ラッツ&スター 別名 べつめい
シャネルズ(旧称 きゅうしょう ) 大森 おおもり 笑劇 しょうげき 研究 けんきゅう 会 かい 出身 しゅっしん 地 ち
日本 にっぽん ジャンル
活動 かつどう 期間 きかん
レーベル
エピックレコードジャパン メンバー
旧 きゅう メンバー
ラッツ&スター (RATS & STAR) は、日本 にっぽん のコーラス・グループ [2] である。1982年 ねん 以前 いぜん はシャネルズ (CHANELS、後 のち にSHANELSに変更 へんこう )のグループ名 めい で活動 かつどう していた。4人 にん のボーカル が顔 かお を黒 くろ く塗 ぬ り 、ドゥーワップ やソウル音楽 おんがく 等 ひとし のブラックミュージックを歌 うた っていた事 こと で知 し られている。30年 ねん 以上 いじょう に亘 わた り活動 かつどう を休止 きゅうし しているが、正式 せいしき な解散 かいさん はしていない。
顔 かお を黒 くろ く塗 ぬ っていたのは上記 じょうき の4人 にん である。
1975年 ねん 9月、鈴木 すずき が高校 こうこう 時代 じだい の仲間 なかま の田代 たしろ 、中学 ちゅうがく の時 とき に同級生 どうきゅうせい だった佐藤 さとう ・久保木 くぼき らとともにシャネルズ を結成 けっせい 。結成 けっせい メンバーは4人 にん [3] 。この他 ほか に結成 けっせい 当初 とうしょ から在籍 ざいせき していたのは新保 しんぼ と高橋 たかはし で、主 おも に大森 おおもり 近辺 きんぺん 出身 しゅっしん のメンバーが集 あつ まり、自分 じぶん 達 たち の仕事 しごと と並行 へいこう して演奏 えんそう 活動 かつどう をスタートさせた。
結成 けっせい 当時 とうじ は、ちょうどキャロル が解散 かいさん したころで[3] 、周 まわ りのほとんどのアマチュア・グループはキャロルのコピー をやっていたため[3] 、鈴木 すずき が人 ひと と変 か わったことをやりたいと、鈴木 すずき の好 す きなドゥーワップやR&B を演 えんじ ることになった[3] 。
バンド名 めい は、フランス の高級 こうきゅう アパレルブランド ・シャネル とは無関係 むかんけい で、憧 あこが れのグループであったアメリカ のオールディーズバンド「シャ・ナ・ナ (Sha na na)」とドゥーワップグループ「ザ・チャンネルズ (The Channels)」からとって名付 なづ けたもので、バンド名 めい の通 とお り当初 とうしょ は「シャ・ナ・ナ 」のコピーバンドとして主 おも に活動 かつどう しており、顔 かお も黒 くろ く塗 ぬ っておらず衣装 いしょう もT てぃー シャツ にスカジャン というスタイルであった。
1976年 ねん には『ぎんざNOW! 』(TBS )に出演 しゅつえん 。その後 ご 一部 いちぶ メンバーの脱退 だったい が続 つづ いたが、その入 い れ替 か わりに鈴木 すずき の幼 おさな なじみである桑野 くわの と、中学 ちゅうがく 時代 じだい は高橋 たかはし と同級生 どうきゅうせい だった須川 すがわ が加入 かにゅう する。
1977年 ねん 、当時 とうじ 最高峰 さいこうほう のアマチュア ・バンドコンテスト『EastWest '77』(主催 しゅさい ・ヤマハ )に出場 しゅつじょう し、決勝 けっしょう 大会 たいかい まで進出 しんしゅつ して入賞 にゅうしょう を飾 かざ る。同 どう コンテスト決勝 けっしょう 大会 たいかい には、サザンオールスターズ (入賞 にゅうしょう )、カシオペア (優秀 ゆうしゅう グループ)が出場 しゅつじょう していてプロへの足掛 あしが かりを作 つく っている。また大瀧 おおたき 詠一 えいいち とこのころ関係 かんけい を持 も ち始 はじ め、1978年 ねん 発表 はっぴょう の大瀧 おおたき がプロデュースしたアルバム『LET'S ONDO AGAIN 』には鈴木 すずき がソロを取 と り佐藤 さとう がコーラスを担当 たんとう した曲 きょく と、メンバー全員 ぜんいん で参加 さんか した曲 きょく の2曲 きょく が収録 しゅうろく された。なお、名義 めいぎ はそれぞれ竜ヶ崎 りゅうがさき 宇童 とモンスター となっている。
