一式いっしき戦闘せんとう

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キ43 一式いっしき戦闘せんとうはやぶさ

飛行第25戦隊第2中隊のエース大竹久四郎曹長搭乗の一式戦二型(キ43-II、1943年夏撮影)。 部隊マークとして白色で縁取られた中隊色の赤色帯と、機体番号の下桁を垂直尾翼に描いている

飛行ひこうだい25戦隊せんたいだい2中隊ちゅうたいエース大竹おおたけ久四郎きゅうしろう曹長そうちょう搭乗とうじょう一式いっしきせんがた(キ43-II、1943ねんなつ撮影さつえい)。
部隊ぶたいマークとして白色はくしょくえんられた中隊ちゅうたいしょく赤色あかいろおびと、機体きたい番号ばんごうしもけた垂直すいちょく尾翼びよくえがいている

一式いっしき戦闘せんとう(いっしきせんとうき、いちしきせんとうき)は、だい世界せかい大戦たいせんどき大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん戦闘せんとう番号ばんごう試作しさく名称めいしょう)はキ43愛称あいしょうはやぶさ(はやぶさ)。呼称こしょう略称りゃくしょう一式いっしきせんいちせんヨンサンなど。連合れんごうぐんのコードネームはOscar(オスカー)。開発かいはつ中島なかじま飛行機ひこうき製造せいぞう中島なかじまおよび立川たちかわ飛行機ひこうき[ちゅう 1]

よんしき戦闘せんとう疾風しっぷう(キ84)とともに帝国ていこく陸軍りくぐん代表だいひょうする戦闘せんとうとして、太平洋戦争たいへいようせんそうだい東亜とうあ戦争せんそう)における事実じじつじょう主力しゅりょくとして運用うんようされた。そう生産せいさんすうは5,700以上いじょうで、きゅう日本にっぽんぐん戦闘せんとうとしては海軍かいぐんれいしき艦上かんじょう戦闘せんとういで2番目ばんめおおく、陸軍りくぐんとしてはだい1[ちゅう 2]

概要がいよう[編集へんしゅう]

開発かいはつ計画けいかく[編集へんしゅう]

一式いっしきせんいちがた(キ43-I)

1937ねん昭和しょうわ12ねん)12月に制式せいしき採用さいようされた中島なかじませいぜん金属きんぞくせいていつばさ単葉たんようきゅうななしき戦闘せんとう(キ27)は、しゅあし固定こていあし採用さいようした保守ほしゅてき設計せっけいかつ格闘かくとうせんけの戦闘せんとうだった。登場とうじょう当初とうしょきゅうななせん速度そくど上昇じょうしょうりょく旋回せんかいせいすぐれた優秀ゆうしゅうであったが、当時とうじ欧州おうしゅうでは引込ひきこめあしBf 109ドイツ)とスピットファイアイギリス)が出現しゅつげんしており、設計せっけいめん将来しょうらいせいとぼしいきゅうななせん自体じたい限界げんかいかんじていた陸軍りくぐん新型しんがた戦闘せんとう開発かいはつ模索もさくするようになった[1]。そのためきゅうななせん採用さいよう同月どうげつである12月に陸軍りくぐん航空こうくう本部ほんぶ中島なかじまたいいちしゃ特命とくめいキ43試作しさく内示ないじおこな[2]1939ねん昭和しょうわ14ねんまつ完成かんせい目指めざして開発かいはつはじまった[3]おも要求ようきゅう仕様しよう以下いかとおりとされている。

  • 最大さいだい速度そくど - 500km/h
  • 上昇じょうしょうりょく - 高度こうど5,000mまで5ふん以内いない
  • 行動こうどう半径はんけい - 800km以上いじょう[ちゅう 3]
  • 運動うんどうせい - きゅうななせん同等どうとう以上いじょう
  • 武装ぶそう - 固定こてい機関きかんじゅう2てい
  • 引込ひきこめあし採用さいよう

中島なかじまでは設計せっけい主務しゅむしゃたる小山こやま課長かちょう筆頭ひっとうとする設計せっけい開発かいはつみ、担任たんにん技師ぎし設計せっけい主任しゅにん)は機体きたい班長はんちょうたる太田おおたみのる技師ぎし構造こうぞう設計せっけい担当たんとう青木あおき邦弘くにひろ技師ぎしつばさ担当たんとう一丸いちがん哲雄てつお技師ぎし、ほかにそらりょく担当たんとうとして糸川いとかわ英夫ひでお技師ぎしらが設計せっけい協力きょうりょくし、群馬ぐんまけん太田おおた製作所せいさくしょ開発かいはつはじまった。

陸軍りくぐん航空こうくう兵器へいき研究けんきゅう方針ほうしん[編集へんしゅう]

きゅうななせん開発かいはつちゅう考案こうあんされたこうほん昭和しょうわ12年度ねんど陸軍りくぐん航空こうくう兵器へいき研究けんきゅう方針ほうしん』において、単座たんざ戦闘せんとうは「機関きかんじゅう搭載とうさいがた」と「機関きかんほう搭載とうさいがた」の2しゅ定義ていぎされており、これにのっとって開発かいはつはじめられた機体きたいがキ43(前者ぜんしゃ)とキ44後者こうしゃ)である(のちにしき戦闘せんとう鍾馗しょうきとなるキ44は1938ねん昭和しょうわ13ねん)におなじく中島なかじまたいして研究けんきゅう内示ないじおこなわれた)。昭和しょうわ13年度ねんど陸軍りくぐん航空こうくう兵器へいき研究けんきゅう方針ほうしん』ではそれらを発展はってんさせた区分くぶんとしてけい単座たんざ戦闘せんとう」と「じゅう単座たんざ戦闘せんとう登場とうじょう。「けい単座たんざ戦闘せんとうけいせん)」は格闘かくとうせん性能せいのう重視じゅうし機関きかんじゅう装備そうび、「じゅう単座たんざ戦闘せんとうじゅうせん)」は速度そくど重視じゅうし機関きかんほう装備そうびするものと定義ていぎされ、当時とうじ開発かいはつちゅうであったキ43は「けいせん」に、キ44は「じゅうせん」となっている。そのためキ43はキ44とくらべて格闘かくとうせん重視じゅうしするものであった[4]青木あおき技師ぎし陸軍りくぐん要求ようきゅうは「きゅうななせんたい運動うんどうせいまさること」で「近接きんせつ格闘かくとうせい」という表現ひょうげん排除はいじょしていることに着目ちゃくもくし、キ43はじゅうせん指向しこうであったとべている[5]

さらに区分くぶん明文化めいぶんかされた昭和しょうわ15年度ねんど陸軍りくぐん航空こうくう兵器へいき研究けんきゅう方針ほうしん』では、「じゅうせん」は高速こうそくじゅう武装ぶそうかつ航続こうぞく距離きょり防弾ぼうだん装備そうびにもすぐたい戦闘せんとうたい爆撃ばくげきせんもちいる万能ばんのうたる本命ほんめい昇華しょうかした一方いっぽうで、「けいせん」は格闘かくとうせん重視じゅうしぬしたい戦闘せんとうせんもちいる性能せいのう装備そうびめん妥協だきょうした補助ほじょ戦闘せんとうてきものとなっている。1941ねん12月には中島なかじまたいし「じゅうせん」の発展はってんがたとしてキ84内示ないじおこなわれ、これはのちによんしき戦闘せんとう疾風しっぷうとして制式せいしき採用さいよう。これは速度そくど武装ぶそう防弾ぼうだん航続こうぞく距離きょり運動うんどうせい操縦そうじゅうせい生産せいさんせいすぐれた万能ばんのうたる本命ほんめいとなっている。つづ昭和しょうわ18年度ねんど陸軍りくぐん航空こうくう兵器へいき研究けんきゅう方針ほうしん』では「けいせん」と「じゅうせん」の区分くぶん廃止はいしされ、妥協だきょう産物さんぶつかつすでに時代遅じだいおくれの存在そんざいである「けいせん」は「じゅうせん」に併呑へいどんされ「近距離きんきょり戦闘せんとうこんせん)」となっている(どう年度ねんど方針ほうしんでは「こんせん」のほかに「遠距離えんきょり戦闘せんとうとおせん)」・「こう高度こうど戦闘せんとうこうせん)」・「夜間やかん戦闘せんとう夜戦やせん)」の区分くぶん登場とうじょう)。

試作しさく審査しんさ[編集へんしゅう]

一式いっしきせんいちがた(キ43-I)

引込ひきこめあし以外いがい機体きたい基本きほん構造こうぞう前作ぜんさくきゅうななせん踏襲とうしゅうしたことから開発かいはつ順調じゅんちょうすすみ(反対はんたい日本にっぽんにとって革新かくしんてきなキ44にはしん技術ぎじゅつしん構想こうそうまれた)、きょうためしたいである試作しさく0号機ごうきて1938ねん12月に試作しさく1号機ごうき機体きたい番号ばんごう4301)が完成かんせい同月どうげつ12にち利根川とねがわ河畔かはん中島なかじましゃゆう尾島おじま飛行場ひこうじょうにてはつ飛行ひこうしている(操縦そうじゅうテスト・パイロット四宮しのみやきよし)。エンジン中島なかじま開発かいはつされたハ25を、つばさがたはNN-2・つばさはしはNN-21を採用さいよう上反かみたんかく6取付とりつけかく2つばさはし2もじした)、またアルミニウムせい燃料ねんりょうタンクができた時点じてん陸軍りくぐんから防弾ぼうだんタンク(ぼうタンク・防火ぼうかタンク)指示しじがなされている(#防弾ぼうだん装備そうび[6]

試作しさく1号機ごうき胴体どうたい形状けいじょう増加ぞうか試作しさく以降いこうとはおおきくことなり引込ひきこめあしされたきゅうななせんばしたかんじであり、風防ふうぼうわく曲面きょくめん1まいぶつといった特徴とくちょうがある(はつ飛行ひこう景色けしきゆがみが問題もんだいとされ平面へいめん主用しゅようの3まいぶつかわそう)。1939ねん昭和しょうわ14ねん)1がつ立川たちかわ陸軍りくぐん飛行場ひこうじょう空輸くうゆされたキ43試作しさく1号機ごうき陸軍りくぐん航空こうくう技術ぎじゅつ研究所けんきゅうじょによる審査しんさ移行いこう同年どうねん2がつ試作しさく2号機ごうき、3月には試作しさく3号機ごうき完成かんせい審査しんさ合流ごうりゅうしている。

こう技研ぎけん明野あけの陸軍りくぐん飛行ひこう学校がっこうでの審査しんさ結果けっか、キ43はきゅうななせんくら航続こうぞく距離きょりながいものの旋回せんかいせいおと最大さいだい速度そくど向上こうじょうは30km/h程度ていどということが判明はんめいしたうえ、同年どうねん5がつ勃発ぼっぱつしたノモンハン事件じけんおも前期ぜんきノモンハン航空こうくうせん)できゅうななせん旋回せんかい性能せいのう武器ぶき活躍かつやくしたこともキ43採用さいようたいして逆風ぎゃくふうとなっていた[7]同年どうねん11がつ審査しんさ結果けっか胴体どうたい以下いか各部かくぶあらた全体ぜんたいのスタイルがのちの制式せいしき相当そうとうとなった増加ぞうか試作しさく1号機ごうき通算つうさん試作しさく4号機ごうき)が完成かんせいしたが、ノモンハン事件じけんせんくんとして次期じき戦闘せんとうにはさらなる高速こうそく武装ぶそう強化きょうか防弾ぼうだん装備そうびもとめられたこともあり、依然いぜんキ43の審査しんさ長引ながびいていた。

だいさん審査しんさ計画けいかくて、けいせんじゅうせん双方そうほうから中途半端ちゅうとはんぱとみなされたキ43試作しさくがたをそのまま制式せいしき採用さいようすることは見送みおくり、より強力きょうりょくなエンジン(ハ105)にかわそうして高速こうそくはかった、キ43性能せいのう向上こうじょうだいあん開発かいはつすすめることが決定けっていされた[8]だい一案いちあんでは固定こていあしなど徹底的てっていてき軽量けいりょうおこなわれたものの採用さいよう)。速度そくど上昇じょうしょうりょく航続こうぞく距離きょり向上こうじょう重視じゅうしする実用じつようがわあかりこう審査しんさいんあいだにおいてもこのエンジンかわそうあん支持しじされ、直後ちょくご研究けんきゅうかいにおいてキ43-II相当そうとうとなるだいあん開発かいはつ確定かくていした。このため、中島なかじまのキ43設計せっけい主務しゅむしゃ小山おやま技師ぎしもキ43さい設計せっけい開始かいししている。

採用さいよう[編集へんしゅう]

一式いっしきせんいちがた(キ43-I)

キ43性能せいのう向上こうじょうだいあん開発かいはつつづけられるあいだにも日本にっぽんとイギリス・アメリカ関係かんけい悪化あっか一途いっと辿たどった。1940ねん昭和しょうわ15ねんなつ参謀さんぼう本部ほんぶ南進なんしん計画けいかくともな南方みなかた作戦さくせん緒戦しょせん上陸じょうりくせんおこな船団せんだん南部なんぶふつしるしより掩護えんご可能かのう、また遠隔えんかくまでばくげき護衛ごえいおよびせいそら可能かのう航続こうぞく距離きょりなが遠距離えんきょり戦闘せんとうとおせん)を要求ようきゅうする。仮想かそうてきであるイギリスぐん新鋭しんえい戦闘せんとうスピットファイアに対抗たいこう可能かのうかんがえられ、本来ほんらい陸軍りくぐん主力しゅりょく戦闘せんとうとなるべきキ44(しきせん)の配備はいびわないことと[ちゅう 4]陸軍りくぐん飛行ひこう実験じっけん実験じっけんたいこう技研ぎけん審査しんさ部門ぶもん後身こうしん)のトップである今川いまがわ一策いっさく大佐たいさ進言しんげんもあり、一転いってんしてキ43試作しさくがた一定いってい改修かいしゅうほどこした機体きたい制式せいしき採用さいようすることが決定けってい同年どうねん11がつおも以下いか内容ないようとする『キ43とおせん仕様しようしょ』が中島なかじましめされ、よく1941ねん昭和しょうわ16ねん)3がつ改修かいしゅう飛行ひこう実験じっけん実験じっけんたい戦闘せんとうはんわたされ再度さいど試験しけんすすめられた。キ43性能せいのう向上こうじょうだいあん開発かいはつちゅうであった当時とうじ採用さいようであるキ43原型げんけい試作しさくがた急遽きゅうきょ採用さいようする行為こういたいして開発かいはつ審査しんさがわでは反対はんたい混乱こんらんきている。またキ43原型げんけい試作しさくがた採用さいよう凍結とうけつされ、中島なかじまによる根本こんぽんてきさい設計せっけいおこなわれていたためキ43原型げんけい試作しさくがた生産せいさんのための片付かたづけられていた。なお、陸軍りくぐんはあくまで不満足ふまんぞくな「キ43原型げんけい試作しさくがた」を採用さいようすることは本来ほんらいはせず、「キ43性能せいのう向上こうじょうがた」の開発かいはつ審査しんさ再度さいどおこなったのちこれを採用さいようする方針ほうしんであったため、けっしてキ43自体じたい開発かいはつはおぞうりになっていたわけではない。

  • 『キ43とおせん仕様しようしょ

かつて問題もんだいとなっていたきゅうななせんとの運動うんどうせい比較ひかくについては、戦闘せんとうフラップを使用しようしなくとも水平すいへい方向ほうこうでなく上昇じょうしょうりょく速度そくどかした「垂直すいちょく方向ほうこう」の格闘かくとうせんむことで、不利ふり低位ていいせんであっても圧倒あっとう可能かのう判断はんだんされている。これはノモンハン事件じけんにおけるソ連それんぐん戦闘せんとうI-16戦法せんぽう参考さんこうにしたものとされ[5]飛行ひこう実験じっけんテストパイロット岩橋いわはしゆずるさん大尉たいい研究けんきゅう結果けっかであった。

これらの結果けっかけて1941ねん皇紀こうき2601とし)5がつ、キ43は陸軍りくぐん軍需ぐんじゅ審議しんぎかい幹事かんじかいにおいて一式いっしき戦闘せんとうとしてかり制式せいしき制定せいてい制式せいしき採用さいよう)された。参謀さんぼう本部ほんぶ要請ようせいからキ43の採用さいようのぞんでいたこうほん総務そうむは、制式せいしき決定けっていたず中島なかじまたいして400生産せいさん内示ないじしたとされており、一式いっしきせん量産りょうさん1号機ごうき同年どうねん4がつ完成かんせいし6がつ時点じてんやく40がロールアウトしている[9]

実戦じっせん投入とうにゅう[編集へんしゅう]

南方みなかた作戦さくせんにおける「軍神ぐんしん加藤かとう少将しょうしょうひきいるだい64戦隊せんたい一式いっしきせん活躍かつやくえがいた映画えいが加藤かとうはやぶさ戦闘せんとうたい』の劇場げきじょうポスター(#愛称あいしょう

制式せいしき採用さいようおくれから、太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせん一式いっしきせん配備はいびされていた実戦じっせん部隊ぶたい飛行ひこうだい59戦隊せんたい飛行ひこうだい64戦隊せんたいわずか2飛行ひこう戦隊せんたいだい59戦隊せんたい2中隊ちゅうたい21だい64戦隊せんたい3中隊ちゅうたい35)であった。しかし、南方みなかた作戦さくせんにおいてこれらの一式いっしきせん空戦くうせんにおいて喪失そうしつやく4ばいかずを、たい戦闘せんとうせんでもやく3ばいかず連合れんごう軍機ぐんき確実かくじつ撃墜げきつい以下いか記録きろく開戦かいせんである南方みなかた作戦さくせん期間きかんちゅうたる1941ねん12月8にちマレー作戦さくせん開始かいし)から1942ねん3がつ9にちらんしるし作戦さくせん終了しゅうりょう)にかけて、当時とうじ日本にっぽんぐん連合れんごうぐんのこした戦闘せんとう記録きろく比較ひかく調査ちょうさにより裏付うらづけれた一式いっしきせん確実かくじつ戦果せんかである[10]

  • だい59戦隊せんたいだい64戦隊せんたい一式いっしきせん連合れんごう軍機ぐんき61確実かくじつ撃墜げきつい
    • りょう戦隊せんたい一式いっしきせん喪失そうしつ損害そんがいは16のみ
    • 撃墜げきつい連合れんごうぐん機種きしゅ内訳うちわけ戦闘せんとう43ばくげきとう18B-17E 1ふくむ)。
      • 戦隊せんたいべつ撃墜げきつい戦果せんかだい59戦隊せんたいが30だい64戦隊せんたいが27りょう戦隊せんたい協同きょうどうで4

さらに、「南方なんぽう資源しげん地帯ちたい確保かくほ」という理由りゆうはじめられた太平洋戦争たいへいようせんそうにおいて、その開戦かいせん理由りゆうかつ陸海りくかいぐん南方なんぽう作戦さくせんにおける戦略せんりゃくうえさい重要じゅうよう攻略こうりゃく目標もくひょうたる、オランダりょうひがしインドらんしるしインドネシアスマトラ島すまとらとうパレンバン油田ゆでん製油せいゆしょ飛行場ひこうじょう陸軍りくぐん落下傘らっかさん部隊ぶたい挺進ていしん部隊ぶたいとともに制圧せいあつするなど(パレンバン空挺くうてい作戦さくせん[ちゅう 5]一式いっしきせん陸軍りくぐん想定そうていしていた以上いじょう華々はなばなしい戦果せんかげた(#南方みなかた作戦さくせん)。1942ねん昭和しょうわ17ねん後半こうはん以降いこう旧式きゅうしきしたきゅうななせんわり改変かいへん順次じゅんじすすめられ、名実めいじつともに陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたい陸軍りくぐん航空こうくうたい)の主力しゅりょく戦闘せんとうとなっている。一式いっしきせん西にしインドカルカッタ)、みなみオーストラリアダーウィン)、ひがしソロモン諸島しょとうきた千島ちしま列島れっとうとほぼすべての戦域せんいき投入とうにゅうされた。

最初さいしょころ配備はいびすうすくなさゆえ一式いっしきせん存在そんざい自体じたい日本にっぽんぐんないでもあまりられておらず、さらに当時とうじ陸軍りくぐん胴体どうたい国籍こくせき標識ひょうしきラウンデル)のにちあきら記入きにゅうすることをやめていたため、海軍かいぐんどころか身内みうち陸軍りくぐん操縦そうじゅうしゃからもてき新型しんがた戦闘せんとう誤認ごにんされ、味方みかた同士どうし真剣しんけん空戦くうせんこるなどの珍事ちんじもあった。このため1942ねんちゅう後半こうはんごろからは陸軍りくぐん再度さいど胴体どうたいにちしょうえがようになっている。南方なんぽう作戦さくせんいちとお終了しゅうりょうした1942ねん3がつ一式いっしきせんは「はやぶさ」と名付なづけられ大々的だいだいてき発表はっぴょうされ、以降いこう陸海りくかいぐんないでも知名度ちめいどげていった(#愛称あいしょう)。

一式いっしきせんがた(キ43-II)
一式いっしきせんさんがた(キ43-III)

一式いっしきせん改良かいりょうがた開発かいはつ配備はいびされるも大戦たいせん中期ちゅうき以降いこう旧式きゅうしきし、戦況せんきょう自体じたい悪化あっか連合れんごうぐん改良かいりょうがた新鋭しんえい大量たいりょう投入とうにゅう戦術せんじゅつ変更へんこうするようになってからは苦戦くせんいられるようになり(#飛行ひこう性能せいのう)、1944ねん昭和しょうわ19ねん後半こうはん以降いこう新鋭しんえいよんしきせん量産りょうさんされ、これに順次じゅんじ改変かいへんされていたことから、配備はいびすうじょうでは帝国ていこく陸軍りくぐん唯一ゆいいつ主力しゅりょく戦闘せんとうではなくなった。カタログスペックじょうでは大戦たいせん後期こうきには完全かんぜん旧式きゅうしきした一式いっしきせんだが1945ねんまで生産せいさんつづけられ、そのような機体きたい末期まっきまで生産せいさん運用うんようしたことを陸軍りくぐん不手際ふてぎわ評価ひょうかする見方みかたもある。だが、じゅうせんたるしきせん運動うんどうせい操縦そうじゅうせいすぐれた機体きたいれた操縦そうじゅうしゃ(あるいは適応てきおうりょくのない操縦そうじゅうしゃ)のなかには、だい口径こうけいエンジンによって離着陸りちゃくりくなんたかさなどから全体ぜんたいてき使つかいにくいと評価ひょうかするものがおり、くわえてエンジンの信頼しんらいせい確保かくほできていなかった。さんしき戦闘せんとう飛燕ひえん(キ61)は搭載とうさいしている水冷すいれいエンジンハ40信頼しんらいせい生産せいさんせい問題もんだいがあり、整備せいびじょう問題もんだいもあり全体ぜんたいてき稼働かどうりつひくく、その影響えいきょうはなれのぼり出力しゅつりょくふくめた戦闘せんとうりょく不足ふそくしょうじていた。また、1944ねんなかばより「だい東亜とうあ決戦けっせん」たる主力しゅりょく戦闘せんとうとして重点的じゅうてんてき量産りょうさんされたよんしきせんはそのバランスのれた高性能こうせいのう実戦じっせんでの活躍かつやくによりアメリカぐんから「日本にっぽんぐん最優秀さいゆうしゅう戦闘せんとう」とひょうされるものの、ハ45不具合ふぐあいこう品質ひんしつ潤滑油じゅんかつゆこうオクタン価おくたんか燃料ねんりょう交換こうかん部品ぶひん不良ふりょう不足ふそくによりこちらも信頼しんらいせいなんがあった。さらさんしきせんがた(キ61-IIあらため)をベースに空冷くうれいエンジンハ112-IIかわそう速度そくど性能せいのう引換ひきかえに「けいせん」などとひょうされた運動うんどうせい比較的ひかくてき良好りょうこう稼働かどうりつしき戦闘せんとう(キ100)は、あくまでくびしょうされたハ140が搭載とうさいされないまま放置ほうちされていたさんしきせんがた有効ゆうこう活用かつようすべくされた改造かいぞうであり、実際じっさい生産せいさんされた大半たいはん改造かいぞうとされており、当時とうじ追加ついか生産せいさん制式せいしき採用さいようする計画けいかくてられておらず、一式いっしきせんてき位置いちづけになったのはあくまで結果けっかろんである。そのようななか立川たちかわ生産せいさんラインを活用かつようさんがた量産りょうさん可能かのうであった一式いっしきせんぜん期間きかんつうじて安定あんていした性能せいのう供給きょうきゅう維持いじしており、信頼しんらいせいたかく、新人しんじん操縦そうじゅうしゃにもあつかやすく、その運動うんどうせいたかさを武器ぶき最後さいごまで使用しよう継続けいぞくされた(#運動うんどう性能せいのう)。末期まっきには特別とくべつ攻撃こうげきたい運用うんようする特攻とっこうとしても多用たようされている。

おもにビルマ方面ほうめんだい64戦隊せんたいとともに戦果せんかげた飛行ひこうだい50戦隊せんたい活躍かつやくしたエース、「白色はくしょく電光でんこう戦闘せんとう穴吹あなぶき」のとお穴吹あなぶきさとし曹長そうちょう。1944ねん12月、明野あけの教導きょうどう飛行ひこうだんきゅうあきらこう時代じだい陸軍りくぐん曹長そうちょう任官にんかん記念きねんとして撮影さつえいされた1まいで、後方こうほうどう師団しだん所属しょぞく一式いっしきせんがた(キ43-II)

一式いっしきせん特筆とくひつあたいするてんとして、大戦たいせん初期しょきかぎらずビルマミャンマー)やその南東なんとう中国ちゅうごく戦線せんせんでは大戦たいせん後期こうき末期まっきである1944ねん後半こうはん以降いこうにおいても連合れんごうぐん戦闘せんとうとの空戦くうせんにおいて「互角ごかくないしそれ以上いじょう勝利しょうり」をかさね(#ビルマ航空こうくうせん#中国ちゅうごく航空こうくうせん)、また、スピットファイア・P-38P-47P-51(P-51はアリソンエンジン搭載とうさいAがたのみならずマーリンエンジン搭載とうさいB/C・Dがたをもふくむ)といった新鋭しんえい戦闘せんとうとの対戦たいせんでも「互角ごかく結果けっか」をのこしていることがげられる(なかでもビルマ航空こうくうせんではこれらのぜん新鋭しんえい一式いっしきせんはつ交戦こうせんにて一方いっぽうてき確実かくじつ撃墜げきついしている(#ビルマ航空こうくうせん 後期こうき))。これらの記録きろく日本にっぽんぐん連合れんごうぐんがわ戦果せんか損失そんしつ記録きろく比較ひかくにより裏付うらづけれている「史実しじつ」である[11]いちれいとして、以下いか記録きろく1943ねん昭和しょうわ18ねん)7がつ2にちから1944ねん7がつ30にちにかけてビルマ方面ほうめん一式いっしきせん記録きろくした裏付うらづけれている確実かくじつ実戦じっせんはてじつ損害そんがいである[12]

  • 一式いっしきせん連合れんごう軍機ぐんき135確実かくじつ撃墜げきつい
    • 一式いっしきせん喪失そうしつ損害そんがいは83
    • 撃墜げきつい連合れんごうぐん機種きしゅ内訳うちわけ戦闘せんとう70ばくげきとう32輸送ゆそうとう33
    • 連合れんごうぐん戦闘せんとうによる一式いっしきせん撃墜げきつい戦果せんかやく61
      • 当時とうじのビルマ航空こうくうせん全体ぜんたい日本にっぽんぐん戦闘せんとうけい142撃墜げきつい連合れんごうぐん戦闘せんとうけい127撃墜げきつい

同様どうように、以下いか大戦たいせん末期まっきの1944ねん8がつ18にちから終戦しゅうせん間際まぎわの1945ねん8がつ13にちにかけて、ビルマをはじめとする東南とうなんアジア方面ほうめん(ビルマ・フランスりょうインドシナ・マレー・インドネシアタイひとし[ちゅう 6])を担当たんとうするだい3航空こうくうぐん戦域せんいきにおける、一式いっしきせん確実かくじつ実戦じっせんはてじつ損害そんがいである[13]

  • 一式いっしきせん連合れんごう軍機ぐんき63確実かくじつ撃墜げきつい一式いっしきせん撃墜げきついした可能かのうせいがある連合れんごうぐん帰還きかん9ふくむと連合れんごう軍機ぐんき72確実かくじつ撃墜げきつい
    • 一式いっしきせん喪失そうしつ損害そんがいは61
    • 撃墜げきつい連合れんごうぐん機種きしゅ内訳うちわけ戦闘せんとう14(または18ないし19)・ばくげきとう32(または36ないし37)・輸送ゆそうとう17
    • 連合れんごうぐん戦闘せんとうによる一式いっしきせん撃墜げきつい戦果せんかは47のこり14ばくげき防御ぼうぎょ砲火ほうかによるもの。

末期まっきにおいても圧倒的あっとうてき不利ふり状況じょうきょうにて一式いっしきせん活躍かつやくしていた事例じれいとして、以下いか記録きろく存在そんざいする。1945ねん昭和しょうわ20ねん)3がつ15にちバンコク、ドンムアン空港くうこう離陸りりくした飛行ひこうだい30戦隊せんたい一式いっしきせん2が「だい世界せかい大戦たいせん最優秀さいゆうしゅう」とひょうされるアメリカ陸軍りくぐん航空こうくうぐんのP-51D 4当初とうしょは8)と交戦こうせん、この一式いっしきせん2空中くうちゅう退避たいひちゅうにP-51D 4編隊へんたい奇襲きしゅうけた劣勢れっせいにもかかわらずまずその一撃いちげき離脱りだつ攻撃こうげき回避かいひつづべつのP-51D 4編隊へんたい攻撃こうげき得意とくいとするちょうてい空域くういき機動きどうによってこれも回避かいひ一式いっしきせん反撃はんげきし1だい1戦闘せんとう飛行ひこうたいだい4小隊しょうたいモダイン大尉たいい)を確実かくじつ撃墜げきつい[14] 。

日本にっぽんぐん連合れんごうぐん戦果せんかおよび損害そんがい報告ほうこく記録きろくたるいち史料しりょうをもってこれら一式いっしきせん戦績せんせき調査ちょうさ研究けんきゅうおこなった梅本うめもとひろしは、自著じちょにおいてビルマ航空こうくうせんにおける帝国ていこく陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたい一式いっしきせん活躍かつやく以下いかごとべている[15][13]

前略ぜんりゃく空戦くうせん児戯じぎるいするほど単純たんじゅんに「航空機こうくうき損失そんしつと、撃墜げきつい戦果せんか」という観点かんてんからのみれば、陸軍りくぐん戦闘せんとうたいは、質量しつりょうともにまさえいべい戦闘せんとうたいたいして昭和しょうわ20ねんの2がつまで、ほぼ互角ごかく勝負しょうぶをしていた。

— 梅本うめもとひろし 『ビルマ航空こうくうせん』 2002ねん11月 p.18

はやぶさ損害そんがい戦果せんかともに筆者ひっしゃ調査ちょうさ確認かくにんできたものだけで、実際じっさいにはもっとおおいはずだ。調査ちょうさには限界げんかいがあり、完全かんぜんではないが、昭和しょうわ19ねん後半こうはんから終戦しゅうせんまで、日本にっぽん陸海りくかいぐん航空こうくう部隊ぶたい各地かくちおおいたくなるような惨敗ざんぱいきっしていたなかで、主戦しゅせんじょうからはずれたビルマとさらに南東なんとう辺境へんきょうでは、最後さいご最後さいごまで、はやぶさしんじられないような健闘けんとうをつづけていたのはたしかである。

— 梅本うめもとひろしだい大戦たいせんはやぶさのエース』 2010ねん8がつ p.124

愛称あいしょう[編集へんしゅう]

映画えいが加藤かとうはやぶさ戦闘せんとうたいげきちゅう加藤かとう少将しょうしょうを「えんじた」藤田ふじたすすむと、だい64戦隊せんたいを「えんじた」あきらこう一式いっしきせんがた(キ43-II)
映画えいが加藤かとうはやぶさ戦闘せんとうたい』にてだい64戦隊せんたいを「えんじた」あきらこう一式いっしきせんがた(キ43-II)たち。あかりこう保有ほゆうだい64戦隊せんたいだい1中隊ちゅうたい部隊ぶたいマークである「しろ矢印やじるし」をえがいた

戦前せんぜんちゅう日本にっぽんではおもぐん内部ないぶマスメディアうえにおいて、陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたい自体じたいかく飛行ひこう部隊ぶたい航空機こうくうきから空中くうちゅう勤務きんむしゃなどの比喩ひゆ表現ひょうげんとして「わしあらわしりくわし)」「たか」「はやぶさ」「翡翠かわせみ」といった鳥類ちょうるいさかんにもちいられており、かつ日本にっぽん戦闘せんとうにもてき連合れんごうぐんの「バッファロー」や「ハリケーン」のようなニックネームがしいというこえけ、陸軍りくぐん航空こうくう本部ほんぶ発表はっぴょう正式せいしき愛称あいしょうとして一式いっしきせんは「はやぶさ」と命名めいめい発案はつあんしゃ陸軍りくぐん航空こうくう本部ほんぶ報道ほうどうかん西原にしはらまさる少佐しょうさ)、太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせんまもない1942ねん3がつ8にちには「新鋭しんえいりくわしはやぶさげんわる」の見出みだしでかく新聞しんぶん紙上しじょうにぎわした[16]。この「はやぶさ」の一式いっしきせんをもって南方なんぽう作戦さくせん活躍かつやくしただい64戦隊せんたい部隊ぶたい冒頭ぼうとうのフレーズ(後述こうじゅつ、「エンジンのおと 轟々ごうごうはやぶさせいくもて――」)からられたものとされている。

太平洋戦争たいへいようせんそうちゅうには戦況せんきょうほうじる新聞しんぶんラジオ放送ほうそうニュース映画えいが雑誌ざっし戦記せんきほん絵本えほん軍歌ぐんか戦時せんじ歌謡かよう)などといった各種かくしゅメディアのみならず、加藤かとうはやぶさ戦闘せんとうたいことだい64戦隊せんたい戦隊せんたいちょうとして南方みなかた作戦さくせん活躍かつやく軍神ぐんしんしょうされた加藤かとう建夫たけお少将しょうしょう[17]、「ニューギニア南郷なんごうたもつ」とうたわれただい59戦隊せんたい飛行ひこう隊長たいちょう南郷なんごう茂男しげお中佐ちゅうさ代表だいひょうされるエース・パイロット活躍かつやく映画えいがつばさ凱歌がいか』(1942ねん10がつ公開こうかい東宝とうほう映画えいが)・記録きろく映画えいが陸軍りくぐん航空こうくう戦記せんき ビルマへん』(1943ねん4がつ公開こうかい日本にっぽん映画えいがしゃ)・映画えいがあいみなみ』(1943ねん9がつ公開こうかい松竹しょうちく)・映画えいが加藤かとうはやぶさ戦闘せんとうたい』(1944ねん3がつ公開こうかい東宝とうほう)といった、実機じっき一式いっしきせん出演しゅつえんするかく映画えいが作品さくひん、およびだい64戦隊せんたい加藤かとう少将しょうしょうのもと一式いっしきせんたたかった遠藤えんどうけん中尉ちゅういひのき與平よへい中尉ちゅういしるした戦記せんきほん加藤かとうはやぶさ戦闘せんとう部隊ぶたい』(1943ねん5がつ発行はっこう、のち映画えいが加藤かとうはやぶさ戦闘せんとうたい原作げんさくほん)、レコードされだいヒットしただい64戦隊せんたい部隊ぶたい加藤かとう部隊ぶたい加藤かとうはやぶさ戦闘せんとうたい)』(1943ねんはいでん勝彦かつひこみで発売はつばい映画えいが加藤かとうはやぶさ戦闘せんとうたい事実じじつじょう主題歌しゅだいか)、 伊丹いたみ陸軍りくぐん飛行場ひこうじょう摂津せっつ陸軍りくぐん飛行場ひこうじょうにておこなわれた一式いっしきせん公開こうかい飛行ひこう(1943ねん3がつ鹵獲ろかくしたB-17・P-40との模擬もぎ空戦くうせん披露ひろう[18]などをつうじ、一式いっしきせんはやぶさ」は太平洋戦争たいへいようせんそうちゅうもっと有名ゆうめい日本にっぽんぐん戦闘せんとうとして日本にっぽん国民こくみんひろしたしまれることとなった。

つばさ凱歌がいか』には撮影さつえい専用せんよう用意よういされたぎん無地むじ一式いっしきせんいちがたのみならず、一式いっしきせんいちがたへい改変かいへんした当時とうじ飛行ひこうだい1戦隊せんたいも「出演しゅつえん」しオープニング場面ばめんなな一直線いっちょくせんだい編隊へんたいんだ姿すがたかりかた編隊へんたい)を披露ひろう。『加藤かとうはやぶさ戦闘せんとうたいげきちゅう多数たすう一式いっしきせんいちがたおよびがた明野あけの陸軍りくぐん飛行ひこう学校がっこう保有ほゆう動員どういんし(撮影さつえい時期じき都合つごういちがたすくなくがたがメイン)、かつだい64戦隊せんたい部隊ぶたいマークである「矢印やじるしはす矢印やじるし)」にえがなおされており、わば「俳優はいゆう」として「出演しゅつえん」したものであった。

以下いか文面ぶんめんはパレンバン空挺くうてい作戦さくせんの1942ねん3がつごろだい64戦隊せんたい空中くうちゅう勤務きんむしゃたちが「はやぶさ」の命名めいめい発表はっぴょう戦地せんちいたさい言動げんどうである[19]

「おい――『はやぶさ』が発表はっぴょうになったぞッ。」
 さっきから調子ちょうしわるいラジオにかじりついて調節ちょうせつ余念よねんのなかった遠藤えんどう中尉ちゅういが、突然とつぜんくびだけこっちへけてむせぶように怒鳴どなった。
「なに――!」
 食器しょっきてたやつがある。
 航空こうくう長靴ながぐつさかさまにはきかけたやつがある。
 みないろえてラジオにかじりついた。
 発表はっぴょうはすこぶる簡単かんたんだった。
 ――マライ作戦さくせんはじめて姿すがたあらわえいべい精鋭せいえいスピットファイヤー、ハリケーン、カーチスP-40ひとし交戦こうせんし、いたるところてきなき戦果せんかおさめた陸軍りくぐんさい新鋭しんえい戦闘せんとう今回こんかい覆面ふくめんいで発表はっぴょうとなり、そのも『はやぶさ』と命名めいめいされた。 あし引込ひっこしきになったという外形がいけいてき特徴とくちょうばかりでなく、その高性能こうせいのうとく空中くうちゅう戦闘せんとう理想りそうてき旋回せんかい性能せいのうは、高度こうど操縦そうじゅう技術ぎじゅつ相俟あいまって冠絶かんぜつほこり、広大こうだいだい東亜とうあ戦域せんいき完全かんぜん確保かくほしたことはほんはやぶさ』の忘るべからざる功績こうせきである。
 それに簡単かんたんなデータがくわえられたのみであった。
けれどもこの発表はっぴょうみみます我々われわれよろこびは想像そうぞうあまりがあった。(後略こうりゃく

