川崎 かわさき キ61 三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 「飛燕 ひえん 」
三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き (さんしきせんとうき)「飛燕 ひえん 」(ひえん)は第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 時 どき の大日本帝国 だいにっぽんていこく 陸軍 りくぐん の戦闘 せんとう 機 き である。開発 かいはつ ・製造 せいぞう は川崎 かわさき 航空機 こうくうき が行 おこな い、1943年 ねん (昭和 しょうわ 18年 ねん )に制式 せいしき 採用 さいよう された。設計 せっけい 主務 しゅむ 者 しゃ は土井 どい 武夫 たけお 、副 ふく 主任 しゅにん は大和田 おおわだ 信 しん である。
当時 とうじ の日本 にっぽん で唯一 ゆいいつ の量産 りょうさん 液 えき 冷 ひや 戦闘 せんとう 機 き であり、ドイツ の液 えき 冷 ひや 航空 こうくう エンジンDB 601 を国産 こくさん 化 か したハ40 を搭載 とうさい した。防弾 ぼうだん ・武装 ぶそう のない試作 しさく 機 き は最高 さいこう 速度 そくど 590 km/h を発揮 はっき した。主翼 しゅよく より後部 こうぶ の機体 きたい 下部 かぶ にラジエーター・ダクトを搭載 とうさい し、機体 きたい の空気 くうき 抵抗 ていこう 低下 ていか と冷却 れいきゃく 効率 こうりつ の両立 りょうりつ を図 はか った[注釈 ちゅうしゃく 1] 。
搭載 とうさい エンジンのハ40が生産 せいさん ・整備 せいび ともに苦労 くろう が多 おお く、常 つね に故障 こしょう に悩 なや まされた戦闘 せんとう 機 き としても知 し られる。エンジンの生産 せいさん 遅延 ちえん から、製造 せいぞう してもエンジンを搭載 とうさい することができない、いわゆる首 くび 無 な しの機体 きたい が工場 こうじょう 内 ない に大量 たいりょう に並 なら ぶ異常 いじょう 事態 じたい も発生 はっせい した。このため、星 ほし 型 がた 空冷 くうれい エンジンハ112-II を急遽 きゅうきょ 搭載 とうさい した五 ご 式 しき 戦闘 せんとう 機 き [注釈 ちゅうしゃく 2] が後 のち に生産 せいさん された。
所沢 ところざわ 航空 こうくう 発祥 はっしょう 記念 きねん 館 かん のハ40。ハ40は倒立 とうりつ エンジンであるが、画像 がぞう ではエンジンの上下 じょうげ が逆 ぎゃく に展示 てんじ されている
三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き は太平洋戦争 たいへいようせんそう に実戦 じっせん 投入 とうにゅう された日本 にっぽん 軍 ぐん 戦闘 せんとう 機 き の中 なか では唯一 ゆいいつ の液 えき 冷 ひや エンジン 機 き である。搭載 とうさい エンジンには、当時 とうじ 同盟 どうめい 国 こく であったドイツ国 こく のダイムラー・ベンツ 社 しゃ が開発 かいはつ した離 はなれ 昇 のぼり 出力 しゅつりょく 1,100馬力 ばりき のDB 601 A を川崎 かわさき がライセンス生産 せいさん したハ40 を採用 さいよう した。空冷 くうれい エンジン が主力 しゅりょく であった日本 にっぽん 軍機 ぐんき の中 なか にあって、本 ほん 機 き の外形 がいけい は水冷 すいれい エンジン装備 そうび 機 き 特有 とくゆう の細身 ほそみ な形状 けいじょう を持 も つ。開発 かいはつ 者 しゃ の土井 どい によれば、出力 しゅつりょく が同 おな じ場合 ばあい 、液 えき 冷 ひや 戦闘 せんとう 機 き の抵抗 ていこう 面積 めんせき は空冷 くうれい 戦闘 せんとう 機 き に比 くら べて20 % 程度 ていど も減少 げんしょう し、速度 そくど は6 %向上 こうじょう するなど空 そら 力 りょく 的 てき にも優位 ゆうい な形状 けいじょう であった。ただしラジエーター を要 よう する分 ぶん 重量 じゅうりょう が増 ま すのが欠点 けってん である。
搭載 とうさい エンジンと機体 きたい 形状 けいじょう から「和製 わせい メッサー 」とも呼 よ ばれたが、機体 きたい 設計 せっけい は川崎 かわさき 設計 せっけい 陣 じん が独自 どくじ に行 い ったものであり、左右 さゆう 一 いち 体型 たいけい の主翼 しゅよく と胴体 どうたい の接合 せつごう 法 ほう 、ラジエーター配置 はいち 、主 しゅ 脚 あし 構造 こうぞう などがBf109と大 おお きく異 こと なり、共通 きょうつう 点 てん はエンジンと後 のち に本 ほん 機 き の一部 いちぶ が装備 そうび したMG 151/20 機関 きかん 砲 ほう 程度 ていど である。
1940年 ねん 2月 がつ に陸軍 りくぐん が川崎 かわさき にハ40を使用 しよう した軽 けい 戦闘 せんとう 機 き キ61の試作 しさく を指示 しじ 、12月から設計 せっけい が開始 かいし された。1941年 ねん 12月 に初 はつ 飛行 ひこう したキ61試作 しさく 機 き は591 km/hという「全 まった くの予想 よそう 外 がい 」の最 さい 高速度 こうそくど を発揮 はっき し、総合 そうごう 評価 ひょうか でも優秀 ゆうしゅう と判定 はんてい されて直 ただ ちに制式 せいしき 採用 さいよう が決定 けってい された。しかし、DB 601は当時 とうじ の日本 にっぽん の基礎 きそ 工業 こうぎょう 力 りょく や資源 しげん 欠乏 けつぼう から生産 せいさん が難 むずか しい精緻 せいち な構造 こうぞう のエンジンであったこと、日本 にっぽん の整備 せいび 兵 へい は液 えき 冷 ひや エンジンに不慣 ふな れで整備 せいび 作業 さぎょう そのものも難 むずか しいなど運用 うんよう 側 がわ にも負担 ふたん となったことなどから、後々 あとあと まで生産 せいさん ・運用 うんよう ともに問題 もんだい が多 おお く発生 はっせい した。
愛称 あいしょう ・呼称 こしょう [ 編集 へんしゅう ]
試作 しさく 名称 めいしょう であるキ番号 ばんごう はキ61 であった。制式 せいしき 名称 めいしょう である三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き という呼称 こしょう は皇紀 こうき 2603 年 とし (1943年 ねん (昭和 しょうわ 18年 ねん ))に制式 せいしき 採用 さいよう されたことに由来 ゆらい する。制式 せいしき 制定 せいてい は渡辺 わたなべ (2006 , p. 153)によれば1943年 ねん (昭和 しょうわ 18年 ねん )6月 がつ 、古 こ 峰 みね (2007 , p. 143)によれば1943年 ねん (昭和 しょうわ 18年 ねん )10月 がつ 9日 にち 。実際 じっさい には1942年 ねん (昭和 しょうわ 17年 ねん )中 ちゅう に量産 りょうさん を開始 かいし しているが、「二 に 式 しき 」には「二 に 式 しき 単座 たんざ 戦闘 せんとう 機 き 」(鍾馗 しょうき )と「二 に 式 しき 複 ふく 座 ざ 戦闘 せんとう 機 き 」(屠 ほふ 龍 りゅう )がすでにあり、煩雑 はんざつ となるため1943年 ねん 制式 せいしき 化 か とされたとされる[要 よう 出典 しゅってん ] 。
愛称 あいしょう は飛燕 ひえん (ひえん)、部隊 ぶたい での呼称 こしょう ・略称 りゃくしょう は三 さん 式 しき 戦 せん 、ロクイチ 、「キのロクイチ」、「ロクイチ戦 せん 」などがある。川崎 かわさき 社内 しゃない では「ろくいち」と呼 よ ばれたが、二型 にがた 登場 とうじょう 後 ご は「いちがた」「にがた」と呼 よ ばれるようになった。
愛称 あいしょう の「飛燕 ひえん 」は1944年 ねん 後半 こうはん に発表 はっぴょう されたとする文献 ぶんけん もあるが、1945年 ねん 1月 がつ 16日 にち 付 づけ の朝日新聞 あさひしんぶん において本土 ほんど 防空 ぼうくう に当 あ たっていた飛行 ひこう 第 だい 244戦隊 せんたい (後述 こうじゅつ )の活躍 かつやく を報 ほう じる記事 きじ で発表 はっぴょう されている。その記事 きじ では「その軽妙 けいみょう 俊敏 しゅんびん さは、あたかも青空 あおぞら を截 た って飛 と ぶ燕 つばめ にも似 に ているところから「飛燕 ひえん 」と呼 よ ぶことになった」 としている。また三井 みつい (1989 , p. 20)は、高 こう アスペクト比 ひ を持 も つ細長 ほそなが い主翼 しゅよく を持 も つ、独特 どくとく のスタイルに由来 ゆらい すると解説 かいせつ している。なお碇 いかり (2006 , p. 127)によれば、1945年 ねん 1月 がつ の時点 じてん で川崎 かわさき 航空機 こうくうき の年表 ねんぴょう に愛称 あいしょう が見 み られる。
連合 れんごう 軍 ぐん におけるコードネーム はTony (トニー)であった。これはアメリカ ではイタリア系 けい 移民 いみん の典型 てんけい 的 てき な名前 なまえ とされ、当初 とうしょ 、アメリカ軍 ぐん がさしたる根拠 こんきょ なく本 ほん 機 き を日本 にっぽん の同盟 どうめい 国 こく であるイタリア空軍 くうぐん のマッキ MC.202 のコピー機 き と誤認 ごにん したことに因 ちな んで名 な づけられた。
本 ほん 機 き の印象 いんしょう 、特 とく にファストバック型 がた キャノピーがBf109に類似 るいじ すること、および同 どう 系統 けいとう のエンジンを搭載 とうさい していたことから日本 にっぽん でも「和製 わせい メッサー 」というあだ名 な があった。
総 そう 生産 せいさん 機 き 数 すう [ 編集 へんしゅう ]
製造 せいぞう 中 ちゅう の三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き
総 そう 生産 せいさん 機 き 数 すう は各 かく 型 かた 合 あ わせておおよそ3,150機 き であるが、うち275機 き の機体 きたい が五 ご 式 しき 戦闘 せんとう 機 き (キ100)に転用 てんよう されたため、三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き としての実数 じっすう はこれよりやや少 すく なく、2,875機 き 前後 ぜんこう となる。総 そう 生産 せいさん 数 すう は諸説 しょせつ を列挙 れっきょ する。なお二 に 型 がた は通説 つうせつ では増加 ぞうか 試作 しさく 機 き 30機 き および量産 りょうさん 型 がた 374機 き だが、古 こ 峰 みね (2007 , p. 156)は413機 き +αとする。
片 かた 渕 ふち (2007 , pp. 90–91)によれば、各 かく 型 かた ・試作 しさく 型 がた 合 あ わせて3,153機 き 。
古 こ 峰 みね (2007 , p. 156)によれば、3,153機 き +α あるふぁ 。
秋本 あきもと (1999 , pp. 120–121)によれば、3,148機 き かこれよりやや多 おお い。
土井 どい (2002a , p. 35)によれば、I型 がた だけで2,750機 き 。これにII型 がた の8機 き と二 に 型 がた (II-改 あらため )の30+374機 き (五 ご 式 しき 戦闘 せんとう 機 き に改造 かいぞう されたものを含 ふく む)を加 くわ えると3,162機 き 。
一般 いっぱん に中島 なかじま 飛行機 ひこうき の一式 いっしき 戦闘 せんとう 機 き が5,751機 き 、同 おな じく中島 なかじま の四 よん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き が約 やく 3,500機 き 生産 せいさん されたとされているので、その発動 はつどう 機 き の生産 せいさん に多大 ただい な問題 もんだい を抱 かか えながらも、太平洋戦争 たいへいようせんそう 世代 せだい の陸軍 りくぐん 戦闘 せんとう 機 き としては第 だい 三 さん 位 い の生産 せいさん 機 き 数 すう を誇 ほこ る(ただし九 きゅう 七 なな 式 しき 戦闘 せんとう 機 き も1943年 ねん までに通算 つうさん 3,386機 き が生産 せいさん されており、それも含 ふく めるなら四 よん 位 い である。なお、旧 きゅう 日本 にっぽん 軍 ぐん 全体 ぜんたい では海軍 かいぐん の零 れい 式 しき 艦上 かんじょう 戦闘 せんとう 機 き が10,400機 き 程度 ていど 生産 せいさん されており、これが一 いち 位 い となる)。
川崎 かわさき は複数 ふくすう の工場 こうじょう を持 も っており、機体 きたい は岐阜 ぎふ 工場 こうじょう 、エンジンは明石 あかし 工場 こうじょう で生産 せいさん されていた。
開発 かいはつ の経緯 けいい と機体 きたい 内部 ないぶ 構造 こうぞう [ 編集 へんしゅう ]
三 さん 式 しき 戦 せん 一 いち 型 がた (キ61-I)
1940年 ねん 2月 がつ 、陸軍 りくぐん は川崎 かわさき に対 たい し、ハ40を使用 しよう した重 じゅう 戦闘 せんとう 機 き キ60と軽 けい 戦闘 せんとう 機 き キ61 の試作 しさく を指示 しじ した。キ60の設計 せっけい は1940年 ねん 2月 がつ から、キ61の設計 せっけい は12月から開始 かいし された。設計 せっけい は両機 りょうき ともに土井 どい 武夫 たけお が担当 たんとう した。キ60はBf109 Eと互角 ごかく 以上 いじょう の性能 せいのう を示 しめ したものの[注釈 ちゅうしゃく 3] 、他 た に合同 ごうどう 試験 しけん された二 に 式 しき 単座 たんざ 戦闘 せんとう 機 き の方 ほう が有望 ゆうぼう であり、なによりキ61の方 ほう が良好 りょうこう な性能 せいのう を発揮 はっき していたため、制式 せいしき 化 か は見送 みおく られている。
キ61の設計 せっけい コンセプトは、「航空 こうくう 兵器 へいき 研究 けんきゅう 方針 ほうしん 」における重 じゅう 戦 せん ・軽 けい 戦 せん のカテゴリにこだわらない万能 ばんのう 戦闘 せんとう 機 き で、「中 ちゅう 戦 せん (中 ちゅう 戦闘 せんとう 機 き )」とも呼 よ ばれた。当時 とうじ の陸軍 りくぐん は、軽 けい 単座 たんざ 戦闘 せんとう 機 き に旋回 せんかい 力 りょく と上昇 じょうしょう 力 りょく を求 もと め、さらに12.7 mm機関 きかん 砲 ほう の搭載 とうさい も要求 ようきゅう したことから、必然 ひつぜん 的 てき に陸軍 りくぐん 内 ない の議論 ぎろん が発生 はっせい したともされる。副 ふく 主任 しゅにん の大和田 おおわだ が「戦闘 せんとう 機 き は総合 そうごう 性能 せいのう で敵 てき に勝 か っておらねばならず、軽 けい 戦 せん ・重 じゅう 戦 せん で分 わ けるのは不合理 ふごうり だ」と語 かた り、またこれが川崎 かわさき の開発 かいはつ チーム共通 きょうつう の理念 りねん であったともしている。そもそも開発 かいはつ チームが「中 ちゅう 戦 せん 」と呼 よ んでいたとする文献 ぶんけん もあるなど、川崎 かわさき 側 がわ が発祥 はっしょう であるともされる。
土井 どい 自身 じしん は陸軍 りくぐん の「軽 けい 戦闘 せんとう 機 き 」思想 しそう にこだわらず、キ61を理想 りそう 的 てき な戦闘 せんとう 機 き にまとめあげようとしたと語 かた っている。古 こ 峰 みね (2007 , p. 116)はこの考 かんが えの裏 うら に、かつて土井 どい が設計 せっけい を担当 たんとう し、高速 こうそく 性 せい を追求 ついきゅう した軽 けい 戦闘 せんとう 機 き キ28 が、1939年 ねん の競争 きょうそう 試作 しさく で旋回 せんかい 性 せい が劣 おと るとしてキ27(九 きゅう 七 なな 式 しき 戦闘 せんとう 機 き )に敗 やぶ れた経緯 けいい も影響 えいきょう したとする。土井 どい は自信 じしん 作 さく であったキ28について「当時 とうじ の陸軍 りくぐん が一撃 いちげき 離脱 りだつ 戦法 せんぽう を知 し っていれば」と述 の べており[注釈 ちゅうしゃく 4] 、一 いち 度 ど は九 きゅう 五 ご 式 しき 戦闘 せんとう 機 き の改良 かいりょう 版 ばん とも言 い える降着 こうちゃく 装置 そうち を引 ひ き込 こ み式 しき とし最大 さいだい 速度 そくど 480 km/hに達 たっ する高速 こうそく の複葉 ふくよう 機 き を計画 けいかく したこともあった。しかしこれはその後 ご 廃案 はいあん になり、「三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 」案 あん に変更 へんこう されている。1940年 ねん 9月 がつ 頃 ごろ には細部 さいぶ 設計 せっけい が開始 かいし された。なお古 こ 峰 みね (2007 , pp. 118, 132)は、開発 かいはつ 初期 しょき の1940年 ねん 5月 がつ 頃 ごろ から土井 どい はキ61を空冷 くうれい エンジン搭載 とうさい 機 き とする可能 かのう 性 せい に言及 げんきゅう したとしている。
木型 きがた 審査 しんさ は1941年 ねん 6月 がつ に行 おこな われ、試作 しさく 機 き は1941年 ねん 12月に完成 かんせい し初 はつ 飛行 ひこう を行 おこな った。キ61はキ60と同 どう 系統 けいとう のエンジンを使用 しよう しており、陸軍 りくぐん 側 がわ もあまり期待 きたい していなかったとする資料 しりょう もあるが、この審査 しんさ ではキ60やBf109Eの速度 そくど を30 km/h上回 うわまわ る590 km/hを発揮 はっき した。これは設計 せっけい 者 しゃ の土井 どい すらも全 まった く予想 よそう 外 がい の高性能 こうせいのう だった。なおこの時期 じき の陸軍 りくぐん 戦闘 せんとう 機 き は、軽 けい 戦闘 せんとう 機 き である一式 いっしき 戦闘 せんとう 機 き は495 km/hから515 km/h、重 じゅう 戦闘 せんとう 機 き である二 に 式 しき 単座 たんざ 戦闘 せんとう 機 き (制式 せいしき 採用 さいよう 前 まえ )でも580 km/hの最 さい 高速度 こうそくど しかもたなかった。このため1942年 ねん 10月 がつ には毎日 まいにち 航空 こうくう 賞 しょう が、1943年 ねん 12月には陸軍 りくぐん 技術 ぎじゅつ 有功 ゆうこう 賞 しょう が、土井 どい と大和田 おおわだ に贈 おく られた[注釈 ちゅうしゃく 5] 。
1936年 ねん 、ドイツで液 えき 冷 ひや 1,000馬力 ばりき 級 きゅう 航空 こうくう エンジン、DB 601が開発 かいはつ ・生産 せいさん された。これは過 か 給 きゅう 器 き に流体 りゅうたい 継手 つぎて を採用 さいよう し、キャブレター ではなく燃料 ねんりょう 噴射 ふんしゃ 装置 そうち を採用 さいよう するなど先進 せんしん 的 てき な機構 きこう を備 そな えたエンジンであった。日本 にっぽん 陸海 りくかい 軍 ぐん はこのエンジンに興味 きょうみ を示 しめ し、海軍 かいぐん 側 がわ は愛知時計電機 あいちとけいでんき (後 のち に航空機 こうくうき 部門 ぶもん が愛知 あいち 航空機 こうくうき として独立 どくりつ )が、また1939年 ねん 1月 がつ には川崎 かわさき 航空機 こうくうき が、各々 おのおの 50万 まん 円 えん でライセンスを購入 こうにゅう し、日本 にっぽん 国内 こくない での生産 せいさん を行 おこな うこととなった。
川崎 かわさき の鋳 い 谷 たに 社長 しゃちょう が土井 どい に語 かた った談 だん として、アドルフ・ヒトラー はこの購入 こうにゅう に関 かん し「日本 にっぽん 政府 せいふ として購入 こうにゅう すれば50万 まん 円 えん で済 す むのに」なる旨 むね の言 げん を発 はっ し、また日本 にっぽん の陸海 りくかい 軍 ぐん は敵同士 かたきどうし かと笑 わら ったともされる。渡辺 わたなべ (2006) によれば当時 とうじ の陸海 りくかい 軍 ぐん の反目 はんもく がエスカレートしており、別々 べつべつ の購入 こうにゅう に至 いた った。また林 はやし (1999) によれば海軍 かいぐん と陸軍 りくぐん は購入 こうにゅう に関 かん して別々 べつべつ に交渉 こうしょう を続 つづ けており、在 ざい ベルリン海軍 かいぐん 事務所 じむしょ から在 ざい ベルリン日本 にっぽん 大使館 たいしかん 陸軍 りくぐん 航空 こうくう 補佐 ほさ 官 かん 加藤 かとう 敏雄 としお 中佐 ちゅうさ に、既 すで に海軍 かいぐん 側 がわ が制作 せいさく 権 けん 購入 こうにゅう の交渉 こうしょう を始 はじ めたので手 て を引 ひ いてくれとの電話 でんわ が有 あ ったとの逸話 いつわ が紹介 しょうかい されている。また碇 いかり (2006) には、ダイムラーベンツ社 しゃ が道徳 どうとく 上 じょう 同 おな じ国 こく に二 に 度 ど もライセンス料 りょう を払 はら わせる訳 わけ にはいかないと一旦 いったん 辞退 じたい を申 もう し出 で たことが記述 きじゅつ されている。
以上 いじょう はライセンス購入 こうにゅう に際 さい し陸海 りくかい 軍 ぐん の対立 たいりつ の定説 ていせつ として語 かた られている顛末 てんまつ であるが、古 こ 峰 みね 文三 ぶんぞう は以下 いか のような説 せつ を著述 ちょじゅつ している。DB 600(601ではない)は、愛知 あいち がライセンスを購入 こうにゅう したものの、愛知 あいち が陸軍 りくぐん にエンジンを供給 きょうきゅう することが許 ゆる されていた。またDB 601については愛知 あいち ・川崎 かわさき とも1社 しゃ のみで全 ぜん 軍 ぐん に供給 きょうきゅう できるだけの生産 せいさん 力 りょく が期待 きたい できず、2社 しゃ で生産 せいさん に当 あ たるのはやむを得 え なかった。2社 しゃ で生産 せいさん する以上 いじょう ライセンス生産 せいさん 料 りょう も2社 しゃ 分 ぶん 支払 しはら うのが契約 けいやく 上 じょう 当然 とうぜん であり、また他 た の発動 はつどう 機 き も陸海 りくかい 軍 ぐん で共用 きょうよう している状況 じょうきょう から、DB 601の経緯 けいい のみに注目 ちゅうもく して対立 たいりつ の根拠 こんきょ とすることはし難 がた いとしている。
ライセンス生産 せいさん にあたり、ドイツから日本 にっぽん に輸入 ゆにゅう されたのは離 はなれ 昇 のぼり 出力 しゅつりょく 1,175馬力 ばりき のDB 601Aaで、燃料 ねんりょう 噴射 ふんしゃ 装置 そうち の特許 とっきょ を持 も つボッシュ 社 しゃ がライセンス生産 せいさん を認 みと めないなどのトラブルがあったものの、1940年 ねん 12月、ハ40 は完成 かんせい を見 み た。量産 りょうさん 型 がた の完成 かんせい は1941年 ねん 7月 がつ 、書類 しょるい 上 じょう では同 どう 9月 がつ である。
なお、川崎 かわさき 側 がわ の資料 しりょう など、一般 いっぱん には試作 しさく 機 き には最初 さいしょ からハ40が搭載 とうさい されていたと言 い われているが、審査 しんさ を担当 たんとう した荒蒔 あらまき 義次 よしじ らは、3号機 ごうき までは輸入 ゆにゅう したDB 601Aaを搭載 とうさい していたと証言 しょうげん している。また、ハ40を搭載 とうさい した4号機 ごうき からは過 か 給 きゅう 器 き の不調 ふちょう が多 おお かった。量産 りょうさん 型 がた 第 だい 一 いち 号機 ごうき は1942年 ねん 8月 がつ に完成 かんせい した。
液 えき 冷 ひや エンジンを搭載 とうさい したため機首 きしゅ が長 なが く、地上 ちじょう での前方 ぜんぽう 視界 しかい は良 よ いものではなかったとする文献 ぶんけん もある。
主翼 しゅよく は全幅 ぜんはば 12 m、面積 めんせき 20 m2 で、アスペクト比 ひ は7.2という高 たか い比率 ひりつ の翼 つばさ 形 がた を採用 さいよう した。当時 とうじ の戦闘 せんとう 機 き はアメリカ軍 ぐん の戦闘 せんとう 機 き P-51B でアスペクト比 ひ は5.9、Bf109Eで6.0、零 れい 式 しき 艦上 かんじょう 戦闘 せんとう 機 き は6.4であり、日本 にっぽん 陸軍 りくぐん が運用 うんよう していた他 ほか の戦闘 せんとう 機 き 、一式 いっしき 戦闘 せんとう 機 き 、二 に 式 しき 単座 たんざ 戦闘 せんとう 機 き 、四 よん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き も6.0 - 6.08程度 ていど となっている。これらと比較 ひかく して三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き の主翼 しゅよく はアスペクト比 ひ が高 たか い[注釈 ちゅうしゃく 6] 。これは翼 つばさ 面 めん 荷重 かじゅう を低 ひく めるよりも翼 つばさ 幅 はば 荷重 かじゅう を低 ひく めた方 ほう が、高速 こうそく 性能 せいのう ・運動 うんどう 性能 せいのう 、および高々 たかだか 度 ど 性能 せいのう を確保 かくほ できるという土井 どい の設計 せっけい 思想 しそう によるものである。長大 ちょうだい な翼 つばさ 幅 はば からくるロール性能 せいのう の低下 ていか は、補助 ほじょ 翼 つばさ の設計 せっけい でカバーした。翼 つばさ 面 めん 荷重 におも は147 kg/m2 で、一式 いっしき 戦闘 せんとう 機 き の100 kg/m2 よりは大 おお きいが、二 に 式 しき 単座 たんざ 戦闘 せんとう 機 き の171 kg/m2 よりは小 ちい さい値 ね である。
またこの主翼 しゅよく の主 しゅ 桁 けた は左右 さゆう 一体 いったい 構造 こうぞう で作 つく られた頑丈 がんじょう なものであった。当時 とうじ 、主 しゅ 桁 けた はI型 がた 断面 だんめん のものが多 おお く用 もち いられていたが、三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き のものは凵型のアルミ合金 ごうきん を二 に 重 じゅう にしたものを前後 ぜんご のウェブで上下 じょうげ に組 く み合 あ わせ箱 ばこ 形 がた としたもので、フランジ部 ぶ は結合 けつごう された主翼 しゅよく 小骨 こぼね のものも合 あ わせて三 さん 重 じゅう となっており、その上 うえ 内部 ないぶ にもトラス が組 く み込 こ まれるという頑丈 がんじょう なもので、荷重 かじゅう 試験 しけん では総 そう 重量 じゅうりょう 2,950 kgと仮定 かてい して主翼 しゅよく に15 Gをかけても破壊 はかい されず、それ以降 いこう の試験 しけん を中止 ちゅうし した。強度 きょうど 過大 かだい であることから性能 せいのう 向上 こうじょう のために主翼 しゅよく の軽量 けいりょう 化 か が検討 けんとう されたが、キ61は既 すで に十分 じゅうぶん な性能 せいのう を示 しめ していたために見送 みおく られた[注釈 ちゅうしゃく 7] 。三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き は当初 とうしょ 計画 けいかく の2,950 kgから、最大 さいだい で二 に 型 がた の3,800 kgにまで総 そう 重量 じゅうりょう が増加 ぞうか しているが、この面 めん での主翼 しゅよく の設計 せっけい 変更 へんこう は必要 ひつよう が無 な く、生産 せいさん が滞 とどこお ることはなかった。なお、後方 こうほう にはT型 かた またはL型 がた をした補助 ほじょ 桁 けた も設置 せっち されている。
しかし本 ほん 機 き を受領 じゅりょう して間 あいだ もない244戦隊 せんたい において、訓練 くんれん 飛行 ひこう 中 ちゅう だった村岡 むらおか 機 き の主翼 しゅよく にシワが入 はい り、メーカーである川崎 かわさき の手 て によって、主翼 しゅよく 外 がい 板 いた を剥 は がして小骨 こぼね を補強 ほきょう する改修 かいしゅう を、約 やく 2週間 しゅうかん かけ全 ぜん 機 き が受 う けたという[49] 。
全幅 ぜんぷく の広 ひろ い主翼 しゅよく を用 もち いたことから、主 しゅ 脚 あし のスパンは4.05 mと降着 こうちゃく に際 さい して十分 じゅうぶん に安定 あんてい したものであり、荒地 あれち での運用 うんよう に耐 た えられるものであった。そのため胴体 どうたい 下部 かぶ は引 ひ き込 こ まれた主 しゅ 脚 あし のタイヤと降着 こうちゃく 装置 そうち で占拠 せんきょ されることなく、燃料 ねんりょう タンクやラジエーターの艤装 ぎそう が容易 ようい となっている。主翼 しゅよく は片側 かたがわ 6本 ほん のボルトで胴体 どうたい に取 と り付 つ けられているが、これはFw190 やP-51と類似 るいじ した取 と り付 つ け方法 ほうほう である。またこの部分 ぶぶん は平 たい らに整形 せいけい され、将来 しょうらい 機体 きたい に改造 かいぞう が行 おこな われて重心 じゅうしん が変 か わっても、主翼 しゅよく 位置 いち の前後 ぜんご 修正 しゅうせい による重心 じゅうしん 位置 いち 調整 ちょうせい が容易 ようい である。
なお開発 かいはつ 時 じ に、土井 どい の不適切 ふてきせつ な対応 たいおう もあり、急降下 きゅうこうか 時 じ に補助 ほじょ 翼 つばさ がフラッター による振動 しんどう で千 せん 切 き れ飛 と ぶという事故 じこ が発生 はっせい しているが、無事 ぶじ 着陸 ちゃくりく に成功 せいこう し事 こと なきを得 え ている。
三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き の胴体 どうたい および機首 きしゅ は、日本 にっぽん では一般 いっぱん 的 てき かつ大 だい 直径 ちょっけい の空冷 くうれい 星 ほし 型 がた エンジン を搭載 とうさい した各種 かくしゅ 戦闘 せんとう 機 き と比 くら べ、液 えき 冷 ひや エンジン搭載 とうさい の利点 りてん が出 で たものとなった。全幅 ぜんぷく は840 mmである。キ60より全 ぜん 高 こう は100 mm抑 おさ えられ、1,360 mmであった。こうした小型 こがた 化 か は空気 くうき 抵抗 ていこう を減 へ らして高速 こうそく 化 か に効果 こうか がある。機体 きたい の分割 ぶんかつ 部分 ぶぶん を減 へ らし、生産 せいさん 性 せい の向上 こうじょう とともに強度 きょうど と軽量 けいりょう 化 か の両立 りょうりつ を図 はか ったのも特長 とくちょう である[56] 。
