ジョージア
საქართველო
国 くに の標語 ひょうご :ძალა ერთობაშია (ジョージア語 ご : 力 ちから は団結 だんけつ にあり)
国歌 こっか :თავისუფლება (グルジア語 ご ) タヴィスプレバ(自由 じゆう )
アブハジアと南 みなみ オセチアを抜 ぬ いた人口 じんこう (2012年 ねん )は4,054,382人 にん 、面積 めんせき 57,200km2 、人口 じんこう 密度 みつど 70人 にん /km2 となる。
ジョージア (グルジア語 ご : საქართველო 、IPA: [sakʰartʰʷelo] ( 音声 おんせい ファイル ) 、グルジア語 ご ラテン翻 こぼし 字 じ : Sakartvelo 、カナ: サカルトヴェロ[3] 、英語 えいご : Georgia )は、南 みなみ コーカサス にある共和 きょうわ 制 せい 国家 こっか 。首都 しゅと はトビリシ である[4] 。七 なな 大陸 たいりく の境 さかい にあり、東 ひがし ヨーロッパ[5] [6] [7] 、もしくは西 にし アジア に区分 くぶん される[7] [8] 。北 きた はロシア連邦 れんぽう 、南東 なんとう はアゼルバイジャン 、南 みなみ はアルメニア とトルコ と接 せっ し、西 にし は黒海 こっかい に面 めん する。
ロシア内戦 ないせん 中 なか の1921年 ねん にグルジア民主 みんしゅ 共和 きょうわ 国 こく が赤軍 せきぐん に占領 せんりょう され、以後 いご ソビエト連邦 れんぽう を構成 こうせい するグルジア共和 きょうわ 国 こく とされたが、ソビエト連邦 れんぽう の崩壊 ほうかい に伴 ともな い1991年 ねん 4月 がつ に共和 きょうわ 国 こく として独立 どくりつ を回復 かいふく した[9] 。
2008年 ねん 、ロシア連邦 れんぽう が軍事 ぐんじ 侵攻 しんこう し、ジョージア北部 ほくぶ の南 みなみ オセチア とアブハジア の「独立 どくりつ 」を一方 いっぽう 的 てき に承認 しょうにん 。日本 にっぽん は、侵攻 しんこう を受 う けてロシアと国交 こっこう 断絶 だんぜつ したジョージアの要請 ようせい を受 う け、2015年 ねん 4月 がつ までの国名 こくめい 呼称 こしょう グルジア (ロシア語 ご : Грузия , Gruziya)からジョージアへ変更 へんこう した[10] 。
ジョージアはコーカサス山脈 さんみゃく の南 みなみ 麓 ふもと 、黒海 こっかい の東岸 とうがん にあたる。古来 こらい から数 すう 多 おお くの民族 みんぞく が行 い き交 か う交通 こうつう の要衝 ようしょう であり、幾度 いくど もの他 た 民族 みんぞく 支配 しはい にさらされる地 ち にありながらキリスト教 きりすときょう 信仰 しんこう をはじめとする伝統 でんとう 文化 ぶんか を守 まも り通 どお してきた。一方 いっぽう で、温暖 おんだん な気候 きこう を利用 りよう したワイン (グルジアワイン )生産 せいさん の盛 さか んな国 くに としても知 し られている。
ジョージアは、かつてソ連 それん の構成 こうせい 国 こく の一 ひと つであったが、1991年 ねん に独立 どくりつ を果 は たした。南 みなみ オセチア とアブハジア の2地域 ちいき が事実 じじつ 上 じょう の独立 どくりつ 状態 じょうたい となっており、ロシアなど一部 いちぶ の国 くに から国家 こっか 承認 しょうにん を受 う けている。中央 ちゅうおう 部 ぶ のゴリ は、旧 きゅう ソビエト連邦 れんぽう の独裁 どくさい 者 しゃ ヨシフ・スターリン の出身 しゅっしん 地 ち でもある。
一方 いっぽう でロシア帝国 ていこく とその後 ご に成立 せいりつ したソ連 それん の支配 しはい が長 なが く続 つづ いたことから、独立 どくりつ 後 ご は様々 さまざま な方面 ほうめん でロシアとの対立 たいりつ 路線 ろせん を取 と ることが多 おお い。1997年 ねん にはウクライナ の呼 よ びかけに応 おう じてアゼルバイジャン やモルドバ とともにGUAM を結成 けっせい し、2005年 ねん にはウクライナと共 とも に民主 みんしゅ 的 てき 選択 せんたく 共同 きょうどう 体 たい (英語 えいご 版 ばん 、ウクライナ語 ご 版 ばん ) (CDC)を発足 ほっそく して加盟 かめい 、2009年 ねん には独立 どくりつ 国家 こっか 共同 きょうどう 体 たい (CIS)を脱退 だったい した。
1999年 ねん から欧州 おうしゅう 評議 ひょうぎ 会 かい のメンバーである。
なお、本 ほん 項目 こうもく では2015年 ねん 4月 がつ 以前 いぜん の国家 こっか 名称 めいしょう については「グルジア 」、それ以後 いご については「ジョージア 」と表記 ひょうき する。また「グルジア語 ご 」「グルジア紛争 ふんそう (南 みなみ オセチア紛争 ふんそう )」など、既 すで に完全 かんぜん に定着 ていちゃく したものについては「グルジア 」を使用 しよう することとする。
ジョージアにおける自称 じしょう (エンドニム )は、サカルトヴェロ ( საქართველო [ヘルプ /ファイル ] [sakʰartʰvɛlɔ] 、ラテン文字 もじ 転写 てんしゃ :Sakartvelo)であり、「カルトヴェリ人 じん の地 ち 」を意味 いみ する。カルトヴェリ人 じん の由来 ゆらい となった「カルトリ」は、ジョージア最古 さいこ の文学 ぶんがく 作品 さくひん 『聖 せい シュシャニクの殉教 じゅんきょう 』(5世紀 せいき )にもみられる、ジョージア中心 ちゅうしん 地域 ちいき の古称 こしょう である[11] [12] 。この「サカルトヴェロ」系統 けいとう の国名 こくめい を使用 しよう しているのは、カルトヴェリ語族 ごぞく の諸語 しょご とエスペラント の「カルトヴェリーオ(Kartvelio)」または「カルトヴェルーヨ(Kartvelujo)」など少数 しょうすう である。
日本 にっぽん では、ロシア帝国 ていこく 支配 しはい 下 か にあった19世紀 せいき から当地 とうち について知 し られるようになり、ロシア語 ご 名 な の "Грузия" [ˈɡruzʲɪjə] ( 音声 おんせい ファイル ) グルージヤ )を音韻 おんいん 転写 てんしゃ した「グルジヤ 」と英語 えいご 名 めい の"Georgia" ([ˈdʒɔrdʒə] ( 音声 おんせい ファイル ) ジョージャ )を音韻 おんいん 転写 てんしゃ した「ジョルジア 」の2系統 けいとう の外 そと 名 めい (エクソニム )が使 つか われていた。大正 たいしょう から昭和 しょうわ 初期 しょき にかけては「ジョルジア」の方 ほう が主流 しゅりゅう を占 し めていたが[13] [14] [15] 、1956年 ねん の日 にち ソ共同 きょうどう 宣言 せんげん に前後 ぜんご して共産 きょうさん 圏 けん の報道 ほうどう に強 つよ みを持 も つラヂオプレス が「グルジア」を採用 さいよう していたことなどから、徐々 じょじょ に「ジョルジア」に対 たい して優位 ゆうい を占 し めるようになった。このロシア語 ご 名 めい は一説 いっせつ に、英語 えいご 名 めい のGeorgia と同 おな じく中世 ちゅうせい にペルシャ語 ご で使 つか われていた「グルジュ」もしくは「グルジャーン」という呼称 こしょう がアラビア語 ご などを経由 けいゆ して十字軍 じゅうじぐん 時代 じだい にヨーロッパへ紹介 しょうかい されたのが由来 ゆらい とされる[12] 。スラヴ語 ご 圏 けん でも13世紀 せいき ごろからこのグルジュに由来 ゆらい する呼称 こしょう が見 み られるようになり、その後 ご 、キリスト教 きょう 国 こく であるジョージアの守護 しゅご 聖人 せいじん 「聖 せい ゲオルギオス 」の名 な に結 むす びつけられていった[12] 。
国家 こっか としてのジョージアは、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく のジョージア州 しゅう とラテン文字 もじ 綴 つづ り字 じ および発音 はつおん も同一 どういつ [注釈 ちゅうしゃく 1] ながら、地名 ちめい の由来 ゆらい [注釈 ちゅうしゃく 2] のみならず歴史 れきし 的 てき にも何 なん の関連 かんれん 性 せい もない。しかしながら、首都 しゅと のトビリシ はジョージア州 しゅう の州都 しゅうと でもあるアトランタ と1987年 ねん に姉妹 しまい 都市 とし 関係 かんけい を締結 ていけつ しており[16] 、1994年 ねん にはジョージア国家 こっか 警備 けいび 隊 たい とジョージア州兵 しゅうへい (英語 えいご 版 ばん ) 組織 そしき の間 あいだ で相互 そうご 協力 きょうりょく 協定 きょうてい (en:Georgia–Georgia National Guard Partnership )が締結 ていけつ されている。
1995年 ねん のジョージア憲法 けんぽう 採択 さいたく 以降 いこう は国名 こくめい に「共和 きょうわ 国 こく 」などの政体 せいたい 名 な を含 ふく まないのが正式 せいしき 名称 めいしょう だが、英語 えいご 圏 けん ではアメリカのジョージア州 しゅう との混同 こんどう を避 さ けるため、国家 こっか を "Country of Georgia"、アメリカの州 しゅう を "State of Georgia" と呼 よ び分 わ ける慣例 かんれい がある[17] [18] 。日本語 にほんご でも同様 どうよう に「ジョージア国 くに 」(ジョージアこく)と「国 くに 」を付加 ふか した呼称 こしょう が使用 しよう される場合 ばあい がある[19] [20] 。また、ビートルズ の楽曲 がっきょく 『バック・イン・ザ・U.S.S.R. 』では、互 たが いに無関係 むかんけい ながら英語 えいご では同一 どういつ の名称 めいしょう で呼 よ ばれる2つの地名 ちめい に引 ひ っかけたジョークが歌詞 かし に含 ふく まれていることで知 し られる。
1992年 ねん に日本 にっぽん と国交 こっこう を樹立 じゅりつ して以降 いこう 、ロシアの首都 しゅと モスクワ を経由 けいゆ せずに現地 げんち の情報 じょうほう が直接 ちょくせつ 入 はい るようになったことから、特 とく に主要 しゅよう 民族 みんぞく たるカルトヴェリ人 じん の間 あいだ で根強 ねづよ い反 はん 露 ろ 感情 かんじょう について日本 にっぽん でも広 ひろ く知 し られるようになった。2000年代 ねんだい 半 なか ばには特許 とっきょ 分野 ぶんや や一部 いちぶ のワイン輸入 ゆにゅう 業者 ぎょうしゃ が「グルジア」の使用 しよう を取 と りやめて自主 じしゅ 的 てき に英語 えいご 名 めい の「ジョージア」を使用 しよう するようになった[21] [22] 。しかし、2008年 ねん に勃発 ぼっぱつ した南 みなみ オセチア紛争 ふんそう を機 き に、ロシアとの敵対 てきたい 関係 かんけい が決定的 けっていてき なものとなったことも後押 あとお しし[23] [24] 、この時期 じき から日本 にっぽん を含 ふく めて「グルジア」系統 けいとう の外 そと 名 めい を使用 しよう している各国 かっこく に対 たい して、個別 こべつ に「グルジア」の使用 しよう 取 と りやめと英語 えいご 名 めい の「ジョージア」(Georgia)採用 さいよう が要請 ようせい されるようになった。韓国 かんこく では2010年 ねん にこの要請 ようせい を受 う け入 い れて「그루지야(グルジヤ)」から「조지아 (ジョージア)」へ外 そと 名 めい を変更 へんこう しているが[25] 、北朝鮮 きたちょうせん では現在 げんざい も「그루지야(グルジヤ)」を使用 しよう している。かつてのソビエト連邦 れんぽう 構成 こうせい 国 こく では、リトアニア が2018年 ねん からリトアニア語 ご の外 そと 名 めい を "Gruzia" から "Sakartvelo" へ変更 へんこう することを国会 こっかい 議長 ぎちょう が表明 ひょうめい している[26] [27] [28] 。
日本 にっぽん 政府 せいふ に対 たい しては、2014年 ねん 10月の首脳 しゅのう 会談 かいだん で正式 せいしき に「グルジア」の使用 しよう を取 と りやめて「ジョージア」へ外 そと 名 めい を変更 へんこう するよう要請 ようせい が行 おこな われ[29] [30] 、2015年 ねん に日本 にっぽん 政府 せいふ が使用 しよう する外 そと 名 めい の根拠 こんきょ 法 ほう となる在外 ざいがい 公館 こうかん の名称 めいしょう 及 およ び位置 いち 並 なら びに在外 ざいがい 公館 こうかん に勤務 きんむ する外務 がいむ 公務員 こうむいん の給与 きゅうよ に関 かん する法律 ほうりつ (在外 ざいがい 公館 こうかん 設置 せっち 法 ほう )別表 べっぴょう の改正 かいせい 案 あん が、国会 こっかい で衆参 しゅうさん 両院 りょういん の全会 ぜんかい 一致 いっち による可決 かけつ を経 へ て、4月 がつ 22日 にち 付 つ けで公布 こうふ ・施行 しこう され[31] [32] 、同日 どうじつ には外務省 がいむしょう のサイトで外 そと 名 めい 変更 へんこう の告知 こくち が行 おこな われた[33] 。日本 にっぽん 政府 せいふ が(政体 せいたい などの変革 へんかく を理由 りゆう とする場合 ばあい を別 べつ にして)外国 がいこく 政府 せいふ から個別 こべつ に外 そと 名 めい の変更 へんこう を要請 ようせい されて受諾 じゅだく したのは、1986年 ねん (在外 ざいがい 公館 こうかん 設置 せっち 法 ほう の別表 べっぴょう 改正 かいせい は2003年 ねん )にコートジボワール の外 そと 名 めい 変更 へんこう 要請 ようせい (それ以前 いぜん はフランス語 ふらんすご 名 めい を意訳 いやく した「象牙 ぞうげ 海岸 かいがん 」を使用 しよう していた)を受 う け入 い れて以来 いらい 2例 れい 目 め となる[注釈 ちゅうしゃく 3] 。
漢字 かんじ 表記 ひょうき には「グルジア」に由来 ゆらい する「具 ぐ 琉耳 」と「ジョージア」に由来 ゆらい する「喬 たかし 治 おさむ 亜 あ 」の2通 とお りがある。台湾 たいわん (中華民国 ちゅうかみんこく )では「喬 たかし 治 おさむ 亞 あ 」を採用 さいよう しているが[34] 、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく では格 かく 鲁吉亚 (簡体字 かんたいじ )[35] 、香港 ほんこん では格 かく 魯吉亞 あ (繁体字 はんたいじ )と[36] 、いずれも「グルジア」系統 けいとう の外 そと 名 めい が現在 げんざい も使用 しよう されている。
原 はら 始 はじめ ・古代 こだい [ 編集 へんしゅう ]
近年 きんねん 、ジョージア国内 こくない では南東 なんとう 部 ぶ のドマニシ の洞窟 どうくつ から180万 まん 〜160万 まん 年 ねん 前 まえ ごろの原人 げんじん タイプの化石 かせき 人骨 じんこつ が発見 はっけん されている[37] 。出土 しゅつど 人骨 じんこつ のデータから、従来 じゅうらい 東 ひがし アジア で発見 はっけん されていた原人 げんじん よりも原始 げんし 的 てき な特徴 とくちょう を持 も ち、ユーラシア大陸 たいりく で最古 さいこ の年代 ねんだい が想定 そうてい される[37] 。この原人 げんじん は「ホモ・ゲオルギクス 」と命名 めいめい され、遺跡 いせき からはいわゆる「礫 つぶて 器 き 」に属 ぞく するオルドヴァイ 型 かた 石器 せっき 群 ぐん や動物 どうぶつ 化石 かせき なども多量 たりょう に発見 はっけん された[37] 。ほかに、前期 ぜんき 旧石器時代 きゅうせっきじだい に属 ぞく し、対称 たいしょう 形 がた の礫 つぶて 器 き が特徴 とくちょう 的 てき なアシュール文化 ぶんか や、中期 ちゅうき 旧石器時代 きゅうせっきじだい に属 ぞく し、剥 へず 片 かた 石器 せっき を多数 たすう ともなうムスティエ文化 ぶんか 期 き の遺構 いこう ・遺物 いぶつ がジョージア各地 かくち の洞窟 どうくつ や遺跡 いせき から発見 はっけん されている。
コルキス 盆地 ぼんち やフラミ渓谷 けいこく 、南 みなみ オセチアなどでは新 しん 石器 せっき 時代 じだい の遺跡 いせき が発見 はっけん されており、紀元前 きげんぜん 6000年 ねん から紀元前 きげんぜん 5000年 ねん にかけて以降 いこう 、刃先 はさき に磨 すり 製 せい 石器 せっき を利用 りよう した鍬 くわ やつるはし 、石 いし 製 せい の鎌 かま 、製粉 せいふん 用 よう の摩 ま 臼 うす 、貯蔵 ちょぞう 用 よう の土器 どき などが伴 ともな う本格 ほんかく 的 てき な定住 ていじゅう 生活 せいかつ と穀物 こくもつ 栽培 さいばい が始 はじ まったと考 かんが えられる[38] 。コムギ やライムギ については、当 とう 地方 ちほう は最 もっと も重要 じゅうよう な種 たね の発祥 はっしょう 地 ち と考 かんが えられている[39] 。石器 せっき の石材 せきざい には主 しゅ として地元 じもと 産 さん のフリント や黒曜石 こくようせき が用 もち いられ、牛 うし や豚 ぶた などの牧畜 ぼくちく を行 おこな い、ブドウ を含 ふく む果樹 かじゅ の栽培 さいばい も行 おこな われた[38] 。
グルジア(ジョージア)を含 ふく むカフカス地域 ちいき は、先史 せんし 時代 じだい にあっては金属 きんぞく 精錬 せいれん の発祥 はっしょう 地 ち の一 ひと つとされる[38] 。紀元前 きげんぜん 3700年 ねん ごろから紀元前 きげんぜん 2500年 ねん ごろにかけてのマイコープ文化 ぶんか や、紀元前 きげんぜん 3400年 ねん ごろから紀元前 きげんぜん 2000年 ねん ごろにかけてのクラ=アラクセス文化 ぶんか (英語 えいご 版 ばん ) の青銅器 せいどうき 時代 じだい の遺跡 いせき からは、おびただしい数 かず の金属 きんぞく 器 き が発見 はっけん されている[40] 。B・A・クフティンがトリアレティ(クヴェモ・カルトリ州 しゅう )で調査 ちょうさ した遺跡 いせき によれば、内陸 ないりく 部 ぶ では紀元前 きげんぜん 2000年 ねん 紀 き には遊牧 ゆうぼく を生業 せいぎょう とする諸 もろ 部族 ぶぞく が生活 せいかつ し、部族 ぶぞく の指導 しどう 者 しゃ とみられる人物 じんぶつ の墳 ふん 墓 はか からは美麗 びれい に彫琢 ちょうたく された金 きむ 銀 ぎん 製 せい の容器 ようき が副葬 ふくそう されるなど、当時 とうじ の社会 しゃかい が首長 しゅちょう に富 とみ と権力 けんりょく を集中 しゅうちゅう させていた様相 ようそう が確認 かくにん されている[38] 。