— もと加藤かとう部隊ぶたい 陸軍りくぐん中尉ちゅうい 遠藤えんどうけんひのき與平よへい加藤かとうはやぶさ戦闘せんとう部隊ぶたい』 1943ねん5がつ20日はつか初版しょはん発行はっこう

以下いか発言はつげん一式いっしきせん呼称こしょうについて、長年ながねんわただい64戦隊せんたい空中くうちゅう勤務きんむしゃであったひのき與平よへい少佐しょうさ(1940ねん6がつこう53だい64戦隊せんたい最終さいしゅうだい64戦隊せんたいだい3中隊ちゅうたいちょう)の談話だんわである[20]

前略ぜんりゃくかたはじめ「キのヨンサン」で、そのうちに「はやぶさ」「いちせん(いっせん)」になったんじゃないかな

— もと陸軍りくぐん少佐しょうさ ひのき與平よへい

機体きたい特徴とくちょう[編集へんしゅう]

飛行ひこう性能せいのう[編集へんしゅう]

最大さいだい速度そくど[編集へんしゅう]

一式いっしきせんいちがたへい(キ43-Iへい)のハ25(現存げんそんするオリジナルひん)。いちがたは3じゅう潤滑油じゅんかつゆ環状かんじょう冷却れいきゃく下部かぶした気化きか外気がいき吸入きゅうにゅうこう特徴とくちょう

ハ25はなれのぼり950馬力ばりき)を搭載とうさいしたいちがたキ43-I)の最大さいだい速度そくどは、低質ていしつオクタン価おくたんか87(航空こうくうはちなな揮発きはつ)の燃料ねんりょう使用しようした数値すうちでは495km/h/4,000mにとどまる。一方いっぽうで、オクタン価おくたんか92の航空こうくうきゅう揮発きはつ使用しようした場合ばあい最大さいだい速度そくどは500km/hをえる[21]。ハ25はいちがた以前いぜんれいせん搭載とうさいされたさかえいちがたとほぼおなじものであるが、燃料ねんりょう統一とういつされる開戦かいせん直前ちょくぜんまで、陸軍りくぐんでは海軍かいぐんよりていオクタン価おくたんか航空こうくうはちなな揮発きはつ使用しようしていたため、これがカタログスペックじょうでのれいせんとの最大さいだい速度そくどちがいとなっている(主翼しゅよく改修かいしゅうまえれいせんいちがた最大さいだい速度そくどは509km/h)。

本来ほんらいちゃくかんえる機体きたい強度きょうど必要ひつよう艦上かんじょう戦闘せんとう陸上りくじょう戦闘せんとうより性能せいのうてき不利ふりとされるが、はやぶされいせん速度そくどならばれた要因よういんとしてそらりょく徹底てっていげられる。中央ちゅうおうつばさあつ18%(れいせん14%つよし[22][23])、しゅカバーし、しゅ収容しゅうようつばさぜんえんし、固定こてい、これらすべてプロペラりゅう圏内けんない空気くうき抵抗ていこうちいさくない。(れいせんの3翅プロペラは振動しんどう対策たいさくで、堀越ほりこしはより軽量けいりょう効率こうりつわずかにい2翅をのぞんでいた[24]

じょうそくプロペラにはれいせんなどおおくの機体きたい使つかわれていたハミルトン・スタンダードせい油圧ゆあつしき可変かへんプロペラを住友金属工業すみともきんぞくこうぎょうライセンス生産せいさんしたものである(陸軍りくぐんけは日本にっぽん楽器がっき製造せいぞう生産せいさん)。このプロペラは戦前せんぜん設計せっけいされたものであり、すでにアメリカの戦闘せんとうには改良かいりょうがた新型しんがた採用さいようされていたが、開戦かいせんによってこれらの情報じょうほう入手にゅうしゅできなくなった。またきゅうななしき戦闘せんとうのプロペラ開発かいはつたずさわった佐貫さぬきまたおとこが1941ねんからユンカースしゃからプロペラ技術ぎじゅつ導入どうにゅうするためドイツに出張しゅっちょうしていたが6がつどくせん開戦かいせんしたことで帰路きろたれ、帰国きこくは1944ねんまでびてしまい独自どくじ開発かいはつおくれていた。戦前せんぜんにドイツのVDMしゃからライセンスをていた電動でんどうしきガバナーをそなえたプロペラは構造こうぞう複雑ふくざつ生産せいさん整備せいび苦慮くりょしたことから一式いっしきせんには採用さいようされず、改良かいりょうは3翅への変更へんこうのみとなり速度そくど向上こうじょうはその設計せっけい変更へんこうおぎなうこととなった。

エンジンをよりこう出力しゅつりょくハ115はなれのぼり1,150馬力ばりき海軍かいぐんさかえいちがたとほぼおなじ)にかわそうし、3翅プロペラを装備そうびしたがたキ43-II試作しさく最大さいだい速度そくどは515km/h/6,000mに向上こうじょうぞうそく効果こうかのある推力すいりょくしき集合しゅうごう排気はいきかん後期こうきがたで536km/h、推力すいりょくしきたん排気はいきかんさい後期こうきがたでは548km/hの数値すうち記録きろくしている。しかし、推力すいりょくしき集合しゅうごう排気はいきかんたん排気はいきかんでもない通常つうじょう集合しゅうごう排気はいきかん仕様しようである初期しょきがたをもってニューギニア航空こうくうせんたたかったエースであるだい59戦隊せんたい飛行ひこう隊長たいちょう南郷なんごう大尉たいいは、1943ねん4がつ17にち日記にっきに「がたかるく550km/hくらいまでそんそくほろぼせず振動しんどうなくすこぶる気持きも[25]としるしだか評価ひょうかしている。

ていオクタン価おくたんか燃料ねんりょう出力しゅつりょくしぼすためみずメタノール噴射ふんしゃ装置そうち搭載とうさいしたハ115-IIかわそうしたさんがたキ43-III)では560km/h/5,850mに向上こうじょうした。みずメタノールのタンク容量ようりょうは70l、最大さいだい速度そくどはそのざんりょう範囲はんいない有効ゆうこうであったが、はやぶささんがた担当たんとうした大島おおしま設計せっけい主務しゅむは「速度そくどれいせんかくかたよりゆうそくとなり、上昇じょうしょうりょく航続こうぞく距離きょり操縦そうじゅうせいいずれも上回うわまわり、おとっているのは武装ぶそうのみ」とみずメタノール噴射ふんしゃ装置そうち好意こういてきひょうし、パイロットの証言しょうげんとしても「自分じぶんのここと出来できたのは一式いっしきせんさんがたっていたからであり、機種きしゅではおそらくのこれなかっただろう」とわしめるほどの効果こうか発揮はっきしたという[26]。なお、これでも噴射ふんしゃ装置そうち搭載とうさいしないどう世代せだい同等どうとう速度そくどであり、優位ゆういつというより不足ふそくおぎなわれたという意味合いみあいがつよい。

海軍かいぐんさかえ31がた(ハ115-I)れい試験しけんてき搭載とうさいされたものの「調整ちょうせい困難こんなんかつ実効じっこうがほとんどみとめられないどころか性能せいのう低下ていか一因いちいんともなる」と酷評こくひょうされ正式せいしき採用さいよう見送みおくられたが、陸軍りくぐんでは研三けんぞう(キ78)みずメタノール噴射ふんしゃ装置そうち開発かいはつ経験けいけんがあり特性とくせい理解りかいしたうえ採用さいようされた。噴射ふんしゃ装置そうちかぎらず当時とうじ日本にっぽんでは品質ひんしつ管理かんり杜撰ずさん信頼しんらいせい工員こういん整備せいびいんうで依存いぞんしていたため、たとえおな装置そうちであっても担当たんとうしゃちがいで稼働かどうりつ信頼しんらいせいことなることがおおかった。また追加ついかした噴射ふんしゃ装置そうちにより工数こうすうえたことや、徴兵ちょうへいされた熟練工じゅくれんこうわり勤労きんろう報国ほうこくたい生産せいさん担当たんとうするようになると歩留ぶどまりががり、現場げんばでも整備せいび箇所かしょ整備せいび負担ふたんとなった。

なお、1945ねん3がつ初頭しょとう台湾たいわん来襲らいしゅうしたP-47のうち1たい中東ちゅうとう南方なんぽう不時着ふじちゃくし、20戦隊せんたい整備せいびいん点火てんかプラグかえって村岡むらおか戦隊せんたいちょうはやぶさ取付とりつけたところエンジンの調子ちょうし劇的げきてきくなったという[27]

上昇じょうしょうりょく[編集へんしゅう]

1,000馬力ばりききゅうながら機体きたい軽量けいりょうであるため上昇じょうしょうりょく良好りょうこうであり、数値すうちいちがたが5,000m/5ふん30びょうがたが5,000m/4ふん48びょう・8,000m/11ふん9びょうさんがたが5,000m/5ふん19びょう・8,000m/10ふん50びょうとなる。さんがた機体きたい重量じゅうりょうしたことから上昇じょうしょうりょくいちがたどう程度ていどとどまっている。

加速かそく性能せいのう[編集へんしゅう]

最大さいだい速度そくどでは連合れんごうぐん戦闘せんとう見劣みおとりしていた一式いっしきせんだが、機体きたいかるい、プロペラの直径ちょっけい比較的ひかくてきちいさい(効率こうりつひくいが加速かそく有利ゆうり等々とうとう理由りゆう低速ていそくいき加速かそくせいすぐれていた。連合れんごうぐんたたかえくんとして(一式いっしきせんは240km/hから400km/h程度ていどへの加速かそくはやいため)「低速ていそく飛行ひこうちゅう一式いっしきせん不用意ふようい接近せっきんするのは危険きけん」という認識にんしきっており[28]、その加速かそくせいは2,000馬力ばりききゅうのエンジンを搭載とうさいしたP-47にもおとらず、低空ていくうにおいてP-47がきゅう加速かそくした一式いっしきせんはなされたという事例じれい報告ほうこくされている。

ただし、がたさんがた改良かいりょうはされているものの降下こうかせい・「急降下きゅうこうかみ」はしきせんさんしきせんよんしきせん連合れんごう軍機ぐんきくらわるい。そのため、連合れんごうぐん戦闘せんとう空戦くうせん一式いっしきせん捕捉ほそくされた場合ばあい高速こうそく降下こうかにより戦闘せんとう離脱りだつするというせんくん確立かくりつしていた[28]。また機体きたい構造こうぞう強化きょうかされていないいちがたとく初期しょき生産せいさんがたはそのかるさと脆弱ぜいじゃくせいゆえに急降下きゅうこうか加速かそくたいする機体きたい剛性ごうせいおとり、これがおおきな弱点じゃくてんとなっていた。

なお、ふる日本にっぽん陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたいフランス陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたい指導しどうあおアンリ・ファルマンはじまるフランス当時とうじ導入どうにゅうしていたことから、キ43増加ぞうか試作しさくまでの陸軍りくぐんのスロットルレバー(ガス槓桿)の操作そうさ方法ほうほうはフランスしきの「ひらくし閉」であったが、キ43増加ぞうか試作しさく4号機ごうきより世界せかいてきには主流しゅりゅうである(イギリス・ドイツ・アメリカしき)「ひらくき閉」に変更へんこうされ、制式せいしきたる一式いっしきせん以降いこう陸軍りくぐんはこの操作そうさとなった。これにより、当初とうしょ陸軍りくぐんおなじくフランスぐんならいながらも途中とちゅうでイギリス空軍くうぐんはんった日本にっぽん海軍かいぐん航空こうくう部隊ぶたい海軍かいぐんどう方法ほうほう統一とういつされている(「陸軍りくぐん海軍かいぐんではスロットルの操作そうさ方向ほうこうことなる」という表現ひょうげん適当てきとうなのはあくまで陸軍りくぐん制式せいしき戦闘せんとうとしてはきゅうななせんまでである)。[ちゅう 7]

運動うんどう性能せいのう[編集へんしゅう]

連合れんごうぐん鹵獲ろかくされた一式いっしきせんいちがたへい(キ43-Iへい

一式いっしきせんは1,000馬力ばりききゅうエンジンを装備そうびした戦闘せんとうとしては非常ひじょう軽快けいかい運動うんどうせいっていた。しかし、試作しさく最大さいだい速度そくどきゅうななせんとさほどがなかったことから、旋回せんかいせいについてもきゅうななせん同等どうとう以上いじょう確保かくほ要求ようきゅうされたため、キ44よう開発かいはつされたちょうがたフラップ(そらりょくはんとしてこれらの研究けんきゅう開発かいはつたずさわっていたのが糸川いとかわ技師ぎし)が装備そうびされた。このフラップは戦闘せんとうフラップ(空戦くうせんフラップ)としても使用しようすることが可能かのうで、旋回せんかい半径はんけいちいさくするのに効果こうかてきであったがあつかいがむずかしいため、熟練じゅくれんしゃでなければ実戦じっせん上手うま活用かつようすることはむずかしかったとされている。鹵獲ろかく一式いっしきせんをテストした連合れんごうぐん旋回せんかいせいたいして「とくに"戦闘せんとうフラップ"を使用しようしたときの旋回せんかい能力のうりょくはきわめてたかく、れいせんまさる」と評価ひょうかしている[28]先述せんじゅつとおり、きゅうななせんとの比較ひかくについてはのちに戦闘せんとうフラップを使用しようしなくとも、水平すいへい方向ほうこうでなく垂直すいちょく方向ほうこう格闘かくとうせんむことで圧倒あっとう可能かのう判断はんだんされている。一式いっしきせんいちがたつばさめん荷重かじゅうは102kg/m²、がたは117kg/m²、しきせんいちがたは171kg/m²、Bf109-Eは170kg/m²であり、一式いっしきせん数値すうちぐんいている[29]。ちなみにれいせんいちがたは107.89 kg/m²、F4Fは115kg/m²、スピットファイア Mk. IXeは149 kg/m²であり、各国かっこく戦闘せんとう設計せっけい思想しそうがうかがえる[30]

操縦そうじゅうせい安定あんていせいもきわめてたかく、機体きたい構造こうぞう強化きょうかされて以降いこう危険きけん飛行ひこう特性とくせいくなり、離着陸りちゃくりく操縦そうじゅうせい失速しっそく特性とくせい良好りょうこうであった。

連合れんごうぐん一式いっしきせんてい高度こうど低速ていそくいきにおける運動うんどうせい加速かそくせいたかさを脅威きょういなしており、そのため「格闘かくとうせん一撃いちげき離脱りだつ戦法せんぽう徹底てってい」「速力そくりょくこう高度こうど性能せいのうかし高速こうそくこう高度こうど維持いじする」「一式いっしきせん不得意ふとくい急降下きゅうこうかによる離脱りだつ」といった対策たいさくこころがけるようになっていった。以下いか一式いっしきせん対峙たいじした連合れんごうぐん戦闘せんとう操縦そうじゅうしゃ発言はつげんである[31]

欧州おうしゅうからたばかりのパイロットは、01(ゼロワン。一式いっしきせんのこと)やゼロビルマ方面ほうめん連合れんごうぐん一式いっしきせんれいせん誤認ごにんしているためこのゼロとはれいせんではなく一式いっしきせんのこと)との格闘かくとうせんこころみるのはににくのと同然どうぜんだ、という教訓きょうくんあたまはたきこまれた。軽量けいりょう日本にっぽん軽快けいかい運動うんどうせいち、べいぐん英軍えいぐんのどの戦闘せんとうたたかっても内側うちがわまわんでくる。後略こうりゃく
ここでの戦闘せんとう戦術せんじゅつドイツ空軍くうぐん相手あいて戦術せんじゅつとまったくべつものだ。日本にっぽんひく高度こうど非常ひじょう運動うんどうせいたかい。中略ちゅうりゃく絶対ぜったいてい高度こうどでの低速ていそく格闘かくとうせんさそまれてはならない

— ビルマ航空こうくうせん一式いっしきせん交戦こうせんしたイギリス空軍くうぐん

前略ぜんりゃく格闘かくとうせん旋回せんかいせんはいったら一巻いっかんわりだ
だいいち格闘かくとうせんけねばならない。これにまれれば日本にっぽんたか運動うんどうせい発揮はっきし、きみはほとんどない — ニューギニア航空こうくうせんおも一式いっしきせん交戦こうせんしたアメリカぐん

がたさんがた改良かいりょうされているものの一式いっしきせん最大さいだい速度そくど連合れんごうぐん戦闘せんとう比較ひかくするとれつそくであり、さらに連合れんごうぐん大戦たいせん中期ちゅうき以降いこう初期しょきせんくんから一式いっしきせん得意とくいとする格闘かくとうせんいちげき離脱りだつ戦法せんぽう徹底てってい高性能こうせいのう無線むせんによる複数ふくすう連携れんけい対抗たいこうするようになった。大戦たいせんちゅう後期こうきには、基礎きそ工業こうぎょうりょく補給ほきゅう能力のうりょくひくさにより必要ひつよう機体きたいすう補充ほじゅう操縦そうじゅうしゃ物資ぶっし十分じゅうぶんそろえられなかった日本にっぽんぐん劣勢れっせいとなり、一式いっしきせんかぎらず日本にっぽん軍機ぐんき稼働かどうりつ低下ていかしていった。

だい59戦隊せんたい飛行ひこう隊長たいちょう南郷なんごう大尉たいいは1943ねん12月16にちせんばく連合れんごう40一式いっしきせん16さんしきせん18いち〇〇しきじゅう爆撃ばくげき「呑龍」6)によるマーカスみさき上陸じょうりく連合れんごうぐん攻撃こうげき任務にんむにおいてP-38 15交戦こうせんしたが、高空こうくうから急降下きゅうこうかいちげき離脱りだつおこなうP-38に5いち〇〇しきじゅうばく撃墜げきついされたことにたいし「P-38に翻弄ほんろうされ、もはや一式いっしきせん時代じだいにあらず」と日記にっきしるしており、600 km/hをえる高速こうそくいちげき離脱りだつ戦法せんぽうてっした場合ばあい対処たいしょむずかしいことが判明はんめいしている。なお、この空戦くうせんの2にちには再度さいどマーカスみさき南郷なんごう一式いっしきせんさんしきせん戦闘せんとう単独たんどくけい30出動しゅつどうして16のP-38と交戦こうせんし、運動うんどうせいかして2確実かくじつ撃墜げきついした結果けっか損失そんしつは1であった[32]

しかし、操縦そうじゅうしゃらは運動うんどうせい最大限さいだいげんしてだい戦中せんちゅう後期こうき劣勢れっせいでも一定いってい戦果せんかげていた(#ビルマ航空こうくうせん#インドシナ、マレー、インドネシア方面ほうめん#中国ちゅうごく航空こうくうせん)。とくばくげき護衛ごえいする戦闘せんとう護衛ごえい対象たいしょうからはなれられないため、実戦じっせんでは高度こうど維持いじいちげき離脱りだつ戦法せんぽう徹底てっていむずかしく、運動うんどうせいすぐれる一式いっしきせんあいだ格闘かくとうせんきずりまれたり、攻撃こうげき回避かいひされだん無駄むだちしぎた事例じれいもある。そういった大戦たいせん後期こうき一式いっしきせん特性とくせいを「とせないが、とされない」ともひょうされる[33]いちれいとして1944ねん7がつ5にち中国ちゅうごく戦線せんせんきゅうにて飛行ひこうだい48戦隊せんたい一式いっしきせんだい26戦闘せんとう飛行ひこうたいのP-51Bと交戦こうせんし1確実かくじつ撃墜げきつい(メイス中尉ちゅうい)。P-51B撃墜げきつい一式いっしきせんおおくは離脱りだつするも、ただのこったしょうこう出身しゅっしんのベテラン木村きむら増吉ますきち中尉ちゅういとされる1は8ものP-51と交戦こうせん一式いっしきせんたくみな機動きどう攻撃こうげき回避かいひしP-51ぜんぜんたまくしてもこれを撃墜げきついすることはできなかった。アメリカぐんはこの一式いっしきせん操縦そうじゅうしゃを「きゅうのエース」と名付なづけ、以降いこうどう方面ほうめんへの出撃しゅつげき警戒けいかいするようになった事例じれいがある(#中国ちゅうごく航空こうくうせん[34]

高度こうど性能せいのう[編集へんしゅう]

実用じつよう上昇じょうしょう限度げんどはカタログスペックでは10,000mに到達とうたつしていた。しかし戦闘せんとう搭載とうさいできるえきひやエンジンに2だん2そくスーパーチャージャー採用さいようし、7,000m以上いじょうでも安定あんていした性能せいのう発揮はっきする欧米おうべい戦闘せんとうたいし、日本にっぽんでは技術ぎじゅつてき制約せいやくから空冷くうれいに1だん2そくのスーパーチャージャーが限界げんかいであった。実戦じっせんでは5,000m付近ふきんから性能せいのう低下ていか報告ほうこくされ、利点りてんである運動うんどうせい加速かそくせい上昇じょうしょうりょく発揮はっきできなかった。またエンジンだけでなく無線むせんなどの装備そうび気温きおん影響えいきょうけやすく運用うんようじょう制限せいげんとなった。

以下いかは1943ねん4がつ10日とおかだい64戦隊せんたいだい1中隊ちゅうたい着任ちゃくにん、1944ねん3がつ16にち空戦くうせん負傷ふしょう内地ないち帰還きかんするまでビルマ航空こうくうせんたたかった伊藤いとう直之なおゆき大尉たいい発言はつげん抜粋ばっすいである[35]

前略ぜんりゃくはやぶさも5000m以下いかなら、てき互角ごかくにやれるけど、5000m以上いじょうになるとぐっと性能せいのう低下ていかするし、後略こうりゃく — もと陸軍りくぐん大尉たいい 伊藤いとう直之なおゆき

武装ぶそう[編集へんしゅう]

ホ103 一式いっしきじゅうななみりめーとる固定こてい機関きかんほう
一式いっしきせんいちがたおつ(キ43-Iおつ)ないしへい(キ43-Iへい)。ホ103とはちきゅうしきかわそう容易よういおこなえる

けい単座たんざ戦闘せんとうけいせん)」と定義ていぎされる一式いっしきせんは、「運用うんよう目的もくてきたい戦闘せんとう戦闘せんとうしぼることで武装ぶそう限定げんていとう軽量けいりょう可能かのうとし、てい出力しゅつりょくエンジンでも一定いってい性能せいのう確保かくほする」という思想しそうもと開発かいはつされたため、並行へいこう開発かいはつちゅうの「じゅう単座たんざ戦闘せんとうじゅうせん)」であるしきせんとはことなり、開発かいはつ当初とうしょ武装ぶそうは(7.7mm・7.92mmきゅう機関きかんじゅう軽装けいそうとされていた(#『陸軍りくぐん航空こうくう兵器へいき研究けんきゅう方針ほうしん)。当初とうしょはドイツせいMG17 7.92mm機関きかんじゅう国産こくさんがた予定よていされ、実際じっさい試作しさく1~3号機ごうきに2ていずつ搭載とうさいされていた。この機関きかんじゅう口径こうけいこそ従来じゅうらいの7.7mm機関きかんじゅう大差たいさないが、より発射はっしゃ速度そくど弾丸だんがん威力いりょくおおきい新型しんがたきゅうはちしき固定こてい機関きかんじゅう制式せいしき採用さいようとなった。ところが、使用しようするばね国産こくさん上手うまくいかずプロペラ同調どうちょうくるいがしょうじたため、4号機ごうき以降いこう増加ぞうか試作しさくいちがたきのえ(キ43-Iかぶと)には従来じゅうらいはちきゅうしき固定こてい機関きかんじゅう口径こうけい7.7mm)が機首きしゅに2てい装備そうびされた。

しかし1939ねん昭和しょうわ14ねん)、ノモンハン事件じけんせんくん欧米おうべい情勢じょうせい研究けんきゅうによって時流じりゅうった陸軍りくぐんはより威力いりょくおおきい口径こうけい12.7mmの機関きかんほう搭載とうさい模索もさくホ101ホ102ホ103ホ104の4種類しゅるい試作しさくはじまった。ホ102はしきじゅう爆撃ばくげきとしてイタリアより輸入ゆにゅうしたBR.20搭載とうさいSAFAT 12.7mm機関きかんじゅう国産こくさんがたで、増加ぞうか試作しさくの7号機ごうきと10号機ごうき搭載とうさいして試験しけんおこなわれた。ホ103は、アメリカM2 12.7mmじゅう機関きかんじゅう航空こうくう機関きかんじゅうがたであるAN/M2 12.7mm機関きかんじゅう(MG53-2)を参考さんこうに、ブレダSAFATの弾薬だんやくとう規格きかく(もともとはイギリスのヴィッカーズけい12.7mm×81SRだん。AN/M2 12.7mmは12.7mm×99だん使用しよう)に変更へんこう開発かいはつされたものであり、これは一式いっしきじゅうななみりめーとる固定こてい機関きかんほう一式いっしき固定こてい機関きかんほう)の名称めいしょう制式せいしき採用さいようされ、のちの陸軍りくぐん主力しゅりょく航空こうくう機関きかんほうとなる。なお、1936ねん昭和しょうわ11ねん)に陸軍りくぐんは「機関きかんほう」と「機関きかんじゅう」の区分くぶん改正かいせい、「ほう」に類似るいじした構造こうぞう機能きのうのものは「機関きかんほう」および「じゅう」に類似るいじした構造こうぞう機能きのうのものは「機関きかんじゅう」とすることとし、名称めいしょう制定せいていけられることとなっている(従来じゅうらい口径こうけい11mm以下いか一律いちりつに「機関きかんじゅう」と定義ていぎ)。そのため口径こうけい12.7mmでありながら後述こうじゅつ榴弾りゅうだんゆうするホ103は「機関きかんほう」とされた(反対はんたい榴弾りゅうだんゆうしないものの口径こうけい13.2mmで、かつては「機関きかんほう」であったきゅうしき車載しゃさいじゅうさんみりめーとる機関きかんほうしきじゅうさんみりめーとる高射こうしゃ機関きかんほうは、それぞれきゅうしき車載しゃさいじゅうさんみりめーとる機関きかんじゅう・ホしきじゅうさんみりめーとる高射こうしゃ機関きかんじゅうと「機関きかんじゅう」に改称かいしょう)。

一式いっしきせん開発かいはつちゅうだったホ103の生産せいさんにめどがついたことから機首きしゅ左側ひだりがわはちきゅうしきをホ103へかわそうすることになり、これは順次じゅんじほどこされいちがたおつ(キ43-Iおつ)としょうされた。太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせんまでにはすべてのだい一線いっせん最低さいていでも機首きしゅ右側みぎがわはちきゅうしきを1てい左側ひだりがわにホ103を1もん装備そうびいちがたおつとなっており、7.7mm(はちきゅうしき)2ていのみの一式いっしきせん実戦じっせんには事実じじつじょう投入とうにゅうされていない。はちきゅうしきとホ103の交換こうかん容易ようい可能かのうであるが、初期しょきのこの混成こんせい装備そうびおも理由りゆうはホ103は新鋭しんえい兵器へいきであるゆえにかず不足ふそくしており、信頼しんらいせい故障こしょう)も考慮こうりょしたためとされる[36]一方いっぽうで、太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせんまえ一式いっしきせん受領じゅりょうするだい64せん隊長たいちょう加藤かとう建夫たけお少佐しょうさは「自分じぶんがまずためし、いずれぜん機関きかんほう2もんにしたい」とこうほん上申じょうしんし、戦隊せんたいちょうたる自身じしん搭乗とうじょうにホ103を2もん装備そうびさせている[36]だい64せん隊長たいちょうとなるまえ加藤かとう少佐しょうさこう本部ほんぶいんであり、こうほん教育きょういく部員ぶいん時代じだいには性能せいのう不十分ふじゅうぶんなキ43自体じたい制式せいしき採用さいようや、重量じゅうりょうおもしん兵器へいきゆえに信頼しんらいせいにもおと機関きかんほう装備そうびにも反対はんたいしていたが、戦隊せんたいちょうとしてこうほんよりゆき冨美夫ふみお大尉たいいこうほん総務そうむ部員ぶいんとして一式いっしきせん採用さいようたずさわる。戦後せんご航空こうくう自衛隊じえいたいそらしょう)から一式いっしきせんへの機種きしゅ改変かいへんらされたさいには一切いっさい不平ふへいわず機体きたい研究けんきゅうはげみ、操縦そうじゅうしゃたちがホ103にたい信頼しんらいいだかせるように機体きたい受領じゅりょう時点じてんで2もん装備そうびとさせている[37]。のちのいちがたへい(キ43-Iへい)からは機首きしゅ2もんともホ103装備そうびとなるが、上述じょうじゅつとおりホ103(12.7mm)とはちきゅうしき(7.7mm)のかわそうだい一線いっせん飛行ひこう部隊ぶたいでも容易ようい実施じっし可能かのう作業さぎょうであり、だい64せん隊長たいちょう加藤かとう少佐しょうさのように開戦かいせんまえにはホ103 2もん装備そうび機体きたい存在そんざいしているため、おつへいといったものは便宜べんぎてき区別くべつぎない。

この写真は、主翼の機銃口を修正(軍機のため)した、零戦32型です。
ホ103を機首きしゅに2もん装備そうびする一式いっしきせんがた(キ43-II)。カウリング上部じょうぶ円形えんけい発射はっしゃこう

103は発射はっしゃ速度そくど良好りょうこうで、モデルとなったAN/M2 12.7mmにはない榴弾りゅうだん炸裂さくれつだん)であるマ103使用しよう可能かのうかつ、より小型こがた軽量けいりょうという長所ちょうしょがある一方いっぽうで、軽量けいりょうじゃく装弾そうだんのため威力いりょく有効ゆうこう射程しゃていおとるという短所たんしょもあった。初期しょきはマ103の機械きかいしき信管しんかん不具合ふぐあいにより、弾丸だんがん砲身ほうしんうち破裂はれつして機体きたい破損はそんするケース(腔発)が多発たはつしており、このため、初期しょきには砲身ほうしん鉄板てっぱんくことで腔発被害ひがいすこしでも軽減けいげんする措置そちがとられた。しかしながら、ホ103・マ103の量産りょうさん並行へいこうしてこれらの不具合ふぐあい徐々じょじょ改良かいりょうされていき、1943ねん後半こうはんには新型しんがたマ103(新型しんがただん)が実用じつようされ同年どうねんまつから早急そうきゅう実戦じっせん配備はいびされている。この新型しんがたマ103は陸軍りくぐんしん開発かいはつされた空気くうきしき信管しんかん使用しようすることにより暴発ぼうはつ事故じこ激減げきげん、かつ生産せいさん効率こうりつが(従来じゅうらい複雑ふくざつ機械きかいしき信管しんかんくらべ)8ばいがり、さらに信管しんかん機構きこう単純たんじゅんされたことにより弾丸だんがんにスペースができ炸薬さくやく増量ぞうりょうされたため火力かりょく増大ぞうだいした。当然とうぜんながら、大型おおがた重量じゅうりょうのある弾丸だんがん炸薬さくやくおよびそうやくりょうおお本格ほんかくてきな20mm榴弾りゅうだんくらべ、新型しんがたマ103といえど12.7mmだんにすぎないほん弾薬だんやくとう威力いりょくには限界げんかいがあるものの(こう威力いりょくのぞ陸軍りくぐんつづいてホ103をベースとする口径こうけい20mmのホ5 しきじゅうみりめーとる固定こてい機関きかんほう開発かいはつ採用さいようしている)、実戦じっせん新型しんがたマ103を使用しようする一式いっしきせん交戦こうせんしたアメリカ軍機ぐんき乗員じょういんは、その破壊はかいりょくから「20mmだん命中めいちゅうした」とよく誤認ごにん報告ほうこくしていることが確認かくにんできている[38]。1943ねん12月1にちラングーン飛来ひらいしたアメリカぐんせんばく連合れんごう82だい64戦隊せんたい中心ちゅうしんとする陸軍りくぐん戦闘せんとうたい迎撃げいげきし、指揮しきかんたるだい7ばくげき航空こうくうぐんだい493ばくげき飛行ひこう隊長たいちょうプランマー中佐ちゅうさだい308ばくげき航空こうくうぐん指揮しきかんオブライエン少佐しょうさ筆頭ひっとうに6B-24確実かくじつ撃墜げきついしているが(だい530戦闘せんとうばくげき飛行ひこうたいの1のP-51Aも確実かくじつ撃墜げきつい日本にっぽんがわ損失そんしつは2撃墜げきつい戦死せんし1めい)と5被弾ひだん損傷そんしょうあるいは不時着ふじちゃくまっている)、どう空戦くうせん初陣ういじんとなったのちのエース・池沢いけざわじゅうよんさん伍長ごちょうはこのころから新型しんがたマ103を使用しようはじめたと証言しょうげんしている[38]

一式いっしきせん搭載とうさいするホ103の装弾そうだんすうは1もんにつきけい270はつで、たましゅ基本きほんてき一式いっしき曳光とおるきのえだん弾薬だんやくとう・マ103・マ102(マ103とおなじマだんでありこちらは焼夷弾しょういだん)の3種類しゅるいかく割合わりあい1で使用しようしていた。

火力かりょく[編集へんしゅう]

「B-24撃墜げきついおう」「コンソリ撃墜げきついおう」のとおだい25戦隊せんたい活躍かつやくしただい2中隊ちゅうたいちょうたるエース、尾崎おざき中和ちゅうわ大尉たいい搭乗とうじょう一式いっしきせんがた(キ43-II)。部隊ぶたいマークとして白色はくしょくえんられた中隊ちゅうたいしょく赤色あかいろたい機体きたい番号ばんごうけた垂直すいちょく尾翼びよくに、「中隊ちゅうたいちょう標識ひょうしき」としてしろえんあかたい胴体どうたい後部こうぶえがいている

そら狙撃そげきへい」とばれたきゅうななせんよりさらたか射撃しゃげき安定あんていせい一式いっしきせんは、武装ぶそう搭載とうさいすうわりには命中めいちゅうりつがよかったとわれる。しかし、ラバウルやニューギニア、ビルマでB-17やB-24の4はつ大型おおがた爆撃ばくげき迎撃げいげきにあたっては、防弾ぼうだん装備そうびしつたかさやハリネズミ形容けいようされた旋回せんかい機関きかんじゅう防御ぼうぎょ砲火ほうかにより苦戦くせんいられるなど、設計せっけい想定そうていしていない大型おおがた爆撃ばくげき迎撃げいげきもちいるには火力かりょく不足ふそくであった。だい64せん隊長たいちょう加藤かとう中佐ちゅうさ撃墜げきついされたのも、火力かりょく不足ふそくおぎなうためにイギリス空軍くうぐんブレニム接近せっきんしすぎ、機体きたい引起ひきおことき腹部ふくぶさらしたことが原因げんいんひとつだったとされている。緒戦しょせんである南方みなかた作戦さくせんちゅうの1942ねん2がつ19にちだい59戦隊せんたいだい64戦隊せんたい一式いっしきせん協同きょうどうでB-17E 1確実かくじつ撃墜げきついしているが、防御ぼうぎょ砲火ほうかにより2撃墜げきついされている。

ただし一式いっしきせん火力かりょく大型おおがた爆撃ばくげきたい無力むりょくだったというわけではなく、日本にっぽん陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたい自体じたいばくげき攻撃こうげきれ、した「たい進攻しんこうげき」を実施じっしするようになると着実ちゃくじつ撃墜げきつい戦果せんか多数たすうげており、いちれいとして(りょうぐん損害そんがい報告ほうこくからの数字すうじ飛行ひこうだい25戦隊せんたい飛行ひこうだい33戦隊せんたい一式いっしきせんは1943ねん8がつかんこう迎撃げいげきせんなどでアメリカ陸軍りくぐんだい425ばくげき飛行ひこうたいのB-24にたいぜん上方かみがたぜん下方かほうからのはんこう攻撃こうげきこころみ、1かげつたぬ期間きかん損失そんしつ2たいし10確実かくじつ撃墜げきつい[39]、1943ねんまつ以降いこう上述じょうじゅつとお新型しんがたマ103が配備はいびされているため、信頼しんらいせいとともに一式いっしきせん火力かりょく従来じゅうらいよりしていることとなる。末期まっきにはB-17・B-24を凌駕りょうがするさい新鋭しんえいB-29たいしても一式いっしきせん戦果せんかのこしており、れいとして1944ねん11月5にちシンガポールのセレター軍港ぐんこう飛来ひらいした53のB-29をだい1野戦やせん補充ほじゅう飛行ひこうたいだい17錬成れんせい飛行ひこうたい一式いっしきせん15迎撃げいげき損失そんしつ1たい最高さいこう指揮しきかんたるだい468ちょうじゅうばくげき航空こうくうぐん指揮しきかんテッド・フォールカー大佐たいさ1確実かくじつ撃墜げきついした[40]誤認ごにんによる事故じこであるが、陸軍りくぐんことなり防弾ぼうだん装備そうび皆無かいむである海軍かいぐんきゅうろくしき陸上りくじょう攻撃こうげきみぎエンジンにみじか連射れんしゃびせただけで空中くうちゅう爆発ばくはつさせ、撃墜げきついしてしまった「実績じっせき」もある[41]

連合れんごう軍機ぐんきとの火力かりょくめようにも主翼しゅよくつばさじゅうつばさほう搭載とうさいかないさんけた構造こうぞうであったため、搭載とうさいするには主翼しゅよく構造こうぞう自体じたいさい設計せっけいして変更へんこうせざるをず、あらたな生産せいさんラインをつく手間てま時間じかん必要ひつようだった。また中島なかじまにおいては、より高速こうそく12.7mm40mmつばさほうしきせんや、20mmほう装備そうびする後続こうぞくたるよんしきせん開発かいはつ配備はいびすすんでいたためか、一式いっしきせんへのつばさ銃砲じゅうほう装備そうび見送みおくられた。ばや武装ぶそう強化きょうかとして主翼しゅよくへのガンポッド装備そうび検討けんとうされたが、飛行ひこう性能せいのう低下ていかすることからこれも見送みおくられている。ホ103の拡大かくだいがたでありよんしきせんなどに装備そうびされていた口径こうけい20mmのホ5 しきじゅうみりめーとる固定こてい機関きかんほう搭載とうさいしたキ43-IIIおつ試作しさくされたが制式せいしきにはいたらなかった。キ43-IIIおつ採用さいよう経緯けいいについては従来じゅうらいかたられてきた機体きたい性能せいのう低下ていかではなく(上昇じょうしょうりょく上昇じょうしょう限度げんどはキ43-IIIかぶとよりわずかにおとるものの急降下きゅうこうか性能せいのう向上こうじょう)、すでにキ43-IIIかぶとよう発動はつどう大量たいりょう用意よういされていたためとされる。