黒 くろ 塗 ぬ り姿 すがた でのドゥーワップに路線 ろせん 変更 へんこう [ 編集 へんしゅう ]
『EastWest'77』でサザンオールスターズを始 はじ めとする他 ほか のバンドに圧倒 あっとう されたメンバーは、シャネルズをもっと強 つよ く印象 いんしょう づけられるものが何 なに かないか探 さが していた。そんな時 とき 、田代 たしろ が深夜 しんや にテレビで放送 ほうそう されていた東宝 とうほう 映画 えいが 『三 さん 匹 ひき の狸 たぬき 』(1966年 ねん )を観 み ている時 とき に小沢 おざわ 昭一 しょういち が演 えん じていた黒 くろ 塗 ぬ りパンチパーマの詐欺 さぎ 師 し にヒントを得 え て、黒 くろ 塗 ぬ りの顔 かお でステージに立 た ってみることを発案 はつあん する。
話 はな し合 あ った結果 けっか 、目立 めだ つようにメインボーカルの4人 にん だけが顔 かお を黒 くろ く塗 ぬ ることに決 き め、衣装 いしょう も黒 くろ い顔 かお に似合 にあ うものを探 さが して、キャバレー の呼 よ び込 こ みが着 き ていた制服 せいふく であるど派手 はで なタキシード を安 やす く仕入 しい れた。そして、鈴木 すずき の父 ちち が持 も っていた黒人 こくじん 音楽 おんがく のレコードやジャケットを見 み て、衣装 いしょう に合 あ う振 ふ り付 つ けを考 かんが え出 だ した。こうして『EastWest'78』にはレコードデビュー後 ご のスタイルに近 ちか い形 かたち で出演 しゅつえん し、その後 ご の曲 きょく のレパートリーも本格 ほんかく 的 てき なドゥーワップが中心 ちゅうしん となっていった。
鈴木 すずき は1981年 ねん の雑誌 ざっし インタビューで「黒人 こくじん の音楽 おんがく は超 こ えられないけど、近 ちか づくことは出来 でき ると思 おも う。黒人 こくじん に近 ちか づく為 ため のポリシー、スピリットは、顔 かお を塗 ぬ ってアピールすることから始 はじ まったから、自分 じぶん 達 たち の音楽 おんがく は黒 くろ いな、とか、お客 きゃく さんが、シャネルズは黒 くろ いなって思 おも ってもらうようになったら、塗 ぬ る必要 ひつよう なんかなくなる」と述 の べている[3] 。
ただ、当時 とうじ しばらくはドゥーワップ がなかなか世間 せけん で認 みと められず苦労 くろう するも、山下 やました 達郎 たつお には早 はや くから認 みと められていた。その後 ご 新宿 しんじゅく のライブハウス 「ルイード」で定期 ていき 的 てき に行 い っていたライブが次第 しだい に評判 ひょうばん を得 え 始 はじ め、アマチュアバンドの中 なか では一 いち 、二 に を争 あらそ う人気 にんき グループとなっていく。このころ脱退 だったい したメンバーと入 い れ替 か わりに横浜 よこはま のアマチュアバンド「ダックテールズ」のリーダーだった山崎 やまざき がメンバー入 い りし、更 さら にその後 ご サイドギター担当 たんとう が抜 ぬ けた後釜 あとがま に葛飾 かつしか 区 く 柴又 しばまた 出身 しゅっしん の出雲 いずも が加入 かにゅう してデビュー後 ご のメンバーが揃 そろ う。
レコードデビュー前 まえ にもテレビ出演 しゅつえん を果 は たしており、例 たと えば、「独占 どくせん !おとなの時間 じかん 」(東京 とうきょう 12チャンネル〈現 げん :テレビ東京 てれびとうきょう 〉)では中途 ちゅうと から数 すう 回 かい 出演 しゅつえん し、「シュブーン 」などのドゥーワップ を披露 ひろう している。
