さんしき戦闘せんとう

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川崎かわさき キ61 さんしき戦闘せんとう飛燕ひえん

台湾・松山飛行場駐屯の第37教育飛行隊所属の 三式戦一型甲(キ61-I甲、1944年3月撮影)

台湾たいわん松山まつやま飛行場ひこうじょう駐屯ちゅうとんだい37教育きょういく飛行ひこうたい所属しょぞく
さんしきせんいちがたきのえ(キ61-Iかぶと1944ねん3がつ撮影さつえい)

さんしき戦闘せんとう(さんしきせんとうき)「飛燕ひえん」(ひえん)はだい世界せかい大戦たいせんどき大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん戦闘せんとうである。開発かいはつ製造せいぞう川崎かわさき航空機こうくうきおこない、1943ねん昭和しょうわ18ねん)に制式せいしき採用さいようされた。設計せっけい主務しゅむしゃ土井どい武夫たけおふく主任しゅにん大和田おおわだしんである[1]

当時とうじ日本にっぽん唯一ゆいいつ量産りょうさんえきひや戦闘せんとうであり、ドイツえきひや航空こうくうエンジンDB 601国産こくさんしたハ40搭載とうさいした。防弾ぼうだん武装ぶそうのない試作しさく最高さいこう速度そくど590 km/h発揮はっきした。主翼しゅよくより後部こうぶ機体きたい下部かぶにラジエーター・ダクトを搭載とうさいし、機体きたい空気くうき抵抗ていこう低下ていか冷却れいきゃく効率こうりつ両立りょうりつはかった[注釈ちゅうしゃく 1]

搭載とうさいエンジンのハ40が生産せいさん整備せいびともに苦労くろうおおく、つね故障こしょうなやまされた戦闘せんとうとしてもられる。エンジンの生産せいさん遅延ちえんから、製造せいぞうしてもエンジンを搭載とうさいすることができない、いわゆるくびしの機体きたい工場こうじょうない大量たいりょうなら異常いじょう事態じたい発生はっせいした。このため、ほしがた空冷くうれいエンジンハ112-II急遽きゅうきょ搭載とうさいしたしき戦闘せんとう[注釈ちゅうしゃく 2]のち生産せいさんされた。

概要がいよう[編集へんしゅう]

所沢ところざわ航空こうくう発祥はっしょう記念きねんかんのハ40。ハ40は倒立とうりつエンジンであるが、画像がぞうではエンジンの上下じょうげぎゃく展示てんじされている

さんしき戦闘せんとう太平洋戦争たいへいようせんそう実戦じっせん投入とうにゅうされた日本にっぽんぐん戦闘せんとうなかでは唯一ゆいいつえきひやエンジンである。搭載とうさいエンジンには、当時とうじ同盟どうめいこくであったドイツこくダイムラー・ベンツしゃ開発かいはつしたはなれのぼり出力しゅつりょく1,100馬力ばりきDB 601 A川崎かわさきライセンス生産せいさんしたハ40採用さいようした。空冷くうれいエンジン主力しゅりょくであった日本にっぽん軍機ぐんきなかにあって、ほん外形がいけい水冷すいれいエンジン装備そうび特有とくゆう細身ほそみ形状けいじょうつ。開発かいはつしゃ土井どいによれば、出力しゅつりょくおな場合ばあいえきひや戦闘せんとう抵抗ていこう面積めんせき空冷くうれい戦闘せんとうくらべて20 %程度ていど減少げんしょうし、速度そくどは6 %向上こうじょうするなどそらりょくてきにも優位ゆうい形状けいじょうであった[2]。ただしラジエーターようするぶん重量じゅうりょうすのが欠点けってんである[2]

搭載とうさいエンジンと機体きたい形状けいじょうから「和製わせいメッサー」ともばれたが、機体きたい設計せっけい川崎かわさき設計せっけいじん独自どくじったものであり、左右さゆういち体型たいけい主翼しゅよく胴体どうたい接合せつごうほう、ラジエーター配置はいちしゅあし構造こうぞうなどがBf109とおおきくことなり、共通きょうつうてんはエンジンとのちほん一部いちぶ装備そうびしたMG 151/20機関きかんほう程度ていどである。

1940ねん2がつ陸軍りくぐん川崎かわさきにハ40を使用しようしたけい戦闘せんとうキ61の試作しさく指示しじ、12月から設計せっけい開始かいしされた[3]1941ねん12月はつ飛行ひこうしたキ61試作しさくは591 km/hという「まったくの予想よそうがい[4]さい高速度こうそくど発揮はっきし、総合そうごう評価ひょうかでも優秀ゆうしゅう判定はんていされてただちに制式せいしき採用さいよう決定けっていされた。しかし、DB 601は当時とうじ日本にっぽん基礎きそ工業こうぎょうりょく資源しげん欠乏けつぼうから生産せいさんむずかしい精緻せいち構造こうぞうのエンジンであったこと、日本にっぽん整備せいびへいえきひやエンジンに不慣ふなれで整備せいび作業さぎょうそのものもむずかしいなど運用うんようがわにも負担ふたんとなったことなどから、後々あとあとまで生産せいさん運用うんようともに問題もんだいおお発生はっせいした。

愛称あいしょう呼称こしょう[編集へんしゅう]

試作しさく名称めいしょうである番号ばんごうキ61であった。制式せいしき名称めいしょうであるさんしき戦闘せんとうという呼称こしょう皇紀こうき2603とし1943ねん昭和しょうわ18ねん))に制式せいしき採用さいようされたことに由来ゆらいする。制式せいしき制定せいてい渡辺わたなべ (2006, p. 153)によれば1943ねん昭和しょうわ18ねん)6がつみね (2007, p. 143)によれば1943ねん昭和しょうわ18ねん)10がつ9にち実際じっさいには1942ねん昭和しょうわ17ねんちゅう量産りょうさん開始かいししているが、「しき」には「しき単座たんざ戦闘せんとう」(鍾馗しょうき)と「しきふく戦闘せんとう」(ほふりゅう)がすでにあり、煩雑はんざつとなるため1943ねん制式せいしきとされたとされる[よう出典しゅってん]

愛称あいしょう飛燕ひえん(ひえん)、部隊ぶたいでの呼称こしょう略称りゃくしょうさんしきせんロクイチ、「キのロクイチ」、「ロクイチせん」などがある。川崎かわさき社内しゃないでは「ろくいち」[5]ばれたが、二型にがた登場とうじょうは「いちがた」「にがた」とばれるようになった[6]

愛称あいしょうの「飛燕ひえん」は1944ねん後半こうはん発表はっぴょうされたとする文献ぶんけんもあるが[7]、1945ねん1がつ16にちづけ朝日新聞あさひしんぶんにおいて本土ほんど防空ぼうくうたっていた飛行ひこうだい244戦隊せんたい後述こうじゅつ)の活躍かつやくほうじる記事きじ発表はっぴょうされている[8][9]。その記事きじでは「その軽妙けいみょう俊敏しゅんびんさは、あたかも青空あおぞらってつばめにもているところから「飛燕ひえん」とぶことになった」としている[9]。また三井みつい (1989, p. 20)は、こうアスペクト細長ほそなが主翼しゅよくつ、独特どくとくのスタイルに由来ゆらいすると解説かいせつしている。なおいかり (2006, p. 127)によれば、1945ねん1がつ時点じてん川崎かわさき航空機こうくうき年表ねんぴょう愛称あいしょうられる。

連合れんごうぐんにおけるコードネームTony(トニー)であった。これはアメリカではイタリアけい移民いみん典型てんけいてき名前なまえとされ、当初とうしょ、アメリカぐんがさしたる根拠こんきょなくほん日本にっぽん同盟どうめいこくであるイタリア空軍くうぐんマッキ MC.202のコピー誤認ごにんしたことにちなんでづけられた。

ほん印象いんしょうとくにファストバックがたキャノピーがBf109に類似るいじすること、およびどう系統けいとうのエンジンを搭載とうさいしていたことから日本にっぽんでも「和製わせいメッサー」というあだがあった[10]

そう生産せいさんすう[編集へんしゅう]

製造せいぞうちゅうさんしき戦闘せんとう

そう生産せいさんすうかくかたわせておおよそ3,150であるが、うち275機体きたいしき戦闘せんとう(キ100)に転用てんようされたため、さんしき戦闘せんとうとしての実数じっすうはこれよりややすくなく、2,875前後ぜんこうとなる。そう生産せいさんすう諸説しょせつ列挙れっきょする。なおがた通説つうせつでは増加ぞうか試作しさく30および量産りょうさんがた374だが、みね (2007, p. 156)は413+αとする。

  • かたふち (2007, pp. 90–91)によれば、かくかた試作しさくがたわせて3,153
  • みね (2007, p. 156)によれば、3,153+αあるふぁ
  • 秋本あきもと (1999, pp. 120–121)によれば、3,148かこれよりややおおい。
  • 土井どい (2002a, p. 35)によれば、Iがただけで2,750。これにIIがたの8がた(II-あらため)の30+374しき戦闘せんとう改造かいぞうされたものをふくむ)をくわえると3,162

一般いっぱん中島なかじま飛行機ひこうき一式いっしき戦闘せんとうが5,751おなじく中島なかじまよんしき戦闘せんとうやく3,500生産せいさんされたとされているので、その発動はつどう生産せいさん多大ただい問題もんだいかかえながらも、太平洋戦争たいへいようせんそう世代せだい陸軍りくぐん戦闘せんとうとしてはだいさん生産せいさんすうほこ[11](ただしきゅうななしき戦闘せんとうも1943ねんまでに通算つうさん3,386生産せいさんされており、それもふくめるならよんである。なお、きゅう日本にっぽんぐん全体ぜんたいでは海軍かいぐんれいしき艦上かんじょう戦闘せんとうが10,400程度ていど生産せいさんされており、これがいちとなる[11])。

川崎かわさき複数ふくすう工場こうじょうっており、機体きたい岐阜ぎふ工場こうじょう、エンジンは明石あかし工場こうじょう生産せいさんされていた。

開発かいはつ経緯けいい機体きたい内部ないぶ構造こうぞう[編集へんしゅう]

さんしきせんいちがた(キ61-I)

1940ねん2がつ陸軍りくぐん川崎かわさきたいし、ハ40を使用しようしたじゅう戦闘せんとうキ60とけい戦闘せんとうキ61試作しさく指示しじした[12][13]。キ60の設計せっけいは1940ねん2がつから、キ61の設計せっけいは12月から開始かいしされた[14]設計せっけい両機りょうきともに土井どい武夫たけお担当たんとうした。キ60はBf109Eと互角ごかく以上いじょう性能せいのうしめしたものの[注釈ちゅうしゃく 3]合同ごうどう試験しけんされたしき単座たんざ戦闘せんとうほう有望ゆうぼうであり、なによりキ61のほう良好りょうこう性能せいのう発揮はっきしていたため、制式せいしき見送みおくられている。

キ61の設計せっけいコンセプトは、「航空こうくう兵器へいき研究けんきゅう方針ほうしん」におけるじゅうせんけいせんのカテゴリにこだわらない万能ばんのう戦闘せんとうで、「ちゅうせん(ちゅう戦闘せんとう)」ともばれた。当時とうじ陸軍りくぐんは、けい単座たんざ戦闘せんとう旋回せんかいりょく上昇じょうしょうりょくもとめ、さらに12.7 mm機関きかんほう搭載とうさい要求ようきゅうしたことから、必然ひつぜんてき陸軍りくぐんない議論ぎろん発生はっせいしたともされる[16]ふく主任しゅにん大和田おおわだが「戦闘せんとう総合そうごう性能せいのうてきっておらねばならず、けいせんじゅうせんけるのは不合理ふごうりだ」とかたり、またこれが川崎かわさき開発かいはつチーム共通きょうつう理念りねんであったともしている[17]。そもそも開発かいはつチームが「ちゅうせん」とんでいたとする文献ぶんけんもある[18]など、川崎かわさきがわ発祥はっしょうであるともされる。

土井どい自身じしん陸軍りくぐんの「けい戦闘せんとう思想しそうにこだわらず、キ61を理想りそうてき戦闘せんとうにまとめあげようとしたとかたっている[19][4][18]みね (2007, p. 116)はこのかんがえのうらに、かつて土井どい設計せっけい担当たんとうし、高速こうそくせい追求ついきゅうしたけい戦闘せんとうキ28が、1939ねん競争きょうそう試作しさく旋回せんかいせいおとるとしてキ27(きゅうななしき戦闘せんとう)にやぶれた経緯けいい影響えいきょうしたとする。土井どい自信じしんさくであったキ28について「当時とうじ陸軍りくぐん一撃いちげき離脱りだつ戦法せんぽうっていれば」とべており[20][注釈ちゅうしゃく 4]いちきゅうしき戦闘せんとう改良かいりょうばんともえる降着こうちゃく装置そうちしきとし最大さいだい速度そくど480 km/hにたっする高速こうそく複葉ふくよう計画けいかくしたこともあった[22]。しかしこれはその廃案はいあんになり、「さんしき戦闘せんとうあん変更へんこうされている。1940ねん9がつごろには細部さいぶ設計せっけい開始かいしされた[18]。なおみね (2007, pp. 118, 132)は、開発かいはつ初期しょきの1940ねん5がつごろから土井どいはキ61を空冷くうれいエンジン搭載とうさいとする可能かのうせい言及げんきゅうしたとしている。

木型きがた審査しんさは1941ねん6がつおこなわれ[23]試作しさくは1941ねん12月に完成かんせいはつ飛行ひこうおこなった[24]。キ61はキ60とどう系統けいとうのエンジンを使用しようしており、陸軍りくぐんがわもあまり期待きたいしていなかったとする資料しりょうもあるが[25]、この審査しんさではキ60やBf109Eの速度そくどを30 km/h上回うわまわる590 km/hを発揮はっきした。これは設計せっけいしゃ土井どいすらもまった予想よそうがい高性能こうせいのうだった[4][26]。なおこの時期じき陸軍りくぐん戦闘せんとうは、けい戦闘せんとうである一式いっしき戦闘せんとうは495 km/hから515 km/h[27]じゅう戦闘せんとうであるしき単座たんざ戦闘せんとう制式せいしき採用さいようまえ)でも580 km/hのさい高速度こうそくどしかもたなかった[28]。このため1942ねん10がつには毎日まいにち航空こうくうしょうが、1943ねん12月には陸軍りくぐん技術ぎじゅつ有功ゆうこうしょうが、土井どい大和田おおわだおくられた[注釈ちゅうしゃく 5]

エンジン[編集へんしゅう]

1936ねん、ドイツでえきひや1,000馬力ばりききゅう航空こうくうエンジン、DB 601が開発かいはつ生産せいさんされた。これはきゅう流体りゅうたい継手つぎて採用さいようし、キャブレターではなく燃料ねんりょう噴射ふんしゃ装置そうち採用さいようするなど先進せんしんてき機構きこうそなえたエンジンであった[30]日本にっぽん陸海りくかいぐんはこのエンジンに興味きょうみしめし、海軍かいぐんがわ愛知時計電機あいちとけいでんきのち航空機こうくうき部門ぶもん愛知あいち航空機こうくうきとして独立どくりつ)が、また1939ねん1がつには川崎かわさき航空機こうくうきが、各々おのおの50まんえんでライセンスを購入こうにゅうし、日本にっぽん国内こくないでの生産せいさんおこなうこととなった[30]

川崎かわさきたに社長しゃちょう土井どいかたっただんとして、アドルフ・ヒトラーはこの購入こうにゅうかんし「日本にっぽん政府せいふとして購入こうにゅうすれば50まんえんむのに」なるむねげんはっ[31][32]、また日本にっぽん陸海りくかいぐん敵同士かたきどうしかとわらったともされる[33]渡辺わたなべ (2006)によれば当時とうじ陸海りくかいぐん反目はんもくがエスカレートしており、別々べつべつ購入こうにゅういたった[33]。またはやし (1999)によれば海軍かいぐん陸軍りくぐん購入こうにゅうかんして別々べつべつ交渉こうしょうつづけており、ざいベルリン海軍かいぐん事務所じむしょからざいベルリン日本にっぽん大使館たいしかん陸軍りくぐん航空こうくう補佐ほさかん加藤かとう敏雄としお中佐ちゅうさに、すで海軍かいぐんがわ制作せいさくけん購入こうにゅう交渉こうしょうはじめたのでいてくれとの電話でんわったとの逸話いつわ紹介しょうかいされている[34]。またいかり (2006)には、ダイムラーベンツしゃ道徳どうとくじょうおなこくもライセンスりょうはらわせるわけにはいかないと一旦いったん辞退じたいもうたことが記述きじゅつされている[35]

以上いじょうはライセンス購入こうにゅうさい陸海りくかいぐん対立たいりつ定説ていせつとしてかたられている顛末てんまつであるが、みね文三ぶんぞう以下いかのようなせつ著述ちょじゅつしている。DB 600(601ではない)は、愛知あいちがライセンスを購入こうにゅうしたものの、愛知あいち陸軍りくぐんにエンジンを供給きょうきゅうすることがゆるされていた。またDB 601については愛知あいち川崎かわさきとも1しゃのみでぜんぐん供給きょうきゅうできるだけの生産せいさんりょく期待きたいできず、2しゃ生産せいさんたるのはやむをなかった。2しゃ生産せいさんする以上いじょうライセンス生産せいさんりょうも2しゃぶん支払しはらうのが契約けいやくじょう当然とうぜんであり、また発動はつどう陸海りくかいぐん共用きょうようしている状況じょうきょうから、DB 601の経緯けいいのみに注目ちゅうもくして対立たいりつ根拠こんきょとすることはしがたいとしている[36]

ライセンス生産せいさんにあたり、ドイツから日本にっぽん輸入ゆにゅうされたのははなれのぼり出力しゅつりょく1,175馬力ばりきのDB 601Aaで、燃料ねんりょう噴射ふんしゃ装置そうち特許とっきょボッシュしゃがライセンス生産せいさんみとめないなどのトラブルがあったものの、1940ねん12月、ハ40完成かんせいた。量産りょうさんがた完成かんせいは1941ねん7がつ書類しょるいじょうではどう9がつである[37]

なお、川崎かわさきがわ資料しりょうなど、一般いっぱんには試作しさくには最初さいしょからハ40が搭載とうさいされていたとわれているが、審査しんさ担当たんとうした荒蒔あらまき義次よしじらは、3号機ごうきまでは輸入ゆにゅうしたDB 601Aaを搭載とうさいしていたと証言しょうげんしている。また、ハ40を搭載とうさいした4号機ごうきからはきゅう不調ふちょうおおかった[38]量産りょうさんがただいいち号機ごうきは1942ねん8がつ完成かんせいした[39]

えきひやエンジンを搭載とうさいしたため機首きしゅながく、地上ちじょうでの前方ぜんぽう視界しかいいものではなかったとする文献ぶんけんもある[40]

主翼しゅよく[編集へんしゅう]

主翼しゅよく全幅ぜんはば12 m、面積めんせき20 m2で、アスペクトは7.2というたか比率ひりつつばさがた採用さいようした[41][42]当時とうじ戦闘せんとうはアメリカぐん戦闘せんとうP-51Bでアスペクトは5.9、Bf109Eで6.0、れいしき艦上かんじょう戦闘せんとうは6.4であり[41]日本にっぽん陸軍りくぐん運用うんようしていたほか戦闘せんとう一式いっしき戦闘せんとうしき単座たんざ戦闘せんとうよんしき戦闘せんとうも6.0 - 6.08程度ていどとなっている[43]。これらと比較ひかくしてさんしき戦闘せんとう主翼しゅよくはアスペクトたか[注釈ちゅうしゃく 6]。これはつばさめん荷重かじゅうひくめるよりもつばさはば荷重かじゅうひくめたほうが、高速こうそく性能せいのう運動うんどう性能せいのう、および高々たかだか性能せいのう確保かくほできるという土井どい設計せっけい思想しそうによるものである[18]長大ちょうだいつばさはばからくるロール性能せいのう低下ていかは、補助ほじょつばさ設計せっけいでカバーした[42]つばさめん荷重におもは147 kg/m2で、一式いっしき戦闘せんとうの100 kg/m2よりはおおきいが、しき単座たんざ戦闘せんとうの171 kg/m2よりはちいさいである[44]

またこの主翼しゅよくしゅけた左右さゆう一体いったい構造こうぞうつくられた頑丈がんじょうなものであった。当時とうじしゅけたはIがた断面だんめんのものがおおもちいられていたが、さんしき戦闘せんとうのものは凵型のアルミ合金ごうきんじゅうにしたものを前後ぜんごのウェブで上下じょうげわせばこがたとしたもので、フランジ結合けつごうされた主翼しゅよく小骨こぼねのものもわせてさんじゅうとなっており、そのうえ内部ないぶにもトラスまれるという頑丈がんじょうなもので[45]荷重かじゅう試験しけんではそう重量じゅうりょう2,950 kgと仮定かていして主翼しゅよくに15 Gをかけても破壊はかいされず、それ以降いこう試験しけん中止ちゅうしした[46][47]強度きょうど過大かだいであることから性能せいのう向上こうじょうのために主翼しゅよく軽量けいりょう検討けんとうされたが、キ61はすで十分じゅうぶん性能せいのうしめしていたために見送みおくられた[46][注釈ちゅうしゃく 7]さんしき戦闘せんとう当初とうしょ計画けいかくの2,950 kgから、最大さいだいがたの3,800 kgにまでそう重量じゅうりょう増加ぞうかしているが、このめんでの主翼しゅよく設計せっけい変更へんこう必要ひつようく、生産せいさんとどこおることはなかった[46]。なお、後方こうほうにはTかたまたはLがたをした補助ほじょけた設置せっちされている[45]

しかしほん受領じゅりょうしてあいだもない244戦隊せんたいにおいて、訓練くんれん飛行ひこうちゅうだった村岡むらおか主翼しゅよくにシワがはいり、メーカーである川崎かわさきによって、主翼しゅよくがいいたがして小骨こぼね補強ほきょうする改修かいしゅうを、やく2週間しゅうかんかけぜんけたという[49]

全幅ぜんぷくひろ主翼しゅよくもちいたことから[50]しゅあしのスパンは4.05 mと降着こうちゃくさいして十分じゅうぶん安定あんていしたものであり、荒地あれちでの運用うんようえられるものであった[10]。そのため胴体どうたい下部かぶまれたしゅあしのタイヤと降着こうちゃく装置そうち占拠せんきょされることなく、燃料ねんりょうタンクやラジエーターの艤装ぎそう容易よういとなっている[51]主翼しゅよく片側かたがわ6ほんのボルトで胴体どうたいけられているが、これはFw190やP-51と類似るいじした方法ほうほうである[50]。またこの部分ぶぶんたいらに整形せいけいされ[51]将来しょうらい機体きたい改造かいぞうおこなわれて重心じゅうしんわっても、主翼しゅよく位置いち前後ぜんご修正しゅうせいによる重心じゅうしん位置いち調整ちょうせい容易よういである[46][52]

なお開発かいはつに、土井どい不適切ふてきせつ対応たいおうもあり、急降下きゅうこうか補助ほじょつばさフラッターによる振動しんどうせんぶという事故じこ発生はっせいしているが、無事ぶじ着陸ちゃくりく成功せいこうことなきをている[53]

胴体どうたい[編集へんしゅう]

さんしき戦闘せんとう胴体どうたいおよび機首きしゅは、日本にっぽんでは一般いっぱんてきかつだい直径ちょっけい空冷くうれいほしがたエンジン搭載とうさいした各種かくしゅ戦闘せんとうくらべ、えきひやエンジン搭載とうさい利点りてんたものとなった。全幅ぜんぷくは840 mmである[54]。キ60よりぜんこうは100 mmおさえられ、1,360 mmであった[55]。こうした小型こがた空気くうき抵抗ていこうらして高速こうそく効果こうかがある。機体きたい分割ぶんかつ部分ぶぶんらし、生産せいさんせい向上こうじょうとともに強度きょうど軽量けいりょう両立りょうりつはかったのも特長とくちょうである[56]