防弾ぼうだん装備そうび[編集へんしゅう]

一式いっしきせんは1939ねん試作しさく段階だんかいから陸軍りくぐん指示しじにより、被弾ひだん燃料ねんりょうれによる火災かさいふせぐため、燃料ねんりょうタンクの外装がいそううす積層せきそうゴム(3そう)・きぬフェルト絹布けんぷつつんだ7.7mmだん対応たいおうセルフシーリングしき防弾ぼうだんタンクぼうタンク防火ぼうかタンク自動じどうぼうしきタンクとも)をゆうしており、これは制式せいしきされたのちのいちがたぜん装備そうびしている。改良かいりょうがたがたでは、燃料ねんりょう容量ようりょう36lげんえにたいだん防火ぼうかせいすぐれ12.7mmだん対応たいおうする、こう技研ぎけんだい2開発かいはつの13mmあつ積層せきそうゴム(外装がいそうしき3そう)の新型しんがた防弾ぼうだんタンクかわそう。かつ、がたは1943ねん6がつよりの量産りょうさんがた中島なかじませい5580号機ごうきより)からは操縦そうじゅうしゃ頭部とうぶ上半身じょうはんしん保護ほごするため、操縦そうじゅうせき後部こうぶに13mmあつし合計ごうけい3まい合計ごうけい重量じゅうりょう48kgの防弾ぼうだん鋼板こうはんぼうだて鋼板こうはん。12.7mmだん対応たいおう)を追加ついか装備そうびした。実戦じっせん配備はいびいちれいとして、だい64戦隊せんたいは1943ねん7がつ19にち時点じてんでこの防弾ぼうだん鋼板こうはん装備そうびがた補充ほじゅうとして受領じゅりょうしている[42]

帝国ていこく陸軍りくぐん欧米おうべい情勢じょうせい研究けんきゅう、およびソ連それんぐん相手あいてとしたノモンハン事件じけんせんくんによって海軍かいぐんことなり防弾ぼうだん装備そうび重要じゅうようせい痛感つうかんしており、一式いっしきせんしきせんといった次期じき主力しゅりょく戦闘せんとうのみならず、きゅうななしきじゅう爆撃ばくげき(キ21、1939ねん中頃なかごろ初期しょき量産りょうさんがたいちがたおつ時点じてん燃料ねんりょうおよび潤滑油じゅんかつゆタンクを積層せきそうゴムとうによる防弾ぼうだんタンクずみ。1943ねん中頃なかごろがたおつからはさらに操縦そうじゅうせきこう上方かみがた砲塔ほうとう16mmじゅうろくみりあつ防弾ぼうだん鋼板こうはん・70mmあつ防弾ぼうだんガラス追加ついか防弾ぼうだんタンクは16mmじゅうろくみりあつ積層せきそうゴムにかわそう自動じどう消火しょうか装置そうち装備そうび)や、きゅうきゅうしき襲撃しゅうげき(キ51、1939ねん試作しさく時点じてんから防弾ぼうだんタンクおよび、エンジン下面かめん操縦そうじゅうせき下面かめん操縦そうじゅうせき背面はいめん胴体どうたい下面かめん中央ちゅうおう翼下よくかめんに6mmあつ防弾ぼうだん鋼板こうはん装備そうび)といった主力しゅりょくじゅう爆撃ばくげき襲撃しゅうげき攻撃こうげき)でも早々そうそうから相応そうおう防弾ぼうだん装備そうび要求ようきゅう採用さいようしている。後継こうけい主力しゅりょく戦闘せんとうであるよんしきせんでは、新型しんがた防弾ぼうだんタンク・13mmあつ防弾ぼうだん鋼板こうはんくわ風防ふうぼう前面ぜんめんに70mmあつ防弾ぼうだんガラス追加ついかげきたれつよ機体きたいとなっている。

これら防弾ぼうだん装備そうび考慮こうりょされていた一式いっしきせんであっても、どう世代せだい欧米おうべい装備そうび防弾ぼうだんタンクは効果こうかもっとすぐれる内装ないそうしき防弾ぼうだん鋼板こうはん操縦そうじゅうせき後部こうぶかぎらず前部ぜんぶとうにも取付とりつけ前後ぜんご防弾ぼうだんガラスとう)にはおとっていたが、防弾ぼうだんタンク・防弾ぼうだん鋼板こうはんわせて一定いってい効果こうか発揮はっきされた。

防弾ぼうだんタンク[編集へんしゅう]

7.7mmだん対応たいおう防弾ぼうだんタンクをいちがたをもって、7.7mm機関きかんじゅう.303ブリティッシュだん仕様しようブローニング Mk.2装備そうびのハリケーンやB-339けい(F2A バッファロー)交戦こうせんした開戦かいせん劈頭へきとうだい59戦隊せんたいだい64戦隊せんたいでは、一式いっしきせんいちがた)の防弾ぼうだん十分じゅうぶん効果こうかがあったと判定はんていされている。戦隊せんたい新鋭しんえい一式いっしきせん戦況せんきょうについて内地ないち多数たすう報告ほうこくしているが、そのなかには「防弾ぼうだんタンク効果こうかあり」の一文いちぶん存在そんざいしている。

二型にがた採用さいようされた12.7mmだん対応たいおう防弾ぼうだんタンクにおいても、相応そうおう実用じつようせい確認かくにんされている。こう技研ぎけんだい2防弾ぼうだん装備そうび研究けんきゅう開発かいはつにあたっていた今村いまむら和男かずおこうわざ中尉ちゅうい[ちゅう 8]は、鹵獲ろかくしたB-17Dを参考さんこうにして12.7mmだん対応たいおう新型しんがた防弾ぼうだんタンクを実用じつようする。合成ごうせいゴムのネオプレン使用しようしたアメリカ軍機ぐんき内装ないそうしき技術ぎじゅつてき制約せいやくから日本にっぽんでは製造せいぞうできないため、天然てんねんゴムをタンク外側そとがわった外装がいそうしきとし、肝心かんじんたい弾性だんせいかんしては研究けんきゅう結果けっか、ゴムにくわえる硫黄いおうりょうらすことでゴムはけずにふくらみけて被弾ひだんしたふさぐことに成功せいこうし、この外装がいそうしきでもたい12.7mmだんなら一応いちおうちこたえる能力のうりょく発揮はっきした。この新型しんがた防弾ぼうだんタンクについてはだい一線いっせん部隊ぶたいから感謝かんしゃ電報でんぽうおくられたうえ、今村いまむら中尉ちゅういこう技研ぎけんだい2開発かいはつじんにはだい2ごうとなる陸軍りくぐん技術ぎじゅつ有功ゆうこうあきら陸軍りくぐん大臣だいじんから授与じゅよされた(授与じゅよだい1ごう三菱みつびしいち〇〇しき開発かいはつじん[44]

防弾ぼうだん鋼板こうはん[編集へんしゅう]

防弾ぼうだん鋼板こうはん効力こうりょくかんしては、1943ねん10がつだい64戦隊せんたい着任ちゃくにん以後いご敗戦はいせんまでがたさんがた搭乗とうじょうだい一線いっせんたたかった池田いけだ昌弘まさひろ軍曹ぐんそう陸軍りくぐん少年しょうねん飛行ひこうへい11そう飛行ひこう時間じかん1,300あいだ)による以下いか証言しょうげんがある。池田いけだ軍曹ぐんそう証言しょうげんでは頭部とうぶ鋼板こうはんは8mmあつ2まいけい16mmじゅうろくみりあつとなっている[45]。なお、P-38はAN/M2 20mm機関きかんほう1もんとAN/M2 12.7mm機関きかんじゅう4てい射撃しゃげき安定あんていせいすぐれる機首きしゅ集中しゅうちゅう装備そうびしたじゅう武装ぶそうである。

わたしはP38にやられたとき昭和しょうわ19ねん10がつ18にち防弾ぼうだんばん命拾いのちびろいしました。
中略ちゅうりゃくで、マウビ飛行場ひこうじょううえで、4つけて「こーら、しめた」とおもうて、攻撃こうげきしようとしたら、うしろからガガーンっとて、はじめてづいたんですよ。あたま防弾ぼうだんばんは8ミリが2まいになってるんです。それが、1まいは、んでしもうて、2まいれてました。そやから、防弾ぼうだんばんけとってかったわ。
づけちょうしょう8期生きせいが「駄目だめだぞ!これはずしちゃ」って、「なんなら、もう1まいけたろか」なんてね。スピードの5キロや、10キロの云々うんぬんするより、けとったほうみなのこったこととおもいますねェ。 — もと陸軍りくぐん軍曹ぐんそう 池田いけだ昌弘まさひろ

操縦そうじゅうしゃ所属しょぞくによっては、すこしでも搭乗とうじょう性能せいのう向上こうじょうさせるためおも嵩張かさば防弾ぼうだん鋼板こうはん意図いとてきはずされることもあった。また、後方こうほう警戒けいかいをしやすくするため頭部とうぶ鋼板こうはんのみはずし、背面はいめん鋼板こうはんのこされることもあった。上述じょうじゅつだい64戦隊せんたい池田いけだ軍曹ぐんそうは「わたしは防弾ぼうだん鋼板こうはんはずさなかった。づけちょうが、絶対ぜったい駄目だめだってはずしてくれへんのですよ。はずしてくれいうたことがあるんです。みんなはずしますからね。でも1中隊ちゅうたいはずさなかった。すみさんがいた3中隊ちゅうたいでは、みなってはずしとった」、「っても、そんなに(性能せいのうは)わらんとおもうんですけど。まァ、おもさにしたらかなり重量じゅうりょう(60キロ)あるから……、でも、はずしたから「そォら、スピードがった」いうことはなかったおもいますけど、気持きもちの問題もんだいやないですかね」とべている[46]

無線むせん[編集へんしゅう]

一式いっしきせんではそら対空たいくうそら対地たいち対空たいくう無線むせん電信でんしんおよび無線むせん電話でんわ通信つうしんようとして、いちがたきゅうろくしきさんごう無線むせんを、がた以降いこうきゅうきゅうしきさんごう無線むせん装備そうびしている(ないしさんがた一部いちぶ量産りょうさんがたよんしきせんとう装備そうびした出力しゅつりょく強化きょうかほか性能せいのう向上こうじょうがたであるム4 よんしきさんごう無線むせんかわそう)。「さんごう(とびさんごう)」は単発たんぱつ単座たんざ戦闘せんとう近距離きんきょりよう短波たんぱ無線むせん区分くぶんであり[ちゅう 9]きゅうきゅうしきさんごう無線むせん昼間ひるま最大さいだい通信つうしん距離きょり高度こうどやく3,000mで半径はんけい100kmきょうとなる。一式いっしきせん空中線くうちゅうせん支柱しちゅう機首きしゅぜん上部じょうぶのエンジン後部こうぶ操縦そうじゅうせきからみぎ前方ぜんぽう位置いちしケーブルじょう空中線くうちゅうせん(アンテナ)は垂直すいちょく尾翼びよく上端じょうたんにかけてられている。

当時とうじ日本にっぽん工業こうぎょうりょくひくさにより兵器へいき全般ぜんぱん品質ひんしつ安定あんていせず、単発たんぱつ単座たんざ戦闘せんとう安定あんていした通信つうしん可能かのう小型こがた無線むせん連携れんけいっていた欧米おうべいにはおよばず、エンジンの点火てんか系統けいとう工作こうさく精度せいどひく機体きたい結合けつごうから発生はっせいするノイズの遮断しゃだん不足ふそく不良ふりょうによる雑音ざつおん混入こんにゅう問題もんだいすら解決かいけつできないため、近距離きんきょりでなんとかききとれる程度ていど性能せいのう限界げんかいであった。さらには戦地せんち劣悪れつあく環境かんきょう部品ぶひん補給ほきゅう不足ふそく用兵ようへいがわ意識いしきひくさ、傍受ぼうじゅされるのをふせぐため進攻しんこうには無線むせんふうとめおこな受信じゅしんのみとするなど、運用うんようじょう制約せいやくかさなり連携れんけいることもむずかしかった。

陸軍りくぐん一式いっしきせんなどの機体きたい開発かいはつにあたってノイズ遮断しゃだんとう対策たいさくつとめ、後述こうじゅつ証言しょうげん実例じつれいのように(開戦かいせん初期しょき南方なんぽう作戦さくせんにおいても)けっして不通ふつうなものではなかったものの、総合そうごうてきには満足まんぞくできるものではなく「使つかえなかった」とひょうする操縦そうじゅうしゃおおい。そのため信号しんごう主翼しゅよくる、無線むせん電信でんしんモールス信号しんごう)で代用だいようするといった行為こうい意思いし疎通そつうおこなわれることがおおかった。大戦たいせん後半こうはん当時とうじだい64戦隊せんたい通信つうしん将校しょうこうであった会沢あいざわ輝男てるお中尉ちゅういは「とにかくあつところだからね。地上ちじょうではではれないくらいあつくなってるのに、そらがると急激きゅうげきえる。だから地上ちじょうではよくこえるように調整ちょうせいしても、がるとこえなくなっちゃう。操縦そうじゅうしゃがよく調整ちょうせいすればこえるんだけど、いのちがけでたたかってる最中さいちゅうにそこまではできない。モールス信号しんごうにしたりとか、色々いろいろ工夫くふうはしたんだけど、訓練くんれんではうまくいっても実戦じっせんでは使つかえなかった。中隊ちゅうたいちょうなかには使つかっていたひともいるみたいだけどね」と[47]一方いっぽうどう時期じきだい64戦隊せんたいだい2中隊ちゅうたい整備せいび班長はんちょうであった上田うえだあつし中尉ちゅういは「無線むせん使つかえないとわれて、会沢あいざわさんなんかの通信つうしん将校しょうこう口惜くやしいおもいをしたはずですよ。加藤かとう戦隊せんたいちょう直接ちょくせつつかえた中隊ちゅうたいちょう黒江くろえさんだとか、大谷おおやさん、丸尾まるおさんなんかは、戦隊せんたいちょう電話でんわ使つかっているのを直接ちょくせついてましたからね。けっこう使つかいましたよ。ただ戦隊せんたいちょう使つかいませんからね。戦隊せんたいちょう使つかわなかったら、だれ使つかわないですよ。加藤かとう戦隊せんたいちょうというのは陸軍りくぐん大学だいがくでシステムとしての空軍くうぐん研究けんきゅうしていました。戦闘せんとうばくげき掩護えんごすることが最高さいこう使命しめいだとかね。航空こうくう無線むせん活用かつよう熱心ねっしんだったんです」とべている[48]

地上ちじょうとの無線むせん電話でんわについては、万全ばんぜんではないものの地上ちじょう基地きち対空たいくう無線むせん機上きじょう無線むせんことなりだか出力しゅつりょくであることから受信じゅしん小型こがた無線むせんでも比較的ひかくてき容易よういであった。1943ねん4がつ10日とおかだい64戦隊せんたいだい1中隊ちゅうたい着任ちゃくにんし1944ねん3がつ16にちまでビルマ航空こうくうせん従軍じゅうぐんしていた伊藤いとう直之なおゆき大尉たいいは「日本にっぽん無線むせんは、基地きちうえならどうにかこえるけど、すこはなれたらこえない。それから、無線むせん使つかうとてき傍受ぼうじゅされちゃうっていうんで、進攻しんこうのときは無線むせんふうとまっていって、無線むせん受信じゅしんにしといて発信はっしんはしないしね」と[49]、1943ねん12がつ当時とうじ若手わかて操縦そうじゅうしゃであっただい64戦隊せんたい池田いけだ昌弘まさひろ兵長へいちょうは「(前略ぜんりゃくてき情報じょうほうはピストに電話でんわはいるんやけど、普通ふつう電話でんわまえ本部ほんぶでサイレンをらすんですわ。そうすると、整備せいびはエンジンをまわす、空中くうちゅう勤務きんむしゃ我先われさきにと飛行機ひこうきかってはしす。電話でんわ来襲らいしゅう方向ほうこうとか機種きしゅとかの情報じょうほうるんですが、たいがいはそれをまえはししちゃって。はやぶさ無線むせん基地きちうえならようこえましたから、まずがってから、どっちへかってべばいいのかいたわけです後略こうりゃく)」[50]#陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたい早期そうき警戒けいかい体制たいせい)とべており、基地きち上空じょうくう指示しじ受信じゅしんするという限定げんていてき運用うんよう主流しゅりゅうであった。

一方いっぽうで、だい一線いっせん飛行ひこう部隊ぶたいでは一式いっしきせんそら対空たいくうそら対地たいち無線むせん電話でんわ効果こうかてき利用りようしていた事例じれい多々たた存在そんざいする(黒江くろえ (2003)、梅本うめもと (2002a)、梅本うめもと (2010a))。

  • そら対空たいくう
    • 1942ねん11がつ10日とおか - アキャブへ入港にゅうこうする輸送ゆそうせん上空じょうくう掩護えんごのためだい64戦隊せんたいだい3せいそらたいだい2中隊ちゅうたいちょう丸尾まるお晴康はるやす大尉たいい以下いか6)は、輸送ゆそうせんおよびドック攻撃こうげき飛来ひらいしてきたイギリス空軍くうぐんせんばく連合れんごう同地どうちおき上空じょうくう交戦こうせん。このだい3せいそらたい交替こうたいするため、アキャブからすうじゅうkmはなれた位置いちアラカン山系さんけい上空じょうくう飛行ひこうちゅうだい4せいそらたいだい3中隊ちゅうたいちょう黒江くろえ保彦やすひこ大尉たいい以下いか6黒江くろえ大尉たいい無線むせんに「てき発見はっけん攻撃こうげきてき合計ごうけい20小型こがたもまじっている。注意ちゅういしろ……」と入電にゅうでん黒江くろえ編隊へんたいはスロットルをぞうそく。さらにだい2中隊ちゅうたいちょう丸尾まるお大尉たいいらしいこえで「みぎだ、みぎのヤツをやっつけろ、オレはブレニムを攻撃こうげきする……」、「をつけろ、うえにも小型こがた……」と入電にゅうでん、これら「興奮こうふんした無線むせん怒鳴どない」をいた黒江くろえ編隊へんたい急行きゅうこう
      • だい4せいそらたいだい5せいそらたい高橋たかはし俊二しゅんじ中尉ちゅういほか)と交替こうたい編隊へんたいがマグエ飛行場ひこうじょう帰着きちゃく間際まぎわだい5せいそらたい再度さいど飛来ひらいしてきたせんばく連合れんごう交戦こうせんし、黒江くろえ大尉たいい無線むせんには「アメリカ、アメリカ、アメリカ!」、「いつけ!いつけ!」という高橋たかはし中尉ちゅういがブレニムへの突撃とつげきめいずるこえはいった[51][52]
    • 1942ねん12月5にち - だい64戦隊せんたいだい1中隊ちゅうたいちょう大谷おおやえきづくり大尉たいいがイギリス空軍くうぐんだい155飛行ひこうたいモホークとの空戦くうせん撃墜げきついされたさい大谷おおや大尉たいいは「バンザーイ。バンザーイ……サヨウナラ、サヨウナラ…」とのこえだい64戦隊せんたい長明ちょうめいらく少佐しょうさ無線むせんのこ墜落ついらく自爆じばく[53]
    • 1943ねん2がつ25にち - だい64戦隊せんたい飛行ひこうだい98戦隊せんたいきゅうななじゅうばく掩護えんごチンスキア攻撃こうげき黒江くろえ大尉たいいげん大尉たいいきゅうななじゅうばく)をちょく掩するもはら大尉たいいはすでに被弾ひだんしていたために高度こうど低下ていかし、そのさいに「戦闘せんとう掩護えんご苦労くろうサン、苦労くろうサン、アリガトウ……アリガトウ……」、「アリガトウ……アリガトウ……」とのこえ黒江くろえ大尉たいい無線むせんはっしつつ墜落ついらく自爆じばく[54]
  • そら対地たいち
    • 1943ねん3がつ6にち - 飛行ひこう団長だんちょういのちだい64戦隊せんたいはアキャブ前線ぜんせん対地たいち攻撃こうげきのため黒江くろえ大尉たいい以下いか11ミンガラドン基地きち出撃しゅつげき黒江くろえ大尉たいいはミンガラドン基地きち無線むせん電話でんわ通信つうしんしつつ飛行ひこうちゅう、(戦闘せんとうたい酷使こくしいまし飛行ひこう団長だんちょう命令めいれい撤回てっかいする飛行ひこう団長だんちょう命令めいれいである)「攻撃こうげきめてかえれ。帰還きかんせよ」との入電にゅうでんくも、無線むせん電話でんわこえなかったことにして任務にんむ続行ぞっこう[55]
    • 1943ねん9がつ15にち - ふつしるしハイフォン飛来ひらいしたアメリカ陸軍りくぐん航空こうくうぐんだい308ばくげき航空こうくうぐんのB-24 5を、だい25戦隊せんたいだい2中隊ちゅうたいだい3中隊ちゅうたいだい33戦隊せんたい一式いっしきせん地上ちじょうからの無線むせん電話でんわ誘導ゆうどうによって的確てきかくにこれを邀撃ようげき。2喪失そうしつするもB-24 4確実かくじつ撃墜げきついだい373ばくげき飛行ひこうたい[56]
    • 1943ねん11月27にち - アメリカ陸軍りくぐんせんばく連合れんごう84だい64戦隊せんたいだい3中隊ちゅうたい一式いっしきせん8しきせん1しきせん戦力せんりょく補充ほじゅうのためおくられていたものでだい64戦隊せんたい極少きょくしょうすう保有ほゆう)は、電波でんぱ警戒けいかい陸軍りくぐん実用じつようレーダーであるちょう短波たんぱ警戒けいかいおつ)と対空たいくう監視かんし哨の情報じょうほうをもとに地上ちじょうからの無線むせん電話でんわ誘導ゆうどうにより有利ゆうり位置いち邀撃ようげき黒江くろえ大尉たいいはミンガラドン基地きち無線むせん電話でんわ頻繁ひんぱん通信つうしん次々つぎつぎ電波でんぱ警戒けいかいによるてき情報じょうほう受信じゅしん[57])。一式いっしきせん1しきせん1喪失そうしつするも、すう圧倒的あっとうてきおとるこの状況じょうきょうでP-51A 4だい530戦闘せんとうばくげき飛行ひこうたいブリッグス中尉ちゅうい・ウィルマー中尉ちゅうい・グレイ中尉ちゅうい・ホーガン中尉ちゅうい)・P-38H 2だい459戦闘せんとう飛行ひこうたいオーメイヤー大尉たいい・ハーラン中尉ちゅうい)・B-24 3だい308ばくげき航空こうくうぐんピッカード中尉ちゅうい・ケラム少尉しょういだい7ばくげき航空こうくうぐんマレイ中尉ちゅうい)のけい戦闘せんとう6ばくげき3確実かくじつ撃墜げきついすう確実かくじつ撃破げきは[58]
    • 1944ねん1がつ中旬ちゅうじゅん - だい64戦隊せんたい黒江くろえ大尉たいい転属てんぞく命令めいれいけミンガラドン基地きち訓練くんれんよう一式いっしきせんにて出発しゅっぱつ、タイのバンコク飛行ひこう道中どうちゅう無線むせん電話でんわのスイッチを基地きち対空たいくう無線むせん整備せいび隊長たいちょう中尾なかお国弘くにひろ大尉たいい交信こうしん(「クロエ、クロエ、こちらは、ナカオ、ナカオ、さようなら、お元気げんきで、ながいあいだ、苦労くろうさまでした……」、「ナカオ、ナカオ、こちらは、クロエ、クロエ。ありがとう、ありがとう。では、さようなら、さようなら、あとをしっかりおねがいします……」)。イラワジがわえタイ国境こっきょう山々やまやまにかかるころまでも無線むせん電話でんわはかすかにかえす「さようなら」の言葉ことば受信じゅしん黒江くろえ大尉たいいもまた「さようなら」の言葉ことば送信そうしん[59]
    • 1944ねん10がつ18にち - ラングーンにべいえいせんばく連合れんごうだい編隊へんたい飛来ひらい飛行場ひこうじょう上空じょうくうだい混戦こんせんとなり、地上ちじょうだい64戦隊せんたい飛行ひこう隊長たいちょうみや英夫ひでお大尉たいい対空たいくう無線むせん電話でんわ上空じょうくう西尾にしお伍長ごちょうに「うしろをろ!」と連呼れんこしたが西尾にしお撃墜げきついされ、地上ちじょう収容しゅうようされた西尾にしお伍長ごちょう搬送はんそうさき病院びょういんで「うしろをたんですけどねえ」といいのこ戦死せんし[60]
  • そら対空たいくうそら対地たいち
    • 1944ねん12月18にちかんこうにアメリカ陸軍りくぐんせんばく連合れんごうだい編隊へんたい飛来ひらい。『(邀撃ようげきしただい25戦隊せんたい一式いっしきせんのうち、ちょう大竹おおたけ久四郎きゅうしろう准尉じゅんいと僚機・中村なかむらたかしすけ軍曹ぐんそうは)45上昇じょうしょう角度かくど高度こうど5000mにたっしたとき、P-51とせってき大竹おおたけ准尉じゅんいは「中村なかむらるぞ!」とさけび、垂直すいちょく旋回せんかい中村なかむら軍曹ぐんそうがそれにつづく。後方こうほう曳光弾えいこうだんあか火箭かせんはしっていった。「前方ぜんぽうに2、2」「後方こうほう後方こうほう、4だ!だれ警告けいこくをしているのか、地上ちじょう対空たいくう無線むせんこえがひっきりなしにはいってきた』[61]

戦闘せんとう爆撃ばくげき[編集へんしゅう]

駆逐くちくかん「パスファインダー」

一式いっしきせんりょう翼下よくか最大さいだい250kgばくだんを1はつずつ懸架けんかないし落下らっかタンクとの併用へいよう可能かのうであった。しかし大型おおがたばくだん搭載とうさいした場合ばあい飛行ひこう性能せいのう大幅おおはば低下ていか最大さいだい利点りてんである運動うんどう性能せいのう犠牲ぎせいになるほかあし強度きょうど不十分ふじゅうぶんであるため離着陸りちゃくりく注意ちゅうい必要ひつようであるなど運用うんようじょう制限せいげん存在そんざいした。

おも大戦たいせん中期ちゅうき以降いこうには飛行ひこう分科ぶんか戦闘せんとう」の部隊ぶたいにおいて、一式いっしきせん一式いっしきせんかぎらずさんしきせんよんしきせんしきふくせん)といった陸軍りくぐん戦闘せんとう通常つうじょうばくだんだんクラスターばくだん)・だん焼夷弾しょういだん)を搭載とうさいした戦闘せんとう爆撃ばくげきとして対地たいちおよびたいかん攻撃こうげき積極せっきょくてき使用しようされている。

さらに飛行ひこうだい31戦隊せんたい飛行ひこうだい65戦隊せんたいなどの飛行ひこう分科ぶんか襲撃しゅうげき」の部隊ぶたいは「ばくそう一式いっしきせん」に機種きしゅ改変かいへん爆撃ばくげき襲撃しゅうげき任務にんむ投入とうにゅうされている。とく沖縄おきなわせん従軍じゅうぐんだい65戦隊せんたい整備せいびたい考案こうあんしたチャフ散布さんぷ装置そうちかく装備そうびさせる、ちょう低空ていくう飛行ひこうおこなうなどし沖縄おきなわ近海きんかい連合れんごうぐん艦船かんせん制圧せいあつ地上ちじょう施設しせつたい通常つうじょう攻撃こうげき戦果せんかげた。

だい64戦隊せんたいばくそう一式いっしきせんによるたいかん攻撃こうげき確実かくじつ戦果せんかいちれいとして、1945ねん2がつ11にちラムリーとうたたかにおいてイギリス海軍かいぐん艦艇かんてい攻撃こうげき出撃しゅつげきした12のうち、池沢いけざわ軍曹ぐんそうと僚機の池田いけだ軍曹ぐんそうの2が2,200tきゅう駆逐くちくかんパスファインダー」に急降下きゅうこうか爆撃ばくげき敢行かんこうかんに2はつ直撃ちょくげきだんあた大破たいはさせている[14]。「パスファインダー」は戦線せんせん離脱りだつしイギリス本国ほんごく曳航えいこうされたものの、損傷そんしょうはげしく戦後せんごはいかんとなっているため事実じじつじょう戦没せんぼつであった。

また輸送ゆそう船団せんだん掩護えんごに、本来ほんらい想定そうていされていない任務にんむであるが小型こがたばくだん装備そうびしてのたいせん哨戒しょうかいとしても運用うんようされている。1944ねん10がつ以降いこうのフィリピン防衛ぼうえいせんでは、一式いっしきせん装備そうびする飛行ひこうだい20戦隊せんたい機体きたい洋上ようじょう迷彩めいさいたる濃紺のうこん塗装とそうせいそら戦闘せんとうけんたいせん哨戒しょうかいとしてこれを運用うんようしていた。ほか、1944ねん4がつ14にち1120ふんごろアンダマン諸島しょとうおき船団せんだん掩護えんごちゅう飛行ひこうだい26戦隊せんたい石川いしかわきよし曹長そうちょうが、船団せんだん前方ぜんぽう3,000m付近ふきんてき潜水せんすいかんはなった魚雷ぎょらい航跡こうせき3ほん発見はっけん基地きち無線むせん報告ほうこくするとともにてきせん推定すいてい位置いちばくだん投下とうかこうはしなか魚雷ぎょらいたいして機関きかんほう射撃しゃげき、それでも魚雷ぎょらいは1,200めい乗船じょうせん輸送ゆそうせん松川まつかわまる」にせまったため、これに体当たいあたりし2ほん爆発ばくはつさせ輸送ゆそうせんまもった事例じれいがある(石川いしかわ曹長そうちょう戦死せんし後任こうにん陸軍りくぐん少尉しょうい個人こじん感状かんじょう拝受はいじゅ[62]

連合れんごうぐん一式いっしきせん[編集へんしゅう]

連合れんごうぐん鹵獲ろかくされた一式いっしきせんがた(キ43-II)

交戦こうせん相手あいて連合れんごうぐんにおいて一式いっしきせん海軍かいぐんれいせん誤認ごにんされる事例じれいおおかった。天蓋てんがい主翼しゅよくおよび胴体どうたい形状けいじょうおおきくことなるが、全体ぜんたい外観がいかん性能せいのう類似るいじしていることにくわえ、ささえ事変じへんにちちゅう戦争せんそう)への実戦じっせん投入とうにゅうれいせんはや連合れんごうぐんはその存在そんざい太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせんまえ認識にんしきしていたこと、1942ねんなつまで一式いっしきせん各地かくち出揃でそろっていないことが理由りゆうとしてげられる(緒戦しょせんたる南方なんぽう作戦さくせんにおける一式いっしきせん主戦しゅせんじょうはマレー、シンガポール攻略こうりゃくせんとインドネシア攻略こうりゃくせん。ビルマ攻略こうりゃくせんは1941ねん12月25にち臨時りんじだい64戦隊せんたい投入とうにゅうされたのみで本格ほんかくてき転戦てんせんは1942ねん3がつ21にちから。フィリピン攻略こうりゃくせん一式いっしきせん投入とうにゅう)。ビルマ方面ほうめんイギリス空軍くうぐんからは「ゼロ・ファイター」に類似るいじした「ワン・ファイター」ということで「01(ゼロワン)」と、それ以前いぜんフライング・タイガース(AVG)によって「ニューゼロ」とばれたことも一時期いちじきあったという。大戦たいせんちゅう後期こうきいたっても、またビルマ・ニューギニア・中国ちゅうごく方面ほうめんといった陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたい主戦しゅせんじょうであってもれいせんとの誤認ごにんおおく、そのため「れいせん戦果せんかとされているもののいち定数ていすう一式いっしきせん戦果せんか」である(#「ブラックドラゴン飛行ひこうたい伝説でんせつほか)。事実じじつ一式いっしきせん大戦たいせん初期しょきからその末期まっきまで一貫いっかんして互角ごかくないしそれ以上いじょう活躍かつやくせていたビルマ方面ほうめんにおいて、一式いっしきせん交戦こうせんしていたアメリカ・イギリス軍機ぐんき操縦そうじゅうしゃなどはほとんどの場合ばあい相手あいて日本にっぽんぐん戦闘せんとうを「ゼロ(れいせん)」と認識にんしき報告ほうこくしていた[63]

一式いっしきせん性能せいのうめんたいして、上述じょうじゅつとお連合れんごうぐんてい高度こうど低速ていそくいきにおける運動うんどうせい加速かそくせいたかさを脅威きょういなし、対策たいさく徹底てっていした。

連合れんごうぐんエースとの空戦くうせん[編集へんしゅう]

連合れんごうぐんのトップクラスのエースを相手あいてとした一式いっしきせんによる確実かくじつ戦果せんかとしてはおも以下いか事例じれい存在そんざいする。

  • 1944ねん3がつ5にちニューギニア戦線せんせんにおいて、飛行ひこうだい77戦隊せんたい三苫みとま軍曹ぐんそう青柳あおやぎ軍曹ぐんそう操縦そうじゅう一式いっしきせんが、21撃墜げきついほこニール・カービィ大佐たいさ操縦そうじゅうのP-47Dを確実かくじつ撃墜げきつい
    • 1944ねん初期しょき当時とうじ21撃墜げきついニール・カービィ大佐たいさ(P-47操縦そうじゅう)は24撃墜げきついリチャード・ボング大尉たいい(P-38操縦そうじゅう)とアメリカぐんトップ・エースのめぐあらそっており、カービィ大佐たいさだい348戦闘せんとう航空こうくうぐん指揮しきかんぐんちょう司令しれい)として新鋭しんえいのP-47を操縦そうじゅうし、1943ねん10がつにはどう戦線せんせんにてだい64戦隊せんたい初代しょだい戦隊せんたいちょう歴任れきにんしたベテランであるだい14飛行ひこう団長だんちょう寺西てらにし多美たみわたる中佐ちゅうさ操縦そうじゅう一式いっしきせん撃墜げきついするなど戦果せんか多数たすう記録きろくしていた。しかし3がつ5にち僚機のP-47D 2ひきいて飛行ひこうだい208戦隊せんたいきゅうきゅうしきそうけい爆撃ばくげき3攻撃こうげきちゅうのところをだい77戦隊せんたい一式いっしきせん5奇襲きしゅうし、三苫みとま軍曹ぐんそう青柳あおやぎ軍曹ぐんそう低空ていくう低速ていそくでもがきまわるカービィ大佐たいさ操縦そうじゅうせき機関きかんほう射撃しゃげきしこれを撃墜げきつい。ただちに部下ぶかのP-47Dがけつけたもののカービィ大佐たいさ戦死せんしした。一式いっしきせん損害そんがいは1被弾ひだん不時着ふじちゃくのみ[64]
トーマス・マクガイア少佐しょうさあいP-38
  • 1945ねん1がつ7にちフィリピン戦線せんせんにおいて、飛行ひこうだい54戦隊せんたい杉本すぎもとあきら准尉じゅんい操縦そうじゅう一式いっしきせん飛行ひこうだい71戦隊せんたい福田ふくだみずほのり軍曹ぐんそう操縦そうじゅうよんしきせんが、P-38 4編隊へんたい遭遇そうぐう。38撃墜げきついほこるアメリカぜんぐんだい2のエースであるトーマス・マクガイア少佐しょうさ操縦そうじゅうのP-38L、僚機でベテランのジャック・リットメイヤー中尉ちゅういのP-38Jが帰還きかん(戦死せんし)。
    • 不意ふい遭遇そうぐうせんで4のP-38に遭遇そうぐう劣位れついから応戦おうせんした杉本すぎもと准尉じゅんい離脱りだつ成功せいこうするも被弾ひだん不時着ふじちゃく成功せいこうしたが地上ちじょうゲリラ射殺しゃさつされた。杉本すぎもと空戦くうせん目撃もくげき現場げんばけつけた福田ふくだ軍曹ぐんそうたいしんせんでP-38 1撃墜げきつい福田ふくだのこったP-38 2(エド・ウィーバー大尉たいい、ダグ・スロップ中尉ちゅうい)の追撃ついげき回避かいひ生還せいかんするも機体きたい被弾ひだん多数たすうにより廃棄はいき福田ふくだ軍曹ぐんそう空戦くうせんマラリア高熱こうねつにより意識いしき朦朧もうろう状態じょうたいであり、かつ落下らっかタンクと100kgばくだん搭載とうさいしたままであった。ほん空戦くうせん乱戦らんせんであり、マクガイア杉本すぎもとまたは福田ふくだ撃墜げきついされたとするせつ低空ていくう低速ていそく無理むり機動きどうこころみたことにより失速しっそく墜落ついらくしたとするせつがあり、詳細しょうさいあきらかでない。いずれにせよ、日本にっぽん陸軍りくぐんとの戦闘せんとうでアメリカぐんりょう戦死せんししたことは事実じじつである[65]

「ブラックドラゴン飛行ひこうたい伝説でんせつ[編集へんしゅう]

ビルマ方面ほうめんのアメリカ陸軍りくぐん航空こうくうぐん・イギリス空軍くうぐんかく飛行ひこう部隊ぶたい操縦そうじゅうしゃは、現地げんち強力きょうりょくなある日本にっぽんぐん戦闘せんとうたいを「ブラックドラゴン飛行ひこうたい」と呼称こしょうしていた。だい7ばくげき航空こうくうぐんだい22ばくげき飛行ひこうたいだい311戦闘せんとうばくげき飛行ひこうたいだい530戦闘せんとうばくげき飛行ひこうたいべい)、だい67飛行ひこうたいえい)などの報告ほうこく戦記せんきにこの「ブラックドラゴン飛行ひこうたい」にかんする証言しょうげん記述きじゅつがあり、その内容ないよういわく「ガダルカナルからきた精鋭せいえい」「6れい戦隊せんたいで、指揮しきかんくろりのメッサーシュミット109(Bf 109)」などとまことに想像そうぞうりょくゆたかなものであった[66][67]当然とうぜんながらこの方面ほうめんだい64戦隊せんたいだい50戦隊せんたいとうおも一式いっしきせん装備そうびした日本にっぽん陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたい担当たんとう戦域せんいきであり日本にっぽん海軍かいぐんれいせん関係かんけいく、「ブラックドラゴン飛行ひこうたい」の正体しょうたいわば「ブラックファルコン飛行ひこうたいはやぶさ飛行ひこうたい)」となる。 もっとも1943ねんから1944ねんにかけて、海軍かいぐんだいじゅうさん航空こうくう艦隊かんたいだい〇二海軍航空隊だいさんさんいち海軍かいぐん航空こうくうたいがビルマ方面ほうめん進出しんしゅつしたことがあった。りょう部隊ぶたいは1943ねん12月のりゅういちごう作戦さくせんカルカッタ空襲くうしゅう)などに参加さんかした[68]

一式いっしきせんとグリフォンスピット[編集へんしゅう]

