フィリピン共和 きょうわ 国 こく
Republika ng Pilipinas (フィリピン語 ご ) Republic of the Philippines (英語 えいご )
国 くに の標語 ひょうご :Maka-Diyos, Maka-Tao, Makakalikasan at Makabansa (タガログ語 ご : 神 かみ 、国民 こくみん 、自然 しぜん 、国 くに への愛情 あいじょう のために)
国歌 こっか :Lupang Hinirang (タガログ語 ご ) 最愛 さいあい の地 ち
フィリピン共和 きょうわ 国 こく (フィリピンきょうわこく、フィリピン語 ご /タガログ語 ご : Republika ng Pilipinas 、英 えい : Republic of the Philippines 、スペイン語 ご : Republica dè Islas Filipinas) 通称 つうしょう フィリピン は、東南 とうなん アジア に位置 いち する立憲 りっけん 共和 きょうわ 制 せい 国家 こっか 。7641の島々 しまじま がある島国 しまぐに であり、そのうち有人 ゆうじん 島 とう に暮 く らす総 そう 人口 じんこう は1億 おく 人 にん を超 こ える[2] 。首都 しゅと はルソン島 るそんとう にあるマニラ 市 し またはマニラ首都 しゅと 圏 けん [1] 。
最大 さいだい の都市 とし はルソン島 るそんとう では人口 じんこう が一 いち 位 い で旧 きゅう 首都 しゅと のケソン市 し 、ビサヤ諸島 しょとう では大都市 だいとし のセブ市 し 、ミンダナオ島 みんだなおとう では面積 めんせき が大 おお きいダバオ市 し である。
フィリピン諸島 しょとう は、フィリピン海 うみ を挟 はさ んで日本 にっぽん とパラオ 、バシー海峡 かいきょう を挟 はさ んで台湾 たいわん 、スールー海 うみ を挟 はさ んでマレーシア 、セレベス海 かい を挟 はさ んでインドネシア 、南シナ海 みなみしなかい を挟 はさ んで中国 ちゅうごく およびベトナム と向 む かい。南シナ海 みなみしなかい のスプラトリー諸島 しょとう の一部 いちぶ を実効 じっこう 支配 しはい しており(パグアサ島 とう など)、全体 ぜんたい の領有 りょうゆう 権 けん や領海 りょうかい ・排他 はいた 的 てき 経済 けいざい 水域 すいいき を巡 めぐ っては中国 ちゅうごく 、ベトナム、台湾 たいわん 、マレーシアと対立 たいりつ を抱 かか える。
同国 どうこく は81の州 しゅう と1の首都 しゅと 地域 ちいき で構成 こうせい され、最小 さいしょう 行政 ぎょうせい 単位 たんい はバランガイ (Barangay)で4万 まん 2027にのぼる。
国名 こくめい のフィリピンは16世紀 せいき の旧 きゅう 宗主 そうしゅ 国 こく のスペイン皇太子 こうたいし フェリペ (後 ご のフェリペ2世 せい 国王 こくおう )の名前 なまえ から命名 めいめい された。
スペイン王 おう フェリペ2世 せい
正式 せいしき 名称 めいしょう は、タガログ語 ご ではRepublika ng Pilipinas (レプブリカ ナン ピリピーナス )、英語 えいご では、Republic of the Philippines (リパブリク オヴ ザ フィリピーンズ )、スペイン語 ご では、República de Filipinas (レプブリカ デ フィリピーナス )。略称 りゃくしょう は、Pilipinas (フィリピン語 ご )、the Philippines (英語 えいご )、Filipinas (スペイン語 ご )。
日本語 にほんご 表記 ひょうき による正式 せいしき 名称 めいしょう の訳 わけ はフィリピン共和 きょうわ 国 こく 、通称 つうしょう はフィリピン である。かつてはフイリッピン 、ヒリピン という表記 ひょうき もなされていた。漢字 かんじ による表記 ひょうき は、比 ひ 律 りつ 賓 まろうど [5] 、菲律賓 まろうど で、比島 ひしま 、比 ひ 、菲 と略 りゃく される。
国名 こくめい は、1542年 ねん に、スペイン帝国 ていこく 皇太子 こうたいし フェリペ (のちの国王 こくおう フェリペ2世 せい )の名 な から、スペイン人 じん の征服 せいふく 者 しゃ ルイ・ロペス・デ・ビリャロボス によってイスラス・フィリピナス諸島 しょとう (フェリペの島々 しまじま )[6] と名 な づけられたことに由来 ゆらい する。現在 げんざい の国号 こくごう 表記 ひょうき はアルファベット表記 ひょうき はすべて「-s 」と複数 ふくすう 形 がた 表記 ひょうき されており、これはアメリカ植民 しょくみん 地 ち 当局 とうきょく がかつてこの国 くに をフィリピン諸島 しょとう (the Philippine Islands )と呼 よ び、これをフィリピン(the Philippines )と変更 へんこう したものを、1935年 ねん 憲法 けんぽう に「フィリピン共和 きょうわ 国 こく (Republic of the Philippines )」と記載 きさい した経緯 けいい による。
このような歴史 れきし 的 てき 背景 はいけい から、植民 しょくみん 地 ち 時代 じだい の残滓 ざんし だという立場 たちば からの国名 こくめい 変更 へんこう 論 ろん もある。国民 こくみん 的 てき 英雄 えいゆう と見 み なされる独立 どくりつ 運動 うんどう 家 か アンドレス・ボニファシオ は、「タガログ人 じん の国家 こっか 」を意味 いみ する「カタガルガン」を推 お していた[7] 。第 だい 10代大統領 だいとうりょう フェルディナンド・マルコス は、サンスクリット語 ご に由来 ゆらい し「気高 けだか く誕生 たんじょう した」を意味 いみ するとされる「マハルリカ」に変更 へんこう しようとした[7] [8] 。ロドリゴ・ドゥテルテ 大統領 だいとうりょう も「マハルリカ」への変更 へんこう に対 たい する共感 きょうかん を表明 ひょうめい している[8] 。
タガログ人 じん の男女 だんじょ
フィリピンの歴史 れきし は多様 たよう な民族 みんぞく によって織 お りなされてきた。フィリピン諸島 しょとう で最 もっと も古 ふる い民族 みんぞく は25,000~30,000年 ねん 前 まえ に移住 いじゅう してきたネグリト 族 ぞく 。次 つぎ に新 しん 石器 せっき 文化 ぶんか を持 も った原始 げんし マレー 。この後 のち が、棚田 たなだ 水田 すいでん 農耕 のうこう を持 も った古 こ マレーである。
更新 こうしん 世 よ 中期 ちゅうき の遺跡 いせき として、ルソン島 るそんとう 北部 ほくぶ のカガヤン渓谷 けいこく にあるリワン遺跡 いせき が発見 はっけん されている。そこからエレファス(古代 こだい 象 ぞう )、ステゴドン (ステゴドン象 ぞう )、ライノセラス(古代 こだい サイ )などの絶滅 ぜつめつ 種 しゅ の動物 どうぶつ 化石 かせき が出土 しゅつど し、他 た の出土 しゅつど 品 ひん ではチョッパー(片面 かためん 礫 つぶて 器 き )、チョッピング・トゥール(両面 りょうめん 礫 つぶて 器 き )、フレーク・トゥール(剥 へず 片 かた 石器 せっき )など多量 たりょう に発見 はっけん されている。カガヤン渓谷 けいこく では「カガヤン原人 げんじん 」の骨 ほね 化石 かせき を求 もと めて発掘 はっくつ 作業 さぎょう が行 おこな われている[9] 。
紀元前 きげんぜん 500年 ねん ~紀元 きげん 13世紀 せいき の間 あいだ にマレー系 けい 民族 みんぞく が移住 いじゅう してきた。900年 ねん ごろの日付 ひづけ が記録 きろく されているラグナ銅版 どうはん 碑文 ひぶん (英語 えいご 版 ばん ) などによれば、当時 とうじ 既 すで にカウィ文字 もじ (英語 えいご 版 ばん ) やバイバイン文字 もじ など複数 ふくすう の文化 ぶんか を受容 じゅよう 出来 でき る成熟 せいじゅく した都市 とし 国家 こっか を形成 けいせい していたことが明 あき らかにされている。
イスラームの流入 りゅうにゅう [ 編集 へんしゅう ]
14世紀 せいき 後半 こうはん にイスラム教 いすらむきょう が広 ひろ まった。中国 ちゅうごく 大陸 たいりく (明 あきら )や東南 とうなん アジアとの交易 こうえき で栄 さか えたが、7000を超 こ える諸島 しょとう である現在 げんざい のフィリピンに相当 そうとう する地域 ちいき に統一 とういつ 国家 こっか は形成 けいせい されていなかった。
スペイン植民 しょくみん 地 ち 時代 じだい [ 編集 へんしゅう ]
スペイン植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい に抗 こう したフィリピンの国民 こくみん 的 てき 英雄 えいゆう ホセ・リサール
大 だい 航海 こうかい 時代 じだい 以降 いこう 、ヨーロッパ 列強 れっきょう は東南 とうなん アジア各地 かくち を植民 しょくみん 地 ち 化 か した。スペイン艦隊 かんたい は太平洋 たいへいよう を横断 おうだん して東方 とうほう からフィリピン諸島 しょとう に到来 とうらい 。1521年 ねん 、ポルトガル人 じん の航海 こうかい 者 しゃ マガリャンイス (マゼラン)が率 ひき いるスペイン艦隊 かんたい が、ヨーロッパ人 じん として初 はじ めてフィリピンのホモンホン島 とう に到達 とうたつ した。マガリャンイスはこの後 のち 、マクタン島 とう を攻 せ めたが首長 しゅちょう ラプ=ラプ らに敗 やぶ れ戦死 せんし した。1494年 ねん にスペインとポルトガル が結 むす んだトルデシリャス条約 じょうやく でブラジル を除 のぞ く新大陸 しんたいりく (インディアス)がスペイン領有 りょうゆう とし、1529年 ねん のサラゴサ条約 じょうやく でフィリピン諸島 しょとう をスペイン領有 りょうゆう とした。スペインはフィリピンをアジア 進出 しんしゅつ の拠点 きょてん とした。やがてスペインなどの航海 こうかい 者 しゃ が来航 らいこう するようになり、1565年 ねん にはスペイン副 ふく 王 おう 領 りょう ヌエバ・エスパーニャ (メキシコ )を出航 しゅっこう した征服 せいふく 者 しゃ ミゲル・ロペス・デ・レガスピ (初代 しょだい 総督 そうとく )がセブ島 とう を領有 りょうゆう したのを皮切 かわき りに19世紀 せいき 末 まつ までスペインのフィリピン支配 しはい が始 はじ まった。徐々 じょじょ に植民 しょくみん 地 ち の範囲 はんい を広 ひろ げ、1571年 ねん にはマニラ市 し を植民 しょくみん 地 ち 首府 しゅふ とし、フィリピン諸島 しょとう の大 だい 部分 ぶぶん が征服 せいふく され、スペインの領土 りょうど となった。これ以降 いこう 、約 やく 250年間 ねんかん 、マニラとメキシコ太平洋 たいへいよう 岸 がん (アカプルコ )をつなぐガレオン貿易 ぼうえき が続 つづ いた。
1762年 ねん に、一時 いちじ 的 てき にマニラがイギリス軍 ぐん に占領 せんりょう されたが、1763年 ねん にパリ条約 じょうやく が結 むす ばれ再 ふたた びスペインの管轄 かんかつ 下 か に戻 もど った。18世紀 せいき になってスペインは南部 なんぶ への侵攻 しんこう を開始 かいし したものの、西南 せいなん ミンダナオ島 みんだなおとう 、スールー諸島 しょとう 、南 みなみ パラワン島 とう では、スールー王国 おうこく をはじめとするイスラム勢力 せいりょく の抵抗 ていこう に遭 あ い、最後 さいご まで征服 せいふく できなかった。
スペイン統治 とうち 下 か で、メキシコやペルー 、ボリビア から輸入 ゆにゅう した銀 ぎん や、東南 とうなん アジア各地 かくち や中国 ちゅうごく (清 きよし )の産物 さんぶつ をラテンアメリカ に運 はこ ぶ拠点 きょてん としてガレオン貿易 ぼうえき が盛 さか んに行 おこな われた。フィリピンではマニラ・ガレオン と呼 よ ばれるフィリピン製 せい の大型 おおがた 帆船 はんせん が多数 たすう 建造 けんぞう され、メキシコのアカプルコとアジアを結 むす んでいた。
ヌエバ・エスパーニャ副 ふく 王 おう 領 りょう の一部 いちぶ となった植民 しょくみん 地 ち 時代 じだい に、スペイン人 じん は海外 かいがい 進出 しんしゅつ の目的 もくてき の一 ひと つであったローマ・カトリック の布教 ふきょう を進 すす めた。スペイン人 じん は支配 しはい 下 か のラテンアメリカと同様 どうよう にフィリピンでも輸出 ゆしゅつ 農産物 のうさんぶつ を生産 せいさん するプランテーション の開発 かいはつ により領民 りょうみん を労役 ろうえき に使 つか う大 だい 地主 じぬし たちが地位 ちい を確立 かくりつ し、民衆 みんしゅう の多 おお くはその労働 ろうどう 者 しゃ となった。
支配 しはい 者 しゃ であるスペインに対 たい する反抗 はんこう は幾度 いくど となく繰 く り返 かえ されたが、いずれも規模 きぼ が小 ちい さく局地 きょくち 的 てき であり、容易 ようい に鎮圧 ちんあつ されてしまった。独立 どくりつ 運動 うんどう が本格 ほんかく 的 てき になるのは、19世紀 せいき 末 すえ 、フィリピン独立 どくりつ の父 ちち とされるホセ・リサール の活躍 かつやく によるところが大 おお きい。リサールは、1896年 ねん 12月30日 にち に銃殺 じゅうさつ された。1898年 ねん 、米 べい 西 にし 戦争 せんそう 勃発 ぼっぱつ により、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく はエミリオ・アギナルド [10] らの独立 どくりつ 運動 うんどう を利用 りよう するため支援 しえん した。ただこれは、後 のち に判明 はんめい するように、アメリカがスペインからフィリピンを奪 うば って自国 じこく の植民 しょくみん 地 ち にすることが目的 もくてき だった。
1899年 ねん 6月12日 にち 、初代 しょだい 大統領 だいとうりょう エミリオ・アギナルド の下 した 、独立 どくりつ 宣言 せんげん がなされ、フィリピン第 だい 一 いち 共和 きょうわ 国 こく が成立 せいりつ した。フィリピン革命 かくめい は、普通 ふつう 1896年 ねん 8月 がつ から1899年 ねん 1月 がつ までを指 さ す。
なお、征服 せいふく 者 しゃ レガスピの1567年 ねん の書簡 しょかん に、当時 とうじ 既 すで に日本人 にっぽんじん がミンドロ島 みんどろとう やルソン島 るそんとう へ毎年 まいとし 交易 こうえき に来訪 らいほう していたことが記 しる されており、日 にち 比 ひ の交流 こうりゅう はスペインが占領 せんりょう する以前 いぜん からあったことがわかっている[11] 。
第 だい 一 いち 共和 きょうわ 国 こく と植民 しょくみん 地 ち 時代 じだい [ 編集 へんしゅう ]
米 べい 比 ひ 戦争 せんそう を描 えが いたアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の絵画 かいが 『パセオの戦 たたか い』
米 べい 西 にし 戦争 せんそう の最中 さいちゅう に独立 どくりつ を果 は たしたのもつかの間 ま 、1898年 ねん のパリ条約 じょうやく によりフィリピンの統治 とうち 権 けん がスペインからアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく に譲渡 ゆずりわた された。1899年 ねん 1月 がつ 21日 にち にフィリピン共和 きょうわ 国 こく がフィリピン人 じん によって建国 けんこく された。5月18日 にち にサンボアンガ共和 きょうわ 国 こく (英語 えいご 版 ばん ) がサンボアンゲーニョ (英語 えいご 版 ばん ) によって建国 けんこく された。
フィリピン共和 きょうわ 国 こく の建国 けんこく を承認 しょうにん しないアメリカによる植民 しょくみん 地 ち 化 か にフィリピンは猛烈 もうれつ に抵抗 ていこう したものの、米 べい 比 ひ 戦争 せんそう で60万 まん 人 にん のフィリピン人 じん がアメリカ軍 ぐん により無残 むざん に虐殺 ぎゃくさつ され、抵抗 ていこう 運動 うんどう は武力 ぶりょく 鎮圧 ちんあつ された。1901年 ねん にアギナルドが米 べい 軍 ぐん に逮捕 たいほ されて第 だい 一 いち 共和 きょうわ 国 こく は崩壊 ほうかい し、フィリピンは旧 きゅう スペイン植民 しょくみん 地 ち のグアム 、プエルトリコ と共 とも にアメリカの主権 しゅけん の下 した に置 お かれ、過酷 かこく な植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい を受 う けることとなった。1903年 ねん にサンボアンガ共和 きょうわ 国 こく も崩壊 ほうかい したが、モロの反乱 はんらん (英語 えいご 版 ばん ) は1913年 ねん まで続 つづ いた。フィリピン史 し では、1899年 ねん 2月 がつ から1902年 ねん 7月 がつ までをフィリピン・アメリカ戦争 せんそう 期 き として位置 いち づけている[12] 。
