ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

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ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
Wolfgang Amadeus Mozart
バーバラ・クラフトによる肖像しょうぞう1819ねん
モーツァルトの死後しご想像そうぞうえがかれた。
基本きほん情報じょうほう
出生しゅっしょうめい ヨハンネス・クリュソストムス・ウォルフガングス・テオフィルス・モザルト
Johannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozart
別名べつめい 神童しんどう
生誕せいたん 1756ねん1がつ27にち
神聖ローマ帝国の旗 ドイツ国民こくみん神聖しんせいマ帝国まていこく
ザルツブルク大司教だいしきょうりょう英語えいごばん
ザルツブルク
死没しぼつ (1791-12-05) 1791ねん12月5にち(35さいぼつ
神聖ローマ帝国の旗 ドイツ国民こくみん神聖しんせいマ帝国まていこく
オーストリアの旗 オーストリア大公たいこうこく
ウィーン
ジャンル 古典こてん音楽おんがく
職業しょくぎょう 作曲さっきょく
活動かつどう期間きかん 1761ねん - 1791ねん
モーツァルトのサイン

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト[注釈ちゅうしゃく 1]どく: Wolfgang Amadeus Mozart [ˈvɔlfɡaŋ ʔamaˈdeːʊs ˈmoːtsaʁt] ( 音声おんせいファイル)1756ねん1がつ27にち - 1791ねん12月5にち)は、おも現在げんざいオーストリア活動かつどう拠点きょてんとした音楽家おんがくか[注釈ちゅうしゃく 2]

洗礼せんれいめいヨハンネス・クリュソストムス・ウォルフガングス・テオフィルス・モザルト [Johannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozart]。

ハイドンベートーヴェンおなじく古典こてん音楽おんがくウィーン古典こてん代表だいひょうする存在そんざいである[1][2][3]

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

幼年ようねん[編集へんしゅう]

1756ねん1がつ27にちザルツブルク誕生たんじょうする。現在げんざいはオーストリアの都市としであるが、当時とうじかみきよしマ帝国まていこくりょう当時とうじ正式せいしき名称めいしょうは「ドイツ国民こくみん神聖しんせいマ帝国まていこく」にぞくする大司教だいしきょうりょうであり、オーストリアの前身ぜんしん国家こっかであるオーストリア大公たいこうこくりょうにはふくまれていない。このてん現代げんだいにまで議論ぎろんまねいているてん後述こうじゅつ)であった。

ちちレオポルト・モーツァルトは、元々もともと哲学てつがく歴史れきしおさめるために大学だいがくったが、途中とちゅうから音楽家おんがくかてんじたという経歴けいれきつ、ザルツブルクの宮廷きゅうてい作曲さっきょくヴァイオリニストであった。ははアンナ・マリーア・ペルトルで、7番目ばんめすえとしてヴォルフガングはまれた。ほかの5にん幼児ようじ死亡しぼうし、唯一ゆいいつ、5さいじょうあねマリーア・アンナ愛称あいしょうナンネル)だけがいた。この幼児ようじひく生存せいぞんりつ当時とうじでは普通ふつうであった[4]。なお、祖先そせんせいはモッツハルト(Motzhardt)である。

ちち・レオポルトは息子むすこ天才てんさいであることを見出みいだし、幼少ようしょうから音楽おんがく教育きょういくあたえた。3さいのときからチェンバロはじめ、5さいのときに現存げんそんする最古さいこ作品さくひん作曲さっきょくされる (アンダンテ ハ長調ちょうちょう K.1a)。11さいごろの作曲さっきょく発見はっけんされた[5]ちちとともに音楽家おんがくかとしてザルツブルク大司教だいしきょうヒエロニュムス・コロレドはく宮廷きゅうていつかえる一方いっぽうで、モーツァルト親子ちかこなんもウィーン、パリロンドン、およびイタリア各地かくちだい旅行りょこうおこなった。これは神童しんどう演奏えんそう披露ひろうしたり、よりよい就職しゅうしょくさきもとめたりするためであったが、どこの宮廷きゅうていでも就職しゅうしょく活動かつどう失敗しっぱいする。1762ねん1がつミュンヘンへ、9月にウィーン旅行りょこうしたのち、10月13にちシェーンブルン宮殿きゅうでんマリア・テレジア御前ごぜん演奏えんそうしたさい宮殿きゅうでんゆかすべってころんでしまい、6さいのモーツァルトはそのときった7さい皇女おうじょマリア・アントーニア(のちのマリー・アントワネット)に「おおきくなったらぼくのおよめさんにしてあげる」とったという逸話いつわがある。7さいのときフランクフルト演奏えんそうしたさい作家さっかゲーテがたまたまそれをき、そのレベルは絵画かいがでのラファエロ文学ぶんがくシェイクスピアならぶとおもったとのちに回想かいそうしている[6]

巡業じゅんぎょう音楽おんがく教育きょういく[編集へんしゅう]

1769ねんから1771ねんにかけてだい1かいイタリア旅行りょこうおこない、ちちとともにミラノボローニャローマ巡回じゅんかいする。システィーナ礼拝れいはいどうでは、門外不出もんがいふしゅつ秘曲ひきょくとされていたグレゴリオ・アレグリ(Gregorio Allegri)の9こえの『ミゼレーレ』をき、暗譜あんぷきしたといわれる。ナポリではすうじゅうにちおよ滞在たいざいたのしみ、当時とうじ大変たいへん話題わだい発掘はっくつされてからまもない古代こだいローマ遺跡いせきポンペイおとずれている[注釈ちゅうしゃく 3]。イタリア旅行りょこうは3およぶが、なかでも、ボローニャでは作曲さっきょくしゃであり教師きょうしでもあったジョバンニ・バッティスタ・マルティーニ神父しんぷに、対位法たいいほうやポリフォニーの技法ぎほうまなんだ。教育きょういく成果せいかはすぐにあらわれなかったが、15ねん円熟えんじゅくにモーツァルトは対位法たいいほう中心ちゅうしんてき技法ぎほうとしていた[7]。モーツァルトはほとんどの音楽おんがく教育きょういく外国がいこくまたは旅行りょこうちゅうけた。

1770ねんにはローマ教皇きょうこうより黄金おうごん拍車はくしゃ勲章くんしょう授与じゅよされる。また同年どうねん、ボローニャのアカデミア・フィラルモニカ会員かいいん選出せんしゅつされる。しかしこうした称賛しょうさん象徴しょうちょうてきなものにすぎず、たとえば同年どうねん作曲さっきょくされたはつのオペラ『ポントのおうミトリダーテ』K. 87はだい絶賛ぜっさんされたが、その報酬ほうしゅうはわずかなものであった[8]

マンハイム時代じだい[編集へんしゅう]

1777ねんにはザルツブルクでのしょくミュンヘンいでマンハイムうつる。同年どうねん10がつ、パリに途中とちゅうアウクスブルクり、かれがベーズレとんでいた従妹じゅうまいのマリア・アンナ・テークラ・モーツァルトと再会さいかいした。マリアはちち・レオポルトのおとうとむすめで、このとき、2人ふたりたがいにかれあい、モーツァルトははじめて肉体にくたい関係かんけいった[9]。マンハイムでは、正確せいかく演奏えんそう優雅ゆうが音色ねいろ、クレシェンドで有名ゆうめいだったマンハイムらく影響えいきょうける。モーツァルトは「気取きどったマンハイム様式ようしき」ともんでいた[10]