胴体どうたいは4ほんたて貫通かんつうざい骨組ほねぐみのしゅざいとした。ただしこれらは尾翼びよく直前ちょくぜんだい12えんかまち分離ぶんりされており、一体いったい構造こうぞうではない[57]。この構造こうぞう生産せいさんせい向上こうじょう役立やくだったとされる[58]ほん量産りょうさんせいにも配慮はいりょがなされ、主翼しゅよくほう生産せいさんせいたかめたほか飛行機ひこうき外形がいけいつくってから工員こういんなかはい内装ないそうおこな従来じゅうらい手順てじゅんあらため、かくモジュールを内部ないぶまである程度ていどつくげてから最終さいしゅうてきてるシステムがられた[59]。これはP-51の生産せいさん手法しゅほう同等どうとうのものである。機体きたい構造こうぞうセミ・モノコック構造こうぞうとなっており[55]、また発動はつどう通常つうじょう鋼管こうかんげたものでなく、胴体どうたい一体いったいのモノコック構造こうぞうとなっている。これは一体いったい構造こうぞう主翼しゅよくあいまり、降下こうか限界げんかい速度そくどが850 km/hまで許容きょようされるなど、機体きたい強度きょうど非常ひじょう頑丈がんじょうなものであり[60][61][62]、また重量じゅうりょう軽減けいげんにも貢献こうけんしている[44]土井どいによれば速度そくどけいは700 km/hまでのものが採用さいようされた。ただし780 km/hまで計測けいそくできたとの証言しょうげんや、のちに1,000 km/hまでの速度そくどけいえられたとの証言しょうげんもある[63]。この構造こうぞう重量じゅうりょう軽減けいげんにも非常ひじょう有効ゆうこうだったともいわれる[64][58]設計せっけい主務しゅむ土井どいによれば、さんしき戦闘せんとう空中くうちゅう分解ぶんかいこした事例じれいいちもなかった[46]。また真偽しんぎ不明ふめいであるが、土井どいおな文献ぶんけんで、さんしき戦闘せんとう音速おんそく突破とっぱしたケースがあるとみみにしたとあらわしている。機体きたい頑強がんきょうなことから、不時着ふじちゃく比較的ひかくてきおこないやすかったと証言しょうげんしたパイロットもいる[65]

えきひやエンジンに不可欠ふかけつラジエーターについては、#ラジエーター詳述しょうじゅつする。

翼下よくか落下らっかぞうそう搭載とうさいしたさんしき戦闘せんとう風防ふうぼうはファストバック形式けいしき

視界しかいられるなみだしずくがた風防ふうぼう中心ちゅうしん日本にっぽん軍機ぐんきとしてめずらしく、キャノピー後部こうぶ胴体どうたい一体化いったいかしたファストバック方式ほうしきられている[66]。この型式けいしきそら力学りきがくてき有利ゆうりであるが後方こうほう視界しかい制限せいげんされ、空戦くうせん不利ふりとなる懸念けねんがあった。視界しかいかんし、実戦じっせん部隊ぶたいからとりたてて指摘してきはなかったとする文献ぶんけん[67]、あったとする文献ぶんけんがある[68]。またぜん下方かほうをのぞきるためのまどもうけられたが、土井どいによればこのキャノピー形状けいじょうぜん下方かほうをのぞきるためのまどはBf109からの流用りゅうようである[10]。なお大戦たいせん末期まっき、おおよそ1944ねん12がつ以降いこう[69]つくられた機体きたい、あるいはしき戦闘せんとう改造かいぞうされた機体きたいについては、日本にっぽん一般いっぱんてきなみだしずくがた風防ふうぼうあらためられている[68]

航続こうぞく距離きょり[編集へんしゅう]

さんしき戦闘せんとう航続こうぞく距離きょりは8時間じかん以上いじょう、3,200 kmを飛行ひこう可能かのうであった。長大ちょうだい航続こうぞく距離きょりゆうするれいしき艦上かんじょう戦闘せんとう匹敵ひってきする飛行ひこう能力のうりょく[24]

つばさないタンクは左右さゆう両方りょうほうだいいち燃料ねんりょうタンクを構成こうせいし、りょうタンクにはさまれた操縦そうじゅうせき床下ゆかしたにはだい燃料ねんりょうタンク、操縦そうじゅうせき後方こうほうにはだいさん胴体どうたい燃料ねんりょうタンクがある[70]

当初とうしょ機内きない燃料ねんりょう820リットルを収容しゅうようし、さらにりょう主翼しゅよくに200リットルのぞうそうかかつるして総計そうけい1,220リットルの燃料ねんりょう確保かくほしたが量産りょうさんがたでは機体きたいに755リットル、ぞうそうわせて1155リットル搭載とうさい航続こうぞく距離きょりは7あいだ40ふんまたは3,070 kmと、若干じゃっかん低下ていかしている[71][72]和泉いずみ (1999)いちがた初期しょき燃料ねんりょう搭載とうさいりょうぞうそうふくめ935リットルとしている[73]ぞうそうかかつるしすると最高さいこう速度そくどが80 km/hほど低下ていかしたという[74]

しかし1943ねん当時とうじウエワクにった実戦じっせん部隊ぶたいだい14飛行ひこうだんでは、侵攻しんこう行動こうどう半径はんけいを550 km(往復おうふく1,100 kmに一定いってい戦闘せんとう行動こうどうぶんしたもの)と判断はんだんしており、実戦じっせんレベルでは航続力こうぞくりょく低下ていかしていた傾向けいこうがある。くわしい原因げんいん不明ふめいだが、エンジンの不調ふちょう整備せいび不良ふりょう想定そうていされる[75]。また、だい14飛行ひこうだんでは被弾ひだん炎上えんじょう危険きけんせいける観点かんてんから、胴体どうたいない増設ぞうせつタンクをろしていたともされる[76]

244戦隊せんたいではインメルマンターンの訓練くんれんちゅう回復かいふく不能ふのう背面はいめんフラットスピンにおちい事故じこ複数ふくすうあり、カラであるはずの胴体どうたいタンクにのタンクから燃料ねんりょう逆流ぎゃくりゅう残留ざんりゅう重心じゅうしん位置いち後退こうたいさせたこと原因げんいん判明はんめい[77]胴体どうたいタンク廃止はいしろんたかまる。

もとより、重心じゅうしんからとお胴体どうたいタンクに燃料ねんりょうのこった状態じょうたいでの空戦くうせん危険きけんであり、落下らっかタンクよりさき胴体どうたいタンクを使つからなければならず、かいてきして落下らっかタンクをてれば空戦くうせん帰路きろ往路おうろ燃料ねんりょうよりすくなくなり合理ごうりてきでない。このため胴体どうたいタンクの容量ようりょうを200リットルから50リットルに変更へんこうする要望ようぼうされたが実現じつげんしなかった[78]。ただしさんしきせん2がた以後いご胴体どうたいタンクを左右さゆう分割ぶんかつみぎ燃料ねんりょうタンク、ひだりみずメタノールタンクとしかく95リットルを搭載とうさいした[79]

武装ぶそう・その[編集へんしゅう]

日本にっぽん陸軍りくぐんでは20 mm機関きかんほう開発かいはつおくれたために、武装ぶそうホ103 12.7 mm機関きかんほう採用さいようした。しかしホ103とて制式せいしき採用さいようは1941ねんであってこの時期じきはまだ信頼しんらいせいには懸念けねんたれており、採用さいよう機首きしゅの2もんにとどめて主翼しゅよくの2もんはちきゅうしき7.7 mm機関きかんじゅう装備そうびしている[80]

防御ぼうぎょかんしては燃料ねんりょうタンクは被弾ひだんたいして若干じゃっかん防弾ぼうだん能力のうりょく付与ふよされている。308までは3 mmあつのゴムと10 mmあつのフェルトでぼうもらしており、388までは上面うわつら9 mm、側面そくめん6 mmあつのゴムでおおわれた。[71]

量産りょうさんは1942ねんまつまでに34、エンジンは65だい完成かんせいした[81]

飛行ひこう性能せいのう[編集へんしゅう]

試作しさくさんしき戦闘せんとう最高さいこう速度そくど上昇じょうしょうりょく旋回せんかいせいすべての比較ひかく領域りょういきにおいてBf109Eを凌駕りょうがした[29]とく最高さいこう速度そくどは30 km/hゆうそくであった[29]

1942ねんあきごろ福生ふっさで「戦闘せんとう研究けんきゅうかい」という名称めいしょう比較ひかく試験しけんおこなわれた。内容ないよう日本にっぽん陸軍りくぐん戦闘せんとうおよび月光げっこう雷電らいでんなどの日本にっぽん海軍かいぐん戦闘せんとうと、P-40Eハリケーン、Bf109Eなどしょ外国がいこくあつめて性能せいのう比較ひかくおこなうものであった。キ61は速度そくど優勢ゆうせいのほか旋回せんかい半径はんけいちいささで外国がいこくくらべてまさり、格闘かくとうせんでは有利ゆうりかんがるものであった[82]海軍かいぐんがわさんしき戦闘せんとうかんし、座席ざせきよし、かじややおもきもいよし、安定あんていせいよし、前方ぜんぽう視界しかいわるし、上昇じょうしょうわるし、急降下きゅうこうかかじ非常ひじょうおもいがすわり・出足であしともによし、と評価ひょうかしている[83]

さんしき戦闘せんとう操縦そうじゅうせいには特筆とくひつすべきくせ問題もんだいはなかった。補助ほじょつばさ昇降しょうこうかじ操作そうさにはロッドしき採用さいようされ[84]方向ほうこうかじには操縦そうじゅうさく(ワイヤー)しき採用さいようされている[85]

1942ねん12月21にちの「戦闘せんとう研究けんきゅうかい[86]、またはあき福生ふっさ陸軍りくぐん航空こうくう審査しんさおこなわれた陸海りくかいぐん試作しさくの互乗研究けんきゅうかい[87]では、ほん試乗しじょうした海軍かいぐんパイロットの一人ひとり操舵そうだ系統けいとう良好りょうこうさにおどろき、こんなにくできたかじった飛行機ひこうきったのははじめてだと、陸軍りくぐんにその秘密ひみつ質問しつもんした。陸軍りくぐんがわはそれにこたえられなかったが、同席どうせきしていた土井どいこたえは、えきひや戦闘せんとう独特どくとくたて細長ほそなが長方形ちょうほうけいじょう胴体どうたい形状けいじょう一番いちばんおおきく影響えいきょうしているのでは、というものであった[87][86]

ほん降下こうか制限せいげん速度そくどは850 km/hと、非常ひじょう頑丈がんじょう機体きたいである。軽量けいりょうつよ追求ついきゅうしたれいしき艦上かんじょう戦闘せんとうがた以前いぜん機体きたい降下こうか制限せいげん速度そくどが670 km/hであり、れいしき艦上かんじょう戦闘せんとうがたかぶとでも740 km/hである[88]

さんしき戦闘せんとうはなれのぼり出力しゅつりょく1,175馬力ばりきのハ40を搭載とうさいする戦闘せんとうであり、いちがたかぶと全備ぜんび重量じゅうりょうは3,170 kgである。同質どうしつのエンジンを搭載とうさいするBf109Eを上昇じょうしょうりょく凌駕りょうがすると説明せつめいする資料しりょうがあるものの、大塚おおつか (2007b)文献ぶんけんちゅうひょうでは、さんしき戦闘せんとう全備ぜんび重量じゅうりょう3,170 kgで高度こうど6,000 mまでの上昇じょうしょう時間じかんが8ふん30びょう、Bf109E-7は2,540 kgで7ふん30びょう、Bf109Fは2,780 kgで6ふん30びょうとなっている[89]出力しゅつりょく不足ふそくとく上昇じょうしょうりょく不足ふそくとなって性能せいのうあらわれた。とく燃料ねんりょう満載まんさい状態じょうたいでは護衛ごえいするはずのばくげきおと上昇じょうしょうりょくしかたなかった[90]。また上昇じょうしょうりょく不足ふそくは、前述ぜんじゅつの「戦闘せんとう研究けんきゅうかい」で海軍かいぐんがわ指摘してきにもあらわれている。

さんしき戦闘せんとう配備はいびされたころにはアメリカ軍機ぐんき高速こうそくじゅう武装ぶそうしておりかならずしも有利ゆうりなものではなかった。ウエワクのだい14飛行ひこうだんのパイロットの証言しょうげんによれば、P-40とは互角ごかくまたはそれ以上いじょうたたかえた[91]。しかしP-38と対戦たいせんした場合ばあい速度そくどはP-38が有利ゆうり機動きどうせいさんしき戦闘せんとう有利ゆうりとであり、空戦くうせん性能せいのう互角ごかくだが、火力かりょくめん不利ふりがあった[92]。さらにP-38相手あいてにはれつそくであり、格闘かくとうせんめばてるにせよ、アメリカ軍機ぐんきいちげき離脱りだつ戦法せんぽう格闘かくとうせんそのものを発生はっせいさせずみようがなかった[92]。したがってさんしき戦闘せんとう手段しゅだん奇襲きしゅう以外いがい状況じょうきょうであり[92]多少たしょうだんててもアメリカ軍機ぐんき防弾ぼうだん性能せいのうたかとせない[93]、また搭載とうさいする無線むせん使つかものにならずたいないでの連携れんけい円滑えんかついておおきなハンディがある[94]と、相当そうとう苦戦くせんをみていた[95]。またべいぐん捕虜ほりょとなった飛行ひこうだい77戦隊せんたいのパイロットがかたったところによれば(尋問じんもん記録きろくだい600ごう)、単独たんどく空戦くうせんであれば(P-38の)すきくこともできるが編隊へんたい空戦くうせんではまったがないとかんじていたという(これは一式いっしき戦闘せんとうふくめたはなし[96]

陸士りくしだい55後年こうねん統合とうごう幕僚ばくりょう会議かいぎ議長ぎちょうとなった竹田たけだ五郎ごろう大尉たいい飛行ひこうだい244戦隊せんたいさんしきせん搭乗とうじょうした。かれほん欠点けってんを「離陸りりくときまええないこと上昇じょうしょう速度そくどおそこと」と指摘してきした[97]

アメリカぐんからさんしき戦闘せんとう[編集へんしゅう]

パタクセント・リバー海軍かいぐん航空こうくう基地きちでテスト飛行ひこうちゅう機体きたい(1945ねん6がつ

当初とうしょアメリカぐんほんがBf109である可能かのうせい推測すいそくしたが、Bf109のラジエーターは主翼しゅよく設置せっちされており形状けいじょうことなるために、なん根拠こんきょもなく日本にっぽん同盟どうめいこくであったイタリアマッキ202のコピーと判断はんだんしていた[95]。このため、さんしき戦闘せんとうにはイタリアけい移民いみんおおい「Tony」というコードネームがつけられた[95][8]。その調査ちょうさ日本にっぽんのオリジナルとわかり、1943ねん11月の「航空機こうくうき識別しきべつちょう」に修正しゅうせいして記載きさいされた[98]

アメリカぐんのパイロットには、さんしき戦闘せんとうとはたたかいやすかったとし[99]、あるいは対決たいけつこのんだ[100]火力かりょく降下こうか性能せいのう従来じゅうらい日本にっぽんより優秀ゆうしゅうだが、上昇じょうしょう性能せいのう速度そくど性能せいのうどもすぐれてはおらず、旋回せんかいせいもP-40にたいして互角ごかくであり、そうじてP-40Nと互角ごかく判断はんだんしていた[98][101]

またP-38かられば、さんしき戦闘せんとう日本にっぽん戦闘せんとうくらべて多少たしょうゆうそくだが、P-38のさい高速度こうそくどおよぶものではなく、さらに格闘かくとうせん日本にっぽんより苦手にがてであるために対戦たいせんしやすかった[102]。そしてとく高度こうど6000 m以上いじょうではP-38のほうがずっと高速こうそくだった[103]。なおP-38はつねに4または2編隊へんたいくずさずに戦闘せんとうおこなうことをむねとしており[104]、また12.7 mm機関きかんほう4もんに20 mm機関きかんほう1もんという強力きょうりょく武装ぶそうそなえていたことから、日本にっぽん陸軍りくぐん主力しゅりょくである一式いっしき戦闘せんとうはやぶさ相手あいてには、その貧弱ひんじゃく武装ぶそう(12.7 mm機関きかんほう2もん)から、そして日本にっぽん軍機ぐんき機動きどうりょく無視むしして雌雄しゆうけっせられる、真正面ましょうめんから攻撃こうげきしあうたい進攻しんこうげきこのんでもちいていたが[100]さんしき戦闘せんとう一式いっしき戦闘せんとうくらべて格段かくだん強力きょうりょく武装ぶそうっており、さらにえきひや戦闘せんとう特有とくゆう比較的ひかくてきちいさな前方ぜんぽう投影とうえい面積めんせきもあり、この戦法せんぽう有効ゆうこうせいそこなわれていた[100]

ただしさんしき戦闘せんとうは、てき日本にっぽんれいとすればれいしき艦上かんじょう戦闘せんとう一式いっしき戦闘せんとうたいしてった戦術せんじゅつ同様どうよう降下こうか離脱りだつしようとしたときとく比較的ひかくてきてい高度こうどでは、これにくことができた[102][103]

一方いっぽう、ニューギニア方面ほうめんのP-38のパイロットからはさんしき戦闘せんとう水平すいへい飛行ひこうでP-38にいつける機体きたいという報告ほうこくもなされており、高度こうど6000 m以下いか高度こうどいき対峙たいじしたパイロットからは「P-38Jのエンジンを全開ぜんかいにしてすう分間ふんかんっても、げるさんしき戦闘せんとうとらえることができなかった」という報告ほうこくや、一式いっしき戦闘せんとうならすではなしている状況じょうきょうでも、さんしき戦闘せんとう執拗しつよういついてることに驚愕きょうがくする報告ほうこく複数ふくすうある[105]

1944ねんのフィリピンせんさんしき戦闘せんとう相手あいてとしたF6Fのパイロットも、日本にっぽんよりたたかいやすかったとしているようだ[106]。ニューギニアでさんしき戦闘せんとうたたかったアメリカのだい35戦闘せんとう飛行ひこうたい、P-40Nのパイロットらも、P-40Nにまさ機体きたいではない、運動うんどうせいたか一式いっしき戦闘せんとうほうこわい、火力かりょく降下こうか速度そくど従来じゅうらい日本にっぽんよりうえだが上昇じょうしょう性能せいのう運動うんどう性能せいのうおとっており加速かそく性能せいのうくない、などと証言しょうげんしたという[101]一方いっぽうで、日本にっぽんとアメリカりょうぐんおおくの機種きしゅたたかった沖縄おきなわせんにおいて、アメリカ海軍かいぐんパイロットから、陸軍りくぐんよんしき戦闘せんとう海軍かいぐん紫電しでんなどの新鋭しんえいよりこう評価ひょうかけたのが飛燕ひえんであった。F6F飛燕ひえんたたかったアメリカ海軍かいぐんパイロットは「飛燕ひえん運動うんどうせい感銘かんめいけた。速度そくど200ノット(371 km)以下いか高度こうど10,000フィート(3,048 m)以下いかなら、飛燕ひえんはF6Fをそとすことができた」とべている[107]

アメリカぐんが1943ねん鹵獲ろかく機体きたいもちいた評価ひょうか試験しけん結果けっか陸海りくかいぐん合同ごうどう識別しきべつちょう」がまとめられ、この資料しりょうなかではさんしき戦闘せんとうじゅう武装ぶそう良好りょうこう防弾ぼうだん性能せいのうそなえた素晴すばらしい機体きたい[102]こう評価ひょうかしている。また日本にっぽん本土ほんどでの迎撃げいげきせんにおいてもっと活動かつどうしたのはTonyであったとひょうしている[108]。この識別しきべつちょうの1943ねん11がつばんでは、最高さいこう速度そくど584 km/h、武装ぶそうを12.7 mm機関きかんじゅう2もん、7.7 mm機関きかんじゅう2もんと、日本にっぽんがわ数値すうち矛盾むじゅんしないデータがしめされている[101]。また1944ねん8がつばんでは武装ぶそうを20 mm機関きかんほう2もん、12.7 mm機関きかんじゅう2もんとし同時どうじ最高さいこう速度そくどを573 km/hにげんじて収録しゅうろくされている[101]。なお1945ねんのレポートでは、ハ140を搭載とうさいしたさんしき戦闘せんとうがた - TonyIIについて、高度こうど8,500 mで最大さいだい速度そくど680 km/hなどと過大かだい表記ひょうきがみられている[109]

アメリカ海軍かいぐん航空こうくう情報じょうほうは、アメリカ軍機ぐんき比較ひかくしてべいぐん戦闘せんとうくらべ、FM-2より水平すいへい速度そくどまさ以外いがいはほとんどのめんおとっている。とくにP-51にくらべるとおおきくおとる。」ひょうしている[注釈ちゅうしゃく 8]。 ただ降下こうか性能せいのうにおいてはF6F戦術せんじゅつ勧告かんこく継続けいぞくして降下こうかするな」記載きさいされたり、さんしき戦闘せんとう自身じしん飛行ひこう特性とくせいについては、操縦そうじゅうせきせまくて窮屈きゅうくつだが計器けいきおよび操作そうさレバーとう配置はいち優良ゆうりょうで、離着陸りちゃくりくさんかじ動作どうさ容易よういであり飛行ひこうするのがたのしい機体きたいこう評価ひょうかをしているが、補助ほじょつばさだけは333 km/hより高速こうそくいきではきわめておもくなること、機首きしゅなが風防ふうぼうひくいため前方ぜんぽう視界しかい非常ひじょうわるいこと、整備せいび複雑ふくざつ試験しけんとく油圧ゆあつ系統けいとうにトラブルが頻発ひんぱつ)で性能せいのう維持いじ困難こんなんであることを欠点けってんとしてげている[110]

ハ40の故障こしょう整備せいび[編集へんしゅう]

さんしき戦闘せんとう日本にっぽんではまだ技術ぎじゅつ成熟せいじゅくしていないえきひやエンジン、それも比較的ひかくてき先進せんしんてきなもの[111]採用さいようしたため、その生産せいさん不備ふび故障こしょう整備せいび困難こんなんせいについての指摘してきおおくなされている。渡辺わたなべ (2002a)さんしき戦闘せんとうだい歓迎かんげいした部隊ぶたいひとつもいとまでしており[99][注釈ちゅうしゃく 9]おなじく渡辺わたなべ (2010)によれば、エンジントラブルは前線ぜんせん部隊ぶたいさんしき戦闘せんとう代名詞だいめいしであるとまでわれている[112]。このため前線ぜんせんでは多少たしょう性能せいのうおとっても確実かくじつ一式いっしき戦闘せんとうしき単座たんざ戦闘せんとう装備そうびし、運用うんようすることをのぞこえもあった[99]

しん機材きざい初期しょき不良ふりょうおおくの場合ばあい存在そんざいする。また当時とうじすべり機械きかい低温ていおんでの粘性ねんせいたかく、すべり冷却れいきゃくまわりでは必要ひつようなところにオイルが供給きょうきゅうされないという問題もんだい発生はっせいしたが、これは冷却れいきゃく能力のうりょくおさえることで解決かいけつした[88]はつ実戦じっせん部隊ぶたいであるだい14飛行ひこうだんでも燃料ねんりょう噴射ふんしゃ装置そうち圧力あつりょく調整ちょうせいべん[113]きゅう故障こしょう[113]冷却れいきゃくすべり[113]などトラブルが続出ぞくしゅつした。とく油圧ゆあつ系統けいとう燃料ねんりょう噴射ふんしゃポンプには故障こしょう続出ぞくしゅつしていた[114]

和泉いずみ (1999)では流体りゅうたい継手つぎて調整ちょうせい不良ふりょうによる出力しゅつりょく低下ていか燃料ねんりょう噴射ふんしゃポンプの故障こしょう[注釈ちゅうしゃく 10]冷却れいきゃくとうからのあぶられがおも故障こしょうとされ[116]、さらに燃料ねんりょう噴射ふんしゃ装置そうち調整ちょうせいたいする整備せいびへい教育きょういく不足ふそく[73]などがげられている。流体りゅうたい継手つぎてによるスーパーチャージャーの段階だんかい変速へんそくがDB601の特徴とくちょうであるが、これの調整ちょうせい適切てきせつでないと、まったくパワーがない。これを地上ちじょう調整ちょうせいするには、機体きたいくい固定こていし、オーバーヒートに留意りゅういしつつ、ホースでラジエータにみずをかけて冷却れいきゃくしながら整備せいび作業さぎょうおこなった[117]