胴体 どうたい は4本 ほん の縦 たて 貫通 かんつう 材 ざい を骨組 ほねぐ みの主 しゅ 材 ざい とした。ただしこれらは尾翼 びよく 直前 ちょくぜん の第 だい 12円 えん 框 かまち で分離 ぶんり されており、一体 いったい 構造 こうぞう ではない。この構造 こうぞう は生産 せいさん 性 せい 向上 こうじょう に役立 やくだ ったとされる。本 ほん 機 き は量産 りょうさん 性 せい にも配慮 はいりょ がなされ、主翼 しゅよく 取 と り付 つ け法 ほう も生産 せいさん 性 せい を高 たか めた他 ほか 、飛行機 ひこうき の外形 がいけい を作 つく ってから工員 こういん が中 なか に入 はい り内装 ないそう を行 おこな う従来 じゅうらい の手順 てじゅん を改 あらた め、各 かく モジュールを内部 ないぶ まである程度 ていど 作 つく り上 あ げてから最終 さいしゅう 的 てき に組 く み立 た てるシステムが取 と られた。これはP-51の生産 せいさん 手法 しゅほう と同等 どうとう のものである。機体 きたい 構造 こうぞう はセミ・モノコック構造 こうぞう となっており、また発動 はつどう 機 き 架 か は通常 つうじょう の鋼管 こうかん で組 く み上 あ げたものでなく、胴体 どうたい と一体 いったい のモノコック構造 こうぞう となっている。これは一体 いったい 構造 こうぞう の主翼 しゅよく と相 あい まり、降下 こうか 限界 げんかい 速度 そくど が850 km/hまで許容 きょよう されるなど、機体 きたい 強度 きょうど は非常 ひじょう に頑丈 がんじょう なものであり、また重量 じゅうりょう 軽減 けいげん にも貢献 こうけん している。土井 どい によれば速度 そくど 計 けい は700 km/hまでのものが採用 さいよう された。ただし780 km/hまで計測 けいそく できたとの証言 しょうげん や、のちに1,000 km/hまでの速度 そくど 計 けい に変 か えられたとの証言 しょうげん もある。この構造 こうぞう は重量 じゅうりょう 軽減 けいげん にも非常 ひじょう に有効 ゆうこう だったともいわれる。設計 せっけい 主務 しゅむ の土井 どい によれば、三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き が空中 くうちゅう 分解 ぶんかい を起 お こした事例 じれい は一 いち 度 ど もなかった。また真偽 しんぎ 不明 ふめい であるが、土井 どい は同 おな じ文献 ぶんけん で、三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き が音速 おんそく を突破 とっぱ したケースがあると耳 みみ にしたと著 あらわ している。機体 きたい が頑強 がんきょう なことから、不時着 ふじちゃく も比較的 ひかくてき 行 おこな いやすかったと証言 しょうげん したパイロットもいる。
液 えき 冷 ひや エンジンに不可欠 ふかけつ なラジエーター については、#ラジエーター で詳述 しょうじゅつ する。
翼下 よくか に落下 らっか 増 ぞう 槽 そう を搭載 とうさい した三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 。風防 ふうぼう はファストバック形式 けいしき
視界 しかい が得 え られる涙 なみだ 滴 しずく 型 がた 風防 ふうぼう が中心 ちゅうしん の日本 にっぽん 軍機 ぐんき として珍 めずら しく、キャノピー後部 こうぶ と胴体 どうたい が一体化 いったいか したファストバック方式 ほうしき が採 と られている。この型式 けいしき は空 そら 力学 りきがく 的 てき に有利 ゆうり であるが後方 こうほう 視界 しかい が制限 せいげん され、空戦 くうせん 時 じ に不利 ふり となる懸念 けねん があった。視界 しかい に関 かん し、実戦 じっせん 部隊 ぶたい からとりたてて指摘 してき はなかったとする文献 ぶんけん と、あったとする文献 ぶんけん がある。また前 ぜん 下方 かほう をのぞき見 み るための窓 まど が設 もう けられたが、土井 どい によればこのキャノピー形状 けいじょう と前 ぜん 下方 かほう をのぞき見 み るための窓 まど はBf109からの流用 りゅうよう である。なお大戦 たいせん 末期 まっき 、おおよそ1944年 ねん 12月 がつ 以降 いこう に作 つく られた機体 きたい 、あるいは五 ご 式 しき 戦闘 せんとう 機 き に改造 かいぞう された機体 きたい については、日本 にっぽん で一般 いっぱん 的 てき な涙 なみだ 滴 しずく 型 がた 風防 ふうぼう に改 あらた められている。
三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き の航続 こうぞく 距離 きょり は8時間 じかん 以上 いじょう 、3,200 kmを飛行 ひこう 可能 かのう であった。長大 ちょうだい な航続 こうぞく 距離 きょり を有 ゆう する零 れい 式 しき 艦上 かんじょう 戦闘 せんとう 機 き に匹敵 ひってき する飛行 ひこう 能力 のうりょく を持 も つ。
翼 つばさ 内 ない タンクは左右 さゆう 両方 りょうほう で第 だい 一 いち 燃料 ねんりょう タンクを構成 こうせい し、両 りょう タンクに挟 はさ まれた操縦 そうじゅう 席 せき の床下 ゆかした には第 だい 二 に 燃料 ねんりょう タンク、操縦 そうじゅう 席 せき 後方 こうほう には第 だい 三 さん (胴体 どうたい )燃料 ねんりょう タンクがある[70] 。
当初 とうしょ は機内 きない 燃料 ねんりょう 820リットルを収容 しゅうよう し、さらに両 りょう 主翼 しゅよく に200リットルの増 ぞう 槽 そう を懸 かか 吊 つる して総計 そうけい 1,220リットルの燃料 ねんりょう を確保 かくほ したが量産 りょうさん 型 がた では機体 きたい に755リットル、増 ぞう 槽 そう を合 あ わせて1155リットル搭載 とうさい 、航続 こうぞく 距離 きょり は7時 じ 間 あいだ 40分 ふん または3,070 kmと、若干 じゃっかん 低下 ていか している。和泉 いずみ (1999) は一 いち 型 がた 初期 しょき の燃料 ねんりょう 搭載 とうさい 量 りょう は増 ぞう 槽 そう を含 ふく め935リットルとしている。増 ぞう 槽 そう を懸 かか 吊 つるし すると最高 さいこう 速度 そくど が80 km/hほど低下 ていか したという。
しかし1943年 ねん 、当時 とうじ ウエワクに在 あ った実戦 じっせん 部隊 ぶたい ・第 だい 14飛行 ひこう 団 だん では、侵攻 しんこう 行動 こうどう 半径 はんけい を550 km(往復 おうふく 1,100 kmに一定 いってい の戦闘 せんとう 行動 こうどう 分 ぶん を足 た したもの)と判断 はんだん しており、実戦 じっせん レベルでは航続力 こうぞくりょく が低下 ていか していた傾向 けいこう がある。詳 くわ しい原因 げんいん は不明 ふめい だが、エンジンの不調 ふちょう や整備 せいび 不良 ふりょう が想定 そうてい される。また、第 だい 14飛行 ひこう 団 だん では被弾 ひだん 炎上 えんじょう の危険 きけん 性 せい を避 さ ける観点 かんてん から、胴体 どうたい 内 ない 増設 ぞうせつ タンクを降 お ろしていたともされる。
244戦隊 せんたい ではインメルマンターンの訓練 くんれん 中 ちゅう に回復 かいふく 不能 ふのう の背面 はいめん フラットスピンに陥 おちい る事故 じこ が複数 ふくすう あり、カラであるはずの胴体 どうたい タンクに他 た のタンクから燃料 ねんりょう が逆流 ぎゃくりゅう 、残留 ざんりゅう し重心 じゅうしん 位置 いち を後退 こうたい させた事 こと が原因 げんいん と判明 はんめい [77] 、胴体 どうたい タンク廃止 はいし 論 ろん が高 たか まる。
元 もと より、重心 じゅうしん から遠 とお い胴体 どうたい タンクに燃料 ねんりょう が残 のこ った状態 じょうたい での空戦 くうせん は危険 きけん であり、落下 らっか タンクより先 さき に胴体 どうたい タンクを使 つか い切 き らなければならず、会 かい 敵 てき して落下 らっか タンクを捨 す てれば空戦 くうせん と帰路 きろ は往路 おうろ の燃料 ねんりょう より少 すく なくなり合理 ごうり 的 てき でない。このため胴体 どうたい タンクの容量 ようりょう を200リットルから50リットルに変更 へんこう する要望 ようぼう が出 だ されたが実現 じつげん しなかった[78] 。ただし三 さん 式 しき 戦 せん 2型 がた 以後 いご は胴体 どうたい タンクを左右 さゆう に分割 ぶんかつ 、右 みぎ は燃料 ねんりょう タンク、左 ひだり は水 みず メタノールタンクとし各 かく 95リットルを搭載 とうさい した[79] 。
日本 にっぽん 陸軍 りくぐん では20 mm機関 きかん 砲 ほう の開発 かいはつ が遅 おく れたために、武装 ぶそう はホ103 12.7 mm機関 きかん 砲 ほう を採用 さいよう した。しかしホ103とて制式 せいしき 採用 さいよう は1941年 ねん であってこの時期 じき はまだ信頼 しんらい 性 せい には懸念 けねん が持 も たれており、採用 さいよう は機首 きしゅ の2門 もん にとどめて主翼 しゅよく の2門 もん は八 はち 九 きゅう 式 しき 7.7 mm機関 きかん 銃 じゅう を装備 そうび している。
防御 ぼうぎょ に関 かん しては燃料 ねんりょう タンクは被弾 ひだん に対 たい して若干 じゃっかん の防弾 ぼうだん 能力 のうりょく が付与 ふよ されている。308機 き 目 め までは3 mm厚 あつ のゴムと10 mm厚 あつ のフェルトで防 ぼう 漏 もら しており、388機 き 目 め までは上面 うわつら 9 mm、側面 そくめん 6 mm厚 あつ のゴムで覆 おお われた。。
量産 りょうさん 機 き は1942年 ねん 末 まつ までに34機 き 、エンジンは65台 だい が完成 かんせい した。
試作 しさく 時 じ 、三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き は最高 さいこう 速度 そくど ・上昇 じょうしょう 力 りょく ・旋回 せんかい 性 せい の全 すべ ての比較 ひかく 領域 りょういき においてBf109Eを凌駕 りょうが した。特 とく に最高 さいこう 速度 そくど は30 km/h優 ゆう 速 そく であった。
1942年 ねん 秋 あき 頃 ごろ 、福生 ふっさ で「戦闘 せんとう 機 き 研究 けんきゅう 会 かい 」という名称 めいしょう の比較 ひかく 試験 しけん が行 おこな われた。内容 ないよう は日本 にっぽん 陸軍 りくぐん 戦闘 せんとう 機 き および月光 げっこう 、雷電 らいでん などの日本 にっぽん 海軍 かいぐん 戦闘 せんとう 機 き と、P-40E 、ハリケーン 、Bf109Eなど諸 しょ 外国 がいこく 機 き を集 あつ めて性能 せいのう 比較 ひかく を行 おこな うものであった。キ61は速度 そくど の優勢 ゆうせい のほか旋回 せんかい 半径 はんけい の小 ちい ささで外国 がいこく 機 き に比 くら べて勝 まさ り、格闘 かくとう 戦 せん では有利 ゆうり と考 かんが え得 え るものであった。海軍 かいぐん 側 がわ は三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き に関 かん し、座席 ざせき よし、舵 かじ やや重 おも きも釣 つ り合 あ いよし、安定 あんてい 性 せい よし、前方 ぜんぽう 視界 しかい 悪 わる し、上昇 じょうしょう 悪 わる し、急降下 きゅうこうか 時 じ は舵 かじ が非常 ひじょう に重 おも いが座 すわ り・出足 であし ともによし、と評価 ひょうか している。
三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き の操縦 そうじゅう 性 せい には特筆 とくひつ すべき癖 くせ や問題 もんだい はなかった。補助 ほじょ 翼 つばさ ・昇降 しょうこう 舵 かじ の操作 そうさ にはロッド式 しき が採用 さいよう され、方向 ほうこう 舵 かじ には操縦 そうじゅう 索 さく (ワイヤー)式 しき が採用 さいよう されている。
1942年 ねん 12月21日 にち の「戦闘 せんとう 機 き 研究 けんきゅう 会 かい 」、または秋 あき に福生 ふっさ の陸軍 りくぐん 航空 こうくう 審査 しんさ 部 ぶ で行 おこな われた陸海 りくかい 軍 ぐん 試作 しさく 機 き の互乗研究 けんきゅう 会 かい では、本 ほん 機 き に試乗 しじょう した海軍 かいぐん パイロットの一人 ひとり が操舵 そうだ 系統 けいとう の良好 りょうこう さに驚 おどろ き、こんなに良 よ くできた舵 かじ を持 も った飛行機 ひこうき に乗 の ったのは初 はじ めてだと、陸軍 りくぐん にその秘密 ひみつ を質問 しつもん した。陸軍 りくぐん 側 がわ はそれに答 こた えられなかったが、同席 どうせき していた土井 どい の答 こた えは、液 えき 冷 ひや 戦闘 せんとう 機 き 独特 どくとく の縦 たて に細長 ほそなが い長方形 ちょうほうけい 状 じょう の胴体 どうたい 形状 けいじょう が一番 いちばん 大 おお きく影響 えいきょう しているのでは、というものであった。
本 ほん 機 き の降下 こうか 制限 せいげん 速度 そくど は850 km/hと、非常 ひじょう に頑丈 がんじょう な機体 きたい である。軽量 けいりょう 化 か を強 つよ く追求 ついきゅう した零 れい 式 しき 艦上 かんじょう 戦闘 せんとう 機 き 五 ご 二 に 型 がた 以前 いぜん の機体 きたい は降下 こうか 制限 せいげん 速度 そくど が670 km/hであり、零 れい 式 しき 艦上 かんじょう 戦闘 せんとう 機 き 五 ご 二 に 型 がた 甲 かぶと でも740 km/hである。
三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き は離 はなれ 昇 のぼり 出力 しゅつりょく 1,175馬力 ばりき のハ40を搭載 とうさい する戦闘 せんとう 機 き であり、一 いち 型 がた 甲 かぶと の全備 ぜんび 重量 じゅうりょう は3,170 kgである。同質 どうしつ のエンジンを搭載 とうさい するBf109Eを上昇 じょうしょう 力 りょく で凌駕 りょうが すると説明 せつめい する資料 しりょう があるものの、大塚 おおつか (2007b) の文献 ぶんけん 中 ちゅう の表 ひょう では、三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き は全備 ぜんび 重量 じゅうりょう 3,170 kgで高度 こうど 6,000 mまでの上昇 じょうしょう 時間 じかん が8分 ふん 30秒 びょう 、Bf109E-7は2,540 kgで7分 ふん 30秒 びょう 、Bf109Fは2,780 kgで6分 ふん 30秒 びょう となっている。出力 しゅつりょく 不足 ふそく は特 とく に上昇 じょうしょう 力 りょく の不足 ふそく となって性能 せいのう に現 あらわ れた。特 とく に燃料 ねんりょう 満載 まんさい 状態 じょうたい では護衛 ごえい するはずの爆 ばく 撃 げき 機 き に劣 おと る上昇 じょうしょう 力 りょく しか持 も たなかった。また上昇 じょうしょう 力 りょく の不足 ふそく は、前述 ぜんじゅつ の「戦闘 せんとう 機 き 研究 けんきゅう 会 かい 」で海軍 かいぐん 側 がわ の指摘 してき にも表 あらわ れている。
三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き が配備 はいび された頃 ころ にはアメリカ軍機 ぐんき も高速 こうそく ・重 じゅう 武装 ぶそう 化 か しており必 かなら ずしも有利 ゆうり なものではなかった。ウエワクの第 だい 14飛行 ひこう 団 だん のパイロットの証言 しょうげん によれば、P-40 とは互角 ごかく またはそれ以上 いじょう に戦 たたか えた。しかしP-38と対戦 たいせん した場合 ばあい 、速度 そくど はP-38が有利 ゆうり で機動 きどう 性 せい は三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き が有利 ゆうり とであり、空戦 くうせん 性能 せいのう で互角 ごかく だが、火力 かりょく 面 めん で不利 ふり があった。さらにP-38相手 あいて には劣 れつ 速 そく であり、格闘 かくとう 戦 せん に持 も ち込 こ めば勝 か てるにせよ、アメリカ軍機 ぐんき の一 いち 撃 げき 離脱 りだつ 戦法 せんぽう は格闘 かくとう 戦 せん そのものを発生 はっせい させず持 も ち込 こ みようがなかった。したがって三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き が勝 か つ手段 しゅだん は奇襲 きしゅう 以外 いがい に打 う つ手 て が無 な い状況 じょうきょう であり、多少 たしょう 弾 だん を当 あ ててもアメリカ軍機 ぐんき は防弾 ぼうだん 性能 せいのう が高 たか く落 お とせない、また搭載 とうさい する無線 むせん 機 き が使 つか い物 もの にならず隊 たい 内 ない での連携 れんけい に円滑 えんかつ を欠 か いて大 おお きなハンディがあると、相当 そうとう な苦戦 くせん をみていた。また米 べい 軍 ぐん の捕虜 ほりょ となった飛行 ひこう 第 だい 77戦隊 せんたい のパイロットが語 かた ったところによれば(尋問 じんもん 記録 きろく 第 だい 600号 ごう )、単独 たんどく 空戦 くうせん であれば(P-38の)隙 すき を突 つ くこともできるが編隊 へんたい 空戦 くうせん では全 まった く勝 か ち目 め がないと感 かん じていたという(これは一式 いっしき 戦闘 せんとう 機 き も含 ふく めた話 はなし )。
陸士 りくし 第 だい 55期 き 、後年 こうねん の統合 とうごう 幕僚 ばくりょう 会議 かいぎ 議長 ぎちょう となった竹田 たけだ 五郎 ごろう 大尉 たいい は飛行 ひこう 第 だい 244戦隊 せんたい で三 さん 式 しき 戦 せん に搭乗 とうじょう した。彼 かれ は本 ほん 機 き の欠点 けってん を「離陸 りりく の時 とき に前 まえ が見 み えない事 こと と上昇 じょうしょう 速度 そくど が遅 おそ い事 こと 」と指摘 してき した[97] 。
アメリカ軍 ぐん から見 み た三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き [ 編集 へんしゅう ]
パタクセント・リバー海軍 かいぐん 航空 こうくう 基地 きち でテスト飛行 ひこう 中 ちゅう の機体 きたい (1945年 ねん 6月 がつ )
当初 とうしょ アメリカ軍 ぐん は本 ほん 機 き がBf109である可能 かのう 性 せい を推測 すいそく したが、Bf109のラジエーターは主翼 しゅよく に設置 せっち されており形状 けいじょう が異 こと なるために、何 なん の根拠 こんきょ もなく日本 にっぽん の同盟 どうめい 国 こく であったイタリア のマッキ202 のコピーと判断 はんだん していた。このため、三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き にはイタリア系 けい 移民 いみん に多 おお い「Tony」というコードネームがつけられた。その後 ご の調査 ちょうさ で日本 にっぽん のオリジナル機 き とわかり、1943年 ねん 11月の「航空機 こうくうき 識別 しきべつ 帳 ちょう 」に修正 しゅうせい して記載 きさい された。
アメリカ軍 ぐん のパイロットには、三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き とは戦 たたか いやすかったとし、あるいは対決 たいけつ を好 この んだ。火力 かりょく と降下 こうか 性能 せいのう は従来 じゅうらい の日本 にっぽん 機 き より優秀 ゆうしゅう だが、上昇 じょうしょう 性能 せいのう ・速度 そくど 性能 せいのう 共 ども に優 すぐ れてはおらず、旋回 せんかい 性 せい もP-40に対 たい して互角 ごかく であり、総 そう じてP-40Nと互角 ごかく と判断 はんだん していた。
またP-38 から見 み れば、三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き は他 た の日本 にっぽん 戦闘 せんとう 機 き に比 くら べて多少 たしょう 優 ゆう 速 そく だが、P-38の最 さい 高速度 こうそくど に及 およ ぶものではなく、さらに格闘 かくとう 戦 せん も他 た の日本 にっぽん 機 き より苦手 にがて であるために対戦 たいせん しやすかった。そして特 とく に高度 こうど 6000 m以上 いじょう ではP-38の方 ほう がずっと高速 こうそく だった。なおP-38は常 つね に4機 き または2機 き 編隊 へんたい を崩 くず さずに戦闘 せんとう を行 おこな うことを旨 むね としており、また12.7 mm機関 きかん 砲 ほう 4門 もん に20 mm機関 きかん 砲 ほう 1門 もん という強力 きょうりょく な武装 ぶそう を備 そな えていたことから、日本 にっぽん 陸軍 りくぐん の主力 しゅりょく である一式 いっしき 戦闘 せんとう 機 き 「隼 はやぶさ 」相手 あいて には、その貧弱 ひんじゃく な武装 ぶそう (12.7 mm機関 きかん 砲 ほう 2門 もん )から、そして日本 にっぽん 軍機 ぐんき の機動 きどう 力 りょく を無視 むし して雌雄 しゆう を決 けっ せられる、真正面 ましょうめん から向 む き合 あ い攻撃 こうげき しあう対 たい 進攻 しんこう 撃 げき を好 この んで用 もち いていたが、三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き は一式 いっしき 戦闘 せんとう 機 き に比 くら べて格段 かくだん に強力 きょうりょく な武装 ぶそう を持 も っており、さらに液 えき 冷 ひや 戦闘 せんとう 機 き 特有 とくゆう の比較的 ひかくてき 小 ちい さな前方 ぜんぽう 投影 とうえい 面積 めんせき もあり、この戦法 せんぽう の有効 ゆうこう 性 せい は損 そこ なわれていた。
ただし三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き は、敵 てき 機 き が他 た の日本 にっぽん 機 き 、例 れい とすれば零 れい 式 しき 艦上 かんじょう 戦闘 せんとう 機 き や一式 いっしき 戦闘 せんとう 機 き に対 たい して取 と った戦術 せんじゅつ 同様 どうよう 、降下 こうか で離脱 りだつ しようとした時 とき 、特 とく に比較的 ひかくてき 低 てい 高度 こうど では、これに食 く い付 つ くことができた。
一方 いっぽう 、ニューギニア方面 ほうめん のP-38のパイロットからは「三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き は水平 すいへい 飛行 ひこう でP-38に追 お いつける機体 きたい 」 という報告 ほうこく もなされており、高度 こうど 6000 m以下 いか の高度 こうど 域 いき で対峙 たいじ したパイロットからは「P-38Jのエンジンを全開 ぜんかい にして数 すう 分間 ふんかん 追 お っても、逃 に げる三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き を捉 とら えることができなかった」という報告 ほうこく や、一式 いっしき 戦闘 せんとう 機 き なら既 すで に引 ひ き離 はな している状況 じょうきょう でも、三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き は執拗 しつよう に食 く いついて来 く ることに驚愕 きょうがく する報告 ほうこく が複数 ふくすう ある。
1944年 ねん のフィリピン戦 せん で三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き を相手 あいて としたF6F のパイロットも、他 た の日本 にっぽん 機 き より戦 たたか いやすかったとしているようだ。ニューギニアで三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き と戦 たたか ったアメリカの第 だい 35戦闘 せんとう 飛行 ひこう 隊 たい 、P-40Nのパイロットらも、P-40Nに勝 まさ る機体 きたい ではない、運動 うんどう 性 せい の高 たか い一式 いっしき 戦闘 せんとう 機 き の方 ほう が怖 こわ い、火力 かりょく と降下 こうか 速度 そくど は従来 じゅうらい の日本 にっぽん 機 き より上 うえ だが上昇 じょうしょう 性能 せいのう と運動 うんどう 性能 せいのう は劣 おと っており加速 かそく 性能 せいのう も良 よ くない、などと証言 しょうげん したという。一方 いっぽう で、日本 にっぽん とアメリカ両 りょう 軍 ぐん の多 おお くの機種 きしゅ が戦 たたか った沖縄 おきなわ 戦 せん において、アメリカ海軍 かいぐん パイロットから、陸軍 りくぐん の四 よん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き や海軍 かいぐん の紫電 しでん などの新鋭 しんえい 機 き より高 こう 評価 ひょうか を受 う けたのが飛燕 ひえん であった。F6F で飛燕 ひえん と戦 たたか ったアメリカ海軍 かいぐん パイロットは「飛燕 ひえん の運動 うんどう 性 せい に感銘 かんめい を受 う けた。速度 そくど 200ノット(371 km)以下 いか で高度 こうど 10,000フィート(3,048 m)以下 いか なら、飛燕 ひえん はF6Fを外 そと に追 お い出 だ すことができた」と述 の べている。
アメリカ軍 ぐん が1943年 ねん に鹵獲 ろかく 機体 きたい を用 もち いた評価 ひょうか ・試験 しけん の結果 けっか 「陸海 りくかい 軍 ぐん 合同 ごうどう 識別 しきべつ 帳 ちょう 」がまとめられ、この資料 しりょう の中 なか では三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き を「重 じゅう 武装 ぶそう と良好 りょうこう な防弾 ぼうだん 性能 せいのう を備 そな えた素晴 すば らしい機体 きたい 」 と高 こう 評価 ひょうか している。また日本 にっぽん 本土 ほんど での迎撃 げいげき 戦 せん において最 もっと も活動 かつどう したのはTonyであったと評 ひょう している。この識別 しきべつ 帳 ちょう の1943年 ねん 11月 がつ 版 ばん では、最高 さいこう 速度 そくど 584 km/h、武装 ぶそう を12.7 mm機関 きかん 銃 じゅう 2門 もん 、7.7 mm機関 きかん 銃 じゅう 2門 もん と、日本 にっぽん 側 がわ の数値 すうち と矛盾 むじゅん しないデータが示 しめ されている。また1944年 ねん 8月 がつ 版 ばん では武装 ぶそう を20 mm機関 きかん 砲 ほう 2門 もん 、12.7 mm機関 きかん 銃 じゅう 2門 もん とし同時 どうじ に最高 さいこう 速度 そくど を573 km/hに減 げん じて収録 しゅうろく されている。なお1945年 ねん のレポートでは、ハ140を搭載 とうさい した三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 二 に 型 がた - TonyIIについて、高度 こうど 8,500 mで最大 さいだい 速度 そくど 680 km/hなどと過大 かだい な表記 ひょうき がみられている。
アメリカ海軍 かいぐん 航空 こうくう 情報 じょうほう 部 ぶ は、アメリカ軍機 ぐんき と比較 ひかく して「米 べい 軍 ぐん 戦闘 せんとう 機 き と比 くら べ、FM-2 より水平 すいへい 速度 そくど で優 まさ る以外 いがい はほとんどの面 めん で劣 おと っている。特 とく にP-51に比 くら べると大 おお きく劣 おと る。」 と評 ひょう している[注釈 ちゅうしゃく 8] 。
ただ降下 こうか 性能 せいのう においてはF6F の戦術 せんじゅつ 勧告 かんこく に「継続 けいぞく して降下 こうか するな」 と記載 きさい されたり、三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 自身 じしん の飛行 ひこう 特性 とくせい については、操縦 そうじゅう 席 せき は狭 せま くて窮屈 きゅうくつ だが計器 けいき および操作 そうさ レバー等 とう の配置 はいち は優良 ゆうりょう で、離着陸 りちゃくりく や三 さん 舵 かじ の動作 どうさ が容易 ようい であり「飛行 ひこう するのが楽 たの しい機体 きたい 」 と高 こう 評価 ひょうか をしているが、補助 ほじょ 翼 つばさ だけは333 km/hより高速 こうそく 域 いき ではきわめて重 おも くなること、機首 きしゅ が長 なが く風防 ふうぼう が低 ひく いため前方 ぜんぽう 視界 しかい が非常 ひじょう に悪 わる いこと、整備 せいび が複雑 ふくざつ (試験 しけん 時 じ に特 とく に油圧 ゆあつ 系統 けいとう にトラブルが頻発 ひんぱつ )で性能 せいのう 維持 いじ が困難 こんなん であることを欠点 けってん として挙 あ げている。
ハ40の故障 こしょう と整備 せいび [ 編集 へんしゅう ]
三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き は日本 にっぽん ではまだ技術 ぎじゅつ の成熟 せいじゅく していない液 えき 冷 ひや エンジン、それも比較的 ひかくてき 先進 せんしん 的 てき なものを採用 さいよう したため、その生産 せいさん 不備 ふび や故障 こしょう 、整備 せいび の困難 こんなん 性 せい についての指摘 してき が多 おお くなされている。渡辺 わたなべ (2002a) は三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き を大 だい 歓迎 かんげい した部隊 ぶたい は一 ひと つも無 な いとまでしており[注釈 ちゅうしゃく 9] 、同 おな じく渡辺 わたなべ (2010) によれば、エンジントラブルは前線 ぜんせん 部隊 ぶたい の三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き の代名詞 だいめいし であるとまで言 い われている。このため前線 ぜんせん では多少 たしょう 性能 せいのう が劣 おと っても確実 かくじつ に飛 と ぶ一式 いっしき 戦闘 せんとう 機 き や二 に 式 しき 単座 たんざ 戦闘 せんとう 機 き を装備 そうび し、運用 うんよう することを望 のぞ む声 こえ もあった。
新 しん 機材 きざい の初期 しょき 不良 ふりょう は多 おお くの場合 ばあい に存在 そんざい する。また当時 とうじ の滑 すべり 油 ゆ 、機械 きかい 油 ゆ は低温 ていおん での粘性 ねんせい が高 たか く、滑 すべり 油 ゆ 冷却 れいきゃく 器 き まわりでは必要 ひつよう なところにオイルが供給 きょうきゅう されないという問題 もんだい が発生 はっせい したが、これは冷却 れいきゃく 器 き の能力 のうりょく を抑 おさ えることで解決 かいけつ した。初 はつ の実戦 じっせん 部隊 ぶたい である第 だい 14飛行 ひこう 団 だん でも燃料 ねんりょう 噴射 ふんしゃ 装置 そうち の圧力 あつりょく 調整 ちょうせい 弁 べん 、過 か 給 きゅう 器 き の故障 こしょう 、冷却 れいきゃく 器 き や滑 すべり 油 ゆ の漏 も れなどトラブルが続出 ぞくしゅつ した。特 とく に油圧 ゆあつ 系統 けいとう と燃料 ねんりょう 噴射 ふんしゃ ポンプには故障 こしょう が続出 ぞくしゅつ していた。