その後 ご 、フィリピン議会 ぎかい 議員 ぎいん マニュエル・ケソン の尽力 じんりょく で、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 議会 ぎかい は1916年 ねん にジョーンズ法 ほう で自治 じち を認 みと めフィリピン自治領 じちりょう が成立 せいりつ した。1920年代 ねんだい にRCA が広域 こういき 無線 むせん 局 きょく を設置 せっち 、ここを中継 ちゅうけい 地点 ちてん として香港 ほんこん 経由 けいゆ で中国 ちゅうごく と交信 こうしん した。1929年 ねん に世界 せかい 恐慌 きょうこう が発生 はっせい すると無 む 課税 かぜい でアメリカ本土 ほんど に移入 いにゅう されていたフィリピンの砂糖 さとう がアメリカ本土 ほんど の甜菜 てんさい 糖 とう やキューバ糖 とう に打撃 だげき を与 あた え、アメリカの資産 しさん 家 か で破産 はさん するものが続出 ぞくしゅつ した。そのためフィリピン糖 とう 排撃 はいげき の声 こえ が高 たか まり、関税 かんぜい を課 か すことを目的 もくてき にフィリピン独立 どくりつ が叫 さけ ばれるようになった[13] 。1934年 ねん にアメリカ議会 ぎかい はフーバー 大統領 だいとうりょう の反対 はんたい を押 お し切 き り[13] 、タイディングス・マクダフィー法 ほう で10年 ねん 後 ご の完全 かんぜん 独立 どくりつ を認 みと め、フィリピン議会 ぎかい もこれを承諾 しょうだく したことで、フィリピン自治領 じちりょう からフィリピン・コモンウェルス に移行 いこう した。一方 いっぽう でアメリカはフィリピンにアメリカへの依存 いぞん 貿易 ぼうえき を続 つづ けさせるなどの利権 りけん を確保 かくほ し続 つづ けた[14] 。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん と独立 どくりつ [ 編集 へんしゅう ]
マニラに向 む けて進撃 しんげき する日本 にっぽん 軍 ぐん 戦車 せんしゃ 隊 たい (1942年 ねん 1月 がつ )
1941年 ねん 12月に始 はじ まった太平洋戦争 たいへいようせんそう 劈頭 へきとう 、日本 にっぽん 軍 ぐん は南方 みなかた 作戦 さくせん の一環 いっかん として米 べい 領 りょう フィリピンに進攻 しんこう し、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 陸軍 りくぐん を駆逐 くちく してマニラに入城 にゅうじょう した。在 ざい フィリピン司令 しれい 官 かん だったダグラス・マッカーサー はオーストラリア へと脱出 だっしゅつ し、日本 にっぽん 陸軍 りくぐん は1942年 ねん の上半期 かみはんき 中 ちゅう にバターン半島 はんとう やコレヒドール島 とう に追 お い詰 つ められた米 べい 比 ひ 軍 ぐん を降伏 ごうぶく させ、フィリピン全土 ぜんど を占領 せんりょう した。
アメリカは1935年 ねん にはフィリピンの独立 どくりつ を約束 やくそく していたので、日本 にっぽん も1943年 ねん 5月の御前 ごぜん 会議 かいぎ でフィリピン(フィリピン行政 ぎょうせい 委員 いいん 会 かい )とビルマ を独立 どくりつ させた[15] 。1943年 ねん 10月14日 にち 、ホセ・ラウレル を大統領 だいとうりょう とするフィリピン第 だい 二 に 共和 きょうわ 国 こく が成立 せいりつ した。しかしアメリカは日本 にっぽん の傀儡 かいらい 政権 せいけん であるとしこれを認 みと めなかった[16] [17] 。その後 ご ラウレルは日本 にっぽん との協力 きょうりょく 関係 かんけい を築 きず きフィリピン政府 せいふ の運営 うんえい を進 すす めた。日本 にっぽん の敗戦 はいせん が濃厚 のうこう になると1944年 ねん 12月8日 にち に親日 しんにち 義勇 ぎゆう 隊 たい のマカピリ が設立 せつりつ されベニグノ・ラモス などが参加 さんか し、戦闘 せんとう に加 くわ わった[18] 。また、アメリカの援助 えんじょ を受 う けて結成 けっせい された反日 はんにち ゲリラ組織 そしき のユサフェ ・ゲリラ と共産 きょうさん 系 けい のフクバラハップ が各地 かくち で抗日 こうにち ゲリラ戦争 せんそう を行 おこな った。
1944年 ねん 9月21日 にち 、22日 にち 、アメリカ軍機 ぐんき によりマニラ市内 しない が激 はげ しい空爆 くうばく にさらされると、同月 どうげつ 23日 にち 、ラウレル政権 せいけん はアメリカとイギリスに対 たい して宣戦 せんせん 布告 ふこく を行 おこな った[19] 。
しかし同年 どうねん 末 まつ に米 べい 軍 ぐん が反攻 はんこう 上陸 じょうりく 、フィリピン・コモンウェルス が再 ふたた び権力 けんりょく を握 にぎ った。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん によって110万 まん 人 にん のフィリピン人 じん が犠牲 ぎせい となり[20] 、マニラに20棟 むね あった16世紀 せいき から17世紀 せいき にかけて建立 こんりゅう されたバロック様式 ようしき の教会 きょうかい は、アメリカ軍 ぐん の攻撃 こうげき により2つを残 のこ して破壊 はかい された。
第 だい 三 さん 次 じ フィリピン共和 きょうわ 国 こく がアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく より独立 どくりつ (1946年 ねん 7月 がつ 4日 にち )
1945年 ねん の日本 にっぽん 敗戦 はいせん に伴 ともな い、独立 どくりつ を失 うしな いアメリカの植民 しょくみん 地 ち に戻 もど ることを余儀 よぎ なくされることとなったが、1946年 ねん のマニラ条約 じょうやく で、フィリピン・コモンウェルスの組織 そしき を引 ひ き継 つ ぎ、戦前 せんぜん から約束 やくそく されていたフィリピン第 だい 三 さん 共和 きょうわ 国 こく が再 さい 独立 どくりつ した。
冷戦 れいせん 下 した では地主 じぬし 支配 しはい (アシエンダ)打倒 だとう を訴 うった える共産 きょうさん 系 けい のフクバラハップ が勢力 せいりょく を拡大 かくだい し、ルソン島 るそんとう ではゲリラ戦争 せんそう が続 つづ いたが、1950年代 ねんだい 中 なか に共産 きょうさん ゲリラはアメリカからの全面 ぜんめん 的 てき な支援 しえん を受 う けたラモン・マグサイサイ の手 て によって一 いち 度 ど 壊滅 かいめつ した。その後 ご 、親米 しんべい 政権 せいけん によって農地 のうち 改革 かいかく が行 おこな われたものの、実効 じっこう 性 せい には乏 とぼ しいものとなった。
フェルディナンド・マルコス とイメルダ 夫人 ふじん (1984年 ねん 10月 がつ 20日 はつか )
1965年 ねん より反 はん 共産 きょうさん 主義 しゅぎ を唱 とな えるフェルディナンド・マルコス 大統領 だいとうりょう がマルコス独裁 どくさい 国家 こっか (英語 えいご 版 ばん ) 体制 たいせい を築 きず いた。アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく からの支持 しじ を得 え たマルコス政権 せいけん は、20年 ねん に渡 わた る開発 かいはつ 独裁 どくさい 政権 せいけん となり、イメルダ・マルコス 大統領 だいとうりょう 夫人 ふじん をはじめとする取 と り巻 ま きによって、私物 しぶつ 化 か され腐敗 ふはい した政権 せいけん に対 たい して、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく やソビエト連邦 れんぽう からの支援 しえん を受 う けたモロ民族 みんぞく 解放 かいほう 戦線 せんせん や再建 さいけん 共産党 きょうさんとう の新 しん 人民 じんみん 軍 ぐん (NPA)による武装 ぶそう 蜂起 ほうき が発生 はっせい した[要 よう 出典 しゅってん ] 。
民衆 みんしゅう の不満 ふまん が高 たか まったため、1986年 ねん 2月 がつ 22日 にち に起 お きた「エドゥサ革命 かくめい 」(二 に 月 がつ 革命 かくめい 、ピープル・パワー革命 かくめい )でマルコス政権 せいけん は崩壊 ほうかい し、現在 げんざい のフィリピン第 だい 四 よん 共和 きょうわ 国 こく 体制 たいせい が成立 せいりつ した。この革命 かくめい は同年 どうねん 2月 がつ 22日 にち の国軍 こくぐん 改革 かいかく 派 は 将校 しょうこう の決起 けっき から25日 にち のコリーアキノ 政権 せいけん 樹立 じゅりつ に至 いた る4日間 にちかん の出来事 できごと であった。民主 みんしゅ 化 か を求 もと める市民 しみん が、マニラ首都 しゅと 圏 けん の中心 ちゅうしん 部 ぶ でデモや集会 しゅうかい 、座 すわ り込 こ みや兵士 へいし に花束 はなたば を渡 わた す行動 こうどう を起 お こした。その模様 もよう をリアルタイムで、多 おお くのテレビカメラの放列 ほうれつ が世界中 せかいじゅう に生放送 なまほうそう した。これらマスメディア の報道 ほうどう が心理 しんり 的 てき 圧力 あつりょく となり、フィリピン共和 きょうわ 国軍 こくぐん は市民 しみん に銃 じゅう を発砲 はっぽう 出来 でき 無 な かった[21] 。
マルコスとイメルダはアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく ハワイ州 しゅう に亡命 ぼうめい した[22] 。新 しん 人民 じんみん 軍 ぐん による三井物産 みついぶっさん マニラ支店 してん 長 ちょう 誘拐 ゆうかい 事件 じけん (1986年 ねん 11月15日 にち - 1987年 ねん 3月 がつ 31日 にち )が発生 はっせい 。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご の冷戦 れいせん 期間 きかん 中 ちゅう のフィリピンは、同 おな じく西側 にしがわ 諸国 しょこく に属 ぞく すこととなった日本 にっぽん と同様 どうよう に、極東 きょくとう アジアにおけるアメリカの重要 じゅうよう な拠点 きょてん となり、米 べい 軍 ぐん に基地 きち を提供 ていきょう していたが、1990年代 ねんだい 初頭 しょとう の冷戦 れいせん 終結 しゅうけつ を受 う けた米 べい 軍 ぐん のアジア駐留 ちゅうりゅう 軍 ぐん 縮小 しゅくしょう 、およびピナトゥボ山 さん の噴火 ふんか に伴 ともな う基地 きち 機能 きのう の低下 ていか 、フィリピン国内 こくない のナショナリズムの高揚 こうよう 、フィリピン共和 きょうわ 国 こく 憲法 けんぽう 改正 かいせい により、在 ざい 比 ひ 米 べい 軍 ぐん は軍備 ぐんび を沖縄 おきなわ に集約 しゅうやく し、フィリピンから撤退 てったい した。
噴火 ふんか するピナトゥボ山 さん (1991年 ねん 6月 がつ 12日 にち )
フィリピンの共産 きょうさん 主義 しゅぎ 勢力 せいりょく フクバラハップは、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう に日本 にっぽん 軍 ぐん と戦 たたか い、日本 にっぽん 軍 ぐん の撤退 てったい 後 ご もアメリカ軍 ぐん と独立 どくりつ 後 ご のフィリピン政府 せいふ 軍 ぐん と戦闘 せんとう を続 つづ けたが、1954年 ねん までにマグサイサイ指揮 しき 下 か のフィリピン政府 せいふ 軍 ぐん に制圧 せいあつ された。1969年 ねん 、毛沢東 もうたくとう 主義 しゅぎ による革命 かくめい と体制 たいせい 変革 へんかく をめざすフィリピン共産党 きょうさんとう (CPP) (再建 さいけん 共産党 きょうさんとう )は新 しん 人民 じんみん 軍 ぐん (NPA New Peoples Army)を結成 けっせい し、フィリピン政府 せいふ 軍 ぐん に対 たい する武装 ぶそう 闘争 とうそう を開始 かいし した。NPAは、ルソン島 とう を中心 ちゅうしん にフィリピン全国 ぜんこく に展開 てんかい し、フィリピンの軍隊 ぐんたい ・警察 けいさつ ・インフラ・企業 きぎょう に対 たい する武力 ぶりょく 攻撃 こうげき を繰 く り返 かえ し、フィリピン政府 せいふ 軍 ぐん はNPAの武力 ぶりょく 攻撃 こうげき に対 たい して掃討 そうとう 戦 せん を継続 けいぞく しているが、海外 かいがい のテロ支援 しえん 国家 こっか の支援 しえん を受 う けるNPAを完全 かんぜん 制圧 せいあつ することは難 むずか しく、2013年 ねん 時点 じてん 、武力 ぶりょく 行使 こうし は継続 けいぞく 中 ちゅう である。
ミンダナオ地区 ちく にイスラム教 いすらむきょう による自治 じち 区 く を作 つく ることを目的 もくてき としたモロ民族 みんぞく 解放 かいほう 戦線 せんせん (MNLF Moro National Liberation Front) は、1970年 ねん にフィリピン政府 せいふ 軍 ぐん に対 たい して武装 ぶそう 闘争 とうそう を開始 かいし し、MNLFと政府 せいふ 軍 ぐん の武力 ぶりょく 紛争 ふんそう は1996年 ねん まで継続 けいぞく した。1996年 ねん 、MNLFはフィリピン政府 せいふ との和平 わへい 協定 きょうてい を締結 ていけつ して武装 ぶそう 闘争 とうそう を終結 しゅうけつ し、フィリピン政府 せいふ はミンダナオ地区 ちく にMNLFのイスラム教 いすらむきょう による自治 じち を受 う け入 い れ、その後 ご はミンダナオ・イスラム自治 じち 区 く の与党 よとう として活動 かつどう している。しかし2013年 ねん 9月、後述 こうじゅつ するMILF主導 しゅどう の和平 わへい 交渉 こうしょう への反発 はんぱつ から、再 ふたた び政府 せいふ 軍 ぐん と衝突 しょうとつ した[23] 。
モロ・イスラム解放 かいほう 戦線 せんせん (MILF Moro Islamic Liberation Front) は、モロ国民 こくみん 解放 かいほう 戦線 せんせん (MNLF) がフィリピン政府 せいふ と和平 わへい 協定 きょうてい を締結 ていけつ しようと方針 ほうしん 転換 てんかん したことに反対 はんたい し、フィリピン政府 せいふ 軍 ぐん との武力 ぶりょく 闘争 とうそう を継続 けいぞく するために、1981年 ねん にMNLFから分離 ぶんり 独立 どくりつ し、フィリピン政府 せいふ 軍 ぐん に対 たい して武装 ぶそう 闘争 とうそう を継続 けいぞく した。1997年 ねん 、MILFはフィリピン政府 せいふ と停戦 ていせん 協定 きょうてい を締結 ていけつ したが、その協定 きょうてい は2000年 ねん にエストラーダ 政権 せいけん により破棄 はき された。2003年 ねん 、MILFはアロヨ政権 せいけん と停戦 ていせん 協定 きょうてい を締結 ていけつ したが、2005年 ねん にMILFは停戦 ていせん 協定 きょうてい を破棄 はき してフィリピン政府 せいふ 軍 ぐん に対 たい する武力 ぶりょく 攻撃 こうげき を再開 さいかい 。2012年 ねん 10月、政府 せいふ との間 あいだ で和平 わへい 枠組 わくぐ み合意 ごうい に至 いた る[24] 。
アブ・サヤフ・グループ (Abu Sayyaf Group)は、フィリピンのミンダナオ島 みんだなおとう 、スールー諸島 しょとう 、ボルネオ島 とう およびインドネシア 、マレーシア、タイ 、ミャンマー などの東南 とうなん アジア地域 ちいき にイスラム教 いすらむきょう で統治 とうち する国家 こっか の設立 せつりつ を目 め ざして、1990年 ねん にフィリピン政府 せいふ に対 たい して武装 ぶそう 闘争 とうそう を開始 かいし した。アブ・サヤフ・グループは、フィリピン政府 せいふ 軍 ぐん および一般 いっぱん 市民 しみん に対 たい して爆 ばく 弾 だん 攻撃 こうげき 、暗殺 あんさつ 、誘拐 ゆうかい ・監禁 かんきん 、身代金 みのしろきん 要求 ようきゅう を繰 く り返 かえ し、2000年 ねん 以後 いご は活動 かつどう 地域 ちいき をマレーシア、インドネシアへも拡大 かくだい し、2013年 ねん 時点 じてん 、武力 ぶりょく 闘争 とうそう を継続 けいぞく 中 ちゅう である。
アジア通貨 つうか 危機 きき 以降 いこう [ 編集 へんしゅう ]
フィリピン経済 けいざい に転機 てんき が訪 おとず れたのは、1990年代 ねんだい 後半 こうはん だった。1997年 ねん にアジア通貨 つうか 危機 きき が発生 はっせい すると、そのあおりを受 う けてペソ 暴落 ぼうらく に見舞 みま われたが、経済 けいざい がバブル 状態 じょうたい ではなかったので、財政 ざいせい 破綻 はたん したタイ、一時期 いちじき 国家 こっか 崩壊 ほうかい の危機 きき に陥 おちい ったインドネシア、国家 こっか 破綻 はたん しかけた韓国 かんこく などに比 くら べると回復 かいふく は早 はや く、国際 こくさい 通貨 つうか 基金 ききん (IMF)の管理 かんり 下 か になることを免 まぬか れた。
フィリピンの経常 けいじょう 収支 しゅうし は1000万 まん 人 にん に及 およ ぶ海外 かいがい 在住 ざいじゅう 労働 ろうどう 者 しゃ の送金 そうきん によって支 ささ えられており、出稼 でかせ ぎ 、特 とく に看護 かんご 師 し はフィリピンの有力 ゆうりょく な産業 さんぎょう と言 い ってもよい[25] 。主要 しゅよう な貿易 ぼうえき 相手 あいて 国 こく はアメリカと日本 にっぽん であるが、近年 きんねん は距離 きょり 的 てき にも近 ちか い中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく や中華民国 ちゅうかみんこく (台湾 たいわん )、大韓民国 だいかんみんこく との貿易 ぼうえき も増 ふ えている。
東南 とうなん アジアではベトナム・インドネシアと共 とも にNEXT11 の一角 いっかく にも数 かぞ えられており、今後 こんご も経済 けいざい 発展 はってん が期待 きたい できる新興 しんこう 国 こく の一 ひと つに数 かぞ えられている。