また本来ほんらいDB 601では、クランクじくをはじめとした重要じゅうよう部品ぶひんはニッケルりのクロムモリブデンこうつくられていた。しかし、陸軍りくぐんはハ40エンジン生産せいさんにあたり川崎かわさきにニッケル使用しよう指示しじした。当時とうじ冶金やきんがくおくれていた日本にっぽんでは、ニッケルをくわえないクロムモリムデンこう表面ひょうめん微細びさいなヒビがはいり、品質ひんしつ悪化あっか、クランクじく折損せっそん事故じここした[118]鈴木すずき (2012)によれば、当初とうしょ表面ひょうめん硬化こうかのために高周波こうしゅうは焼入やきいおこなわれていたが、これは硬度こうど不足ふそくで100時間じかん以内いない表面ひょうめん剥離はくりしてしまうため滲炭しんたん処理しょり変更へんこうされたが、これの不良ふりょうのため表面ひょうめん剥離はくりする事例じれいおおかったとみられ[119]、またクランクじくえん自体じたいも、トラブルを回避かいひするためには0.003 mm程度ていど精度せいど要求ようきゅうされるが、これについても基準きじゅんいたっていなかったのではないかとしている[120]ハ140への生産せいさん転換てんかんむかえるころいたってもハ40の気筒きとう部分ぶぶん生産せいさん歩留ぶどまりは50 %程度ていどであり[121]、クランクじく生産せいさんもはかどらなかった[122]。さらに歴史れきしぐんぞう編集へんしゅう (2010)によれば、このハ40は一般いっぱんてきな1,000馬力ばりききゅう空冷くうれいエンジンにくらべて、生産せいさんに3ばい工程こうていすうようしたとする[123]

またクランクじくのコンロッド接続せつぞくローラーベアリング(ころ軸受じくうけ)はローラーが14 mm程度ていどみち[124]のものを3れつにしてもちいていたが(ふくれつ円筒えんとうころ軸受じくうけ[125]、それにもちいられた72[111]のローラーもドイツせいのものとくらべて相当そうとう精度せいどひく[126]、クランクじく破損はそんつながった。当時とうじ日本にっぽん基礎きそ工業こうぎょうりょくは、ボールベアリングのボールの精度せいどでも表面ひょうめん凹凸おうとつがヨーロッパのSKFしゃせいのものは0.001 mm以内いないおさまっていたものが日本にっぽんせいのものは0.012 - 0.015 mmと桁違けたちがいにわる[127]、(ハ40ではないが)愛知あいちのアツタでは、ローラーについてはえん0.002 - 0.003 mmのものを選別せんべつして利用りようしていた[128]同様どうよう選別せんべつ川崎かわさきでもおこなわれていたと仮定かていしても、ほぼ素人しろうとである勤労きんろう動員どういんおおかった当時とうじ労働ろうどうしゃしつ考慮こうりょすると、適切てきせつ選別せんべつおこなわれたかには疑問ぎもんのこ[129]

1998ねん現存げんそんしていたハ40の部品ぶひん測定そくていしてみたところ、ベアリングケージなど箇所かしょについては精度せいどわるくなかったものの、やはりローラーのえんはよくなく、0.010 - 0.022 mmであったいう[130][131][注釈ちゅうしゃく 11]。また鈴木すずき (2012)は、生産せいさんじょう主要しゅようなネックはこのクランクじくピンの表面ひょうめん剥離はくりであるとし[132]、ローラーの形状けいじょう自体じたいにも(ベアリングのローラーは単純たんじゅん円筒えんとうがたをとってはいない)技術ぎじゅつてき蓄積ちくせきりなかったのであろうと指摘してきする[120]。ローラーの形状けいじょう均一きんいつせいについては、愛知あいちのアツタでも問題もんだいとなっていたようだ[133]。なお、鈴木すずき (2012)では、ベンツせい川崎かわさきせいクランクじく断面だんめん顕微鏡けんびきょう写真しゃしん比較ひかく掲載けいさいされている。ベンツせいのクランクじく結晶けっしょう構造こうぞう均質きんしつなマルテンサイトとなっているが、ハ40は滲炭しんたん組織そしき完全かんぜんなマルテンサイトではなく、きがはいりきらずにトルースタイト析出せきしゅつしている。また滲炭しんたんふかさにも問題もんだいがあり、クランクとベアリングが局所きょくしょてきうため、硬化こうか深度しんどは1.5 mm以上いじょう必要ひつようであるが、データでは1 mm程度ていどふかさから硬度こうどおおきくちている[134]。また、川崎かわさきがこれまで製作せいさくしていた水冷すいれいエンジンとくらべ、技術ぎじゅつてき飛躍ひやくおおきかったてん無視むしできないとする[135]

原型げんけいとなったDB 601エンジン。画像がぞうはBf110に搭載とうさいされていたもの

いかり (2006)によれば基礎きそ工業こうぎょうりょく不足ふそくは、すべての部品ぶひんしつ非常ひじょう悪影響あくえいきょうおよぼした。たとえば鹵獲ろかくした外国がいこくなどはエンジンのあぶられをこすことは滅多めったになく、しかし日本にっぽんあぶられなどの故障こしょう常態じょうたいしていた。

なお、陸軍りくぐんわたまえ川崎かわさきでの試験しけん飛行ひこうでは軽量けいりょう状態じょうたいであるためそれほどわるいものではなく、わた武装ぶそうをはじめとする艤装ぎそう重量じゅうりょう増加ぞうかしたことがエンジンに負担ふたんをかけトラブルの多発たはつ原因げんいんひとつになったようで[136]、ある時期じきからは艤装ぎそう相当そうとうするバラストを積載せきさいした状態じょうたい試験しけん飛行ひこうおこなっていた[136]。また1944ねん晩秋ばんしゅうごろにはバラストではなく、実際じっさい艤装ぎそうをほどこした「ぜん装備そうび状態じょうたいでテストをおこなうことが常態じょうたいしていた[137]。なお陸軍りくぐんがわ受領じゅりょうテストでは担当たんとうであった佐々木ささきやすし軍曹ぐんそう最終さいしゅう階級かいきゅう[138]は200ほどの受領じゅりょうテストを担当たんとうしたが、至極しごく快調かいちょうるものはいちわりにもたなかったと回想かいそうしている。

その材料ざいりょう工作こうさく点火てんかプラグなどの部品ぶひんはもとより、当時とうじ日本にっぽん電線でんせんまでもビニール被覆ひふくなどではなく、いとかみいて絶縁ぜつえんしたもので湿気しっけよわ漏電ろうでん頻発ひんぱつした[139]。さらに戦争せんそう後期こうきには熟練工じゅくれんこう減少げんしょうし、動員どういん学徒がくと女子じょし挺身ていしんたい採用さいようされて生産せいさん作業さぎょうたった。このような質的しつてき労働ろうどうりょく低下ていか無理むり増産ぞうさん部品ぶひんれつしつにつながった[140]整備せいびかんし、手鏡てかがみ芸術げいじゅつてきあつかわねば点検てんけんできない箇所かしょなどもあり[141]、1943ねんれには航空こうくう審査しんさ飛行ひこう実験じっけん部長ぶちょう今川いまがわ一策いっさく大佐たいさは、さんしき戦闘せんとう空冷くうれいエンジンへのかわそう進言しんげんした[142]

ラバウルまでさんしき戦闘せんとう空輸くうゆした飛行ひこうだい78戦隊せんたい後述こうじゅつ)は1943ねん5がつ18にち「キ61の実用じつようじょうきょう」で18項目こうもくにわたり各種かくしゅ故障こしょう報告ほうこくしているが、その内訳うちわけは4がつ13にちから5がつ10日とおかまでに冷却れいきゃく修理しゅうり61かい、Gがた冷却れいきゃく修理しゅうり98かい、Eがた冷却れいきゃく修理しゅうり43かいである。とくにオイルクーラーのあぶられがひどく、40ふんから50ぶん空戦くうせんそらになる、などといった記述きじゅつられ、作動さどう800リットルを使つかくしたともされる[143]だい78戦隊せんたいと68戦隊せんたいはそのニューギニア進出しんしゅつするが、発動はつどう不調ふちょうつづいた。現地げんちだい4航空こうくうぐんが1943ねん10がつ中央ちゅうおう提出ていしゅつした意見いけん報告ほうこくしょでは、さんしき戦闘せんとう稼働かどうりつひくさをなげき、空冷くうれいエンジンを装備そうびするしき単座たんざ戦闘せんとう鍾馗しょうき配備はいびもとめるほどだった[144][145]飛行ひこうだい56戦隊せんたいでは訓練くんれん事故じこ続発ぞくはつしたことから「殺人さつじん」とばれた[146]

1944ねん10がつからのフィリピン決戦けっせんではおおくの航空機こうくうき空輸くうゆされたが、九州きゅうしゅう沖縄おきなわ台湾たいわん飛行ひこうした一式いっしき戦闘せんとう落伍らくごりつが4 %であったのにたいして、さんしき戦闘せんとうは13 %にのぼった[147]空冷くうれいエンジンの不調ふちょうれいとしてはほまれ (エンジン)搭載とうさいしたよんしき戦闘せんとう脱落だつらくりつが20 %である[147]。この時期じきにはハ40の生産せいさん整備せいび技術ぎじゅつ進歩しんぽしており、正規せいき潤滑油じゅんかつゆでなくヒマシ稼働かどうさせるようなこともできたらしい[148]あぶられはおおいが、確実かくじつ整備せいびをすれば十分じゅうぶんあつかえるとの証言しょうげんもあり[148]とく故障こしょうおお印象いんしょうはないとするパイロットもいる[149]。また、1944ねん7がつごろのデータによれば、十分じゅうぶん整備せいび環境かんきょうがあれば70 %程度ていど稼働かどうりつ維持いじされていた。この時点じてんでのしき単座たんざ戦闘せんとうおよびよんしき戦闘せんとう稼働かどうりつは60 %から90 %とされている[150]

帝都ていと東京とうきょう防空ぼうくう任務にんむとする飛行ひこうだい244戦隊せんたい戦隊せんたいちょうであった小林こばやし照彦てるひこ少佐しょうさは、故障こしょうおおいエンジンではあるものの、内地ないちでの戦闘せんとうであったため、修理しゅうりもエンジンの交換こうかん容易よういであったと回想かいそうしている[151]おなじくだい244戦隊せんたいだい1中隊ちゅうたいちょう生野いくのぶんかい大尉たいいは、だい244戦隊せんたい整備せいびいんれているし部品ぶひんもどんどん供給きょうきゅうされるためじゅうふん性能せいのう発揮はっきできたとする[152]。また同様どうようだい244戦隊せんたい所属しょぞくしていた前述ぜんじゅつ竹田たけだ五郎ごろう大尉たいいも、「オイルれとか、故障こしょうおおいとか評判ひょうばんわるかったが自分じぶんじょうについての不都合ふつごうかんじなかった」と証言しょうげんしている[97]。しかし1945ねん1がつ3にち迎撃げいげきせんでは、当日とうじつ1かい出撃しゅつげきこそ40ぜんおこなえたものの、2かいには25 - 26、3かいにはたった3しか出撃しゅつげきできなかった。この飛燕ひえん損害そんがいは8にすぎず、すなわちのこりはすべ故障こしょうであった[153]おなじく調布ちょうふ展開てんかいするだい18戦隊せんたいでは、1944ねんはるごろには50ちゅう稼動かどうは5といったもあった、との証言しょうげんもある[154]一方いっぽう航空こうくう審査しんさ実行じっこう試験しけん(以下いか航空こうくう審査しんさ)でも1944ねん粗製そせい傾向けいこうはあるものの十分じゅうぶん整備せいびおこなえば動作どうさ支障ししょうはなく、問題もんだい整備せいびりょくひくさであると判断はんだんしている[155]

上記じょうきのように本土ほんどもしくは審査しんさではある程度ていど整備せいびおこなえたものの、最前線さいぜんせん実戦じっせん部隊ぶたいでの整備せいび運用うんよう過酷かこく作業さぎょうであった。さらに撤退てったいさい時間じかんをかけてえきひやエンジンに習熟しゅうじゅくした整備せいびへい最前線さいぜんせん残置ざんちしたことも、稼働かどうりつげた要因よういんひとつである[148]。さらに日本にっぽん整備せいびマニュアルは欧米おうべいのものに比較ひかくして難解なんかいで、当時とうじかならずしも学力がくりょくたかいとはえず自動車じどうしゃなどの機械きかいるいにも馴染なじみのなかった一般いっぱんてき新任しんにん整備せいびへいにとって少々しょうしょうおもかったとの指摘してきもある[156]。またほん日本にっぽん陸軍りくぐんでは一式いっしき戦闘せんとうよんしき戦闘せんとうきゅうななしき戦闘せんとうぐ3,000以上いじょう生産せいさんされたのであるが、野原のはら (2005)発動はつどうおおきな問題もんだいかかえつつもそれをこれだけのすう生産せいさんつづけねばならなかったところに当時とうじ日本にっぽん陸軍りくぐん航空こうくう苦悩くのうれるとする[157]

1944ねんにはあぶられにたいする生産せいさん工程こうていレベルでの抜本ばっぽんてき改造かいぞうこうじられた。この処置しょち一時いちじてき生産せいさんりょうちており、エンジンしの機体きたい工場こうじょうならぶことがおおくなった[158]。これについては#がた(キ61-IIあらため)後述こうじゅつする。

ハ140[編集へんしゅう]

1942ねんはるから開発かいはつされた[159]ハ40改良かいりょうがたのハ140は、吸気きゅうきあつをあげてエンジン回転かいてんすうを2,500 rpmから2,750 rpmにたかめ、はなれのぼり出力しゅつりょくを1,175馬力ばりきから1,500馬力ばりきたかめるものだった[160]きゅう大型おおがたとその冷却れいきゃくのためにみずメタノール噴射ふんしゃ装置そうち導入どうにゅうされた[160]さんしき戦闘せんとう場合ばあいは95リットルのみずメタノールを搭載とうさい予定よていであった[160]。80 kg程度ていど重量じゅうりょう増加ぞうかのほか[161]基本きほん構造こうぞうはハ40と大差たいさはなかった。航空こうくう審査しんさでは、ハ40と比較ひかくしてさして整備せいび困難こんなんておらず[141]、1944ねん7がつ航空こうくう審査しんさによる報告ほうこくではハ40より信頼しんらいせいがあるとされている[162]。また航空こうくう審査しんさの2めい士官しかんおよび下士官かしかん少々しょうしょう問題もんだいったが整備せいびしにくいとうほどでもなく、大体だいたいもしくは十分じゅうぶんうごいたと回想かいそうしている[163]。ただし川崎かわさき航空こうくう審査しんさ精度せいど良好りょうこう個体こたいまわすのは当然とうぜんであるし、ハ40の審査しんさくわわった人物じんぶつひからせている状態じょうたいであるのであるから、航空こうくう審査しんさまわるのはむしろ当然とうぜんであろうとの見方みかたもある[164]。なお歴史れきしぐんぞう編集へんしゅう (2010, pp. 66–67)は、量産りょうさんせいはハ40よりさら悪化あっかし、通常つうじょうの1,000馬力ばりききゅう空冷くうれいエンジンの5ばい工程こうていすう必要ひつようで、この生産せいさんせいわるさが「くび機体きたい」の一因いちいんになったのではないかとしている[123]

実際じっさいところは、好調こうちょうなものはまわったのであるが[165]、やはり従来じゅうらいよりのベアリングの[165]、マグネットギアの摩耗まもう[165]点火てんかせんがわきょく溶解ようかい[165]冷却れいきゃくすいポンプの不良ふりょう[160]排気はいきべん焼損しょうそんなど[166]トラブルは多発たはつ開発かいはつまりをせていた。べん焼損しょうそんは、隣接りんせつするシリンダー同士どうしねつ膨張ぼうちょうゆがみの干渉かんしょうによりべんゆがみ、とく排気はいきべん損傷そんしょうさせたものだという[166]。ハ140はさんしき戦闘せんとうがた搭載とうさいされる予定よていであったが、エンジンの完成かんせい台数だいすう低調ていちょうであった。このためがたおおくはのちに空冷くうれいエンジンをんでしき戦闘せんとう改造かいぞうされることとなった。

なお、オリジナルのDB 601は改良かいりょうがたはなれのぼり出力しゅつりょく1,350馬力ばりき、ボア・アップとこう回転かいてんした派生はせいがたのDB 605で1,455馬力ばりきこうオクタン燃料ねんりょうみずメタノール噴射ふんしゃ装置そうちもちいて1,970馬力ばりき発揮はっきしている。

なお日本にっぽん陸軍りくぐんは1944ねん以降いこう燃料ねんりょう不足ふそくのため、代用だいよう燃料ねんりょうとして松根おうねあぶらなどから抽出ちゅうしゅつしたアルコールをガソリンに混合こんごうするか単体たんたい利用りよう軍用ぐんようばそうとしていた[167]通常つうじょうほしがた空冷くうれいエンジンにはあまりよいものではなかったが、航空こうくう審査しんさでのテストによれば、ハ140を搭載とうさいしたさんしき戦闘せんとうがたは、これをもちいることでむしろ通常つうじょうのガソリンよりもたか性能せいのうしめしたという[168]

愛知あいちつくられていたアツタ21がたもDB 601をもととするエンジンである。これはハ40とことなる独自どくじ発展はってんげ、はなれのぼり出力しゅつりょく1,400馬力ばりき発揮はっきするアツタ32がた開発かいはつされていた[122]両社りょうしゃ独自どくじ原型げんけい発展はってんさせたために互換ごかんせいまったくないが、1943ねん11月に軍需ぐんじゅしょう設立せつりつされるとこの発動はつどうにも統一とういつけられた。なお品質ひんしつてきには川崎かわさきのハ40けいより愛知あいちのアツタけいほう良好りょうこうであったとされる[122]。エンジン統一とういつにあたり、プロペラ位置いち排気はいきかん位置いち重心じゅうしん位置いちなど問題もんだいてん列挙れっきょされ[122]標準ひょうじゅんがたエンジンは基本きほんをアツタ32がたとし、プロペラじくきゅうをハ140にわせ、みずメタノール噴射ふんしゃ装置そうちくわえたものとなった[169]

ラジエーター[編集へんしゅう]

えきひやエンジンに不可欠ふかけつなラジエーターははばやく800 mm、たかやく480 mm、アンドレーしきのものである[170]。このラジエーターは胴体どうたい下部かぶ中央ちゅうおう、すなわちパイロットのやや後方こうほうあたりにはんしきとして配置はいちされた。機体きたいからそとには250 mmが露出ろしゅつしている[170][66]。キ60では上下じょうげしきとしたがこれは重量じゅうりょうかさむため、さんしき戦闘せんとうでは固定こていしきあらためられた[44]。ラジエーターは前方ぜんぽうからて、エンジン冷却れいきゃくすい冷却れいきゃく潤滑油じゅんかつゆ冷却れいきゃく、エンジン冷却れいきゃくすい冷却れいきゃくと3つにかれている[171][172]使用しようされた冷却れいきゃくえき化学かがく物質ぶっしつ混合こんごうしない通常つうじょう淡水たんすいであり、冷却れいきゃくするにさいしてやく3.8 kg/cm2えき加圧かあつし、沸点ふってんを125として使用しようした[116][173]

また、すべり冷却れいきゃく能力のうりょく過剰かじょうでオイルがかたくなり循環じゅんかん不良ふりょうによるあぶらぬるのぼりこしたが、空気くうき通過つうかりょうを60~70%におさえるフィルターを前面ぜんめん設置せっちして解決かいけつした[174]。18ねん4がつまつにラバウルへ移動いどうした68戦隊せんたいでは、内地ないちよりあついからとフィルターを撤去てっきょしたところひやによる循環じゅんかん不良ふりょう再発さいはつし、もともどしたという[175]

土井どい戦後せんごおな箇所かしょにラジエーターをはいしたP-51とき、その気流きりゅう処理しょり見事みごとさに、さすがにアメリカのほうすすんでいるとの感想かんそういた[46]。また同時どうじに、このアメリカぐん最優秀さいゆうしゅうさんしき戦闘せんとうのラジエーター処理しょりがほぼ同様どうようであったことは感無量かんむりょうであったともしている[29]が、実際じっさい類似るいじしているのは設置せっちした場所ばしょだけで、構造こうぞう形状けいじょうなどはまったことなっている。なお、さんしき戦闘せんとうにおけるぜん空気くうき抵抗ていこううち、ラジエーターのそれは14 %をめていた[46]

飛行ひこうだい78戦隊せんたいではラジエーターの修理しゅうりおお報告ほうこくしており、なかでもあぶられがおおきな問題もんだいとされた。まず前述ぜんじゅつのとおりみず冷却れいきゃくあぶら冷却れいきゃく一体いったい構成こうせいであり、これを機外きがいろす作業さぎょう容易よういではなかった[176]。またオイルタンクはパイロットの足下あしもとにあり、これは寒冷かんれいやそれなりのこうでは暖房だんぼうになったが、南方なんぽうてい高度こうどではコクピットない相当そうとうあつくなったようである[177]。またこの水油みずあぶら同居どうきょ形式けいしきのラジエーターは、空気くうきれシャッターでかく冷却れいきゃく機構きこう能力のうりょく調整ちょうせいするものであったが、離陸りりくにはパイロットがシャッターを手動しゅどう操作そうさせねばならず、操作そうさミスから、あぶらゆたか上昇じょうしょうみずれなどの不具合ふぐあい続出ぞくしゅつした[178]また、オイル配管はいかんをエンジンからとお機体きたい下面かめんまでまわしたせいで、しばしば配管はいかん各所かくしょからオイルれがしょうじることとなった[よう出典しゅってん]。なお、水冷すいれい方式ほうしきであるほん地上ちじょう待機たいき状態じょうたいであまりエンジンをまわすと、すぐに水温すいおんがり冷却れいきゃくすい沸騰ふっとう圧力あつりょくがしべんひらき、蒸気じょうき排出はいしゅつされる。これは「おかした」などとわれた[178]。またこの状態じょうたいはオーバーヒートをこしている状態じょうたいであり、離陸りりく困難こんなんである[179]。また飛行ひこうちゅう蒸気じょうきとおして冷却れいきゃくすいそのものまですようなトラブルもられた[112]

実戦じっせん[編集へんしゅう]

ラバウル進出しんしゅつ[編集へんしゅう]

さんしき戦闘せんとう実戦じっせん配備はいびは、当初とうしょからおおきなつまずきをせた。本来ほんらい海軍かいぐん担当たんとう戦域せんいきであったニューギニアソロモン方面ほうめん戦況せんきょう悪化あっかし、1942ねん11月には陸軍りくぐん航空こうくうたいうち戦闘せんとう2戦隊せんたい1個いっこ戦隊せんたいあたり39+予備よび若干じゃっかん)、じゅう爆撃ばくげき1個いっこ戦隊せんたいけい爆撃ばくげき2戦隊せんたいつかさ独立どくりつ1個いっこ中隊ちゅうたい投入とうにゅう決定けっていされた[180]。12月中旬ちゅうじゅん、ラバウルに一式いっしき戦闘せんとう装備そうびしただい12飛行ひこうだんの2戦闘せんとう戦隊せんたいだい1戦隊せんたいだい11戦隊せんたい)が進出しんしゅつしたが、B-17てき戦闘せんとうとの戦闘せんとう戦力せんりょく消耗しょうもうしたため、わりに新鋭しんえいのキ61を装備そうびしただい14飛行ひこうだんだい68戦隊せんたいだい78戦隊せんたい投入とうにゅう決定けっていされた[181]