和泉 いずみ (1999) では流体 りゅうたい 継手 つぎて の調整 ちょうせい 不良 ふりょう による出力 しゅつりょく 低下 ていか 、燃料 ねんりょう 噴射 ふんしゃ ポンプの故障 こしょう [注釈 ちゅうしゃく 10] 、冷却 れいきゃく 器 き 等 とう からの油 あぶら 漏 も れが主 おも な故障 こしょう とされ、さらに燃料 ねんりょう 噴射 ふんしゃ 装置 そうち の調整 ちょうせい に対 たい する整備 せいび 兵 へい の教育 きょういく 不足 ふそく などが挙 あ げられている。流体 りゅうたい 継手 つぎて によるスーパーチャージャーの無 む 段階 だんかい 変速 へんそく がDB601の特徴 とくちょう であるが、これの調整 ちょうせい が適切 てきせつ でないと、全 まった くパワーが出 で ない。これを地上 ちじょう で調整 ちょうせい するには、機体 きたい を杭 くい で固定 こてい し、オーバーヒートに留意 りゅうい しつつ、ホースでラジエータに水 みず をかけて冷却 れいきゃく しながら整備 せいび 作業 さぎょう を行 おこな った。
また本来 ほんらい DB 601では、クランク軸 じく をはじめとした重要 じゅうよう な部品 ぶひん はニッケル入 い りのクロムモリブデン鋼 こう で作 つく られていた。しかし、陸軍 りくぐん はハ40エンジン生産 せいさん にあたり川崎 かわさき にニッケル不 ふ 使用 しよう を指示 しじ した。当時 とうじ 、冶金 やきん 学 がく の遅 おく れていた日本 にっぽん では、ニッケルを加 くわ えないクロムモリムデン鋼 こう は表面 ひょうめん に微細 びさい なヒビが入 はい り、品質 ひんしつ は悪化 あっか 、クランク軸 じく 折損 せっそん 事故 じこ を起 お こした。鈴木 すずき (2012) によれば、当初 とうしょ は表面 ひょうめん 硬化 こうか のために高周波 こうしゅうは 焼入 やきい れ が行 おこな われていたが、これは硬度 こうど 不足 ふそく で100時間 じかん 以内 いない に表面 ひょうめん が剥離 はくり してしまうため滲炭 しんたん 処理 しょり に変更 へんこう されたが、これの不良 ふりょう のため表面 ひょうめん が剥離 はくり する事例 じれい が多 おお かったとみられ、またクランク軸 じく の真 ま 円 えん 度 ど 自体 じたい も、トラブルを回避 かいひ するためには0.003 mm程度 ていど の精度 せいど が要求 ようきゅう されるが、これについても基準 きじゅん に至 いた っていなかったのではないかとしている。ハ140 への生産 せいさん 転換 てんかん を迎 むか える頃 ころ に至 いた ってもハ40の気筒 きとう 部分 ぶぶん の生産 せいさん 歩留 ぶど まりは50 %程度 ていど であり、クランク軸 じく の生産 せいさん もはかどらなかった。さらに歴史 れきし 群 ぐん 像 ぞう 編集 へんしゅう 部 ぶ (2010) によれば、このハ40は一般 いっぱん 的 てき な1,000馬力 ばりき 級 きゅう の空冷 くうれい エンジンに比 くら べて、生産 せいさん に3倍 ばい の工程 こうてい 数 すう を要 よう したとする。
またクランク軸 じく のコンロッド接続 せつぞく 部 ぶ のローラーベアリング (ころ軸受 じくう け)はローラーが14 mm程度 ていど の径 みち のものを3列 れつ にして用 もち いていたが(複 ふく 列 れつ 円筒 えんとう ころ軸受 じくうけ )、それに用 もち いられた72個 こ のローラーもドイツ製 せい のものと比 くら べて相当 そうとう に精度 せいど が低 ひく く、クランク軸 じく の破損 はそん に繋 つな がった。当時 とうじ の日本 にっぽん の基礎 きそ 工業 こうぎょう 力 りょく は、ボールベアリングのボールの精度 せいど でも表面 ひょうめん の凹凸 おうとつ がヨーロッパのSKF社 しゃ 製 せい のものは0.001 mm以内 いない に収 おさ まっていたものが日本 にっぽん 製 せい のものは0.012 - 0.015 mmと桁違 けたちが いに悪 わる く、(ハ40ではないが)愛知 あいち のアツタでは、ローラーについては真 ま 円 えん 度 ど 0.002 - 0.003 mmのものを選別 せんべつ して利用 りよう していた。同様 どうよう の選別 せんべつ が川崎 かわさき でも行 おこな われていたと仮定 かてい しても、ほぼ素人 しろうと である勤労 きんろう 動員 どういん の多 おお かった当時 とうじ の労働 ろうどう 者 しゃ の質 しつ を考慮 こうりょ すると、適切 てきせつ な選別 せんべつ が行 おこな われたかには疑問 ぎもん が残 のこ る。
1998年 ねん に現存 げんそん していたハ40の部品 ぶひん を測定 そくてい してみたところ、ベアリングケージなど他 た の箇所 かしょ については精度 せいど は悪 わる くなかったものの、やはりローラーの真 ま 円 えん 度 ど はよくなく、0.010 - 0.022 mmであったいう[注釈 ちゅうしゃく 11] 。また鈴木 すずき (2012) は、生産 せいさん 上 じょう の主要 しゅよう なネックはこのクランク軸 じく ピンの表面 ひょうめん 剥離 はくり であるとし、ローラーの形状 けいじょう 自体 じたい にも(ベアリングのローラーは単純 たんじゅん な円筒 えんとう 形 がた をとってはいない)技術 ぎじゅつ 的 てき 蓄積 ちくせき が足 た りなかったのであろうと指摘 してき する。ローラーの形状 けいじょう の不 ふ 均一 きんいつ 性 せい については、愛知 あいち のアツタでも問題 もんだい となっていたようだ。なお、鈴木 すずき (2012) では、ベンツ製 せい と川崎 かわさき 製 せい クランク軸 じく の断面 だんめん 顕微鏡 けんびきょう 写真 しゃしん が比較 ひかく 掲載 けいさい されている。ベンツ製 せい のクランク軸 じく の結晶 けっしょう 構造 こうぞう は均質 きんしつ なマルテンサイトとなっているが、ハ40は滲炭 しんたん 部 ぶ の組織 そしき が完全 かんぜん なマルテンサイトではなく、焼 や きが入 はい りきらずにトルースタイト が析出 せきしゅつ している。また滲炭 しんたん 深 ふか さにも問題 もんだい があり、クランクとベアリングが局所 きょくしょ 的 てき に噛 か み合 あ うため、硬化 こうか の深度 しんど は1.5 mm以上 いじょう が必要 ひつよう であるが、データでは1 mm程度 ていど の深 ふか さから硬度 こうど が大 おお きく落 お ちている。また、川崎 かわさき がこれまで製作 せいさく していた水冷 すいれい エンジンと比 くら べ、技術 ぎじゅつ 的 てき 飛躍 ひやく が大 おお きかった点 てん も無視 むし できないとする。
原型 げんけい となったDB 601エンジン。画像 がぞう はBf110に搭載 とうさい されていたもの
碇 いかり (2006) によれば基礎 きそ 工業 こうぎょう 力 りょく の不足 ふそく は、全 すべ ての部品 ぶひん の質 しつ に非常 ひじょう な悪影響 あくえいきょう を及 およ ぼした。例 たと えば鹵獲 ろかく した外国 がいこく 機 き などはエンジンの油 あぶら 漏 も れを起 お こすことは滅多 めった になく、しかし日本 にっぽん 機 き は油 あぶら 漏 も れなどの故障 こしょう が常態 じょうたい 化 か していた。
なお、陸軍 りくぐん へ引 ひ き渡 わた す前 まえ の川崎 かわさき での試験 しけん 飛行 ひこう では軽量 けいりょう 状態 じょうたい であるためそれほど悪 わる いものではなく、引 ひ き渡 わた し後 ご 武装 ぶそう をはじめとする艤装 ぎそう で重量 じゅうりょう が増加 ぞうか したことがエンジンに負担 ふたん をかけトラブルの多発 たはつ の原因 げんいん の一 ひと つになったようで、ある時期 じき からは艤装 ぎそう に相当 そうとう するバラストを積載 せきさい した状態 じょうたい で試験 しけん 飛行 ひこう を行 おこな っていた。また1944年 ねん の晩秋 ばんしゅう 頃 ごろ にはバラストではなく、実際 じっさい の艤装 ぎそう をほどこした「全 ぜん 装備 そうび 」状態 じょうたい でテストを行 おこな うことが常態 じょうたい 化 か していた。なお陸軍 りくぐん 側 がわ の受領 じゅりょう テストでは担当 たんとう であった佐々木 ささき 康 やすし 軍曹 ぐんそう (最終 さいしゅう 階級 かいきゅう )は200機 き ほどの受領 じゅりょう 時 じ テストを担当 たんとう したが、至極 しごく 快調 かいちょう と言 い い得 え るものは一 いち 割 わり にも満 み たなかったと回想 かいそう している。
その他 た 材料 ざいりょう 、工作 こうさく 、点火 てんか プラグなどの部品 ぶひん はもとより、当時 とうじ の日本 にっぽん は電線 でんせん までもビニール被覆 ひふく などではなく、糸 いと や紙 かみ を巻 ま いて絶縁 ぜつえん したもので湿気 しっけ に弱 よわ く漏電 ろうでん も頻発 ひんぱつ した。さらに戦争 せんそう 後期 こうき には熟練工 じゅくれんこう が減少 げんしょう し、動員 どういん 学徒 がくと や女子 じょし 挺身 ていしん 隊 たい が採用 さいよう されて生産 せいさん 作業 さぎょう に当 あ たった。このような質的 しつてき な労働 ろうどう 力 りょく の低下 ていか と無理 むり な増産 ぞうさん も部品 ぶひん の劣 れつ 質 しつ 化 か につながった。整備 せいび に関 かん し、手鏡 てかがみ を芸術 げいじゅつ 的 てき に扱 あつか わねば点検 てんけん できない箇所 かしょ などもあり、1943年 ねん の暮 く れには航空 こうくう 審査 しんさ 部 ぶ 飛行 ひこう 実験 じっけん 部長 ぶちょう 今川 いまがわ 一策 いっさく 大佐 たいさ は、三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き の空冷 くうれい エンジンへの換 かわ 装 そう を進言 しんげん した。
ラバウル まで三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き を空輸 くうゆ した飛行 ひこう 第 だい 78戦隊 せんたい (後述 こうじゅつ )は1943年 ねん 5月 がつ 18日 にち 「キ61の実用 じつよう 状 じょう 況 きょう 」で18項目 こうもく にわたり各種 かくしゅ の故障 こしょう を報告 ほうこく しているが、その内訳 うちわけ は4月 がつ 13日 にち から5月 がつ 10日 とおか までに冷却 れいきゃく 器 き 修理 しゅうり 61回 かい 、G型 がた 冷却 れいきゃく 器 き 修理 しゅうり 98回 かい 、E型 がた 冷却 れいきゃく 器 き 修理 しゅうり 43回 かい である。特 とく にオイルクーラーの油 あぶら 漏 も れがひどく、40分 ふん から50分 ぶん の空戦 くうせん で空 そら になる、などといった記述 きじゅつ が見 み られ、作動 さどう 油 ゆ 800リットルを使 つか い尽 つ くしたともされる。第 だい 78戦隊 せんたい と68戦隊 せんたい はその後 ご ニューギニア に進出 しんしゅつ するが、発動 はつどう 機 き の不調 ふちょう は続 つづ いた。現地 げんち の第 だい 4航空 こうくう 軍 ぐん が1943年 ねん 10月 がつ に中央 ちゅうおう に提出 ていしゅつ した意見 いけん 報告 ほうこく 書 しょ では、三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き の稼働 かどう 率 りつ の低 ひく さを嘆 なげ き、空冷 くうれい エンジンを装備 そうび する二 に 式 しき 単座 たんざ 戦闘 せんとう 機 き 鍾馗 しょうき の配備 はいび を求 もと めるほどだった。飛行 ひこう 第 だい 56戦隊 せんたい では訓練 くんれん 時 じ に事故 じこ が続発 ぞくはつ したことから「殺人 さつじん 機 き 」と呼 よ ばれた。
1944年 ねん 10月 がつ からのフィリピン決戦 けっせん では多 おお くの航空機 こうくうき が空輸 くうゆ されたが、九州 きゅうしゅう ・沖縄 おきなわ ・台湾 たいわん と飛行 ひこう した一式 いっしき 戦闘 せんとう 機 き の落伍 らくご 率 りつ が4 %であったのに対 たい して、三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き は13 %にのぼった。空冷 くうれい エンジンの不調 ふちょう の例 れい としては誉 ほまれ (エンジン) を搭載 とうさい した四 よん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き の脱落 だつらく 率 りつ が20 %である。この時期 じき にはハ40の生産 せいさん と整備 せいび の技術 ぎじゅつ が進歩 しんぽ しており、正規 せいき の潤滑油 じゅんかつゆ でなくヒマシ油 ゆ で稼働 かどう させる様 よう なこともできたらしい。油 あぶら 漏 も れは多 おお いが、確実 かくじつ な整備 せいび をすれば十分 じゅうぶん に扱 あつか えるとの証言 しょうげん もあり、特 とく に故障 こしょう が多 おお い印象 いんしょう はないとするパイロットもいる。また、1944年 ねん 7月 がつ 頃 ごろ のデータによれば、十分 じゅうぶん な整備 せいび 環境 かんきょう があれば70 %程度 ていど の稼働 かどう 率 りつ が維持 いじ されていた。この時点 じてん での二 に 式 しき 単座 たんざ 戦闘 せんとう 機 き および四 よん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き の稼働 かどう 率 りつ は60 %から90 %とされている。
帝都 ていと ・東京 とうきょう 防空 ぼうくう を任務 にんむ とする飛行 ひこう 第 だい 244戦隊 せんたい の戦隊 せんたい 長 ちょう であった小林 こばやし 照彦 てるひこ 少佐 しょうさ は、故障 こしょう の多 おお いエンジンではあるものの、内地 ないち での戦闘 せんとう であったため、修理 しゅうり もエンジンの交換 こうかん も容易 ようい であったと回想 かいそう している。同 おな じく第 だい 244戦隊 せんたい 第 だい 1中隊 ちゅうたい 長 ちょう 生野 いくの 文 ぶん 介 かい 大尉 たいい は、第 だい 244戦隊 せんたい は整備 せいび 員 いん も慣 な れているし部品 ぶひん もどんどん供給 きょうきゅう されるため十 じゅう 分 ふん に性能 せいのう を発揮 はっき できたとする。また同様 どうよう に第 だい 244戦隊 せんたい に所属 しょぞく していた前述 ぜんじゅつ の竹田 たけだ 五郎 ごろう 大尉 たいい も、「オイル漏 も れとか、故障 こしょう が多 おお いとか評判 ひょうばん は悪 わる かったが自分 じぶん の乗 じょう 機 き についての不都合 ふつごう は感 かん じなかった」と証言 しょうげん している[97] 。しかし1945年 ねん 1月 がつ 3日 にち の迎撃 げいげき 戦 せん では、当日 とうじつ 1回 かい 目 め の出撃 しゅつげき こそ40機 き 全 ぜん 機 き が行 おこな えたものの、2回 かい 目 め には25 - 26機 き 、3回 かい 目 め にはたった3機 き しか出撃 しゅつげき できなかった。この日 ひ の飛燕 ひえん の損害 そんがい は8機 き にすぎず、すなわち残 のこ りは全 すべ て故障 こしょう であった。同 おな じく調布 ちょうふ に展開 てんかい する第 だい 18戦隊 せんたい では、1944年 ねん 春 はる 頃 ごろ には50機 き 中 ちゅう 稼動 かどう 機 き は5機 き といった日 ひ もあった、との証言 しょうげん もある。一方 いっぽう 、航空 こうくう 審査 しんさ 部 ぶ 実行 じっこう 試験 しけん 部 ぶ (以下 いか 、航空 こうくう 審査 しんさ 部 ぶ )でも1944年 ねん 、粗製 そせい 化 か の傾向 けいこう はあるものの十分 じゅうぶん な整備 せいび を行 おこな えば動作 どうさ に支障 ししょう はなく、問題 もんだい は整備 せいび 力 りょく の低 ひく さであると判断 はんだん している。
上記 じょうき のように本土 ほんど もしくは審査 しんさ 部 ぶ ではある程度 ていど の整備 せいび が行 おこな えたものの、最前線 さいぜんせん や実戦 じっせん 部隊 ぶたい での整備 せいび ・運用 うんよう は過酷 かこく な作業 さぎょう であった。さらに撤退 てったい の際 さい 、時間 じかん をかけて液 えき 冷 ひや エンジンに習熟 しゅうじゅく した整備 せいび 兵 へい を最前線 さいぜんせん に残置 ざんち したことも、稼働 かどう 率 りつ を下 さ げた要因 よういん の一 ひと つである。さらに日本 にっぽん の整備 せいび マニュアルは欧米 おうべい のものに比較 ひかく して難解 なんかい で、当時 とうじ 必 かなら ずしも学力 がくりょく が高 たか いとは言 い えず自動車 じどうしゃ などの機械 きかい 類 るい にも馴染 なじ みのなかった一般 いっぱん 的 てき な新任 しんにん 整備 せいび 兵 へい にとって少々 しょうしょう 荷 に が重 おも かったとの指摘 してき もある。また本 ほん 機 き は日本 にっぽん 陸軍 りくぐん では一式 いっしき 戦闘 せんとう 機 き 、四 よん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 、九 きゅう 七 なな 式 しき 戦闘 せんとう 機 き に次 つ ぐ3,000機 き 以上 いじょう が生産 せいさん されたのであるが、野原 のはら (2005) は発動 はつどう 機 き に大 おお きな問題 もんだい を抱 かか えつつもそれをこれだけの機 き 数 すう 生産 せいさん し続 つづ けねばならなかったところに当時 とうじ の日本 にっぽん 陸軍 りくぐん 航空 こうくう の苦悩 くのう が見 み て取 と れるとする。
1944年 ねん には油 あぶら 漏 も れに対 たい する生産 せいさん 工程 こうてい レベルでの抜本 ばっぽん 的 てき 改造 かいぞう が講 こう じられた。この処置 しょち で一時 いちじ 的 てき に生産 せいさん 量 りょう が落 お ちており、エンジン無 な しの機体 きたい が工場 こうじょう に並 なら ぶことが多 おお くなった。これについては#二 に 型 がた (キ61-II改 あらため ) で後述 こうじゅつ する。
1942年 ねん 春 はる から開発 かいはつ されたハ40改良 かいりょう 型 がた のハ140は、吸気 きゅうき 圧 あつ をあげてエンジン回転 かいてん 数 すう を2,500 rpm から2,750 rpmに高 たか め、離 はなれ 昇 のぼり 出力 しゅつりょく を1,175馬力 ばりき から1,500馬力 ばりき に高 たか めるものだった。過 か 給 きゅう 器 き の大型 おおがた 化 か とその冷却 れいきゃく のために水 みず メタノール噴射 ふんしゃ 装置 そうち が導入 どうにゅう された。三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き の場合 ばあい は95リットルの水 みず メタノールを搭載 とうさい 予定 よてい であった。80 kg程度 ていど の重量 じゅうりょう 増加 ぞうか のほか基本 きほん 構造 こうぞう はハ40と大差 たいさ はなかった。航空 こうくう 審査 しんさ 部 ぶ では、ハ40と比較 ひかく してさして整備 せいび 困難 こんなん と見 み ておらず、1944年 ねん 7月 がつ の航空 こうくう 審査 しんさ 部 ぶ による報告 ほうこく ではハ40より信頼 しんらい 性 せい があるとされている。また航空 こうくう 審査 しんさ 部 ぶ の2名 めい の士官 しかん および下士官 かしかん も少々 しょうしょう の問題 もんだい は有 あ ったが整備 せいび しにくいと言 い うほどでもなく、大体 だいたい もしくは十分 じゅうぶん に動 うご いたと回想 かいそう している。ただし川崎 かわさき が航空 こうくう 審査 しんさ 部 ぶ に精度 せいど 良好 りょうこう な個体 こたい を回 まわ すのは当然 とうぜん であるし、ハ40の審査 しんさ に加 くわ わった人物 じんぶつ が目 め を光 ひか らせている状態 じょうたい であるのであるから、航空 こうくう 審査 しんさ 部 ぶ で良 よ く回 まわ るのはむしろ当然 とうぜん であろうとの見方 みかた もある。なお歴史 れきし 群 ぐん 像 ぞう 編集 へんしゅう 部 ぶ (2010 , pp. 66–67)は、量産 りょうさん 性 せい はハ40より更 さら に悪化 あっか し、通常 つうじょう の1,000馬力 ばりき 級 きゅう 空冷 くうれい エンジンの5倍 ばい の工程 こうてい 数 すう が必要 ひつよう で、この生産 せいさん 性 せい の悪 わる さが「首 くび 無 な し機体 きたい 」の一因 いちいん になったのではないかとしている。
実際 じっさい の所 ところ は、好調 こうちょう なものは良 よ く回 まわ ったのであるが、やはり従来 じゅうらい よりのベアリングの焼 や き付 つ き、マグネットギアの摩耗 まもう 、点火 てんか 栓 せん 側 がわ 極 きょく の溶解 ようかい 、冷却 れいきゃく 水 すい ポンプの不良 ふりょう 、排気 はいき 弁 べん 焼損 しょうそん などトラブルは多発 たはつ 、開発 かいはつ は行 い き詰 づ まりを見 み せていた。弁 べん の焼損 しょうそん は、隣接 りんせつ するシリンダー同士 どうし の熱 ねつ 膨張 ぼうちょう や歪 ゆが みの干渉 かんしょう により弁 べん 座 ざ が歪 ゆが み、特 とく に排気 はいき 弁 べん を損傷 そんしょう させたものだという。ハ140は三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 二 に 型 がた に搭載 とうさい される予定 よてい であったが、エンジンの完成 かんせい 台数 だいすう は低調 ていちょう であった。このため二 に 型 がた の多 おお くはのちに空冷 くうれい エンジンを積 つ んで五 ご 式 しき 戦闘 せんとう 機 き に改造 かいぞう されることとなった。
なお、オリジナルのDB 601は改良 かいりょう 型 がた で離 はなれ 昇 のぼり 出力 しゅつりょく 1,350馬力 ばりき 、ボア・アップと高 こう 回転 かいてん 化 か した派生 はせい 型 がた のDB 605で1,455馬力 ばりき 、高 こう オクタン燃料 ねんりょう と水 みず メタノール噴射 ふんしゃ 装置 そうち を用 もち いて1,970馬力 ばりき を発揮 はっき している。
なお日本 にっぽん 陸軍 りくぐん は1944年 ねん 以降 いこう 、燃料 ねんりょう 不足 ふそく のため、代用 だいよう 燃料 ねんりょう として松根 おうね 油 あぶら などから抽出 ちゅうしゅつ したアルコール をガソリンに混合 こんごう するか単体 たんたい で利用 りよう し軍用 ぐんよう 機 き を飛 と ばそうとしていた。通常 つうじょう の星 ほし 型 がた 空冷 くうれい エンジンにはあまりよいものではなかったが、航空 こうくう 審査 しんさ 部 ぶ でのテストによれば、ハ140を搭載 とうさい した三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 二 に 型 がた は、これを用 もち いることでむしろ通常 つうじょう のガソリンよりも高 たか い性能 せいのう を示 しめ したという。
愛知 あいち で作 つく られていたアツタ21型 がた もDB 601を基 もと とするエンジンである。これはハ40と異 こと なる独自 どくじ の発展 はってん を遂 と げ、離 はなれ 昇 のぼり 出力 しゅつりょく 1,400馬力 ばりき を発揮 はっき するアツタ32型 がた が開発 かいはつ されていた。両社 りょうしゃ が独自 どくじ に原型 げんけい を発展 はってん させたために互換 ごかん 性 せい は全 まった くないが、1943年 ねん 11月に軍需 ぐんじゅ 省 しょう が設立 せつりつ されるとこの発動 はつどう 機 き にも統一 とういつ の目 め が向 む けられた。なお品質 ひんしつ 的 てき には川崎 かわさき のハ40系 けい より愛知 あいち のアツタ系 けい の方 ほう が良好 りょうこう であったとされる。エンジン統一 とういつ にあたり、プロペラ取 と り付 つ け位置 いち や排気 はいき 管 かん の位置 いち 、重心 じゅうしん の位置 いち など問題 もんだい 点 てん が列挙 れっきょ され、標準 ひょうじゅん 型 がた エンジンは基本 きほん をアツタ32型 がた とし、プロペラ軸 じく や過 か 給 きゅう 器 き をハ140に合 あ わせ、水 みず メタノール噴射 ふんしゃ 装置 そうち を加 くわ えたものとなった。
液 えき 冷 ひや エンジンに不可欠 ふかけつ なラジエーターは幅 はば 約 やく 800 mm、高 たか さ約 やく 480 mm、アンドレー式 しき のものである。このラジエーターは胴体 どうたい 下部 かぶ 中央 ちゅうおう 、すなわちパイロットのやや後方 こうほう あたりに半 はん 埋 う め込 こ み式 しき として配置 はいち された。機体 きたい から外 そと には250 mmが露出 ろしゅつ している。キ60では上下 じょうげ 式 しき としたがこれは重量 じゅうりょう が嵩 かさ むため、三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き では固定 こてい 式 しき に改 あらた められた。ラジエーターは前方 ぜんぽう から見 み て、エンジン冷却 れいきゃく 水 すい 冷却 れいきゃく 部 ぶ 、潤滑油 じゅんかつゆ 冷却 れいきゃく 部 ぶ 、エンジン冷却 れいきゃく 水 すい 冷却 れいきゃく 部 ぶ と3つに分 わ かれている。使用 しよう された冷却 れいきゃく 液 えき は化学 かがく 物質 ぶっしつ を混合 こんごう しない通常 つうじょう の淡水 たんすい であり、冷却 れいきゃく するに際 さい して約 やく 3.8 kg/cm2 に液 えき を加圧 かあつ し、沸点 ふってん を125度 ど として使用 しよう した。
また、滑 すべり 油 ゆ 冷却 れいきゃく 器 き の能力 のうりょく が過剰 かじょう でオイルが固 かた くなり循環 じゅんかん 不良 ふりょう による油 あぶら 温 ぬる 過 か 昇 のぼり を起 お こしたが、空気 くうき の通過 つうか 量 りょう を60~70%に抑 おさ えるフィルターを前面 ぜんめん に設置 せっち して解決 かいけつ した[174] 。18年 ねん 4月 がつ 末 まつ にラバウルへ移動 いどう した68戦隊 せんたい では、内地 ないち より暑 あつ いからとフィルターを撤去 てっきょ したところ過 か 冷 ひや による循環 じゅんかん 不良 ふりょう が再発 さいはつ し、元 もと に戻 もど したという[175] 。
土井 どい は戦後 せんご 、同 おな じ箇所 かしょ にラジエーターを配 はい したP-51 を見 み た時 とき 、その気流 きりゅう の処理 しょり の見事 みごと さに、さすがにアメリカの方 ほう が進 すす んでいるとの感想 かんそう を抱 だ いた。また同時 どうじ に、このアメリカ軍 ぐん 最優秀 さいゆうしゅう 機 き と三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き のラジエーター処理 しょり がほぼ同様 どうよう であったことは感無量 かんむりょう であったともしているが、実際 じっさい 類似 るいじ しているのは設置 せっち した場所 ばしょ だけで、構造 こうぞう や形状 けいじょう などは全 まった く異 こと なっている。なお、三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き における全 ぜん 空気 くうき 抵抗 ていこう の内 うち 、ラジエーターのそれは14 %を占 し めていた。
飛行 ひこう 第 だい 78戦隊 せんたい ではラジエーターの修理 しゅうり を多 おお く報告 ほうこく しており、中 なか でも油 あぶら 漏 も れが大 おお きな問題 もんだい とされた。まず前述 ぜんじゅつ のとおり水 みず 冷却 れいきゃく 器 き と油 あぶら 冷却 れいきゃく 器 き が一体 いったい 構成 こうせい であり、これを機外 きがい に降 お ろす作業 さぎょう が容易 ようい ではなかった。またオイルタンクはパイロットの足下 あしもと にあり、これは寒冷 かんれい 地 ち やそれなりの高 こう 々度 ど では良 よ い暖房 だんぼう になったが、南方 なんぽう の低 てい 高度 こうど ではコクピット内 ない が相当 そうとう に暑 あつ くなったようである。またこの水油 みずあぶら 同居 どうきょ 形式 けいしき のラジエーターは、空気 くうき 取 と り入 い れシャッターで各 かく 冷却 れいきゃく 機構 きこう の能力 のうりょく を調整 ちょうせい するものであったが、離陸 りりく 時 じ にはパイロットがシャッターを手動 しゅどう で操作 そうさ せねばならず、操作 そうさ ミスから、油 あぶら 温 ゆたか の上昇 じょうしょう 、水 みず 漏 も れなどの不具合 ふぐあい が続出 ぞくしゅつ した。また、オイル配管 はいかん をエンジンから遠 とお い機体 きたい 下面 かめん まで取 と り回 まわ したせいで、しばしば配管 はいかん の各所 かくしょ からオイル漏 も れが生 しょう じることとなった [要 よう 出典 しゅってん ] 。なお、水冷 すいれい 方式 ほうしき である本 ほん 機 き は地上 ちじょう 待機 たいき 状態 じょうたい であまりエンジンを回 まわ すと、すぐに水温 すいおん が上 あ がり冷却 れいきゃく 水 すい が沸騰 ふっとう 、圧力 あつりょく 逃 に がし弁 べん が開 ひら き、蒸気 じょうき が排出 はいしゅつ される。これは「お湯 ゆ を沸 わ かした」などと言 い われた。またこの状態 じょうたい はオーバーヒートを起 お こしている状態 じょうたい であり、離陸 りりく は困難 こんなん である。また飛行 ひこう 中 ちゅう に蒸気 じょうき を通 とお り越 こ して冷却 れいきゃく 水 すい そのものまで吹 ふ き出 だ すようなトラブルも見 み られた。
三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き の実戦 じっせん 配備 はいび は、当初 とうしょ から大 おお きなつまずきを見 み せた。本来 ほんらい 海軍 かいぐん の担当 たんとう 戦域 せんいき であったニューギニア ・ソロモン 方面 ほうめん の戦況 せんきょう が悪化 あっか し、1942年 ねん 11月には陸軍 りくぐん 航空 こうくう 隊 たい の内 うち 、戦闘 せんとう 機 き 2個 こ 戦隊 せんたい (1個 いっこ 戦隊 せんたい あたり39機 き +予備 よび 機 き 若干 じゃっかん )、重 じゅう 爆撃 ばくげき 機 き 1個 いっこ 戦隊 せんたい 、軽 けい 爆撃 ばくげき 機 き 2個 こ 戦隊 せんたい 、司 つかさ 偵独立 どくりつ 1個 いっこ 中隊 ちゅうたい の投入 とうにゅう が決定 けってい された。12月中旬 ちゅうじゅん 、ラバウルに一式 いっしき 戦闘 せんとう 機 き を装備 そうび した第 だい 12飛行 ひこう 団 だん の2個 こ 戦闘 せんとう 機 き 戦隊 せんたい (第 だい 1戦隊 せんたい 、第 だい 11戦隊 せんたい )が進出 しんしゅつ したが、B-17 や敵 てき 戦闘 せんとう 機 き との戦闘 せんとう で戦力 せんりょく が消耗 しょうもう したため、代 か わりに新鋭 しんえい のキ61を装備 そうび した第 だい 14飛行 ひこう 団 だん 、第 だい 68戦隊 せんたい と第 だい 78戦隊 せんたい の投入 とうにゅう が決定 けってい された。