また、長年 ながねん の懸案 けんあん であった、ミンダナオ島 みんだなおとう を活動 かつどう 拠点 きょてん とする南部 なんぶ の武装 ぶそう ムスリム 勢力 せいりょく に対 たい しては、MILF(モロ・イスラム解放 かいほう 戦線 せんせん )との和解 わかい 交渉 こうしょう が成立 せいりつ するなどの進展 しんてん が見 み られた。ミンダナオ島 みんだなおとう にも、アメリカなどからの直接 ちょくせつ 投資 とうし も入 はい り始 はじ めている。一方 いっぽう 、ISIL への支持 しじ を明確 めいかく 化 か したアブ・サヤフ の活動 かつどう が活発 かっぱつ 化 か 。2017年 ねん 5月、フィリピン軍 ぐん は、ミンダナオ島 みんだなおとう マラウィ 市 し にてアブ・サヤフと市街 しがい 戦 せん になった[26] 。
2018年 ねん 7月 がつ 26日 にち 、ロドリゴ・ドゥテルテ 大統領 だいとうりょう はムスリムによる自治 じち 政府 せいふ 樹立 じゅりつ を認 みと める「バンサモロ基本 きほん 法 ほう 」に署名 しょめい [27] 。翌年 よくねん の住民 じゅうみん 投票 とうひょう の結果 けっか 、従来 じゅうらい のイスラム教徒 きょうと ミンダナオ自治 じち 地域 ちいき よりも強 つよ い自治 じち 権 けん を有 ゆう するバンサモロ自治 じち 地域 ちいき が発足 ほっそく した。
2020年 ねん 以降 いこう 、新型 しんがた コロナウイルスの世界 せかい 的 てき な感染 かんせん 拡大 かくだい に伴 ともな い、海外 かいがい へ赴 おもむ く出稼 でかせ ぎ者 しゃ やフィリピンに来訪 らいほう する観光 かんこう 客 きゃく の出入国 しゅつにゅうこく が難 むずか しくなった。さらに2021年 ねん 8月 がつ から10月 がつ にはマニラを中心 ちゅうしん に感染 かんせん 拡大 かくだい を防止 ぼうし するためにロックダウン も行 おこな われ、国内 こくない の経済 けいざい は大 おお きなダメージを受 う けた[28] [29] 。
2022年 ねん 初頭 しょとう 、感染 かんせん 者 しゃ 数 すう が減少 げんしょう 傾向 けいこう を見 み せたタイミングで入国 にゅうこく 制限 せいげん の緩和 かんわ が行 おこな われ、同年 どうねん 3月 がつ 末 まつ の時点 じてん で海外 かいがい からの観光 かんこう 客 きゃく の予 よ 約 やく 件数 けんすう は、2019年 ねん の72%のレベルまで回復 かいふく する傾向 けいこう を見 み せた[30] 。
ボンボン・マルコス 大統領 だいとうりょう
サラ・ドゥテルテ 副 ふく 大統領 だいとうりょう
元首 げんしゅ ・行政 ぎょうせい [ 編集 へんしゅう ]
大統領 だいとうりょう を元首 げんしゅ とする共和 きょうわ 制 せい 国家 こっか であり、フィリピンの大統領 だいとうりょう は行政府 ぎょうせいふ の長 なが である。大統領 だいとうりょう と副 ふく 大統領 だいとうりょう は、同日 どうじつ に別枠 べつわく で国民 こくみん の直接 ちょくせつ 選挙 せんきょ により選出 せんしゅつ される。任期 にんき は6年 ねん で、フィリピン憲法 けんぽう の規定 きてい により、再選 さいせん は禁止 きんし されている。
2022年 ねん フィリピン大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ では、ボンボン・マルコス が当選 とうせん した[31] 。
議会 ぎかい は、元老 げんろう 院 いん (上院 じょういん )と代議 だいぎ 院 いん (下院 かいん )の両院 りょういん 制 せい (二院 にいん 制 せい )。上院 じょういん は、24議席 ぎせき で任期 にんき 6年 ねん 。3年 ねん ごとに半数 はんすう 改選 かいせん 。下院 かいん は、憲法 けんぽう 上 じょう は250議席 ぎせき 以下 いか と規定 きてい されているが、現在 げんざい は214議席 ぎせき 。20%を政党 せいとう 別 べつ の候補者 こうほしゃ リストから、残 のこ りを小 しょう 選挙 せんきょ 区 く 制 せい で選出 せんしゅつ され任期 にんき は3年 ねん である。選挙 せんきょ は、西暦 せいれき が3で割 わ り切 き れる年 とし に行 おこな われる[注釈 ちゅうしゃく 1] 。アロヨ 政権 せいけん は現在 げんざい の大統領 だいとうりょう 制 せい から議院 ぎいん 内 ない 閣 かく 制 せい へ、両院 りょういん 制 せい 議会 ぎかい から一院制 いちいんせい へ移行 いこう する憲法 けんぽう 改正 かいせい を提案 ていあん したが進展 しんてん は見 み られなかった。なお、地方自治体 ちほうじちたい の州 しゅう 、市町村 しちょうそん の正 せい 副 ふく 首長 しゅちょう と地方 ちほう 議会 ぎかい の議員 ぎいん は任期 にんき 3年 ねん である。
フィリピン初 はつ の憲法 けんぽう は1899年 ねん に公布 こうふ されたマロロス憲法 けんぽう であり、アジア初 はつ の共和 きょうわ 制 せい を定 さだ めた憲法 けんぽう であった。次 つぎ は1902年 ねん のフィリピン組織 そしき 法 ほう (クーパー法 ほう )で選挙 せんきょ による議会 ぎかい が設置 せっち された[注釈 ちゅうしゃく 2] 。
1935年 ねん にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 大統領 だいとうりょう フランクリン・ルーズベルト の承認 しょうにん と国民 こくみん の賛成 さんせい でフィリピン1935年 ねん 憲法 けんぽう が実施 じっし され、フィリピン・コモンウェルス が成立 せいりつ 。大統領 だいとうりょう の権限 けんげん (行政 ぎょうせい 各部 かくぶ だけでなく地方 ちほう 自治 じち まで管理 かんり するなど)が強化 きょうか された[注釈 ちゅうしゃく 3] 。
1971年 ねん 6月 がつ に憲法 けんぽう 制定 せいてい 会議 かいぎ が開催 かいさい され、全面 ぜんめん 的 てき な改正 かいせい に着手 ちゃくしゅ した。熱心 ねっしん な討議 とうぎ の末 すえ 、新 しん 憲法 けんぽう 草案 そうあん は1972年 ねん 11月に入 はい って承認 しょうにん され、1973年 ねん 1月 がつ に実施 じっし された。このフィリピン1973年 ねん 憲法 けんぽう は、大統領 だいとうりょう 制 せい 下 か での議院 ぎいん 内 ない 閣 かく 制 せい が特徴 とくちょう である。しかし、欠点 けってん [注釈 ちゅうしゃく 4] もあり、1980年 ねん と1981年 ねん に一部 いちぶ 改正 かいせい された[注釈 ちゅうしゃく 5] [32] 。首相 しゅしょう 職 しょく は1986年 ねん に廃止 はいし された。
フィリピンの外務省 がいむしょう
東南 とうなん アジア諸国 しょこく 連合 れんごう (ASEAN)創設 そうせつ 以来 いらい の加盟 かめい 国 こく である。
日本 にっぽん との関係 かんけい [ 編集 へんしゅう ]
アメリカの支配 しはい を受 う けていた経緯 けいい から、日本 にっぽん と同 おな じく軍事 ぐんじ 的 てき 、経済 けいざい 的 てき 、政治 せいじ 的 てき にアメリカとの関係 かんけい が深 ふか い。米 べい 比 ひ 相互 そうご 防衛 ぼうえい 条約 じょうやく を結 むす び、かつては東南 とうなん アジア条約 じょうやく 機構 きこう に加盟 かめい していた。アメリカが介入 かいにゅう した20世紀 せいき 後半 こうはん の朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう 、ベトナム戦争 せんそう 、さらには21世紀 せいき 初頭 しょとう の対 たい テロ戦争 せんそう にも参戦 さんせん 。反対 はんたい 世論 せろん が多 おお かったイラク戦争 せんそう (武装 ぶそう 勢力 せいりょく によるフィリピン人 じん 拉致 らち 事件 じけん でフィリピン軍 ぐん はイラク から全面 ぜんめん 撤退 てったい した)に同調 どうちょう した。
一方 いっぽう で、かつてクラーク空軍 くうぐん 基地 きち にあった在 ざい 比 ひ 米 べい 軍 ぐん の軍人 ぐんじん による市民 しみん レイプ事件 じけん (英語 えいご 版 ばん ) では、米兵 べいへい 容疑 ようぎ 者 しゃ に対 たい し、最高 さいこう 裁判所 さいばんしょ で最高 さいこう 刑 けい となる終身 しゅうしん 刑 けい を確定 かくてい し、容疑 ようぎ 者 しゃ の身柄 みがら の引渡 ひきわた しにおいて米国 べいこく と外交 がいこう 問題 もんだい になった。他 た にスービック基地 きち でのレイプ事件 じけん (英語 えいご 版 ばん ) も問題 もんだい になった。
クラーク空軍 くうぐん 基地 きち は、1991年 ねん 4月 がつ に近 ちか くのピナトゥボ山 さん が噴火 ふんか し、火山灰 かざんばい の降灰 こうかい により基地 きち の大 だい 部分 ぶぶん が使用 しよう 不可能 ふかのう となり、アメリカは同 どう 基地 きち の放棄 ほうき を決定 けってい した。また、スービック海軍 かいぐん 基地 きち はアメリカ海軍 かいぐん のアジア最大 さいだい の国外 こくがい 基地 きち だったため維持 いじ を希望 きぼう したが、フィリピン共和 きょうわ 国 こく 政府 せいふ により拒否 きょひ されたため、両 りょう 基地 きち とも1991年 ねん 11月26日 にち にフィリピンへ返還 へんかん された。
2013年 ねん 1月 がつ 7日 にち 、米 べい 軍 ぐん 無人 むじん 航空機 こうくうき が漂流 ひょうりゅう されているのが発見 はっけん され、続 つづ いてフィリピン南西 なんせい 部 ぶ のパラワン島 とう 近 ちか くの世界 せかい 遺産 いさん に登録 とうろく されているトゥバタハ岩礁 がんしょう のサンゴ礁 さんごしょう で、米 べい 海軍 かいぐん の掃海 そうかい 艦 かん ガーディアンが座礁 ざしょう し、修復 しゅうふく 不可能 ふかのう な損傷 そんしょう を与 あた えた。無人 むじん 機 き の事故 じこ では、主権 しゅけん 侵害 しんがい との批判 ひはん は一部 いちぶ に留 とど まっていたが、ガーディアンの座礁 ざしょう 事故 じこ では、環境 かんきょう 保護 ほご 団体 だんたい や地元 じもと 政治 せいじ 家 か 、市民 しみん にまで非難 ひなん の声 こえ が広 ひろ がっている[33] 。
英語 えいご 教育 きょういく が進 すす んでいるため、フィリピンは英語 えいご 圏 けん での出稼 でかせ ぎに大 おお いに役立 やくだ っている。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん において、米 べい 軍 ぐん に協力 きょうりょく したフィリピン軍人 ぐんじん に対 たい しアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく での労働 ろうどう が許可 きょか され、多 おお くのフィリピン人 じん がアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく へ渡 わた ろうとしたものの、1924年 ねん のアメリカの移民 いみん 法 ほう によって、フィリピンからは年 とし 100人 にん がアメリカに渡 わた れるに過 す ぎなかった。1965年 ねん のアメリカの移民 いみん 法 ほう (英語 えいご 版 ばん ) によって、国 くに 別 べつ 人数 にんずう 制限 せいげん が改正 かいせい されて撤廃 てっぱい されたことにより、多 おお くのフィリピン人 じん がアメリカに入国 にゅうこく できるようになった。この時期 じき の出稼 でかせ ぎは、主 しゅ として医師 いし 、看護 かんご 師 し 、技術 ぎじゅつ 者 しゃ 、歯科 しか 技工 ぎこう 士 し など、高度 こうど な専門 せんもん 職 しょく に就 つ く者 もの が多 おお く、また1960年代 ねんだい には、ホテル のボーイやメイド 、看護 かんご 師 し 、家政 かせい 婦 ふ などの職 しょく を得 え て、ヨーロッパ に渡航 とこう する者 もの も出 で 始 はじ めている。近年 きんねん 、旬 しゅん な職業 しょくぎょう は「看護 かんご 師 し 」と「IT技術 ぎじゅつ 者 しゃ 」と言 い われており、特 とく に看護 かんご 師 し 不足 ふそく のアメリカでは、看護 かんご 師 し 資格 しかく で永住 えいじゅう 権 けん が確保 かくほ されるため、家族 かぞく も呼 よ び寄 よ せて、そのまま移民 いみん となるケースもある程 ほど である[34] 。
しかしフィリピン人 じん の富裕 ふゆう 層 そう やエリート層 そう や知識 ちしき 人 じん が、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく などの英語 えいご 圏 けん に移住 いじゅう してしまうケースが多 おお く、優秀 ゆうしゅう な人材 じんざい が海外 かいがい へ頭脳 ずのう 流出 りゅうしゅつ してしまうケースがとても多 おお いため、これがフィリピン経済 けいざい の発展 はってん を妨 さまた げている。
現在 げんざい ではフィリピン系 けい アメリカ人 じん はアメリカで2番目 ばんめ に多 おお いアジア系 けい で、移住 いじゅう や高 たか い出生 しゅっしょう 率 りつ で年々 ねんねん 増加 ぞうか し、現在 げんざい 400万 まん 人 にん に達 たっ する[35] 。
2000年代 ねんだい になり、米 べい 軍 ぐん がフィリピン国内 こくない の基地 きち から撤退 てったい したことを機 き に、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく による南シナ海 みなみしなかい の島嶼 とうしょ 部 ぶ への領有 りょうゆう 権 けん 主張 しゅちょう ・南シナ海 みなみしなかい 全域 ぜんいき の領海 りょうかい 主張 しゅちょう 、中国 ちゅうごく 人民 じんみん 解放 かいほう 軍 ぐん の台頭 たいとう による、東南 とうなん アジアのパワーバランスが悪化 あっか することに対応 たいおう するため、フィリピン政府 せいふ 内 ない でも米 べい 軍 ぐん の再 さい 駐留 ちゅうりゅう を望 のぞ む声 こえ も出 で てきている[36] 。米 べい 比 ひ 両国 りょうこく は2016年 ねん 3月 がつ 、米 べい 軍 ぐん がフィリピン国内 こくない の5基地 きち を利用 りよう する協定 きょうてい を結 むす んだ。パラワン島 とう のアントニオ・バウティスタ空軍 くうぐん 基地 きち 、ルソン島 とう のバサ基地 きち やフォート・マグサイサイ基地 きち などが対象 たいしょう である。
2022年 ねん 、米 べい 軍 ぐん がかつて使用 しよう していたスービック海軍 かいぐん 基地 きち をフィリピン海軍 かいぐん が利用 りよう を始 はじ めた[37] 。
周辺 しゅうへん 諸国 しょこく 関係 かんけい [ 編集 へんしゅう ]
フィリピンの大統領 だいとうりょう ロドリゴ・ドゥテルテ とマレーシアの首相 しゅしょう マハティール・ビン・モハマド (2018年 ねん 7月 がつ 15日 にち )
2000年代 ねんだい に入 はい り、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく がスカボロー礁 やスプラトリー諸島 しょとう の領有 りょうゆう 権 けん の主張 しゅちょう を活発 かっぱつ するようになり、実効 じっこう 支配 しはい を巡 めぐ り、2012年 ねん 4月 がつ に両国 りょうこく の公 おおやけ 船 せん が出動 しゅつどう する事態 じたい に至 いた った。この事件 じけん はその後 ご 、暫 しばら く貿易 ぼうえき や観光 かんこう などでしこりを残 のこ しており、以降 いこう 該当 がいとう 海域 かいいき などではお互 たが いに睨 にら み合 あ う状況 じょうきょう が多発 たはつ している。2013年 ねん 1月 がつ にはフィリピンが「平和 へいわ 的 てき 解決 かいけつ に向 む けたほぼ全 すべ ての政治 せいじ ・外交 がいこう 手段 しゅだん を尽 つ くしてしまった」として、国連 こくれん 海洋 かいよう 法 ほう 条約 じょうやく に基 もと づく国際 こくさい 仲裁 ちゅうさい 裁判 さいばん を請求 せいきゅう 。同年 どうねん 4月 がつ に国際 こくさい 海洋 かいよう 法 ほう 裁判所 さいばんしょ は仲裁 ちゅうさい 裁判 さいばん に必要 ひつよう な仲裁 ちゅうさい 人 じん 5人 にん を選定 せんてい したと発表 はっぴょう したが、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく は仲裁 ちゅうさい 自体 じたい に応 おう じない姿勢 しせい を示 しめ した。この係争 けいそう に関 かん して、フィリピンは自国 じこく だけでは解決 かいけつ に辿 たど り着 つ けないとして、同 おな じ領有 りょうゆう 権 けん で中国 ちゅうごく と争 あらそ っているベトナムや日本 にっぽん などと協力 きょうりょく し、日本 にっぽん からは海上保安庁 かいじょうほあんちょう が巡視 じゅんし 船 せん を提供 ていきょう したり、フィリピン海岸 かいがん 警備 けいび 隊 たい との合同 ごうどう 訓練 くんれん を行 おこな ったりしている。更 さら に、以前 いぜん 基地 きち ごと軍隊 ぐんたい を駐留 ちゅうりゅう をしていたアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく にも圧力 あつりょく をかけてもらうために、近年 きんねん はアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 軍 ぐん とフィリピン軍 ぐん の合同 ごうどう 演習 えんしゅう を行 おこな ったりしているが、アメリカ政府 せいふ としては、この件 けん に関 かん し中立 ちゅうりつ 的 てき な立場 たちば を維持 いじ することを表明 ひょうめい している[38] [39] 。