だい14飛行ひこうだんは1942ねん3がつ編成へんせいされ、きゅうななしき戦闘せんとう装備そうびして満州まんしゅう訓練くんれんおこなっていたが、南方みなかた進出しんしゅつにあたり、キ61への機種きしゅ更新こうしんめいじられた[注釈ちゅうしゃく 12][182]当時とうじキ61の生産せいさんはじめったばかりですうそろわないため、さきだい68戦隊せんたいから機種きしゅ更新こうしんはじめることとなり、1943ねん年明としあけから明野あけの飛行ひこう学校がっこうにおいて本格ほんかくてき機種きしゅ更新こうしん開始かいしした。しかし、この時点じてんでキ61は、いまだに初期しょき不良ふりょうあらしてれておらず[114]川崎かわさきがわ不具合ふぐあい逐次ちくじ改良かいりょうちゅうという段階だんかいだったうえ整備せいびへいもその大半たいはんえきひやエンジンをあつかった経験けいけんがなかったこともあり、短時間たんじかんハ40整備せいびをものするのは困難こんなんであった[183]。そのため、エンジンの燃料ねんりょうポンプの故障こしょう冷却れいきゃくすいれ、ベイバーロックなど機材きざい故障こしょう頻発ひんぱつし、修理しゅうりしてはまたあらたに故障こしょうするといった具合ぐあいおさむ飛行ひこうしん機材きざい操作そうされるための訓練くんれん)ははかどらなかった[184]

出撃しゅつげき時期じきだい68戦隊せんたいは3がつまつだい78戦隊せんたいは6月とまり、各員かくいん非常ひじょう努力どりょくによって戦力せんりょくいそがれたが、だい68戦隊せんたい出撃しゅつげきせまった3がつはいってもおさむ飛行ひこうをこなすのが精一杯せいいっぱいで、とても戦闘せんとう訓練くんれん移行いこうできる状態じょうたいではなく、到底とうてい不安ふあん払拭ふっしょくするにはいたらなかったため、だい68せん隊長たいちょう下山しもやまのぼる(みのる)中佐ちゅうさ陸軍りくぐん航空こうくう本部ほんぶ河辺かわべとらよんろう少将しょうしょうたいし、3ヵ月かげつほどの進出しんしゅつ延期えんきねがたものの、くしまもない状態じょうたいであった。それでもあきられなかった下山げざん戦隊せんたいちょうは、航空こうくう本部ほんぶ担当たんとう課長かちょう面会めんかいもとめ、「こんな飛行機ひこうきっていけとうのなら、辞任じにんしたいぐらいだ。」とせまったが、「そんなことをいうのは日本にっぽん軍人ぐんじんではない。これは命令めいれいだ。軍人ぐんじん精神せいしんりないから、うごかないのだ。」などと理不尽りふじん言葉ことばびせられた[185]

結局けっきょく、3がつまつ段階だんかいでのだい68戦隊せんたい訓練くんれん進捗しんちょくじょうきょうは、搭乗とうじょういん全員ぜんいんおさむ飛行ひこうこそなにとかえたものの、戦闘せんとう訓練くんれんは1~2かいがただけった程度ていど夜間やかん飛行ひこう訓練くんれんはおろか、長距離ちょうきょり飛行ひこう訓練くんれん射撃しゃげき訓練くんれんすらまったくっていないというひどいものだった[186]

このような経緯けいいて、だい68戦隊せんたいには進出しんしゅつ予定よていの3がつまつまでに予備よびふくめ45ほどのキ61があつめられ、空母くうぼ大鷹おおたか積載せきさいのうえ4がつ10日とおかにはトラック諸島しょとう到着とうちゃくした。ここから空路くうろラバウルかうこととなったが、トラックにおける訓練くんれんちゅうにもいくつかの事故じこ発生はっせいして殉職じゅんしょくしゃがでる有様ありさまで、キ61への不信ふしんかんつのっていった[187]

さらに問題もんだいとなったのが、キ61の航続力こうぞくりょくであった。落下らっかタンクが不足ふそくしていたため、戦隊せんたいちょう中隊ちゅうたいちょう中隊ちゅうたいづけ先任せんにん将校しょうこうには2ほんけたものの、大半たいはんには1ほんしか装着そうちゃくできなかった。落下らっかタンク1ほん装備そうび状態じょうたいで、カタログデータじょうやく2,000 km飛行ひこうできることにはなっていたが、実戦じっせん部隊ぶたい、しかも編隊へんたいむための空中くうちゅう待機たいき時間じかんなどを考慮こうりょすると正味しょうみ1,500~1,600 km程度ていど、トラックからラバウルあいだやく1,300 kmの距離きょり比較ひかくして余裕よゆうがあるとはがた燃料ねんりょう状況じょうきょうであった[188]

そうしたなか、4がつ24にち、いよいよラバウルに進出しんしゅつすることとなったが、集団しゅうだん離陸りりくする訓練くんれんをしていなかったため、ぜん離陸りりくして集合しゅうごうえるまで1あいだもかかったうえ、しばらく飛行ひこうしたところで下山げざん戦隊せんたいちょう不具合ふぐあい発生はっせいしたことから、進出しんしゅつ断念だんねんした。くわえてかえしたあたりで、大木おおき正一しょういち曹長そうちょうがエンジン不調ふちょうにより不時ふじ着水ちゃくすいし、トラックから300キロちかはなれた地点ちてんだったため、曹長そうちょうはそのまま行方ゆくえ不明ふめいとなり、はつ戦没せんぼつしゃ事態じたいとなった[189]

4がつ27にち、27再度さいどラバウルへけて発進はっしんした。3にちまえ反省はんせいから、戦隊せんたい本部ほんぶだい1中隊ちゅうたいの12先行せんこうし、やく1あいだだい2中隊ちゅうたいだい3中隊ちゅうたいの15後続こうぞくするかたちをとった[190]

先発せんぱつたい編成へんせいは、以下いかのようになっていた。

戦隊せんたい本部ほんぶ(4

  • 下山しもやまのぼる中佐ちゅうさ戦隊せんたいちょう
  • 浅野あさのしんあきら大尉たいい
  • 西川にしかわ貞雄さだお曹長そうちょう
  • 稲見いなみやすし軍曹ぐんそう

だい1中隊ちゅうたい(8

  • 中川なかがわ鎮之じょ中尉ちゅうい
  • 小川おがわのぼる中尉ちゅうい
  • 白山しろやま銀蔵ぎんぞう曹長そうちょう
  • 池田いけだ秀夫ひでお曹長そうちょう
  • 黒岩くろいわ朝彦あさひこ曹長そうちょう
  • 山崎やまざきみんさく曹長そうちょう
  • 吉田よしだあきら軍曹ぐんそう
  • 寺脇てらわきひろし伍長ごちょう

しかし、この先発せんぱつたいの12おおきな悲劇ひげきまれてしまう。

渡辺わたなべ (2006, pp. 133–140)によると、先発せんぱつたい以下いかのような経過けいかをたどった。

まず、先発せんぱつたい先導せんどうするはずだったひゃくしき司令しれい偵察ていさつがエンジン故障こしょうのため発進はっしんできなかったことから、陸軍りくぐん飛行ひこうたい単独たんどく不慣ふなれな洋上ようじょう計器けいき飛行ひこうおこなうことを余儀よぎなくされた。はじめてまもなく、浅野あさの大尉たいい中川なかがわ中尉ちゅういらは、3にちまえ景色けしきことなっていることから異変いへんづき、コンパス [注釈ちゅうしゃく 13]るとほぼみなみである175進路しんろるところを、145進路しんろっていた[注釈ちゅうしゃく 14]。しかし搭載とうさいされていた無線むせん不調ふちょうで、相互そうご連絡れんらくれない状況じょうきょうであった[191]ことから、戦隊せんたいちょうあやまりをしらせることができなかった[192]

そのまま20ふんほど飛行ひこうつづけたところで、西川にしかわ曹長そうちょうがエンジン故障こしょうのためトラックにかえし、浅野あさの大尉たいいがこれに同行どうこうした(このりょうがどうなったのかについての記述きじゅつはないが、戦闘せんとう名前なまえ確認かくにんできることから、無事ぶじにトラックに帰着きちゃくしたと推定すいていされる)。飛行ひこうつづけるうちに、下山げざん戦隊せんたいちょう自身じしん針路しんろ疑問ぎもんかんはじめたが、無線むせんつうじないため確認かくにんのしようがなく、目標もくひょうのない洋上ようじょう飛行ひこうかんしんじるのは危険きけんとの判断はんだんから、しばらくコンパスにしたがってぶこととした[193]

トラックを離陸りりくして2あいだほどたったところで、ただしいコースからひがしに300 kmもずれたグリーニッチとうえてきたことから、下山げざん戦隊せんたいちょうのコンパスがくるっていることは明白めいはくとなった。ちょうどそのころ小川おがわ中尉ちゅうい吉田よしだ軍曹ぐんそうつづけにエンジン不調ふちょうとなり、りょうとも自爆じばくした[注釈ちゅうしゃく 15]出発しゅっぱつ3あいだはんたあたりで、下山げざん戦隊せんたいちょう進路しんろ間違まちがいを確信かくしんし、修正しゅうせいこころみたものの、まさしく修正しゅうせいできなかったため、たまりかねた中川なかがわ中尉ちゅうい先導せんどうしてようやくただしい方角ほうがく修正しゅうせいしたが、すで時機じきいっしていた。ラバウル北東ほくとうやく250 kmにあるヌグリア諸島しょとうにさしかかったあたりで、落下らっかタンクが1ほん燃料ねんりょうとぼしくなっており、それをさっした下山げざん戦隊せんたいちょうは、部下ぶか不時着ふじちゃく躊躇ちゅうちょしないようにみずかどう諸島しょとう不時着ふじちゃくし、山崎やまざき曹長そうちょうがこれにつづいた。稲見いなみ軍曹ぐんそうはそのさきのタンガ諸島しょとう付近ふきん不時ふじ着水ちゃくすいし、軍曹ぐんそう原住民げんじゅうみん救助きゅうじょされた。のこった5はなおもラバウルを目指めざしたが、池田いけだ曹長そうちょうはラバウルわん白山はくさん曹長そうちょう黒岩くろいわ曹長そうちょう寺脇てらわき伍長ごちょうはニューブリテン島内とうない不時着ふじちゃくし、結局けっきょく先発せんぱつたい12のうち、無事ぶじにラバウルに辿たどいたのは中川なかがわ中尉ちゅういだけであった。なお、後発こうはつたいはこれよりさきにラバウルに到着とうちゃくしていたが、おそらく故障こしょうのため途中とちゅうで1うしなった。進出しんしゅつ作戦さくせん結果けっかは、到着とうちゃくした機体きたいが27ちゅう15うしなった搭乗とうじょういん3めい喪失そうしつ機材きざいは10という惨憺さんたんたる結果けっかわった。こののち、トラックとうから6追加ついか空輸くうゆされた。なおだい14飛行ひこうだん司令しれいはまだ到着とうちゃくしていないため、暫定ざんていてきだい12飛行ひこうだん指揮しきとなった[194]

初陣ういじんは1943ねん5がつ15にち、18きゅうななしきじゅう爆撃ばくげき護衛ごえいおこなった[195]戦隊せんたい使用しよう可能かのうすうは5がつまつ時点じてんで18[195]、そのもトラックからの空輸くうゆにより補充ほじゅうおこなわれた[196]

だい68戦隊せんたいつづき、前線ぜんせん投入とうにゅうされただい78戦隊せんたいは、1943ねん4がつ10日とおかより明野あけの飛行ひこう学校がっこう本格ほんかくてき機種きしゅ変更へんこう開始かいししたが[197]、やはり初期しょき故障こしょうなやまされ錬成れんせいおくれた。ラバウルへの進出しんしゅつについては6がつ16にちから実施じっしされた。だい68戦隊せんたい航空こうくう事故じこ失敗しっぱいかえさないため、長距離ちょうきょり洋上ようじょう飛行ひこうではなく、宮崎みやざきけんから沖縄おきなわ台湾たいわんマニラダバオメナド、バボ、ホーランジアウェワク、ラバウルの行程こうていで、しまづたいの進出しんしゅつ計画けいかくされた[198]進出しんしゅつしたすうは45ぜん行程こうていやく9,000 kmである[195]整備せいびはんせた輸送ゆそう同行どうこうしたが故障こしょう続出ぞくしゅつした。6月29にちにラバウルに到着とうちゃくしたのはわずか7ぎなかった[199]。その落伍らくご復帰ふっきで7がつ5にちまでには合計ごうけい33がラバウルに進出しんしゅつしたが、12途中とちゅう飛行場ひこうじょう残置ざんちせざるをなかった[199]

こうしてだい14飛行ひこうだんはラバウルへの進出しんしゅつ完了かんりょうした。7月8にちには実戦じっせん開始かいしした。

ニューギニア進出しんしゅつ[編集へんしゅう]

1945ねん1がつ飛行ひこうだい244戦隊せんたい本部ほんぶ小隊しょうたい(小林こばやし照彦てるひこ戦隊せんたいちょう)のさんしきせんいちがたへい(キ61-Iへい)3295ごう

現地げんち作戦さくせん領域りょういき分担ぶんたんとしては、海軍かいぐんソロモン諸島しょとう方面ほうめんを、陸軍りくぐんニューギニア方面ほうめん担当たんとうした[200]。なおこの方面ほうめんにはさんしき戦闘せんとう2戦隊せんたいほかに、一式いっしき戦闘せんとう8戦隊せんたい配備はいびされていた[201]

当初とうしょばくげき護衛ごえいなどをおこなったが、やはり稼働かどうりつひくく、搭乗とうじょういん故障こしょうらずの海軍かいぐんれいしき艦上かんじょう戦闘せんとうをうらやんだとされる[200]だい14飛行ひこうだん内地ないちかえだい12飛行ひこうだんわり、7がつ15にちには東部とうぶニューギニアのウエワク転進てんしんした。ここで本格ほんかくてき作戦さくせん開始かいしされる[200]。7月17にち時点じてんで、だい68戦隊せんたいが13だい78戦隊せんたいが22合計ごうけい35稼動かどうった[202]。8がつ10日とおかには新編しんぺんされただい4航空こうくうぐんだい7飛行ひこう師団しだん隷下れいかとなった[203]。なおイギリスの文献ぶんけん週刊しゅうかんAircarft』によれば、ほんはP-40相手あいてには優勢ゆうせいたたかい、連合れんごうぐん一時いちじてき制空権せいくうけんうしな[204]、ヨーロッパに配備はいび予定よていであったP-38をこの戦線せんせんまわすよう、ヘンリー・アーノルド直訴じきそおこなわれたという[205]

なお1943ねんなかばには日本にっぽん陸軍りくぐん航空こうくうたい前線ぜんせんロッテ戦術せんじゅつ採用さいようしているが[注釈ちゅうしゃく 16]無線むせん電話でんわ性能せいのうわるいためにアメリカ軍機ぐんきのような連携れんけいはとれなかった[207]

だい14飛行ひこうだんおもにP-38をてきとして対戦たいせんしたが、1943ねん8がつ17にちには連合れんごうぐんB-25 32、P-38 85せんばく連合れんごうによる奇襲きしゅう攻撃こうげきけた。この結果けっかだい4航空こうくうぐん保有ほゆうする130戦力せんりょくは40低下ていかした。だい14飛行ひこうだんだい68戦隊せんたい稼動かどう6だい78戦隊せんたい稼動かどう0と、全滅ぜんめつちか損害そんがいけた[208]

そのもマニラでしん機材きざい受領じゅりょうし、空輸くうゆおこなって戦力せんりょく補充ほじゅうつとめた。てきはP-40、P-38および新鋭しんえいP-47B-24ばくげきB-25ばくげきであり、戦隊せんたいはげしい戦闘せんとう従事じゅうじした。新鋭しんえいのP-47はP-38ほどいちげき離脱りだつてっしなかったため、むしろたたかいやすかったともされる[209]が、性能せいのう自体じたいたかく、一撃いちげき離脱りだつとおされると脅威きょういであったとの証言しょうげんもある[210]

三脚さんきゃくじょうせられた口径こうけい20 mmのMG151機関きかんほう。オーストリアの博物館はくぶつかん収蔵しゅうぞうひん後方こうほうはBf109

1943ねん12月にはドイツから輸入ゆにゅうした20 mmマウザーほうつばさない装備そうびしたさんしき戦闘せんとう到着とうちゃく[211]火力かりょくめんでは格段かくだん向上こうじょうられた。しかしこの時期じきには戦隊せんたい人員じんいん機材きざいとも消耗しょうもうしており、さんしき戦闘せんとう代替だいたいとして旧式きゅうしき一式いっしき戦闘せんとう受領じゅりょう、またおおくの期間きかんりょう戦隊せんたいわせて稼動かどうが20えることが滅多めった状況じょうきょうであった[95]。さらにアメーバ赤痢せきりマラリア蔓延まんえんしており、たと機体きたい補充ほじゅうされたとしても兵員へいいんしつめん戦力せんりょく発揮はっきにはおおきな問題もんだいがあった[212][213]

1944ねん2がつにはウエワクの維持いじ不可能ふかのうとなりホランジア後退こうたい、3月にはてき空襲くうしゅうによりだい14飛行ひこうだん稼動かどう合計ごうけい5にまで減少げんしょうした[214]。4月22にちにはホランジアにべいぐん上陸じょうりく開始かいしし、7がつ25にちにはだい14飛行ひこうだん解散かいさんした[215]さんしき戦闘せんとうのニューギニアでの過酷かこくたたかいはやく1年間ねんかんまくじた。

フィリピン戦線せんせん[編集へんしゅう]

ニューギニアを制圧せいあつしたべいぐんつぎ目標もくひょうフィリピンであった。一説いっせつにはこのころになると、さんしき戦闘せんとうたい戦闘せんとう戦闘せんとう不向ふむきとなされるようになり、てき爆撃ばくげき迎撃げいげき任務にんむまわされ、せいそら戦闘せんとうについては新型しんがたよんしき戦闘せんとうほう期待きたいがかけられはじめた[216]

1944ねん2がつにはだい22飛行ひこうだんとして愛知あいちけん小牧おまきだい17戦隊せんたい明野あけのだい19戦隊せんたい編成へんせいされた[217]だい17せん隊長たいちょう開発かいはつよりさんしき戦闘せんとうたずさわってきた荒蒔あらまき義次よしじ少佐しょうさである。飛行ひこうだんは5がつないにマニラに進出しんしゅつし、南方なんぽうぐん直轄ちょっかつだい2飛行ひこう師団しだん編入へんにゅうされた。ただし7がつ5にちには、だい4航空こうくうぐん隷下れいか移動いどうしている[218]機材きざい受領じゅりょう錬成れんせい順調じゅんちょうすすまないものの、6がつ下旬げじゅんまでには35そろえてマニラへの進出しんしゅつ完了かんりょうした[219][220]。8がつまつ時点じてん稼動かどうだい17戦隊せんたいが14だい19戦隊せんたいが18であった[221]。なお、だい4航空こうくうぐんだい7錬成れんせい飛行ひこうたいの10程度ていど戦力せんりょくとして使用しよう可能かのう[222]さんしき戦闘せんとうほかにはだい4航空こうくうぐん全体ぜんたいで318海軍かいぐんだいいち航空こうくう艦隊かんたい241航空機こうくうき用意よういしている[221]

1944ねん9がつ21にちだい17戦隊せんたいすう不明ふめい)とだい19戦隊せんたい(20)、大塚おおつか文献ぶんけんによれば合計ごうけいやく40がアメリカだい38任務にんむ部隊ぶたい新鋭しんえい艦上かんじょう戦闘せんとうであるF6F交戦こうせんした。圧倒的あっとうてき多数たすうてきとの空戦くうせんによりやく25からすくなくとも22うしなわれ、だい17戦隊せんたいはパイロット12めいうしなだい損害そんがいけた。だい19戦隊せんたいも6めいだい7錬成れんせい飛行ひこうたいも2めいうしなった[223][216]べいぐんがわ損害そんがい対空たいくう砲火ほうかによるもの以外いがい皆無かいむもしくは僅少きんしょうであった[216]よく22にちも7迎撃げいげきおこなったが、さらに2めい戦死せんししゃ機体きたい3うしなうも、戦果せんかなかった[223]

なお10がつ10日とおかには台湾たいわんたいだい38任務にんむ部隊ぶたいによる空襲くうしゅうおこなわれ、ここに駐屯ちゅうとんしていた飛行ひこうだい8師団しだん隷下れいか独立どくりつ飛行ひこうだい23中隊ちゅうたいの、一式いっしき戦闘せんとう2ふくむ16[224]または17(パイロット15めい[225]ばくそう出撃しゅつげきし、薄暮はくぼ攻撃こうげき敵艦てきかんたいへの反撃はんげき企図きとした。

またさんしき戦闘せんとう稼動かどう10による全力ぜんりょく攻撃こうげきおこなわれようとしたが、離陸りりく直後ちょくごを20のF6Fにおそわれ、5撃墜げきつい、3不時着ふじちゃく大破たいは、1炎上えんじょうと、壊滅かいめつてき損害そんがいけた[224]。ただし田形たがた (1991)によればこのたたかいはせいそら戦闘せんとうであり、てきは240投入とうにゅうされていた。戦闘せんとう高度こうどは3,500 mとされ、戦闘せんとうじょうきょう離陸りりく直後ちょくごではない。やはり中隊ちゅうたい全滅ぜんめつするも、てき10すう撃墜げきつい撃破げきはしたとする[226]台湾たいわんにはこのほか一式いっしき戦闘せんとう8さんしき戦闘せんとう7集成しゅうせい防空ぼうくうだいいちたいがあり、10月12にちおこなわれた飛行ひこうだい8師団しだん主力しゅりょく54、その27)によるそう反撃はんげきにもくわわっている[227]。そのうち操縦そうじゅうれき8ねんのベテランパイロット田形たがた竹雄たけお准尉じゅんい初陣ういじんの僚機と2てき36迎撃げいげきし、有利ゆうり体勢たいせいから攻撃こうげき開始かいしした。僚機は戸原とばら忠志ちゅうし軍曹ぐんそう搭乗とうじょうしており、22さいかれ初陣ういじんであっても操縦そうじゅうれき4ねん飛行ひこう時間じかん1,500あいだかぞえるパイロットだった。またかれ田形たがたの僚機を1ねんはんつとめており、田形たがたによれば相当そうとう実力じつりょくをもっていた[228]なんかのいちげき離脱りだつのあと乱戦らんせん移行いこうし、20すうぶん戦闘せんとう力尽ちからつき僚機ども撃墜げきついされるも、りょう者共ものども不時着ふじちゃく成功せいこう生還せいかんした。戦果せんか撃墜げきつい6、撃破げきは5を報告ほうこくした[229][230][106]。なお、田形たがたはその手記しゅきで、さんしき戦闘せんとうがF6Fにくら40 km/hゆうそくであった(p.59)ことを敢闘かんとうできた要因よういんのひとつとしている。これはさんしき戦闘せんとうがF6Fに勝利しょうりおさめた希有けうれいである[106]

フィリピン方面ほうめんでは10がつ10日とおかまでに、だい17戦隊せんたい稼動かどうは22に、だい19戦隊せんたいは25にまで回復かいふくしていた[231]飛行ひこうだん戦闘せんとうつづけ、10月18にち捷一しょういちごう作戦さくせん発令はつれい20日はつかにはてきレイテ島れいてとう上陸じょうりくした。敵艦てきかんせんへの攻撃こうげき参加さんかした結果けっか、10月22にちまでに飛行ひこうだん稼動かどう完全かんぜんきた[232]。24にちには苦心くしんして2から3稼動かどうそろえたが[232]、この段階だんかいすで戦闘せんとう大勢おおぜいけっしていた。11月1にちには、だい19戦隊せんたいのこりである10めい程度ていどのパイロットに本土ほんど帰還きかんめいじられた[232]。しかし荒蒔あらまき戦隊せんたいちょうらをふくだい17戦隊せんたい戦闘せんとう続行ぞっこうした。11月ごろにはだい2飛行ひこう師団しだん全体ぜんたいで40程度ていど戦闘せんとうしか保有ほゆうしない[233]という過酷かこく戦況せんきょうなか戦闘せんとうつづけ、内地ないち帰還きかん命令めいれいたのは12月8にちである。荒蒔あらまき戦隊せんたいちょうがフィリピンをはなれたのはよく1945ねん1がつ9にちのことであった。

また日本にっぽん本土ほんど侵攻しんこうへのおおきないちであるフィリピン作戦さくせんには、本土ほんど防空ぼうくう任務にんむたっていたいくつかの飛行ひこう戦隊せんたい投入とうにゅうされている。そのうち、だい18飛行ひこう戦隊せんたいだい55飛行ひこう戦隊せんたいさんしき戦闘せんとう装備そうび部隊ぶたいであった。