第 だい 14飛行 ひこう 団 だん は1942年 ねん 3月 がつ に編成 へんせい され、九 きゅう 七 なな 式 しき 戦闘 せんとう 機 き を装備 そうび して満州 まんしゅう で訓練 くんれん を行 おこな っていたが、南方 みなかた 進出 しんしゅつ にあたり、キ61への機種 きしゅ 更新 こうしん を命 めい じられた[注釈 ちゅうしゃく 12] 。当時 とうじ キ61の生産 せいさん が始 はじめ ったばかりで機 き 数 すう が揃 そろ わないため、先 さき に第 だい 68戦隊 せんたい から機種 きしゅ 更新 こうしん を始 はじ めることとなり、1943年 ねん の年明 としあ けから明野 あけの 飛行 ひこう 学校 がっこう において本格 ほんかく 的 てき な機種 きしゅ 更新 こうしん を開始 かいし した。しかし、この時点 じてん でキ61は、いまだに初期 しょき 不良 ふりょう を洗 あら い出 だ して切 き れておらず、川崎 かわさき 側 がわ で不具合 ふぐあい を逐次 ちくじ 改良 かいりょう 中 ちゅう という段階 だんかい だった上 うえ 、整備 せいび 兵 へい もその大半 たいはん が液 えき 冷 ひや エンジンを扱 あつか った経験 けいけん がなかったこともあり、短時間 たんじかん でハ40 の整備 せいび をものするのは困難 こんなん であった。そのため、エンジンの燃料 ねんりょう ポンプの故障 こしょう 、冷却 れいきゃく 水 すい 漏 も れ、ベイバーロックなど機材 きざい の故障 こしょう が頻発 ひんぱつ し、修理 しゅうり してはまた新 あら たに故障 こしょう するといった具合 ぐあい で未 み 修 おさむ 飛行 ひこう (新 しん 機材 きざい の操作 そうさ に慣 な れるための訓練 くんれん )ははかどらなかった。
出撃 しゅつげき 時期 じき は第 だい 68戦隊 せんたい は3月 がつ 末 まつ 、第 だい 78戦隊 せんたい は6月と決 き まり、各員 かくいん の非常 ひじょう な努力 どりょく によって戦力 せんりょく 化 か は急 いそ がれたが、第 だい 68戦隊 せんたい の出撃 しゅつげき が迫 せま った3月 がつ に入 はい っても未 み 修 おさむ 飛行 ひこう をこなすのが精一杯 せいいっぱい で、とても戦闘 せんとう 訓練 くんれん に移行 いこう できる状態 じょうたい ではなく、到底 とうてい 不安 ふあん を払拭 ふっしょく するには至 いた らなかったため、第 だい 68戦 せん 隊長 たいちょう 下山 しもやま 登 のぼる (みのる)中佐 ちゅうさ は陸軍 りくぐん 航空 こうくう 本部 ほんぶ の河辺 かわべ 虎 とら 四 よん 郎 ろう 少将 しょうしょう に対 たい し、3ヵ月 かげつ ほどの進出 しんしゅつ 延期 えんき を願 ねが い出 で たものの、取 と り付 つ くしまもない状態 じょうたい であった。それでも諦 あきら め切 き れなかった下山 げざん 戦隊 せんたい 長 ちょう は、航空 こうくう 本部 ほんぶ の担当 たんとう 課長 かちょう に面会 めんかい を求 もと め、「こんな飛行機 ひこうき を持 も っていけと言 い うのなら、辞任 じにん したいぐらいだ。」と迫 せま ったが、「そんなことをいうのは日本 にっぽん 軍人 ぐんじん ではない。これは命令 めいれい だ。軍人 ぐんじん 精神 せいしん が足 た りないから、動 うご かないのだ。」などと理不尽 りふじん な言葉 ことば を浴 あ びせられた。
結局 けっきょく 、3月 がつ 末 まつ の段階 だんかい での第 だい 68戦隊 せんたい の訓練 くんれん の進捗 しんちょく 状 じょう 況 きょう は、搭乗 とうじょう 員 いん 全員 ぜんいん の未 み 修 おさむ 飛行 ひこう こそ何 なに とか終 お えたものの、戦闘 せんとう 訓練 くんれん は1~2回 かい 形 がた だけ行 い った程度 ていど 、夜間 やかん 飛行 ひこう 訓練 くんれん はおろか、長距離 ちょうきょり 飛行 ひこう 訓練 くんれん や射撃 しゃげき 訓練 くんれん すらまったく行 い っていないというひどいものだった。
このような経緯 けいい を経 へ て、第 だい 68戦隊 せんたい には進出 しんしゅつ 予定 よてい の3月 がつ 末 まつ までに予備 よび 機 き 含 ふく め45機 き ほどのキ61が集 あつ められ、空母 くうぼ 大鷹 おおたか に積載 せきさい のうえ4月 がつ 10日 とおか にはトラック諸島 しょとう に到着 とうちゃく した。ここから空路 くうろ でラバウル へ向 む かう事 こと となったが、トラックにおける訓練 くんれん 中 ちゅう にもいくつかの事故 じこ が発生 はっせい して殉職 じゅんしょく 者 しゃ がでる有様 ありさま で、キ61への不信 ふしん 感 かん は募 つの っていった。
さらに問題 もんだい となったのが、キ61の航続力 こうぞくりょく であった。落下 らっか タンクが不足 ふそく していたため、戦隊 せんたい 長 ちょう 、中隊 ちゅうたい 長 ちょう 、中隊 ちゅうたい 付 づけ 先任 せんにん 将校 しょうこう の機 き には2本 ほん 付 つ けたものの、大半 たいはん の機 き には1本 ほん しか装着 そうちゃく できなかった。落下 らっか タンク1本 ほん 装備 そうび の状態 じょうたい で、カタログデータ上 じょう は約 やく 2,000 km飛行 ひこう できることにはなっていたが、実戦 じっせん 部隊 ぶたい の機 き 、しかも編隊 へんたい を組 く むための空中 くうちゅう 待機 たいき の時間 じかん などを考慮 こうりょ すると正味 しょうみ 1,500~1,600 km程度 ていど 、トラックからラバウル 間 あいだ の約 やく 1,300 kmの距離 きょり と比較 ひかく して余裕 よゆう があるとは言 い い難 がた い燃料 ねんりょう 状況 じょうきょう であった。
そうした中 なか 、4月 がつ 24日 にち 、いよいよラバウルに進出 しんしゅつ することとなったが、集団 しゅうだん で離陸 りりく する訓練 くんれん をしていなかったため、全 ぜん 機 き が離陸 りりく して集合 しゅうごう を終 お えるまで1時 じ 間 あいだ もかかった上 うえ 、しばらく飛行 ひこう したところで下山 げざん 戦隊 せんたい 長 ちょう 機 き に不具合 ふぐあい が発生 はっせい したことから、進出 しんしゅつ を断念 だんねん した。加 くわ えて引 ひ き返 かえ したあたりで、大木 おおき 正一 しょういち 曹長 そうちょう 機 き がエンジン不調 ふちょう により不時 ふじ 着水 ちゃくすい し、トラックから300キロ近 ちか く離 はな れた地点 ちてん だったため、曹長 そうちょう はそのまま行方 ゆくえ 不明 ふめい となり、初 はつ の戦没 せんぼつ 者 しゃ を出 だ す事態 じたい となった。
4月 がつ 27日 にち 、27機 き が再度 さいど ラバウルへ向 む けて発進 はっしん した。3日 にち 前 まえ の反省 はんせい から、戦隊 せんたい 本部 ほんぶ と第 だい 1中隊 ちゅうたい の12機 き が先行 せんこう し、約 やく 1時 じ 間 あいだ 後 ご に第 だい 2中隊 ちゅうたい と第 だい 3中隊 ちゅうたい の15機 き が後続 こうぞく する形 かたち をとった。
先発 せんぱつ 隊 たい の編成 へんせい は、以下 いか のようになっていた。
戦隊 せんたい 本部 ほんぶ (4機 き )
下山 しもやま 登 のぼる 中佐 ちゅうさ (戦隊 せんたい 長 ちょう )
浅野 あさの 眞 しん 照 あきら 大尉 たいい
西川 にしかわ 貞雄 さだお 曹長 そうちょう
稲見 いなみ 靖 やすし 軍曹 ぐんそう
第 だい 1中隊 ちゅうたい (8機 き )
中川 なかがわ 鎮之助 じょ 中尉 ちゅうい
小川 おがわ 登 のぼる 中尉 ちゅうい
白山 しろやま 銀蔵 ぎんぞう 曹長 そうちょう
池田 いけだ 秀夫 ひでお 曹長 そうちょう
黒岩 くろいわ 朝彦 あさひこ 曹長 そうちょう
山崎 やまざき 民 みん 作 さく 曹長 そうちょう
吉田 よしだ 晃 あきら 軍曹 ぐんそう
寺脇 てらわき 弘 ひろし 伍長 ごちょう
しかし、この先発 せんぱつ 隊 たい の12機 き が大 おお きな悲劇 ひげき に巻 ま き込 こ まれてしまう。
渡辺 わたなべ (2006 , pp. 133–140)によると、先発 せんぱつ 隊 たい は以下 いか のような経過 けいか をたどった。
まず、先発 せんぱつ 隊 たい を先導 せんどう するはずだった百 ひゃく 式 しき 司令 しれい 部 ぶ 偵察 ていさつ 機 き がエンジン故障 こしょう のため発進 はっしん できなかったことから、陸軍 りくぐん 飛行 ひこう 隊 たい 単独 たんどく で不慣 ふな れな洋上 ようじょう 計器 けいき 飛行 ひこう を行 おこな うことを余儀 よぎ なくされた。飛 と び始 はじ めてまもなく、浅野 あさの 大尉 たいい 、中川 なかがわ 中尉 ちゅうい らは、3日 にち 前 まえ と景色 けしき が異 こと なっていることから異変 いへん に気 き づき、コンパス
[注釈 ちゅうしゃく 13]
を見 み るとほぼ真 ま 南 みなみ である175度 ど の進路 しんろ を取 と るところを、145度 ど の進路 しんろ を取 と っていた[注釈 ちゅうしゃく 14] 。しかし搭載 とうさい されていた無線 むせん 機 き は不調 ふちょう で、相互 そうご の連絡 れんらく も取 と れない状況 じょうきょう であったことから、戦隊 せんたい 長 ちょう に誤 あやま りを報 しら せることができなかった。
そのまま20分 ふん ほど飛行 ひこう を続 つづ けたところで、西川 にしかわ 曹長 そうちょう 機 き がエンジン故障 こしょう のためトラックに引 ひ き返 かえ し、浅野 あさの 大尉 たいい 機 き がこれに同行 どうこう した(この両 りょう 名 な がどうなったのかについての記述 きじゅつ はないが、後 ご の戦闘 せんとう で名前 なまえ を確認 かくにん できることから、無事 ぶじ にトラックに帰着 きちゃく したと推定 すいてい される)。飛行 ひこう を続 つづ けるうちに、下山 げざん 戦隊 せんたい 長 ちょう 自身 じしん も針路 しんろ に疑問 ぎもん を感 かん じ始 はじ めたが、無線 むせん が通 つう じないため他 た 機 き に確認 かくにん のしようがなく、目標 もくひょう のない洋上 ようじょう 飛行 ひこう で勘 かん を信 しん じるのは危険 きけん との判断 はんだん から、しばらくコンパスにしたがって飛 と ぶこととした。
トラックを離陸 りりく して2時 じ 間 あいだ ほどたったところで、正 ただ しいコースから東 ひがし に300 kmもずれたグリーニッチ島 とう が見 み えてきたことから、下山 げざん 戦隊 せんたい 長 ちょう 機 き のコンパスが狂 くる っていることは明白 めいはく となった。ちょうどその頃 ころ 、小川 おがわ 中尉 ちゅうい 機 き と吉田 よしだ 軍曹 ぐんそう 機 き が立 た て続 つづ けにエンジン不調 ふちょう となり、両 りょう 名 な とも自爆 じばく した[注釈 ちゅうしゃく 15] 。出発 しゅっぱつ 後 ご 3時 じ 間 あいだ 半 はん を経 へ たあたりで、下山 げざん 戦隊 せんたい 長 ちょう も進路 しんろ の間違 まちが いを確信 かくしん し、修正 しゅうせい を試 こころ みたものの、正 まさ しく修正 しゅうせい できなかったため、たまりかねた中川 なかがわ 中尉 ちゅうい 機 き が先導 せんどう してようやく正 ただ しい方角 ほうがく に修正 しゅうせい したが、既 すで に時機 じき を逸 いっ していた。ラバウル北東 ほくとう 約 やく 250 kmにあるヌグリア諸島 しょとう にさしかかったあたりで、落下 らっか タンクが1本 ほん の機 き は燃料 ねんりょう が乏 とぼ しくなっており、それを察 さっ した下山 げざん 戦隊 せんたい 長 ちょう は、部下 ぶか が不時着 ふじちゃく を躊躇 ちゅうちょ しないように自 みずか ら同 どう 諸島 しょとう に不時着 ふじちゃく し、山崎 やまざき 曹長 そうちょう 機 き がこれに続 つづ いた。稲見 いなみ 軍曹 ぐんそう 機 き はその先 さき のタンガ諸島 しょとう 付近 ふきん に不時 ふじ 着水 ちゃくすい し、軍曹 ぐんそう は原住民 げんじゅうみん に救助 きゅうじょ された。残 のこ った5機 き はなおもラバウルを目指 めざ したが、池田 いけだ 曹長 そうちょう 機 き はラバウル湾 わん 、白山 はくさん 曹長 そうちょう 、黒岩 くろいわ 曹長 そうちょう 、寺脇 てらわき 伍長 ごちょう の機 き はニューブリテン島内 とうない に不時着 ふじちゃく し、結局 けっきょく 先発 せんぱつ 隊 たい 12機 き のうち、無事 ぶじ にラバウルに辿 たど り着 つ いたのは中川 なかがわ 中尉 ちゅうい 機 き だけであった。なお、後発 こうはつ 隊 たい はこれより先 さき にラバウルに到着 とうちゃく していたが、おそらく故障 こしょう のため途中 とちゅう で1機 き を失 うしな った。進出 しんしゅつ 作戦 さくせん の結果 けっか は、到着 とうちゃく した機体 きたい が27機 き 中 ちゅう 15機 き 、失 うしな った搭乗 とうじょう 員 いん 3名 めい 、喪失 そうしつ 機材 きざい は10機 き という惨憺 さんたん たる結果 けっか に終 お わった。この後 のち 、トラック島 とう から6機 き が追加 ついか 空輸 くうゆ された。なお第 だい 14飛行 ひこう 団 だん 司令 しれい 部 ぶ はまだ到着 とうちゃく していないため、暫定 ざんてい 的 てき に第 だい 12飛行 ひこう 団 だん の指揮 しき 下 か となった。
初陣 ういじん は1943年 ねん 5月 がつ 15日 にち 、18機 き で九 きゅう 七 なな 式 しき 重 じゅう 爆撃 ばくげき 機 き の護衛 ごえい を行 おこな った。戦隊 せんたい の使用 しよう 可能 かのう 機 き 数 すう は5月 がつ 末 まつ 時点 じてん で18機 き 、その後 ご もトラックからの空輸 くうゆ により補充 ほじゅう が行 おこな われた。
第 だい 68戦隊 せんたい に続 つづ き、前線 ぜんせん に投入 とうにゅう された第 だい 78戦隊 せんたい は、1943年 ねん 4月 がつ 10日 とおか より明野 あけの 飛行 ひこう 学校 がっこう で本格 ほんかく 的 てき な機種 きしゅ 変更 へんこう を開始 かいし したが、やはり初期 しょき の故障 こしょう に悩 なや まされ錬成 れんせい は遅 おく れた。ラバウルへの進出 しんしゅつ については6月 がつ 16日 にち から実施 じっし された。第 だい 68戦隊 せんたい の航空 こうくう 事故 じこ の失敗 しっぱい を繰 く り返 かえ さないため、長距離 ちょうきょり 洋上 ようじょう 飛行 ひこう ではなく、宮崎 みやざき 県 けん から沖縄 おきなわ 、台湾 たいわん 、マニラ 、ダバオ 、メナド 、バボ、ホーランジア 、ウェワク 、ラバウルの行程 こうてい で、島 しま 伝 づた いの進出 しんしゅつ が計画 けいかく された[198] 。進出 しんしゅつ した機 き 数 すう は45機 き 、全 ぜん 行程 こうてい は約 やく 9,000 kmである。整備 せいび 班 はん を乗 の せた輸送 ゆそう 機 き が同行 どうこう したが故障 こしょう 機 き が続出 ぞくしゅつ した。6月29日 にち にラバウルに到着 とうちゃく したのはわずか7機 き に過 す ぎなかった。その後 ご 、落伍 らくご 機 き の復帰 ふっき で7月 がつ 5日 にち までには合計 ごうけい 33機 き がラバウルに進出 しんしゅつ したが、12機 き は途中 とちゅう の飛行場 ひこうじょう に残置 ざんち せざるを得 え なかった。
こうして第 だい 14飛行 ひこう 団 だん はラバウルへの進出 しんしゅつ を完了 かんりょう した。7月8日 にち には実戦 じっせん を開始 かいし した。
ニューギニア進出 しんしゅつ [ 編集 へんしゅう ]
1945年 ねん 1月 がつ 、飛行 ひこう 第 だい 244戦隊 せんたい 本部 ほんぶ 小隊 しょうたい (小林 こばやし 照彦 てるひこ 戦隊 せんたい 長 ちょう 機 き )の三 さん 式 しき 戦 せん 一 いち 型 がた 丙 へい (キ61-I丙 へい )3295号 ごう
現地 げんち の作戦 さくせん 領域 りょういき の分担 ぶんたん としては、海軍 かいぐん がソロモン諸島 しょとう 方面 ほうめん を、陸軍 りくぐん がニューギニア 方面 ほうめん を担当 たんとう した。なおこの方面 ほうめん には三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 2個 こ 戦隊 せんたい の他 ほか に、一式 いっしき 戦闘 せんとう 機 き 8個 こ 戦隊 せんたい が配備 はいび されていた。
当初 とうしょ は爆 ばく 撃 げき 機 き の護衛 ごえい などを行 おこな ったが、やはり稼働 かどう 率 りつ は低 ひく く、搭乗 とうじょう 員 いん は故障 こしょう 知 し らずの海軍 かいぐん の零 れい 式 しき 艦上 かんじょう 戦闘 せんとう 機 き をうらやんだとされる。第 だい 14飛行 ひこう 団 だん は内地 ないち へ引 ひ き返 かえ す第 だい 12飛行 ひこう 団 だん と入 い れ替 か わり、7月 がつ 15日 にち には東部 とうぶ ニューギニアのウエワク へ転進 てんしん した。ここで本格 ほんかく 的 てき な作戦 さくせん が開始 かいし される。7月17日 にち 時点 じてん で、第 だい 68戦隊 せんたい が13機 き 、第 だい 78戦隊 せんたい が22機 き 、合計 ごうけい 35機 き の稼動 かどう 機 き が在 あ った。8月 がつ 10日 とおか には新編 しんぺん された第 だい 4航空 こうくう 軍 ぐん の第 だい 7飛行 ひこう 師団 しだん 隷下 れいか となった。なおイギリスの文献 ぶんけん 『週刊 しゅうかん Aircarft』によれば、本 ほん 機 き はP-40相手 あいて には優勢 ゆうせい に戦 たたか い、連合 れんごう 軍 ぐん は一時 いちじ 的 てき に制空権 せいくうけん を失 うしな い、ヨーロッパに配備 はいび 予定 よてい であったP-38をこの戦線 せんせん に回 まわ すよう、ヘンリー・アーノルド に直訴 じきそ が行 おこな われたという。
なお1943年 ねん 半 なか ばには日本 にっぽん 陸軍 りくぐん 航空 こうくう 隊 たい も前線 ぜんせん でロッテ戦術 せんじゅつ を採用 さいよう しているが[注釈 ちゅうしゃく 16] 、無線 むせん 電話 でんわ の性能 せいのう が悪 わる いためにアメリカ軍機 ぐんき のような連携 れんけい はとれなかった。
第 だい 14飛行 ひこう 団 だん は主 おも にP-38を敵 てき として対戦 たいせん したが、1943年 ねん 8月 がつ 17日 にち には連合 れんごう 軍 ぐん のB-25 32機 き 、P-38 85機 き の戦 せん 爆 ばく 連合 れんごう による奇襲 きしゅう 攻撃 こうげき を受 う けた。この結果 けっか 、第 だい 4航空 こうくう 軍 ぐん の保有 ほゆう する130機 き の戦力 せんりょく は40機 き へ低下 ていか した。第 だい 14飛行 ひこう 団 だん も第 だい 68戦隊 せんたい が稼動 かどう 機 き 6機 き 、第 だい 78戦隊 せんたい は稼動 かどう 機 き 0機 き と、全滅 ぜんめつ に近 ちか い損害 そんがい を受 う けた。
その後 ご もマニラで新 しん 機材 きざい を受領 じゅりょう し、空輸 くうゆ を行 おこな って戦力 せんりょく の補充 ほじゅう に努 つと めた。敵 てき はP-40、P-38および新鋭 しんえい P-47 、B-24 爆 ばく 撃 げき 機 き 、B-25 爆 ばく 撃 げき 機 き であり、戦隊 せんたい は激 はげ しい戦闘 せんとう に従事 じゅうじ した。新鋭 しんえい のP-47はP-38ほど一 いち 撃 げき 離脱 りだつ に徹 てっ しなかったため、むしろ戦 たたか いやすかったともされるが、性能 せいのう 自体 じたい は高 たか く、一撃 いちげき 離脱 りだつ に徹 とお されると脅威 きょうい であったとの証言 しょうげん もある。
三脚 さんきゃく 上 じょう に載 の せられた口径 こうけい 20 mmのMG151機関 きかん 砲 ほう 。オーストリアの博物館 はくぶつかん 収蔵 しゅうぞう 品 ひん 。後方 こうほう はBf109
1943年 ねん 12月にはドイツから輸入 ゆにゅう した20 mmマウザー砲 ほう を翼 つばさ 内 ない に装備 そうび した三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き が到着 とうちゃく し、火力 かりょく 面 めん では格段 かくだん の向上 こうじょう が見 み られた。しかしこの時期 じき には戦隊 せんたい の人員 じんいん ・機材 きざい とも消耗 しょうもう しており、三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き の代替 だいたい として旧式 きゅうしき の一式 いっしき 戦闘 せんとう 機 き を受領 じゅりょう 、また多 おお くの期間 きかん 両 りょう 戦隊 せんたい を合 あ わせて稼動 かどう 機 き が20機 き を超 こ えることが滅多 めった に無 な い状況 じょうきょう であった。さらにアメーバ赤痢 せきり やマラリア が蔓延 まんえん しており、例 たと え機体 きたい が補充 ほじゅう されたとしても兵員 へいいん の質 しつ の面 めん で戦力 せんりょく の発揮 はっき には大 おお きな問題 もんだい があった。
1944年 ねん 2月 がつ にはウエワクの維持 いじ が不可能 ふかのう となりホランジア へ後退 こうたい 、3月には敵 てき 空襲 くうしゅう により第 だい 14飛行 ひこう 団 だん の稼動 かどう 機 き は合計 ごうけい 5機 き にまで減少 げんしょう した。4月22日 にち にはホランジアに米 べい 軍 ぐん が上陸 じょうりく を開始 かいし し、7月 がつ 25日 にち には第 だい 14飛行 ひこう 団 だん は解散 かいさん した。三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き のニューギニアでの過酷 かこく な戦 たたか いは約 やく 1年間 ねんかん で幕 まく を閉 と じた。
ニューギニアを制圧 せいあつ した米 べい 軍 ぐん の次 つぎ の目標 もくひょう はフィリピン であった。一説 いっせつ にはこの頃 ころ になると、三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き は対 たい 戦闘 せんとう 機 き 戦闘 せんとう に不向 ふむ きと見 み なされる様 よう になり、敵 てき 爆撃 ばくげき 機 き の迎撃 げいげき 任務 にんむ に回 まわ され、制 せい 空 そら 戦闘 せんとう については新型 しんがた の四 よん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き の方 ほう に期待 きたい がかけられはじめた。
1944年 ねん 2月 がつ には第 だい 22飛行 ひこう 団 だん として愛知 あいち 県 けん 小牧 おまき で第 だい 17戦隊 せんたい 、明野 あけの で第 だい 19戦隊 せんたい が編成 へんせい された。第 だい 17戦 せん 隊長 たいちょう は開発 かいはつ 時 じ より三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き に携 たずさ わってきた荒蒔 あらまき 義次 よしじ 少佐 しょうさ である。飛行 ひこう 団 だん は5月 がつ 内 ない にマニラに進出 しんしゅつ し、南方 なんぽう 軍 ぐん 直轄 ちょっかつ の第 だい 2飛行 ひこう 師団 しだん に編入 へんにゅう された。ただし7月 がつ 5日 にち には、第 だい 4航空 こうくう 軍 ぐん 隷下 れいか に移動 いどう している。機材 きざい の受領 じゅりょう と錬成 れんせい が順調 じゅんちょう に進 すす まないものの、6月 がつ 下旬 げじゅん までには35機 き を揃 そろ えてマニラへの進出 しんしゅつ を完了 かんりょう した。8月 がつ 末 まつ の時点 じてん で稼動 かどう 機 き は第 だい 17戦隊 せんたい が14機 き 、第 だい 19戦隊 せんたい が18機 き であった。なお、第 だい 4航空 こうくう 軍 ぐん 第 だい 7錬成 れんせい 飛行 ひこう 隊 たい の10機 き 程度 ていど も戦力 せんりょく として使用 しよう が可能 かのう で、三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き の他 ほか には第 だい 4航空 こうくう 軍 ぐん 全体 ぜんたい で318機 き 、海軍 かいぐん は第 だい 一 いち 航空 こうくう 艦隊 かんたい 241機 き の航空機 こうくうき を用意 ようい している。
1944年 ねん 9月 がつ 21日 にち 、第 だい 17戦隊 せんたい (機 き 数 すう 不明 ふめい )と第 だい 19戦隊 せんたい (20機 き )、大塚 おおつか の文献 ぶんけん によれば合計 ごうけい 約 やく 40機 き がアメリカ第 だい 38任務 にんむ 部隊 ぶたい の新鋭 しんえい 艦上 かんじょう 戦闘 せんとう 機 き であるF6F と交戦 こうせん した。圧倒的 あっとうてき 多数 たすう の敵 てき 機 き との空戦 くうせん により約 やく 25機 き から少 すく なくとも22機 き が失 うしな われ、第 だい 17戦隊 せんたい はパイロット12名 めい を失 うしな う大 だい 損害 そんがい を受 う けた。第 だい 19戦隊 せんたい も6名 めい 、第 だい 7錬成 れんせい 飛行 ひこう 隊 たい も2名 めい を失 うしな った。米 べい 軍 ぐん 側 がわ の損害 そんがい は対空 たいくう 砲火 ほうか によるもの以外 いがい 皆無 かいむ もしくは僅少 きんしょう であった。翌 よく 22日 にち も7機 き で迎撃 げいげき を行 おこな ったが、さらに2名 めい の戦死 せんし 者 しゃ を出 だ し機体 きたい 3機 き を失 うしな うも、戦果 せんか を得 え なかった。
なお10月 がつ 10日 とおか には台湾 たいわん に対 たい し第 だい 38任務 にんむ 部隊 ぶたい による空襲 くうしゅう が行 おこな われ、ここに駐屯 ちゅうとん していた飛行 ひこう 第 だい 8師団 しだん 隷下 れいか 独立 どくりつ 飛行 ひこう 第 だい 23中隊 ちゅうたい の、一式 いっしき 戦闘 せんとう 機 き 2機 き を含 ふく む16機 き または17機 き (パイロット15名 めい )が爆 ばく 装 そう で出撃 しゅつげき し、薄暮 はくぼ 攻撃 こうげき で敵艦 てきかん 隊 たい への反撃 はんげき を企図 きと した。
また三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き の稼動 かどう 機 き 10機 き による全力 ぜんりょく 攻撃 こうげき が行 おこな われようとしたが、離陸 りりく 直後 ちょくご を20機 き のF6Fに襲 おそ われ、5機 き 撃墜 げきつい 、3機 き 不時着 ふじちゃく 大破 たいは 、1機 き 炎上 えんじょう と、壊滅 かいめつ 的 てき な損害 そんがい を受 う けた。ただし田形 たがた (1991) によればこの戦 たたか いは制 せい 空 そら 戦闘 せんとう であり、敵 てき 機 き は240機 き が投入 とうにゅう されていた。戦闘 せんとう 高度 こうど は3,500 mとされ、戦闘 せんとう 状 じょう 況 きょう は離陸 りりく 直後 ちょくご ではない。やはり中隊 ちゅうたい は全滅 ぜんめつ するも、敵 てき 機 き 10数 すう 機 き を撃墜 げきつい ・撃破 げきは したとする。台湾 たいわん にはこのほか一式 いっしき 戦闘 せんとう 機 き 8機 き 、三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 7機 き の集成 しゅうせい 防空 ぼうくう 第 だい 一 いち 隊 たい があり、10月12日 にち に行 おこな われた飛行 ひこう 第 だい 8師団 しだん (主力 しゅりょく 54機 き 、その他 た 27機 き )による総 そう 反撃 はんげき にも加 くわ わっている。その内 うち 、操縦 そうじゅう 歴 れき 8年 ねん のベテランパイロット田形 たがた 竹雄 たけお 准尉 じゅんい は初陣 ういじん の僚機と2機 き で敵 てき 機 き 36機 き を迎撃 げいげき し、有利 ゆうり な体勢 たいせい から攻撃 こうげき を開始 かいし した。僚機は真 ま 戸原 とばら 忠志 ちゅうし 軍曹 ぐんそう が搭乗 とうじょう しており、22歳 さい の彼 かれ は初陣 ういじん であっても操縦 そうじゅう 歴 れき 4年 ねん 、飛行 ひこう 時間 じかん 1,500時 じ 間 あいだ を数 かぞ えるパイロットだった。また彼 かれ は田形 たがた の僚機を1年 ねん 半 はん 務 つと めており、田形 たがた によれば相当 そうとう な実力 じつりょく をもっていた。何 なん 度 ど かの一 いち 撃 げき 離脱 りだつ のあと乱戦 らんせん に移行 いこう し、20数 すう 分 ぶん の戦闘 せんとう を経 へ て力尽 ちからつ き僚機共 ども に撃墜 げきつい されるも、両 りょう 者共 ものども 不時着 ふじちゃく に成功 せいこう し生還 せいかん した。戦果 せんか は撃墜 げきつい 6、撃破 げきは 5を報告 ほうこく した。なお、田形 たがた はその手記 しゅき で、三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き がF6Fに比 くら べ40 km/h優 ゆう 速 そく であった (p.59)ことを敢闘 かんとう できた要因 よういん のひとつとしている。これは三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き がF6Fに勝利 しょうり を収 おさ めた希有 けう な例 れい である。
フィリピン方面 ほうめん では10月 がつ 10日 とおか までに、第 だい 17戦隊 せんたい の稼動 かどう 機 き は22機 き に、第 だい 19戦隊 せんたい は25機 き にまで回復 かいふく していた。飛行 ひこう 団 だん は戦闘 せんとう を続 つづ け、10月18日 にち に捷一 しょういち 号 ごう 作戦 さくせん が発令 はつれい 、20日 はつか には敵 てき はレイテ島 れいてとう に上陸 じょうりく した。敵艦 てきかん 船 せん への攻撃 こうげき に参加 さんか した結果 けっか 、10月22日 にち までに飛行 ひこう 団 だん の稼動 かどう 機 き は完全 かんぜん に尽 つ きた。24日 にち には苦心 くしん して2機 き から3機 き の稼動 かどう 機 き を揃 そろ えたが、この段階 だんかい で既 すで に戦闘 せんとう の大勢 おおぜい は決 けっ していた。11月1日 にち には、第 だい 19戦隊 せんたい の生 い き残 のこ りである10名 めい 程度 ていど のパイロットに本土 ほんど 帰還 きかん が命 めい じられた。しかし荒蒔 あらまき 戦隊 せんたい 長 ちょう らを含 ふく む第 だい 17戦隊 せんたい は戦闘 せんとう を続行 ぞっこう した。11月頃 ごろ には第 だい 2飛行 ひこう 師団 しだん 全体 ぜんたい で40機 き 程度 ていど の戦闘 せんとう 機 き しか保有 ほゆう しないという過酷 かこく な戦況 せんきょう の中 なか で戦闘 せんとう を続 つづ け、内地 ないち 帰還 きかん 命令 めいれい が出 で たのは12月8日 にち である。荒蒔 あらまき 戦隊 せんたい 長 ちょう がフィリピンを離 はな れたのは翌 よく 1945年 ねん 1月 がつ 9日 にち のことであった。
