ジョージア (くに)

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ジョージア
საქართველო
ジョージアの国旗 ジョージアの国章
国旗こっき くにあきら
くに標語ひょうごძალა ერთობაშია
(ジョージア: ちから団結だんけつにあり)
国歌こっかთავისუფლება(グルジア
タヴィスプレバ(自由じゆう
ジョージアの位置
公用こうよう ジョージア
首都しゅと トビリシ
最大さいだい都市とし トビリシ
政府せいふ
大統領だいとうりょう サロメ・ズラビシュヴィリ
首相しゅしょう イラクリ・コバヒゼ
面積めんせき
総計そうけい 69,700km2118
水面すいめんせきりつ ごくわず
人口じんこう
総計そうけい2020ねん 398まん9000[1]ひと130)(みなみオセチアアブハジアふくむ)
人口じんこう密度みつど 57.4[1]ひと/km2
GDP自国じこく通貨つうか表示ひょうじ
合計ごうけい2020ねん 494おく700まん[2]ラリ
GDP(MER
合計ごうけい2020ねん158おく9100まん[2]ドル(115
1人ひとりあたり 4275.293[2]ドル
GDP(PPP
合計ごうけい2020ねん551おく9300まん[2]ドル(114
1人ひとりあたり 1まん4849.297[2]ドル
独立どくりつ
 - 日付ひづけ
ソビエト連邦れんぽうから
1991ねん4がつ9にち
通貨つうか ラリGEL
時間じかんたい UTC+4 (DST:なし)
ISO 3166-1 GE / GEO
ccTLD .ge
国際こくさい電話でんわ番号ばんごう 995
アブハジアとみなみオセチアをいた人口じんこう(2012ねん)は4,054,382にん面積めんせき57,200km2人口じんこう密度みつど70にん/km2となる。

ジョージアグルジア: საქართველოIPA: [sakʰartʰʷelo] ( 音声おんせいファイル)グルジアラテンこぼし: Sakartvelo、カナ: サカルトヴェロ[3]英語えいご: Georgia)は、みなみコーカサスにある共和きょうわせい国家こっか首都しゅとトビリシである[4]なな大陸たいりくさかいにあり、ひがしヨーロッパ[5][6][7]、もしくは西にしアジア区分くぶんされる[7][8]きたロシア連邦れんぽう南東なんとうアゼルバイジャンみなみアルメニアトルコせっし、西にし黒海こっかいめんする。

ロシア内戦ないせんなかの1921ねんグルジア民主みんしゅ共和きょうわこく赤軍せきぐん占領せんりょうされ、以後いごソビエト連邦れんぽう構成こうせいするグルジア共和きょうわこくとされたが、ソビエト連邦れんぽう崩壊ほうかいともない1991ねん4がつ共和きょうわこくとして独立どくりつ回復かいふくした[9]

2008ねん、ロシア連邦れんぽう軍事ぐんじ侵攻しんこうし、ジョージア北部ほくぶみなみオセチアアブハジアの「独立どくりつ」を一方いっぽうてき承認しょうにん日本にっぽんは、侵攻しんこうけてロシアと国交こっこう断絶だんぜつしたジョージアの要請ようせいけ、2015ねん4がつまでの国名こくめい呼称こしょうグルジアロシア: Грузия, Gruziya)からジョージアへ変更へんこうした[10]

概要がいよう[編集へんしゅう]

ジョージアはコーカサス山脈さんみゃくみなみふもと黒海こっかい東岸とうがんにあたる。古来こらいからすうおおくの民族みんぞく交通こうつう要衝ようしょうであり、幾度いくどもの民族みんぞく支配しはいにさらされるにありながらキリスト教きりすときょう信仰しんこうをはじめとする伝統でんとう文化ぶんかまもどおしてきた。一方いっぽうで、温暖おんだん気候きこう利用りようしたワイングルジアワイン生産せいさんさかんなくにとしてもられている。

ジョージアは、かつてソ連それん構成こうせいこくひとつであったが、1991ねん独立どくりつたした。みなみオセチアアブハジアの2地域ちいき事実じじつじょう独立どくりつ状態じょうたいとなっており、ロシアなど一部いちぶくにから国家こっか承認しょうにんけている。中央ちゅうおうゴリは、きゅうソビエト連邦れんぽう独裁どくさいしゃヨシフ・スターリン出身しゅっしんでもある。

一方いっぽうロシア帝国ていこくとその成立せいりつしたソ連それん支配しはいながつづいたことから、独立どくりつ様々さまざま方面ほうめんでロシアとの対立たいりつ路線ろせんることがおおい。1997ねんにはウクライナびかけにおうじてアゼルバイジャンモルドバとともにGUAM結成けっせいし、2005ねんにはウクライナととも民主みんしゅてき選択せんたく共同きょうどうたい英語えいごばんウクライナばん(CDC)を発足ほっそくして加盟かめい2009ねんには独立どくりつ国家こっか共同きょうどうたい(CIS)を脱退だったいした。

1999ねんから欧州おうしゅう評議ひょうぎかいのメンバーである。

なお、ほん項目こうもくでは2015ねん4がつ以前いぜん国家こっか名称めいしょうについては「グルジア」、それ以後いごについては「ジョージア」と表記ひょうきする。また「グルジア」「グルジア紛争ふんそうみなみオセチア紛争ふんそう)」など、すで完全かんぜん定着ていちゃくしたものについては「グルジア」を使用しようすることとする。

国名こくめい[編集へんしゅう]

ジョージアにおける自称じしょうエンドニム)は、サカルトヴェロSakartvelo.ogg საქართველო[ヘルプ/ファイル] [sakʰartʰvɛlɔ]ラテン文字もじ転写てんしゃ:Sakartvelo)であり、「カルトヴェリじん」を意味いみする。カルトヴェリじん由来ゆらいとなった「カルトリ」は、ジョージア最古さいこ文学ぶんがく作品さくひんせいシュシャニクの殉教じゅんきょう』(5世紀せいき)にもみられる、ジョージア中心ちゅうしん地域ちいき古称こしょうである[11][12]。この「サカルトヴェロ」系統けいとう国名こくめい使用しようしているのは、カルトヴェリ語族ごぞく諸語しょごエスペラントの「カルトヴェリーオ(Kartvelio)」または「カルトヴェルーヨ(Kartvelujo)」など少数しょうすうである。

日本にっぽんでは、ロシア帝国ていこく支配しはいにあった19世紀せいきから当地とうちについてられるようになり、ロシア"Грузия"[ˈɡruzʲɪjə] ( 音声おんせいファイル) グルージヤ)を音韻おんいん転写てんしゃした「グルジヤ」と英語えいごめい"Georgia"[ˈdʒɔrdʒə] ( 音声おんせいファイル) ジョージャ)を音韻おんいん転写てんしゃした「ジョルジア」の2系統けいとうそとめいエクソニム)が使つかわれていた。大正たいしょうから昭和しょうわ初期しょきにかけては「ジョルジア」のほう主流しゅりゅうめていたが[13][14][15]、1956ねんにち共同きょうどう宣言せんげん前後ぜんごして共産きょうさんけん報道ほうどうつよみをラヂオプレスが「グルジア」を採用さいようしていたことなどから、徐々じょじょに「ジョルジア」にたいして優位ゆういめるようになった。このロシアめい一説いっせつに、英語えいごめいGeorgiaおなじく中世ちゅうせいペルシャ使つかわれていた「グルジュ」もしくは「グルジャーン」という呼称こしょうアラビアなどを経由けいゆして十字軍じゅうじぐん時代じだいにヨーロッパへ紹介しょうかいされたのが由来ゆらいとされる[12]スラヴけんでも13世紀せいきごろからこのグルジュに由来ゆらいする呼称こしょうられるようになり、その、キリストきょうこくであるジョージアの守護しゅご聖人せいじんせいゲオルギオス」のむすびつけられていった[12]

国家こっかとしてのジョージアは、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくジョージアしゅうとラテン文字もじつづおよび発音はつおん同一どういつ[注釈ちゅうしゃく 1]ながら、地名ちめい由来ゆらい[注釈ちゅうしゃく 2]のみならず歴史れきしてきにもなん関連かんれんせいもない。しかしながら、首都しゅとトビリシはジョージアしゅう州都しゅうとでもあるアトランタと1987ねん姉妹しまい都市とし関係かんけい締結ていけつしており[16]、1994ねんにはジョージア国家こっか警備けいびたいジョージア州兵しゅうへい英語えいごばん組織そしきあいだ相互そうご協力きょうりょく協定きょうていen:Georgia–Georgia National Guard Partnership)が締結ていけつされている。

1995ねんジョージア憲法けんぽう採択さいたく以降いこう国名こくめいに「共和きょうわこく」などの政体せいたいふくまないのが正式せいしき名称めいしょうだが、英語えいごけんではアメリカのジョージアしゅうとの混同こんどうけるため、国家こっかを "Country of Georgia"、アメリカのしゅうを "State of Georgia" とける慣例かんれいがある[17][18]日本語にほんごでも同様どうように「ジョージアくに」(ジョージアこく)と「くに」を付加ふかした呼称こしょう使用しようされる場合ばあいがある[19][20]。また、ビートルズ楽曲がっきょくバック・イン・ザ・U.S.S.R.』では、たがいに無関係むかんけいながら英語えいごでは同一どういつ名称めいしょうばれる2つの地名ちめいっかけたジョークが歌詞かしふくまれていることでられる。

1992ねん日本にっぽん国交こっこう樹立じゅりつして以降いこう、ロシアの首都しゅとモスクワ経由けいゆせずに現地げんち情報じょうほう直接ちょくせつはいるようになったことから、とく主要しゅよう民族みんぞくたるカルトヴェリじんあいだ根強ねづよはん感情かんじょうについて日本にっぽんでもひろられるようになった。2000年代ねんだいなかばには特許とっきょ分野ぶんや一部いちぶのワイン輸入ゆにゅう業者ぎょうしゃが「グルジア」の使用しようりやめて自主じしゅてき英語えいごめいの「ジョージア」を使用しようするようになった[21][22]。しかし、2008ねん勃発ぼっぱつしたみなみオセチア紛争ふんそうに、ロシアとの敵対てきたい関係かんけい決定的けっていてきなものとなったことも後押あとおしし[23][24]、この時期じきから日本にっぽんふくめて「グルジア」系統けいとうそとめい使用しようしている各国かっこくたいして、個別こべつに「グルジア」の使用しようりやめと英語えいごめいの「ジョージア」(Georgia)採用さいよう要請ようせいされるようになった。韓国かんこくでは2010ねんにこの要請ようせいれて「그루지야(グルジヤ)」から「조지아(ジョージア)」へそとめい変更へんこうしているが[25]北朝鮮きたちょうせんでは現在げんざいも「그루지야(グルジヤ)」を使用しようしている。かつてのソビエト連邦れんぽう構成こうせいこくでは、リトアニア2018ねんからリトアニアそとめいを "Gruzia" から "Sakartvelo" へ変更へんこうすることを国会こっかい議長ぎちょう表明ひょうめいしている[26][27][28]

日本にっぽん政府せいふたいしては、2014ねん10月の首脳しゅのう会談かいだん正式せいしきに「グルジア」の使用しようりやめて「ジョージア」へそとめい変更へんこうするよう要請ようせいおこなわれ[29][30]2015ねん日本にっぽん政府せいふ使用しようするそとめい根拠こんきょほうとなる在外ざいがい公館こうかん名称めいしょうおよ位置いちならびに在外ざいがい公館こうかん勤務きんむする外務がいむ公務員こうむいん給与きゅうよかんする法律ほうりつ在外ざいがい公館こうかん設置せっちほう別表べっぴょう改正かいせいあんが、国会こっかい衆参しゅうさん両院りょういん全会ぜんかい一致いっちによる可決かけつて、4がつ22にちけで公布こうふ施行しこうされ[31][32]同日どうじつには外務省がいむしょうのサイトでそとめい変更へんこう告知こくちおこなわれた[33]日本にっぽん政府せいふが(政体せいたいなどの変革へんかく理由りゆうとする場合ばあいべつにして)外国がいこく政府せいふから個別こべつそとめい変更へんこう要請ようせいされて受諾じゅだくしたのは、1986ねん在外ざいがい公館こうかん設置せっちほう別表べっぴょう改正かいせい2003ねん)にコートジボワールそとめい変更へんこう要請ようせい(それ以前いぜんフランス語ふらんすごめい意訳いやくした「象牙ぞうげ海岸かいがん」を使用しようしていた)をれて以来いらい2れいとなる[注釈ちゅうしゃく 3]

漢字かんじ表記ひょうきには「グルジア」に由来ゆらいする「琉耳」と「ジョージア」に由来ゆらいする「たかしおさむ」の2とおりがある。台湾たいわん中華民国ちゅうかみんこく)では「たかしおさむ」を採用さいようしているが[34]中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくではかく鲁吉亚簡体字かんたいじ[35]香港ほんこんではかく魯吉繁体字はんたいじ)と[36]、いずれも「グルジア」系統けいとうそとめい現在げんざい使用しようされている。

歴史れきし[編集へんしゅう]

はらはじめ古代こだい[編集へんしゅう]

近年きんねん、ジョージア国内こくないでは南東なんとうドマニシ洞窟どうくつから180まん〜160まんねんまえごろの原人げんじんタイプの化石かせき人骨じんこつ発見はっけんされている[37]出土しゅつど人骨じんこつのデータから、従来じゅうらいひがしアジア発見はっけんされていた原人げんじんよりも原始げんしてき特徴とくちょうち、ユーラシア大陸たいりく最古さいこ年代ねんだい想定そうていされる[37]。この原人げんじんは「ホモ・ゲオルギクス」と命名めいめいされ、遺跡いせきからはいわゆる「つぶて」にぞくするオルドヴァイかた石器せっきぐん動物どうぶつ化石かせきなども多量たりょう発見はっけんされた[37]。ほかに、前期ぜんき旧石器時代きゅうせっきじだいぞくし、対称たいしょうがたつぶて特徴とくちょうてきアシュール文化ぶんかや、中期ちゅうき旧石器時代きゅうせっきじだいぞくし、へずかた石器せっき多数たすうともなうムスティエ文化ぶんか遺構いこう遺物いぶつがジョージア各地かくち洞窟どうくつ遺跡いせきから発見はっけんされている。

コルキス盆地ぼんちやフラミ渓谷けいこくみなみオセチアなどではしん石器せっき時代じだい遺跡いせき発見はっけんされており、紀元前きげんぜん6000ねんから紀元前きげんぜん5000ねんにかけて以降いこう刃先はさきすりせい石器せっき利用りようしたくわつるはしいしせいかま製粉せいふんよううす貯蔵ちょぞうよう土器どきなどがともな本格ほんかくてき定住ていじゅう生活せいかつ穀物こくもつ栽培さいばいはじまったとかんがえられる[38]コムギライムギについては、とう地方ちほうもっと重要じゅうようたね発祥はっしょうかんがえられている[39]石器せっき石材せきざいにはしゅとして地元じもとさんフリント黒曜石こくようせきもちいられ、うしぶたなどの牧畜ぼくちくおこない、ブドウふく果樹かじゅ栽培さいばいおこなわれた[38]