モーツァルトはマリアに未練みれんのこしつつも、マンハイムの音楽家おんがくかフリドリン・ウェーバーのむすめ、アロイジア・ヴェーバーにこいし、結婚けっこん計画けいかくてるが[11]ちち・レオポルトは猛然もうぜん反対はんたいし、1778ねん2がつにはパリきをめいじる[注釈ちゅうしゃく 4][12]。3月から9がつまでのパリ滞在たいざい悪夢あくむであった[10]さきのシャボー公爵こうしゃく夫人ふじんからは冷遇れいぐうされ、またかせぎもよくなかった[注釈ちゅうしゃく 5]。また自邸じていまねいて演奏えんそうさせた人々ひとびと絶賛ぜっさんするが、報酬ほうしゅうしみした。交響こうきょうきょくだい31ばん長調ちょうちょう(K297)「パリ」作曲さっきょくする。7がつ3にち同行どうこうしたははがパリで死去しきょした。

ウィーン時代じだい[編集へんしゅう]

少年しょうねん時代じだいのモーツァルト

1781ねん3月、25さいのモーツァルトはザルツブルク大司教だいしきょう・ヒエロニュムス・コロレドの命令めいれいでミュンヘンからウィーンへうつるが、5月9にち、コロレドと衝突しょうとつ解雇かいこされ、ザルツブルクをてそのままウィーンに定住ていじゅう決意けついする。以降いこう、フリーの音楽家おんがくかとして演奏えんそうかいオペラ作曲さっきょく、レッスン、楽譜がくふ出版しゅっぱんなどで生計せいけいてていた。

よく1782ねんちち反対はんたいコンスタンツェ・ヴェーバー結婚けっこんする。コンスタンツェはかつてモーツァルトが片思かたおもいのこいをしたアロイジア・ヴェーバーのいもうとで、歌劇かげきだん射手しゃしゅとう作曲さっきょくられるカール・マリア・フォン・ヴェーバー従姉じゅうしであった。このころからみずか主催しゅさい演奏えんそうかいようにピアノ協奏曲きょうそうきょく作曲さっきょく相次あいつぐ。

1783ねん、このころ『ピアノソナタだい11ばん(トルコ行進曲こうしんきょくき)』を作曲さっきょくしたといわれる(1778ねんせつもある)。

1785ねんには弦楽げんがくよん重奏じゅうそうきょくしゅうをハイドンに献呈けんていする(「ハイドン・セット」)。2月にちち・レオポルトがウィーン訪問ほうもんしたさいには、息子むすこ演奏えんそうかい盛況せいきょうなことをよろこぶとともに、ハイドンから息子むすこ才能さいのうについて賛辞さんじける。ハイドンは2ねん1787ねん、プラハからのオペラ・ブッファの作曲さっきょく依頼いらいたいして、自分じぶんわりにモーツァルトを推薦すいせんした。ハイドンは「もし有力ゆうりょくしゃかれ才能さいのう理解りかいできるのなら、おおくの国々くにぐにがこの宝石ほうせき自国じこく頑固がんこ城壁じょうへきのなかにもうとしてきそうだろう」と断言だんげんした[13]

アロイジア・ヴェーバー

1786ねん5月1にち、オペラ『フィガロの結婚けっこん』K.492をブルク劇場げきじょう初演しょえんし、翌年よくねんプラハだいヒットしたためプラハを訪問ほうもんする。4月にはベートーヴェンがモーツァルトをたずねたとされるが記録きろくはない。10月には、新作しんさく作曲さっきょく依頼いらいけ、オペラ『ドン・ジョヴァンニ』K.527を作曲さっきょくし、プラハエステート劇場げきじょう初演しょえん。モーツァルトみずからが指揮しきをとる。しかしこのころから借金しゃっきん依頼いらい頻繁ひんぱんおこなう。

1787ねん5月28にちちちレオポルト死去しきょちちという文通ぶんつう相手あいてうしなったため、以降いこうのモーツァルトの書簡しょかん激減げきげんし、晩年ばんねんについては不明ふめいてん今日きょうでもおおい(現存げんそんする晩年ばんねん書簡しょかん大半たいはんつまコンスタンツェか、借金しゃっきん相手あいてのヨハン・プフベルクあてのものである)。8がつ10日とおかウィーンで『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』を作曲さっきょく

よく1788ねんにはいわゆる「3だい交響曲こうきょうきょく」(交響こうきょうきょくだい39ばんだい40ばんだい41ばん)を作曲さっきょくする。しかし、だい40ばんのぞいて演奏えんそうくことはなかったとられる。さらに、フリーメイソン仲間なかまのヨハン・プフベルクからの借金しゃっきんえてくる。

晩年ばんねん[編集へんしゅう]

ウィーンではピアニストとして人気にんきがあったが、晩年ばんねんまでのすう年間ねんかん収入しゅうにゅうり、借金しゃっきんもとめる手紙てがみのこされている。モーツァルト自身じしん品行ひんこうわるく、浪費ろうひへきくわえて、高給こうきゅう仕事しごとめぐまれなかったことがおおきな原因げんいんであるが、モーツァルトの天才てんさいおそれをなした宮廷きゅうてい楽長がくちょうアントニオ・サリエリらのイタリアの音楽おんがく貴族きぞくたちうらでモーツァルトの演奏えんそうかい妨害ぼうがいしたため、収入しゅうにゅう激減げきげんしたとする臆説おくせつもある。

1790ねん1がつ、オペラ 『コジ・ファン・トゥッテおんなはみなこうしたもの)』 K.588を初演しょえんする。2月には皇帝こうていヨーゼフ2せい逝去せいきょし、レオポルト2せい即位そくいする。モーツァルトはフランクフルトおこなわれた戴冠たいかんしき同行どうこうし、同地どうち私費しひとうじてコンサートを開催かいさいし、ピアノ協奏曲きょうそうきょく26ばん長調ちょうちょう K.537「戴冠たいかんしきどう19ばん長調ちょうちょう K.459「だい戴冠たいかんしきなどを演奏えんそうするも聴衆ちょうしゅう不入ふいりだった。

1791ねん 1がつ最後さいごのピアノ協奏曲きょうそうきょくとなるだい27ばん K.595を作曲さっきょくする。このきょくみずか初演しょえんした3月4にちのコンサートが演奏えんそうとしてのモーツァルトの最後さいごのステージとなった。7月には、だい6フランツ・クサーヴァー・モーツァルト(モーツァルト2せい)が誕生たんじょうする。9月、プラハでおこなわれたレオポルト2せいボヘミアおう戴冠たいかんしきでオペラ 『皇帝こうていティートの慈悲じひ』 K.621を初演しょえん

9月30にちシカネーダー一座いちざのためにジングシュピールふえ』 K.620を作曲さっきょく初演しょえんするなど作品さくひん次々つぎつぎ精力せいりょくてき仕事しごとをこなしていたが、9月のプラハ上演じょうえんのときにはすでに体調たいちょうくずし、くすり服用ふくようしていたという。

体調たいちょうは11月から悪化あっかし、レクイエム K.626にんでいる最中さいちゅう11月20にちから病床びょうしょうし、2週間しゅうかん12月5にち055ふんにウィーンで死去しきょした。35さいぼつさいして聖職せいしょくしゃたちがるのをこばみ、おわりけていない。