1945ねん8がつ15にち太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせん進出しんしゅつ基地きちであったフコクとうズォンドンにてタイランドわん船団せんだん掩護えんご最後さいご任務にんむとしただい64戦隊せんたいは、よく16にちクラコール移転いてん敗戦はいせんむかえた。同月どうげつ下旬げじゅん、クラコール飛行場ひこうじょうにイギリス空軍くうぐん先遣せんけん部隊ぶたい進出しんしゅつ武装ぶそう解除かいじょ続々ぞくぞく後続こうぞく進出しんしゅつするごとににちえいともに緊張きんちょう交流こうりゅうはじまり、一式いっしきせんとスピットファイアの編隊へんたい飛行ひこう実現じつげんした。戦隊せんたい長宮ながみや少佐しょうさの「おいっ、スピットと一緒いっしょびたいもの、1だけだ」の発言はつげん操縦そうじゅうしゃたちみな挙手きょしゅしたが、最終さいしゅうてき戦隊せんたい古参こさんのエースである坪根つぼね康祐こうすけ准尉じゅんいえらばれスピットファイアをちょうとし2離陸りりく。2はクラコール市街しがい上空じょうくう低空ていくうまわり、にちえい操縦そうじゅうしゃたち眼前がんぜんでフィナーレとして滑走かっそうちょう低空ていくう進入しんにゅうしての垂直すいちょく上昇じょうしょう一式いっしきせんはブースト全開ぜんかいでスピットファイアに追随ついずい栄光えいこうの「加藤かとうはやぶさ戦闘せんとうたい」こと飛行ひこうだい64戦隊せんたい一式いっしきせん最後さいごかざった。このスピットファイアはグリフォンエンジンはなれのぼり出力しゅつりょく2,035馬力ばりき)を搭載とうさいした5翅プロペラのグリフォン・スピットファイア(グリフォンスピット)ことMk. XIVであった。ただし、これを目撃もくげきした池田いけだ昌弘まさひろは、スピットファイアがさきしたぜんそくひゃくしきさんがた悠々ゆうゆうし、宙返ちゅうがえりまでしたことをき、「垣根かきねさんと一緒いっしょんだスピットファイアも、きっとレバーを加減かげんしてんでくれたのでしょう」と、かたっている[69]

実戦じっせん[編集へんしゅう]

ほん項目こうもくにおける以下いか日付ひづけかんした戦闘せんとう記録きろくかく戦線せんせんにおける主要しゅよう空戦くうせん抜粋ばっすいしたものであり、すべての戦闘せんとう記録きろくではない。

南方みなかた作戦さくせん[編集へんしゅう]

1942ねん初頭しょとうだい64戦隊せんたいのピスト(空中くうちゅう勤務きんむしゃひかえしょ意味いみするフランス語ふらんすご由来ゆらい陸軍りくぐん用語ようご)にてだい3中隊ちゅうたいちょう安間あんま克巳かつみ大尉たいいらとくつろぐ戦隊せんたいちょう加藤かとう建夫たけお中佐ちゅうさ

ささえ事変じへんにちちゅう戦争せんそうちゅう、1941ねん6がつから8がつにかけて一式いっしきせんぜん機種きしゅ改変かいへんしただい59戦隊せんたい所属しょぞくの9が、かんこうからあかりらくたけ大尉たいい[ちゅう 10]ひきいられ重慶たーちんまでの長距離ちょうきょり進攻しんこう参加さんか、これが一式いっしきせん初陣ういじんとなる。どう進攻しんこうせんでは迎撃げいげきあらわれず空戦くうせんこらなかったが一式いっしきせん長距離ちょうきょり航続こうぞく性能せいのう実証じっしょうした。

だい64戦隊せんたい同年どうねん8がつまつから9がつなかばにかけ日本にっぽん内地ないち多摩たま陸軍りくぐん飛行場ひこうじょうにてぜん機種きしゅ改変かいへん。のちにだい64戦隊せんたい一式いっしきせんをその終戦しゅうせんまで使用しようつづける部隊ぶたいとなり、改変かいへんあらたに考案こうあんされた部隊ぶたいマーク垂直すいちょく尾翼びよく中隊ちゅうたいしょくえがかれた「矢印やじるしはす矢印やじるし)」はそのシンボルとなった。当時とうじ中尉ちゅういとしてだい64戦隊せんたいだい3中隊ちゅうたい整備せいび班長はんちょうであった新美にいみ少佐しょうさ部隊ぶたいマークについて以下いかごとかたっている。

はやぶさ機種きしゅ改変かいへんして、どうやらせんちかいらしい、戦隊せんたいマークをつくらにゃいかんなあってことになって、安間あんまさん(だい3中隊ちゅうたいちょう安間あんま克己かつみ大尉たいい)とぼく空中くうちゅう勤務きんむしゃと、整備せいび下士官かしかんあつまってわさわさやってたんだけど、この矢印やじるしならえがきやすいし、格好かっこうもいいから、これにしようってことになってね

— もと陸軍りくぐん少佐しょうさ 新美にいみ市郎いちろう[70]

だい64戦隊せんたい夜間やかん飛行ひこう雲上うんじょう飛行ひこう洋上ようじょう航法こうほうちかられつつ訓練くんれんおこない、12月3にちきゅう駐屯ちゅうとん広東かんとんから35ぜん戦隊せんたいちょう加藤かとう少佐しょうさひきい、卓越たくえつした航法こうほうにより1落伍らくごもなしに2せんすうひゃくkm・5あいだ30ぶん距離きょり一気いっき飛行ひこうふつしるしフコクとうズォンドンに進出しんしゅつした[71]。7にち夕刻ゆうこくからマレまれ半島はんとうコタバル上陸じょうりくのため、海上かいじょう航行こうこうちゅうだい25ぐん司令しれいかん山下やました奉文ともゆき中将ちゅうじょう部隊ぶたいせた輸送ゆそう船団せんだん上空じょうくう掩護えんご加藤かとう少佐しょうさ以下いかだい64戦隊せんたい7一式いっしきせんがあたり、悪天候あくてんこうにより3帰還きかんとなるも夜間やかんかつ荒天こうてん悪条件あくじょうけんのなかこれをげ、8にち太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせんむかえる(マレー作戦さくせん)。以降いこう一式いっしきせん南方なんぽう戦線せんせん(マレー・シンガポールパレンバンジャワビルマ各地かくち)でおおいに活躍かつやくすることとなる。

開戦かいせんの8にちあさ、マレー作戦さくせん従軍じゅうぐん航空こうくう撃滅げきめつせん展開てんかいするだい64戦隊せんたい加藤かとう少佐しょうさ以下いかぜん出撃しゅつげきだい2中隊ちゅうたいブレニム[ちゅう 11]1だい34飛行ひこうたいスミス軍曹ぐんそう)を撃墜げきつい損傷そんしょうバターワース飛行場ひこうじょう胴体どうたい着陸ちゃくりく)、さらにバターワース飛行場ひこうじょう在地ざいちてきたい対地たいち銃砲じゅうほうげき機銃きじゅう掃射そうしゃ)しブレニム4だい34飛行ひこうたい)を破壊はかいだい64戦隊せんたい損害そんがい皆無かいむ一式いっしきせんぜん無事ぶじ帰還きかんした[71]だい59戦隊せんたいはコタバルの上陸じょうりく船団せんだん爆撃ばくげきちゅうであるだい34飛行ひこうたいだい60飛行ひこうたい多数たすうのブレニムと交戦こうせん。1喪失そうしつするも2撃墜げきついだい60飛行ひこうたいベネット少佐しょうさ・ボウデン大尉たいい[ちゅう 12]、1撃破げきは飛行場ひこうじょう不時着ふじちゃくさせた[71]

12月22にちだい64戦隊せんたい一式いっしきせん23クアラルンプール飛行場ひこうじょう攻撃こうげき迎撃げいげきあらわれただい453飛行ひこうたいバッファロー12交戦こうせん、1喪失そうしつ(リード軍曹ぐんそう衝突しょうとつ)するも3撃墜げきつい、4撃破げきは不時着ふじちゃく損傷そんしょう)。同日どうじつ午後ごごおなじくクアラルンプール飛行場ひこうじょう今度こんどだい59戦隊せんたい一式いっしきせん4攻撃こうげきし、損害そんがい離陸りりく直後ちょくごのバッファロー1だい453飛行ひこうたいピーターソン軍曹ぐんそう)を撃墜げきつい[72]。28にちだい59戦隊せんたい一式いっしきせん夜間やかん空襲くうしゅう飛来ひらいしたブレニム4交戦こうせん夜戦やせん)し1撃墜げきついだい34飛行ひこうたいヒル大尉たいい)、この戦果せんか開戦かいせん以来いらい日本にっぽんぐんはつの「夜間やかん撃墜げきつい」である[73]。なお、陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたいでは一般いっぱん単座たんざ戦闘せんとう一般いっぱん飛行ひこう部隊ぶたい一般いっぱん操縦そうじゅうしゃにも夜戦やせんのスキルがもとめられており(操縦そうじゅうしゃ夜間やかん飛行ひこうをこなせてこそいち人前にんまえたる「技量ぎりょうきのえ」の認定にんていいただく)、このだい59戦隊せんたいによる夜戦やせん撃墜げきついや、開戦かいせん前日ぜんじつだい64戦隊せんたいによる上陸じょうりく部隊ぶたい輸送ゆそう船団せんだん夜間やかん上空じょうくう掩護えんご各地かくちでのばくそう戦闘せんとう戦闘せんとう爆撃ばくげき)による夜間やかん奇襲きしゅうばくげきなど陸軍りくぐん数々かずかず夜間やかん任務にんむぜん期間きかんつうじて積極せっきょくてきっている。一方いっぽうで、日本にっぽん海軍かいぐん航空こうくうたいでは大半たいはん単座たんざ戦闘せんとうおよびその操縦そうじゅういんには夜戦やせん技量ぎりょうく、また夜間やかん任務にんむそのものが例外れいがいてきなものであり、原則げんそくてき専用せんようふくないしさん夜間やかん専用せんよう夜間やかん飛行ひこう部隊ぶたい対処たいしょしていた[74][75]

1942ねん1がつ20日はつか数日すうじつまえ中東ちゅうとう方面ほうめんより新鋭しんえい補充ほじゅうとしてシンガポール到着とうちゃくしていたハリケーンとだい64戦隊せんたいはじめて交戦こうせん一式いっしきせんは1喪失そうしつするもてき指揮しきかん以下いか3撃墜げきつい臨時りんじだい232飛行ひこうたいランデルス少佐しょうさ・マーチパンクス少尉しょうい・ウィリアムズ少尉しょうい)。当初とうしょからホ103を2もん装備そうびした特別とくべつ仕様しようである加藤かとう少佐しょうさいち連射れんしゃ5、6はつでハリケーン(ウィリアムズ少尉しょうい)を発火はっかさせている[76]

パレンバンに降下こうかする「そらかみへい帝国ていこく陸軍りくぐん落下傘らっかさん部隊ぶたい」こと挺進ていしん部隊ぶたい

2がつ上旬じょうじゅんだい64戦隊せんたいだい59戦隊せんたいらんしるし作戦さくせん転戦てんせん。6にちだい59戦隊せんたい一式いっしきせん14はパレンバン飛行場ひこうじょう攻撃こうげきし、6撃墜げきつい(ブレニム2だい211飛行ひこうたい。ハリケーン4だい258飛行ひこうたい)するも損害そんがい皆無かいむぜん無事ぶじ帰還きかんした[77]以降いこう数次すうじわたっておこなわれたパレンバン航空こうくう撃滅げきめつせん一式いっしきせんはイギリス空軍くうぐん圧倒あっとうした。

2がつ14にちパレンバン空挺くうてい作戦さくせん発動はつどうスマトラ島すまとらとうパレンバンに奇襲きしゅう落下傘らっかさん降下こうかするだい1挺進ていしんだん挺進ていしんだい2連隊れんたい(「そらかみへい」)の挺進ていしんへいせたいち〇〇しき輸送ゆそう(キ57)としき貨物かもつ輸送ゆそうものりょうかさ投下とうかようきゅうななしきじゅうばく加藤かとう少佐しょうさ統一とういつ指揮しきのもとだい64戦隊せんたいだい59戦隊せんたい空中くうちゅう掩護えんご一式いっしきせんだい258飛行ひこうたいのハリケーン15応戦おうせんした結果けっかだい64戦隊せんたいがマクナマラ少尉しょういとマッカロック少尉しょうい撃墜げきついした(うち1加藤かとう少佐しょうさ戦果せんかとされている)[78]。この空戦くうせんにおける日本にっぽんぐんがわ喪失そうしつ飛行場ひこうじょう高射こうしゃほうによって撃墜げきついされたものりょうかさ投下とうかようきゅうななしきじゅうばく1のみで、挺進ていしん飛行ひこう戦隊せんたい輸送ゆそう一式いっしきせん損害そんがいはなく、一式いっしきせんと「そらかみへい」の活躍かつやく空挺くうてい作戦さくせん成功せいこう太平洋戦争たいへいようせんそうさい重要じゅうよう攻略こうりゃく目標もくひょうであるパレンバン油田ゆでん製油せいゆしょおよび飛行場ひこうじょう占領せんりょう確保かくほされた。

大本営だいほんえい発表はっぴょう、2がつ15にち午後ごご510ふん強力きょうりょくなる帝国ていこく陸軍りくぐん落下傘らっかさん部隊ぶたいは、2がつ14にち午前ごぜん1126ふんらんしるし最大さいだい油田ゆでんたる、スマトラ島すまとらとうパレンバンにたいする奇襲きしゅう降下こうか成功せいこうし、てき撃破げきはして、飛行場ひこうじょうその要地ようち占領せんりょう確保かくほするとともに、さら戦果せんか拡張かくちょうちゅうなり。陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたいほん作戦さくせん密接みっせつ協力きょうりょくするとともに、すでにその一部いちぶほん15にち午前ごぜん同地どうち飛行場ひこうじょう躍進やくしんせり。わり

— 大本営だいほんえい発表はっぴょうだい192ごう

だい64戦隊せんたい終戦しゅうせんまでにけい7まい(うち1まい加藤かとう少将しょうしょう個人こじん感状かんじょう前身ぜんしん部隊ぶたいふくめるとけい9まい)と日本にっぽんぐんさい多数たすう感状かんじょう拝受はいじゅしているが、うち3まいはマレー上陸じょうりく作戦さくせん船団せんだん掩護えんご)・パレンバン空挺くうてい作戦さくせんジャワ上陸じょうりく作戦さくせん活躍かつやくによるものである。

以下いか一連いちれん一式いっしきせん戦果せんかは、戦史せんし梅本うめもとひろし日本にっぽんぐん戦果せんか記録きろく連合れんごうぐん損害そんがい記録きろくたるいち史料しりょう照会しょうかいした「確認かくにん出来でき最小限さいしょうげん確実かくじつ数字すうじたる戦果せんか」である[10]一式いっしきせん緒戦しょせん空戦くうせんにおいてやく4ばいかずを、たい戦闘せんとうせんではやく3ばいかずてき撃墜げきついした。

  • 1941ねん12月8にち開戦かいせん(マレー作戦さくせん開始かいし)から1942ねん3がつ9にちらんしるし作戦さくせん終了しゅうりょう)の期間きかんちゅう
    • だい59戦隊せんたいだい64戦隊せんたい一式いっしきせん連合れんごう軍機ぐんき61撃墜げきついだい59戦隊せんたい30だい64戦隊せんたい27りょう戦隊せんたい協同きょうどう4
      • 撃墜げきつい連合れんごう軍機ぐんき機種きしゅ内訳うちわけ戦闘せんとう43
      • さらにらんしるし作戦さくせんちゅうバタビアおき上空じょうくうにて1のB-17E(フランクリン機長きちょう、41-2503号機ごうき)を撃墜げきつい [79]
    • 日本にっぽんぐんがわ空戦くうせんによる損害そんがいだい59戦隊せんたいだい64戦隊せんたいけい16喪失そうしつ戦死せんし11めい生還せいかん5めい
日本にっぽんぐん国籍こくせき標識ひょうしきえが飛行ひこうちゅう鹵獲ろかくB-17D

これら一式いっしきせん緒戦しょせんにおいてだい64戦隊せんたい加藤かとう少佐しょうさとく有名ゆうめいであるが、だい59戦隊せんたいにおいても飛行ひこう隊長たいちょう牟田むたひろしこく少佐しょうさ相当そうとう活躍かつやく技量ぎりょうたかさをせている。牟田むた少佐しょうさとその僚機からなる通称つうしょう牟田むた編隊へんたい」は上記じょうき期間きかんちゅう損害そんがい1たいして13撃墜げきついした(牟田むた少佐しょうさ戦果せんか報告ほうこく連合れんごうぐん損害そんがい記録きろく毎回まいかい完全かんぜん一致いっち[80]。ちなみに、牟田むた少佐しょうさだい100飛行ひこう団長だんちょうたる中佐ちゅうさ終戦しゅうせんむかえ、戦後せんご航空こうくう自衛隊じえいたい入隊にゅうたいだい6だい航空こうくう幕僚ばくりょうちょう、さらには空自くうじ出身しゅっしんしゃはつとなるだい4だい統合とうごう幕僚ばくりょう会議かいぎ議長ぎちょう自衛隊じえいたい制服せいふくぐみ頂点ちょうてんのぼめている。

なお、らんしるし作戦さくせんにおいて日本にっぽんぐんジャワ島じゃわとうにてアメリカ陸軍りくぐん航空こうくうぐんのB-17EおよびB-17Dを飛行ひこう可能かのう状態じょうたい鹵獲ろかくし、陸軍りくぐんはこれを調査ちょうさ研究けんきゅうするとともにのちには戦闘せんとうたいたい大型おおがた爆撃ばくげき攻撃こうげき訓練くんれん目標もくひょう使用しようしている。この訓練くんれんにはだい64戦隊せんたいだい50戦隊せんたい飛行ひこうだい11戦隊せんたい参加さんかせんわざ向上こうじょう一役ひとやくい、だい64戦隊せんたい黒江くろえ保彦やすひこ大尉たいいはB-17に搭乗とうじょう機内きないから攻撃こうげき観察かんさつ助言じょげん実際じっさいだい11戦隊せんたいはのちのソロモン方面ほうめんのB-17迎撃げいげき戦果せんか効果こうか実証じっしょうしている(#ソロモン、ニューギニア航空こうくうせん[81]。このB-17は鹵獲ろかくともども日本にっぽん本土ほんど空輸くうゆされ徹底的てっていてき調査ちょうさおこなわれた一方いっぽう一式いっしきせん開発かいはつ模様もようえがいた1942ねん10がつ公開こうかい映画えいがつばさ凱歌がいか終盤しゅうばんで「南方なんぽう一式いっしきせん撃墜げきついされるてきやく」として「出演しゅつえん」している。

ビルマ航空こうくうせん[編集へんしゅう]

初期しょき[編集へんしゅう]

1942ねん5がつ1にち北部ほくぶビルマにて不時着ふじちゃく国民こくみん革命かくめいぐん・アメリカ陸軍りくぐん鹵獲ろかくされただい64戦隊せんたい一式いっしきせんいちがた(キ43-I)。中国ちゅうごくぐん国籍こくせき標識ひょうしきえがかれテスト飛行ひこうそなえたエンジン試運転しうんてんちゅう姿すがた[82]

各地かくち制圧せいあつしただい64戦隊せんたいは1942ねん3がつ21にちからビルマ戦線せんせん(「ビルマ航空こうくうせん」)に参戦さんせん以後いごおもにイギリス空軍くうぐんおよびアメリカ陸軍りくぐん初期しょきフライング・タイガース(AVG)をふくむ)と交戦こうせんし、同月どうげつ23にちには損害そんがいくハリケーン1撃墜げきついだい136飛行ひこうたいブラウン少尉しょうい)しどう戦線せんせんにおけるはつ戦果せんかおさめている[16]。このビルマ航空こうくうせんにはその活躍かつやく有名ゆうめいだい64戦隊せんたい長期間ちょうきかん従軍じゅうぐんしエースを多数たすう輩出はいしゅつ一式いっしきせん主力しゅりょくとし大戦たいせん末期まっきいたるまで連合れんごうぐん空軍くうぐん互角ごかくたたかいをひろげた戦域せんいきとなる[12]

だい64戦隊せんたい一式いっしきせんは3がつ24にち午後ごごには一方いっぽうてきにハリケーン2撃墜げきついだい136飛行ひこうたいパイネ軍曹ぐんそう・バトラー軍曹ぐんそう)、1撃破げきは(フレッディー軍曹ぐんそう不時着ふじちゃく損傷そんしょう)するなど戦果せんかげたが、4がつ8にちのローウィン飛行場ひこうじょう攻撃こうげきではアメリカ陸軍りくぐん(AVG)のP-40 8・イギリス空軍くうぐんのハリケーン3交戦こうせん連合れんごうぐんがわレーダーだい64戦隊せんたい侵攻しんこう探知たんち奇襲きしゅう名実めいじつども加藤かとう中佐ちゅうさ片腕かたうでとして前身ぜんしん部隊ぶたいである飛行ひこうだい2大隊だいたいだい1中隊ちゅうたい時代じだいから活躍かつやくしていた古参こさんエースだい3中隊ちゅうたい長安ながやすあいだ大尉たいいや、ノモンハン事件じけん以来いらいのベテラン和田わだはるじん曹長そうちょうふくむ4喪失そうしつ[83]

4がつ10にち早暁そうぎょうさきの8にち復讐ふくしゅうとして、加藤かとう中佐ちゅうさ以下いかだい64戦隊せんたい夜間やかん航法こうほうをもってローウィン飛行場ひこうじょう奇襲きしゅう攻撃こうげき一般いっぱん飛行ひこう部隊ぶたいでも夜間やかん飛行ひこう夜戦やせん考慮こうりょされている陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたいにおいても、暗夜あんやに(ビルマにおいて早暁そうぎょうはまだ暗夜あんやとなる)、山岳さんがく地帯ちたいを、全速力ぜんそくりょくで(横風おうふう偏流へんりゅう誤差ごさ考慮こうりょしまたてきざいそら時間じかんらすため)、600km以上いじょう距離きょりを、低空ていくう侵攻しんこうすることはきわめて困難こんなんなものとなるが、編隊へんたい先頭せんとうひきいる加藤かとう中佐ちゅうさすぐれた航法こうほうによって奇襲きしゅう成功せいこうし、在地ざいちのP-40やく23対地たいち銃砲じゅうほうげきによって撃破げきは[84]20日はつかには戦死せんしした安間あんま大尉たいい後任こうにんとしてしきせんをもって開戦かいせん以来いらい活躍かつやくしていた独立どくりつ飛行ひこうだい47中隊ちゅうたいから黒江くろえ保彦やすひこ大尉たいいだい3中隊ちゅうたいちょうとして、だい2中隊ちゅうたいには中村なかむら三郎さぶろう中尉ちゅうい坪根つぼね康祐こうすけ軍曹ぐんそう着任ちゃくにんしているが、この3めいはのちに有数ゆうすうのエースとなる。

5月22にち当時とうじトングー主力しゅりょくいていただい64戦隊せんたい一部いちぶ一時いちじ前進ぜんしんしていた最前線さいぜんせんであるアキャブ飛行場ひこうじょうに、ブレニム Mk.IV 1だい60飛行ひこうたいマーチン・ハガード准尉じゅんい)が来襲らいしゅう一式いっしきせん5迎撃げいげき出撃しゅつげきするも、こう上方かみがた銃座じゅうざ射手しゃしゅマクラッキー軍曹ぐんそう)のたくみな射撃しゃげきにより2被弾ひだん途中とちゅう帰還きかん、さらに1最初さいしょ近接きんせつ降下こうか攻撃こうげきからの引起ひきおことき機体きたい腹部ふくぶ燃料ねんりょうタンク)に集中しゅうちゅうしゃ発火はっか。この機体きたいこそが戦隊せんたいちょう加藤かとう建夫たけお中佐ちゅうさであり、午後ごご230ふんのこされた僚機2眼前がんぜん帰還きかん不可能ふかのうさっした加藤かとうひだり反転はんてんベンガルわん海面かいめん突入とつにゅう自爆じばくした。ハガード准尉じゅんい墜落ついらくすることなくへの被弾ひだん2はつのみでカルカッタまで帰還きかんできたが、故障こしょうによりかたあし着陸ちゃくりくおこなったため機体きたい破壊はかいしている[85]以下いかひのき中尉ちゅうい加藤かとう中佐ちゅうさ戦死せんしよるつづった記文きぶんである。

五月ごがつじゅうさんにち 日記にっき
じゅうよんさんじゅうふんてき爆撃ばくげき急追きゅうつい撃墜げきついセシ瞬間しゅんかん国宝こくほうわがとう部隊ぶたいちょう加藤かとう中佐ちゅうさしつイタリ、なんタルノ痛恨つうこんごとゾ。あに戦隊せんたい損失そんしつノミナランヤ。わがこく損失そんしつ言語げんごぜっス。此ノ部隊ぶたいちょうしもちかいイシまたざんル。ただコノじょう責務せきむ軍神ぐんしん部隊ぶたいちょう任務にんむ必達ノ精神せいしんせいキンノミ

— もと陸軍りくぐん少佐しょうさ ひのき與平よへい[86]

のこされただい64せん隊員たいいんにとって、平素へいそ格下かくしたなしていたブレニムの反撃はんげきによる加藤かとう中佐ちゅうさ自爆じばくおおきな衝撃しょうげきであった。さらに、南方みなかた作戦さくせん功労こうろうしゃかつ相当そうとう人格じんかくしゃとして有名ゆうめい存在そんざいであった加藤かとう中佐ちゅうさ戦死せんし帝国ていこく陸軍りくぐん全体ぜんたい衝撃しょうげきあたえ、30にちづけで「ソノ武功ぶこういち中佐ちゅうさ高邁こうまいナル人格じんかく卓越たくえつセル指揮しき統帥とうすい及ビ優秀ゆうしゅうナル操縦そうじゅう技能ぎのうフモノニシテ其ノ存在そんざいじつ陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたい至宝しほうタリ」とひょうされる南方なんぽうぐんそう司令しれいかん元帥げんすい寺内てらうち寿一ひさいち陸軍りくぐん大将たいしょう[ちゅう 13]個人こじん感状かんじょう加藤かとう拝受はいじゅ陸軍りくぐんはつかいきゅう特進とくしんとしてにん陸軍りくぐん少将しょうしょう特旨とくしをもってしたがえよんこうきゅう金鵄勲章きんしくんしょうくんさんとう旭日きょくじつちゅう綬章じゅしょう受勲じゅくん。7月22にちには陸軍りくぐんしょうから国民こくみん公表こうひょうされ「軍神ぐんしん」となっている。イギリス空軍くうぐんがわでは日本にっぽんのこの加藤かとう軍神ぐんしんブームをけ5がつ22にち当日とうじつのブレニムの行動こうどうさい点検てんけん、8がつ2にちづけでハガード准尉じゅんい乗員じょういんのもとにベンガル空軍くうぐん司令しれいかんスチーブンソン少将しょうしょうから撃墜げきついした相手あいて加藤かとう建夫たけお中佐ちゅうさという「大物おおもの」であったむね電報でんぽうとどいている。当時とうじのイギリス空軍くうぐんでも加藤かとうがビルマ方面ほうめん戦闘せんとうたい指揮しきかんで26撃墜げきついのエース、東京とうきょう公葬こうそうされた軍神ぐんしんということはつたわっていた[87]

6月4にち、「軍神ぐんしん加藤かとう少将しょうしょう」のとむら合戦がっせんとしてだい64戦隊せんたい一式いっしきせんすうのB-17Eと交戦こうせん、1だい77戦隊せんたいきゅうななせん協同きょうどう撃墜げきついしている(だい436ばくげき飛行ひこうたいシャープ大尉たいい[88]だい64戦隊せんたい一式いっしきせんは1942ねん6がつ4にちまでの空戦くうせん最低さいていでも連合れんごう軍機ぐんき10撃墜げきつい協同きょうどう撃墜げきついのB-17E 1ふくむ)、損害そんがい11喪失そうしつ撃墜げきつい連合れんごう軍機ぐんき機種きしゅ内訳うちわけ戦闘せんとう6ばくげき4で、一式いっしきせん10喪失そうしつはP-40によるものであった[89]

同年どうねん4がつフィリピン攻略こうりゃくせんやビルマ攻略こうりゃくせん日本にっぽん帰国きこくした飛行ひこうだい50戦隊せんたいから手初てはじめに、旧式きゅうしきしたきゅうななせん運用うんようする部隊ぶたい順次じゅんじ機種きしゅ改変かいへんし(機種きしゅ改変かいへんしたのちのエース部隊ぶたいとなるだい50戦隊せんたいは9月にビルマ戦線せんせん復帰ふっき)、以降いこう一式いっしきせん陸軍りくぐん主力しゅりょく戦闘せんとうとなる。

中期ちゅうき[編集へんしゅう]

1942ねん12月15にち、チッタゴン攻撃こうげき被弾ひだん不時着ふじちゃく、イギリス空軍くうぐん鹵獲ろかくされただい50戦隊せんたいだい2中隊ちゅうたい一式いっしきせんいちがたへい(キ43-Iへいしょう谷川たにがわちかし曹長そうちょう[90]部隊ぶたいマークとして機体きたい後部こうぶ側面そくめんおおきく「電光でんこう」をえがき、部隊ぶたいマーク・スピナー・カウリング先端せんたんだい2中隊ちゅうたい中隊ちゅうたいしょくである「黄色おうしょく」でけている。垂直すいちょく尾翼びよくの「こう」の文字もじほんあいとする操縦そうじゅうしゃ考案こうあん記入きにゅうした個別こべつ愛称あいしょうだい50戦隊せんたいにて流行りゅうこうした行為こうい

一式いっしきせん改変かいへんしただい50戦隊せんたいは9月9にち、アキャブこう爆撃ばくげき来襲らいしゅうした多数たすうのブレニムやハドソン迎撃げいげきした2空戦くうせんにて4撃墜げきついだい113飛行ひこうたいローヌ中尉ちゅうい・レイド軍曹ぐんそうだい60飛行ひこうたいマックリッジ少尉しょういだい62飛行ひこうたいホワイト軍曹ぐんそう)、3撃破げきは埠頭ふとう輸送ゆそうせんばくげきけたものの一式いっしきせん喪失そうしつかった[89]。10月まつ航空こうくう撃滅げきめつせんではのちのトップ・エースとなるだい50戦隊せんたい穴吹あなぶきさとし軍曹ぐんそうがP-40E 1撃墜げきついだい51戦闘せんとう航空こうくうぐんダニング中尉ちゅうい)、一式いっしきせんによる当人とうにん撃墜げきつい戦果せんかだい1ごう記録きろく[91]

11月10にちだい64戦隊せんたい一式いっしきせん1モホーク4交戦こうせん格闘かくとうせんで2撃墜げきついだい155飛行ひこうたいスカイプ少尉しょうい・マクランプ少尉しょうい[91]、29にちだい64戦隊せんたいだい2中隊ちゅうたいラングーン夜間やかん空襲くうしゅう飛来ひらいしたB-24を迎撃げいげき照空燈しょうくうとう捕捉ほそくされた1夜戦やせん撃墜げきついだい436ばくげき飛行ひこうたいアッカーマン少尉しょうい)、ビルマ航空こうくうせんにおけるB-24はつ撃墜げきつい記録きろく、これらはいずれも中村なかむら三郎さぶろう中尉ちゅうい戦果せんかであった[91]。12月24にちにはだい50戦隊せんたい穴吹あなぶき軍曹ぐんそうが「しゅあし格納かくのうわすれた状態じょうたい」でハリケーンと交戦こうせんし2撃墜げきついだい607ないしだい615飛行ひこうたいコストロミン軍曹ぐんそう・ファーガスン中尉ちゅうい)。

1943ねん1がつ23にちだい50戦隊せんたい一式いっしきせんバトル・オブ・ブリテン以来いらい古参こさんであるだい135飛行ひこう隊長たいちょうガイディング大尉たいい撃墜げきついするも、だい3中隊ちゅうたいちょう中崎なかざきしげる大尉たいい喪失そうしつ[92]。2月には一式いっしきせんがた(キ43-II)に改変かいへんしていただい64戦隊せんたい一部いちぶ復帰ふっきしたが、12にちに「軍神ぐんしん加藤かとう少将しょうしょう」の後任こうにんであるだい5だい戦隊せんたいちょう八木やぎ正巳まさみ少佐しょうさキャクトゥ飛行場ひこうじょう攻撃こうげき優位ゆういから出現しゅつげんしたハリケーンの攻撃こうげき戦死せんし[93]、さらに25にちにはインドのチンスキア攻撃こうげきだい6だい戦隊せんたい長明ちょうめいらくたけ少佐しょうさ戦死せんし戦死せんし当日とうじつにん戦隊せんたいちょう辞令じれい拝受はいじゅ、それまでは戦隊せんたいちょう代理だいり)、この時期じきだい64戦隊せんたい戦隊せんたいちょう中隊ちゅうたいちょうといった幹部かんぶつづけに戦死せんししている[94]とくあきららく少佐しょうさだい59戦隊せんたい時代じだいの1941ねん中頃なかごろ中国ちゅうごく戦線せんせんにて一式いっしきせん初陣ういじんかざった指揮しきかん操縦そうじゅうしゃであった。

なお、2がつ10日とおかには陸軍りくぐん船舶せんぱく部隊ぶたい特殊とくしゅせんあきつまる」がスラバヤ、タンジョンベラ岸壁がんぺき接岸せつがん輸送ゆそう一式いっしきせんがた50揚陸ようりくだい50戦隊せんたいは20だい59戦隊せんたいは30受領じゅりょうしている。「あきつまる」は上陸じょうりくせんとき上陸じょうりく部隊ぶたい空中くうちゅう掩護えんごするために飛行ひこう甲板かんぱんそな航空こうくう母艦ぼかん機能きのうゆうする揚陸ようりくかん上陸じょうりくよう舟艇しゅうてい母船ぼせん)であった(のちにはこの空母くうぼ機能きのう船団せんだん護衛ごえいようたいせん哨戒しょうかい運用うんようとく改装かいそう)。

2がつ23にち、ラングーンに夜間やかん来襲らいしゅうしたB-24をだい50戦隊せんたいだい2中隊ちゅうたい迎撃げいげき、1月明げつめいたよりに指揮しきかんたる1夜戦やせん撃墜げきついだい159飛行ひこう隊長たいちょうスキナー中佐ちゅうさ[94]

3月14にちからの一連いちれんのアキャブ方面ほうめん航空こうくう撃滅げきめつせん前期ぜんき作戦さくせん一式いっしきせん喪失そうしつなく一方いっぽうてきにハリケーン9・ブレニム4ウェリントン1撃墜げきつい[95]撃破げきはふくめるとけい22げき墜破のだい戦果せんかげた。さらに地上ちじょうでも日本にっぽん陸軍りくぐん連合れんごうぐんたい優勢ゆうせいであり、イギリス・インドぐんえいしるしぐんだい6旅団りょだん(イギリス本土ほんど出身しゅっしん白人はくじんのみで構成こうせいされた精鋭せいえい部隊ぶたいであるが、4がつ6にちには旅団りょだんちょう自身じしん日本にっぽんぐん捕虜ほりょとなるなど敗走はいそう)・だい55旅団りょだん撃退げきたい莫大ばくだいりょう補給ほきゅうひん日本にっぽんぐん獲得かくとくした[96]。21にちからはアキャブ方面ほうめん航空こうくう撃滅げきめつせん後期こうき作戦さくせん開始かいし、23にち早朝そうちょうにはだい64戦隊せんたい一式いっしきせん10ドハザリ飛行場ひこうじょう奇襲きしゅう在地ざいちたい対地たいち砲撃ほうげき戦果せんかはブレニム1だい11飛行ひこうたい破壊はかい、ブレニム5損傷そんしょうだい60飛行ひこうたい)、ヴェンジャンス2損傷そんしょうだい110飛行ひこうたい[97]。24にちにはだい64戦隊せんたいだい6だい戦隊せんたいちょうとして空中くうちゅう射撃しゃげき名人めいじんである広瀬ひろせ吉雄よしお少佐しょうさ着任ちゃくにん同日どうじつ早朝そうちょうには飛行ひこうだい34戦隊せんたいきゅうきゅうそうけい掩護えんごして再度さいどドハザリ飛行場ひこうじょう攻撃こうげきおこなわれたが、悪天候あくてんこうのためチッタゴン攻撃こうげきえられたが戦果せんかはなかった[97]。25にち今度こんどのドハザリ飛行場ひこうじょう攻撃こうげきには飛行ひこうだい12戦隊せんたいだい98戦隊せんたいきゅうななじゅうばく投入とうにゅうさればくげき成功せいこう地上ちじょうのハリケーン1・ブレニム1・ヴェンジャンス1・スピットファイア偵察ていさつがた2粉砕ふんさい、ブレニム3損傷そんしょうし、滑走かっそう着弾ちゃくだんによりドハザリ飛行場ひこうじょうをまる1にち使用しよう不能ふのうとなった[97]一式いっしきせんきゅうななじゅうばく損害そんがい皆無かいむであり、25にち攻撃こうげきにはだい79飛行ひこうたいのハリケーン3がリッツ飛行場ひこうじょうから迎撃げいげきにあがっていたものの、べつ作戦さくせんのため飛来ひらいちゅうであっただい50戦隊せんたい一式いっしきせんとされる攻撃こうげき撃退げきたいされている[97]

1943ねんチッタゴン駐屯ちゅうとんするだい166飛行ひこうたいのハリケーンMk.IIC。同年どうねんはるごろにビルマ戦線せんせん投入とうにゅうされたMk.IICはHS.404 20mm機関きかんほう4もん装備そうびしたじゅう武装ぶそうがた爆撃ばくげきにとってはおそれるべき相手あいてであったが、おも機関きかんほう運動うんどうせい低下ていかしているため一式いっしきせんにとってはくみやす相手あいてであった[98]