グルジア(ジョージア)をふくむカフカス地域ちいきは、先史せんし時代じだいにあっては金属きんぞく精錬せいれん発祥はっしょうひとつとされる[38]紀元前きげんぜん3700ねんごろから紀元前きげんぜん2500ねんごろにかけてのマイコープ文化ぶんかや、紀元前きげんぜん3400ねんごろから紀元前きげんぜん2000ねんごろにかけてのクラ=アラクセス文化ぶんか英語えいごばん青銅器せいどうき時代じだい遺跡いせきからは、おびただしいかず金属きんぞく発見はっけんされている[40]。B・A・クフティンがトリアレティ(クヴェモ・カルトリしゅう)で調査ちょうさした遺跡いせきによれば、内陸ないりくでは紀元前きげんぜん2000ねんには遊牧ゆうぼく生業せいぎょうとするもろ部族ぶぞく生活せいかつし、部族ぶぞく指導しどうしゃとみられる人物じんぶつふんはかからは美麗びれい彫琢ちょうたくされたきむぎんせい容器ようき副葬ふくそうされるなど、当時とうじ社会しゃかい首長しゅちょうとみ権力けんりょく集中しゅうちゅうさせていた様相ようそう確認かくにんされている[38]

グルジアじん(ジョージアじん)の祖先そせんとなる民族みんぞくは、黒海こっかい東岸とうがん広範囲こうはんい分布ぶんぷしてのちにコルキス王国おうこくをつくるコルキスじん源流げんりゅうをなすクルハぞくと、のちに南西なんせいグルジアのタオ地方ちほう定住ていじゅうするタオホイぞく源流げんりゅうをなすディアウヒ英語えいごばんぞくであり、りょう民族みんぞく母体ぼたいとして形成けいせいされたとかんがえられる[38]。なお、コルキスじん富裕ふゆうさについては、はやくからギリシャじんたちのるところであり、ギリシア神話しんわにおけるコルキス王女おうじょメーデイアきむ羊毛ようもうつばさ金色きんいろひつじ毛皮けがわ)の物語ものがたりはしてきしめされている[38]

西にしのコルキス王国おうこくひがしのイベリア王国おうこく

紀元前きげんぜん6世紀せいき以降いこう黒海こっかいめんする西にしグルジアのにコルキス王国おうこく(コルヒダ王国おうこく)が成立せいりつし、黒海こっかい東岸とうがんギリシャ植民しょくみん影響えいきょうのもとで発展はってんげた[41][42][43]黒海こっかいカスピ海かすぴかいをつなぐ地峡ちきょう地帯ちたいには交易こうえきとおり、地中海ちちゅうかいペルシア地域ちいきむす貿易ぼうえきさかんにおこなわれていた。

コルキス王国おうこく東側ひがしがわ内陸ないりくは、紀元前きげんぜん6世紀せいきオリエント統一とういつしたアケメネスあさペルシア、つづいてセレウコスあさ一部いちぶとなり、紀元前きげんぜん4世紀せいきから紀元前きげんぜん3世紀せいきにかけてはイベリア王国おうこく(カルトリ王国おうこく)が成立せいりつした[42][43]。その領域りょういき今日きょう中部ちゅうぶグルジアのカルトリ東部とうぶグルジアのカヘティ西南せいなんグルジアのサムツヘとその周辺しゅうへんであり、ここにはギリシャ文明ぶんめい影響えいきょう直接ちょくせつおよばなかった[38]住民じゅうみん西方せいほうアナトリア・コルキス方面ほうめんから流入りゅうにゅうしてきた人々ひとびと土着どちゃくみんとの融合ゆうごうによって形成けいせいされたとかんがえられる[38]首都しゅとムツヘタはクラがわアラグヴィがわ英語えいごばん合流ごうりゅうてんちかくに立地りっちしている。

紀元前きげんぜん2世紀せいき、コルキス王国おうこく黒海こっかい東南とうなん海岸かいがんにあったポントス王国おうこくミトリダテスによって制圧せいあつされ、紀元前きげんぜん65ねんにはそのポントスが共和きょうわせいローマポンペイウスぐんやぶれたことでコルキス(西にしグルジア)はローマの属領ぞくりょうとなった[38]おなじころ、ひがしグルジアのイベリア王国おうこくもローマの保護ほごかれた[38]

1世紀せいきはいり、キリスト教きりすときょう創始そうしされると、グルジアではじゅう使徒しとによる福音ふくいん伝道でんどうおこなわれたとつたえられている。とくマ帝国まていこく支配しはいらいだ3世紀せいきから4世紀せいきにかけては大幅おおはば信者しんじゃ増加ぞうかした[44]。これは、カッパドキア出身しゅっしんせいニノ(グルジアのニノ)の布教ふきょうによってひがしグルジアのおおくのひと入信にゅうしんしたことによるといわれている[38]

マ帝国まていこく衰退すいたいてんじた4世紀せいき西にしグルジアのきゅうコルキス王国おうこく一部いちぶ現在げんざいアブハジア地域ちいき)にはラジカ王国おうこく英語えいごばん成立せいりつし、古代こだいコルキスを併合へいごうした[42][43]。ラジカ王国おうこく首都しゅとをアルケオポリス(げんナカラケヴィ英語えいごばん)にき、ひがしマ帝国まていこくとのむすびつきをつよめた[38][45]。この王国おうこく523ねんキリスト教きりすときょう受容じゅようし、562ねんにはひがしローマに併合へいごうされた[45]

イベリア王国おうこくでは、330年代ねんだいキリスト教きりすときょうふか帰依きえしたミリアン3せい英語えいごばんによってキリストきょう国教こっきょうとして採用さいようされた[42][43]世界せかいでも301ねんアルメニア王国おうこくつづいて2番目ばんめふるキリスト教きりすときょう国教こっきょうれいであり、キリストきょうがこの地域ちいき公式こうしき宗教しゅうきょうとなったことは、その文化ぶんか形成けいせいおおきな影響えいきょうおよぼした[41][44]。グルジアの教会きょうかい当初とうしょ、シリアのアンティオキアそう主教しゅきょう管轄かんかつかれたが466ねんには独立どくりつ教会きょうかいとなり、カトリコスそう主教しゅきょう)のはムツヘタにかれた[46]グルジア文字もじ(カルトリ文字もじ)は4世紀せいきから5世紀せいきごろにかけての時期じき考案こうあんされた、グルジア表記ひょうきするために考案こうあんされた独自どくじ文字もじで、字形じけいことなるもののギリシア文字もじおな原理げんり文字もじ体系たいけいをなしている[47][48]

イベリアは、一時いちじペルシアじん支配しはいけたが、5世紀せいきまつには剛勇ごうゆうられるヴァフタング1せい(ヴァフタング・ゴルガサリ)によって主権しゅけん回復かいふくされ、トビリシ都市としてき発展はってんはじまった[49]。6世紀せいき初頭しょとう、ヴァフタング1せいダチ英語えいごばんおうちち遺言ゆいごんもとづきムツヘタからトビリシへ遷都せんとした[49]

カフカス地域ちいきアルメニア、グルジア(ジョージア)、アルバニアバルカン半島ばるかんはんとうアルバニアとは無関係むかんけい)の3教会きょうかいは、431ねんエフェソスこう会議かいぎだい3かいぜん公会こうかい)での、イエス・キリストかみそのものだとしてその神性しんせいのみをみとめる「たんせいろん」の採用さいよう賛成さんせいした[44]。ところが、451ねんカルケドンこう会議かいぎだい4かいぜん公会こうかい)ではたんせいろん否定ひていされ、「まことのかみであり、同時どうじにまことのひとでもある」として、キリストの神性しんせい人性じんせいとの両性りょうせい共立きょうりつとともにかくてき一致いっちく、いわゆる「両性りょうせいろん」が正統せいとうとされた[44]506ねん、3教会きょうかい代表だいひょうしゃはアルメニアのドヴィン英語えいごばんあつまってカルケドン反対はんたいするむね決議けつぎおこなったが、以前いぜんから両性りょうせいせつかたむいていたグルジア正教会せいきょうかい7世紀せいき初頭しょとうには明瞭めいりょうカルケドン信条しんじょう告白こくはくする立場たちばった[44]。「合性あいしょうろん」(両性りょうせいろんからはたんせいろん一種いっしゅなされた)をアルメニア使徒しと教会きょうかいは、これにたいし「カルケドン正教会せいきょうかい」にとどまった[44]

中世ちゅうせい近世きんせい[編集へんしゅう]

ペルシア支配しはいしたサーサーンあさゾロアスターきょう国教こっきょうとしており、その勢力せいりょくがカフカスにおよぶとキリスト教きりすときょう・ゾロアスターきょうりょう勢力せいりょくたがいにこうそうかえした[50]。ラジカ王国おうこくキリスト教きりすときょう国教こっきょうすると、サーサーンあさぐん派遣はけんして527ねんから533ねんまでつづラジカ戦争せんそう英語えいごばんとなった[50]。ラジカ王国おうこく最終さいしゅうてきひがしマ帝国まていこくひがしのイベリア王国おうこくはサーサーンあさにそれぞれ併合へいごうされ、ホスロー1せいはイベリアの王政おうせい廃止はいしした[42]7世紀せいき初頭しょとう自立じりつうごきをせたイベリアにたいし、ひがしローマ皇帝こうていヘラクレイオス北方ほっぽうハザール同盟どうめいして遠征えんせいおこなった[50]627ねんから629ねんにかけてはサーサーンあさ・イベリア王国おうこく連合れんごうぐん西にし突厥ひがしマ帝国まていこく・ラジカ連合れんごうぐんとのあいだトビリシ包囲ほういせんこり、トビリシは一時いちじ占領せんりょうされた[51]

ニハーヴァンドのたたか以降いこうはサーサーンあさ影響えいきょうりょく後退こうたいし、7世紀せいき後半こうはんからは新興しんこうイスラームほうずるアラブじん影響えいきょう拡大かくだいした[42]。トビリシは736ねんから738ねんにかけて「ムスリムの征服せいふく英語えいごばん」をけ、これによってトビリシ首長しゅちょうこく英語えいごばん成立せいりつした。カフカス地方ちほうにもイスラムの教義きょうぎがもたらされたが、ひろ山岳さんがく地帯ちたいかかえるグルジアへの流入りゅうにゅう限定げんていてきなものにとどまり、キリストきょう信仰しんこうまもられた。750ねんグルジア正教会せいきょうかい自治じち教会きょうかいとなり、9世紀せいきから10世紀せいきにかけてはカフカス地域ちいき布教ふきょう中心ちゅうしんになった[44]

かつてラジカ王国おうこくがあったグルジア西部せいぶではひがしローマ皇帝こうていちょくしんとなったアブハズじん(アブハジアじん)が次第しだいつよぜいとなり、8世紀せいきまつにはアンチャバヅェのアブハジアこうレオン1せい英語えいごばん皇帝こうていからおうごう許可きょかされた[51]。レオン1せいははがハザール王女おうじょつまがカルトリ大公たいこうむすめであったことから両者りょうしゃとも友好ゆうこう関係かんけいきずきつつ勢威せいいるった[51]。グルジア東部とうぶでは、イベリア公国こうこくバグラティオニ英語えいごばん台頭たいとうし、9世紀せいき初頭しょとうには、このいえからイベリア大公たいこうアショト1せい英語えいごばんあらわれた[38]。アルメニアでは、バグラトゥニ英語えいごばんのアルメニア大公たいこうアショト1せい英語えいごばん(イベリア大公たいこうアショト1せいとは別人べつじん)が、イスラム帝国ていこくであるアッバースあさによって「アルメニア、グルジア、コーカサスの大公たいこう」のゆるされ、885ねんにはアルメニアの諸侯しょこうによってアルメニアおう推戴すいたいされた[51]。こうして、イスラム帝国ていこくカリフひがしローマ皇帝こうてい双方そうほう承認しょうにんのもと、アッバースあさ版図はんとアルメニア王国おうこく再興さいこうされた[51]

ひがしローマとイスラムのこうそう拡大かくだいされたアルメニア王国おうこくなかでもひろげられ、最終さいしゅうてきには小国しょうこく分立ぶんりつ状態じょうたいがもたらされた[51]。こうしたなか、アルメニアおうアショト1せいは、西南せいなんグルジアのタオ英語えいごばん本拠ほんきょうつして、ひがしローマ皇帝こうていからクロバラテス、すなわち「宮殿きゅうでん守護しゅごしゃ」の称号しょうごう獲得かくとくするのに成功せいこうした[38]。10世紀せいき後半こうはん、アッバースあさ繁栄はんえいにもかげりがえるようになり、グルジアではイベリア大公たいこうグルゲン英語えいごばんあらわれ、アブハジア王女おうじょのグランドゥフトと結婚けっこん。イベリアとアブハジアの領域りょういき2人ふたり息子むすこバグラト3せい英語えいごばん継承けいしょうされた[51]。バグラド3せいは、アルメニアおうアショトの養子ようしとなって将来しょうらい地位ちいみずか保障ほしょうし、975ねんにはカルトリ地方ちほう宗主そうしゅけんをも獲得かくとく976ねんバグラトあさ英語えいごばんグルジア王国おうこく(グルジア連合れんごう王国おうこく)をてた[43]1001ねんには義父ぎふアショトからアルメニアと南西なんせいグルジア、1008ねんには実父じっぷグルゲンから南西なんせいグルジア残部ざんぶ継承けいしょうしてカヘティ地方ちほうのぞぜんグルジアのしょ公国こうこく統一とういつして、クタイシ首都しゅととする中世ちゅうせいグルジア王国おうこく隆盛りゅうせいはじまった[38][42]

バグラト3せいはクタイシにだい聖堂せいどうバグラティだい聖堂せいどう)を創建そうけんし、1010ねんにはカヘティ地方ちほうをも支配しはいおさめた。王国おうこく成立せいりつにはグルジア正教会せいきょうかいがバグラティオニ王朝おうちょうささえた。聖人せいじんとしてられるイベリアのヨアネ活躍かつやくし、レオンティ・ムロヴェリ英語えいごばんによって『グルジア年代ねんだい英語えいごばん』がかれたのもこのころのことである。10世紀せいきから13世紀せいきにかけてのグルジア王家おうけひがしマ帝国まていこくキエフ大公たいこうこくアラニアきたオセチア)などの王侯おうこう貴族きぞくとのあいださかんに婚姻こんいん関係かんけいむすび、ひがしヨーロッパかく地域ちいきとの精神せいしんてきむすびつきをつよめた[44]

バグラト3せいギオルギ1せい英語えいごばんはムツヘタのスヴェティツホヴェリだい聖堂せいどう修復しゅうふくおこない、ギオルギ1せいバグラト4せい英語えいごばん1045ねん、アルメニアの首都しゅとアニげんトルコ共和きょうわこく)を制圧せいあつした。1057ねんシリアアンティオキアひらかれた地方ちほう教会きょうかい会議かいぎでは、グルジア正教会せいきょうかい自治じち教会きょうかい資格しかくゆうすることが公認こうにんされている[44]。11世紀せいき後半こうはんにはトルコじん勢力せいりょく中央ちゅうおうアジアペルシアだい部分ぶぶんふく地域ちいき広大こうだい遊牧ゆうぼく帝国ていこくセルジュークあさ建設けんせつした。グルジアもその侵略しんりゃくけるようになり、バグラト4せい治下ちか1063ねんには南西なんせいグルジアが、1068ねんにはひがしグルジアがセルジュークあさによって制圧せいあつされた。