グルジア人 じん (ジョージア人 じん )の祖先 そせん となる民族 みんぞく は、黒海 こっかい の東岸 とうがん に広範囲 こうはんい に分布 ぶんぷ してのちにコルキス王国 おうこく をつくるコルキス人 じん の源流 げんりゅう をなすクルハ族 ぞく と、のちに南西 なんせい グルジアのタオ地方 ちほう に定住 ていじゅう するタオホイ族 ぞく の源流 げんりゅう をなすディアウヒ (英語 えいご 版 ばん ) 族 ぞく であり、両 りょう 民族 みんぞく を母体 ぼたい として形成 けいせい されたと考 かんが えられる[38] 。なお、コルキス人 じん の富裕 ふゆう さについては、早 はや くからギリシャ人 じん たちの知 し るところであり、ギリシア神話 しんわ におけるコルキス王女 おうじょ メーデイア と金 きむ 羊毛 ようもう (翼 つばさ を持 も つ金色 きんいろ の羊 ひつじ の毛皮 けがわ )の物語 ものがたり に端 はし 的 てき に示 しめ されている[38] 。
西 にし のコルキス王国 おうこく と東 ひがし のイベリア王国 おうこく
紀元前 きげんぜん 6世紀 せいき 以降 いこう 、黒海 こっかい に面 めん する西 にし グルジアの地 ち にコルキス王国 おうこく (コルヒダ王国 おうこく )が成立 せいりつ し、黒海 こっかい 東岸 とうがん のギリシャ植民 しょくみん 市 し の影響 えいきょう のもとで発展 はってん を遂 と げた[41] [42] [43] 。黒海 こっかい とカスピ海 かすぴかい をつなぐ地峡 ちきょう 地帯 ちたい には交易 こうえき 路 ろ が通 とお り、地中海 ちちゅうかい とペルシア 地域 ちいき を結 むす ぶ貿易 ぼうえき が盛 さか んに行 おこな われていた。
コルキス王国 おうこく 東側 ひがしがわ の内陸 ないりく 部 ぶ は、紀元前 きげんぜん 6世紀 せいき にオリエント を統一 とういつ したアケメネス朝 あさ ペルシア、続 つづ いてセレウコス朝 あさ の一部 いちぶ となり、紀元前 きげんぜん 4世紀 せいき から紀元前 きげんぜん 3世紀 せいき にかけてはイベリア王国 おうこく (カルトリ王国 おうこく )が成立 せいりつ した[42] [43] 。その領域 りょういき は今日 きょう の中部 ちゅうぶ グルジアのカルトリ 、東部 とうぶ グルジアのカヘティ 、西南 せいなん グルジアのサムツヘ とその周辺 しゅうへん であり、ここにはギリシャ文明 ぶんめい の影響 えいきょう が直接 ちょくせつ 及 およ ばなかった[38] 。住民 じゅうみん は西方 せいほう のアナトリア ・コルキス方面 ほうめん から流入 りゅうにゅう してきた人々 ひとびと と土着 どちゃく 民 みん との融合 ゆうごう によって形成 けいせい されたと考 かんが えられる[38] 。首都 しゅと のムツヘタ はクラ川 がわ とアラグヴィ川 がわ (英語 えいご 版 ばん ) の合流 ごうりゅう 点 てん 近 ちか くに立地 りっち している。
紀元前 きげんぜん 2世紀 せいき 、コルキス王国 おうこく は黒海 こっかい 東南 とうなん 海岸 かいがん にあったポントス 王国 おうこく のミトリダテス によって制圧 せいあつ され、紀元前 きげんぜん 65年 ねん にはそのポントスが共和 きょうわ 政 せい ローマ のポンペイウス 軍 ぐん に敗 やぶ れたことでコルキス(西 にし グルジア)はローマの属領 ぞくりょう となった[38] 。同 おな じころ、東 ひがし グルジアのイベリア王国 おうこく もローマの保護 ほご 下 か に置 お かれた[38] 。
1世紀 せいき に入 はい り、キリスト教 きりすときょう が創始 そうし されると、グルジアでは十 じゅう 二 に 使徒 しと による福音 ふくいん 伝道 でんどう が行 おこな われたと伝 つた えられている。特 とく にロ ろ ーマ帝国 まていこく の支配 しはい が揺 ゆ らいだ3世紀 せいき から4世紀 せいき にかけては大幅 おおはば に信者 しんじゃ が増加 ぞうか した[44] 。これは、カッパドキア 出身 しゅっしん の聖 せい ニノ (グルジアのニノ)の布教 ふきょう によって東 ひがし グルジアの多 おお くの人 ひと が入信 にゅうしん したことによるといわれている[38] 。
ロ ろ ーマ帝国 まていこく が衰退 すいたい に転 てん じた4世紀 せいき 、西 にし グルジアの旧 きゅう コルキス王国 おうこく の一部 いちぶ (現在 げんざい のアブハジア 地域 ちいき )にはラジカ王国 おうこく (英語 えいご 版 ばん ) が成立 せいりつ し、古代 こだい コルキスを併合 へいごう した[42] [43] 。ラジカ王国 おうこく は首都 しゅと をアルケオポリス(現 げん 、ナカラケヴィ (英語 えいご 版 ばん ) )に置 お き、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく との結 むす びつきを強 つよ めた[38] [45] 。この王国 おうこく は523年 ねん にキリスト教 きりすときょう を受容 じゅよう し、562年 ねん には東 ひがし ローマに併合 へいごう された[45] 。
イベリア王国 おうこく では、330年代 ねんだい にキリスト教 きりすときょう に深 ふか く帰依 きえ したミリアン3世 せい (英語 えいご 版 ばん ) によってキリスト教 きょう が国教 こっきょう として採用 さいよう された[42] [43] 。世界 せかい でも301年 ねん のアルメニア王国 おうこく に続 つづ いて2番目 ばんめ に古 ふる いキリスト教 きりすときょう 国教 こっきょう 化 か の例 れい であり、キリスト教 きょう がこの地域 ちいき の公式 こうしき 宗教 しゅうきょう となったことは、その後 ご の文化 ぶんか の形成 けいせい に大 おお きな影響 えいきょう を及 およ ぼした[41] [44] 。グルジアの教会 きょうかい は当初 とうしょ 、シリアのアンティオキア総 そう 主教 しゅきょう の管轄 かんかつ 下 か に置 お かれたが466年 ねん には独立 どくりつ 教会 きょうかい となり、カトリコス (総 そう 主教 しゅきょう )の座 ざ はムツヘタに置 お かれた[46] 。グルジア文字 もじ (カルトリ文字 もじ )は4世紀 せいき から5世紀 せいき ごろにかけての時期 じき に考案 こうあん された、グルジア語 ご を表記 ひょうき するために考案 こうあん された独自 どくじ の文字 もじ で、字形 じけい は異 こと なるもののギリシア文字 もじ と同 おな じ原理 げんり の文字 もじ 体系 たいけい をなしている[47] [48] 。
イベリアは、一時 いちじ ペルシア人 じん の支配 しはい を受 う けたが、5世紀 せいき 末 まつ には剛勇 ごうゆう で知 し られるヴァフタング1世 せい (ヴァフタング・ゴルガサリ)によって主権 しゅけん が回復 かいふく され、トビリシ の都市 とし 的 てき 発展 はってん が始 はじ まった[49] 。6世紀 せいき 初頭 しょとう 、ヴァフタング1世 せい の子 こ のダチ (英語 えいご 版 ばん ) 王 おう が父 ちち の遺言 ゆいごん に基 もと づきムツヘタからトビリシへ遷都 せんと した[49] 。
カフカス地域 ちいき のアルメニア 、グルジア(ジョージア)、アルバニア (バルカン半島 ばるかんはんとう のアルバニア とは無関係 むかんけい )の3教会 きょうかい は、431年 ねん のエフェソス公 こう 会議 かいぎ (第 だい 3回 かい 全 ぜん 地 ち 公会 こうかい )での、イエス・キリスト は神 かみ そのものだとしてその神性 しんせい のみを認 みと める「単 たん 性 せい 論 ろん 」の採用 さいよう に賛成 さんせい した[44] 。ところが、451年 ねん のカルケドン公 こう 会議 かいぎ (第 だい 4回 かい 全 ぜん 地 ち 公会 こうかい )では単 たん 性 せい 論 ろん が否定 ひてい され、「まことの神 かみ であり、同時 どうじ にまことの人 ひと でもある」として、キリストの神性 しんせい と人性 じんせい との両性 りょうせい 共立 きょうりつ とともに位 い 格 かく 的 てき 一致 いっち を説 と く、いわゆる「両性 りょうせい 論 ろん 」が正統 せいとう とされた[44] 。506年 ねん 、3教会 きょうかい の代表 だいひょう 者 しゃ はアルメニアのドヴィン (英語 えいご 版 ばん ) に集 あつ まってカルケドン派 は に反対 はんたい する旨 むね の決議 けつぎ を行 おこな ったが、以前 いぜん から両性 りょうせい 説 せつ に傾 かたむ いていたグルジア正教会 せいきょうかい は7世紀 せいき 初頭 しょとう には明瞭 めいりょう にカルケドン信条 しんじょう を告白 こくはく する立場 たちば に立 た った[44] 。「合性 あいしょう 論 ろん 」(両性 りょうせい 論 ろん 派 は からは単 たん 性 せい 論 ろん の一種 いっしゅ と見 み なされた)を採 と るアルメニア使徒 しと 教会 きょうかい は、これに対 たい し「非 ひ カルケドン派 は 正教会 せいきょうかい 」にとどまった[44] 。
中世 ちゅうせい ・近世 きんせい [ 編集 へんしゅう ]
ペルシア を支配 しはい したサーサーン朝 あさ はゾロアスター教 きょう を国教 こっきょう としており、その勢力 せいりょく がカフカスに及 およ ぶとキリスト教 きりすときょう ・ゾロアスター教 きょう の両 りょう 勢力 せいりょく は互 たが いに抗 こう 争 そう を繰 く り返 かえ した[50] 。ラジカ王国 おうこく がキリスト教 きりすときょう を国教 こっきょう 化 か すると、サーサーン朝 あさ は軍 ぐん を派遣 はけん して527年 ねん から533年 ねん まで続 つづ くラジカ戦争 せんそう (英語 えいご 版 ばん ) となった[50] 。ラジカ王国 おうこく は最終 さいしゅう 的 てき に東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 、東 ひがし のイベリア王国 おうこく はサーサーン朝 あさ にそれぞれ併合 へいごう され、ホスロー1世 せい はイベリアの王政 おうせい を廃止 はいし した[42] 。7世紀 せいき 初頭 しょとう 、自立 じりつ の動 うご きを見 み せたイベリアに対 たい し、東 ひがし ローマ皇帝 こうてい ヘラクレイオス は北方 ほっぽう のハザール と同盟 どうめい して遠征 えんせい を行 おこな った[50] 。627年 ねん から629年 ねん にかけてはサーサーン朝 あさ ・イベリア王国 おうこく 連合 れんごう 軍 ぐん と西 にし 突厥 ・東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく ・ラジカ連合 れんごう 軍 ぐん との間 あいだ でトビリシ包囲 ほうい 戦 せん が起 お こり、トビリシは一時 いちじ 占領 せんりょう された[51] 。
ニハーヴァンドの戦 たたか い 以降 いこう はサーサーン朝 あさ の影響 えいきょう 力 りょく が後退 こうたい し、7世紀 せいき 後半 こうはん からは新興 しんこう のイスラーム を奉 ほう ずるアラブ人 じん の影響 えいきょう が拡大 かくだい した[42] 。トビリシは736年 ねん から738年 ねん にかけて「ムスリムの征服 せいふく (英語 えいご 版 ばん ) 」を受 う け、これによってトビリシ首長 しゅちょう 国 こく (英語 えいご 版 ばん ) が成立 せいりつ した。カフカス地方 ちほう にもイスラムの教義 きょうぎ がもたらされたが、広 ひろ い山岳 さんがく 地帯 ちたい を抱 かか えるグルジアへの流入 りゅうにゅう は限定 げんてい 的 てき なものにとどまり、キリスト教 きょう 信仰 しんこう が守 まも られた。750年 ねん 、グルジア正教会 せいきょうかい は自治 じち 教会 きょうかい となり、9世紀 せいき から10世紀 せいき にかけてはカフカス地域 ちいき の布教 ふきょう の中心 ちゅうしん を担 にな った[44] 。
かつてラジカ王国 おうこく があったグルジア西部 せいぶ では東 ひがし ローマ皇帝 こうてい の直 ちょく 臣 しん となったアブハズ人 じん (アブハジア人 じん )が次第 しだい に強 つよ 勢 ぜい となり、8世紀 せいき 末 まつ にはアンチャバヅェ家 か のアブハジア公 こう レオン1世 せい (英語 えいご 版 ばん ) が皇帝 こうてい から王 おう 号 ごう を許可 きょか された[51] 。レオン1世 せい は母 はは がハザール王女 おうじょ 、妻 つま がカルトリ大公 たいこう の娘 むすめ であったことから両者 りょうしゃ とも友好 ゆうこう 関係 かんけい を築 きず きつつ勢威 せいい を振 ふ るった[51] 。グルジア東部 とうぶ では、イベリア公国 こうこく のバグラティオニ家 か (英語 えいご 版 ばん ) が台頭 たいとう し、9世紀 せいき 初頭 しょとう には、この家 いえ からイベリア大公 たいこう アショト1世 せい (英語 えいご 版 ばん ) が現 あらわ れた[38] 。アルメニアでは、バグラトゥニ家 か (英語 えいご 版 ばん ) のアルメニア大公 たいこう アショト1世 せい (英語 えいご 版 ばん ) (イベリア大公 たいこう アショト1世 せい とは別人 べつじん )が、イスラム帝国 ていこく であるアッバース朝 あさ によって「アルメニア、グルジア、コーカサスの大公 たいこう 」の位 い を許 ゆる され、885年 ねん にはアルメニアの諸侯 しょこう によってアルメニア王 おう に推戴 すいたい された[51] 。こうして、イスラム帝国 ていこく カリフ と東 ひがし ローマ皇帝 こうてい の双方 そうほう の承認 しょうにん のもと、アッバース朝 あさ 版図 はんと のアルメニア王国 おうこく が再興 さいこう された[51] 。
東 ひがし ローマとイスラムの抗 こう 争 そう は拡大 かくだい されたアルメニア王国 おうこく の中 なか でも繰 く り広 ひろ げられ、最終 さいしゅう 的 てき には小国 しょうこく 分立 ぶんりつ 状態 じょうたい がもたらされた[51] 。こうしたなか、アルメニア王 おう アショト1世 せい は、西南 せいなん グルジアのタオ (英語 えいご 版 ばん ) に本拠 ほんきょ を遷 うつ して、東 ひがし ローマ皇帝 こうてい からクロバラテス、すなわち「宮殿 きゅうでん の守護 しゅご 者 しゃ 」の称号 しょうごう を獲得 かくとく するのに成功 せいこう した[38] 。10世紀 せいき 後半 こうはん 、アッバース朝 あさ の繁栄 はんえい にも陰 かげ りが見 み えるようになり、グルジアではイベリア大公 たいこう グルゲン (英語 えいご 版 ばん ) が現 あらわ れ、アブハジア王女 おうじょ のグランドゥフトと結婚 けっこん 。イベリアとアブハジアの領域 りょういき は2人 ふたり の息子 むすこ バグラト3世 せい (英語 えいご 版 ばん ) に継承 けいしょう された[51] 。バグラド3世 せい は、アルメニア王 おう アショトの養子 ようし となって将来 しょうらい の地位 ちい を自 みずか ら保障 ほしょう し、975年 ねん にはカルトリ地方 ちほう の宗主 そうしゅ 権 けん をも獲得 かくとく 、976年 ねん にバグラト朝 あさ (英語 えいご 版 ばん ) のグルジア王国 おうこく (グルジア連合 れんごう 王国 おうこく )を建 た てた[43] 。1001年 ねん には義父 ぎふ アショトからアルメニアと南西 なんせい グルジア、1008年 ねん には実父 じっぷ グルゲンから南西 なんせい グルジア残部 ざんぶ を継承 けいしょう してカヘティ地方 ちほう を除 のぞ く全 ぜん グルジアの諸 しょ 公国 こうこく を統一 とういつ して、クタイシ を首都 しゅと とする中世 ちゅうせい グルジア王国 おうこく の隆盛 りゅうせい が始 はじ まった[38] [42] 。
バグラト3世 せい はクタイシに大 だい 聖堂 せいどう (バグラティ大 だい 聖堂 せいどう )を創建 そうけん し、1010年 ねん にはカヘティ地方 ちほう をも支配 しはい 下 か に収 おさ めた。王国 おうこく 成立 せいりつ 期 き にはグルジア正教会 せいきょうかい がバグラティオニ家 か の王朝 おうちょう を支 ささ えた。聖人 せいじん として知 し られるイベリアのヨアネ が活躍 かつやく し、レオンティ・ムロヴェリ (英語 えいご 版 ばん ) によって『グルジア年代 ねんだい 記 き (英語 えいご 版 ばん ) 』が書 か かれたのもこのころのことである。10世紀 せいき から13世紀 せいき にかけてのグルジア王家 おうけ は東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 、キエフ大公 たいこう 国 こく 、アラニア (北 きた オセチア )などの王侯 おうこう 貴族 きぞく との間 あいだ で盛 さか んに婚姻 こんいん 関係 かんけい を結 むす び、東 ひがし ヨーロッパ各 かく 地域 ちいき との精神 せいしん 的 てき 結 むす びつきを強 つよ めた[44] 。
バグラト3世 せい の子 こ ギオルギ1世 せい (英語 えいご 版 ばん ) はムツヘタのスヴェティツホヴェリ大 だい 聖堂 せいどう の修復 しゅうふく を行 おこな い、ギオルギ1世 せい の子 こ のバグラト4世 せい (英語 えいご 版 ばん ) は1045年 ねん 、アルメニアの首都 しゅと アニ (現 げん トルコ共和 きょうわ 国 こく )を制圧 せいあつ した。1057年 ねん にシリア のアンティオキア で開 ひら かれた地方 ちほう 教会 きょうかい 会議 かいぎ では、グルジア正教会 せいきょうかい が自治 じち 教会 きょうかい 資格 しかく を有 ゆう することが公認 こうにん されている[44] 。11世紀 せいき 後半 こうはん にはトルコ人 じん 勢力 せいりょく が中央 ちゅうおう アジア やペルシア の大 だい 部分 ぶぶん を含 ふく む地域 ちいき に広大 こうだい な遊牧 ゆうぼく 帝国 ていこく セルジューク朝 あさ を建設 けんせつ した。グルジアもその侵略 しんりゃく を受 う けるようになり、バグラト4世 せい 治下 ちか の1063年 ねん には南西 なんせい グルジアが、1068年 ねん には東 ひがし グルジアがセルジューク朝 あさ によって制圧 せいあつ された。