2013年 ねん 5月 がつ 9日 にち 、フィリピン公 おおやけ 船 せん が台湾 たいわん との排他 はいた 的 てき 経済 けいざい 水域 すいいき で係争 けいそう する海域 かいいき にて、警告 けいこく のない上 うえ 、作業 さぎょう 中 ちゅう の台湾 たいわん 籍 せき 漁船 ぎょせん 団 だん に乱射 らんしゃ し、銃弾 じゅうだん は1人 ひとり の台湾 たいわん 人 じん 漁師 りょうし に当 あ たりこの漁師 りょうし は死亡 しぼう した。台湾 たいわん 当局 とうきょく はフィリピン政府 せいふ に正式 せいしき な謝罪 しゃざい と賠償 ばいしょう を求 もと め、フィリピン政府 せいふ は後日 ごじつ この件 けん に関 かん し正式 せいしき な謝罪 しゃざい は受 う け入 い れられないとする一方 いっぽう 、「乗組 のりくみ 員 いん の遺族 いぞく にお悔 く やみを申 もう し上 あ げたい」と述 の べ、賠償 ばいしょう などを行 おこな うか検討 けんとう する方針 ほうしん を表明 ひょうめい [40] 。
海上 かいじょう 自衛隊 じえいたい が保有 ほゆう する対 たい 潜 せん 哨戒 しょうかい 機 き P-3C をフィリピン政府 せいふ が調達 ちょうたつ したいとの意向 いこう を示 しめ している件 けん について、P-3Cは高性能 こうせいのう な反面 はんめん 、海上 かいじょう で取得 しゅとく した情報 じょうほう の処理 しょり などの高度 こうど な運用 うんよう 能力 のうりょく が必要 ひつよう なことから、代 か わりとしてTC-90 を貸与 たいよ した[41] 。
国家 こっか 安全 あんぜん 保障 ほしょう [ 編集 へんしゅう ]
フィリピン軍 ぐん は陸軍 りくぐん 、海軍 かいぐん 、空軍 くうぐん の三軍 さんぐん により構成 こうせい される。2016年 ねん には、国内 こくない 総 そう 生産 せいさん (GDP)の1.28%を軍事 ぐんじ 費 ひ に充 あ てている。徴兵 ちょうへい 制度 せいど はなく、17歳 さい から23歳 さい (士官 しかん は20歳 さい から24歳 さい )の独身 どくしん の男女 だんじょ で、72時 じ 間 あいだ の大学 だいがく の履修 りしゅう (士官 しかん は学士 がくし )が志願 しがん できる志願 しがん 制度 せいど である。
軍隊 ぐんたい の始 はじ まりは、1868年 ねん にスペインが警察 けいさつ 軍 ぐん を創設 そうせつ したことによる。スペイン支配 しはい 下 か では、通常 つうじょう 軍 ぐん と国家 こっか 警察 けいさつ を使 つか い分 わ けた。アメリカ植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい 下 か では、正規 せいき 軍 ぐん をマニラおよびその周辺 しゅうへん に配置 はいち し、準 じゅん 軍事 ぐんじ 的 てき な国家 こっか 警察 けいさつ 軍 ぐん を全土 ぜんど に展開 てんかい した。1916年 ねん にConstabulary Academyが開校 かいこう 、1922年 ねん にフィリピン大学 だいがく に予備 よび 役 やく 見習 みならい 将校 しょうこう 団 だん (ROTC)が設立 せつりつ され、1936年 ねん に陸海空 りくかいくう の将校 しょうこう 養成 ようせい を目的 もくてき としたフィリピン士官 しかん 学校 がっこう (PMA)が設立 せつりつ された。国軍 こくぐん は治安 ちあん 対策 たいさく であり、米 べい 軍 ぐん が外的 がいてき 対策 たいさく を担当 たんとう した[注釈 ちゅうしゃく 6]
[42] 。
ルソン島 るそんとう 南部 なんぶ のマヨン山 さん はフィリピンで最 もっと も活発 かっぱつ な火山 かざん
地形 ちけい 図 ず
主要 しゅよう 火山 かざん の位置 いち
ルソン島 とう 、ビサヤ諸島 しょとう 、ミンダナオ島 みんだなおとう などを中心 ちゅうしん に、大小 だいしょう 合 あ わせて7641の島々 しまじま から構成 こうせい される[2] 多 おお 島 とう 海 うみ 国家 こっか である。フィリピン海 かい 、南シナ海 みなみしなかい 、セレベス海 かい に囲 かこ まれる。フィリピン海 うみ のフィリピン海溝 かいこう は太平洋 たいへいよう 側 がわ にあり、世界 せかい 3位 い の深 ふか さである。この海溝 かいこう は、ルソン島 るそんとう 中部 ちゅうぶ からミンダナオ島 みんだなおとう のずっと南方 なんぽう まで続 つづ く。いくつもの海溝 かいこう の地殻 ちかく 運動 うんどう が東西 とうざい 1100 km、南北 なんぼく 1800 kmの海域 かいいき に大小 だいしょう 合 あ わせて7000以上 いじょう の島々 しまじま が散 ち らばるという地形 ちけい を作 つく り出 だ したと考 かんが えられている[43] 。
国土 こくど は約 やく 30万 まん 平方 へいほう kmで、マヨン山 さん 、ピナトゥボ山 さん [注釈 ちゅうしゃく 7] 、タール火山 かざん など活動 かつどう 中 ちゅう の火山 かざん を含 ふく む山岳 さんがく と熱帯 ねったい 雨林 うりん が占 し める。マニラの東南 とうなん に位置 いち するパナハオ山 さん はラグナ州 しゅう とケソン州 しゅう の境 さかい に聳 そび える標高 ひょうこう 2177 mの休火山 きゅうかざん であり、宗教 しゅうきょう 的 てき な聖地 せいち 、聖山 ひじりやま として知 し られている[44] 。
最高 さいこう 地点 ちてん はミンダナオ島 みんだなおとう の東部 とうぶ よりにあるアポ山 やま の標高 ひょうこう 2954 mである。因 ちな みに、フィリピン最大 さいだい の島 しま であるルソン島 とう の最高 さいこう 地点 ちてん は、マニラの北 きた の島 しま の北 きた 寄 よ りに位置 いち する標高 ひょうこう 2934 mのプログ山 さん (Mt. Pulog)である。
プレート境界 きょうかい 付近 ふきん の環太平洋 かんたいへいよう 造山 つくりやま 帯 たい に当 あ たる地域 ちいき であることもあり、プレートテクトニクス の影響 えいきょう で、火山 かざん が点在 てんざい し、地震 じしん の頻発 ひんぱつ 地帯 ちたい としても知 し られる[注釈 ちゅうしゃく 8] 。また、鉱物 こうぶつ 資源 しげん に富 と み、金 きむ 鉱床 こうしょう は南 みなみ アフリカ に次 つ ぐ規模 きぼ を誇 ほこ る。銅 どう 鉱床 こうしょう は世界 せかい 規模 きぼ で、ニッケル 、クロム 、亜鉛 あえん も多 おお い。地熱 じねつ 発電 はつでん は電力 でんりょく 需要 じゅよう の18%を賄 まかな い、アメリカに次 つ ぐ量 りょう である。
220万 まん 平方 へいほう kmに達 たっ する領海 りょうかい には豊富 ほうふ な海洋 かいよう 資源 しげん があり、魚類 ぎょるい は約 やく 2400種 しゅ 、サンゴは約 やく 500種 しゅ が生息 せいそく していると言 い われる。アポ・リーフはオーストラリアのグレート・バリア・リーフ に次 つ ぐ規模 きぼ のサンゴ礁 さんごしょう である。
スプラトリー諸島 しょとう (南沙 なんさ 諸島 しょとう )で領有 りょうゆう 権 けん 問題 もんだい を抱 かか えている。
違法 いほう 伐採 ばっさい による森林 しんりん 減少 げんしょう も大 おお きな問題 もんだい である。
全国 ぜんこく 的 てき に、日本 にっぽん のような詳細 しょうさい な地図 ちず ・道路 どうろ 地図 ちず は発行 はっこう されておらず書店 しょてん 、空港 くうこう などで購入 こうにゅう できる地図 ちず も、非常 ひじょう に大 おお まかなものである。むしろインターネット 経由 けいゆ でGoogle マップ を閲覧 えつらん した方 ほう が詳細 しょうさい な地図 ちず 情報 じょうほう を得 え られる。
台風 たいふう 第 だい 30号 ごう 、ハイエン
フィリピンは熱帯 ねったい 海洋 かいよう 性 せい 気候 きこう で、1年 ねん の大半 たいはん は暑 あつ く湿度 しつど が高 たか い。季 き 節 ぶし は夏 なつ と秋 あき のみで、3月 がつ 下旬 げじゅん から10月 がつ 上旬 じょうじゅん が猛暑 もうしょ 日 び の夏 なつ で10月 がつ 下旬 げじゅん から3月 がつ 上旬 じょうじゅん が涼 すず しく乾燥 かんそう している秋 あき とされている。3月から5月 がつ は初夏 しょか 、6月 がつ から10月 がつ は雨季 うき になる。夏 なつ には復活 ふっかつ 祭 さい があり、秋 あき にはハロウィン やクリスマス あるいは新年 しんねん のイベントを祝 いわ っている。南西 なんせい からと北東 ほくとう からの季節風 きせつふう がある。気温 きおん は21℃ から32℃で、1月が最 もっと も低 ひく く、5月が最 もっと も高 たか い。
台風 たいふう の通 とお り道 みち にあたり、7月 がつ から10月 がつ にかけて付近 ふきん を通過 つうか する台風 たいふう が多 おお く、年間 ねんかん では平均 へいきん 19回 かい 通過 つうか する。フィリピンのはるか東 ひがし の西太平洋 にしたいへいよう 海上 かいじょう で6月 がつ から12月 がつ にかけて熱帯 ねったい 低 てい 気圧 きあつ が多 おお く発生 はっせい し、西 にし に進 すす み、一部 いちぶ は台風 たいふう にまで発達 はったつ して、フィリピンやインドシナ半島 いんどしなはんとう に進 すす むものがある。なお、季節風 きせつふう の影響 えいきょう を受 う ける地域 ちいき ながら、海 うみ に囲 かこ まれているために、冬季 とうき に卓越 たくえつ する北西 ほくせい からの季節風 きせつふう も、夏季 かき に卓越 たくえつ する南西 なんせい からの季節風 きせつふう も、いずれも降雨 こうう をもたらす[45] 。ただし、先述 せんじゅつ の台風 たいふう の影響 えいきょう もあって、特 とく に5月から11月 がつ にかけて多雨 たう となる[45] 。なお、年間 ねんかん 降水 こうすい 量 りょう は東部 とうぶ 海岸 かいがん 山岳 さんがく 地帯 ちたい で最大 さいだい 5000 mmに達 たっ することがある。
地方 ちほう 政治 せいじ 家 か は、地方 ちほう 選挙 せんきょ 区 く から選 えら ばれる議員 ぎいん (下院 かいん 議員 ぎいん )や州 しゅう 知事 ちじ 、市長 しちょう 、町長 ちょうちょう などの地方 ちほう 政府 せいふ の首長 しゅちょう が当 あ てはまる。
地方 ちほう 政治 せいじ 家 か は、大 だい 土地 とち 所有 しょゆう の大 だい 地主 じぬし で地方 ちほう 権力 けんりょく を握 にぎ り、経済 けいざい 的 てき 支配 しはい を背景 はいけい に、世襲 せしゅう 政治 せいじ 家 か が跋扈 ばっこ する。つまりは「金持 かねも ちによる支配 しはい 」。地主 じぬし と農民 のうみん が互報酬 ほうしゅう 制 せい 、つまりパトロン・クライアント関係 かんけい (コスタリカ方式 ほうしき )で結 むす び付 つ けられている。伝統 でんとう 的 てき な政治 せいじ 家 か (トラディショナル・ポリティシャン)を省略 しょうりゃく した「トラポ」[注釈 ちゅうしゃく 9] に象徴 しょうちょう される汚職 おしょく 、公職 こうしょく を利用 りよう した汚職 おしょく による私的 してき 蓄財 ちくざい というイメージが強 つよ い。また、私兵 しへい 的 てき な暴力 ぼうりょく 集団 しゅうだん を持 も つ地方 ちほう 政治 せいじ 家 か や、選挙 せんきょ 時 じ に投票 とうひょう 者 しゃ に通貨 つうか を配 くば り買収 ばいしゅう する活動 かつどう もする。
これらの地方 ちほう 政治 せいじ 家 か を表現 ひょうげん する場合 ばあい 、「ボス 」「ウォーロード 」などが使 つか われる。例 れい として、イサベラ州 しゅう のディー、ヌエバ・エシハ州 しゅう のホソン、タルラック州 しゅう のコファンコとアキノ、カマリネス・スル州 しゅう のフエンテペリャ、セブ州 しゅう のオスメーニャとドゥラノなど。
地方 ちほう 政治 せいじ 家 か は中央 ちゅうおう 政府 せいふ から比較的 ひかくてき 自由 じゆう で、自分 じぶん の支配 しはい 地 ち では「好 す き勝手 かって やり放題 ほうだい 」という認識 にんしき が多 おお い[46] 。
地方 ちほう 行政 ぎょうせい 区画 くかく [ 編集 へんしゅう ]
フィリピンの行政 ぎょうせい 区分 くぶん
地方 ちほう 行政 ぎょうせい の最 さい 上位 じょうい 単位 たんい は、州 しゅう と公認 こうにん 都市 とし である。州 しゅう と都市 とし の数 かず は、2006年 ねん 12月時点 じてん で、州 しゅう が81、公認 こうにん 都市 とし が61。これらは、17の地方 ちほう にグループ分 わ けされる。
都市 とし
行政 ぎょうせい 区分 くぶん
人口 じんこう (人 ひと )
都市 とし
行政 ぎょうせい 区分 くぶん
人口 じんこう (人 ひと )
1
ケソン
マニラ首都 しゅと 圏 けん
2,960,048
11
ヴァレンズエラ
マニラ首都 しゅと 圏 けん
714,978
2
マニラ
マニラ首都 しゅと 圏 けん
1,846,513
12
ダスマリニャス
カラバルソン地方 ちほう カヴィテ州 しゅう
703,141
3
ダバオ
ダバオ地方 ちほう 南 みなみ ダバオ州 しゅう
1,776,949
13
ジェネラル・サントス
ソクサージェン地方 ちほう 南 みなみ コタバト州 しゅう
697,315
4
カローカン
マニラ首都 しゅと 圏 けん
1,661,584
14
パラニャーケ
マニラ首都 しゅと 圏 けん
689,992
5
サンボアンガ
サンボアンガ半島 はんとう 地方 ちほう
977,234
15
バコール
カラバルソン地方 ちほう カヴィテ州 しゅう
664,625
6
セブ
中部 ちゅうぶ ビサヤ地方 ちほう セブ州 しゅう メトロ・セブ
964,169
16
サン・ホセ・デル・モンティ
中部 ちゅうぶ ルソン地方 ちほう ブラカン州 しゅう
651,813
7
アンティポロ
カラバルソン地方 ちほう リサール州 しゅう
887,399
17
マカティ
マニラ首都 しゅと 圏 けん
629,616
8
タギッグ
マニラ首都 しゅと 圏 けん
886,722
18
ラスピニャス
マニラ首都 しゅと 圏 けん
606,293
9
パシッグ
マニラ首都 しゅと 圏 けん
803,159
19
バコロド
西 にし ビサヤ地方 ちほう 西 にし ネグロス州 しゅう
600,783
10
カガヤン・デ・オロ
北 きた ミンダナオ地方 ちほう 東 あずま ミサミス州 しゅう
728,402
20
モンティンルパ
マニラ首都 しゅと 圏 けん
543,445
2020年 ねん 国勢調査 こくせいちょうさ
アメリカ中央 ちゅうおう 情報 じょうほう 局 きょく (CIA)によると、フィリピンの2017年 ねん の購買 こうばい 力 りょく 平価 へいか GDP は8756億 おく ドルである。1人 ひとり 当 あ たりでは8300ドルであり、世界 せかい 平均 へいきん の半分 はんぶん ほどである。フィリピンの経済 けいざい は、輸出 ゆしゅつ への依存 いぞん 度 ど の低 ひく さ、比較的 ひかくてき 堅調 けんちょう な消費 しょうひ 、1000万 まん 人 にん を数 かぞ える出稼 でかせ ぎ労働 ろうどう 者 しゃ による海外 かいがい からフィリピンへの仕送 しおく り、急 きゅう 成長 せいちょう するサービス業 ぎょう により、世界 せかい 経済 けいざい の混乱 こんらん の中 なか で比較的 ひかくてき 安定 あんてい を保 たも ってきた。2017年 ねん には、大胆 だいたん なインフラストラクチャー 支出 ししゅつ の発表 はっぴょう の影響 えいきょう もあり、2008年 ねん の世界 せかい 金融 きんゆう 危機 きき 以降 いこう 初 はじ めて経常 けいじょう 赤字 あかじ に陥 おちい った。ただ、海外 かいがい からの仕送 しおく りや金融 きんゆう システムは安定 あんてい している[47] 。ただし、国民 こくみん の貧富 ひんぷ の差 さ は大 おお きく[48] 、都市 とし 部 ぶ では貧困 ひんこん 層 そう が残飯 ざんぱん を食 た べざるを得 え ないパグパグ などの問題 もんだい も発生 はっせい している。
フィリピンの農業 のうぎょう
主要 しゅよう な生産 せいさん 物 ぶつ の1つである砂糖 さとう
フィリピンは他 た の東南 とうなん アジア新興 しんこう 国 こく と同様 どうよう に基本 きほん 的 てき には農業 のうぎょう 国 こく であり、全 ぜん 人口 じんこう の約 やく 40%が第 だい 一 いち 次 じ 産業 さんぎょう に従事 じゅうじ している。熱帯 ねったい に属 ぞく することから多種 たしゅ 多様 たよう な作物 さくもつ を作 つく ることが可能 かのう で、サトウキビ やココナッツ 、コプラ 、マニラ麻 まにらあさ 、タバコ (主 おも に葉 は 巻 ま きたばこ用 よう )、バナナ 、マンゴー 、パイナップル などの生産 せいさん が盛 さか んである。
主食 しゅしょく 用 よう にはコメ 、トウモロコシ を産 む し、特 とく に米 べい の生産 せいさん が多 おお い。毎年 まいとし 約 やく 1500万 まん トンもの米 こめ を産出 さんしゅつ する世界 せかい 第 だい 8位 い の米 べい 生産 せいさん 国 こく であるが、その自給 じきゅう 率 りつ は低 ひく く、世界 せかい 最大 さいだい の米 べい 輸入 ゆにゅう 国 こく である。アジア有数 ゆうすう の農業 のうぎょう 国 こく でありながら、大量 たいりょう の食糧 しょくりょう を世界 せかい から輸入 ゆにゅう するというジレンマに陥 おちい っている。