このとしレオポルト・ホフマン推挙すいきょでモーツァルトはシュテファンだい聖堂せいどうふく楽長がくちょうにんぜられたが、無給むきゅうであった。ホフマンは病床びょうしょうにあったため、かれ次期じき楽長がくちょうになるのぞみもあった。しかしモーツァルトのほうさき死去しきょし、ホフマンがやまいから回復かいふくしたため楽長がくちょう昇進しょうしんすることはなかった。ホフマンの死後しご楽長がくちょういだのはアルブレヒツベルガーであった[注釈ちゅうしゃく 6]

死去しきょする3ねんまえ手紙てがみ[14]自分じぶん自身じしんのことをかたっている。「ヨーロッパちゅう宮廷きゅうてい周遊しゅうゆうしていたちいさなおとこだったころから、特別とくべつ才能さいのうぬしだと、おなじことをわれつづけています。目隠めかくしをされて演奏えんそうさせられたこともありますし、ありとあらゆる試験しけんをやらされました。こうしたことは、なが時間じかんかけて練習れんしゅうすれば、簡単かんたんにできるようになります。ぼく幸運こううんめぐまれていることはみとめますが、作曲さっきょくはまるっきりべつ問題もんだいです。長年ながねんにわたって、ぼくほど作曲さっきょくなが時間じかん膨大ぼうだい思考しこうそそいできたひとはほかには一人ひとりもいません。有名ゆうめい巨匠きょしょう作品さくひんはすべて念入ねんいりに研究けんきゅうしました。作曲さっきょくであるということは精力せいりょくてき思考しこうなんあいだにもおよ努力どりょく意味いみするのです」

妻子さいし[編集へんしゅう]

つまコンスタンツェとのあいだに4なん2じょをもうけたが、そのうち成人せいじんしたのは、カール・トーマスフランツ・クサーヴァーだけで、のこりの4にん乳幼児にゅうようじのうちに死亡しぼうしている[注釈ちゅうしゃく 7]。フランツは職業しょくぎょう音楽家おんがくかとなり、「モーツァルト2せい」を名乗なのった[注釈ちゅうしゃく 8]成人せいじんした2人ふたり男子だんしはどちらものこさなかったため、モーツァルトの子孫しそんはいない。

モーツァルトの死後しご、コンスタンツェは、彼女かのじょ多大ただい借金しゃっきんかえすためにやく演奏えんそうかいひらいた[15]。そしてすうねんあいだに、ウィーン、プラハ、ライプツィヒ、ベルリンなどの音楽おんがくかいで、後援こうえんしゃたちから多額たがく金額きんがくあつめている[15]

年譜ねんぷ[編集へんしゅう]

死因しいん[編集へんしゅう]

症状しょうじょうとしては全身ぜんしん浮腫ふしゅ高熱こうねつであったという。ウィーン公式こうしき記録きろくでは「急性きゅうせい粟粒あわつぶ疹熱」とされる。実際じっさい死因しいんは「リューマチせい炎症えんしょうねつ」であったとかんがえられている[注釈ちゅうしゃく 9]。リューマチには幼少ようしょう度重たびかさなる旅行りょこう生活せいかつのなかで罹患りかんしたとされている[注釈ちゅうしゃく 10]。また、医者いしゃ直前ちょくぜんった瀉血しゃけつ症状しょうじょう悪化あっかさせたともわれる。

モーツァルトは1791ねん7がつに、自分じぶんがアクア・トファーナ(別名べつめいナポリすいともばれた亜砒酸あひさん主要しゅよう成分せいぶん水溶液すいようえきで、当時とうじ美顔びがん美白びはくやくだがどくとしても有名ゆうめいだった)で毒殺どくさつされかけているとかんがえ、それをつまつたえている。実際じっさいつま手紙てがみに「わたし嫉妬しっとするてきがポーク・カツレツにどくれ、そのどくからだちゅうまわり、からだふくれ、からだ全体ぜんたいいたくるしい」とまでもらしていたとう。当時とうじ遺体いたいのむくみが毒殺どくさつ証拠しょうこだとかんがえられており、モーツァルトの遺体いたいがひどくむくんでおり、それによって後述こうじゅつの、サリエリにかんするうわさ一気いっきひろまった。

また、死後しごウィーンの新聞しんぶんは「毒殺どくさつされたのではないか」とほうじた。1820ねんごろになると、ウィーンでは「ロッシーニかつぐイタリアウェーバーかつぐドイツ論争ろんそう対立たいりつなかでサリエリがモーツァルトを毒殺どくさつした」といううわさ流行りゅうこうした。

サリエリは重度じゅうどよくうつしょうとなり、自分じぶんのどろうとして、すうおおくの背任はいにんをまた非難ひなんされることになった。このうわさにサリエリは1825ねんぬまでなやまされた[注釈ちゅうしゃく 11]

葬儀そうぎはか[編集へんしゅう]

葬儀そうぎ日取ひどりは「12月6にちせつ」と「12月7にちせつ」の2つがある[注釈ちゅうしゃく 12]遺体いたいはウィーン郊外こうがいのサンクト・マルクス墓地ぼち共同きょうどう墓穴ぼけつ埋葬まいそうされた。だれ霊柩れいきゅう馬車ばしゃ同行どうこうすることをゆるされなかったため、実際じっさい埋葬まいそうされた位置いち不明ふめいである[注釈ちゅうしゃく 13]。この簡素かんそでそっけない埋葬まいそうは、晩年ばんねんのモーツァルトが後援こうえんしゃたちから軽視けいしされていたことのあらわれだとかんがえられる[15]

没後ぼつご100ねん1891ねん中央ちゅうおう墓地ぼちベートーヴェンシューベルトブラームス著名ちょめい音楽家おんがくか多数たすうねむ墓地ぼち)に当時とうじサンクト・マルクス墓地ぼちにあった「モーツァルトのはかとされるもの」が記念きねんとして移動いどうしたさい、またもや位置いちからなくなってしまった。現在げんざいサンクト・マルクス墓地ぼちにある「モーツァルトのはかとされるもの」は、移転いてん墓地ぼち看守かんしゅてられた他人たにんはか一部いちぶなどをひろあつめて適当てきとう場所ばしょ適当てきとうつくったものである[注釈ちゅうしゃく 14]。なお、サンクト・マルクス墓地ぼち1874ねんあらたな中央ちゅうおう墓地ぼち建設けんせつされたことをもって新規しんきれを停止ていししている。ヨハン・シュトラウス2せいおとうとヨーゼフ・シュトラウス最初さいしょはここに埋葬まいそうされていた(1909ねん中央ちゅうおう墓地ぼち移設いせつ)。

