開戦 かいせん 翌年 よくねん の1942年 ねん (昭和 しょうわ 17年 ねん )に日本 にっぽん 政府 せいふ が発行 はっこう した「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 国庫 こっこ 債券 さいけん 」(戦争 せんそう 国債 こくさい )。戦後 せんご のインフレーション によりほぼ無 む 価値 かち となった。
「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 第 だい 一 いち 周年 しゅうねん 記念 きねん 」として日本 にっぽん 勧業 かんぎょう 銀行 ぎんこう (現 げん :みずほ銀行 ぎんこう )が販売 はんばい した「戦時 せんじ 報国 ほうこく 債券 さいけん 」
大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう (だいとうあせんそう、旧 きゅう 字体 じたい :大 だい 東亞 とうあ 戰爭 せんそう 、英語 えいご : Greater East Asia War )は、1941年 ねん (昭和 しょうわ 16年 ねん )12月8日 にち から1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )9月2日 にち まで行 おこな われた、日本 にっぽん (大日本帝国 だいにっぽんていこく )と中華民国 ちゅうかみんこく 、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく ・イギリス ・フランス ・オランダ などの連合 れんごう 国 こく との全 すべ ての戦線 せんせん の戦争 せんそう を指 さ す日本 にっぽん 側 がわ の名称 めいしょう [1] [2] [3] 。
1941年 ねん (昭和 しょうわ 16年 ねん )、日本 にっぽん 政府 せいふ はアメリカ・イギリスに対 たい して宣戦 せんせん 布告 ふこく を行 おこな った。12月12日 にち 、当時 とうじ の東條 とうじょう 内閣 ないかく (東條 とうじょう 英機 ひでき 首相 しゅしょう )は、1937年 ねん (昭和 しょうわ 12年 ねん )より継続 けいぞく していた支 ささえ 那 な 事変 じへん (日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう )を含 ふく んで「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう と呼称 こしょう す」と閣議 かくぎ 決定 けってい をした[4] ことから生 う まれた。同日 どうじつ 内閣 ないかく 情報 じょうほう 局 きょく が示 しめ した見解 けんかい で、「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」は戦域 せんいき を指 さ す名称 めいしょう ではなく「大 だい 東亜 とうあ 新 しん 秩序 ちつじょ 」の建設 けんせつ を意味 いみ するとされたように、目的 もくてき は、第 だい 2次 じ 近衛 このえ 内 ない 閣 かく (近衛 このえ 文麿 ふみまろ 首相 しゅしょう )以降 いこう の日本 にっぽん が掲 かか げた大 だい 東亜 とうあ 共栄 きょうえい 圏 けん 建設 けんせつ にあるとされた[6] 。「太平洋戦争 たいへいようせんそう (Pacific war)」という呼称 こしょう が「第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん におけるアメリカ側 がわ の対 たい 日 にち 戦 せん (第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん における日本 にっぽん 側 がわ の対 たい 米 べい 戦 せん )」のみを意味 いみ する呼称 こしょう であるのに対 たい し、「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」は対 たい 米 べい 戦争 せんそう である「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」だけでなく、東 ひがし アジア を中心 ちゅうしん に南 みなみ アジア 、東南 とうなん アジア 、太平洋 たいへいよう 全体 ぜんたい も戦場 せんじょう であった実態 じったい には合致 がっち している言葉 ことば である[2] [7] 。戦後 せんご は連合 れんごう 国軍 こくぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ (GHQ )の連合 れんごう 国軍 こくぐん 占領 せんりょう 下 か の日本 にっぽん の期間 きかん に使用 しよう 禁止 きんし され、「第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん における太平洋 たいへいよう での戦 たたか い」のみを本来 ほんらい は意味 いみ する「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」が代 か わりの言葉 ことば として強制 きょうせい 的 てき に使 つか われるようになった。1952年 ねん のサンフランシスコ講和 こうわ 条約 じょうやく 施行 しこう 以降 いこう の連合 れんごう 国軍 こくぐん 占領 せんりょう 期 き 後 ご の日本 にっぽん では禁止 きんし 措置 そち の効力 こうりょく は無 な くなったものの、その意味 いみ で「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」を用 もち いるケースが続 つづ いている[8] 。
2024年 ねん 現在 げんざい 、日本 にっぽん 政府 せいふ は「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」の表記 ひょうき は「現在 げんざい 一般 いっぱん に政府 せいふ として公式 こうしき 文書 ぶんしょ で使用 しよう していない」としている[9] 。また2006年 ねん の政府 せいふ 見解 けんかい では、いかなる用語 ようご を用 もち いるかは文脈 ぶんみゃく によるものであり、「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」の用語 ようご が不適切 ふてきせつ かは、一概 いちがい に回答 かいとう できないとしている。
1937年 ねん (昭和 しょうわ 12年 ねん )7月 がつ 7日 にち 、日本 にっぽん と中華民国 ちゅうかみんこく との間 あいだ で交戦 こうせん が勃発 ぼっぱつ した(盧溝橋 ろこうきょう 事件 じけん )。
第 だい 1次 じ 近衛 このえ 内 ない 閣 かく (近衛 このえ 文麿 ふみまろ 首相 しゅしょう )は「北 きた 支 ささえ 派兵 はへい に関 かん する政府 せいふ 声明 せいめい 」を発表 はっぴょう し、事件 じけん を「北 きた 支 ささえ 事変 じへん 」と名付 なづ け、今回 こんかい の事件 じけん は中国 ちゅうごく 側 がわ の計画 けいかく 的 てき 武力 ぶりょく 行使 こうし であり、日本 にっぽん はこれに対 たい して自衛 じえい 権 けん を行使 こうし するために派兵 はへい (増員 ぞういん )するとした[11] 。
同年 どうねん 8月 がつ に第 だい 二 に 次 じ 上海 しゃんはい 事変 じへん が勃発 ぼっぱつ するに及 およ び、戦線 せんせん は中 ちゅう 支 ささえ (中 ちゅう 支 ささえ 那 な 、現 げん 中国 ちゅうごく の華中 かちゅう 地方 ちほう )、そして中国 ちゅうごく 大陸 たいりく 全土 ぜんど へと拡大 かくだい し、日 にち 華 はな 事変 じへん や日 ひ 支 ささえ 事変 じへん と呼称 こしょう されるようになり、日本 にっぽん と中国 ちゅうごく の全面 ぜんめん 戦闘 せんとう の様相 ようそう を呈 てい した。9月2日 にち には、「北 きた 支 ささえ 事変 じへん 」は支 ささえ 那 な 事変 じへん が正式 せいしき の呼称 こしょう であるとされた。
1938年 ねん (昭和 しょうわ 13年 ねん )、第 だい 1次 じ 近衛 このえ 内 ない 閣 かく が発表 はっぴょう した支 ささえ 那 な 事変 じへん (日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう )の戦争 せんそう 目的 もくてき を発表 はっぴょう した「東亜 とうあ 新 しん 秩序 ちつじょ 」声明 せいめい では「大 だい 東亜 とうあ 」は使用 しよう されておらず、1940年 ねん (昭和 しょうわ 15年 ねん )7月 がつ 26日 にち の第 だい 2次 じ 近衛 このえ 内 ない 閣 かく で閣議 かくぎ 決定 けってい された基本 きほん 国策 こくさく 要綱 ようこう において「大 だい 東亜 とうあ 」の名称 めいしょう が初 はじ めて用 もち いられたとされる。この中 なか では「日 ひ 満 みつる 支 ささえ ノ強固 きょうこ ナル結合 けつごう ヲ根幹 こんかん トスル大 だい 東亜 とうあ ノ新 しん 秩序 ちつじょ ヲ建設 けんせつ スルニアリ」という文言 もんごん がある。また8月 がつ 1日 にち には松岡 まつおか 洋右 ようすけ 外相 がいしょう が「大 だい 東亜 とうあ 共栄 きょうえい 圏 けん 」という用語 ようご を初 はじ めて用 もち いた談話 だんわ を発表 はっぴょう した。
名称 めいしょう の策定 さくてい [ 編集 へんしゅう ]
1941年 ねん (昭和 しょうわ 16年 ねん )12月8日 にち に日本 にっぽん と英 えい 米 べい との間 あいだ に戦争 せんそう が発生 はっせい 前 まえ の検討 けんとう の時期 じき から発生 はっせい 後 ご まもなくは、「対 たい 中 ちゅう 戦争 せんそう 」「対 たい 英 えい 米 べい 戦争 せんそう 」「対 たい 英 えい 米 べい 蘭 らん 戦争 せんそう 」「対 たい 英 えい 米 べい 蘭 らん 蔣 戦争 せんそう 」など交戦 こうせん 相手 あいて の名 な を用 もち いた戦争 せんそう 名 めい が用 もち いられていた。対 たい 蘭 らん に関 かん しては、1941年 ねん (昭和 しょうわ 16年 ねん )12月1日 にち の御前 ごぜん 会議 かいぎ で開戦 かいせん を決定 けってい したものの、同月 どうげつ 8日 にち の「米国 べいこく 及英国 えいこく ニ対 たい スル宣戦 せんせん ノ詔書 しょうしょ 」では宣戦 せんせん 布告 ふこく の対象 たいしょう から除 のぞ かれており、1942年 ねん (昭和 しょうわ 17年 ねん )1月 がつ 11日 にち の対 たい 蘭 らん 戦 せん の開始 かいし および翌日 よくじつ の宣戦 せんせん 布告 ふこく まで公式 こうしき には「対 たい 英 えい 米 べい 蘭 らん 戦争 せんそう 」とは呼 よ んでいない。日本 にっぽん の政府 せいふ および軍部 ぐんぶ ではこの戦争 せんそう を正式 せいしき にどう呼称 こしょう するかについて検討 けんとう が開始 かいし された。
大本営 だいほんえい 政府 せいふ 連絡 れんらく 会議 かいぎ [ 編集 へんしゅう ]
12月10日 にち の大本営 だいほんえい 政府 せいふ 連絡 れんらく 会議 かいぎ は「今次 こんじ 戦争 せんそう ノ呼称 こしょう 並 なみ ニ平 ひらた 戦時 せんじ ノ分界 ぶんかい 時期 じき ニ関 せき スル件 けん 」を決定 けってい 、「支 ささえ 那 な 事変 じへん ヲモ含メ大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう ト呼称 こしょう ス」とされた。会議 かいぎ では海軍 かいぐん から「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」「対 たい 米 べい 英 えい 戦争 せんそう 」、さらに「興亜 こうあ 戦争 せんそう 」などの案 あん が出 だ された[注釈 ちゅうしゃく 1] 。しかし、海軍 かいぐん のこれらの名称 めいしょう 案 あん は「支 ささえ 那 な 事変 じへん (日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう )」を含 ふく めた場合 ばあい や、ソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく 連邦 れんぽう との交戦 こうせん が後 のち に起 お きる可能 かのう 性 せい を考 かんが えると適当 てきとう ではないと反対 はんたい された。その結果 けっか 、「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」が採択 さいたく されている[15]