1980年 ねん 2月 がつ にメンバー10人 にん でレコードデビュー。同年 どうねん 3月 がつ 、群馬 ぐんま 県 けん で開催 かいさい された「シャネルズ」のコンサートの後 のち 、メンバー10人 にん のうち5人 にん (桑野 くわの 信義 のぶよし ・久保木 くぼき 博之 ひろゆき ・新保 しんぼ 清孝 きよたか ・山崎 やまざき 廣明 ひろあき ・須川 すがわ 泰男 やすお )が、当時 とうじ 未成年 みせいねん だったファンの女子 じょし 2名 めい にわいせつな行為 こうい をしたとして書類 しょるい 送検 そうけん され、事件 じけん に関与 かんよ したメンバーは半年 はんとし 間 あいだ 謹慎 きんしん する。
いっぽうでデビュー曲 きょく 「ランナウェイ」がミリオンセラー を記録 きろく する大 だい ヒット。顔 かお を黒 くろ 塗 ぬ りすることで、ブラックミュージック の雰囲気 ふんいき を出 だ したことが話題 わだい となり、お茶 ちゃ の間 あいだ でも一躍 いちやく 人気 にんき グループとなる。また、「『ドゥ・ワップ』ってなんだろう?」と音楽 おんがく 雑誌 ざっし でも取 と り上 あ げられるなど、日本 にっぽん にドゥーワップ・ブームを巻 ま き起 お こす。
黒 くろ 塗 ぬ りメイクにはデビュー当時 とうじ まで白髪染 しらがぞ めを、以後 いご は濃 こ い色 いろ のファンデーションを塗 ぬ っている(当時 とうじ は靴墨 くつづみ を塗 ぬ っているという説 せつ が一般 いっぱん 的 てき であったが、靴墨 くつづみ はファンがやっていたため自分 じぶん たちも靴墨 くつづみ と言 い っただけで、靴墨 くつづみ は臭 くさ くてとても塗 ぬ れないでしょうという趣旨 しゅし のコメントを後 のち に桑野 くわの が述 の べている)。
なお、デビュー後 ご もしばらくの間 あいだ は、メンバー全員 ぜんいん がそれまでの仕事 しごと を続 つづ けていた(リーダーの鈴木 すずき 雅之 まさゆき は実家 じっか の鉄工 てっこう 所 しょ で働 はたら く旋盤 せんばん 工 こう 、他 た のメンバーもトラック運転 うんてん 手 しゅ やガソリンスタンドやデパート勤務 きんむ といった本業 ほんぎょう を持 も っていた[4] )。同年 どうねん 、ロサンゼルス の名門 めいもん ライブハウス「WHISKEY A GO GO 」に出演 しゅつえん を果 は たした。
1982年 ねん 1月 がつ 、一旦 いったん それまでの活動 かつどう を休止 きゅうし し、全員 ぜんいん が昼間 ひるま は旋盤 せんばん 工 こう などの仕事 しごと をして、夜 よる に集 あつ まって練習 れんしゅう をするという生活 せいかつ に戻 もど った。2ヶ月 かげつ 後 ご に復帰 ふっき し、この時 とき に「CHANELS」のスペルを「SHANELS」と変 か えている。前述 ぜんじゅつ のシャネル(CHANEL)からの物言 ものい いがあったと言 い われているが、鈴木 すずき はスペルを改 あらた めた理由 りゆう として「CHANELS」だと海外 かいがい ではチャネルズと読 よ まれてしまうためと述 の べている[注釈 ちゅうしゃく 1] 。以後 いご 、シャネルズ時代 じだい の音源 おんげん などが発売 はつばい された時 とき は、ジャケットなどの「CHANELS」の表記 ひょうき は全 すべ て「SHANELS」と変 か えられている。
ラッツ&スターに改名 かいめい [ 編集 へんしゅう ]
1983年 ねん 、『サヨナラ・シャネルズ・フェアー』開催 かいさい に伴 ともな いシャネルズとしての活動 かつどう を終了 しゅうりょう させ、ラッツ&スター に改名 かいめい 。ラッツ&スターとしてのデビュー曲 きょく 「め組 ぐみ のひと」が80万 まん 枚 まい を売 う り上 あ げる。