現在げんざい国際こくさいモーツァルテウム財団ざいだん(ザルツブルク)にはモーツァルトのものとされる頭蓋骨ずがいこつ保管ほかんされている。頭蓋骨ずがいこつしるされた由来ゆらいによれば、埋葬まいそう10ねんにモーツァルトを埋葬まいそうした墓地ぼちさい利用りようのため整理せいりされ、遺骨いこつ散逸さんいつし、頭蓋骨ずがいこつだけが保管ほかんされ、以来いらい複数ふくすう所有しょゆうしゃ1902ねんどう財団ざいだんによって収蔵しゅうぞうされた。遺骨いこつ真贋しんがんについてはその存在そんざいられた当初とうしょから否定ひていてき見方みかたおおいが、2004ねんウィーン医科いか大学だいがく研究けんきゅうチームがモーツァルトのちち・レオポルドほか親族しんぞく遺骨いこつ発掘はっくつ許可きょかて、問題もんだい頭蓋骨ずがいこつとのDNA鑑定かんていおこなった[注釈ちゅうしゃく 15]検査けんさ結果けっか頭蓋骨ずがいこつ伯母おばめい遺骨いこつのいずれとも縁戚えんせき関係かんけいみとめられなかったものの、伯母おばめいとされる遺骨いこつ同士どうしもまた縁戚えんせき関係かんけいにないことが判明はんめいし、遺骨いこつをめぐるなぞ解決かいけつされなかった。

作品さくひん[編集へんしゅう]

作品さくひん総数そうすう断片だんぺんふくめ900きょく以上いじょうおよぶ。作品さくひんはあらゆるジャンルにわたり、声楽せいがくきょくオペラ教会きょうかいよう宗教しゅうきょう音楽おんがく歌曲かきょくなど)と器楽きがくきょく交響曲こうきょうきょく協奏曲きょうそうきょく室内楽しつないがくきょくクラヴィーアソナタなど)のどちらにも多数たすう作品さくひんのこされている。

作品さくひん識別しきべつするには、音楽家おんがくかルートヴィヒ・フォン・ケッヘル分類ぶんるいした作曲さっきょくじゅん目録もくろくであるケッヘル番号ばんごう(K.+数字すうじ)が使つかわれる[注釈ちゅうしゃく 16]。モーツァルト自身じしん1784ねん以降いこう自作じさく作品さくひん目録もくろくをつけている。1784ねんよりまえ作品さくひんやモーツァルト自身じしん作品さくひん目録もくろくっていない作品さくひんには、作曲さっきょく時期じきがはっきりしないものもある。

代表だいひょうてき作品さくひん

作風さくふう[編集へんしゅう]

最初さいしょちちのレオポルト経由けいゆヨハン・ショーベルトなどの当時とうじのヨーロッパで流行りゅうこうした作曲さっきょくたちの様式ようしきを、チェンバロきょく中心ちゅうしんまなんだ。そのヨハン・クリスティアン・バッハ影響えいきょうをピアノ・管弦楽かんげんがくきょく双方そうほうけた。後期こうきはいるとハイドンとヨハン・ゼバスティアン・バッハ影響えいきょうつよい。

モーツァルトの作品さくひんはほとんどが長調ちょうちょうで、装飾音そうしょくおんおお軽快けいかい優美ゆうびきょくおおい。聴衆ちょうしゅうにとっては、あかるくはなやかにこえる作品さくひんおおい。これは当時とうじ音楽おんがく流行りゅうこう反映はんえいしたもので、ロココ様式ようしきあるいはギャラント様式ようしきばれる。かれがおもに使用しようしていたピアノの鍵盤けんばんしずふかさは現代げんだいのピアノのやく半分はんぶんであり、軽快けいかい演奏えんそうできるものであったことがその作風さくふうにも影響えいきょうあたえた[16]

晩年ばんねんかうにつれて、長調ちょうちょう作品さくひんであってもふかかなしみをびた作品さくひんえ、しばしば「天国てんごくてき」と形容けいようされる。また、短調たんちょう作品さくひんすくないながら悲壮ひそうかつ哀愁あいしゅうあふれる曲調きょくちょうで、交響こうきょうきょくだい40ばんト短調とたんちょうのように人気にんきたかい。

モーツァルトの時代じだいにはポリフォニー音楽おんがく流行りゅうこうおくれになり、ホモフォニー音楽おんがく支配しはいてきになっていた。しかしかれはJ.S.バッハやヘンデル作品さくひん研究けんきゅうし、交響こうきょうきょくだい41ばんおわり楽章がくしょうのように対位法たいいほう活用かつようする手腕しゅわんがあった。

下書したがきをしない天才てんさい」ともわれ、モーツァルトが並外なみはずれた記憶きおくりょくっていたのはおおくの記録きろくからもたしかめられているが、自筆じひつなかには完成かんせい完成かんせいきょくふくめて草稿そうこうおよび修正しゅうせいあとおお発見はっけんされている。人気にんきたかピアノ協奏曲きょうそうきょく23ばんについては、そのすうねんまえかれた草稿そうこう発見はっけんされている。ただし作曲さっきょくするのがはやかったのは事実じじつであり、たとえば交響こうきょうきょくだい36ばんリンツ滞在たいざいちゅう作曲さっきょくされたが、ちちとの手紙てがみのやりりから3にちげたことがかっている。交響こうきょうきょくだい39ばんから41ばん「ジュピター」までの3つの交響こうきょうきょくは6週間しゅうかん完成かんせいさせている。またべつ手紙てがみからは、かれあたまなか交響こうきょうきょくだい1楽章がくしょう作曲さっきょくしたあと、それを譜面ふめんこしながら同時どうじだい2楽章がくしょうあたまなか作曲さっきょくし、今度こんどだい2楽章がくしょうこしているあいだだい3楽章がくしょうあたまなか作曲さっきょくしたという手順てじゅんんでいたということがかっている。

モーツァルトの作品さくひんおおくは、生計せいけいてるために注文ちゅうもんけてかれたものである[注釈ちゅうしゃく 17]。モーツァルトの時代じだいかぎらず、なに世紀せいきものあいだ芸術げいじゅつ教皇きょうこう権力けんりょくしゃなどのパトロンにつかえることで生計せいけいてていた[17]。18世紀せいきになってからはパトロンから市場いちばうつることが徐々じょじょ可能かのうになっていく。おさないころから各地かくち巡業じゅんぎょうした理由りゆうのひとつが就職しゅうしょく活動かつどうであり、ベートーヴェンのようにフリーランスとしてきていくことは非常ひじょう困難こんなん時代じだいであった[注釈ちゅうしゃく 18]。したがって、モーツァルトの作品さくひんはその時代じだい要求ようきゅうされた内容ないようであり、たとえば長調ちょうちょうきょくおおいのはそれだけ当時とうじはその注文ちゅうもんおおかったことのあかしでもある。実際じっさいちち死後しご依頼いらいしゃのない作品さくひんまれている。これは、聴衆ちょうしゅう嗜好しこう配慮はいりょせよとのちちによる規制きせいがなくなったため、モーツァルト自身じしん目指めざ音楽おんがくかうことが可能かのうになったからである。交響こうきょうきょくなどがそれにあたる。

思想しそうてきには、フリーメイソンがパトロンであったこともあり、作品さくひんではとくふえ、ピアノ協奏曲きょうそうきょくだい20ばんにその影響えいきょう指摘してきされている[注釈ちゅうしゃく 19]

楽器がっき[編集へんしゅう]

モーツァルトの時代じだい現在げんざいでいう「ピアノきょく」、ピアノ・ソナタピアノ協奏曲きょうそうきょくなどはドイツ語どいつごけんでは通常つうじょう「クラヴィーア」とかれていた。クラヴィーアとは鍵盤けんばん楽器がっきのことであるが、ゆうつる鍵盤けんばん楽器がっきし、フォルテピアノチェンバロ(ハープシコード、クラヴサン)、クラヴィコードのいずれかで演奏えんそうされる選択せんたく自由じゆうがあったが、協奏曲きょうそうきょくなどは編成へんせいからフォルテピアノかチェンバロで演奏えんそうされた。今日きょうではチェンバロで演奏えんそうされる機会きかいえている。