12月12日 にち の閣議 かくぎ において、「今次 こんじ 戦争 せんそう ノ呼称 こしょう 並 なみ ニ平 ひらた 戦時 せんじ ノ分界 ぶんかい 時期 じき 等 とう ニ付 づけ テ」が閣議 かくぎ 決定 けってい された[4] 。この閣議 かくぎ 決定 けってい の第 だい 1項 こう で「今次 こんじ ノ對 たい 米 べい 英 えい 戰爭 せんそう 及今後 こんご 情勢 じょうせい ノ推移 すいい ニ伴 とも ヒ生起 せいき スルコトアルヘキ戰爭 せんそう ハ支 ささえ 那 な 事變 じへん ヲモ含メ大 だい 東亞 とうあ 戰爭 せんそう ト呼稱 こしょう ス」と明記 めいき し、支 ささえ 那 な 事変 じへん と「対 たい 米 べい 英 えい 戦争 せんそう 」を合 あ わせた戦争 せんそう 呼称 こしょう として「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」が公式 こうしき に決定 けってい した[4] 。また「平時 へいじ 、戰時 せんじ ノ分界 ぶんかい 時期 じき ハ昭和 しょうわ 十 じゅう 六 ろく 年 ねん 十二月 じゅうにがつ 八 はち 日 にち 午前 ごぜん 一 いち 時 じ 三 さん 十 じゅう 分 ふん トス」ともされた[4] 。
内閣 ないかく 情報 じょうほう 局 きょく [ 編集 へんしゅう ]
同日 どうじつ 内閣 ないかく 情報 じょうほう 局 きょく は「今次 こんじ の對 たい 米 べい 英 えい 戰 せん は、支 ささえ 那 な 事變 じへん をも含 ふく め大 だい 東亞 とうあ 戰爭 せんそう と呼 よび 稱 しょう す。大 だい 東亞 とうあ 戰爭 せんそう と呼稱 こしょう するは、大 だい 東亞 とうあ 新 しん 秩序 ちつじょ 建設 けんせつ を目的 もくてき とする戰爭 せんそう なることを意味 いみ するものにして、戰爭 せんそう 地域 ちいき を主 しゅ として大 だい 東亞 とうあ のみに限定 げんてい する意味 いみ に非 ひ ず」と発表 はっぴょう され、戦争 せんそう 目的 もくてき はアジア諸国 しょこく における欧米 おうべい の植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい の打倒 だとう を目指 めざ すものであると規定 きてい した。しかし、日本 にっぽん の戦争 せんそう 目的 もくてき については、「自存 じそん 自衛 じえい 」とするもの、また「自存 じそん 自衛 じえい 」「大 だい 東亜 とうあ 新 しん 秩序 ちつじょ 形成 けいせい 」の二 に 本立 ほんだ て、また「大 だい 東亜 とうあ 新 しん 秩序 ちつじょ 形成 けいせい 」のみが戦争 せんそう 目的 もくてき とするものの間 あいだ で当時 とうじ 見解 けんかい が分 わ かれていた。当時 とうじ 大本営 だいほんえい 参謀 さんぼう であった原 はら 四郎 しろう は情報 じょうほう 局 きょく の「戦争 せんそう 目的 もくてき 」発表 はっぴょう について「情報 じょうほう 局 きょく は何 なに を血迷 ちまよ ったか」との感想 かんそう を持 も ったと回想 かいそう している。
12月15日 にち 、次官 じかん 会議 かいぎ で英国 えいこく 中心 ちゅうしん の語 かたり 辞 じ である「極東 きょくとう 」を日本人 にっぽんじん が使 つか うことは不名誉 ふめいよ 至極 しごく として、公文書 こうぶんしょ で使用 しよう しないよう申 もう し合 あ わせを行 おこな った。
情報 じょうほう 局 きょく の発表 はっぴょう は1943年 ねん (昭和 しょうわ 18年 ねん )11月 の大 だい 東亜 とうあ 会議 かいぎ で「再 さい 確認 かくにん 」がなされている。
昭和 しょうわ 17年 ねん 法律 ほうりつ 第 だい 9号 ごう [ 編集 へんしゅう ]
1942年 ねん (昭和 しょうわ 17年 ねん )1月 がつ に「大 だい 東亞 とうあ 戰爭 せんそう ノ呼稱 こしょう ヲ定 てい メタルニ伴 とも フ各 かく 法律 ほうりつ 中 ちゅう 改正 かいせい 法律 ほうりつ 案 あん 」を帝国 ていこく 議会 ぎかい に提出 ていしゅつ する際 さい 、内閣 ないかく が作成 さくせい した「説明 せつめい 基準 きじゅん 」において対 たい 米 べい 英 えい 戦争 せんそう と支 ささえ 那 な 事変 じへん (日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう )のみならず、対 たい 蘭 らん 戦 せん 、対 たい ソ連 それん 戦 せん も「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」に含 ふく むと確認 かくにん された[18] 。その中 なか で「今次 こんじ 勃発 ぼっぱつ ノ對 たい 米 べい 英 えい 戰 せん ノミヲ支 ささえ 那 な 事變 じへん ト區別 くべつ シテ大 だい 東亞 とうあ 戰爭 せんそう ト稱 しょう スルモノニ非 ひ ザル」とし、前年 ぜんねん 12月 がつ 12日 にち の閣議 かくぎ 決定 けってい [4] は「今後 こんご 大 だい 東亞 とうあ 戰爭 せんそう ナル呼稱 こしょう ヲ用 もちい フル場合 ばあい ニハ昭和 しょうわ 十 じゅう 六 ろく 年 ねん 十二月 じゅうにがつ 八 はち 日 にち 前 まえ ノ支 ささえ 那 な 事變 じへん ヲモ包含 ほうがん スルモノナルノ意 い ヲ含ム。」と説明 せつめい された。
2月 がつ 17日 にち には法律 ほうりつ 第 だい 9号 ごう (大 だい 東亞 とうあ 戰爭 せんそう 呼稱 こしょう ヲ定 てい メタルニ伴 とも フ各 かく 法律 ほうりつ 中 ちゅう 改正 かいせい 法律 ほうりつ )が閣議 かくぎ 決定 けってい され、「勅命 ちょくめい ヲ以テ別段 べつだん ノ定 じょう ヲ為 ため シタル場合 ばあい ヲ除 じょ クノ外 がい 各 かく 法律 ほうりつ 中 ちゅう <支 ささえ 那 な 事変 じへん >ヲ<大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう >ニ改 あらため ム」として、法律 ほうりつ において「支 ささえ 那 な 事変 じへん 」の呼称 こしょう を「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」と改 あらた めるとされた。
「大 だい 東亜 とうあ 」の範囲 はんい [ 編集 へんしゅう ]
大 だい 東亜 とうあ の地図 ちず (1943年 ねん )
松岡 まつおか 洋右 ようすけ 外相 がいしょう によると大 だい 東亜 とうあ 共栄 きょうえい 圏 けん とは「従来 じゅうらい 東亜 とうあ 新 しん 秩序 ちつじょ 圏 けん 乃至 ないし は東亜 とうあ 安定 あんてい 圏 けん と称 しょう せられてゐたものと同一 どういつ 」であるとし、大日本帝国 だいにっぽんていこく ・満州 まんしゅう ・中国 ちゅうごく に加 くわ え、フランス領 りょう インドシナ 、オランダ領 りょう 東 ひがし インド をも含 ふく めた範囲 はんい であると説明 せつめい した。
1942年 ねん (昭和 しょうわ 17年 ねん )2月 がつ 28日 にち の大本営 だいほんえい 政府 せいふ 連絡 れんらく 会議 かいぎ では「帝国 ていこく 領 りょう 導 しるべ 下 か ニ新 しん 秩序 ちつじょ ヲ建設 けんせつ スヘキ大 だい 東亜 とうあ ノ地域 ちいき 」を決定 けってい し、大 だい 東亜 とうあ の地域 ちいき を「日 にち 満 まん 支 ささえ 及東経 けい 九 きゅう 十 じゅう 度 ど ヨリ東経 とうけい 百 ひゃく 八 はち 十 じゅう 度 ど 迄 まで ノ間 あいだ ニ於ケル南緯 なんい 十 じゅう 度 ど 以北 いほく ノ南方 みなかた 諸 しょ 地域 ちいき 、其他ノ諸 しょ 地域 ちいき ニ関 せき シテハ情勢 じょうせい ノ推移 すいい ニ応 おう シ決定 けってい ス」と規定 きてい した。
大本営 だいほんえい 参謀 さんぼう を務 つと めた瀬島 せじま 龍三 りゅうぞう は「大 だい 東亜 とうあ の地域 ちいき とは、おおむね、南 みなみ はビルマ 以東 いとう 、北 きた はバイカル湖 こ 以東 いとう の東 ひがし アジアの大陸 たいりく 、並 なら びにおおむね東経 とうけい 一 いち 八 はち 〇度 ど 以西 いせい すなわちマーシャル群島 ぐんとう 以西 いせい の西太平洋 にしたいへいよう の海域 かいいき を指 さ すのであります。インド 、豪州 ごうしゅう は含 ふく まれておりません」と記 しる している[20] 。
「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」の開始 かいし 時期 じき [ 編集 へんしゅう ]
現在 げんざい 一般 いっぱん には大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう の開始 かいし 時期 じき は、1941年 ねん 12月8日 にち からとされている。この分類 ぶんるい は『戦史 せんし 叢書 そうしょ 』や靖国神社 やすくにじんじゃ での戦没 せんぼつ 者 しゃ 分類 ぶんるい においても採用 さいよう されている。
一方 いっぽう で「支 ささえ 那 な 事変 じへん 」を大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう に含 ふく むとした点 てん が、開始 かいし 時期 じき 議論 ぎろん となることもみられる。内閣 ないかく 情報 じょうほう 局 きょく は12日 にち の声明 せいめい で、「過去 かこ 四 よん 年 ねん 有半 ゆうはん にわたって遂行 すいこう された支 ささえ 那 な 事変 じへん も大 だい 東亜 とうあ 新 しん 秩序 ちつじょ のため米 べい 英 えい 両国 りょうこく の傀儡 かいらい 化 か した重慶 たーちん 政権 せいけん の打倒 だとう を目指 めざ したものであり、その目的 もくてき は今回 こんかい の対 たい 米 べい 英 えい 戦 せん と同一 どういつ でその本質 ほんしつ も異 こと なるところなく、従 したが って『大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 』の下 した に含 ふく まれることになった」と述 の べており、大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう には1937年 ねん (昭和 しょうわ 12年 ねん )7月 がつ 7日 にち から真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき までの期間 きかん も含 ふく まれるとした。。また法律 ほうりつ 9号 ごう の説明 せつめい 資料 しりょう においても「今後 こんご 大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう ナル呼称 こしょう ヲ用 もちい フル場合 ばあい ニハ昭和 しょうわ 十 じゅう 六 ろく 年 ねん 十二月 じゅうにがつ 八 はち 日 にち 前 まえ ノ支 ささえ 那 な 事変 じへん ヲモ包含 ほうがん スルモノナルノ意 い ヲ含ム」とされている。戦後 せんご には村上 むらかみ 恭一 きょういち 貴族 きぞく 院 いん 議員 ぎいん が昭和 しょうわ 12年 ねん 9月 がつ からではないかと質問 しつもん を行 おこな っているが、松本 まつもと 烝治国務大臣 こくむだいじん は「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」と「支 ささえ 那 な 事変 じへん 」は別 べつ の戦争 せんそう であるから、第 だい 9号 ごう のような措置 そち を取 と る必要 ひつよう があったのではないかと答弁 とうべん している。