5月26にちだい27飛行ひこうたいボーファイター3がトングー飛行場ひこうじょうちょう低空ていくう飛行ひこう奇襲きしゅう対地たいち銃砲じゅうほうげきにより操縦そうじゅうしゃ1めい一式いっしき戦機せんきない戦死せんし、しかし帰還きかんちゅう指揮しきかんたるボーファイター1一式いっしきせん追撃ついげき撃墜げきついした(だい27飛行ひこう隊長たいちょうステイタム少佐しょうさ)。この戦果せんか石井いしい早苗さなえ中尉ちゅういのものであり、石井いしい中尉ちゅうい機関きかんほう故障こしょうのため主翼しゅよくつばさはしをステイタム少佐しょうさ尾翼びよくて「撃墜げきつい」している(石井いしい中尉ちゅういじょうつばさはしすこしへこましただけで無事ぶじ帰還きかん[99]。27にち侵攻しんこうせんでは空中くうちゅう集合しゅうごう失敗しっぱいにより単独たんどく爆撃ばくげきかった友軍ゆうぐんきゅうきゅうそうけい8喪失そうしつするも、だい50戦隊せんたいは29にち・30にち・31にち空戦くうせん一方いっぽうてきに5戦闘せんとう撃墜げきつい(ハリケーン4、モホーク1)。31にちにはだい64戦隊せんたいがB-24D 6交戦こうせん多数たすう一式いっしきせん被弾ひだん不時着ふじちゃくたもののB-24D 1撃墜げきついだい9ばくげき飛行ひこうたいジャンセン中尉ちゅうい)、これはひるせんでははつのB-24撃墜げきついである(夜戦やせんではすでに撃墜げきついみ)。4月1にちあきらこう甲種こうしゅ学生がくせい修了しゅうりょうしたひのき中尉ちゅうい遠藤えんどう中尉ちゅういだい64戦隊せんたい復帰ふっき同日どうじつ戦力せんりょく低下ていかしていただい64戦隊せんたい一式いっしきせん稼働かどう10きゅうななじゅうばく掩護えんごフェンニー攻撃こうげきするも、高空こうくうせしていたハリケーン Mk.IICの攻撃こうげき強力きょうりょく火力かりょくによりきゅうななじゅうばく3喪失そうしつ、1撃破げきはされ、戦果せんかはハリケーン1撃墜げきついのみであった(だい615飛行ひこうたいオートマンス中尉ちゅうい[99]

4がつ9にちだい64戦隊せんたい一式いっしきせん16戦闘せんとうたい単独たんどくでチッタゴンを攻撃こうげきしハリケーンと交戦こうせん一方いっぽうてき指揮しきかんふくむ2撃墜げきついだい67飛行ひこう隊長たいちょうバッハマン少佐しょうさ、クリスチャンスン中尉ちゅうい)、一式いっしきせんぜん無事ぶじ帰還きかんした[100]。12にちだい64戦隊せんたいひのき中尉ちゅうい遠藤えんどう中尉ちゅういあかりこうからかえった、従来じゅうらいの3編隊へんたいから4編隊へんたい(2単位たんい2)でたたかう「ロッテ戦法せんぽう」の講習こうしゅうのためタイのドムアン飛行場ひこうじょう出張しゅっちょう[101][102]

5月6にちだい64戦隊せんたいだい2中隊ちゅうたいくだりもとひらおとこ中尉ちゅういがラングーン偵察ていさつ飛来ひらいしただい9偵察ていさつ飛行ひこうたいのF-4(P-38の武装ぶそう偵察ていさつがた)を攻撃こうげきだい一撃いちげきへんはつ破壊はかいするも機関きかんほう故障こしょうのため撃墜げきつい断念だんねん。かわりに日本にっぽんぐん飛行場ひこうじょう強制きょうせい着陸ちゃくりくさせるためF-4と並行へいこう飛行ひこう操縦そうじゅうせきしに拳銃けんじゅうきつけ威嚇いかく操縦そうじゅうしゃハンフリー少尉しょういもハンカチを降伏ごうぶく意思いし表明ひょうめいするも手負ておいのF-4は水田すいでん墜落ついらくした(ハンフリー少尉しょうい生存せいぞん捕虜ほりょ)。この出来事できごとは「空中くうちゅうぶつ」「空中くうちゅう捕獲ほかくぶつ綺談きだん」として報道ほうどうされ日本にっぽん全国ぜんこくられることとなっている[103][104]

ビルマ戦線せんせんでは雨季うき期間きかんちゅう航空こうくう作戦さくせん不能ふのうないし低調ていちょうになるため、雨季うきのぞ大戦たいせん中期ちゅうきたる1942ねん9がつ9にちから1943ねん5がつ29にちにかけての戦果せんか損害そんがい以下いかごと[105]

  • だい50戦隊せんたいだい64戦隊せんたい一式いっしきせん連合れんごう軍機ぐんき62撃墜げきつい記録きろくたいする一式いっしきせん空戦くうせん損害そんがい36喪失そうしつ
    • 撃墜げきつい連合れんごう軍機ぐんき機種きしゅ内訳うちわけ戦闘せんとう44ばくげきとう17偵察ていさつ1
      • 撃墜げきつい戦闘せんとう詳細しょうさいはハリケーン36・モホーク5・P-40 3ばくげきとうはB-24 5・ブレニム5B-25 3・ウェリントン2・ハドソン1・ボーファイター1偵察ていさつはF-4 1
    • 一式いっしきせん喪失そうしつ36のうち連合れんごうぐん戦闘せんとうによって撃墜げきついされたものは24ざんばくげき防御ぼうぎょ砲火ほうか対空たいくう砲火ほうかなどによるもの。

後期こうき[編集へんしゅう]

雨季うき突入とつにゅうした1943ねん6がつ6にち少数しょうすう防空ぼうくうたいのこだい64戦隊せんたい主力しゅりょくはマレーに後退こうたい戦力せんりょく回復かいふく。7月19にち飛来ひらい受領じゅりょうした一式いっしきせんがた(キ43-II)補充ほじゅう以降いこう先月せんげつより量産りょうさんはじまった操縦そうじゅうせき背面はいめん防弾ぼうだん鋼板こうはんゆうする機体きたいで、8がつ6にちには航空こうくうきゅう揮発きはつ航空こうくういち〇〇揮発きはつオクタン価おくたんか向上こうじょう[97]、さらに10がつ14にち補充ほじゅう艤装ぎそうがP-40とくらべても遜色そんしょくないものになるといった装備そうびしつ自体じたい向上こうじょう見受みうけられる[99]

だい159飛行ひこうたいのリベレーターB Mk.II(B-24)

はやくも7がつには戦闘せんとう開始かいしだい64戦隊せんたいおもにB-24と交戦こうせん、9がつ10日とおか・13にちには偵察ていさつであるF-4をつづけに撃墜げきつい間接かんせつてきにそれら爆撃ばくげき来襲らいしゅうふせいだ[106]雨期うきけの10がつ9にちだい64戦隊せんたいはラングーンに夜間やかん来襲らいしゅうしたB-24 3交戦こうせん指揮しきかんたる1夜戦やせん撃墜げきついだい159飛行ひこう隊長たいちょうマッシー少佐しょうさ[106]

当時とうじ、この方面ほうめんでは物資ぶっし輸送ゆそうのためインドから中国ちゅうごくこんあきらいたる「援航空こうくう」を輸送ゆそう急増きゅうぞうしており、だい64戦隊せんたいだい50戦隊せんたいなどは「辻斬つじぎ」としょうすそれらの撃墜げきつい度々たびたび実施じっし、10月13にちにはだい50戦隊せんたい一式いっしきせんC-87 1(エルキン大尉たいい)・C-46 1C-47 1撃墜げきつい筆頭ひっとう[106]おおくの輸送ゆそうとしていった。

だい684飛行ひこうたいのモスキートPR Mk.XVI。PR Mk.IXの改良かいりょうがた

11月2にちだい64戦隊せんたい黒江くろえ大尉たいい高速こうそく偵察ていさつモスキートPR Mk.IX 1はつ撃墜げきついだい684飛行ひこうたいフェルディング中尉ちゅうい[100]。3にち、ビルマ戦線せんせんだい3の戦闘せんとうたいであるだい33戦隊せんたい一式いっしきせん装備そうび)、つづいて22にちには教導きょうどう飛行ひこうだい204戦隊せんたい一式いっしきせん装備そうび)が進出しんしゅつ[100]

11月22にちだい50戦隊せんたいだい33戦隊せんたい一式いっしきせん22はチッタゴンに侵攻しんこう、レーダーで探知たんち迎撃げいげきにあがっていたスピットファイア10・ハリケーン57交戦こうせん。この空戦くうせん一式いっしきせん喪失そうしつはなくぜん無事ぶじ帰還きかんした一方いっぽうで、スピットファイア1だい615飛行ひこうたいレオナード少尉しょうい)・ハリケーン1だい146飛行ひこうたいグリフィス軍曹ぐんそう水田すいでん不時着ふじちゃく)を撃墜げきついした。やく2.5ばい圧倒的あっとうてきすうまさ邀撃ようげきできたにかかわらず、ビルマ航空こうくうせんでは初陣ういじんとなるスピットファイアは2にちのモスキートと同様どうよう登場とうじょう早々そうそう一式いっしきせん一方いっぽうてき撃墜げきついされた[100]

11月25にちより、中国ちゅうごく・ビルマ方面ほうめんアメリカ陸軍りくぐん航空こうくうぐんそう司令しれいかん日本にっぽんぐん拠点きょてんであるラングーンをべい英軍えいぐん協同きょうどうによる連続れんぞく戦略せんりゃくばくげき敢行かんこう。25にち、この爆撃ばくげきちょく掩機としてえらばれた長距離ちょうきょり戦闘せんとうP-51Aはラングーン上空じょうくうで(ばくげきとの空中くうちゅう集合しゅうごう失敗しっぱいしたためP-51A単独たんどく飛来ひらい)、午後ごごにはB-25を掩護えんごだい64戦隊せんたい一式いっしきせん交戦こうせんした。結果けっか一式いっしきせんは1喪失そうしつ落下傘らっかさん降下こうか生還せいかん)するも最高さいこう指揮しきかんふくむP-51A 2撃墜げきついした(だい530ばくげき航空こうくうぐん指揮しきかんミルトン中佐ちゅうさだい530戦闘せんとうばくげき飛行ひこうたいロケット少尉しょうい[67]

11月27にち、アメリカぐんせんばく連合れんごう84中隊ちゅうたいちょう黒江くろえ大尉たいいひきいるだい64戦隊せんたいだい3中隊ちゅうたい一式いっしきせん8しきせん1しきせん戦力せんりょく補充ほじゅうのためおくられていたものでだい64戦隊せんたい極少きょくしょうすう保有ほゆう当時とうじ、ビルマ方面ほうめん陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたい主力しゅりょく後述こうじゅつりゅういちごう作戦さくせん準備じゅんび後方こうほうにいたため戦力せんりょくすくなかった。黒江くろえ大尉たいいだい5飛行ひこう師団しだん参謀さんぼうちょう鈴木すずききょう大佐たいさから増援ぞうえんおくろうかとわれたがことわっている)、対空たいくう監視かんし哨と地上ちじょうからの無線むせん電話でんわ誘導ゆうどうにより有利ゆうり位置いち邀撃ようげき一式いっしきせん1しきせん1喪失そうしつしエースひのき與平よへい中尉ちゅうい重傷じゅうしょううも[ちゅう 14]すう圧倒的あっとうてきおとるこの状況じょうきょうでP-51A 4だい530戦闘せんとうばくげき飛行ひこうたいブリッグス中尉ちゅうい・ウィルマー中尉ちゅうい・グレイ中尉ちゅうい・ホーガン中尉ちゅうい)・P-38H 2だい459戦闘せんとう飛行ひこうたいオーメイヤー大尉たいい・ハーラン中尉ちゅうい)・B-24 3だい308ばくげき航空こうくうぐんピッカード中尉ちゅうい・ケラム少尉しょういだい7ばくげき航空こうくうぐんマレイ中尉ちゅういけい戦闘せんとう6ばくげき3撃墜げきついすう撃破げきはするだい戦果せんかげた[107]。27にちのこのP-38はビルマ航空こうくうせん初陣ういじんかざったものであるが、先日せんじつのP-51やスピットファイアともどもべいえい新鋭しんえい戦闘せんとう一式いっしきせんとのはつ交戦こうせん完敗かんぱいしたこととなる[107]。この空戦くうせんにはしきふく戦闘せんとうほふりゅう(キ45あらため)8装備そうびした飛行ひこうだい21戦隊せんたい途中とちゅう参戦さんせんしているが、戦闘せんとうはほとんどだい64戦隊せんたいの9によっておこなわれとく一式いっしきせん黒江くろえ大尉たいいひのき中尉ちゅういすみ野中のなかじょう活躍かつやく、むしろおくれてやってきたしきふくせんがP-51A 2てられていたところを黒江くろえ大尉たいい一式いっしきせんたすけられるなど戦力せんりょくとしてはこんひとつであり[ちゅう 15]だい21戦隊せんたいしきふくせん1喪失そうしつ戦果せんかはB-24 1撃墜げきつい報告ほうこくのみであった。この報告ほうこくされただい64戦隊せんたい撃墜げきつい報告ほうこくはP-51 4・P-38 2・B-24 2であり多大ただい戦果せんか誤認ごにんおお空中くうちゅうせんにもかかわらずじつ戦果せんか一致いっちさせている。撃墜げきつい認定にんていきびしい64戦隊せんたいではすくなからずこのような事態じたい発生はっせいしていること特筆とくひつされる[108]

よく28にちおなじくアメリカぐんせんばく連合れんごうだい64戦隊せんたいだい3中隊ちゅうたい一式いっしきせん6迎撃げいげき、P-51A 1撃墜げきついし(だい530戦闘せんとうばくげき飛行ひこうたいエンジェル中尉ちゅうい)2撃破げきは[107]

12月5にち先月せんげつより計画けいかくされていたせんばく連合れんごうをもってインド東部とうぶカルカッタ港湾こうわん日本にっぽん陸海りくかいぐん協同きょうどう爆撃ばくげきするりゅういちごう作戦さくせん発動はつどうほん作戦さくせん陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたいのみならず本来ほんらい担当たんとうがいである南西なんせい方面ほうめん艦隊かんたい海軍かいぐん航空こうくう部隊ぶたい少数しょうすうながら参加さんかし、れいせんおよび一式いっしき陸上りくじょう攻撃こうげき投入とうにゅうされている)。主力しゅりょくのカルカッタ侵攻しんこう先立さきだ各地かくちんでいたいち〇〇しき司令しれい偵察ていさつ新司しんじ偵」すうがチャフを事前じぜん散布さんぷし、ビルマのマグエ飛行場ひこうじょうぐんからはだい64戦隊せんたいだい33戦隊せんたいだい204戦隊せんたい一式いっしきせん74だい98戦隊せんたいきゅうななじゅうばく17出撃しゅつげきしカルカッタを目指めざした。進行しんこう途上とじょう邀撃ようげきハリケーンの奇襲きしゅうきゅうななじゅうばく1喪失そうしつするも一式いっしきせんは1撃墜げきついだい258飛行ひこうたいブラウン大尉たいい)、またばくげき自体じたい目標もくひょうドック(キング・ジョージ・ドック)をもうとら任務にんむ完全かんぜん成功せいこうおさめた。海軍かいぐん航空こうくう部隊ぶたいだいさんさんいち海軍かいぐん航空こうくうたいれいせん27だいなな〇五海軍航空隊一式いっしきりくおさむ9陸軍りくぐんせんばく連合れんごう出撃しゅつげきの1あいだ同地どうち侵攻しんこう、こちらもばくげき成功せいこうさせている。空戦くうせんでは日本にっぽんぐん戦闘せんとうたいはイギリス空軍くうぐん戦闘せんとうたい終始しゅうしあつだおし、一式いっしきせんはスピットファイア1・ハリケーン7撃墜げきついれいせんはハリケーン3のみを撃墜げきつい一方いっぽうてき戦闘せんとう一式いっしきせんれいせん喪失そうしつかった[109]。なお、ほん作戦さくせん一時いちじてきにマグエ飛行場ひこうじょうぐん集結しゅうけつした陸海りくかいぐん戦闘せんとう操縦そうじゅうしゃ仲良なかよ行水ぎょうずいし、たがいの戦闘せんとう見学けんがくするなどなごやかな雰囲気ふんいきであり、ほん作戦さくせん従軍じゅうぐんしただい64戦隊せんたいだい3中隊ちゅうたいちょう黒江くろえ大尉たいいは「前線ぜんせんのわれわれにかんするかぎり、戦後せんごにいろいろと沙汰ざたされたような陸海りくかいぐん反目はんもくなどは、まったくなかったものと、わたししんじている。わたしは、まん腔の信頼しんらい敬意けいいとをもって、このかぎらず、海軍かいぐん航空こうくうたい礼賛らいさんして、その奮戦ふんせんをたたえたい」とべてる[110]

12月10にちだい50戦隊せんたい一式いっしきせん25は「辻斬つじぎり」をおこないC-47など輸送ゆそう4だい2兵員へいいん輸送ゆそう飛行ひこうたいヒルシバーグ大尉たいい・ハリスン少尉しょういとう)、B-25 1捜索そうさく救助きゅうじょたいポーター大尉たいい)を撃墜げきつい。このB-25協同きょうどう撃墜げきついしゃ一人ひとりである前川まえかわ美雄よしお伍長ごちょうは、1942ねん4がつ18にちのB-25によるドゥーリトル空襲くうしゅうあねくした人物じんぶつであり、この撃墜げきついは「あねかたき」となった[109]

一方いっぽうで12がつ中旬ちゅうじゅんから下旬げじゅんにかけて、「援蔣航空こうくう」の抜本ばっぽんてき妨害ぼうがいのためせんばく連合れんごうをもってチンスキア飛行場ひこうじょうこんあきら雲南うんなんえき飛行場ひこうじょう攻撃こうげきしたさいにはアメリカ陸軍りくぐんのP-40と交戦こうせんするも、優位ゆういからのせや執拗しつよう追尾ついび攻撃こうげきけたために空戦くうせん一式いっしきせん11ばくげき6喪失そうしつ、P-40は3喪失そうしつのみ(一式いっしきせん攻撃こうげきにより1きゅうななじゅうばく防御ぼうぎょ放火ほうかにより1きゅうきゅうそうけいとの衝突しょうとつ1)と一方いっぽうてき敗北はいぼくこうむっている[111]。26にちにはスピットファイア1撃墜げきついするも一式いっしきせん1きゅうななじゅうばく2喪失そうしつ、28にち、P-40 1撃墜げきつい一式いっしきせん1喪失そうしつ、31にち、スピットファイア1撃墜げきつい一式いっしきせん1喪失そうしつきゅうななじゅうばく2喪失そうしつと、11月下旬げじゅんから12がつ初旬しょじゅんまでだい戦果せんか記録きろくしていた一式いっしきせん活躍かつやくかげりがられるようになった[112]連合れんごうぐんはビルマ戦線せんせん日本にっぽんぐんたいしはっきりと航空こうくう優勢ゆうせい確立かくりつできるようになった時期じきは1943ねんの12月からとしょうしており、日本にっぽんぐんのエースのおおくもこのころ負傷ふしょう転属てんぞく命令めいれいにより内地ないち帰国きこくしている(ひのき中尉ちゅうい黒江くろえ大尉たいい穴吹あなぶき軍曹ぐんそう下川しもかわ幸雄ゆきお軍曹ぐんそうとう[113]

1944ねん1がつ13にちだい50戦隊せんたい対地たいち掃射そうしゃ飛来ひらいしたボーファイター1撃墜げきついだい211飛行ひこうたいボーヴィアー中尉ちゅうい[113]。15にち前線ぜんせんせいそら出撃しゅつげきしただい64戦隊せんたいはスピットファイア2だい136飛行ひこうたいファージ中尉ちゅうい・ガーヴァン中尉ちゅうい)、ハリケーン1インド空軍くうぐんだい6飛行ひこうたいバーラー中尉ちゅうい不時着ふじちゃく)を撃墜げきついするも5喪失そうしつ、ベテラン多久たく和茂かずしげ曹長そうちょうふくむこの操縦そうじゅうしゃ5めい戦死せんしだい64戦隊せんたい編成へんせい以来いらいだい打撃だげきであった[113]

だい607飛行ひこうたいのスピットファイア Mk.VIII。Mk.Vの改良かいりょうがた

1がつ20日はつかだい204戦隊せんたい一式いっしきせんはスピットファイアMk.V 2撃墜げきついだい607飛行ひこうたいソール准尉じゅんい・ケネディ軍曹ぐんそう)し3撃破げきは損害そんがいは1不時着ふじちゃくのみ。27にちには損害そんがいくハリケーン2撃墜げきつい(インド空軍くうぐんだい6飛行ひこうたいバーラー中尉ちゅうい・ヴァーマ中尉ちゅうい[114]。2月5にちだい64戦隊せんたい損害そんがいくスピットファイア1だい136飛行ひこうたいカーロン曹長そうちょう)・ハリケーン2だい11飛行ひこうたいブライト中尉ちゅうい・コーベット軍曹ぐんそう)を撃墜げきつい[114]

だい50戦隊せんたい操縦そうじゅうしゃが「白線はくせん4ほんてき[ちゅう 16][115]んでいただい1とくにん航空こうくうぐんのP-51A

2がつ14にちだい50戦隊せんたい増援ぞうえんのアメリカ陸軍りくぐんだい1とくにん航空こうくうぐんのP-51A 13交戦こうせん、2撃墜げきつい(ミラー大尉たいい・ヘルツァー中尉ちゅうい)し1撃破げきは一式いっしきせん損害そんがい不時着ふじちゃく1であった。だい1とくにん航空こうくうぐん指揮しきかんコクラン大佐たいさ一式いっしきせん攻撃こうげき墜落ついらく寸前すんぜん状態じょうたいであり、上級じょうきゅう司令しれいきたアフリカ戦線せんせんかえりの英雄えいゆうである大佐たいさたい以降いこう空戦くうせん参加さんかきんじている[116]

3月15にちインパール作戦さくせん発動はつどうかく地上ちじょう部隊ぶたい侵攻しんこう開始かいし翌朝よくあさには呼応こおうしただい50戦隊せんたいだい64戦隊せんたいだい204戦隊せんたい一式いっしきせんインパール飛行場ひこうじょう攻撃こうげきし、だい136飛行ひこうたいのスピットファイアと交戦こうせんするも戦果せんかなくだい204戦隊せんたいが1喪失そうしつだい64戦隊せんたいのエース伊藤いとう直之なおゆき中尉ちゅうい重傷じゅうしょうった[117]。17にち午後ごごだい204戦隊せんたいはモーニン飛行場ひこうじょう攻撃こうげきだい81飛行ひこうたい交戦こうせん、1喪失そうしつするも指揮しきかんかつエースであるスピットファイア1撃墜げきついだい81飛行ひこう隊長たいちょうホワイタモア少佐しょうさ)、離陸りりく態勢たいせいの1撃滅げきめつ(クールーター大尉たいい炎上えんじょう)、2地上ちじょう破壊はかいした[118]

4がつ4にちだい50戦隊せんたい駐屯ちゅうとんするサモンカン飛行場ひこうじょう対地たいちロケットだん装備そうびしただい1とくにん航空こうくうぐんのP-51が襲撃しゅうげき一式いっしきせん15地上ちじょう破壊はかいだい3中隊ちゅうたい戦力せんりょく喪失そうしつ。17にちだい64戦隊せんたいはインパールでべいえい軍機ぐんき波状はじょう攻撃こうげき戦果せんか一方いっぽうてきに5を、だい50戦隊せんたいもP-38迎撃げいげきに1喪失そうしつした[115]当時とうじ一式いっしきせんせいそらちょく掩・迎撃げいげきのみならず、積極せっきょくてきばくそうしての対地たいち攻撃こうげき威力いりょく偵察ていさつものりょう投下とうかなど様々さまざま任務にんむ多用たようされている[119]

4がつ26にちだい64戦隊せんたい一式いっしきせん2はB-29と交戦こうせん中村なかむら大尉たいいがかなり被弾ひだんしたものの喪失そうしつく、しかしB-29も撃破げきはいたけにわった。これはB-29にとって史上しじょうはつ空戦くうせんである[120]

5かく飛行ひこう部隊ぶたい損害そんがいしつつ6がつ17にちまでインパール作戦さくせん協力きょうりょく。22にち作戦さくせん地域ちいきをインパールからフーコンてんじ、アメリカぐん装備そうびちアメリカぐん訓練くんれんけた中国ちゅうごくぐんであるべいしき装備そうび重慶たーちんぐん雲南うんなん遠征えんせいぐん)の攻勢こうせいにあった地上ちじょう部隊ぶたい掩護えんごものりょう投下とうかおこないつつ、アメリカ陸軍りくぐん航空こうくうぐん空戦くうせんかさねている。

7がつ29にちだい50戦隊せんたいだい204戦隊せんたい一式いっしきせん22ミートキーナ侵攻しんこう。ビルマ航空こうくうせんでは初陣ういじんとなるP-47 4交戦こうせん損害そんがいく1撃墜げきついだい88戦闘せんとう飛行ひこうたいオースチン少尉しょうい)。スピットファイア、P-51、P-38につづきまたも連合れんごうぐん新鋭しんえい戦闘せんとう一式いっしきせんはつ交戦こうせん一方いっぽうてき撃墜げきついした[12]

以下いか大戦たいせん後期こうきたる1943ねん7がつ2にちから1944ねん7がつ30にちにかけての戦果せんか損害そんがいで、単純たんじゅん撃墜げきつい戦果せんかのみの比較ひかくで(日本にっぽんぐん劣勢れっせい大戦たいせん後期こうきたる1944ねんなかばにおいても)ビルマで帝国ていこく陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたい連合れんごうぐん空軍くうぐん互角ごかく勝負しょうぶをしており[12]主力しゅりょくとなる一式いっしきせんいたっては幾度いくど勝利しょうりおさめていた。

  • 一式いっしきせん連合れんごう軍機ぐんき135撃墜げきつい記録きろくたいする空戦くうせん損害そんがい83喪失そうしつ
    • 撃墜げきつい連合れんごう軍機ぐんき機種きしゅ内訳うちわけ戦闘せんとう70ばくげきとう32輸送ゆそうとう33
      • 撃墜げきつい戦闘せんとう詳細しょうさいはハリケーン24・スピットファイア18・P-51 15・P-38 8・P-40 4・P-47 1
      • ぎゃく一式いっしきせん撃墜げきついした連合れんごうぐん戦闘せんとう詳細しょうさいはハリケーン3・スピットファイア16・P-51 12・P-38 13・P-40 14・スピットファイアまたはハリケーン3とう
    • この当時とうじのビルマ航空こうくうせん全体ぜんたい日本にっぽんぐん戦闘せんとうけい142撃墜げきつい連合れんごうぐん戦闘せんとうけい127撃墜げきつい

末期まっき[編集へんしゅう]

末期まっきビルマ航空こうくうせんでスピットファイアMk.VIIIを装備そうび一式いっしきせんよんしきせん交戦こうせんしただい17飛行ひこうたいとその操縦そうじゅうしゃ

1944ねん8がつだい64戦隊せんたい一式いっしきせんさんがた(キ43-III)に、だい50戦隊せんたい少数しょうすう一式いっしきせんのこしつつもよんしきせんへと機種きしゅ改変かいへんだい64戦隊せんたいはこのころひしげはじめあがえつ守備しゅびたいたいする支援しえん攻撃こうげきものりょう投下とうかおこなっている[121]

10月3にちだい64戦隊せんたい一式いっしきせんメイクテーラ飛行場ひこうじょう襲撃しゅうげきしたモスキートを迎撃げいげき高速こうそくモスキートを撃墜げきついするため従来じゅうらいビルマ航空こうくうせん多用たようされていた「おくおおかみ戦法せんぽう巡航じゅんこう速度そくど帰還きかんちゅう不意ふいとっき1撃墜げきついした(だい45飛行ひこうたいプロクター大尉たいい[122]。5にち指揮しきかんみずか単機たんき飛行場ひこうじょう来襲らいしゅうしたボーファイターを中村なかむら大尉たいい執拗しつよう追尾ついびし1撃墜げきついだい177飛行ひこう隊長たいちょうヒル中佐ちゅうさ[122]

10月6にちマンダレー来襲らいしゅうしたB-25 12だい64戦隊せんたい迎撃げいげきし1撃墜げきついするも(だい83ばくげき飛行ひこうたいコーチ中尉ちゅうい)、1喪失そうしつ[122]。この空戦くうせん中村なかむら大尉たいい僚機2一式いっしきせんけい3直上ちょくじょうからのいちげき離脱りだつ攻撃こうげきおこないコーチ中尉ちゅうい空中くうちゅう爆発ばくはつつづいて後続こうぞくにも同様どうよう直上ちょくじょう攻撃こうげきこころみたが、タイミングがずれ防御ぼうぎょ放火ほうか集中しゅうちゅうけた中村なかむら空中くうちゅう分解ぶんかい、のちに「軍神ぐんしん加藤かとう少将しょうしょう再来さいらい」とうたわれる眉目びもく秀麗しゅうれいのエース中村なかむら大尉たいい戦死せんしした。おおくのエースを輩出はいしゅつおおくの戦死せんししゃしただい64戦隊せんたい個人こじん感状かんじょう拝受はいじゅかいきゅう特進とくしん栄誉えいよかがやいたもの加藤かとう建夫たけお少将しょうしょうとこの中村なかむら三郎さぶろう中佐ちゅうさのみである。

10月18にちだい64戦隊せんたいはボーファイター1撃墜げきついするも(だい211飛行ひこうたいコールズ大尉たいい)、1喪失そうしつ[122]

10月19にちインド洋いんどよううえだい1野戦やせん補充ほじゅう飛行ひこうたい一式いっしきせんがた(キ43-II)9イギリス海軍かいぐん空母くうぼ機動きどう部隊ぶたい艦載かんさい交戦こうせんF4U編隊へんたい空母くうぼヴィクトリアス艦載かんさい)とF6F編隊へんたい空母くうぼインドミタブル」)とのあいだで30ぶん空戦くうせんおこない、4喪失そうしつするも3撃墜げきつい(F4U 2・F6F 1[123]

10月22にちだい64戦隊せんたいモールメン上空じょうくう指揮しきかんふくむB-24 3撃墜げきついだい493ばくげき飛行ひこう隊長たいちょうブランドフォード少佐しょうさ・ボドマー中尉ちゅうい・ブライヤー中尉ちゅうい[40]

11月19にちだい50戦隊せんたい一式いっしきせん1がP-38 8交戦こうせんするも2撃墜げきついした(フィックリン少尉しょうい・バウマイスター中尉ちゅうい[124]

だい273飛行ひこうたいのスピットファイアMk.VIII

12月11にちだい64戦隊せんたい一式いっしきせん28モンドウ侵攻しんこう連合れんごうぐん資材しざい集積しゅうせきしょ地上ちじょう攻撃こうげき炎上えんじょう3箇所かしょ報告ほうこく帰途きと、スピットファイアMk.VIII 12交戦こうせんするも1撃墜げきついし(だい273飛行ひこうたいバリオン准尉じゅんい)、一式いっしきせん喪失そうしつぜん帰還きかんした[124]

1945ねん1がつ9にちだい64戦隊せんたいだい50戦隊せんたいよんしきせん装備そうび)とともにアキャブおき連合れんごうぐん艦船かんせん攻撃こうげき出撃しゅつげきだい64戦隊せんたいはボーファイター1だい27飛行ひこうたい)・シーオッター1だい292飛行ひこうたい)を撃墜げきついするも、戦隊せんたい長編ちょうへんたいがスピットファイアに襲撃しゅうげきされ4喪失そうしつ戦隊せんたいちょう江藤えとう豊喜とよき少佐しょうさミエボン南方なんぽう不時着ふじちゃくしておりよく10日とおか無事ぶじ帰還きかんしたものの、僚機の3めい戦死せんしした[125]。18にち、メイクテーラのだい64戦隊せんたい残置ざんち一式いっしきせんがP-47 18・B-25 37迎撃げいげき、2編隊へんたい一式いっしきせんがP-47 1上空じょうくうからおそ撃墜げきついだい5戦闘せんとう飛行ひこうたいギルモア中尉ちゅうい[126]

2がつ19にちだい64戦隊せんたいイラワジがわ上空じょうくうでP-47と交戦こうせんし1喪失そうしつするもみや少佐しょうさが1撃墜げきついだい5戦闘せんとう飛行ひこうたいバーネ中尉ちゅうい)。つづ空戦くうせんでは池沢いけざわ軍曹ぐんそうがハリケーン1撃墜げきついだい28飛行ひこうたいハンター中尉ちゅうい[127]

だい1とくにん航空こうくうぐんのP-47D

2がつ26にち、メイクテーラ付近ふきんだい64戦隊せんたいはP-47Dと交戦こうせん、1喪失そうしつするも最高さいこう指揮しきかんふくむ2撃墜げきついだい1とくにん航空こうくうぐん指揮しきかんゲイティ大佐たいさだい6戦闘せんとう飛行ひこうたいデイヴスン少尉しょうい)。だい64戦隊せんたいはさらにベンガルわん上空じょうくうでB-29 1だい44ばくげき飛行ひこうたいリヨン大尉たいい)を撃墜げきつい[128]

4がつ24にちだい50戦隊せんたいだい64戦隊せんたい一式いっしきせんおよびよんしきせんけい15だい17飛行ひこうたいのスピットファイアと交戦こうせん、このうちだい64戦隊せんたい一式いっしきせん2がクロフォード軍曹ぐんそう撃墜げきついし、だい64戦隊せんたいはビルマ航空こうくうせんにおける最後さいご撃墜げきつい戦果せんか記録きろくした[128]。28にちだい64戦隊せんたい飛行ひこうたい長宮ながみや少佐しょうさだい9だいそして最後さいごとなるだい64せん隊長たいちょう拝命はいめい

地上ちじょうはる方面ほうめんぐんイラワジ会戦かいせんメイクテーラ攻防こうぼうせん完敗かんぱい、5月2にちにはラングーン陥落かんらくしビルマ航空こうくうせん事実じじつじょう終了しゅうりょうした。だい3航空こうくうぐんかく飛行ひこう部隊ぶたいはインドシナ、マレー、インドネシア方面ほうめん後退こうたい防空ぼうくうせんおこない、のちの敗戦はいせんむかえることとなる(#インドシナ、マレー、インドネシア方面ほうめん)。

インドシナ、マレー、インドネシア方面ほうめん[編集へんしゅう]
1945ねん3がつ22にち、ラングーンを爆撃ばくげきするだい468ちょうじゅうばくげき航空こうくうぐんのB-29。一式いっしきせんは1944ねん11月5にちにシンガポール上空じょうくうどう航空こうくうぐん最高さいこう指揮しきかん撃墜げきついした

1944ねん11月5にち、シンガポールに飛来ひらいしたB-29 53だい1野戦やせん補充ほじゅう飛行ひこうたい8だい17錬成れんせい飛行ひこうたい7からなる一式いっしきせん15迎撃げいげきし、1喪失そうしつするも最高さいこう指揮しきかんたる1撃墜げきついだい468ちょうじゅうばくげき航空こうくうぐん指揮しきかんフォールカー大佐たいさ)、同時どうじ一式いっしきせんによるB-29はつ撃墜げきつい戦果せんかげた[40]

1945ねん1がつ24にち・29にちスマトラ島すまとらとうパレンバンにイギリス海軍かいぐんだい63空母くうぼ機動きどう部隊ぶたい艦載かんさい来襲らいしゅう。パレンバン防空ぼうくう主力しゅりょくとなる飛行ひこうだい87戦隊せんたいしきせん装備そうび)のほか、だい26戦隊せんたいだい33戦隊せんたい一式いっしきせん装備そうびだい33戦隊せんたい装備そうび2のみ)、だい21戦隊せんたいしきふくせん装備そうび)が担当たんとうしており、2日間にちかん空戦くうせんでは日本にっぽんぐんは20喪失そうしつ、イギリスぐんは16(さらに帰途きと不時着ふじちゃくすい11ちゃくかん事故じこ14わせるとけい41のぼる)を喪失そうしつしている[129]

どう時期じきほん方面ほうめんスンバワとうビワにて本来ほんらい教育きょういく部隊ぶたいであるだい17錬成れんせい飛行ひこうたい飛行ひこう隊長たいちょう教官きょうかんじょきょう隊員たいいんとくみさお1)からなる臨時りんじ防空ぼうくう戦闘せんとうたい一式いっしきせん12)を編成へんせい。4月6にち、ニューギニア方面ほうめんから撤退てったいする地上ちじょう部隊ぶたい将兵しょうへい1,800めい満載まんさいしたけい巡洋艦じゅんようかん五十鈴いすず」および水雷すいらいてい」・掃海そうかいてい2せき攻撃こうげきするため飛来ひらいした、だいいちだい18飛行ひこうたいだい2飛行ひこうたいB-25 20臨時りんじ防空ぼうくう戦闘せんとうたい一式いっしきせん2迎撃げいげきばくげき妨害ぼうがい艦艇かんてい損害そんがいし。20ふんにはだいとしてだい21飛行ひこうたいだい24飛行ひこうたいのB-24 9飛来ひらいするもどう戦闘せんとうたいからも増援ぞうえん一式いっしきせん2到着とうちゃく交戦こうせん、マクドナルド大尉たいい・フォード中尉ちゅうい撃墜げきつい艦艇かんてい損害そんがい至近しきんだん2はつ不発ふはつだん直撃ちょくげき1はつのみ。さらに撃墜げきつい乗員じょういん救助きゅうじょカタリナ1補給ほきゅうのため基地きち帰還きかんしたのち再度さいど飛来ひらいした一式いっしきせん1撃墜げきついだい112海難かいなん救助きゅうじょ飛行ひこうたいバルマン大尉たいい)。のちに掃海そうかいてい1せき潜水せんすいかん雷撃らいげきにより沈没ちんぼつするも、「五十鈴いすず」は無事ぶじにビマに入港にゅうこう将兵しょうへい揚陸ようりくした。この空戦くうせん一式いっしきせんは3撃墜げきついするも損害そんがいは1被弾ひだんのみ[130]臨時りんじ防空ぼうくう戦闘せんとうたいは7がつなかばにかけて10喪失そうしつ(このうち空戦くうせん撃墜げきついは4てき衝突しょうとつ1)するも7撃墜げきつい(B-24 5・PB4Y-1 1・カタリナ1)、予想よそう上回うわまわ敢闘かんとうせた[131]

8がつ13にちスンダ海峡すんだかいきょうにてしょうちゅう戦闘せんとうたい(6がつ22にち廃止はいしされただい33戦隊せんたい飛行ひこう師団しだん直轄ちょっかつ部隊ぶたいとしたもの)の一式いっしきせんがB-24 1撃墜げきついだい203飛行ひこうたいテットロック中尉ちゅうい)、これが一式いっしきせんげた最後さいご戦果せんかとなる[132]

大戦たいせん末期まっきとなる1944ねん8がつ18にちから終戦しゅうせん間際まぎわとなる1945ねん8がつ13にちにかけて、ビルマをはじめとする東南とうなんアジア方面ほうめん(ビルマ・フランスりょうインドシナ・マレー・インドネシア・タイとう)を担当たんとうするだい3航空こうくうぐん戦域せんいきにおける戦果せんか損害そんがい以下いかごと[132]