「建設 けんせつ 王 おう 」と呼 よ ばれたダヴィド4世 せい が即位 そくい したのは1089年 ねん のことであった。ダヴィド4世 せい は、北 きた カフカスのキプチャク 人 ひと を移住 いじゅう させて親衛隊 しんえいたい を組織 そしき し、軍制 ぐんせい 改革 かいかく を行 おこな ってグルジアを強固 きょうこ な国家 こっか に改造 かいぞう し、セルジューク朝 あさ に勝利 しょうり 。1096年 ねん にはセルジューク朝 あさ に対 たい する貢 みつぎ 納 おさめ の支払 しはら いを停止 ていし し、12世紀 せいき に入 はい ってからはクタイシ郊外 こうがい のイメレティア丘陵 きゅうりょう にゲラティ修道院 しゅうどういん と付属 ふぞく の王立 おうりつ 学校 がっこう (アカデミー)を創立 そうりつ した[52] 。この王立 おうりつ 学校 がっこう はグルジアを代表 だいひょう する科学 かがく 者 しゃ 、神学 しんがく 者 しゃ 、哲学 てつがく 者 しゃ を擁 よう し、トビリシ遷都 せんと 後 ご も17世紀 せいき に至 いた るまでグルジアの文教 ぶんきょう の中心 ちゅうしん として栄 さか えた[52] 。1122年 ねん 、ダヴィドはムスリム 勢力 せいりょく に支配 しはい されていた要衝 ようしょう トビリシを奪還 だっかん して、ここに都 と を遷 うつ した[38] 。
グルジアの黄金 おうごん 時代 じだい を築 きず いたタマル(左 ひだり )と父 ちち 王 おう ギオルギ3世 せい (右 みぎ )
12世紀 せいき 後半 こうはん のギオルギ3世 せい (英語 えいご 版 ばん ) も1156年 ねん にセルジューク朝 あさ を攻撃 こうげき してこれに勝利 しょうり し、1161年 ねん から1162年 ねん にはアルメニアにも侵攻 しんこう してアニとドヴィンを占領 せんりょう するなど強 つよ 勢 ぜい を誇 ほこ った。ギオルギ3世 せい の王女 おうじょ で1184年 ねん に正式 せいしき に王 おう として即位 そくい したタマル 女王 じょおう の時代 じだい 、バグラト朝 ちょう グルジア王国 おうこく はザカフカス全域 ぜんいき を支配 しはい する強国 きょうこく に発展 はってん し、黄金 おうごん 時代 じだい を迎 むか えた[38] [42] 。1194年 ねん から1204年 ねん にかけてはセルジューク朝 あさ に勝利 しょうり してアルメニア南部 なんぶ を保護 ほご 領 りょう としたほか、1195年 ねん には現 げん アゼルバイジャンのシャムコルの戦 たたか い に勝利 しょうり して同地 どうち を支配 しはい した。1201年 ねん から1203年 ねん にかけてはアルメニアのアニとドヴィンを再 さい 併合 へいごう し、さらに現在 げんざい のトルコ北部 ほくぶ を占領 せんりょう した[38] 。1204年 ねん 、イタリア のヴェネツィア 商人 しょうにん の策謀 さくぼう によって第 だい 4回 かい 十字軍 じゅうじぐん がコンスタンティノープル を占領 せんりょう し、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく が没落 ぼつらく した際 さい には、その亡命 ぼうめい 政権 せいけん トレビゾンド帝国 ていこく の建国 けんこく を援助 えんじょ している[38] 。タマルの時代 じだい は、文化 ぶんか ・学術 がくじゅつ の面 めん でもグルジア王国 おうこく の最盛 さいせい 期 き であり、多 おお くの修道院 しゅうどういん が寄進 きしん され、特 とく に文学 ぶんがく 分野 ぶんや の充実 じゅうじつ と教会 きょうかい 建築 けんちく の発展 はってん が顕著 けんちょ であった[42] 。『グルジア年代 ねんだい 記 き 』が編 あ まれ、また、特 とく にタマル女王 じょおう に仕 つか えた官吏 かんり で詩人 しじん のショタ・ルスタヴェリ の活動 かつどう がよく知 し られている[53] 。
タマル女王 じょおう 死後 しご のグルジアはホラズム・シャー朝 あさ の軍 ぐん による侵入 しんにゅう を受 う け、さらにモンゴルのグルジア侵攻 しんこう に晒 さら された。1220年 ねん にはチンギス・カン の命 いのち を受 う けたスブタイ とジェベ はホラズムのムハンマド2世 せい (アラーウッディーン・ムハンマド )を追撃 ついげき している途上 とじょう でカフカス地方 ちほう を通過 つうか し、遭遇 そうぐう したグルジア軍 ぐん はモンゴル軍 ぐん に打 う ち負 ま かされた[54] 。翌 よく 1221年 ねん 、スベタイ・ジェベ軍 ぐん 2万 まん がグルジア王国 おうこく を再 ふたた び攻撃 こうげき 。タマルの子 こ ギオルギ4世 せい (英語 えいご 版 ばん ) は第 だい 5回 かい 十字軍 じゅうじぐん への支援 しえん を取 と りやめ、国 くに を挙 あ げて抵抗 ていこう したものの敗北 はいぼく した[51] [54] 。1222年 ねん の戦 たたか いでも敗北 はいぼく し、これらは、キリスト教 きょう 文明 ぶんめい に属 ぞく する地域 ちいき がモンゴル軍 ぐん からの猛攻 もうこう を受 う けた最初 さいしょ であった[51] 。ギオルギ4世 せい は対 たい モンゴル戦 せん の負傷 ふしょう がもとで1222年 ねん に死去 しきょ し、妹 いもうと のルスダン が王位 おうい を継承 けいしょう した。
ルスダン治下 ちか の1225年 ねん 、ホラズムの支配 しはい 者 しゃ ジャラールッディーン・メングベルディー がグルジアに侵入 しんにゅう し、1226年 ねん 、首都 しゅと トビリシが占領 せんりょう されて略奪 りゃくだつ を受 う けた[51] 。さらに、1236年 ねん にはチョルマグン 率 ひき いるモンゴル軍 ぐん が再 ふたた びグルジアに侵攻 しんこう し、ルスダン女王 じょおう はクタイシへの避難 ひなん を余儀 よぎ なくされた。女王 じょおう はローマ教皇 きょうこう グレゴリウス9世 せい に支援 しえん を求 もと めたが失敗 しっぱい し、1243年 ねん 、モンゴル軍 ぐん 3万 まん 人 にん が常駐 じょうちゅう するなか、グルジアはモンゴル帝国 ていこく に併合 へいごう され、その属領 ぞくりょう となった[51] 。モンゴルは「グルジスタン州 しゅう 」を置 お き、そこにグルジアと南 みなみ カフカス全域 ぜんいき を管掌 かんしょう させ、グルジアの領主 りょうしゅ たちを通 つう じて間接 かんせつ 統治 とうち を行 おこな った。
モンゴル帝国 ていこく のグユク ・カンは1247年 ねん 、グルジア王国 おうこく を東 ひがし 半 はん 部 ぶ と西 にし 半 はん 部 ぶ に分 わ け、ギオルギ4世 せい の子 こ のダヴィド7世 せい (英語 えいご 版 ばん ) には東部 とうぶ のカルトリを、ルスダンの子 こ のダヴィド6世 せい (英語 えいご 版 ばん ) には西部 せいぶ のイメレティをそれぞれ与 あた え、2人 ふたり を共同 きょうどう 王 おう として公認 こうにん した[55] 。1259年 ねん から1260年 ねん にかけて、ダヴィド6世 せい に率 ひき いられたグルジア貴族 きぞく たちがモンゴル勢力 せいりょく に叛旗 はんき を翻 ひるがえ し、西部 にしべ グルジアにイメレティ王国 おうこく (英語 えいご 版 ばん ) の独立 どくりつ を勝 か ち取 と った。しかし、東部 とうぶ グルジアは引 ひ き続 つづ きモンゴル支配 しはい を余儀 よぎ なくされた[38] [42] 。
遊牧 ゆうぼく 国家 こっか であるイルハン朝 あさ では税務 ぜいむ 行政 ぎょうせい 上 じょう の首都 しゅと と重要 じゅうよう 地点 ちてん とを結 むす ぶ駅逓 えきてい 制度 せいど が整備 せいび され、東部 とうぶ グルジアの中心 ちゅうしん トビリシも「シャーフ・ラーフ(王 おう の道 みち )」と称 しょう する交通 こうつう 網 もう のひとつの終点 しゅうてん として重要 じゅうよう な役割 やくわり を担 にな った[56] 。モンゴル支配 しはい 下 か では貢 みつぎ 納 おさめ は厳 いかめ しかったものの一定 いってい の自治 じち は与 あた えられた。またモンゴル人 じん たちは概 がい して宗教 しゅうきょう に寛容 かんよう で、イスラムやキリスト教 きりすときょう ネストリウス派 は 、ルーシ とグルジアの東方 とうほう 正教会 せいきょうかい はむしろ民衆 みんしゅう 統治 とうち に役立 やくだ てられた。交通 こうつう 上 じょう の変革 へんかく としては、1260年 ねん 以降 いこう 、ジェノヴァ共和 きょうわ 国 こく と東 ひがし ローマ皇帝 こうてい ミカエル8世 せい パレオロゴス との条約 じょうやく によって黒海 こっかい にジェノヴァ商船 しょうせん 隊 たい が乗 の り入 い れが実現 じつげん した[56] 。クリミア半島 くりみあはんとう のフェオドシヤ やアブハジアのスフィミ は港湾 こうわん として発展 はってん し、黒海 こっかい 沿岸 えんがん には40ものジェノヴァ商館 しょうかん が設 もう けられたという[56] 。
モンゴルの支配 しはい は長 なが く続 つづ いたが、「光輝 こうき 王 おう 」と呼 よ ばれたギオルギ5世 せい (英語 えいご 版 ばん ) が現 あらわ れて東西 とうざい に分裂 ぶんれつ していたグルジアを再 さい 統一 とういつ し、ようやく1335年 ねん にモンゴル勢力 せいりょく を放逐 ほうちく して、事実 じじつ 上 じょう の独立 どくりつ を果 は たした[38] [42] [43] 。ただし、その翌年 よくねん の1336年 ねん にはトビリシでペスト (黒死病 こくしびょう )が大 だい 流行 りゅうこう し、大 おお きな痛手 いたで を受 う けている。再 さい 統一 とういつ 後 ご もグルジアはジャライル朝 あさ とチョバン朝 あさ の影響 えいきょう 下 か にあった[57]
1380年 ねん 、西 にし チャガタイハン国 こく から自立 じりつ したティムール が侵入 しんにゅう 、トビリシを占領 せんりょう して王 おう と王妃 おうひ は捕虜 ほりょ となった[51] 。以後 いご 、グルジアはティムール朝 あさ の侵入 しんにゅう に苦 くる しめられることになり。特 とく に1386年 ねん から1403年 ねん にかけて計 けい 8度 ど におよぶ猛襲 もうしゅう は、経済 けいざい 的 てき にも文化 ぶんか ・生活 せいかつ の面 めん でも回復 かいふく 困難 こんなん な打撃 だげき をグルジア社会 しゃかい に与 あた えた[38] [42] [43] 。グルジアはこののち一 いち 時 じ 黒 くろ 羊 ひつじ 朝 あさ の支配 しはい にも服 ふく した。1444年 ねん にはトビリシがペルシア軍 ぐん によって侵略 しんりゃく を受 う け、1460年代 ねんだい にはカヘティ王国 おうこく (英語 えいご 版 ばん ) が独立 どくりつ 、分権 ぶんけん 化 か が進行 しんこう して1466年 ねん 、グルジア王国 おうこく はついに崩壊 ほうかい 、一種 いっしゅ の無 む 政府 せいふ 状態 じょうたい に陥 おちい った。
1490年 ねん におけるグルジアの3王国 おうこく 5公国 こうこく
グルジア王国 おうこく は東部 とうぶ のカルトリ王国 おうこく とカヘティ王国 おうこく 、西部 せいぶ のイメレティ王国 おうこく というバグラティオニ家 か の王 おう 統 みつる を戴 いただ く3つの王国 おうこく に分裂 ぶんれつ した。1490年 ねん 、この3王国 おうこく が相互 そうご に承認 しょうにん しあうことでようやく無 む 政府 せいふ 状態 じょうたい を脱 だっ することができた。3王国 おうこく のほかには、13世紀 せいき 以来 いらい の西南 せいなん グルジアの有力 ゆうりょく 豪族 ごうぞく ジャケリ家 か (英語 えいご 版 ばん ) が公式 こうしき に支配 しはい したアタバク領 りょう サムツヘ国 こく (英語 えいご 版 ばん ) があり、さらに黒海 こっかい 沿岸 えんがん にグリア公国 こうこく (英語 えいご 版 ばん ) 、サメグレロ公国 こうこく 、アブハジア公国 こうこく (英語 えいご 版 ばん ) 、内陸 ないりく 部 ぶ にスヴァネティ公国 こうこく (英語 えいご 版 ばん ) が独立 どくりつ した君公 くんこう 国 こく としてふるまい、事実 じじつ 上 じょう 5つの公国 こうこく が分立 ぶんりつ した[53] 。
16世紀 せいき 初頭 しょとう から18世紀 せいき 前半 ぜんはん にかけてのグルジアは、イラン高原 こうげん に建国 けんこく された東 ひがし のサファヴィー朝 あさ 、新 しん 首都 しゅと イスタンブール を本拠 ほんきょ として周囲 しゅうい に勢力 せいりょく を拡大 かくだい する西 にし のオスマン帝国 ていこく の圧力 あつりょく を受 う け、しばしば両者 りょうしゃ の係争 けいそう の地 ち となった[42] 。カルトリ王国 おうこく とカヘティ王国 おうこく はサファヴィー朝 あさ 、イメレティ王国 おうこく はオスマン帝国 ていこく の支配 しはい をそれぞれ受 う け、両者 りょうしゃ の抗 こう 争 そう はイスラームにおけるスンナ派 は とシーア派 は の宗教 しゅうきょう 戦争 せんそう の性格 せいかく も内包 ないほう していた[42] 。この時代 じだい 、特 とく にグルジア東部 とうぶ にあっては度重 たびかさ なる戦乱 せんらん と住民 じゅうみん の強制 きょうせい 移住 いじゅう によって人口 じんこう が減 へ り、経済 けいざい 活動 かつどう も停滞 ていたい を余儀 よぎ なくされた[45] 。
イメレティ王国 おうこく は頻繁 ひんぱん に王位 おうい が交替 こうたい し、混乱 こんらん が続 つづ いた[56] 。サメグレロ公国 こうこく のダディアニ家 か (英語 えいご 版 ばん ) は17世紀 せいき のレヴァン2世 せい (英語 えいご 版 ばん ) の時 とき に最盛 さいせい 期 き を迎 むか えたが、17世紀 せいき 後半 こうはん には衰 おとろ え、公国 こうこく 支配 しはい 者 しゃ の血統 けっとう が交替 こうたい した[56] 。サムツヘのジャケリ家 か はグルジア王家 おうけ との婚姻 こんいん によって独自 どくじ の立場 たちば を築 きず いたが、のちにオスマン帝国 ていこく の直接 ちょくせつ 支配 しはい 下 か に入 はい り、パシャ の称号 しょうごう を獲得 かくとく し、その領域 りょういき (現在 げんざい のアジャリア自治 じち 共和 きょうわ 国 こく など)ではイスラーム化 か が進行 しんこう した[56] 。
カヘティ王国 おうこく では、16世紀 せいき 前半 ぜんはん に英明 えいめい な君主 くんしゅ レヴァン (英語 えいご 版 ばん ) が現 あらわ れ、国王 こくおう の権力 けんりょく を強化 きょうか して絹 きぬ の交易 こうえき などで王国 おうこく を繁栄 はんえい に導 みちび いた[58] 。一方 いっぽう のカルトリ王国 おうこく では16世紀 せいき 中葉 ちゅうよう にシモン1世 せい らがペルシアに対 たい して抵抗 ていこう して以降 いこう は、サファヴィー朝 あさ の宗主 そうしゅ 権 けん を認 みと めた[58] 。
1555年 ねん 、トルコとペルシアは長年 ながねん の抗 こう 争 そう の結果 けっか アマスィヤの講和 こうわ を結 むす んで平和 へいわ を実現 じつげん する一方 いっぽう カフカスにおける相互 そうご の勢力 せいりょく 範囲 はんい を定 さだ め、これはその後 ご グルジア社会 しゃかい を大 おお きく規定 きてい することとなった[53] 。1578年 ねん 、小康 しょうこう 状態 じょうたい は破 やぶ られ、オスマン帝国 ていこく の勢力 せいりょく がカフカス全土 ぜんど を蹂躙 じゅうりん してトビリシを制圧 せいあつ したのに対 たい し、サファヴィー朝 あさ 第 だい 5代 だい シャー のアッバース1世 せい はこれに反撃 はんげき 。トルコ人 じん 勢力 せいりょく を撤退 てったい させたが、アッバース1世 せい はまたカヘティに対 たい して略奪 りゃくだつ 遠征 えんせい を行 おこな ったため、その富 とみ は失 うしな われてしまった[38] [58] 。
サファヴィー朝 あさ の政治 せいじ 的 てき 影響 えいきょう 下 か にあったカルトリとカヘティでは、イスラーム改宗 かいしゅう を条件 じょうけん にバグティオニの家系 かけい の王子 おうじ から選 えら ばれ、政治 せいじ 経済 けいざい 的 てき ないし軍事 ぐんじ 的 てき には衰退 すいたい し、文化 ぶんか 面 めん でもペルシア文化 ぶんか の影響 えいきょう を強 つよ く受 う けた[53] [58] 。しかし、一方 いっぽう ではアルメニア人 じん やチェルケス人 じん などとともに「グラーム (王 おう の奴隷 どれい )」と呼 よ ばれる軍人 ぐんじん ・官吏 かんり としてサファヴィー朝 あさ を支 ささ え、イラン人 じん やトルコ人 じん と並 なら んで枢要 すうよう な国政 こくせい ポストについてエリート の一 いち 画 かく を占 し めるグルジア人 じん も現 あらわ れた[53] [59] 。サファヴィー朝 あさ の帝都 ていと エスファハーン の長官 ちょうかん 職 しょく は半 なか ばグルジアの王子 おうじ による世襲 せしゅう の職 しょく となっており、現在 げんざい のイラク 国境 こっきょう に近 ちか いシューシュタル の町 まち は、グルジアの大 だい 貴族 きぞく 出身 しゅっしん 者 しゃ の家系 かけい が約 やく 100年 ねん にわたって支配 しはい し続 つづ けた[59] 。グルジア独自 どくじ の伝統 でんとう 文化 ぶんか もペルシア支配 しはい 下 か で復興 ふっこう を遂 と げ、12世紀 せいき 初頭 しょとう の「黄金 おうごん 時代 じだい 」に対比 たいひ し「銀 ぎん の時代 じだい 」と呼 よ ばれるほどである[53] 。その中 なか で、カヘティ王 おう のティムラズ1世 せい (英語 えいご 版 ばん ) 、カヘティとイメレティの両方 りょうほう の王位 おうい を経験 けいけん したアルチル (英語 えいご 版 ばん ) の2人 ふたり は詩人 しじん 王 おう として知 し られている[53] 。また、サファヴィー朝 あさ の官吏 かんり であったパルサダン・ゴルギジャニゼ (英語 えいご 版 ばん ) は17世紀 せいき 末 まつ に『グルジア年代 ねんだい 記 き 』を著 あらわ している。