ミズーリ 艦上 かんじょう にて日本 にっぽん の降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ に署名 しょめい するダグラス・マッカーサー(1945年 ねん 9月 がつ 2日 にち )
8月 がつ 9日 にち の御前 ごぜん 会議 かいぎ において昭和 しょうわ 天皇 てんのう が「戦争 せんそう 指導 しどう については、先 さき の(6月 がつ 8日 にち )で決定 けってい しているが、他面 ためん 、戦争 せんそう の終結 しゅうけつ についても、この際 さい 従来 じゅうらい の観念 かんねん にとらわれることなく、速 すみ やかに具体 ぐたい 的 てき 研究 けんきゅう を遂 と げ、これを実現 じつげん するよう努力 どりょく せよ」と戦争 せんそう 終結 しゅうけつ のことを口 くち にした。本土 ほんど 決戦 けっせん による「一撃 いちげき 講和 こうわ 」を諦 あきら めきれない陸軍 りくぐん 内 ない で混乱 こんらん が深 ふか まったが、首相 しゅしょう の鈴木 すずき が天皇 てんのう に発言 はつげん を促 うなが し、天皇 てんのう 自身 じしん が和平 わへい を望 のぞ んでいることを直接 ちょくせつ 口 くち にしたことにより、昭和 しょうわ 天皇 てんのう からの信頼 しんらい が厚 あつ かった陸軍 りくぐん 大臣 だいじん の阿南 あなみ 惟幾 これちか が、徹底 てってい 抗戦 こうせん を主張 しゅちょう する青年 せいねん 将校 しょうこう らを「御 ご 聖断 せいだん は下 くだ ったのである。いまはそれに従 したが うばかりである。不服 ふふく のものは自分 じぶん の屍 かばね を越 こ えていけ」と身 み を挺 てい して説 と き伏 ふ せ、8月 がつ 14日 にち 、終戦 しゅうせん の詔書 しょうしょ が発 はっ されポツダム宣言 せんげん を受諾 じゅだく (日本 にっぽん の降伏 ごうぶく )することになった。その後 ご も米 べい 軍 ぐん による爆 ばく 撃 げき は続 つづ き、グアム島 とう からの第 だい 315爆撃 ばくげき 団 だん B-29、134機 き が8月 がつ 14日 にち 午後 ごご 10時 じ から8月 がつ 15日 にち 午前 ごぜん 3時 じ まで日本石油 にほんせきゆ 秋田 あきた 製油 せいゆ 所 しょ まで爆 ばく 弾 だん 12,000発 はつ を投下 とうか し、87名 めい の従業 じゅうぎょう 員 いん らが爆 ばく 死 し した[22] 。敗戦 はいせん と玉音 ぎょくおん 放送 ほうそう の実施 じっし を知 し った一部 いちぶ の陸軍 りくぐん 青年 せいねん 将校 しょうこう グループが、玉音 ぎょくおん 放送 ほうそう が録音 ろくおん されたレコード の奪還 だっかん をもくろんで8月 がつ 15日 にち 未明 みめい に宮 みや 内省 ないせい などを襲撃 しゅうげき する事件 じけん を起 お こしたが(宮城 みやぎ 事件 じけん )、これは陸軍 りくぐん 自身 じしん によって鎮圧 ちんあつ された。8月 がつ 15日 にち 正午 しょうご 、昭和 しょうわ 天皇 てんのう の玉音 ぎょくおん 放送 ほうそう が放送 ほうそう された。
8月 がつ 16日 にち 、大本営 だいほんえい は全 ぜん 軍 ぐん に対 たい して、戦闘 せんとう 行為 こうい を停止 ていし するよう命令 めいれい を発 はっ した。この後 のち 、鈴木 すずき 貫太郎 かんたろう 内閣 ないかく は総 そう 辞職 じしょく 。玉音 ぎょくおん 放送 ほうそう の後 のち には、海軍 かいぐん において一部 いちぶ 将兵 しょうへい が徹底 てってい 抗戦 こうせん を呼 よ びかけるビラ を撒 ま いたり停戦 ていせん 連絡 れんらく 機 き を破壊 はかい したりして抵抗 ていこう (厚木 あつぎ 航空 こうくう 隊 たい 事件 じけん )した他 ほか は大 おお きな反乱 はんらん は起 お こらなかった。8月17~18日 にち に起 お きた米 べい 軍機 ぐんき への迎撃 げいげき (「B-32 (航空機 こうくうき )#歴史 れきし 」参照 さんしょう )を最後 さいご に内地 ないち の日本 にっぽん 軍 ぐん は戦闘 せんとう を停止 ていし したが、後述 こうじゅつ するように、日本 にっぽん 軍民 ぐんみん への攻撃 こうげき を続 つづ けるソ連 それん 軍 ぐん への抗戦 こうせん (占 うらない 守 もり 島 とう の戦 たたか い など)を中心 ちゅうしん に外地 がいち では戦闘 せんとう が一部 いちぶ 続 つづ いた。
翌日 よくじつ には連合 れんごう 国軍 こくぐん が中立 ちゅうりつ 国 こく のスイス を通 つう じて、占領 せんりょう 軍 ぐん の日本 にっぽん 本土 ほんど への受 う け入 い れや各地 かくち に展開 てんかい する日本 にっぽん 軍 ぐん の武装 ぶそう 解除 かいじょ を進 すす めるための停戦 ていせん 連絡 れんらく 機 き の派遣 はけん を依頼 いらい し、19日 にち には日本 にっぽん 側 がわ の停戦 ていせん 全権 ぜんけん 委員 いいん が一式 いっしき 陸上 りくじょう 攻撃 こうげき 機 き でフィリピンのマニラへと向 む かうなど、イギリス軍 ぐん やアメリカ軍 ぐん に対 たい する停戦 ていせん と武装 ぶそう 解除 かいじょ は順調 じゅんちょう に遂行 すいこう された。
8月 がつ 28日 にち 、連合 れんごう 国軍 こくぐん による日本 にっぽん 占領 せんりょう 部隊 ぶたい の第 だい 一 いち 弾 だん としてアメリカ軍 ぐん の先遣 せんけん 部隊 ぶたい が厚木 あつぎ 飛行場 ひこうじょう に到着 とうちゃく し、8月 がつ 30日 にち には後 のち に連合 れんごう 国軍 こくぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ (GHQ/SCAP)の総 そう 司令 しれい 官 かん として連合 れんごう 国 こく による日本 にっぽん 占領 せんりょう の指揮 しき に当 あ たることになるアメリカ陸軍 りくぐん のマッカーサー大将 たいしょう も同 どう 基地 きち に到着 とうちゃく し、続 つづ いてイギリス軍 ぐん やオーストラリア軍 ぐん などの日本 にっぽん 占領 せんりょう 部隊 ぶたい も到着 とうちゃく した。
9月2日 にち には、東京 とうきょう 湾 わん 内 うち に停泊 ていはく した米 べい 海軍 かいぐん の戦艦 せんかん 「ミズーリ 」において、イギリス、アメリカ、中華民国 ちゅうかみんこく 、オーストラリア、フランス、オランダなどの連合 れんごう 諸国 しょこく 17カ国 かこく の代表 だいひょう 団 だん の臨席 りんせき [注釈 ちゅうしゃく 2] の下 した 、日本 にっぽん 政府 せいふ 全権 ぜんけん 重光 しげみつ 葵 まもる 外務 がいむ 大臣 だいじん と、大本営 だいほんえい 全権 ぜんけん 梅津 うめづ 美治 よしはる 郎 ろう 参謀 さんぼう 総長 そうちょう による対 たい 連合 れんごう 国 こく 降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ への調印 ちょういん がなされ、ここに1939年 ねん 9月 がつ 1日 にち より6年 ねん にわたって続 つづ いた第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん は終結 しゅうけつ した。
GHQによる使用 しよう 禁止 きんし [ 編集 へんしゅう ]
1944
年 ねん 制定 せいてい の
大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 従軍 じゅうぐん 記章 きしょう の
図案 ずあん (
左 ひだり :
表面 ひょうめん 、
右 みぎ :
裏面 りめん )。
敗戦 はいせん 後 ご は
占領 せんりょう 軍 ぐん により
製造 せいぞう 分 ぶん が
破棄 はき され、さらにGHQ/SCAPが「
大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」の
語 かたり の
使用 しよう を
禁止 きんし したため、1946
年 ねん に
未 み 発行 はっこう のまま
廃止 はいし されて「
幻 まぼろし の
従軍 じゅうぐん 記章 きしょう 」となった。
1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )8月 がつ のポツダム宣言 せんげん 受諾 じゅだく 後 ご も、大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう の名称 めいしょう はしばらく使用 しよう され、11月24日 にち には幣 ぬさ 原 はら 喜重郎 きじゅうろう 内閣 ないかく が「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 調査 ちょうさ 会 かい 官制 かんせい 」を公布 こうふ した。
しかし12月15日 にち 、連合 れんごう 国軍 こくぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ (GHQ/SCAP)は、日本 にっぽん 政府 せいふ に対 たい する覚書 おぼえがき 「國家 こっか 神道 しんとう 、神社 じんじゃ 神道 しんとう ニ對 たい スル政府 せいふ ノ保証 ほしょう 、支援 しえん 、保全 ほぜん 、監督 かんとく 並 なみ ニ弘 ひろ 布 ぬの ノ廃止 はいし ニ關 せき スル件 けん 」(いわゆる「神道 しんとう 指令 しれい 」)[23] を発 はっ した。この中 なか で「『大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 』および『八紘 はっこう 一宇 いちう 』などの、国家 こっか 神道 しんとう 、軍国 ぐんこく 主義 しゅぎ 、国家 こっか 主義 しゅぎ に緊密 きんみつ に関連 かんれん する言葉 ことば 」の使用 しよう を公文書 こうぶんしょ において禁止 きんし することが指令 しれい された。これによって政府 せいふ 部 ぶ 内 ない の「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 調査 ちょうさ 会 かい 」などは「戦争 せんそう 調査 ちょうさ 会 かい 」と改称 かいしょう され、関連 かんれん 法令 ほうれい にある「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」の語句 ごく もすべて「戦争 せんそう 」に置 お き換 か えられた。
同年 どうねん 9月 がつ 10日 とおか には「ニューズ頒布 はんぷ についての覚書 おぼえがき 」、9月19日 にち には「プレス・コード (新聞 しんぶん 規約 きやく )」が発出 はっしゅつ され、マスコミに対 たい するGHQの規制 きせい も強化 きょうか された。GHQはさらに「プレス・コードにもとづく検閲 けんえつ の要領 ようりょう にかんする細則 さいそく 」を発 はっ して新聞 しんぶん ・雑誌 ざっし がGHQの検閲 けんえつ を受 う けること、さらに「『大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 』『大 だい 東亜 とうあ 共栄 きょうえい 圏 けん 』『八紘 はっこう 一宇 いちう 』『英霊 えいれい 』のごとき戦時 せんじ 用語 ようご 」の使用 しよう を避 さ けるように指令 しれい した。
12月7日 にち には朝日新聞 あさひしんぶん が「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」の語 かたり を初 はじ めて使用 しよう し、12月8日 にち (開戦 かいせん 4周年 しゅうねん )には新聞 しんぶん 各紙 かくし がGHQ民間 みんかん 情報 じょうほう 教育 きょういく 局 きょく (CIE)作成 さくせい の「太平洋戦争 たいへいようせんそう 史 し −真実 しんじつ なき軍国 ぐんこく 日本 にっぽん の崩壊 ほうかい 」の掲載 けいさい を開始 かいし し、満州 まんしゅう 事変 じへん から太平洋戦争 たいへいようせんそう までを連続 れんぞく したものとみなし、日本 にっぽん の侵略 しんりゃく と残虐 ざんぎゃく 行為 こうい を詳細 しょうさい に叙述 じょじゅつ し、他方 たほう で米 べい 軍 ぐん の役割 やくわり を強調 きょうちょう するもので、東京 とうきょう 裁判 さいばん の「一部 いちぶ 軍国 ぐんこく 主義 しゅぎ 者 しゃ による共同 きょうどう 謀議 ぼうぎ 」という見方 みかた と一致 いっち するものだった。この連載 れんさい は1946年 ねん (昭和 しょうわ 21年 ねん )3月 がつ にGHQ民間 みんかん 情報 じょうほう 教育 きょういく 局 きょく 『太平洋戦争 たいへいようせんそう 史 し 奉天 ほうてん 事件 じけん から無条件 むじょうけん 降伏 ごうぶく まで』(高山 たかやま 書院 しょいん )として刊行 かんこう し、10万 まん 部 ぶ が完売 かんばい し、GHQ指導 しどう で学校 がっこう 教育 きょういく でも奨励 しょうれい された。