建設けんせつおう」とばれたダヴィド4せい即位そくいしたのは1089ねんのことであった。ダヴィド4せいは、きたカフカスのキプチャクひと移住いじゅうさせて親衛隊しんえいたい組織そしきし、軍制ぐんせい改革かいかくおこなってグルジアを強固きょうこ国家こっか改造かいぞうし、セルジュークあさ勝利しょうり1096ねんにはセルジュークあさたいするみつぎおさめ支払しはらいを停止ていしし、12世紀せいきはいってからはクタイシ郊外こうがいのイメレティア丘陵きゅうりょうゲラティ修道院しゅうどういん付属ふぞく王立おうりつ学校がっこう(アカデミー)を創立そうりつした[52]。この王立おうりつ学校がっこうはグルジアを代表だいひょうする科学かがくしゃ神学しんがくしゃ哲学てつがくしゃようし、トビリシ遷都せんと17世紀せいきいたるまでグルジアの文教ぶんきょう中心ちゅうしんとしてさかえた[52]1122ねん、ダヴィドはムスリム勢力せいりょく支配しはいされていた要衝ようしょうトビリシを奪還だっかんして、ここにうつした[38]

グルジアの黄金おうごん時代じだいきずいたタマル(ひだり)とちちおうギオルギ3せいみぎ

12世紀せいき後半こうはんギオルギ3せい英語えいごばん1156ねんにセルジュークあさ攻撃こうげきしてこれに勝利しょうりし、1161ねんから1162ねんにはアルメニアにも侵攻しんこうしてアニとドヴィンを占領せんりょうするなどつよぜいほこった。ギオルギ3せい王女おうじょ1184ねん正式せいしきおうとして即位そくいしたタマル女王じょおう時代じだい、バグラトちょうグルジア王国おうこくはザカフカス全域ぜんいき支配しはいする強国きょうこく発展はってんし、黄金おうごん時代じだいむかえた[38][42]1194ねんから1204ねんにかけてはセルジュークあさ勝利しょうりしてアルメニア南部なんぶ保護ほごりょうとしたほか、1195ねんにはげんアゼルバイジャンのシャムコルのたたか勝利しょうりして同地どうち支配しはいした。1201ねんから1203ねんにかけてはアルメニアのアニとドヴィンをさい併合へいごうし、さらに現在げんざいのトルコ北部ほくぶ占領せんりょうした[38]1204ねんイタリアヴェネツィア商人しょうにん策謀さくぼうによってだい4かい十字軍じゅうじぐんコンスタンティノープル占領せんりょうし、ひがしマ帝国まていこく没落ぼつらくしたさいには、その亡命ぼうめい政権せいけんトレビゾンド帝国ていこく建国けんこく援助えんじょしている[38]。タマルの時代じだいは、文化ぶんか学術がくじゅつめんでもグルジア王国おうこく最盛さいせいであり、おおくの修道院しゅうどういん寄進きしんされ、とく文学ぶんがく分野ぶんや充実じゅうじつ教会きょうかい建築けんちく発展はってん顕著けんちょであった[42]。『グルジア年代ねんだい』がまれ、また、とくにタマル女王じょおうつかえた官吏かんり詩人しじんショタ・ルスタヴェリ活動かつどうがよくられている[53]

タマル女王じょおう死後しごのグルジアはホラズム・シャーあさぐんによる侵入しんにゅうけ、さらにモンゴルのグルジア侵攻しんこうさらされた。1220ねんにはチンギス・カンいのちけたスブタイジェベはホラズムのムハンマド2せいアラーウッディーン・ムハンマド)を追撃ついげきしている途上とじょうでカフカス地方ちほう通過つうかし、遭遇そうぐうしたグルジアぐんはモンゴルぐんかされた[54]よく1221ねん、スベタイ・ジェベぐん2まんがグルジア王国おうこくふたた攻撃こうげき。タマルのギオルギ4せい英語えいごばんだい5かい十字軍じゅうじぐんへの支援しえんりやめ、くにげて抵抗ていこうしたものの敗北はいぼくした[51][54]1222ねんたたかいでも敗北はいぼくし、これらは、キリストきょう文明ぶんめいぞくする地域ちいきがモンゴルぐんからの猛攻もうこうけた最初さいしょであった[51]。ギオルギ4せいたいモンゴルせん負傷ふしょうがもとで1222ねん死去しきょし、いもうとルスダン王位おうい継承けいしょうした。

ルスダン治下ちか1225ねん、ホラズムの支配しはいしゃジャラールッディーン・メングベルディーがグルジアに侵入しんにゅうし、1226ねん首都しゅとトビリシが占領せんりょうされて略奪りゃくだつけた[51]。さらに、1236ねんにはチョルマグンひきいるモンゴルぐんふたたびグルジアに侵攻しんこうし、ルスダン女王じょおうはクタイシへの避難ひなん余儀よぎなくされた。女王じょおうローマ教皇きょうこうグレゴリウス9せい支援しえんもとめたが失敗しっぱいし、1243ねん、モンゴルぐん3まんにん常駐じょうちゅうするなか、グルジアはモンゴル帝国ていこく併合へいごうされ、その属領ぞくりょうとなった[51]。モンゴルは「グルジスタンしゅう」をき、そこにグルジアとみなみカフカス全域ぜんいき管掌かんしょうさせ、グルジアの領主りょうしゅたちをつうじて間接かんせつ統治とうちおこなった。

モンゴル帝国ていこくグユク・カンは1247ねん、グルジア王国おうこくひがしはん西にしはんけ、ギオルギ4せいダヴィド7せい英語えいごばんには東部とうぶのカルトリを、ルスダンのダヴィド6せい英語えいごばんには西部せいぶのイメレティをそれぞれあたえ、2人ふたり共同きょうどうおうとして公認こうにんした[55]1259ねんから1260ねんにかけて、ダヴィド6せいひきいられたグルジア貴族きぞくたちがモンゴル勢力せいりょく叛旗はんきひるがえし、西部にしべグルジアにイメレティ王国おうこく英語えいごばん独立どくりつった。しかし、東部とうぶグルジアはつづきモンゴル支配しはい余儀よぎなくされた[38][42]

遊牧ゆうぼく国家こっかであるイルハンあさでは税務ぜいむ行政ぎょうせいじょう首都しゅと重要じゅうよう地点ちてんとをむす駅逓えきてい制度せいど整備せいびされ、東部とうぶグルジアの中心ちゅうしんトビリシも「シャーフ・ラーフ(おうみち)」としょうする交通こうつうもうのひとつの終点しゅうてんとして重要じゅうよう役割やくわりになった[56]。モンゴル支配しはいではみつぎおさめいかめしかったものの一定いってい自治じちあたえられた。またモンゴルじんたちはがいして宗教しゅうきょう寛容かんようで、イスラムやキリスト教きりすときょうネストリウスルーシとグルジアの東方とうほう正教会せいきょうかいはむしろ民衆みんしゅう統治とうち役立やくだてられた。交通こうつうじょう変革へんかくとしては、1260ねん以降いこうジェノヴァ共和きょうわこくひがしローマ皇帝こうていミカエル8せいパレオロゴスとの条約じょうやくによって黒海こっかいにジェノヴァ商船しょうせんたいれが実現じつげんした[56]クリミア半島くりみあはんとうフェオドシヤやアブハジアのスフィミ港湾こうわんとして発展はってんし、黒海こっかい沿岸えんがんには40ものジェノヴァ商館しょうかんもうけられたという[56]

モンゴルの支配しはいながつづいたが、「光輝こうきおう」とばれたギオルギ5せい英語えいごばんあらわれて東西とうざい分裂ぶんれつしていたグルジアをさい統一とういつし、ようやく1335ねんにモンゴル勢力せいりょく放逐ほうちくして、事実じじつじょう独立どくりつたした[38][42][43]。ただし、その翌年よくねん1336ねんにはトビリシでペスト黒死病こくしびょう)がだい流行りゅうこうし、おおきな痛手いたでけている。さい統一とういつもグルジアはジャライルあさチョバンあさ影響えいきょうにあった[57]

1380ねん西にしチャガタイハンこくから自立じりつしたティムール侵入しんにゅう、トビリシを占領せんりょうしておう王妃おうひ捕虜ほりょとなった[51]以後いご、グルジアはティムールあさ侵入しんにゅうくるしめられることになり。とく1386ねんから1403ねんにかけてけい8におよぶ猛襲もうしゅうは、経済けいざいてきにも文化ぶんか生活せいかつめんでも回復かいふく困難こんなん打撃だげきをグルジア社会しゃかいあたえた[38][42][43]。グルジアはこののちいちくろひつじあさ支配しはいにもふくした。1444ねんにはトビリシがペルシアぐんによって侵略しんりゃくけ、1460年代ねんだいにはカヘティ王国おうこく英語えいごばん独立どくりつ分権ぶんけん進行しんこうして1466ねん、グルジア王国おうこくはついに崩壊ほうかい一種いっしゅ政府せいふ状態じょうたいおちいった。

1490ねんにおけるグルジアの3王国おうこく5公国こうこく

グルジア王国おうこく東部とうぶカルトリ王国おうこくとカヘティ王国おうこく西部せいぶのイメレティ王国おうこくというバグラティオニおうみつるいただく3つの王国おうこく分裂ぶんれつした。1490ねん、この3王国おうこく相互そうご承認しょうにんしあうことでようやく政府せいふ状態じょうたいだっすることができた。3王国おうこくのほかには、13世紀せいき以来いらい西南せいなんグルジアの有力ゆうりょく豪族ごうぞくジャケリ英語えいごばん公式こうしき支配しはいしたアタバクりょうサムツヘこく英語えいごばんがあり、さらに黒海こっかい沿岸えんがんグリア公国こうこく英語えいごばんサメグレロ公国こうこくアブハジア公国こうこく英語えいごばん内陸ないりくスヴァネティ公国こうこく英語えいごばん独立どくりつした君公くんこうこくとしてふるまい、事実じじつじょう5つの公国こうこく分立ぶんりつした[53]

16世紀せいき初頭しょとうから18世紀せいき前半ぜんはんにかけてのグルジアは、イラン高原こうげん建国けんこくされたひがしサファヴィーあさしん首都しゅとイスタンブール本拠ほんきょとして周囲しゅうい勢力せいりょく拡大かくだいする西にしオスマン帝国ていこく圧力あつりょくけ、しばしば両者りょうしゃ係争けいそうとなった[42]。カルトリ王国おうこくとカヘティ王国おうこくはサファヴィーあさ、イメレティ王国おうこくはオスマン帝国ていこく支配しはいをそれぞれけ、両者りょうしゃこうそうはイスラームにおけるスンナシーア宗教しゅうきょう戦争せんそう性格せいかく内包ないほうしていた[42]。この時代じだいとくにグルジア東部とうぶにあっては度重たびかさなる戦乱せんらん住民じゅうみん強制きょうせい移住いじゅうによって人口じんこうり、経済けいざい活動かつどう停滞ていたい余儀よぎなくされた[45]

イメレティ王国おうこく頻繁ひんぱん王位おうい交替こうたいし、混乱こんらんつづいた[56]。サメグレロ公国こうこくダディアニ英語えいごばんは17世紀せいきレヴァン2せい英語えいごばんとき最盛さいせいむかえたが、17世紀せいき後半こうはんにはおとろえ、公国こうこく支配しはいしゃ血統けっとう交替こうたいした[56]。サムツヘのジャケリはグルジア王家おうけとの婚姻こんいんによって独自どくじ立場たちばきずいたが、のちにオスマン帝国ていこく直接ちょくせつ支配しはいはいり、パシャ称号しょうごう獲得かくとくし、その領域りょういき現在げんざいアジャリア自治じち共和きょうわこくなど)ではイスラーム進行しんこうした[56]

カヘティ王国おうこくでは、16世紀せいき前半ぜんはん英明えいめい君主くんしゅレヴァン英語えいごばんあらわれ、国王こくおう権力けんりょく強化きょうかしてきぬ交易こうえきなどで王国おうこく繁栄はんえいみちびいた[58]一方いっぽうのカルトリ王国おうこくでは16世紀せいき中葉ちゅうようシモン1せいらがペルシアにたいして抵抗ていこうして以降いこうは、サファヴィーあさ宗主そうしゅけんみとめた[58]

1555ねん、トルコとペルシアは長年ながねんこうそう結果けっかアマスィヤの講和こうわむすんで平和へいわ実現じつげんする一方いっぽうカフカスにおける相互そうご勢力せいりょく範囲はんいさだめ、これはそのグルジア社会しゃかいおおきく規定きていすることとなった[53]1578ねん小康しょうこう状態じょうたいやぶられ、オスマン帝国ていこく勢力せいりょくがカフカス全土ぜんど蹂躙じゅうりんしてトビリシを制圧せいあつしたのにたいし、サファヴィーあさだい5だいシャーアッバース1せいはこれに反撃はんげき。トルコじん勢力せいりょく撤退てったいさせたが、アッバース1せいはまたカヘティにたいして略奪りゃくだつ遠征えんせいおこなったため、そのとみうしなわれてしまった[38][58]

サファヴィーあさ政治せいじてき影響えいきょうにあったカルトリとカヘティでは、イスラーム改宗かいしゅう条件じょうけんにバグティオニの家系かけい王子おうじからえらばれ、政治せいじ経済けいざいてきないし軍事ぐんじてきには衰退すいたいし、文化ぶんかめんでもペルシア文化ぶんか影響えいきょうつよけた[53][58]。しかし、一方いっぽうではアルメニアじんチェルケスじんなどとともに「グラームおう奴隷どれい)」とばれる軍人ぐんじん官吏かんりとしてサファヴィーあさささえ、イランじんやトルコじんならんで枢要すうよう国政こくせいポストについてエリートいちかくめるグルジアじんあらわれた[53][59]。サファヴィーあさ帝都ていとエスファハーン長官ちょうかんしょくなかばグルジアの王子おうじによる世襲せしゅうしょくとなっており、現在げんざいイラク国境こっきょうちかシューシュタルまちは、グルジアのだい貴族きぞく出身しゅっしんしゃ家系かけいやく100ねんにわたって支配しはいつづけた[59]。グルジア独自どくじ伝統でんとう文化ぶんかもペルシア支配しはい復興ふっこうげ、12世紀せいき初頭しょとうの「黄金おうごん時代じだい」に対比たいひし「ぎん時代じだい」とばれるほどである[53]。そのなかで、カヘティおうティムラズ1せい英語えいごばん、カヘティとイメレティの両方りょうほう王位おうい経験けいけんしたアルチル英語えいごばん2人ふたり詩人しじんおうとしてられている[53]。また、サファヴィーあさ官吏かんりであったパルサダン・ゴルギジャニゼ英語えいごばんは17世紀せいきまつに『グルジア年代ねんだい』をあらわしている。

18世紀せいきはいると、カルトリ王国おうこくヴァフタング6せいあらわれた。かれ傑出けっしゅつした立法りっぽうであったが、一方いっぽうでは1709ねんにグルジアに印刷いんさつじゅつみ、グルジア印刷いんさつはじめ、自国じこく追究ついきゅう関心かんしんつよ文化ぶんかじんでもあった[38][53]。ゴルギジャニゼのあらわした『グルジア年代ねんだい』の続編ぞくへん編纂へんさんする目的もくてき学者がくしゃ有識者ゆうしきしゃあつめ、グルジア国内こくない写本しゃほん古文書こもんじょ精査せいさめいじ、その成果せいかを14世紀せいきから17世紀せいきまでの公的こうてき年代ねんだいとして刊行かんこうした[53]1722ねんパシュトゥーンじんがエスファハーンを陥落かんらくさせサファヴィーあさ崩壊ほうかいすると、グルジアはオスマン帝国ていこくあらたな侵入しんにゅうまねいた[38]。ペルシアでは征服せいふくしゃナーディル・シャーあらわれ、ロシア帝国ていこくとのあいだはんオスマン同盟どうめいむすび、アフシャールあさ創始そうししてオスマン帝国ていこくうばわれた失地しっち回復かいふく。カルトリ王位おういをカヘティおうだったティムラズ2せい英語えいごばんあたえた[38][53]