バンド名 めい を変更 へんこう した理由 りゆう はあまり明言 めいげん されることがなく、ドゥーワップにとらわれないグループを目指 めざ すためと説明 せつめい されることもあるが、スペル改名 かいめい 後 ご もシャネルからのクレームが続 つづ いたためと言 い われることが多 おお く、同業 どうぎょう である化粧 けしょう 品 ひん 会社 かいしゃ (資生堂 しせいどう )のCMソングを担当 たんとう することになったためという説 せつ もある。
バンド名 めい の「RATS & STAR」は「ドブネズミ達 たち と星 ほし 」を意味 いみ し、逆 ぎゃく から読 よ んでも「RATS & STAR」となる。下町 したまち 育 そだ ちのドブネズミ達 たち がDoo-Wapを歌 うた うとRATSがひっくり返 かえ りSTARになったというのが本義 ほんぎ 。なお、シャネルズ時代 じだい の1981年 ねん にすでに『ラッツ&スター』というタイトルの本 ほん を刊行 かんこう していた。
また、この年 とし の7月 がつ 24日 にち には『ALL NIGHT NIPPON SUPER FES. '83』に出演 しゅつえん し、大瀧 おおたき 詠一 えいいち 、サザンオールスターズと競演 きょうえん する。最後 さいご は『蛍 ぼたる の光 ひかり 』、『上 うえ を向 む いて歩 ある こう 』をセッション。
その後 ご 、ピアノの山崎 やまざき とベースの高橋 たかはし が脱退 だったい して8人 にん 体制 たいせい になる。1984年 ねん 3月、週 しゅう 4回 かい 放送 ほうそう の5分間 ふんかん バラエティ 帯 おび 番組 ばんぐみ 『マンガチョップ'84 』(フジテレビ )に大森 おおもり 笑劇 しょうげき 研究 けんきゅう 会 かい (おおもりしょうげきけんきゅうかい)名義 めいぎ でレギュラー出演 しゅつえん し、コントを披露 ひろう した。同年 どうねん 11月 がつ からは文化放送 ぶんかほうそう のラジオ番組 ばんぐみ 『RATS ENTERTAINMENT'85』がスタートした。
活動 かつどう 休止 きゅうし ~その後 ご [ 編集 へんしゅう ]
1985年 ねん 、東京 とうきょう ・赤坂 あかさか の日枝 ひえ 神社 じんじゃ でメンバー5人 にん が合同 ごうどう 結婚式 けっこんしき を行 おこな い、話題 わだい を呼 よ ぶ。結婚式 けっこんしき 当日 とうじつ は花嫁 はなよめ を引 ひ き連 つ れて『夜 よる のヒットスタジオDELUXE 』(フジテレビ)の第 だい 1回 かい 目 め に出演 しゅつえん 。後 のち に須川 すがわ が抜 ぬ けて7人 にん 体制 たいせい になるが、その後 ご メンバーは一人 ひとり 一 いち 人 にん が個人 こじん で活動 かつどう していくようになる。田代 たしろ と桑野 くわの はタレント 業 ごう を主 おも な活動 かつどう の場 ば とするようになり、鈴木 すずき は1986年 ねん にソロ歌手 かしゅ としてデビューした。久保木 くぼき は一般人 いっぱんじん となり、時折 ときおり ラッツで集 あつ まる以外 いがい は芸能 げいのう 活動 かつどう を行 おこな わなくなり、佐藤 さとう は音楽 おんがく プロデューサー・実業 じつぎょう 家 か に転身 てんしん した。活動 かつどう 休止 きゅうし 以前 いぜん に脱退 だったい した山崎 やまざき 、高橋 たかはし 、須川 すがわ を含 ふく む他 ほか のメンバーもラッツ以外 いがい の音楽 おんがく 活動 かつどう や一般人 いっぱんじん となるなどそれぞれの道 みち に進 すす んだ。