NHK で「眞相 しんそう はかうだ 」のラジオ放送 ほうそう も開始 かいし された。
GHQの検閲 けんえつ
GHQは出版 しゅっぱん 物 ぶつ についても検閲 けんえつ を行 おこな い、「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」表記 ひょうき の排除 はいじょ を図 はか った。まず占領 せんりょう 政策 せいさく の前期 ぜんき においては、あらゆる出版 しゅっぱん 物 ぶつ が「事前 じぜん 検閲 けんえつ 」を受 う け、「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」はすべて「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」に書 か き換 か えられた[注釈 ちゅうしゃく 3] 。
占領 せんりょう 政策 せいさく 後期 こうき に入 はい ると「事前 じぜん 検閲 けんえつ 」は「事後 じご 検閲 けんえつ 」へ変更 へんこう され、印刷 いんさつ ・製本 せいほん 済 ず みの出版 しゅっぱん 物 ぶつ を占領 せんりょう 軍 ぐん が検閲 けんえつ し、「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」その他 た 占領 せんりょう 軍 ぐん に不都合 ふつごう な記述 きじゅつ (GHQへの批判 ひはん 等 とう )があれば、発禁 はっきん 処分 しょぶん をおこなった。出版 しゅっぱん 社 しゃ は莫大 ばくだい な損害 そんがい を蒙 こうむ ることになるため、自主 じしゅ 的 てき に占領 せんりょう 軍 ぐん の検閲 けんえつ に触 ふ れるような文章 ぶんしょう を執筆 しっぴつ する著者 ちょしゃ を敬遠 けいえん し、占領 せんりょう 軍 ぐん の意向 いこう に沿 そ わない本 ほん を出版 しゅっぱん しなくなった。江藤 えとう 淳 あつし は、これを「日本人 にっぽんじん の自己 じこ 検閲 けんえつ 」と呼 よ び、この構造 こうぞう が言論 げんろん 機関 きかん に定着 ていちゃく するに従 したが い検閲 けんえつ は占領 せんりょう 軍 ぐん によってではなく、日本人 にっぽんじん 自身 じしん の手 て によって行 おこな われるようになったと主張 しゅちょう している[25] 。
こうした経緯 けいい から「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」という用語 ようご が強制 きょうせい 的 てき に「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」に置 お き換 か えられていったとの批判 ひはん がある[25] [26] 。江藤 えとう 淳 あつし は、占領 せんりょう 軍 ぐん が日本 にっぽん 軍 ぐん の残虐 ざんぎゃく 行為 こうい と国家 こっか の罪 つみ を強調 きょうちょう するために行 い った宣伝 せんでん 政策 せいさく [27] についてウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム (「戦争 せんそう についての罪悪 ざいあく 感 かん を日本人 にっぽんじん の心 しん に植 う えつけるための宣伝 せんでん 計画 けいかく 」)としている[25] 。
なお、1952年 ねん (昭和 しょうわ 27年 ねん )4月 がつ 11日 にち に公布 こうふ された「ポツダム宣言 せんげん の受諾 じゅだく に伴 ともな い発 はっ する命令 めいれい に関 かん する件 けん の廃止 はいし に関 かん する法律 ほうりつ 」(法律 ほうりつ 第 だい 81号 ごう )によって、GHQの「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」呼称 こしょう 廃止 はいし 覚書 おぼえがき は失効 しっこう している。
日本 にっぽん 政府 せいふ の対応 たいおう [ 編集 へんしゅう ]
GHQの政策 せいさく 以降 いこう 、現在 げんざい にいたるまで、日本 にっぽん 政府 せいふ は公的 こうてき には「今次 こんじ 戦争 せんそう 」「先 さき の大戦 たいせん 」「第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 」という呼称 こしょう を用 もち いている。たとえば村山 むらやま 談話 だんわ では「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」や「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」の用語 ようご はいずれも用 もち いられず、「先 さき の大戦 たいせん 」「過去 かこ の戦争 せんそう 」「過 か ぐる大戦 たいせん 」「第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 」などが用 もち いられた。
ただし、公的 こうてき 機関 きかん の史書 ししょ などで「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」の語 かたり を用 もち いる場合 ばあい もあり、1955年 ねん (昭和 しょうわ 30年 ねん )の内閣 ないかく 官房 かんぼう 編纂 へんさん 『内閣 ないかく 制度 せいど 七 なな 十 じゅう 年 ねん 史 し 』では「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」の語 かたり を用 もち い[30] 、衆議院 しゅうぎいん ・参議院 さんぎいん 共同 きょうどう 編纂 へんさん 『議会 ぎかい 制度 せいど 七 なな 十 じゅう 年 ねん 史 し 』(1960年 ねん ~1961年 ねん )では、「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう ・太平洋戦争 たいへいようせんそう 」の語 かたり を並列 へいれつ で用 もち いた。外務省 がいむしょう が1969年 ねん (昭和 しょうわ 44年 ねん )に発刊 はっかん した『外務省 がいむしょう の百 ひゃく 年 ねん 』では、「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」の語 かたり を用 もち いているが、他 た の省庁 しょうちょう の編纂 へんさん 物 ぶつ では用 もち いられていない。ただし、『大蔵省 おおくらしょう 百 ひゃく 年 ねん 史 し 』に序文 じょぶん を書 か いた福田 ふくだ 赳夫 たけお (当時 とうじ 内閣 ないかく 総理 そうり 大臣 だいじん )が「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」の語 かたり を用 もち いている。
1966年 ねん (昭和 しょうわ 41年 ねん )の『戦史 せんし 叢書 そうしょ 』の際 さい には、本文 ほんぶん には「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」や「支 ささえ 那 な 事変 じへん 」の語 かたり を用 もち いることもあるが、可能 かのう な限 かぎ り他 た の表現 ひょうげん (たとえば「今次 こんじ 大戦 たいせん 」)を用 もち いた。
皇室 こうしつ
天皇 てんのう の「おことば 」などでは「先 さき の大戦 たいせん 」「あの不幸 ふこう な戦争 せんそう 」といった表現 ひょうげん を用 もち いることが通例 つうれい となっている。2008年 ねん (平成 へいせい 20年 ねん )に宮内庁 くないちょう は「その(人間 にんげん 宣言 せんげん )後 ご も戦争 せんそう 名 めい を頭 あたま に付 つ けない表現 ひょうげん を繰 く り返 かえ しているうちに定着 ていちゃく した。特定 とくてい の意図 いと をもって○○戦争 せんそう というい方 いかた を避 さ けているわけではない」と回答 かいとう している。一方 いっぽう で記者 きしゃ 会見 かいけん などでは「第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 」という言葉 ことば を用 もち いることもある。
法令 ほうれい での様態 ようたい
日本 にっぽん の法令 ほうれい では1946年 ねん (昭和 しょうわ 21年 ねん )、「昭和 しょうわ 二 に 十 じゅう 年 ねん 勅 みことのり 令 れい 第 だい 五 ご 百 ひゃく 四 よん 十 じゅう 二 に 号 ごう 「ポツダム」宣言 せんげん ノ受諾 じゅだく ニ伴 とも ヒ発 はつ スル命令 めいれい ニ関 せき スル件 けん ニ基 もと ク国有 こくゆう 財産 ざいさん 法 ほう 中 ちゅう 改正 かいせい 等 とう ノ件 けん 」(昭和 しょうわ 21年 ねん 3月14日 にち 勅 みことのり 令 れい 第 だい 142号 ごう )等 とう により、法律 ほうりつ や勅 みことのり 令 れい の文中 ぶんちゅう に「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」の呼称 こしょう を使用 しよう していた法令 ほうれい の文言 もんごん は「今次 こんじ ノ戦争 せんそう 」と改 あらた められた[34] 。
支 ささえ 那 な 事変 じへん と大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう についての昭和 しょうわ 20年 ねん 帝国 ていこく 議会 ぎかい
前年 ぜんねん 1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )11月30日 にち の第 だい 89回 かい 帝国 ていこく 議会 ぎかい ・貴族 きぞく 院 いん 「昭和 しょうわ 二 に 十 じゅう 年 ねん 勅 みことのり 令 れい 第 だい 五 ご 百 ひゃく 四 よん 十 じゅう 二 に 号 ごう (承諾 しょうだく を求 もと むる件 けん )特別 とくべつ 委員 いいん 会 かい 」において貴族 きぞく 院 いん 議員 ぎいん 村上 むらかみ 恭一 きょういち は、「昭和 しょうわ 17年 ねん 法律 ほうりつ 第 だい 9号 ごう がある以上 いじょう 、大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう の開戦 かいせん は昭和 しょうわ 12年 ねん ではないか」と質問 しつもん 、松本 まつもと 烝治国務大臣 こくむだいじん は、この法律 ほうりつ によって「法律 ほうりつ 、勅 みことのり 令 れい の適用 てきよう の範囲 はんい 」に付 つ いては「支 ささえ 那 な 事変 じへん 」と「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」とは「一体 いったい を成 な して区分 くぶん すべからざる状態 じょうたい 」になったとしているが、支 ささえ 那 な 事変 じへん と大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう は「観念 かんねん に於 お いて区別 くべつ がある」と答弁 とうべん している[35] 。なお靖國神社 やすくにじんじゃ は、「支 ささえ 那 な 事変 じへん 」と「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」を1941年 ねん (昭和 しょうわ 16年 ねん )12月8日 にち で分 わ けている。