ロシア帝国ていこく時代じだい[編集へんしゅう]

18世紀せいき後半こうはんひがしグルジアのカヘティ王国おうこくエレクレ2せい英語えいごばんあらわれ、サファヴィーあさ興起こうきしたアフシャールあさ撃退げきたいし、ちちのカルトリおうティムラズ2せい死去しきょはその領域りょういきをも継承けいしょうして、1762ねん、トビリシにカルトリ・カヘティ王国おうこくてた[38][42]。エレクレはアルメニア商人しょうにんたちと提携ていけいして王国おうこく殖産しょくさん興業こうぎょう尽力じんりょくしたため、その経済けいざいおおいに発展はってんした[41][58]1768ねんはじまった戦争せんそうではエレクレはロシア帝国ていこくがわたたかった。クタイシを首都しゅととする西部せいぶのイメレティ王国おうこくもこの戦争せんそうではロシアがわち、ソロモン1せい英語えいごばん治世ちせい1779ねんにはオスマン支配しはいから脱却だっきゃくすることに成功せいこうした[38]

エレクレ2せいは、きたカフカスからのレズギンじん襲来しゅうらいやペルシア・トルコのりょう勢力せいりょくから自国じこくまもるため、おな正教せいきょうほうずるきた大国たいこくであるロシア帝国ていこくとの同盟どうめい目指めざし、1783ねんには女帝にょていエカチェリーナ2せいとのあいだギオルギエフスク条約じょうやく英語えいごばんむすんでロシアの保護ほごこくとなることをみとめた[38]。しかし、ロシアはこの条約じょうやくまもらず、エレクレ2せい結局けっきょく新興しんこうガージャールあさからの猛攻もうこう単独たんどくけざるをなくなった。1795ねん、グルジアはだい敗北はいぼくきっしてトビリシは略奪りゃくだつけ、経済けいざい成長せいちょう成果せいかかえした[38][58]。エレクレの病弱びょうじゃく後継こうけいしゃギオルギ12せい英語えいごばん無条件むじょうけん自国じこくをロシアの保護ほごゆだねることをけっし、1800ねん12月に死去しきょした[38]

1801ねん1がつロシア皇帝こうていパーヴェル1せいはカルトリ・カヘティ王国おうこくはいしてひがしグルジアの併合へいごう宣言せんげんし、同年どうねん9がつ新帝しんていアレクサンドル1せいによって併合へいごう実行じっこううつされた[38]カフカス総督そうとく英語えいごばんをトビリシにもうけ、グルジアはロシアの軍政ぐんせい長官ちょうかん支配しはいかれた[49][60]。このとき、カルトリ・カヘティ各地かくちでは人民じんみん叛乱はんらんこった[38][49]。カフカス総督そうとくは、帝政ていせいロシアのほか植民しょくみん総督そうとく以上いじょう権限けんげんゆうし、グルジアには内地ないち同様どうようけんグベールニヤ)をいて県知事けんちじなどには現地げんち有力ゆうりょくしゃてた[60]。ロシア帝国ていこく19世紀せいき初頭しょとうザカフカスみなみカフカス)の強固きょうこ支配しはいとペルシアの背後はいごにあるイギリスへの対抗たいこうのため、グルジアぐんどう建設けんせつした[61]えいこうそうは「グレート・ゲーム」を参照さんしょう)。

ロシアは1810ねんには西にしグルジアのイメレティをも併合へいごうし、グルジア主要しゅようそうじて簡単かんたんにロシアの一部いちぶになってしまった[62]。ロシアはまた、1828ねんにはアルメニア併合へいごう、さらに同年どうねん、ペルシアとの戦争せんそう結果けっか、アゼルバイジャン北部ほくぶ支配しはいき、1829ねんにはグルジアのグリア併合へいごうした[38][62]。グリアではロシア政府せいふによるジャガイモ強制きょうせい栽培さいばいはしはっした1841ねんグリア反乱はんらん英語えいごばんこっている。さらに、ミングレア(きゅうサメネグロ)、スヴァネティ、アブハジアがそれぞれ1857ねん1858ねん1867ねん完全かんぜんにロシアの版図はんととなった[38]

ロシアがわからみれば、みなみカフカスよりもきたカフカスチェチェンじん、レズギンじんなどのイスラームけい山岳さんがく民族みんぞくほう強敵きょうてきであった[62][63]結局けっきょくロシアは、きたカフカスを戦場せんじょうとするコーカサス戦争せんそう(カフカス戦争せんそう)に1816ねんから1861ねんまで、45ねん歳月さいげつついやしている[62]。この戦争せんそうたいし、グルジアの軍隊ぐんたい人々ひとびとはロシアがわ参加さんかした[64]。これについては、当時とうじのグルジアじんたちがロシアじんたちと共通きょうつう信仰しんこう(キリストきょう)をっていたばかりでなく、かれらがロシア統治とうち積極せっきょくめんかんじていたという指摘してきがある[64]。すなわち、ロシアへの併合へいごうはムスリムのしょ勢力せいりょく攻勢こうせいから自身じしんまもり、みずからロシア政府せいふ主導しゅどうするカフカスのさいキリスト教化きょうか参与さんよできたのである[44]

一方いっぽう、グルジア正教会せいきょうかいは1811ねんロシア正教会せいきょうかい吸収きゅうしゅうされ、その組織そしきてき独立どくりつうしなった[44][46]。グルジア教会きょうかいカトリコスそう主教しゅきょう)ははいされ、わりにロシアの宗務しゅうむいんぞくするだい主教しゅきょうかれた[46]。これは、ロシア教会きょうかいとグルジア教会きょうかいあいだには教義きょうぎじょう差異さいがないとみなされたためであったが、後者こうしゃにはなが歴史れきしつグルジア文語ぶんご独特どくとく典礼てんれいがあり、その聖職せいしょくしゃ信者しんじゃにとってグルジア禁止きんしとロシア強制きょうせいおおきな苦痛くつうであった[44]

1856ねんのコーカサス

グルジア貴族きぞくなかにはロシアの帝都ていとサンクトペテルブルク留学りゅうがくするものえ、ロシア経由けいゆロマン主義しゅぎ文学ぶんがく影響えいきょうつよけるものあらわれた[65]。また、開明かいめいてきミハイル・セミョノヴィチ・ヴォロンツォフ総督そうとく時代じだいの1845ねんから1854ねんにかけては、グルジアの商業しょうぎょう貿易ぼうえき急速きゅうそく発展はってんし、トビリシには劇場げきじょうなども整備せいびされ、都市とし文化ぶんか開花かいかした[38][65]。1861ねんにロシア皇帝こうていアレクサンドル2せいはっした農奴のうど解放かいほうれいはグルジアにもおよび、1864ねん以降いこう農奴のうどせいしたにいた農民のうみんたちは自由じゆうとなり、従来じゅうらい家父長制かふちょうせいてき慣行かんこう近代きんだい教育きょういく普及ふきゅうヨーロッパからもたらされたしょ思想しそうによって急速きゅうそくっていった[38]。19世紀せいき後半こうはんには、国民こくみんてき作家さっかとしてられるイリア・チャヴチャヴァゼアカキ・ツェレテリヴァジャ・プシャヴェラという、現代げんだいでもしたしまれるさんだい文豪ぶんごう活躍かつやくした[65]

1860年代ねんだい、トビリシには織物おりもの工場こうじょうもうけられ、1872ねん、トビリシとポティあいだ鉄道てつどう開通かいつうした[38][61]。さらに、バトゥミ、トビリシとアゼルバイジャンのバクーむす鉄道てつどう敷設ふせつされた[49]。「ジョージアの鉄道てつどう」「グルジア鉄道てつどう」も参照さんしょう黒海こっかいカスピ海かすぴかい沿岸えんがんむすばれたことなどにより、鉱山こうざん工場こうじょう農場のうじょうなどのしょ産業さんぎょう発展はってんした。しかし、資本しほんおおくはロシアじんアルメニアじん西欧せいおう諸国しょこく人々ひとびと掌握しょうあくするところとなり、グルジアじんには恩恵おんけいすくなく、多数たすう農民のうみん都市とし工業こうぎょうによってあらたに形成けいせいされた労働ろうどうしゃ階級かいきゅうおおくはこれに不満ふまんいた[38]1883ねん、トビリシにザカフカス鉄道てつどう本部ほんぶかれ、グルジアはザカフカス地方ちほう全体ぜんたい鉄道てつどう輸送ゆそう要地ようちとなった[61]。19世紀せいき末葉まつようにはアゼルバイジャンでバクー油田ゆでん開発かいはつすすみ、黒海こっかいめんしたグルジアにはパイプラインつくられた[61]

農奴のうど解放かいほうされたものの私有地しゆうちやく3ぶんの2が地主じぬし所有しょゆうであり、教会きょうかいりょうおおかったため、農民のうみんおおくは貧窮ひんきゅうしていた[61]。また、皇帝こうていアレクサンドル2せい暗殺あんさつはんツァーリ運動うんどうたいするめつけがつよくなり、1881ねん即位そくいしたアレクサンドル3せい計画けいかくてきなロシア政策せいさくして少数しょうすう民族みんぞく同化どうか政策せいさく強制きょうせいてきすすめた[38][60]。これにこうして、様々さまざま農民のうみん運動うんどう民族みんぞく主義しゅぎ運動うんどう興起こうきした[38][60]

民族みんぞく再興さいこう運動うんどうは、当初とうしょ文学ぶんがく社会しゃかい運動うんどう基本きほんとするグループがちからっていたが、やがて社会しゃかい民主みんしゅ主義しゅぎほうずるグループが優勢ゆうせいとなり、ノエ・ジョルダニアニコライ・チヘイゼらのメンシェヴィキがそのざらになっていった[38][42]かれらの活動かつどうは、やがて1902ねんはるのグリアでの農民のうみん運動うんどうたねまきストライキ」へとつながった[66]。また、1902ねんバトゥミでのストライキ社会しゃかい民主党みんしゅとう指導しどうによるものであった[67]1903ねん、トビリシでロシア社会民主労働党しゃかいみんしゅろうどうとうカフカス連盟れんめい組織そしきされ、カフカスしょ都市とし労働ろうどう運動うんどう組織そしき一層いっそうつよめた[66]。1903ねん7がつにバクーとオデッサはじまったゼネラル・ストライキはトビリシやバトゥミにも波及はきゅうした[66]

1904ねん8がつから9がつにかけてのにち戦争せんそうりょう会戦かいせんロシア陸軍りくぐん日本にっぽん陸軍りくぐん敗北はいぼくしたことは、ロシア帝国ていこくない労働ろうどう運動うんどう農民のうみん運動うんどうにもおおきな影響えいきょうあたえた。1904ねんまつ、グルジアではバクーやバトゥミの労働ろうどう運動うんどうむすびついて農民のうみん委員いいんかい結成けっせいされ、広範こうはん騒擾そうじょう事件じけんゲリラせん展開てんかいされた[38]とくにグリア地方ちほう農民のうみん蜂起ほうきは、ツァーリ政府せいふから地域ちいき権力けんりょくうばい、地主じぬし所有しょゆうする農地のうち占拠せんきょし、さらに武装ぶそう集団しゅうだん組織そしきするにいたったというもので、その様態ようたいは「グリア共和きょうわこく」とばれるほどであった[38][66]。「マルクス主義まるくすしゅぎしゃ指導しどうした世界せかいはつ農民のうみん反乱はんらん」とひょうされるこのうごきはぜんグルジアにひろがり、これにはかつてのグルジア貴族きぞく参加さんかした[66]。このとし一連いちれんはん政府せいふ行動こうどうロシアだいいち革命かくめい(1905ねん革命かくめい)とばれており、1905ねん前半ぜんはんつうじて暴動ぼうどう反乱はんらん帝国ていこく全土ぜんどひろがった[68]。トビリシやポティ、クタイシではストライキがこり、トビリシとカルスでは軍部ぐんぶ反乱はんらんさえこっている[68]。1905ねんはまた「自由じゆう主義しゅぎしゃはる」という状況じょうきょうまれ、9月にはロシア帝国ていこくない革命かくめいによってフランスのパリはん政府せいふとう革命かくめいとう会議かいぎをひらかれた[69]。そこにはグルジア革命かくめいてき社会しゃかい主義しゅぎしゃ連邦れんぽうとう参加さんかしている[69]。1906ねん以降いこう革命かくめい運動うんどう退潮たいちょうしていくが、グルジアにあってはメンシェヴィキ一層いっそう広範こうはん支持しじ獲得かくとくしていった[66]

ロシア帝国ていこくからの独立どくりつソ連それんへの加盟かめいソ連それん時代じだい[編集へんしゅう]

首都しゅとトビリシでパレードする赤軍せきぐん(1921ねん

ロシア革命かくめい1918ねん5月26にちグルジア民主みんしゅ共和きょうわこくはロシアからの独立どくりつ宣言せんげんするが、1921ねん赤軍せきぐんのグルジア侵攻しんこう英語えいごばんによって首都しゅと制圧せいあつされ、崩壊ほうかいした。1922ねんグルジア問題もんだいでは、フィリップ・マハラゼブドゥ・ムディヴァニらグルジアの穏健おんけん共産きょうさん主義しゅぎ政権せいけん失脚しっきゃくし、ザカフカース社会しゃかい主義しゅぎ連邦れんぽうソビエト共和きょうわこく構成こうせいこくとなり、ソビエト連邦れんぽう加盟かめいした。1936ねんには直接ちょくせつソ連邦それんぽう構成こうせい共和きょうわこくグルジア・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく)に昇格しょうかくした。

だい世界せかい大戦たいせん一環いっかんであるどくせんでは、ナチス・ドイツぐんがグルジアにちか黒海こっかい北岸ほくがんきたコーカサスまで一時いちじ侵攻しんこうした。

戦後せんごソ連それんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくなど西側にしがわ諸国しょこくとの冷戦れいせんはいり、ソビエト連邦れんぽう崩壊ほうかい直前ちょくぜんまで民族みんぞく問題もんだいげられることはなかった。またヨシフ・スターリン故郷こきょうという側面そくめんもあり、かつては共産きょうさん党員とういん割合わりあいもっとたかかった。

ソ連それん崩壊ほうかい[編集へんしゅう]

1989ねん東西とうざい冷戦れいせん緩和かんわする一方いっぽうソ連それんペレストロイカ路線ろせんまりをせると、ソ連それん地上ちじょうぐんはん運動うんどう弾圧だんあつしたトビリシ事件じけんおおきな転機てんきとして、ソ連それん後期こうきからはおさえられていた民族みんぞくてき問題もんだい表面ひょうめんした。1990ねん11月、グルジア・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこくはグルジア共和きょうわこく改名かいめいされ、1991ねん4がつ9にち独立どくりつ宣言せんげんおこない、5月にはズヴィアド・ガムサフルディア大統領だいとうりょう選出せんしゅつ。これは同年どうねん12がつ25にちづけでのソ連邦それんぽう解体かいたいにより実効じっこうせいったものの、独立どくりつおおくの閣僚かくりょうソ連それんきゅう共産きょうさん党員とういんであったことや強権きょうけんてき統治とうちおこなわれたために、政局せいきょく不安ふあん改善かいぜんされず治安ちあん悪化あっか内戦ないせん状態じょうたいいたった。そのアブハジアアブハジア紛争ふんそうアブハジア戦争せんそう英語えいごばん)やみなみオセチアみなみオセチア紛争ふんそう (2008ねん))やアジャリア自治じち共和きょうわこく (en:2004 Adjara crisis) で分離ぶんり独立どくりつ運動うんどうき、現在げんざいみなみオセチアとアブハジアが事実じじつじょう独立どくりつ状態じょうたいとなっている(アジャリア自治じち共和きょうわこくは2004ねんにジョージア中央ちゅうおう政府せいふ支配しはいかれて自治じちけん剥奪はくだつ)。