1987年 ねん 、鈴 すず 木 こ の実 み の姉 あね である鈴木 すずき 聖美 きよみ の歌手 かしゅ デビューをサポート。「鈴木 すずき 聖美 きよみ with Rats&Star 」としてリリースしたデュエット 曲 きょく 「ロンリーチャップリン 」がヒットし、後 のち にカラオケのデュエットソングの定番 ていばん となった。「鈴木 すずき 聖美 きよみ with Rats&Star」としての楽曲 がっきょく 発売 はつばい は同年 どうねん 11月 がつ のシングル「TAXI 」が最後 さいご となり、以後 いご は新曲 しんきょく をリリースすることもなく活動 かつどう 休止 きゅうし 状態 じょうたい になる。しかし年越 としこ しライブ「NEW YEAR ROCK FESTIVAL」への出演 しゅつえん など単発 たんぱつ 的 てき な活動 かつどう は行 おこな っており、1989年 ねん に発売 はつばい されたゲームソフト「田代 たしろ まさしのプリンセスがいっぱい 」ではラッツ&スターのメンバー全員 ぜんいん がゲーム内 ない に登場 とうじょう するなどしていた。又 また 、同 どう 時期 じき にはゼネラル石油 ぜねらるせきゆ のCMにもメンバー全員 ぜんいん で出演 しゅつえん した事 こと もあった。90年代 ねんだい に入 はい るとそのような機会 きかい もほとんどなくなっていき、1991年 ねん には新保 しんぼ が覚醒剤 かくせいざい 不法 ふほう 所持 しょじ で逮捕 たいほ されている。
1992年 ねん 7月 がつ 15日 にち には『SOUND ARENA 』(フジテレビ)に緑 みどり のスーツを着 き て出演 しゅつえん し、メドレーを披露 ひろう している。この番組 ばんぐみ は田代 たしろ が司会 しかい を務 つと めていた番組 ばんぐみ であり、同年 どうねん 6月24日 にち の放送 ほうそう に鈴木 すずき がゲスト出演 しゅつえん した際 さい に同 おな じく司会 しかい を務 つと めていた徳光 とくみつ 和夫 かずお (徳光 とくみつ 、堺 さかい 正章 まさあき 、田代 たしろ の3人 にん で司会 しかい を務 つと めていた)が鈴木 すずき にラッツでの出演 しゅつえん を持 も ち掛 か けて実現 じつげん したものだった。
ネズミ年 ねん の1996年 ねん にメンバーが再 さい 集結 しゅうけつ し、期間 きかん 限定 げんてい で活動 かつどう を再開 さいかい する。ラッツ&スターとしては11年 ねん 振 ふ りとなるシングルである大瀧 おおたき 詠一 えいいち プロデュースの「夢 ゆめ で逢 あ えたら 」をリリースし、ライオン株式会社 かぶしきがいしゃ の歯磨 はみが き「クリスタ」のCMソングに起用 きよう された。その後 ご 全国 ぜんこく ツアーを敢行 かんこう し、同年 どうねん 、同 どう 曲 きょく で『第 だい 47回 かい NHK紅白 こうはく 歌合戦 うたがっせん 』に初 はつ 出場 しゅつじょう する。
1996年 ねん の再 さい 集結 しゅうけつ 以降 いこう 、桑野 くわの が『THE夜 よる もヒッパレ 』(日本 にほん テレビ )でグループの活動 かつどう 再開 さいかい を明言 めいげん していたが、田代 たしろ の一連 いちれん の不祥事 ふしょうじ により話 はなし が立 た ち消 ぎ えになったようである[注釈 ちゅうしゃく 2] 。しかし、それ以降 いこう も桑野 くわの は「解散 かいさん したわけではなく、もし活動 かつどう を再開 さいかい するのであれば再 さい 結成 けっせい ではなく再 さい 集結 しゅうけつ です」と述 の べており、2019年 ねん に『いまだにファンです! 』(テレビ朝日 てれびあさひ )に出演 しゅつえん した際 さい にも解散 かいさん を否定 ひてい し、「また集 あつ まって(ラッツを)絶対 ぜったい にやろうという気持 きも ちは誰 だれ よりも強 つよ いです」と語 かた っている[5] 。
2006年 ねん 4月 がつ 19日 にち に、鈴木 すずき ・佐藤 さとう ・桑野 くわの の3人 にん が、ゴスペラーズ のメンバー(村上 むらかみ てつや 、酒井 さかい 雄二 ゆうじ )とのコラボレーションで「ゴスペラッツ 」としてアルバムをリリースした。