だい18戦隊せんたいいちがたへいは、現地げんちでの弾薬だんやく補給ほきゅう困難こんなんな20 mmマウザーほうわりに12.7 mm機関きかんほう装備そうびし、11月11にちに35出立しゅったつした。この戦隊せんたい台湾たいわん経由けいゆ進出しんしゅつし、18にちまでに31がアンヘレス西にし飛行場ひこうじょう到着とうちゃくした[234]当初とうしょよんしきじゅう爆撃ばくげき編成へんせいされた特攻隊とっこうたい護衛ごえい任務にんむ従事じゅうじした。ところが11月25にちにはF6Fとの空戦くうせんやぶれ、稼動かどうは5にまで減少げんしょうし、1945ねん1がつには本土ほんど帰還きかん余儀よぎなくされた[235][236][237]

だい55戦隊せんたいは11月10にち本土ほんど出発しゅっぱつした。18にちまでにやく30または38[注釈ちゅうしゃく 17][65][237][238]がアンヘレス西にし飛行場ひこうじょう到着とうちゃくした。しかし11月25にちにはてきP-38の奇襲きしゅうけて7損失そんしつすなど苦戦くせんつづ[239]けて1945ねん1がつ9にち、アメリカぐんルソン島るそんとう上陸じょうりく開始かいしした。1月15にちには戦隊せんたい帰還きかん命令めいれいされ、5めい搭乗とうじょういん内地ないち帰還きかんできたほか[240]いくらかの人員じんいん台湾たいわんへの後退こうたい成功せいこうしたが、地上ちじょう勤務きんむしゃ大半たいはん地上ちじょう部隊ぶたい編入へんにゅうされ、アメリカぐんとの交戦こうせんすえ戦死せんしするものが大半たいはんめた[241]

まただい19戦隊せんたい本土ほんどでの戦力せんりょく回復かいふく台湾たいわん移動いどう、1945ねん1がつ5にちごろ1個いっこ中隊ちゅうたいがフィリピンにさい進出しんしゅつした。なお一部いちぶ台湾たいわん残置ざんちされた[242]かれらは艦船かんせん攻撃こうげき特攻とっこう援護えんごなどをおこない、12にちまでにそのたたかいのまくろした[242][235]

北九州きたきゅうしゅう防空ぼうくうせん[編集へんしゅう]

1944ねん6がつ15にち成都せいと飛行場ひこうじょう離陸りりくした62B-29は、九州きゅうしゅう福岡ふくおかけん八幡やはた製鉄せいてつしょ爆撃ばくげきした[243]。このときだい59戦隊せんたい練度れんど不足ふそくであり出撃しゅつげきおこなえなかった[243]。その、7がつ7にち夜間やかん空襲くうしゅうに5迎撃げいげきがるがかいてきできずにわる[243]。8がつ20日はつか、アメリカだい58ばくげき航空こうくうだんの75たいする迎撃げいげきせんさんしき戦闘せんとうはB-29とはじめて交戦こうせんした。だい59戦隊せんたい出撃しゅつげき可能かのうは21であった[244]迎撃げいげきせんは16時半じはんごろより小倉おぐら八幡やはた周辺しゅうへんおこなわれ、しきふく戦闘せんとうほふりゅう」を装備そうびするだい4戦隊せんたい海軍かいぐん迎撃げいげきせん参加さんかした。べいぐん事故じこふくめ14うしなった[244]。この戦闘せんとうだい59戦隊せんたい撃墜げきつい確実かくじつ1、撃墜げきつい確実かくじつ3、撃破げきは5を報告ほうこくした。日本にっぽんぐん全体ぜんたいでは撃墜げきつい確実かくじつ24、撃墜げきつい確実かくじつ13、撃破げきは47と報告ほうこくしている。だい59戦隊せんたい損害そんがい機材きざい4、パイロット喪失そうしつ1めいであった[244]

この空襲くうしゅうだい56戦隊せんたい戦力せんりょく一部いちぶである17済州さいしゅうとううつ空襲くうしゅうそなえるが、アメリカぐん目標もくひょう鞍山あんざん昭和しょうわ製鋼せいこうしょうつした。この攻撃こうげき南京なんきんだい5錬成れんせい飛行ひこうだん迎撃げいげきこころみた。しばらく北九州きたきゅうしゅうでの迎撃げいげきせん機会きかいかったが[245]、1944ねん10がつ25にち長崎ながさきけん大村おおむらだい21海軍かいぐん航空こうくうしょうばくげき目標もくひょうとなり、その帰路きろ迎撃げいげきしただい56戦隊せんたい撃墜げきつい1、撃破げきは6以上いじょう戦果せんか報告ほうこくしている[246]成都せいとからのB-29にたいする北九州きたきゅうしゅうでの迎撃げいげきせんは、1945ねん1がつ6にちまでつづけられた[247]

本土ほんど防空ぼうくうせん[編集へんしゅう]

飛行ひこうだい244戦隊せんたい小林こばやし照彦てるひこ戦隊せんたいちょうさんしきせんいちがたひのと24号機ごうきおよび隊員たいいん操縦そうじゅうせき側面そくめんには14撃墜げきついマークが記入きにゅうされている。1945ねん4がつ撮影さつえい[248]

従来じゅうらい日本にっぽん本土ほんどにはきゅうななしき戦闘せんとうなど旧式きゅうしき配備はいびされていたが、性能せいのう不足ふそくした機材きざいではてき新型しんがた爆撃ばくげき迎撃げいげき不可能ふかのうだった。東京とうきょう調布ちょうふ飛行場ひこうじょう新鋭しんえいさんしき戦闘せんとう配備はいびされたのはだい14飛行ひこうだんだい78戦隊せんたいがラバウルへ進出しんしゅつしようとする1943ねん6がつ以降いこうであった。これがだいさんさんしき戦闘せんとう部隊ぶたいのち帝都ていとだい10飛行ひこう師団しだん配下はいかとなる、調布ちょうふ飛行場ひこうじょう飛行ひこうだい244戦隊せんたいである[249]。やはり配備はいび初期しょきであったため、おおくの故障こしょうなやまされたが[250]、11月には機種きしゅ改変かいへん[251]一時期いちじきには40すべてにマウザー20 mm機関きかんほう装備そうびした[251]。1944ねん2がつには調布ちょうふだい18戦隊せんたいさんしき戦闘せんとうでの編成へんせい完了かんりょうした[252]。また台湾たいわんには独立どくりつ飛行ひこうだい23中隊ちゅうたいかれた(前述ぜんじゅつ[253]。3月にはだい18飛行ひこうだん配下はいかだい56戦隊せんたい発足ほっそく[254]、この時点じてん本土ほんど台湾たいわんにはフィリピンにおくられる予定よていだい17戦隊せんたいだい19戦隊せんたい前述ぜんじゅつ)をふくめ、5飛行ひこうだん1個いっこ独立どくりつ飛行ひこう中隊ちゅうたいそろえられ[254]、さらに4がつまつからはだい59戦隊せんたいさんしき戦闘せんとう機種きしゅ改変かいへんおこなった[255]

1944ねん7がつ7にちサイパン陥落かんらく、その日本にっぽん本土ほんど本格ほんかくてき空襲くうしゅうにさらされた。この時期じきのB-29による空襲くうしゅうこう高度こうどおこなわれていたが、ターボチャージャー装備そうび高度こうど10,000 mをぶB-29に攻撃こうげき実施じっしするのは非常ひじょう困難こんなんだった。ターボチャージャーを装備そうびしない日本にっぽんのエンジンは高空こうくう出力しゅつりょく低下ていかいちじるしく、陸軍りくぐん戦闘せんとう唯一ゆいいつ高度こうど10,000 mで戦闘せんとうができたとされる[8]ほんにおいてもその空域くういきではいているだけで限界げんかいといった状況じょうきょうであり、迎撃げいげき方法ほうほうとしてはあらかじめ侵攻しんこう方向ほうこうじょうかまえていちげきくわえるのが精一杯せいいっぱいであった[256]。B-29にたいし、一撃いちげきをかければすうせんmの高度こうどうしない、高度こうど回復かいふくしていつくことはできなかった[257]飛行ひこうだい244戦隊せんたい戦隊せんたいちょう小林こばやし照彦てるひこ少佐しょうさもその手記しゅきで、通常つうじょう装備そうびでは高度こうど7,500 - 8,000 mがせいいっぱいであり[258]高度こうど10,000 mで侵入しんにゅうするB-29にせってきするためには、防弾ぼうだん鋼板こうはんだい部分ぶぶん武装ぶそう蓄電池ちくでんちなどをはずし、必要ひつようとあらば機体きたい塗装とそうさえもがして機体きたいかるくする必要ひつようがあったとしている[259]。さらには機体きたい電熱でんねつふくもちいると電圧でんあつがり機銃きじゅう発射はっしゃできず、無線むせん使つかえなかったと回想かいそうしている[260][注釈ちゅうしゃく 18]。またべつ文献ぶんけんでは、完全かんぜん装備そうびさんしき戦闘せんとう上昇じょうしょう限度げんど好調こうちょう機体きたいでもやく9,000 m程度ていどであったとされている[261]。またもと搭乗とうじょういんによれば、搭乗とうじょういん訓練くんれん研究けんきゅう次第しだいである程度ていど上昇じょうしょう限度げんどげることができたと回想かいそうしている[262]

11月におこなわれた偵察ていさつがたB-29 (F-13) の迎撃げいげきにはすべ失敗しっぱい高度こうど12,000 mで離脱りだつするてきとらえることはまったくかなわなかった[263][261]。1944ねん11月7にち陸軍りくぐん航空機こうくうきによる体当たいあたり部隊ぶたい編成へんせい、これはふるえてんせいそらたいばれた。さんしき戦闘せんとう場合ばあいは「はがくれたい」「小林こばやし防空ぼうくう戦隊せんたい[264]「つばくろたい[264]こと飛行ひこうだい244戦隊せんたいで4編成へんせいされている。この機体きたいからは前述ぜんじゅつとお防弾ぼうだん鋼板こうはん機銃きじゅうぼうタンクなどがはずされた。武装ぶそうまれるさいにも機銃きじゅうだんまで削減さくげんし、すこしでも軽量けいりょうして上昇じょうしょうりょくげ、体当たいあたりをおこなうのである。一部いちぶ武装ぶそうはそのままにし射撃しゃげきしながら突入とつにゅうする戦術せんじゅつられた[265][注釈ちゅうしゃく 19]。なお、軽量けいりょうおこなった状態じょうたいさんしき戦闘せんとうをしても、高度こうど10,000 mまで上昇じょうしょうするのに45ふんから55ふんかかり、機首きしゅげた姿勢しせいなにとかいていられるといった状態じょうたいでしかなかった[266]。また小林こばやし手記しゅきによれば、当方とうほう高度こうど10,000 mまでの上昇じょうしょう一時いちじあいだかかるが、日本にっぽん調布ちょうふ銚子ちょうし伊豆いず大島おおしまなどにしか警戒けいかいレーダーを設置せっちしておらず、しかしB-29は伊豆いず大島おおしまから40 - 50ふん東京とうきょう到達とうたつしてしまう。これでは迎撃げいげきてきだいいちにはわず、やむを浜松はままつにも機体きたいき、偏西風へんせいふう利用りようしてのせってきこころみられた[267]

はがくれたいは11月24にち迎撃げいげきせん初陣ういじんであった。その規模きぼを8拡大かくだい[268]、12月3にち隊長たいちょう四宮しのみやとおる中尉ちゅうい体当たいあたりに成功せいこう左翼さよくのピトーかんからさきうしな主翼しゅよくのリベットのほとんどがちた[269]機体きたい見事みごとあやつって基地きち着陸ちゃくりくたした[270]板垣いたがき政雄まさお伍長ごちょう体当たいあたりに成功せいこう落下傘らっかさん降下こうか生還せいかんしたが、てき撃墜げきついにはいたらなかった[271]中野なかの松美まつみ伍長ごちょうはB-29の胴体どうたいもぐみ、プロペラでてき水平すいへい尾翼びよくをもぎり、一説いっせつにはさらに上部じょうぶ馬乗うまのりになり[272]自身じしん不時着ふじちゃく生還せいかんするはなわざせた[273]迎撃げいげき活躍かつやくし、このは6損失そんしつたいしてB-29、6撃墜げきつい、6被弾ひだん(86出撃しゅつげき)の戦果せんかげた[274]。こうした撃墜げきつい報告ほうこく新聞しんぶん宣伝せんでんされ、だい244戦隊せんたい体当たいあたり部隊ぶたいだい5ふるえてんたい改称かいしょうされた[275]。なお1944ねんまつから1945ねん初頭しょとうにかけて、だい244戦隊せんたいは50前後ぜんこうさんしき戦闘せんとう運用うんようしていた[151]

1945ねん1がつ27にちにもだい規模きぼ体当たいあたり迎撃げいげきおこなわれ、62のB-29[276]体当たいあたりがおこなわれた。だい244戦隊せんたい小林こばやし戦隊せんたいちょうふるえてんたいではないが高度こうど9,200 mのB-29に体当たいあたりを決行けっこう激突げきとつ意識いしきうしなうも高度こうど3,000 - 4,000 mで意識いしきもどし、きりもみ状態じょうたいあいから落下傘らっかさん生還せいかん[276][277]2体当たいあたり、1めい戦死せんし、1めい重傷じゅうしょう[278]だい5ふるえてんたいは1突入とつにゅう戦死せんししたほか、板垣いたがき政雄まさお軍曹ぐんそうさき軍功ぐんこう進級しんきゅう)は今回こんかい迎撃げいげきせんでもまたしても体当たいあたり落下傘らっかさん降下こうか生還せいかん中野なかの松美まつみ軍曹ぐんそう(おなじく進級しんきゅう)も同様どうようにB-29への肉薄にくはく成功せいこうし、胴体どうたい水平すいへい尾翼びよくをプロペラで破壊はかいみずからは不時着ふじちゃく帰還きかんした[279]。こののB-29の損害そんがいは9であった[108]。ちなみにふるえてんせいそらたい隊員たいいん体当たいあたりで戦死せんしした場合ばあいかいきゅう特進とくしんとなるが、そうでないパイロットが体当たいあたりをおこなってもこれは適用てきようされず、戦隊せんたいちょうである小林こばやし憮然ぶぜんとしたという[260]

こののち、B-29は命中めいちゅう精度せいどひくこうばくげき停止ていしし、比較的ひかくてきてい高度こうどでの夜間やかんばくげき多用たようしたため、体当たいあたり攻撃こうげき機会きかい激減げきげんした。さんしき戦闘せんとう部隊ぶたい体当たいあたりはだい244戦隊せんたいで20かい全体ぜんたいで30かいおよ[280]

1944ねん12月13にちには名古屋なごやはつ空襲くうしゅうされる。さんしき戦闘せんとう装備そうび部隊ぶたいとしてはこの地区ちくにはだい56戦隊せんたい配置はいちされていたが、フィリピン方面ほうめん戦力せんりょく消耗しょうもう内地ないち帰還きかんしていただい19戦隊せんたいや、だい55戦隊せんたい残置ざんち部隊ぶたいなどもこれの迎撃げいげきたった[281]

フィリピンでの敗北はいぼくさんしき戦闘せんとう主戦しゅせんじょう本土ほんど防空ぼうくうせんのほか、沖縄おきなわせんうつった。だが1944ねんから型式けいしき変更へんこう予定よていしたさんしき戦闘せんとうがたは、新型しんがた1,500馬力ばりききゅうえきひやエンジンのハ140不調ふちょうのため生産せいさんまったすすまず、わずか99生産せいさん停止ていし空冷くうれいエンジンであるハ112-IIにかわそうしたしき戦闘せんとうへと主力しゅりょくうつっていった。

1945ねん3がつからの沖縄おきなわせんでは、本土ほんどったほぼすべてのさんしき戦闘せんとう、ないししき戦闘せんとう部隊ぶたい投入とうにゅうされた。九州きゅうしゅうにはだいろく航空こうくうぐんの4飛行ひこう戦隊せんたい台湾たいわんにはだい8飛行ひこう師団しだんの3戦隊せんたいと、1個いっこ独立どくりつ飛行ひこう中隊ちゅうたい存在そんざいした[282]。また航続こうぞく距離きょり関係かんけいじょう一部いちぶ奄美あまみ群島ぐんとう喜界島きかいじま進出しんしゅつ特攻とっこう護衛ごえいおこなった[283]

これらは当初とうしょてんいちごう作戦さくせん特攻とっこう護衛ごえいとしてもちいられるとされたが、結局けっきょくは4がつ1にちにはだい17戦隊せんたいの7特攻とっこう投入とうにゅうされたのを皮切かわきりに[284]沖縄おきなわせん全体ぜんたいではけい97特攻とっこうおこなった。これは陸軍りくぐんぜん特攻とっこうやく10 %の数字すうじである[285]戦没せんぼつした日本にっぽん学徒がくとへい遺書いしょあつめた遺稿いこうしゅうきけ わだつみのこえ」に掲載けいさいされた遺書いしょ所感しょかん」で有名ゆうめい上原うえはら良司りょうじ少尉しょうい死後しご大尉たいい)が搭乗とうじょうして特攻とっこう出撃しゅつげきしたのもほんで、上原うえはらは1945ねん5がつ11にちだい56たけたい一員いちいんとして出撃しゅつげき[286]レーダーピケットかん駆逐くちくかんヒュー・W・ハドレイ」と「エヴァンズ」の2せき駆逐くちくかんすうせき補助ほじょかんとの戦闘せんとうで、陸海りくかい軍機ぐんきとの協同きょうどうにより2せき駆逐くちくかん再起さいき不能ふのうとなる甚大じんだい損害そんがいかぶらせた[287]

バリエーション[編集へんしゅう]

キ61[編集へんしゅう]

原型げんけい。1941ねん12月製造せいぞうはつ飛行ひこう[288]試作しさく3増加ぞうか試作しさく9[289][290]以降いこう特記とっきかぎ川崎かわさき航空機こうくうき岐阜ぎふ工場こうじょうでの製造せいぞう

いちがたきのえ (キ61-Iかぶと)[編集へんしゅう]

1942ねん8がつから1943ねん9がつ生産せいさん[291]最初さいしょ量産りょうさんがたである。 日本にっぽん陸軍りくぐん航空こうくう機関きかんほう開発かいはつおくれをっており、1940ねんまたは1941ねんまで12.7 mm航空こうくう機関きかんほうを、また事実じじつじょう1944ねんまで20 mm航空こうくう機関きかんほうたなかった[292][293]。12.7 mm航空こうくう機関きかんほう試作しさく決定けっていしたのは、1940ねんになってからのことである。このため1941ねん制式せいしきされた12.7 mm機関きかんほう(ホ103 一式いっしきじゅうななみりめーとる固定こてい機関きかんほう)は1940ねんに100もん、1941年度ねんどに439もん生産せいさんされたが[注釈ちゅうしゃく 20] この時点じてんではかず不足ふそくしており、また信頼しんらいせいもまだたかものではなかった[294][注釈ちゅうしゃく 21]、このため、機首きしゅに12.7 mm機関きかんほう2もんつばさないに7.7 mm機関きかんじゅう(はちきゅうしき固定こてい機関きかんじゅう)2てい装備そうびになっている。 燃料ねんりょうタンクはぼう仕様しようで、初期しょきには3 mmあつのゴムと10 mmあつのフェルトでおおっていたものが、421号機ごうきからは上面うわつら9 mm、側面そくめん6 mmのゴムにあらためられている[72][299]機体きたい番号ばんごう113から500まで、388生産せいさん[72][289]

いちがたおつ (キ61-Iおつ)[編集へんしゅう]

1943ねん9がつから1944ねん4がつ生産せいさん[291]いちがたかぶとつばさないじゅうを12.7 mm機関きかんほうかわそうけい4もん強化きょうかしたかた当初とうしょ計画けいかくではこのほう装備そうび正規せいき状態じょうたいである。514号機ごうき以降いこうには操縦そうじゅうせき後方こうほう、ラジエーターの上部じょうぶあつさ8 mm、重量じゅうりょう22 kgの着脱ちゃくだつしき防弾ぼうだん鋼板こうはん追加ついかした[76][299]一部いちぶ燃料ねんりょうタンクには被弾ひだん危険きけんせい指摘してきされ、現場げんばレベルでは撤去てっきょされるれいがあった。そらとなった当該とうがいタンクにはさらに欠陥けっかんがあり、飛行ひこうちゅうべん不良ふりょうタンクから燃料ねんりょうながみ、機体きたい重量じゅうりょうバランスをおおきくくるわせた。また離陸りりく直後ちょくご墜落ついらく事故じこについても、このタンクによる重量じゅうりょうバランスのくるいが指摘してきされた[300]。よっておつがたの14(514号機ごうき)からはこれを廃止はいし[301][299]燃料ねんりょう搭載とうさいりょうは755リットルから555リットルに減少げんしょう[72]。また、150(650号機ごうき)からはつばさないタンクに12 mmあつゴムによる防弾ぼうだん[302][299]おこなわれている。このため燃料ねんりょう搭載とうさいりょうさらに、500リットルに減少げんしょうした[301][72]。またしきだった生産せいさんせい向上こうじょうため途中とちゅうから固定こていしきあらためられた[76]

生産せいさんすうやく600[303]あるいは592または603[72]、592[304]などとわれている。かたふち (2007, pp. 90–91)によれば、『軍需ぐんじゅしょう熊倉くまくら少佐しょうさ資料しりょうちゅうの『陸軍りくぐん装備そうび現況げんきょうひょう』では機体きたい番号ばんごうは501から1092であるとされるが、『さんしき戦闘せんとう取扱とりあつかいほう』ではつばさないじゅうを12.7 mmにしたのは514号機ごうき以降いこうであると明記めいきされている(ただし、513号機ごうき(401)からの可能かのうせいもあるとしている)。ちなみに1943年度ねんど陸軍りくぐんによる生産せいさん内示ないじすうは6,760実情じつじょうかんがみない数値すうちであったという[305]

いちがたへい (キ61-Iへい)[編集へんしゅう]

1943ねん9がつから1944ねん7がつ生産せいさんつばさない銃砲じゅうほうをドイツから輸入ゆにゅうしたマウザーほう(モーゼルともばれる)(MG151/20)にかわそうし、20 mm機関きかんほう2もんと12.7 mm機関きかんほう2もんじゅう武装ぶそうにしたかた主翼しゅよくから砲身ほうしんしているのが外見がいけん特徴とくちょう陸軍りくぐんでは航空こうくうよう20 mm機関きかんほう開発かいはつおくれていたため、ドイツから20 mm機関きかんほう輸入ゆにゅうした[306]数量すうりょうは800もん弾丸だんがん40まんはつである[307][注釈ちゅうしゃく 22]川崎かわさきないでは「キ61マしき」ともばれた[289]。ただし重量じゅうりょうぞう飛行ひこう性能せいのう低下ていかしている[144]

定説ていせつでは既存きそんいちがたかぶといちがたおつからの改造かいぞうふくめて388いちがたへいとなった[307]。だがみね (2007, p. 143)は川崎かわさきにおいて1943ねんに234、1944ねんに153合計ごうけい387生産せいさんされ、現地げんち改修かいしゅう存在そんざいしないとする。しかし前線ぜんせん搭乗とうじょういん手記しゅきでも、現地げんち改修かいしゅう実際じっさいおこなわれたふしがあるとする証言しょうげんもみられているほか[309]いかり (2006, pp. 161–162)は235新規しんき生産せいさんで、400からそれをいたひゃくすうじゅう現地げんち改造かいぞうであろうとしている。秋本あきもと (1999, p. 121)は改修かいしゅうとはべつに400川崎かわさき生産せいさんされたとしている。

なおいちがたおつ機体きたい番号ばんごうは514から1092がられているが、いちがたへいには3001から3400がられている[291]

いちがたちょう (キ61-I ひのと)[編集へんしゅう]

1944ねん1がつから1945ねん1がつ生産せいさん武装ぶそう機首きしゅホ5 20 mm機関きかんほう2もんたますうかく120はつ[310])、つばさないにホ103 12.7 mm機関きかんほう2もんとしたかた