18世紀 せいき に入 はい ると、カルトリ王国 おうこく にヴァフタング6世 せい が現 あらわ れた。彼 かれ は傑出 けっしゅつ した立法 りっぽう 家 か であったが、一方 いっぽう では1709年 ねん にグルジアに印刷 いんさつ 術 じゅつ を持 も ち込 こ み、グルジア語 ご 印刷 いんさつ を始 はじ め、自国 じこく 史 し の追究 ついきゅう に関心 かんしん の強 つよ い文化 ぶんか 人 じん でもあった[38] [53] 。ゴルギジャニゼの著 あらわ した『グルジア年代 ねんだい 記 き 』の続編 ぞくへん を編纂 へんさん する目的 もくてき で学者 がくしゃ ・有識者 ゆうしきしゃ を集 あつ め、グルジア国内 こくない の写本 しゃほん ・古文書 こもんじょ の精査 せいさ を命 めい じ、その成果 せいか を14世紀 せいき から17世紀 せいき までの公的 こうてき 年代 ねんだい 記 き として刊行 かんこう した[53] 。1722年 ねん 、パシュトゥーン人 じん がエスファハーンを陥落 かんらく させサファヴィー朝 あさ が崩壊 ほうかい すると、グルジアはオスマン帝国 ていこく の新 あら たな侵入 しんにゅう を招 まね いた[38] 。ペルシアでは征服 せいふく 者 しゃ ナーディル・シャー が現 あらわ れ、ロシア帝国 ていこく との間 あいだ に反 はん オスマン同盟 どうめい を結 むす び、アフシャール朝 あさ を創始 そうし してオスマン帝国 ていこく に奪 うば われた失地 しっち を回復 かいふく 。カルトリ王位 おうい をカヘティ王 おう だったティムラズ2世 せい (英語 えいご 版 ばん ) に与 あた えた[38] [53] 。
ロシア帝国 ていこく 時代 じだい [ 編集 へんしゅう ]
18世紀 せいき 後半 こうはん 、東 ひがし グルジアのカヘティ王国 おうこく にエレクレ2世 せい (英語 えいご 版 ばん ) が現 あらわ れ、サファヴィー朝 あさ 後 ご に興起 こうき したアフシャール朝 あさ を撃退 げきたい し、父 ちち のカルトリ王 おう ティムラズ2世 せい 死去 しきょ 後 ご はその領域 りょういき をも継承 けいしょう して、1762年 ねん 、トビリシに都 と を置 お くカルトリ・カヘティ王国 おうこく を建 た てた[38] [42] 。エレクレはアルメニア商人 しょうにん たちと提携 ていけい して王国 おうこく の殖産 しょくさん 興業 こうぎょう に尽力 じんりょく したため、その経済 けいざい は大 おお いに発展 はってん した[41] [58] 。1768年 ねん に始 はじ まった露 ろ 土 ど 戦争 せんそう ではエレクレはロシア帝国 ていこく 側 がわ で戦 たたか った。クタイシを首都 しゅと とする西部 せいぶ のイメレティ王国 おうこく もこの戦争 せんそう ではロシア側 がわ に立 た ち、ソロモン1世 せい (英語 えいご 版 ばん ) 治世 ちせい 下 か の1779年 ねん にはオスマン支配 しはい から脱却 だっきゃく することに成功 せいこう した[38] 。
エレクレ2世 せい は、北 きた カフカスからのレズギン人 じん の襲来 しゅうらい やペルシア・トルコの両 りょう 勢力 せいりょく から自国 じこく を守 まも るため、同 おな じ正教 せいきょう を奉 ほう ずる北 きた の大国 たいこく であるロシア帝国 ていこく との同盟 どうめい を目指 めざ し、1783年 ねん には女帝 にょてい エカチェリーナ2世 せい との間 あいだ にギオルギエフスク条約 じょうやく (英語 えいご 版 ばん ) を結 むす んでロシアの保護 ほご 国 こく となることを認 みと めた[38] 。しかし、ロシアはこの条約 じょうやく を守 まも らず、エレクレ2世 せい は結局 けっきょく 、新興 しんこう のガージャール朝 あさ からの猛攻 もうこう を単独 たんどく で受 う けざるを得 え なくなった。1795年 ねん 、グルジアは大 だい 敗北 はいぼく を喫 きっ してトビリシは略奪 りゃくだつ を受 う け、経済 けいざい 成長 せいちょう の成果 せいか は無 む に帰 かえ した[38] [58] 。エレクレの病弱 びょうじゃく な後継 こうけい 者 しゃ ギオルギ12世 せい (英語 えいご 版 ばん ) は無条件 むじょうけん で自国 じこく をロシアの保護 ほご に委 ゆだ ねることを決 けっ し、1800年 ねん 12月に死去 しきょ した[38] 。
1801年 ねん 1月 がつ 、ロシア皇帝 こうてい パーヴェル1世 せい はカルトリ・カヘティ王国 おうこく を廃 はい して東 ひがし グルジアの併合 へいごう を宣言 せんげん し、同年 どうねん 9月 がつ 、新帝 しんてい アレクサンドル1世 せい によって併合 へいごう が実行 じっこう に移 うつ された[38] 。カフカス総督 そうとく 府 ふ (英語 えいご 版 ばん ) をトビリシに設 もう け、グルジアはロシアの軍政 ぐんせい 長官 ちょうかん の支配 しはい 下 か に置 お かれた[49] [60] 。このとき、カルトリ・カヘティ各地 かくち では人民 じんみん の叛乱 はんらん が起 お こった[38] [49] 。カフカス総督 そうとく は、帝政 ていせい ロシアの他 ほか の植民 しょくみん 地 ち 総督 そうとく 以上 いじょう の権限 けんげん を有 ゆう し、グルジアには内地 ないち 同様 どうよう 、県 けん (グベールニヤ )を置 お いて県知事 けんちじ などには現地 げんち の有力 ゆうりょく 者 しゃ を充 あ てた[60] 。ロシア帝国 ていこく は19世紀 せいき 初頭 しょとう 、ザカフカス (南 みなみ カフカス)の強固 きょうこ な支配 しはい とペルシアの背後 はいご にあるイギリスへの対抗 たいこう のため、グルジア軍 ぐん 道 どう を建設 けんせつ した[61] (英 えい 露 ろ の抗 こう 争 そう は「グレート・ゲーム 」を参照 さんしょう )。
ロシアは1810年 ねん には西 にし グルジアのイメレティをも併合 へいごう し、グルジア主要 しゅよう 部 ぶ は総 そう じて簡単 かんたん にロシアの一部 いちぶ になってしまった[62] 。ロシアはまた、1828年 ねん にはアルメニア を併合 へいごう 、さらに同年 どうねん 、ペルシアとの戦争 せんそう の結果 けっか 、アゼルバイジャン北部 ほくぶ を支配 しはい 下 か に置 お き、1829年 ねん にはグルジアのグリア を併合 へいごう した[38] [62] 。グリアではロシア政府 せいふ によるジャガイモ の強制 きょうせい 栽培 さいばい に端 はし を発 はっ した1841年 ねん グリア反乱 はんらん (英語 えいご 版 ばん ) が起 お こっている。さらに、ミングレア(旧 きゅう サメネグロ)、スヴァネティ、アブハジアがそれぞれ1857年 ねん 、1858年 ねん 、1867年 ねん に完全 かんぜん にロシアの版図 はんと となった[38] 。
ロシア側 がわ からみれば、南 みなみ カフカスよりも北 きた カフカス のチェチェン人 じん 、レズギン人 じん などのイスラーム系 けい 山岳 さんがく 民族 みんぞく の方 ほう が強敵 きょうてき であった[62] [63] 。結局 けっきょく ロシアは、北 きた カフカスを戦場 せんじょう とするコーカサス戦争 せんそう (カフカス戦争 せんそう )に1816年 ねん から1861年 ねん まで、45年 ねん の歳月 さいげつ を費 つい やしている[62] 。この戦争 せんそう に対 たい し、グルジアの軍隊 ぐんたい と人々 ひとびと はロシア側 がわ で参加 さんか した[64] 。これについては、当時 とうじ のグルジア人 じん たちがロシア人 じん たちと共通 きょうつう の信仰 しんこう (キリスト教 きょう )を持 も っていたばかりでなく、彼 かれ らがロシア統治 とうち に積極 せっきょく 面 めん を感 かん じていたという指摘 してき がある[64] 。すなわち、ロシアへの併合 へいごう はムスリムの諸 しょ 勢力 せいりょく の攻勢 こうせい から自身 じしん を守 まも り、自 みずか らロシア政府 せいふ の主導 しゅどう するカフカスの再 さい キリスト教化 きょうか に参与 さんよ できたのである[44] 。
一方 いっぽう 、グルジア正教会 せいきょうかい は1811年 ねん 、ロシア正教会 せいきょうかい に吸収 きゅうしゅう され、その組織 そしき 的 てき 独立 どくりつ を失 うしな った[44] [46] 。グルジア教会 きょうかい のカトリコス (総 そう 主教 しゅきょう )は廃 はい され、代 か わりにロシアの宗務 しゅうむ 院 いん に属 ぞく する大 だい 主教 しゅきょう が置 お かれた[46] 。これは、ロシア教会 きょうかい とグルジア教会 きょうかい の間 あいだ には教義 きょうぎ 上 じょう の差異 さい がないとみなされたためであったが、後者 こうしゃ には長 なが い歴史 れきし を持 も つグルジア語 ご の文語 ぶんご と独特 どくとく の典礼 てんれい があり、その聖職 せいしょく 者 しゃ ・信者 しんじゃ にとってグルジア語 ご の禁止 きんし とロシア語 ご の強制 きょうせい は大 おお きな苦痛 くつう であった[44] 。
1856年 ねん のコーカサス
グルジア貴族 きぞく の中 なか にはロシアの帝都 ていと サンクトペテルブルク に留学 りゅうがく する者 もの が増 ふ え、ロシア経由 けいゆ でロマン主義 しゅぎ 文学 ぶんがく の影響 えいきょう を強 つよ く受 う ける者 もの も現 あらわ れた[65] 。また、開明 かいめい 的 てき なミハイル・セミョノヴィチ・ヴォロンツォフ 総督 そうとく 時代 じだい の1845年 ねん から1854年 ねん にかけては、グルジアの商業 しょうぎょう と貿易 ぼうえき が急速 きゅうそく に発展 はってん し、トビリシには劇場 げきじょう なども整備 せいび され、都市 とし 文化 ぶんか が開花 かいか した[38] [65] 。1861年 ねん にロシア皇帝 こうてい アレクサンドル2世 せい の発 はっ した農奴 のうど 解放 かいほう 令 れい はグルジアにも及 およ び、1864年 ねん 以降 いこう 、農奴 のうど 制 せい の下 した にいた農民 のうみん たちは自由 じゆう の身 み となり、従来 じゅうらい の家父長制 かふちょうせい 的 てき な慣行 かんこう は近代 きんだい 教育 きょういく の普及 ふきゅう とヨーロッパ からもたらされた諸 しょ 思想 しそう によって急速 きゅうそく に消 き え去 さ っていった[38] 。19世紀 せいき 後半 こうはん には、国民 こくみん 的 てき 作家 さっか として知 し られるイリア・チャヴチャヴァゼ 、アカキ・ツェレテリ 、ヴァジャ・プシャヴェラ という、現代 げんだい でも親 した しまれる三 さん 大 だい 文豪 ぶんごう が活躍 かつやく した[65] 。
1860年代 ねんだい 、トビリシには織物 おりもの 工場 こうじょう が設 もう けられ、1872年 ねん 、トビリシとポティ の間 あいだ の鉄道 てつどう が開通 かいつう した[38] [61] 。さらに、バトゥミ 、トビリシとアゼルバイジャンのバクー を結 むす ぶ鉄道 てつどう も敷設 ふせつ された[49] 。「ジョージアの鉄道 てつどう 」「グルジア鉄道 てつどう 」も参照 さんしょう 。黒海 こっかい とカスピ海 かすぴかい の沿岸 えんがん が結 むす ばれたことなどにより、鉱山 こうざん や工場 こうじょう 、農場 のうじょう などの諸 しょ 産業 さんぎょう が発展 はってん した。しかし、資本 しほん の多 おお くはロシア人 じん 、アルメニア人 じん 、西欧 せいおう 諸国 しょこく の人々 ひとびと の掌握 しょうあく するところとなり、グルジア人 じん には恩恵 おんけい が少 すく なく、多数 たすう の農民 のうみん と都市 とし 化 か ・工業 こうぎょう 化 か によって新 あら たに形成 けいせい された労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう の多 おお くはこれに不満 ふまん を抱 だ いた[38] 。1883年 ねん 、トビリシにザカフカス鉄道 てつどう 本部 ほんぶ が置 お かれ、グルジアはザカフカス地方 ちほう 全体 ぜんたい の鉄道 てつどう 輸送 ゆそう の要地 ようち となった[61] 。19世紀 せいき 末葉 まつよう にはアゼルバイジャンでバクー油田 ゆでん の開発 かいはつ が進 すす み、黒海 こっかい に面 めん したグルジアにはパイプライン が造 つく られた[61] 。
農奴 のうど は解放 かいほう されたものの私有地 しゆうち の約 やく 3分 ぶん の2が地主 じぬし の所有 しょゆう であり、教会 きょうかい 領 りょう も多 おお かったため、農民 のうみん の多 おお くは貧窮 ひんきゅう していた[61] 。また、皇帝 こうてい アレクサンドル2世 せい の暗殺 あんさつ 後 ご は反 はん ツァーリ 運動 うんどう に対 たい する締 し めつけが強 つよ くなり、1881年 ねん に即位 そくい したアレクサンドル3世 せい は計画 けいかく 的 てき なロシア化 か 政策 せいさく を打 う ち出 だ して少数 しょうすう 民族 みんぞく の同化 どうか 政策 せいさく を強制 きょうせい 的 てき に推 お し進 すす めた[38] [60] 。これに抗 こう して、様々 さまざま な農民 のうみん 運動 うんどう や民族 みんぞく 主義 しゅぎ 運動 うんどう が興起 こうき した[38] [60] 。
民族 みんぞく 再興 さいこう 運動 うんどう は、当初 とうしょ は文学 ぶんがく と社会 しゃかい 運動 うんどう を基本 きほん とするグループが力 ちから を持 も っていたが、やがて社会 しゃかい 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ を奉 ほう ずるグループが優勢 ゆうせい となり、ノエ・ジョルダニア やニコライ・チヘイゼ らのメンシェヴィキ がその受 う け皿 ざら になっていった[38] [42] 。彼 かれ らの活動 かつどう は、やがて1902年 ねん 春 はる のグリアでの農民 のうみん 運動 うんどう 「種 たね まきストライキ」へとつながった[66] 。また、1902年 ねん のバトゥミ でのストライキ は社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう の指導 しどう によるものであった[67] 。1903年 ねん 、トビリシでロシア社会民主労働党 しゃかいみんしゅろうどうとう カフカス連盟 れんめい が組織 そしき され、カフカス諸 しょ 都市 とし の労働 ろうどう 運動 うんどう は組織 そしき 化 か を一層 いっそう 強 つよ めた[66] 。1903年 ねん 7月 がつ にバクーとオデッサ で始 はじ まったゼネラル・ストライキ はトビリシやバトゥミにも波及 はきゅう した[66] 。
1904年 ねん 8月 がつ から9月 がつ にかけての日 にち 露 ろ 戦争 せんそう の遼 りょう 陽 ひ 会戦 かいせん でロシア陸軍 りくぐん が日本 にっぽん 陸軍 りくぐん に敗北 はいぼく したことは、ロシア帝国 ていこく 内 ない の労働 ろうどう 運動 うんどう ・農民 のうみん 運動 うんどう にも大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた。1904年 ねん 末 まつ 、グルジアではバクーやバトゥミの労働 ろうどう 運動 うんどう と結 むす びついて農民 のうみん 委員 いいん 会 かい が結成 けっせい され、広範 こうはん な騒擾 そうじょう 事件 じけん とゲリラ 戦 せん が展開 てんかい された[38] 。特 とく にグリア地方 ちほう の農民 のうみん 蜂起 ほうき は、ツァーリ政府 せいふ から地域 ちいき 権力 けんりょく を奪 うば い、地主 じぬし の所有 しょゆう する農地 のうち を占拠 せんきょ し、さらに武装 ぶそう 集団 しゅうだん を組織 そしき するに至 いた ったというもので、その様態 ようたい は「グリア共和 きょうわ 国 こく 」と呼 よ ばれるほどであった[38] [66] 。「マルクス主義 まるくすしゅぎ 者 しゃ が指導 しどう した世界 せかい 初 はつ の農民 のうみん 反乱 はんらん 」と評 ひょう されるこの動 うご きは全 ぜん グルジアに広 ひろ がり、これにはかつてのグルジア貴族 きぞく も参加 さんか した[66] 。この年 とし の一連 いちれん の反 はん 政府 せいふ 行動 こうどう はロシア第 だい 一 いち 革命 かくめい (1905年 ねん 革命 かくめい )と呼 よ ばれており、1905年 ねん 前半 ぜんはん 期 き を通 つう じて暴動 ぼうどう や反乱 はんらん が帝国 ていこく 全土 ぜんど に広 ひろ がった[68] 。トビリシやポティ、クタイシではストライキが起 お こり、トビリシとカルス では軍部 ぐんぶ の反乱 はんらん さえ起 お こっている[68] 。1905年 ねん はまた「自由 じゆう 主義 しゅぎ 者 しゃ の春 はる 」という状況 じょうきょう が生 う まれ、9月にはロシア帝国 ていこく 内 ない の革命 かくめい 派 は によってフランスのパリ で反 はん 政府 せいふ 党 とう ・革命 かくめい 党 とう 会議 かいぎ をひらかれた[69] 。そこにはグルジア革命 かくめい 的 てき 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 者 しゃ 連邦 れんぽう 派 は 党 とう も参加 さんか している[69] 。1906年 ねん 以降 いこう 、革命 かくめい 運動 うんどう は退潮 たいちょう していくが、グルジアにあってはメンシェヴィキ が一層 いっそう 広範 こうはん な支持 しじ を獲得 かくとく していった[66] 。
ロシア帝国 ていこく からの独立 どくりつ とソ連 それん への加盟 かめい 、ソ連 それん 時代 じだい [ 編集 へんしゅう ]
首都 しゅと トビリシでパレードする赤軍 せきぐん (1921年 ねん )
ロシア革命 かくめい 後 ご の1918年 ねん 5月26日 にち にグルジア民主 みんしゅ 共和 きょうわ 国 こく はロシアからの独立 どくりつ を宣言 せんげん するが、1921年 ねん に赤軍 せきぐん のグルジア侵攻 しんこう (英語 えいご 版 ばん ) によって首都 しゅと を制圧 せいあつ され、崩壊 ほうかい した。1922年 ねん 、グルジア問題 もんだい では、フィリップ・マハラゼ とブドゥ・ムディヴァニ らグルジアの穏健 おんけん 派 は 共産 きょうさん 主義 しゅぎ 政権 せいけん が失脚 しっきゃく し、ザカフカース社会 しゃかい 主義 しゅぎ 連邦 れんぽう ソビエト共和 きょうわ 国 こく の構成 こうせい 国 こく となり、ソビエト連邦 れんぽう に加盟 かめい した。1936年 ねん には直接 ちょくせつ のソ連邦 それんぽう 構成 こうせい 共和 きょうわ 国 こく (グルジア・ソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく )に昇格 しょうかく した。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん に一環 いっかん である独 どく ソ戦 せん では、ナチス・ドイツ軍 ぐん がグルジアに近 ちか い黒海 こっかい 北岸 ほくがん や北 きた コーカサスまで一時 いちじ 侵攻 しんこう した。