その後 ご の1952年 ねん (昭和 しょうわ 27年 ねん )4月 がつ 11日 にち に公布 こうふ された「ポツダム宣言 せんげん の受諾 じゅだく に伴 ともな い発 はっ する命令 めいれい に関 かん する件 けん の廃止 はいし に関 かん する法律 ほうりつ 」(法律 ほうりつ 第 だい 81号 ごう )では、ポツダム宣言 せんげん 受諾 じゅだく によって発 はっ された法令 ほうれい (いわゆるポツダム命令 めいれい )について、別途 べっと 法制 ほうせい 化 か されない限 かぎ り失効 しっこう するとされ、日本 にっぽん 政府 せいふ は勅 みことのり 令 れい 第 だい 142号 ごう について手続 てつづ きを行 おこな わなかったため、同 どう 法 ほう は失効 しっこう したが、この後 のち に制定 せいてい された法令 ほうれい の条文 じょうぶん などでも、「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」という表現 ひょうげん は使用 しよう されず、「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」あるいは「今次 こんじ の戦争 せんそう 」という表現 ひょうげん が使用 しよう されている[注釈 ちゅうしゃく 4] 。
2006年 ねん の政府 せいふ 見解 けんかい
2006年 ねん (平成 へいせい 18年 ねん )の日本 にっぽん 政府 せいふ による公式 こうしき 見解 けんかい では、大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう の呼称 こしょう は1941年 ねん (昭和 しょうわ 16年 ねん )12月12日 にち の閣議 かくぎ 決定 けってい されたものであるが、「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」の定義 ていぎ を定 さだ める法令 ほうれい はないとされる[37] 。また、1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )12月15日 にち 付 づ け連合 れんごう 国 こく 総 そう 司令 しれい 部 ぶ 覚書 おぼえがき 以降 いこう 、一般 いっぱん に政府 せいふ として公文書 こうぶんしょ において「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」という用語 ようご を使用 しよう していない[37] 。また「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」の用語 ようご が適切 てきせつ であるかどうかについては、「公文書 こうぶんしょ においていかなる用語 ようご を使用 しよう するかは文脈 ぶんみゃく 等 とう によるものであり、従 したが って一概 いちがい にお答 こた えすることは困難 こんなん である。」と言 い う立場 たちば を示 しめ している[37] 。
他方 たほう 、「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」という用語 ようご についても「在外 ざいがい 公館 こうかん 等 とう 借入金 かりいれきん の確認 かくにん に関 かん する法律 ほうりつ 」(昭和 しょうわ 24年 ねん 法律 ほうりつ 第 だい 173号 ごう )等 とう に使用 しよう されているが、「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」の定義 ていぎ を定 さだ める法令 ほうれい はなく、これに日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう が含 ふく まれるか否 ひ かは法令 ほうれい 上 じょう 定 さだ められておらず[37] 、政府 せいふ として定義 ていぎ して用 もち いている用語 ようご ではなく、また「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」と「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」は同一 どういつ の戦争 せんそう かについて回答 かいとう することは困難 こんなん とされた[38] 。
2024年 ねん の見解 けんかい
2024年 ねん には陸上 りくじょう 自衛隊 じえいたい 第 だい 32普通 ふつう 科 か 連隊 れんたい の公式 こうしき X が、「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」の用語 ようご を用 もち いて投稿 とうこう を行 おこな った。投稿 とうこう はその後 ご 削除 さくじょ されたが、木原 きはら 稔 みのる 防衛 ぼうえい 大臣 だいじん は「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」と言 い う言葉 ことば については現在 げんざい 政府 せいふ については一般 いっぱん 的 てき に使用 しよう していないと述 の べている[39] 。また林 はやし 芳正 よしまさ 内閣 ないかく 官房 かんぼう 長官 ちょうかん は「いかなる用語 ようご を使用 しよう するかは文脈 ぶんみゃく などによる。一概 いちがい に答 こた えることは困難 こんなん だ」と述 の べている[9] 。
「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」を使用 しよう する立場 たちば [ 編集 へんしゅう ]
当時 とうじ の宣伝 せんでん 画像 がぞう (1943年 ねん )
「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」呼称 こしょう を使用 しよう する立場 たちば や理由 りゆう については以下 いか のように様々 さまざま である。
1953年 ねん (昭和 しょうわ 28年 ねん )、参謀 さんぼう 本部 ほんぶ 作戦 さくせん 課長 かちょう の服部 はっとり 卓 たく 四郎 しろう が『大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 全 ぜん 史 し 』を刊行 かんこう 、戦後 せんご 初 はじ めて「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」を冠 かん した著作 ちょさく である。
歴史 れきし 認識 にんしき
哲学 てつがく 者 しゃ の上山 うえやま 春平 しゅんぺい は『中央公論 ちゅうおうこうろん 』1961年 ねん 1月 がつ 号 ごう で発表 はっぴょう した「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう の思想 しそう 的 てき 意味 いみ 」において「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」は「占領 せんりょう 軍 ぐん によって付与 ふよ された米国 べいこく 側 がわ の見方 みかた 」とし、そのような考 かんが え方 かた に慣 な れた日本人 にっぽんじん にショックを与 あた えるため、大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう を用 もち いたと述 の べた。
1963年 ねん (昭和 しょうわ 38年 ねん )から1964年 ねん (昭和 しょうわ 39年 ねん )にかけて林 はやし 房雄 ふさお が『大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 肯定 こうてい 論 ろん 』を発表 はっぴょう し、「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」は薩英戦争 せんそう や馬 うま 関 せき 戦争 せんそう [42] 、ペリー来航 らいこう 以来 いらい の西欧 せいおう 列強 れっきょう のアジア侵略 しんりゃく に対抗 たいこう して日本 にっぽん がアジア解放 かいほう を目的 もくてき とした「大 だい 東亜 とうあ 百 ひゃく 年 ねん 戦争 せんそう 」の集大成 しゅうたいせい だったという立場 たちば から使用 しよう された。
上山 うえやま 春平 しゅんぺい は1964年 ねん に『大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう の意味 いみ 』を刊行 かんこう 、「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」という呼称 こしょう を「タブーとみなす心情 しんじょう のうちに、太平洋戦争 たいへいようせんそう 史観 しかん を鵜 う のみにする反面 はんめん 、大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 史観 しかん には一顧 いっこ だにあたえようとしないという二 に 重 じゅう の錯誤 さくご の根 ね をみとめた」と当時 とうじ 「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」呼称 こしょう をタブー視 し する風潮 ふうちょう を批判 ひはん し、「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」「抗日 こうにち 戦争 せんそう 」「帝国 ていこく 主義 しゅぎ 戦争 せんそう 」いずれも政治 せいじ 的 てき イデオロギーであるにもかかわらず「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」のみ断罪 だんざい するのはアンバランスであると批判 ひはん した。
ドナルド・キーン も1964年 ねん 、論文 ろんぶん 「日本 にっぽん の作家 さっか と大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」を発表 はっぴょう した。
竹内 たけうち 好 よしみ は1964年 ねん の「日本 にっぽん のアジア観 かん 」で「日本 にっぽん の対外 たいがい 戦争 せんそう のほとんど全部 ぜんぶ は、自衛 じえい のほかに東亜 とうあ の安定 あんてい を名目 めいもく としておこなわれた。その最大 さいだい 、かつ最終 さいしゅう のものが大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう だった」とし、「第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の一部 いちぶ 」だけにつくされない、「日本人 にっぽんじん がアジアを主体 しゅたい 的 てき に考 かんが え、アジアの運命 うんめい の打開 だかい を、自分 じぶん のプログラムにのせて実行 じっこう に移 うつ した」という「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 固有 こゆう の性格 せいかく があった」とした[45] 。竹内 たけうち は敗戦 はいせん によって日本人 にっぽんじん はアジアを主体 しゅたい 的 てき に考 かんが え、アジアの一員 いちいん としてアジアに責任 せきにん を負 お う姿勢 しせい を失 うしな ったとも述 の べた[47] 。また、個人 こじん として、時 とき には国家 こっか の命令 めいれい にそむいてアジア解放 かいほう 運動 うんどう に協力 きょうりょく した日本人 にっぽんじん はビルマ、インドネシアだけでなく満州 まんしゅう にもいたと指摘 してき している[48] 。
三島 みしま 由紀夫 ゆきお は、「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」と呼 よ ぶのが適切 てきせつ であるとし、「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう でいいぢやないか。歴史 れきし 的 てき 事実 じじつ なんだから。太平洋戦争 たいへいようせんそう といふ人 ひと もあるが、私 わたし はゼッタイとらないね。日本 にっぽん の歴史 れきし にとつては大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう だよ。戦争 せんそう の名前 なまえ くらゐ自分 じぶん の国 くに がつけたものを使 つかい つていいぢやないか」という意見 いけん を述 の べた[49] 。