そのことが、フィリピンの社会 しゃかい 問題 もんだい となっており、2007年 ねん -2008年 ねん の世界 せかい 食料 しょくりょう 価格 かかく 危機 きき には政治 せいじ 的 てき に大 おお きな影響 えいきょう を受 う けた。その根本 こんぽん 原因 げんいん には過剰 かじょう な人口 じんこう と、過酷 かこく な貧困 ひんこん 問題 もんだい に加 くわ え、前 ぜん 近代 きんだい 的 てき な農法 のうほう から来 く る農業 のうぎょう 生産 せいさん 性 せい の低 ひく さと、フィリピン政府 せいふ ・官僚 かんりょう の腐敗 ふはい (en ) 、外貨 がいか を得 え るために輸出 ゆしゅつ 用 よう 商品 しょうひん 作物 さくもつ の栽培 さいばい に偏 かたよ っているなど、様々 さまざま な原因 げんいん が指摘 してき されている。
かつては緑 みどり の革命 かくめい により、1970年代 ねんだい から1980年代 ねんだい を通 とお して米 べい の大 だい 増産 ぞうさん に成功 せいこう し、米 べい 自給 じきゅう 率 りつ 100%を達成 たっせい し、米 べい 輸出 ゆしゅつ 国 こく となったが、1990年代 ねんだい に入 はい ると、緑 みどり の革命 かくめい は頭打 あたまう ちを迎 むか えるようになり、生産 せいさん 量 りょう の横 よこ ばいになり、あるいは化学 かがく 肥料 ひりょう の使 つか いすぎ、水 みず 資源 しげん の枯渇 こかつ などで生産 せいさん 量 りょう の減少 げんしょう さえ引 ひ き起 お こし、工業 こうぎょう 化 か による農地 のうち 減少 げんしょう もあって、再 ふたた び米 まい 輸入 ゆにゅう 国 こく に逆戻 ぎゃくもど りしてしまう。現在 げんざい も食料 しょくりょう の自給 じきゅう 率 りつ は遅々 ちち として回復 かいふく せず、国民 こくみん の生活 せいかつ は昨今 さっこん の穀物 こくもつ 価格 かかく の高騰 こうとう やベトナム政府 せいふ の米 べい 輸出 ゆしゅつ 制限 せいげん 措置 そち の影響 えいきょう を大 おお きく受 う けている。漁業 ぎょぎょう は全国 ぜんこく で幅広 はばひろ く行 おこな われるが、自給 じきゅう 用 よう の小規模 しょうきぼ なものが多 おお い。
豊富 ほうふ な森林 しんりん を有 ゆう しているため、林業 りんぎょう は盛 さか んであり、マホガニー 、ラワン材 ざい なども重要 じゅうよう な輸出 ゆしゅつ 品 ひん となっている。アメリカ領土 りょうど になった当時 とうじ の1898年 ねん 、国土 こくど の70%は森林 しんりん で覆 おお われていた。航空 こうくう 写真 しゃしん での森林 しんりん 調査 ちょうさ が始 はじ まった1968年 ねん には、55.5%が残 のこ されていた。しかし、1981年 ねん の調査 ちょうさ では40.8%にまで減 へ っていた。そして原生 げんせい 林 りん は森林 しんりん 面積 めんせき の13%ほどしかない[49] 。森林 しんりん の減少 げんしょう は21世紀 せいき に入 はい っても続 つづ き、2003年 ねん に256万 まん ha の面積 めんせき であった閉鎖 へいさ 林 りん (面積 めんせき の40%以上 いじょう が樹木 じゅもく に覆 おお われた森林 しんりん )は、2010年 ねん に193万 まん haにまで縮小 しゅくしょう 。旧来 きゅうらい 型 がた の焼畑 やきばた 農業 のうぎょう の拡大 かくだい や新 あら たな農地 のうち を森林 しんりん の開墾 かいこん により求 もと める手法 しゅほう は、地域 ちいき 住民 じゅうみん の貧困 ひんこん の解消 かいしょう と森林 しんりん 破壊 はかい をトレードする図式 ずしき となっており歯止 はど めがかかりにくい状況 じょうきょう になっている。2010年代 ねんだい に入 はい るとベニグノ・アキノ 大統領 だいとうりょう は、森林 しんりん 回復 かいふく に向 む けた植林 しょくりん プログラムを実施 じっし 。2016年 ねん までの大統領 だいとうりょう 在任 ざいにん 中 ちゅう に150万 まん haの面積 めんせき に15億 おく 本 ほん の苗木 なえぎ を植 う えるという目標 もくひょう を打 う ち出 だ している[50] 。
アメリカによる植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい 下 か では農業 のうぎょう 政策 せいさく が失敗 しっぱい し、スペイン時代 じだい のプランテーション 農業 のうぎょう に基 もと づく地主 じぬし と小作 こさく 人 じん の関係 かんけい が現在 げんざい も続 つづ いている。この地主 じぬし は全国 ぜんこく に数 すう 十 じゅう 人 にん おり、彼 かれ らの家族 かぞく が国土 こくど の半分 はんぶん 以上 いじょう の土地 とち を所有 しょゆう している。農村 のうそん 部 ぶ では半数 はんすう 以上 いじょう が1日 にち 1ドル以下 いか の生活 せいかつ をする最 さい 貧困 ひんこん 層 そう で、これがミンダナオ島 みんだなおとう イスラム教 いすらむきょう 地域 ちいき では更 さら に75%以上 いじょう が最 さい 貧困 ひんこん 層 そう とされる。こうした貧困 ひんこん の緩和 かんわ を目指 めざ して、政府 せいふ は農業 のうぎょう ・農村 のうそん 開発 かいはつ プログラムとして、農業 のうぎょう 省 しょう (DA )及 およ び農地 のうち 改革 かいかく 省 しょう (DAR )を中心 ちゅうしん に農業 のうぎょう の近代 きんだい 化 か やインフラ整備 せいび を進 すす めようとしている[51] 。
植民 しょくみん 地 ち 時代 じだい ・独裁 どくさい 時代 じだい に一部 いちぶ の特権 とっけん 階層 かいそう が経済 けいざい を独占 どくせん してきたアシエンダ制 せい (大 だい 農園 のうえん )の影響 えいきょう が残 のこ っており、財閥 ざいばつ による寡占 かせん 状態 じょうたい にある。Andrés Soriano によって急 きゅう 成長 せいちょう したサンミゲル醸造 じょうぞう 所 しょ (英語 えいご 版 ばん ) を傘下 さんか に収 おさ めるサン・ミゲル 社 しゃ 、不動産 ふどうさん 開発 かいはつ で成功 せいこう したアヤラ 財閥 ざいばつ 、砂糖 さとう プランテーションから不動産 ふどうさん 開発 かいはつ に多角 たかく 化 か したアラネタ財閥 ざいばつ (英語 えいご 版 ばん ) 、Ortigas Center を所有 しょゆう するオルティガス財閥 ざいばつ (英語 えいご 版 ばん ) 、ミンダナオのバナナプランテーションや銃器 じゅうき メーカーArmscor で有名 ゆうめい なツアソン財閥 ざいばつ (Tuason Family)、コラソン・アキノ の父 ちち Jose Cojuangco の興 おこ したホセ・コファンコ・アンド・サンズ (Jose Cojuangco and Sons Inc., JCSI) 社 しゃ を擁 よう すコファンコ財閥 ざいばつ 、Alfonso Yuchengco 率 ひき いるユーチェンコ財閥 ざいばつ (Yuchengco Group)、John Gokongwei 率 ひき いるコーヒー会社 かいしゃ や食品 しょくひん 会社 かいしゃ Universal Robina で有名 ゆうめい なゴコンウェイ財閥 ざいばつ (Gokongwei)、ヘンリー・シィ (英語 えいご 版 ばん ) 率 ひき いるSMプライムホールディングス (英語 えいご 版 ばん ) を擁 よう すシューマート財閥 ざいばつ (SM Investments Corporation )、マリアノ・ケ (Mariano Que ) 率 ひき いるMercury Drug などが知 し られている。
鉱業 こうぎょう ・エネルギー[ 編集 へんしゅう ]
フィリピンは鉱物 こうぶつ 資源 しげん (銅 どう 、金 きむ 、ニッケル 、クロム など)に恵 めぐ まれた国 くに で、かつてはインドネシアに次 つ ぐ東南 とうなん アジア有数 ゆうすう の鉱産 こうさん 国 こく であったが、1980年代 ねんだい から衰退 すいたい し始 はじ め、銅 どう の生産 せいさん 量 りょう は1980年 ねん の30万 まん トンをピークに落 お ち込 こ みが続 つづ き、2000年 ねん には3万 まん トンしか生産 せいさん されず、この20年間 ねんかん で銅 どう 生産 せいさん 量 りょう は10分 ぶん の1にまで落 お ち込 こ んでいる。これは、生産 せいさん コストの上昇 じょうしょう 、金属 きんぞく 価格 かかく の低迷 ていめい によって引 ひ き起 お こされ、さらに1986年 ねん に起 お こったマルコス元 もと 大統領 だいとうりょう の亡命 ぼうめい に見 み られるような政治 せいじ 的 てき 、社会 しゃかい 的 てき 不安 ふあん が鉱業 こうぎょう の衰退 すいたい に拍車 はくしゃ を掛 か けた。1994年 ねん の鉱産 こうさん 税 ぜい の減税 げんぜい 、1995年 ねん の新 しん 鉱業 こうぎょう 法 ほう 制定 せいてい により、鉱業 こうぎょう の再生 さいせい が進 すす むものと見 み られたのにも拘 かかわ らず、その後 ご も鉱業 こうぎょう は冷 ひ え込 こ んでいる。操業 そうぎょう 中 ちゅう の鉱山 こうざん も2001年 ねん には12鉱山 こうざん (金 きむ 鉱山 こうざん 3、銅山 どうざん 4、ニッケル鉱山 こうざん 3、クロマイト2鉱山 こうざん )となっている。しかし、未 み 開発 かいはつ の鉱山 こうざん もまだまだ多数 たすう 存在 そんざい しているとされており、北 きた スリガオ州 しゅう 、マニラなどで優良 ゆうりょう な金鉱 きんこう や銅鉱 どうこう が発見 はっけん されており、セブ でも新 あら たに金 かね 、銅 どう 、亜鉛 あえん を含 ふく む多 た 金属 きんぞく 鉱床 こうしょう が発見 はっけん されており、フィリピン鉱業 こうぎょう の潜在 せんざい 能力 のうりょく は非常 ひじょう に高 たか いものである。
国内 こくない 唯一 ゆいいつ のマランパヤ天然 てんねん ガス田 た は枯渇 こかつ が予想 よそう されており、石炭 せきたん 火力 かりょく 発電 はつでん への依存 いぞん を減 へ らして地球 ちきゅう 温暖 おんだん 化 か 抑制 よくせい を進 すす めるため、1984年 ねん に完成 かんせい したものの運転 うんてん していないバターン原子力 げんしりょく 発電 はつでん 所 しょ の稼働 かどう を目指 めざ している[52] 。
工業 こうぎょう ・貿易 ぼうえき [ 編集 へんしゅう ]
色 いろ と面積 めんせき で示 しめ したフィリピンの輸出 ゆしゅつ 品目 ひんもく
フィリピンは工業 こうぎょう の中心 ちゅうしん は食品 しょくひん 加工 かこう 、製糖 せいとう 、製剤 せいざい 、繊維 せんい などの軽工業 けいこうぎょう が中心 ちゅうしん である。近年 きんねん では電子 でんし 部品 ぶひん の生産 せいさん も盛 さか んである。フィリピンの工業 こうぎょう 化 か はマルコス政権 せいけん 時代 じだい から図 はか られ、中国 ちゅうごく やベトナムなどの共産 きょうさん 圏 けん と対峙 たいじ するために、反共 はんきょう の砦 とりで としてアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく に軍事 ぐんじ 的 てき ・政治 せいじ 的 てき に従属 じゅうぞく する代 か わりに莫大 ばくだい な支援 しえん を受 う けて、マルコス政権 せいけん が開発 かいはつ 独裁 どくさい を進 すす めた結果 けっか 、農業 のうぎょう 国 こく から軽工業 けいこうぎょう 国 こく へと変貌 へんぼう を遂 と げ、1960年代 ねんだい にはフィリピンは東南 とうなん アジアで最 もっと も豊 ゆた かな国 くに となった。
しかし1980年 ねん を境 さかい に、1人 ひとり 当 あ たりの所得 しょとく は次第 しだい に頭打 あたまう ちとなり、独裁 どくさい による政治 せいじ 腐敗 ふはい や1983年 ねん に発生 はっせい したアキノ 上院 じょういん 議員 ぎいん の暗殺 あんさつ 事件 じけん などを経 へ て、1986年 ねん のエドゥサ革命 かくめい によりマルコス政権 せいけん が崩壊 ほうかい する。
そして、もともと脆弱 ぜいじゃく だったフィリピンの社会 しゃかい 情勢 じょうせい は一気 いっき に政情 せいじょう 不安 ふあん 状態 じょうたい に陥 おちい り、フィリピン共産党 きょうさんとう 系 けい の新 しん 人民 じんみん 軍 ぐん やイスラム教 いすらむきょう が主流 しゅりゅう を占 し めるモロ族 ぞく との内戦 ないせん 状態 じょうたい が激化 げきか すると、次第 しだい に外国 がいこく 企業 きぎょう にとって「ビジネスのやりにくい国 くに 」「投資 とうし のしにくい国 くに 」「規制 きせい の多 おお い国 くに 」になり、タイやマレーシアやベトナムなど、他 た のASEAN諸国 しょこく が急 きゅう 成長 せいちょう するなかで「東南 とうなん アジアの病人 びょうにん 」と言 い われるほど、フィリピンの経済 けいざい 成長 せいちょう が伸 の び悩 なや んでいく。
フィリピンのインフラストラクチャーも極 きわ めて貧弱 ひんじゃく で、とりわけ高速 こうそく 道路 どうろ ・鉄道 てつどう 、電力 でんりょく やエネルギー などの社会 しゃかい 資本 しほん の立 た ち遅 おく れなどが、工業 こうぎょう 化 か を妨 さまた げる一 ひと つの要因 よういん となっている。その代 か わりに、重工業 じゅうこうぎょう 化 か がタイなどに比 くら べると、まだ進 すす んでいないため、皮肉 ひにく にも今 いま のところは原油 げんゆ 価格 かかく の変動 へんどう を受 う けにくいとも言 い える。
また、フィリピンはその地理 ちり から、天然 てんねん の良港 りょうこう が多数 たすう あることを生 い かした造船 ぞうせん 業 ぎょう が盛 さか んで、2010年 ねん 時点 じてん では造船 ぞうせん 業 ぎょう で世界 せかい 第 だい 4位 い の規模 きぼ を誇 ほこ る[53] [54] 。日系 にっけい ・独 どく 系 けい などの自動車 じどうしゃ メーカーの組立 くみたて 工場 こうじょう は、カビテ州 しゅう やラグナ州 しゅう に集中 しゅうちゅう し、エアバス やボーイング の航空機 こうくうき 部品 ぶひん 工場 こうじょう は、バギオ市 し 近郊 きんこう に集中 しゅうちゅう する。
貿易 ぼうえき 額 がく では中国 ちゅうごく が圧倒 あっとう しており、2位 い の日本 にっぽん と3位 い のアメリカの貿易 ぼうえき 額 がく 合計 ごうけい に比肩 ひけん する。
ビジネス・プロセス・アウトソーシング (BPO)は観光 かんこう と並 なら び、今後 こんご フィリピンで最 もっと も成長 せいちょう するであろう産業 さんぎょう だと見 み られている[56] [57] 。特 とく にコールセンター 業 ごう が有名 ゆうめい で、労働 ろうどう 力 りょく が安価 あんか であることと教育 きょういく 水準 すいじゅん が高 たか いことに加 くわ えて、元々 もともと アメリカの植民 しょくみん 地 ち であり暫定 ざんてい 措置 そち としてではあるが公用 こうよう 語 ご が英語 えいご と定 さだ められ広範 こうはん に使 つか われていることもあり、欧米 おうべい 企業 きぎょう に人気 にんき がある。2010年 ねん にはインド を抜 ぬ いて世界 せかい 最大 さいだい の委託 いたく 先 さき となっている[58] [59] 。BPOの雇用 こよう 者 しゃ 数 すう は2005年 ねん には約 やく 10万 まん 人 にん だったのが2012年 ねん には約 やく 70万 まん 人 にん に増加 ぞうか しており[60] 、年間 ねんかん 110億 おく ドルを売 う り上 あ げている[61] 。2016年 ねん にはさらに約 やく 130万 まん 人 にん の雇用 こよう と年間 ねんかん 274億 おく ドルの売 う り上 あ げを生 う み出 だ すと予測 よそく されている[62] 。
その他 た にも、近隣 きんりん の日本 にっぽん や韓国 かんこく など非 ひ 英語 えいご 圏 けん の国 くに からの英語 えいご の語学 ごがく 留学 りゅうがく 先 さき としても人気 にんき がある。
中東 ちゅうとう 地域 ちいき などに建設 けんせつ 労働 ろうどう 者 しゃ 、メイド 、家政 かせい 婦 ふ として出稼 でかせ ぎ を行 おこな うフィリピン人 じん は多 おお く、彼 かれ らが本国 ほんごく へ送金 そうきん する仕送 しおく り額 がく は2016年 ねん 現在 げんざい 、1兆 ちょう 2780億 おく ペソ と名目 めいもく GDP 比率 ひりつ で8.8%に相当 そうとう する額 がく となっている[63] 。ただし彼 かれ らが勤務 きんむ 先 さき で良好 りょうこう な労働 ろうどう 環境 かんきょう に恵 めぐ まれているとは限 かぎ らず、しばしば虐待 ぎゃくたい に遭 あ う被害 ひがい を受 う け、国際 こくさい 問題 もんだい 化 か することもある[64] 。
エルニド
セブ島 とう やボラカイ島 とう など、リゾート を中心 ちゅうしん とした観光 かんこう 業 ぎょう が重要 じゅうよう な産業 さんぎょう となっており、より観光 かんこう 客 きゃく や工業 こうぎょう 投資 とうし を誘致 ゆうち するため、観光 かんこう 地 ち の州 しゅう 政府 せいふ はインフラ整備 せいび に余念 よねん がない。またカジノ も、多 おお くの観光 かんこう 客 きゃく を惹 ひ き付 つ ける魅力 みりょく の1つとなっている。
逆 ぎゃく にフィリピン人 じん が、アジアに訪 おとず れる観光 かんこう 地 ち トップ5の2015年 ねん データは、表 ひょう の通 とお りになっている。
経済 けいざい 成長 せいちょう 率 りつ [ 編集 へんしゅう ]