戦後 せんご 、ソ連 それん はアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく など西側 にしがわ 諸国 しょこく との冷戦 れいせん に入 はい り、ソビエト連邦 れんぽう の崩壊 ほうかい 直前 ちょくぜん まで民族 みんぞく 問題 もんだい が取 と り上 あ げられることはなかった。またヨシフ・スターリン の故郷 こきょう という側面 そくめん もあり、かつては共産 きょうさん 党員 とういん の割合 わりあい が最 もっと も高 たか かった。
ソ連 それん 崩壊 ほうかい 後 ご [ 編集 へんしゅう ]
1989年 ねん 、東西 とうざい 冷戦 れいせん が緩和 かんわ する一方 いっぽう でソ連 それん のペレストロイカ 路線 ろせん が行 い き詰 づ まりを見 み せると、ソ連 それん 地上 ちじょう 軍 ぐん が反 はん ソ運動 うんどう を弾圧 だんあつ したトビリシ事件 じけん を大 おお きな転機 てんき として、ソ連 それん 後期 こうき からは抑 おさ えられていた民族 みんぞく 的 てき な問題 もんだい が表面 ひょうめん 化 か した。1990年 ねん 11月、グルジア・ソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく はグルジア共和 きょうわ 国 こく に改名 かいめい され、1991年 ねん 4月 がつ 9日 にち に独立 どくりつ 宣言 せんげん を行 おこな い、5月にはズヴィアド・ガムサフルディア が大統領 だいとうりょう に選出 せんしゅつ 。これは同年 どうねん 12月 がつ 25日 にち 付 づけ でのソ連邦 それんぽう 解体 かいたい により実効 じっこう 性 せい を持 も ったものの、独立 どくりつ 後 ご も多 おお くの閣僚 かくりょう はソ連 それん 旧 きゅう 共産 きょうさん 党員 とういん であったことや強権 きょうけん 的 てき な統治 とうち が行 おこな われたために、政局 せいきょく 不安 ふあん は改善 かいぜん されず治安 ちあん も悪化 あっか し内戦 ないせん 状態 じょうたい に至 いた った。その後 ご 、アブハジア (アブハジア紛争 ふんそう 、アブハジア戦争 せんそう (英語 えいご 版 ばん ) )や南 みなみ オセチア (南 みなみ オセチア紛争 ふんそう (2008年 ねん ) )やアジャリア自治 じち 共和 きょうわ 国 こく (en:2004 Adjara crisis ) で分離 ぶんり 独立 どくりつ 運動 うんどう が起 お き、現在 げんざい は南 みなみ オセチアとアブハジアが事実 じじつ 上 じょう の独立 どくりつ 状態 じょうたい となっている(アジャリア自治 じち 共和 きょうわ 国 こく は2004年 ねん にジョージア中央 ちゅうおう 政府 せいふ の支配 しはい 下 か に置 お かれて自治 じち 権 けん 剥奪 はくだつ )。
1991年 ねん 11月22日 にち 、グルジア国家 こっか 警備 けいび 隊 たい がクーデター を起 お こし、政府 せいふ 軍 ぐん と交戦 こうせん [70] 。1992年 ねん 1月 がつ 6日 にち 、ズヴィアド・ガムサフルディア 大統領 だいとうりょう は首都 しゅと トビリシを脱出 だっしゅつ し[70] 、代 か わって軍事 ぐんじ 評議 ひょうぎ 会 かい がグルジアを統治 とうち した。その後 ご 、軍事 ぐんじ 評議 ひょうぎ 会 かい の招 まね きによりエドゥアルド・シェワルナゼ 元 もと ソ連 それん 外相 がいしょう が帰国 きこく し、同年 どうねん 3月 がつ 10日 とおか に国家 こっか 評議 ひょうぎ 会 かい が創設 そうせつ されると、シェワルナゼが議長 ぎちょう に選出 せんしゅつ された[70] 。同年 どうねん 10月 がつ 11日 にち 、最高 さいこう 会議 かいぎ 議長 ぎちょう の直接 ちょくせつ 選挙 せんきょ が実施 じっし され、シェワルナゼが96%の得票 とくひょう により当選 とうせん [71] 。10月17日 にち 、国家 こっか 評議 ひょうぎ 会 かい は自主 じしゅ 解散 かいさん し、統治 とうち 機能 きのう は最高 さいこう 会議 かいぎ に引 ひ き継 つ がれることとなった[72] 。1992年 ねん 7月 がつ 31日 にち 、国際 こくさい 連合 れんごう に加盟 かめい した。その後 ご は2003年 ねん まで、シェワルナゼが最高 さいこう 権力 けんりょく 者 しゃ であった。
2003年 ねん 11月2日 にち の議会 ぎかい 選挙 せんきょ の開票 かいひょう には出口 いでぐち 調査 ちょうさ などによって不正 ふせい の疑惑 ぎわく が指摘 してき され、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく が非難 ひなん を表明 ひょうめい していたが、11月22日 にち になって、選挙 せんきょ に基 もとづ く新 あたら しい議会 ぎかい が召集 しょうしゅう された。これに対 たい し、反対 はんたい 派 は の議員 ぎいん はボイコット した。議会 ぎかい 前 まえ には2万 まん 5,000人 にん の反対 はんたい 派 は 市民 しみん が集結 しゅうけつ していたが、開会 かいかい の辞 じ を読 よ み上 あ げられる最中 さいちゅう 、これらの市民 しみん は議場 ぎじょう に乱入 らんにゅう した。シェワルナゼ大統領 だいとうりょう は議会 ぎかい から逃亡 とうぼう し、11月23日 にち には大統領 だいとうりょう を辞任 じにん した。代 か わって、野党 やとう 「ブルジャナゼ・民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 者 しゃ 」の党首 とうしゅ であるニノ・ブルジャナゼ が暫定 ざんてい 大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん した。ブルジャナゼ暫定 ざんてい 大統領 だいとうりょう は、従来 じゅうらい の閣僚 かくりょう (ナルチェマシュヴィリ内相 ないしょう 、ジョルベナゼ国務相 こくむしょう 、ゴジャシュヴィリ財務 ざいむ 相 しょう 、メナガリシュヴィリ外相 がいしょう など)を一掃 いっそう した。
サアカシュヴィリ政権 せいけん [ 編集 へんしゅう ]
旧 きゅう 野党 やとう 勢力 せいりょく は、2004年 ねん 1月 がつ 4日 にち に行 おこな われた大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ では、野党 やとう 国民 こくみん 運動 うんどう のミヘイル・サアカシュヴィリ 党首 とうしゅ を統一 とういつ 候補 こうほ として擁立 ようりつ した。しかし、労働党 ろうどうとう のナテラシュヴィリ党首 とうしゅ が議会 ぎかい 選挙 せんきょ のやり直 なお しに反対 はんたい し、伝統 でんとう 主義 しゅぎ 者 しゃ 連盟 れんめい が離脱 りだつ を表明 ひょうめい するなどの動 うご きもあった。ロシア連邦 れんぽう を後 こう 盾 たて にアジャリア自治 じち 共和 きょうわ 国 こく を事実 じじつ 上 じょう 中央 ちゅうおう 政府 せいふ から独立 どくりつ して支配 しはい してきたアスラン・アバシゼ 最高 さいこう 会議 かいぎ 議長 ぎちょう が非常 ひじょう 事態 じたい 宣言 せんげん を発令 はつれい し、暫定 ざんてい 政権 せいけん に反対 はんたい するなどの動 うご きを見 み せた。結局 けっきょく 、大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ の結果 けっか はサアカシュヴィリの圧勝 あっしょう に終 お わった。これに反対 はんたい する野党 やとう 勢力 せいりょく も一転 いってん して選挙 せんきょ 結果 けっか を受 う け入 い れ、アバシゼ議長 ぎちょう は反対 はんたい し続 つづ けたが、5月には最終 さいしゅう 的 てき にロシアへ亡命 ぼうめい して一連 いちれん の混乱 こんらん も収拾 しゅうしゅう した。
3月28日 にち に議会 ぎかい 再 さい 選挙 せんきょ が行 おこな われた。結果 けっか は、国民 こくみん 運動 うんどう が得票 とくひょう 率 りつ 75%で大 だい 多数 たすう の議席 ぎせき を獲得 かくとく し最大 さいだい 与党 よとう に躍進 やくしん した。一方 いっぽう 、その他 た に議席 ぎせき 獲得 かくとく に必要 ひつよう な7%の得票 とくひょう 率 りつ を超 こ えられたのは新 しん 右派 うは と産業 さんぎょう 党 とう が連合 れんごう して結成 けっせい された右派 うは 野党 やとう だけであった。今回 こんかい の選挙 せんきょ は独立 どくりつ 後 ご のグルジアで最 もっと も自由 じゆう な選挙 せんきょ のうちの一 ひと つだったと考 かんが えられる。
2007年 ねん 11月に与党 よとう サアカシュヴィリ政権 せいけん に対 たい する野党 やとう デモの鎮圧 ちんあつ を期 き にグルジア全土 ぜんど で非常 ひじょう 事態 じたい 宣言 せんげん が発令 はつれい されるなど政情 せいじょう 不安 ふあん は続 つづ き、これに対 たい するサアカシュヴィリ政権 せいけん の強硬 きょうこう 政策 せいさく はグルジアにおける民主 みんしゅ 主義 しゅぎ の後退 こうたい を位置 いち づけるものとなった。
ロシア-グルジア戦争 せんそう [ 編集 へんしゅう ]
南 みなみ オセチア紛争 ふんそう (2008年 ねん )
2008年 ねん 8月 がつ 、南 みなみ オセチア州 しゅう を巡 めぐ りグルジアとロシアの間 あいだ において紛争 ふんそう が勃発 ぼっぱつ した。
この紛争 ふんそう によってサアカシュヴィリの権力 けんりょく は強 つよ まると思 おも われたが、逆 ぎゃく に多 おお くの戦死 せんし 者 しゃ を出 だ して批判 ひはん され、のちに紛争 ふんそう を「グルジアから仕掛 しか けた」と発言 はつげん するに及 およ び、彼 かれ の求心力 きゅうしんりょく は弱 よわ まっている。
2009年 ねん 4月 がつ 9日 にち 、首都 しゅと トビリシで、サアカシュヴィリ大統領 だいとうりょう に辞任 じにん を要求 ようきゅう する大 だい 規模 きぼ な反 はん 政府 せいふ 集会 しゅうかい が議会 ぎかい 前 ぜん 広場 ひろば で主要 しゅよう 野党 やとう (民主 みんしゅ 運動 うんどう ・統一 とういつ グルジアなど)によって開 ひら かれた。その集会 しゅうかい には、6万 まん 人 にん に上 のぼ る市民 しみん が集結 しゅうけつ した。要求 ようきゅう の背景 はいけい は、大統領 だいとうりょう の権力 けんりょく 集中 しゅうちゅう への批判 ひはん とロシアとの軍事 ぐんじ 衝突 しょうとつ を回避 かいひ できなかった責任 せきにん の追及 ついきゅう などが挙 あ げられている。なお、グルジアが求 もと めていた北大西洋 きたたいせいよう 条約 じょうやく 機構 きこう (NATO)加盟 かめい は現在 げんざい 棚上 たなあ げされている。
2009年 ねん 5月5日 にち に軍部 ぐんぶ によるクーデター未遂 みすい 事件 じけん が発生 はっせい し、グルジア軍 ぐん の高級 こうきゅう 将校 しょうこう ら数 すう 人 にん が拘束 こうそく された。グルジアはクーデター勢力 せいりょく がロシアの支援 しえん を受 う けていたと非難 ひなん している。
サアカシュヴィリ政権 せいけん の終焉 しゅうえん とマルグヴェラシヴィリ政権 せいけん [ 編集 へんしゅう ]
2012年 ねん 10月 の選挙 せんきょ の結果 けっか 、ロシアとの関係 かんけい 改善 かいぜん を目指 めざ す野党 やとう 連合 れんごう 「グルジアの夢 ゆめ –民主 みんしゅ 主義 しゅぎ グルジア 」が勝利 しょうり し、同 どう 連合 れんごう 代表 だいひょう で実業 じつぎょう 家 か のビジナ・イヴァニシヴィリ が首相 しゅしょう に指名 しめい された。そして、2013年 ねん 10月 がつ 27日 にち に行 おこな われた大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ で、「グルジアの夢 ゆめ 」が推薦 すいせん したギオルギ・マルグヴェラシヴィリ 候補 こうほ が圧勝 あっしょう し、サアカシュヴィリ大統領 だいとうりょう の後継 こうけい 者 しゃ のダヴィト・バクラゼ 候補 こうほ は惨敗 ざんぱい した[73] 。
これにより、強固 きょうこ な反 はん 露 ろ ・親 おや 欧米 おうべい 政策 せいさく を推 お し進 すす めてきたサアカシュヴィリ体制 たいせい は終焉 しゅうえん を迎 むか えたが、欧州 おうしゅう 連合 れんごう (EU)加盟 かめい を目指 めざ す方向 ほうこう 性 せい は変 か わっておらず、2014年 ねん 6月27日 にち 、EUと連合 れんごう 協定 きょうてい を締結 ていけつ し[74] [75] [76] 、2016年 ねん 7月 がつ 1日 にち 、正式 せいしき に連合 れんごう 協定 きょうてい を発効 はっこう した[77] 。
2018年 ねん にはフランス 生 う まれの元 もと フランス外務省 がいむしょう 職員 しょくいん で元 もと はサアカシュヴィリの盟友 めいゆう で同 どう 政権 せいけん で外相 がいしょう を務 つと めたサロメ・ズラビシュヴィリ が無所属 むしょぞく で大統領 だいとうりょう に選出 せんしゅつ された。ウクライナ戦争 せんそう 以降 いこう 、西側 にしがわ 諸国 しょこく と歩調 ほちょう を合 あ わせて対 たい 露 ろ 強硬 きょうこう 路線 ろせん を求 もと める親 おや 欧米 おうべい 派 は のズラビシュヴィリ大統領 だいとうりょう に対 たい して対 たい 露 ろ 制裁 せいさい に不参加 ふさんか と中立 ちゅうりつ 的 てき 立場 たちば を貫 つらぬ く与党 よとう との対立 たいりつ を引 ひ き起 お こしているが、大統領 だいとうりょう 職 しょく は名誉 めいよ 職 しょく に過 す ぎず政治 せいじ 的 てき な実権 じっけん は無 な く現 げん 政権 せいけん はサアカシュヴィリ政権 せいけん の終焉 しゅうえん 以来 いらい 続 つづ いている中立 ちゅうりつ 姿勢 しせい を堅持 けんじ している。
4世紀 せいき - キリスト教 きりすときょう を国教 こっきょう 化 か 。
6世紀 せいき - 10世紀 せいき サーサーン朝 あさ ペルシア帝国 ていこく 、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 、イスラム帝国 ていこく (アラブ人 じん )の支配 しはい 下 か となる。
11世紀 せいき - バグラト朝 あさ (英語 えいご 版 ばん ) 成立 せいりつ 。
13世紀 せいき - 14世紀 せいき タタール 、ティムール による侵攻 しんこう 。
16世紀 せいき - 18世紀 せいき 西部 せいぶ がオスマン帝国 ていこく 、東部 とうぶ はサファヴィー朝 あさ ペルシアの支配 しはい 下 か となる。
1783年 ねん - ギオルギエフスク条約 じょうやく (英語 えいご 版 ばん ) によりグルジア東部 とうぶ はロシア帝国 ていこく の保護 ほご 領 りょう となる。
1801年 ねん - ロシア帝国 ていこく 、グルジア東部 とうぶ を併合 へいごう 。ロシアはその後 ご 、併合 へいごう を繰 く り返 かえ していく。
1878年 ねん - 露 ろ 土 ど 戦争 せんそう の結果 けっか 、アジャリアがロシア帝国 ていこく に併合 へいごう 。現在 げんざい のグルジアにあたる領域 りょういき がすべてロシア帝国 ていこく の版図 はんと に入 はい る。
1918年 ねん 5月 - 前年 ぜんねん のロシア革命 かくめい を受 う けグルジア独立 どくりつ 宣言 せんげん (グルジア民主 みんしゅ 共和 きょうわ 国 こく )。
1922年 ねん - アルメニア 、アゼルバイジャン とともにザカフカース・ソビエト連邦 れんぽう 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく を形成 けいせい 、ソビエト連邦 れんぽう に加盟 かめい 。
1936年 ねん - スターリン憲法 けんぽう により、独立 どくりつ した連邦 れんぽう 構成 こうせい 共和 きょうわ 国 こく となる。
1989年 ねん 8月 がつ - 南 みなみ オセチア紛争 ふんそう 始 はじ まる。
1990年 ねん 8月 がつ - アブハジア紛争 ふんそう 始 はじ まる。
1991年 ねん 4月 がつ 9日 にち - 独立 どくりつ 宣言 せんげん [4] 。ソビエト連邦 れんぽう の崩壊 ほうかい により12月に独立 どくりつ 。
1992年 ねん
1月 がつ - ズヴィアド・ガムサフルディア 大統領 だいとうりょう が失脚 しっきゃく 。
3月 - エドゥアルド・シェワルナゼ が国家 こっか 評議 ひょうぎ 会 かい 議長 ぎちょう に就任 しゅうにん 。
10月 - エドゥアルド・シェワルナゼが最高 さいこう 会議 かいぎ 議長 ぎちょう に就任 しゅうにん 。
1995年 ねん 11月 - エドゥアルド・シェワルナゼが大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん 。
2000年 ねん 4月 がつ - エドゥアルド・シェワルナゼ大統領 だいとうりょう 再選 さいせん 。
2002年 ねん 8月 がつ - チェチェン共和国 ちぇちぇんきょうわこく 武装 ぶそう 勢力 せいりょく に加 くわ わっていた日本人 にっぽんじん 義勇 ぎゆう 兵 へい (元 もと 自衛隊 じえいたい 員 いん )がグルジア領内 りょうない で拘束 こうそく されたとの報道 ほうどう 。
2003年 ねん 11月23日 にち - バラ革命 かくめい 、エドゥアルド・シェワルナゼ大統領 だいとうりょう が辞任 じにん 、ニノ・ブルジャナゼ 暫定 ざんてい 政権 せいけん 発足 ほっそく 。
2004年 ねん