  • 一式いっしきせん連合れんごう軍機ぐんき63撃墜げきつい(このほか一式いっしきせん撃墜げきついした可能かのうせいがある帰還きかん9存在そんざいし、それをふくめた場合ばあい連合れんごう軍機ぐんき72撃墜げきつい)、たいする空戦くうせん損害そんがい61喪失そうしつ記録きろく
    • 撃墜げきつい連合れんごう軍機ぐんき機種きしゅ内訳うちわけ戦闘せんとう1418ないし19)・ばくげきとう3236ないし37)・輸送ゆそうとう17
      • 戦闘せんとう詳細しょうさいはP-47 4・スピットファイア3・P-38 2・F4U 2・P-51D 1・F6F 1・ハリケーン1ばくげきとう詳細しょうさいはB-24 15・ボーファイター5・モスキート4・B-29 3PB4Y-1 3PB4Y-2 1・B-25 1先述せんじゅつ一式いっしきせん撃墜げきついした可能かのうせいがある連合れんごうぐん帰還きかん内訳うちわけは、戦闘せんとうとうがハリケーン3・F4U 1ばくげきとうがB-29 2・PB4Y-1 1・B-24 1、さらにTBFまたはファイアフライ1)。
    • 一式いっしきせん61喪失そうしつのうち連合れんごうぐん戦闘せんとうによって撃墜げきついされたものは47で、のこり14ばくげき防御ぼうぎょ砲火ほうかによるものである。

陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたい早期そうき警戒けいかい体制たいせい[編集へんしゅう]

1943ねん後半こうはんのビルマ航空こうくうせんにて帝国ていこく陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたい(3こうぐん)は、無線むせん傍受ぼうじゅ解析かいせきシギント)・電波でんぱ警戒けいかい(レーダー)・対空たいくう監視かんし哨を主軸しゅじく前線ぜんせん以下いか早期そうき警戒けいかい体制たいせい構築こうちくしている[133]

  1. だい5飛行ひこう師団しだんだい3航空こうくうとくじょう航空こうくう特種とくしゅ情報じょうほう)は連合れんごうぐん空地くうち無線むせん交信こうしん傍受ぼうじゅなんなんふん使用しよう飛行場ひこうじょう機種きしゅすうといった出撃しゅつげき情報じょうほう掌握しょうあくインド東部とうぶ連合れんごうぐん飛行場ひこうじょうより日本にっぽんぐん要衝ようしょうラングーン(ヤンゴン)までやく1,000km・飛行ひこう時間じかんやく4あいだ
  2. インド - ラングーンのなかあいだ地点ちてんアキャブ(ラングーンまでやく1あいだはん)の対空たいくう監視かんし哨がてき編隊へんたい捕捉ほそく機種きしゅすう高度こうど進行しんこう方向ほうこう報告ほうこく
  3. ラングーンの日本にっぽん陸軍りくぐん防空ぼうくう戦闘せんとうたいはアキャブから情報じょうほうがあると操縦そうじゅうしゃはピスト(操縦そうじゅうしゃひかえしょ)で待機たいき
  4. トンガップ・サンドウェー・ヘンサダ(ラングーン西北せいほく120km)とうかく対空たいくう監視かんし哨がてき編隊へんたい捕捉ほそく続報ぞくほう伝達でんたつ
  5. ラングーンから100km以内いないはいるとミンガラドン配備はいびした電波でんぱ警戒けいかいかげ捕捉ほそく
  6. ラングーン防空ぼうくう高射こうしゃほう部隊ぶたい対空たいくう監視かんし哨が最後さいご捕捉ほそく
  7. 以上いじょうかく情報じょうほう刻々こくこく邀撃ようげき戦闘せんとうたい本部ほんぶ電話でんわ報告ほうこく空襲くうしゅう警報けいほう発令はつれいされ操縦そうじゅうしゃはピストを搭乗とうじょう離陸りりく離陸りりく開始かいし5ふんインヤー(ビクトリア上空じょうくう3,000mに空中くうちゅう集合しゅうごう
  8. 離陸りりくした一式いっしきせん機上きじょう無線むせん電話でんわ地上ちじょう戦闘せんとう指揮しきしょよりてき編隊へんたい方向ほうこうへの誘導ゆうどうけ(対空たいくう誘導ゆうどう)、これを邀撃ようげき

1943ねん11月27にち、アメリカ陸軍りくぐんせんばく連合れんごう84だい64戦隊せんたいだい3中隊ちゅうたい一式いっしきせん8しきせん1邀撃ようげき、2喪失そうしつ戦闘せんとう6ばくげき3確実かくじつ撃墜げきついするだい戦果せんかげた空戦くうせんにて[107]だい64戦隊せんたい電波でんぱ警戒けいかい対空たいくう監視かんし哨の情報じょうほうをもとに地上ちじょうからの無線むせん電話でんわ誘導ゆうどうにより有利ゆうり位置いちむかち、とく黒江くろえ大尉たいいはミンガラドン基地きち無線むせん電話でんわ頻繁ひんぱん通信つうしん次々つぎつぎ電波でんぱ警戒けいかいによるてき情報じょうほう受信じゅしんしている[57]

中国ちゅうごく航空こうくうせん[編集へんしゅう]

初期しょき中国ちゅうごく航空こうくうせん[編集へんしゅう]

1942ねん9がつ中国ちゅうごく航空こうくう任務にんむ部隊ぶたいのP-40

1942ねんなかば、一式いっしきせん装備そうびする飛行ひこうだい24戦隊せんたいおよび独立どくりつ飛行ひこうだい10中隊ちゅうたい中国ちゅうごく戦線せんせん投入とうにゅうされた。7月30にちだい24戦隊せんたい27どく10ちゅう12けい39一式いっしきせん広東かんとん出撃しゅつげき衡陽飛行場ひこうじょう攻撃こうげき、10のP-40Eと交戦こうせんするも戦果せんかく1喪失そうしつ以降いこう31にち・8がつ5にち・8にち空戦くうせん結果けっかは、P-40E 1撃墜げきついだい75戦闘せんとう飛行ひこうたいマイナー少尉しょうい)にたい一式いっしきせん6喪失そうしつ完敗かんぱいわった(この一式いっしきせん喪失そうしつ6のうち3急降下きゅうこうか追撃ついげきちゅう無理むりこしによってしょうじた空中くうちゅう分解ぶんかい事故じこによるものである)。また、ざい中国ちゅうごくのアメリカ陸軍りくぐん航空こうくうぐんのP-40はフライング・タイガース(AVG)時代じだいから、日本にっぽん軍機ぐんき得意とくいとする格闘かくとうせんにはおうじなかったことも要因よういんであった[134]。7月4にちにフライング・タイガース(AVG)は解散かいさんし、中国ちゅうごく・ビルマ・インド方面ほうめん(CBI戦域せんいき)を担当たんとうするアメリカ陸軍りくぐん航空こうくうぐんだい10空軍くうぐん隷下れいか正規せいきぐんたる中国ちゅうごく航空こうくう任務にんむ部隊ぶたい(CATF)に編入へんにゅうされている

南方なんぽう移動いどうしただい24戦隊せんたいわり9がつ10日とおかだい33戦隊せんたい一式いっしきせん装備そうび)が広東かんとん進出しんしゅつ。アメリカぐん活動かつどう低調ていちょうなためひさしぶりの空戦くうせんとなった10月25にち香港ほんこん飛来ひらいしたB-25 12・P-40 7だい33戦隊せんたい一式いっしきせん交戦こうせん喪失そうしつしでB-25 1だい22ばくげき飛行ひこうたいオーラーズ大尉たいい)・P-40 1だい76戦闘せんとう飛行ひこうたいシアー中尉ちゅうい)を、28にちには哨戒しょうかいちゅう一式いっしきせん2ばくそうP-40 10攻撃こうげきし1撃墜げきついだい75戦闘せんとう飛行ひこうたいオコンネル大尉たいい)、だい33戦隊せんたい損害そんがいしで一方いっぽうてきに3撃墜げきついだい24戦隊せんたい初戦しょせん雪辱せつじょくたした。どく10ちゅうはこのころだい25戦隊せんたい改変かいへんされている[135]

11月2にちだい33戦隊せんたい生井いくいきよし大尉たいいがP-40E 1撃墜げきつい(レーシー少尉しょうい)、これは以後いご中国ちゅうごく・ビルマ・ニューギニア・フィリピンのかく航空こうくうせん転戦てんせんする歴戦れきせんのエースのはつ撃墜げきつい戦果せんかである[136]。23にちてんかわ飛行場ひこうじょう来襲らいしゅうしただい76戦闘せんとう飛行ひこうたいのP-40を迎撃げいげきするため緊急きんきゅう離陸りりくちゅうであっただい25戦隊せんたい一式いっしきせん2撃墜げきついされた。以降いこう、3かげつあいだ中国ちゅうごく戦線せんせんではながらくおおきな空戦くうせんはおこっていない[136]

中期ちゅうき中国ちゅうごく航空こうくうせん[編集へんしゅう]

だい25戦隊せんたい一式いっしきせんがた(キ43-II)
1943ねんなつだいこう飛行場ひこうじょうにてだい25戦隊せんたいだい2中隊ちゅうたいのエース大竹おおたけ久四郎きゅうしろう曹長そうちょう搭乗とうじょうする一式いっしきせんがた(キ43-II)

1943ねん3がつ10日とおか、アメリカ陸軍りくぐん航空こうくうぐん中国ちゅうごく航空こうくう任務にんむ部隊ぶたい(CATF)は廃止はいしされ、あらたに中国ちゅうごく方面ほうめん専任せんにん航空こうくうぐんたるだい14空軍くうぐん昇格しょうかく編成へんせい。そのまえの2がつ24にちやなさん飛行場ひこうじょう進出しんしゅつした中国ちゅうごく空軍くうぐん国民こくみん革命かくめいぐん飛行ひこう部隊ぶたいたいし、だい25戦隊せんたい一式いっしきせん飛行ひこうだい16戦隊せんたいきゅうきゅうそうけい掩護えんご侵攻しんこうP-43 3交戦こうせんし1撃墜げきついだい22飛行ひこうたいもと)、日本にっぽん軍機ぐんきぜん帰還きかんした[136]

4がつ26にち、ビルマ航空こうくうせんたたかっているだい64戦隊せんたいだい50戦隊せんたい一式いっしきせんほかのだい5飛行ひこう師団しだん飛行ひこう部隊ぶたい一時いちじてき中国ちゅうごく派遣はけんされ、アメリカ陸軍りくぐん雲南うんなんえき飛行場ひこうじょう攻撃こうげき奇襲きしゅう成功せいこう地上ちじょう戦果せんかはP-40ぜんそん5・18損傷そんしょうだい74戦闘せんとう飛行ひこうたい完全かんぜん全滅ぜんめつ、またC-47 5破壊はかいきゅうきゅうそうけいによる爆撃ばくげき一式いっしきせんちょう低空ていくう対地たいち攻撃こうげき敢行かんこうし、アメリカぐん操縦そうじゅうしゃM1911拳銃けんじゅう一式いっしきせんたい反撃はんげきおこなった[137]。28にち今度こんどこんあきら飛行場ひこうじょう攻撃こうげき地上ちじょう戦果せんかはB-25 1破壊はかいおよび管制塔かんせいとう作戦さくせんしつ兵器へいき粉砕ふんさい(しかしつよ偏西風へんせいふうながされたばくだん飛行場ひこうじょう付近ふきんむら着弾ちゃくだんし100めい以上いじょう民間みんかんじん死亡しぼう)、しかし帰還きかんちゅうだい75戦闘せんとう飛行ひこうたいだい76戦闘せんとう飛行ひこうたいのP-40の執拗しつよう追撃ついげき空戦くうせん一式いっしきせんは2喪失そうしつじゅうばく1損傷そんしょうし、P-40は喪失そうしつはなかった(だい64戦隊せんたいは2かげつはんぶりに空戦くうせん戦死せんししゃした)[138]

だい25戦隊せんたいだい33戦隊せんたいは4がつ1にちから同年どうねん8がつ21にちにかけ10かい侵攻しんこうせん防空ぼうくうせんおこないアメリカぐんのP-40やP-38と交戦こうせんするも、クレア・リー・シェンノート少将しょうしょう中国人ちゅうごくじん情報じょうほういんもち前線ぜんせん一帯いったいめぐらせていた対空たいくう監視かんし哨(航空こうくう情報じょうほうもう)によって早期そうき警戒けいかい可能かのうであったアメリカ軍機ぐんきは、有利ゆうり位置いち攻撃こうげき空戦くうせん一式いっしきせんは21喪失そうしつ一方いっぽう日本にっぽんぐん戦果せんか戦闘せんとう10撃墜げきつい(P-40 9・P-38 1)にぎなかった[136]

8がつ21にち午後ごごだい25戦隊せんたい一式いっしきせんかんこう来襲らいしゅうしたB-24編隊へんたい迎撃げいげき、ビルマ航空こうくうせんたたかだい50戦隊せんたいから伝授でんじゅされた「たい進攻しんこうげき」をおこない、指揮しきかんふくむB-24 2撃墜げきついだい374ばくげき飛行ひこう隊長たいちょうビート少佐しょうさほか)、1撃破げきは途中とちゅう緊急きんきゅう着陸ちゃくりく)、ほか10にも被弾ひだん損傷そんしょうあたえる戦果せんかげた[139]

8がつ23にち飛行ひこうだい58戦隊せんたいきゅうななじゅうばくだい25戦隊せんたいだい33戦隊せんたい掩護えんご重慶たーちん攻撃こうげき一式いっしきせん対空たいくう監視かんし哨からの情報じょうほうにより有利ゆうり位置いちせしていた中国ちゅうごく空軍くうぐんだい4大隊だいたいだい11大隊だいたい戦闘せんとう交戦こうせんし、きゅうななじゅうばく1喪失そうしつするも4撃墜げきついした(P-66 2・P-40またはP-43 2[139]

8がつ24にちこんあきら出撃しゅつげきしたB-24 7ちょく戦闘せんとうP-40 6かんこう来襲らいしゅう迎撃げいげきだい25戦隊せんたいだい33戦隊せんたい一式いっしきせんはB-24 4撃墜げきついし(だい425ばくげき飛行ひこうたいロビンスン中尉ちゅういほか)3撃破げきはしたが、だい33せん隊長たいちょう渡辺わたなべあきら少佐しょうさふくむ3防御ぼうぎょ砲火ほうかだい16戦闘せんとう飛行ひこうたいのP-40の攻撃こうげきにより喪失そうしつ[140]

だい14空軍くうぐんのP-40およびB-24

9月13にちだい25戦隊せんたいだい2中隊ちゅうたいだい3中隊ちゅうたいだい33戦隊せんたい広東かんとんからハノイ近郊きんこうギアラム飛行場ひこうじょう前進ぜんしん。15にち、アメリカ陸軍りくぐん航空こうくうぐんだい14空軍くうぐんふつしるしハイフォンのセメント工場こうじょうばくげきのためだい308ばくげき航空こうくうぐんのB-24 5出撃しゅつげきさせたが、ハノイに進出しんしゅつしていた一式いっしきせん地上ちじょうからの無線むせん電話でんわ誘導ゆうどうによって的確てきかくにこれを捕捉ほそく迎撃げいげき、2喪失そうしつするもB-24 4撃墜げきついした(だい373ばくげき飛行ひこうたい)。また同日どうじつかんこう残留ざんりゅうしていただい25戦隊せんたいだい1中隊ちゅうたいはP-40・B-25と交戦こうせん指揮しきかんたるP-40 1撃墜げきつい している(だい16戦闘せんとう飛行ひこうたいパイク少佐しょうさ[141]

10月30にちきゅう日本にっぽんぐん船舶せんぱく目標もくひょう来襲らいしゅうした9ばくそうP-38をだい25戦隊せんたい迎撃げいげきした空戦くうせんでは、日本にっぽんぐん対空たいくう監視かんし哨と電波でんぱ警戒けいかい早期そうき警戒けいかいによりせをしていたため、喪失そうしつ1えにP-38 4撃墜げきついだい449戦闘せんとう飛行ひこうたいエリスレン大尉たいい・ハーモン中尉ちゅうい・テイラー中尉ちゅうい・ロビンス中尉ちゅうい[141]

12月1にち中国ちゅうごく戦線せんせん中国ちゅうごく空軍くうぐん・アメリカ陸軍りくぐん航空こうくうぐんだい14空軍くうぐんつづき、アメリカじん中国人ちゅうごくじん双方そうほう操縦そうじゅうしゃにより編成へんせいされる中米ちゅうべい混成こんせい航空こうくうだん(CACW、ちゅう混合こんごう空軍くうぐんだんべいささえ混成こんせい空軍くうぐん)が編成へんせい[142]どう時期じきごろしきせん装備そうびした飛行ひこうだい85戦隊せんたいとニューギニア航空こうくうせんたたかっただい11戦隊せんたい戦力せんりょく回復かいふく進出しんしゅつ、また、アメリカぐん新鋭しんえいのP-51を中国ちゅうごく航空こうくうせん投入とうにゅうしている。

1944ねん1がつ23にちだい25戦隊せんたい編成へんせい以来いらい撃墜げきつい戦果せんか100達成たっせいしたとして部隊ぶたい感状かんじょう拝受はいじゅ梅本うめもとひろし調査ちょうさ照合しょうごう確実かくじつせいたか最低限さいていげん数次すうじとして30から40あいだ推測すいそくしている[143]。2がつ10日とおかだい25戦隊せんたいきゅうでP-51A 1撃墜げきついだい76戦闘せんとう飛行ひこうたいマンベック少尉しょうい)、中国ちゅうごく航空こうくうせん一式いっしきせんによるP-51はつ撃墜げきつい記録きろくつづいて24にちどう戦隊せんたい揚子江ようすこう飛来ひらいしたP-38と交戦こうせんし1撃墜げきついだい449戦闘せんとう飛行ひこうたい[144]

2がつ10日とおか、のちの大陸たいりくどおり作戦さくせんこといちごう作戦さくせん対応たいおうするため、従来じゅうらいおも中国ちゅうごく方面ほうめん航空こうくう作戦さくせんになっていただい3飛行ひこう師団しだん廃止はいしされ航空こうくうぐんたるだい5航空こうくうぐん昇格しょうかく

3月4にちだい25戦隊せんたいだい3中隊ちゅうたい地上ちじょう攻撃こうげきちゅうのP-38 4・B-25 1交戦こうせんし、一式いっしきせん損害そんがい一方いっぽうてきにP-38 1撃墜げきついのこり3撃破げきはだい449戦闘せんとう飛行ひこうたい、うち2帰途きと不時着ふじちゃく)。同日どうじつ一式いっしきせんはP-51Aと交戦こうせんし1喪失そうしつし1撃墜げきついだい76戦闘せんとう飛行ひこうたいブルロック中尉ちゅうい[144]

4がつ29にちだい25戦隊せんたいちょく任務にんむ帰還きかんちゅうのP-38と交戦こうせん一式いっしきせん損害そんがい一方いっぽうてき指揮しきかんふくむP-38 3撃墜げきついした(だい449戦闘せんとう飛行ひこう隊長たいちょうバーバー少佐しょうさ・キャンベル少尉しょうい・ロール中尉ちゅうい[144]

5月6にちかんこうたいしアメリカぐんせんばく連合れんごう40出撃しゅつげき早期そうき警戒けいかいした日本にっぽんぐん邀撃ようげきおこなった。まずだい23戦闘せんとう航空こうくうぐん指揮しきかんヒル大佐たいさふくむP-51B 9たい一式いっしきせんたい進攻しんこうげき実施じっしし1撃墜げきついだい76戦闘せんとう飛行ひこうたいベネダ中尉ちゅうい)、1撃破げきはだい76戦闘せんとう飛行ひこうたいストーンハム中尉ちゅうい)、一式いっしきせん喪失そうしつかった。さらにべつ方面ほうめんでP-38 3撃墜げきついだい449戦闘せんとう飛行ひこうたいグレッグ中尉ちゅうい・オプスヴィック中尉ちゅうい・ジョーンズ少尉しょうい)、1撃破げきは(ロンギール中尉ちゅうい)、これも一式いっしきせん喪失そうしつ[145]

だい23戦闘せんとう航空こうくうぐんのP-51

1943ねん8がつ21にちから1944ねん5がつ6にち期間きかんちゅう中国ちゅうごく戦線せんせん主力しゅりょくとなる一式いっしきせんじゅん主力しゅりょくとなるしきせんとともに以下いか戦果せんか記録きろく大戦たいせんちゅう後期こうきにおいてもビルマ航空こうくうせんならび、中国ちゅうごく航空こうくうせん帝国ていこく陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたい連合れんごうぐん空軍くうぐんたいして互角ごかく以上いじょう勝負しょうぶおこな度重たびかさなる勝利しょうりおさめていた[146]

  • 最低さいていでも連合れんごう軍機ぐんき44撃墜げきついたいする空戦くうせん損害そんがい10喪失そうしつ
    • 撃墜げきつい連合れんごう軍機ぐんき機種きしゅ内訳うちわけ戦闘せんとう33ばくげき11戦闘せんとう詳細しょうさいはP-38 12・P-40 10・P-66 5・P-51 3・P-43 3ばくげき詳細しょうさいはB-24 11(P-51の内訳うちわけはP-51A 2・P-51B 1
    • 日本にっぽんぐんがわ喪失そうしつ機種きしゅ内訳うちわけ一式いっしきせん8しきせん2

後期こうき中国ちゅうごく航空こうくうせん[編集へんしゅう]

だい48戦隊せんたい一式いっしきせんさんがた(キ43-III)。終戦しゅうせん撮影さつえいで、尾翼びよく部隊ぶたいマークのまえ戦地せんち標識ひょうしきうしろに「阿部あべ」のパーソナルマークがある

1944ねん5がつささえ派遣はけんぐんだい規模きぼ攻勢こうせいとなる大陸たいりくどおり作戦さくせんこといちごう作戦さくせん実施じっしだい5航空こうくうぐんもこれに呼応こおう航空こうくう撃滅げきめつせん展開てんかい関東軍かんとうぐんまんしゅうからはだい48戦隊せんたい一式いっしきせん装備そうび)が、のちの8がつには日本にっぽん内地ないちより新鋭しんえいよんしきせん装備そうびする飛行ひこうだい22戦隊せんたい進出しんしゅつしている。だい22戦隊せんたいは8がつ28にちから戦闘せんとう参加さんかはじめているが、このさかい従来じゅうらいしきせん装備そうびするだい85戦隊せんたいのみならず、一式いっしきせん装備そうび古参こさんだい25戦隊せんたいにもすこしずつよんしきせん配備はいびされている[147]

作戦さくせん発動はつどうの5がつ27にち進撃しんげきちゅう日本にっぽんぐん地上ちじょう部隊ぶたい攻撃こうげき来襲らいしゅうしたP-40Nをだい25戦隊せんたいだい48戦隊せんたい一式いっしきせん捕捉ほそく一方いっぽうてきにP-40 6撃墜げきつい[148]。しかし6がつ6にち・9にち空戦くうせんでは一方いっぽうてきに5喪失そうしつし、戦果せんかはP-40 1撃墜げきつい中国ちゅうごく空軍くうぐんだい3大隊だいたいはり)、1撃破げきはにとどまった[149]。6月26にちれいりょう飛行場ひこうじょう侵攻しんこうしただい48戦隊せんたい空戦くうせん指揮しきかんふくむP-40N 2撃墜げきついするも(だい74戦闘せんとう飛行ひこう隊長たいちょうクルックシャンク大尉たいいだい75戦闘せんとう飛行ひこうたいアームストロング中尉ちゅうい)、帰還きかん追尾ついび攻撃こうげきけ2喪失そうしつ[34]

7がつ5にちだい25戦隊せんたい一式いっしきせん9でB-25を掩護えんごするP-40 8交戦こうせん、1喪失そうしつするも1撃墜げきついだい75戦闘せんとう飛行ひこうたいハインズ中尉ちゅうい)、1撃破げきは同日どうじつ1130ふんだい48戦隊せんたいはP-51Bと交戦こうせんし1撃墜げきついだい26戦闘せんとう飛行ひこうたいメイス中尉ちゅうい)。同日どうじつ午後ごごだい25戦隊せんたい地上ちじょう攻撃こうげきちゅうのP-40を襲撃しゅうげきし1撃墜げきついだい16戦闘せんとう飛行ひこうたいティールホーン中尉ちゅうい[150]

8がつ6にちだい48戦隊せんたいは1喪失そうしつするもP-51B 1撃墜げきついだい74戦闘せんとう飛行ひこうたいホルコム大尉たいい)、8にち要衝ようしょうたる衡陽を日本にっぽんぐん制圧せいあつしたが、同地どうち地上ちじょう部隊ぶたいとともに攻撃こうげきするきゅうきゅうかさね/ぐん偵を掩護えんご出撃しゅつげきかさねただい48戦隊せんたい消耗しょうもう陥落かんらく当日とうじつの8にち空戦くうせんでは3喪失そうしつ戦隊せんたいちょう重傷じゅうしょう全滅ぜんめつ状態じょうたいとなった。だい25戦隊せんたいも4にちの衡陽だいさんそう攻撃こうげきから陥落かんらくまでのあいだに4喪失そうしつ[151]

一方いっぽうだい25戦隊せんたいは8がつ19にちP-40N 1だい75戦闘せんとう飛行ひこうたいスミス少尉しょうい)、20日はつかP-51B 1だい26戦闘せんとう飛行ひこうたいフィリップス中尉ちゅうい)、22にちP-40N 1こめささえだい7戦闘せんとう飛行ひこうたいガトート少尉しょうい)、27にちP-40N 1こめささえだい5戦闘せんとう航空こうくうぐんしゅう)と、連続れんぞくして一方いっぽうてき撃墜げきついする戦果せんかげた[152]。9月中旬ちゅうじゅんから11がつ上旬じょうじゅんにかけてだい25戦隊せんたいだい48戦隊せんたい一式いっしきせん活動かつどう低調ていちょうとなる[147]

長年ながねんにわたり帝国ていこく陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたい攻撃こうげき目標もくひょうであった要衝ようしょうたる衡陽・れいりょうはすでに陥落かんらくしていたため、11月上旬じょうじゅんささえ派遣はけんぐんかつらりん攻撃こうげきし、だい48戦隊せんたいだい25戦隊せんたい飛行ひこうだい9戦隊せんたいだい85戦隊せんたいかく飛行ひこう部隊ぶたいかんこうから衡陽飛行場ひこうじょう前進ぜんしんした。11にち、衡陽にP-51C 8来襲らいしゅう一式いっしきせんはこれと交戦こうせん、4喪失そうしつするもP-51C 4撃墜げきついだい75戦闘せんとう飛行ひこうたいミラー中尉ちゅうい・ガットベリー中尉ちゅうい・ライリー少尉しょうい・テイラー中尉ちゅうい)。しかし同日どうじつは10から15時半じはんにわたりべ40戦闘せんとう襲撃しゅうげきけ、さらに地上ちじょう炎上えんじょう6大中おおなかやぶ6損害そんがいだい48戦隊せんたい一時いちじ壊滅かいめつ状態じょうたいおちいった[153]

11月17にち石門せきもん来襲らいしゅうしただい530戦闘せんとう飛行ひこうたいのP-51とだい28教育きょういく飛行ひこうたい一式いっしきせん交戦こうせん飛行ひこう隊長たいちょう深田ふかた少佐しょうさとリチャード中尉ちゅういたいしんせん相撃あいうちとなった(双方そうほう戦死せんし)。20日はつかだい28教育きょういく飛行ひこうたいだい85戦隊せんたい一式いっしきせんがP-51C 1撃墜げきついだい118戦術せんじゅつ偵察ていさつ飛行ひこうたいボウエン大尉たいい)。25にちだい14教育きょういく飛行ひこうたい一式いっしきせん2飛行場ひこうじょう大隊だいたい対空たいくう火器かき連携れんけいしP-51C 1撃墜げきついだい74戦闘せんとう飛行ひこうたいエヴァンス中尉ちゅうい)、1喪失そうしつ、1不時着ふじちゃく大破たいは[153]

12月4にち・5にちだい25戦隊せんたいだい29教育きょういく飛行ひこうたい一式いっしきせんはP-51と交戦こうせんするも戦果せんかく2撃墜げきついされた[154]

朝鮮ちょうせん後退こうたい現地げんち敗戦はいせんむかえた一式いっしきせんみぎれつ所属しょぞく不明ふめいひだりれつよんしきせん手前てまえ部隊ぶたいマーク「かた矢印やじるし」の飛行ひこうだい85戦隊せんたいひだりおくすう部隊ぶたいマーク「菊水きくすいもん」のだい22戦隊せんたい)、みぎおく一式いっしき双発そうはつ高等こうとう練習れんしゅう

12月18にちかんこうをB-29をふくせんばく連合れんごうだい編隊へんたい波状はじょう攻撃こうげきし、かんこう市街しがい飛行場ひこうじょう在地ざいちばくげきおおきな被害ひがいした。迎撃げいげきにはだい25戦隊せんたい一式いっしきせん13だい85戦隊せんたいよんしきせん12出撃しゅつげきし、同日どうじつ午後ごご空戦くうせん一式いっしきせん2よんしきせん3喪失そうしつ戦果せんかはB-29 1・P-51 4・P-40 1であったが撃墜げきつい戦果せんかはこのうち3のみであった。1945ねん1がつ3にち・5にち・6にちそして14にちにもかんこう連続れんぞく空襲くうしゅうおなじくだい25戦隊せんたいだい85戦隊せんたいがこれを迎撃げいげきけい6めい戦死せんししゃすも戦果せんか対空たいくう砲火ほうかわせP-51 8・P-47 4撃墜げきついであった(P-47は中国ちゅうごく航空こうくうせんではこれが初陣ういじんである)。17にち来襲らいしゅうしたP-47との空戦くうせんだい25戦隊せんたいだい85戦隊せんたいりょう戦隊せんたいかく1めい戦死せんしするも、P-47 2撃墜げきつい。これが一式いっしきせん参加さんかした中国ちゅうごく航空こうくうせんにおける最後さいごだい規模きぼ空戦くうせんであった[154]

一連いちれんいちごう作戦さくせんささえ派遣はけんぐんかくアメリカぐん飛行場ひこうじょう要衝ようしょう、およびきょうかん鉄道てつどう占領せんりょう制圧せいあつ当初とうしょ目標もくひょう達成たっせいいちおう勝利しょうりおさめた。しかし後退こうたいしたアメリカぐん四川しせんしょう雲南うんなんしょう方面ほうめん中国ちゅうごく奥地おくち戦力せんりょく増強ぞうきょうし、本土ほんど空襲くうしゅう阻止そしのためおこなったB-29基地きちとなりうるアメリカぐん飛行場ひこうじょう制圧せいあつも、後方こうほう成都せいとへの後退こうたいマリアナ方面ほうめん陥落かんらくにより戦略せんりゃくてきには不十分ふじゅうぶん結果けっかのこし、「最後さいご敢闘かんとう[141]ほん作戦さくせん一式いっしきせんせたもののだい5航空こうくうぐんかく飛行ひこう部隊ぶたい消耗しょうもうした。だい5航空こうくうぐん司令しれい自体じたいも1945ねんはいると北京ぺきんおよび南京なんきん後退こうたい、4がつには本土ほんど決戦けっせんけつごう作戦さくせん)のため朝鮮ちょうせん移動いどう中国ちゅうごくからはなれている。同年どうねん2がつにはみなみささえ方面ほうめん担当たんとうするだい13飛行ひこう師団しだんあらたに編成へんせいされかんこう司令しれいいていたが、5月のだい5航空こうくうぐん朝鮮ちょうせん移動いどうともなわってどう師団しだんちゅうささえ方面ほうめん担当たんとうすることとなり、以後いご南京なんきん司令しれいうつ中国ちゅうごく航空こうくうせんたたか敗戦はいせんむかえることとなる。

ちなみに1945ねん2がつかんこうにてだい51戦闘せんとう航空こうくうぐんだい26戦闘せんとう飛行ひこうたいのP-51C サミュエル・マクミラン・ジュニア少尉しょうい日本にっぽんぐん対空たいくう砲火ほうか被弾ひだん不時着ふじちゃく良好りょうこう状態じょうたい日本にっぽんぐん鹵獲ろかくされている(この機体きたい本来ほんらいはオリバー・ストローブリッジ大尉たいい搭乗とうじょうであったが、当日とうじつはマクミラン少尉しょうい搭乗とうじょう空戦くうせん参加さんかしていた[ちゅう 17])。情報じょうほうけた陸軍りくぐん航空こうくう審査しんさ飛行ひこう実験じっけん戦闘せんとうたい准尉じゅんい2めい派遣はけん同地どうちにて修理しゅうり、3月、光本みつもと悦二えつじ准尉じゅんい操縦そうじゅう審査しんさのある多摩たま陸軍りくぐん飛行場ひこうじょう空輸くうゆされあらためて本格ほんかくてき調査ちょうさおこなわれた。また、かつて一式いっしきせんだい64戦隊せんたいでビルマ航空こうくうせんたたかった飛行ひこう実験じっけん戦闘せんとうたいのテストパイロット黒江くろえ少佐しょうさがP-51Cに搭乗とうじょうし、内地ないちかく防空ぼうくう飛行ひこう部隊ぶたい陸軍りくぐん戦闘せんとう模擬もぎ空戦くうせんおこなっている。

ソロモン、ニューギニア航空こうくうせん[編集へんしゅう]

初期しょき(ソロモン、ニューギニア航空こうくうせん[編集へんしゅう]

飛行ひこうだい11戦隊せんたい一式いっしきせんいちがたへい(キ43-Iへい)。ほん実際じっさいだい11戦隊せんたいがラバウルにて使用しよう終戦しゅうせん現地げんち密林みつりん遺棄いきされていたものであり、世界せかい唯一ゆいいつ機体きたいエンジンともにオリジナル(可能かのう状態じょうたい)である一式いっしきせんとして現在げんざいポール・アレン私設しせつ航空こうくう博物館はくぶつかん収蔵しゅうぞう展示てんじちゅう#現存げんそんする機体きたい

1942ねんすえ、ソロモン諸島しょとうおよびニューギニア方面ほうめんはアメリカぐん反抗はんこうにより非常ひじょう苦戦くせんいられていた。1943ねん1がつ陸海りくかいぐん協定きょうていむすび、ガダルカナルとう将兵しょうへい救出きゅうしゅつのため撤収てっしゅう作戦さくせん開始かいしすることとなった。

この方面ほうめんはもとはラバウル航空こうくうたいとうられる海軍かいぐん航空こうくう部隊ぶたい専任せんにん担当たんとう地域ちいきであったが、その苦戦くせんにより海軍かいぐん上層じょうそう陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたいたい陸軍りくぐん戦闘せんとうたい増援ぞうえん嘆願たんがん陸軍りくぐんはこれを了承りょうしょうラバウルだい12飛行ひこうだん隷下れいか2飛行ひこう戦隊せんたい)の一式いっしきせんやく100派遣はけん決定けってい1942ねん12月18にちにはそのだい一陣いちじんとして一式いっしきせんいちがた(キ43-I)57装備そうびするだい11戦隊せんたいがラバウルに進出しんしゅつした。だい11戦隊せんたい部隊ぶたいマークに稲妻いなづまえがノモンハン航空こうくうせん活躍かつやくした「稲妻いなづま部隊ぶたい」としてられる名門めいもん部隊ぶたいであった。

このだい12飛行ひこうだんだい1戦隊せんたいだい12戦隊せんたい)はビルマ航空こうくうせんたたかだい3航空こうくうぐんから抽出ちゅうしゅつされており(さらにだい50戦隊せんたいだい64戦隊せんたい下士官かしかん操縦そうじゅうしゃ4めい一式いっしきせん4だい12飛行ひこうだん供出きょうしゅつ)、ソロモン、ニューギニア方面ほうめんでの海軍かいぐんへの協力きょうりょくのために陸軍りくぐんの3こうぐん一挙いっきょに100ちか戦闘せんとう兵力へいりょく空中くうちゅう勤務きんむしゃ地上ちじょう勤務きんむ者共ものどもかれ、以後いご作戦さくせん展開てんかい支障ししょうをきたしている[155]

現地げんち海軍かいぐん航空こうくう部隊ぶたいれいせん苦戦くせんしていたB-17をさして「れいせんの20mmでちないものが、(一式いっしきせんの)13mmでちるはずがない」と冷笑れいしょうしていたが、だいじゅうはちごう作戦さくせん地上ちじょう部隊ぶたい増援ぞうえん輸送ゆそう作戦さくせん発動はつどう初日しょにちの1943ねん1がつ5にちだい11戦隊せんたいだい2中隊ちゅうたい一式いっしきせん日本にっぽん軍船ぐんせんだん攻撃こうげき飛来ひらいしただい43・だい90ばくげき航空こうくうぐんのB-17 6とB-24 6交戦こうせん、2喪失そうしつ(1めい生還せいかん・1めい戦死せんし)するも1のB-17Fを確実かくじつ撃墜げきつい、さらにだい11戦隊せんたいだいはち海軍かいぐん航空こうくうたいれいせん2との協同きょうどう戦果せんかとして1のB-17Fを撃墜げきついだい43ばくげき航空こうくうぐんジャック大尉たいい・リンドバーグ少佐しょうさ[ちゅう 18][156]以降いこう10にちまでだい11戦隊せんたい船団せんだん掩護えんごおこない6ないし7撃墜げきつい(B-17E/F 2ないし3・B-24D 1・B-25D 1・P-38F 1)、空戦くうせんで13喪失そうしつするも来襲らいしゅうするべ320あまりもの連合れんごう軍機ぐんき次々つぎつぎ撃退げきたいし、喪失そうしつ輸送ゆそうせんを1せきにとどめじゅうはちごう作戦さくせん成功せいこうわった[156]

1がつ9にちあたまごう戦隊せんたいたるだい1戦隊せんたいもラバウルに進出しんしゅつ。27にち補充ほじゅう受領じゅりょう戦力せんりょく回復かいふくしただい11戦隊せんたいと、だい1戦隊せんたい一式いっしきせん69末期まっきガダルカナルとうたたかにおいて完全かんぜん撤退てったいちゅうごう作戦さくせん)の地上ちじょう部隊ぶたい支援しえんするため、飛行ひこうだい45戦隊せんたいきゅうきゅうそうけい9とともにガダルカナルとう攻撃こうげき。この空戦くうせんにおいてアメリカ陸軍りくぐんおよび海兵かいへいたい戦闘せんとう24交戦こうせん一式いっしきせんは6喪失そうしつするも7撃墜げきついした(戦果せんか内訳うちわけはP-38 2・P-40 2・F4F 3だい339戦闘せんとう飛行ひこうたいおよびだい112海兵かいへい戦闘せんとう飛行ひこうたい)。なお、この2にちまえの25にち海軍かいぐんれいせん72一式いっしきりくおさむ12とともにガとう攻撃こうげきしているが、5喪失そうしつ撃墜げきつい戦果せんかしと一方いっぽうてき敗北はいぼくきっしていた[157]。31にちだい11戦隊せんたい一式いっしきせんだい112海兵かいへい戦闘せんとう飛行ひこうたいのF4F 8交戦こうせんし2喪失そうしつ、2撃墜げきつい[157]