輸入ゆにゅうマウザーほうすべ使用しようしたのちも20 mm機関きかんほう搭載とうさいのぞまれたため、ようやく実用じつようったホ103の拡大かくだいばんである国産こくさん20 mm機関きかんほうホ5 しきじゅうみりめーとる固定こてい機関きかんほう搭載とうさいした。榴弾りゅうだん威力いりょくはマウザーほうおよぶものではなかったが、全長ぜんちょうみじかいため機首きしゅ搭載とうさいでき、命中めいちゅうりつはあがった[311]和泉いずみ (1994, p. 39)は発射はっしゃ速度そくど初速しょそく遜色そんしょくなかったものの、故障こしょうおおかったとしている。秋本あきもと (1989, p. 15)は、1943ねん11がつごろ杉山すぎやまはじめ元帥げんすい川崎かわさき岐阜ぎふ工場こうじょうおとずれ20 mm機関きかんほう搭載とうさい要請ようせいしたとしている。

渡辺わたなべ (2006, p. 213)は、ホ5の搭載とうさいかんし、重量じゅうりょうぶつ重心じゅうしんちかづけて機動きどうせい確保かくほし、また命中めいちゅう精度せいど確保かくほする観点かんてんから(つばさねじれるなどするため命中めいちゅうりつおと[312])、サイズのおおきなマウザーほうではのぞめなかった機首きしゅ搭載とうさいしたとしている。

しかし文献ぶんけんでは、本来ほんらいマウザーほう同様どうようつばさない装備そうびとしたかったものがつばさないおさまりきらず、やむを半年はんとしをかけてホ5よう同調どうちょう装置そうち開発かいはつし、機首きしゅ搭載とうさいしたとされている[313][314][315][注釈ちゅうしゃく 23]。この同調どうちょう装置そうちとは、プロペラ圏内けんない装備そうびされた機関きかんじゅう発砲はっぽうするにさいし、のプロペラに弾頭だんとう命中めいちゅうしないよう、プロペラが安全あんぜん位置いちにあるときにだけ発射はっしゃ機構きこう機械きかいてき連結れんけつする装置そうちである。航空機こうくうき黎明れいめい時代じだいにはプロペラを強化きょうかし、多少たしょう弾丸だんがんたってもこれをはじばすなどしていたが[316][317]機銃きじゅう強力きょうりょくになるとこの方法ほうほうすたれた。20 mm機関きかん砲弾ほうだんでは弾頭だんとう内部ないぶ炸薬さくやくによりプロペラが威力いりょくがあった[314]。20 mm弾薬だんやく海軍かいぐん危険きけんとしてプロペラ圏内けんないへの機関きかんほう装備そうび容認ようにんしなかったし[315][318]世界せかいてきにもまれ部類ぶるいではある[319][注釈ちゅうしゃく 24]。1942ねん6がつ5にちには土井どいにより、つばさあつ関係かんけいじょう主翼しゅよくへの搭載とうさい不可能ふかのうで、この部分ぶぶんつばさあつを100 mm程度ていどさい設計せっけいする必要ひつようがあるとの報告ほうこくがなされている。さい設計せっけい生産せいさん設備せつび転換てんかん自体じたいは1週間しゅうかん完了かんりょうできる比較的ひかくてき容易よういなものであった[321]

武装ぶそう変更へんこうともな機首きしゅ延長えんちょう[注釈ちゅうしゃく 25][322][170]榴弾りゅうだん信管しんかん過敏かびんによる暴発ぼうはつ対策たいさく機首きしゅ上面うわつらがいいたあついものに変更へんこう[323][310]、これにより機体きたい重心じゅうしん前進ぜんしんしたため後部こうぶバラスト搭載とうさい[310][323]主翼しゅよくを4 cm前方ぜんぽう移動いどうしている[322]。また、胴体どうたいないタンクを95リットルで復活ふっかつさせた[324]。このため燃料ねんりょう搭載とうさいりょうは595リットルとなった[325]

つばさないから機首きしゅへのだい口径こうけい機関きかんほう搭載とうさい位置いち変更へんこうは、命中めいちゅうりつ向上こうじょう重量じゅうりょうぶつ機体きたい重心じゅうしんちかくへの移設いせつによる旋回せんかい性能せいのう向上こうじょうにつながるものだが、実際じっさい改造かいぞうによる自重じちょうにしてやく250 kgの重量じゅうりょう増加ぞうかにより飛行ひこう性能せいのう全般ぜんぱん低下ていかしている[326][325]高度こうど6000 mでのさい高速度こうそくどは590 km/hから560 km/h[注釈ちゅうしゃく 26]へ、上昇じょうしょうりょく高度こうど5000 mまで5ふん31びょうから7ふん程度ていどへと低下ていかしている[326][325][注釈ちゅうしゃく 27]。なお、351からぞうそうを100 kgばくだん搭載とうさい可能かのうなものにしたとする文献ぶんけんもある[291]

ほんがた機体きたいだい改修かいしゅうくわえているため当初とうしょさんしき戦闘せんとういちがたあらため(キ61-Iあらため)」としょうされたが[注釈ちゅうしゃく 28]、のちに「さんしき戦闘せんとういちがたちょう(キ61-Iひのと)」となった[324]計画けいかくでは機体きたい番号ばんごう4001から4900までの900生産せいさんであったが、後継こうけいがたわず、機体きたい番号ばんごう5354までが生産せいさんされた[291]生産せいさんすうは1,358[327][326]、または1,354[328]最多さいたである。

なお、「くびし」の機体きたい後述こうじゅつするハ140搭載とうさいがたのものが有名ゆうめいだが、ハ40の徹底的てっていてき改良かいりょうという要因よういんにより供給きょうきゅう不足ふそくし、いちがたについても1944ねんあきからくびしの機体きたいえており、11月には最大さいだいの190かぞえていた[162]

キ61-II[編集へんしゅう]

1942ねん4がつごろより計画けいかくされ、エンジンはハ40の改良かいりょうがたであるハ140はなれのぼり出力しゅつりょく1,400馬力ばりき)にかわそう[159]主翼しゅよくをホ5を内蔵ないぞうできるようにさい設計せっけいつばさ面積めんせき22 m2のものとした[159][161]。さらに垂直すいちょく安定あんていばん若干じゃっかんぞうせき[159]胴体どうたいを42 cm延長えんちょうした[159]土井どい (2002b, p. 12)によれば、機能きのう確実かくじつ整備せいび容易よういにも配慮はいりょがなされた。 武装ぶそうホ5 20 mm機関きかんほうを4もん、またはホ5 2もんに12.7 mmホ103 2もん装備そうび[159]最大さいだい速度そくど640 km/hを目指めざ[159]上昇じょうしょう限度げんどは13,500 mとなるはずであった[121]。さらに30 mm機関きかんほうホ155搭載とうさい検討けんとうされている[122]渡辺わたなべ (1999, p. 137)によれば、キ61とキ61-IIは遠目とおめにはよくているが、ちかづいてみるといたる部分ぶぶんことなっており、どういち部分ぶぶんさがすのが困難こんなんほどだという。

1943ねん8がつ試作しさく完成かんせいはつ飛行ひこうしたが、エンジン、とくみずポンプの故障こしょう頻発ひんぱつ実用じつよう遅延ちえんした。1943ねん9がつから1944ねん1がつまでに試作しさくを8生産せいさんしたものの、空戦くうせん性能せいのうもあまりかんばしくなく、8号機ごうき完成かんせいこそ1944ねん1がつとされているが、6がついたってもやっと発動はつどう空中くうちゅう試験しけんはじめる状況じょうきょうで、最終さいしゅうてき計画けいかく中止ちゅうしされた[329][330][160]。なおエンジン出力しゅつりょく強化きょうかともないラジエーターも管長かんちょうを250 mmから300 mmとし、冷却れいきゃくりょくを20 %強化きょうかしている[170]武装ぶそうによって、従来じゅうらいの20 mm機関きかんほうを2もん・12.7 mm機関きかんじゅうを2もん搭載とうさいしたものをがたかぶとキ-61IIかぶと)、20 mm機関きかんほうを4もん搭載とうさいしたものをがたおつキ-61IIおつ)としょう区別くべつすることもあるが、あくまでも後世こうせいづけられた非公式ひこうしき名称めいしょうぎない。

がた (キ61-IIあらため)[編集へんしゅう]

1944ねん2がつごろより計画けいかく開始かいしされた。キ61-IIの主翼しゅよくいちがたひのとのものにもどしたもので、このためつばさない武装ぶそういちがたちょう同等どうとうのものにもどっている[331][332]。なお、大型おおがた主翼しゅよく採用さいようした理由りゆうとそれをもともどした理由りゆう資料しりょうく、よくわかっていない。従来じゅうらい主翼しゅよくにはサイズの問題もんだいで20 mm機関きかんほうホ5搭載とうさいできなかったが、これの搭載とうさいのためにあらたな主翼しゅよく用意よういした可能かのうせいのほか、様々さまざませつがある。

  • 秋本あきもと (1989, p. 16)によれば、たんいちがたひのとにハ140をせて各部かくぶ改修かいしゅうしたほういとのことになっただけ。
  • いかり (2006, pp. 170–171)によれば、大型おおがた主翼しゅよく飛行ひこう性能せいのうわるく、速度そくど向上こうじょう意味いみからもとのものにもどした。
  • みね (2007, p. 151)によれば飛行ひこう性能せいのう向上こうじょうのため。
  • 渡辺わたなべ (1999, p. 138)によれば主翼しゅよく大型おおがた効果こうかがあまりられなかったため。

なお歴史れきしぐんぞう編集へんしゅう (2011, p. 57)では、理由りゆう明確めいかく言及げんきゅうされていない。

全備ぜんび重量じゅうりょうは355 kg増加ぞうかした。しかし速度そくど高度こうど6,000 mで610 km/h、高度こうど8,000 mでも591 km/hと向上こうじょうしており、上昇じょうしょう性能せいのういちがたひのとより改善かいぜん[332]上昇じょうしょうちゅうだい244戦隊せんたい所属しょぞくいちがたを、から発進はっしんしたがたこともあった[333]。また武装ぶそういちがたちょう同等どうとうだが、機首きしゅの20 mm機関きかんほうホ5のたますうが、かく120はつから200はつへと増加ぞうかしている[332]機首きしゅ延長えんちょうのバランスをるため、主翼しゅよくいちがたくらべ8 cm前方ぜんぽうにずらした[334]燃料ねんりょうタンクの防弾ぼうだん能力のうりょく強化きょうかしたため、つばさないタンクが合計ごうけい265リットルから210リットルへ低下ていかした[332]。ハ140を搭載とうさいしたこの機体きたい従来じゅうらいのものとはことなり、完全かんぜん武装ぶそう状態じょうたいでも高度こうど10,000 mまでらく上昇じょうしょうできた[335]二型にがた機体きたいは、一足早ひとあしはや航空こうくう審査しんさ飛行ひこう実験じっけんや、1944ねん11がつごろより[336]片岡かたおか三郎さぶろうかけちょう(かけちょうまたはかかりちょう。現在げんざいうところの係長かかりちょう[337][注釈ちゅうしゃく 29]隊長たいちょうとし、川崎かわさき航空機こうくうきのテストパイロットで編成へんせいされた川崎かわさき防空ぼうくう戦闘せんとうたいによっても一線いっせん部隊ぶたい先行せんこうして運用うんようされた。航空こうくう審査しんさ川崎かわさき防空ぼうくう戦闘せんとうたいはB-29の迎撃げいげきせん活躍かつやくし、とく川崎かわさき防空ぼうくう戦闘せんとうたいいちがた機体きたいわせ、1944ねん12月13にち、1945ねん1がつ3にちあわせB-29、B-25合計ごうけい3または4撃破げきは報告ほうこく[注釈ちゅうしゃく 30]航空こうくう本部ほんぶちょうから感謝かんしゃじょうおくられている[339][340]。そのうちB-29 3片岡かたおかかけちょうによる戦果せんかである[340]

増加ぞうか試作しさくが30[341]または36[304]生産せいさんされたのち、1944ねん9がつより「キ61-IIあらため」として量産りょうさん開始かいしされた。ハ140が順調じゅんちょう量産りょうさんされ、所期しょき性能せいのう発揮はっきすれば機体きたい高性能こうせいのうをあらわすことも可能かのうであったが、機体きたいこそ374完成かんせいしたものの、ハ140の生産せいさん遅延ちえん品質ひんしつわるかった。生産せいさん台数だいすうは44ねん7がつに20だい納入のうにゅう予定よていが8だい、8がつには40だい納入のうにゅう予定よていが5だい、9月には1だいのみが完成かんせいしたにぎない[342]。こうした生産せいさんじょうきょうからはほん実用じつようとして戦力せんりょくすることがきわめて困難こんなんであった。航空こうくう審査しんさ担当たんとう名取なとり智男ともお大尉たいいはハ140を生産せいさんしている川崎かわさき明石あかし工場こうじょうかよ不具合ふぐあい調査ちょうさしたが、性能せいのう維持いじ不可能ふかのうであり、これにってんでくれとは整備せいびとしてとてもえないとった惨状さんじょうであった[165]。ただ、検査けんさ合格ごうかくしたハ140は故障こしょうもなく、確実かくじつ高度こうど10,000 mをべるとの評価ひょうかもあった[343]。だが、ハ140の故障こしょうおおことにはわりなく、キ61-IIあらため生産せいさんは100程度ていどちきられた[342]二型にがた整備せいび条件じょうけんい、内地ないち防空ぼうくう部隊ぶたいかぎって配備はいびされる予定よていであったという[344]。ちなみにがた制式せいしきは、生産せいさんりが決定けっていしたのちあいだもないころのことである[344]

結局けっきょく、エンジンを搭載とうさい完成かんせいとなったものは99であったが、B-29によるばくげき機体きたい破壊はかいされ、最終さいしゅうてきぐん納入のうにゅうされたのはやく60程度ていどであった[331][345]。こののち川崎かわさきはキ61-IIあらため生産せいさん縮小しゅくしょうし、よんしきじゅう爆撃ばくげき生産せいさんするよう指示しじされた[346]結論けつろんとしてエンジンの不調ふちょうおよび生産せいさん遅延ちえんさんしき戦闘せんとう大量たいりょう生産せいさん阻害そがいした。製造せいぞう番号ばんごうについて秋本あきもと (1989)は5001以降いこうられたとしたが[325]、1945ねん1がつ4にちづけ川崎かわさき航空機こうくうき作成さくせい飛行機ひこうき生産せいさん実績じっせきなみ予定よていひょうによれば、10000ばんだい岐阜ぎふ工場こうじょうせい、15000ばんだい一宮いちのみや工場こうじょうせい、18000番台ばんだい都城みやこのじょう工場こうじょうせいとなっている[347]

はん完成かんせいひんとなったさんしき戦闘せんとう残余ざんよである275は「くびし」の状態じょうたい放置ほうちされた[348]。これらはのち空冷くうれいエンジンを搭載とうさいし、後述こうじゅつしき戦闘せんとう改造かいぞうされた。定説ていせつではがた機体きたい生産せいさんすうは374完成かんせいが99しき戦闘せんとうへの改造かいぞうが275である。だがこの数字すうじには試作しさくの39はいっておらず[349]、また374という数量すうりょうにはしん工場こうじょうである都城みやこのじょう工場こうじょう製造せいぞうされたぶん計上けいじょうされていない。みね (2007, p. 156)によれば川崎かわさき航空機こうくうき工業こうぎょう株式会社かぶしきがいしゃ航空機こうくうき製造せいぞう沿革えんかく』「機体きたい」では「374+」とされており、実数じっすうはややおおかったともかんがえられる。また1945ねん3がつ26にちおよび27にち陸軍りくぐん川崎かわさきたい実施じっしした機体きたいがわ現地げんち指導しどう記録きろくによれば、この時点じてんでの「くびし」状態じょうたいさんしき戦闘せんとういちがたおよがたわせて421となっており、うち135しき戦闘せんとう、14さんしき戦闘せんとうがた改造かいぞうし、さんしき戦闘せんとう生産せいさんについては当分とうぶんあいだ月産げっさん50とするむね指導しどうおこなっている[350]

さんしき戦闘せんとうがたは、エンジンがかん調ちょうであれば性能せいのう自体じたい良好りょうこうだった。土井どいによれば高度こうど10,000 mにおいても容易ようい編隊へんたい飛行ひこうおこなえた[351][352][345]。また本土ほんどでB-29の迎撃げいげきたっただい55戦隊せんたい隊員たいいんらも、古川ふるかわ戦隊せんたいちょう故障こしょう見受みうけられるがどう条件じょうけんならP-51にもけをらないのではないかと評価ひょうかしたほか[108]旋回せんかい性能せいのうだけはいちがたおとるが全体ぜんたいてきがたうえである、高度こうど11,000 mでも確実かくじつ飛行ひこうができる、さらにはエンジンの故障こしょうすくないと証言しょうげんしている[353]。また明野あけの飛行ひこう学校がっこうおこなわれたテストでは、急降下きゅうこうか性能せいのうよんしき戦闘せんとうしき戦闘せんとう凌駕りょうがしていた[354]しき戦闘せんとう登場とうじょうがた完全かんぜんてられたわけではなく、しき戦闘せんとう当座とうざしのぎながら信頼しんらいせい向上こうじょう目指めざし、1945ねん6がつに40、7がつに40、8がつに10という補給ほきゅう計画けいかくのこされている[349][355]おなじく、機体きたいしき戦闘せんとうられながらも、終戦しゅうせん直前ちょくぜんまですくなくとも2戦隊せんたい充足じゅうそく戦力せんりょく目指めざ細々こまごま生産せいさんつづけられていたとする文献ぶんけんもある[356][357]。しかし同時どうじに1945ねん7がつには生産せいさん完全かんぜんりとしき戦闘せんとうへの完全かんぜん移行いこう決定けっていしたともされる[358][357]

さらなる発展はってんがたとして、キ61-IIにだい口径こうけいほう搭載とうさいする、すなわち、ハ140とくエンジンに37 mm機関きかんほうモーターカノンとして搭載とうさいする計画けいかく存在そんざいした。これはみね (2007)[ようページ番号ばんごう]にキ61-IIたけきょうとして紹介しょうかいされているが、現在げんざいまでのところ、ウィキペディア編集へんしゅうしゃには、文献ぶんけんではIIがたについてこの呼称こしょう確認かくにんできない。ただしさんしき戦闘せんとういちがたについては、「陸軍りくぐん現用げんよう試作しさく称呼しょうこ名称めいしょう一覧いちらんひょう」(1945ねん2がつ25にち陸軍りくぐん航空こうくう本部ほんぶ)において、へいがたひのとがたの「区分くぶん」を「たけつよし」としているれい[359][注釈ちゅうしゃく 31]。この機体きたいつばさない武装ぶそう廃止はいしされ、武装ぶそう機首きしゅに20 mmホ5が2もんのみ装備そうびされた。のちにこれはキ88ばれるものとなり、1943ねん6がつにはての開始かいしおこなえる状態じょうたいになったようだが[361]、1943ねん9がつ計画けいかく中止ちゅうしされた[121]後期こうきになると陸軍りくぐんからの要請ようせいけて、パイロット視界しかい向上こうじょうはかるために水滴すいてきがた風防ふうぼう変更へんこうされた。この処置しょち中島なかじまよんしき戦闘せんとう参考さんこうにしておこなわれたが、きゅうななしき戦闘せんとう以来いらい水滴すいてきがた風防ふうぼうもちいてきた中島なかじまことなり、川崎かわさきでは技術ぎじゅつ蓄積ちくせきあさく、機体きたい風防ふうぼう接着せっちゃくをきちんとおこなうことが出来できなかったため、パイロットは騒音そうおんなやまされたという。従来じゅうらいのファストバックがた風防ふうぼうのものをがたかぶとキ61-IIあらためかぶと)、水滴すいてきがた風防ふうぼうのものをがたおつキ61-IIあらためおつ)とするものや、従来じゅうらいのファストバックがた風防ふうぼうがたとし、水滴すいてきがた風防ふうぼうのものをさんがたキ61-III)としょう区別くべつすることもあるが、どちらも後世こうせいづけられた非公式ひこうしき名称めいしょうぎない。また正式せいしき名称めいしょう不明ふめいであるものの、性能せいのう向上こうじょうがたであるさんがたにははなれのぼり出力しゅつりょく1,800馬力ばりきハ240装備そうび計画けいかくされていた[161][362]

しき戦闘せんとう (キ100)[編集へんしゅう]

全幅ぜんはば840 mmの胴体どうたいそとみち1,280 mmの機首きしゅけたしき戦闘せんとう段差だんさ処理しょり注目ちゅうもく

しき戦闘せんとうさんしき戦闘せんとうのエンジンをほしがた空冷くうれいエンジンにかわそうした戦闘せんとうである。1945ねん昭和しょうわ20ねん)に制式せいしき採用さいようされた(制式せいしき採用さいようされたかかには諸説しょせつあり。くわしくは当該とうがい項目こうもく参照さんしょう)。 前述ぜんじゅつのとおりハ140の生産せいさん遅延ちえんし、エンジン装着そうちゃくさんしき戦闘せんとう多数たすう放置ほうちされた。早急そうきゅう戦力せんりょくのため、陸軍りくぐんではハ140にえてハ112-II搭載とうさいすることを計画けいかくした(日本にっぽん海軍かいぐんおなじく艦上かんじょう爆撃ばくげき彗星すいせいのアツタエンジンにえて金星きんぼし62がたエンジンを搭載とうさいしている)。金星きんぼし62がたエンジン、陸軍りくぐん名称めいしょうハ112-IIはほしがた空冷くうれいであるため、直径ちょっけいこそ1,218 mmと[363]おおきいが、はなれのぼり出力しゅつりょく1,500馬力ばりき発揮はっきするものであった。これはひろ部隊ぶたい配備はいびされているさんしき戦闘せんとういちがたひのとのハ40が発揮はっきする1,175馬力ばりきより強力きょうりょくで、ハ140の1,500馬力ばりき匹敵ひってきした。またハ112-IIにはみずメタノール噴射ふんしゃ装置そうち装備そうびされていた[364]航空こうくう本部ほんぶ土井どい技師ぎしさんしき戦闘せんとう空冷くうれいかわそう前向まえむきに検討けんとう開始かいしした。軍需ぐんじゅしょう意向いこう川崎かわさき航空機こうくうきのエンジン部門ぶもん実戦じっせんへの努力どりょくとう空冷くうれいたいして考慮こうりょすべきてんがあったものの、戦局せんきょく生産せいさん観点かんてんから、1944ねん4がつ航空こうくう審査しんさ川崎かわさきたい内々ないないさんしき戦闘せんとう空冷くうれい依頼いらい[365]した。また上記じょうきがた戦力せんりょく失敗しっぱいにより、10月1にちには正式せいしき空冷くうれいさんしき戦闘せんとう・キ100の試作しさくめいじられた[342]

さんしき戦闘せんとうの840 mmの胴体どうたい直径ちょっけい1,218 mm、カウリングなどもふくめればそとみち1,280 mm[352]のハ112-IIをいかにおさめるかは、ドイツより輸入ゆにゅうされていたFw190A-5機首きしゅまわりの処理しょり参考さんこうとした[366]。エンジンと機体きたい接続せつぞくしょうじる段差だんさうずりゅうしょうおおきな空気くうき抵抗ていこうとなるが、この部分ぶぶんにエンジンの推力すいりょくしきたん排気はいきかん設置せっちうずりゅうばし[367]最小限さいしょうげん整形せいけいのみで空気くうき抵抗ていこう低減ていげんする処理しょりほどこした。

1944ねんの12月まつにはかわそうのための設計せっけいえ、試作しさくいち号機ごうきよく1945ねん2がつ1にち(または11にち)にはつ飛行ひこうおこなった[368]空冷くうれいにより前面ぜんめん投影とうえいりょうえ、空気くうき抵抗ていこう増加ぞうかにより最高さいこう速度そくどが580 km/hとなった。これはキ61-IIあらためより30 km/hほど低下ていかしていた。しかし、空冷くうれいによる水冷すいれい装置そうち撤去てっきょなど軽量けいりょうともない、上昇じょうしょうりょくよんしき戦闘せんとう上回うわまわるものとなった[369]空戦くうせん性能せいのうさんしき戦闘せんとう上回うわまわると判定はんていされ[370]さんしき戦闘せんとういちがたちょう比較ひかくすれば最高さいこう速度そくどにおいても凌駕りょうがした。窮余きゅうよさく空冷くうれいエンジンへのかわそうだい成功せいこうであった。