1月 がつ 4日 にち - 大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ を実施 じっし 、ミヘイル・サアカシュヴィリ が圧勝 あっしょう 。
1月 がつ 25日 にち - ミヘイル・サアカシュヴィリが大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん 。
2006年 ねん
3月27日 にち - ロシア政府 せいふ 、グルジア産 さん ワインの輸入 ゆにゅう 禁止 きんし を表明 ひょうめい 、親 おや 欧米 おうべい 色 しょく を強 つよ めるグルジア政府 せいふ に対 たい する圧力 あつりょく ともいわれる。
5月23日 にち - ウクライナ の首都 しゅと キーウ (キエフ)においてGUAM の設立 せつりつ が宣言 せんげん され、グルジアも加盟 かめい を表明 ひょうめい 。
7月 がつ 13日 にち - ロシアを通過 つうか せずに旧 きゅう ソ連 それん 圏 けん 産 さん の石油 せきゆ を輸出 ゆしゅつ することが可能 かのう で、グルジア領内 りょうない も通過 つうか するBTCパイプライン 開通 かいつう 。
7月 がつ 25日 にち - グルジア軍 ぐん が、独立 どくりつ を主張 しゅちょう しているアブハジア に軍事 ぐんじ 攻撃 こうげき を仕掛 しか ける。アブハジア側 がわ とグルジア側 がわ にまたがるコドリ渓谷 けいこく での26日 にち までの戦闘 せんとう で、現地 げんち を支配 しはい していたアブハジア系 けい 民兵 みんぺい を追 お い出 だ した。グルジア側 がわ は、この戦闘 せんとう で攻撃 こうげき ヘリ数 すう 機 き 、兵員 へいいん 輸送 ゆそう トラック34台 だい 、戦闘 せんとう 用 よう 車両 しゃりょう 18台 だい を投入 とうにゅう した。この戦闘 せんとう で民間 みんかん 人 じん 1人 にん が死亡 しぼう 、数 すう 人 にん が負傷 ふしょう 、民兵 みんぺい 25人 にん が捕虜 ほりょ となった。
9月27日 にち - グルジア治安 ちあん 当局 とうきょく が、スパイ行為 こうい を行 おこな ったとしてロシア軍 ぐん 将校 しょうこう ら十 じゅう 数 すう 人 にん を拘束 こうそく 。ロシア外務省 がいむしょう は28日 にち 、抗議 こうぎ のため駐 ちゅう グルジア大使 たいし を召還 しょうかん 。
10月13日 にち - 国連 こくれん 安保理 あんぽり 、アブハジアに対 たい する「グルジア政府 せいふ の挑発 ちょうはつ 的 てき 行動 こうどう 」を非難 ひなん する決議 けつぎ 1716[1] を採択 さいたく 。
2007年 ねん
8月 がつ 7日 にち - グルジア北部 ほくぶ で国籍 こくせき 不明 ふめい の軍用 ぐんよう 機 き がミサイルを投下 とうか 。グルジア政府 せいふ は「ロシアの恫喝 どうかつ 」と非難 ひなん するが、「自作 じさく 自演 じえん 」ともいわれる。以前 いぜん にも「グルジア領内 りょうない への空爆 くうばく 」を自作 じさく 自演 じえん した疑惑 ぎわく [2] が存在 そんざい する。
9月27日 にち - 以前 いぜん からタカ派 は として国民 こくみん からの人気 にんき が高 たか かったイラクリ・オクルアシヴィリ 元 もと 国防 こくぼう 相 しょう が拘束 こうそく される。大統領 だいとうりょう から反 はん 政府 せいふ 的 てき とされるビジネスマンの殺害 さつがい を命 めい じられたと「告白 こくはく 」したことが原因 げんいん とみられている。28日 にち には元 もと 国防 こくぼう 相 しょう の身柄 みがら 拘束 こうそく に反対 はんたい するデモがトビリシで行 おこな われる。この件 けん 以降 いこう 、グルジア各地 かくち での反 はん 政府 せいふ デモが活発 かっぱつ 化 か 。
11月1日 にち - サアカシュヴィリ大統領 だいとうりょう の辞任 じにん や議会 ぎかい 選挙 せんきょ の前倒 まえだお しなどを求 もと めるデモがトビリシなどで行 おこな われる。7日 にち に武力 ぶりょく 鎮圧 ちんあつ されるまで、グルジア各地 かくち で断続 だんぞく 的 てき にデモが発生 はっせい 。
11月7日 にち - サアカシュヴィリ大統領 だいとうりょう 、非常 ひじょう 事態 じたい 宣言 せんげん 発令 はつれい 。当初 とうしょ は2週間 しゅうかん ほど継続 けいぞく される予定 よてい だったが、16日 にち に解除 かいじょ 。
11月14日 にち - グルジア政府 せいふ が、反 はん 政府 せいふ 的 てき 報道 ほうどう を行 おこな ったとして野党 やとう 系 けい テレビ局 てれびきょく 「Imedi 」の放送 ほうそう 免許 めんきょ を停止 ていし 。同局 どうきょく は11月7日 にち 、グルジア政府 せいふ 特殊 とくしゅ 部隊 ぶたい の強襲 きょうしゅう を受 う け、スタジオ・放送 ほうそう 機材 きざい などを破壊 はかい されていた。免許 めんきょ 停止 ていし 自体 じたい は12月5日 にち に解除 かいじょ されるが、放送 ほうそう 再開 さいかい には時間 じかん がかかるとの見方 みかた もある。
11月25日 にち - サアカシュヴィリ大統領 だいとうりょう が、野党 やとう 側 がわ が求 もと めていた議会 ぎかい 選 せん の前倒 まえだお しを拒否 きょひ 。代 か わりに大統領 だいとうりょう 選 せん の前倒 まえだお しを行 おこな うことを表明 ひょうめい し、立候補 りっこうほ のため大統領 だいとうりょう 職 しょく を辞任 じにん 。大統領 だいとうりょう 選 せん は1月 がつ 5日 にち と決 き まるも、同日 どうじつ 国会 こっかい 前 まえ では数 すう 万 まん 人 にん が参加 さんか するデモが発生 はっせい 。11月7日 にち の衝突 しょうとつ 以降 いこう 、初 はつ の大 だい 規模 きぼ デモとなる。
11月27日 にち - 事実 じじつ 上 じょう の国外 こくがい 追放 ついほう 処分 しょぶん を受 う けドイツ に滞在 たいざい していたオクルアシヴィリ元 もと 国防 こくぼう 相 しょう が、ドイツ検察 けんさつ 当局 とうきょく に拘束 こうそく される。
2008年 ねん
8月 がつ 8日 にち - 事実 じじつ 上 じょう の独立 どくりつ 状態 じょうたい にあった南 みなみ オセチア に侵攻 しんこう 。平和 へいわ 維持 いじ 軍 ぐん として駐留 ちゅうりゅう していたロシア軍 ぐん に攻撃 こうげき を加 くわ え、ロシアと戦闘 せんとう 状態 じょうたい に入 はい る(南 みなみ オセチア紛争 ふんそう (2008年 ねん ) も参照 さんしょう )。
8月 がつ 10日 とおか - 南 みなみ オセチアから軍 ぐん が退却 たいきゃく 。
8月 がつ 12日 にち - 独立 どくりつ 国家 こっか 共同 きょうどう 体 たい (CIS)より脱退 だったい を発表 はっぴょう 。
8月 がつ 29日 にち - ロシアと断交 だんこう 。
ズラビシュヴィリ 大統領 だいとうりょう
ガリバシヴィリ 首相 しゅしょう
ジョージアは共和 きょうわ 制 せい 国家 こっか であるが、1995年 ねん 12月8日 にち から2004年 ねん 2月 がつ 17日 にち までの間 あいだ 、首相 しゅしょう の規定 きてい はなく大統領 だいとうりょう が政府 せいふ を組織 そしき していた。ただし、首相 しゅしょう 職 しょく に相当 そうとう するものとして国務大臣 こくむだいじん が設置 せっち されていた。
国家 こっか 元首 げんしゅ は大統領 だいとうりょう で、任期 にんき は5年 ねん となっている。大統領 だいとうりょう は首相 しゅしょう その他 た の大臣 だいじん の任命 にんめい ・指名 しめい に関 かん して議会 ぎかい の同意 どうい を得 え る必要 ひつよう がある。
2010年 ねん に憲法 けんぽう 改正 かいせい が行 おこな われ、2013年 ねん 10月 がつ より大統領 だいとうりょう ではなく首相 しゅしょう が権限 けんげん を握 にぎ る議院 ぎいん 内 ない 閣 かく 制 せい に移行 いこう した。
ジョージア議会 ぎかい は一院制 いちいんせい で、任期 にんき 4年 ねん (定数 ていすう 235名 めい )。その内 うち 、150議席 ぎせき が比例 ひれい 代表 だいひょう 制 せい で、85議席 ぎせき が小 しょう 選挙 せんきょ 区 く 制 せい である。2012年 ねん からは議会 ぎかい が行政 ぎょうせい 官庁 かんちょう が集中 しゅうちゅう する首都 しゅと トビリシではなく西部 せいぶ の古都 こと クタイシ に置 お かれていたが、2019年 ねん に再度 さいど トビリシに戻 もど された。
州 しゅう 知事 ちじ と大都市 だいとし の市長 しちょう は、大統領 だいとうりょう による任命 にんめい 制 せい である。
複数 ふくすう 政党 せいとう 制 せい であり、独立 どくりつ 後 ご から多 おお くの政党 せいとう の存在 そんざい が認 みと められている。
同国 どうこく には最高裁判所 さいこうさいばんしょ と憲法 けんぽう 裁判所 さいばんしょ があり、憲法 けんぽう 裁判所 さいばんしょ には大統領 だいとうりょう の推薦 すいせん に基 もと づき議会 ぎかい によって選出 せんしゅつ された裁判官 さいばんかん が存在 そんざい する。
独立 どくりつ およびソ連 それん 解体 かいたい 以降 いこう 、ジョージアは一貫 いっかん して隣国 りんごく ロシアと距離 きょり を置 お き、欧米 おうべい との関係 かんけい 強化 きょうか を打 う ち出 だ してきた。この路線 ろせん は2004年 ねん に成立 せいりつ したサアカシュヴィリ政権 せいけん 下 した で一層 いっそう に高 たか まり、軍事 ぐんじ 的 てき には2008年 ねん の北大西洋 きたたいせいよう 条約 じょうやく 機構 きこう (NATO)と欧州 おうしゅう 連合 れんごう (EU)への加盟 かめい 推進 すいしん 、ロシア語 ご からグルジア語 ご への言語 げんご 変更 へんこう の推進 すいしん と英語 えいご 教育 きょういく の義務 ぎむ 化 か 、ソ連 それん 時代 じだい のみならずロシア帝国 ていこく 時代 じだい にまで遡 さかのぼ っての「抗 こう 露 ろ 運動 うんどう の歴史 れきし 」を教 おし える記念 きねん 館 かん の建設 けんせつ 、同 おな じ路線 ろせん をとるウクライナ 、ポーランド 、バルト三 さん 国 こく との連携 れんけい など、強硬 きょうこう な反 はん 露 ろ と親米 しんべい ・親 おや 欧 おう ・親 おや イスラエル 路線 ろせん 、そして民族 みんぞく 主義 しゅぎ を高揚 こうよう させる路線 ろせん を歩 あゆ んできている。また対 たい 露 ろ 強硬 きょうこう 派 は で知 し られるアメリカのネオコン との協力 きょうりょく も深 ふか めているとされる。実際 じっさい 、ネオコンに近 ちか いとされるアメリカ人 じん ランディ・シェーネマン(Randy Scheunemann)は、サアカシュヴィリの外交 がいこう 顧問 こもん を務 つと めていた。またサアカシュヴィリ政権 せいけん は、ロシア軍 ぐん に対抗 たいこう するべく、それまでのロシア製 せい 兵器 へいき から欧米 おうべい 製 せい 兵器 へいき への更新 こうしん による近代 きんだい 化 か 、アメリカ軍 ぐん やイスラエル国防 こくぼう 軍 ぐん との共同 きょうどう 軍事 ぐんじ 訓練 くんれん を行 おこな うなど、大幅 おおはば な軍拡 ぐんかく を進 すす めていたが、軍事 ぐんじ 評論 ひょうろん 家 か の江畑 えはた 謙介 けんすけ は、予算 よさん に無理 むり のある計画 けいかく だと評 ひょう している[78] 。
一方 いっぽう 、ロシアにとってジョージアはカスピ海 かすぴかい 産 さん 原油 げんゆ パイプラインの存在 そんざい など、中央 ちゅうおう アジア の原油 げんゆ を確保 かくほ するうえで密接 みっせつ な関 かか わりがあり、南 みなみ の玄関 げんかん 口 こう である黒海 こっかい へ連 つら なる要衝 ようしょう に位置 いち する重要 じゅうよう な国家 こっか と位置 いち づけている。またチェチェン との対立 たいりつ を抱 かか えるロシアにとって、チェチェンの周辺 しゅうへん 国 こく の一角 いっかく を成 な すジョージアと手 て を結 むす ぶことは、ロシア南部 なんぶ における安全 あんぜん 保障 ほしょう の観点 かんてん からも非常 ひじょう に有効 ゆうこう と見 み ていた。
こうした流 なが れに加 くわ えて、ジョージア国内 こくない の民族 みんぞく 問題 もんだい も両国 りょうこく の対立 たいりつ に拍車 はくしゃ をかけている。コーカサス地方 ちほう は古 ふる くから多数 たすう の民族 みんぞく が入 い り乱 みだ れる不安定 ふあんてい な地域 ちいき であり、近代 きんだい に成立 せいりつ したにすぎないジョージア人 じん という民族 みんぞく 意識 いしき はいまだ不安定 ふあんてい で、ジョージア国民 こくみん の間 あいだ でも地方 ちほう 対立 たいりつ が絶 た えない状況 じょうきょう 下 か にある。最大 さいだい 勢力 せいりょく であるジョージア人 じん (カルトヴェリ人 じん )の中 なか でもミングレリア人 じん (ミングレリア)、スヴァン人 じん (スヴァネティ )、ラズ人 じん やアジャリア人 じん (アジャリア )は民族 みんぞく 意識 いしき が強 つよ くあり、ジョージア人 じん とは区別 くべつ する場合 ばあい もある。
また、カルトヴェリ人 じん とはまったく異 こと なる北西 ほくせい コーカサス語族 ごぞく 系 けい のアブハズ人 じん (アブハジア )、イラン系 けい 民族 みんぞく のオセット人 じん (南 みなみ オセチア )、アルメニア人 じん (ジャワヘティア )、アゼルバイジャン人 じん 、チェチェン人 じん など多数 たすう の非 ひ ジョージア民族 みんぞく を国内 こくない に抱 かか えている[79] 。ジョージア政府 せいふ の反 はん 露 ろ 政策 せいさく はカルトヴェリ人 じん 民族 みんぞく 主義 しゅぎ と密接 みっせつ に結 むす びついており[80] 、これらの地方 ちほう 民族 みんぞく への弾圧 だんあつ が強 つよ まっている[81] 。これらの国 くに の中 なか には、言語 げんご の保護 ほご など多 た 民族 みんぞく 共生 きょうせい の向 む きが強 つよ いロシアの庇護 ひご を受 う けることで自民 じみん 族 ぞく の文化 ぶんか を守 まも ろうとする動 うご きがあり、ロシアもジョージアへの牽制 けんせい から積極 せっきょく 的 てき に支援 しえん する立場 たちば にある。とりわけ南 みなみ オセチアでは、北 きた オセチアを統治 とうち するロシアへの併合 へいごう を求 もと める運動 うんどう が活発 かっぱつ 化 か している(ただしロシア政府 せいふ は国家 こっか 承認 しょうにん はしつつも、併合 へいごう は望 のぞ まないとしている)。対 たい するジョージアは自民 じみん 族 ぞく 中心 ちゅうしん 主義 しゅぎ (エスノセントリズム )・反 はん ロシア路線 ろせん の双方 そうほう から一連 いちれん の動 うご きに激 はげ しく反発 はんぱつ した。
2006年 ねん 9月 がつ 27日 にち ・28日 にち には、ジョージア国内 こくない に駐在 ちゅうざい していたロシア軍 ぐん 将校 しょうこう 6名 めい が、ジョージア軍 ぐん によりスパイ容疑 ようぎ で拘束 こうそく された。ロシア政府 せいふ が抗議 こうぎ としてジョージアに対 たい するビザ発給 はっきゅう 停止 ていし や国境 こっきょう 線 せん の封鎖 ふうさ などの報復 ほうふく をとる事態 じたい が発生 はっせい している。さらに2008年 ねん には、ジョージア軍 ぐん が南 みなみ オセチアに展開 てんかい するロシア軍 ぐん 主体 しゅたい の停戦 ていせん 監視 かんし 部隊 ぶたい に攻撃 こうげき を仕掛 しか け、兵器 へいき を強奪 ごうだつ する行為 こうい を起 お こした。ジョージア政府 せいふ は「ロシア軍 ぐん の停戦 ていせん 部隊 ぶたい は独立 どくりつ 派 は を支援 しえん しており公平 こうへい ではなく、EU部隊 ぶたい との交代 こうたい を行 おこな うべき」と発言 はつげん しているが、ロシア軍 ぐん 駐留 ちゅうりゅう に関 かん しては当 とう のEU側 がわ も賛同 さんどう する意向 いこう を示 しめ している。
南 みなみ オセチア紛争 ふんそう [ 編集 へんしゅう ]
2008年 ねん 8月 がつ 7日 にち 、ジョージア政府 せいふ は南 みなみ オセチア自治 じち 政府 せいふ に対 たい して、自治 じち 権 けん を剥奪 はくだつ するとともに軍部 ぐんぶ 隊 たい を南 みなみ オセチアとアブハジア に侵攻 しんこう させ、同時 どうじ にオセット人 じん を虐殺 ぎゃくさつ した。しかし、南 みなみ オセチアとアブハジア側 がわ に立 た って参戦 さんせん したロシア軍 ぐん の前 まえ に、ジョージア軍 ぐん は一方 いっぽう 的 てき な敗北 はいぼく を喫 きっ し、8月 がつ 15日 にち に停戦 ていせん が決定 けってい した。
停戦 ていせん 後 ご 、ロシアはジョージア国内 こくない に駐屯 ちゅうとん しつつ、議会 ぎかい でアブハジアと南 みなみ オセチアの独立 どくりつ を承認 しょうにん する決議 けつぎ 案 あん を採択 さいたく 、メドヴェージェフ 大統領 だいとうりょう がこれを正式 せいしき に了承 りょうしょう した。ジョージア側 がわ はこれに抗議 こうぎ する形 かたち で8月 がつ 28日 にち 、議会 ぎかい にてロシアとの外交 がいこう 関係 かんけい を断絶 だんぜつ するよう求 もと める決議 けつぎ を全会 ぜんかい 一致 いっち で採択 さいたく した。8月29日 にち 、バシャゼ外務 がいむ 次官 じかん はロシアのアブハジア自治 じち 共和 きょうわ 国 こく と南 みなみ オセチア自治 じち 州 しゅう の独立 どくりつ 承認 しょうにん に対 たい し、ロシアとの外交 がいこう 関係 かんけい を断絶 だんぜつ すると発表 はっぴょう した。
2022年 ねん ロシアのウクライナ侵攻 しんこう [ 編集 へんしゅう ]