シェワルナゼ政権せいけん[編集へんしゅう]

1991ねん11月22にちグルジア国家こっか警備けいびたいクーデターこし、政府せいふぐん交戦こうせん[70]。1992ねん1がつ6にちズヴィアド・ガムサフルディア大統領だいとうりょう首都しゅとトビリシを脱出だっしゅつ[70]わって軍事ぐんじ評議ひょうぎかいがグルジアを統治とうちした。その軍事ぐんじ評議ひょうぎかいまねきによりエドゥアルド・シェワルナゼもとソ連それん外相がいしょう帰国きこくし、同年どうねん3がつ10日とおか国家こっか評議ひょうぎかい創設そうせつされると、シェワルナゼが議長ぎちょう選出せんしゅつされた[70]同年どうねん10がつ11にち最高さいこう会議かいぎ議長ぎちょう直接ちょくせつ選挙せんきょ実施じっしされ、シェワルナゼが96%の得票とくひょうにより当選とうせん[71]。10月17にち国家こっか評議ひょうぎかい自主じしゅ解散かいさんし、統治とうち機能きのう最高さいこう会議かいぎがれることとなった[72]。1992ねん7がつ31にち国際こくさい連合れんごう加盟かめいした。そのは2003ねんまで、シェワルナゼが最高さいこう権力けんりょくしゃであった。

バラ革命かくめい[編集へんしゅう]

2003ねん11月2にち議会ぎかい選挙せんきょ開票かいひょうには出口いでぐち調査ちょうさなどによって不正ふせい疑惑ぎわく指摘してきされ、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく非難ひなん表明ひょうめいしていたが、11月22にちになって、選挙せんきょもとづあたらしい議会ぎかい召集しょうしゅうされた。これにたいし、反対はんたい議員ぎいんボイコットした。議会ぎかいまえには2まん5,000にん反対はんたい市民しみん集結しゅうけつしていたが、開会かいかいげられる最中さいちゅう、これらの市民しみん議場ぎじょう乱入らんにゅうした。シェワルナゼ大統領だいとうりょう議会ぎかいから逃亡とうぼうし、11月23にちには大統領だいとうりょう辞任じにんした。わって、野党やとうブルジャナゼ・民主みんしゅ主義しゅぎしゃ」の党首とうしゅであるニノ・ブルジャナゼ暫定ざんてい大統領だいとうりょう就任しゅうにんした。ブルジャナゼ暫定ざんてい大統領だいとうりょうは、従来じゅうらい閣僚かくりょう(ナルチェマシュヴィリ内相ないしょう、ジョルベナゼ国務相こくむしょう、ゴジャシュヴィリ財務ざいむしょう、メナガリシュヴィリ外相がいしょうなど)を一掃いっそうした。

サアカシュヴィリ政権せいけん[編集へんしゅう]

きゅう野党やとう勢力せいりょくは、2004ねん1がつ4にちおこなわれた大統領だいとうりょう選挙せんきょでは、野党やとう国民こくみん運動うんどうミヘイル・サアカシュヴィリ党首とうしゅ統一とういつ候補こうほとして擁立ようりつした。しかし、労働党ろうどうとうのナテラシュヴィリ党首とうしゅ議会ぎかい選挙せんきょのやりなおしに反対はんたいし、伝統でんとう主義しゅぎしゃ連盟れんめい離脱りだつ表明ひょうめいするなどのうごきもあった。ロシア連邦れんぽうこうたてにアジャリア自治じち共和きょうわこく事実じじつじょう中央ちゅうおう政府せいふから独立どくりつして支配しはいしてきたアスラン・アバシゼ最高さいこう会議かいぎ議長ぎちょう非常ひじょう事態じたい宣言せんげん発令はつれいし、暫定ざんてい政権せいけん反対はんたいするなどのうごきをせた。結局けっきょく大統領だいとうりょう選挙せんきょ結果けっかはサアカシュヴィリの圧勝あっしょうわった。これに反対はんたいする野党やとう勢力せいりょく一転いってんして選挙せんきょ結果けっかれ、アバシゼ議長ぎちょう反対はんたいつづけたが、5月には最終さいしゅうてきにロシアへ亡命ぼうめいして一連いちれん混乱こんらん収拾しゅうしゅうした。

3月28にち議会ぎかいさい選挙せんきょおこなわれた。結果けっかは、国民こくみん運動うんどう得票とくひょうりつ75%でだい多数たすう議席ぎせき獲得かくとく最大さいだい与党よとう躍進やくしんした。一方いっぽう、その議席ぎせき獲得かくとく必要ひつような7%の得票とくひょうりつえられたのはしん右派うは産業さんぎょうとう連合れんごうして結成けっせいされた右派うは野党やとうだけであった。今回こんかい選挙せんきょ独立どくりつのグルジアでもっと自由じゆう選挙せんきょのうちのひとつだったとかんがえられる。

2007ねん11月に与党よとうサアカシュヴィリ政権せいけんたいする野党やとうデモの鎮圧ちんあつにグルジア全土ぜんど非常ひじょう事態じたい宣言せんげん発令はつれいされるなど政情せいじょう不安ふあんつづき、これにたいするサアカシュヴィリ政権せいけん強硬きょうこう政策せいさくはグルジアにおける民主みんしゅ主義しゅぎ後退こうたい位置いちづけるものとなった。

ロシア-グルジア戦争せんそう[編集へんしゅう]

みなみオセチア紛争ふんそう (2008ねん)

2008ねん8がつみなみオセチアしゅうめぐりグルジアとロシアのあいだにおいて紛争ふんそう勃発ぼっぱつした。

この紛争ふんそうによってサアカシュヴィリの権力けんりょくつよまるとおもわれたが、ぎゃくおおくの戦死せんししゃして批判ひはんされ、のちに紛争ふんそうを「グルジアから仕掛しかけた」と発言はつげんするにおよび、かれ求心力きゅうしんりょくよわまっている。

2009ねん4がつ9にち首都しゅとトビリシで、サアカシュヴィリ大統領だいとうりょう辞任じにん要求ようきゅうするだい規模きぼはん政府せいふ集会しゅうかい議会ぎかいぜん広場ひろば主要しゅよう野党やとう民主みんしゅ運動うんどう統一とういつグルジアなど)によってひらかれた。その集会しゅうかいには、6まんにんのぼ市民しみん集結しゅうけつした。要求ようきゅう背景はいけいは、大統領だいとうりょう権力けんりょく集中しゅうちゅうへの批判ひはんとロシアとの軍事ぐんじ衝突しょうとつ回避かいひできなかった責任せきにん追及ついきゅうなどがげられている。なお、グルジアがもとめていた北大西洋きたたいせいよう条約じょうやく機構きこう(NATO)加盟かめい現在げんざい棚上たなあげされている。

2009ねん5月5にち軍部ぐんぶによるクーデター未遂みすい事件じけん発生はっせいし、グルジアぐん高級こうきゅう将校しょうこうすうにん拘束こうそくされた。グルジアはクーデター勢力せいりょくがロシアの支援しえんけていたと非難ひなんしている。

サアカシュヴィリ政権せいけん終焉しゅうえんとマルグヴェラシヴィリ政権せいけん[編集へんしゅう]

2012ねん10月選挙せんきょ結果けっか、ロシアとの関係かんけい改善かいぜん目指めざ野党やとう連合れんごうグルジアのゆめ民主みんしゅ主義しゅぎグルジア」が勝利しょうりし、どう連合れんごう代表だいひょう実業じつぎょうビジナ・イヴァニシヴィリ首相しゅしょう指名しめいされた。そして、2013ねん10がつ27にちおこなわれた大統領だいとうりょう選挙せんきょで、「グルジアのゆめ」が推薦すいせんしたギオルギ・マルグヴェラシヴィリ候補こうほ圧勝あっしょうし、サアカシュヴィリ大統領だいとうりょう後継こうけいしゃダヴィト・バクラゼ候補こうほ惨敗ざんぱいした[73]

これにより、強固きょうこはんおや欧米おうべい政策せいさくすすめてきたサアカシュヴィリ体制たいせい終焉しゅうえんむかえたが、欧州おうしゅう連合れんごう(EU)加盟かめい目指めざ方向ほうこうせいわっておらず、2014ねん6月27にち、EUと連合れんごう協定きょうてい締結ていけつ[74][75][76]2016ねん7がつ1にち正式せいしき連合れんごう協定きょうてい発効はっこうした[77]

2018ねんにはフランスまれのもとフランス外務省がいむしょう職員しょくいんもとはサアカシュヴィリの盟友めいゆうどう政権せいけん外相がいしょうつとめたサロメ・ズラビシュヴィリ無所属むしょぞく大統領だいとうりょう選出せんしゅつされた。ウクライナ戦争せんそう以降いこう西側にしがわ諸国しょこく歩調ほちょうわせてたい強硬きょうこう路線ろせんもとめるおや欧米おうべいのズラビシュヴィリ大統領だいとうりょうたいしてたい制裁せいさい不参加ふさんか中立ちゅうりつてき立場たちばつらぬ与党よとうとの対立たいりつこしているが、大統領だいとうりょうしょく名誉めいよしょくぎず政治せいじてき実権じっけんげん政権せいけんはサアカシュヴィリ政権せいけん終焉しゅうえん以来いらいつづいている中立ちゅうりつ姿勢しせい堅持けんじしている。

年譜ねんぷ[編集へんしゅう]

  • 4世紀せいき - キリスト教きりすときょう国教こっきょう
  • 6世紀せいき - 10世紀せいき サーサーンあさペルシア帝国ていこくひがしマ帝国まていこくイスラム帝国ていこくアラブじん)の支配しはいとなる。
  • 11世紀せいき - バグラトあさ英語えいごばん成立せいりつ
  • 13世紀せいき - 14世紀せいき タタールティムールによる侵攻しんこう
  • 16世紀せいき - 18世紀せいき 西部せいぶオスマン帝国ていこく東部とうぶサファヴィーあさペルシアの支配しはいとなる。
  • 1783ねん - ギオルギエフスク条約じょうやく英語えいごばんによりグルジア東部とうぶロシア帝国ていこく保護ほごりょうとなる。
  • 1801ねん - ロシア帝国ていこく、グルジア東部とうぶ併合へいごう。ロシアはその併合へいごうかえしていく。
  • 1878ねん - 戦争せんそう結果けっか、アジャリアがロシア帝国ていこく併合へいごう現在げんざいのグルジアにあたる領域りょういきがすべてロシア帝国ていこく版図はんとはいる。
  • 1918ねん5月 - 前年ぜんねんロシア革命かくめいけグルジア独立どくりつ宣言せんげんグルジア民主みんしゅ共和きょうわこく)。
  • 1922ねん - アルメニアアゼルバイジャンとともにザカフカース・ソビエト連邦れんぽう社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく形成けいせいソビエト連邦れんぽう加盟かめい
  • 1936ねん - スターリン憲法けんぽうにより、独立どくりつした連邦れんぽう構成こうせい共和きょうわこくとなる。
  • 1989ねん8がつ - みなみオセチア紛争ふんそうはじまる。
  • 1990ねん8がつ - アブハジア紛争ふんそうはじまる。
  • 1991ねん4がつ9にち - 独立どくりつ宣言せんげん[4]ソビエト連邦れんぽう崩壊ほうかいにより12月に独立どくりつ
  • 1992ねん
  • 1995ねん11月 - エドゥアルド・シェワルナゼが大統領だいとうりょう就任しゅうにん
  • 2000ねん4がつ - エドゥアルド・シェワルナゼ大統領だいとうりょう再選さいせん
  • 2002ねん8がつ - チェチェン共和国ちぇちぇんきょうわこく武装ぶそう勢力せいりょくくわわっていた日本人にっぽんじん義勇ぎゆうへいもと自衛隊じえいたいいん)がグルジア領内りょうない拘束こうそくされたとの報道ほうどう
  • 2003ねん11月23にち - バラ革命かくめい、エドゥアルド・シェワルナゼ大統領だいとうりょう辞任じにんニノ・ブルジャナゼ暫定ざんてい政権せいけん発足ほっそく
  • 2004ねん
    • 1がつ4にち - 大統領だいとうりょう選挙せんきょ実施じっしミヘイル・サアカシュヴィリ圧勝あっしょう
    • 1がつ25にち - ミヘイル・サアカシュヴィリが大統領だいとうりょう就任しゅうにん
  • 2006ねん
    • 3月27にち - ロシア政府せいふ、グルジアさんワインの輸入ゆにゅう禁止きんし表明ひょうめいおや欧米おうべいしょくつよめるグルジア政府せいふたいする圧力あつりょくともいわれる。
    • 5月23にち - ウクライナ首都しゅとキーウ(キエフ)においてGUAM設立せつりつ宣言せんげんされ、グルジアも加盟かめい表明ひょうめい
    • 7がつ13にち - ロシアを通過つうかせずにきゅうソ連それんけんさん石油せきゆ輸出ゆしゅつすることが可能かのうで、グルジア領内りょうない通過つうかするBTCパイプライン開通かいつう
    • 7がつ25にち - グルジアぐんが、独立どくりつ主張しゅちょうしているアブハジア軍事ぐんじ攻撃こうげき仕掛しかける。アブハジアがわとグルジアがわにまたがるコドリ渓谷けいこくでの26にちまでの戦闘せんとうで、現地げんち支配しはいしていたアブハジアけい民兵みんぺいした。グルジアがわは、この戦闘せんとう攻撃こうげきヘリすう兵員へいいん輸送ゆそうトラック34だい戦闘せんとうよう車両しゃりょう18だい投入とうにゅうした。この戦闘せんとう民間みんかんじん1にん死亡しぼうすうにん負傷ふしょう民兵みんぺい25にん捕虜ほりょとなった。
    • 9月27にち - グルジア治安ちあん当局とうきょくが、スパイ行為こういおこなったとしてロシアぐん将校しょうこうじゅうすうにん拘束こうそくロシア外務省がいむしょうは28にち抗議こうぎのためちゅうグルジア大使たいし召還しょうかん
    • 10月13にち - 国連こくれん安保理あんぽり、アブハジアにたいする「グルジア政府せいふ挑発ちょうはつてき行動こうどう」を非難ひなんする決議けつぎ1716[1]採択さいたく
  • 2007ねん
    • 8がつ7にち - グルジア北部ほくぶ国籍こくせき不明ふめい軍用ぐんようがミサイルを投下とうか。グルジア政府せいふは「ロシアの恫喝どうかつ」と非難ひなんするが、「自作じさく自演じえん」ともいわれる。以前いぜんにも「グルジア領内りょうないへの空爆くうばく」を自作じさく自演じえんした疑惑ぎわく[2]存在そんざいする。
    • 9月27にち - 以前いぜんからタカとして国民こくみんからの人気にんきたかかったイラクリ・オクルアシヴィリもと国防こくぼうしょう拘束こうそくされる。大統領だいとうりょうからはん政府せいふてきとされるビジネスマンの殺害さつがいめいじられたと「告白こくはく」したことが原因げんいんとみられている。28にちにはもと国防こくぼうしょう身柄みがら拘束こうそく反対はんたいするデモがトビリシでおこなわれる。このけん以降いこう、グルジア各地かくちでのはん政府せいふデモが活発かっぱつ
    • 11月1にち - サアカシュヴィリ大統領だいとうりょう辞任じにん議会ぎかい選挙せんきょ前倒まえだおしなどをもとめるデモがトビリシなどでおこなわれる。7にち武力ぶりょく鎮圧ちんあつされるまで、グルジア各地かくち断続だんぞくてきにデモが発生はっせい
    • 11月7にち - サアカシュヴィリ大統領だいとうりょう非常ひじょう事態じたい宣言せんげん発令はつれい当初とうしょは2週間しゅうかんほど継続けいぞくされる予定よていだったが、16にち解除かいじょ
    • 11月14にち - グルジア政府せいふが、はん政府せいふてき報道ほうどうおこなったとして野党やとうけいテレビ局てれびきょくImedi」の放送ほうそう免許めんきょ停止ていし同局どうきょくは11月7にち、グルジア政府せいふ特殊とくしゅ部隊ぶたい強襲きょうしゅうけ、スタジオ・放送ほうそう機材きざいなどを破壊はかいされていた。免許めんきょ停止ていし自体じたいは12月5にち解除かいじょされるが、放送ほうそう再開さいかいには時間じかんがかかるとの見方みかたもある。
    • 11月25にち - サアカシュヴィリ大統領だいとうりょうが、野党やとうがわもとめていた議会ぎかいせん前倒まえだおしを拒否きょひわりに大統領だいとうりょうせん前倒まえだおしをおこなうことを表明ひょうめいし、立候補りっこうほのため大統領だいとうりょうしょく辞任じにん大統領だいとうりょうせんは1がつ5にちまるも、同日どうじつ国会こっかいまえではすうまんにん参加さんかするデモが発生はっせい。11月7にち衝突しょうとつ以降いこうはつだい規模きぼデモとなる。
    • 11月27にち - 事実じじつじょう国外こくがい追放ついほう処分しょぶんドイツ滞在たいざいしていたオクルアシヴィリもと国防こくぼうしょうが、ドイツ検察けんさつ当局とうきょく拘束こうそくされる。
  • 2008ねん
    • 8がつ8にち - 事実じじつじょう独立どくりつ状態じょうたいにあったみなみオセチア侵攻しんこう平和へいわ維持いじぐんとして駐留ちゅうりゅうしていたロシアぐん攻撃こうげきくわえ、ロシアと戦闘せんとう状態じょうたいはいる(みなみオセチア紛争ふんそう (2008ねん)参照さんしょう)。
    • 8がつ10日とおか - みなみオセチアからぐん退却たいきゃく
    • 8がつ12にち - 独立どくりつ国家こっか共同きょうどうたい(CIS)より脱退だったい発表はっぴょう
    • 8がつ29にち - ロシアと断交だんこう