だい11戦隊せんたい一式いっしきせんいちがたへい(キ43-Iへい

2がつ1にちだいいち撤退てったいきゅうきゅうそうけい掩護えんごしガとう飛行場ひこうじょうたい航空こうくう撃滅げきめつせん実施じっしだい撤退てったいの4にちには撤退てったい将兵しょうへいせた駆逐くちくかんだい11戦隊せんたいだい1中隊ちゅうたい上空じょうくう掩護えんご来襲らいしゅうしたF4F・P-40・SBD・TBFと交戦こうせん一式いっしきせん2喪失そうしつするも3撃墜げきつい(F4F 1・SBD 1・TBF 1)、駆逐くちくかん損害そんがいは1せきちゅうやぶ・1せき小破しょうは艦隊かんたいまもくことができた[157]。アメリカぐんはさらにF4F 2・P-40 1同士討どうしう)・SBD 1空戦くうせん喪失そうしつしており、日本にっぽんぐん途中とちゅう空戦くうせんくわわった海軍かいぐんれいせん2喪失そうしつしている[157]

ごう作戦さくせん成功せいこうおおきく貢献こうけんするなど活躍かつやくせた一式いっしきせんではあったが、2がつ6にちきゅうきゅうそうけい援護えんごしニューギニアのワウ飛行場ひこうじょう攻撃こうげき一式いっしきせん4きゅうきゅうそうけい3喪失そうしつ戦隊せんたいちょう杉浦すぎうら勝次かつじ少佐しょうさ戦死せんし戦果せんかA-20 1C-47 1撃墜げきつい、ワラウェイ1地上ちじょう破壊はかい[158]。また、3月2・3にちにはラバウルからラエだい51師団しだんおくだいはちじゅういちごう作戦さくせんおこなわれた。輸送ゆそう船団せんだん8せき護衛ごえいするには戦闘せんとうやく200が必要ひつようとされたが、2がつまつ時点じてんやく50しかなく[159]海軍かいぐん支援しえん依頼いらいする[160]陸軍りくぐん海軍かいぐん交代こうたいちょく掩をおこなうも、だい18ぐん司令しれいかん安達あだちじゅうさん中将ちゅうじょうふくやく7000めい乗船じょうせんした輸送ゆそうせん8せき駆逐くちくかん4せき撃沈げきちんされ、大勢おおぜい将兵しょうへい物資ぶっし喪失そうしつし「ダンピール海峡かいきょう悲劇ひげき」とばれた。同月どうげつにはだい1せん隊長たいちょう沢田さわだみつぐ少佐しょうさもまたラエ上空じょうくう戦死せんしした。

中期ちゅうき(ソロモン、ニューギニア航空こうくうせん[編集へんしゅう]

3がつ10日とおかだい11戦隊せんたいはソロモン方面ほうめんのラバウルから今後こんご主戦しゅせんじょうとなる東部とうぶニューギニアのウエワク前進ぜんしんだい11戦隊せんたいつづ船団せんだん掩護えんご従事じゅうじしたが消耗しょうもうし6がつ転出てんしゅつわって中国ちゅうごく航空こうくうせんいちがたたたかっただい24戦隊せんたいがた改変かいへん進出しんしゅつした。5月19にちだい24戦隊せんたい一式いっしきせん3がB-24 1交戦こうせんし、1喪失そうしつするもこれを撃墜げきついはつ戦果せんかげた(だい400ばくげき飛行ひこうたいアーモンド中尉ちゅうい[161]

緒戦しょせん南方なんぽう作戦さくせんにおいてだい64戦隊せんたいとともに活躍かつやくしただい59戦隊せんたいおなじくニューギニアに進出しんしゅつ。6月20にちにはオーストラリアのダーウィンにたいし、だい7飛行ひこう師団しだん隷下れいか一式いっしきせん22だい59戦隊せんたい)、いち〇〇しきじゅうばく18飛行ひこうだい61戦隊せんたい)、きゅうきゅうそうけい9飛行ひこうだい75戦隊せんたい)の3飛行ひこう戦隊せんたいけい49(これとはべつ敵情てきじょう把握はあく独立どくりつ飛行ひこうだい70中隊ちゅうたいいち〇〇しき偵2出撃しゅつげき)が攻撃こうげきおこなった(日本にっぽんのオーストラリア空襲くうしゅう)。たいするオーストラリア空軍くうぐんはレーダーからの報告ほうこくけ、指揮しきかんコールドウェル中佐ちゅうさ以下いか3飛行ひこうたいけい46のスピットファイアが迎撃げいげき空戦くうせんにおいて日本にっぽんぐんいち〇〇しきじゅうばく1喪失そうしつするも[ちゅう 19]、スピットファイア2撃墜げきついした。本戦ほんせんでもまたしてもスピットファイアは格闘かくとうせん終始しゅうししており、これにはだい59戦隊せんたいだい1中隊ちゅうたいちょういぶかしむほどであった[162]

7がつ10日とおか西部にしべニューギニアのバボ飛行場ひこうじょうにB-24D 3来襲らいしゅう給油きゅうゆのため着陸ちゃくりくしていただい59戦隊せんたいの4とビルマから派遣はけんされていただい50戦隊せんたいの2迎撃げいげきたい進攻しんこうげきで2撃墜げきついした(だい380ばくげき航空こうくうぐんマーケル大尉たいい・マクドゥーエル中尉ちゅうい[163]。11にちだい1戦隊せんたい23だい24戦隊せんたいだい2中隊ちゅうたい6一式いっしきせんナッソウわん攻撃こうげき、このうち後続こうぞく出撃しゅつげきしただい24戦隊せんたいだい2中隊ちゅうたい途中とちゅう発見はっけんしたB-25を攻撃こうげきするも、慢心まんしんによりちょく掩のP-39偶然ぐうぜん付近ふきんたP-38編隊へんたい奇襲きしゅうちゅう隊長たいちょう以下いか4喪失そうしつ戦果せんかはP-38 1撃墜げきついであった(だい9戦闘せんとう飛行ひこうたいデイヴィス少尉しょうい[163]

8がつ2にちだい24戦隊せんたい選抜せんばつ一式いっしきせん8だい18ぐん司令しれいかん安達あだちじゅうさん中将ちゅうじょう搭乗とうじょうきゅうきゅうぐん偵をちょく掩。その帰途きとたたかえばく連合れんごう交戦こうせん不利ふり低位ていいせんにもB-17E 1撃墜げきついだい65ばくげき飛行ひこうたい)、一式いっしきせん8ぜん帰還きかんした[164]

1943ねん9がつ27にちだい348戦闘せんとう航空こうくうぐんのP-47D

8がつ15にちだい24戦隊せんたいだい59戦隊せんたい一式いっしきせん36きゅうきゅうそうけい7はファブア飛行場ひこうじょう攻撃こうげき途中とちゅう悪天候あくてんこうにより編隊へんたいくずきゅうきゅうそうけい先行せんこうしてしまったため迎撃げいげきのP-39によりきゅうきゅうそうけい5喪失そうしつした一方いっぽうで、いついた一式いっしきせんがP-39 4だい40戦闘せんとう飛行ひこうたいだい41戦闘せんとう飛行ひこうたい)、またC-47 2だい374兵員へいいん輸送ゆそう飛行ひこうたい)を撃墜げきつい一式いっしきせんぜん帰還きかんした[164]よく16にち日本にっぽんぐん再度さいどファブアを攻撃こうげきだい24戦隊せんたいだい59戦隊せんたい一式いっしきせん33はP-38 12・P-47 32およびC-47 24交戦こうせん。3喪失そうしつしP-47D 1撃墜げきついだい348戦闘せんとう航空こうくうぐんレイトン少尉しょうい)、P-38 1撃破げきはだい431戦闘せんとう飛行ひこうたいブライテ少尉しょうい緊急きんきゅう着陸ちゃくりく)。ニューギニア航空こうくうせんでP-47はほん空戦くうせんはつ実戦じっせん投入とうにゅうである[165]

不時着ふじちゃくしただい248戦隊せんたい一式いっしきせんがた(キ43-III)。胴体どうたい左側ひだりがわめん操縦そうじゅうしゃ脱出だっしゅつあなひらいており、垂直すいちょく尾翼びよくえがかれた複雑ふくざつ部隊ぶたいマークが一部いちぶえる

かく飛行ひこう部隊ぶたい連合れんごうぐん猛攻もうこうのみならず補給ほきゅう断絶だんぜつにより消耗しょうもう飛行ひこうだい13戦隊せんたい本来ほんらい装備そうびであるしきふくせん消耗しょうもう一式いっしきせん使用しよう、このほかニューギニア戦線せんせんにはさんしきせん装備そうび飛行ひこうだい68戦隊せんたい飛行ひこうだい78戦隊せんたい展開てんかい)、栄養えいよう不足ふそくかつ過労かろう状態じょうたい操縦そうじゅうしゃおおくは熱帯ねったい特有とくゆう疫病えきびょうにもおかされていた[166]。10月31にちにはフィリピンにて戦力せんりょく回復かいふくしただい59戦隊せんたい一式いっしきせん23)が合流ごうりゅう、11月2にちには新編しんぺん飛行ひこうだい248戦隊せんたい一式いっしきせん30)も進出しんしゅついちてき戦力せんりょく強化きょうかされたが[167]しつりょうまさ連合れんごうぐんたい苦戦くせんいられていることはわらず、南郷なんごう少佐しょうさが「P-38に翻弄ほんろうされ、もはや一式いっしきせん時代じだいにあらず」と日記にっきにしたためているのは12月16にちであった。

後期こうき(ソロモン、ニューギニア航空こうくうせん[編集へんしゅう]

遺棄いきされただい59戦隊せんたい一式いっしきせんがた(キ43-II)

12月22にち、ウエワク迎撃げいげきせんにおけるかく飛行ひこう部隊ぶたいけい7喪失そうしつ戦果せんか対空たいくう砲火ほうかによりB-25 2撃墜げきつい空戦くうせんでP-38J 1撃墜げきついのみ)をけ、以降いこうだい6飛行ひこう師団しだん戦力せんりょく温存おんぞんのため全力ぜんりょく邀撃ようげきけるようになる[133]

12月26にち早朝そうちょうツルプにアメリカ海兵かいへいたいだい1海兵かいへい師団しだん上陸じょうりく天候てんこう回復かいふく午後ごごかく飛行ひこう部隊ぶたいかく戦闘せんとう32いち〇〇しきじゅうばく6上陸じょうりく船団せんだん攻撃こうげきし、フレッチャーきゅう駆逐くちくかんブラウンソン」を撃沈げきちんすうせきにかなりの被害ひがいあたえ、空戦くうせんでP-38H 1だい80戦闘せんとう飛行ひこうたいクラッグ少佐しょうさ)・P-47D 3だい342戦闘せんとう飛行ひこうたいプラット中尉ちゅういだい36戦闘せんとう飛行ひこうたいヘッカーマン中尉ちゅうい・グリチリスト少尉しょうい)を撃墜げきつい(このほか、アメリカぐん艦船かんせん対空たいくう砲火ほうか同士討どうしうちでB-25 2喪失そうしつ)。一方いっぽういち〇〇しきじゅうばくぜん6戦闘せんとう2喪失そうしつしている[133]

1944ねん1がつ2にち、グンビみさき上陸じょうりくしたアメリカ陸軍りくぐんだい32歩兵ほへい師団しだんきゅうきゅうそうけいとともにだい59戦隊せんたいだい248戦隊せんたい一式いっしきせんちょく掩)、だい68戦隊せんたいだい78戦隊せんたいさんしきせんあいだ掩)が攻撃こうげきさんしきせんがP-40N 1撃墜げきついするも、一式いっしきせんきゅうきゅうそうけい空戦くうせんまれだい248せん隊長たいちょう村岡むらおか信一しんいち少佐しょうさ撃墜げきつい戦死せんし、またさんしきせん1きゅうきゅうそうけい2喪失そうしつした[168]。13にち飛行ひこうだい63戦隊せんたい一式いっしきせん装備そうび)が進出しんしゅつ[168]

1944ねん5がつ、ホーランジアに遺棄いきされた一式いっしきせんがた(キ43-II)

1がつ23にち一式いっしきせんさんしきせんからなるウエワクの日本にっぽんぐん戦闘せんとうたいはアメリカぐんせんばく連合れんごう70(うちB-24 35)を迎撃げいげき、P-38 3だい475戦闘せんとう飛行ひこうたいリヴノーフ中尉ちゅうい・ダンフォース少尉しょういだい80戦闘せんとう飛行ひこうたいガイドリー中尉ちゅうい)・P-40N 1だい7戦闘せんとう飛行ひこうたいクローリー中尉ちゅうい)を撃墜げきつい、P-40N 2撃破げきはするも7喪失そうしつ。この空戦くうせんでは「ニューギニアは南郷なんごうたもつ」とうたわれたエースだい59戦隊せんたい飛行ひこう隊長たいちょう南郷なんごう少佐しょうさ戦死せんしした。ほん空戦くうせん撃墜げきついされたP-40Nクローリー中尉ちゅうい南郷なんごう少佐しょうさ最後さいご戦果せんかとされている[169]

だい348戦闘せんとう航空こうくうぐん指揮しきかんニール・カービィ大佐たいさあいP-47

2がつ22にち・28にち後退こうたいしただい59戦隊せんたいわりだい33戦隊せんたいだい77戦隊せんたい一式いっしきせん装備そうび)が進出しんしゅつ。3月5にちあさだい77戦隊せんたい一式いっしきせんは1喪失そうしつするもF-5 2撃墜げきつい(P-38偵察ていさつがただい6写真しゃしん偵察ていさつ航空こうくうぐんクーペンハーバー大尉たいい・クリスチャン少尉しょうい[169]どう5にち16おなじくだい77戦隊せんたい一式いっしきせんがアメリカ陸軍りくぐんのエース、だい348戦闘せんとう航空こうくうぐん指揮しきかんニール・カービィ大佐たいさのP-47Dを撃墜げきついした(#連合れんごうぐんエースとの空戦くうせん[64]

3月11にちから18にちにかけて、ウエワクにたいしアメリカぐん航空こうくう撃滅げきめつせん実施じっし飛行ひこう部隊ぶたい消耗しょうもう、3がつなかば、ニューギニア方面ほうめん担当たんとうするだい4航空こうくうぐんはウエワク放棄ほうき決定けっていホーランジア撤退てったい開始かいし。19にちには撤退てったい船団せんだんたいせんばく連合れんごう飛来ひらいし、だい248戦隊せんたい一式いっしきせん4交戦こうせんするも1喪失そうしつ。さらにホーランジアへ移転いてん予定よてい電波でんぱ警戒けいかい搭載とうさいした輸送ゆそうせんしずめられたため、のちのホーランジア防空ぼうくうせんではレーダーによる早期そうき警戒けいかいおこなえず30にち奇襲きしゅう攻撃こうげきゆるやく120在地ざいち損傷そんしょうした[170]

この一方いっぽうで4がつ11にちハンサわん・ウエワクに来襲らいしゅうしたせんばく連合れんごうのこった一式いっしきせん・三式戦稼働全機20あまりで迎撃げいげきしたさいには、日本にっぽんぐん戦闘せんとうたい損害そんがい喪失そうしつくP-47 3ないし4撃墜げきついだい311戦闘せんとう飛行ひこうたいロスマン少尉しょうい・グラハム少尉しょうい・バリントンおよびロウランド中尉ちゅうい)。一方いっぽうてき勝利しょうりとなったこの空戦くうせんはニューギニア航空こうくうせん最後さいご栄光えいこうとなった[171]

4がつ25にち、ホーランジア自体じたい連合れんごうぐん上陸じょうりくホーランジアのたたか)、ニューギニア航空こうくうせん事実じじつじょう終了しゅうりょうした。だい4航空こうくうぐんかく飛行ひこう部隊ぶたい後退こうたいするが、後退こうたい手段しゅだんくなった一部いちぶ飛行ひこう部隊ぶたい地上ちじょう勤務きんむしゃ空中くうちゅう勤務きんむしゃおおくは地上ちじょうせんまれ戦死せんしした。

フィリピン航空こうくうせん[編集へんしゅう]

1944ねん後期こうきマリアナおき海戦かいせん勝利しょうりサイパンを攻略こうりゃくしたアメリカぐんは、フィリピン奪回だっかいのため同年どうねん10がつレイテ島れいてとう上陸じょうりくレイテ島れいてとうたたかレイテおき海戦かいせん)。ここに「比島ひじま決戦けっせん」としょうされ陸海空りくかいくうだい兵力へいりょく投入とうにゅうされることになるフィリピンのたたか勃発ぼっぱつし、ルソン島るそんとうビサヤ諸島しょとうネグロスとうひとし)には日本にっぽん陸海りくかいぐん航空こうくう部隊ぶたい集結しゅうけつしていたことからレイテを中心ちゅうしん苛烈かれつ航空こうくうせんひろげられた(フィリピン航空こうくうせん)。このだい規模きぼ航空こうくうせん陸軍りくぐんだい16飛行ひこうだん筆頭ひっとうよんしきせん本格ほんかくてき大量たいりょう投入とうにゅう(ほかさんしきせん投入とうにゅう)、また海軍かいぐん多数たすう従軍じゅうぐん、さらにアメリカぐん陸海りくかい軍機ぐんきじる混戦こんせんであるため戦果せんか損害そんがい照合しょうごう特定とくてい困難こんなんとなる。

このフィリピン航空こうくうせん海軍かいぐんは10がつ下旬げじゅん陸軍りくぐんは11月12にち時点じてん特別とくべつ攻撃こうげきたいはつ実戦じっせん投入とうにゅうし、以降いこう数々かずかず特攻隊とっこうたい編成へんせい敵艦てきかんせん攻撃こうげき運用うんようしている。陸軍りくぐん特別とくべつ攻撃こうげきたい一式いっしきせんによるフィリピンでの確実かくじつ特攻とっこう主要しゅよう戦果せんかとしては、11月27にち八紘はっこうたい戦艦せんかんコロラド」、けい巡洋艦じゅんようかんセントルイス」、けい巡洋艦じゅんようかんモントピリア」に突入とつにゅう損害そんがいあたえ、駆潜艇くせんてい「SC-744」を撃沈げきちん。11月29にち靖国やすくにたい戦艦せんかんメリーランド」、駆逐くちくかんソーフリー」、駆逐くちくかんオーリック」に突入とつにゅう損害そんがいあたえた。1945ねん1がつ9にち一誠いっせいたいとされる一式いっしきせん戦艦せんかんミシシッピ」に突入とつにゅう。このほかけい巡洋艦じゅんようかんナッシュビル」(12月13にち一宇いちうたい)などにも一式いっしきせん突入とつにゅうした可能かのうせいがある。なかでも、戦艦せんかん「メリーランド」に突入とつにゅうした靖国やすくにたい一式いっしきせんは、くもなかからあらわれて急降下きゅうこうか同艦どうかん突入とつにゅうする寸前すんぜんに、機首きしゅげて垂直すいちょく急上昇きゅうじょうしょうしてまたくもはいると、1びょうには太陽たいようにしてさかさまの急降下きゅうこうか状態じょうたいまった対空たいくう射撃しゃげきびることなく40.6cmほう(16インチほう)をそなえるだい2主砲しゅほうとう命中めいちゅうしている。その見事みごと操縦そうじゅうていた「メリーランド」の水兵すいへいは「これはもっとも気分きぶんのよい自殺じさつである。あのパイロットは一瞬いっしゅん栄光えいこうかがやきとなってえたかったのだ」と日記にっきき、その特攻とっこう一式いっしきせん曲芸きょくげい飛行ひこうていた「モントピリア」艦長かんちょうも「かれ操縦そうじゅうぶりと回避かいひ運動うんどう見上みあげたものであった」と感心かんしんしている[172]主砲しゅほうとう損害そんがいけた「メリーランド」は大破たいは炎上えんじょうし、修理しゅうりのためよく1945ねん3がつまで戦列せんれつはなれている。

決戦けっせん先駆さきがけた7がつ一式いっしきせん装備そうび部隊ぶたいとしてはだい30戦隊せんたいだい31戦隊せんたい進出しんしゅつだい31戦隊せんたいはもとは襲撃しゅうげき戦隊せんたい)。9月に空母くうぼ機動きどう部隊ぶたい艦載かんさい交戦こうせんだい31戦隊せんたい撃墜げきつい多数たすう戦果せんかほうじたが、だい30戦隊せんたいだい損害そんがいはやくも戦力せんりょく回復かいふくのため日本にっぽん一時いちじ帰還きかんしている。10月11にちだい26戦隊せんたいだい204戦隊せんたい、22にちだい20戦隊せんたい、23にちだい24戦隊せんたい、30にち独立どくりつ飛行ひこうだい24中隊ちゅうたい、31にちにはだい33戦隊せんたいのそれぞれ一式いっしきせん部隊ぶたいどう方面ほうめん進出しんしゅつ

1945ねんルソン島るそんとうクラーク飛行場ひこうじょう遺棄いきされた一式いっしきせんさんがた(キ43-III)。「稲妻いなづま」の部隊ぶたいマークをえがくも所属しょぞく部隊ぶたい不明ふめい

フィリピンせんにおいて日本にっぽんぐん当初とうしょルソンとうでの決戦けっせん意図いとしていたが、台湾たいわんおき航空こうくうせんとレイテおき海戦かいせん虚構きょこう戦果せんか影響えいきょうされ急遽きゅうきょレイテ島れいてとうでの決戦けっせん変更へんこう。そのため10がつまつよりルソン島るそんとう配置はいちしていた地上ちじょう部隊ぶたい多数たすう船団せんだん輸送ゆそうによりレイテ島れいてとう移送いそうするごう作戦さくせん開始かいしされ、日本にっぽんぐん航空こうくう部隊ぶたいはその上空じょうくう掩護えんごにあたっていた。11月1にちマニラからのその増援ぞうえんたるだい1師団しだんせた船団せんだんオルモック到着とうちゃく人員じんいん物資ぶっし揚陸ようりくちゅうよく2にちだい49戦闘せんとう航空こうくうぐんのP-38が飛来ひらいちょく掩のだい33戦隊せんたいだい26戦隊せんたいだい20戦隊せんたい一式いっしきせんおよび飛行ひこうだい52戦隊せんたい飛行ひこうだい200戦隊せんたいよんしきせんなどが交戦こうせん断続だんぞくてきつづいたこの空戦くうせんで6一式いっしきせん4よんしきせん2)を喪失そうしつするも5(P-38 5だい8戦闘せんとう飛行ひこうたいだい9戦闘せんとう飛行ひこうたい)を撃墜げきつい[173]、この防空ぼうくうせんによりだい1師団しだんのレイテ上陸じょうりく成功せいこうわった(ごう作戦さくせん#だい2輸送ゆそう部隊ぶたい)。

船団せんだん掩護えんご一方いっぽうで、日本にっぽんぐん航空こうくう部隊ぶたいはアメリカぐん上陸じょうりく船団せんだん輸送ゆそうせんレイテ島れいてとうのアメリカぐん飛行場ひこうじょうたい撃滅げきめつせん重点的じゅうてんてきっており、4にち未明みめいには戦闘せんとうおよびきゅうきゅうかさねすうきゅうきゅうそうけい7タクロバン飛行場ひこうじょうおき停泊ていはくちゅう輸送ゆそうせん攻撃こうげき。この攻撃こうげきによってP-38 2地上ちじょう破壊はかい、その39損傷そんしょうだい345ばくげき航空こうくうぐん要員よういん100めい以上いじょう戦死せんしした。一式いっしきせんクラスターばくだんであるだん搭載とうさいし、タクロバン飛行場ひこうじょうたい少数しょうすう夜間やかん未明みめい低空ていくうばくげきかえしておおきな戦果せんかげている(#戦闘せんとう爆撃ばくげき[173]

1945ねん、クラーク飛行場ひこうじょうにてアメリカぐん鹵獲ろかくされ、同軍どうぐん国籍こくせき標識ひょうしきえがかれた一式いっしきせんがた(キ43-II)

しかし4にち・6にちには一式いっしきせん配備はいびされていたネグロスとうファブリカ飛行場ひこうじょう攻撃こうげき壊滅かいめつだい20戦隊せんたいだい33戦隊せんたい機体きたい受領じゅりょうのためマニラへ後退こうたいした[174]

10日とおかには北方ほっぽう方面ほうめんたる千島ちしま列島れっとうからだい54戦隊せんたい一式いっしきせん装備そうび)が進出しんしゅつよく11にち船団せんだん掩護えんごのため出撃しゅつげきしただい54戦隊せんたい一式いっしきせん8がP-38 2交戦こうせんし、P-38J 1だい12戦闘せんとう飛行ひこうたいラッセル中尉ちゅうい)を撃墜げきつい。しかしオルモックわん上空じょうくう船団せんだんちょく掩ではアメリカ海軍かいぐんのSBDを護衛ごえいするF6Fを相手あいてとする低位ていいせんにより、戦隊せんたいちょう以下いか5めい戦死せんしした。同日どうじつだい20戦隊せんたい一式いっしきせん3がF6F 2空母くうぼワスプ艦載かんさい)と交戦こうせん、1撃墜げきついだい81海軍かいぐん戦闘せんとうたい[175]

一連いちれんのレイテ航空こうくうせん日本にっぽんぐん航空こうくう部隊ぶたい急速きゅうそく消耗しょうもうするも、1945ねん1がつ7にちにはだい54戦隊せんたい一式いっしきせん1および飛行ひこうだい71戦隊せんたいよんしきせん1が、アメリカぜんぐんだい2のエースであるトーマス・マクガイア少佐しょうさのP-38Lないし、その僚機のジャック・リットメイヤー中尉ちゅういのP-38Jを協同きょうどう撃墜げきついしている(一式いっしきせん1喪失そうしつ、P-38 2撃墜げきつい#連合れんごうぐんエースとの空戦くうせん)。

9にちにはルソン島るそんとうにアメリカぐん上陸じょうりくルソン島るそんとうたたか)。陸軍りくぐんは1がつ下旬げじゅんまでは戦闘せんとう補充ほじゅう空戦くうせんおこなっていたものの同月どうげつまつには作戦さくせん可能かのうじゅうすうにまで[176]、フィリピン航空こうくうせん一方いっぽうてき敗北はいぼくわった。壊滅かいめつしただい4航空こうくうぐんかく飛行ひこう部隊ぶたい後退こうたいすすめられたが、ニューギニア航空こうくうせん同様どうよう後退こうたい手段しゅだんくなった飛行ひこう部隊ぶたい地上ちじょう勤務きんむしゃ空中くうちゅう勤務きんむしゃおおくは地上ちじょうせんまれ戦死せんし担当たんとう戦域せんいきくなっただい4航空こうくうぐん自体じたいも2がつ28にち廃止はいしされている。1がつ上旬じょうじゅん戦力せんりょく回復かいふくルソン島るそんとうもどっていただい30戦隊せんたいは、一部いちぶがとどまり4がつ上旬じょうじゅんまで奇襲きしゅう攻撃こうげきおこなっているがこれも5がつ台湾たいわん後退こうたいした。

日本にっぽん本土ほんど防空ぼうくうせん[編集へんしゅう]

千島ちしま航空こうくうせん[編集へんしゅう]

千島ちしま航空こうくうせん・フィリピン航空こうくうせん活躍かつやくしただい54戦隊せんたい一式いっしきせんさんがた(キ43-III)。部隊ぶたいマークとして図案ずあんした「折鶴おりづる」を垂直すいちょく尾翼びよくおよびえがく。ほん千島ちしま列島れっとう回収かいしゅうされただい54戦隊せんたい一式いっしきせん残骸ざんがい部品ぶひんをもとに、リバースエンジニアリング復元ふくげんした飛行ひこう可能かのう機体きたい

1943ねん5がつアリューシャン列島れっとうアッツとう陥落かんらくキスカとうからの撤退てったい準備じゅんびのため、きた千島ちしま対策たいさくせまられた陸軍りくぐん同年どうねん6がつ一式いっしきせん装備そうびだい54戦隊せんたいどう方面ほうめん移動いどうさせることを決定けってい。7がつ20日はつか戦隊せんたいちょう以下いかだい54戦隊せんたいだい2中隊ちゅうたいだい3中隊ちゅうたい一式いっしきせんがた23だい1中隊ちゅうたい台湾たいわん台北たいぺい派遣はけんちゅう、1944ねん2がつまつにこれは独立どくりつ飛行ひこう中隊ちゅうたい改編かいへんされるとともにだい54戦隊せんたいしんだい1中隊ちゅうたい編成へんせい)は、ほろむしろとう北東ほくとうはし位置いちうらないもりとうのぞきたたい飛行場ひこうじょうぜん無事ぶじ進出しんしゅつした。進出しんしゅつ9にちの7がつ29にちキスカとう撤退てったい作戦さくせん発動はつどうされ作戦さくせん成功せいこうやく5,000めい将兵しょうへい海軍かいぐんだい艦隊かんたい輸送ゆそうされ8がつ1にちほろむしろとう上陸じょうりくしている。しかしこの玉砕ぎょくさい撤退てったいによる西部せいぶアリューシャン放棄ほうきによって、うらないもりとうほろむしろとうきたせんとう北方ほっぽう方面ほうめん最前線さいぜんせんとなった[177]

8がつ12にち、アメリカ陸軍りくぐん航空こうくうぐんだい11空軍くうぐんきた千島ちしまへ7がつ22にち以降いこうだい3かいばくげきぎょうとしてB-24 9出撃しゅつげきさせた。以後いご2ねん以上いじょうつづくこととなるこの千島ちしま航空こうくうせん初陣ういじんだい54戦隊せんたい戦隊せんたいちょう以下いかぜん邀撃ようげきばくげき帰還きかんするB-24を攻撃こうげき防御ぼうぎょ砲火ほうか反撃はんげきで1喪失そうしつするも2撃墜げきついした(だい404ばくげき飛行ひこうたい撃墜げきつい戦隊せんたい本部ほんぶ山田やまだしげるいち准尉じゅんいだい3中隊ちゅうたい榎田えのきだ正一しょういち軍曹ぐんそう協同きょうどう撃墜げきつい)、だい3中隊ちゅうたいだい2小隊しょうたいちょう岩瀬いわせいさお中尉ちゅうい単機たんき撃墜げきつい)による)。これは「日本にっぽん本土ほんど防空ぼうくうせん撃墜げきついだい1ごう(およびだい2ごう)」である[178]。この空戦くうせんにはさき千島ちしま進出しんしゅつしていたうらないもりとうだいよん海軍かいぐん航空こうくうたいしき水上すいじょう戦闘せんとうれいしき水上すいじょう観測かんそくくわわっているが戦果せんかく、またほろむしろとう南端なんたんだいはちいち海軍かいぐん航空こうくうたいれいせん離陸りりく自体じたいはしているが戦意せんい武蔵むさし飛行場ひこうじょう上空じょうくう警戒けいかい終始しゅうし防空ぼうくうせんには参加さんかしていない(はちいちそら当時とうじきた千島ちしま最大さいだい邀撃ようげき戦力せんりょくでありながら千島ちしま航空こうくうせん一切いっさい寄与きよすることなく転出てんしゅつしていった)[179]

日本にっぽん陸海りくかいぐん一式いっしきせん水上すいじょう高射こうしゃ部隊ぶたいはるからあきにかけてあつ濃霧のうむ発生はっせいするどう戦線せんせん来襲らいしゅうするアメリカぐん爆撃ばくげき迎撃げいげき。9月12にち空戦くうせんではアメリカぐんはB-24 3・B-25 7喪失そうしつ(7ソ連それんりょうカムチャッカ半島はんとう不時着ふじちゃく)、7被弾ひだん損害そんがいこうむっている[180]

どう時期じき戦力せんりょく強化きょうかのため北海道ほっかいどう防空ぼうくうにんにあたっていただい63戦隊せんたいだい1中隊ちゅうたい一式いっしきせん装備そうび)がほろむしろとう進出しんしゅつだい54戦隊せんたい指揮しきはいるも、11月に戦隊せんたい主力しゅりょくニューギニア航空こうくうせん転出てんしゅつすることとなりどうだい1中隊ちゅうたい機材きざいだい54戦隊せんたい引渡ひきわた主力しゅりょく追随ついずい海軍かいぐん冬季とうきむかえるため10がつ・11月に歴戦れきせんよんそら水上すいじょう部隊ぶたい)が、また10がつから12がつにかけてはちいちそられいせんが、9月から12がつにかけてだいなな海軍かいぐん航空こうくうたい一式いっしきりくおさむが、じゅう巡洋艦じゅんようかん那智なち以下いかだい艦隊かんたいがそれぞれ南方なんぽう内地ないち転出てんしゅつ。これによりきた千島ちしまから海軍かいぐん航空こうくう部隊ぶたい消滅しょうめつし、どう方面ほうめん防空ぼうくう年明としあけまでだい54戦隊せんたいのみがになうこととなった[181]のこっただい54戦隊せんたい日本にっぽんぐん航空こうくう部隊ぶたいでははつとなる厳寒げんかんきたせんとう越冬えっとう実施じっし暴風ぼうふうにより一式いっしきせんやトラックはばされ、かぜは1m以上いじょう積雪せきせつ記録きろくする条件下じょうけんかで(除雪じょせつしゃ故障こしょうにより)戦隊せんたいちょう以下いか操縦そうじゅうしゃふくめた戦隊せんたいいん全体ぜんたいゆきかきはげみ、整備せいびたいいちばんちゅうエンジン焚火たきびおこな暖気のんきつとむるなどしている。濃霧のうむ強風きょうふう酷寒こっかんきたせんとう日本にっぽんぐんのみならずアリューシャンに展開てんかいするアメリカぐんにとっても最大さいだい障害しょうがいであった[182]

だい損害そんがいけた9月12にち以降いこう本格ほんかくてきばくげきひかえていたアメリカ陸軍りくぐん航空こうくうぐんわって海軍かいぐん航空こうくう部隊ぶたいがこれを実施じっし、1944ねん1がつ20にち以降いこうやく4かげつにわたりだい139哨戒しょうかいばくげき飛行ひこうたいPV-1による夜間やかん偵察ていさつばくげきは78かいかぞえた。2月4にちよるには巡洋艦じゅんようかん駆逐くちくかんによるかんほう射撃しゃげきが、同月どうげつ15にちには陸軍りくぐん航空こうくうぐんのB-24によるばくげき再開さいかいしている。日本にっぽん海軍かいぐん航空こうくう部隊ぶたいことなり夜間やかん出撃しゅつげき夜間やかん飛行ひこう夜間やかん戦闘せんとう技量ぎりょう単座たんざ戦闘せんとう操縦そうじゅうしゃにももとめられる日本にっぽん陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたいにおいて、夜間やかん邀撃ようげきは「本来ほんらいは」可能かのうであったものの、戦域せんいきおおきくことなる暴風ぼうふう豪雪ごうせつきたせんとう夜間やかん離着陸りちゃくりく危険きけんなためこれはおこなえなかった[183]

はるとなる3がつ・4がつ日本にっぽん陸海りくかいぐん千島ちしま方面ほうめん航空こうくう戦力せんりょく増強ぞうきょうし、戦闘せんとうけいばくじゅうばく襲撃しゅうげきつかさ偵・かんばくかんおさむりくおさむみず偵のかく飛行ひこう部隊ぶたいきたせんとうちゅう千島ちしまみなみ千島ちしま進出しんしゅつだい54戦隊せんたい一式いっしきせんはこれらのれいせんとともに千島ちしま航空こうくうせんたたかっている(P-40・P-38のアメリカ陸軍りくぐん戦闘せんとうたい航続こうぞく距離きょり不足ふそくのため爆撃ばくげき掩護えんごおこなえず、防空ぼうくうせん相手あいてはB-24やPV-1が主体しゅたい)。しかし同年どうねん7がつ・8がつ、マリアナ諸島しょとう陥落かんらくフィリピン決戦けっせん準備じゅんびはじまったため、再度さいど千島ちしま方面ほうめん飛行ひこう部隊ぶたい一部いちぶ派遣はけんたい残留ざんりゅうたい)をのこ主力しゅりょく南方なんぽう内地ないち転出てんしゅつだい54戦隊せんたい予備よび5-6のこし8がつ中旬ちゅうじゅん札幌さっぽろ移動いどう同地どうちさんがた改変かいへんし9きたたい飛行場ひこうじょうかえしたのち、10月25にち戦隊せんたいちょう以下いかだい54戦隊せんたい主力しゅりょく28フィリピン航空こうくうせん転戦てんせんしていった[184]

千島ちしまのこっただい54戦隊せんたい派遣はけんたい一式いっしきせん15つづ防空ぼうくうせん従軍じゅうぐん、10がつまつにはおなじく残留ざんりゅうたいである海軍かいぐん北東ほくとう航空こうくうたい派遣はけんたいかんおさむきゅうななしき艦上かんじょう攻撃こうげき天山てんざん、1のみのこされた天山てんざんはのちしゅあし故障こしょうにより着陸ちゃくりく損傷そんしょう廃棄はいき)が駐屯ちゅうとんするうらないもりとう片岡かたおか飛行場ひこうじょうだい54戦隊せんたい派遣はけんたい合流ごうりゅうした。戦果せんかとしては11月5にち一式いっしきせん損害そんがいくPV-1 1撃墜げきついだい131哨戒しょうかいばくげき飛行ひこうたい)するなどしている[185]

うらないもりとうたたか[編集へんしゅう]

末期まっきの1945ねん7がつ北海道ほっかいどう防空ぼうくう戦力せんりょく強化きょうかのためだい54戦隊せんたい派遣はけんたい主力しゅりょく11札幌さっぽろ移動いどう。8がつ10日とおかのこる4たいしても北海道ほっかいどう撤収てっしゅうだい1飛行ひこう師団しだんよりめいじられ、天候てんこう回復かいふくっている。4月より海軍かいぐんきた千島ちしま地上ちじょう戦力せんりょく撤退てったいはじめているが防空ぼうくう部隊ぶたい北東ほくとうそらきゅうななかんおさむ残留ざんりゅうとされている。8月9にちソ連それんたいにち参戦さんせんし、きゅうななかんおさむは9にち10日とおかにカムチャッカ半島はんとう攻撃こうげきするも積極せっきょくさく指令しれいでなかったこともあり戦果せんかかった[186]

8がつ15にち日本にっぽんポツダム宣言せんげん受諾じゅだく降伏ごうぶく決定けってい日本にっぽんぐん停戦ていせん北方ほっぽう方面ほうめん日本にっぽん陸海りくかいぐん武装ぶそう解除かいじょ移行いこうしたが、同月どうげつ18にち千島ちしま列島れっとう東端ひがしばたうらないもりとうソ連それんぐん上陸じょうりく日本にっぽんぐん北部ほくぶゆうげきたいだい91師団しだん)と交戦こうせんうらないもりとうたたか)。士気しきたかだい54戦隊せんたい一式いっしきせん4および北東ほくとうそらきゅうななかんおさむ4だい91師団しだん部隊ぶたい掩護えんごすべく出撃しゅつげきした。きゅうななかんおさむ1対空たいくう砲火ほうか撃墜げきついされ喪失そうしつするも、輸送ゆそうせん直撃ちょくげきだん1はつ掃海そうかいてい1せき撃沈げきちん戦果せんか報告ほうこく戦果せんか不明ふめい)、一式いっしきせんきゅうななかんおさむ掩護えんごするとともに掃海そうかいてい攻撃こうげきしている(戦果せんかし)。よく19にちにはきゅうななかんおさむ示威じい飛行ひこうソ連それんぐん艦艇かんてい威嚇いかくするも、着陸ちゃくりくに1損傷そんしょう稼働かどう2となったため、北東ほくとうそら操縦そうじゅういん3めいだい54戦隊せんたい操縦そうじゅうしゃ交渉こうしょう一式いっしきせん操縦そうじゅう訓練くんれん依頼いらいをしている[187]一連いちれん空戦くうせんとく物的ぶってき戦果せんかかったものの一式いっしきせんきゅうななかんおさむ日本にっぽんぐんうらないもりとう守備しゅびたい善戦ぜんせん貢献こうけん、また18にち戦闘せんとうだい大戦たいせん最後さいご空戦くうせんのひとつとなった。