1977年 ねん (昭和 しょうわ 52年 ねん )、元 もと 大本営 だいほんえい 参謀 さんぼう 原 はら 四郎 しろう は「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」は日本 にっぽん の政府 せいふ が正式 せいしき に決定 けってい した名称 めいしょう であり、平和 へいわ 条約 じょうやく によってGHQ指令 しれい も失効 しっこう したため、正式 せいしき 名称 めいしょう である「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」は「当然 とうぜん 復活 ふっかつ すべきもの」で、「歴史 れきし 的 てき に正確 せいかく な表現 ひょうげん 」と述 の べた。
左派 さは 系 けい とされる歴史 れきし 家 か 信夫 しのぶ 清三郎 せいさぶろう も1983年 ねん 、次善 じぜん の策 さく として「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」の語 かたり を「便宜 べんぎ 的 てき に」用 もち いる家永 いえなが や歴史 れきし 学 がく 研究 けんきゅう 会 かい らは「怠惰 たいだ 、怯懦 きょうだ 」であると批判 ひはん し、「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう の使用 しよう が戦争 せんそう の肯定 こうてい 支持 しじ を意味 いみ する」わけではないとし、「戦争 せんそう の歴史 れきし 的 てき 性質 せいしつ を最 もっと も的確 てきかく に表現 ひょうげん し、戦争 せんそう の実体 じったい を最 もっと も広 ひろ く蔽 おお いうるもの」として「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」を用 もち いるべきとし、さらに東南 とうなん アジア 、インドの独立 どくりつ 運動 うんどう に及 およ ぼした日本 にっぽん の積極 せっきょく 的 てき な役割 やくわり などを踏 ふ まえれば「大 だい 東亜 とうあ 新 しん 秩序 ちつじょ (大 だい 東亜 とうあ 共栄 きょうえい 圏 けん )を目的 もくてき とする戦争 せんそう 」という「歴史 れきし 的 てき 意味 いみ 」も含蓄 がんちく していると述 の べた。
松本 まつもと 健一 けんいち は「戦争 せんそう の呼 よ び名 な は歴史 れきし 的 てき であって、後 ご の時代 じだい に、その呼 よ び名 な を変 か える(たとえば太平洋戦争 たいへいようせんそう )ことによって、歴史 れきし 的 てき 性格 せいかく を変 か えてしまうことは、意味 いみ がない。歴史 れきし を否定 ひてい するためにこそ、歴史 れきし の歴史 れきし 的 てき 把握 はあく が必要 ひつよう 」として「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」を用 もち いた。
信夫 しのぶ や後藤 ごとう 乾 いぬい 一 いち 、三輪 みわ 公 こう 忠 ただし らは、「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」の名 な の元 もと に示 しめ された理念 りねん が建前 たてまえ であったにしても、その理念 りねん に自己 じこ のアイデンティティを求 もと めた日本人 にっぽんじん が東南 とうなん アジア各地 かくち に少 すく なからず存在 そんざい したと言 い うことをあげ、そうした人々 ひとびと を否定 ひてい しないためにも「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」の語 かたり をあえて用 もち いるとしていた。
1990年 ねん (平成 へいせい 2年 ねん )に中村 なかむら 粲 つばら 『大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう への道 みち 』が刊行 かんこう 。
「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 肯定 こうてい 論 ろん 」の立場 たちば に立 た たない倉沢 くらさわ 愛子 あいこ は「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」の語 かたり を用 もち いているが、この場合 ばあい にはカギ括弧 かっこ を付 ふ するなどしている。また松浦 まつうら 正隆 まさたか は、大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう は当時 とうじ の公式 こうしき 名称 めいしょう であり、またアジア主義 しゅぎ との関連 かんれん を強調 きょうちょう するためにも「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」を使 つか うべきとし、カギ括弧 かっこ 付 つ きで使 つか っている。
戦域 せんいき の一致 いっち
「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」の「大 だい 東亜 とうあ 」はイデオロギー面 めん とは無関係 むかんけい であり、戦争 せんそう の範囲 はんい をあらわす名称 めいしょう であるという立場 たちば である。駐米 ちゅうべい 大使 たいし や外務 がいむ 事務次官 じむじかん を務 つと めた村田 むらた 良平 りょうへい は『村田 むらた 良平 りょうへい 回想 かいそう 録 ろく 』(ミネル みねる ヴァ書房 ぁしょぼう 、2008)で、「大 だい 東亜 とうあ 」の「大 たい は英語 えいご に訳 やく せばgreater,即 すなわ ち東亜 とうあ のみでは主 しゅ として日 にち 中 ちゅう 朝鮮 ちょうせん モンゴルのみを指 さ すことが多 おお いので、より広義 こうぎ の東 ひがし アジアを指 さ す」ものであり、「中国 ちゅうごく 大陸 たいりく 、ビルマまでの戦 たたか いなども考 かんが えれば、米国 べいこく の強制 きょうせい した太平洋戦争 たいへいようせんそう の方 ほう がおかしい」と主張 しゅちょう した。また、防衛 ぼうえい 研究所 けんきゅうじょ の庄司 しょうじ 潤一郎 じゅんいちろう 研究 けんきゅう 幹事 かんじ は、「単 たん なる地理 ちり 的 てき 呼称 こしょう であるとするならば、イデオロギー色 しょく のない呼称 こしょう となる」として、「戦争 せんそう 肯定 こうてい という意味合 いみあ いではなく、原点 げんてん に戻 もど って、『大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 』に落 お ち着 つ く」と提言 ていげん する[53] 。
評論 ひょうろん 家 か の村上 むらかみ 兵衛 ひょうえ は「東 ひがし アジアで行 おこな われた大 おお きな戦争 せんそう 」の意味 いみ で「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」を用 もち いるべきであるとした。原 はら 四郎 しろう も戦争 せんそう 目的 もくてき は「アジアの新 しん 秩序 ちつじょ 建設 けんせつ 」ではなく、「大 だい 東亜 とうあ において戦 たたか われる戦争 せんそう 」であるから「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」と呼 よ ばれたのであり、GHQが禁止 きんし したのは「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう をもって大 だい 東亜 とうあ 新 しん 秩序 ちつじょ を建設 けんせつ する戦争 せんそう と誤解 ごかい したからである」と回想 かいそう している。『失敗 しっぱい の本質 ほんしつ 』は、「戦場 せんじょう が太平洋 たいへいよう 地域 ちいき にのみ限定 げんてい されていなかったという意味 いみ で、」「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」の呼称 こしょう を用 もち いる、としている[56] 。
アメリカの歴史 れきし 家 か ジョン・ステファンは『日本国 にっぽんこく ハワイ』(恒文社 こうぶんしゃ 1984)で「第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 」はあまりに広 ひろ い範囲 はんい で、「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」は「あまりに狭 せま すぎる」ので不適切 ふてきせつ であるとし、「いささか決 き まり悪 わる いものの」やはり「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」という名称 めいしょう が「日本 にっぽん がインド洋 いんどよう や太平洋 たいへいよう 、東 ひがし アジアおよび東南 とうなん アジアで繰 く り広 ひろ げようとした戦争 せんそう を最 もっと も正確 せいかく に表現 ひょうげん している」と指摘 してき している。
地域 ちいき 呼称 こしょう として
『アジア太平洋戦争 たいへいようせんそう 』(1995年 ねん ・岩波書店 いわなみしょてん )を著 あらわ した岡部 おかべ 牧夫 まきお は、「大 だい 東亜 とうあ 」を地域 ちいき 名称 めいしょう であると読 よ み替 か えてしまえば、「アジア・太平洋戦争 たいへいようせんそう 」の提唱 ていしょう の趣旨 しゅし と変 か わらなくなり、呼称 こしょう 問題 もんだい における対立 たいりつ の根拠 こんきょ は失 うしな われるかも知 し れないとしている。また防衛 ぼうえい 研究所 けんきゅうじょ の庄治 しょうじ 潤一郎 じゅんいちろう はイデオロギー性 せい を否定 ひてい したうえでの「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」もしくは「アジア・太平洋戦争 たいへいようせんそう 」が適切 てきせつ ではないかとしている。
一方 いっぽう 、斉藤 さいとう 孝 たかし は信夫 しのぶ の主張 しゅちょう を批判 ひはん した『「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」と「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」』において、「大 だい 」の語 かたり は自 みずか らを誇示 こじ しようとしている語 かたり であり、地域 ちいき 名称 めいしょう であるとするならば「東 ひがし アジア」でもいいとし、「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」の語 かたり は「占領 せんりょう 軍 ぐん の指令 しれい がなくとも、本来 ほんらい 日本 にっぽん 国民 こくみん 自身 じしん が否定 ひてい すべきもの」「タブーではなく、回避 かいひ したい呼称 こしょう 」と主張 しゅちょう した。
中南米 ちゅうなんべい における「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」と被 こうむ ることへの批判 ひはん
1865年 ねん のチリ・ペルーとスペインの戦争 せんそう (スペイン語 ご でLa guerra del Pacifico)、1879年 ねん 〜1884年 ねん のチリとボリビア・ペルーとの戦争 せんそう (スペイン語 ご でLa guerra del Pacifico、ポルトガル語 ご でla guerre du Pacifique)は翻訳 ほんやく すると「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」となる。日本 にっぽん の辞書 じしょ 等 とう でも「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」として掲載 けいさい されている。