経済 けいざい 成長 せいちょう 率 りつ はグロリア・アロヨ政権 せいけん 時代 じだい の4.5%と比較 ひかく し、2011年 ねん から2017は平均 へいきん して6%以上 いじょう を達成 たっせい し、国際 こくさい 経営 けいえい 開発 かいはつ 研究所 けんきゅうじょ (IMD)世界 せかい 競争 きょうそう 力 りょく ランキングの順位 じゅんい を上 あ げた。2017年 ねん には直接 ちょくせつ 投資 とうし が過去 かこ 最高 さいこう となったものの、憲法 けんぽう や各種 かくしゅ 法規 ほうき が、海外 かいがい 資本 しほん による直接 ちょくせつ 投資 とうし の妨 さまた げや、海外 かいがい 資本 しほん の土地 とち や公共 こうきょう 事業 じぎょう 体 たい の所有 しょゆう の制限 せいげん となっているため、地方 ちほう への海外 かいがい 資本 しほん の直接 ちょくせつ 投資 とうし は限 かぎ られている[47] 。
マカティ 市 し は首都 しゅと メトロ・マニラ の1市 し で、マニラ 市 し の南東 なんとう に隣接 りんせつ している。高層 こうそう ビル群 ぐん が立 た ち並 なら び、フィリピンのビジネス首都 しゅと と位置付 いちづ けられ、「フィリピンのウォ うぉ ール街 るがい 」とも呼 よ ばれる。
庶民 しょみん の足 あし 「トライシクル」
タルラック〜ラウニオン高速 こうそく 道路 どうろ
マニラ南部 なんぶ ニノイ・アキノ国際 こくさい 空港 くうこう 近辺 きんぺん からカヴィテ州 しゅう を結 むす ぶSLEX(South Luzon Expressway)やケソン市 し からパンガシナン州 しゅう を結 むす ぶNLEX(North Luzon Expressway)といった高速 こうそく 道路 どうろ があるが、短距離 たんきょり である。
近年 きんねん は、SCTEX(Subic-Clark-Tarlac Expressway)やSkyway(マカティ-ビクータン)などの路線 ろせん も開通 かいつう しているが、マニラ首都 しゅと 圏 けん へ続 つづ く木 き の幹 みき に当 あ たるロハス通 どお りの幹線 かんせん 道路 どうろ に、全 すべ ての枝 えだ 状 じょう の道路 どうろ が集中 しゅうちゅう する構造 こうぞう で、環状 かんじょう 道路 どうろ もエドゥサ通 どお りしかなく、貧弱 ひんじゃく な道路 どうろ インフラストラクチャーと相 あい まって道路 どうろ 信号 しんごう なども充分 じゅうぶん に整備 せいび されておらず、深刻 しんこく な交通 こうつう 渋滞 じゅうたい が発生 はっせい している[65] 。
ごく短時間 たんじかん の間 あいだ に、警察官 けいさつかん による車線 しゃせん 規制 きせい を行 おこな い、時間 じかん 帯 たい によって、1本 ほん の道路 どうろ を上 のぼ り専用 せんよう 、下 くだ り専用 せんよう 道路 どうろ として運用 うんよう されたり、複 ふく 車線 しゃせん の道路 どうろ も時間 じかん 帯 たい で上 のぼ り下 くだ りの車線 しゃせん 数 すう が変更 へんこう されることが有 あ る。その他 た 、マニラ首都 しゅと 圏 けん では一部 いちぶ 地域 ちいき において月曜日 げつようび から金曜日 きんようび までの間 あいだ 、ナンバープレートによる流入 りゅうにゅう 車 しゃ 規制 きせい が行 おこな われている。
フィリピン全土 ぜんど では、アスファルト 未 み 舗装 ほそう の道路 どうろ も多 おお く、道路 どうろ 舗装 ほそう 事情 じじょう が良 よ くないため、SUV 四 よん 輪 りん 駆動 くどう 車 しゃ の需要 じゅよう が多 おお い。
以下 いか の代表 だいひょう 的 てき な交通 こうつう 機関 きかん がある。(料金 りょうきん はマニラ首都 しゅと 圏 けん 基準 きじゅん )
ジープニー - 初乗 はつの り:子供 こども 7ペソ、大人 おとな 8ペソ50センタボ
フィリピンで最 もっと も有名 ゆうめい な交通 こうつう 機関 きかん の一 ひと つがジープニー であり、フィリピンの全土 ぜんど でみられる。これは第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご に在 ざい 比 ひ 米 べい 軍 ぐん が払 はら い下 さ げたジープ が元 もと となったいわゆる乗合 のりあい タクシー で[66] 、今日 きょう ではトヨタ・キジャン 第 だい 3世代 せだい のTamaraw FXのように、最初 さいしょ からこの用途 ようと に製造 せいぞう された車体 しゃたい も登場 とうじょう している。バスとジープニー、それにTamarawは、規定 きてい された料金 りょうきん で決 き まったルートを走行 そうこう する。
トライシクル - 初乗 はつの り15ペソ
オートバイにサイドカーを付 つ けた料金 りょうきん 交渉 こうしょう 制 せい の三 さん 輪 りん タクシー で、庶民 しょみん の交通 こうつう 機関 きかん としての役割 やくわり を担 にな っている。
タクシー - 初乗 はつの り40ペソ
ニノイ・アキノ国際 こくさい 空港 くうこう に乗 の り入 い れるエアポートタクシーは、初乗 はつの り60ペソ。タクシーメーターが付 つ いているが、メーターを使 つか わず、メーター表示 ひょうじ 値 ち の数 すう 倍 ばい 相当 そうとう 額 がく をボッタクリ 要求 ようきゅう する、もしくは敢 あ えて遠回 とおまわ りして高額 こうがく の料金 りょうきん を請求 せいきゅう するタクシーが多 おお い。クリスマス シーズンなどタクシー需要 じゅよう が多 おお くなると、行 い き先 さき を告 つ げて、予 あらかじ め料金 りょうきん 交渉 こうしょう するケースが増 ふ える。
バス - 初乗 はつの り12ペソ(エアコンバス)から、またはエアコン付 づけ でない通常 つうじょう のバスは10ペソから
日本 にっぽん から中古 ちゅうこ のバスを輸入 ゆにゅう しているケースが多 おお いが、フィリピンの自動車 じどうしゃ 道路 どうろ は右側 みぎがわ 通行 つうこう であるため左 ひだり ハンドルに改造 かいぞう されている。座席 ざせき は3列 れつ +2列 れつ の5列 れつ 構造 こうぞう となっているものが多 おお く、1席 せき に付 つ き初乗 はつの り12ペソ(又 また は10ペソ)である。子供 こども を膝 ひざ の上 うえ に乗 の せていれば料金 りょうきん はかからない。マニラ首都 しゅと 圏 けん の基幹 きかん 道路 どうろ ともなっているエドゥサ通 どお りの渋滞 じゅうたい の原因 げんいん ともなっているのが、このバス(市内 しない 、郊外 こうがい 向 む け)のどこでも乗 の せて、どこでも下 お ろす営業 えいぎょう 形態 けいたい である。乗客 じょうきゃく を乗 の り降 お りさせるバス停 ばすてい は決 き められてはいるが、交通 こうつう 巡視 じゅんし 員 いん がいなくなると遵守 じゅんしゅ されないことが多 おお い。また、マニラ首都 しゅと 圏 けん から各 かく 地方 ちほう への中 なか 長距離 ちょうきょり バスが発着 はっちゃく していて、すごいものでは、南部 なんぶ のルソン島 るそんとう 外 がい のイロイロ やダバオ 行 い きの長距離 ちょうきょり バスが、各 かく 島間 しまま の連絡 れんらく 船 せん フェリー を介 かい して、最長 さいちょう 48時間 じかん 以上 いじょう かけて運行 うんこう される路線 ろせん もある。
マニラ・メトロレール
長距離 ちょうきょり 鉄道 てつどう としてはフィリピン国鉄 こくてつ があり、ルソン島 るそんとう に鉄道 てつどう 網 もう を持 も つ。フィリピン国鉄 こくてつ 北方 ほっぽう 本線 ほんせん が1991年 ねん のピナトゥボ山 さん の大 だい 噴火 ふんか で全線 ぜんせん 運休 うんきゅう し現在 げんざい に至 いた る他 ほか 、台風 たいふう などの自然 しぜん 災害 さいがい で度々 たびたび 運休 うんきゅう している。
都市 とし 間 あいだ 輸送 ゆそう については、高速 こうそく バスの方 ほう が早 はや くて多 た 頻度 ひんど かつ経済 けいざい 的 てき であること、航空 こうくう 網 もう が整備 せいび されていることなどから、鉄道 てつどう による旅客 りょかく 輸送 ゆそう は衰退 すいたい している。鉄道 てつどう 車両 しゃりょう は日本 にっぽん で使用 しよう されなくなった客車 きゃくしゃ や国鉄 こくてつ 203系 けい 電車 でんしゃ が輸出 ゆしゅつ され使用 しよう されている。
都市 とし 鉄道 てつどう としてはマニラ・ライトレール・トランジット・システム 、マニラ・メトロレール の鉄道 てつどう 路線 ろせん がある。マニラ首都 しゅと 圏 けん の慢性 まんせい 的 てき 道路 どうろ 渋滞 じゅうたい を解消 かいしょう するために建設 けんせつ された。料金 りょうきん は1路線 ろせん につき10~15ペソ程度 ていど で運行 うんこう 本数 ほんすう も多 おお く、市民 しみん の重要 じゅうよう な足 あし となっている。
その他 た 、メトロ・セブ にも都市 とし 鉄道 てつどう を建設 けんせつ する計画 けいかく がある。
フィリピンの国土 こくど は多数 たすう の島々 しまじま から成 な るため、フェリー ボート、貨客船 かきゃくせん の航路 こうろ が発達 はったつ しているものの、使用 しよう 船舶 せんぱく は他国 たこく での中古 ちゅうこ 船 せん が多 おお く新 しん 造船 ぞうせん は殆 ほとん ど無 な く旅客 りょかく 定員 ていいん も改造 かいぞう によって安全 あんぜん 基準 きじゅん を超過 ちょうか しているものもあり、安全 あんぜん に対 たい する意識 いしき が低 ひく く、事故 じこ 率 りつ も高 たか い(例 れい :ドニャ・パス号 ごう 事故 じこ )。
フィリピン航空 こうくう のエアバス A340-313X機 き
ニノイ・アキノ国際 こくさい 空港 くうこう 、マクタン・セブ国際 こくさい 空港 くうこう 、クラーク国際 こくさい 空港 くうこう などがフィリピンの空 そら の玄関 げんかん として機能 きのう している。
また、多 おお 島 とう 海国 かいこく 家 か という特徴 とくちょう から島嶼 とうしょ 間 あいだ の移動 いどう は必然 ひつぜん 的 てき に航空機 こうくうき または船舶 せんぱく を利用 りよう することになるため、各 かく 航空 こうくう 会社 かいしゃ の路線 ろせん 網 もう が発達 はったつ している。
以下 いか の代表 だいひょう 的 てき な航空 こうくう 会社 かいしゃ がある。(ここ数 すう 年 ねん 、格安 かくやす 航空 こうくう 会社 かいしゃ を中心 ちゅうしん に提携 ていけい 再編 さいへん が繰 く り返 かえ されているので、最新 さいしん の情報 じょうほう は要 よう 確認 かくにん )
州 しゅう ごとの民族 みんぞく 分布 ぶんぷ
人口 じんこう が1億 おく 人 にん を超 こ えたフィリピンはマレー系 けい を始 はじ めとする多 た 民族 みんぞく 国家 こっか である。タガログ族 ぞく 、ビサヤ族 ぞく (英語 えいご 版 ばん ) (セブアノ族 ぞく (英語 えいご 版 ばん ) 、ヒリガイノン族 ぞく (英語 えいご 版 ばん ) 、ワライ族 ぞく (英語 えいご 版 ばん ) )、イロカノ族 ぞく (英語 えいご 版 ばん ) 、ビコラノ族 ぞく (英語 えいご 版 ばん ) 、カパンパンガ族 ぞく (英語 えいご 版 ばん ) 、パンガシナン族 ぞく (英語 えいご 版 ばん ) 、モロ族 ぞく (マギンダナオ族 ぞく 、バジャウ族 ぞく (英語 えいご 版 ばん ) 、ヤカン人 じん (英語 えいご 版 ばん ) 、タウスグ人 じん (英語 えいご 版 ばん ) 、サマル人 じん (英語 えいご 版 ばん ) 、en:Bangsamoro [要 よう 曖昧 あいまい さ回避 かいひ ] )、イヴァタン人 じん (英語 えいご 版 ばん ) (台湾 たいわん 原住民 げんじゅうみん )、華人 かじん 、サンボアンゲーニョ (英語 えいご 版 ばん ) 、メスティーソ 、ネグリト (アエタ族 ぞく 、アティ族 ぞく 、バタック人 じん 、ママンワ族 ぞく (英語 えいご 版 ばん ) )
現在 げんざい ではフィリピン人 じん とは、フィリピンに生 う まれ育 そだ った土着 どちゃく の人々 ひとびと の名称 めいしょう である。このような考 かんが え方 かた は19世紀 せいき 半 なか ば以降 いこう に意識 いしき され始 はじ めた。かつては、スペイン本国 ほんごく 生 う まれのスペイン人 じん と区別 くべつ して、フィリピン諸島 しょとう 生 う まれのスペイン人 じん を指 さ して用 もち いられた。彼 かれ らをフィリピーノ[67] あるいはクリオーリョ 、そして、土着 どちゃく の人々 ひとびと をインディオ といった。また、スペイン人 じん や中国人 ちゅうごくじん の移住 いじゅう 者 しゃ の男性 だんせい と現地 げんち の女性 じょせい との間 あいだ に生 う まれた子 こ どもはメスティーソ と呼 よ ばれた。この背景 はいけい には、インディオやメスティーソのなかの富裕 ふゆう 層 そう の子弟 してい たちが、スペインの圧政 あっせい に耐 た え兼 か ね、改革 かいかく や自治 じち を求 もと めた様々 さまざま な運動 うんどう があったことが考 かんが えられる[6] 。
フィリピンの主要 しゅよう 民族 みんぞく はタガログ族 ぞく であり、ルソン島 とう のリサール州 しゅう 、ラグナ州 しゅう 、タルラック州 しゅう 、ブラカン州 しゅう 、バターン州 しゅう などに住 す み、タガログ語 ご は他 た のフィリピン諸語 しょご と同 おな じく、オーストロネシア語 ご に属 ぞく する。これを母語 ぼご とする者 もの は2500万 まん 人 にん 以上 いじょう と推計 すいけい される。16世紀 せいき 後半 こうはん から約 やく 300年 ねん にわたるスペイン人 じん の支配 しはい により、タガログ族 ぞく の80%以上 いじょう がカトリック教徒 きょうと となっている。大半 たいはん が木 き やニッパヤシでつくった小 ちい さな高床 たかゆか 式 しき の家屋 かおく に住 す み、水稲 すいとう 耕作 こうさく を主 おも とする農業 のうぎょう を営 いとな んでいるが、主要 しゅよう な換金 かんきん 作物 さくもつ はサトウキビとココナッツである。19世紀 せいき から20世紀 せいき 初頭 しょとう にかけて起 お こった白人 はくじん (スペイン人 じん 、アメリカ人 じん )と日本人 にっぽんじん の植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい に対 たい する革命 かくめい 運動 うんどう で、最 もっと も重要 じゅうよう な役割 やくわり を演 えん じた民族 みんぞく でもある。そのため、フィリピン国民 こくみん の主要 しゅよう な英雄 えいゆう や、独立 どくりつ 後 ご の政府 せいふ の指導 しどう 者 しゃ 多 おお く輩出 はいしゅつ している。ルソン島 るそんとう にはその他 た にもイロカノ族 ぞく (人口 じんこう 約 やく 810万 まん 人 にん )、ビコラノ族 ぞく (人口 じんこう 約 やく 540万 まん 人 にん 。ビゴール語 ご を話 はな す)、カパンパンガ族 ぞく (約 やく 人口 じんこう 300万 まん 人 にん )、パンガシナン族 ぞく (約 やく 人口 じんこう 110万 まん 人 にん 。但 ただ し、イロカノ族 ぞく との混血 こんけつ が進 すす んでいる)など、他 ほか にも多数 たすう の中小 ちゅうしょう 部族 ぶぞく を抱 かか えている。
続 つづ く主要 しゅよう 民族 みんぞく はビサヤ諸島 しょとう (セブ島 とう 、パナイ島 とう 、レイテ島 れいてとう 、サマール島 とう )を中心 ちゅうしん として、ルソン島 るそんとう からミンダナオ北部 ほくぶ にかけて居住 きょじゅう する新 しん マレー系 けい 住民 じゅうみん のビサヤ族 ぞく である。オーストロネシア語族 ごぞく に属 ぞく するビサヤ諸語 しょご を話 はな し、人口 じんこう は2000万 まん を超 こ えると推定 すいてい されるが、政治 せいじ 的 てき に、社会 しゃかい 的 てき 地位 ちい は、タガログ族 ぞく が圧倒的 あっとうてき 優位 ゆうい を占 し めている。但 ただ し、一言 ひとこと にビサヤ族 ぞく と言 い えど、実際 じっさい には多数 たすう の部族 ぶぞく が存在 そんざい している。ビサヤ族 ぞく の最大 さいだい の部族 ぶぞく はセブアノ族 ぞく であり、セブアノ語 ご を話 はな し、セブ 、シキホール、ボホール島 とう などの各 かく 島 しま に居住 きょじゅう し、1200万 まん 人 にん の人口 じんこう を誇 ほこ る。2番目 ばんめ の人口 じんこう を有 ゆう するヒリガイノン族 ぞく の人口 じんこう は約 やく 700万 まん 人 にん であり、ヒリガイノン語 ご を話 はな し、パナイ 、西 にし ネグロス 、南 みなみ ミンドロ などの各 かく 島 しま に居住 きょじゅう している。3番目 ばんめ にはワライ族 ぞく であり、人口 じんこう は約 やく 310万 まん 人 にん 。ワライワライ語 ご を使用 しよう し、サマール、東 ひがし レイテ 、ビリランの各 かく 島 しま に居住 きょじゅう し、おもな生業 せいぎょう は水田 すいでん 耕作 こうさく による水稲 すいとう 栽培 さいばい であるが、一部 いちぶ は漁労 ぎょろう や商業 しょうぎょう にも従事 じゅうじ している。主食 しゅしょく は米 べい 、魚 さかな 、野菜 やさい 、果物 くだもの である。双 そう 系 けい 親族 しんぞく 、儀礼 ぎれい 的 てき 親族 しんぞく を有 ゆう する。かつてはラオンと呼 よ ぶ至上 しじょう 神 しん を信仰 しんこう し、アニミズム 信仰 しんこう も盛 さか んであったが、現在 げんざい はほとんどキリスト教 きりすときょう に改宗 かいしゅう している。他 ほか にも多数 たすう の中小 ちゅうしょう 部族 ぶぞく が存在 そんざい している。そのため、マニラ中心 ちゅうしん の中央 ちゅうおう 政府 せいふ と協調 きょうちょう 関係 かんけい を取 と りながらも、独自 どくじ の文化 ぶんか 、習慣 しゅうかん 、言語 げんご 、民族 みんぞく 性 せい を保持 ほじ している州 しゅう 政府 せいふ が多 おお い。