モーツァルトの初期しょきすう作品さくひんはチェンバロのためにかれており、かれレーゲンスブルク製作せいさくしゃフランツ・ヤコブ・シュペートがつくったピアノに馴染なじんでいた[18]のちにモーツァルトはアウクスブルクおとずれてシュタインピアノに感銘かんめいけ、そのことを父親ちちおやへの手紙てがみいている[18]。1777ねん10がつ22にちにモーツァルトは、シュタインが提供ていきょうした楽器がっきで3だいのピアノのための協奏曲きょうそうきょく(K.242)を初演しょえんした[19]アウクスブルクだい聖堂せいどうのオルガン奏者そうしゃデンムラーがだい1パートを演奏えんそうし、モーツァルトがだい2パート、そしてシュタインがだい3パートを演奏えんそうした[20]。1783ねんのウィーン在住ざいじゅうに、かれワルター楽器がっき購入こうにゅうした[21]。モーツァルトが自分じぶんのワルターのフォルテピアノに愛着あいちゃくしていた様子ようすは、レオポルト・モーツァルトの「この喧騒けんそう説明せつめいするのは不可能ふかのうだ。おまえのおとうとのピアノは、かれいえから劇場げきじょうまたはだれかのいえへとすくなくとも12かい移動いどうされたのだ。」という記述きじゅつからわかる[22]

モーツァルトが自身じしん作品さくひんでフォルテピアノのためと明記めいきしたのは、1785ねん出版しゅっぱんした作品さくひんはじめてであった。チェンバロはバロック音楽おんがく限定げんていされるとおもわれることがおおいが、ウィーンでは19世紀せいき初頭しょとうまでチェンバロが製作せいさくされており、ベートーベンの作品さくひんなかにもマンドリンとチェンバロのためのソナチネと作品さくひんが2つあるほどである。

人物じんぶつぞう[編集へんしゅう]

モーツァルト(1789ねん肖像しょうぞう
1777ねんのモーツァルトGiovanni Battista Martiniの依頼いらいによる[23]

名前なまえ[編集へんしゅう]

モーツァルトの洗礼せんれいめいラテン語らてんご)は、ヨハンネス・クリュソストムス[注釈ちゅうしゃく 20]・ウォルフガングス・テオフィルス[注釈ちゅうしゃく 21]・モザルト(Johannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozart)である。当時とうじイタリア音楽家おんがくかがもてはやされており、モーツァルトは「テオフィルス」よりもラテン語らてんご意訳いやくした「アマデウス(Amadeus)」を通称つうしょうとして使用しようしていた。ただしモーツァルトはAmadeusではなくイタリアふうのアマデーオ(Amadeo)をおもに使つかっていたともいわれ[24]、ほかフランス語ふらんすごふうのアマデ(Amadé)、ドイツふうのゴットリープ(Gottlieb)ももちいたことがある。

容姿ようし[編集へんしゅう]

肖像しょうぞう銅像どうぞうではいずれも「神童しんどう」に相応ふさわしい端麗たんれいかお表情ひょうじょう体型たいけいをしており子供こども姿すがた描写びょうしゃされたものもおおいが、実際じっさい容姿ようしかんしては諸説しょせつある。最初さいしょ伝記でんき作者さくしゃニーメチェク英語えいごばんによれば、身体しんたいてきて「小柄こがらかおつきはたのしげだったが、情熱じょうねつてきおおきなのぞけばなにひとつ、その突出とっしゅつした才能さいのうしめすものはなかった」という。有力ゆうりょくなのは「12さいときにかかった天然痘てんねんとうあとがいくつもあり、まるはな近眼きんがん」というものである。本当ほんとう顔立かおだちをがかりとなるはずだったデスマスクは、かれ死後しごすぐに製作せいさく依頼いらいし、美術びじゅつ陳列ちんれつかんのシュトリテッツ伯爵はくしゃく石膏せっこうかたられたことが義妹ぎまいのゾフィー・ハイブルにより証言しょうげんされているが、その行方ゆくえ不明ふめいになり現在げんざいまで発見はっけんされていない。19世紀せいき後半こうはんには、葬儀そうぎのち整理せいりさいコンスタンツェがうっかりとしてってしまったとかたられ、いまだに事実じじつのようにつたえられているが、実際じっさいにはそのような記録きろくはなく憶測おくそくぎない。体躯たいくかんしても「小柄こがらである」「肥満ひまんいちじるしかった」などと、様々さまざませつがあったが、検死けんしによる実際じっさい身長しんちょうは163センチほどであり、当時とうじ西洋せいようじんとしては中背ちゅうぜい程度ていどである。ひだりみみ奇形きけいで、たい耳輪みみわじょうあしみみたれけていた。このかたち類似るいじしたみみは「モーツァルトみみ」とばれている。また末子まっしのフランツも同様どうようみみをしていることから、フランツが不義ふぎであることを否定ひていする根拠こんきょにもなっている。

ヨーゼフ・ランゲさく鍵盤けんばんくモーツァルト』(くびよりした完成かんせい[注釈ちゅうしゃく 22]つま・コンスタンツェいわく「モーツァルトにもっともよく肖像しょうぞう[25]

信頼しんらいせいがあるのは、義兄ぎけい(アロイジアのおっと)のヨーゼフ・ランゲによるスケッチである(みぎ)。

人柄ひとがら[編集へんしゅう]