2022年 ねん ロシアのウクライナ侵攻 しんこう では、ジョージア世論 せろん でウクライナに同情 どうじょう 的 てき でロシアへの反感 はんかん が強 つよ まっているが、一方 いっぽう でジョージア政府 せいふ は対 たい ロシア経済 けいざい 制裁 せいさい には参加 さんか せず、経済 けいざい 制裁 せいさい やロシア政府 せいふ の言論 げんろん 統制 とうせい などを嫌 きら ってロシアから出国 しゅっこく する人々 ひとびと をビザ なしで受 う け入 い れている[82] 。こうしたロシアに融和 ゆうわ 的 てき な姿勢 しせい をとる与党 よとう グルジアの夢 ゆめ =民主 みんしゅ グルジア の創設 そうせつ 者 しゃ は、ロシア政府 せいふ と親 した しいオリガルヒ のビジナ・イヴァニシヴィリ で、現在 げんざい もジョージアの政治 せいじ に大 おお きな影響 えいきょう 力 りょく を持 も っている[83] 。
ロシア人 じん の流入 りゅうにゅう が続 つづ くなど、ロシアとの交流 こうりゅう が活発 かっぱつ になるにつれて、2000年 ねん 以来 いらい 取得 しゅとく が必須 ひっす であったロシアのビザが免除 めんじょ され、2019年 ねん 以来 いらい 運航 うんこう 停止 ていし していたロシアとの直行 ちょっこう 便 びん も2023年 ねん 5月 がつ に再開 さいかい している[84] 。これにはロシアとの直行 ちょっこう 便 びん を停止 ていし している西側 にしがわ 諸国 しょこく やサアカシュヴィリ政権 せいけん で外相 がいしょう を務 つと めたサロメ・ズラビシュヴィリ 大統領 だいとうりょう を中心 ちゅうしん とする親 おや 欧米 おうべい 派 は が強 つよ く反対 はんたい しておりデモなどが起 お きている。また、ジョージア軍団 ぐんだん に代表 だいひょう されるように一部 いちぶ のジョージア国民 こくみん は義勇 ぎゆう 兵 へい としてウクライナでの戦闘 せんとう に参加 さんか している。
日本 にっぽん との関係 かんけい [ 編集 へんしゅう ]
国家 こっか 安全 あんぜん 保障 ほしょう [ 編集 へんしゅう ]
現在 げんざい 、同国 どうこく 軍 ぐん は陸軍 りくぐん と特殊 とくしゅ 作戦 さくせん 軍 ぐん (英語 えいご 版 ばん ) 、国家 こっか 警備 けいび 隊 たい で構成 こうせい されている。
以前 いぜん は海軍 かいぐん 及 およ び空軍 くうぐん も存在 そんざい していたが、上述 じょうじゅつ の紛争 ふんそう によって壊滅 かいめつ した事 こと から国境 こっきょう 警察 けいさつ ならび沿岸 えんがん 警備 けいび 隊 たい と陸軍 りくぐん へ編入 へんにゅう される形 かたち で統合 とうごう している為 ため 、どちらも現存 げんそん しない。
ジョージア全土 ぜんど の地図 ちず
東 ひがし ヨーロッパ[5] [6] 、もしくは西 にし アジア に区分 くぶん される[85] 。独立 どくりつ 当初 とうしょ から一貫 いっかん して欧州 おうしゅう 連合 れんごう (EU)への加盟 かめい を志向 しこう しているのをはじめ、ヨーロッパオリンピック委員 いいん 会 かい (EOC)に加盟 かめい するなど、政治 せいじ やスポーツ関連 かんれん の国際 こくさい 組織 そしき では東 ひがし ヨーロッパに区分 くぶん されることが多 おお い。こうした事情 じじょう はトルコ やキプロス 、イスラエル などに近 ちか いものと言 い える。
アジアに区分 くぶん される事例 じれい としては、tz database で"Asia/Tbilisi"としてタイムゾーン(UTC+4 )が設定 せってい されているジョージア時間 じかん が挙 あ げられる。また、アジア開発銀行 あじあかいはつぎんこう には「地域 ちいき 内 ない メンバー」として加盟 かめい している[86] 。
地理 ちり 概況 がいきょう ・地勢 ちせい [ 編集 へんしゅう ]
東経 とうけい 40 - 47度 ど 、北緯 ほくい 41 - 44度 ど に位置 いち するジョージアは、コーカサス山脈 さんみゃく を中心 ちゅうしん に国土 こくど の大 だい 部分 ぶぶん が山岳 さんがく 地帯 ちたい である。最高峰 さいこうほう はシュハラ山 さん (標高 ひょうこう 5,201メートル)。200キロメートル離 はな れたカズベギ山 さん (標高 ひょうこう 5,074メートル)が第 だい 2の高山 こうざん で、唯一 ゆいいつ の火山 かざん である。この間 あいだ に2,100もの氷河 ひょうが がある。コーカサス山脈 さんみゃく に沿 そ ってロシア連邦 れんぽう と723キロメートルの国境 こっきょう を接 せっ し、クラスノダール地方 ちほう 、カラチャイ・チェルケス共和 きょうわ 国 こく 、カバルダ・バルカル共和 きょうわ 国 こく 、北オセチア共和国 きたおせちあきょうわこく 、イングーシ共和 きょうわ 国 こく 、チェチェン共和国 ちぇちぇんきょうわこく などロシアの民族 みんぞく 共和 きょうわ 国 こく と接 せっ する。そのためジョージアは古 ふる くから紛争 ふんそう の影響 えいきょう を受 う けやすく、アブハジア自治 じち 共和 きょうわ 国 こく 、南 みなみ オセチア自治 じち 州 しゅう 、パンキシ渓谷 けいこく など中央 ちゅうおう 政府 せいふ の支配 しはい 権 けん の及 およ ばない地域 ちいき がある(下表 かひょう 参照 さんしょう )。特 とく にチェチェン共和国 ちぇちぇんきょうわこく と接 せっ するパンキシ渓谷 けいこく は、チェチェン人 じん ゲリラの巣窟 そうくつ となり中央 ちゅうおう 政府 せいふ の統治 とうち が行 い き届 とど かない時期 じき も存在 そんざい した[87] 。
ジョージアは中部 ちゅうぶ のリヒ山脈 さんみゃく によって東西 とうざい に分 わ けられ、東部 とうぶ は歴史 れきし 的 てき にイベリア と呼 よ ばれた一方 いっぽう 、西部 せいぶ はコルキス と呼 よ ばれていた。また山脈 さんみゃく は、北部 ほくぶ 地域 ちいき のスヴァネティ を分 わ けている。またこれらの山脈 さんみゃく を源 みなもと としてリオニ川 がわ やクラ川 がわ (ムトゥクヴァリ)などの主要 しゅよう な河川 かせん がある。クラ川 がわ の源 みなもと 流域 りゅういき やチョロフ川 かわ の流 なが れる一帯 いったい が歴史 れきし 的 てき な西南 せいなん ジョージア(メスヘティ)であり、統一 とういつ 王朝 おうちょう 発祥 はっしょう の地 ち として知 し られる。クラ河岸 かわぎし に古都 こと ムツヘタ、現 げん 首都 しゅと トビリシなど、東 ひがし ジョージアの諸 しょ 都市 とし が発展 はってん した。
アブハジアにあるボロニア洞窟 どうくつ は世界 せかい で最 もっと も深 ふか く、深度 しんど 2,140メートルに達 たっ する。
スヴァネティはジョージア北西 ほくせい 部 ぶ に位置 いち する歴史 れきし 的 てき な地域 ちいき 名 めい である
山岳 さんがく 地帯 ちたい が多 おお いため、国土 こくど 面積 めんせき のわりに気候 きこう は多様 たよう である。標高 ひょうこう 5,000メートルを超 こ えるコーカサス山脈 さんみゃく がロシアからの寒気 さむけ 団 だん を遮断 しゃだん する役割 やくわり を担 にな っているため、国土 こくど の大半 たいはん は比較的 ひかくてき 温暖 おんだん で、ケッペンの気候 きこう 区分 くぶん の温暖 おんだん 湿潤 しつじゅん 気候 きこう に属 ぞく する(かつてのソ連邦 それんぽう 構成 こうせい 国 こく の中 なか では唯一 ゆいいつ 、柑橘類 かんきつるい を収穫 しゅうかく できた)。黒海 こっかい 沿岸 えんがん 部 ぶ は最 もっと も温暖 おんだん で、その気候 きこう を生 い かしたグルジアワインの生産 せいさん 地 ち として有名 ゆうめい である。山岳 さんがく 地帯 ちたい は多雨 たう 地帯 ちたい で、降水 こうすい 量 りょう は4,000ミリ以上 いじょう 、冬場 ふゆば の積雪 せきせつ は2メートルに達 たっ する。首都 しゅと トビリシなどが位置 いち する東部 とうぶ はより大陸 たいりく 性 せい 気候 きこう に近 ちか くなり、年間 ねんかん 降水 こうすい 量 りょう は400 - 1,600ミリ程度 ていど と、西部 せいぶ に比 くら べると比較的 ひかくてき 乾燥 かんそう していて、冬 ふゆ の寒 さむ さはより厳 きび しくなる。
各州 かくしゅう ・各 かく 共和 きょうわ 国 こく の概況 がいきょう [ 編集 へんしゅう ]
アブハジアと南 みなみ オセチアについては、内戦 ないせん の結果 けっか 、事実 じじつ 上 じょう ジョージアより独立 どくりつ しており、2015年 ねん 10月 がつ 時点 じてん で4か国 こく (ロシア連邦 れんぽう 、ベネズエラ 、ニカラグア 、ナウル )によってそれぞれ、主権 しゅけん 国家 こっか 「アブハジア共和 きょうわ 国 こく 」「南 みなみ オセチア共和 きょうわ 国 こく 」として承認 しょうにん されている[43] 。
政府 せいふ 名 めい
首都 しゅと
面積 めんせき
人口 じんこう
民族 みんぞく
宗教 しゅうきょう
2016年 ねん 現況 げんきょう
ジョージア
トビリシ
7.0万 まん km2
430.5万 まん 人 にん
—
アジャリア自治 じち 共和 きょうわ 国 こく
バトゥミ
2,900km2
39.3万 まん 人 にん
ジョージア人 じん (グルジア人 じん ) 93.4% (大 だい 部分 ぶぶん がイスラームを信仰 しんこう するアジャール人 じん )
ロシア人 じん 2.4%
アルメニア人 じん 2.3%
イスラーム
ジョージアの直轄 ちょっかつ 統治 とうち
アブハジア 自治 じち 共和 きょうわ 国 こく
スフミ
8,665km2
24.0万 まん 人 にん
アブハズ人 じん 50.7%
アルメニア人 じん 19.2%
ジョージア人 じん (グルジア人 じん ) 17.4%
ロシア人 じん 9.1%
キリスト教 きりすときょう 、スンナ派 は イスラーム
事実 じじつ 上 じょう ジョージアより独立 どくりつ (4カ国 かこく が国家 こっか 承認 しょうにん )
南 みなみ オセチア自治 じち 州 しゅう
ツヒンヴァリ
3,900km2
5.1万 まん 人 にん
オセット人 じん 64.3%
ジョージア人 じん (グルジア人 じん ) 25.0%
ロシア人 じん 2.8%
アルメニア人 じん 1.2%
オセット人 じん はキリスト教 きりすときょう (正教 せいきょう )主体 しゅたい
事実 じじつ 上 じょう ジョージアより独立 どくりつ (4カ国 かこく が国家 こっか 承認 しょうにん )
同国 どうこく は環境 かんきょう 汚染 おせん などの深刻 しんこく な汚染 おせん 問題 もんだい を抱 かか えている一 いち 面 めん がある。ジョージア国 こく は他 た の旧 きゅう ソ連 それん 構成 こうせい 国 こく と同様 どうよう 、環境 かんきょう への影響 えいきょう をほとんど考慮 こうりょ せずに実施 じっし された重工業 じゅうこうぎょう 化 か を進 すす める経済 けいざい 政策 せいさく が元 もと で、ソビエト時代 じだい よりも深刻 しんこく な環境 かんきょう 悪化 あっか に見舞 みま われている[88] 。
1990年代 ねんだい 後半 こうはん から2000年代 ねんだい 初頭 しょとう にかけて、生産 せいさん 量 りょう と経済 けいざい 発展 はってん が低 ひく かったことから産業 さんぎょう 廃棄 はいき 物 ぶつ は大幅 おおはば に減少 げんしょう していたが現在 げんざい 、産業 さんぎょう 廃棄 はいき 物 ぶつ 処理 しょり 施設 しせつ が整 ととの えられていない為 ため に、発生 はっせい した廃棄 はいき 物 ぶつ は適切 てきせつ な処理 しょり をせず自然 しぜん 環境 かんきょう 下 か へその侭 まま で廃棄 はいき されている。
また、1980年代 ねんだい にソ連 それん 構成 こうせい 国 こく として機能 きのう していた当時 とうじ のジョージア国 こく では年間 ねんかん 最大 さいだい 30,000トンの農薬 のうやく が使用 しよう されてきた為 ため 、過剰 かじょう なまでの農薬 のうやく と肥料 ひりょう の使用 しよう は土壌 どじょう 汚染 おせん を強 つよ めてしまう結果 けっか となった。
さらに土地 とち の侵食 しんしょく により、かなりの量 りょう の農地 のうち が失 うしな われた他 ほか 、管理 かんり が不十分 ふじゅうぶん な埋 う め立 た て地 ち へ都市 とし ごみ が処分 しょぶん されたり 同国 どうこく の山地 さんち に2.5トン以上 いじょう の有害 ゆうがい 化学 かがく 物質 ぶっしつ が今 いま も埋 う められた侭 まま となっているなど環境 かんきょう 保全 ほぜん における姿勢 しせい が整 ととの っていない点 てん から、国内 こくない 各地 かくち からは「早 はや く対策 たいさく を立 た てて実施 じっし しなければ土壌 どじょう の悪化 あっか がますます酷 ひど くなる」旨 むね の意見 いけん ならび危険 きけん 性 せい を指摘 してき する声 こえ が多数 たすう 上 あ がっている。
大気 たいき 汚染 おせん は主要 しゅよう 都市 とし に見受 みう けられ、特 とく に巨大 きょだい な製鉄 せいてつ 所 しょ が存在 そんざい しその他 た の金属 きんぞく 加工 かこう ならび化学 かがく 薬品 やくひん の生産 せいさん を進 すす めているルスタヴィ で問題 もんだい となっている。交通 こうつう も、大気 たいき 汚染 おせん の大 おお きな要因 よういん と一 ひと つとなっている他 ほか 、クラ川 がわ と黒海 こっかい は産業 さんぎょう 廃棄 はいき 物 ぶつ でひどく汚染 おせん されている現状 げんじょう が続 つづ く。
加 くわ えて水質 すいしつ 汚染 おせん と水 みず 処理 しょり 不足 ふそく が元 もと で、ジョージア国 こく においては消化 しょうか 器 き 疾患 しっかん の発生 はっせい 率 りつ が高 たか いことが指摘 してき されている。
なお、ジョージア国 こく 環境 かんきょう 天然 てんねん 資源 しげん 保護 ほご 省 しょう (英語 えいご 版 ばん ) は、同国 どうこく における農地 のうち の35%が劣化 れっか していると発表 はっぴょう している。
地方 ちほう 行政 ぎょうせい 区分 くぶん [ 編集 へんしゅう ]
首都 しゅと トビリシ
中央 ちゅうおう 政府 せいふ の支配 しはい が及 およ んでいない「アブハジア共和 きょうわ 国 こく 」(緑色 みどりいろ )と「南 みなみ オセチア共和 きょうわ 国 こく 」(紫色 むらさきいろ )
行政 ぎょうせい 区画 くかく は、2つの自治 じち 共和 きょうわ 国 こく (アブハジア、アチャラ)を含 ふく む11の地方 ちほう (レギオニ)からなり、さらに66の地域 ちいき (ライオニ)に分 わ かれる[89] 。国内 こくない には、北西 ほくせい 部 ぶ にアブハジア (首都 しゅと :スフミ )、南西 なんせい 部 ぶ にアジャリア (首都 しゅと :バトゥミ )の2つの自治 じち 共和 きょうわ 国 こく があるが、アブハジアはジョージア政府 せいふ の統制 とうせい は及 およ んでおらず、事実 じじつ 上 じょう 、独立 どくりつ した状態 じょうたい となっている。
また、シダカルトリ地区 ちく とその周辺 しゅうへん は歴史 れきし 的 てき に南 みなみ オセチア といわれるオセット人 じん 多 た 住 じゅう 地域 ちいき である。ソビエト連邦 れんぽう に属 ぞく したグルジア・ソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく 時代 じだい にはシダカルトリ地区 ちく 北半 きたはん とその周辺 しゅうへん を領域 りょういき とする「南 みなみ オセチア自治 じち 州 しゅう 」が置 お かれていたが、ソ連邦 それんぽう 解体 かいたい による独立 どくりつ 後 ご は消滅 しょうめつ 。1992年 ねん のオセチア紛争 ふんそう 以降 いこう 、オセット人 じん が自治 じち 権 けん を要求 ようきゅう して中央 ちゅうおう 政府 せいふ 非 ひ 公認 こうにん で再 ふたた び「南 みなみ オセチア自治 じち 州 しゅう 」を樹立 じゅりつ した。同 どう 自治 じち 州 しゅう が独立 どくりつ の意向 いこう を明確 めいかく にした後 のち は「南 みなみ オセチア共和 きょうわ 国 こく 」(首都 しゅと :ツヒンヴァリ )と名乗 なの っており、アブハジアと同様 どうよう に一部 いちぶ の地域 ちいき を除 のぞ きジョージア政府 せいふ の統制 とうせい は及 およ んでいない。
国際 こくさい 通貨 つうか 基金 ききん (IMF)の統計 とうけい によると、2013年 ねん のジョージアの国内 こくない 総 そう 生産 せいさん (GDP)は161億 おく ドルである。一人 ひとり 当 あ たりのGDPは3,597ドルで、世界 せかい 平均 へいきん の約 やく 40%未満 みまん の水準 すいじゅん にある。
ジョージア経済 けいざい は伝統 でんとう 的 てき に、黒海 こっかい 観光 かんこう 、柑橘類 かんきつるい 、茶 ちゃ やブドウ の生産 せいさん を中心 ちゅうしん としてきた。ソビエト連邦 れんぽう 時代 じだい には黒海 こっかい 沿岸 えんがん は有数 ゆうすう の保養 ほよう 地 ち になり、観光 かんこう 業 ぎょう が盛 さか んだった。また、ブドウなどを利用 りよう してワインやコニャック 製造 せいぞう などの食品 しょくひん 加工 かこう 業 ぎょう 。マンガン や銅 どう の採鉱 さいこう と、これに付随 ふずい して金属 きんぞく 、機械 きかい 類 るい 、化学 かがく 薬品 やくひん や織物 おりもの を生産 せいさん する工業 こうぎょう 部門 ぶもん も発達 はったつ していた。
BTCパイプラインと南 みなみ コーカサスガスパイプライン
独立 どくりつ 前後 ぜんこう からの内戦 ないせん などの混乱 こんらん により経済 けいざい は壊滅 かいめつ 的 てき な打撃 だげき を受 う け、GDPは1994年 ねん には1991年 ねん の34.9%にまで低下 ていか したが、IMF と世界銀行 せかいぎんこう の支援 しえん の元 もと で市場 いちば 経済 けいざい の導入 どうにゅう が進 すす められ、1995年 ねん 以来 いらい GDPは増加 ぞうか に転 てん じ、一方 いっぽう でインフレを抑制 よくせい し本質 ほんしつ 的 てき な経済 けいざい 収益 しゅうえき を得 え た。しかしジョージア経済 けいざい は、徴税 ちょうぜい の失敗 しっぱい により大幅 おおはば な財政 ざいせい 赤字 あかじ を経験 けいけん し続 つづ けた。さらにエネルギー不足 ふそく に苦 くる しんだため、1998年 ねん に配電 はいでん 事業 じぎょう を民営 みんえい 化 か し、これによりエネルギー事情 じじょう は確実 かくじつ な改善 かいぜん が見 み られた。政府 せいふ は長期 ちょうき 的 てき な経済 けいざい 回復 かいふく に対 たい する望 のぞ みを、ポティ とバトゥミ などの重要 じゅうよう な港湾 こうわん を通 とお る国際 こくさい 的 てき な輸送 ゆそう 回廊 かいろう の開発 かいはつ にかけている。膨 ふく らむ貿易 ぼうえき 赤字 あかじ 、腐敗 ふはい の問題 もんだい や不安定 ふあんてい な政治 せいじ 状況 じょうきょう は、経済 けいざい 情勢 じょうせい を短期 たんき 的 てき に不透明 ふとうめい にさせている。しかしながら、復活 ふっかつ した投資 とうし は、2000年 ねん に、経済 けいざい 成長 せいちょう におそらく6%以内 いない の拍車 はくしゃ をかけたと思 おも われる。