また日本 にっぽん 本土 ほんど 侵攻 しんこう への大 おお きな一 いち 歩 ほ であるフィリピン作戦 さくせん には、本土 ほんど 防空 ぼうくう 任務 にんむ に当 あ たっていたいくつかの飛行 ひこう 戦隊 せんたい も投入 とうにゅう されている。そのうち、第 だい 18飛行 ひこう 戦隊 せんたい と第 だい 55飛行 ひこう 戦隊 せんたい も三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 装備 そうび 部隊 ぶたい であった。
第 だい 18戦隊 せんたい の一 いち 型 がた 丙 へい は、現地 げんち での弾薬 だんやく 補給 ほきゅう が困難 こんなん な20 mmマウザー砲 ほう の代 か わりに12.7 mm機関 きかん 砲 ほう を装備 そうび し、11月11日 にち に35機 き が出立 しゅったつ した。この戦隊 せんたい は那 な 覇 は ・台湾 たいわん 経由 けいゆ で進出 しんしゅつ し、18日 にち までに31機 き がアンヘレス西 にし 飛行場 ひこうじょう に到着 とうちゃく した。当初 とうしょ は四 よん 式 しき 重 じゅう 爆撃 ばくげき 機 き で編成 へんせい された特攻隊 とっこうたい の護衛 ごえい 任務 にんむ に従事 じゅうじ した。ところが11月25日 にち にはF6Fとの空戦 くうせん に敗 やぶ れ、稼動 かどう 機 き は5機 き にまで減少 げんしょう し、1945年 ねん 1月 がつ には本土 ほんど に帰還 きかん を余儀 よぎ なくされた。
第 だい 55戦隊 せんたい は11月10日 にち に本土 ほんど を出発 しゅっぱつ した。18日 にち までに約 やく 30機 き または38機 き [注釈 ちゅうしゃく 17] がアンヘレス西 にし 飛行場 ひこうじょう に到着 とうちゃく した。しかし11月25日 にち には敵 てき P-38の奇襲 きしゅう を受 う けて7機 き の損失 そんしつ を出 だ すなど苦戦 くせん が続 つづ く。明 あ けて1945年 ねん 1月 がつ 9日 にち 、アメリカ軍 ぐん はルソン島 るそんとう に上陸 じょうりく を開始 かいし した。1月15日 にち には戦隊 せんたい に帰還 きかん 命令 めいれい が出 だ され、5名 めい の搭乗 とうじょう 員 いん は内地 ないち へ帰還 きかん できたほかいくらかの人員 じんいん は台湾 たいわん への後退 こうたい に成功 せいこう したが、地上 ちじょう 勤務 きんむ 者 しゃ の大半 たいはん は地上 ちじょう 部隊 ぶたい に編入 へんにゅう され、アメリカ軍 ぐん との交戦 こうせん の末 すえ に戦死 せんし するものが大半 たいはん を占 し めた。
また第 だい 19戦隊 せんたい は本土 ほんど での戦力 せんりょく 回復 かいふく 後 ご 台湾 たいわん へ移動 いどう 、1945年 ねん 1月 がつ 5日 にち 頃 ごろ 、1個 いっこ 中隊 ちゅうたい がフィリピンに再 さい 進出 しんしゅつ した。なお一部 いちぶ は台湾 たいわん に残置 ざんち された。彼 かれ らは艦船 かんせん 攻撃 こうげき や特攻 とっこう 機 き の援護 えんご などを行 おこな い、12日 にち までにその戦 たたか いの幕 まく を下 お ろした。
北九州 きたきゅうしゅう 防空 ぼうくう 戦 せん [ 編集 へんしゅう ]
1944年 ねん 6月 がつ 15日 にち 、成都 せいと 飛行場 ひこうじょう を離陸 りりく した62機 き のB-29 は、九州 きゅうしゅう 福岡 ふくおか 県 けん の八幡 やはた 製鉄 せいてつ 所 しょ を爆撃 ばくげき した。この時 とき 、第 だい 59戦隊 せんたい は練度 れんど 不足 ふそく であり出撃 しゅつげき が行 おこな えなかった。その後 ご 、7月 がつ 7日 にち の夜間 やかん 空襲 くうしゅう に5機 き が迎撃 げいげき に上 あ がるが会 かい 敵 てき できずに終 お わる。8月 がつ 20日 はつか 、アメリカ第 だい 58爆 ばく 撃 げき 航空 こうくう 団 だん の75機 き に対 たい する迎撃 げいげき 戦 せん で三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き はB-29と初 はじ めて交戦 こうせん した。第 だい 59戦隊 せんたい の出撃 しゅつげき 可能 かのう 機 き は21機 き であった。迎撃 げいげき 戦 せん は16時半 じはん 頃 ごろ より小倉 おぐら ・八幡 やはた 周辺 しゅうへん で行 おこな われ、二 に 式 しき 複 ふく 座 ざ 戦闘 せんとう 機 き 「屠 ほふ 龍 りゅう 」を装備 そうび する第 だい 4戦隊 せんたい と海軍 かいぐん 機 き も迎撃 げいげき 戦 せん に参加 さんか した。米 べい 軍 ぐん は事故 じこ 機 き を含 ふく め14機 き を失 うしな った。この戦闘 せんとう で第 だい 59戦隊 せんたい は撃墜 げきつい 確実 かくじつ 1、撃墜 げきつい 不 ふ 確実 かくじつ 3、撃破 げきは 5を報告 ほうこく した。日本 にっぽん 軍 ぐん 全体 ぜんたい では撃墜 げきつい 確実 かくじつ 24、撃墜 げきつい 不 ふ 確実 かくじつ 13、撃破 げきは 47と報告 ほうこく している。第 だい 59戦隊 せんたい の損害 そんがい は機材 きざい 4機 き 、パイロット喪失 そうしつ 1名 めい であった。
この空襲 くうしゅう 後 ご 、第 だい 56戦隊 せんたい も戦力 せんりょく の一部 いちぶ である17機 き を済州 さいしゅう 島 とう に移 うつ し空襲 くうしゅう に備 そな えるが、アメリカ軍 ぐん は目標 もくひょう を鞍山 あんざん の昭和 しょうわ 製鋼 せいこう 所 しょ に移 うつ した。この攻撃 こうげき は南京 なんきん の第 だい 5錬成 れんせい 飛行 ひこう 団 だん が迎撃 げいげき を試 こころ みた。しばらく北九州 きたきゅうしゅう での迎撃 げいげき 戦 せん の機会 きかい は無 な かったが、1944年 ねん 10月 がつ 25日 にち に長崎 ながさき 県 けん 大村 おおむら の第 だい 21海軍 かいぐん 航空 こうくう 廠 しょう が爆 ばく 撃 げき 目標 もくひょう となり、その帰路 きろ を迎撃 げいげき した第 だい 56戦隊 せんたい は撃墜 げきつい 1、撃破 げきは 6機 き 以上 いじょう の戦果 せんか を報告 ほうこく している。成都 せいと からのB-29に対 たい する北九州 きたきゅうしゅう での迎撃 げいげき 戦 せん は、1945年 ねん 1月 がつ 6日 にち まで続 つづ けられた。
本土 ほんど 防空 ぼうくう 戦 せん [ 編集 へんしゅう ]
飛行 ひこう 第 だい 244戦隊 せんたい 、小林 こばやし 照彦 てるひこ 戦隊 せんたい 長 ちょう の三 さん 式 しき 戦 せん 一 いち 型 がた 丁 ひのと 24号機 ごうき および隊員 たいいん 。操縦 そうじゅう 席 せき 側面 そくめん には14機 き の撃墜 げきつい マークが記入 きにゅう されている。1945年 ねん 4月 がつ 撮影 さつえい [248]
従来 じゅうらい 、日本 にっぽん 本土 ほんど には九 きゅう 七 なな 式 しき 戦闘 せんとう 機 き など旧式 きゅうしき 機 き が配備 はいび されていたが、性能 せいのう の不足 ふそく した機材 きざい では敵 てき 新型 しんがた 爆撃 ばくげき 機 き の迎撃 げいげき が不可能 ふかのう だった。東京 とうきょう 調布 ちょうふ 飛行場 ひこうじょう に新鋭 しんえい ・三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き が配備 はいび されたのは第 だい 14飛行 ひこう 団 だん 第 だい 78戦隊 せんたい がラバウルへ進出 しんしゅつ しようとする1943年 ねん 6月 がつ 以降 いこう であった。これが第 だい 三 さん の三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 部隊 ぶたい 、後 のち に帝都 ていと の第 だい 10飛行 ひこう 師団 しだん 配下 はいか となる、調布 ちょうふ 飛行場 ひこうじょう の飛行 ひこう 第 だい 244戦隊 せんたい である。やはり配備 はいび 初期 しょき であったため、多 おお くの故障 こしょう に悩 なや まされたが、11月には機種 きしゅ 改変 かいへん を終 お え、一時期 いちじき には40機 き 全 すべ てにマウザー20 mm機関 きかん 砲 ほう を装備 そうび した。1944年 ねん 2月 がつ には調布 ちょうふ で第 だい 18戦隊 せんたい も三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き での編成 へんせい を完了 かんりょう した。また台湾 たいわん には独立 どくりつ 飛行 ひこう 第 だい 23中隊 ちゅうたい が置 お かれた(前述 ぜんじゅつ )。3月には第 だい 18飛行 ひこう 団 だん 配下 はいか に第 だい 56戦隊 せんたい が発足 ほっそく し、この時点 じてん で本土 ほんど ・台湾 たいわん にはフィリピンに送 おく られる予定 よてい の第 だい 17戦隊 せんたい ・第 だい 19戦隊 せんたい (前述 ぜんじゅつ )を含 ふく め、5個 こ 飛行 ひこう 団 だん と1個 いっこ 独立 どくりつ 飛行 ひこう 中隊 ちゅうたい が揃 そろ えられ、さらに4月 がつ 末 まつ からは第 だい 59戦隊 せんたい が三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き に機種 きしゅ 改変 かいへん を行 おこな った。
1944年 ねん 7月 がつ 7日 にち にサイパン が陥落 かんらく 、その後 ご 日本 にっぽん 本土 ほんど は本格 ほんかく 的 てき な空襲 くうしゅう にさらされた。この時期 じき のB-29による空襲 くうしゅう は高 こう 高度 こうど で行 おこな われていたが、ターボチャージャー を装備 そうび し高度 こうど 10,000 mを飛 と ぶB-29に攻撃 こうげき を実施 じっし するのは非常 ひじょう に困難 こんなん だった。ターボチャージャーを装備 そうび しない日本 にっぽん 機 き のエンジンは高空 こうくう で出力 しゅつりょく の低下 ていか が著 いちじる しく、陸軍 りくぐん が持 も つ戦闘 せんとう 機 き で唯一 ゆいいつ 高度 こうど 10,000 mで戦闘 せんとう ができたとされる本 ほん 機 き においてもその空域 くういき では浮 う いているだけで限界 げんかい といった状況 じょうきょう であり、迎撃 げいげき 方法 ほうほう としてはあらかじめ侵攻 しんこう 方向 ほうこう 上 じょう に待 ま ち構 かま えて一 いち 撃 げき を加 くわ えるのが精一杯 せいいっぱい であった。B-29に対 たい し、一撃 いちげき をかければ数 すう 千 せん mの高度 こうど を失 うしな い、高度 こうど を回復 かいふく して追 お いつくことはできなかった。飛行 ひこう 第 だい 244戦隊 せんたい 戦隊 せんたい 長 ちょう 小林 こばやし 照彦 てるひこ 少佐 しょうさ もその手記 しゅき で、通常 つうじょう の装備 そうび では高度 こうど 7,500 - 8,000 mがせいいっぱいであり、高度 こうど 10,000 mで侵入 しんにゅう するB-29に接 せっ 敵 てき するためには、防弾 ぼうだん 鋼板 こうはん や大 だい 部分 ぶぶん の武装 ぶそう 、蓄電池 ちくでんち などを取 と り外 はず し、必要 ひつよう とあらば機体 きたい の塗装 とそう さえも剥 は がして機体 きたい を軽 かる くする必要 ひつよう があったとしている。さらには機体 きたい の電熱 でんねつ 服 ふく を用 もち いると電圧 でんあつ が下 さ がり機銃 きじゅう が発射 はっしゃ できず、無線 むせん も使 つか えなかったと回想 かいそう している[注釈 ちゅうしゃく 18] 。また別 べつ の文献 ぶんけん では、完全 かんぜん 装備 そうび の三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き の上昇 じょうしょう 限度 げんど は好調 こうちょう な機体 きたい でも約 やく 9,000 m程度 ていど であったとされている。また元 もと 搭乗 とうじょう 員 いん によれば、搭乗 とうじょう 員 いん の訓練 くんれん と研究 けんきゅう 次第 しだい である程度 ていど 上昇 じょうしょう 限度 げんど を上 あ げることができたと回想 かいそう している。
11月に行 おこな われた偵察 ていさつ 型 がた B-29 (F-13) の迎撃 げいげき には全 すべ て失敗 しっぱい 、高度 こうど 12,000 mで離脱 りだつ する敵 てき を捕 とら えることは全 まった くかなわなかった。1944年 ねん 11月7日 にち 、陸軍 りくぐん は航空機 こうくうき による体当 たいあ たり部隊 ぶたい を編成 へんせい 、これは震 ふるえ 天 てん 制 せい 空 そら 隊 たい と呼 よ ばれた。三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き の場合 ばあい は「はがくれ隊 たい 」「小林 こばやし 防空 ぼうくう 戦隊 せんたい 」「つばくろ隊 たい 」こと飛行 ひこう 第 だい 244戦隊 せんたい で4機 き が編成 へんせい されている。この機体 きたい からは前述 ぜんじゅつ の通 とお り防弾 ぼうだん 鋼板 こうはん 、機銃 きじゅう 、防 ぼう 漏 も タンクなどが取 と り外 はず された。武装 ぶそう が積 つ まれる際 さい にも機銃 きじゅう 弾 だん まで削減 さくげん し、少 すこ しでも軽量 けいりょう 化 か して上昇 じょうしょう 力 りょく を上 あ げ、体当 たいあ たりを行 おこな うのである。一部 いちぶ の武装 ぶそう はそのままにし射撃 しゃげき しながら突入 とつにゅう する戦術 せんじゅつ も採 と られた[注釈 ちゅうしゃく 19] 。なお、軽量 けいりょう 化 か を行 おこな った状態 じょうたい の三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き をしても、高度 こうど 10,000 mまで上昇 じょうしょう するのに45分 ふん から55分 ふん かかり、機首 きしゅ を上 あ げた姿勢 しせい で何 なに とか浮 う いていられるといった状態 じょうたい でしかなかった。また小林 こばやし 手記 しゅき によれば、当方 とうほう の高度 こうど 10,000 mまでの上昇 じょうしょう に一時 いちじ 間 あいだ かかるが、日本 にっぽん は調布 ちょうふ 、銚子 ちょうし 、伊豆 いず 大島 おおしま などにしか警戒 けいかい レーダーを設置 せっち しておらず、しかしB-29は伊豆 いず 大島 おおしま から40 - 50分 ふん で東京 とうきょう に到達 とうたつ してしまう。これでは迎撃 げいげき は敵 てき の第 だい 一 いち 波 は には間 ま に合 あ わず、やむを得 え ず浜松 はままつ にも機体 きたい を置 お き、偏西風 へんせいふう を利用 りよう しての接 せっ 敵 てき も試 こころ みられた。
はがくれ隊 たい は11月24日 にち の迎撃 げいげき 戦 せん が初陣 ういじん であった。その後 ご 規模 きぼ を8機 き に拡大 かくだい し、12月3日 にち 、隊長 たいちょう の四宮 しのみや 徹 とおる 中尉 ちゅうい が体当 たいあ たりに成功 せいこう 、左翼 さよく のピトー管 かん から先 さき を失 うしな い主翼 しゅよく 付 つ け根 ね のリベットのほとんどが抜 ぬ け落 お ちた機体 きたい を見事 みごと に操 あやつ って基地 きち に着陸 ちゃくりく を果 は たした。板垣 いたがき 政雄 まさお 伍長 ごちょう も体当 たいあ たりに成功 せいこう 、落下傘 らっかさん 降下 こうか で生還 せいかん したが、敵 てき 機 き の撃墜 げきつい には至 いた らなかった。中野 なかの 松美 まつみ 伍長 ごちょう はB-29の胴体 どうたい 下 か に潜 もぐ り込 こ み、プロペラで敵 てき 機 き の水平 すいへい 尾翼 びよく をもぎ取 と り、一説 いっせつ にはさらに上部 じょうぶ に馬乗 うまの りになり、自身 じしん は不時着 ふじちゃく ・生還 せいかん する離 はな れ技 わざ を見 み せた。他 た の迎撃 げいげき 機 き も活躍 かつやく し、この日 ひ は6機 き の損失 そんしつ に対 たい してB-29、6機 き 撃墜 げきつい 、6機 き 被弾 ひだん (86機 き 出撃 しゅつげき )の戦果 せんか を上 あ げた。こうした撃墜 げきつい 報告 ほうこく は新聞 しんぶん で宣伝 せんでん され、第 だい 244戦隊 せんたい の体当 たいあ たり部隊 ぶたい は第 だい 5震 ふるえ 天 てん 隊 たい と改称 かいしょう された。なお1944年 ねん 末 まつ から1945年 ねん 初頭 しょとう にかけて、第 だい 244戦隊 せんたい は50機 き 前後 ぜんこう の三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き を運用 うんよう していた。
1945年 ねん 1月 がつ 27日 にち にも大 だい 規模 きぼ な体当 たいあ たり迎撃 げいげき が行 おこな われ、62機 き のB-29に体当 たいあ たりが行 おこな われた。第 だい 244戦隊 せんたい の小林 こばやし 戦隊 せんたい 長 ちょう は震 ふるえ 天 てん 隊 たい ではないが高度 こうど 9,200 mのB-29に体当 たいあ たりを決行 けっこう 、激突 げきとつ 時 じ に意識 いしき を失 うしな うも高度 こうど 3,000 - 4,000 mで意識 いしき を取 と り戻 もど し、きりもみ状態 じょうたい の愛 あい 機 き から落下傘 らっかさん で生還 せいかん 、他 た 2機 き が体当 たいあ たり、1名 めい 戦死 せんし 、1名 めい 重傷 じゅうしょう 。第 だい 5震 ふるえ 天 てん 隊 たい は1機 き が突入 とつにゅう ・戦死 せんし したほか、板垣 いたがき 政雄 まさお 軍曹 ぐんそう (先 さき の軍功 ぐんこう で進級 しんきゅう )は今回 こんかい の迎撃 げいげき 戦 せん でもまたしても体当 たいあ たり後 ご 落下傘 らっかさん 降下 こうか で生還 せいかん 。中野 なかの 松美 まつみ 軍曹 ぐんそう (同 おな じく進級 しんきゅう )も同様 どうよう にB-29への肉薄 にくはく に成功 せいこう し、胴体 どうたい と水平 すいへい 尾翼 びよく をプロペラで破壊 はかい し自 みずか らは不時着 ふじちゃく ・帰還 きかん した。この日 ひ のB-29の損害 そんがい は9機 き であった。ちなみに震 ふるえ 天 てん 制 せい 空 そら 隊 たい の隊員 たいいん が体当 たいあ たりで戦死 せんし した場合 ばあい 二 に 階 かい 級 きゅう 特進 とくしん となるが、そうでないパイロットが体当 たいあ たりを行 おこな ってもこれは適用 てきよう されず、戦隊 せんたい 長 ちょう である小林 こばやし は憮然 ぶぜん としたという。
この後 のち 、B-29は命中 めいちゅう 精度 せいど の低 ひく い高 こう 々度 ど 爆 ばく 撃 げき を停止 ていし し、比較的 ひかくてき 低 てい 高度 こうど での夜間 やかん 爆 ばく 撃 げき を多用 たよう したため、体当 たいあ たり攻撃 こうげき の機会 きかい は激減 げきげん した。三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 部隊 ぶたい の体当 たいあ たりは第 だい 244戦隊 せんたい で20回 かい 、全体 ぜんたい で30回 かい に及 およ ぶ。
1944年 ねん 12月13日 にち には名古屋 なごや が初 はつ 空襲 くうしゅう される。三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 装備 そうび 部隊 ぶたい としてはこの地区 ちく には第 だい 56戦隊 せんたい が配置 はいち されていたが、フィリピン方面 ほうめん で戦力 せんりょく を消耗 しょうもう し内地 ないち に帰還 きかん していた第 だい 19戦隊 せんたい や、第 だい 55戦隊 せんたい の残置 ざんち 部隊 ぶたい などもこれの迎撃 げいげき に当 あ たった。
フィリピンでの敗北 はいぼく 後 ご 、三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き の主戦 しゅせん 場 じょう は本土 ほんど 防空 ぼうくう 戦 せん のほか、沖縄 おきなわ 戦 せん に移 うつ った。だが1944年 ねん から型式 けいしき 変更 へんこう を予定 よてい した三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 二 に 型 がた は、新型 しんがた 1,500馬力 ばりき 級 きゅう 液 えき 冷 ひや エンジンのハ140 の不調 ふちょう のため生産 せいさん が全 まった く進 すす まず、わずか99機 き で生産 せいさん を停止 ていし 、空冷 くうれい エンジンであるハ112 -IIに換 かわ 装 そう した五 ご 式 しき 戦闘 せんとう 機 き へと主力 しゅりょく が移 うつ っていった。
1945年 ねん 3月 がつ からの沖縄 おきなわ 戦 せん では、本土 ほんど に在 あ ったほぼ全 すべ ての三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 、ないし五 ご 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 部隊 ぶたい が投入 とうにゅう された。九州 きゅうしゅう には第 だい 六 ろく 航空 こうくう 軍 ぐん の4個 こ 飛行 ひこう 戦隊 せんたい 、台湾 たいわん には第 だい 8飛行 ひこう 師団 しだん の3個 こ 戦隊 せんたい と、1個 いっこ 独立 どくりつ 飛行 ひこう 中隊 ちゅうたい が存在 そんざい した。また航続 こうぞく 距離 きょり の関係 かんけい 上 じょう 、一部 いちぶ は奄美 あまみ 群島 ぐんとう 喜界島 きかいじま に進出 しんしゅつ し特攻 とっこう 機 き の護衛 ごえい を行 おこな った。
これらは当初 とうしょ 、天 てん 一 いち 号 ごう 作戦 さくせん の特攻 とっこう 機 き の護衛 ごえい として用 もち いられるとされたが、結局 けっきょく は4月 がつ 1日 にち には第 だい 17戦隊 せんたい の7機 き が特攻 とっこう に投入 とうにゅう されたのを皮切 かわき りに、沖縄 おきなわ 戦 せん 全体 ぜんたい では計 けい 97機 き が特攻 とっこう を行 おこな った。これは陸軍 りくぐん の全 ぜん 特攻 とっこう 機 き の約 やく 10 %の数字 すうじ である。戦没 せんぼつ した日本 にっぽん の学徒 がくと 兵 へい の遺書 いしょ を集 あつ めた遺稿 いこう 集 しゅう 「きけ わだつみのこえ 」に掲載 けいさい された遺書 いしょ 「所感 しょかん 」で有名 ゆうめい な上原 うえはら 良司 りょうじ 少尉 しょうい (死後 しご 大尉 たいい )が搭乗 とうじょう して特攻 とっこう 出撃 しゅつげき したのも本 ほん 機 き で、上原 うえはら は1945年 ねん 5月 がつ 11日 にち に第 だい 56振 ふ 武 たけ 隊 たい の一員 いちいん として出撃 しゅつげき [286] 、レーダーピケット艦 かん の駆逐 くちく 艦 かん 「ヒュー・W・ハドレイ 」と「エヴァンズ 」の2隻 せき の駆逐 くちく 艦 かん と数 すう 隻 せき の補助 ほじょ 艦 かん との戦闘 せんとう で、他 た の陸海 りくかい 軍機 ぐんき との協同 きょうどう により2隻 せき の駆逐 くちく 艦 かん に再起 さいき 不能 ふのう となる甚大 じんだい な損害 そんがい を被 かぶ らせた。
原型 げんけい 機 き 。1941年 ねん 12月製造 せいぞう 、初 はつ 飛行 ひこう 。試作 しさく 3機 き 、増加 ぞうか 試作 しさく 9機 き 。以降 いこう は特記 とっき 無 な き限 かぎ り川崎 かわさき 航空機 こうくうき 岐阜 ぎふ 工場 こうじょう での製造 せいぞう 。
一 いち 型 がた 甲 きのえ (キ61-I甲 かぶと )[ 編集 へんしゅう ]
1942年 ねん 8月 がつ から1943年 ねん 9月 がつ 生産 せいさん 。最初 さいしょ の量産 りょうさん 型 がた である。
日本 にっぽん 陸軍 りくぐん は航空 こうくう 機関 きかん 砲 ほう の開発 かいはつ で遅 おく れを取 と っており、1940年 ねん または1941年 ねん まで12.7 mm航空 こうくう 機関 きかん 砲 ほう を、また事実 じじつ 上 じょう 1944年 ねん まで20 mm航空 こうくう 機関 きかん 砲 ほう を持 も たなかった。12.7 mm航空 こうくう 機関 きかん 砲 ほう の試作 しさく が決定 けってい したのは、1940年 ねん になってからのことである。このため1941年 ねん に制式 せいしき 化 か された12.7 mm機関 きかん 砲 ほう (ホ103 一式 いっしき 十 じゅう 二 に ・七 なな 粍 みりめーとる 固定 こてい 機関 きかん 砲 ほう )は1940年 ねん に100門 もん 、1941年度 ねんど に439門 もん が生産 せいさん されたが[注釈 ちゅうしゃく 20] この時点 じてん では数 かず が不足 ふそく しており、また信頼 しんらい 性 せい もまだ高 たか い物 もの ではなかった[注釈 ちゅうしゃく 21] 、このため、機首 きしゅ に12.7 mm機関 きかん 砲 ほう 2門 もん と翼 つばさ 内 ない に7.7 mm機関 きかん 銃 じゅう (八 はち 九 きゅう 式 しき 固定 こてい 機関 きかん 銃 じゅう )2挺 てい と言 い う装備 そうび になっている。
燃料 ねんりょう タンクは防 ぼう 漏 も 仕様 しよう で、初期 しょき には3 mm厚 あつ のゴムと10 mm厚 あつ のフェルトで覆 おお っていたものが、421号機 ごうき からは上面 うわつら 9 mm、側面 そくめん 6 mmのゴムに改 あらた められている。機体 きたい 番号 ばんごう 113から500まで、388機 き 生産 せいさん 。
一 いち 型 がた 乙 おつ (キ61-I乙 おつ )[ 編集 へんしゅう ]
1943年 ねん 9月 がつ から1944年 ねん 4月 がつ 生産 せいさん 。一 いち 型 がた 甲 かぶと の翼 つばさ 内 ない 銃 じゅう を12.7 mm機関 きかん 砲 ほう に換 かわ 装 そう 、計 けい 4門 もん に強化 きょうか した型 かた 。当初 とうしょ 計画 けいかく ではこの砲 ほう の装備 そうび が正規 せいき 状態 じょうたい である。514号機 ごうき 以降 いこう には操縦 そうじゅう 席 せき 後方 こうほう 、ラジエーターの上部 じょうぶ に厚 あつ さ8 mm、重量 じゅうりょう 22 kgの着脱 ちゃくだつ 式 しき の防弾 ぼうだん 鋼板 こうはん を追加 ついか した。一部 いちぶ 燃料 ねんりょう タンクには被弾 ひだん 時 じ の危険 きけん 性 せい が指摘 してき され、現場 げんば レベルでは撤去 てっきょ される例 れい があった。空 そら となった当該 とうがい タンクにはさらに欠陥 けっかん があり、飛行 ひこう 中 ちゅう に弁 べん の不良 ふりょう で他 た タンクから燃料 ねんりょう が流 なが れ込 こ み、機体 きたい の重量 じゅうりょう バランスを大 おお きく狂 くる わせた。また離陸 りりく 直後 ちょくご の墜落 ついらく 事故 じこ についても、このタンクによる重量 じゅうりょう バランスの狂 くる いが指摘 してき された。よって乙 おつ 型 がた の14機 き 目 め (514号機 ごうき )からはこれを廃止 はいし し、燃料 ねんりょう 搭載 とうさい 量 りょう は755リットルから555リットルに減少 げんしょう 。また、150機 き 目 め (650号機 ごうき )からは翼 つばさ 内 ない タンクに12 mm厚 あつ ゴムによる防弾 ぼうだん が行 おこな われている。このため燃料 ねんりょう 搭載 とうさい 量 りょう は更 さら に、500リットルに減少 げんしょう した。また引 ひ き込 こ み式 しき だった尾 お 輪 わ は生産 せいさん 性 せい 向上 こうじょう の為 ため 、途中 とちゅう から固定 こてい 式 しき に改 あらた められた。
生産 せいさん 数 すう は約 やく 600機 き 、或 ある いは592機 き または603機 き 、592機 き などと言 い われている。片 かた 渕 ふち (2007 , pp. 90–91)によれば、『軍需 ぐんじゅ 省 しょう 熊倉 くまくら 少佐 しょうさ 資料 しりょう 』中 ちゅう の『陸軍 りくぐん 機 き 装備 そうび 現況 げんきょう 表 ひょう 』では機体 きたい 番号 ばんごう は501から1092であるとされるが、『三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 取扱 とりあつかい 法 ほう 』では翼 つばさ 内 ない 銃 じゅう を12.7 mmにしたのは514号機 ごうき 以降 いこう であると明記 めいき されている(ただし、513号機 ごうき (401機 き 目 め )からの可能 かのう 性 せい もあるとしている)。ちなみに1943年度 ねんど 、陸軍 りくぐん による生産 せいさん 内示 ないじ 機 き 数 すう は6,760機 き と言 い う実情 じつじょう を鑑 かんが みない数値 すうち であったという。
一 いち 型 がた 丙 へい (キ61-I丙 へい )[ 編集 へんしゅう ]
1943年 ねん 9月 がつ から1944年 ねん 7月 がつ 生産 せいさん 。翼 つばさ 内 ない 銃砲 じゅうほう をドイツから輸入 ゆにゅう したマウザー砲 ほう (モーゼルとも呼 よ ばれる)(MG151/20 )に換 かわ 装 そう し、20 mm機関 きかん 砲 ほう 2門 もん と12.7 mm機関 きかん 砲 ほう 2門 もん の重 じゅう 武装 ぶそう にした型 かた 。主翼 しゅよく から砲身 ほうしん が飛 と び出 だ しているのが外見 がいけん の特徴 とくちょう 。陸軍 りくぐん では航空 こうくう 用 よう 20 mm機関 きかん 砲 ほう の開発 かいはつ が遅 おく れていたため、ドイツから20 mm機関 きかん 砲 ほう を輸入 ゆにゅう した。数量 すうりょう は800門 もん 、弾丸 だんがん 40万 まん 発 はつ である[注釈 ちゅうしゃく 22] 。川崎 かわさき 内 ない では「キ61マ式 しき 」とも呼 よ ばれた。ただし重量 じゅうりょう 増 ぞう で飛行 ひこう 性能 せいのう は低下 ていか している。
定説 ていせつ では既存 きそん の一 いち 型 がた 甲 かぶと 、一 いち 型 がた 乙 おつ からの改造 かいぞう 機 き を含 ふく めて388機 き が一 いち 型 がた 丙 へい となった。だが古 こ 峰 みね (2007 , p. 143)は川崎 かわさき において1943年 ねん に234機 き 、1944年 ねん に153機 き 、合計 ごうけい 387機 き が生産 せいさん され、現地 げんち 改修 かいしゅう 機 き は存在 そんざい しないとする。しかし前線 ぜんせん の搭乗 とうじょう 員 いん の手記 しゅき でも、現地 げんち 改修 かいしゅう が実際 じっさい に行 おこな われたふしがあるとする証言 しょうげん もみられているほか、碇 いかり (2006 , pp. 161–162)は235機 き が新規 しんき 生産 せいさん で、400からそれを引 ひ いた百 ひゃく 数 すう 十 じゅう 機 き が現地 げんち 改造 かいぞう であろうとしている。秋本 あきもと (1999 , p. 121)は改修 かいしゅう 機 き とは別 べつ に400機 き が川崎 かわさき で生産 せいさん されたとしている。