ミンダナオ島 みんだなおとう などの南部 なんぶ にはイスラム教徒 きょうと のモロ族 ぞく (バジャウ族 ぞく 、ヤカン人 じん 、タウスグ人 じん 、サマル人 じん など)が存在 そんざい する。
フィリピン華人 かじん の大 だい 部分 ぶぶん は中国 ちゅうごく 大陸 たいりく の福建 ふっけん 南部 なんぶ (特 とく に晋 すすむ 江 こう )の出身 しゅっしん である[68] 。明 あきら ・清 きよし 時代 じだい からの古 ふる い華人 かじん が多 おお く、現地 げんち 化 か や混血 こんけつ (メスティーソ)が進 すす んでいる。元 もと 大統領 だいとうりょう コラソン・アキノ も福建 ふっけん 華人 かじん の子孫 しそん であり、フィリピン独立 どくりつ の英雄 えいゆう として知 し られるホセ・リサール も中国 ちゅうごく 系 けい 移民 いみん の系譜 けいふ を持 も つ[68] 。現在 げんざい でも中国 ちゅうごく 語 ご (福建 ふっけん 閩南語 ご )を話 はな し、中国 ちゅうごく の生活 せいかつ 習慣 しゅうかん に慣 な れ親 した しむ者 もの は100万 まん 人 にん 程度 ていど と推定 すいてい される。苦力 くーりー 出身 しゅっしん 者 しゃ がほとんどおらず、商業 しょうぎょう 移民 いみん が中心 ちゅうしん となっている[69] 。中国 ちゅうごく 系 けい 移民 いみん の総 そう 人口 じんこう に占 し める割合 わりあい は比較的 ひかくてき 小 ちい さいが、2012年 ねん 6月 がつ にフォーブズが発表 はっぴょう したフィリピンの富豪 ふごう 上位 じょうい 10位 い の7割 わり を中国 ちゅうごく 系 けい 移民 いみん 及 およ びその子孫 しそん の企業 きぎょう グループが占 し めているように、経済 けいざい 的 てき 成功 せいこう 者 しゃ も多 おお く、フィリピン社会 しゃかい への影響 えいきょう 力 りょく は大 おお きい[68] 。
フィリピンの華人 かじん は、スペイン統治 とうち 時代 じだい に幾度 いくど も排斥 はいせき 政策 せいさく を取 と られたことから、存続 そんぞく のため、現地 げんち 社会 しゃかい との融合 ゆうごう 度 ど が高 たか く、現地 げんち 人 じん との通 つう 婚 こん が進 すす んでおり、仏教 ぶっきょう を捨 す ててカトリック教会 きょうかい へ改宗 かいしゅう した者 もの も多 おお い[68] [69] 。また、フィリピンが反共 はんきょう を掲 かか げた経緯 けいい から、同 おな じく反共 はんきょう を掲 かか げ、西側 にしがわ 陣営 じんえい に属 ぞく した台湾 たいわん (中華民国 ちゅうかみんこく )との関係 かんけい が深 ふか い。フィリピンの華人 かじん 社会 しゃかい で使 つか われる漢字 かんじ は、台湾 たいわん と同 おな じ繁体字 はんたいじ である[69] 。
過去 かこ 数 すう 百 ひゃく 年 ねん で中国 ちゅうごく 系 けい (華人 かじん )やスペイン人 じん (サンボアンゲーニョ (英語 えいご 版 ばん ) )との混血 こんけつ が進 すす み、混血 こんけつ 率 りつ は高 たか い。地域 ちいき によって混血 こんけつ 率 りつ は違 ちが い、スペイン統治 とうち 時代 じだい に重要 じゅうよう な軍港 ぐんこう であった地域 ちいき 、特 とく にサンボアンガ では、スペイン人 じん との混血 こんけつ 率 りつ が高 たか い。混血 こんけつ 者 しゃ はラテンアメリカ と同様 どうよう にメスティーソ と呼 よ ばれる。フィリピンは外国 がいこく へ出稼 でかせ ぎに行 い く国民 こくみん が10人 にん に1人 ひとり はいる出稼 でかせ ぎ国家 こっか で、外国 がいこく で働 はたら く労働 ろうどう 者 しゃ が多 おお いため、その他 た の混血 こんけつ の人 ひと も多 おお い。その中 なか でも、日本人 にっぽんじん ・アメリカ人 じん とフィリピン人 じん の混血 こんけつ が多 おお い。
少数 しょうすう 民族 みんぞく [ 編集 へんしゅう ]
山岳 さんがく 地帯 ちたい のネグリト、ボントック、イフガオなどがいる。フィリピン各地 かくち の山岳 さんがく 地帯 ちたい や南部 なんぶ のミンダナオ島 みんだなおとう 、スールー諸島 しょとう 、パラワン島 とう の住民 じゅうみん は中 ちゅう 北部 ほくぶ の低地 ていち 住民 じゅうみん とは文化 ぶんか や生活 せいかつ 様式 ようしき を異 こと にしてきた人々 ひとびと を少数 しょうすう 民族 みんぞく という。これらの人々 ひとびと は全 ぜん 人口 じんこう の10%前後 ぜんご であるといわれている。南部 なんぶ に住 す むムスリム(モロ族 ぞく )と各地 かくち の山岳 さんがく 地帯 ちたい に住 す む住民 じゅうみん の2つに分 わ けられる。アメリカは、少数 しょうすう 民族 みんぞく を「非 ひ キリスト教徒 きりすときょうと 部族 ぶぞく 民 みん 」と名付 なづ け、後進 こうしん 的 てき な野蛮 やばん 人 じん と見 み なした(モロの反乱 はんらん (英語 えいご 版 ばん ) )。これらの少数 しょうすう 民族 みんぞく からも国会 こっかい 議員 ぎいん や地方 ちほう 議員 ぎいん が出 で ているが、彼 かれ らは地域 ちいき の「ボス」であることが多 おお く、少数 しょうすう 民族 みんぞく の利害 りがい や権利 けんり は政治 せいじ に反映 はんえい されなかった。差別 さべつ の原因 げんいん を宗教 しゅうきょう の違 ちが いにされたり、無知 むち からくる偏見 へんけん にさらされた[70] 。
人口 じんこう 密度 みつど (2009年 ねん )
国勢調査 こくせいちょうさ 人口 じんこう 1960-2015年 ねん [74]
1960年 ねん
1970年 ねん
1975年 ねん
1980年 ねん
1990年 ねん
27,087,685
36,684,486
42,070,660
48,098,460
60,703,206
1995年 ねん
2000年 ねん
2007年 ねん
2010年 ねん
2015年 ねん
68,616,536
76,506,928
88,566,732
92,337,852
100,981,437
母語 ぼご 人口 じんこう (2010年 ねん )
言語 げんご
話者 わしゃ 数 すう
タガログ語 ご
24.44 %
24.44
22,512,089
セブアノ語 ご
21.35 %
21.35
19,665,453
イロカノ語 ご
8.77 %
8.77
8,074,536
ヒリガイノン語 ご
8.44 %
8.44
7,773,655
ワライ語 ご
3.97 %
3.97
3,660,645
その他 た の現地 げんち 語 ご /方言 ほうげん
26.09 %
26.09
24,027,005
その他 た の外国 がいこく 語 ご /方言 ほうげん
0.09 %
0.09
78,862
言及 げんきゅう なし
0.01 %
0.01
6,450
合計 ごうけい
92,097,978
脚注 きゃくちゅう : Philippine Statistics Authority
国語 こくご はフィリピン語 ご (Filipino)、公用 こうよう 語 ご はフィリピン語 ご と英語 えいご であるが、母語 ぼご として使 つか われる言語 げんご は、合計 ごうけい 172に及 およ ぶ。これらのほとんどはアウストロネシア語族 ごぞく に分類 ぶんるい されるが、アウストロネシア語族 ごぞく の言語 げんご 間 あいだ にも、ほとんど意志 いし の疎通 そつう が図 はか れないほどの違 ちが いがある。他 た には、スペイン植民 しょくみん 地 ち の歴史 れきし を反映 はんえい してスペイン語 ご (フィリピンのスペイン語 ご )やチャバカノ語 ご (スペイン語 ご とそのクレオール言語 げんご )がある。なおスペイン語 ご は、1986年 ねん まで公用 こうよう 語 ご だったこともあり、中等 ちゅうとう 教育 きょういく 課程 かてい から必須 ひっす 科目 かもく としてスペイン語 ご 教育 きょういく が行 おこな われていたが、現在 げんざい は一部 いちぶ の学校 がっこう 及 およ び大学 だいがく でのみ行 おこな われている。フィリピン政府 せいふ は各地 かくち で英語 えいご とフィリピン語 ご が使 つか われている事実 じじつ から、両者 りょうしゃ を公用 こうよう 語 ご であると宣言 せんげん しており、スペイン語 ご やアラビア語 ご (イスラム教徒 きょうと )が自発 じはつ 的 てき な運動 うんどう により公用 こうよう 語 ご になりうる事 こと も示唆 しさ している。
フィリピン語 ご (Filipino) は、1987年 ねん に成立 せいりつ したフィリピン共和 きょうわ 国 こく 憲法 けんぽう において、初 はじ めて国語 こくご をい表 いあらわ すのに正式 せいしき に採用 さいよう された人工 じんこう 言語 げんご である。実質 じっしつ 的 てき にはマニラ首都 しゅと 圏 けん を中心 ちゅうしん として話 はな されている地方 ちほう 語 ご の一 ひと つであるタガログ語 ご (Tagalog) を基 もと にして採用 さいよう された言語 げんご である。そもそもフィリピン国内 こくない では、ルソン島 るそんとう やミンダナオ島 みんだなおとう 、セブ島 とう を含 ふく む7100以上 いじょう の島々 しまじま からなる地域 ちいき において、タガログ語 ご をはじめ、セブアノ語 ご (セブ語 ご 、ビサヤ語 ご )、ボホラノ語 ご (英語 えいご 版 ばん ) 、ワライ語 ご 、ビコール語 ご 、ヒリガイノン語 ご 、イロカノ語 ご 、パンパンガ語 ご の8大言 たいげん 語 ご [76] を含 ふく む100近 ちか い言語 げんご 集団 しゅうだん があると言 い われている。
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の植民 しょくみん 地 ち であったこともあり、アメリカ英語 えいご がかなり普及 ふきゅう している。一方 いっぽう で、ナショナリズム の高 たか まりと共 とも に、政府 せいふ はフィリピンが一体 いったい となって発展 はってん していくためには、国内 こくない 全域 ぜんいき で通用 つうよう するフィリピンの共通 きょうつう 言語 げんご が必要 ひつよう であるとし、タガログ語 ご を基本 きほん としたフィリピン語 ご を作 つく り、普及 ふきゅう に務 つと めてきた。1934年 ねん のタイディングス・マクダフィ法 ほう を受 う けて、同年 どうねん に開 ひら かれた憲法 けんぽう 制定 せいてい 委員 いいん 会 かい で、公用 こうよう 語 ご や国語 こくご の問題 もんだい が話 はな し合 あ われ大 だい 論争 ろんそう となった。最終 さいしゅう 的 てき には、固有 こゆう の1言語 げんご を基礎 きそ として国語 こくご の確立 かくりつ をすることで収 おさ まった。これを受 う けて、1937年 ねん 、ケソン大統領 だいとうりょう がタガログ語 ご を国語 こくご の基礎 きそ として選択 せんたく するという宣言 せんげん を行 おこな った[77] 。
英語 えいご のタガログ語 ご 的 てき 運用 うんよう あるいはタガログ語 ご の語彙 ごい の不足 ふそく を英語 えいご で補 おぎな った言語 げんご 運用 うんよう が「タグリッシュ 」と呼称 こしょう されることがある。
人名 じんめい ・婚姻 こんいん [ 編集 へんしゅう ]
フィリピンのキリスト教 きりすときょう 社会 しゃかい では、名前 なまえ は西洋 せいよう 式 しき に「名 な 、ミドルネーム 、姓 せい 」の3つの部分 ぶぶん からなる[注釈 ちゅうしゃく 10] 。その場合 ばあい 、未婚 みこん 者 しゃ および男性 だんせい は母親 ははおや の旧姓 きゅうせい を、結婚 けっこん して夫 おっと の姓 せい となった女性 じょせい は自分 じぶん の旧姓 きゅうせい をミドルネームとしていることが多 おお い。ミドルネームはイニシャルのみを記 しる す場合 ばあい と、そのまま書 か き表 あらわ す場合 ばあい がある。スペインによる長 なが い植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい 時代 じだい の間 あいだ に、地元民 じもとみん はスペイン人 じん の姓 せい から選 えら んで自 みずか らの姓 せい を名乗 なの ってきたため、フィリピンではスペイン語 ご 姓 せい が主流 しゅりゅう であるが、華人 かじん 系 けい の姓 せい も多 おお い。名 な は旧来 きゅうらい のスペイン語 ご の名前 なまえ に加 くわ えて、英語 えいご その他 た 、主 おも にヨーロッパ系 けい の名前 なまえ が自由 じゆう につけられている[注釈 ちゅうしゃく 11] 。
婚姻 こんいん の際 さい には、従来 じゅうらい の法律 ほうりつ では、結婚 けっこん 時 じ に女性 じょせい 側 がわ は、自分 じぶん の姓 せい をミドルネームとして相手 あいて の姓 せい を用 もち いるか、相手 あいて の姓 せい のみを用 もち いるか、相手 あいて のフルネームにMrs.をつけるか、を選 えら ぶことが可能 かのう 、とされていた。2010年 ねん に、最高裁判所 さいこうさいばんしょ は、女性 じょせい の権利 けんり を守 まも る観点 かんてん から、これらに加 くわ えて、相手 あいて の姓 せい を用 もち いず自分 じぶん の姓 せい のみを用 もち い続 つづ ける(夫婦 ふうふ 別姓 べっせい )ことも可能 かのう 、との判断 はんだん を下 くだ した[78] 。
セント・オーガスチン・パオアイ教会 きょうかい
フィリピンは、バンサモロ自治 じち 地域 ちいき を除 のぞ けば、東南 とうなん アジアでは東 ひがし ティモール と並 なら ぶキリスト教 きりすときょう 国 くに である。キリスト教 きょう は、スペイン植民 しょくみん 地 ち 時代 じだい に広 ひろ まった。スペインが16世紀 せいき に伝 つた えたものは、ローマ・カトリックであった。そのため、今 いま でも人々 ひとびと のほとんどが、ローマ・カトリックの信者 しんじゃ である。
キリスト教徒 きりすときょうと はフィリピンの全 ぜん 人口 じんこう の90%以上 いじょう を占 し める。2000年 ねん の国勢調査 こくせいちょうさ では、カトリックが82.9%(カトリック教会 きょうかい が80.9%、アグリパヤン が2%)、福音 ふくいん 派 は が2.8%、イグレシア・ニ・クリスト が2.3%、その他 た のキリスト教 きりすときょう が4.5%を占 し める[79] 。
フィリピン独立 どくりつ 教会 きょうかい がある。
2000年 ねん の国勢調査 こくせいちょうさ でのキリスト教 きりすときょう の他 ほか の宗教 しゅうきょう は、スペイン人 じん 到来 とうらい 以前 いぜん にもたらされたイスラム教 いすらむきょう が南部 なんぶ ミンダナオ島 みんだなおとう を中心 ちゅうしん に5%、その他 た が1.8%、不明 ふめい が0.6%、無 む 宗教 しゅうきょう が0.1%である[79] 。イスラム教 いすらむきょう やキリスト教 きりすときょう 伝来 でんらい 以前 いぜん は、各 かく 島 しま の自然 しぜん の精霊 せいれい などを信 しん じる原始 げんし 宗教 しゅうきょう (フィリピン神話 しんわ )があった(「フィリピンの神話 しんわ 上 じょう の生 い き物 もの 」も参照 さんしょう )。
フィリピン共和 きょうわ 国 こく 憲法 けんぽう に政教 せいきょう 分離 ぶんり の規定 きてい は存在 そんざい するものの、カトリック教会 きょうかい の影響 えいきょう は強 つよ く、フィリピン司教 しきょう 協会 きょうかい は離婚 りこん 法 ほう や人工 じんこう 妊娠 にんしん 中絶 ちゅうぜつ や避妊 ひにん に対 たい して反対 はんたい し、政治 せいじ 家 か に対 たい して政治 せいじ 介入 かいにゅう しており、フィリピンで人口 じんこう 爆発 ばくはつ と貧困 ひんこん が続 つづ く一因 いちいん となっている。また、結婚 けっこん 制度 せいど は存在 そんざい すれど、離婚 りこん 制度 せいど 自体 じたい が法 ほう 整備 せいび されていない国家 こっか として有名 ゆうめい である[80] [81] 。
聖 せい トマス大学 だいがく (フィリピン) 、創立 そうりつ 1611年 ねん
2008年 ねん の推計 すいけい によれば、15歳 さい 以上 いじょう の国民 こくみん の識字 しきじ 率 りつ は95.4%(男性 だんせい :95%、女性 じょせい :95.8%)である[79] 。2009年 ねん の教育 きょういく 支出 ししゅつ はGDPの2.9%だった[79] 。
教育 きょういく 政策 せいさく として高等 こうとう 教育 きょういく の重視 じゅうし していることが特徴 とくちょう である。これはスペイン植民 しょくみん 地 ち 時代 じだい から引 ひ き継 つ がれている。高等 こうとう 教育 きょういく の就学 しゅうがく 率 りつ は27.4%(1995年 ねん )で、アジアの中 なか でも高 たか い方 ほう であり、高等 こうとう 教育 きょういく 機関 きかん は、国公立 こっこうりつ ・私立 しりつ 合 あ わせて1489(2003年 ねん )もの大学 だいがく が存在 そんざい する。その中 なか でも聖 せい トマス大学 だいがく はアジアでも最古 さいこ の1611年 ねん 創設 そうせつ であり、在 ざい フィリピンのスペイン人 じん に聖職 せいしょく 者 しゃ 教育 きょういく を施 ほどこ すことを目的 もくてき とした。1908年 ねん に設置 せっち されたフィリピン大学 だいがく は、アメリカ統治 とうち 時代 じだい のもので、英語 えいご でアメリカ式 しき の教育 きょういく を行 おこな い、現地 げんち 調達 ちょうたつ の行政 ぎょうせい 官 かん や大学 だいがく 教員 きょういん を育 そだ てることが目的 もくてき であった[82] 。