  • 優秀ゆうしゅう音楽家おんがくかとしてのかおちながら、そのじつ猥談わいだんこのみ、つまのコンスタンツェにてた卑猥ひわい内容ないよう手紙てがみ数多かずおおのこされている。
  • 女性じょせい小説しょうせつであるカロリーネ・ピヒラー英語えいごばんドイツばんは「わたしがよくっていたモーツァルトもハイドンも、高級こうきゅう知能ちのうをまったくしめさない交友こうゆう関係かんけいひとたちだった。凡庸ぼんよう精神せいしんという素質そしつ、おもしろみのない冗談じょうだん、そしてモーツァルトにおいては軽薄けいはく生活せいかつかれらとの交遊こうゆう関係かんけいでみられたすべてであった。しかし、このるにらないからなかには、素晴すばらしいファンタジー、メロディー、ハーモニー、そして感情かんじょう世界せかいかくされていた」といている。
  • モーツァルトがいたとされる手紙てがみおおのこされているが、手紙てがみ最大さいだい5かこく使つかけてかれている。また友人ゆうじんなどにてた手紙てがみなかにおいては、なん脈絡みゃくらくもなく世界せかい大洋たいよう大陸たいりく名前なまえ列挙れっきょはじめたり、文面ぶんめんなん関係かんけいもない物語ものがたり唐突とうとつにかつ仔細しさいしたりしていた。
マリア・アンナ・テークラ(ベーズレ)の鉛筆えんぴつ
  • モーツァルトは従妹じゅうまい排泄はいせつにまつわる駄洒落だじゃれトイレのユーモア)にあふれた手紙てがみおくったことがある[注釈ちゅうしゃく 23]。いわゆる「ベーズレ書簡しょかん」といわれるもので、「あなたのはなくそをします」「ウンコできみのベッドをよごしてやるぞ!ぼくのおしりが火事かじになった!どういうこと!ってるぞ、みえるぞ、なめてやろうか、ん、なんだ?ウンコがたがってる?そう、そうだウンコだ。おれ変態へんたいだ!」などの記述きじゅつがある[26]従妹じゅうまいマリア・アンナ・テークラ・モーツァルトといい、ちち・レオポルトのおとうとむすめで、ヴォルフガングがこの女性じょせい従妹じゅうまい以上いじょう恋愛れんあい関係かんけいにあったともされる[9]
  • ベーズレ書簡しょかんはヴォルフガングの死後しご息子むすこたちによって破棄はきのぞまれたが、現在げんざい6つう保管ほかんされており、これらの手紙てがみかれ男性だんせいてきはげしい部分ぶぶんや、言葉ことばによる旺盛おうせい想像そうぞうりょくしめしている。ベーズレののこされた数少かずすくない銅版どうはんは、彼女かのじょ素晴すばらしい美貌びぼうしめしているが、このてん彼女かのじょつよみとはならず、彼女かのじょがかなりうつ女性じょせいであったことがのちに証明しょうめいされることとなった。
  • とおはなれたつまのコンスタンツェにあてた手紙てがみでは、そういった言葉ことばづかいは見当みあたらず、繊細せんさいさややさしさをびた手紙てがみとなっている。ほかに『おれしりをなめろ』(K.231、K.233)というカノンも作曲さっきょくするなど、このるいはなしかれスカトロジー傾向けいこうがあったとしばしば喧伝けんでんされるエピソードであるが、当時とうじみなみドイツではしたしいもの同士どうしでの尾籠おこはなし日常にちじょうてきなものでありタブーではなく[27]、またモーツァルトの両親りょうしん大便だいべんがらみの冗談じょうだんをいっていた[28]
  • 19世紀せいき伝記でんき作者さくしゃは、スカトロジーの表現ひょうげん無視むししたり破棄はきしたりしてモーツァルトを美化びかしたが、現在げんざいではこうした表現ひょうげんかれ快活かいかつ性格せいかくあらわすものと普通ふつうめられている。また、うえ掲の「おれしりをなめろ」"Leck mir den Arsch"、"Leck mich im Arsch"は英語えいごの"Kiss my ass"(「くそったれ!」など)と同類どうるい慣用かんよう表現ひょうげんであり、下品げひんではあるがかならずしもスカトロジー表現ひょうげんとはいえない。
  • そのほか冗談じょうだんきな逸話いつわとしては、ある貴族きぞくから依頼いらいけていたきょくわたすときに手渡てわたしせず自分じぶんいえゆかいちめん譜面ふめんならべ、その貴族きぞくに1まい1まいひろわせたというエピソードがある。
  • 精神せいしん医学いがくさかいには、こうした珍奇ちんき行動こうどうサヴァン症候群しょうこうぐんによるものであるという憶測おくそくもある[29]
  • きゅうはしらおどけボウリング)やビリヤードこの[注釈ちゅうしゃく 24]自宅じたくにはキャロムテーブルをきビリヤードにきょうじていた[30]。ビリヤードだいうえかみき、そこで楽譜がくふしるしていたというほどである。賭博とばくにもよくきょうじたという。高価こうか衣装いしょうこのみ、立派りっぱ住居じゅうきょもとめてなんしをした。モーツァルトの晩年ばんねん借金しゃっきん原因げんいんとして浪費ろうひくわえて「ギャンブラーせつ」をとなえるひともいるが、たしかなことは不明ふめいである[31]

ドイツじん論議ろんぎ[編集へんしゅう]

2006ねん、ドイツのテレビ局てれびきょくZDFが「史上しじょうもっとも偉大いだいドイツじんだれか」というアンケートにモーツァルトをノミネートしたことにざいどくオーストリア大使館たいしかん抗議こうぎしたことから、議論ぎろんこった。

ザルツブルクにまれ、後生ごしょうはウィーンまいであったことを現在げんざい国家こっかにあてはめると大使館たいしかん主張しゅちょうにはがあるが、きょくがわは、当時とうじオーストリアという国家こっか存在そんざいしなかったと一蹴いっしゅう。これにたいしてオーストリアがわは「ではドイツという国家こっか存在そんざいしなかったのだから、ゲーテはドイツじんではない」と反論はんろんした。厳密げんみつには当時とうじはハプスブルク皇帝こうていいただいて「ドイツ国民こくみん神聖しんせいマ帝国まていこく」(これをドイツ帝国ていこく略称りゃくしょうすることもある)が存続そんぞくしていたが、実態じったい統率とうそつゆる国家こっか連合れんごうしており、ナポレオン戦争せんそう以後いごあたらしく成立せいりつしたオーストリア帝国ていこく議長ぎちょうこくとするドイツ連邦れんぽう衣替ころもがえしている。実際じっさい国家こっか主権しゅけんはそのしたぞくするザルツブルク大司教だいしきょうりょう、ウィーンをふくオーストリア大公たいこうりょうバイエルン公国こうこくプロイセン王国おうこくザクセンせんみかどほうりょうなどの大小だいしょうのドイツじんしょくにっていた。そして、このオーストリア大公たいこうりょう国号こくごうでなく、この称号しょうごうあわ神聖しんせいローマ皇帝こうていハプスブルク実質じっしつ支配しはい地域ちいきという曖昧あいまい存在そんざいであったこと、つまり当時とうじこの地域ちいき国号こくごうは「ドイツ国民こくみん神聖しんせいマ帝国まていこく」しか存在そんざいしなかった、というてんがZDFの論拠ろんきょとなっている。

モーツァルト自身じしん手紙てがみなか再三さいさん「れっきとしたドイツじんとして」「ドイツ民族みんぞく栄光えいこう寄与きよできればうれしい」などとかえしており、「われわれドイツじんが、ドイツふうかんがえ、ドイツふう演技えんぎし、ドイツかたり、ドイツうたうことをいまやっとはじめたのだとすると、それはドイツにとって永遠えいえん汚点おてんとなるにちがいない」という強烈きょうれつなドイツオペラ宣言せんげんまでっている[32]。また、ショパン生前せいぜん、その生国しょうごく新聞しんぶんが「モーツァルトがドイツじんほこりならショパンはポーランドじんほこりである」と絶賛ぜっさんしたのも有名ゆうめいである。また、書簡しょかんなかみずからをオーストリアじんべる言葉ことばがまったくないてんも、上記じょうきのような国体こくたい情勢じょうせい大公たいこうりょうとしてのエリア区分くぶんでしかなかった当時とうじのオーストリアには国家こっか国民こくみんという概念がいねん希薄きはくだったうえに、モーツァルトは、当時とうじはその域外いきがいであったザルツブルク出身しゅっしんしゃであり、オーストリアに在住ざいじゅうしたのは最後さいごの10ねんにすぎない)からはやむをえないてんである。おな論法ろんぽうだとマリア・テレジアハイドンもれっきとしたドイツじんだが、こうした、どこまでがドイツじんなのか、ドイツ民族みんぞくなのか、という問題もんだいがあるにもかかわらず(これは、オーストリアじんヒトラーふつなど、周辺しゅうへんこくだけでなく米国べいこくふくまれる海外かいがいドイツけい住民じゅうみん地域ちいきなど非常ひじょうおおくのむずかしい課題かだいをはらんでいる)、結果けっかとしてモーツァルトだけがノミネートされたことは議論ぎろんぶことになった。現在げんざいはザルツブルクやウィーンで、モーツァルトはオーストリアじん英雄えいゆうとして内外ないがいつたえられている。