なお一 いち 型 がた 乙 おつ の機体 きたい 番号 ばんごう は514から1092が振 ふ られているが、一 いち 型 がた 丙 へい には3001から3400が振 ふ られている。
一 いち 型 がた 丁 ちょう (キ61-I 丁 ひのと )[ 編集 へんしゅう ]
1944年 ねん 1月 がつ から1945年 ねん 1月 がつ 生産 せいさん 。武装 ぶそう を機首 きしゅ にホ5 20 mm機関 きかん 砲 ほう 2門 もん (弾 たま 数 すう 各 かく 120発 はつ )、翼 つばさ 内 ない にホ103 12.7 mm機関 きかん 砲 ほう 2門 もん とした型 かた 。
輸入 ゆにゅう マウザー砲 ほう を全 すべ て使用 しよう した後 のち も20 mm機関 きかん 砲 ほう の搭載 とうさい が望 のぞ まれたため、ようやく実用 じつよう 化 か の成 な ったホ103の拡大 かくだい 版 ばん である国産 こくさん 20 mm機関 きかん 砲 ほう のホ5 二 に 式 しき 二 に 十 じゅう 粍 みりめーとる 固定 こてい 機関 きかん 砲 ほう を搭載 とうさい した。榴弾 りゅうだん の威力 いりょく はマウザー砲 ほう に及 およ ぶものではなかったが、全長 ぜんちょう が短 みじか いため機首 きしゅ に搭載 とうさい でき、命中 めいちゅう 率 りつ はあがった。和泉 いずみ (1994 , p. 39)は発射 はっしゃ 速度 そくど と初速 しょそく は遜色 そんしょく なかったものの、故障 こしょう は多 おお かったとしている。秋本 あきもと (1989 , p. 15)は、1943年 ねん 11月 がつ 頃 ごろ に杉山 すぎやま 元 はじめ 元帥 げんすい が川崎 かわさき の岐阜 ぎふ 工場 こうじょう を訪 おとず れ20 mm機関 きかん 砲 ほう の搭載 とうさい を要請 ようせい したとしている。
渡辺 わたなべ (2006 , p. 213)は、ホ5の搭載 とうさい に関 かん し、重量 じゅうりょう 物 ぶつ を重心 じゅうしん に近 ちか づけて機動 きどう 性 せい を確保 かくほ し、また命中 めいちゅう 精度 せいど を確保 かくほ する観点 かんてん から(翼 つばさ は捩 ねじ れるなどするため命中 めいちゅう 率 りつ が劣 おと る)、サイズの大 おお きなマウザー砲 ほう では望 のぞ めなかった機首 きしゅ に搭載 とうさい したとしている。
しかし他 た の文献 ぶんけん では、本来 ほんらい マウザー砲 ほう と同様 どうよう に翼 つばさ 内 ない 装備 そうび としたかったものが翼 つばさ 内 ない に収 おさ まりきらず、やむを得 え ず半年 はんとし をかけてホ5用 よう の同調 どうちょう 装置 そうち を開発 かいはつ し、機首 きしゅ に搭載 とうさい したとされている[注釈 ちゅうしゃく 23] 。この同調 どうちょう 装置 そうち とは、プロペラ圏内 けんない に装備 そうび された機関 きかん 銃 じゅう を発砲 はっぽう するに際 さい し、自 じ 機 き のプロペラに弾頭 だんとう が命中 めいちゅう しないよう、プロペラが安全 あんぜん な位置 いち にある時 とき にだけ発射 はっしゃ 機構 きこう を機械 きかい 的 てき に連結 れんけつ する装置 そうち である。航空機 こうくうき 黎明 れいめい 時代 じだい にはプロペラを強化 きょうか し、多少 たしょう 弾丸 だんがん が当 あ たってもこれを弾 はじ き飛 と ばすなどしていたが、機銃 きじゅう が強力 きょうりょく になるとこの方法 ほうほう は廃 すた れた。20 mm機関 きかん 砲弾 ほうだん では弾頭 だんとう 内部 ないぶ の炸薬 さくやく によりプロペラが吹 ふ き飛 と ぶ威力 いりょく があった。20 mm弾薬 だんやく は海軍 かいぐん も危険 きけん としてプロペラ圏内 けんない への機関 きかん 砲 ほう 装備 そうび を容認 ようにん しなかったし、世界 せかい 的 てき にも稀 まれ な部類 ぶるい ではある[注釈 ちゅうしゃく 24] 。1942年 ねん 6月 がつ 5日 にち には土井 どい により、翼 つばさ 厚 あつ の関係 かんけい 上 じょう 主翼 しゅよく への搭載 とうさい は不可能 ふかのう で、この部分 ぶぶん の翼 つばさ 厚 あつ を100 mm程度 ていど に再 さい 設計 せっけい する必要 ひつよう があるとの報告 ほうこく がなされている。再 さい 設計 せっけい と生産 せいさん 設備 せつび の転換 てんかん 自体 じたい は1週間 しゅうかん で完了 かんりょう できる比較的 ひかくてき 容易 ようい なものであった。
武装 ぶそう 変更 へんこう に伴 ともな い機首 きしゅ の延長 えんちょう [注釈 ちゅうしゃく 25] 、榴弾 りゅうだん の信管 しんかん 過敏 かびん による暴発 ぼうはつ 対策 たいさく で機首 きしゅ 上面 うわつら 外 がい 板 いた を厚 あつ いものに変更 へんこう 、これにより機体 きたい 重心 じゅうしん が前進 ぜんしん したため後部 こうぶ にバラスト を搭載 とうさい し、主翼 しゅよく を4 cm前方 ぜんぽう に移動 いどう している。また、胴体 どうたい 内 ない タンクを95リットルで復活 ふっかつ させた。このため燃料 ねんりょう 搭載 とうさい 量 りょう は595リットルとなった。
翼 つばさ 内 ない から機首 きしゅ への大 だい 口径 こうけい 機関 きかん 砲 ほう 搭載 とうさい 位置 いち の変更 へんこう は、命中 めいちゅう 率 りつ 向上 こうじょう と重量 じゅうりょう 物 ぶつ の機体 きたい 重心 じゅうしん 近 ちか くへの移設 いせつ による旋回 せんかい 性能 せいのう 向上 こうじょう につながるものだが、実際 じっさい は改造 かいぞう による自重 じちょう にして約 やく 250 kgの重量 じゅうりょう 増加 ぞうか により飛行 ひこう 性能 せいのう 全般 ぜんぱん が低下 ていか している。高度 こうど 6000 mでの最 さい 高速度 こうそくど は590 km/hから560 km/h[注釈 ちゅうしゃく 26] へ、上昇 じょうしょう 力 りょく は高度 こうど 5000 mまで5分 ふん 31秒 びょう から7分 ふん 程度 ていど へと低下 ていか している[注釈 ちゅうしゃく 27] 。なお、351機 き 目 め から増 ぞう 槽 そう 架 か を100 kg爆 ばく 弾 だん 搭載 とうさい 可能 かのう なものにしたとする文献 ぶんけん もある。
本 ほん 型 がた は機体 きたい に大 だい 改修 かいしゅう を加 くわ えているため当初 とうしょ 「三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 一 いち 型 がた 改 あらため (キ61-I改 あらため )」と称 しょう されたが[注釈 ちゅうしゃく 28] 、のちに「三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 一 いち 型 がた 丁 ちょう (キ61-I丁 ひのと )」となった。計画 けいかく では機体 きたい 番号 ばんごう 4001から4900までの900機 き の生産 せいさん であったが、後継 こうけい の二 に 型 がた が間 ま に合 あ わず、機体 きたい 番号 ばんごう 5354機 き までが生産 せいさん された。生産 せいさん 機 き 数 すう は1,358機 き 、または1,354機 き と最多 さいた である。
なお、「首 くび 無 な し」の機体 きたい は後述 こうじゅつ するハ140搭載 とうさい の二 に 型 がた のものが有名 ゆうめい だが、ハ40の徹底的 てっていてき な改良 かいりょう という要因 よういん により供給 きょうきゅう が不足 ふそく し、一 いち 型 がた についても1944年 ねん 秋 あき から首 くび 無 な しの機体 きたい が増 ふ えており、11月には最大 さいだい の190機 き を数 かぞ えていた。
1942年 ねん 4月 がつ 頃 ごろ より計画 けいかく され、エンジンはハ40の改良 かいりょう 型 がた であるハ140 (離 はなれ 昇 のぼり 出力 しゅつりょく 1,400馬力 ばりき )に換 かわ 装 そう 、主翼 しゅよく をホ5を内蔵 ないぞう できるように再 さい 設計 せっけい 、翼 つばさ 面積 めんせき 22 m2 のものとした。さらに垂直 すいちょく 安定 あんてい 板 ばん を若干 じゃっかん 増 ぞう 積 せき 、胴体 どうたい を42 cm延長 えんちょう した。土井 どい (2002b , p. 12)によれば、機能 きのう の確実 かくじつ 化 か と整備 せいび の容易 ようい 化 か にも配慮 はいりょ がなされた。
武装 ぶそう はホ5 20 mm機関 きかん 砲 ほう を4門 もん 、またはホ5 2門 もん に12.7 mmホ103 2門 もん を装備 そうび 、最大 さいだい 速度 そくど 640 km/hを目指 めざ し、上昇 じょうしょう 限度 げんど は13,500 mとなるはずであった。さらに30 mm機関 きかん 砲 ほう ホ155 の搭載 とうさい も検討 けんとう されている。渡辺 わたなべ (1999 , p. 137)によれば、キ61とキ61-IIは遠目 とおめ にはよく似 に ているが、近 ちか づいてみるといたる部分 ぶぶん が異 こと なっており、同 どう 一 いち 部分 ぶぶん を探 さが すのが困難 こんなん な程 ほど だという。
1943年 ねん 8月 がつ に試作 しさく 機 き が完成 かんせい ・初 はつ 飛行 ひこう したが、エンジン、特 とく に水 みず ポンプの故障 こしょう の頻発 ひんぱつ で実用 じつよう 化 か は遅延 ちえん した。1943年 ねん 9月 がつ から1944年 ねん 1月 がつ までに試作 しさく 機 き を8機 き 生産 せいさん したものの、空戦 くうせん 性能 せいのう もあまり芳 かんば しくなく、8号機 ごうき も完成 かんせい こそ1944年 ねん 1月 がつ とされているが、6月 がつ に至 いた ってもやっと発動 はつどう 機 き 空中 くうちゅう 試験 しけん を始 はじ める状況 じょうきょう で、最終 さいしゅう 的 てき に計画 けいかく は中止 ちゅうし された。なおエンジン出力 しゅつりょく の強化 きょうか に伴 ともな いラジエーターも管長 かんちょう を250 mmから300 mmとし、冷却 れいきゃく 力 りょく を20 %強化 きょうか している。
武装 ぶそう によって、従来 じゅうらい の20 mm機関 きかん 砲 ほう を2門 もん ・12.7 mm機関 きかん 銃 じゅう を2門 もん 搭載 とうさい したものを二 に 型 がた 甲 かぶと (キ-61II甲 かぶと )、20 mm機関 きかん 砲 ほう を4門 もん 搭載 とうさい したものを二 に 型 がた 乙 おつ (キ-61II乙 おつ )と称 しょう し区別 くべつ することもあるが、あくまでも後世 こうせい に名 な づけられた非公式 ひこうしき の名称 めいしょう に過 す ぎない。
二 に 型 がた (キ61-II改 あらため )[ 編集 へんしゅう ]
1944年 ねん 2月 がつ 頃 ごろ より計画 けいかく が開始 かいし された。キ61-IIの主翼 しゅよく を一 いち 型 がた 丁 ひのと のものに戻 もど したもので、このため翼 つばさ 内 ない 武装 ぶそう も一 いち 型 がた 丁 ちょう と同等 どうとう のものに戻 もど っている。なお、大型 おおがた 主翼 しゅよく を採用 さいよう した理由 りゆう とそれを元 もと に戻 もど した理由 りゆう は資料 しりょう が無 な く、よくわかっていない。従来 じゅうらい の主翼 しゅよく にはサイズの問題 もんだい で20 mm機関 きかん 砲 ほう ホ5 が搭載 とうさい できなかったが、これの搭載 とうさい のために新 あら たな主翼 しゅよく を用意 ようい した可能 かのう 性 せい のほか、様々 さまざま な説 せつ がある。
秋本 あきもと (1989 , p. 16)によれば、単 たん に一 いち 型 がた 丁 ひのと にハ140を載 の せて各部 かくぶ を改修 かいしゅう した方 ほう が良 よ いとのことになっただけ。
碇 いかり (2006 , pp. 170–171)によれば、大型 おおがた 主翼 しゅよく の飛行 ひこう 性能 せいのう が悪 わる く、速度 そくど 向上 こうじょう の意味 いみ から元 もと のものに戻 もど した。
古 こ 峰 みね (2007 , p. 151)によれば飛行 ひこう 性能 せいのう の向上 こうじょう のため。
渡辺 わたなべ (1999 , p. 138)によれば主翼 しゅよく 大型 おおがた 化 か の効果 こうか があまり見 み られなかったため。
なお歴史 れきし 群 ぐん 像 ぞう 編集 へんしゅう 部 ぶ (2011 , p. 57)では、理由 りゆう は明確 めいかく に言及 げんきゅう されていない。
全備 ぜんび 重量 じゅうりょう は355 kg増加 ぞうか した。しかし速度 そくど は高度 こうど 6,000 mで610 km/h、高度 こうど 8,000 mでも591 km/hと向上 こうじょう しており、上昇 じょうしょう 性能 せいのう も一 いち 型 がた 丁 ひのと より改善 かいぜん を見 み た。上昇 じょうしょう 中 ちゅう の第 だい 244戦隊 せんたい 所属 しょぞく の一 いち 型 がた を、後 ご から発進 はっしん した二 に 型 がた が追 お い抜 ぬ く事 こと もあった。また武装 ぶそう は一 いち 型 がた 丁 ちょう と同等 どうとう だが、機首 きしゅ の20 mm機関 きかん 砲 ほう ホ5の弾 たま 数 すう が、各 かく 120発 はつ から200発 はつ へと増加 ぞうか している。機首 きしゅ 延長 えんちょう のバランスを取 と るため、主翼 しゅよく は一 いち 型 がた に比 くら べ8 cm前方 ぜんぽう にずらした。燃料 ねんりょう タンクの防弾 ぼうだん 能力 のうりょく も強化 きょうか したため、翼 つばさ 内 ない タンクが合計 ごうけい 265リットルから210リットルへ低下 ていか した。ハ140を搭載 とうさい したこの機体 きたい は従来 じゅうらい のものとは異 こと なり、完全 かんぜん 武装 ぶそう 状態 じょうたい でも高度 こうど 10,000 mまで楽 らく に上昇 じょうしょう できた。二型 にがた 機体 きたい は、一足早 ひとあしはや く航空 こうくう 審査 しんさ 部 ぶ 飛行 ひこう 実験 じっけん 部 ぶ や、1944年 ねん 11月 がつ ごろより、片岡 かたおか 載 の 三郎 さぶろう 掛 かけ 長 ちょう (かけちょうまたはかかりちょう。現在 げんざい で言 い うところの係長 かかりちょう )[注釈 ちゅうしゃく 29] を隊長 たいちょう とし、川崎 かわさき 航空機 こうくうき のテストパイロットで編成 へんせい された川崎 かわさき 防空 ぼうくう 戦闘 せんとう 隊 たい によっても一線 いっせん 部隊 ぶたい に先行 せんこう して運用 うんよう された。航空 こうくう 審査 しんさ 部 ぶ や川崎 かわさき 防空 ぼうくう 戦闘 せんとう 隊 たい はB-29の迎撃 げいげき 戦 せん で活躍 かつやく し、特 とく に川崎 かわさき 防空 ぼうくう 戦闘 せんとう 隊 たい は一 いち 型 がた 機体 きたい と合 あ わせ、1944年 ねん 12月13日 にち 、1945年 ねん 1月 がつ 3日 にち あわせB-29、B-25合計 ごうけい 3機 き または4機 き の撃破 げきは を報告 ほうこく し[注釈 ちゅうしゃく 30] 、航空 こうくう 本部 ほんぶ 長 ちょう から感謝 かんしゃ 状 じょう を贈 おく られている。そのうちB-29 3機 き は片岡 かたおか 掛 かけ 長 ちょう による戦果 せんか である。
増加 ぞうか 試作 しさく 機 き が30機 き または36機 き 生産 せいさん された後 のち 、1944年 ねん 9月 がつ より「キ61-II改 あらため 」として量産 りょうさん が開始 かいし された。ハ140が順調 じゅんちょう に量産 りょうさん され、所期 しょき の性能 せいのう を発揮 はっき すれば機体 きたい が高性能 こうせいのう をあらわすことも可能 かのう であったが、機体 きたい こそ374機 き が完成 かんせい したものの、ハ140の生産 せいさん が遅延 ちえん し品質 ひんしつ も悪 わる かった。生産 せいさん 台数 だいすう は44年 ねん 7月 がつ に20台 だい 納入 のうにゅう の予定 よてい が8台 だい 、8月 がつ には40台 だい 納入 のうにゅう 予定 よてい が5台 だい 、9月には1台 だい のみが完成 かんせい したに過 す ぎない。こうした生産 せいさん 状 じょう 況 きょう からは本 ほん 機 き を実用 じつよう 機 き として戦力 せんりょく 化 か することが極 きわ めて困難 こんなん であった。航空 こうくう 審査 しんさ 部 ぶ の担当 たんとう 名取 なとり 智男 ともお 大尉 たいい はハ140を生産 せいさん している川崎 かわさき の明石 あかし 工場 こうじょう に通 かよ い詰 つ め不具合 ふぐあい を調査 ちょうさ したが、性能 せいのう の維持 いじ は不可能 ふかのう であり、これに乗 の って飛 と んでくれとは整備 せいび 屋 や としてとても言 い えないと言 い った惨状 さんじょう であった。ただ、検査 けんさ に合格 ごうかく したハ140は故障 こしょう もなく、確実 かくじつ に高度 こうど 10,000 mを飛 と べるとの評価 ひょうか もあった。だが、ハ140の故障 こしょう は多 おお い事 こと には変 か わりなく、キ61-II改 あらため の生産 せいさん は100機 き 程度 ていど で打 う ちきられた。二型 にがた は整備 せいび 条件 じょうけん の良 よ い、内地 ないち の防空 ぼうくう 部隊 ぶたい に限 かぎ って配備 はいび される予定 よてい であったという。ちなみに二 に 型 がた の制式 せいしき 化 か は、生産 せいさん の打 う ち切 き りが決定 けってい した後 のち 、間 あいだ もない頃 ころ のことである。
結局 けっきょく 、エンジンを搭載 とうさい し完成 かんせい 機 き となったものは99機 き であったが、B-29による爆 ばく 撃 げき で機体 きたい が破壊 はかい され、最終 さいしゅう 的 てき に軍 ぐん に納入 のうにゅう されたのは約 やく 60機 き 程度 ていど であった。この後 のち 、川崎 かわさき はキ61-II改 あらため の生産 せいさん を縮小 しゅくしょう し、四 よん 式 しき 重 じゅう 爆撃 ばくげき 機 き を生産 せいさん するよう指示 しじ された。結論 けつろん としてエンジンの不調 ふちょう および生産 せいさん 遅延 ちえん が三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き の大量 たいりょう 生産 せいさん を阻害 そがい した。製造 せいぞう 番号 ばんごう について秋本 あきもと (1989) は5001以降 いこう が振 ふ られたとしたが、1945年 ねん 1月 がつ 4日 にち 付 づけ の川崎 かわさき 航空機 こうくうき 作成 さくせい の飛行機 ひこうき 生産 せいさん 実績 じっせき 並 なみ 予定 よてい 表 ひょう によれば、10000番 ばん 代 だい が岐阜 ぎふ 工場 こうじょう 製 せい 、15000番 ばん 代 だい が一宮 いちのみや 工場 こうじょう 製 せい 、18000番台 ばんだい が都城 みやこのじょう 工場 こうじょう 製 せい となっている[347] 。
半 はん 完成 かんせい 品 ひん となった三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き の残余 ざんよ である275機 き は「首 くび 無 な し」の状態 じょうたい で放置 ほうち された。これらは後 のち に空冷 くうれい エンジンを搭載 とうさい し、後述 こうじゅつ の五 ご 式 しき 戦闘 せんとう 機 き に改造 かいぞう された。定説 ていせつ では二 に 型 がた の機体 きたい の生産 せいさん 機 き 数 すう は374機 き 、完成 かんせい 機 き が99機 き 、五 ご 式 しき 戦闘 せんとう 機 き への改造 かいぞう 機 き が275機 き である。だがこの数字 すうじ には試作 しさく 機 き の39機 き が入 はい っておらず、また374機 き という数量 すうりょう には新 しん 工場 こうじょう である都城 みやこのじょう 工場 こうじょう で製造 せいぞう された分 ぶん が計上 けいじょう されていない。古 こ 峰 みね (2007 , p. 156)によれば川崎 かわさき 航空機 こうくうき 工業 こうぎょう 株式会社 かぶしきがいしゃ 『航空機 こうくうき 製造 せいぞう 沿革 えんかく 』「機体 きたい 之 の 部 ぶ 」では「374+」とされており、実数 じっすう はやや多 おお かったとも考 かんが えられる。また1945年 ねん 3月 がつ 26日 にち 及 およ び27日 にち に陸軍 りくぐん が川崎 かわさき に対 たい し実施 じっし した機体 きたい 側 がわ 現地 げんち 指導 しどう 記録 きろく によれば、この時点 じてん での「首 くび 無 な し」状態 じょうたい の三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き は一 いち 型 がた 及 およ び二 に 型 がた 合 あ わせて421機 き となっており、うち135機 き を五 ご 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 、14機 き を三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 二 に 型 がた に改造 かいぞう し、三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き の生産 せいさん については当分 とうぶん の間 あいだ 月産 げっさん 50機 き とする旨 むね の指導 しどう を行 おこ なっている[350] 。
三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 二 に 型 がた は、エンジンが完 かん 調 ちょう であれば性能 せいのう 自体 じたい は良好 りょうこう だった。土井 どい によれば高度 こうど 10,000 mにおいても容易 ようい に編隊 へんたい 飛行 ひこう が行 おこな えた。また本土 ほんど でB-29の迎撃 げいげき に当 あ たった第 だい 55戦隊 せんたい の隊員 たいいん らも、古川 ふるかわ 戦隊 せんたい 長 ちょう が故障 こしょう は見受 みう けられるが同 どう 条件 じょうけん ならP-51にも引 ひ けを取 と らないのではないかと評価 ひょうか したほか、旋回 せんかい 性能 せいのう だけは一 いち 型 がた に劣 おと るが全体 ぜんたい 的 てき に二 に 型 がた が上 うえ である、高度 こうど 11,000 mでも確実 かくじつ に飛行 ひこう ができる、さらにはエンジンの故障 こしょう も少 すく ないと証言 しょうげん している。また明野 あけの の飛行 ひこう 学校 がっこう で行 おこ なわれたテストでは、急降下 きゅうこうか 性能 せいのう は四 よん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 、五 ご 式 しき 戦闘 せんとう 機 き を凌駕 りょうが していた。五 ご 式 しき 戦闘 せんとう 機 き の登場 とうじょう 後 ご も二 に 型 がた が完全 かんぜん に捨 す てられたわけではなく、五 ご 式 しき 戦闘 せんとう 機 き で当座 とうざ を凌 しの ぎながら信頼 しんらい 性 せい の向上 こうじょう を目指 めざ し、1945年 ねん 6月 がつ に40機 き 、7月 がつ に40機 き 、8月 がつ に10機 き という補給 ほきゅう 計画 けいかく が残 のこ されている。同 おな じく、機体 きたい を五 ご 式 しき 戦闘 せんとう 機 き に取 と られながらも、終戦 しゅうせん 直前 ちょくぜん まで少 すく なくとも2個 こ 戦隊 せんたい の充足 じゅうそく ・戦力 せんりょく 化 か を目指 めざ し細々 こまごま と生産 せいさん が続 つづ けられていたとする文献 ぶんけん もある。しかし同時 どうじ に1945年 ねん 7月 がつ には生産 せいさん の完全 かんぜん 打 う ち切 き りと五 ご 式 しき 戦闘 せんとう 機 き への完全 かんぜん 移行 いこう が決定 けってい したともされる。
さらなる発展 はってん 型 がた として、キ61-IIに大 だい 口径 こうけい 砲 ほう を搭載 とうさい する、すなわち、ハ140特 とく エンジンに37 mm機関 きかん 砲 ほう をモーターカノン として搭載 とうさい する計画 けいかく が存在 そんざい した。これは古 こ 峰 みね (2007)[要 よう ページ番号 ばんごう ] にキ61-II武 たけ 強 きょう として紹介 しょうかい されているが、現在 げんざい までのところ、ウィキペディア編集 へんしゅう 者 しゃ には、他 た の文献 ぶんけん ではII型 がた についてこの呼称 こしょう は確認 かくにん できない。ただし三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 一 いち 型 がた については、「陸軍 りくぐん 現用 げんよう 試作 しさく 機 き 称呼 しょうこ 名称 めいしょう 一覧 いちらん 表 ひょう 」(1945年 ねん 2月 がつ 25日 にち 、陸軍 りくぐん 航空 こうくう 本部 ほんぶ )において、丙 へい 型 がた と丁 ひのと 型 がた の「区分 くぶん 」を「武 たけ 強 つよし 」としている例 れい が有 あ る[注釈 ちゅうしゃく 31] 。この機体 きたい の翼 つばさ 内 ない 武装 ぶそう は廃止 はいし され、他 た の武装 ぶそう は機首 きしゅ に20 mmホ5が2門 もん のみ装備 そうび された。のちにこれはキ88 と呼 よ ばれるものとなり、1943年 ねん 6月 がつ には組 く み立 た ての開始 かいし が行 おこな える状態 じょうたい になったようだが、1943年 ねん 9月 がつ に計画 けいかく は中止 ちゅうし された。後期 こうき になると陸軍 りくぐん からの要請 ようせい を受 う けて、パイロット視界 しかい 向上 こうじょう を図 はか るために水滴 すいてき 型 がた 風防 ふうぼう に変更 へんこう された。この処置 しょち は中島 なかじま の四 よん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き を参考 さんこう にして行 おこな われたが、九 きゅう 七 なな 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 以来 いらい 水滴 すいてき 型 がた 風防 ふうぼう を用 もち いてきた中島 なかじま と異 こと なり、川崎 かわさき では技術 ぎじゅつ の蓄積 ちくせき が浅 あさ く、機体 きたい と風防 ふうぼう の接着 せっちゃく をきちんと行 おこな うことが出来 でき なかったため、パイロットは騒音 そうおん に悩 なや まされたという。従来 じゅうらい のファストバック型 がた 風防 ふうぼう のものを二 に 型 がた 甲 かぶと (キ61-II改 あらため 甲 かぶと )、水滴 すいてき 型 がた 風防 ふうぼう のものを二 に 型 がた 乙 おつ (キ61-II改 あらため 乙 おつ )とするものや、従来 じゅうらい のファストバック型 がた 風防 ふうぼう を二 に 型 がた とし、水滴 すいてき 型 がた 風防 ふうぼう のものを三 さん 型 がた (キ61-III )と称 しょう し区別 くべつ することもあるが、どちらも後世 こうせい に名 な づけられた非公式 ひこうしき の名称 めいしょう に過 す ぎない。また正式 せいしき 名称 めいしょう 不明 ふめい であるものの、性能 せいのう 向上 こうじょう 型 がた である三 さん 型 がた には離 はなれ 昇 のぼり 出力 しゅつりょく 1,800馬力 ばりき のハ240 の装備 そうび が計画 けいかく されていた。
五 ご 式 しき 戦闘 せんとう 機 き (キ100)[ 編集 へんしゅう ]
全幅 ぜんはば 840 mmの胴体 どうたい に外 そと 径 みち 1,280 mmの機首 きしゅ 部 ぶ を取 と り付 つ けた五 ご 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 。段差 だんさ の処理 しょり に注目 ちゅうもく
五 ご 式 しき 戦闘 せんとう 機 き は三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き のエンジンを星 ほし 形 がた 空冷 くうれい エンジンに換 かわ 装 そう した戦闘 せんとう 機 き である。1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )に制式 せいしき 採用 さいよう された(制式 せいしき 採用 さいよう されたか否 ひ かには諸説 しょせつ あり。詳 くわ しくは当該 とうがい 項目 こうもく を参照 さんしょう )。
前述 ぜんじゅつ のとおりハ140の生産 せいさん は遅延 ちえん し、エンジン未 み 装着 そうちゃく の三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き が多数 たすう 放置 ほうち された。早急 そうきゅう な戦力 せんりょく 化 か のため、陸軍 りくぐん ではハ140に換 か えてハ112-II を搭載 とうさい することを計画 けいかく した(日本 にっぽん 海軍 かいぐん も同 おな じく艦上 かんじょう 爆撃 ばくげき 機 き 彗星 すいせい のアツタエンジンに換 か えて金星 きんぼし 62型 がた エンジンを搭載 とうさい している)。金星 きんぼし 62型 がた エンジン、陸軍 りくぐん 名称 めいしょう ハ112-IIは星 ほし 型 がた 空冷 くうれい であるため、直径 ちょっけい こそ1,218 mmと大 おお きいが、離 はなれ 昇 のぼり 出力 しゅつりょく 1,500馬力 ばりき を発揮 はっき するものであった。これは広 ひろ く部隊 ぶたい に配備 はいび されている三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 一 いち 型 がた 丁 ひのと のハ40が発揮 はっき する1,175馬力 ばりき より強力 きょうりょく で、ハ140の1,500馬力 ばりき に匹敵 ひってき した。またハ112-IIには水 みず メタノール噴射 ふんしゃ 装置 そうち も装備 そうび されていた。航空 こうくう 本部 ほんぶ や土井 どい 技師 ぎし は三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き の空冷 くうれい 換 かわ 装 そう を前向 まえむ きに検討 けんとう 開始 かいし した。軍需 ぐんじゅ 省 しょう の意向 いこう や川崎 かわさき 航空機 こうくうき のエンジン部門 ぶもん の実戦 じっせん 化 か への努力 どりょく 等 とう 、空冷 くうれい 化 か に対 たい して考慮 こうりょ すべき点 てん があったものの、戦局 せんきょく と生産 せいさん の観点 かんてん から、1944年 ねん 4月 がつ 、航空 こうくう 審査 しんさ 部 ぶ は川崎 かわさき に対 たい し内々 ないない に三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き の空冷 くうれい 化 か を依頼 いらい した。また上記 じょうき 二 に 型 がた の戦力 せんりょく 化 か の失敗 しっぱい により、10月1日 にち には正式 せいしき に空冷 くうれい 化 か 三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き ・キ100の試作 しさく が命 めい じられた。