ただし英語 えいご では中南米 ちゅうなんべい の「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」は(the) War of the Pacific、日本 にっぽん の「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」は(the) Pacific Warと表記 ひょうき され、中南米 ちゅうなんべい の戦争 せんそう とは区別 くべつ されている。米 べい 英 えい などの連合 れんごう 国 こく においては「the War in the Pacific (Theater)」「WWⅡ-Pacific Theatre」「the Pacific Theatre in the Second World War」などと、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の戦線 せんせん 名 な も用 もち いられている。
「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」にイギリスの存在 そんざい が薄 うす いことへの批判 ひはん
イギリス の歴史 れきし 家 か クリストファー・ソーン は「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」を批判 ひはん して、「極東 きょくとう 戦争 せんそう 」という呼称 こしょう を提唱 ていしょう し[7] 、日本 にっぽん が「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」を呼称 こしょう したのは理解 りかい できるとしている。「太平洋 たいへいよう を挟 はさ んだ日米 にちべい 両国 りょうこく 間 あいだ 」だけでなく、英 えい 仏 ふつ 蘭 らん など太平洋 たいへいよう 側 がわ 以外 いがい も日本 にっぽん は戦 たたか っていたことからという点 てん である[7] 。
なおイギリスの歴史 れきし 家 か であるA・J・P・テイラー なども、日本 にっぽん がアジアでの英国 えいこく 勢力 せいりょく を駆逐 くちく するために開戦 かいせん し、結果 けっか としてイギリスは植民 しょくみん 地 ち を失 うしな い「敗北 はいぼく 」したため、「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」と称 しょう するのはかまわないとも述 の べている。
戦後 せんご 日本 にっぽん では、開戦 かいせん 時 じ の戦争 せんそう 目的 もくてき の不 ふ 統一 とういつ 、GHQの政策 せいさく 、歴史 れきし 認識 にんしき 問題 もんだい などによって、日本 にっぽん が戦 たたか った戦争 せんそう の呼称 こしょう について様々 さまざま な議論 ぎろん と呼称 こしょう がある。なお、同一 どういつ の戦争 せんそう に対 たい する呼称 こしょう が国家 こっか によって異 こと なることは他国 たこく でもあるが、国内 こくない で呼称 こしょう が分 わ かれている例 れい は日本 にっぽん 以外 いがい ではほとんど存在 そんざい しないといわれる。この状況 じょうきょう を秦 はた 郁 いく 彦 は1984年 ねん (昭和 しょうわ 59年 ねん )の『昭和 しょうわ 史 し を縦走 じゅうそう する』において「呼 よ び名 な などどうでも良 よ い、という考 かんが え方 かた もあろうが、『名 な は体 からだ を現 あらわ す』で、著者 ちょしゃ の基本 きほん 的 てき 歴史 れきし 観 かん を判定 はんてい するのに、それ(戦争 せんそう の呼称 こしょう )が踏 ふ み絵 え の役割 やくわり を果 は たしてきたことも事実 じじつ だ」と指摘 してき している。
2020年 ねん に毎日新聞 まいにちしんぶん が行 おこな った「この戦争 せんそう の呼 よ び方 かた はどれが適切 てきせつ ですか」というアンケートでは第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 47.9%、太平洋戦争 たいへいようせんそう 38.5%、アジア太平洋戦争 たいへいようせんそう 10.9%、十 じゅう 五 ご 年 ねん 戦争 せんそう 2.7%となっている(大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう は不明 ふめい )[63] 。
太平洋戦争 たいへいようせんそう [ 編集 へんしゅう ]
「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」の呼称 こしょう そのものは1925年 ねん (大正 たいしょう 14年 ねん )の日米 にちべい 未来 みらい 戦記 せんき 『太平洋戦争 たいへいようせんそう 』などが初期 しょき の使用 しよう である。
戦後 せんご は、前述 ぜんじゅつ したGHQの『太平洋戦争 たいへいようせんそう 史 し 』を筆頭 ひっとう に、青木 あおき 得三 とくぞう 『太平洋戦争 たいへいようせんそう 前史 ぜんし 』(1950-1952)、1953年 ねん には日本 にっぽん 外交 がいこう 学会 がっかい 編 へん 『太平洋戦争 たいへいようせんそう 原因 げんいん 論 ろん 』やマルクス主義 まるくすしゅぎ 史学 しがく の歴史 れきし 学 がく 研究 けんきゅう 会 かい の『太平洋戦争 たいへいようせんそう 史 し 』、同様 どうよう にマルクス主義 まるくすしゅぎ 史学 しがく の遠山 とおやま 茂樹 しげき ・今井 いまい 清一 せいいち ・藤原 ふじわら 彰 あきら の『昭和 しょうわ 史 し 』(岩波書店 いわなみしょてん 、1955年 ねん )でも「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」が使 つか われた。
日本 にっぽん 国際 こくさい 政治 せいじ 学会 がっかい は1962年 ねん (昭和 しょうわ 37年 ねん )の『太平洋戦争 たいへいようせんそう への道 みち 』で大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう は日本 にっぽん 側 がわ からの一般 いっぱん 的 てき 呼称 こしょう であるとし、学術 がくじゅつ 的 てき にも「War in the Pacific」の語 かたり が国際 こくさい 的 てき に用 もち いられていると説明 せつめい している。その後 ご も児島 こじま 襄 じょう 『太平洋戦争 たいへいようせんそう 』(中央公論社 ちゅうおうこうろんしゃ 、1965年 ねん ~ 66年 ねん )、家永 いえなが 三郎 さぶろう 『太平洋戦争 たいへいようせんそう 』(岩波書店 いわなみしょてん 、1968年 ねん )、林 はやし 茂 しげる 『日本 にっぽん の歴史 れきし 25 太平洋戦争 たいへいようせんそう 』(中央公論社 ちゅうおうこうろんしゃ 、1974年 ねん )などの著名 ちょめい な本 ほん の中 なか で「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」の語 かたり が使用 しよう され、完全 かんぜん に定着 ていちゃく していった。日本 にっぽん 新聞 しんぶん 協会 きょうかい において正式 せいしき な戦争 せんそう 名 めい が討議 とうぎ されたことはないが、朝日新聞 あさひしんぶん ・読売新聞 よみうりしんぶん ・毎日新聞 まいにちしんぶん ・中日新聞 ちゅうにちしんぶん (東京 とうきょう 新聞 しんぶん )では圧倒的 あっとうてき に「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」の使用 しよう 例 れい が多 おお く、図書 としょ や雑誌 ざっし の見出 みだ しでも同様 どうよう である。このような流 なが れから、1960年代 ねんだい にはすでに「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」の語 かたり がタブー視 し されるようになっていた。日本 にっぽん 政府 せいふ の刊行 かんこう 物 ぶつ においても、『自衛隊 じえいたい 十 じゅう 年 ねん 史 し 』(1961年 ねん )、『防衛庁 ぼうえいちょう 技術 ぎじゅつ 研究 けんきゅう 本部 ほんぶ 十 じゅう 年 ねん 史 し 』(1962年 ねん )などで使用 しよう されている。
太平洋戦争 たいへいようせんそう の語 かたり 自体 じたい は日米 にちべい 戦争 せんそう を現 あらわ すものとして戦前 せんぜん から使 つか われており、戦争 せんそう 名 めい 討議 とうぎ の際 さい にも海軍 かいぐん が提案 ていあん している。また旧 きゅう 海軍 かいぐん 軍人 ぐんじん の中 なか には戦後 せんご 「日本 にっぽん にとって真 しん の敵 てき は(中華民国 ちゅうかみんこく やソ連 それん ではなく)アメリカであり、したがって大 だい 東亜 とうあ などと無駄 むだ に戦域 せんいき を拡張 かくちょう すべきでなかった」との反省 はんせい から、「太平洋戦争 たいへいようせんそう と(歴史 れきし 的 てき には)呼称 こしょう すべきだ」と主張 しゅちょう する人々 ひとびと が存在 そんざい した[67] 。
アジア・太平洋戦争 たいへいようせんそう [ 編集 へんしゅう ]
1985年 ねん に柳沢 やなぎさわ 英二郎 えいじろう は、日米 にちべい 戦争 せんそう はアジア勢力 せいりょく 圏 けん 確立 かくりつ のための手段 しゅだん であったがため「アジア・太平洋戦争 たいへいようせんそう 」が国際 こくさい 政治 せいじ 上 じょう は最適 さいてき とした。近年 きんねん では「アジア・太平洋戦争 たいへいようせんそう 」の語 かたり が用 もち いられるケースが増加 ぞうか している。
児童 じどう 文学 ぶんがく 家 か の山中 やまなか 恒 ひさし は「ボクラ少 しょう 国民 こくみん 」シリーズにおいて「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」の語 かたり を用 もち いていたが、これは「こちら側 がわ の戦争 せんそう 」という同 どう 時代 じだい 意識 いしき を現 あらわ すためなどの理由 りゆう からで、「『大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 』という用語 ようご に固執 こしつ するのは『侵略 しんりゃく 戦争 せんそう ではないと擁護 ようご する側 がわ の人 ひと たちが多 おお い』」と考 かんが え、「アジア・太平洋戦争 たいへいようせんそう 」の語 かたり を用 もち いるようになった。
大 だい 東亜 とうあ ・太平洋戦争 たいへいようせんそう [ 編集 へんしゅう ]
ピーター・カルヴォコレッシー (英語 えいご 版 ばん ) 、ガイ・ウィント 、ジョン・プリチャード は、「十 じゅう 五 ご 年 ねん 戦争 せんそう 」はあいまいで、「極東 きょくとう 戦争 せんそう 」は地理 ちり 的 てき にヨーロッパ中心 ちゅうしん 主義 しゅぎ であり、「対 たい 日 にち 戦争 せんそう 」も一方 いっぽう 的 てき であるため、「大 だい 東亜 とうあ ・太平洋戦争 たいへいようせんそう 」という呼称 こしょう を提案 ていあん した[70] 。
保坂 ほさか 正 ただし 康 やすし は「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」の語 かたり を用 もち いないのは「前歴 ぜんれき の否定 ひてい 」であるとし、「太平洋 たいへいよう ・大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」の語 かたり を用 もち いるべきとしている。
十 じゅう 五 ご 年 ねん 戦争 せんそう [ 編集 へんしゅう ]