2008年 ねん 7月 がつ 、京浜急行電鉄 けいひんきゅうこうでんてつ が主要 しゅよう 駅 えき の接近 せっきん メロディ に使用 しよう する楽曲 がっきょく を一般 いっぱん から募集 ぼしゅう した結果 けっか 、京急 けいきゅう 蒲田 かまた 駅 えき のメロディに「夢 ゆめ で逢 あ えたら」が採用 さいよう され、同年 どうねん 12月11日 にち に使用 しよう を開始 かいし した。採用 さいよう 理由 りゆう には、鈴木 すずき と桑野 くわの が同 どう 駅 えき の所在 しょざい する大田 おおた 区 く 出身 しゅっしん であること、グループを代表 だいひょう する楽曲 がっきょく であることの二 ふた つが挙 あ げられている。
2009年 ねん 2月 がつ 、田代 たしろ が自 みずか らのブログ で鈴木 すずき ・佐藤 さとう と会食 かいしょく し、鈴木 すずき が田代 たしろ にラッツの30周年 しゅうねん については困難 こんなん な見解 けんかい を示 しめ しつつも、互 たが いに「ラッツは宝物 ほうもつ だ」ということを確認 かくにん しあい、「お前 まえ が真面目 まじめ にやって宝物 ほうもつ を磨 みが いて俺 おれ たちの前 まえ に出 だ すなら、俺 おれ もそれを出 だ すよ」と語 かた ったことを明 あ かした。翌 よく 3月 がつ 、鈴木 すずき は新 しん アルバム『Still Gold』の発表 はっぴょう 記念 きねん イベントで「再 ふたた び、田代 たしろ さんと歌 うた う可能 かのう 性 せい はあるのか」との質問 しつもん を受 う け、「彼 かれ も自分 じぶん をもっと磨 みが いてほしい。そうしたら、オレも磨 みが いたStill Gold(黄金 おうごん の輝 かがや き)を彼 かれ の前 まえ に出 だ したいと思 おも います」と答 こた えた。
田代 たしろ に関 かん しては、2000年 ねん の不祥事 ふしょうじ による芸能 げいのう 活動 かつどう 休止 きゅうし の際 さい に桑野 くわの が田代 たしろ と桑野 くわの の師匠 ししょう 格 かく にあたる志村 しむら けん と一緒 いっしょ に田代 たしろ の復帰 ふっき を支援 しえん したにもかかわらず、2001年 ねん に田代 たしろ は風呂場 ふろば 覗 のぞ き及 およ び覚醒剤 かくせいざい 不法 ふほう 所持 しょじ で逮捕 たいほ されてしまい、以降 いこう も田代 たしろ は覚醒剤 かくせいざい を含 ふく む不祥事 ふしょうじ を連発 れんぱつ することになる。2001年 ねん の不祥事 ふしょうじ の際 さい に桑野 くわの は田代 たしろ を猛烈 もうれつ に非難 ひなん して以降 いこう は絶縁 ぜつえん 状態 じょうたい となってしまっていたが、2009年 ねん の辺 あた りには桑野 くわの とは和解 わかい して、鈴木 すずき や佐藤 さとう とも会食 かいしょく をしたり、既 すで に一般人 いっぱんじん となっている久保木 くぼき とも対面 たいめん したりと田代 たしろ と他 た のメンバーとの関係 かんけい は改善 かいぜん されていた。また、田代 たしろ はこの辺 あた りは山崎 やまざき と一緒 いっしょ に仕事 しごと をしたりしている。しかし、2010年 ねん に逮捕 たいほ されて以降 いこう は鈴木 すずき と桑野 くわの から田代 たしろ を非難 ひなん するコメントが出 で た以外 いがい はメンバーとは完全 かんぜん に断絶 だんぜつ 状態 じょうたい になってしまい、出所 しゅっしょ 時 じ には2010年 ねん の逮捕 たいほ 前 まえ まで一緒 いっしょ に仕事 しごと をしていた山崎 やまざき がブログで田代 たしろ を懐 なつ かしむコメントを出 だ していたが、2019年 ねん に再 ふたた び逮捕 たいほ された際 さい はメンバーからのコメントは一切 いっさい 無 な かった。上述 じょうじゅつ の通 とお り、1996年 ねん の再 さい 集結 しゅうけつ 以降 いこう にも数 すう 回 かい 再 さい 集結 しゅうけつ の話 はなし はあったが、いずれも田代 たしろ がその度 たび に不祥事 ふしょうじ を連発 れんぱつ して白紙 はくし になっている。