自国 じこく 内 ない で供給 きょうきゅう できるエネルギーはほとんどが水力 すいりょく 発電 はつでん のみで、天然 てんねん ガス や石油 せきゆ を含 ふく むエネルギーの大 だい 部分 ぶぶん はアゼルバイジャンから輸入 ゆにゅう する。
ジョージアはアゼルバイジャンにとって原油 げんゆ と天然 てんねん ガスの重要 じゅうよう な輸出 ゆしゅつ ルートである。バクー・トビリシ・ジェイハンパイプライン (BTCパイプライン)および並 なみ 走 はし するサウス・コーカサスパイプライン を通 とお って大量 たいりょう の原油 げんゆ がトルコ地中海 ちちゅうかい 沿岸 えんがん に達 たっ し欧州 おうしゅう へ輸出 ゆしゅつ される。また、ジョージアへの原油 げんゆ 供給 きょうきゅう パイプラインには、ほかにバクー・スプサパイプライン があり、スプサにはアゼルバイジャンが黒海 こっかい から輸出 ゆしゅつ する基地 きち がある。
ジョージア政府 せいふ は外国 がいこく からの観光 かんこう 客 きゃく 誘致 ゆうち に力 ちから を入 い れている。2017年 ねん に同国 どうこく を訪 おとず れた旅行 りょこう 者 しゃ は約 やく 600万 まん 人 にん と、10年間 ねんかん で6倍 ばい に増 ふ えた。キリスト教会堂 きょうかいどう など歴史 れきし 的 てき 建築 けんちく 物 ぶつ の修復 しゅうふく 、94か国 こく ・地域 ちいき を対象 たいしょう とした入国 にゅうこく ビザ免除 めんじょ などが奏功 そうこう している[90] 。
ジョージア国 こく 周辺 しゅうへん の言語 げんご ・民族 みんぞく 分布 ぶんぷ 図 ず 。
カルトヴェリ語族 ごぞく の話者 わしゃ 分布 ぶんぷ 図 ず 。
同国 どうこく は多 た 民族 みんぞく 国家 こっか である。住民 じゅうみん の多 おお くはカルトヴェリ人 じん (ジョージア人 じん 、正 せい 教徒 きょうと )(86.8%)となっている[91] 。その他 た アルメニア人 じん 、ロシア人 じん 、アゼルバイジャン人 じん 、オセット人 じん 、アブハズ人 じん 、ギリシャ人 じん 、ユダヤ人 じん などがいる。
ギリシャ人 じん には、もともとアナトリア半島 はんとう の黒海 こっかい 沿岸 えんがん 地域 ちいき に居住 きょじゅう し、20世紀 せいき 初頭 しょとう のトルコ革命 かくめい に伴 ともな う混乱 こんらん 時 じ に隣国 りんごく グルジアへ避難 ひなん してきたポントス人 じん などが含 ふく まれる。また、アジャリア自治 じち 共和 きょうわ 国 こく のアジャール人 じん など、イスラム教 いすらむきょう を信仰 しんこう しているジョージア人 じん も存在 そんざい する。「グルジーム 」と称 しょう されるユダヤ人 じん は1970年代 ねんだい には10万 まん 人 にん を数 かぞ えたが、大半 たいはん がイスラエル に移住 いじゅう し、現在 げんざい では1 - 2万 まん 人 にん 程度 ていど まで減少 げんしょう している。
政府 せいふ は移民 いみん を受 う け入 い れ経済 けいざい 成長 せいちょう を目指 めざ している。ジョージア内務省 ないむしょう によると、2022年 ねん 1月 がつ から11月 がつ までの期間 きかん にロシアから移住 いじゅう した人 ひと は11万 まん 人 にん 以上 いじょう にのぼる。一方 いっぽう 、ロシア国内 こくない に住 す むジョージア系 けい 移民 いみん は100万 まん 人 にん を超 こ えている。
公用 こうよう 語 ご はカルトヴェリ語族 ごぞく のグルジア語 ご (71%)で、次 つ いでロシア語 ご (9%)、アルメニア語 ご (7%)、アゼルバイジャン語 ご (6%)となっている。その他 た 、アブハズ語 ご 、オセット語 ご 、グルジン語 ご なども使 つか われている。また、統計 とうけい 上 じょう では同 おな じカルトヴェリ語族 ごぞく としてグルジア語 ご 話者 わしゃ に含 ふく まれることも多 おお いスヴァン語 ご 、メグレル語 ご 、ラズ語 ご も使 つか われているなど、多言 たげん 語 ご 国家 こっか となっている。
反 はん 露 ろ 感情 かんじょう が強 つよ い国民 こくみん とされるが、実際 じっさい にはソ連 それん 時代 じだい に普及 ふきゅう したロシア語 ご は広範 こうはん に使 つか われており、独立 どくりつ 以降 いこう のグルジア語 ご 統制 とうせい への反発 はんぱつ などから一部 いちぶ 地域 ちいき では異 い 民族 みんぞく 間 あいだ の共通 きょうつう 語 ご として機能 きのう している。
宗教 しゅうきょう 比率 ひりつ は、キリスト教 きょう グルジア(ジョージア)正教会 せいきょうかい に所属 しょぞく する正 せい 教徒 きょうと が75%、イスラム教徒 きょうと (ほとんどがスンナ派 は )が11%[要 よう 出典 しゅってん ] 。
婚姻 こんいん は、改姓 かいせい しない夫婦 ふうふ 別姓 べっせい 、どちらかの配偶 はいぐう 者 しゃ の姓 せい に統一 とういつ する(夫婦 ふうふ 同姓 どうせい )、複 ふく 合 あい 姓 せい を用 もち いる、のいずれの選択 せんたく も可能 かのう である[92] 。
教育 きょういく 制度 せいど は3-6-3制 せい で、旧 きゅう ソ連 それん の10年 ねん 制 せい から12年 ねん 制 せい に移行 いこう した[93] 。6歳 さい から17〜18歳 さい までは義務 ぎむ 教育 きょういく となっている。12学年 がくねん のうち、1~3学年 がくねん が初等 しょとう 教育 きょういく 、4~9学年 がくねん が前期 ぜんき 中等 ちゅうとう 教育 きょういく 、10学年 がくねん 以降 いこう が後期 こうき 中等 ちゅうとう 教育 きょういく にあたる[93] 。高等 こうとう 教育 きょういく を受 う けるためには10~12学年 がくねん の修学 しゅうがく が必要 ひつよう である[93] 。1年生 ねんせい から第 だい 一 いち 外国 がいこく 語 ご として英語 えいご の授業 じゅぎょう が行 おこな われ、5年生 ねんせい からは第 だい 二 に 外国 がいこく 語 ご の学習 がくしゅう が始 はじ まる[93] 。
なお、同国 どうこく の教育 きょういく は憲法 けんぽう に基 もと づき無料 むりょう であることを義務付 ぎむづ けられている。
ジョージアは、米国 べいこく の情報 じょうほう 誌 し 『グローバル・ファイナンス (英語 えいご 版 ばん ) 』が発表 はっぴょう した「最 もっと も治安 ちあん の良 よ い国 くに ランキング」によると、91位 い となっている[94] 。上述 じょうじゅつ の南 みなみ オセチア・アブハジア及 およ びその周辺 しゅうへん 地域 ちいき における領域 りょういき 問題 もんだい の事情 じじょう から同 どう 地域 ちいき エリアではジョージア政府 せいふ の統治 とうち が及 およ んでおらず、不測 ふそく の事態 じたい が発生 はっせい する恐 おそ れが指摘 してき されている。最近 さいきん では観光 かんこう 客 きゃく を狙 ねら った犯罪 はんざい が多発 たはつ し易 やす くなっており、物乞 ものご い する子供 こども による窃盗 せっとう [95] や声 こえ 掛 か けによる強盗 ごうとう 事件 じけん が発生 はっせい している[96] ことからジョージアを訪 おとず れる外国 がいこく 人 じん へ注意 ちゅうい が呼 よ び掛 か けられている。
2005年 ねん に欧州 おうしゅう 民族 みんぞく 的 てき 少数 しょうすう 者 しゃ 保護 ほご 枠 わく 組 ぐみ 条約 じょうやく (英語 えいご 版 ばん ) (FCPNM)を批准 ひじゅん している。これに対 たい しNGO の公差 こうさ 国際 こくさい 財団 ざいだん (英語 えいご 版 ばん ) は、2008年 ねん に「FCPNMのいくつかの条項 じょうこう がジョージア国 こく 議会 ぎかい による完全 かんぜん な実施 じっし から免除 めんじょ されている」と指摘 してき しており、具体 ぐたい 的 てき には「文化 ぶんか ・教育 きょういく ・行政 ぎょうせい 上 じょう の問題 もんだい におけるマイノリティの言語 げんご での完全 かんぜん な表現 ひょうげん に関 かん する規定 きてい が侵害 しんがい された」と主張 しゅちょう している[97] 。
テレビ 、雑誌 ざっし 、新聞 しんぶん は国営 こくえい をはじめとする公 おおやけ 企業 きぎょう と私企業 しきぎょう の双方 そうほう によって展開 てんかい されている。憲法 けんぽう は言論 げんろん の自由 じゆう を保障 ほしょう している。ジョージアのメディア は市場 いちば 経済 けいざい 圏 けん への移行 いこう にともなう変化 へんか が進行 しんこう している。主要 しゅよう 紙 し は『レゾナンシ』『ジョージアン・タイムズ』などであり、放送 ほうそう 局 きょく は国営 こくえい テレビ・ラジオや民営 みんえい の「ルスタビ2」などがある[98] 。通信 つうしん 社 しゃ としてはインタープレスがある[98] 。
長期 ちょうき にわたる政治 せいじ 問題 もんだい と対立 たいりつ があるにもかかわらず、ジョージアのメディアには自由 じゆう が残 のこ されており、南 みなみ コーカサス の中 なか で最 もっと も多様 たよう 性 せい がある[99] 。一部 いちぶ では、国営 こくえい 放送 ほうそう への支配 しはい からの自由 じゆう を求 もと める闘争 とうそう が継続 けいぞく 的 てき に行 おこな われている[100] 。
国民 こくみん の世帯 せたい の大 だい 部分 ぶぶん はテレビを所有 しょゆう しており、多 おお くは最低 さいてい 1つはラジオを持 も っている。多 おお くのメディア企業 きぎょう は首都 しゅと トビリシに本社 ほんしゃ を置 お いている。
ジョージアのワイン工場 こうじょう
葡萄 ぶどう の産地 さんち で、ワイン 発祥 はっしょう の地 ち の一 ひと つとされる[101] 。セミスイートの赤 あか ワイン 、フヴァンチカラ (Khvanchkara)が有名 ゆうめい である。スパークリングワイン は、ツクリアラ (Cqriala)と呼 よ ばれる。フヴァンチカラ(セミスイート赤 あか ワイン)のツクリアラ(スパークリングワイン)もあり、希少 きしょう 性 せい が高 たか い。
キャビア と合 あ わせることで知 し られるフランスのシャンパーニュ の中 なか でも著名 ちょめい な、ルイ・ロデレール社 しゃ のクリスタル は、ロシア皇帝 こうてい アレクサンドル2世 せい のために造 つく られたが、ボトルの形状 けいじょう がよく似 に たゴールデン というツクリアラ(スパークリングワイン)がジョージアに存在 そんざい する。2006年 ねん 以来 いらい 、ロシア連邦 れんぽう はジョージアとモルドバ への経済 けいざい 制裁 せいさい の一環 いっかん としてグルジアワインを輸入 ゆにゅう を禁止 きんし していた(en:2006 Russian ban of Moldovan and Georgian wines )が、2013年 ねん にイヴァニシヴィリ 政権 せいけん の成立 せいりつ に伴 ともな い解除 かいじょ された。
ジョージア国内 こくない には、ユネスコ の世界 せかい 遺産 いさん リストに登録 とうろく された文化 ぶんか 遺産 いさん が3件 けん 存在 そんざい する。
ジョージア 対 たい ルーマニア (2011年 ねん ラグビーW杯 はい )
ジョージア国内 こくない ではサッカー 、バスケットボール 、ラグビーユニオン 、レスリング 、柔道 じゅうどう 、重量挙 じゅうりょうあ げ が最 もっと も人気 にんき のあるスポーツ 競技 きょうぎ である。ジョージアの身体 しんたい 教育 きょういく は歴史 れきし 的 てき で有名 ゆうめい であり、古代 こだい イベリア のトレーニング技法 ぎほう を見 み たローマ人 じん たちがジョージア人 じん の肉体 にくたい 的 てき 素質 そしつ に強 つよ く関心 かんしん を惹 ひ かれたことが知 し られている[102] 。
19世紀 せいき 時代 じだい に有名 ゆうめい であったほかのスポーツとしては、馬 うま を用 もち いた球技 きゅうぎ ポロ や、ジョージアの伝統 でんとう 的 てき 球技 きゅうぎ レロ (グルジア語 ご 版 ばん ) があった。これらの競技 きょうぎ 者 しゃ は、次第 しだい にラグビーユニオン 競技 きょうぎ へと移行 いこう していった。
元 もと ジョージア代表 だいひょう のカハ・カラーゼ
サッカー人気 にんき は世界 せかい 標準 ひょうじゅん であり、FIFAワールドカップ の時期 じき には老若男女 ろうにゃくなんにょ がサッカー談義 だんぎ に花 はな を咲 さ かせ、何 なに もなくても子 こ どもたちは街角 まちかど でサッカーに興 きょう じる光景 こうけい をよく見 み かける。ソビエト連邦 れんぽう 時代 じだい もジョージアを含 ふく むコーカサス 地域 ちいき はサッカーの盛 さか んな土地 とち 柄 がら として知 し られており、首都 しゅと のトビリシ に所在 しょざい するFCディナモ・トビリシ は実績 じっせき 、名声 めいせい ともにジョージアを代表 だいひょう する伝統 でんとう 的 てき なサッカークラブである。
2001年 ねん から約 やく 10年間 ねんかん 、ACミラン で活躍 かつやく したカハ・カラーゼ は長 なが らくジョージア人 じん の憧 あこが れであった。近年 きんねん では、SSCナポリ に所属 しょぞく しているフヴィチャ・クヴァラツヘリア が世界 せかい 的 てき な有名 ゆうめい な選手 せんしゅ である[103] 。
バスケットボールもまた、ジョージアにおいて著名 ちょめい なスポーツの一 ひと つであった。オタル・コルキア (ロシア語 ご 版 ばん ) 、ミハイル・コルキア (ロシア語 ご 版 ばん ) 、ズラブ・サカンデリゼ (ロシア語 ご 版 ばん ) 、レヴァン・モセシュヴィリ (ロシア語 ご 版 ばん ) といった旧 きゅう ソビエト連邦 れんぽう 代表 だいひょう (ロシア語 ご 版 ばん ) の著名 ちょめい な選手 せんしゅ らがジョージアに所属 しょぞく した。ジョージアのBCディナモ・トビリシ (ロシア語 ご 版 ばん ) は、1962年 ねん にヨーロッパ最高峰 さいこうほう リーグFIBA欧州 おうしゅう チャンピオンズカップ で優勝 ゆうしょう した。
これまでに5人 にん のNBA 選手 せんしゅ を輩出 はいしゅつ しており、ウラジミール・ステパニア (英語 えいご 版 ばん ) 、ジェイク・サカリディス 、ニコロス・ツキティシュビリ 、トルニケ・シェンゲリア (グルジア語 ご 版 ばん ) 、そしてゴールデンステート・ウォリアーズ 所属 しょぞく のザザ・パチュリア 。その他 た の著名 ちょめい なバスケットボール選手 せんしゅ としては、ユーロリーグ で2度 ど の優勝 ゆうしょう を果 は たしたギオルギ・シェルマディニ (グルジア語 ご 版 ばん ) や、ユーロリーグ所属 しょぞく のマヌチャル・マルコイシュヴィリ (グルジア語 ご 版 ばん ) 、ヴィクトル・サニキゼ がいる。また、バスケットボール男子 だんし 代表 だいひょう は2011年 ねん 以降 いこう 、3大会 たいかい 連続 れんぞく で欧州 おうしゅう 選手権 せんしゅけん の予選 よせん を突破 とっぱ している。
レスリングは、ジョージアにおいて歴史 れきし 的 てき に重要 じゅうよう なスポーツの地位 ちい にあり続 つづ けている。歴史 れきし 家 か の中 なか には、グレコローマンレスリング には多 おお くのジョージア的 てき 要素 ようそ が組 く み込 こ まれていると考 かんが える人 ひと もいる[104] 。ジョージアでは、多 おお くのレスリング・スタイルが普及 ふきゅう しており、もっとも普及 ふきゅう したスタイルのひとつとしてはカヘティ・スタイルが挙 あ げられる。今日 きょう ではあまり行 おこな われていないスタイルも、過去 かこ には数多 かずおお く存在 そんざい していた。たとえばジョージア北東 ほくとう 部 ぶ のヘヴスレティ (グルジア語 ご 版 ばん ) 地方 ちほう には、異 こと なる3種類 しゅるい のレスリング・スタイルが存在 そんざい している。
コーカサス地方 ちほう で最初 さいしょ かつ唯一 ゆいいつ のサーキット競技 きょうぎ は、ジョージアにて行 おこな われており、ルスタヴィ国際 こくさい レース場 じょう (グルジア語 ご 版 ばん ) は1978年 ねん に竣工 しゅんこう した。その後 ご 、2,000万 まん ドルの費用 ひよう をかけて改築 かいちく し[105] 、2012年 ねん に再 さい オープンしている。サーキットはFIA 分類 ぶんるい でグレード2の要件 ようけん を満 み たし、現在 げんざい はレジェンド・カー・レーシング (英語 えいご 版 ばん ) シリーズと、フォーミュラ・アルファ (英語 えいご 版 ばん ) 大会 たいかい を開催 かいさい している[106] 。
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和書 わしょ
洋書 ようしょ
PETER JACKSON and Lockhart - THE CAMBRIDGE HISTORY OF IRAN, vol.6.
雑誌 ざっし 論文 ろんぶん など
前田 まえだ 弘毅 こうき 「サファヴィー朝 ちょう 期 き のグルジア語 ご 史料 しりょう (世界 せかい 史 し の研究 けんきゅう No.222)」『歴史 れきし と地理 ちり 』第 だい 631号 ごう 、山川 やまかわ 出版 しゅっぱん 社 しゃ 、2010年 ねん 2月 がつ 、25-32頁 ぺーじ 、NAID 40018278929 。
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