリグラを象 かたど ったセステルティウス 銅貨 どうか (38年 ねん ごろ)。裏面 りめん (写真 しゃしん 右 みぎ )はカリグラと近親 きんしん 相姦 そうかん の関係 かんけい にあったといわれる3人 にん の妹 いもうと 、アグリッピナ、ドルシッラ、ユリア・リウィア
現存 げんそん する数少 かずすく ない資料 しりょう には、カリグラの残忍 ざんにん さや放蕩 ほうとう ぶりや狂気 きょうき を描 えが いた奇 き 怪 かい な逸話 いつわ が数多 かずおお く書 か かれている。
フィロンや小 しょう セネカ による同 どう 時代 じだい の文献 ぶんけん では、自分 じぶん 自身 じしん のこと以外 いがい には興味 きょうみ がなく、怒 いか りに満 み ち、気 き まぐれで人 ひと を殺 ころ し、濫費 らんぴ とセックスに溺 おぼ れた狂気 きょうき の皇帝 こうてい として描 えが かれている[123] 。他 た の男 おとこ たちの妻 つま と寝 ね たことを自慢 じまん し[124] 、面白 おもしろ 半分 はんぶん に人 ひと を殺 ころ し[125] 、自分 じぶん の見世物 みせもの 用 よう に橋 はし を架 か けるために莫大 ばくだい な浪費 ろうひ をして飢餓 きが を引 ひ き起 お こし[126] 、挙句 あげく の果 は てには自分 じぶん を崇 あが めさせるために自身 じしん を模 も した神像 しんぞう をエルサレム神殿 しんでん に建 た てさせる[100] など、カリグラはさまざまな悪行 あくぎょう を非難 ひなん されている。
スエトニウス やカッシウス・ディオ による文献 ぶんけん では、古 ふる くから伝 つた えられる風説 ふうせつ の再 さい 録 ろく だけでなく、カリグラの狂気 きょうき を伝 つた える新 あたら しい逸話 いつわ が加 くわ えられている。彼 かれ らは、カリグラが妹 いもうと たちと近親 きんしん 相姦 そうかん に耽 ふけ っていたばかりか、彼女 かのじょ らを他 た の男 おとこ たち相手 あいて に売春 ばいしゅん させていたと非難 ひなん しているのである[127] 。またカリグラが非合理 ひごうり 的 てき な演習 えんしゅう に軍隊 ぐんたい を派遣 はけん していたとも述 の べている[78] [128] 。さらには、宮廷 きゅうてい を文字通 もじどお りの売春 ばいしゅん 宿 やど にしたとさえ主張 しゅちょう している[57] 。こうした狂気 きょうき 染 し みたエピソードの中 なか でも最 もっと も有名 ゆうめい なものは、カリグラが自身 じしん の愛馬 あいば インキタトゥス を執政 しっせい 官 かん や聖職 せいしょく 者 しゃ にしようとしたことであろう[129] 。
ただし、カリグラの悪行 あくぎょう には創作 そうさく や誇張 こちょう されたものが多分 たぶん に含 ふく まれると考 かんが えられ、信憑 しんぴょう 性 せい には大 おお いに疑問 ぎもん の余地 よち がある。また、ロ ろ ーマ帝国 まていこく の政治 せいじ 文化 ぶんか において狂気 きょうき や性的 せいてき 倒錯 とうさく といったものは、権力 けんりょく の衰 おとろ えと共 とも にしばしば生 しょう じるものである[130] 。
大 だい プリニウスを除 のぞ き、現存 げんそん する資料 しりょう のすべてがカリグラは狂 くる っていたと主張 しゅちょう している。しかし、それが比喩 ひゆ 的 てき なものであったのか、文字通 もじどお りの意味 いみ で精神 せいしん を患 わずら っていたと述 の べているのかは明 あき らかでない。さらに残 のこ された資料 しりょう におけるカリグラの不評 ふひょう に鑑 かんが みても、事実 じじつ と創作 そうさく を切 き り分 わ けることはきわめて困難 こんなん である。近代 きんだい の文献 ぶんけん では、カリグラの振 ふ る舞 ま いに対 たい して医学 いがく 的 てき な説明 せつめい を試 こころ みるという傾向 けいこう が見 み られ、脳炎 のうえん やてんかん 、あるいは髄 ずい 膜 まく 炎 えん の可能 かのう 性 せい を挙 あ げているが、カリグラが精神 せいしん 異常 いじょう であったか否 ひ かという問題 もんだい は未 み 解決 かいけつ のまま残 のこ されている。