停戦ていせん交渉こうしょうがまとまったのちの8がつ21にち一式いっしきせんきゅうななかんおさむ操縦そうじゅう者共ものども北海道ほっかいどう脱出だっしゅつ一式いっしきせん3のうち池野いけの准尉じゅんい途中とちゅう不時着ふじちゃくによりソ連それんぐん捕虜ほりょとなり抑留よくりゅう入江いりえ軍曹ぐんそう行方ゆくえ不明ふめい森永もりなが軍曹ぐんそう方位ほうい間違まちが樺太からふと不時着ふじちゃくするもふね便乗びんじょうし1ヵ月かげつ北海道ほっかいどう到着とうちゃくした。ここに千島ちしま航空こうくうせん日本にっぽん敗戦はいせんだい大戦たいせん終戦しゅうせんとともに終了しゅうりょうした[188]

本土ほんど航空こうくうせん[編集へんしゅう]

1944ねん後半こうはんからはじまるB-29による本格ほんかくてき日本にっぽん本土ほんど空襲くうしゅうで、陸軍りくぐんはよりちょうじゅうばく迎撃げいげきてきしたしきせんしきふくせんさんしきせんよんしきせん武装ぶそう防空ぼうくうせん主力しゅりょくとしているため、一式いっしきせん邀撃ようげき配備はいび投入とうにゅうすうすくない。

1945ねん3がつからの沖縄おきなわせんには戦闘せんとう爆撃ばくげきとして、もとは襲撃しゅうげき戦隊せんたいであっただい65戦隊せんたいが「ばくそう一式いっしきせんさんがた)」をもって沖縄おきなわ近海きんかい連合れんごうぐん艦船かんせん占領せんりょう飛行場ひこうじょう攻撃こうげき従事じゅうじしている。また、フィリピンから撤退てったいした台湾たいわんだい20戦隊せんたいだい24戦隊せんたいもタだん装備そうび夜間やかん攻撃こうげき特攻とっこう援護えんごおこなった。

一方いっぽう沖縄おきなわせんには特攻とっこうとしてもおおくの一式いっしきせんもちいられ、九州きゅうしゅう方面ほうめんからはだい6航空こうくうぐん隷下れいかだい20たけたいなどけい13特攻とっこう飛行ひこうたい出撃しゅつげきしている。特筆とくひつする特攻とっこう戦果せんかとしては、台湾たいわんだい8飛行ひこう師団しだん隷下れいかまことだい39飛行ひこうたい飛行ひこう隊長たいちょう笹川ささかわつとむ大尉たいい一式いっしきせん5装備そうび)のうち一式いっしきせん1が、3月31にちレイモンド・スプルーアンス中将ちゅうじょうひきいるだい5艦隊かんたい旗艦きかんじゅうじゅんインディアナポリス」に命中めいちゅう大破たいは航行こうこう不能ふのうにさせている[189]。なお、「インディアナポリス」はこの損害そんがいによってアメリカ本土ほんど曳航えいこうされ、修理しゅうり完了かんりょう前線ぜんせん復帰ふっきするさいには原子げんしばくだん部品ぶひんかく材料ざいりょう輸送ゆそう極秘ごくひ任務にんむをこなし、それらを揚陸ようりく日本にっぽん海軍かいぐんの「ごうだいはち潜水せんすいかん」に撃沈げきちんされている。

しょもと[編集へんしゅう]

りょう翼下よくか統一とういつがた落下らっかタンク兼用けんようがたかかつるし搭載とうさいした推力すいりょくしき集合しゅうごう排気はいきかん仕様しよう一式いっしきせんがた(キ43-II)
一式いっしきせんいちがた(キ43-I)の三面さんめん
制式せいしき名称めいしょう 一式いっしき戦闘せんとうがた
試作しさく名称めいしょう キ43-II
全幅ぜんぷく 10.837m
全長ぜんちょう 8.92m
ぜんこう 3.085m
つばさ面積めんせき 22m²
つばさめん荷重かじゅう 117.7 kg/m²
自重じちょう 1,975kg
正規せいき全備ぜんび重量じゅうりょう 2,590kg
発動はつどう ハ115 しきいちいち馬力ばりき発動はつどうはなれのぼり1,150馬力ばりき
プロペラ ハミルトン・スタンダード可変かへんピッチ3翅 直径ちょっけい2.80m
最大さいだい速度そくど 初期しょきがた:515km/h/6,000m
前期ぜんきがた:536km/h/6,000m
後期こうきがた:548km/h/6,000m
巡航じゅんこう速度そくど 355km/h/4,000m
上昇じょうしょうりょく 高度こうど5,000mまで4ふん48びょう
実用じつよう上昇じょうしょう限度げんど 10,500mないし11,215m
降下こうか制限せいげん速度そくど 600km/h[190]
航続こうぞく距離きょり 3,000km(落下らっかタンクゆう)/1,620km(正規せいき
武装ぶそう 機首きしゅ12.7mm機関きかんほう(ホ103)2もん携行けいこうだんすうかく270はつ
ばくそう 翼下よくか30kg〜250kgばくだん2はつないしタだん2はつ

各種かくしゅ形式けいしき[編集へんしゅう]

一式いっしきせんいちがた(キ43-I)
いちがた(キ43-I)
ハ25装備そうびした最初さいしょ生産せいさんがた武装ぶそう増加ぞうか試作しさくきょく初期しょき量産りょうさんがたは7.7mm機関きかんじゅう2ていいちがたかぶとキ43-Iかぶと)だが、開戦かいせんまえに7.7mm機関きかんじゅう1ていと12.7mm機関きかんほう1もん強化きょうかいちがたおつキ43-Iおつ)され、さらに12.7mm機関きかんほう2もんへとかわそういちがたへいキ43-Iへい)された。また試作しさく時点じてんから7.7mmだん対応たいおう防弾ぼうだんタンク(ぼうタンク)を装備そうびしていた。いきすぎた軽量けいりょうのため機体きたい強度きょうど問題もんだいがあり、急降下きゅうこうか制限せいげん速度そくどは550km/hとされた。実戦じっせんでは1942ねん7がつ31にち中国ちゅうごく戦線せんせんにてだい24戦隊せんたい所属しょぞくいちがた3が、急降下きゅうこうかするP-40追尾ついびちゅう機体きたいこしたさい、両翼りょうよく空中くうちゅう分解ぶんかいしている。
「キ43」の発展はってんがたとして「キ43-II」が正式せいしき計画けいかくされたため「キ43」は「キ43-I」となり、その発展はってんがた「キ43-II」が制式せいしき採用さいようされ「がた」の制式せいしき名称めいしょう付与ふよされて以降いこう従来じゅうらいの「キ43-I」は「いちがた」としょう区別くべつされる。
かり制式せいしき制定せいていまえの1941ねん4がつから量産りょうさん開始かいしされ、同年どうねん6がつより部隊ぶたい配備はいびされた。1943ねんちゅう大半たいはん実戦じっせん部隊ぶたいではがた(キ43-II)に改変かいへんされてだい一線いっせん退しりぞき、1944ねんまつごろまで標的ひょうてき曳航えいこう訓練くんれんとして運用うんようされた。
がた(キ43-II)
エンジンをハ115かわそうし、不完全ふかんぜんであったいちがた(キ43-I)の各部かくぶ改良かいりょうしたかくかたのうち最多さいた生産せいさんがた気化きか外気がいき吸入きゅうにゅうこう上部じょうぶ移動いどうし、プロペラは2翅から3翅に(直径ちょっけい2.90mから2.80mに短縮たんしゅく)、左右さゆう主翼しゅよくはしを30cmずつみじかくし、機体きたい構造こうぞう強化きょうかされ、降下こうか制限せいげん速度そくどが600km/hないし650km/hにまでげられたほか、照準しょうじゅん眼鏡めがねしきはちきゅうしき照準しょうじゅん眼鏡めがね)からひかりぞうしきいち〇〇しき射撃しゃげき照準しょうじゅん)に、操縦そうじゅうせき風防ふうぼう天蓋てんがい平面へいめん構成こうせいからわくすくないよりスマートな曲面きょくめん構成こうせいしきせん共通きょうつうひん。なお、キ43-II試作しさくではかつてキ43試作しさく1号機ごうきでも実験じっけんされた曲面きょくめん1まいぶつ風防ふうぼう装備そうび再度さいどこころみられていた)に、また計器けいきばんしゅあし仕様しよう変更へんこうしている。武装ぶそういちがたへい(キ43-Iへい)と同様どうようの12.7mm機関きかんほう2もん防弾ぼうだんタンクは12.7mmだん対応たいおう強化きょうかされたほか、1943ねん6がつだい5580号機ごうきから操縦そうじゅうせき背面はいめんに13mmあつの12.7mmだん対応たいおう防弾ぼうだん鋼板こうはんぼうだて鋼板こうはん)を追加ついか装備そうびしている。
一式いっしきせんがた(キ43-II)
がたではエンジンやカウリングまわりのマイナーチェンジがおおく、大別たいべつして最初さいしょがたは5じゅう環状かんじょう潤滑油じゅんかつゆ冷却れいきゃく前面ぜんめんに、小型こがた潤滑油じゅんかつゆ補助ほじょ冷却れいきゃく下面かめん増設ぞうせつ初期しょきがた前面ぜんめん環状かんじょう潤滑油じゅんかつゆ冷却れいきゃく廃止はいしして機首きしゅ下面かめん統合とうごう大型おおがた中期ちゅうきがたはカウリングを抵抗ていこうすくないまるみをびたかたちさい設計せっけいされた。中期ちゅうきがたまでの集合しゅうごう排気はいきかんいちがた同様どうよう側面そくめんいていたが、後期こうきがたでは排気はいきのロケット効果こうか利用りようして速度そくど向上こうじょうさせるため、後方こうほうをむいた推力すいりょくしき集合しゅうごう排気はいきかん変更へんこう最大さいだい速度そくど536km/hに向上こうじょう)された。最終さいしゅうがたでは推力すいりょくしき集合しゅうごう排気はいきかんさら効果こうかたか推力すいりょくしきたん排気はいきかん変更へんこう最大さいだい速度そくどは548km/hに向上こうじょう。これはがたさんがた改造かいぞうする現地げんち改修かいしゅうよう部材ぶざいが、末期まっき生産せいさんがたがた転用てんようされたものであった)、といったおもてんがある。便宜べんぎてき推力すいりょくしき集合しゅうごう排気はいきかんモデルをがたおつ推力すいりょくしきたん排気はいきかんモデルをがたあらためしょうすることがあるが、あくまで戦後せんご俗称ぞくしょうぎない。
がた量産りょうさんちゅう後期こうきごろかかつるし落下らっかタンクの仕様しよう変更へんこう従来じゅうらい落下らっかタンク専用せんようかかつるしおよび専用せんようタンクは、電磁でんじ内蔵ないぞうばくだんかねがかつるしおよび統一とういつ規格きかくタンクになり、俗称ぞくしょうとして前者ぜんしゃを「専用せんようがた後者こうしゃを「統一とういつがた」としょうした。ばくだんかねがかつるし実装じっそうによって、より容易よういばくそう可能かのうとなったが、「専用せんようがた」・「統一とういつがた双方そうほう落下らっかタンクに互換ごかんせいい(とも容量ようりょう200l)。
後期こうきがた途中とちゅうから左翼さよく中央ちゅうおう前部ぜんぶ着陸ちゃくりくとう設置せっち。それまでは電灯でんとうではなく、マグネシウム発火はっかさせ着陸ちゃくりくとう使用しようしていた。
1942ねん2がつ試作しさく1号機ごうき完成かんせい同年どうねん11がつから量産りょうさん開始かいし、1943ねん1がつより部隊ぶたい配備はいびされた。量産りょうさん中島なかじまおよび立川たちかわおこなわれた。
一式いっしきせんさんがた(キ43-III)。右翼うよく兼用けんようがたかかつるし大型おおがた落下らっかタンクよんがた容量ようりょう400l)を搭載とうさいしている
さんがた(キ43-III)
エンジンをみずメタノール噴射ふんしゃ装置そうちづけハ115-IIかわそうした推力すいりょくしきたん排気はいきかん仕様しよう最終さいしゅう生産せいさんがた操縦そうじゅうせき後部こうぶ容量ようりょう70lのみずメタノールタンクを新設しんせつし、推力すいりょくしきたん排気はいきかんモデルのがた最終さいしゅうがたことなり量産りょうさんさんがた排気はいきかんすう片側かたがわ7ほんとなる。武装ぶそう防弾ぼうだんがただい5580号機ごうき以降いこう同様どうよう最大さいだい速度そくどは560km/hに向上こうじょうさんがたがた後半こうはんモデルをふくむ)になると当初とうしょの「けいせん」のイメージがうすれ、かなり無理むりがきく機体きたいになっていた。一方いっぽうみずメタノール噴射ふんしゃ装置そうち不具合ふぐあいや、整備せいびへい不慣ふなれにより稼働かどうりつ低下ていかしている。
武装ぶそうを20mm機関きかんほう2もん強化きょうかしたキ43-IIIおつ試作しさくまりであるが、キ43-IIIおつとの区別くべつのため、従来じゅうらいがたさんがたかぶとキ43-IIIかぶと)としょうすることがある。
1944ねん7がつから量産りょうさん開始かいし順次じゅんじ部隊ぶたい配備はいびされた。よんしきせん生産せいさんのために中島なかじま試作しさくのみをおこない、量産りょうさんすべ立川たちかわおこなわれた。
キ43-IV
計画けいかくのみにわった型式けいしきで、いくつかのことなるプランが存在そんざいした。
(1) - エンジンを陸軍りくぐんがわ提案ていあんハ45かわそうした機体きたいで、おおくの文献ぶんけんにも記述きじゅつられるが、さんがた開発かいはつ主務しゅむしゃであった大島おおしま賢一けんいち技師ぎし異議いぎとなえ、中島なかじまよんしきせん開発かいはつ専念せんねんするために中止ちゅうしとなったもの。
(2) - エンジンをみずメタノール噴射ふんしゃ装置そうちづけハ112-II海軍かいぐん金星きんぼしろくがたとほぼおなじ)にかわそうし、機体きたい一部いちぶ木製もくせいした機体きたい
このほかにも、生産せいさん立川たちかわ移管いかんされたのち、余剰よじょうになっていたハ33-42海軍かいぐん金星きんぼしよんがたとほぼおなじ)を使用しようした機体きたい計画けいかくしたが、出力しゅつりょくがハ25程度ていどでしかないためか陸軍りくぐん航空こうくう本部ほんぶ指示しじ中止ちゅうししており、実現じつげんしていればキ43-IVを名乗なのった可能かのうせいがある。
「キ43-IV」は制式せいしき採用さいようされていないため「よんがた」の制式せいしき名称めいしょう付与ふよされていない。
キ62
計画けいかく消滅しょうめつした機体きたい。1940ねん研究けんきゅう方針ほうしん構想こうそうされた時点じてんでは完全かんぜんしん設計せっけいけい単座たんざ戦闘せんとうとなっていたが、発注はっちゅうさき中島なかじまがキ43の開発かいはつ手一杯ていっぱいだったため新規しんき開発かいはつ中止ちゅうしとなり、最終さいしゅうてきには一式いっしきせんがたをキ62相当そうとうとしてあつかうことになった。また、陸軍りくぐんがわによってハ45を搭載とうさいする試案しあん検討けんとうされていた[191]

日本にっぽん国外こくがいでの運用うんよう[編集へんしゅう]

一式いっしきせん日本にっぽんぐん以外いがい軍隊ぐんたいもっと運用うんようされた日本にっぽんせい戦闘せんとうでもある。大戦たいせんちゅうには「友好国ゆうこうこく」であったまんしゅう国軍こくぐんタイ王国おうこくぐん供与きょうよされ、りょうぐんでは連合れんごう軍機ぐんき相手あいて幾度いくどとなく戦闘せんとうおこなっている。タイ王国おうこくぐん一式いっしきせん国籍こくせき標識ひょうしきとして「しろぞう」を垂直すいちょく尾翼びよくえがき、中村なかむら三郎さぶろう大尉たいいほかだい64戦隊せんたいいんにより運用うんよう指導しどうおこなわれ(それらの模様もようは1944ねん4がつ27にち日本にっぽんニュースだい204ごう『タイ空軍くうぐんはやぶさ戦闘せんとう訓練くんれん』に収録しゅうろく)、バンコク空襲くうしゅうでは日本にっぽん軍機ぐんきとともに迎撃げいげきせん参加さんかしている。だい大戦たいせんすう年間ねんかん、アメリカせい戦闘せんとう配備はいびされるまで使用しようされていた。

外地がいち終戦しゅうせんむかえた一式いっしきせんフランスぐんインドネシアぐん中華民国ちゅうかみんこくぐん国民こくみん革命かくめいぐん国民党こくみんとうぐん)、中国ちゅうごく人民じんみん解放かいほうぐんべにぐん共産党きょうさんとうぐん)、朝鮮人民軍ちょうせんじんみんぐん接収せっしゅうされたうえ使用しようされている。フランスだいいちインドシナ戦争せんそうにおいてふたつの部隊ぶたいがたたいゲリラせんに、インドネシアではインドネシア独立どくりつ戦争せんそうにおいてがたイギリスぐんオランダぐんとの戦闘せんとう使用しようしている。これら各国かっこくでは、敗戦はいせんにより武装ぶそう解除かいじょ捕虜ほりょとなった日本にっぽんぐん操縦そうじゅうしゃにより操縦そうじゅう方法ほうほう伝授でんじゅされていた。中国ちゅうごくでは共産党きょうさんとうぐん関東軍かんとうぐんだい4ねりなり飛行ひこう隊長たいちょうはやし弥一郎やいちろうもと少佐しょうさ日本にっぽん軍人ぐんじんによる東北とうほく民主みんしゅれんぐん航空こうくう学校がっこうでの指導しどうしたに、国共こっきょう内戦ないせんにおいて使用しよう一方いっぽう国民党こくみんとうぐんにおいても自軍じぐん国籍こくせき標識ひょうしきけた機体きたい複数ふくすう存在そんざいしたが、アメリカからの全面ぜんめんてき支援しえんけていた国民党こくみんとうぐんにおいてこれらがどの程度ていど実用じつようされていたのかはあきらかでない。朝鮮人民軍ちょうせんじんみんぐんでは戦後せんご一時期いちじき創設そうせつあいだもない航空こうくう部隊ぶたい訓練くんれんようがた運用うんようしており、ソ連それん配備はいびされるまで使用しようされた。

現存げんそんする機体きたい[編集へんしゅう]

  • 戦後せんご散逸さんいつしてしまった航空機こうくうきひとつであるため、諸説しょせつある機体きたいもあることに留意りゅういされたし。
  • 出典しゅってん[192][193]
型名かためい 機体きたい番号ばんごう  機体きたい写真しゃしん 国名こくめい 管理かんりしゃ 公開こうかいじょうきょう 状態じょうたい 備考びこう
いちがたへい 中島なかじま 750
終戦しゅうせん直後ちょくごの1945ねん9がつにニューブリテンとう
撮影さつえいされたどう機体きたい
アメリカ フライング・ヘリテージ・コレクション 公開こうかい 飛行ひこう可能かのう 1943ねん昭和しょうわ18ねん)1がつトラックとう配備はいびされただい1戦隊せんたいないしだい11戦隊せんたい一式いっしきせんいちがた(キ43-I、だい750号機ごうき)。そのパプアニューギニアラバウル配備はいび終戦しゅうせん直後ちょくごラバウルブナカナウ飛行場ひこうじょうから4マイルほどの密林みつりん発見はっけんされた。着陸ちゃくりく事故じこ破損はそんしていた機首きしゅ部分ぶぶんを、日本にっぽんへい複数ふくすう一式いっしきせんから回収かいしゅうした部品ぶひん修理しゅうりしたという経緯けいいがある。

ポール・アレン購入こうにゅうニュージーランドアルパイン・ファイター・コレクションにより飛行ひこう可能かのう状態じょうたいにまでレストアされた。機体きたい・エンジンともにほぼオリジナルである[194]常設じょうせつ展示てんじされており不定期ふていき展示てんじ飛行ひこうおこなっている。

いちがた 不明ふめい 写真しゃしん 日本にっぽん 河口湖かわぐちこ自動車じどうしゃ博物館はくぶつかん飛行ひこうたて[1] 公開こうかい 静態せいたい展示てんじ 飛行ひこうだい64せん隊長たいちょうであった加藤かとう建夫たけお少佐しょうさじょうのマーキングとなっている[2]
がた 中島なかじま 6750
日本にっぽん 河口湖かわぐちこ自動車じどうしゃ博物館はくぶつかん飛行ひこうたて[3] 公開こうかい 静態せいたい展示てんじ きゅう日本にっぽん陸軍りくぐん飛行ひこうだい77戦隊せんたい運用うんようされた2がたです。この6750号機ごうきは1944ねん、ニューギニアでべいぐん捕獲ほかく

され、性能せいのう調査ちょうさ試験しけん実施じっしされた有名ゆうめい機体きたいです。[4]

がた 中島なかじま 5465 写真しゃしん オーストラリア オーストラリア戦争せんそう記念きねんかん 公開こうかい 静態せいたい展示てんじ エンジン付近ふきん主翼しゅよくよりうしろの胴体どうたい修復しゅうふく状態じょうたい展示てんじされている。
がた 中島なかじま 6430
以前いぜん展示てんじ様子ようす
アメリカ ピマ航空こうくう宇宙うちゅう博物館はくぶつかん[5] 公開こうかい 静態せいたい展示てんじ スミソニアン国立こくりつ航空こうくう宇宙うちゅう博物館はくぶつかん[195]所有しょゆう機体きたいピマ航空こうくう宇宙うちゅう博物館はくぶつかん貸与たいよされているもの。ほん複数ふくすう一式いっしきせん部品ぶひんもと再生さいせいしたもので、胴体どうたいなどおもだったところは6430のもの。風防ふうぼういちがた流用りゅうようしている。

塗装とそうとマーキングは、1944ねん昭和しょうわ19ねんニューギニアのホーランジヤ(ホーランディア、げんジャヤプラ)を拠点きょてんとしていた飛行ひこうだい63戦隊せんたいのもの [196]

がた 不明ふめい
インドネシア インドネシア空軍くうぐん中央ちゅうおう博物館はくぶつかん[197] 公開こうかい 静態せいたい展示てんじ インドネシアぐん戦後せんご運用うんようされていた機体きたい風防ふうぼうなどにくわえられている。
がた 中島なかじま 15267 アメリカ ミュージアム・オブ・フライト[6] 公開こうかい 飛行ひこう可能かのう テキサス・エアプレーン・ファクトリー[198]復元ふくげんした4一式いっしきせんのうちの1ほん著名ちょめい軍用ぐんようコレクターであるダウ・チャンプリン千島ちしま列島れっとううらないもりとうから回収かいしゅうした、15267をおもとした4一式いっしきせん残骸ざんがいから取得しゅとくした部材ぶざい新造しんぞうした部品ぶひんくわえて1990年代ねんだい復元ふくげんされたものとされている。R-1830-92エンジンなどげん用品ようひん使用しようするなどして飛行ひこう可能かのうとなった。

そのゴスホーク・アンリミテッド[199]が、2008ねんにレストアを完了かんりょうした。[200]塗装とそうとマーキングは飛行ひこうだい54戦隊せんたいだい3中隊ちゅうたい所属しょぞく製造せいぞう番号ばんごう15267号機ごうきとしている[201][7]

さんがたかぶと 中島なかじま 15344
アメリカ ティラムック航空こうくう博物館はくぶつかん[8]
(エリクソン航空機こうくうきコレクション)
公開こうかい 飛行ひこう可能かのう テキサス・エアプレーン・ファクトリー[198]復元ふくげんした4一式いっしきせんのうちの1千島ちしま列島れっとうから回収かいしゅうされた4一式いっしきせん残骸ざんがいから取得しゅとくした部材ぶざい新造しんぞうした部品ぶひん復元ふくげんされた。げん用品ようひんP&W R-1830-92 エンジン使用しようするなどして飛行ひこう可能かのうとなった。塗装とそうとマーキングは運用うんよう尊重そんちょうし、飛行ひこうだい54戦隊せんたいだい3中隊ちゅうたい所属しょぞく製造せいぞう番号ばんごう15344号機ごうきとしている。

ワシントンしゅう在住ざいじゅうのジャック・A・エリクソン(Jack A. Erickson、エリクソンしゃ社長しゃちょう)がほん購入こうにゅう。2008ねん6がつ11にち連邦れんぽう航空局こうくうきょく認可にんか獲得かくとくし NX43JE として登録とうろく同氏どうし依頼いらいによりゴスホーク・アンリミテッド[202]しゅあし修理しゅうりした[203]

がた 中島なかじま 15403
中島なかじま 16209
なお直後ちょくご様子ようす
ロシア だい祖国そこく戦争せんそう博物館はくぶつかん 公開こうかい 静態せいたい展示てんじ テキサス・エアプレーン・ファクトリーおよびゴスホーク・アンリミテッド[199]が、うらないもりとう付近ふきん発見はっけんされた一式いっしき戦闘せんとう飛行ひこうだい54戦隊せんたい)、さんがたかぶと15403とがた16209の残骸ざんがいからがたとして復元ふくげんリバースエンジニアリングによって復元ふくげんした4のうちの1
さんがたかぶと 中島なかじま 15403 アメリカ ゴスホーク・アンリミテッド 非公開ひこうかい 修復しゅうふくちゅう テキサス・エアプレーン・ファクトリーが復元ふくげんした4一式いっしきせんのうちの1。まだ完全かんぜん復元ふくげんできていないため、ゴスホーク・アンリミテッドが所有しょゆう
さんがた レプリカ
日本にっぽん らん特攻とっこう平和へいわ会館かいかん[204] 公開こうかい 静態せいたい展示てんじ 映画えいがおれは、きみのためにこそににいく』の撮影さつえい使用しようされたさんがたかぶとをモデルとするレプリカ展示てんじされている。同館どうかんは、世界せかい唯一ゆいいつ良好りょうこうかたち現存げんそんする実機じっきであるよんしき戦闘せんとう所蔵しょぞうしている。

エース・パイロット[編集へんしゅう]

以下いかおも一式いっしきせんをもって戦果せんかげた主要しゅようエース。階級かいきゅう原則げんそく最終さいしゅう階級かいきゅう表記ひょうき戦死せんししゃ特進とくしん最終さいしゅう階級かいきゅう)、部隊ぶたい主要しゅよう部隊ぶたい軍隊ぐんたい符号ふごう表記ひょうき(FR飛行ひこう戦隊せんたい・Fcs独立どくりつ飛行ひこう中隊ちゅうたい)。

登場とうじょう作品さくひん[編集へんしゅう]

映画えいが[編集へんしゅう]

つばさ凱歌がいか』(東宝とうほう映画えいが製作せいさく戦争せんそう映画えいが
実機じっきいちがた登場とうじょう一式いっしきせん開発かいはつストーリーをえがく。
あいみなみ』(松竹しょうちく映画えいが製作せいさく戦争せんそう映画えいが
実機じっきがた登場とうじょう
陸軍りくぐん航空こうくう戦記せんき ビルマへん』(日本にっぽん映画えいがしゃ製作せいさく記録きろく映画えいが
実際じっさいのビルマ航空こうくうせんにおけるいちがたきゅうきゅうかさねきゅうきゅうそうけいきゅうななじゅうばくきゅうななつかさなどの従軍じゅうぐん模様もよう撮影さつえい
加藤かとうはやぶさ戦闘せんとうたい』(東宝とうほう製作せいさく戦争せんそう映画えいが
実機じっきいちがたがた登場とうじょう加藤かとう建夫たけお飛行ひこうだい64戦隊せんたい活躍かつやくえがく。
あゝ陸軍りくぐんはやぶさ戦闘せんとうたい』(大映だいえい製作せいさく戦争せんそう映画えいが
実物じつぶつだい模型もけいいちがた登場とうじょう
おれは、きみのためにこそににいく』(東映とうえい製作せいさく戦争せんそう映画えいが
実物じつぶつだい模型もけいおよCG制作せいさくさんがた登場とうじょう

漫画まんが・アニメ[編集へんしゅう]

アニメンタリー 決断けつだん
加藤かとうはやぶさ戦闘せんとうたい」などに登場とうじょうしている。
大空おおぞらのちかい
九里くのり一平いっぺいによる作品さくひん加藤かとうはやぶさ戦闘せんとうたい所属しょぞくする主人公しゅじんこうぼう一平いっぺい活躍かつやくいている。
ククルカン 史上しじょう最大さいだい作戦さくせん
スフィアをえてミリオーネンからあらわれた諏訪すわ友也ともやあい機首きしゅ機銃きじゅう2ていのみのけい武装ぶそうなので、てき致命ちめいあたえられず苦戦くせんする。
荒野あらののコトブキ飛行ひこうたい
 主人公しゅじんこうらが所属しょぞくするコトブキ飛行ひこうたいいちがた12.7mm搭載とうさい使用しようする。そらぞく機体きたいとしてさんがた登場とうじょうしている。
戦場せんじょうまんがシリーズ
「メコンの落日らくじつ多数たすう作品さくひん登場とうじょう
帝都ていと迎撃げいげき戦闘せんとうたい

ゲーム[編集へんしゅう]

War Thunder
プレイヤーの操縦そうじゅう機体きたいとしていちがたがたがたべいぐん鹵獲ろかく)・さんがたきのえ中国ちゅうごくぐん鹵獲ろかく)・さんがたおつ登場とうじょうする。
艦隊かんたいこれくしょん -かんこれ-
支援しえんシステム「基地きち航空こうくうたい専用せんよう装備そうびとしてがたさんがたかぶとさんがたきのえ(54戦隊せんたい)・がた(64戦隊せんたい)・さんがたあらため(65戦隊せんたい)が登場とうじょうする。
またたいせん哨戒しょうかいとしてさんがたあらため(20戦隊せんたい)が登場とうじょうする。
荒野あらののコトブキ飛行ひこうたい 大空おおぞらのテイクオフガールズ!
かくキャラクターの搭乗とうじょう可能かのう機体きたいとしていちがたさんがた登場とうじょう。コトブキ飛行ひこうたい全員ぜんいん怪盗かいとうだんアカツキのレンジがいちがた後期こうきのハルカゼ飛行ひこうたい全員ぜんいん怪盗かいとうだんアカツキのカランがさんがた本来ほんらいあいとしており、搭乗とうじょうすることで能力のうりょく向上こうじょうする。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ がた量産りょうさん時点じてんから立川たちかわでも生産せいさんされており、さらにさんがたすべては立川たちかわ移管いかん生産せいさんされた。陸軍りくぐん航空こうくう工廠こうしょうでは少数しょうすういちがた生産せいさんされている。
  2. ^ そう生産せいさんすう日本にっぽんぐんだい3陸軍りくぐんだい2大戦たいせん後期こうき主力しゅりょくであるよんしきせん
  3. ^ 半年はんとしされた『陸軍りくぐん航空こうくう本部ほんぶ兵器へいき研究けんきゅう方針ほうしん』「けい単座たんざ戦闘せんとう」のこうでは「300kmを標準ひょうじゅんとして余裕よゆう飛行ひこう時間じかん30ふん。できるだけ行動こうどう半径はんけい600kmにちかづける」となっている。
  4. ^ 制式せいしき制定せいていまえ新鋭しんえい実戦じっせんテストもね、開戦かいせんとも増加ぞうか試作しさく装備そうび1個いっこ独立どくりつ飛行ひこう中隊ちゅうたい独立どくりつ飛行ひこうだい47中隊ちゅうたい)が参戦さんせん
  5. ^ パレンバンのだい油田ゆでんひがしアジア屈指くっし産油さんゆりょうほこり、どう油田ゆでんでの1年間ねんかん産油さんゆりょう当時とうじ日本にっぽん年間ねんかん石油せきゆ消費しょうひりょう上回うわまわるほどであった。
  6. ^ ニューギニアフィリピンだい4航空こうくうぐん担当たんとうだい4航空こうくうぐんはニューギニアおよびフィリピンの事実じじつじょう陥落かんらくけ1945ねん2がつ廃止はいし
  7. ^ 異説いせつあり、だい日本にっぽん絵画かいが ビルマ航空こうくうせん 上巻じょうかん 梅本うめもとひろし :スロットルレバーの操作そうさについて64戦隊せんたいたたかった安田やすだ義人よしひとは1943ねん2がつはやぶさいちがたからがた機種きしゅ改変かいへんしたさい、「スロットルレバーがきからしにわったこと戸惑とまどったもののおおきな事故じこはなかった」(P242)とかたり、またいちがたがた混在こんざいしていた50戦隊せんたいにおいても、「スロットルレバーの操作そうさぎゃくであること困惑こんわくしていた、とく緊急きんきゅう始動しどうさいりょうかたちがいを見極みきわめているひまがないため、どちらのかたであっても一発いっぱつ始動しどうできるようスロットルレバーはいつも中間ちゅうかん位置いちれられていた」(P318)という。そして1943ねん7がつごろには残存ざんそんしていたいちがたもスロットルレバーをがた同様どうよう改修かいしゅうされ、操作そうさほう差異さい戸惑とまどっていた操縦そうじゅうしゃ整備せいびへいよろこばせた。(P365)とある。
  8. ^ 今村いまむらひとし陸軍りくぐん大将たいしょう長男ちょうなん湯川ゆかわ秀樹ひでき教授きょうじゅ師事しじして大阪おおさか帝国ていこく大学だいがく理学部りがくぶ物理ぶつり学科がっか卒業そつぎょうしたのち、技術ぎじゅつ見習みならい士官しかん制度せいど陸軍りくぐんこうわざ中尉ちゅうい任官にんかんし、航空こうくう技術ぎじゅつ将校しょうこうとなる。1941ねん6がつこう技研ぎけんだい2配属はいぞくされ、1943ねんなかばには航空こうくう審査しんさ飛行機ひこうきへの転属てんぞく最終さいしゅう階級かいきゅう陸軍りくぐん技術ぎじゅつ少佐しょうさ戦後せんご鉄道てつどう技術ぎじゅつ研究所けんきゅうじょ技師ぎし防衛庁ぼうえいちょう技官ぎかん防衛大学校ぼうえいだいがくこう教官きょうかん[43]
  9. ^ いちごう」は最大さいだい通信つうしん距離きょりやく1,000kmの遠距離えんきょりようじゅう爆撃ばくげきいち〇〇しきさんがたとう装備そうび、「ごう」は最大さいだい通信つうしん距離きょりやく500kmの中距離ちゅうきょりようけい爆撃ばくげきいち〇〇しきがたしきふくせんとう装備そうびしている。このほか爆撃ばくげき編隊へんたい内用ないようの「よんごう」(最大さいだい通信つうしん距離きょりやく50km)と、ばくげき指揮しきかんようの「ごう」(最大さいだい通信つうしん距離きょりやく500km)がある。
  10. ^ のちに少佐しょうさとなりだい64せん隊長たいちょうとして1943ねん2がつ25にち戦死せんし
  11. ^ 日本にっぽんぐんは「ブレニム(Blenheim)」をドイツみし「ブレンハイム」と呼称こしょうしている。
  12. ^ くもおお視界しかいわる荒天こうてん空戦くうせんのため、撃墜げきつい対空たいくう砲火ほうかによる可能かのうせいもある。
  13. ^ ちなみに、加藤かとうこう本部ほんぶいん時代じだい寺内てらうち元帥げんすい随員ずいいんとして欧米おうべい訪問ほうもんしている。シンポールの南方なんぽうぐんそう司令しれいにて加藤かとう戦死せんし一報いっぽういた寺内てらうち元帥げんすいは「あの加藤かとうが……」とてんあお嘆息たんそくしたという。ひのき (2016), p.378
  14. ^ P-51Aの攻撃こうげき機上きじょう負傷ふしょうしたひのき中尉ちゅういマフラー止血しけつ飛行場ひこうじょうまで帰還きかんしたものの、後送こうそうされ手術しゅじゅつ右足みぎあし下腿かたい切断せつだん義足ぎそくとなるもリハビリにより戦闘せんとう操縦そうじゅうしゃ復帰ふっき明野あけの教導きょうどう飛行ひこうだんきゅう明野あけのこう教官きょうかんにん飛行ひこうだい111戦隊せんたいだい2大隊だいたいちょうキ100(しき戦闘せんとうをもって日本にっぽん本土ほんど防空ぼうくうせんたたかい1945ねん7がつ16にちにはP-51D(だい506戦闘せんとう航空こうくうぐんベンボウ大尉たいい)を撃墜げきついし「義足ぎそくのエース」となる。
  15. ^ 黒江くろえ大尉たいいすくわれたこのしきふくせんだい21せん隊長たいちょう牟田むたひろしこく少佐しょうさであった。かつて牟田むた少佐しょうさ一式いっしきせんをもってだい64戦隊せんたいとともに南方なんぽう作戦さくせん活躍かつやくしただい59戦隊せんたい飛行ひこう隊長たいちょうである。
  16. ^ 実際じっさい白線はくせん5ほん
  17. ^ マクミラン少尉しょうい不時着ふじちゃく捕虜ほりょとなり日本にっぽん捕虜ほりょ生活せいかつおくったが、終戦しゅうせん釈放しゃくほうされアメリカ本国ほんごく帰国きこくしている。
  18. ^ リンドバーグ少佐しょうさにはだい5ばくげき航空こうくうだん指揮しきかんウォーカーじゅんしょう搭乗とうじょうしており、ウォーカーじゅんしょう落下傘らっかさん降下こうか捕虜ほりょとなったとされている。
  19. ^ このほか一式いっしきせん1行方ゆくえ不明ふめいとなっているが、これは戦闘せんとうまえ巡航じゅんこうちゅう理由りゆう不明ふめい編隊へんたい離脱りだつおこなった機体きたいであり撃墜げきついではない。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ #青木あおき回想かいそう104、107ぺーじ
  2. ^ #青木あおき回想かいそう106ぺーじ#作戦さくせんじょう要望ようぼうp.2
  3. ^ #作戦さくせんもちp.3
  4. ^ #作戦さくせんじょう要望ようぼうp.5
  5. ^ a b #青木あおき回想かいそう108ぺーじ
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  7. ^ 世界せかい傑作けっさく 陸軍りくぐん1しき戦闘せんとうはやぶさ」No.65 』 pp.12-15
  8. ^ #青木あおき回想かいそう110-11ぺーじ
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関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

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