三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き の840 mmの胴体 どうたい に直径 ちょっけい 1,218 mm、カウリングなども含 ふく めれば外 そと 径 みち 1,280 mmのハ112-IIをいかに収 おさ めるかは、ドイツより輸入 ゆにゅう されていたFw190A-5 の機首 きしゅ まわりの処理 しょり を参考 さんこう とした。エンジンと機体 きたい の接続 せつぞく 部 ぶ に生 しょう じる段差 だんさ は渦 うず 流 りゅう を生 しょう じ大 おお きな空気 くうき 抵抗 ていこう となるが、この部分 ぶぶん にエンジンの推力 すいりょく 式 しき 単 たん 排気 はいき 管 かん を設置 せっち し渦 うず 流 りゅう を吹 ふ き飛 と ばし、最小限 さいしょうげん の整形 せいけい のみで空気 くうき 抵抗 ていこう を低減 ていげん する処理 しょり を施 ほどこ した。
1944年 ねん の12月末 まつ には換 かわ 装 そう のための設計 せっけい を終 お え、試作 しさく 一 いち 号機 ごうき は翌 よく 1945年 ねん 2月 がつ 1日 にち (または11日 にち )に初 はつ 飛行 ひこう を行 おこな った。空冷 くうれい 化 か により前面 ぜんめん 投影 とうえい 量 りょう が増 ふ え、空気 くうき 抵抗 ていこう の増加 ぞうか により最高 さいこう 速度 そくど が580 km/hとなった。これはキ61-II改 あらため より30 km/hほど低下 ていか していた。しかし、空冷 くうれい 化 か による水冷 すいれい 装置 そうち の撤去 てっきょ など軽量 けいりょう 化 か に伴 ともな い、上昇 じょうしょう 力 りょく は四 よん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き を上回 うわまわ るものとなった。空戦 くうせん 性能 せいのう は三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き を上回 うわまわ ると判定 はんてい され、三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 一 いち 型 がた 丁 ちょう と比較 ひかく すれば最高 さいこう 速度 そくど においても凌駕 りょうが した。窮余 きゅうよ の策 さく の空冷 くうれい エンジンへの換 かわ 装 そう は大 だい 成功 せいこう であった。
第 だい 59戦隊 せんたい のパイロットらも、三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き を装備 そうび 運用 うんよう した時期 じき に比較 ひかく し、五 ご 式 しき 戦闘 せんとう 機 き は敵 てき 新鋭 しんえい 戦闘 せんとう 機 き とも相当 そうとう に善戦 ぜんせん できると評価 ひょうか した。また何 なに より、稼働 かどう 率 りつ が大 おお きく向上 こうじょう した。取 と り敢 あ えずの戦力 せんりょく 化 か ・稼働 かどう 率 りつ の向上 こうじょう に加 くわ え予想 よそう 外 がい の高性能 こうせいのう を発揮 はっき したキ100は、2月 がつ には五 ご 式 しき 戦闘 せんとう 機 き として制式 せいしき 採用 さいよう された。量産 りょうさん 機 き 第 だい 一 いち 号 ごう は2月 がつ に完成 かんせい し、3月には36機 き 、4月 がつ には89機 き 、5月には131機 き が生産 せいさん された。生産 せいさん の停止 ていし した三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 二 に 型 がた に代 か わって陸軍 りくぐん の主力 しゅりょく 戦闘 せんとう 機 き となり、陸軍 りくぐん 航空 こうくう 隊 たい はこれを大 だい 歓迎 かんげい する。だが米 べい 軍 ぐん の空襲 くうしゅう のため6月 がつ は88機 き 、7月 がつ は23機 き にまで生産 せいさん が落 お ち込 こ んだ。8月に生産 せいさん された10機 き をもって生産 せいさん 完了 かんりょう し、試作 しさく 機 き 3機 き を含 ふく め総 そう 生産 せいさん 数 すう は390機 き または393機 き 程度 ていど であった。ほか、生産 せいさん 機 き 数 すう は文献 ぶんけん により諸説 しょせつ が存在 そんざい する。
ただしハ112-IIはハ140より良 よ く稼動 かどう したとされるが、やはり新型 しんがた エンジンであり、信頼 しんらい 性 せい が抜群 ばつぐん であったと言 い うわけではなかった。1945年 ねん 7月 がつ に五 ご 式 しき 戦闘 せんとう 機 き を装備 そうび した第 だい 59戦隊 せんたい の稼働 かどう 率 りつ が48 %、三 さん 式 しき 戦 せん を装備 そうび した第 だい 55戦隊 せんたい の稼働 かどう 率 りつ が62 %とのデータもある。
正式 せいしき 名称 めいしょう
三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 一 いち 型 がた 乙 おつ
三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 一 いち 型 がた 丁 ひのと
三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 二 に 型 がた
試作 しさく 名称 めいしょう
キ61-I乙 おつ
キ61-I丁 ひのと
キ61-II改 あらため
全幅 ぜんぷく
12.00 m
全長 ぜんちょう
8.74 m
8.94 m
9.1565 m
全 ぜん 高 こう
3.70 m
3.75 m
翼 つばさ 面積 めんせき
20 m2
翼 つばさ 面 めん 荷重 かじゅう
156.5 kg/m2
173.5 kg/m2
191.25 kg/m2
自重 じちょう
2,380 kg
2,630 kg
2,855 kg
正規 せいき 全備 ぜんび 重量 じゅうりょう
3,130 kg
3,470 kg
3,825 kg
発動 はつどう 機 き
ハ40 (離 はなれ 昇 のぼり 1,175馬力 ばりき )
ハ140 (離 はなれ 昇 のぼり 1,500馬力 ばりき )
最高 さいこう 速度 そくど
590 km/h(高度 こうど 4,860 m)
560 km/h(高度 こうど 5,000 m)
610 km/h(高度 こうど 6,000 m)
上昇 じょうしょう 力 りょく
高度 こうど 5,000 mまで5分 ふん 31秒 びょう
高度 こうど 5,000 mまで7分 ふん 00秒 びょう
高度 こうど 5,000 mまで6分 ふん 00秒 びょう
航続 こうぞく 距離 きょり
1,100 km+戦闘 せんとう 20分 ふん または3.65時間 じかん (歴史 れきし 群 ぐん 像 ぞう ) / 2850 km(増 ぞう 槽 そう 付 づけ ) または7.65時間 じかん (歴史 れきし 群 ぐん 像 ぞう )
1,800 km(過 か 荷 に )
1,600 km(過 か 荷 に )
武装 ぶそう
ホ103 12.7 mm機関 きかん 砲 ほう 合計 ごうけい 4門 もん 、 (胴体 どうたい 2門 もん + 翼 つばさ 内 ない 2門 もん 、携行 けいこう 弾 だん 数 すう 各 かく 250発 はつ )
胴体 どうたい 20 mm機関 きかん 砲 ほう 2門 もん (ホ5 、弾 たま 数 すう 各 かく 120発 はつ )、 翼 つばさ 内 ない 12.7 mm機関 きかん 砲 ほう 2門 もん (ホ103 、弾 たま 数 すう 各 かく 250発 はつ )
胴体 どうたい 20 mm機関 きかん 砲 ほう 2門 もん (ホ5 、弾 たま 数 すう 各 かく 250発 はつ )、 翼 つばさ 内 ない 12.7 mm機関 きかん 砲 ほう 2門 もん (ホ103 、弾 たま 数 すう 各 かく 250発 はつ )
爆 ばく 装 そう
100 kg - 250 kg爆 ばく 弾 だん 2発 はつ
250 kg爆 ばく 弾 だん 2発 はつ
生産 せいさん 数 すう
約 やく 600機 き /512機 き
1,358機 き /1,354機 き
99機 き
出典 しゅってん :『日本 にっぽん の戦闘 せんとう 機 き ・陸軍 りくぐん 編 へん 』[379] 、航空機 こうくうき の原点 げんてん 精密 せいみつ 図面 ずめん を読 よ む10 日本 にっぽん 陸軍 りくぐん 戦闘 せんとう 機 き 編 へん [380] 、学習 がくしゅう 研究 けんきゅう 社 しゃ (2007) 歴史 れきし 群 ぐん 像 ぞう 太平洋 たいへいよう 戦史 せんし シリーズ 61『三 さん 式 しき 戦 せん 「飛燕 ひえん 」・五 ご 式 しき 戦 せん 』p.160の折 お り込 こ み。
三面 さんめん 図 ず
いきいきランド交野 かたの で展示 てんじ されるハ40(2007年 ねん )
1942年 ねん 4月 がつ 18日 にち のドーリットル空襲 くうしゅう 時 とき 、航空 こうくう 審査 しんさ 部 ぶ 飛行 ひこう 実験 じっけん 部 ぶ の前身 ぜんしん である陸軍 りくぐん 飛行 ひこう 実験 じっけん 部 ぶ 実験 じっけん 隊 たい には、キ61担当 たんとう 主任 しゅにん である荒蒔 あらまき 義次 よしじ 少佐 しょうさ と梅川 うめかわ 亮 あきら 三郎 さぶろう 准尉 じゅんい がいた。またキ61は福生 ふっさ 飛行場 ひこうじょう で飛行 ひこう 試験 しけん を終 お え、水戸 みと 陸軍 りくぐん 飛行 ひこう 学校 がっこう においてホ103射 しゃ 撃 げき 試験 しけん 中 ちゅう であった。彼 かれ らはこのキ61試作 しさく 2号機 ごうき ・3号機 ごうき に急遽 きゅうきょ 搭乗 とうじょう し、B-25 を迎撃 げいげき した。しかしこれらの機体 きたい に搭載 とうさい されていたのは演習 えんしゅう 用 よう 徹 てっ 甲 かぶと 弾 だん であり、炸裂 さくれつ 弾 だん ではないため命中 めいちゅう しても貫通 かんつう するのみで大型 おおがた 機 き の撃墜 げきつい は難 むずか しい。ただちに離陸 りりく した梅川 うめかわ 機 き はB-25の1機 き に命中 めいちゅう 弾 だん を浴 あ びせて左翼 さよく より燃料 ねんりょう または煙 けむり を噴 ふ かせたが燃料 ねんりょう が不足 ふそく し撃墜 げきつい には至 いた らず、1機 き 撃破 げきは を報告 ほうこく した。このB-25は4番 ばん 機 き であり、機長 きちょう はE・W・ホームストロム少尉 しょうい が務 つと めていた[383] 。ただし米 べい 軍 ぐん 側 がわ クルーの回想 かいそう によれば、左翼 さよく からの煙 けむり は梅川 うめかわ 機 き の攻撃 こうげき 前 まえ より発生 はっせい していた燃料 ねんりょう 漏 も れトラブルであったらしい。また、左 ひだり 前方 ぜんぽう より攻撃 こうげき されたともしている。一方 いっぽう 、荒蒔 あらまき は機体 きたい に搭載 とうさい された実包 じっぽう をマ弾 だん と呼 よ ばれる炸裂 さくれつ 弾 だん に換 かわ 装 そう し離陸 りりく 、B-25の後 のち を追 お ったが会 かい 敵 てき はできなかった。
梅川 うめかわ 機 き の後 のち に離陸 りりく した荒蒔 あらまき 機 き がB-25索敵 さくてき 中 ちゅう 、一線 いっせん 配備 はいび されておらず味方 みかた に周知 しゅうち されていない試験 しけん 機 き であるため、海軍 かいぐん 機 き から敵 てき 機 き と誤認 ごにん されて攻撃 こうげき を受 う ける一 いち 件 けん があったが、主翼 しゅよく の国籍 こくせき マーク を見 み せることで同士討 どうしう ちは回避 かいひ した。
1945年 ねん 2月 がつ 17日 にち 、二型 にがた で試験 しけん 飛行 ひこう を行 おこな っていた航空 こうくう 審査 しんさ 部 ぶ の荒蒔 あらまき 義次 よしじ 少佐 しょうさ が、F6Fと遭遇 そうぐう し空中 くうちゅう 戦 せん を行 おこな った。急降下 きゅうこうか を行 おこな った際 さい 、遷音速 そく 時 とき に発生 はっせい する様 よう な現象 げんしょう を体感 たいかん したと証言 しょうげん している。基地 きち に帰還 きかん した後 のち に確認 かくにん すると、1,000 km/h[注釈 ちゅうしゃく 32] まで測定 そくてい できる速度 そくど 計 けい の針 はり が振 ふ り切 き れ破損 はそん していた。しかし、機体 きたい には異常 いじょう は無 な く、速度 そくど 計 けい 以外 いがい に故障 こしょう した部分 ぶぶん はなかった[385] 。荒蒔 あらまき の手記 しゅき である「テスト飛行 ひこう で得 え た屠 ほふ 龍 りゅう と飛燕 ひえん の実力 じつりょく 」でも、音 おと の壁 かべ に衝突 しょうとつ したと語 かた っているが、こちらでは空中 くうちゅう 戦 せん や速度 そくど 計 けい の破損 はそん については触 ふ れられていない。なお、機体 きたい の対 たい 気 き 速度 そくど が、おおよそ音速 おんそく の0.7 - 0.8倍 ばい 程度 ていど に達 たっ したあたりから、主翼 しゅよく 上面 うわつら や胴体 どうたい の膨 ふく らんだ部分 ぶぶん など、気流 きりゅう の流 なが れの早 はや い箇所 かしょ では部分 ぶぶん 的 てき に衝撃波 しょうげきは が発生 はっせい する場合 ばあい があり、荒蒔 あらまき が衝撃波 しょうげきは を体感 たいかん したと言 い う証言 しょうげん はあり得 え ない話 はなし ではない。
2005年 ねん 3月 がつ 16日 にち に大阪 おおさか 府 ふ 交野 かたの 市 し 星田北 ほしだきた 地域 ちいき の第 だい 二 に 京阪 けいはん 道路 どうろ 建設 けんせつ 工事 こうじ 現場 げんば でエンジンや機関 きかん 砲 ほう 、プロペラなどの残骸 ざんがい が発見 はっけん された。調査 ちょうさ の結果 けっか 、1945年 ねん 7月 がつ 9日 にち に伊丹 いたみ 飛行場 ひこうじょう から出撃 しゅつげき した飛行 ひこう 第 だい 五 ご 六 ろく 戦隊 せんたい 所属 しょぞく の三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き のものであることが判明 はんめい した。搭乗 とうじょう 員 いん は中村 なかむら 純一 じゅんいち 陸軍 りくぐん 少尉 しょうい (当時 とうじ )。硫黄 いおう 島 とう から襲来 しゅうらい したP-51と交戦 こうせん し撃墜 げきつい された。残骸 ざんがい は交野 かたの 市 し に引 ひ き渡 わた され同市 どうし 施設 しせつ 「いきいきランド交野 かたの 」にて展示 てんじ されている[389] [390] 。
「旭日 きょくじつ と飛燕 ひえん 」5銭 ぜに 切手 きって
終戦 しゅうせん 間際 まぎわ の1945年 ねん 7月 がつ 1日 にち 、文献 ぶんけん によっては8月 がつ 1日 にち 、[要 よう 出典 しゅってん ] 逓信 ていしん 院 いん が発行 はっこう した5銭 ぜに の普通 ふつう 切手 きって に三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 「飛燕 ひえん 」が登場 とうじょう している。逓信 ていしん 院 いん とは、戦時 せんじ 統合 とうごう により発足 ほっそく した運輸 うんゆ 通信 つうしん 省 しょう から5月 がつ 19日 にち に分離 ぶんり し再 さい 発足 ほっそく した組織 そしき である。
同 どう 切手 きって は「戦意 せんい 発揚 はつよう 」を目的 もくてき に [要 よう 出典 しゅってん ] 公募 こうぼ が行 おこな われた入選 にゅうせん 作品 さくひん のひとつを改作 かいさく して採用 さいよう された図案 ずあん で[注釈 ちゅうしゃく 33] 、太陽 たいよう をバックに飛行 ひこう する本 ほん 機 き が描 えが かれているため「旭日 きょくじつ と飛燕 ひえん 」と俗称 ぞくしょう されている。ただし印刷 いんさつ は物資 ぶっし の欠乏 けつぼう により比較的 ひかくてき 簡素 かんそ な平版 へいはん 印刷 いんさつ で、目打 めうち も糊 のり も省 はぶ かれた状態 じょうたい で発行 はっこう された。また用紙 ようし も白紙 はくし や灰 はい 白紙 はくし と異 こと なるもので印刷 いんさつ されたほか、緑色 みどりいろ だけでなく青色 あおいろ で印刷 いんさつ されたものがある。[要 よう 出典 しゅってん ]
この切手 きって はGHQ から「軍国 ぐんこく 主義 しゅぎ 的 てき 」であるとして1947年 ねん (昭和 しょうわ 22年 ねん )8月 がつ 31日 にち 付 づけ で使用 しよう 禁止 きんし となった、いわゆる「追放 ついほう 切手 きって 」となった。もっとも発行 はっこう 当初 とうしょ は第 だい 三種 さんしゅ 便 びん 一般 いっぱん 料金 りょうきん 用 よう であったが、戦後 せんご はインフレーション のため、使用 しよう 禁止 きんし された時点 じてん では実際 じっさい に郵便 ゆうびん で使用 しよう できないほど額面 がくめん が無 む 価値 かち になっていた。 [要 よう 出典 しゅってん ]
現存 げんそん する機体 きたい ・レプリカ[ 編集 へんしゅう ]
本 ほん 機 き の完全 かんぜん な現存 げんそん 機 き は、現在 げんざい 日本 にっぽん 国内 こくない に1機 き 、三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 二 に 型 がた (キ61-II改 あらため 、製造 せいぞう 番号 ばんごう :川崎 かわさき 6117[392] )が存在 そんざい するのみである。この機体 きたい は1944年 ねん に川崎 かわさき 航空機 こうくうき 岐阜 ぎふ 工場 こうじょう で製造 せいぞう された二 に 型 がた の試作 しさく 17号機 ごうき である[393] 。戦争 せんそう 中 ちゅう 、この機体 きたい は陸軍 りくぐん 航空 こうくう 審査 しんさ 部 ぶ 所属 しょぞく であり、終戦 しゅうせん 直後 ちょくご に福生 ふっさ 飛行場 ひこうじょう でアメリカ軍 ぐん に接収 せっしゅう され[393] 、のちに日本航空 にほんこうくう 協会 きょうかい に譲渡 じょうと 返還 へんかん されたものである。同機 どうき は戦後 せんご に大 だい 規模 きぼ な修復 しゅうふく を受 う け、現在 げんざい 良好 りょうこう な状態 じょうたい で保存 ほぞん されている三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き としては世界 せかい で唯一 ゆいいつ である。
この機体 きたい は、京王 けいおう 百貨店 ひゃっかてん の「太平洋 たいへいよう 戦史 せんし 展 てん 」[395] や遊 ゆう 園地 えんち での展示 てんじ や航空 こうくう 自衛隊 じえいたい 岐阜 ぎふ 基地 きち での23年間 ねんかん の保管 ほかん ののち、1986年 ねん からは鹿児島 かごしま 県 けん 知 ち 覧 らん 町 まち に貸与 たいよ され知 ち 覧 らん 特攻 とっこう 平和 へいわ 会館 かいかん に展示 てんじ されていたが、2015年 ねん 9月に岐阜 ぎふ 県 けん 各務原 かがみはら 市 し にある川崎重工 かわさきじゅうこう 岐阜 ぎふ 工場 こうじょう に搬入 はんにゅう されて修復 しゅうふく を受 う け、神戸 こうべ 市 し での展示 てんじ を経 へ て[396] [397] 、2016年 ねん 11月に再 ふたた び各務原 かがみはら 市 し へ戻 もど り、岐阜 ぎふ かかみがはら航空 こうくう 宇宙 うちゅう 博物館 はくぶつかん の増 ぞう 改築 かいちく が終 お わるのを倉庫 そうこ で待 ま ち2018年 ねん 3月24日 にち より本館 ほんかん 内 ない で展示 てんじ されている[393] 。機体 きたい 番号 ばんごう は従来 じゅうらい 、"5017"あるいは"61217"と推測 すいそく されていたが、2015年 ねん ~2016年 ねん にかけて行 おこな われた修復 しゅうふく の中 なか で発見 はっけん された機体 きたい 各部 かくぶ に残 のこ るステンシル跡 あと から、"6117"であることが判明 はんめい した。
日本 にっぽん にはこのほか高知 こうち 県 けん 沖 おき の海中 かいちゅう から引 ひ き上 あ げられた機体 きたい が京都 きょうと 嵐山 あらしやま 美術館 びじゅつかん にて、胴体 どうたい 前部 ぜんぶ と主翼 しゅよく 桁 けた のみという不完全 ふかんぜん な状態 じょうたい のものが展示 てんじ されていたこともある。
また、海外 かいがい ではオーストリア南部 なんぶ のワンガラッタ市 し の航空機 こうくうき 復元 ふくげん 会社 かいしゃ に、川崎重工業 かわさきじゅうこうぎょう の現役 げんえき 及 およ びOB社員 しゃいん によるボランティア・グループが協力 きょうりょく して飛行 ひこう 可能 かのう なように復元 ふくげん 中 ちゅう の一 いち 型 がた がある[399]
アメリカでは、フロリダ州 しゅう のファンタジー・オブ・フライト で修復 しゅうふく 待 ま ちの二 に 型 がた (製造 せいぞう 番号 ばんごう :川崎 かわさき 379、飛行 ひこう 第 だい 68戦隊 せんたい または第 だい 78戦隊 せんたい 所属 しょぞく )を見 み ることができる[400] 他 た 、ヴァージニア州 しゅう ではジェラルド・イェイゲン(Jerald Yagen)所有 しょゆう の二 に 型 がた (製造 せいぞう 番号 ばんごう :川崎 かわさき 640、飛行 ひこう 第 だい 64戦隊 せんたい 所属 しょぞく 機 き )があり、同氏 どうし 運営 うんえい の軍事 ぐんじ 航空 こうくう 博物館 はくぶつかん 倉庫 そうこ で修復 しゅうふく 中 ちゅう である[401] 。
他 ほか にも、ニューギニア島 とう のチェンデラワシ湾 わん 海底 かいてい に残 のこ る機体 きたい と主翼 しゅよく の一部 いちぶ が水中 すいちゅう 写真 しゃしん 家 か の戸村 とむら 裕行 ひろゆき によって撮影 さつえい され、それが飛燕 ひえん であると潮 しお 書房 しょぼう 「丸 まる 」編集 へんしゅう 部 ぶ の鑑定 かんてい により発表 はっぴょう されるなど[402] 、未 いま だに太平洋 たいへいよう の各地 かくち に残骸 ざんがい が存在 そんざい する[403] 。
2017年 ねん に入 はい り、1970年代 ねんだい にパプアニューギニア のジャングル で発見 はっけん されオーストラリア のコレクター が保有 ほゆう していた残骸 ざんがい がヤフーオークション に出品 しゅっぴん された。この機体 きたい は倉敷 くらしき 市 し の会社 かいしゃ 経営 けいえい 者 しゃ が1500万 まん 円 えん で落札 らくさつ し、11月30日 にち に倉敷 くらしき 市 し にて引 ひ き渡 わた された。当初 とうしょ は落札 らくさつ した機体 きたい を修復 しゅうふく し大戦 たいせん 当時 とうじ に三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き に関 かか わった人々 ひとびと に見 み せる予定 よてい であったが、時間 じかん がかかりすぎ関係 かんけい 者 しゃ の存命 ぞんめい 中 ちゅう に見 み せることが困難 こんなん と判断 はんだん され、実機 じっき を採寸 さいすん してレプリカを制作 せいさく する方向 ほうこう に変更 へんこう [404] 。2023年 ねん に完成 かんせい し、レプリカ制作 せいさく を請 う け負 お った会社 かいしゃ の所在地 しょざいち 近 ちか くである茨城 いばらき 空港 くうこう で同年 どうねん 9月 がつ 9日 にち に公開 こうかい された[405] 後 のち にオーナーに引 ひ き渡 わた され2024年 ねん 4月 がつ 29より浅口 あさくち 市 し で[406] 展示 てんじ 予定 よてい [407] 。
知 ち 覧 らん 特攻 とっこう 平和 へいわ 会館 かいかん で
展示 てんじ されていた
当時 とうじ の
三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 二 に 型 がた (2009
年 ねん 7
月 がつ 撮影 さつえい )
[1]
神戸 こうべ ポートターミナルで展示 てんじ された三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 二 に 型 がた (2016年 ねん 10月 がつ 撮影 さつえい )
岐阜 ぎふ かかみがはら航空 こうくう 宇宙 うちゅう 博物館 はくぶつかん で所蔵 しょぞう されることになった三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 二 に 型 がた (2018年 ねん 5月 がつ 撮影 さつえい )
ファンタジー・オブ・フライトの倉庫 そうこ で修復 しゅうふく 待 ま ちの状態 じょうたい の三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 二 に 型 がた の翼 つばさ (2013年 ねん 11月撮影 さつえい )
全景 ぜんけい
分解 ぶんかい 展示 てんじ 中 ちゅう の胴体 どうたい
エンジン
プロペラ
落下 らっか タンク(木製 もくせい )
登場 とうじょう 作品 さくひん [ 編集 へんしゅう ]
『最後 さいご の帰郷 ききょう 』
実機 じっき が特攻 とっこう 機 き 役 やく として登場 とうじょう する。
『俺 おれ は、君 きみ のためにこそ死 し ににいく 』
終盤 しゅうばん の特攻 とっこう 機 き 護衛 ごえい のために出撃 しゅつげき するが、F6Fによってあえなく撃墜 げきつい される。
『荒野 あらの のコトブキ飛行 ひこう 隊 たい 』
第 だい 2話 わ で空 そら 賊 ぞく が使用 しよう 。10話 わ ・11話 わ ではショウト自警 じけい 団 だん が使用 しよう 、五 ご 式 しき 戦闘 せんとう 機 き を撃墜 げきつい する。
『戦場 せんじょう まんがシリーズ 』
シリーズ中 ちゅう 、「鉄 てつ の墓標 ぼひょう 」「爆裂 ばくれつ 弾道 だんどう 交差点 こうさてん 」「紫電 しでん 碧 あお 血 ち 」等 とう に登場 とうじょう する。
『飛燕 ひえん 独立 どくりつ 戦闘 せんとう 隊 たい 』
松本 まつもと 良男 よしお 『秘 ひ めたる空戦 くうせん 』を原作 げんさく とした航空 こうくう 戦記 せんき 。本 ほん 機 き を駆 か る陸軍 りくぐん 航空 こうくう 士官 しかん が南方 なんぽう 戦線 せんせん を転戦 てんせん する。
『プルプルぷろぺら 』(作 さく :鴨川 かもがわ つばめ 、秋田 あきた 書店 しょてん )
まだ高校生 こうこうせい である主人公 しゅじんこう が父親 ちちおや から譲 ゆず り受 う けた「飛燕 ひえん 」エンジン未 み 搭載 とうさい 機 き (いわゆる「首 くび 無 な し飛燕 ひえん 」)のリバースエンジニアリング および飛行 ひこう 操縦 そうじゅう を目指 めざ すシチュエーション・コメディ 作品 さくひん 。
『WarThunder 』
プレイヤーの操縦 そうじゅう 機体 きたい として一 いち 型 がた 乙 おつ ・一 いち 型 がた 甲 かぶと ・一 いち 型 がた 丙 へい ・一 いち 型 がた 丁 ひのと ・二 に 型 がた ・一 いち 型 がた 乙 おつ (米 べい 軍 ぐん 鹵獲 ろかく 機 き )が登場 とうじょう する。
『艦隊 かんたい これくしょん -艦 かん これ- 』
基地 きち 航空 こうくう 隊 たい に配置 はいち の陸軍 りくぐん 戦闘 せんとう 機 き という分類 ぶんるい で、三 さん 式 しき 戦 せん 飛燕 ひえん 、三 さん 式 しき 戦 せん 飛燕 ひえん 一 いち 型 がた 丁 ちょう 、三 さん 式 しき 戦 せん 飛燕 ひえん (飛行 ひこう 第 だい 244戦隊 せんたい )の名称 めいしょう で登場 とうじょう 。
『荒野 あらの のコトブキ飛行 ひこう 隊 たい 大空 おおぞら のテイクオフガールズ! 』
各 かく キャラクターの搭乗 とうじょう 可能 かのう 機体 きたい として一 いち 型 がた が登場 とうじょう 。怪盗 かいとう 団 だん アカツキのベッグは本 ほん 機 き が本来 ほんらい の愛 あい 機 き であり、搭乗 とうじょう することで能力 のうりょく が向上 こうじょう する。
^ アメリカ軍 ぐん のP-51 、イタリア軍 ぐん のMC.202 と同 おな じ設計 せっけい である。
^ これは日本 にっぽん 陸軍 りくぐん 最後 さいご の制式 せいしき 戦闘 せんとう 機 き である。なお歴史 れきし 群 ぐん 像 ぞう 編集 へんしゅう 部 ぶ (2010 , pp. 66–67)によれば、五 ご 式 しき 戦闘 せんとう 機 き は制式 せいしき 採用 さいよう されていない。
^ もっともエンジンが同等 どうとう とは言 い えBf109より設計 せっけい が6年 ねん も新 あたら しいのであるから、三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き の方 ほう が設計 せっけい が優 すぐ れているのは当然 とうぜん と言 い えば当然 とうぜん のことである。ただしBf109はF型 がた で大 だい 改造 かいぞう を施 ほどこ し面目 めんぼく を一新 いっしん しており、その後 ご は三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き が事実 じじつ 上 じょう 為 な し得 え なかった新型 しんがた エンジンでの性能 せいのう 向上 こうじょう も行 おこな えた。詳 くわ しくはBf109 を参照 さんしょう 。
^ もっとも野原 のはら (2009) によれば、最終 さいしゅう 的 てき には搭載 とうさい されていた川崎 かわさき の液 えき 冷 ひや エンジン、ハ9-II甲 かぶと がまともに稼働 かどう しなかったことが致命傷 ちめいしょう となった。審査 しんさ を担当 たんとう した一人 ひとり である木村 きむら 昇 のぼる 技術 ぎじゅつ 少佐 しょうさ は「一番 いちばん 印象 いんしょう に残 のこ った」とし、速度 そくど も出 で るし機体 きたい も頑丈 がんじょう 、馬力 ばりき があり模擬 もぎ 空戦 くうせん では高度 こうど を取 と って優位 ゆうい を占 し めることができた、と評価 ひょうか していた。
^ 副 ふく 賞金 しょうきん は15,000円 えん 。これの措置 そち は土井 どい に一任 いちにん され、多 おお くは国債 こくさい として岐阜 ぎふ 工場 こうじょう や設計 せっけい 部 ぶ に分配 ぶんぱい し、残 のこ りは宴会 えんかい に使 つか ったという。
^ ただし土井 どい はキ28 では7.6と、さらに高 たか いアスペクト比 ひ を用 もち いている。
^ これは海軍 かいぐん について言及 げんきゅう した文献 ぶんけん だが、碇 いかり (1996) によれば、戦闘 せんとう 機 き の場合 ばあい は通常 つうじょう 7Gまで耐 た える事 こと が求 もと められていた。なお耐 たい Gスーツ を着用 ちゃくよう しないパイロットが耐 た えられる限界 げんかい は8G前後 ぜんご とされる。