逸話いつわ[編集へんしゅう]

  • モーツァルト一家かずやしたしい友人ゆうじんであり、ザルツブルク大司教だいしきょうつかえたトランペット奏者そうしゃ、ヴァイオリニスト、チェリストのシャハトナーは1763ねんのある、わずか6さいのヴォルフガングがヴァイオリンをはじこうとしているところにくわし、かれから「あなたのヴァイオリンはぼくのよりも8ぶんの1ピッチたか調律ちょうりつされていますよ」とわれた。シャハトナーは最初さいしょそれをいてわらったが、ヴォルフガングの異常いじょう感覚かんかく能力のうりょくおと記憶きおくりょくっていたちちがヴァイオリンをってきて「このとおりかたしかめてみてくれ」とうのでたしかめてみると、ヴォルフガングのとおりだったという[33]
  • シャハトナーとの逸話いつわはほかにものこされており、かれはマリアンネ・モーツァルトにけた1792ねん4がつ手紙てがみにて、つぎのようにいている。
10さいころまでのかれは、独奏どくそうのトランペットに常軌じょうきいっした恐怖きょうふかんいていました。あるあなたのおとうさんがこの恐怖きょうふかんのぞくべく、ちかくでトランペットをいてやってくれ、とおっしゃったのでそうしてみたところ、あの甲高かんだか音色ねいろくとたちまち蒼白そうはくになり、うしないそうになりました。あのままつづけていればかれ引付ひきつけこしていたでしょう…(中略ちゅうりゃく)あなたはわたしがとてもいヴァイオリンをっていたのをごぞんじのはずです。きヴォルフガングはそれの音色ねいろやわらかくまろやかだというので、『バターみたいなヴァイオリン』とんでいました。[34]

音楽おんがくてんかん、トランペット恐怖症きょうふしょうのどちらかがうたがわれるが、おさないころにサイレンや航空機こうくうきなどのおおきなおとすものをきらどもはめずらしくない。モーツァルトの文献ぶんけんさがしても、既往症きおうしょうであるてんかんの疑惑ぎわくたいする言及げんきゅう暗示あんじつかっていないため、かれには持続じぞくてき恐怖きょうふしんがあり、それが恐怖症きょうふしょう発展はってんしたとかんがえるのが妥当だとうである。

  • あね・ナンネル(マリア・アンナ)がウォルフガングのことをよくっていたひとから回想かいそうぶんあつめて出版しゅっぱんされたほんには、つぎのような証言しょうげんがある。
かれもっと複雑ふくざつ音楽おんがくなかでさえ最小さいしょう不協和音ふきょうわおん指摘してきし、ただちにどの楽器がっきがしくじったかとか、どんなキーで演奏えんそうすべきだったかというようなことまでくちにした。演奏えんそうちゅうかれ最小さいしょう夾雑きょうざつおんにさえいらだった。ようするに音楽おんがくつづかぎりはかれ音楽おんがくそのものであり、音楽おんがくむとすぐにもとどもにもどるのだった。[35]
  • 1763ねん5月19にちづけの「アウクスブルガー・インテリゲンツ・ツェッテル」にも、ウォルフガングについての記事きじせられている。
わたしおなじく、あるとき鍵盤けんばん低音ていおんで、またあるときは高音こうおんで、そして可能かのうなすべての楽器がっき演奏えんそうされるおとべつ部屋へやかされて、たちどころに演奏えんそうされた音符おんぷめいつたえるかれ見聞みききした。そのとおり、かれかねだい時計とけいおとき、懐中時計かいちゅうどけいおとさえきながら、ききとったおとをただちにくちにすることができたのである…[35]

こういったかれ異常いじょう感覚かんかく能力のうりょくについてのはなしはほかにも数多かずおおつたえられており、たとえばデインズ・バリントンというイギリスの法律ほうりつは「あるロンドン王立おうりつ協会きょうかいへの手紙てがみ」にて、モーツァルトがだいバッハの未完みかんのフーガの主題しゅだい展開てんかい完全かんぜん記憶きおくしており、いかに即座そくざ再現さいげんえたかをかたっている。#巡業じゅんぎょう音楽おんがく教育きょういくこうれた、システィーナ礼拝れいはいどうでのいちけんはモーツァルトの逸話いつわとして非常ひじょう有名ゆうめいであるが、それとあわせてこういった証言しょうげん数々かずかずかれ才能さいのうしめすひとつの証左しょうさとなっている。

  • 協奏曲きょうそうきょくなどを手掛てがけていたにもかかわらず、フルートきらっていた[36]。ドゥジャンという資産しさんから200フローリンで「ちいさくてかるみじか協奏曲きょうそうきょくを3きょく四重奏しじゅうそうきょくなんきょくか、フルートのためにつくって」くれるように注文ちゅうもんけたが、結局けっきょく出来上できあがったのは協奏曲きょうそうきょく2きょく(しかも1きょく旧作きゅうさくのオーボエ協奏曲きょうそうきょくからの編曲へんきょく)と3きょくのフルートよん重奏じゅうそうきょくのみであった。これにドゥジャンがいかり、報酬ほうしゅう半分はんぶん以下いかの96フローリンしか支払しはらわれなかった。この仕事しごとちゅう、モーツァルトはちちレオポルドにてた手紙てがみで「我慢がまんできない楽器がっきのために、作曲さっきょくつづけるのはうんざり」といている。モーツァルトがフルートをきらっていた理由りゆうとしては、当時とうじのフルートはまだテオバルト・ベームによる改良かいりょう以前いぜん楽器がっきとしての性能せいのうひくかったため、とするせつ有力ゆうりょくである。

モーツァルトをあつかった作品さくひん[編集へんしゅう]

その[編集へんしゅう]