2009年 ねん 9月2日 にち 、Blu-spec CD にて、1996年 ねん 発売 はつばい のベストアルバム『BACK TO THE BASIC〜The Very Best of RATS&STAR〜 』が鈴木 すずき 雅之 まさゆき の"Martini"シリーズ『Martini Blend』とともに再発 さいはつ された。
2009年 ねん 、下北沢 しもきたざわ のソウルバー「エクセロ」が25周年 しゅうねん 記念 きねん イベントを行 おこな った際 さい に、田代 たしろ も含 ふく めたラッツ&スターのメンバーが出演 しゅつえん 。ひさしぶりにラッツ&スターのメンバーが顔 かお をそろえた。ステージでは「スタンドバイミー」を披露 ひろう した(田代 たしろ のブログより)。
2010年代 ねんだい 以降 いこう [ 編集 へんしゅう ]
2010年 ねん 2月 がつ 25日 にち 、デビュー30周年 しゅうねん を記念 きねん して、オリジナル・アルバム(9枚 まい )・初 はつ のB面 めん 集 しゅう ・レアトラック集 しゅう の計 けい 11枚 まい のCDとPV集 しゅう +秘蔵 ひぞう 映像 えいぞう のDVD1枚 まい 、その他 た 豪華 ごうか 特典 とくてん 付 つ きで、初 はつ のBOX『The Complete 〜History of RATS & STAR〜 』が完全 かんぜん 生産 せいさん 限定 げんてい で発売 はつばい 。
2015年 ねん 9月2日 にち に「ゴスペラッツ」10周年 しゅうねん として、アルバム「GOSPE☆RATS ~ぺラッII~」を発表 はっぴょう し、同月 どうげつ に東京 とうきょう と大阪 おおさか で行 おこな われるライブイベント「SOUL POWER」に出演 しゅつえん [6] [7] [8] [9] 。
近年 きんねん は鈴木 すずき ・佐藤 さとう ・桑野 くわの の「ゴスペラッツ」での活動 かつどう や鈴木 すずき のコンサートツアーに佐藤 さとう と桑野 くわの が同行 どうこう したりしているが、出雲 いずも と山崎 やまざき が「オシャレズ」や「浅草 あさくさ ロマンス」として活動 かつどう したり、出雲 いずも ・新保 しんぼ ・山崎 やまざき ・高橋 たかはし ・須川 すがわ で「アンドスターズ」として活動 かつどう したりと、田代 たしろ と久保木 くぼき を除 のぞ くメンバー間 あいだ 同士 どうし のライブ等 とう での活動 かつどう は活発 かっぱつ 化 か している[10] 。
デビュー曲 きょく の『ランナウェイ』は湯川 ゆかわ れい子 こ が作詞 さくし を、井上 いのうえ 大輔 だいすけ が作曲 さっきょく を担当 たんとう し、後 ご もこの二 に 人 にん によって多 おお くのヒット曲 きょく が作 つく られた。特 とく に井上 いのうえ はラッツ&スター時代 じだい を含 ふく めてほとんどのシングル曲 きょく において作曲 さっきょく を行 おこな っている。また、作詞 さくし 家 か の売 うれ 野 の 雅 まさ 勇 いさむ が初 はじ めて詩 し を提供 ていきょう したのが麻生 あそう 麗 うらら 二 に 名義 めいぎ によるシャネルズの『星屑 ほしくず のダンス・ホール』という曲 きょく で、後 のち に『め組 ぐみ のひと』『今夜 こんや はフィジカル』『グラマーGuy』など多 おお くの楽曲 がっきょく の作詞 さくし を担当 たんとう した。アルバム収録 しゅうろく 曲 きょく の大半 たいはん や「憧 あこが れのスレンダー・ガール」などの一部 いちぶ のシングル曲 きょく は田代 たしろ が作詞 さくし を、鈴木 すずき が作曲 さっきょく を担当 たんとう している。田代 たしろ と鈴木 すずき の二人 ふたり は小泉 こいずみ 今日子 きょうこ やシブがき隊 たい に楽曲 がっきょく を提供 ていきょう したこともある。その他 た には村松 むらまつ 邦男 くにお もグループの編曲 へんきょく に深 ふか く携 たずさ わっている。