セネカ、フラウィウス・ヨセフス、フィロンはカリグラが正気 しょうき ではなかったと述 の べているが、この狂気 きょうき は経験 けいけん に由来 ゆらい する個人 こじん 的 てき な特性 とくせい であったと主張 しゅちょう している[46] [131] [132] 。セネカはカリグラが皇帝 こうてい となった後 のち に尊大 そんだい で気性 きしょう が激 はげ しく、侮蔑 ぶべつ 的 てき な性格 せいかく になっていったとし、反面 はんめん 教師 きょうし として読者 どくしゃ が学 まな ぶべき人格 じんかく 的 てき 欠陥 けっかん の一 いち 例 れい としている[133] 。ヨセフスは、カリグラを途方 とほう もなく自惚 うぬぼ れさせ、自身 じしん を神 かみ と考 かんが えるに至 いた らせたのは権力 けんりょく であると主張 しゅちょう している[46] 。またフィロンは、39年 ねん に病気 びょうき で死 し にかけたのちにカリグラは冷酷 れいこく になったと報告 ほうこく している[134] 。一方 いっぽう 、カリグラは人 ひと を狂気 きょうき へ駆 か り立 た てる魔法 まほう の薬 くすり を飲 の まされたのだとユウェナリス は述 の べている。
スエトニウスによれば、カリグラは若 わか い頃 ころ てんかん に悩 なや まされたとのことである[135] 。近代 きんだい の歴史 れきし 家 か は、カリグラは日々 ひび てんかんの発作 ほっさ の恐怖 きょうふ のうちに生 い きていたのだと推測 すいそく している[136] 。水泳 すいえい も帝王 ていおう 学 がく の一環 いっかん であったにもかかわらず、カリグラは泳 およ ぐことができなかった[137] (水面 すいめん からの光 ひかり の乱反射 らんはんしゃ が発作 ほっさ を誘発 ゆうはつ することから、てんかん患者 かんじゃ が泳 およ ぐことは奨励 しょうれい されない[138] )。またカリグラは満月 まんげつ に向 む かって話 はな しかけていたと伝 つた えられている[139] が、てんかんは古来 こらい より月 つき と関係 かんけい があるものと考 かんが えられていた[140] 。
甲状腺 こうじょうせん 機能 きのう 亢進 こうしん 症 しょう 説 せつ [ 編集 へんしゅう ]
カリグラが甲状腺 こうじょうせん 機能 きのう 亢進 こうしん 症 しょう を患 わずら っていたと主張 しゅちょう する歴史 れきし 家 か もいる[141] 。これは、カリグラのてんかんとプリニウスの伝 つた えるカリグラの「凝視 ぎょうし 」に基 もと づいた診断 しんだん である。
^ 15年 ねん - 49年 ねん 。すぐに離婚 りこん 。後 のち にクラウディウス に求婚 きゅうこん されたが、彼 かれ が小 しょう アグリッピナ と結婚 けっこん した際 さい 、小 しょう アグリッピナによって追放 ついほう ・殺害 さつがい された。パウリナには強制 きょうせい 的 てき に離婚 りこん させられた前夫 ぜんふ プブリウス・メッミウス・レグルス(61年 ねん 没 ぼつ )との間 あいだ に一人 ひとり 息子 むすこ ガイウス・メッミウス・レグルス(63年 ねん の執政 しっせい 官 かん )を儲 もう けている。
^ グナエウス・ドミティウス・コルブロ の姉妹 しまい 。ミロニアがカリグラとの間 あいだ に儲 もう けた娘 むすめ ユリア・ドルシッラが39年 ねん 夏季 かき の生 う まれの為 ため 、結婚 けっこん はそれ以前 いぜん と推定 すいてい 。
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