政治せいじ[編集へんしゅう]

ズラビシュヴィリ大統領だいとうりょう
ガリバシヴィリ首相しゅしょう

ジョージアは共和きょうわせい国家こっかであるが、1995ねん12月8にちから2004ねん2がつ17にちまでのあいだ首相しゅしょう規定きていはなく大統領だいとうりょう政府せいふ組織そしきしていた。ただし、首相しゅしょうしょく相当そうとうするものとして国務大臣こくむだいじん設置せっちされていた。

行政ぎょうせい[編集へんしゅう]

国家こっか元首げんしゅ大統領だいとうりょうで、任期にんきは5ねんとなっている。大統領だいとうりょう首相しゅしょうその大臣だいじん任命にんめい指名しめいかんして議会ぎかい同意どうい必要ひつようがある。

2010ねん憲法けんぽう改正かいせいおこなわれ、2013ねん10がつより大統領だいとうりょうではなく首相しゅしょう権限けんげんにぎ議院ぎいんないかくせい移行いこうした。

立法りっぽう[編集へんしゅう]

ジョージア議会ぎかい一院制いちいんせいで、任期にんき4ねん定数ていすう235めい)。そのうち、150議席ぎせき比例ひれい代表だいひょうせいで、85議席ぎせきしょう選挙せんきょせいである。2012ねんからは議会ぎかい行政ぎょうせい官庁かんちょう集中しゅうちゅうする首都しゅとトビリシではなく西部せいぶ古都ことクタイシかれていたが、2019ねん再度さいどトビリシにもどされた。

しゅう知事ちじ大都市だいとし市長しちょうは、大統領だいとうりょうによる任命にんめいせいである。

政党せいとう[編集へんしゅう]

複数ふくすう政党せいとうせいであり、独立どくりつからおおくの政党せいとう存在そんざいみとめられている。

司法しほう[編集へんしゅう]

同国どうこくには最高裁判所さいこうさいばんしょ憲法けんぽう裁判所さいばんしょがあり、憲法けんぽう裁判所さいばんしょには大統領だいとうりょう推薦すいせんもとづき議会ぎかいによって選出せんしゅつされた裁判官さいばんかん存在そんざいする。

国際こくさい関係かんけい[編集へんしゅう]

ロシアとの対立たいりつ[編集へんしゅう]

独立どくりつおよびソ連それん解体かいたい以降いこう、ジョージアは一貫いっかんして隣国りんごくロシアと距離きょりき、欧米おうべいとの関係かんけい強化きょうかしてきた。この路線ろせんは2004ねん成立せいりつしたサアカシュヴィリ政権せいけんした一層いっそうたかまり、軍事ぐんじてきには2008ねん北大西洋きたたいせいよう条約じょうやく機構きこう(NATO)と欧州おうしゅう連合れんごう(EU)への加盟かめい推進すいしんロシアからグルジアへの言語げんご変更へんこう推進すいしん英語えいご教育きょういく義務ぎむソ連それん時代じだいのみならずロシア帝国ていこく時代じだいにまでさかのぼっての「こう運動うんどう歴史れきし」をおしえる記念きねんかん建設けんせつおな路線ろせんをとるウクライナポーランドバルトさんこくとの連携れんけいなど、強硬きょうこうはん親米しんべいおやおうおやイスラエル路線ろせん、そして民族みんぞく主義しゅぎ高揚こうようさせる路線ろせんあゆんできている。またたい強硬きょうこうられるアメリカのネオコンとの協力きょうりょくふかめているとされる。実際じっさい、ネオコンにちかいとされるアメリカじんランディ・シェーネマン(Randy Scheunemann)は、サアカシュヴィリの外交がいこう顧問こもんつとめていた。またサアカシュヴィリ政権せいけんは、ロシアぐん対抗たいこうするべく、それまでのロシアせい兵器へいきから欧米おうべいせい兵器へいきへの更新こうしんによる近代きんだいアメリカぐんイスラエル国防こくぼうぐんとの共同きょうどう軍事ぐんじ訓練くんれんおこなうなど、大幅おおはば軍拡ぐんかくすすめていたが、軍事ぐんじ評論ひょうろん江畑えはた謙介けんすけは、予算よさん無理むりのある計画けいかくだとひょうしている[78]

一方いっぽう、ロシアにとってジョージアはカスピ海かすぴかいさん原油げんゆパイプラインの存在そんざいなど、中央ちゅうおうアジア原油げんゆ確保かくほするうえで密接みっせつかかわりがあり、みなみ玄関げんかんこうである黒海こっかいつらなる要衝ようしょう位置いちする重要じゅうよう国家こっか位置いちづけている。またチェチェンとの対立たいりつかかえるロシアにとって、チェチェンの周辺しゅうへんこく一角いっかくすジョージアとむすぶことは、ロシア南部なんぶにおける安全あんぜん保障ほしょう観点かんてんからも非常ひじょう有効ゆうこうていた。

民族みんぞく問題もんだい[編集へんしゅう]

こうしたながれにくわえて、ジョージア国内こくない民族みんぞく問題もんだい両国りょうこく対立たいりつ拍車はくしゃをかけている。コーカサス地方ちほうふるくから多数たすう民族みんぞくみだれる不安定ふあんてい地域ちいきであり、近代きんだい成立せいりつしたにすぎないジョージアじんという民族みんぞく意識いしきはいまだ不安定ふあんていで、ジョージア国民こくみんあいだでも地方ちほう対立たいりつえない状況じょうきょうにある。最大さいだい勢力せいりょくであるジョージアじん(カルトヴェリじん)のなかでもミングレリアじん(ミングレリア)、スヴァンじんスヴァネティ)、ラズじんアジャリアじんアジャリア)は民族みんぞく意識いしきつよくあり、ジョージアじんとは区別くべつする場合ばあいもある。

また、カルトヴェリじんとはまったくことなる北西ほくせいコーカサス語族ごぞくけいアブハズじんアブハジア)、イランけい民族みんぞくオセットじんみなみオセチア)、アルメニアじんジャワヘティア)、アゼルバイジャンじんチェチェンじんなど多数たすうジョージア民族みんぞく国内こくないかかえている[79]。ジョージア政府せいふはん政策せいさくはカルトヴェリじん民族みんぞく主義しゅぎ密接みっせつむすびついており[80]、これらの地方ちほう民族みんぞくへの弾圧だんあつつよまっている[81]。これらのくになかには、言語げんご保護ほごなど民族みんぞく共生きょうせいきがつよいロシアの庇護ひごけることで自民じみんぞく文化ぶんかまもろうとするうごきがあり、ロシアもジョージアへの牽制けんせいから積極せっきょくてき支援しえんする立場たちばにある。とりわけみなみオセチアでは、きたオセチアを統治とうちするロシアへの併合へいごうもとめる運動うんどう活発かっぱつしている(ただしロシア政府せいふ国家こっか承認しょうにんはしつつも、併合へいごうのぞまないとしている)。たいするジョージアは自民じみんぞく中心ちゅうしん主義しゅぎエスノセントリズム)・はんロシア路線ろせん双方そうほうから一連いちれんうごきにはげしく反発はんぱつした。

2006ねん9がつ27にち・28にちには、ジョージア国内こくない駐在ちゅうざいしていたロシアぐん将校しょうこう6めいが、ジョージアぐんによりスパイ容疑ようぎ拘束こうそくされた。ロシア政府せいふ抗議こうぎとしてジョージアにたいするビザ発給はっきゅう停止ていし国境こっきょうせん封鎖ふうさなどの報復ほうふくをとる事態じたい発生はっせいしている。さらに2008ねんには、ジョージアぐんみなみオセチアに展開てんかいするロシアぐん主体しゅたい停戦ていせん監視かんし部隊ぶたい攻撃こうげき仕掛しかけ、兵器へいき強奪ごうだつする行為こういこした。ジョージア政府せいふは「ロシアぐん停戦ていせん部隊ぶたい独立どくりつ支援しえんしており公平こうへいではなく、EU部隊ぶたいとの交代こうたいおこなうべき」と発言はつげんしているが、ロシアぐん駐留ちゅうりゅうかんしてはとうのEUがわ賛同さんどうする意向いこうしめしている。

みなみオセチア紛争ふんそう[編集へんしゅう]

2008ねん8がつ7にち、ジョージア政府せいふみなみオセチア自治じち政府せいふたいして、自治じちけん剥奪はくだつするとともに軍部ぐんぶたいみなみオセチアとアブハジア侵攻しんこうさせ、同時どうじオセットじん虐殺ぎゃくさつした。しかし、みなみオセチアとアブハジアがわって参戦さんせんしたロシアぐんまえに、ジョージアぐん一方いっぽうてき敗北はいぼくきっし、8がつ15にち停戦ていせん決定けっていした。

停戦ていせん、ロシアはジョージア国内こくない駐屯ちゅうとんしつつ、議会ぎかいでアブハジアとみなみオセチアの独立どくりつ承認しょうにんする決議けつぎあん採択さいたくメドヴェージェフ大統領だいとうりょうがこれを正式せいしき了承りょうしょうした。ジョージアがわはこれに抗議こうぎするかたちで8がつ28にち議会ぎかいにてロシアとの外交がいこう関係かんけい断絶だんぜつするようもとめる決議けつぎ全会ぜんかい一致いっち採択さいたくした。8月29にち、バシャゼ外務がいむ次官じかんはロシアのアブハジア自治じち共和きょうわこくみなみオセチア自治じちしゅう独立どくりつ承認しょうにんたいし、ロシアとの外交がいこう関係かんけい断絶だんぜつすると発表はっぴょうした。

2022ねんロシアのウクライナ侵攻しんこう[編集へんしゅう]

2022ねんロシアのウクライナ侵攻しんこうでは、ジョージア世論せろんでウクライナに同情どうじょうてきでロシアへの反感はんかんつよまっているが、一方いっぽうでジョージア政府せいふたいロシア経済けいざい制裁せいさいには参加さんかせず、経済けいざい制裁せいさいやロシア政府せいふ言論げんろん統制とうせいなどをきらってロシアから出国しゅっこくする人々ひとびとビザなしでれている[82]。こうしたロシアに融和ゆうわてき姿勢しせいをとる与党よとうグルジアのゆめ民主みんしゅグルジア創設そうせつしゃは、ロシア政府せいふしたしいオリガルヒビジナ・イヴァニシヴィリで、現在げんざいもジョージアの政治せいじおおきな影響えいきょうりょくっている[83]

ロシアじん流入りゅうにゅうつづくなど、ロシアとの交流こうりゅう活発かっぱつになるにつれて、2000ねん以来いらい取得しゅとく必須ひっすであったロシアのビザが免除めんじょされ、2019ねん以来いらい運航うんこう停止ていししていたロシアとの直行ちょっこう便びんも2023ねん5がつ再開さいかいしている[84]。これにはロシアとの直行ちょっこう便びん停止ていししている西側にしがわ諸国しょこくやサアカシュヴィリ政権せいけん外相がいしょうつとめたサロメ・ズラビシュヴィリ大統領だいとうりょう中心ちゅうしんとするおや欧米おうべいつよ反対はんたいしておりデモなどがきている。また、ジョージア軍団ぐんだん代表だいひょうされるように一部いちぶのジョージア国民こくみん義勇ぎゆうへいとしてウクライナでの戦闘せんとう参加さんかしている。

日本にっぽんとの関係かんけい[編集へんしゅう]

国家こっか安全あんぜん保障ほしょう[編集へんしゅう]

現在げんざい同国どうこくぐん陸軍りくぐん特殊とくしゅ作戦さくせんぐん英語えいごばん国家こっか警備けいびたい構成こうせいされている。

以前いぜん海軍かいぐんおよ空軍くうぐん存在そんざいしていたが、上述じょうじゅつ紛争ふんそうによって壊滅かいめつしたことから国境こっきょう警察けいさつならび沿岸えんがん警備けいびたい陸軍りくぐん編入へんにゅうされるかたち統合とうごうしているため、どちらも現存げんそんしない。

地理ちり[編集へんしゅう]

ジョージア全土ぜんど地図ちず

ひがしヨーロッパ[5][6]、もしくは西にしアジア区分くぶんされる[85]独立どくりつ当初とうしょから一貫いっかんして欧州おうしゅう連合れんごう(EU)への加盟かめい志向しこうしているのをはじめ、ヨーロッパオリンピック委員いいんかい(EOC)に加盟かめいするなど、政治せいじやスポーツ関連かんれん国際こくさい組織そしきではひがしヨーロッパに区分くぶんされることがおおい。こうした事情じじょうトルコキプロスイスラエルなどにちかいものとえる。

アジアに区分くぶんされる事例じれいとしては、tz databaseで"Asia/Tbilisi"としてタイムゾーン(UTC+4)が設定せっていされているジョージア時間じかんげられる。また、アジア開発銀行あじあかいはつぎんこうには「地域ちいきないメンバー」として加盟かめいしている[86]