リードボーカルは基本 きほん 的 てき に鈴木 すずき が務 つと めていたが、アルバムには田代 たしろ がリードを取 と る曲 きょく が収録 しゅうろく されていることが多 おお く、その他 た にも佐藤 さとう ・久保木 くぼき ・桑野 くわの ・新保 しんぼ がそれぞれリードボーカルを担当 たんとう する楽曲 がっきょく も存在 そんざい する。
デビュー前 まえ から交流 こうりゅう のある大瀧 おおたき 詠一 えいいち は、当 とう グループのデビュー曲 きょく 用 よう に『スパイスソング』と言 い う曲 きょく を書 か いており、ハウス食品 はうすしょくひん 「ペッパー」のCMソングとして使 つか われる予定 よてい であったが、結局 けっきょく は使 つか われなかった(ゴスペラッツのアルバムに収録 しゅうろく された『星空 ほしぞら のサーカス〜ナイアガラへ愛 あい をこめて編 へん 〜』は、この曲 きょく と『星空 ほしぞら のサーカス』のメドレー である)。大瀧 おおたき による同 どう 曲 きょく のデモバージョンは、アルバム『NIAGARA CM SPECIAL 3rd Issue 30th Anniversary Edition 』に収 おさ められた。シングル発売 はつばい された『T てぃー シャツに口紅 くちべに 』とそのB面 めん 曲 きょく 『星空 ほしぞら のサーカス』の作曲 さっきょく や、先述 せんじゅつ の2曲 きょく が収録 しゅうろく されたアルバム『SOUL VACATION』のプロデュース、彼 かれ が作詞 さくし ・作曲 さっきょく した『夢 ゆめ で逢 あ えたら』をラッツがカバーした(オリジナルは吉田 よしだ 美奈子 みなこ )シングル製作 せいさく 時 じ のスーパーバイザーでもあった。
※すべてのシングルは、現在 げんざい 廃盤 はいばん 。
※「鈴木 すずき 聖美 きよみ with Rats&Star」名義 めいぎ は、鈴木 すずき 聖美 きよみ with Rats&Star を参照 さんしょう 。
※形態 けいたい の欄 らん に*印 しるし があるアルバムは、1995年 ねん に『CD選書 せんしょ 』として発売 はつばい されている。(**印 いん は初 はつ CD化 か )
※「鈴木 すずき 聖美 きよみ with Rats&Star」名義 めいぎ は、鈴木 すずき 聖美 きよみ with Rats&Star を参照 さんしょう 。
NHK紅白 こうはく 歌合戦 うたがっせん 出場 しゅつじょう 歴 れき [ 編集 へんしゅう ]
注意 ちゅうい 点 てん
出演 しゅつえん 順 じゅん は「出演 しゅつえん 順 じゅん /出場 しゅつじょう 者 しゃ 数 すう 」で表 あらわ す。
出演 しゅつえん 番組 ばんぐみ [ 編集 へんしゅう ]
単行本 たんこうぼん 『シャネルズのラッツ&スター』 (八 はち 曜社、1981年 ねん 5月 がつ 10日 とおか )
写真 しゃしん 集 しゅう 『ザ・シャネルズ』 (徳間書店 とくましょてん 、1981年 ねん 9月 がつ 30日 にち )
^ 「CHANELS」はフランス語 ふらんすご 読 よ みなら「シャネル」。「シャネルズ 」にはならない。
^ ちなみにデビュー25周年 しゅうねん の2005年 ねん には、桑田 くわた 佳祐 けいすけ プロデュースによるアルバム発売 はつばい 、ラッツ&スターのパチンコ台 だい の話 はなし も上 あ がっていた。