だい59戦隊せんたいのパイロットらも、さんしき戦闘せんとう装備そうび運用うんようした時期じき比較ひかくし、しき戦闘せんとうてき新鋭しんえい戦闘せんとうとも相当そうとう善戦ぜんせんできると評価ひょうかした[371]。またなにより、稼働かどうりつおおきく向上こうじょうした[372]えずの戦力せんりょく稼働かどうりつ向上こうじょうくわ予想よそうがい高性能こうせいのう発揮はっきしたキ100は、2がつにはしき戦闘せんとうとして制式せいしき採用さいようされた[373]量産りょうさんだいいちごうは2がつ完成かんせいし、3月には36、4がつには89、5月には131生産せいさんされた[374]生産せいさん停止ていししたさんしき戦闘せんとうがたわって陸軍りくぐん主力しゅりょく戦闘せんとうとなり、陸軍りくぐん航空こうくうたいはこれをだい歓迎かんげいする。だがべいぐん空襲くうしゅうのため6がつは88、7がつは23にまで生産せいさんんだ[375]。8月に生産せいさんされた10をもって生産せいさん完了かんりょうし、試作しさく3ふくそう生産せいさんすうは390[375]または393[327]程度ていどであった。ほか、生産せいさんすう文献ぶんけんにより諸説しょせつ存在そんざいする。

ただしハ112-IIはハ140より稼動かどうしたとされるが、やはり新型しんがたエンジンであり、信頼しんらいせい抜群ばつぐんであったとうわけではなかった[376]。1945ねん7がつしき戦闘せんとう装備そうびしただい59戦隊せんたい稼働かどうりつが48 %、さんしきせん装備そうびしただい55戦隊せんたい稼働かどうりつが62 %とのデータもある[377]

しょもと[編集へんしゅう]

正式せいしき名称めいしょう さんしき戦闘せんとういちがたおつ さんしき戦闘せんとういちがたひのと さんしき戦闘せんとうがた
試作しさく名称めいしょう キ61-Iおつ キ61-Iひのと キ61-IIあらため
全幅ぜんぷく 12.00 m
全長ぜんちょう 8.74 m 8.94 m 9.1565 m
ぜんこう 3.70 m 3.75 m
つばさ面積めんせき 20 m2
つばさめん荷重かじゅう 156.5 kg/m2 173.5 kg/m2 191.25 kg/m2
自重じちょう 2,380 kg 2,630 kg 2,855 kg
正規せいき全備ぜんび重量じゅうりょう 3,130 kg 3,470 kg 3,825 kg
発動はつどう ハ40はなれのぼり1,175馬力ばりき ハ140はなれのぼり1,500馬力ばりき
最高さいこう速度そくど 590 km/h(高度こうど4,860 m) 560 km/h(高度こうど5,000 m) 610 km/h(高度こうど6,000 m)
上昇じょうしょうりょく 高度こうど5,000 mまで5ふん31びょう 高度こうど5,000 mまで7ふん00びょう 高度こうど5,000 mまで6ふん00びょう
航続こうぞく距離きょり 1,100 km+戦闘せんとう20ふん または3.65時間じかん(歴史れきしぐんぞう)
/ 2850 km(ぞうそうづけ) または7.65時間じかん(歴史れきしぐんぞう)
1,800 km() 1,600 km()
武装ぶそう ホ103 12.7 mm機関きかんほう 合計ごうけい4もん
胴体どうたい2もん + つばさない2もん携行けいこうだんすうかく250はつ
胴体どうたい20 mm機関きかんほう2もんホ5たますうかく120はつ)、
つばさない12.7 mm機関きかんほう2もんホ103たますうかく250はつ
胴体どうたい20 mm機関きかんほう2もんホ5たますうかく250はつ)、
つばさない12.7 mm機関きかんほう2もんホ103たますうかく250はつ
ばくそう 100 kg - 250 kgばくだん2はつ 250 kgばくだん2はつ
生産せいさんすう やく600/512[378] 1,358/1,354[378] 99

出典しゅってん:『日本にっぽん戦闘せんとう陸軍りくぐんへん[379]航空機こうくうき原点げんてん 精密せいみつ図面ずめんむ10 日本にっぽん陸軍りくぐん戦闘せんとうへん[380]学習がくしゅう研究けんきゅうしゃ (2007) 歴史れきしぐんぞう 太平洋たいへいよう戦史せんしシリーズ 61『さんしきせん飛燕ひえん」・しきせん』p.160のみ。

三面図
三面さんめん

逸話いつわ[編集へんしゅう]

いきいきランド交野かたの展示てんじされるハ40(2007ねん
  • 1942ねん4がつ18にちドーリットル空襲くうしゅうとき航空こうくう審査しんさ飛行ひこう実験じっけん前身ぜんしんである陸軍りくぐん飛行ひこう実験じっけん実験じっけんたいには、キ61担当たんとう主任しゅにんである荒蒔あらまき義次よしじ少佐しょうさ梅川うめかわあきら三郎さぶろう准尉じゅんいがいた。またキ61は福生ふっさ飛行場ひこうじょう飛行ひこう試験しけんえ、水戸みと陸軍りくぐん飛行ひこう学校がっこうにおいてホ103しゃげき試験しけんちゅうであった。かれらはこのキ61試作しさく2号機ごうき・3号機ごうき急遽きゅうきょ搭乗とうじょうし、B-25迎撃げいげきした。しかしこれらの機体きたい搭載とうさいされていたのは演習えんしゅうようてっかぶとだんであり、炸裂さくれつだんではないため命中めいちゅうしても貫通かんつうするのみで大型おおがた撃墜げきついむずかしい[381][382]。ただちに離陸りりくした梅川うめかわはB-25の1命中めいちゅうだんびせて左翼さよくより燃料ねんりょうまたはけむりかせたが燃料ねんりょう不足ふそく撃墜げきついにはいたらず、1撃破げきは報告ほうこくした[381][382]。このB-25は4ばんであり、機長きちょうはE・W・ホームストロム少尉しょういつとめていた[383][382]。ただしべいぐんがわクルーの回想かいそうによれば、左翼さよくからのけむり梅川うめかわ攻撃こうげきまえより発生はっせいしていた燃料ねんりょうれトラブルであったらしい[382]。また、ひだり前方ぜんぽうより攻撃こうげきされたともしている[382]一方いっぽう荒蒔あらまき機体きたい搭載とうさいされた実包じっぽうをマだんばれる炸裂さくれつだんかわそう離陸りりく、B-25ののちったがかいてきはできなかった[381][382]
  • 梅川うめかわのち離陸りりくした荒蒔あらまきがB-25索敵さくてきちゅう一線いっせん配備はいびされておらず味方みかた周知しゅうちされていない試験しけんであるため、海軍かいぐんからてき誤認ごにんされて攻撃こうげきけるいちけんがあったが、主翼しゅよく国籍こくせきマークせることで同士討どうしうちは回避かいひした[381][384]
  • 1945ねん2がつ17にち二型にがた試験しけん飛行ひこうおこなっていた航空こうくう審査しんさ荒蒔あらまき義次よしじ少佐しょうさが、F6Fと遭遇そうぐう空中くうちゅうせんおこなった。急降下きゅうこうかおこなったさい遷音そくとき発生はっせいするよう現象げんしょう体感たいかんしたと証言しょうげんしている。基地きち帰還きかんしたのち確認かくにんすると、1,000 km/h[注釈ちゅうしゃく 32] まで測定そくていできる速度そくどけいはり破損はそんしていた。しかし、機体きたいには異常いじょうく、速度そくどけい以外いがい故障こしょうした部分ぶぶんはなかった[385]荒蒔あらまき手記しゅきである「テスト飛行ひこうほふりゅう飛燕ひえん実力じつりょく」でも、おとかべ衝突しょうとつしたとかたっているが、こちらでは空中くうちゅうせん速度そくどけい破損はそんについてはれられていない[386]。なお、機体きたいたい速度そくどが、おおよそ音速おんそくの0.7 - 0.8ばい程度ていどたっしたあたりから、主翼しゅよく上面うわつら胴体どうたいふくらんだ部分ぶぶんなど、気流きりゅうながれのはや箇所かしょでは部分ぶぶんてき衝撃波しょうげきは発生はっせいする場合ばあいがあり[387][388]荒蒔あらまき衝撃波しょうげきは体感たいかんしたと証言しょうげんはありないはなしではない。
  • 2005ねん3がつ16にち大阪おおさか交野かたの星田北ほしだきた地域ちいきだい京阪けいはん道路どうろ建設けんせつ工事こうじ現場げんばでエンジンや機関きかんほう、プロペラなどの残骸ざんがい発見はっけんされた。調査ちょうさ結果けっか、1945ねん7がつ9にち伊丹いたみ飛行場ひこうじょうから出撃しゅつげきした飛行ひこうだいろく戦隊せんたい所属しょぞくさんしき戦闘せんとうのものであることが判明はんめいした。搭乗とうじょういん中村なかむら純一じゅんいち陸軍りくぐん少尉しょうい当時とうじ)。硫黄いおうとうから襲来しゅうらいしたP-51と交戦こうせん撃墜げきついされた。残骸ざんがい交野かたのわたされ同市どうし施設しせつ「いきいきランド交野かたの」にて展示てんじされている[389][390]

郵便ゆうびん切手きって[編集へんしゅう]

旭日きょくじつ飛燕ひえん」5ぜに切手きって

終戦しゅうせん間際まぎわの1945ねん7がつ1にち文献ぶんけんによっては8がつ1にち[よう出典しゅってん]逓信ていしんいん発行はっこうした5ぜに普通ふつう切手きってさんしき戦闘せんとう飛燕ひえん」が登場とうじょうしている[391]逓信ていしんいんとは、戦時せんじ統合とうごうにより発足ほっそくした運輸うんゆ通信つうしんしょうから5がつ19にち分離ぶんりさい発足ほっそくした組織そしきである。

どう切手きって戦意せんい発揚はつよう」を目的もくてき[よう出典しゅってん]公募こうぼおこなわれた入選にゅうせん作品さくひんのひとつを改作かいさくして採用さいようされた図案ずあん[391][注釈ちゅうしゃく 33]太陽たいようをバックに飛行ひこうするほんえがかれているため「旭日きょくじつ飛燕ひえん」と俗称ぞくしょうされている。ただし印刷いんさつ物資ぶっし欠乏けつぼうにより比較的ひかくてき簡素かんそ平版へいはん印刷いんさつで、目打めうちのりはぶかれた状態じょうたい発行はっこうされた。また用紙ようし白紙はくしはい白紙はくしことなるもので印刷いんさつされたほか、緑色みどりいろだけでなく青色あおいろ印刷いんさつされたものがある。[よう出典しゅってん]

この切手きってGHQから「軍国ぐんこく主義しゅぎてき」であるとして1947ねん(昭和しょうわ22ねん)8がつ31にちづけ使用しよう禁止きんしとなった、いわゆる「追放ついほう切手きって」となった。もっとも発行はっこう当初とうしょだい三種さんしゅ便びん一般いっぱん料金りょうきんようであったが、戦後せんごインフレーションのため、使用しよう禁止きんしされた時点じてんでは実際じっさい郵便ゆうびん使用しようできないほど額面がくめん価値かちになっていた。[よう出典しゅってん]

現存げんそんする機体きたい・レプリカ[編集へんしゅう]

ほん完全かんぜん現存げんそんは、現在げんざい日本にっぽん国内こくないに1さんしき戦闘せんとうがた(キ61-IIあらため製造せいぞう番号ばんごう:川崎かわさき6117[392])が存在そんざいするのみである。この機体きたい1944ねん川崎かわさき航空機こうくうき岐阜ぎふ工場こうじょう製造せいぞうされたがた試作しさく17号機ごうきである[393]戦争せんそうちゅう、この機体きたい陸軍りくぐん航空こうくう審査しんさ所属しょぞくであり、終戦しゅうせん直後ちょくご福生ふっさ飛行場ひこうじょうアメリカぐん接収せっしゅうされ[393]、のちに日本航空にほんこうくう協会きょうかい譲渡じょうと返還へんかんされたものである[394]同機どうき戦後せんごだい規模きぼ修復しゅうふく[394]現在げんざい良好りょうこう状態じょうたい保存ほぞんされているさんしき戦闘せんとうとしては世界せかい唯一ゆいいつである。

この機体きたいは、京王けいおう百貨店ひゃっかてんの「太平洋たいへいよう戦史せんしてん[395]ゆう園地えんちでの展示てんじ航空こうくう自衛隊じえいたい岐阜ぎふ基地きちでの23年間ねんかん保管ほかんののち、1986ねんからは鹿児島かごしまけんらんまち貸与たいよされらん特攻とっこう平和へいわ会館かいかん展示てんじされていたが、2015ねん9月に岐阜ぎふけん各務原かがみはらにある川崎重工かわさきじゅうこう岐阜ぎふ工場こうじょう搬入はんにゅうされて修復しゅうふくけ、神戸こうべでの展示てんじ[396][397]2016ねん11月にふたた各務原かがみはらもどり、岐阜ぎふかかみがはら航空こうくう宇宙うちゅう博物館はくぶつかんぞう改築かいちくわるのを倉庫そうこ2018ねん3月24にちより本館ほんかんない展示てんじされている[393]機体きたい番号ばんごう従来じゅうらい、"5017"あるいは"61217"と推測すいそくされていたが、2015ねん~2016ねんにかけておこなわれた修復しゅうふくなか発見はっけんされた機体きたい各部かくぶのこるステンシルあとから、"6117"であることが判明はんめいした。

日本にっぽんにはこのほか高知こうちけんおき海中かいちゅうからげられた機体きたい京都きょうと嵐山あらしやま美術館びじゅつかんにて、胴体どうたい前部ぜんぶ主翼しゅよくけたのみという不完全ふかんぜん状態じょうたいのものが展示てんじされていたこともある[398]

また、海外かいがいではオーストリア南部なんぶのワンガラッタ航空機こうくうき復元ふくげん会社かいしゃに、川崎重工業かわさきじゅうこうぎょう現役げんえきおよびOB社員しゃいんによるボランティア・グループが協力きょうりょくして飛行ひこう可能かのうなように復元ふくげんちゅういちがたがある[399]

アメリカでは、フロリダしゅうファンタジー・オブ・フライト修復しゅうふくちのがた製造せいぞう番号ばんごう:川崎かわさき379、飛行ひこうだい68戦隊せんたいまたはだい78戦隊せんたい所属しょぞく)をることができる[400] 、ヴァージニアしゅうではジェラルド・イェイゲン(Jerald Yagen)所有しょゆうがた製造せいぞう番号ばんごう:川崎かわさき640、飛行ひこうだい64戦隊せんたい所属しょぞく)があり、同氏どうし運営うんえい軍事ぐんじ航空こうくう博物館はくぶつかん倉庫そうこ修復しゅうふくちゅうである[401]

ほかにも、ニューギニアとうのチェンデラワシわん海底かいていのこ機体きたい主翼しゅよく一部いちぶ水中すいちゅう写真しゃしん戸村とむら裕行ひろゆきによって撮影さつえいされ、それが飛燕ひえんであるとしお書房しょぼうまる編集へんしゅう鑑定かんていにより発表はっぴょうされるなど[402]いまだに太平洋たいへいよう各地かくち残骸ざんがい存在そんざいする[403]

2017ねんはいり、1970年代ねんだいパプアニューギニアジャングル発見はっけんされオーストラリアコレクター保有ほゆうしていた残骸ざんがいヤフーオークション出品しゅっぴんされた。この機体きたい倉敷くらしき会社かいしゃ経営けいえいしゃが1500まんえん落札らくさつし、11月30にち倉敷くらしきにてわたされた。当初とうしょ落札らくさつした機体きたい修復しゅうふく大戦たいせん当時とうじさんしき戦闘せんとうかかわった人々ひとびとせる予定よていであったが、時間じかんがかかりすぎ関係かんけいしゃ存命ぞんめいちゅうせることが困難こんなん判断はんだんされ、実機じっき採寸さいすんしてレプリカを制作せいさくする方向ほうこう変更へんこう[404]。2023ねん完成かんせいし、レプリカ制作せいさくった会社かいしゃ所在地しょざいちちかくである茨城いばらき空港くうこう同年どうねん9がつ9にち公開こうかいされた[405]のちにオーナーにわたされ2024ねん4がつ29より浅口あさくち[406]展示てんじ予定よてい[407]

ギャラリー[編集へんしゅう]

登場とうじょう作品さくひん[編集へんしゅう]

映画えいが[編集へんしゅう]

最後さいご帰郷ききょう
実機じっき特攻とっこうやくとして登場とうじょうする。
おれは、きみのためにこそににいく
終盤しゅうばん特攻とっこう護衛ごえいのために出撃しゅつげきするが、F6Fによってあえなく撃墜げきついされる。

漫画まんが・アニメ[編集へんしゅう]

荒野あらののコトブキ飛行ひこうたい
だい2そらぞく使用しよう。10・11ではショウト自警じけいだん使用しようしき戦闘せんとう撃墜げきついする。
戦場せんじょうまんがシリーズ
シリーズちゅう、「てつ墓標ぼひょう」「爆裂ばくれつ弾道だんどう交差点こうさてん」「紫電しでんあおとう登場とうじょうする。
飛燕ひえん独立どくりつ戦闘せんとうたい
松本まつもと良男よしおめたる空戦くうせん』を原作げんさくとした航空こうくう戦記せんきほん陸軍りくぐん航空こうくう士官しかん南方なんぽう戦線せんせん転戦てんせんする。
プルプルぷろぺら』(さく鴨川かもがわつばめ秋田あきた書店しょてん
まだ高校生こうこうせいである主人公しゅじんこう父親ちちおやからゆずけた「飛燕ひえん」エンジン搭載とうさい(いわゆる「くび飛燕ひえん」)のリバースエンジニアリングおよび飛行ひこう操縦そうじゅう目指めざシチュエーション・コメディ作品さくひん

ゲーム[編集へんしゅう]

WarThunder
プレイヤーの操縦そうじゅう機体きたいとしていちがたおついちがたかぶといちがたへいいちがたひのとがたいちがたおつ(べいぐん鹵獲ろかく)が登場とうじょうする。
艦隊かんたいこれくしょん -かんこれ-
基地きち航空こうくうたい配置はいち陸軍りくぐん戦闘せんとうという分類ぶんるいで、さんしきせん 飛燕ひえんさんしきせん 飛燕ひえんいちがたちょうさんしきせん 飛燕ひえん(飛行ひこうだい244戦隊せんたい)の名称めいしょう登場とうじょう
荒野あらののコトブキ飛行ひこうたい 大空おおぞらのテイクオフガールズ!
かくキャラクターの搭乗とうじょう可能かのう機体きたいとしていちがた登場とうじょう怪盗かいとうだんアカツキのベッグはほん本来ほんらいあいであり、搭乗とうじょうすることで能力のうりょく向上こうじょうする。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ アメリカぐんP-51、イタリアぐんMC.202おな設計せっけいである。
  2. ^ これは日本にっぽん陸軍りくぐん最後さいご制式せいしき戦闘せんとうである。なお歴史れきしぐんぞう編集へんしゅう (2010, pp. 66–67)によれば、しき戦闘せんとう制式せいしき採用さいようされていない。
  3. ^ もっともエンジンが同等どうとうとはえBf109より設計せっけいが6ねんあたらしいのであるから、さんしき戦闘せんとうほう設計せっけいすぐれているのは当然とうぜんえば当然とうぜんのことである[15]。ただしBf109はFがただい改造かいぞうほどこ面目めんぼく一新いっしんしており、そのさんしき戦闘せんとう事実じじつじょうなかった新型しんがたエンジンでの性能せいのう向上こうじょうおこなえた。くわしくはBf109参照さんしょう
  4. ^ もっとも野原のはら (2009)によれば、最終さいしゅうてきには搭載とうさいされていた川崎かわさきえきひやエンジン、ハ9-IIかぶとがまともに稼働かどうしなかったことが致命傷ちめいしょうとなった。審査しんさ担当たんとうした一人ひとりである木村きむらのぼる技術ぎじゅつ少佐しょうさは「一番いちばん印象いんしょうのこった」とし、速度そくどるし機体きたい頑丈がんじょう馬力ばりきがあり模擬もぎ空戦くうせんでは高度こうどって優位ゆういめることができた、と評価ひょうかしていた[21]
  5. ^ ふく賞金しょうきんは15,000えん。これの措置そち土井どい一任いちにんされ、おおくは国債こくさいとして岐阜ぎふ工場こうじょう設計せっけい分配ぶんぱいし、のこりは宴会えんかい使つかったという[29]
  6. ^ ただし土井どいキ28では7.6と、さらにたかいアスペクトもちいている[44]
  7. ^ これは海軍かいぐんについて言及げんきゅうした文献ぶんけんだが、いかり (1996)によれば、戦闘せんとう場合ばあい通常つうじょう7Gまでえることもとめられていた[48]。なおたいGスーツ着用ちゃくようしないパイロットがえられる限界げんかいは8G前後ぜんごとされる。
  8. ^ このとき比較ひかく対象たいしょう機種きしゅは、FM-2、F4U、F6F、P-38、P-47、P-51、P-63。
  9. ^ ただしこれは上昇じょうしょうりょく欠如けつじょふくめた評価ひょうか確実かくじつ一式いっしき戦闘せんとう上昇じょうしょう性能せいのうしき単座たんざ戦闘せんとういにされている。
  10. ^ 鈴木すずき (2012)によれば、時期じきさだかではないが、噴射ふんしゃ装置そうち合格ごうかくりつはわずか5%であったという[115]。この部分ぶぶんはデーゼル機械きかい株式会社かぶしきがいしゃ、1981、『ヂーゼル機器きき40ねん』よりの孫引まごびき。
  11. ^ 当時とうじかかみがはら航空こうくう宇宙うちゅう科学かがく博物館はくぶつかん展示てんじされていたのもの。鈴木すずき (2001, p. 133)によれば、これは2001ねん現在げんざいJIS規格きかくでは、0.5マイクロメートルもとめられているという。なお、ころがり接触せっしょくめん油膜ゆまくあつさは通常つうじょう、1マイクロメートル程度ていどであり、これでは不具合ふぐあい発生はっせい容易ようい想像そうぞうできる、としている。
  12. ^ キ61はこの段階だんかいでいまださんしき戦闘せんとうとして制式せいしきされておらず、隊員たいいんたちは機材きざいをキの61とんだ
  13. ^ 磁差修正しゅうせいすぐれた海軍かいぐんがわたのんで最終さいしゅう調整ちょうせいされていた。ただし軍刀ぐんとう拳銃けんじゅうむと方位ほういくるうという。
  14. ^ 渡辺わたなべ (2006)による。いかり (2006)によれば180たいして150
  15. ^ だい海原うなばら不時着ふじちゃくすいおこなったところで、救助きゅうじょ見込みこみはほとんどい。このため海面かいめん突入とつにゅうし、自殺じさつおこなう。これは日本にっぽんぐんでは「自爆じばく」とわれていた。
  16. ^ 1941ねんにドイツの日本にっぽん駐在ちゅうざい武官ぶかんからもたらされたもの。通常つうじょう、2編隊へんたいのロッテを2つわせた4編成へんせいをケッテとうが、日本にっぽんでは2編隊へんたい分隊ぶんたい、4編隊へんたい小隊しょうたいとする[206]現状げんじょうでは出典しゅってん不備ふび事実じじつ確認かくにんむずかしい部分ぶぶんもあるが、よりくわしくは当該とうがい項目こうもく参照さんしょう日本にっぽんについての記述きじゅつもなされている
  17. ^ 大塚おおつか (2007b)きん現代げんだい編纂へんさんかい (2001)は38出立しゅったつ渡辺わたなべ (2006)やく30到着とうちゃくとする。
  18. ^ さらに、だい244戦隊せんたい特攻とっこう援護えんご訓練くんれんおこなっている。この場合ばあい通常つうじょう武装ぶそう迷彩めいさい塗装とそう必要ひつようであり、現場げんば混乱こんらんしていたという。
  19. ^ 小林こばやし戦隊せんたいちょう体当たいあたりも射撃しゃげき同時どうじおこなわれたものである。なお、小林こばやし手記しゅきによれば、機関きかんほうは300はつ装填そうてんできるところ、たとえば50はつおさえるなどされたという。
  20. ^ 兵藤ひょうどうによれば1942 - 1943ねん生産せいさんすう不明ふめい
  21. ^ なお航空こうくう機関きかんじゅう/航空こうくう機関きかんほうは、飛行機ひこうき運動うんどうともなうGを原因げんいんとして故障こしょうこすことがある[295]。また機関きかんほう自体じたい問題もんだいのみならず、装弾そうだんきゅうだんおよび排出はいしゅつ機構きこう機体きたいへの装備そうび方法ほうほうについても問題もんだいとされる場合ばあいがある[296]。ホ103はブローニングM2じゅう機関きかんじゅうのコピー・改良かいりょうがたであり[297]機関きかんほう機構きこう自体じたい問題もんだいすくなかったようであるが、Gがかかったとききゅうだんトラブルが多発たはつしていた[298]。ただし兵藤ひょうどうしょ事情じじょうかんがみ、調子ちょうしわるくなかったのではないかとしている。
  22. ^ 本来ほんらい毎月まいつき300ちょう継続けいぞくてき輸入ゆにゅう契約けいやくであったが、ドイツと日本にっぽんあいだ交通こうつう潜水せんすいかんしかなく、輸入ゆにゅうされたのは800もんのみとなった[308]
  23. ^ 飛行ひこうちゅう、Gがかかれば機関きかんほう動作どうさ速度そくどわる。いかり (1997)によれば、最大さいだい6Gの環境かんきょうにまで配慮はいりょされたものであった。
  24. ^ ただしドイツの主力しゅりょく戦闘せんとうFw190うちつばさの20 mm機関きかんほうなども同調どうちょうしきであり、皆無かいむうわけではない[320]。ソビエトの戦闘せんとうでも普通ふつうおこなわれている装備そうび方法ほうほうであり、欧州おうしゅうではとくめずらしくはない。また、日本にっぽん海軍かいぐん使用しようしていたきゅうきゅうしき〇ミリ機銃きじゅう装填そうてん方式ほうしき都合つごうにより同調どうちょう装置そうち装着そうちゃくできなかったためプロペラ圏内けんない搭載とうさいすることはそもそも不可能ふかのうであった。
  25. ^ 渡辺わたなべ (2006)によれば20 cm、土井どい (1999)によれば18 cm。
  26. ^ 渡辺わたなべ (2006)や、『世界せかい傑作けっさく』p.39では、580 km/h。560 km/hを採用さいようしている文献ぶんけんほうおおいため、本文ほんぶんちゅうではそちらを採用さいようしている。
  27. ^ みね (2007, p. 143)は重量じゅうりょう増加ぞうかは330 kgとしているが、秋本あきもと (1989, p. 16)によれば自重じちょうで250 kg、全備ぜんびで330 kgの増加ぞうか
  28. ^ かたふち (2007, pp. 90–91)によれば、川崎かわさきないとくにこうばれていたらしい。川崎かわさきないでは「キ61マしき」とも。
  29. ^ 片岡かたおか陸軍りくぐんだい42操縦そうじゅう学生がくせい出身しゅっしんで、もと准尉じゅんい飛行ひこうれき12ねんのベテランパイロットである[338]。その試験しけん飛行ひこうちゅう事故死じこし
  30. ^ 渡辺わたなべ (2006, p. 322)では3渡辺わたなべ (2010, p. 82)では4。ただし後者こうしゃには「B-24」の文字もじ登場とうじょうしていない。
  31. ^ 日本にっぽん陸軍りくぐんの「陸軍りくぐん現用げんよう試作しさく一覧いちらんひょう」においては、略号りゃくごう(キ○○)、正式せいしき名称めいしょう形式けいしきいちがたがた)、称呼しょうこ甲乙こうおつへいひのと)のほかに、区分くぶんったらんがある。ここには「たけつよし」のほかに、「性向せいこう」「急降下きゅうこうか性向せいこう」「電波でんぱ」など区分くぶんられる[360]
  32. ^ 音速おんそく大気たいきあつ温度おんど湿度しつどによって変化へんかする。またマッハすう補正ほせい機能きのうのないこの時代じだい速度そくどけいではマッハすう0.6程度ていどさかいとして実際じっさいよりもたか数値すうちしめ傾向けいこうがある。このときのマッハすうがいくつであったかは高度こうど温度おんど速度そくどけい特性とくせいとう併記へいきされないかぎり確定かくていできない。
  33. ^ 日本にっぽん郵趣協会きょうかい (1997)によれば、原案げんあんではさんしき戦闘せんとうではなくきゅうろくしきりくおさむであった。