地理ちり概況がいきょう地勢ちせい[編集へんしゅう]

東経とうけい40 - 47北緯ほくい41 - 44位置いちするジョージアは、コーカサス山脈さんみゃく中心ちゅうしん国土こくどだい部分ぶぶん山岳さんがく地帯ちたいである。最高峰さいこうほうシュハラさん標高ひょうこう5,201メートル)。200キロメートルはなれたカズベギさん標高ひょうこう5,074メートル)がだい2の高山こうざんで、唯一ゆいいつ火山かざんである。このあいだに2,100もの氷河ひょうががある。コーカサス山脈さんみゃく沿ってロシア連邦れんぽうと723キロメートルの国境こっきょうせっし、クラスノダール地方ちほうカラチャイ・チェルケス共和きょうわこくカバルダ・バルカル共和きょうわこく北オセチア共和国きたおせちあきょうわこくイングーシ共和きょうわこくチェチェン共和国ちぇちぇんきょうわこくなどロシアの民族みんぞく共和きょうわこくせっする。そのためジョージアはふるくから紛争ふんそう影響えいきょうけやすく、アブハジア自治じち共和きょうわこくみなみオセチア自治じちしゅうパンキシ渓谷けいこくなど中央ちゅうおう政府せいふ支配しはいけんおよばない地域ちいきがある(下表かひょう参照さんしょう)。とくチェチェン共和国ちぇちぇんきょうわこくせっするパンキシ渓谷けいこくは、チェチェンじんゲリラの巣窟そうくつとなり中央ちゅうおう政府せいふ統治とうちとどかない時期じき存在そんざいした[87]

ジョージアは中部ちゅうぶのリヒ山脈さんみゃくによって東西とうざいけられ、東部とうぶ歴史れきしてきイベリアばれた一方いっぽう西部せいぶコルキスばれていた。また山脈さんみゃくは、北部ほくぶ地域ちいきスヴァネティけている。またこれらの山脈さんみゃくみなもととしてリオニがわクラがわ(ムトゥクヴァリ)などの主要しゅよう河川かせんがある。クラがわみなもと流域りゅういきやチョロフかわながれる一帯いったい歴史れきしてき西南せいなんジョージア(メスヘティ)であり、統一とういつ王朝おうちょう発祥はっしょうとしてられる。クラ河岸かわぎし古都ことムツヘタ、げん首都しゅとトビリシなど、ひがしジョージアのしょ都市とし発展はってんした。

アブハジアにあるボロニア洞窟どうくつ世界せかいもっとふかく、深度しんど2,140メートルにたっする。

気候きこう[編集へんしゅう]

スヴァネティはジョージア北西ほくせい位置いちする歴史れきしてき地域ちいきめいである

山岳さんがく地帯ちたいおおいため、国土こくど面積めんせきのわりに気候きこう多様たようである。標高ひょうこう5,000メートルをえるコーカサス山脈さんみゃくがロシアからの寒気さむけだん遮断しゃだんする役割やくわりになっているため、国土こくど大半たいはん比較的ひかくてき温暖おんだんで、ケッペンの気候きこう区分くぶん温暖おんだん湿潤しつじゅん気候きこうぞくする(かつてのソ連邦それんぽう構成こうせいこくなかでは唯一ゆいいつ柑橘類かんきつるい収穫しゅうかくできた)。黒海こっかい沿岸えんがんもっと温暖おんだんで、その気候きこうかしたグルジアワインの生産せいさんとして有名ゆうめいである。山岳さんがく地帯ちたい多雨たう地帯ちたいで、降水こうすいりょうは4,000ミリ以上いじょう冬場ふゆば積雪せきせつは2メートルにたっする。首都しゅとトビリシなどが位置いちする東部とうぶはより大陸たいりくせい気候きこうちかくなり、年間ねんかん降水こうすいりょうは400 - 1,600ミリ程度ていどと、西部せいぶくらべると比較的ひかくてき乾燥かんそうしていて、ふゆさむさはよりきびしくなる。

各州かくしゅうかく共和きょうわこく概況がいきょう[編集へんしゅう]

アブハジアとみなみオセチアについては、内戦ないせん結果けっか事実じじつじょうジョージアより独立どくりつしており、2015ねん10がつ時点じてんで4かこく(ロシア連邦れんぽうベネズエラニカラグアナウル)によってそれぞれ、主権しゅけん国家こっか「アブハジア共和きょうわこく」「みなみオセチア共和きょうわこく」として承認しょうにんされている[43]

政府せいふめい 首都しゅと 面積めんせき 人口じんこう 民族みんぞく 宗教しゅうきょう 2016ねん現況げんきょう

ジョージア
トビリシ 7.0まんkm2 430.5まんにん  —

アジャリア自治じち共和きょうわこく
バトゥミ 2,900km2 39.3まんにん
  • ジョージアじん(グルジアじん) 93.4%
    だい部分ぶぶんがイスラームを
    信仰しんこうするアジャールじん
  • ロシアじん 2.4%
  • アルメニアじん2.3%
イスラーム ジョージアの直轄ちょっかつ統治とうち
アブハジアの旗
アブハジア自治じち共和きょうわこく
スフミ 8,665km2 24.0まんにん
  • アブハズじん 50.7%
  • アルメニアじん 19.2%
  • ジョージアじん(グルジアじん) 17.4%
  • ロシアじん 9.1%
キリスト教きりすときょうスンナイスラーム 事実じじつじょうジョージアより独立どくりつ
(4カ国かこく国家こっか承認しょうにん
南オセチアの旗
みなみオセチア自治じちしゅう
ツヒンヴァリ 3,900km2 5.1まんにん
  • オセットじん 64.3%
  • ジョージアじん(グルジアじん) 25.0%
  • ロシアじん 2.8%
  • アルメニアじん 1.2%
オセットじんキリスト教きりすときょう正教せいきょう主体しゅたい 事実じじつじょうジョージアより独立どくりつ
(4カ国かこく国家こっか承認しょうにん

環境かんきょう[編集へんしゅう]

同国どうこく環境かんきょう汚染おせんなどの深刻しんこく汚染おせん問題もんだいかかえているいちめんがある。ジョージアこくきゅうソ連それん構成こうせいこく同様どうよう環境かんきょうへの影響えいきょうをほとんど考慮こうりょせずに実施じっしされた重工業じゅうこうぎょうすすめる経済けいざい政策せいさくもとで、ソビエト時代じだいよりも深刻しんこく環境かんきょう悪化あっか見舞みまわれている[88]

1990年代ねんだい後半こうはんから2000年代ねんだい初頭しょとうにかけて、生産せいさんりょう経済けいざい発展はってんひくかったことから産業さんぎょう廃棄はいきぶつ大幅おおはば減少げんしょうしていたが現在げんざい産業さんぎょう廃棄はいきぶつ処理しょり施設しせつととのえられていないために、発生はっせいした廃棄はいきぶつ適切てきせつ処理しょりをせず自然しぜん環境かんきょうへそのまま廃棄はいきされている。

また、1980年代ねんだいソ連それん構成こうせいこくとして機能きのうしていた当時とうじのジョージアこくでは年間ねんかん最大さいだい30,000トンの農薬のうやく使用しようされてきたため過剰かじょうなまでの農薬のうやく肥料ひりょう使用しよう土壌どじょう汚染おせんつよめてしまう結果けっかとなった。

さらに土地とち侵食しんしょくにより、かなりのりょう農地のうちうしなわれたほか管理かんり不十分ふじゅうぶん都市としごみ処分しょぶんされたり 同国どうこく山地さんちに2.5トン以上いじょう有害ゆうがい化学かがく物質ぶっしついまめられたままとなっているなど環境かんきょう保全ほぜんにおける姿勢しせいととのっていないてんから、国内こくない各地かくちからは「はや対策たいさくてて実施じっししなければ土壌どじょう悪化あっかがますますひどくなる」むね意見いけんならび危険きけんせい指摘してきするこえ多数たすうがっている。

大気たいき汚染おせん主要しゅよう都市とし見受みうけられ、とく巨大きょだい製鉄せいてつしょ存在そんざいしその金属きんぞく加工かこうならび化学かがく薬品やくひん生産せいさんすすめているルスタヴィ問題もんだいとなっている。交通こうつうも、大気たいき汚染おせんおおきな要因よういんひとつとなっているほか、クラがわ黒海こっかい産業さんぎょう廃棄はいきぶつでひどく汚染おせんされている現状げんじょうつづく。

くわえて水質すいしつ汚染おせんみず処理しょり不足ふそくもとで、ジョージアこくにおいては消化しょうか疾患しっかん発生はっせいりつたかいことが指摘してきされている。

なお、ジョージアこく環境かんきょう天然てんねん資源しげん保護ほごしょう英語えいごばんは、同国どうこくにおける農地のうちの35%が劣化れっかしていると発表はっぴょうしている。

地方ちほう行政ぎょうせい区分くぶん[編集へんしゅう]

首都しゅとトビリシ
中央ちゅうおう政府せいふ支配しはいおよんでいない「アブハジア共和きょうわこく」(緑色みどりいろ)と「みなみオセチア共和きょうわこく」(紫色むらさきいろ

行政ぎょうせい区画くかくは、2つの自治じち共和きょうわこく(アブハジア、アチャラ)をふくむ11の地方ちほう(レギオニ)からなり、さらに66の地域ちいき(ライオニ)にかれる[89]国内こくないには、北西ほくせいアブハジア首都しゅとスフミ)、南西なんせいアジャリア首都しゅとバトゥミ)の2つの自治じち共和きょうわこくがあるが、アブハジアはジョージア政府せいふ統制とうせいおよんでおらず、事実じじつじょう独立どくりつした状態じょうたいとなっている。

また、シダカルトリ地区ちくとその周辺しゅうへん歴史れきしてきみなみオセチアといわれるオセットじんじゅう地域ちいきである。ソビエト連邦れんぽうぞくしたグルジア・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく時代じだいにはシダカルトリ地区ちく北半きたはんとその周辺しゅうへん領域りょういきとする「みなみオセチア自治じちしゅう」がかれていたが、ソ連邦それんぽう解体かいたいによる独立どくりつ消滅しょうめつ。1992ねんのオセチア紛争ふんそう以降いこう、オセットじん自治じちけん要求ようきゅうして中央ちゅうおう政府せいふ公認こうにんふたたび「みなみオセチア自治じちしゅう」を樹立じゅりつした。どう自治じちしゅう独立どくりつ意向いこう明確めいかくにしたのちは「みなみオセチア共和きょうわこく」(首都しゅとツヒンヴァリ)と名乗なのっており、アブハジアと同様どうよう一部いちぶ地域ちいきのぞきジョージア政府せいふ統制とうせいおよんでいない。

主要しゅよう都市とし[編集へんしゅう]

経済けいざい[編集へんしゅう]

国際こくさい通貨つうか基金ききん(IMF)の統計とうけいによると、2013ねんのジョージアの国内こくないそう生産せいさん(GDP)は161おくドルである。一人ひとりたりのGDPは3,597ドルで、世界せかい平均へいきんやく40%未満みまん水準すいじゅんにある。

ジョージア経済けいざい伝統でんとうてきに、黒海こっかい観光かんこう柑橘類かんきつるいちゃブドウ生産せいさん中心ちゅうしんとしてきた。ソビエト連邦れんぽう時代じだいには黒海こっかい沿岸えんがん有数ゆうすう保養ほようになり、観光かんこうぎょうさかんだった。また、ブドウなどを利用りようしてワインやコニャック製造せいぞうなどの食品しょくひん加工かこうぎょうマンガンどう採鉱さいこうと、これに付随ふずいして金属きんぞく機械きかいるい化学かがく薬品やくひん織物おりもの生産せいさんする工業こうぎょう部門ぶもん発達はったつしていた。

BTCパイプラインとみなみコーカサスガスパイプライン

独立どくりつ前後ぜんこうからの内戦ないせんなどの混乱こんらんにより経済けいざい壊滅かいめつてき打撃だげきけ、GDPは1994ねんには1991ねんの34.9%にまで低下ていかしたが、IMF世界銀行せかいぎんこう支援しえんもと市場いちば経済けいざい導入どうにゅうすすめられ、1995ねん以来いらいGDPは増加ぞうかてんじ、一方いっぽうでインフレを抑制よくせい本質ほんしつてき経済けいざい収益しゅうえきた。しかしジョージア経済けいざいは、徴税ちょうぜい失敗しっぱいにより大幅おおはば財政ざいせい赤字あかじ経験けいけんつづけた。さらにエネルギー不足ふそくくるしんだため、1998ねん配電はいでん事業じぎょう民営みんえいし、これによりエネルギー事情じじょう確実かくじつ改善かいぜんられた。政府せいふ長期ちょうきてき経済けいざい回復かいふくたいするのぞみを、ポティバトゥミなどの重要じゅうよう港湾こうわんとお国際こくさいてき輸送ゆそう回廊かいろう開発かいはつにかけている。ふくらむ貿易ぼうえき赤字あかじ腐敗ふはい問題もんだい不安定ふあんてい政治せいじ状況じょうきょうは、経済けいざい情勢じょうせい短期たんきてき不透明ふとうめいにさせている。しかしながら、復活ふっかつした投資とうしは、2000ねんに、経済けいざい成長せいちょうにおそらく6%以内いない拍車はくしゃをかけたとおもわれる。

自国じこくない供給きょうきゅうできるエネルギーはほとんどが水力すいりょく発電はつでんのみで、天然てんねんガス石油せきゆふくむエネルギーのだい部分ぶぶんはアゼルバイジャンから輸入ゆにゅうする。

ジョージアはアゼルバイジャンにとって原油げんゆ天然てんねんガスの重要じゅうよう輸出ゆしゅつルートである。バクー・トビリシ・ジェイハンパイプライン(BTCパイプライン)およびなみはしするサウス・コーカサスパイプラインとおって大量たいりょう原油げんゆがトルコ地中海ちちゅうかい沿岸えんがんたっ欧州おうしゅう輸出ゆしゅつされる。また、ジョージアへの原油げんゆ供給きょうきゅうパイプラインには、ほかにバクー・スプサパイプラインがあり、スプサにはアゼルバイジャンが黒海こっかいから輸出ゆしゅつする基地きちがある。

ジョージア政府せいふ外国がいこくからの観光かんこうきゃく誘致ゆうちちかられている。2017ねん同国どうこくおとずれた旅行りょこうしゃやく600まんにんと、10年間ねんかんで6ばいえた。キリスト教会堂きょうかいどうなど歴史れきしてき建築けんちくぶつ修復しゅうふく、94かこく地域ちいき対象たいしょうとした入国にゅうこくビザ免除めんじょなどが奏功そうこうしている[90]

交通こうつう[編集へんしゅう]

道路どうろ[編集へんしゅう]

鉄道てつどう[編集へんしゅう]

航空こうくう[編集へんしゅう]

国民こくみん[編集へんしゅう]

民族みんぞく構成こうせい(ジョージア)
ジョージアじん(グルジアじん)
  
86.8%
アゼルバイジャンじん
  
6.3%
アルメニアじん
  
4.5%
ロシアじん
  
0.7%
その
  
1.7%

民族みんぞく[編集へんしゅう]

ジョージアこく周辺しゅうへん言語げんご民族みんぞく分布ぶんぷ
カルトヴェリ語族ごぞく話者わしゃ分布ぶんぷ

同国どうこく民族みんぞく国家こっかである。住民じゅうみんおおくはカルトヴェリじんジョージアじんせい教徒きょうと)(86.8%)となっている[91]。そのアルメニアじん、ロシアじんアゼルバイジャンじんオセットじんアブハズじんギリシャじんユダヤじんなどがいる。