^ この時 とき の比較 ひかく 対象 たいしょう 機種 きしゅ は、FM-2、F4U、F6F、P-38、P-47、P-51、P-63。
^ ただしこれは上昇 じょうしょう 力 りょく の欠如 けつじょ も含 ふく めた評価 ひょうか 。確実 かくじつ に飛 と ぶ一式 いっしき 戦闘 せんとう 機 き と上昇 じょうしょう 性能 せいのう の良 よ い二 に 式 しき 単座 たんざ 戦闘 せんとう 機 き が引 ひ き合 あ いに出 だ されている。
^ 鈴木 すずき (2012) によれば、時期 じき は定 さだ かではないが、噴射 ふんしゃ 装置 そうち の合格 ごうかく 率 りつ はわずか5%であったという。この部分 ぶぶん はデーゼル機械 きかい 株式会社 かぶしきがいしゃ 、1981、『ヂーゼル機器 きき 40年 ねん 史 し 』よりの孫引 まごび き。
^ 当時 とうじ かかみがはら航空 こうくう 宇宙 うちゅう 科学 かがく 博物館 はくぶつかん に展示 てんじ されていたのもの。鈴木 すずき (2001 , p. 133)によれば、これは2001年 ねん 現在 げんざい のJIS規格 きかく では、0.5マイクロメートル が求 もと められているという。なお、転 ころ がり接触 せっしょく 面 めん の油膜 ゆまく の厚 あつ さは通常 つうじょう 、1マイクロメートル程度 ていど であり、これでは不具合 ふぐあい の発生 はっせい は容易 ようい に想像 そうぞう できる、としている。
^ キ61はこの段階 だんかい でいまだ三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き として制式 せいしき 化 か されておらず、隊員 たいいん たちは機材 きざい をキの61と呼 よ んだ
^ 磁差修正 しゅうせい に優 すぐ れた海軍 かいぐん 側 がわ に頼 たの んで最終 さいしゅう 調整 ちょうせい されていた。ただし軍刀 ぐんとう や拳銃 けんじゅう を持 も ち込 こ むと方位 ほうい が狂 くる うという。
^ 渡辺 わたなべ (2006) による。碇 いかり (2006) によれば180度 ど に対 たい して150度 ど 。
^ 大 だい 海原 うなばら で不時着 ふじちゃく 水 すい を行 おこな ったところで、救助 きゅうじょ の見込 みこ みはほとんど無 な い。このため海面 かいめん に突入 とつにゅう し、自殺 じさつ を行 おこな う。これは日本 にっぽん 軍 ぐん では「自爆 じばく 」と言 い われていた。
^ 1941年 ねん にドイツの日本 にっぽん 駐在 ちゅうざい 武官 ぶかん からもたらされたもの。通常 つうじょう 、2機 き 編隊 へんたい のロッテを2つ組 く み合 あ わせた4機 き 編成 へんせい をケッテと言 い うが、日本 にっぽん では2機 き 編隊 へんたい を分隊 ぶんたい 、4機 き 編隊 へんたい を小隊 しょうたい とする。現状 げんじょう では出典 しゅってん 不備 ふび で事実 じじつ 確認 かくにん の難 むずか しい部分 ぶぶん もあるが、より詳 くわ しくは当該 とうがい 項目 こうもく を参照 さんしょう 。日本 にっぽん についての記述 きじゅつ もなされている
^ 大塚 おおつか (2007b) 、近 きん 現代 げんだい 史 し 編纂 へんさん 会 かい (2001) は38機 き が出立 しゅったつ 、渡辺 わたなべ (2006) は約 やく 30機 き が到着 とうちゃく とする。
^ さらに、第 だい 244戦隊 せんたい は特攻 とっこう 機 き の援護 えんご 訓練 くんれん も行 おこな っている。この場合 ばあい は通常 つうじょう の武装 ぶそう や迷彩 めいさい 塗装 とそう が必要 ひつよう であり、現場 げんば は混乱 こんらん していたという。
^ 小林 こばやし 戦隊 せんたい 長 ちょう の体当 たいあ たりも射撃 しゃげき と同時 どうじ に行 おこな われたものである。なお、小林 こばやし 手記 しゅき によれば、機関 きかん 砲 ほう は300発 はつ を装填 そうてん できるところ、例 たと えば50発 はつ に抑 おさ えるなどされたという。
^ 兵藤 ひょうどう によれば1942 - 1943年 ねん の生産 せいさん 数 すう は不明 ふめい 。
^ なお航空 こうくう 機関 きかん 銃 じゅう /航空 こうくう 機関 きかん 砲 ほう は、飛行機 ひこうき の運動 うんどう に伴 ともな うGを原因 げんいん として故障 こしょう を起 お こすことがある。また機関 きかん 砲 ほう 自体 じたい の問題 もんだい のみならず、装弾 そうだん ・給 きゅう 弾 だん および排出 はいしゅつ 機構 きこう や機体 きたい への装備 そうび 方法 ほうほう についても問題 もんだい とされる場合 ばあい がある。ホ103はブローニングM2重 じゅう 機関 きかん 銃 じゅう のコピー・改良 かいりょう 型 がた であり機関 きかん 砲 ほう の機構 きこう 自体 じたい の問題 もんだい は少 すく なかったようであるが、Gがかかった時 とき の給 きゅう 弾 だん トラブルが多発 たはつ していた。ただし兵藤 ひょうどう は諸 しょ 事情 じじょう を鑑 かんが み、調子 ちょうし は悪 わる くなかったのではないかとしている。
^ 本来 ほんらい は毎月 まいつき 300丁 ちょう の継続 けいぞく 的 てき な輸入 ゆにゅう 契約 けいやく であったが、ドイツと日本 にっぽん の間 あいだ の交通 こうつう は潜水 せんすい 艦 かん しかなく、輸入 ゆにゅう されたのは800門 もん のみとなった。
^ 飛行 ひこう 中 ちゅう 、Gがかかれば機関 きかん 砲 ほう の動作 どうさ 速度 そくど も変 か わる。碇 いかり (1997) によれば、最大 さいだい 6Gの環境 かんきょう にまで配慮 はいりょ が成 な されたものであった。
^ ただしドイツの主力 しゅりょく 戦闘 せんとう 機 き Fw190 の内 うち 翼 つばさ の20 mm機関 きかん 砲 ほう なども同調 どうちょう 式 しき であり、皆無 かいむ と言 い うわけではない。ソビエトの戦闘 せんとう 機 き でも普通 ふつう に行 おこな われている装備 そうび 方法 ほうほう であり、欧州 おうしゅう では特 とく に珍 めずら しくはない。また、日本 にっぽん 海軍 かいぐん で使用 しよう していた九 きゅう 九 きゅう 式 しき 二 に 〇ミリ機銃 きじゅう は装填 そうてん 方式 ほうしき の都合 つごう により同調 どうちょう 装置 そうち を装着 そうちゃく できなかったためプロペラ圏内 けんない に搭載 とうさい することはそもそも不可能 ふかのう であった。
^ 渡辺 わたなべ (2006) によれば20 cm、土井 どい (1999) によれば18 cm。
^ 渡辺 わたなべ (2006) や、『世界 せかい の傑作 けっさく 機 き 』p.39では、580 km/h。560 km/hを採用 さいよう している文献 ぶんけん の方 ほう が多 おお いため、本文 ほんぶん 中 ちゅう ではそちらを採用 さいよう している。
^ 古 こ 峰 みね (2007 , p. 143)は重量 じゅうりょう 増加 ぞうか は330 kgとしているが、秋本 あきもと (1989 , p. 16)によれば自重 じちょう で250 kg、全備 ぜんび で330 kgの増加 ぞうか 。
^ 片 かた 渕 ふち (2007 , pp. 90–91)によれば、川崎 かわさき 内 ない で特 とく にこう呼 よ ばれていたらしい。川崎 かわさき 内 ない では「キ61マ式 しき 」とも。
^ 片岡 かたおか は陸軍 りくぐん 第 だい 42期 き 操縦 そうじゅう 学生 がくせい 出身 しゅっしん で、元 もと 准尉 じゅんい 。飛行 ひこう 歴 れき 12年 ねん のベテランパイロットである。その後 ご 試験 しけん 飛行 ひこう 中 ちゅう に事故死 じこし 。
^ 渡辺 わたなべ (2006 , p. 322)では3機 き 、渡辺 わたなべ (2010 , p. 82)では4機 き 。ただし後者 こうしゃ には「B-24」の文字 もじ は登場 とうじょう していない。
^ 日本 にっぽん 陸軍 りくぐん の「陸軍 りくぐん 現用 げんよう 試作 しさく 機 き 一覧 いちらん 表 ひょう 」においては、略号 りゃくごう (キ○○)、正式 せいしき 名称 めいしょう 、形式 けいしき (一 いち 型 がた 、二 に 型 がた )、称呼 しょうこ (甲乙 こうおつ 丙 へい 丁 ひのと )の他 ほか に、区分 くぶん と言 い った欄 らん がある。ここには「武 たけ 強 つよし 」の他 ほか に、「性向 せいこう 」「急降下 きゅうこうか 性向 せいこう 」「電波 でんぱ 」など言 い う区分 くぶん が見 み られる。
^ 音速 おんそく は大気 たいき 圧 あつ 、温度 おんど 、湿度 しつど によって変化 へんか する。またマッハ数 すう 補正 ほせい 機能 きのう のないこの時代 じだい の速度 そくど 計 けい ではマッハ数 すう 0.6程度 ていど を境 さかい として実際 じっさい よりも高 たか い数値 すうち を示 しめ す傾向 けいこう がある。このときのマッハ数 すう がいくつであったかは高度 こうど 、温度 おんど 、速度 そくど 計 けい の特性 とくせい 等 とう が併記 へいき されないかぎり確定 かくてい できない。
^ 日本 にっぽん 郵趣協会 きょうかい (1997) によれば、原案 げんあん では三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き ではなく九 きゅう 六 ろく 式 しき 陸 りく 攻 おさむ であった。
防衛庁 ぼうえいちょう 防衛 ぼうえい 研修 けんしゅう 所 しょ 戦史 せんし 室 しつ (編 へん )『戦史 せんし 叢書 そうしょ 7 東部 とうぶ ニューギニア方面 ほうめん 陸軍 りくぐん 航空 こうくう 作戦 さくせん 』、朝 あさ 雲 くも 新聞 しんぶん 社 しゃ 、1967年 ねん
青木 あおき , 謙 けん 知 ち (2004), 最強 さいきょう の戦闘 せんとう 機 き 第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん , 講談社 こうだんしゃ - デアゴスティーニ・ジャパン 、「週刊 しゅうかん ワールドエアクラフト」を元 もと に再 さい 編集 へんしゅう されたもの。
赤塚 あかつか , 聡 さとし (2012), ソフトバンククリエイティブ, ISBN 978-4797356397
秋本 あきもと , 実 み (1989), “3式 しき 戦 せん 「飛燕 ひえん 」の開発 かいはつ と各 かく 型 かた ”, 世界 せかい の傑作 けっさく 機 き 陸軍 りくぐん 三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 「飛燕 ひえん 」 , 文 ぶん 林堂 はやしどう , ISBN 4-89319-014-8
秋本 あきもと , 実 み (1999), “各 かく 型 かた 変遷 へんせん ・戦歴 せんれき ・塗装 とそう ・マーキング”, 飛燕 ひえん ・五 ご 式 しき 戦 せん / 九 きゅう 九 きゅう 双 そう 軽 けい , 図解 ずかい ・軍用 ぐんよう 機 き シリーズ, 2 , 光人 みつひと 社 しゃ , ISBN 4-7698-0911-5 - 文中 ぶんちゅう での脚注 きゃくちゅう のほか、各 かく 方面 ほうめん に進出 しんしゅつ した戦隊 せんたい についても参考 さんこう とした。
荒蒔 あらまき , 義次 よしじ (2011), “テスト飛行 ひこう で得 え た屠 ほふ 龍 りゅう と飛燕 ひえん の実力 じつりょく ”, 陸軍 りくぐん 戦闘 せんとう 機 き 隊 たい 私 わたし は愛 あい 機 き と共 とも に青春 せいしゅん を賭 と して戦 たたか った! , 光人 みつひと 社 しゃ , ISBN 978-4-7698-1494-8 - 本書 ほんしょ の最終 さいしゅう ページによれば、初出 しょしゅつ は雑誌 ざっし 『丸 まる 』に掲載 けいさい されたものであるが、年次 ねんじ などは明記 めいき されておらず、不明 ふめい 。
碇 いかり , 義朗 よしろう (1996), 航空 こうくう テクノロジーの戦 たたか い 「海軍 かいぐん 空 そら 技 わざ 廠 しょう 」技術 ぎじゅつ 者 しゃ とその周辺 しゅうへん の人々 ひとびと の物語 ものがたり , 光人 みつひと 社 しゃ , ISBN 4-7698-2114-X - 1989年 ねん 、光人 みつひと 社 しゃ 刊 かん 、『海軍 かいぐん 技術 ぎじゅつ 者 しゃ たちの太平洋戦争 たいへいようせんそう 』の改題 かいだい ・文庫 ぶんこ 版 ばん 。海軍 かいぐん 版 ばん DB601である「アツタ」について詳 くわ しいほか、防弾 ぼうだん タンク用 よう のゴム 、艤装 ぎそう 、風防 ふうぼう ガラス、誉 ほまれ 、木製 もくせい 軍用 ぐんよう 機 き などについても言及 げんきゅう されている。
碇 いかり , 義朗 よしろう (1997), 戦闘 せんとう 機 き 入門 にゅうもん 銀翼 ぎんよく に刻 きざ まれた栄光 えいこう , 光人 みつひと 社 しゃ , ISBN 4-7698-2153-0
碇 いかり , 義朗 よしろう (2006), 戦闘 せんとう 機 き 「飛燕 ひえん 」技術 ぎじゅつ 開発 かいはつ の戦 たたか い 日本 にっぽん 唯一 ゆいいつ の液 えき 例 れい 傑作 けっさく 機 き , ISBN 4-7698-2137-9 - 1977年 ねん 廣済堂 こうさいどう 出版 しゅっぱん より刊行 かんこう された『戦闘 せんとう 機 き 飛燕 ひえん 』の加筆 かひつ 修正 しゅうせい ・文庫 ぶんこ 版 ばん 。1976年 ねん に「東京 とうきょう タイムズ 」連載 れんさい 。
生野 いくの , 文 ぶん 介 かい (1989), “3式 しき 戦 せん 「飛燕 ひえん 」と5式 しき 戦 せん 空戦 くうせん 記録 きろく ”, 世界 せかい の傑作 けっさく 機 き 陸軍 りくぐん 三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 「飛燕 ひえん 」 , 文 ぶん 林堂 はやしどう , ISBN 4-89319-014-8 - インタビュー形式 けいしき 。インタビュワーは「本誌 ほんし 」。初出 しょしゅつ は『航空 こうくう ファン』1977年 ねん 12月 がつ 号 ごう 。
和泉 いずみ , 久 ひさ (1999), “INTRODUCTION”, 飛燕 ひえん ・五 ご 式 しき 戦 せん / 九 きゅう 九 きゅう 双 そう 軽 けい , 図解 ずかい ・軍用 ぐんよう 機 き シリーズ, 2 , 光人 みつひと 社 しゃ , ISBN 4-7698-0911-5
大塚 おおつか , 好古 こうこ (2007a), “「三 さん 式 しき 戦 せん 」vs米 べい 英 えい 独 どく 伊 い の水冷 すいれい 戦闘 せんとう 機 き 性能 せいのう 比較 ひかく ”, 三 さん 式 しき 戦 せん 「飛燕 ひえん 」・五 ご 式 しき 戦 せん キ六 ろく 〇に端 はし を発 はっ してキ一 きいつ 〇〇に至 いた る大戦 たいせん 期 き 液 えき 冷 ひや 発動 はつどう 機 き 装備 そうび 戦闘 せんとう 機 き の系譜 けいふ , 歴史 れきし 群 ぐん 像 ぞう 太平洋 たいへいよう 戦史 せんし シリーズ, 61 , 学習研究社 がくしゅうけんきゅうしゃ , ISBN 978-4-05-604930-5
大塚 おおつか , 好古 こうこ (2007b), “「三 さん 式 しき 戦 せん 」、「五 ご 式 しき 戦 せん 」を使用 しよう した戦闘 せんとう 機 き 隊 たい の概要 がいよう ”, 三 さん 式 しき 戦 せん 「飛燕 ひえん 」・五 ご 式 しき 戦 せん キ六 ろく 〇に端 はし を発 はっ してキ一 きいつ 〇〇に至 いた る大戦 たいせん 期 き 液 えき 冷 ひや 発動 はつどう 機 き 装備 そうび 戦闘 せんとう 機 き の系譜 けいふ , 歴史 れきし 群 ぐん 像 ぞう 太平洋 たいへいよう 戦史 せんし シリーズ, 61 , 学習研究社 がくしゅうけんきゅうしゃ , ISBN 978-4-05-604930-5
大塚 おおつか , 好古 こうこ (2007c), “「三 さん 式 しき 戦 せん 」、「五 ご 式 しき 戦 せん 」の戦歴 せんれき および米 べい 戦闘 せんとう 機 き との実力 じつりょく 比較 ひかく ”, 三 さん 式 しき 戦 せん 「飛燕 ひえん 」・五 ご 式 しき 戦 せん , 歴史 れきし 群 ぐん 像 ぞう 太平洋 たいへいよう 戦史 せんし シリーズ キ六 ろく 〇に端 はし を発 はっ してキ一 きいつ 〇〇に至 いた る大戦 たいせん 期 き 液 えき 冷 ひや 発動 はつどう 機 き 装備 そうび 戦闘 せんとう 機 き の系譜 けいふ , 61 , 学習研究社 がくしゅうけんきゅうしゃ , ISBN 978-4-05-604930-5
押尾 おしび 一彦 かずひこ 『特別 とくべつ 攻撃 こうげき 隊 たい の記録 きろく 陸軍 りくぐん 編 へん 』光人 みつひと 社 しゃ 、2005年 ねん 。ISBN 978-4769812272 。
角田 つのだ , 政司 せいじ (2011), “新鋭 しんえい 「五 ご 式 しき 戦 せん 」帝都 ていと 上空 じょうくう 一 いち 万 まん メートルの戦 たたか い”, 陸軍 りくぐん 戦闘 せんとう 機 き 隊 たい 私 わたし は愛 あい 機 き と共 とも に青春 せいしゅん を賭 と して戦 たたか った! , 光人 みつひと 社 しゃ , ISBN 978-4-7698-1494-8 - 元 もと 搭乗 とうじょう 員 いん の手記 しゅき 。本書 ほんしょ の最終 さいしゅう ページによれば、初出 しょしゅつ は雑誌 ざっし 『丸 まる 』に掲載 けいさい されたものであるが、年次 ねんじ などは明記 めいき されておらず、不明 ふめい 。
片 かた 渕 ふち , 須直 (2007), “「キ61」・「キ100」月別 つきべつ 生産 せいさん 数 すう と機体 きたい 番号 ばんごう 、「キ61」・「キ100」機体 きたい 別 べつ 番号 ばんごう リスト、「キ61」・「キ100」系列 けいれつ の各 かく 型 かた 製造 せいぞう 数 すう と機体 きたい 番号 ばんごう ”, 三 さん 式 しき 戦 せん 「飛燕 ひえん 」・五 ご 式 しき 戦 せん , 歴史 れきし 群 ぐん 像 ぞう 太平洋 たいへいよう 戦史 せんし シリーズ キ六 ろく 〇に端 はし を発 はっ してキ一 きいつ 〇〇に至 いた る大戦 たいせん 期 き 液 えき 冷 ひや 発動 はつどう 機 き 装備 そうび 戦闘 せんとう 機 き の系譜 けいふ , 61 , 学習研究社 がくしゅうけんきゅうしゃ , ISBN 978-4-05-604930-5
河野 こうの , 嘉之 よしゆき (2009), 新 しん 紀元 きげん 社 しゃ , ISBN 978-4-7753-0529-4 - 遷音速 そく での衝撃波 しょうげきは の発生 はっせい の典拠 てんきょ としたが、権威 けんい 不足 ふそく は否定 ひてい 出来 でき ないため、適切 てきせつ な文献 ぶんけん をお持 も ちの方 ほう は確認 かくにん の上 うえ で修正 しゅうせい ・差 さ し替 か えを頂 いただ きたい。
菊池 きくち , 征男 ゆきお (2007), “「三 さん 式 しき 戦 せん 」、「五 ご 式 しき 戦 せん 」で戦 たたか った本土 ほんど 防空 ぼうくう 戦 せん の強者 きょうしゃ たち”, 三 さん 式 しき 戦 せん 「飛燕 ひえん 」・五 ご 式 しき 戦 せん , 歴史 れきし 群 ぐん 像 ぞう 太平洋 たいへいよう 戦史 せんし シリーズ キ六 ろく 〇に端 はし を発 はっ してキ一 きいつ 〇〇に至 いた る大戦 たいせん 期 き 液 えき 冷 ひや 発動 はつどう 機 き 装備 そうび 戦闘 せんとう 機 き の系譜 けいふ , 61 , 学習研究社 がくしゅうけんきゅうしゃ , ISBN 978-4-05-604930-5
近 きん 現代 げんだい 史 し 編纂 へんさん 会 かい (2001), 新人物往来社 しんじんぶつおうらいしゃ , ISBN 4-404-02945-4
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鈴木 すずき , 孝 こう (2001), 20世紀 せいき のエンジン史 し , 三樹 みき 書房 しょぼう , ISBN 4-89522-283-7
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鈴木 すずき , 孝 こう (2012), エンジンのロマン , 三樹 みき 書房 しょぼう , ISBN 978-4-89522-593-9 - 上記 じょうき の新装 しんそう 改訂 かいてい 版 ばん 。
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土井 どい , 武夫 たけお (2002b), “薄命 はくめい の五 ご 式 しき 戦 せん 設計 せっけい 秘話 ひわ ”, 軍用 ぐんよう 機 き 開発 かいはつ 物語 ものがたり 設計 せっけい 者 しゃ が語 かた る秘 ひ められたプロセス , 光人 みつひと 者 しゃ NF文庫 ぶんこ , 2 , 光人 みつひと 社 しゃ , ISBN 4-7698-2347-9 - 初出 しょしゅつ は雑誌 ざっし 「丸 まる 」 1976年 ねん 4月 がつ 号 ごう に掲載 けいさい された手記 しゅき であるが本文 ほんぶん 中 ちゅう での書誌 しょし 情報 じょうほう はより入手 にゅうしゅ が容易 ようい なこの文庫 ぶんこ のものを使用 しよう している。
同朋 どうほう 舎 しゃ , ed. (1989), “川崎 かわさき キ-61 飛燕 ひえん ”, 週刊 しゅうかん Aircraft , 20 , 同朋 どうほう 舎 しゃ - 分冊 ぶんさつ 百科 ひゃっか の20巻 かん 。原著 げんちょ はイギリスのAerospace Publishing Limitedによる。日本語 にほんご 版 ばん 監修 かんしゅう は佐貫 さぬき 亦 また 男 おとこ 、久保田 くぼた 弘敏 ひろとし 。甲乙 こうおつ 丙 へい 丁 ひのと がabcdで現 あらわ されているなどが興味深 きょうみぶか い。
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野原 のはら , 茂 しげる (2005), 日本 にっぽん 軍用 ぐんよう 機 き 事典 じてん 陸軍 りくぐん 編 へん , イカロス出版 いかろすしゅっぱん
野原 のはら , 茂 しげる (2007a), 日本 にっぽん 陸海 りくかい 軍 ぐん 爆撃 ばくげき 機 き ・攻撃 こうげき 機 き 1930-1945 , 文 ぶん 林堂 はやしどう , ISBN 978-4-89319-155-7
野原 のはら , 茂 しげる (2007b), 日本 にっぽん 陸海 りくかい 軍 ぐん 戦闘 せんとう 機 き 1930-1945 , 文 ぶん 林堂 はやしどう , ISBN 978-4-89319-148-9
野原 のはら , 茂 しげる (2009), 日本 にっぽん 陸軍 りくぐん 戦闘 せんとう 機 き の系譜 けいふ 図 ず , 枻出版 しゅっぱん 社 しゃ
林 はやし , 貞助 さだすけ (1999), “「空冷 くうれい vs 液 えき 冷 ひや 」エンジン性能 せいのう くらべ”, 飛燕 ひえん ・五 ご 式 しき 戦 せん / 九 きゅう 九 きゅう 双 そう 軽 けい , 図解 ずかい ・軍用 ぐんよう 機 き シリーズ, 2 , 光人 みつひと 社 しゃ , ISBN 4-7698-0911-5
兵藤 ひょうどう , 二 に 十 じゅう 八 はち (2009), たんたんたたた , 光人 みつひと 社 しゃ - 改訂 かいてい 文庫 ぶんこ 版 ばん 。オリジナルは『たんたんたたた - 機関 きかん 銃 じゅう と近代 きんだい 日本 にっぽん 』として、四谷 よつや ラウンドより1998に発売 はつばい されたもの。
「丸 まる 」編集 へんしゅう 部 ぶ (1999), 飛燕 ひえん ・五 ご 式 しき 戦 せん / 九 きゅう 九 きゅう 双 そう 軽 けい , 図解 ずかい ・軍用 ぐんよう 機 き シリーズ, 2 , 光人 みつひと 社 しゃ , ISBN 4-7698-0911-5
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古 こ 峰 みね , 文三 ぶんぞう (2007), “川崎 かわさき 航空機 こうくうき の戦闘 せんとう 機 き 開発 かいはつ 系譜 けいふ と「三 さん 式 しき 戦 せん 」・「キ100」の誕生 たんじょう 第 だい 1 - 10章 しょう ”, 三 さん 式 しき 戦 せん 「飛燕 ひえん 」・五 ご 式 しき 戦 せん キ六 ろく 〇に端 はし を発 はっ してキ一 きいつ 〇〇に至 いた る大戦 たいせん 期 き 液 えき 冷 ひや 発動 はつどう 機 き 装備 そうび 戦闘 せんとう 機 き の系譜 けいふ , 歴史 れきし 群 ぐん 像 ぞう 太平洋 たいへいよう 戦史 せんし シリーズ, 61 , 学習研究社 がくしゅうけんきゅうしゃ , ISBN 978-4-05-604930-5
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「丸 まる 」編集 へんしゅう 部 ぶ , ed. (2000), 隼 はやぶさ /鍾馗 しょうき /九 きゅう 七 なな 戦 せん , 図解 ずかい ・軍用 ぐんよう 機 き シリーズ, 12 , 光人 みつひと 社 しゃ , ISBN 4-7698-0921-2 - 隼 はやぶさ と鍾馗 しょうき の最 さい 高速度 こうそくど の参考 さんこう とした。
矢吹 やぶき , 明紀 あきのり ; 市ヶ谷 いちがや , ハジメ (2011), くらべる飛行機 ひこうき , 東京書籍 とうきょうしょせき , ISBN 978-4-487-80566-2 - 三 さん 次 じ 資料 しりょう に近 ちか い文献 ぶんけん であるが、日本 にっぽん 軍 ぐん 戦闘 せんとう 機 き の生産 せいさん 機 き 数 すう の一般 いっぱん 認識 にんしき として参照 さんしょう した。ちなみにこの文献 ぶんけん では三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き は2,783機 き 、五 ご 式 しき 戦闘 せんとう 機 き は398機 き の説 せつ を採 と っている。
「歴史 れきし 群 ぐん 像 ぞう 」編集 へんしゅう 部 ぶ (2005), 日本 にっぽん 陸軍 りくぐん 軍用 ぐんよう 機 き パーフェクトガイド 1910 - 1945 , 学習研究社 がくしゅうけんきゅうしゃ - 著者 ちょしゃ 名 めい の表示 ひょうじ は文献 ぶんけん に記述 きじゅつ されているもの、ママである。
歴史 れきし 群 ぐん 像 ぞう 編集 へんしゅう 部 ぶ (2010), 決定 けってい 版 ばん 第 だい 二 に 次 じ 大戦 たいせん 戦闘 せんとう 機 き ガイド , 学研 がっけん パブリッシング, ISBN 978-4-05-404647-4 - 著者 ちょしゃ 名 めい の表示 ひょうじ は文献 ぶんけん に記述 きじゅつ されているもの、ママである。
歴史 れきし 群 ぐん 像 ぞう 編集 へんしゅう 部 ぶ (2011), 決定 けってい 版 ばん 日本 にっぽん の陸軍 りくぐん 機 き , 太平洋戦争 たいへいようせんそう 史 し スペシャル, 7 , 学習研究社 がくしゅうけんきゅうしゃ , ISBN 978-4056062205 - 基本 きほん 的 てき には2005年 ねん の文献 ぶんけん の載録 さいろく であるが、調査 ちょうさ の都合 つごう 上 じょう 一部 いちぶ にはこちらの文献 ぶんけん を用 もち いた。2005年 ねん の文献 ぶんけん を元 もと にした記述 きじゅつ の検証 けんしょう のためにこちらを用 もち いて頂 いただ いても、恐 おそ らく問題 もんだい は無 な い。
渡辺 わたなべ , 洋二 ようじ (1999), 陸軍 りくぐん 実験 じっけん 戦闘 せんとう 機 き 隊 たい - 知 し られざるエリート組織 そしき 、かく戦 たたか えり , グリーンアロー, ISBN 978-4766332896
渡辺 わたなべ , 洋二 ようじ (2002a), “切 き り裂 さ くツバメ”, 遙 はる かなる俊 しゅん 翼 つばさ , ISBN 4-16-724911-1 - この部分 ぶぶん の初出 しょしゅつ は月刊 げっかん 「丸 まる 」 1985年 ねん 4月 がつ 号 ごう 。
渡辺 わたなべ , 洋二 ようじ (2002b), “日本 にっぽん 戦闘 せんとう 機 き 、身内 みうち のライバルを比較 ひかく する”, 遙 はる かなる俊 しゅん 翼 つばさ , ISBN 4-16-724911-1 - この部分 ぶぶん の初出 しょしゅつ は月刊 げっかん 「丸 まる 」 1989年 ねん 11月 がつ 号 ごう 。
渡辺 わたなべ , 洋二 ようじ (2006), 液 えき 冷 ひや 戦闘 せんとう 機 き 「飛燕 ひえん 」 日 にち 独 どく 合体 がったい の銀翼 ぎんよく , 文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう , ISBN 4-16-724914-6 - 朝日 あさひ ソノラマ 1998 『液 えき 冷 ひや 戦闘 せんとう 機 き 「飛燕 ひえん 」』 の加筆 かひつ ・改正 かいせい ・文庫 ぶんこ 版 ばん 。なお、それよりさらに以前 いぜん に、サンケイ出版 しゅっぱん 1983年 ねん 『「飛燕 ひえん 」苦闘 くとう の三 さん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 』としても出版 しゅっぱん されている。
Francillon, Rene (1987), Japanese Aircraft of the Pacific War , Naval Inst Pr, ISBN 978-0870213137 - 欧米 おうべい の日本 にっぽん 機 き 研究 けんきゅう の権威 けんい 、ルネ・フランクリン氏 し の著書 ちょしょ 、派生 はせい 型 がた を記述 きじゅつ する際 さい に参考 さんこう にした。
渡辺 わたなべ , 洋二 ようじ (2010), “生産 せいさん を戦力 せんりょく に結 むす ぶ者 もの ”, 空 そら の技術 ぎじゅつ - 設計 せっけい ・生産 せいさん ・戦場 せんじょう の最前線 さいぜんせん に立 た つ , 光人 みつひと 社 しゃ , ISBN 978-4769826354 - 川崎 かわさき および陸軍 りくぐん 航空 こうくう 敞 たかし テストパイロットに焦点 しょうてん を充 あ てた文献 ぶんけん 。初出 しょしゅつ は『航空 こうくう ファン』2004年 ねん 8月 がつ 号 ごう および9月 がつ 号 ごう 。
ロビン・L・リエリー『米 べい 軍 ぐん から見 み た沖縄 おきなわ 特攻 とっこう 作戦 さくせん 』小田部 おたべ 哲哉 てつや (訳 わけ )、並木 なみき 書房 しょぼう 、2021年 ねん 。ISBN 978-4890634125 。
その他 た 、ベアリングについての基礎 きそ 的 てき な教科書 きょうかしょ を何 なん 冊 さつ か参考 さんこう としたが、直接的 ちょくせつてき な出典 しゅってん としては用 もち いていないので割愛 かつあい する。
命名 めいめい 法 ほう 制定 せいてい (1933年 ねん )以前 いぜん 機体 きたい (キ)滑空 かっくう 機 き (ク)その他 た 関連 かんれん 項目 こうもく