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  • いかり, 義朗よしろう (1996), 航空こうくうテクノロジーのたたかい 「海軍かいぐんそらわざしょう技術ぎじゅつしゃとその周辺しゅうへん人々ひとびと物語ものがたり, 光人みつひとしゃ, ISBN 4-7698-2114-X  - 1989ねん光人みつひとしゃかん、『海軍かいぐん技術ぎじゅつしゃたちの太平洋戦争たいへいようせんそう』の改題かいだい文庫ぶんこばん海軍かいぐんばんDB601である「アツタ」についてくわしいほか、防弾ぼうだんタンクようゴム艤装ぎそう風防ふうぼうガラス、ほまれ木製もくせい軍用ぐんようなどについても言及げんきゅうされている。
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  • 生野いくの, ぶんかい (1989), “3しきせん飛燕ひえん」と5しきせん空戦くうせん記録きろく”, 世界せかい傑作けっさく 陸軍りくぐんさんしき戦闘せんとう飛燕ひえん, ぶん林堂はやしどう, ISBN 4-89319-014-8  - インタビュー形式けいしき。インタビュワーは「本誌ほんし」。初出しょしゅつは『航空こうくうファン』1977ねん12がつごう
  • 和泉いずみ, ひさ (1999), “INTRODUCTION”, 飛燕ひえんしきせん / きゅうきゅうそうけい, 図解ずかい軍用ぐんようシリーズ, 2, 光人みつひとしゃ, ISBN 4-7698-0911-5 
  • 大塚おおつか, 好古こうこ (2007a), “「さんしきせん」vsべいえいどく水冷すいれい戦闘せんとう性能せいのう比較ひかく”, さんしきせん飛燕ひえん」・しきせんろく〇にはしはっしてキ一きいつ〇〇にいた大戦たいせんえきひや発動はつどう装備そうび戦闘せんとう系譜けいふ, 歴史れきしぐんぞう 太平洋たいへいよう戦史せんしシリーズ, 61, 学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ, ISBN 978-4-05-604930-5 
  • 大塚おおつか, 好古こうこ (2007b), “「さんしきせん」、「しきせん」を使用しようした戦闘せんとうたい概要がいよう”, さんしきせん飛燕ひえん」・しきせんろく〇にはしはっしてキ一きいつ〇〇にいた大戦たいせんえきひや発動はつどう装備そうび戦闘せんとう系譜けいふ, 歴史れきしぐんぞう 太平洋たいへいよう戦史せんしシリーズ, 61, 学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ, ISBN 978-4-05-604930-5 
  • 大塚おおつか, 好古こうこ (2007c), “「さんしきせん」、「しきせん」の戦歴せんれきおよびべい戦闘せんとうとの実力じつりょく比較ひかく”, さんしきせん飛燕ひえん」・しきせん, 歴史れきしぐんぞう 太平洋たいへいよう戦史せんしシリーズ キろく〇にはしはっしてキ一きいつ〇〇にいた大戦たいせんえきひや発動はつどう装備そうび戦闘せんとう系譜けいふ, 61, 学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ, ISBN 978-4-05-604930-5 
  • 押尾おしび一彦かずひこ特別とくべつ攻撃こうげきたい記録きろく 陸軍りくぐんへん光人みつひとしゃ、2005ねんISBN 978-4769812272 
  • 角田つのだ, 政司せいじ (2011), “新鋭しんえいしきせん帝都ていと上空じょうくういちまんメートルのたたかい”, 陸軍りくぐん戦闘せんとうたい わたしあいとも青春せいしゅんしてたたかった!, 光人みつひとしゃ, ISBN 978-4-7698-1494-8  - もと搭乗とうじょういん手記しゅき本書ほんしょ最終さいしゅうページによれば、初出しょしゅつ雑誌ざっしまる』に掲載けいさいされたものであるが、年次ねんじなどは明記めいきされておらず、不明ふめい
  • かたふち, 須直 (2007), “「キ61」・「キ100」月別つきべつ生産せいさんすう機体きたい番号ばんごう、「キ61」・「キ100」機体きたいべつ番号ばんごうリスト、「キ61」・「キ100」系列けいれつかくかた製造せいぞうすう機体きたい番号ばんごう”, さんしきせん飛燕ひえん」・しきせん, 歴史れきしぐんぞう 太平洋たいへいよう戦史せんしシリーズ キろく〇にはしはっしてキ一きいつ〇〇にいた大戦たいせんえきひや発動はつどう装備そうび戦闘せんとう系譜けいふ, 61, 学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ, ISBN 978-4-05-604930-5 
  • 河野こうの, 嘉之よしゆき (2009), しん紀元きげんしゃ, ISBN 978-4-7753-0529-4  - 遷音そくでの衝撃波しょうげきは発生はっせい典拠てんきょとしたが、権威けんい不足ふそく否定ひてい出来できないため、適切てきせつ文献ぶんけんをおちのほう確認かくにんうえ修正しゅうせいえをいただきたい。
  • 菊池きくち, 征男ゆきお (2007), “「さんしきせん」、「しきせん」でたたかった本土ほんど防空ぼうくうせん強者きょうしゃたち”, さんしきせん飛燕ひえん」・しきせん, 歴史れきしぐんぞう 太平洋たいへいよう戦史せんしシリーズ キろく〇にはしはっしてキ一きいつ〇〇にいた大戦たいせんえきひや発動はつどう装備そうび戦闘せんとう系譜けいふ, 61, 学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ, ISBN 978-4-05-604930-5 
  • きん現代げんだい編纂へんさんかい (2001), 新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ, ISBN 4-404-02945-4 
  • 小口おぐち, 富夫とみお (1989), “ダイムラー・ベンツDB601の国産こくさん”, 世界せかい傑作けっさく 陸軍りくぐんさんしき戦闘せんとう飛燕ひえん, ぶん林堂はやしどう, ISBN 4-89319-014-8 
  • 小林こばやし, 照彦てるひこ (2011), “飛行ひこうよんよん戦隊せんたい飛燕ひえん東京とうきょうそらやぶれたり”, 陸軍りくぐん戦闘せんとうたい わたしあいとも青春せいしゅんしてたたかった!, 光人みつひとしゃ, ISBN 978-4-7698-1494-8  - 本書ほんしょ最終さいしゅうページによれば、初出しょしゅつ雑誌ざっしまる』に掲載けいさいされたものであるが、年次ねんじなどは明記めいきされておらず、不明ふめい
  • 小山こやま, すすむ (1996), あ丶飛燕ひえん戦闘せんとうたい, 光人みつひとしゃ, ISBN 4-7698-0790-2  - ニューギニア・飛行ひこうだい68戦隊せんたいパイロットの手記しゅきかたつばさふえそうかたつばさに250kgばくだん搭載とうさいして艦船かんせん攻撃こうげき出撃しゅつげきしたこともあったらしい。
  • 小山こやま, すすむ (1999), “わがあい飛燕ひえん」とともにかざったニューギニア空戦くうせん”, 飛燕ひえんしきせん / きゅうきゅうそうけい, 図解ずかい軍用ぐんようシリーズ, 2, 光人みつひとしゃ, ISBN 4-7698-0911-5 
  • 坂本さかもと, あきら (2002), だい図解ずかい 20世紀せいき航空こうくう兵器へいきベスト100, グリーンアロー出版しゅっぱんしゃ, ISBN 4-7663-3341-1  - 軍用ぐんよう100紹介しょうかいだけでなく、軍用ぐんよう基礎きそてきなところもある程度ていど解説かいせつされている。
  • 鈴木すずき, こう (2001), 20世紀せいきのエンジン, 三樹みき書房しょぼう, ISBN 4-89522-283-7 
  • 鈴木すずき, こう (2002), エンジンのロマン, 三樹みき書房しょぼう, ISBN 4-89522-287-X  - 初出しょしゅつは1989ねん、プレジデントしゃ
  • 鈴木すずき, こう (2012), エンジンのロマン, 三樹みき書房しょぼう, ISBN 978-4-89522-593-9  - 上記じょうき新装しんそう改訂かいていばん
  • スタナウェイ, ジョン (2001), オスプレイ・ミリタリー・シリーズ 世界せかい戦闘せんとうエース, 13, だい日本にっぽん絵画かいが, ISBN 4-499-22759-3  - 日本語にほんごやくばん監修かんしゅう渡辺わたなべ洋二ようじ
  • 太平洋戦争たいへいようせんそう研究けんきゅうかい (2001), 日本にっぽんぐん戦闘せんとう, 別冊べっさつ歴史れきし読本とくほん戦記せんきシリーズ, 55, 新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ, ISBN 4-404-02781-8 
  • 田形たがた, 竹尾たけお (1991), “「飛燕ひえん」よ 決戦けっせん大空おおぞらへはばたけ”, 飛燕ひえん」よ 決戦けっせん大空おおぞらへはばたけ, 証言しょうげん昭和しょうわ戦争せんそう*リバイバル戦記せんきコレクション, 14, 光人みつひとしゃ, ISBN 4-7698-0553-5 
  • 寺田てらだ, きんゆう (1999), “現代げんだいいきづくたちの薄幸はっこう生涯しょうがい”, 飛燕ひえんしきせん / きゅうきゅうそうけい, 図解ずかい軍用ぐんようシリーズ, 2, 光人みつひとしゃ, ISBN 4-7698-0911-5 
  • 土井どい, 武夫たけお (1999), “さんしきせん/しきせん設計せっけい開発かいはつ”, 飛燕ひえんしきせん / きゅうきゅうそうけい, 図解ずかい軍用ぐんようシリーズ, 2, 光人みつひとしゃ, ISBN 4-7698-0911-5 
  • 土井どい, 武夫たけお (2002a), “わたし設計せっけいしたえきひや戦闘せんとう飛燕ひえん”, 軍用ぐんよう開発かいはつ物語ものがたり 設計せっけいしゃかためられたプロセス, 光人みつひとしゃNF文庫ぶんこ, 光人みつひとしゃ, ISBN 4-7698-2334-7  - 初出しょしゅつ雑誌ざっしまる」 1961ねん8がつごう掲載けいさいされた手記しゅきであるが本文ほんぶんちゅうでの書誌しょし情報じょうほうはより入手にゅうしゅ容易よういなこの文庫ぶんこのものを使用しようしている。
  • 土井どい, 武夫たけお (2002b), “薄命はくめいしきせん 設計せっけい秘話ひわ”, 軍用ぐんよう開発かいはつ物語ものがたり 設計せっけいしゃかためられたプロセス, 光人みつひとしゃNF文庫ぶんこ, 2, 光人みつひとしゃ, ISBN 4-7698-2347-9  - 初出しょしゅつ雑誌ざっしまる」 1976ねん4がつごう掲載けいさいされた手記しゅきであるが本文ほんぶんちゅうでの書誌しょし情報じょうほうはより入手にゅうしゅ容易よういなこの文庫ぶんこのものを使用しようしている。
  • 同朋どうほうしゃ, ed. (1989), “川崎かわさき キ-61 飛燕ひえん”, 週刊しゅうかんAircraft, 20, 同朋どうほうしゃ  - 分冊ぶんさつ百科ひゃっかの20かん原著げんちょはイギリスのAerospace Publishing Limitedによる。日本語にほんごばん監修かんしゅう佐貫さぬきまたおとこ久保田くぼた弘敏ひろとし甲乙こうおつへいひのとがabcdであらわされているなどが興味深きょうみぶかい。
  • 日本にっぽん郵趣協会きょうかい, ed. (1997), デザインべつ切手きって収集しゅうしゅうだい百科ひゃっか, 日本にっぽん郵趣出版しゅっぱん, ISBN 978-4889635430  - 当該とうがい箇所かしょ執筆しっぴつしゃ長谷川はせがわあきら
  • 野原のはら, しげる (2000), 写真しゃしんしゅう 日本にっぽん戦闘せんとう, 光人みつひとしゃ 
  • 野原のはら, しげる (2005), 日本にっぽん軍用ぐんよう事典じてん 陸軍りくぐんへん, イカロス出版いかろすしゅっぱん 
  • 野原のはら, しげる (2007a), 日本にっぽん陸海りくかいぐん爆撃ばくげき攻撃こうげき 1930-1945, ぶん林堂はやしどう, ISBN 978-4-89319-155-7 
  • 野原のはら, しげる (2007b), 日本にっぽん陸海りくかいぐん戦闘せんとう 1930-1945, ぶん林堂はやしどう, ISBN 978-4-89319-148-9 
  • 野原のはら, しげる (2009), 日本にっぽん陸軍りくぐん戦闘せんとう系譜けいふ, 枻出版しゅっぱんしゃ 
  • はやし, 貞助さだすけ (1999), “「空冷くうれい vs えきひや」エンジン性能せいのうくらべ”, 飛燕ひえんしきせん / きゅうきゅうそうけい, 図解ずかい軍用ぐんようシリーズ, 2, 光人みつひとしゃ, ISBN 4-7698-0911-5 
  • 兵藤ひょうどう, じゅうはち (2009), たんたんたたた, 光人みつひとしゃ  - 改訂かいてい文庫ぶんこばん。オリジナルは『たんたんたたた - 機関きかんじゅう近代きんだい日本にっぽん』として、四谷よつやラウンドより1998に発売はつばいされたもの。
  • まる編集へんしゅう (1999), 飛燕ひえんしきせん / きゅうきゅうそうけい, 図解ずかい軍用ぐんようシリーズ, 2, 光人みつひとしゃ, ISBN 4-7698-0911-5 
  • 三井みつい, 一郎いちろう (1989), 世界せかい傑作けっさく 陸軍りくぐんさんしき戦闘せんとう飛燕ひえん, ぶん林堂はやしどう, ISBN 4-89319-014-8 
  • みね, 文三ぶんぞう (2007), “川崎かわさき航空機こうくうき戦闘せんとう開発かいはつ系譜けいふと「さんしきせん」・「キ100」の誕生たんじょう だい1 - 10しょう”, さんしきせん飛燕ひえん」・しきせんろく〇にはしはっしてキ一きいつ〇〇にいた大戦たいせんえきひや発動はつどう装備そうび戦闘せんとう系譜けいふ, 歴史れきしぐんぞう 太平洋たいへいよう戦史せんしシリーズ, 61, 学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ, ISBN 978-4-05-604930-5 
  • 松崎まつざき, 豊一とよかず; 鴨下かもした, しめせけい (2004), 図説ずせつ航空機こうくうき系譜けいふ , グランプリ出版しゅっぱん 
  • 松代まつだい, 守弘もりひろ (2007), “検証けんしょう1 だいいち大戦たいせん ドイツ戦闘せんとう発達はったつ”, ドイツ空軍くうぐんちょんふみ, 歴史れきしぐんぞう だい大戦たいせん欧州おうしゅう戦史せんしシリーズ, 26, 学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ, ISBN 978-4-05-604789-9 
  • まる編集へんしゅう, ed. (2000), はやぶさ/鍾馗しょうき/きゅうななせん, 図解ずかい軍用ぐんようシリーズ, 12, 光人みつひとしゃ, ISBN 4-7698-0921-2  - はやぶさ鍾馗しょうきさい高速度こうそくど参考さんこうとした。
  • 矢吹やぶき, 明紀あきのり; 市ヶ谷いちがや, ハジメ (2011), くらべる飛行機ひこうき, 東京書籍とうきょうしょせき, ISBN 978-4-487-80566-2  - さん資料しりょうちか文献ぶんけんであるが、日本にっぽんぐん戦闘せんとう生産せいさんすう一般いっぱん認識にんしきとして参照さんしょうした。ちなみにこの文献ぶんけんではさんしき戦闘せんとうは2,783しき戦闘せんとうは398せつっている。
  • 歴史れきしぐんぞう編集へんしゅう (2005), 日本にっぽん陸軍りくぐん軍用ぐんようパーフェクトガイド 1910 - 1945, 学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ  - 著者ちょしゃめい表示ひょうじ文献ぶんけん記述きじゅつされているもの、ママである。
  • 歴史れきしぐんぞう編集へんしゅう (2010), 決定けっていばん だい大戦たいせん 戦闘せんとうガイド, 学研がっけんパブリッシング, ISBN 978-4-05-404647-4  - 著者ちょしゃめい表示ひょうじ文献ぶんけん記述きじゅつされているもの、ママである。
  • 歴史れきしぐんぞう編集へんしゅう (2011), 決定けっていばん 日本にっぽん陸軍りくぐん, 太平洋戦争たいへいようせんそうスペシャル, 7, 学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ, ISBN 978-4056062205  - 基本きほんてきには2005ねん文献ぶんけん載録さいろくであるが、調査ちょうさ都合つごうじょう一部いちぶにはこちらの文献ぶんけんもちいた。2005ねん文献ぶんけんもとにした記述きじゅつ検証けんしょうのためにこちらをもちいていただいても、おそらく問題もんだいい。
  • 渡辺わたなべ, 洋二ようじ (1999), 陸軍りくぐん 実験じっけん戦闘せんとうたい - られざるエリート組織そしき、かくたたかえり, グリーンアロー, ISBN 978-4766332896 
  • 渡辺わたなべ, 洋二ようじ (2002a), “くツバメ”, はるかなるしゅんつばさ, ISBN 4-16-724911-1  - この部分ぶぶん初出しょしゅつ月刊げっかんまる」 1985ねん4がつごう
  • 渡辺わたなべ, 洋二ようじ (2002b), “日本にっぽん戦闘せんとう身内みうちのライバルを比較ひかくする”, はるかなるしゅんつばさ, ISBN 4-16-724911-1  - この部分ぶぶん初出しょしゅつ月刊げっかんまる」 1989ねん11がつごう
  • 渡辺わたなべ, 洋二ようじ (2006), えきひや戦闘せんとう飛燕ひえんにちどく合体がったい銀翼ぎんよく, 文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう, ISBN 4-16-724914-6  - 朝日あさひソノラマ 1998 『えきひや戦闘せんとう飛燕ひえん」』 の加筆かひつ改正かいせい文庫ぶんこばん。なお、それよりさらに以前いぜんに、サンケイ出版しゅっぱん 1983ねん『「飛燕ひえん苦闘くとうさんしき戦闘せんとう』としても出版しゅっぱんされている。
  • Francillon, Rene (1987), Japanese Aircraft of the Pacific War, Naval Inst Pr, ISBN 978-0870213137  - 欧米おうべい日本にっぽん研究けんきゅう権威けんい、ルネ・フランクリン著書ちょしょ派生はせいがた記述きじゅつするさい参考さんこうにした。
  • 渡辺わたなべ, 洋二ようじ (2010), “生産せいさん戦力せんりょくむすもの”, そら技術ぎじゅつ - 設計せっけい生産せいさん戦場せんじょう最前線さいぜんせん, 光人みつひとしゃ, ISBN 978-4769826354  - 川崎かわさきおよび陸軍りくぐん航空こうくうたかしテストパイロットに焦点しょうてんてた文献ぶんけん初出しょしゅつは『航空こうくうファン』2004ねん8がつごうおよび9がつごう
  • ロビン・L・リエリー『べいぐんから沖縄おきなわ特攻とっこう作戦さくせん小田部おたべ哲哉てつやわけ)、並木なみき書房しょぼう、2021ねんISBN 978-4890634125 
  • その、ベアリングについての基礎きそてき教科書きょうかしょなんさつ参考さんこうとしたが、直接的ちょくせつてき出典しゅってんとしてはもちいていないので割愛かつあいする。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]