ギリシャじんには、もともとアナトリア半島はんとう黒海こっかい沿岸えんがん地域ちいき居住きょじゅうし、20世紀せいき初頭しょとうトルコ革命かくめいともな混乱こんらん隣国りんごくグルジアへ避難ひなんしてきたポントスじんなどがふくまれる。また、アジャリア自治じち共和きょうわこくアジャールじんなど、イスラム教いすらむきょう信仰しんこうしているジョージアじん存在そんざいする。「グルジーム」としょうされるユダヤじんは1970年代ねんだいには10まんにんかぞえたが、大半たいはんイスラエル移住いじゅうし、現在げんざいでは1 - 2まんにん程度ていどまで減少げんしょうしている。

政府せいふ移民いみん経済けいざい成長せいちょう目指めざしている。ジョージア内務省ないむしょうによると、2022ねん1がつから11がつまでの期間きかんロシアから移住いじゅうしたひとは11まんにん以上いじょうにのぼる。一方いっぽう、ロシア国内こくないむジョージアけい移民いみんは100まんにんえている。

言語げんご[編集へんしゅう]

公用こうようカルトヴェリ語族ごぞくのグルジア(71%)で、いでロシア(9%)、アルメニア(7%)、アゼルバイジャン(6%)となっている。そのアブハズオセットグルジンなども使つかわれている。また、統計とうけいじょうではおなカルトヴェリ語族ごぞくとしてグルジア話者わしゃふくまれることもおおスヴァンメグレルラズ使つかわれているなど、多言たげん国家こっかとなっている。

はん感情かんじょうつよ国民こくみんとされるが、実際じっさいにはソ連それん時代じだい普及ふきゅうしたロシア広範こうはん使つかわれており、独立どくりつ以降いこうのグルジア統制とうせいへの反発はんぱつなどから一部いちぶ地域ちいきでは民族みんぞくあいだ共通きょうつうとして機能きのうしている。

宗教しゅうきょう[編集へんしゅう]

宗教しゅうきょう比率ひりつは、キリストきょうグルジア(ジョージア)正教会せいきょうかい所属しょぞくするせい教徒きょうとが75%、イスラム教徒きょうと(ほとんどがスンナ)が11%[よう出典しゅってん]

婚姻こんいん[編集へんしゅう]

婚姻こんいんは、改姓かいせいしない夫婦ふうふ別姓べっせい、どちらかの配偶はいぐうしゃせい統一とういつする(夫婦ふうふ同姓どうせい)、ふくあいせいもちいる、のいずれの選択せんたく可能かのうである[92]

教育きょういく[編集へんしゅう]

教育きょういく制度せいどは3-6-3せいで、きゅうソ連それんの10ねんせいから12ねんせい移行いこうした[93]。6さいから17〜18さいまでは義務ぎむ教育きょういくとなっている。12学年がくねんのうち、1~3学年がくねん初等しょとう教育きょういく、4~9学年がくねん前期ぜんき中等ちゅうとう教育きょういく、10学年がくねん以降いこう後期こうき中等ちゅうとう教育きょういくにあたる[93]高等こうとう教育きょういくけるためには10~12学年がくねん修学しゅうがく必要ひつようである[93]。1年生ねんせいからだいいち外国がいこくとして英語えいご授業じゅぎょうおこなわれ、5年生ねんせいからはだい外国がいこく学習がくしゅうはじまる[93]

なお、同国どうこく教育きょういく憲法けんぽうもとづき無料むりょうであることを義務付ぎむづけられている。

保健ほけん[編集へんしゅう]

医療いりょう[編集へんしゅう]

治安ちあん[編集へんしゅう]

ジョージアは、米国べいこく情報じょうほうグローバル・ファイナンス英語えいごばん』が発表はっぴょうした「もっと治安ちあんくにランキング」によると、91となっている[94]上述じょうじゅつみなみオセチア・アブハジアおよびその周辺しゅうへん地域ちいきにおける領域りょういき問題もんだい事情じじょうからどう地域ちいきエリアではジョージア政府せいふ統治とうちおよんでおらず、不測ふそく事態じたい発生はっせいするおそれが指摘してきされている。最近さいきんでは観光かんこうきゃくねらった犯罪はんざい多発たはつやすくなっており、物乞ものごする子供こどもによる窃盗せっとう[95]こえけによる強盗ごうとう事件じけん発生はっせいしている[96]ことからジョージアをおとずれる外国がいこくじん注意ちゅういけられている。

人権じんけん[編集へんしゅう]

2005ねん欧州おうしゅう民族みんぞくてき少数しょうすうしゃ保護ほごわくぐみ条約じょうやく英語えいごばん(FCPNM)を批准ひじゅんしている。これにたいNGO公差こうさ国際こくさい財団ざいだん英語えいごばんは、2008ねんに「FCPNMのいくつかの条項じょうこうがジョージアこく議会ぎかいによる完全かんぜん実施じっしから免除めんじょされている」と指摘してきしており、具体ぐたいてきには「文化ぶんか教育きょういく行政ぎょうせいじょう問題もんだいにおけるマイノリティの言語げんごでの完全かんぜん表現ひょうげんかんする規定きてい侵害しんがいされた」と主張しゅちょうしている[97]

メディア[編集へんしゅう]

テレビ雑誌ざっし新聞しんぶん国営こくえいをはじめとするおおやけ企業きぎょう私企業しきぎょう双方そうほうによって展開てんかいされている。憲法けんぽう言論げんろん自由じゆう保障ほしょうしている。ジョージアのメディア市場いちば経済けいざいけんへの移行いこうにともなう変化へんか進行しんこうしている。主要しゅようは『レゾナンシ』『ジョージアン・タイムズ』などであり、放送ほうそうきょく国営こくえいテレビ・ラジオや民営みんえいの「ルスタビ2」などがある[98]通信つうしんしゃとしてはインタープレスがある[98]

長期ちょうきにわたる政治せいじ問題もんだい対立たいりつがあるにもかかわらず、ジョージアのメディアには自由じゆうのこされており、みなみコーカサスなかもっと多様たようせいがある[99]一部いちぶでは、国営こくえい放送ほうそうへの支配しはいからの自由じゆうもとめる闘争とうそう継続けいぞくてきおこなわれている[100]

国民こくみん世帯せたいだい部分ぶぶんはテレビを所有しょゆうしており、おおくは最低さいてい1つはラジオをっている。おおくのメディア企業きぎょう首都しゅとトビリシに本社ほんしゃいている。

文化ぶんか[編集へんしゅう]

しょく文化ぶんか[編集へんしゅう]

ワイン[編集へんしゅう]

ジョージアのワイン工場こうじょう

葡萄ぶどう産地さんちで、ワイン発祥はっしょうひとつとされる[101]。セミスイートのあかワインフヴァンチカラ(Khvanchkara)が有名ゆうめいである。スパークリングワインは、ツクリアラ(Cqriala)とばれる。フヴァンチカラ(セミスイートあかワイン)のツクリアラ(スパークリングワイン)もあり、希少きしょうせいたかい。

キャビアわせることでられるフランスのシャンパーニュなかでも著名ちょめいな、ルイ・ロデレールしゃクリスタルは、ロシア皇帝こうていアレクサンドル2せいのためにつくられたが、ボトルの形状けいじょうがよくゴールデンというツクリアラ(スパークリングワイン)がジョージアに存在そんざいする。2006ねん以来いらい、ロシア連邦れんぽうはジョージアとモルドバへの経済けいざい制裁せいさい一環いっかんとしてグルジアワインを輸入ゆにゅう禁止きんししていた(en:2006 Russian ban of Moldovan and Georgian wines)が、2013ねんイヴァニシヴィリ政権せいけん成立せいりつともな解除かいじょされた。

文学ぶんがく[編集へんしゅう]

音楽おんがく[編集へんしゅう]

芸術げいじゅつ[編集へんしゅう]

映画えいが[編集へんしゅう]

建築けんちく[編集へんしゅう]

世界せかい遺産いさん[編集へんしゅう]

ジョージア国内こくないには、ユネスコ世界せかい遺産いさんリストに登録とうろくされた文化ぶんか遺産いさんが3けん存在そんざいする。

祝祭日しゅくさいじつ[編集へんしゅう]

日付ひづけ 日本語にほんご表記ひょうき 現地げんち表記ひょうき 備考びこう
1がつ7にち クリスマス グルジア(ジョージア)正教会せいきょうかいのクリスマス、ユリウスれきの12月25にち
3月3にち 母性ぼせい
3月8にち 国際こくさい女性じょせいデー
4がつ9にち 国民こくみん団結だんけつ 1989ねんにトビリシではん暴動ぼうどう発生はっせいした
5月9にち 戦勝せんしょう記念きねん どくせんでのドイツ降伏ごうぶく記念きねん
5月12にち きよしアンドレイ 伝承でんしょうによれば使徒しとせいアンデレがキリスト教きりすときょう最初さいしょにジョージアにつたえたとされる。
5月26にち 独立記念日どくりつきねんび 1918ねん独立どくりつ宣言せんげんをした
8がつ28にち 生神うるかみおんな就寝しゅうしんさい ユリウスれき8がつ15にち
10月14にち スヴェティツホヴェリ教会きょうかい
11月23にち せいゲオルギオス 啓蒙けいもうしゃ」ゲオルギオスはジョージアの守護しゅご聖人せいじん

スポーツ[編集へんしゅう]

ジョージアたいルーマニア2011ねんラグビーWはい

ジョージア国内こくないではサッカーバスケットボールラグビーユニオンレスリング柔道じゅうどう重量挙じゅうりょうあもっと人気にんきのあるスポーツ競技きょうぎである。ジョージアの身体しんたい教育きょういく歴史れきしてき有名ゆうめいであり、古代こだいイベリアのトレーニング技法ぎほうローマじんたちがジョージアじん肉体にくたいてき素質そしつつよ関心かんしんかれたことがられている[102]

19世紀せいき時代じだい有名ゆうめいであったほかのスポーツとしては、うまもちいた球技きゅうぎポロや、ジョージアの伝統でんとうてき球技きゅうぎレログルジアばんがあった。これらの競技きょうぎしゃは、次第しだいラグビーユニオン競技きょうぎへと移行いこうしていった。

サッカー[編集へんしゅう]

もとジョージア代表だいひょうカハ・カラーゼ

サッカー人気にんき世界せかい標準ひょうじゅんであり、FIFAワールドカップ時期じきには老若男女ろうにゃくなんにょがサッカー談義だんぎはなかせ、なにもなくてもどもたちは街角まちかどでサッカーにきょうじる光景こうけいをよくかける。ソビエト連邦れんぽう時代じだいもジョージアをふくコーカサス地域ちいきはサッカーのさかんな土地とちがらとしてられており、首都しゅとトビリシ所在しょざいするFCディナモ・トビリシ実績じっせき名声めいせいともにジョージアを代表だいひょうする伝統でんとうてきなサッカークラブである。

2001ねんからやく10年間ねんかんACミラン活躍かつやくしたカハ・カラーゼながらくジョージアじんあこがれであった。近年きんねんでは、SSCナポリ所属しょぞくしているフヴィチャ・クヴァラツヘリア世界せかいてき有名ゆうめい選手せんしゅである[103]

バスケットボール[編集へんしゅう]

バスケットボールもまた、ジョージアにおいて著名ちょめいなスポーツのひとつであった。オタル・コルキアロシアばんミハイル・コルキアロシアばんズラブ・サカンデリゼロシアばんレヴァン・モセシュヴィリロシアばんといったきゅうソビエト連邦れんぽう代表だいひょうロシアばん著名ちょめい選手せんしゅらがジョージアに所属しょぞくした。ジョージアのBCディナモ・トビリシロシアばんは、1962ねんにヨーロッパ最高峰さいこうほうリーグFIBA欧州おうしゅうチャンピオンズカップ優勝ゆうしょうした。

これまでに5にんNBA選手せんしゅ輩出はいしゅつしており、ウラジミール・ステパニア英語えいごばんジェイク・サカリディスニコロス・ツキティシュビリトルニケ・シェンゲリアグルジアばん、そしてゴールデンステート・ウォリアーズ所属しょぞくザザ・パチュリア。その著名ちょめいなバスケットボール選手せんしゅとしては、ユーロリーグで2優勝ゆうしょうたしたギオルギ・シェルマディニグルジアばんや、ユーロリーグ所属しょぞくマヌチャル・マルコイシュヴィリグルジアばんヴィクトル・サニキゼがいる。また、バスケットボール男子だんし代表だいひょうは2011ねん以降いこう、3大会たいかい連続れんぞく欧州おうしゅう選手権せんしゅけん予選よせん突破とっぱしている。

レスリング[編集へんしゅう]

レスリングは、ジョージアにおいて歴史れきしてき重要じゅうようなスポーツの地位ちいにありつづけている。歴史れきしなかには、グレコローマンレスリングにはおおくのジョージアてき要素ようそまれているとかんがえるひともいる[104]。ジョージアでは、おおくのレスリング・スタイルが普及ふきゅうしており、もっとも普及ふきゅうしたスタイルのひとつとしてはカヘティ・スタイルがげられる。今日きょうではあまりおこなわれていないスタイルも、過去かこには数多かずおお存在そんざいしていた。たとえばジョージア北東ほくとうヘヴスレティグルジアばん地方ちほうには、ことなる3種類しゅるいのレスリング・スタイルが存在そんざいしている。

モータースポーツ[編集へんしゅう]

コーカサス地方ちほう最初さいしょかつ唯一ゆいいつのサーキット競技きょうぎは、ジョージアにておこなわれており、ルスタヴィ国際こくさいレースじょうグルジアばんは1978ねん竣工しゅんこうした。その、2,000まんドルの費用ひようをかけて改築かいちく[105]、2012ねんさいオープンしている。サーキットはFIA分類ぶんるいでグレード2の要件ようけんたし、現在げんざいレジェンド・カー・レーシング英語えいごばんシリーズと、フォーミュラ・アルファ英語えいごばん大会たいかい開催かいさいしている[106]

著名ちょめい出身しゅっしんしゃ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 両者りょうしゃともスペインでは"Georgia"(ヘオルヒア)、フランス語ふらんすごでは"Géorgie"(ジェオルジ)である。
  2. ^ ジョージアしゅうジェームス・オグルソープジョージア植民しょくみん設立せつりつ勅許ちょっきょあたえたイギリスおうジョージ2せいから命名めいめいされた。
  3. ^ コートジボワールのそとめい変更へんこう受諾じゅだくする以前いぜん1981ねんには、マ法王まほうおうちょうが「教皇きょうこうちょう」への表記ひょうき変更へんこう申請しんせいしたが「日本にっぽんにおける各国かっこく公館こうかん名称めいしょう変更へんこうクーデターなどによる国名こくめい変更へんこうなど特別とくべつ場合ばあい以外いがいみとめられない」の理由りゆう拒絶きょぜつしている(教皇きょうこう#各国かっこくでの呼称こしょう参照さんしょう)。

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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

和書わしょ
洋書ようしょ
  • PETER JACKSON and Lockhart - THE CAMBRIDGE HISTORY OF IRAN, vol.6.
雑誌ざっし論文ろんぶんなど
  • 前田まえだ弘毅こうき「サファヴィーちょうのグルジア史料しりょう世界せかい研究けんきゅう No.222)」『歴史れきし地理ちりだい631ごう山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2010ねん2がつ、25-32ぺーじNAID 40018278929 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

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その