1931年 ねん (昭和 しょうわ 6年 ねん )の満州 まんしゅう 事変 じへん と1937年 ねん (昭和 しょうわ 12年 ねん )の盧溝橋 ろこうきょう 事件 じけん に始 はじ まる日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう を大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう と一体 いったい のものとみて、鶴見 つるみ 俊輔 しゅんすけ が1956年 ねん (昭和 しょうわ 31年 ねん )に提唱 ていしょう した十 じゅう 五 ご 年 ねん 戦争 せんそう という呼称 こしょう がある[注釈 ちゅうしゃく 5] 。ただし、マルクス主義 まるくすしゅぎ 史学 しがく の歴史 れきし 学 がく 研究 けんきゅう 会 かい は1953年 ねん の『太平洋戦争 たいへいようせんそう 史 し 』では特 とく に理由 りゆう を説明 せつめい していないが1973年 ねん の新版 しんぱん では、「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」は「侵略 しんりゃく 戦争 せんそう を美化 びか した」ものとし、また「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」との呼称 こしょう は日米 にちべい 間 あいだ 戦争 せんそう を重視 じゅうし いているため適当 てきとう ではなく、15年間 ねんかん のアジアへの侵略 しんりゃく 戦争 せんそう との認識 にんしき から「十 じゅう 五 ご 年 ねん 戦争 せんそう 」と呼 よ ぶべきであるが、広 ひろ く使 つか われている言葉 ことば として「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」の語 かたり を用 もち いたとしている。
同様 どうよう に家永 いえなが 三郎 さぶろう も1968年 ねん の『太平洋戦争 たいへいようせんそう 』(岩波書店 いわなみしょてん )で「十 じゅう 五 ご 年 ねん 戦争 せんそう 」の立場 たちば を取 と っているが、一般 いっぱん に浸透 しんとう した言葉 ことば として実用 じつよう 的 てき 見地 けんち から「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」を用 もち いた。また家永 いえなが 三郎 さぶろう は「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」の使用 しよう は「断 だん じて不可 ふか 」とした。その後 ご 、家永 いえなが は1970年 ねん に「太平洋戦争 たいへいようせんそう も大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう も、特定 とくてい 国 こく の政治 せいじ 的 てき 立場 たちば が露骨 ろこつ にあらわれていてよくない」と述 の べ、1985年 ねん には著書 ちょしょ で「15年 ねん 戦争 せんそう 」を用 もち いた。このように「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」から「15年 ねん 戦争 せんそう 」へと呼称 こしょう を変更 へんこう したものにはマルクス主義 まるくすしゅぎ などの「進歩 しんぽ 派 は 」が多 おお い。
ピーター・カルヴォコレッシー 、ガイ・ウィント 、ジョン・プリチャード は、「十 じゅう 五 ご 年 ねん 戦争 せんそう 」は「妙 みょう に性格 せいかく のはっきりしないあだ名 な で、米国 べいこく や英国 えいこく では支持 しじ されそうもない」と1989年 ねん の著書 ちょしょ (邦訳 ほうやく 1991年 ねん )で批判 ひはん している[70] 。
藤村 ふじむら 道生 みちお の「昭和 しょうわ 大戦 たいせん 」や、日米 にちべい 同盟 どうめい によって日本 にっぽん が加担 かたん した朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう ・ベトナム戦争 せんそう を含 ふく めて「昭和 しょうわ 40年 ねん 戦争 せんそう 」というものもある。読売新聞 よみうりしんぶん は満州 まんしゅう 事変 じへん から太平洋戦争 たいへいようせんそう までを「昭和 しょうわ 戦争 せんそう 」と呼称 こしょう するよう提唱 ていしょう したが、同紙 どうし 以外 いがい で使用 しよう されることは稀 まれ である[75] 。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん [ 編集 へんしゅう ]
「第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 」の語 かたり には価値 かち 判断 はんだん が含 ふく まれていないため、多用 たよう される傾向 けいこう にある。秦 はた 郁 いく 彦 は、「日 にち 独 どく 戦役 せんえき 」が「第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 」に置 お き換 か わったのと同様 どうよう になるのではないかと予想 よそう している。ただし第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん はポーランド侵攻 しんこう から始 はじ まったヨーロッパの戦争 せんそう のイメージがあるという問題 もんだい がある。
天皇 てんのう や政府 せいふ の談話 だんわ などで多用 たよう される表現 ひょうげん であり、戦後 せんご 70年 ねん 談話 だんわ でもこの名称 めいしょう で呼 よ ばれている[63] 。
日本 にっぽん 国外 こくがい における呼称 こしょう [ 編集 へんしゅう ]
中国 ちゅうごく ・韓国 かんこく など特定 とくてい アジア
中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく や大韓民国 だいかんみんこく においては「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 」の語 かたり は、「戦争 せんそう や植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい を正当 せいとう 化 か するもの」とされている。
大日本帝国 だいにっぽんていこく 逓信 ていしん 省 しょう (現在 げんざい の日本 にっぽん 郵便 ゆうびん )および日本 にっぽん の勢力 せいりょく 下 か にあった各地 かくち で大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう を記念 きねん する切手 きって や葉書 はがき が発行 はっこう されている。日本 にっぽん では1942年 ねん (昭和 しょうわ 17年 ねん )12月8日 にち に記念 きねん 切手 きって を発行 はっこう しており、寄附 きふ 金 きん 付 づけ 記念 きねん 切手 きって は、真珠湾 しんじゅわん とバターン半島 はんとう の戦場 せんじょう を描 えが いたものであったが、切手 きって の題名 だいめい は「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 第 だい 一 いち 周年 しゅうねん 記念 きねん 」と表記 ひょうき されており、開戦 かいせん 1周年 しゅうねん 目 め としていた。また1943年 ねん (昭和 しょうわ 18年 ねん )12月8日 にち には二 に 周年 しゅうねん 記念 きねん 葉書 はがき として「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 記念 きねん 報国 ほうこく 葉書 はがき 第 だい 1集 しゅう 」を発行 はっこう しており、埴輪 はにわ の武人 ぶじん の額面 がくめん つきの官製 かんせい はがきの裏面 りめん にハワイ、香港 ほんこん 、シンガポールの戦場 せんじょう を描 えが いた図案 ずあん で10銭 ぜに の国防 こくぼう 献金 けんきん を含 ふく む30銭 ぜに で販売 はんばい した[79] 。また10銭 ぜに の普通 ふつう 切手 きって として大 だい 東亜 とうあ 共栄 きょうえい 圏 けん の地図 ちず を描 えが く図案 ずあん のものを発行 はっこう している。
また、日本 にっぽん の勢力 せいりょく 下 か にあった満州 まんしゅう 国 こく では1942年 ねん に中国 ちゅうごく 語 ご で「興亜 こうあ はこの日 ひ より/興亜 こうあ 自 じ 期日 きじつ 」との加 か 刷 すり 切手 きって を発行 はっこう [80] したほか、フィリピン第 だい 二 に 共和 きょうわ 国 こく でも同様 どうよう に発行 はっこう された[81] 。また1943年 ねん には蒙 こうむ 古 こ 聯合 れんごう 自治 じち 政府 せいふ が日本 にっぽん 製 せい の大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 二 に 周年 しゅうねん 記念 きねん 切手 きって 2種 しゅ を発行 はっこう している[82] 。
^ 一ノ瀬 いちのせ 俊也 としや は海軍 かいぐん 側 がわ が「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」若 も しくは「対 たい 英 えい 米 べい 戦争 せんそう 」を提案 ていあん したという当時 とうじ の記録 きろく は存在 そんざい しないとしている[14]
^ 8月 がつ 8日 にち に参戦 さんせん したばかりのソビエト連邦 れんぽう の代表 だいひょう 団 だん も戦勝 せんしょう 国 こく の一員 いちいん として臨席 りんせき した。
^ これらは、米国 べいこく のメリーランド大学 だいがく のマッケルデイン図書館 としょかん にプランゲ文庫 ぶんこ として保存 ほぞん されている膨大 ぼうだい な占領 せんりょう 文書 ぶんしょ によって確認 かくにん することができる。現在 げんざい 、このプランゲ文庫 ぶんこ の全 すべ ての資料 しりょう がマイクロフィルム 化 か されており、日本 にっぽん の国立 こくりつ 国会図書館 こっかいとしょかん で閲覧 えつらん 可能 かのう である。なお勝 かち 岡 おか 寛 ひろし 次 じ 『抹殺 まっさつ された大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 米 まい 軍 ぐん 占領 せんりょう 下 か の検閲 けんえつ が歪 ゆが めたもの』(明成 めいせい 社 しゃ 、2005年 ねん )で、原 はら 資料 しりょう に基 もと づき、多 おお くの検閲 けんえつ の実例 じつれい を挙 あ げて論証 ろんしょう している。
^ 「太平洋戦争 たいへいようせんそう 」という用語 ようご は、「沖縄 おきなわ 県 けん の区域 くいき 内 ない における位置 いち 境界 きょうかい 不明 ふめい 地域 ちいき 内 ない の各 かく 筆 ふで の土地 とち の位置 いち 境界 きょうかい の明確 めいかく 化 か 等 とう に関 かん する特別 とくべつ 措置 そち 法 ほう 」(昭和 しょうわ 52年 ねん 5月 がつ 18日 にち 法律 ほうりつ 第 だい 40号 ごう )、「沖縄 おきなわ 振興 しんこう 特別 とくべつ 措置 そち 法 ほう 」(平成 へいせい 14年 ねん 3月 がつ 31日 にち 法律 ほうりつ 第 だい 14号 ごう )等 とう で使用 しよう 。
^ 満州 まんしゅう 事変 じへん に関 かん しては塘沽協定 きょうてい (1933年 ねん )で停戦 ていせん が成立 せいりつ しており、一 いち 続 つづ きの戦争 せんそう とみなすことについて否定 ひてい 的 てき な見解 けんかい もある。ただし、休戦 きゅうせん や講和 こうわ をはさんだ一連 いちれん の戦争 せんそう を一 いち 続 つづ きのものとしてとらえること自体 じたい は決 けっ して特異 とくい な見解 けんかい ではない(例 たと えば「百 ひゃく 年 ねん 戦争 せんそう 」や「三 さん 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう 」などの呼称 こしょう が歴史 れきし 学 がく で使 つか われている。これらも十 じゅう 五 ご 年 ねん 戦争 せんそう と同 おな じく、後世 こうせい の視点 してん で一連 いちれん の戦争 せんそう を総括 そうかつ して呼 よ ぶ呼称 こしょう として生 う まれた)。庶民 しょみん の日常 にちじょう 感覚 かんかく では、1937年 ねん 以降 いこう が「戦争 せんそう 」であったことは、同 どう 時代 じだい の証言 しょうげん として徳田 とくた 秋声 しゅうせい の『縮図 しゅくず 』冒頭 ぼうとう 部分 ぶぶん 、安岡 やすおか 章太郎 しょうたろう の回想 かいそう がある。
^ 日本 にっぽん 大 だい 百科全書 ひゃっかぜんしょ (ニッポニカ)『大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 』 - コトバンク
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