フィリピンの治安 ちあん は過去 かこ と比 くら べると格段 かくだん に良 よ くなりつつあるが、同国 どうこく の国家 こっか 警察 けいさつ が発表 はっぴょう した2018年 ねん (暦年 れきねん )の全国 ぜんこく 犯罪 はんざい 統計 とうけい によれば,犯罪 はんざい 発生 はっせい 件数 けんすう は約 やく 47.5万 まん 件 けん を記録 きろく しており、発生 はっせい 件数 けんすう は前年 ぜんねん 比 ひ で約 やく 4.5万 まん 件 けん (約 やく 9%)減少 げんしょう しているものの、日本 にっぽん と比 くら べれば犯罪 はんざい 件数 けんすう は未 いま だかなり多 おお い状況 じょうきょう となっている[注釈 ちゅうしゃく 12] 。
また、外国 がいこく 人 じん に対 たい しては「比較的 ひかくてき 裕福 ゆうふく な人 ひと が多 おお く、銃器 じゅうき も所持 しょじ していない為 ため に反撃 はんげき をしてこない」と捉 とら えられている点 てん があり、犯罪 はんざい の標的 ひょうてき とされ易 やす い面 めん があるので、他 た の治安 ちあん が悪 わる い国 くに や地域 ちいき 同様 どうよう に同国 どうこく を訪問 ほうもん する人間 にんげん は長期 ちょうき 滞在 たいざい 者 しゃ ・旅行 りょこう 者 しゃ を問 と わず注意 ちゅうい が必要 ひつよう となって来 く ることを留意 りゅうい しなければならない。加 くわ えて、警察 けいさつ の許可 きょか ・登録 とうろく を受 う けた合法 ごうほう 的 てき な銃器 じゅうき のほかに、登録 とうろく 切 き れや未登録 みとうろく の銃器 じゅうき や密造 みつぞう 銃 じゅう なども相当 そうとう 広 ひろ く出回 でまわ っている為 ため 、強盗 ごうとう ・恐喝 きょうかつ 事件 じけん の犯人 はんにん らがこれらの銃器 じゅうき を使用 しよう し犯罪 はんざい を行 おこな うケースが多 おお いという特徴 とくちょう があり[注釈 ちゅうしゃく 13] 、さらに身代金 みのしろきん 目的 もくてき の誘拐 ゆうかい は警察 けいさつ が確認 かくにん しているだけでも年間 ねんかん 数 すう 十 じゅう 件 けん 発生 はっせい しているとの報告 ほうこく がされている[83] 。
フィリピン料理 りょうり は、中国 ちゅうごく 料理 りょうり やかつての宗主 そうしゅ 国 こく であるスペイン料理 りょうり 、アメリカ料理 りょうり などの影響 えいきょう を受 う けている[84] 。フィリピンは国際 こくさい 捕鯨 ほげい 委員 いいん 会 かい (IWC)を脱退 だったい しており、現在 げんざい でも食用 しょくよう に捕鯨 ほげい を行 おこな っている。
フィリピンの初 はつ の近代 きんだい 小説 しょうせつ はペドロ・パルテノ (英語 えいご 版 ばん ) による『ニノイ (英語 えいご 版 ばん ) 』(スペイン語 ご : Nínay 、1885年 ねん )によって幕 まく を開 ひら き、そのすぐ後 のち にスペイン語 ご で書 か いた2作 さく の小説 しょうせつ 、『ノリ・メ・タンヘレ (英語 えいご 版 ばん ) 』(1886年 ねん )と『エル・フィリブステリスモ (英語 えいご 版 ばん ) 』(1891年 ねん )でスペインによるフィリピン植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい を告発 こくはつ したホセ・リサール が現 あらわ れた[85] 。米 べい 比 ひ 戦争 せんそう によって20世紀 せいき 初頭 しょとう にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく に併合 へいごう された後 のち 、公 おおやけ 教育 きょういく を通 つう じて英語 えいご が教 おし えられると、1925年 ねん ごろから英語 えいご による作品 さくひん が書 か かれるようになり、また、1939年 ねん にフィリピン作家 さっか 連盟 れんめい が結成 けっせい されている[86] 。
他方 たほう 、20世紀 せいき 前半 ぜんはん の現地 げんち 語 ご による文学 ぶんがく は大衆 たいしゅう 娯楽 ごらく 小説 しょうせつ が主 おも であり、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう の日本 にっぽん 占領 せんりょう 期 き にタガログ語 ご 創作 そうさく が奨励 しょうれい されたものの、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 終結 しゅうけつ 後 ご は再 ふたた び英語 えいご が文学 ぶんがく 語 ご として重視 じゅうし されるようになった[86] 。
20世紀 せいき 後半 こうはん の文学 ぶんがく は英語 えいご 、タガログ語 ご 、その他 た のフィリピン地方 ちほう 言語 げんご などの様々 さまざま な現地 げんち 語 ご で書 か かれた[87] 。著名 ちょめい な作家 さっか としては、『二 ふた つのへそを持 も つ女 おんな (英語 えいご 版 ばん ) 』(1961年 ねん )でフィリピン人 じん のアイデンティを題材 だいざい にしたニック・ホアキン や、英語 えいご で『ロザレス物語 ものがたり (英語 えいご 版 ばん ) 』五 ご 部 ぶ 作 さく (en:Po-on (novel) 、en:The Pretenders (novel) 、en:My Brother, My Executioner 、en:Mass (novel) 、en:Tree (novel) )、『エルミタ (英語 えいご 版 ばん ) 』などを著 あらわ しフィリピン近 きん 現代 げんだい 史 し を題材 だいざい にしたF・シオニル・ホセ 、タガログ語 ご で『マニラ 光 ひか る爪 つめ (タガログ語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) (Maynila: Sa Mga Kuko ng Liwanag)』(1968年 ねん )を書 か いたエドガルド・M・レイエス らの名 な が挙 あ げられる[88] (後 のち に映画 えいが 化 か された『en:Mga Kwento ni Lola Basyang 』)。
フィリピンの漫画 まんが (komiks) は1920年代 ねんだい に米国 べいこく から影響 えいきょう を受 う けて始 はじ まり、1980年代 ねんだい の最盛 さいせい 期 き には新聞 しんぶん を超 こ えてあらゆる出版 しゅっぱん 物 ぶつ の中 なか で最大 さいだい の読者 どくしゃ 数 すう を持 も っていた。しかし近代 きんだい 化 か に失敗 しっぱい したことで1990年代 ねんだい までに急速 きゅうそく に衰退 すいたい し、全国 ぜんこく 的 てき に流通 りゅうつう される定期 ていき 刊行 かんこう 物 ぶつ という伝統 でんとう 的 てき な出版 しゅっぱん 形態 けいたい は姿 すがた を消 け した。その後 ご 出版 しゅっぱん 社 しゃ や作家 さっか の世代 せだい 交代 こうたい が行 おこな われ、21世紀 せいき にはある程度 ていど の復興 ふっこう を果 は たしている。
フィリピンの音楽 おんがく 文化 ぶんか は宗主 そうしゅ 国 こく のスペインやアメリカ、アジア、ラテンアメリカ、および先住民 せんじゅうみん の様々 さまざま な音楽 おんがく 文化 ぶんか が混合 こんごう する形 かたち で形成 けいせい されている。
フィリピン国内 こくない には、ユネスコ の世界 せかい 遺産 いさん リストに登録 とうろく された文化 ぶんか 遺産 いさん が3件 けん 、自然 しぜん 遺産 いさん が3件 けん 存在 そんざい する。
ミス・ユニバース2015 で優勝 ゆうしょう したピア・アロンゾ・ウォルツバック 。フィリピンポストの記念 きねん 切手 きって になった。
フィリピンではミス・コンテスト が地域 ちいき に根付 ねつ いており、学校 がっこう 単位 たんい でのミス&ミスター・コンテストや、全国 ぜんこく 単位 たんい でのミス・コンテストが盛 さか んである。ミス・ユニバース のフィリピン代表 だいひょう は4回 かい 優勝 ゆうしょう している。
2001年 ねん に同国 どうこく で誕生 たんじょう した「ミス・アース 」も、近年 きんねん では世界 せかい 四 よん 大 だい ミスコンテスト に数 かぞ えられるほどに成長 せいちょう した。更 さら にミス・ユニバース2018 では、フィリピン代表 だいひょう のカトリオナ・グレイ が優勝 ゆうしょう に輝 かがや いている。
フィリピン武術 ぶじゅつ のエスクリマ
フィリピン武術 ぶじゅつ (エスクリマ またはカリ、アーニス)が国技 こくぎ である。他 ほか にも地方 ちほう や種族 しゅぞく によって様々 さまざま な武術 ぶじゅつ がある。徒手空拳 としゅくうけん 術 じゅつ と武器 ぶき 操作 そうさ 術 じゅつ のバランスに優 すぐ れたフィリピンの武術 ぶじゅつ は実戦 じっせん 的 てき であるとして評価 ひょうか が高 たか く、各国 かっこく の軍人 ぐんじん や警察官 けいさつかん のほか、他 た の武芸 ぶげい ・格闘技 かくとうぎ の使 つか い手 て や俳優 はいゆう などにも愛好 あいこう 者 しゃ が多 おお い。
ボクシング は世界 せかい 王者 おうじゃ を数多 かずおお く輩出 はいしゅつ しており、その中 なか でも世界 せかい 6階 かい 級 きゅう 制覇 せいは 王者 おうじゃ で「パックマン」と呼 よ ばれている、マニー・パッキャオ の活躍 かつやく は余 あま りにも有名 ゆうめい である。パッキャオの世界 せかい 的 てき 活躍 かつやく は彼 かれ を祖国 そこく の英雄 えいゆう へと押 お し上 あ げ、後 のち に続 つづ くフィリピン人 じん ボクサーのアメリカでの成功 せいこう や、評価 ひょうか の急上昇 きゅうじょうしょう という好 こう 循環 じゅんかん をもたらしている。また、世界 せかい 5階 かい 級 きゅう 制覇 せいは 王者 おうじゃ で「フィリピンの閃光 せんこう 」と呼 よ ばれている、ノニト・ドネア も非常 ひじょう に知 し られている。
フィリピンではバスケットボール が盛 さか んなスポーツ の一 ひと つであり、1974年 ねん にアジア地域 ちいき における初 はじ めてのプロリーグでありアメリカ のNBA に次 つ ぐ歴史 れきし をもつPBA が創設 そうせつ された。さらに、バスケットボールフィリピン代表 だいひょう はFIBAワールドカップ の1954年 ねん 大会 たいかい で、アジアの国 くに では最高 さいこう 位 い となる3位 い に輝 かがや いている。1978年 ねん 大会 たいかい は自国 じこく 開催 かいさい し、これもアジア初 はつ 開催 かいさい となった。2023年 ねん 大会 たいかい は日本 にっぽん ・インドネシア と共催 きょうさい 。近年 きんねん は日本 にっぽん のB.LEAGUE やオーストラリア のNBL など海外 かいがい のプロリーグで活躍 かつやく する選手 せんしゅ も目立 めだ っている。NBAにおいてはアンドレイ・ブラッチ やジョーダン・クラークソン らフィリピン国籍 こくせき を持 も つ選手 せんしゅ も活躍 かつやく しており、彼 かれ らもフィリピン代表 だいひょう に名 な を連 つら ねている。
サッカー もフィリピンでは人気 にんき のスポーツの1 ひと つであり、2017年 ねん には念願 ねんがん のプロサッカーリーグであるフィリピン・フットボールリーグ が創設 そうせつ された。開始 かいし 年 ねん からユナイテッド・シティ が4連覇 れんぱ を達成 たっせい している。フィリピンサッカー連盟 れんめい (PFF)によって構成 こうせい されるサッカーフィリピン代表 だいひょう は、これまでFIFAワールドカップ には未 み 出場 しゅつじょう である。しかし、AFCアジアカップ には2019年 ねん 大会 たいかい で初 はつ 出場 しゅつじょう を果 は たしており、東南 とうなん アジアサッカー選手権 せんしゅけん (AFF三菱電機 みつびしでんき カップ)には13度 ど の出場 しゅつじょう を数 かぞ える。
著名 ちょめい な出身 しゅっしん 者 しゃ [ 編集 へんしゅう ]
^ 例 たと えば、2010年代 ねんだい であれば、2010年 ねん 、2013年 ねん 、2016年 ねん 、2019年 ねん の4回 かい である。
^ 1916年 ねん のフィリピン自治 じち 法 ほう (ジョーンズ法 ほう )で直接 ちょくせつ 選挙 せんきょ による二院 にいん 制 せい になった。1934年 ねん のタイディングズ・マクダフィ法 ほう で独立 どくりつ 準備 じゅんび 政府 せいふ の樹立 じゅりつ を認 みと め、発足 ほっそく 10年 ねん 後 ご の独立 どくりつ を約束 やくそく した。
^ 1934年 ねん に憲法 けんぽう 制定 せいてい 議会 ぎかい を招集 しょうしゅう し憲法 けんぽう 草案 そうあん を起草 きそう (共和 きょうわ 政体 せいたい の権利 けんり 章典 しょうてん を含 ふく む憲法 けんぽう )、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 憲法 けんぽう の影響 えいきょう が大 おお きかった。1943年 ねん の日本 にっぽん 軍 ぐん 占領 せんりょう 下 か に第 だい 二 に 共和 きょうわ 政 せい を組織 そしき する1943年 ねん 憲法 けんぽう が制定 せいてい されたが、1946年 ねん 7月 がつ 独立 どくりつ 時 じ に35年 ねん 憲法 けんぽう に復帰 ふっき した。
^ 戒厳 かいげん 令 れい 下 か では政権 せいけん の永続 えいぞく 化 か が可能 かのう であり、大統領 だいとうりょう 権限 けんげん の飛躍 ひやく 的 てき 強化 きょうか がなされた。
^ 35年 ねん 憲法 けんぽう 改正 かいせい の準備 じゅんび は196年代 ねんだい の後半 こうはん から本格 ほんかく 化 か し、1970年 ねん 11月の憲法 けんぽう 制定 せいてい 会議 かいぎ 代議員 だいぎいん 選挙 せんきょ で320名 めい 選出 せんしゅつ される。
^ 1947年 ねん 調印 ちょういん の比 ひ 米 べい 軍事 ぐんじ 援助 えんじょ 協定 きょうてい と1947~1991年 ねん 比 ひ 米 べい 軍事 ぐんじ 基地 きち 協定 きょうてい による。
^ 被害 ひがい 者 しゃ 総数 そうすう は120万 まん 人 にん に達 たっ するほどであった。一方 いっぽう 、農業 のうぎょう に適 てき した養分 ようぶん を含 ふく む土地 とち も形成 けいせい した。
^ 1960年 ねん から2000年代 ねんだい 中 ちゅう ごろまでに約 やく 1万 まん 件 けん の地震 じしん が観測 かんそく されている。1990年 ねん 7月 がつ に中部 ちゅうぶ ・北部 ほくぶ ルソンを襲 おそ った大 だい 規模 きぼ 地震 じしん は7州 しゅう に被害 ひがい を及 およ ぼし、120万 まん 人 にん 以上 いじょう が被災 ひさい した。葉山 はやま アツコ「自然 しぜん ・地理 ちり 」エリア・スタディーズ(2009):249
^ タガログ語 ご で「襤褸 らんる 切 き れ(ぼろきれ)」という意味 いみ もある。
^ 在日 ざいにち フィリピン人 じん の場合 ばあい 、日本人 にっぽんじん と同様 どうよう に「姓 せい 、名 な 」で名乗 なの ることがある。
^ ただし最近 さいきん では、スペイン語 ご よりも英語 えいご の名前 なまえ が主流 しゅりゅう となっている。例 れい :Miguel、Margarita → Michael、Margaretなど。
^ 窃盗 せっとう 、傷害 しょうがい ・暴行 ぼうこう 、強盗 ごうとう 、殺人 さつじん 事件 じけん などの重大 じゅうだい 犯罪 はんざい 発生 はっせい 件数 けんすう は約 やく 8万 まん 件 けん (前年 ぜんねん 比 ひ 約 やく 28%減 げん )が報告 ほうこく されており、そのうち窃盗 せっとう が全体 ぜんたい の30%、傷害 しょうがい ・暴行 ぼうこう が28%、強盗 ごうとう が14%、殺人 さつじん が9%を占 し めている。殺人 さつじん 事件 じけん は約 やく 0.7万 まん 件 けん (前年 ぜんねん 比 ひ 約 やく 22%減 げん )、強盗 ごうとう 事件 じけん は約 やく 1.1万 まん 件 けん (前年 ぜんねん 比 ひ 約 やく 32%減 げん )がそれぞれ報告 ほうこく されており、その件数 けんすう は、殺人 さつじん 事件 じけん が日本 にっぽん の約 やく 8倍 ばい 、強盗 ごうとう 事件 じけん は日本 にっぽん の約 やく 6倍 ばい となっている。
^ 犯人 はんにん が被害 ひがい 者 しゃ や警察官 けいさつかん ・警備 けいび 員 いん などからの反撃 はんげき に備 そな えて銃器 じゅうき を所持 しょじ している例 れい も多 おお い。
歴史 れきし
政治 せいじ
経済 けいざい
文化 ぶんか
環境 かんきょう
津田 つだ 守 まもる 『自然 しぜん 災害 さいがい と国際 こくさい 協力 きょうりょく -フィリピン・ピナトゥボ大 だい 噴火 ふんか と日本 にっぽん 』新 しん 評論 ひょうろん
国際 こくさい 紛争 ふんそう
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