  • ユーロ導入どうにゅうまえのオーストリアの最高さいこう額面がくめんの5,000シリング紙幣しへい、また現在げんざいのオーストリアの1ユーロ硬貨こうかにもおな肖像しょうぞう採用さいようされている。
  • かれたたえ、水星すいせいには「モーツァルト」というクレーター存在そんざいする。
  • モーツァルトぼつ200周年しゅうねんとなる1991ねん発見はっけんされた鉱物こうぶつに「モーツァルトせきドイツばん」という名前なまえがつけられている。
  • かれフリーメイソン会員かいいん[38]であったことは比較的ひかくてき有名ゆうめいである。
  • ロシアの音楽おんがく評論ひょうろんアレクサンドル・ウリビシェフは1843ねんに3かんからなる伝記でんき『Nouvelle biographie de Mozart』をモスクワで出版しゅっぱんしている[39]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ モーツァルト」は舞台ぶたいドイツみであり、現代げんだいドイツ語どいつごみすると「モーツァート」にちかい。
  2. ^ 別記べっきのように、国籍こくせきについては議論ぎろんえないが、生地きじ現在げんざい版図はんと主要しゅよう活躍かつやくあわせ、現時点げんじてんで「オーストリアの」としるす。広辞苑こうじえん大辞林だいじりん大辞泉だいじせんのいずれもこの記載きさいとなっている。
  3. ^ このことを詳細しょうさいかたちち手紙てがみのこされている。
  4. ^ ちち・レオポルトは唖然あぜんとしてモーツァルトに「家族かぞくがおまえ期待きたいしているのは有名ゆうめいになり、おかねかせぐことだ。」といった。同書どうしょ
  5. ^ ちちへの手紙てがみで「とおりは言葉ことばにできないほどのくそだらけで」通行つうこう不能ふのうだったとしるしている。ピーター・ゲイ『モーツァルト』43ぺーじ。ただし当時とうじ西欧せいおうでは、このような状態じょうたいはよくある光景こうけいであった。コルバン『においの歴史れきし藤原ふじわら書店しょてん参照さんしょう
  6. ^ レオポルト・ホフマン項目こうもく記事きじがある。
  7. ^ 当時とうじ医学いがく発達はったつした時代じだいではなかった。
  8. ^ フランツは弟子でしジュースマイヤーであり、このためフランツ・クサーヴァーはモーツァルトの実子じっしではなく、つま・コンスタンツェとジュースマイヤーとのこん外子そとこというせつがある。
  9. ^ ピーター・J・デイヴィーズは、モーツァルトは以前いぜんにかかった伝染でんせんびょう影響えいきょう慢性まんせいてき腎臓じんぞうびょうわずらっており11月にふたた伝染でんせんびょうにかかったため、症状しょうじょう急激きゅうげき悪化あっかしていたったとしている。ランドンの前掲ぜんけいしょ、268ぺーじ参照さんしょう
  10. ^ 旅行りょこうさきやまいすことがすくなくなかったことが手紙てがみ記録きろくのこされている。これは当時とうじ医療いりょう技術ぎじゅつ未熟みじゅくであったがために幼児ようじ死亡しぼうりつたかかったことと、道路どうろ舗装ほそう不完全ふかんぜんであったがために馬車ばしゃ振動しんどう健康けんこうおどかしていったことが背景はいけいにある。罹患りかんしたリューマチに終生しゅうせいなやまされ、この持病じびょうのため体格たいかく小柄こがらになり、さらに直接ちょくせつ死因しいんにまでなってしまったともかんがえられた。
  11. ^ このうわさをアイデアとして、『モーツァルトとサリエリ』(プーシキン)や『アマデウス』などの作品さくひんつくられた。
  12. ^ 寺院じいんのこされた台帳だいちょうによれば葬儀そうぎ6にちおこなわれた。ヨーゼフ2せいみことのりれいで、死人しにん死後しご48時間じかんたないと埋葬まいそうできない規定きていがあったため、6にち深夜しんやから7にちあさ埋葬まいそうされたとおもわれる。葬儀そうぎあらしだったとする報告ほうこくがあり6にちおだやかな天候てんこうであったため、葬儀そうぎは7にちおこなわれたとするせつがある。しかし実際じっさいには7にちにも降水こうすいはなく、強風きょうふうはじめたのは7にち深夜しんやになってからであった。ソロモンの前掲ぜんけいしょ、749ぺーじ参照さんしょう
  13. ^ 葬儀そうぎ簡素かんそはヨーゼフ2せい合理ごうり主義しゅぎてき政策せいさくの1つであり、家族かぞく知人ちじん葬列そうれつ同行どうこうしないことは当時とうじ慣習かんしゅうとなっていた。ソロモンの前掲ぜんけいしょ、751ぺーじ参照さんしょう
  14. ^ もちろん、「はかとされるもの」のしたほねがあるわけではない。
  15. ^ 鑑定かんてい結果けっかはモーツァルト生誕せいたん250ねん2006ねん1がつ8にちに、オーストリア国営こくえい放送ほうそうドキュメンタリー番組ばんぐみとして公表こうひょうされた。これによると、調査ちょうさ試料しりょうとなったのは頭蓋骨ずがいこつの2ほんとモーツァルト一族いちぞく墓地ぼちから発掘はっくつした伯母おばめいのものとされる遺骨いこつから採取さいしゅされたDNAであった。
  16. ^ ケッヘル番号ばんごうなん改訂かいていされており、最新さいしんのものはだい8はんである。
  17. ^ このことは、当時とうじ手紙てがみ各種かくしゅ資料しりょう確認かくにんできる。作曲さっきょくが「自己じこ表現ひょうげん方法ほうほうとして作曲さっきょくし、聴衆ちょうしゅうにもそれが理解りかいされる。」という形態けいたいにはいたっていなかったようである[よう出典しゅってん]
  18. ^ モーツァルトの作品さくひんはベートーヴェンの作品さくひん比較ひかくされ差異さいろんじられることもあるが、決定的けっていてきことなっているのは2人ふたりかれていた社会しゃかいてき状況じょうきょうとヨーロッパを旅行りょこうしてその歴史れきしくしていたかどうかのであるとえる[よう出典しゅってん]
  19. ^ なかにしあや三拍子さんびょうし魔力まりょく』(毎日新聞社まいにちしんぶんしゃISBN 4620318426)を参照さんしょうのこと。
  20. ^ 4世紀せいき教会きょうかい博士はかせ聖人せいじんヨハネス・クリュソストモスにちなんでいる。
  21. ^ 「テオフィルス」はギリシアで「かみあいする」または「かみあいされた」ののテオフィロス(Θεόφιλος, Theophilos)をラテン語らてんごがたにしたもの。
  22. ^ 元来がんらい頭部とうぶくびおよびかた部分ぶぶんえがいた完成かんせいさくだったが、のちあらたなカンバスをって加筆かひつした部分ぶぶん未完みかんとなった。New Mozart Portrait - Stiftung Mozarteum Salzburg
  23. ^ 前掲ぜんけい『モーツァルトの手紙てがみ上巻じょうかん79ぺーじ1777ねんの「ベーズレ書簡しょかん」。「あなたのはなくそをします」などの記述きじゅつがある。このことから「才能さいのういま半分はんぶんでいいから社会しゃかいせいが2ばいほしい」とわれたことがある。
  24. ^ 関連かんれん項目こうもくP. D. Q. バッハ

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]


関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

音源おんげん 録音ろくおんファイル[編集へんしゅう]

  1. Mozart, Wolfgang Amadeus
  2. Composer Wolfgang Amadeus Mozart - listen online, download mp3 - complete works
  3. Nikolaus Harnoncourt, Rudolf Buchbinder. Wolfgang Amadeus Mozart. Piano Concerti Nos. 23 & 25. Played on a copy of a Walter instrument made by Paul McNulty.
  4. Robert Levin, Academy of Ancient Music, Christopher Hogwood. Wolfgang Amadeus Mozart. Piano Concertos Nos 15 & 26. Played on a copy of a Walter instrument made by Paul McNulty.
  5. Viviana SofronitskyW.A. Mozart: 11CD box, the first world complete works for piano and orchestra performed on original instruments. Orchestra: Musicae Antiquae Collegium Varsoviense "Pro Musica Camerata", Poland. Played on a copy of a Walter instrument made by Paul McNulty.
  6. András Schiff. Wolfgang Amadeus Mozart. Piano works. Played on Mozart’s own piano in Salzburg.
  7. Linda Nicholson. Wolfgang Amadeus Mozart. Sonatas for Fortepiano. Played on the original Walter piano.
  8. Paul Badura-Skoda. Wolfgang Amadeus Mozart. Works for piano. Played on an antique Walter piano.

楽譜がくふ[編集へんしゅう]

その[編集へんしゅう]